1 :
考える名無しさん :
2007/07/06(金) 12:33:45 0
2 :
考える名無しさん :2007/07/06(金) 12:34:27 0
>>3 早と666を一緒にしたらさすがに666がかわいそうだ。
つうか一緒にするほうがどうかしてると思う。
666の読みはあんまり学問的ではないけど、
それなりにちゃんとニーチェを読んでいるのがわかる。
早は論外。
前スレ>991 >:早 ◆yxoSe0qFeA :2007/07/07(土) 00:08:37 0 >>>次スレの3 >お願いだからそれ以上は止めてください....お願いです ずいぶん芝居じみたお願いだなwww
ニーチェは悲劇役者めいた仕草で、 「ああ、誰も私を理解してくれぬ!理解することができぬ!」と悲嘆する。 しかしそれがニーチェの本心であったとしても、読者にとっては罠でしかない。 思い上がった選民意識を呼び込む。
賢者とは何者か。 最小で最大を成せる者。例えば、ダイヤモンドのは最小もないが光る。 あたかも光は宗教、法律。一身に受けて光る。 まだLEDの方がましだ。
>>7 同意。
しかし、その罠に気付くものは少ないと見える。
ニーチェ本人が生きていた時代は、ほぼ存在が無視されていたから、そんなことを言う資格があるとしよう。
しかし、現在の読者がニーチェと同じ苦悩を分かち合おうだなんて笑止。
現在の読者の苦悩なぞ、ただコミュニケーション能力の欠落から生じるマッチポンプのようなもの。
>>2 知ったことか。
前スレ
>>950 これは正しい。同じ早の書き込みかと疑うくらいだ。
我々は固定観念に縛られすぎる性質を持つ。例えば通勤に電車を使う人を想像してみる。
眠気交じりのこの男の目に映る視界はいつもの通い慣れた風景を映し出している。
何の刺激も無く、あくびがてらに周りを見渡しても毎朝同じ車両に乗り込む見たような
顔ぶれの乗客、新奇さをてらう中吊り広告の派手な色彩…何も変わらぬ日常…
そのときこの男の意識は弛緩している。"慣れ”が世界全体を包み込む。
しかし車両事故で途中下車し、会社に連絡を入れて遅刻する旨を伝え、別ルートに乗り換えるため
駅を出た瞬間、彼はふと空の高さを思い出したかのようにハッとする。
なんて空は蒼く澄んでいるのだろう、なんて木々はその葉の艶を輝かせているのだろう、なんて
風は爽やかに髪を撫でるのだろう、なんて様々な色彩に世界は彩られていることだろう・・・
灰色の世界は生気を取り戻し、色彩を帯びる。世界はその新鮮さを明らかに明示する。
あなたが住む土地を離れ、旅行したときに受ける新鮮さも実はこれなのだ。
それは他愛も無いことだが、"世界”への認識を変えるチャンスでもある。
ここで問題になるのは「意識の変容」である。弛緩した精神は実は"世界”への認識を鈍らせる
【油膜】に覆われているのだ。ではこの絶縁体とは何か? 何が意識を鈍らせ世界を退屈に変えるのか?
それは日常的感覚の中で幅を利かす固定観念的な意識である。全てが自明であってその自明的で
あることの繰り返しの中で、全ては"当たり前のこと”として消化されてしまうからである。
ここに精神の弛緩が起きる。
我々の日常生活における意識は大なり小なりこの【油膜】に覆われているのだ。 我々が認識を自明の事として己の中で規定化しそこに安住する時、実はあなたの住む"世界”は すでに錆び始めているのである。 コリン・ウィルソンの描く「アウトサイダー」たちは常に"世界”に対して違和感めいたものを 持っていた。その紹介の中にニーチェ当人も含まれていた。 ニーチェは著書「ツァラトゥストラ」の新旧の表の件の中で、 水流の中で橋げたが立っていて、橋梁と欄干が川を渡っているときに、「万物は流転する」と 語っても、誰もそれを信じない。それどころか、愚人でさえこう反駁する、「なに? 万物は 流転するだと? だが、橋梁と欄干は流れの上に架かっているではないか。流れの上では、一切が 固定している。諸々の事物の価値、橋、概念、善と悪の全て、それらはみな固定している」と… これは何を意味するかもうお判りだろう。我々の【固定観念】のことなのである。 既存の価値観や認識は、あなたの生まれ来た"世界”の『リアリティ』を減少させるのである。 こういう感覚には、我々にある道徳的な「善良な市民」という社会通念も含まれる。 早の文章を拝借すれば、「人間とはこういうものだからこういうことをしなければならない、と いうような、道徳の基盤にある人間の考え方そのものに対して…〜…概念的な抽象化によって、 人は、生の根源と自分の意識に壁をつくってしまっている。」
話は逸れるが、たとえはRAVEとかいう名称で形容される野外でのコンサートをご存知だろうか? おっさん風に略せばデジタルな音色とループドラムのでっかい鼓動に乗って観衆が踊り狂う"お祭り”である。 そこでの観衆は場内の肉感的な『一体感』を味わうことになる。Your tubeとかでも会場の熱気の 様子を見ることが出来るだろう。 ここにあるトランス状態の感覚は、まさにデュオニソス的なカオスの状態であり、シャーマン的な トランスに類する感覚であろう。もともとデュオニソスとは集団的狂乱と陶酔を伴う東方の宗教の主神 であるという。古代の文献を読んでも舞踏から憑依的インスピレーションを得る巫女の記録が見つかる。 この陶酔感と"世界”との一体感は、脳内快楽物質の件云々を取り除いても、通常の日常意識を超越した 感覚によって"世界”が豹変して見える事を意味する。 生きて在ること、その『生のリアリティ』は我々がルーティンワーク的な日常の感覚を突破した暁には すぐさまその片鱗を垣間見させてくれるものなのだ。たが、その感覚は意図して生起させようと努め なければなかなか持続できない代物ではあるが… 芸術によって自己表現しようと努める者は製作や発表の場でこのトランス感覚が発動し易い。自分の 情動を沸騰させようと自己の精神に深く潜り込む過程で心身一体どころか万物斎同の境地の間口に 至るからである。 つまり芸術の創作活動はこの"情動”を発言させる【触媒】と成りうるということである。 ニーチェが芸術を重視したこともうなづけよう。
サルトルが著書「嘔吐」の中で感ずる"存在”に対する本能的違和感も、その根源にはリアリスティックな
実存的認識と皮相的な日常的感覚から生ずる既視感めいた不協和音に対する拒絶反応なのかも知れない。
前スレ
>>952 >大地に忠実であれ、というのは、彼岸の否定だけではなく、道徳とか一般的な学者の考えも全てが、
>形而上を想定してしまうソクラテス以後の非悲劇的な世界観に由来している、ということを訴えている
>ように思われます。
よく読んでいると思う。
14 :
考える名無しさん :2007/07/07(土) 23:41:01 O
錆びてんのは省みられない六自身さ。 反復をさえ生き生きと享受する者が強者なのだ。繰り返しを好むのだ。 ループを、永劫回帰を。 ぴかぁ〜のいうような無垢への欲望は錆びた精神の不能の現れなのである。
>>14 おめーが書き込みだけでなく、真摯に自分の人生の中でそれを体現しようと
努力するなら俺は敬意を表するよ。
16 :
マルト :2007/07/07(土) 23:57:07 0
永劫回帰の解釈、誰か詳しい人いたら教えてください。
永劫回帰とは、毎日飽きもせず同じ時間、同じ姿勢でオナニーし続けることを前向きに享受すること。
また、この同じ人生を望めるかどうか。 リトマス試験紙。
しかしまさかドットコムが強者だとは認めたくないな。まあそうなのかもわからない。 早は反復を好むと同時に嫌うというような曖昧な人間らしく、 どうかするともしかしていずれもしかするのかもわからんね。 破壊的でありながら創造的であるというきもったらしい人間になるのではなかろうかと。 抑圧と解放、苦悩と歓喜、強さと弱さを、行き来し兼ね備えているというような頑強にして貧弱な躁鬱病患者、天才的な人間に…
反復というのは肉体的にも精神的にも、その維持向上には欠かせない重要事項である。 あたかも呼吸するがごとくに苦もなく反復できるべきである。 反復運動に苦を感じるようならば非力なのである。 そして益々非力になっていく見込みが十分にあるということである。
反復は愛されるべきものである。
反復は世界の基盤であり、生の基盤である。
>>17 のように性的な意味で解釈するとわかりやすいに違いない。
いわゆる豊かさは反復を厭う者が求めて止まないものである。 むしろ反復を強いる無限の貧しさが、砂塵が、 頑強で逞しい現実、真実として確立されていくのであろう。
23 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 10:01:43 O
太陽には、夜が来ないんだね。 可哀想に。 自立する者の孤独について。
24 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 10:04:20 0
馬鹿だなあ。太陽にとっては、いつも夜なんだよ。
25 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 10:11:14 O
地球も常に夜なのか?
26 :
考える名無しさん :2007/07/08(日) 13:42:11 0
夜も昼もねえ。 光と闇があるだけなのさ。 いや、それもおかしい。 闇などというものは無い。 光が無いことを闇という。
>>16 ハイデッガーはその著作「ニーチェ」において、永遠回帰とは自由と必然の二律背反、自由について
の因果性の問いでもないと書いた。永遠の昔から人間の運命が定められているといった宿命論・運命論・
決定論でもない、と。 「私の教えは告げるーもう一度生きることを汝が願わずにいられないように生きること、
これが課題であるーいずれにせよ、汝はそう生きるであろう。」(ニーチェの手記)
1.「もしも汝が現存在を怯惰と無知にすべての帰結へと退転するに委せる」とき
永遠回帰は自由なき必然となり、永遠の昔から滅びが定められている宿命となり、シージュフォスの神話
のように力なく隷従する生き方となるだろう。
2.「汝が次の瞬間を、したがって各瞬間を、最高の瞬間へ形成」するとき
永遠回帰は自由であり、その運命愛は輝き、永遠の昔から汝の運命は救いの側に定められている。力への意志は実現を見る。
この2つの場面は汝の決断、その意志に基づいているという。この決断と意志が永遠を決定する。
「(各瞬間の決断には、引用者)永遠が賭けられている。」(邦訳472ページ)
29 :
考える名無しさん :2007/07/09(月) 01:11:31 0
あ
>>28 素人目にも全然訓練が足りてないのがよくわかるような未熟な絵だわな。
しかしニーチェとかいって初めて邦訳した人は大変だったなこりゃ。 英訳でも参考にしたのか… てか辞書にも載ってねえじゃんって感じの言葉も結構あるような感じなわけで。 現代でさえ英語にだって、辞書に載ってない言葉、意味用法ってのは結構あって、 どうしてくれようという気持ちになったりすることはよくあったりするものだ。 偉いね。はっきりいっちゃって語学専門の奴より余程語学力あったじゃないのって感じだな。
とはいえツァラトゥストラはドイツ語的には易しいようだったが。
ヒゲの横向いたおっさん
34 :
金曜日 :2007/07/09(月) 23:17:46 0
>>27 だからね
ハイデカーはニーチェの永劫回帰について
たとえば宇宙が無限に回帰することはあり得ないといっている。
それゆえニーチェのいう永劫回帰についても
この瞬間が無限に繰り返されるにように生きるること
という存在の実存的表現の比喩として解釈にあけくれた。
宇物宙論的な解釈を繰りこんだあるいは
ニーチェがそれを信じていたということを
理解することをさえ拒絶したうえでのニーチェ解釈なのです。
たとえば神の存在を全く否定する哲学者が信仰者の内面の神を論ずるに等しいと思う。
すくなくとも<信>の内面を解剖するには<不信>の側からだけではだめなのだ。
片足でも<信>の世界に入り込んで
宇宙的な永劫回帰はありうるという意識で
ツアラツストラの言説や晩年の遺稿を読み込まないかぎり
この単純で深淵な思想を見誤ると思うね。
まあハイデーカーのニーチェ解釈にはいろいろと背後の情勢があったからね。
35 :
金曜日 :2007/07/10(火) 21:11:11 0
誤字や文章のわかりくさにスイマセン まああなんとか意味は通じるかな
思うに世界は不変である。 あるところで創造があれば破壊があるという意味で一定なのである。 自己もまた世界における一つの世界であり、同様に不変である。 何か得た時にはそれだけ何かを失っている。 逆もまた然りである。 こうして自己同一性は一つの値、定数として保たれているのである。 すると努力とは、その絶対値の配分を変化させることに他ならない。 長所が短所を生むはずなのであり、 ある種の豊かさがある種の貧しさを、 逆にある種の貧しさがある種の豊かさを生むのである。 また天才とは、その力を一極集中させた極めて偏った不安定な人間なのである。 天才を生み出す社会は平等を掲げる民主的で安定した社会ではないのだ。 彼らは振幅の大きい社会において現れる、重なり合い高まった絶壁でありながら同時に深淵なのである。 目的に向かうことは何かに背を向けることであり、墓穴を掘ることであるが、 そうして後ろ髪を引かれながらも尚進むのは、 盲目的な衝動によるものであって、欲望によってではないのである。 恐らくそれは世界の必然的な運動の一部なのである。 自己を世界に犯され、その均一性を失い、自由を失い、孤独から遠ざかり、忘我しつつ突き進む者は、 正に善悪の彼岸にあり、人間を超越していながら、動物的であり、 まさにディオニュソスのような半神半獣として生きていく。
上は早君かな 自己言及的な文章は? 自分は天才だとうぬぼれる奴に限って 天才を話題にする 凡人の私はそう思う
>>36 >目的に向かうことは何かに背を向けることであり、墓穴を掘ることであるが、
墓穴を掘るってどういうことでしょうか?
変化の中で獲得できる成功報酬も多々あるでしょうに、どんだけ後ろ向きですか?
>そうして後ろ髪を引かれながらも尚進むのは、
>盲目的な衝動によるものであって、欲望によってではないのである。
人間には人間には「行動」から「非行動的」なものから自分の存在を拒絶することすら出来る
自由意志がありますが、行動を引き起こす「衝動」を是認するGoサインは誰が出すのでしょう?
一心不乱で意に介さない集中力の根底に、欲望が存在しないという根拠は何処にあるのでしょう?
>恐らくそれは世界の必然的な運動の一部なのである。
これは結果的運命論じゃないのですか?
>自己を世界に犯され、その均一性を失い、自由を失い、孤独から遠ざかり、忘我しつつ突き進む者は、
外部からの反応と適応によってその行動が影響を受けるのは理解できますが、
そもそも「均一性」とは何ですか? どういう状態が均一性なのでしょうか?
「自由を失い」と言いますがその自由な状態とは無目的な状態のことですか?それとも別の意味ですか?
「孤独から遠ざかり」というのは何を指す状態でしょうか?
>正に善悪の彼岸にあり、人間を超越していながら、動物的であり、
「人間を超越」って、どういうのが「人間」だとお思いですか?
>まさにディオニュソスのような半神半獣として生きていく。
酔っているのは酒にですか? 駄作の詩を恥ずかしげも無く投稿できる自分の勇気にですか?
>>37 まあニーチェは天才を話題にしてるからね。
しかし早はまた消えたな。今回は言葉がなかったようだ。
もう来ない可能性はいつになく高いね。
>>38 後ろ向きなのはお前じゃないかな。
自己言及すれば、俺は背中にも目がついてるわけよ。
つまり盲目的ではない。 衝動的ではない。
41 :
38 :2007/07/10(火) 22:31:35 0
>>40 >つまり盲目的ではない。 衝動的ではない。
ふ〜ん、じゃあ詳しく説明してよ。
42 :
考える名無しさん :2007/07/10(火) 22:33:34 O
君は何故に駄作を理解したいのかね。
43 :
38 :2007/07/10(火) 22:40:07 0
>>42 ヒマだから…
詩において単語の一つ一つは銃弾といっしょだ。
相手の心臓を打ち抜くためには容易く論駁されないで相手の琴線を揺るがす
単語を綾成す「組み合わせのセンス」が必要だ。
ここのところ意味の無い短詩が多いのでウンザリしてたから。
>>36 どうでもいいが
36さんのは詩ではない
自作のアフォリズムというより
ニーチェ風のコピーみたいなものだ
多分36さんは現代詩なんかしらないよ
駄作だと断言してるんだから、 理解してるはずなんだがな。 そうでないようだから、恐らく君が駄作なのだよ。
46 :
38 :2007/07/10(火) 22:51:49 0
はい、次の人。
47 :
金曜日 :2007/07/10(火) 22:55:08 0
前板でも紹介したけど 三富明「永劫回帰と啓蒙の弁証法」理想社 を読んだことがある人の感想を書き込み希望
そう
>>36 ニーチェ風味の文にすぎない。
カニ風味カマボコみたいなもんだ。
>>38 はポエム厨の六なんだよね。
>>49 ご明察。
なんか読ませろよ暇が空いたんだよ。
51 :
金曜日 :2007/07/10(火) 23:16:06 0
簡単にいうとホルクハイマーたちの「啓蒙の弁証法」を論じながら 永劫回帰の解釈にうつっていくのだが まどろかしいという感じがしたね。 文章もそれほど巧み ではないしね。 しかし意図するところ 言いたいことは明瞭に感じたね。 これほど永劫回帰の解釈について明解に論じたのは この人が初めてではないかね。 ある意味でタブーの扉が壊されたとおもったね。 10年前の本だが ニーチェが死んで 100年もたってようやくこういう本がでてきたわけだ とりあえず今日はここまで
Rita Hayworth っていいよね。
>>51 はやくつづきがよみたいです。ワクテカしてまってます。
金曜日といえば野人フライデイだが彼もいいキャラだよな。 もし人間がRPGのキャラクターのようにはレベルがあがらず、 そのステータスの各数値の合計が増加せず、 また減少もせず不変だとしたらどうだろう? 要はいかに規定のポイントを配分するかということになる。 また人間は本質的には向上できないのであると。 ただ生まれつき与えられ定められたポイントをアンバランスに配分することで、 一方で超越的でありながら、他方で退廃的になりうるだけだと。半神半獣に。 人間を克服するとは、そのようなアンバランスなポイントの配分のことではなかろうか?
辞書執筆者の中には神妙にも「ひょい」という言葉が好きな大の男がいるものである。 彼は地道な作業における小さな喜び、しかし味わい深いその柔らかい喜びをひょいと表現しておられるのだ。 私も歓喜よりはむしろ静寂で地味な喜びを味わっていきたいと思う。 薔薇よりもむしろ名も知れない小さな花を…
56 :
金曜日 :2007/07/11(水) 08:07:57 0
私が金曜日としたのは 金曜日が比較的 暇だからだ。 今からでかけるのだ。
知的能力が一定だと仮定してみよう。 また知識も知的能力だとし、知能を知識をえるための知的能力だとしよう。 そして無知を負の知的能力だとしてみよう。 すると知識を得るほどに知能が下がることになる。 また無知を知るほどに知識は増え、知能が上がることになる。 そしてまた知り続けるためには己の無知を知り続けねばならないということであり、 広範な知識と高い知能を兼ね備えた人間は己の無知を並外れて知っているということであり、実に誇り高くまた同時に実に謙虚なのである。 この結論は現実に適うだろうか? その適合の度合いが仮定の正当性の度合いである。
ところで、世界は言語的である。 社会だけでなく、生命も、世界をも、言語的に構成され存在しているのである。 具体的なものこそまさに高度な言語的構成物であること、 いわば文章であることは古今東西の学者が見いだしてきたことであるといえると思われる。 初めの言葉があった。そしてそこに全てが包含されていたのである。 それは自ずから分かれていった。歴史は「自分」であった。未来もまた自分である。 諸物は自分である。 我々もまた自分である。 抽象化は自分を遡ることである。 抽象的な言葉は過去形である。根源的である。 恐らく時間は自分の過程でしかないので、世界は自分であり、 また自分の結果として構築されたものが、崩壊するならば、時は戻るのである。 我々が、死ぬということは、まさに「我々」が自分として繰り返される起因になるのである。 生命においては死によって老化によって時が戻るからこそ、その自分の記憶がなくなるのである。 繁殖、子供はまさに自分である。 自分が死んで初めてまさに子において自分が繰り返されるものであろう。 そしてまた時間が進み続けるものだとしても、不死だとしても、当然のように 自分は永遠に続く。 それは巨大化であり、発展であり、希薄化であり、世界の創造である、すなわち自分なのである。 などと、池田晶子を読んでいたら混乱して考えてしまいました。すみません。
>>47 >>57 >>58 同一人物だろうが
なんという思考の無駄話をしているのだ。
ところで
「世界は言語的」とは
この地球に人類が消滅しても
この地球の世界は依然としてあるのではないかね
見渡しの世界としてかんがえれば
この世界は視覚的なのだ。
世界は君が見ているとうりのものであるのだよ。
君が言語として把握しているこの世界は誤謬だらけだ。
その理由は君の言語が未熟だからだ。
プ
いや、そうやって冷笑を装っているが、
確かに
>>58 は何を言いたいのか分からない。
5行目くらいまでは論理学に基づいた認識論のように見えるが、
それから独我論に落ち込み、かと思うと仏教的虚無観に移行する。
で、結局は輪廻転生ときた。あくまで好意的に解釈して、だよ。
「世界」「自分」「我々」などの用語が多義的に混乱したまま使われている
のがそもそもの問題だろうね。
そういう俺の見解は如何に?
それは言わない。このスレは「対話せず」が作法らしいから。
2ちゃんだからね なんでもありだが ここではニーチェからなるべく はなれないでください
てか
>>58 については
>>58 で既に謝ってるじゃないか。
何をいきり立っているのか。
64 :
考える名無しさん :2007/07/12(木) 02:15:13 O
わからないものに対する敵意は反知的な態度である。
65 :
♪ :2007/07/12(木) 17:30:27 0
>>36 思うに世界は変動的である。
あるところで創造があれば破壊がある、つまり常に変動しているのである。
自己もまた世界における一つの世界であり、同様に変動的である。
何か得た時にはそれだけ何かを失っている。
逆もまた然りである。
しかし自己同一性というものはありえない。得るものと失うものは常に異なっている。
・・・・・
人間の能力を社会的に平均化して円になるとしたら、天才とは三角形である、しかも鈍角三角形のように歪な三角形である。
>>58 ところで、世界は非言語的である。
生命、世界は非言語的に構成されているものであるから、言語によって規定されている「社会」「国家」などというのは、
言語文化が生んだ実態のない偶像でしかない、それらを過大視しすぎることは言葉が見せた錯覚であり、世界の実像と虚像の間に概念や言語が敷き詰められ、錯覚は合理化されている
(結局神が死んだ後は、そういう偶像が善悪の観念を押し付け、生の力を拘束するんだ!ツァラトゥストラはそういった!詩人は言語に安住しないことによって世界の実像に迫るんだ!
具体的なものこそまさに非言語なものであること、
文章化し得ないものであることは古今東西の詩人が実感するとともに苦戦してきたところのものである。
「初めに言葉があった」それこそ世界を抽象的に対象化してしまう言語文化の元となったキリスト教のバイブルの冒頭にふさわしい言葉である。
神学者は神という偶像に命令を受けることしかできない、つまり人間の想像力から生まれたはずの神々しい生の力を化石にしてさらに道徳が言葉として刻まれた石版にしてしまっているが、
芸術家は、有機的な生気溢れる神々の姿を描き、神々が血を流す様を自分の想像力の源泉から具体的に発現させることで、神性が人間の生身の感性から由来していたことを力強く証明してくれる
・・・・・・・
抽象化は自分を根源から引き離すことである。
具体的な言葉は現在進行形である。根源的である。根源を過去に見る考えこそ、現在を根源から引き離すのである。
恐らく時間こそ自分の過程を最も具体的に表現するものであって、・・・・・
♪は早だと思いますが ま いいか
どうだっていいが、 知的な誠実さというのは非常に大切だと思うね。 象徴的にいえば、それは鼻毛が出ているということに気付くこと、気付こうとする意思をもつということである 気付いたとき哄笑して受け入れ、 切りとらないぐらいでなければならない。 というのも切ることによっては鼻毛の異常成長の根を絶やすことはできないからである。 突き出た鼻毛と共に生きていくということ、 それが知的誠実さを物語っているのである。 そう思うが故に私はまずもって己の無知と愚かさを笑いの種、楽しみにして、生きていきたいと思っている。 てか、既にそうなり始めているわけだが。
抽象的な言葉は根源的であり、現実的であり、真理的である。 卑俗な言葉は一見簡単そうにみえて複雑な文化的、社会的背景、構成をもっており、 理解し難く、地に足がついてない高尚で空虚な構造なのである。 いわゆる具体的な言葉こそ物質のように実は空虚なのである。 母国語に親しんでいれば逆に思われるだろうがね。 私にとっては抽象的な言葉こそ感覚的であり、具体的なのだ。
69 :
訂正 :2007/07/13(金) 02:29:34 O
○ 母国語に親しんでばかりいれば逆に思われるだろうがね。
70 :
考える名無しさん :2007/07/13(金) 03:18:45 O
口語、しかも無教養な人間のそれは、下手すると同言語和者にすら理解されない実にその個人的生活に密着した大いに多義的で場当たり的で複雑な構造をした意味をもつ言葉なのである。 言語の特徴、特性、長短は俗語にこそ現れる。 だが特性は根源的でも普遍的でもない。 したがってまた、殆どの人にとってはまったく具体的ではなく空虚で無意味な近寄り難い言葉なのである。 たとえ、極一部の人間にとっては、いかにも具体的であり、自分と切り離せない言葉だとしてもだ。 具体的なものほど空虚であり難解で高度で到達し難いものだからである。 しかしまあ、自分というのは具体的である。 口語、俗語も自分にとってはいかにも具体的である。複雑な構造である。 いわんや異国の具体的なものなんてのは、極めて難解である。
ニーチェはニーチェなので難しいということだ。 スレ違いではない。
自分にとってさえ自分が一番難しいという罠w それはインテリの親父もちょっと真剣に考えてみると「わからないよ」と認めるところではあるわけでww 仕方あるまい。 いまだに何一つ具体的なものについては解明され尽くされてないのだから。 何しろそれは世界で最も複雑な構造をもついわば最新鋭の世界だからである。 確かにこんな文脈からすると視覚的な世界こそが世界なのだといってもいいだろう。
我々が何か具体的な事物を知るというのは、 まさにそれと共に生きるということによってしかありえないんじゃないか? しかし真に具体的なるものは常に世界の先端、頂点にあり、現在なのであるから、 知り得ないに違いないのだ。 常に消え失せては、生じ続けている現在なのであるから。 知ってもたちどころに知でなくなってしまうだろう。 ただ共に生きうるのみなのだろう。 ニーチェが過去なのか現在なのか、これは曖昧であるが。 根源的なものほど永続的であり、流動性に乏しい。 逆に具体的なるものは実に流動性に富み、瞬く間に消失してまう現象で在る。 その存在は瞬間的に現れるのみ、まさに現在である。
語彙に限ってみても俗語というのは、 生成の現場であり、新たな表現であるから、 100万語の辞書でさえ及ばないものがある。 その言葉を発するものと同じ現場にいないことには理解しがたいことも稀ではない。 会話が銘々の独白に過ぎないことも稀ではない。 具体的なものは不可解な構造なのである。 部分の総合が必ずしも特定の全体になるわけではないのであるし。
言葉についてだけでも、色々と哲学できるもんですね。 ニーチェって、言葉の扱い方がテクニカル。 ポエムにならずにあんな文章をかけるようになりたいものです。
嗚呼〜、それがどれほどの苦しみと悩みによって生まれたのか分かっているのか? あんな文章をかけるようになった時、君は発狂する・・・。
生きながらにして、死に触れてしまった時の心情はニーチェにしかわからんよ
ニーチェの世界において、強者とは即ち愚者であり、弱者とは即ち賢者なのさ。 世界の言と、自分の葉。差を知るほどに人は賢く、弱く、醜く、脆く、卑しく、 だが強く、他の何よりも強く、自分の意志にしがみつく。 その産物こそが、力への意志だ。 人の利己的な衝動が、意欲を、そしてありもしない意志を作る。 だが・・・勘違いしないでくれよ? これは、至上論ではない。 俺は何も謳わない。世界は何も謳わない。 現実は、何も、謳わない。そんなことは許されない。 ただ全ては、より深くを知らしめるために。 現実を、よりあるがままに、見せるために。 幻想を、夢を、希望を、棄てさせるために。 俺の世界において。 許されしことなどありはせず、だが全ては、禁じられながらも紡がれていく。 だから、俺もこうしているのさ。感じて欲しいんだ、俺のことを。 さあ触れてくれよ、俺の存在に。 もっと苦しんでくれよ、俺の力に。 感じたいんだ。俺が、お前の苦しみを。痛みを。軋みを。悲鳴を。 だからさ、感じてくれよ・・・お前も、この痛みをさぁ!
詩人は無恥だ、とニーチェは言ったが、二種類の無恥がある。 一つは自分の弱さや醜さといったものを隠さず、羞恥を克服してありのままの自分を歌うことができる無恥。 これができる詩人は上等だ。 もう一つはただ恥じ知らずな無恥。 虚栄と虚飾にまみれた自分を歌い、自分の優秀さを誇張し、劣等さは隠蔽し、 自分の苦悩をヒロイズムのスパイスとしか思っていないような、破廉恥な無恥。 彼は自分の弱さを歌っているつもりであっても自己讚美しかしていない。 讚美にならない弱さは歌わない。 彼が他人のために歌うことはない。
80 :
金曜日 :2007/07/14(土) 00:14:01 0
三富明「永劫回帰思想と啓蒙の弁証法」についてすこし紹介します。 たとえば P47で 「…次に<個々人の生存の永遠の回帰>について考えてみよう。 おのれの生は、これまで無限回繰りかえされてきたし、 これからもまた無限回くりかえされていく。これを真理とみなし、 疑えない事実として受け入れるとき、人は果して絶望的な思いにかられるのだろうか」 と三富氏は自分の言葉でといかけている。 あまたのニーチェ解説の本が宇宙的な永劫回帰を可能性として紹介しつつも 否定的に扱い、また 結果としてニーチェ思想のより詳細な分析にとらわれ 宇宙的な永劫回帰の説を本気で採用しようとはしなっかった。 三富氏のこの本の中では宇宙的規模での 永劫回帰と個人の人生の永劫回帰が重ねあわされて論じられている。 いわばニーチェの思想のなかの永劫回帰思想がひとり歩きして 三富氏の内面で息づいているのだ。 いささか論旨が行きつ戻りつで読みにくい本ではあるが。 私は宇宙的な永劫回帰思想がツアラツストラをはなれて 個人の幻想の内部で真実のようにうけとめられるような時代になったのだとおもう。 また公然と著書の中でそのことをかたるようになったのだなあとおもう。 今日はここまで。
ニーチェ讃叫 死を見たその眼、憂鬱の闇、毒の沼の中で光る眼光 真実を穿つ光の矢、僕の心臓を刺しぬく刃物! 苦悩の底へ降りていく毒蛇、深い憂鬱な谷底で自らの流した血を啜り、 毒の沼を全て飲み干し、貴方は悪を知った! その悪から逃げず、死ぎりぎりの生の姿を直視し続け、 それでも貴方は笑った、声高らかに! あらゆる苦悩を肯定し、否定さえも肯定し、 哄笑の歌声で善も悪も吹き飛ばし、その向こうに貴方は見た、神の姿を! そしてその神を殺害し、解剖し、その謎を解き明かし、貴方がたどりついたのは善悪の彼岸 その遥か高所より、世界苦の全てを眺望し、それでも笑い続ける仮面道化師 否定と猜疑の煉獄の中で、牧歌を明朗に口ずさむ孤独な歌手 人間世界の山頂と山頂の間の空を、雄雄しい風を旋回させながら、雲のように自由に飛びまわる風の狩人 その笑い、歌声、風が、思想という実がなる高木に吹き荒れ、熟れた実が僕等低地に住む者に贈られる 貴方の放った荒々しい風のような「言葉」には、もはや「意味」は含まれていない 「僕」の心の中に入ってはじめて「歌声」を上げる 鋭利な音符は刃物となり、僕の自意識の重力がその歌声を引き寄せるとき、 自己欺瞞の殻は突き破られ、精神の心臓部に刃物は達し、僕の心は出血し、 心の底には貴方の言葉が永遠に刻まれる、曰く「血を以って箴言を書くものは、暗唱されることを望む」 貴方の鋭い言葉が、世界に向けられるとき、脆弱な価値観を地盤にした文明は根底から揺り動かされ、 空虚な言葉は全て切り裂かれ剥ぎ取られ、世界の虚無ぎりぎりの姿が暴露される 読む人の心に、虚飾で彩られた世界に、虚無を突きつけ、全て白紙にしてしまう貴方の哄笑 「自分の血」のみで「生という無意味な白紙」を染めろと教える歌声、僕の心臓を刺しぬく刃物!
ニーチェは神を殺してなどいない
まあね〜普通否定的に評価されるところのものを汝自身について努めて発見し、 まるで金鉱を掘り当てたかの如く喜ばないような人間は伸びないんだよね〜。 なにしろまさにそこが金鉱という言葉で象徴されるような価値と力の泉だからなんだよね〜。 なんか懸命に発見しないですむように頑張っちゃってる人いるみたいなんだけど。 で、気づいたら、無価値、無意味とかいっちゃって、 それが普遍的な真実だとか思っちゃってるみたいなんだけど、 あからさまにいっちゃうとそれって自分のことだろって感じなんだよね。 すごい必死だなって感じだよね。 まあね〜自分のことなんだけどorz
そうゆう否定されるべきものをまずもって肯定しないことには、否定しえないのである。 なぜなら対象があるということを突き止めないならば、どうしようもないからである。 否定的なものの存在可能性に対して、まずもって肯定的でなければ、まして否定的ならば、 それは発見し難く、否定されるべきものを否定できず、 いつまでたっても大いに否定されるべき者であるということになってしまう。 この否定的なるものに対する肯定的態度、恐るべきもの醜悪なるものへの愛着嗜好、 恐らく勇気と呼ばれるものが後天的に獲得されるなれるならば、 それは価値の創造といえるのかもわからない。 なぜなら恐らくその肯定的態度こそ才能と呼ばれるものの本質だからである。
どうだっていいほとんど意味のない皮相な無駄話の方が、 学術的な話より理解困難である。 (手にとって見れば理解した気になるが、 それはその「手」に対するが如く別に理解しているわけではない。 ただ具体的に表面的に見ているだけである。 とはいえ、手は結局、そうして手として把握するよりなく、分析的論理的構造的には理解しきれないだろうが。 表面的で具体的なものはどれも世界に等しいぐらいの構造の上に立っているから) まさに無意味で無内容だからだといっていい。 そして複雑化の結果、根源的一者から最も遠ざかった高度に、地上にあるからであると。 とすると根源的一者とは逆に極理解しやすい純粋な知、真理に違いない。
>>85 どうだっていいけど
意味のない皮相な無駄話
を理解はできる。
無駄な無意味な文として理解できる。
君の文章がそうだけど。
朝から失礼。
もっと意味のあることを希望します。
どうだっていいけど同類ならメス故に早の方がまだ良かったよな。
お前らの「徒然なるままに」なんかどうだっていいんだよ。 もっと面白い解釈は無いのか?
89 :
考える名無しさん :2007/07/16(月) 02:11:14 O
だれか教えて下さい。 簡単に言うと、ニーチェは神がいない事を前提に物事を突き詰めて考えていったら逃げ場がなくなってしまって自爆(発狂)したのですか?
君はニーチェを否定したくて質問しただけでしょ?
91 :
考える名無しさん :2007/07/16(月) 11:01:22 O
>>89 そうとも考えていんじゃない。一般的な関係性は素直で見ていてきもちがいいね。
俺的には彼が発狂するのだから随分と面白いことが、
あったのかもね。
まだまだ先はあるかもよ。
92 :
考える名無しさん :2007/07/16(月) 14:27:25 O
>>91 単純な質問にこたえて頂きありがとうございます
初心者過ぎて解釈が物凄く浅はかで、なんだか物凄く申し訳なかったです。
ニーチェが発狂したのは梅毒のスピロヘーターの為だよ。
94 :
考える名無しさん :2007/07/16(月) 18:28:32 O
>>93 だから。
そうとも考えていんじゃない。一般的な関係性は素直で見ていてきもちがいいね。
95 :
考える名無しさん :2007/07/16(月) 19:16:05 0
遠近法でしょw
白水社のニーチェ全集は神田 の古書店ではいくらぐらいだろう。 知っている人いますか。
なにがどう見ていて気持ちいいのか解らない。 一般的な関係性って何の事なんだ? 逃げ場がなくなってしまって自爆って? ニーチェ=梅毒&発狂w とか言ってる奴をたまに見かけるが じゃあ胃潰瘍で死んでたら彼を解釈する方向性は変わってしまうのだろうか? 死因や病気の種類で著書の内容を簡単に卑下出来るとか考えているような奴が 本気で思想を吟味出来るとは俺には到底思えない。
98 :
考える名無しさん :2007/07/16(月) 23:23:44 O
誰でも読めるが、誰にでも読めるとは限らないと、 著者も予言してるくらいなんだから、彼等をせめ るのは可哀想。
「ゾロアスターは生まれたときに笑っていた唯一の者である」 聖アウグスティヌス『神の国』(第21巻14章)
>>99 そういえば吉眼で邪眼をはね返したんだっけ。
101 :
81 :2007/07/17(火) 00:57:26 0
>>88 >>97 ↓をあなた好みのちょっとしたお座興にしてみようかしらね
生という紙に外部から書かれた言葉をシニズムという消しゴムで消しつくし、
白紙を目の前にしたときが、悪、血、本能的なものが力を発揮するための転機を迎える瞬間、蒼白の犯罪者が殺人を企てる夜。
でも'完全な'ニヒリズムなんて、たくさん知り尽くしてしかもそれら全てに否を言うことであって、
紙に書かれている言葉を発見できなければ消せないし、読んだ上で消さないと否定を行えていない。
既成の紙に書かれたあらゆる言葉を読解し、それらに否といって消し去って白紙にするのが、能動的なニヒリズム。
その白紙に自分の血で「肯定」を描くのが、ニヒリズムの克服、運命愛、能動的な生。
それは、哲学的素質と強烈な自我を持ち合わせたニーチェのような「エリート」にのみ許された選民思想。
認識と表現の裡で血をながせるような一部の芸術家や思想家くらいしか、ニーチェの足跡を実際に追うことはできない
>>83 ニヒリズム、無価値、無意味、というのは、凡人にとっては、自分の無意味さを外部に投影しただけのことだったり、それを隠すための虚勢でしかない、あるいはニヒリズムを唱えることを生きる意味にしてみたい、という逆説的な動機だったり、て思ってます
ニヒリズムとその克服、運命愛みたいな、具体的な心理や生のあり方を経験的に扱う思想なんて、
体験不可能で、謎だらけで、畏怖すべき思想。
でも不可能性の高い思想だからこそそれを体験しようとする人は、今までの認識の方法や知識では確かなものを見つることが不可能で、未知のものへ向かう精神が試され、新しい認識法や解釈の可能性を得る。
真っ暗の地下、独りぼっちの、矛盾と否定の迷宮。この迷宮に向こう見ずにも入ってみる。
で器を遥かに越えたこと考えたりしたのが祟って、心理的に混乱して泣き言垂らしたのが
>>81 の類の言葉。
徹底的な否定なんて、天才か、詩人、娼婦、病人くらいにしか体験できない恐ろしいもの。
否定の恐怖に浸りながらも金を力強く掘る思想より、ドストエフスキーの小説の主人公の病的な神経に対するピンセットで弄るような考察の方がよかったりするかもしれませんね♪
とにかくニーチェの思想や生き方は、苦悩に満ちすぎていたり謎めいていたりする、近寄りがたい驚くべき悲劇。としか言いようがない偉大なニーチェ!
最も辛い苦悩は、歓喜が過ぎ去るその時。 だから苦悩を欲せ。
>>102 >だから苦悩を欲せ。
これは表現が違うだろ。
正しくは生の歓喜と相俟って苦悩もワンセットだから
「これが生か、よし、もう一度!」になるんだろうが。
直感的にいって
>>102 はショーペンハウアー的であり、ニーチェ的ではないとは思う。
ニーチェの意識は、現実と己の状態の関連性には疎いので、そういった認識をすることはほとんどないと思う。
とくにニーチェなら己の意識状態をコントロールしようとはしないだろうね。 そういった意味でニーチェは肯定的であり受動的である。ある意味弱く何か疎い。客観性を認めない。 彼の自己はキルケゴールのいうような自己と関係するところの自己ではないのである。 そして世界に扇動された挙げ句の忘我した境地を世界に溶け込んだ境地を絶賛する。
107 :
81 :2007/07/17(火) 13:41:21 0
>>105 哲学を真面目にやってるわけでもないような人がニーチェを読むのは、危ない喜びを感じたいてのも一つの動機じゃないかなw
ニーチェがもし白痴状態から記憶も思考力完全に復活して、ヒトラーのあの演技染みた仕草や表情で大言壮語をほら吹く演説、ナチスのユダヤ人大量殺戮、などが起こるまで生きていたら、
一体どんな危ない言葉をニーチェは生んだいたのだろう、とか想像してみるとゾクゾクしてきません?
こういうことでふざけるのはいけないから以下は真面目に。
ニーチェは、
・なまの人間性に対するキリスト教やその道徳からの抑圧がそろそろ役に立たなくなる、
・いつかはそういう道徳の構造の欠点が顕現され人間性に関してどこかで破綻が生じてしまう、
・ありもしない彼岸を仮定してしまった世界観は空虚な地盤の上に立っているものでしかいないのだから
いつかは人間は必然的にニヒリズムに陥ってしまう、
そういうことを時代を考察するなかで直観していたんだと思う。
キリスト教などに由来する道徳や戒律が不能を呈し始めたら、反作用的にドイツ人のゲルマンの血が騒ぎはじめ混乱がはじまり、
その荒々しいゲルマン性を思想的認識も芸術性ないまま開放してしまうと、反ユダヤ主義のようなニーチェの嫌った暴動が起こってしまう。
ニーチェはその時代のドイツ人たちの心の深層で渦巻く潮流や道徳の不具を見抜き、人間の本性、荒々しさを思想のうちでいかにも悲劇的に認識して表現し、
キリスト教以後の世界が根底に秘めているニヒリズムを言葉の上で暴露しておくことで、現実にああいう悲劇が起こってしまうことを妨げようとしていた、ともいえるし、
生前のニーチェにとっては、そのころ動き始めていた反ユダヤ運動なんて、鬱陶しい茶番だったんじゃないかなと思う。
108 :
考える名無しさん :2007/07/17(火) 22:36:39 O
>>101 悪イ。俺の趣味には合わないわ。
能動的ニヒリズムが紙(概念)に書かれたW単語”の寄せ集めを否定する事だなんて誰が決めたんだ?
そこにリアリティはあるのかい?
君が言っているのはただの「ニヒリズム」であって、全然躍動感がないだろ?
能動的であると銘打つには、そこにラディカルなまでの先進性がなくちゃならないはずじゃないのかい?
既存の因習や通念や規範が取るに足らないほどつまらない時、気付いた人間は枠をはみ出して前に進むべきなんだ。
後継者がいるかどうかは問題じゃない、彼の生存圏はすでにそこに移行しているんだ。
前例がなけりゃあ創りゃあいいジャン! という発想が必要なんだ。つまり幼児が…
能動的ニヒリズムが単に既存の価値観を否定し続けることだとしたら、ツァラトゥストラの「大いなる千年王国」への
期待も支離滅裂なものとなって整合性がつかなくなるだろう。
>白紙を目の前にしたときが、悪、血、本能的なものが力を発揮するための転機を迎える瞬間、蒼白の犯罪者が殺人を企てる夜。 詩人は嘘を付き過ぎる…、ツァラトゥストラの言葉だ。預言者めいた詩人など誇大妄想に打ち震えて息絶えればいい。 凡衆は「自分以外」を見つめるとき常に「異常者」を据え置いた。猟奇エログロのゴシップ記事を読むように… だが、本当に人間に必要なのは「凡衆に比べて」異常に健康な人間、その強壮な精神のモデルなのである。 心理学者的には『過剰』であるとみなされる人間のその判定は、常に“余りにも過剰な量”の凡衆を基準として 判定されてきた。だがこの判定に正当性は本当にあるのだろうか? 今まで歴史ある世界を牽引してきたのはいったいどういう類の人間であったかを考えてみるがいい。 「昔は世の中を揚げて狂っていた」 そう末人が語るW温和”な社会に我々は囲われて生きている。だが囲われている現実が正当性を証明するものだと 本当に言い切れるものだろうか? 徹底的な否定の後には、新規に『価値基準』を自分で建立しなければならないだろう。 否定し続ける作業に追われるだけならよっぽどそのほうが楽だろうに… ニーチェが遺稿集のアフォリズムの中で何故にああまで広範囲に渡って思索を巡らせているのか 君は考えたことがあるのかい? 彼は「くだらなく無い」価値規範のモデルを作ろうと頑張っていたんだよ。まるで教師時代に 生徒を励まし諭した思い出のように…後世の読者たちのために。 もっとも結論を多方面から導き出すための試論と推敲が対局を成して載せられていたりするのだが…
6=処刑ライダーですか?
>>111 違います。哲学板は数年ぶりの乱入です。
ちなみにその人は何と書いてますか?
音楽は一なるものである。 いかにも楽譜の上では分析されてはいるが、 個々の音は常に全体でなければならない。具体的であってはならない。 それは一なるものを体現する運動であり、波長であり、振幅であり、鼓動なのであり、息吹なのである。 各音は常に具体的でないこと、一なるものである限り生命をもつ。 絵も同じだろう。一筆一筆が、具体的ではなく、抽象的にある一つのものである限り、絵になるのである。 抽象化は統一である。
言葉だって同じである。 各発語はある一者の表現でなければならないのである。 海の一滴に宇宙が体現されているように。
さっきすっげー充溢きたよこれ。 まあねニーチェを理解し指示する政治家ならば必ずや独裁制を目指す罠。 統一! 統一!!
あのね抽象的なものが根源的であり、 具体的なものはその充溢、ほどばしりなんだよ。 抽象というと内容を削ぐものだなどと勘違いしてはいけない。 抽象化というのは豊潤なる原点への回帰を目論むものだ。それは父への回帰を、もとい乳への回帰を求めるものだ。
なんだろ、この携帯自演猿は。九スレ入って以来。 ヒド過ぎて却って笑えるよw がんばれ。
自演はしていないし、当スレからでもないな。 もうちょっと読解力つけてくれ。
その読解力のなさからして
>>117 は6でしかないんだよね。
君は罵倒するときばかり名無しになるという滑稽な行為を続けているが、 2chで名声欲を満たそうなんて馬鹿もあったもんだな。
>>119 んなわきゃねーだろ。
お前らホントつまんねーよ。
どーしょーもねーな。
果たしてそうかな? すでにおまえの行動パターンとして定着してる行為なんだよ、 この前ポエム厨として指摘した時には、、ご名答とかいって、 「すぐに名を復活させた」のも今回も同じだ。
>>122 定着ってアホか酒のツマミの暇つぶしに一回やっただけじゃねーか。
この時間にたまたま観て書き込んだだけだっちゅーんじゃ。
どうでもいいけどいいかげんスレの本旨に戻れよ。
お前らが読んだこともないニーチェ本の内容によ。
単語拾って連想ゲームすんのはいいかげん勘弁してくれよ。
124 :
考える名無しさん :2007/07/18(水) 22:56:52 O
>>123 一回なのにポエム厨であることを肯定したというのかね?
まあでも君の名誉のために酔ってたからということにしといてやるよw
ではそちらからどうぞ。
>>124 いえいえどうぞそちらから。
お題は何にしますかね?
ニーチェの遺稿 生成の無垢 で1885年の「ツアラツストラ・・・」の続編のメモで 「多数の超人たちが存在しなくてはならない。・・・」 とあるのはどういうことだろう。 だれか教えてください。
>>126 文自体が抽象的過ぎて何が言いたいのかさっぱり判らんし、論旨が何を意図するのかもさっぱりだ。
抽象化は統一である、というのは、そもそも総和こそがそれの目的なのであるから、わざわざそれをあえて
指摘してしたり顔する意図がまったく判らない。
音楽とはリズムと旋律と空白の時間の総体である。これに歌詞が載れば詩の世界まで加わる。
歌い手が踊ればそれもまた加算される。歌劇なら…
音楽とは時間軸の中で表現される芸術であり、生演奏が途絶えれば余韻を残して消えゆく『世界』である。
私はアマバンで曲を作る時シンセで打ち込みをやっていたのだが、プリセット音が気に入らないので
自分で音色のパラメーターをいじって音を全部作っていた。単音はそれはそれで個性のある音色である。
それが鍵盤を和音で押さえるとそこに音の世界が現れる。そして全部を組み合わせるとまた世界が変わる。
メタリックなベルの音色にホワイトノイズを乗せてイコライザーをいじって少し割れて響くように
設定する。シンセパッドの音を曇らせて鳴らす。ストリングスの高音は悲鳴を上げるように、シンセベースは
アナログシンセなファットな重低音で、そして小刻みに打つハイハットに軽快なバスドラム、叩きつける
スネアドラム、世界はやがて踊りだす。パンニングで割り振られた音の立ち位置の揺らめき合い、協和音の
磁力めいた連結、テンション、喚起を促す空白、そして血を沸き立たせる肉感的な鼓動…
世界が生き物のように身をよじらせるその音の奔流にスタジオの観客が蠢く。汗、肉、光、歓喜、大音量の異空間…
バンドのメンバーの演奏が紡ぎだす一体感と阿吽の呼吸めいた意志の疎通。歌声の旋律が世界と自我を調和させる。
世界は灼熱している。空間が躍動する。心地よい乾きと血のざわめきが一切を肯定する。
呼びかけに応える観客との一体感、共感した意識が世界を融合させる。全一感の陶酔…
音楽は表現する側に回ったほうが遙かに生命感を持つ芸術である。経験上な。
ちなみに君の意図する「根源的なるもの」とはなんぞや?
つーか全文ニーチェとは関係ねえじゃん。遺稿集の芸術の項目から引用してみるか?
>>127 ツァラトゥストラ第二部の「毒蜘蛛」の後半を読んでみて感想を聞かせてくれ。
超人という「単一規格」はないんだ。
「必然性の風に乗る」という感じが味わい深かったね。 自由というのは疎外である。
自由意志というのが時々問題になるが、 そんなものがあるとすれば壊れた人間の無力な意志にすぎない。 この世界において存在する有力な意志は盲目的な意志である。 その滅却は己の滅却に違いない。
“自由”に貴賎有り 最上は、挑戦する「冒険者」の躍動的自由である。 中は、抑圧から解放された「奴隷」の自由である。 下は、無目的な放逸である。漂流者の孤独。
作曲や演奏における自由の度合いは不完全性の度合いである。 とはいえ社会が不自由を追求すべきだとはおもわないが、 だが創意工夫の機会、壁を与え、創造性を育むのは不自由だろうね。
134 :
♪♪♪ :2007/07/19(木) 01:32:31 0
>>126 音楽って、やっぱ芸術の中で一番純粋で、作曲者や演奏者の感性が一番直接伝わってくるのよ。
詩だと、表現の媒体である言葉を駆使するのは詩人だけじゃなくて、
言葉ていうのが日常的にありふれすぎたものだから、詩人がどれだけ生の心を伝えたつもりでも、
鑑賞者の心の中で必然的にうごめいてる言葉という雑音に邪魔されてしまう。
音楽は、ライブじゃなくてCDでも、聞く人が耳と心を済ましさえすれば、直接伝わる。
歌声に耳を済ませば、歌い手の息遣いがこちらの胸に直接伝わってくる。
再生ボタンさえ押せば、ジョンは私の胸の中で完全に蘇る。
演奏者はバイオリンと、まるで自分の身体の一部であるかのように、一体化する。
バイオリンの音に感情移入すれば、演奏者の心と一体化する。
他の表現よりも際立って生理的刺戟が大きい、洸惚、陶酔の世界。
ベートーヴェンの熱情ソナタを弾くピアニストは、ピアノを演奏するというよりピアノに身体をぶつけて、
数千人の聴衆の胸の中に激情を注ぎ込む。
尾崎豊は、自分が死ねば後を追って死ぬような狂女達を目の前にして、
ライヴをディオニュソス祭にする。
増4度の音程の両端が半音ずつ狭まる時の快感は、音楽理論として説明されたところで、
その快感自体が何者かは説明できない、人間の生命的な現象。
何故、1-3-5なら明るくて1-3b-5なら暗いのか。理由なんてなくても、人間の感覚と感情は、そう感じるように出来ている。
誰も理由や理屈を考えずに、旋律、音色に入っていく。
言語表現なら、どうしても鑑賞者の言語体験や知識が邪魔になってしまうことがある。
でも優れた随筆や小説は、文体に書き手の心の流動がメロディになって現れているし、
とにかく言語表現は、人の心を打つものであればあるほど、内容的にも形式的にも、音楽的になる。
ニーチェの比喩に出会う感動は、不協和音の混じるコードが絶妙な場面で出てきた時の驚きの混ざった感動に似ている。
ちなみにニーチェの感性を個人的に喩えるなら、べートヴェンのバイオリン協奏曲2番か交響曲7番。
聞けば聞くほど音への感受性は上がるし、バンドを経験してみると、陶酔感や、他の演奏者や聞き手との一体感というのを体験できる。
ドラッグと音楽の相性は完璧...抽象を介さずに、感覚だけで根源なものに迫れる体験を、音楽は贈ってくれる。
>>133 観点が斜め上なのか単なるひねくれ者なのか?
不自由でない自由の定義は?
好き好んで創作している人間の意志決定権は?
136 :
考える名無しさん :2007/07/19(木) 01:47:46 O
>不自由でない自由の定義は? 知らない。 >好き好んで創作している人間の意志決定権は? あるんじゃないかと思う。
>三連婦 そうなんだよ。 熱情とかヤバいよ。 練習しないでうまいこと弾きたいんだけど、憑かれるとまさに普段より断然うまく弾ける罠。 下手は下手だけどな。
>>134 また早かよ。
お前の「今年夏のトキメキコスメはこれでキマリ!」的な中釣り広告風の単語の羅列は辞めてくんない?
オススメ紹介よりも論で読ませてくれよ。馬鹿な一行レスしかしない奴らより遙かにマシなんだから。
140 :
考える名無しさん :2007/07/19(木) 02:03:23 O
不自由でない自由の定義は? 好き好んで創作している人間の意志決定権は? なんでこういう質問が出てくるの? ってどうたっていいが、今度からお互いスルーしようね。
>>140 >なんでこういう質問が出てくるの?
@もしちゃんと考えてるんだけど言葉足らずなだけだったとしたら
向こうの真意を確認しないで相手しないのは一つの損失になるかも知れないから。
A「自由意志」の流れで論を引っ張って来るのかと期待したから。
Bヒマだったから。
最も抽象的なるものが根源的なるものである。 万物は数であるというのも、トンデモではないのだろう。 音楽も言葉も同様に、その発音は具体的な表現であり、各表現は音楽でも、言葉でもない。 その表現をして鑑賞者が、具体化の逆の作用を、つまり抽象化を行って初めて、 それらは多少伝わるのである。 感覚は抽象的なものである。 ところで一般的に受動的な面では女性は男性を凌ぐのは間違いないだろう。 しかも時々に受動的な行為において創造性をも発揮するのが女の特性といえる。 別に妊娠と出産に限ったことではなく、 一般的にそういった性質があると思われてきた。
143 :
127 :2007/07/19(木) 08:41:46 0
>>129 民主主義的平等主義等に対しての問題提起という感じかな。
ツアラツストラは人々と私は違う存在だといっている。
君の説とは逆だと思うのですが。
遺稿では位階(訳では)という表現をしていることと関係があるのでは。
一見人類とツアラツストラとは別物だという差別的な表現と解釈可能だけど。
私の解釈では超人の定義が見えない形ででどこかに存在しているとおもいます。
超人とはなにかが決定的にひとに現象として起きて
超人という存在者になってしまった人のことをいうのではないでしょうか。
144 :
117 :2007/07/19(木) 09:24:03 0
>>134 >ちなみにニーチェの感性を個人的に喩えるなら、べートヴェンのバイオリン協奏曲2番か交響曲7番。
なるほど。2番ね…
知ったかぶりをすると、こういうことになる…
146 :
♪♪♪ :2007/07/19(木) 11:22:30 0
>>146 なるほど。
で、交響曲7番の方にイ長調を書き忘れたってわけねwww
148 :
考える名無しさん :2007/07/19(木) 12:59:59 O
>>143 自分を肯定してるから、それ以外を否定する。
(自立型否定)
自分を肯定するために、それ以外を否定する。
(依存型肯定)
みたいな。
149 :
考える名無しさん :2007/07/19(木) 13:06:20 0
>>148 それは主人道徳と奴隷道徳のことだが、
強さの基準の一つとして挙げられるだろうね。
150 :
考える名無しさん :2007/07/19(木) 15:36:10 0
高山で走ると高山病になります。ツァラトゥストラを読むときはご注意ください。
>>147 どうでもいいことだけど、はじめ2番って間違えて覚えて以来、それが癖になっちゃたわけ
>>138 もう早なんてどうでもいいじゃない
無理やり論的に↓
>>141 暇つぶしにでもどうぞ。
人間は、太古から、すくなくともまだ進化論的な単位で昔なわけじゃないギリシャが栄えた時代あたりからは、器質上の変化はほとんどない。
現代と昔の大きな違いは、頭の中の観念や生活習慣。でも、現代においても、
心の深層へ向かうほど、ほとんど全ての人類に共通した身体の物質性として説明されるような領域に辿り着く。
大脳皮質上の構造やそこでなされる思考過程は、昔の人と明らかに異なっているし、現代でも先進国とそれ以外では大きな差があり、
同じ国でも教養人と農家の人とでは全然違うけれど、自律神経系や大脳辺縁系における化学的な刺戟の類は、太古から変わらない人間の構造。
この領域において、本当の根源や普遍に遡ってることになる。
こういう領域でこそ、「象徴」や「音」が原始的な力を最大限に発揮する。
音楽の場合、現代においても言語や情報の干渉を受けないので、わりあいこのような領域に達しやすい。
楽器演奏やヴォーカルやカラオケ中毒の経験があれば、ある程度のレベルまでいくと多くの人は、中枢神経からくるような陶酔感、楽器や音との一体感を感じる。
でも言葉の場合だと、生活の便宜のための思考や学校で教えられる思考になれているので、そこまで内部感覚が達しない。
ツァラトゥストラの比喩のような象徴的な言葉遣いは、象徴的に感じようとする構えのある人に対して、こういう領域を刺戟しようとする。
辺縁系や自律神経で起こるのは、情動、イメージ、恐怖、警戒心、快楽など、原始的な感覚。象徴的な比喩や音はそういうとこを刺戟するような気がする。
世界自身とか根源的一者とかと一体化する、あるいは世界や一者が語る、て「悲劇の誕生」とかで表現されているところのものは、
現実的にいうとたぶん、人間の器質上普遍的な本能的領域から湧き上がってくる、
しかもそれが単に粗野な野卑た形式としてではなく洗練された美的なるいは意味啓示的な形式つまり音楽や詩として湧き上がってくる、
ていうことだと思います。
>>143 俺が言いたかったのはそこじゃなくて、
「人間達は、幾千もある大小の橋々を渡って、未来に突き進むべきである。そして益々多くの
戦いと不平等とが、彼らの中に起こるべきである。
私の大きい愛は私にそう語らせるのだ。
人間達は、互いに敵対しながら、様々な幻影(理想・イデオロギー)の発明者となるべきである。
そしてそれぞれの幻影を携えて、いよいよ互いに最高の戦いを格闘し合うべきである。
善悪、貧富、上下、その他諸々の価値の名…。それらが戦いにおける武器であらねばならぬ。
また、生が常に繰り返し己を乗り越えてゆかねばならぬこと、その事を示す旗印でなければならぬ。
生そのものが、柱を立てて、階段を造り、高みを目指して己を打ち建ててゆこうとする。
生は、遙かな遠方にその目を注ぎ、至福の美を望み見ようとする。――そのために生は高みを
必要とするのだ。そして、生は高みを必要とするが故に、階段を必要とし、また諸々の階段、
そしてそれを登りゆく者たちの、矛盾を必要とする。生は登ろうとする、登りながら己を乗り越え
ようとする…」
超人とは生まれた家柄に安住する世襲貴族のようなものでもなければ悪の秘密結社によって
鋼鉄の体に改造されたヒーローでもない。スパイダーマンでもなければファンタスティック4でもない。
超人はあくまで『人間』なのであって、ただ非「末人」的な思想を生き様において実践する
一つの類型として「超人」なのである。“末人を超越する者”なのである。タイトルに圧倒されて
思考停止するから次が出てこなくなるのだ。君らは超人を思索する前に、【アンチテーゼ】である末人とは
何かを考察するべきなのだ。補足にオルテガの「大衆の反逆」でも読め。
そして何故、「多数の超人たちが存在しなくてはならない」のかというと、彼らがさらに
お互いを刺激し合い“切磋琢磨”すれば、更なる高みを垣間見ることが出来るからなのだ。
超人はゴールではなく、さらに続くステージへのスタートラインなのだ。
はは、そこまで興味の範囲が広がっているなら少し書こう。 君は前頭葉連合野にあるA10神経というのを知っているかい? 要はインドあたりで朱の印を描かれる眉間のチャクラの部位だ。 実際に神秘体験を経験したなら芸術における高揚感など児戯に等しいほどだよ。
ちなみに先に言っとくが俺は如何なる宗教団体にも加入していないし、それは独学によるものだ。 馬鹿の突っ込みは無用。これ以上はオカルトになるし…
ちなみにツァラトゥストラ第四章の「正午」はどっからどう見ても神秘体験者の記述としか読めないのであるが、 遺稿集を散々読み漁ってもそれに類する記述のメモは無かった。 おれはもしかしたら妹エリザベートが、世間的にまったく評価されなかった敬愛する兄の著書が「基地外」の烙印を 押されずに済むようにデリートしたんじゃないかと思ってる。 ナチスドイツがニーチェを持ち上げて再評価される機縁に立って、兄の仇打ち的感情に気が動転したんじゃないか、と…
六百六拾六さんに どうも貴君はツアラツストラや超人はどういう存在かよくわかっているつもりらしいどね。 でも貴君の描く超人はどこまでいっても一個の英雄にしかなれない。 ツアラツストラすなわち超人になるためには君の説ではなにかが決定的にかけている。 ちなみに私も超人はどこまでいっても人であって遺伝子的にはわれわれとかわらないと思う。 しかし何か未知の何かを得て悟った人のように思う。 超人が複数でるということは彼らの間で観念の共同化もしくはイメージの共同化がおこなわれ 互いを認め合うことができると思う。 でなければ自称超人の偽者でこの世は超人だらけになる。 位階とは超人とそれ以外の人々を区別する見えない壁のように思う。 それが何なのかを問いたい。 君にきいても無駄だということは最初からわかっているのだぜ。
157 :
156 :2007/07/19(木) 21:43:35 0
私は143です
>>156 無駄だと言われちゃ最初から書く気も起らんが、君はまず末人の記述が何故にああまで
多く描かれているのか?という疑問点から出発すべきではないのか?
なぜ末人が心底信じてもいない「神さま」を崇め奉るのか判るかい?
人間には【希望】が必要だからだ。心の支えが、安らぎや拠り所が!
ところが前スレにもあったように夜の【深淵】を垣間見た人間にとっては確固たる
拠り所など何所にも一切無いのが本当の“現実”なのだ。皮相的な昼の世界にあって
その裏側に何が潜んでいるのかを垣間見た人間にとっては…
何故に「希望」に拘るのか?
アウシュビッツ収容所に隔離された健常者の人々のうち、何よりも早く弱って死んで
いったのは「希望を失った者」たちであった。プラシーボ効果にも利点はあるのだ。
「死後の副音」にも希望を持たずに生を充実させようと努められる人間、しかも死という
現実感にも耳を貸してなおかつ笑うことのできる人間…
希望を持つからこそ絶望が生まれるが、超人にとっては一切が“真剣”なる遊戯なのだ。
これは文章に表すのは簡単だが、現実には何と重い生き様であることか。
それはもう今までの末人的大衆とは違う人間の類型である。この強さが超人なのだ。
そういう詭弁無き人間が「生」を充溢させようと誠心誠意切磋琢磨し合う世界こそが
脱宗教的な「大地の意義」に叶うことなのではないのか?
>>152 横レススマソ
いつもながら明快なロジック、見事な解説なんだけど、
ニーチェの捉え方がどうも孔子の教団っぽいんだよな。いうなれば顔回ってところか。
バカにしてるみたいだけど、
>>151 で早は結構いいこと言っている。
152で引用の箇所は、全体的に隠喩と捉えることもできる。
あなたのようにこれを未来の人類に起こり得る事態の予言、あるいは超越しようと
する者たちの教科書として「実践すべき規範」とするなら、誠実な宗徒として
「ましな人間」であるかもしれないが、それこそツァラトゥストラが否定するところのものではないか。
ニーチェが『道徳の系譜』などで「よい・わるい」「善・悪」についての先史的認識を
解読しようとしたのも、現今(19世紀)のキリスト教的判断に侵された近代ヨー
ロッパ人の頭に<近代>よりも根深い<先史時代>の視点を与えるためではないだろうか。
奇しくも
>>153 >>154 において神秘体験を述べる際、あなたは「前頭葉連合野」
「チャクラ」などの術語によって、しかも「独学」でその高みを達成したかのごと
く語っているが、そもそもこういった神秘体験を或る定式に従って得るとするなら
ば、自身の属する地域・民俗によらねば意味を成さないのではないか。
あるいは全く独自の理論・システムを生み出すか。
ここで話を戻すと、前出引用箇所は隠喩として<先史的>視覚を用いて読むとき、
全く個の肉体に就いて味わう経験であるとすることもできる。
この場合にも、アンチテーゼである末人を鏡として重要なのは同様。
160 :
考える名無しさん :2007/07/19(木) 23:01:29 O
「人間は、動物と超人との掛け橋である。」(?) この人間と云う橋の上を行き来し、時には野獣の ような本能の満足感に浸り、時には啓示にうたれ て恍惚とする。。。。それがこの上を歩く私である。 みたいな。
>>159 不親切な端折った箇条書きをありがとう。
もう少し丁寧に読みやすく書けよ。
頭に入んねーよ。
>>151 の続。太古から不変の器質的性質,本能的傾向として、神々を求める、てのもあると思う
ニーチェがギリシャの精神を讃えたのは、神々が人間の生命力溢れる性質を際立たせて体現していたから
神々は人間の想像力の産物の中でも、もっとも芸術性も啓示性も持っている
例えば尾崎豊やカート・コバーンに信者が多いのは彼らが、人間の生にとって必要な存在であるのに現代では衰退してしまった神々の姿を
体現している(殉教者性、夭折美少年、ディオニュソス性)、しかも最も陶酔性のある音楽がジャンルだ、てのが関係している
ニーチェは悲劇の誕生で、ギリシャの精神は言葉の物語としてだけではなく音楽もあってこそのものだと言う
>>153 脳幹、視床や視床下部、辺縁系、側頭葉、前頭葉、全て貫く神経で、ドーパミン放出するやつでしょ
脳幹は自律神経に繋がっているところだから、A10は脳にある神経の中では最も原始的でありながら、前頭葉にも直結してる、大事なところ全てを通過する、重要な神経
自分の体験書くなら、たぶん極度の神経症が原因で癲癇のような症状が起きたんだと思うんだけど、
燃え上がるような熱感がオレンジ色の光り輝くヴィジョンとともに全身を貫いたような感じ。
それ以来、脳とか神経とか根源的一者とかに興味いっちゃた
前後にほんとやばいくらいの恐怖感におとされたり、恋を思い出して一日中泣き続けたり
頭の中にあることが本の開いたページに書いてある、みたいなのが頻発して
迷信深くなったり、2chを意味不明なメタファーで荒らしたりもうわけわからないとにかく不安定な混乱が今でも続くのよ
高揚というより絶頂的な快楽に近かった。
でもこういう自分の制御を遥かに超えた激越な快楽よりも
特に神秘家的なことに没頭する気がないんだったら審美性や哲学性と繋がった高揚の中で、表現や認識を同時に行えるくらいのものが、創造的だと思う
ポーが幻想的な短編小説書いているときに感じているであろう感覚
ニーチェがハイになって短文か中程度の分量の文章書いているときの感覚
熱情ソナタを弾くピアニストが憑かれている状態
みたいな芸術的な高揚が、創造性あるもんなんだと思う。神秘体験の類は酷く内的すぎて「表現」不可能で排他的
神秘家よりは芸術家の方が、あきらかに、人間のためになる仕事してるんじゃないのかな
>>155 >おれはもしかしたら妹エリザベートが、世間的にまったく評価されなかった敬愛する兄の著書が「基地外」の烙印を
押されずに済むようにデリートしたんじゃないかと思ってる。
今時なにを言ってるのやら。
白水社から遺稿全集の訳がとっくに出てるでしょうが・・・
超人についての話になっているようだが、〈超人とは何か?〉が不明瞭なのは周知のとおりだけれど、
なぜ不明瞭かといえば、「実存」と同じで、それが客観的に扱うことができないものだからだろうから、
超人を定義しようとするような思考は、まったくの徒労に終わるね。
>>162 >神秘家よりは芸術家の方が、あきらかに、人間のためになる仕事してるんじゃないのかな
それはジャンルと住む世界が違うだけだろ。つまり影響圏が。
ちなみにA10神経はその比重が前頭葉連合野に大きく偏っており、その部位は人間の
「創造力」に関連すると言われている。
芸術家が安易にドラッグにハマるのもその高揚感とインスピレーションに対する帰巣本能
なのかも知れない。自分でコントロール出来ないとショートしちゃう危険性もあるんだけれど…
だからそこからフィードバックされる芸術というものの可能性も頭から否定することは出来ない
わけだがまあいいや。そっから先は病気の人じゃあ酷だわな。
超人は結局、芸術性も博学も認識欲も兼ね備え、苦悩にも耐え続けた、ニーチェという偉大な精神の中で生まれた 現象学的な偶像としかいいようのないものかもしれないですね。 百人いたら百の解釈がゆるされるべきである。 しかし誰もニーチェが超人に込めた想いと同じものを感得し得ない。 ニーチェは様々な面で偉大すぎるし、独特すぎるテキスト見る限り、自分の考えを一般的な形式で表現していない、というか一般的な形式で表現し得ないものを表現している。 だから、超人を概念として一般化して認識するだけでなく、こちらの精神で超人に対して意味を見出していくしかない。 とにかく超人は、偉大な畏怖すべき、結局は小乗宗教的な、偶像。 敢えて定義的に超人の属性を挙げるなら 道徳によって固定化された視点から善悪を見るのではなく、力動的なヴィジョンで善悪をとらえる、そして善悪の彼岸に達するまでその力動を認識する 道徳によってとらわれない自由な精神で、新しい価値を創造する 過去の全てを救済し、現在のために生かす そうやって生を肯定していく ということが挙げられるのではないでしょうか
>>165 >とにかく超人は、偉大な畏怖すべき、結局は小乗宗教的な、偶像。
違うだろうね。
>敢えて定義的に超人の属性を挙げるなら・・・
それじゃあほとんど何も言っていないのと同じ。
超人の「超」は、自己超克の「超」なのだから、
まず自己超克について考えなければならない。
それから「力への意志」と「永劫回帰」と「超人」との関係。
>>163 >今時なにを言ってるのやら。
>白水社から遺稿全集の訳がとっくに出てるでしょうが・・・
なあちょっと聞いていいかい?
『権力への意志』と『生成の無垢』というのは編纂者が違うはずで、生成の無垢のあとがきでは
エリザベートが改竄した恐れがあるからもう一度『生成の無垢』で編纂したんだが、もしかしたら
もう彼女によって捨てられたメモがあるかも知れないって書いてあった記憶があるんだが、
それ以外で完全なる形で全部集められたって事なのか?
>超人についての話になっているようだが、〈超人とは何か?〉が不明瞭なのは周知のとおりだけれど、
>なぜ不明瞭かといえば、「実存」と同じで、それが客観的に扱うことができないものだからだろうから、
>超人を定義しようとするような思考は、まったくの徒労に終わるね。
まあそうなんだけど具体的な行動規範も無いので難しいんだよね。
だから【アンチテーゼ】として反超人的な末人や“善良な人間”を踏み台にして検証すべき必要があると思うんだが…
ラ・カンパネラだと熱情より全くあややでいってしまうだろう。
169 :
♪ :2007/07/20(金) 00:57:26 0
ラ・カンパネラは女性ピアニストの方がいいかも...
>>167 白水社のニーチェ全集は、コリーとモンティナリが中心になって
ニーチェの遺稿を年代順に並べた「グロイター版全集」の訳だよ。
>>170 全然答えになってへんがな(泣
捨てられた可能性を否定出来るのなら買い直すが・・・
>>171 >捨てられた可能性を否定出来るのなら買い直すが・・・
捨てられら可能性はどうやっても否定できないと思うけど?
>>172 歴史的発見!! それが実は見つかりました!っていう内容かと思った…
>>173 『権力への意志』は、ニーチェの遺稿のごく一部だし、大きな捏造はないにしても
配列が恣意的だから、今ニーチェの遺稿と言えばグロイター版を指すだろうね。
グロイター版の遺稿は、ニーチェの遺稿を順番にそのまんま載せているだけに、
人の著作からの抜書きだとか、メモみたいなものが多くて、内容的にはつまらないものも
多いが、それだけに、ニーチェの生の思考に触れることができるね。
「あやや」というのは私の造語である。 これは根源的感情を意味する。 根源的感情というのは、あらゆる感情がそこから派生していったところの感情を意味する。感情のES細胞と解すこともできる。 文法的には形は変えないが、時に感嘆詞となり、またある時には形容詞、副詞となる。
ん・・・ 六百六拾六氏は、『権力への意志』が、ニーチェの遺稿のごく一部だということを 知らなかったのかな。
>>169 おれの趣味における目標にケチをつけるんじゃない。
おれはあややといってしまわねばならないのだ。
なんといっても新しい遺稿全集の良いところは、その遺稿が書かれた年代が はっきりしているから、たとえば「永劫回帰」や「力への意志」の思想が 形成された1881年の頃にニーチェは当時の自然科学の力概念に関心を持っていて そういう本からの抜書きを多くしていて、それらの思想が形成された背景が わかったりするところだね。
ブッダがいうような欲は何かと一如になっていれば自ずと抑えられる。 欲は自己から生じてくる。何かを自分に接近させようとする。 何かと一如になろうとするものである。 つまり自己は不全であり孤独というよりは疎外なのである。 自己の故郷、自己が自己でなくなる根源的な場所はあるのである。 だが自由にとはいかない。 自由があるところ疎外があるからだ。
>>179 ニーチェの場合は欲は克服されるべきものではない。
なぜなら存在そのものが力への意志であり、つまり欲だから。
仏教でも欲は克服されるべきものとだけ考えられているわけではない。
欲は生きる力そのものとも言えるのだから。
仏教の「煩悩即菩提」は、欲についてのニーチェの考えに近いかもしれない。
生きる力としての「欲」が、「欲望」に変質してしまうのは、
自我への固執によると仏教は考える。
ニーチェは、力への意志としての「欲」が「ルサンチマン」などに変質してしまうのは、
弱さに基づくと考える。
181 :
考える名無しさん :2007/07/20(金) 11:01:41 O
犀の角のようにただ独り進め。 お釈迦様はこう言った。
ニーチェがまともなのは悲劇の誕生まで。 仏教とブッダは違う。
183 :
169 :2007/07/20(金) 13:14:33 0
>>177 御免なさい、お気に障ったみたいで。ピアノ独奏、素敵な趣味ですね。
ピアノ弾けなくてただ聴くだけの自分にとっては、
硝子でできた寺院の中に響き渡る氷の鐘の音のような、ラ・カンパネラの音は、
審美的芸術至上主義的すぎて、熱情の方が、あややな感情になったりします。
そういえば、希代の審美家ボードレールは、リストが大好きで、
リストの音楽を、ディオニュソスの杖に喩えつつ、絶賛していました。
釣鐘のように項垂れた花々を纏う蔓が、酒神杖を巻いている。
男性的な直線の周りに女性的な曲線。
強い意志の周りに踊る空想。(「巴里の憂鬱」)
ニーチェのベートヴェン評はまだ見たことないのですが、
モーツァルト評↓なら少し覚えています
インスピレーションを、常に南国に見出していた
イタリアにいないときでもイタリアを夢みていた
快活、畏怖すべきではない、軽やか、優美、
みたいな感じでした。
芸術家の音楽評論に目を通すことによっても、音楽に対する審美的感受性は、
格段に上がっていくと思います。
184 :
金曜日 :2007/07/20(金) 22:18:15 0
エリザベートは収集癖かあったのでニーチェの遺稿は捨てていないと想像するね。 改変の可能性があるがそれも調査済みではないかね。そのうえでの全集版だとおもいますが。
>>159 >・・・現今(19世紀)のキリスト教的判断に侵された近代ヨー
>ロッパ人の頭に<近代>よりも根深い<先史時代>の視点を与えるためではないだろうか。
<先史時代>的視点を含めた視点で生を捉え、生の力を最大限に引き出すことが、ニーチェの思想の大きな特徴ですね。
まずニーチェの哲学観が元々、根本的に<近代>の常識的な哲学観には相容れない。
人間の生活、経験、感覚、心理、歴史、科学、その他学問、などをまとめ綜合していって、
抽象化し、概念群へと一般化して普遍的な知へと昇華させ、人間や世界の本質を一つの体系に纏め上げることを、
哲学の目的とみなすは、ニーチェからすれば間違った認識。
ニーチェの哲学観の根本は、「生」の強さや創造性を力を、歴史などの中から見つけ出し、
その力を促進する思想を創造し、そして実際に力を最大限に発現しながら生きることであり、
そのためには、近代的な視点を覆さずにはいれない。そこでソクラテス・プラトンに始まる合理主義的な哲学のあり方や、
同時代の学者達を容赦なく批判する。その批判は、<先史時代>的でありながら極めて卓越した知性を兼ね備えた視点からなされているのだと思います。
善悪は、<近代>的な価値観による体系的な固定、キリスト教道徳による抑圧などによって、一般的に定式化されてしまっていたが、
ニーチェは、善悪は、一般化され固定されているべきものではなく、よって万人が同じように共有するところのものであるべきものではなく、拮抗しながら善と悪は動くべきものであって、
<私>の中で独自の善悪を持ち、個人の中で善と悪を戦わせること、あるいは他の善悪観と戦っていくことが、
個人の生を高みへ上げていく戦いの一つである、といっているように思われます。
善悪を含めて諸価値観は、キリスト教道徳などによって一般化され、その一般的な価値観に基いて個人の生は在るのだが、
その価値観に対して闘争的な態度を取って道徳の束縛をやぶることで、新しい自分の生のあり方へたどりつくことができる。
自己超克の一つとして、一般化された価値観に立脚しそれに束縛されていた末人的な自分を、その価値観と戦い破壊し束縛を解くことによって、
超え出る、ということが挙げられる。今までの価値に満足せずそれを破壊することによって、新しい価値を創造したい衝動や意志が最大限に発現され得る。
>>184 とりあえず第二期第五巻と六巻を購入。
これから給料日毎に逐一追加予定。
一冊4000円以上する奴が24巻ぐらいあるとか、
もう馬鹿かと、阿呆かと…
貧乏人には厳しい限りである。
俺は特に自分の関心のある本にはアンダーラインやメモ書き
する癖があるので、結局別に新冊買っちゃうんだよね〜、ヤバイなこれは。
だけど結局「この人を見よ」で書いてあるように
ツァラトゥストラに関心の比重を大きく傾けている以上、それとの整合性を
比較する作業に埋没せざるをえないのだから、他の遺稿集はあくまで
『補完』の領域を出ないだろうという了解の元に、大枚をはたかねばならないという
空漠感を消化しなければならないわけだ。
ま、好きでやるんだけれども、嗚呼…
>>182 文学者カール・シュピッテラーが、悲劇の誕生は高く評価していたけど、
ニーチェの後半の著作のほとんどを批判していた、
文体、「作品」としての価値は、褒めることがあっても、内容的には廃棄物のようだとこき下ろしていた、
ていうのをどこかでよんだ記憶があるような。
188 :
金曜日 :2007/07/20(金) 22:55:46 0
>>186 とりあえずU期の11巻と12巻で十分ではないかね。
俺は一番重要なのは9巻(85-87年)あたりだと思うね。 「レンツァーハイデ」もそこにある。 永劫回帰と力への意志の思想が成熟した時期。
>>184 たしかエリザベートがニーチェの手紙か日記かを改竄したことは分かったんだよね。
その他の遺稿に関しては分からないけど、改竄の疑いが消えることはないだろうね。
改竄の証拠は見つけられるが、改竄していないという証拠は見つけ難いから。
自分やナチスに都合の悪いものを捨てたりした可能性は大いにあると思う。
>>185 >その価値観に対して闘争的な態度を取って道徳の束縛をやぶることで、新しい自分の生のあり方へたどりつくことができる。
これは少し違うんじゃないのかな。
ツァラトゥストラに描かれる『善と悪』の内容は、対『末人』的な視点で描かれ、道徳への批判もそれに則って
抽出されているように思える。
ツァラトゥストラが推奨し続けるところのものは、「おのれの正義・善の規範を持ち、それに則って行動しうる」人間であって、
その理由ゆえにパリサイ人たらざるをえない自称『善良な市民』の生ぬるい価値規範に猛烈な批判を加えるんじゃあないの?
パリサイ人の問題提起とは、群集心理的な人間の蒙昧さを明らかに提示する点にある。
マスメディアが「毒抜き」と称するスケープゴードへのバッシングとそれに呼応する大衆のお祭りも、根っこを辿れば
「私たちは善なる側にある、何故なら規範に則って生きてきたのだから、ゆえに“悪”を懲らしめる権利が我々には有る」という
建前の元にサディスティックな魔女狩りが行われているのである。これはどこにでも頻繁に起きていることである。
彼らにとっては善悪の判断基準とは、「そう教わってきたから…」ということである。彼ら自身が「善と悪」そのものを判定することなど
決してありはしないのだ、何故なら集団内部に帰属し続ける限りその必要が無いのだから…
だがしかし、調教されてお手が出来ることを自慢する犬を大自然そのものが褒めそやすことがあるだろうか?
特に自分の中で
「何が正義であり、何が劣悪であるかを問い正してきた者にとってはそうであろう。野生の中で、自分の【掟】に
生きるものたちにとってはそうである。(もちろんこれは比喩である、余計な突っ込みは要らん)
だから、ニーチェが善人をこき下ろし「悪人であるほうがお前らよりよっぽどマシだ!」と言う時でさえ、額面通りに
「ニーチェは悪を推奨している」と判断するのは間違っているのである。己自身の『立法』を持ちうることが重要なのだ。
「何が善であり、何が悪であるか、それをどうしてお前たちが知ることが出来よう!」
ツァラトゥストラはこう語った。
>>191 >ツァラトゥストラに描かれる『善と悪』の内容は、対『末人』的な視点で描かれ、道徳への批判もそれに則って
抽出されているように思える。
そうだね。
ニーチェはキリスト教的なものを攻撃するための手段として、他の何かに高い評価を与える
ような場合が多いから、気をつけないといけない。
たとえばキリスト教を攻撃するために仏教を高く評価したり、
キリスト教道徳を攻撃するために君主道徳を高く評価したりする。
そういう場合にニーチェが与えた高い評価をそのまま受け取ることはできないね。
仏教は他のところではデカダンス宗教とされている。
君主道徳も、それが既成の道徳の一つの類型であるかぎり、ニーチェはそれをそのまま
肯定しているわけではないだろう。
>>191 ついでに補足しとくと、あの書き方じゃ『反抗』としてアナーキーな行動すらも
「アンチテーゼ」として許容されるんじゃないか、という脇の甘さを言いたかったわけ。
自分自身に善悪の判断たる『掟』を課すっていうのはもっと峻厳たるべきものであって、
批判する対象があればこそ行動出来るような「依存」関係は無いわけ。
何びとたりとも近づき得ないような心奥で、己の正義に従うがゆえに道を歩むような
ヒロイズムが必要なんじゃないか、と。
>>183 君のことだからリストの生演奏を前にしたら卒倒するだろうね。
美男子だったというしw
>>191 >ツァラトゥストラが推奨し続けるところのものは、「おのれの正義・善の規範を持ち、それに則って行動しうる」人間であって、
>その理由ゆえにパリサイ人たらざるをえない自称『善良な市民』の生ぬるい価値規範に猛烈な批判を加えるんじゃあないの?
さらに言えば、『善良な市民』が価値規範と思っているものの中にも、実は力への意志が働いているのだということ。
つまり彼らが「価値そのもの」だと思い込んでいるものも、彼らの力への意志によって「創造」されたものだということ。
そこまで考えていけば、「創造」でないものなどはありえないことになるわけだが。
>>187 悲劇の誕生以降はそれこそ真正なるルサンチマンの思想であり、ルサンチマンの肯定、賛美でさえあると思われるくらいだね。
とはいえ、悲劇の誕生以外はまだちょっとしか読んでないが。
>>195 >彼らの力への意志によって「創造」されたものだということ。
これは前後が間違っているし、観点もすり替わっている。
善悪の規範は統率者が創造するものであって民主主義的な共同作業によって
作られたものではない。起源の問題だ。
「千の目標と一つの目標」を読み直すべきである。
>>197 いや、君が考えているよりも俺はもっと根本的なところを考えているw
例えば『権力への意志』552番のような次元で見た場合の話。
『道徳的に表現すれば、世界は偽である。しかも道徳自身がこの世界の一部であるかぎり、道徳は偽である。
真理への意志とは、固定的なものをでっちあげること、真なる・持続的なものをでっちあげること、あの偽り
の性格を度外視すること、このものを存在するものへと解釈し変えることである。それゆえ「真理」とは、
現存する或るもの、見出され、発見されるべき或るものではなく、──つまりつくりだされるべき或るもの、
過程に代わる、それのみならず、それ自体では終わることのない征服の意志に代わる名称の役目をつとめる
或るもののことである。すなわち、真理を置き入れるのは、無限過程、能動的に規定するはたらきとしてで
あって──それ自体で固定し確定しているかにみえる或るものの意識化としてではない。それは「権力への
意志」の代名詞である。
生は、持続し規則的に回帰するものを信ずるという前提にもとづけられている。生が強力になればなるだけ、
推測しうる、いわば存在するものにでっちあげられた世界は、ますます拡大するにちがいない。生の救助策
としての論理化、合理化、体系化。
人間は、真理へのおのれの衝動を、おのれの「目標」を、存在する世界として、形而上学的世界として、
『物自体』として、既在する世界として、或る意味ではおのれの外部へと投影する。創造者としての人間の
欲求は、彼が手がける世界をすでに仮構しており、それを先取している。この先取(真理によせるこの『信仰』)
が人間の支柱となっている。』
君が例としてあげたマスメディアのバッシングだって、大衆との共同作業として彼らの「善」を 作り上げているわけだろう(もちろん作り上げているということについては無自覚に)。 上の引用で言えば「おのれの衝動を、・・・既在する世界として、或る意味ではおのれの外部へと 投影する」にあたる。 それをニーチェは「創造者としての人間の欲求」と言っているわけだ。
>>198 これは創造する発案者の「把握しうる領域」を拡大する作業の記述であって、彼らの、と
過大解釈しうる根拠にはならんだろ。創造する才能は還元できるようなものではない。
民主主義的な平等主義に則って天才を普遍化しうると思いあがる性質の者ならまだしも。
力への意志がすべての根底にあると仮定してもそこには貴賎があるだろう。
ルサンチマンだって歪な力への意志として想定するならば…
>>200 確固たる固定したものに支えを求める(上の引用では「救助策」)という文脈だよ。
それはニーチェが言うところの全ての「弱者」にあてはまること。
マスメディアと大衆が確固たるものとしての共通の「善」の立場に立つと信じている
としても、その根底には「力への意志」が働いているのだということ。
>>201 力への意志は働いているだろうよ、歪な形で…
だが石を投げるパリサイ人が何かを創造していると?
>>202 だから俺は君よりも根本的なところを考えていると言っているw
ニーチェもそうだと思うから、その例として一つ引用したわけ。
一切は「力への意志」であり、全ては「解釈」であるのだから、
「創造」でないものなどないということ。
で、問題はそれがどのような「力への意志」であり、どのような「解釈」であり、
どのような「創造」であるのか、ということになってくる。
ニーチェは多くの場合、強者による創造なのか、弱者による創造なのか、
という二分法になってしまうのだが…
もう一つ重要なのは、それが「創造」であるかどうかについて自覚的であるかどうか。
自覚的であれば、「捏造」も「創造」と同様な肯定的な意味を持ちうることになる。
>>203 ふ〜ん、
君のいう『創造』の定義が広義で曖昧なことは解かったよ。
まあそれも“解釈”だわな。
>>204 というより、君の解釈が、ちょっと浅いだけだw
一切は力への意志であるという根本のところを見れば、その解釈作用として
一切は創造的な働きである。これが根本。ここを抑えておかないといけない。
その力への意志(つまり創造的働き)が、現実的にはさまざまな発現の仕方をしている。
ニーチェが問題にしているのは、そのさまざまな発現の様態なんだね。
弱者について、創造し得ない者などとニーチェが言う場合の「創造」は
常識的な意味での「創造」の意味に近いのだけれど、弱者にも力への意志
が働いているという文脈では、弱者にも創造的なものが働いているわけで、
そういう場合(その創造作用について無自覚である場合)は、ニーチェは
「創造」のかわりに「捏造」という語をよく使う。
この「捏造」もまた別の文脈ではポジティヴに使われるのだが…
要するにニーチェの用語法はとても多義的だということ。
だからどういう文脈なのかに敏感にならないといけない。
>>205 ねつ造がポジティヴとはこれ如何に?
詭弁とすり替えが弱者の生存に必要だったからとして、それが
いったい何だというのか?
>>206 やはり君の解釈は浅いようだね。
真と偽との本質的対立への信仰から脱却すれば、
「虚構」や「捏造」という語が従来持っていたネガティヴな意味も失われるのだ。
「我々に何らかの関わりのある世界が一つの虚構であってはならない理由があるのか」(道徳の系譜)。
「創造(形成、捏造)、虚構の能力が、諸々の存在者の根本能力である」(遺稿34[247])。
>>207 あのさあ、人間が何かを理解するってことは、対象を「把握」して自分なりの【意義づけ】をすることなのね。
それが解釈っていうことなんだけど、それ無しには事物の意義なんて成立しないわけ。
で、この意義付けってのは自分が対象に向けて与えるものであって、向こうから貰うものじゃないわけじゃん。
貰ったってそれの意義を構築するのは自分なんだから…
意味っていうのは対象に対するあだ名付けであって、その人の本名がなんであれ本当は構わないのよ。
実際それは確かめようが無いんだから。
で、大事なのはそのあだ名がカッコイイか悪いか、出来が良いか悪いかなんだよ。
で、ニーチェは出来が良いほうをあれやこれや考えているんであって、悪いほうは悪いほうで適当にやっててって
手を払ってるわけ。
で、今考えるべきは出来が良いほう(超人)であって、実はニーチェはエイゴウ君の本名も知っちゃったんじゃ
ないか、っていうとこあたりなわけだよ。
>>208 >で、今考えるべきは出来が良いほう(超人)であって、実はニーチェはエイゴウ君の本名も知っちゃったんじゃ
>ないか、っていうとこあたりなわけだよ。
苦しいねw
>>167 で
>【アンチテーゼ】として反超人的な末人や“善良な人間”を踏み台にして検証すべき必要があると思うんだが…
と書いたのは君じゃないかw
ところで「意味っていうのは対象に対するあだ名付けであって」という君の「解釈」理解もまずいねw
ニーチェの解釈論は、まず対象があってそれにラベルを貼るみたいなことではない。
「事実は存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ」とニーチェは言っているのだから。
解釈作用としての力への意志の作用連関として、はじめて世界(つまり主体も対象も)が形成されるわけだろう。
その作用連関に必然的に伴うものとしての「創造(捏造)」作用について今話していたわけだね。
君の話の流れとしては、「末人」の「創造(捏造)」と「超人」の「創造(捏造)」との違いについて
話を進めればいいのではないのかな?
>>209 >>167 で
>>【アンチテーゼ】として反超人的な末人や“善良な人間”を踏み台にして検証すべき必要があると思うんだが…
>と書いたのは君じゃないかw
で、君が書いたのは弱者のルサンチマンも創造だ、ということだろ。
そのねつ造がポジティヴであるという理由がまだなわけだが。
>ところで「意味っていうのは対象に対するあだ名付けであって」という君の「解釈」理解もまずいねw
>ニーチェの解釈論は、まず対象があってそれにラベルを貼るみたいなことではない。
>「事実は存在しないのであり、存在するのは解釈だけなのだ」とニーチェは言っているのだから。
これは変な引用じゃないのか?
「確定的なものなど何もない世界において、我々に在るのは解釈だけなのだ」
という意味ではないのか?
対象に対して意味を付与するという認識の作用への反証になるのか?
>>210 >そのねつ造がポジティヴであるという理由がまだなわけだが。
>>207 に書いたけど…
>対象に対して意味を付与するという認識の作用への反証になるのか?
反証と言うか、ニーチェの考えは、主観があって、対象があって、
その間に認識(解釈)が成り立つというような実在論的認識論ではないだろう。
例えば「『事物』からなる粗雑な世界をたえず措定することは、我々の捨て去り得ない
保存欲求に属している」というように、ニーチェの考えは近代の認識論でいえば、
観念論に近い側面があるんだけど、ニーチェは「主観(主体)」の存在も強く否定してる
(なぜなら「主体への信仰」が「物自体」の起源だとニーチェは見ているから)から、
観念論とも違う。
だから根本的に見れば、主体も対象もなく、解釈作用としての力への意志だけが存在する
ということになる。一切は力への意志であるということは、そういう意味だよ。
では「力への意志」が実在するのではないのか?という疑問が生じるかもしれないが、
それは実在ではなく、ニーチェの解釈だということになる。
では「ニーチェ」なるものが実在するのではないのか…
と解釈学的循環をするわけだねw
212 :
考える名無しさん :2007/07/21(土) 06:43:11 0
213 :
考える名無しさん :2007/07/21(土) 08:14:02 0
世界には、ルサンチマンが存在するように教会も存在する。 それは一見、ペシミズムであるが、世界が寛容である証明ともいえる。 (良いより悪いほうが圧倒的に多いのだ.....だから価値があるとも) ただし教会支配の場合は永遠に停止するが。 それを見てさけて通る者にツアラは説く。 聞く耳あるものは聞け、甘えるなと。笑。
>>210 >対象に対して意味を付与するという認識の作用
ニーチェ的な見方については
>>211 がすでに論じているけど、
認識論を上のごとく断定する前に決定論スレとか覗いてみると面白いよ。
>>194 リストって、「指が6本あるのでは」とうわさされるくらい演奏の技術もすごかったみたいですね。
ラ・カンパネラはロンド形式のもともとあった曲を編曲したものだけど、
リストが手がけた一番最初の編曲によるラ・カンパネラは、リストにしか弾けないほど難しかったらしいです。
なんかリストの容姿って独特。オーラがある。特に斜めからの写真。ゴシックな印象とギリシャの印象、全く相容れないこの二つの印象が同時に漂う。他には絶対いないような顔。
彫刻リスト部屋に置いて眺めていたい...。
対象も主体も無くてあるのは力だけだという解釈的堂々巡り必然的にが起こってしまうような
カオスなニーチェの認識論は横においておいて、
六百六拾六さんの
>対象を「把握」して自分なりの【意義づけ】をすること
>対象に対して意味を付与するという認識の作用
を、
美の享受に関して応用するなら、
旋律、絵、詩、などの対象に対して美しいと思うのは、
自分の生命感情を対象に投影しているからだ、ともいえるような気がします。
何かに美を見出すには、一般的な価値観や解釈法で物事に接するのではなく、自分から湧き上がってくる生の感情を詩的に対象に投影することが、
重要だと思います。
たとえばゲーテの詩。ありふれたものを素朴に扱っているのにあんなに読者の心を打つ詩が出来たのは、ゲーテがありふれたものに対しても日常的に詩的な情感を投影するような感じで接していたからだと思います。
とくにニーチェの文章のような内容は単純でも形式に特徴がある文章なら、意味を見出したり、美的価値を見出したりするのは、
こちらがそれに自分の認識や感情を付与する度合いが大きく関わってくるような気がする。
↑ 解釈的堂々巡り必然的にが →解釈的堂々巡りが必然的に
リストのラ・カンパネラって編曲だったとは知らんかったな。 弾くとはいうが、熱情や月光の第三楽章とかもそうだが、これはそんな意図的な意識ではまともに弾けたものではない。 対象も主体もない、主体がなければ解釈もない、あるのは力動山だけだというような認識論というか、 そういった意識、状態でないと無理なのである。 その意識が芸術の本質なのではないだろうか。 芸術が美しいとしたら、確かにそれは意味付けである。非芸術的な意識、主体による解釈… プロとアマの間には主体という越え難い壁があるに違いない。
218 :
考える名無しさん :2007/07/21(土) 12:38:11 0
【せんてんぽ】ミドリ電化44改装目【もうだめぽ】 ミドソスレなんかに常駐している糞人格なゴミがニーチェ読んでるのかw
>>217 >弾くとはいうが、熱情や月光の第三楽章とかもそうだが、これはそんな意図的な意識ではまともに弾けたものではない。
>対象も主体もない、主体がなければ解釈もない、あるのは力動山だけだというような認識論というか、
>そういった意識、状態でないと無理なのである。
>その意識が芸術の本質なのではないだろうか。
それは柳宗悦が「無心の美」と言ったことだね。
「天下の名器と呼ばれた茶器類の作者たちは、美への狙いなどに心を住まわせる機縁を、何一つ
持ってはおりませんでした。そんなことに少しも心を煩わされてはいないままに、只作っていたので
あります。この事は何処にも心を住まわせていなかったことを意味します。そういう「無住心」から
おのずから現れ出たのが、名茶器の美しさなのであります。…
益子窯に「山水土瓶」と呼ばれる土瓶のあることは、既にご承知の方も多いことと存じますが、
その山水絵が描かれる様を見ておりますと、描き手と描かれる山水とが相対しているのではなく、
描く自らも、描く事も、何を描き、どう描くかをも忘れ去るほどに、手早く淀みなく描き続けて
おります。…それ故に、仕事の中に人があり、人が仕事の中に活き、仕事がおのずから仕事を
導いて行くのであります。」(柳宗悦『美の法門』)
だがこれは芸術にだけ言えることではないね。
禅では剣術についてよくそういうことが言われるが、
スポーツで、無心になれた時にいい記録がでるというのはよくあることだし、
普通の仕事でも何でも、何にでもあてはまることだろう。
対象と一体になることであり、仏教で言う「三昧」ということ。
主体を除くなら、一切がその芸術的な意識、単なる力動山なのだといってもいいだろう。 主体は除かれているのである。 この自我というやつは。 愛するということは、主体の超克に寄与している。これは欲一般にいえる。
>>219 三昧になるのは難しいね。
いわんやあやや三昧になることは。
>>217 及川浩治さん演奏の熱情を最近生で聴いたのですが、まさにそんな感じ。
及川さん、2楽章はいまいち曲の良さが出てなかったけど3楽章は完璧で、鍵盤に対して、
まるで無心忘我の状態で少林寺拳法の必殺技を繰り出すみたいに烈しく身体をぶつけていました。
聴いている自分の頭の中、雑念が全て消え、解釈も感想もなく、音だけになって、幸せでした。
こういう主客無しの陶酔感が芸術の本質で、
>>215 の自分の美についての考え方は、
日常においての芸術のための準備、審美的な感性を磨く段階、詩作の手段、などであって、現在進行形の芸術の本質とは言えないですね。
223 :
考える名無しさん :2007/07/21(土) 15:19:10 0
店ポッポ♪ 新店ポ♪ けっけけっっっけえええっっけええええええええええ ミードリ電化の塵塵新店ポ♪ 塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵 /.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\けっけけっっっけえええっっけええええええええええ ^^ 「どこにできたの?」 ::;;;;;;;;;;;;栄光あれーーーーっっ!!! / うひひひひっひっっひいいいいいいい ミロリってエデオンにのまれたんや 新CM見ました ますます恥ずかしい知らんかったからいやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ! ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩 ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! ウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 ;;;;;;;;;;鬱 死;;;;;;;::..ヽ ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱  ̄ /⌒ヾ/ / .,;;;;;;:/.:;| -―'――ー'''‐'ー'''―‐'―''''\,./ / .::;;;;;;:/‐'| :;|'''ー'-''――'`' おあああああっまっっさっさまままああああああああああああああドピュウウウウウウウッ0,,,,,,, 大人になれば栄光あれーーーーっっ!!! / ミロリってエデオンにのまれたんや 知らんかったからいやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ! ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩 ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! 僕らはみんな生きている 生きているからんはああーーーーっンッ、ウンコ゜.,,.:lllllll!: 青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 il°イナバウアー取lii,, .'゙゙lアホlアボ° ..,,i゙ 囚人全員、そり返りながら 青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 ■■□■■■■■□■■■■■□■■■■■■■■□□■■■■■■■ 何でも出来ると思ってた。けど子供以上に不自由なんだな。 子供の頃の俺が今の俺を見た塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵らなんて思うだろうな。
224 :
考える名無しさん :2007/07/21(土) 15:33:32 0
仮死破羅とチンポとニーチェの絶妙なコラボレーション 仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅 ρ仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅 仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅ρ ピュッピュッ 仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅 仮死破羅仮死破羅仮 _ ._ 仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅 /::. ソ . :;;ヽ ルサンチマンルサンチマンルサンチマンルサンチマン /::. ....:::;;ヽ ルサンチマンルサンチマンルサンチマンルサンチマン /::. ....::;;;;ヽ /::. ..::;.:;;;i (::. ..::;;;丿 >::...___..::::;;;イ ルサンチマンルサンチマンルサンチマンルサンチマンルサンチマン 肝ヘルパー肝ヘルパー !ヾ. ̄⌒__ ̄彡| 肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー iミ:::ミC= ≡..::: )肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー |::: 丶ヽ ..:ヽ ) |::: (' ( ::;;;| 肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー肝ヘルパー ./Y ̄Y ̄Y ̄Y ̄Y\ | ○。 U .| ノノ). 囚人 U 从 ( i从〓〓 〓〓.从 .从.《・ 》 《 ・》从 人人人人人人人人人人人人人 从从. l 从) ∠ ギャ!ギャアアアアアアァァァッ!! (从.l∴ ∨ ∴从人) | グエエエエッ!! (人人|∴ ヽ .ー===-' ./.∴..从人) YYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY (人人|∴∴!  ̄ !∴∴l从人) (人人|∴∴!. !∴∴l从人) (人人|∴∴!. !∴∴l从人) (人人人_人____人_.人人人)
225 :
考える名無しさん :2007/07/21(土) 15:46:37 0
その卑屈な意識が被搾取の本質なのではないだろうか。
>>222 本番でそういう状態になれるというのはすごいね。
多分それでも本人にしてみればどちらかといったら明らかに失敗なんだよ。
それでも観客を陶酔させるのがプロ。
しかし君、なかなか金持ちっぽいな。
100円ショップちゃんといってんのかと。
というわけで、 ニーチェに無関係などうでもいいくだらない話は それぐらいにしておこうか。
関係ないというがそれは君の貧相な解釈に過ぎないんだ。 あやや三昧というのはニーチェと関係してるんだよ。 それがわからんとはおまえはあややもニーチェもわかってないんだ。
では昨日の夜からの続きどうぞ。 君が鬼畜だか基地外にならないことを僕は祈っているよ。 なにしろ相手が悪そうだ。
あややって松浦亜弥のことか? いえ〜いニーチェなホリデ〜ってか
あやや舐めんな。
232 :
213 :2007/07/21(土) 18:57:48 O
自身で自身を肯定し、満足感で恍惚とするデュオニュソス。 そんな彼が愛する者は、自分しかいなかろうと思うと、実は妻がいる。 (すでに自足する彼に なんの不満があるというのか) 名をアリアドネ。 彼女はかつて、ましな人間(英雄?)の妻だったが、棄てたとか、棄てられたとか。 彼は、彼女と結婚したおかげで、自己超克を知る。 互いが愛する事で、さらなるそして永遠に止まらない喜びを。 彼を主体と呼べば、彼女は思惟と呼ばれる。
233 :
考える名無しさん :2007/07/21(土) 19:11:20 0
>>227 関係ないというがそれは君の貧相な解釈に過ぎないんだ。
ミドソ電化囚人共和国の搾取三昧というのはニーチェと関係してるんだよ。
それがわからんとはおまえはアボアキラもニーチェもわかってないんだ。
>>223 ミドリ電化、行きたくなくなったかもしれない、いや、絶対行かない。
>>226 日本人ピアニストなら3000円くらいで聴けるもんですよ。
演奏者かなり興奮していらっしゃった。
休符で吸う息が、2階席にいた自分に聞こえてくるくらい。忘我状態で奥義めいた体の動き。ピアノ壊れそうなくらい。
それで第二楽章のニュアンスが駄目だったんだろうけど。
>>あややなピアニストさんへ
熱情の第二楽章って、心の琴線に沿って流れる水流の心地よさ、みたいな感動がないとだめ。
このイメージで弾いてw
>>228 たしかにニーチェは、音楽に対して狂信的で、文章でもあやや(根源的感情)を生々しく吐露したりしますもんね。
自分に影響を与えた三大著作の一つ、ドストさんの「地下室」を、
絶賛して、音楽が聞こえてくる!みたいに評していたような。
自分があれ読んだ時は、音楽というような幸せな感覚でなく、自意識の煉獄を感じましたが。
ニーチェって、ああいう苦しそうなのにさえも、音楽的な何かをかんじるんのかぁ、て思いました。
赤と黒 意志と表象としての世界 地下室の手記
>>234 あややなピアニストか。
相応しくない呼び方だ。
まだ音大生より下手だよ。
ちなみに俺はイメージに合わせて弾くことはできない。
いや、できるけどそんなことをすれば音楽が駄目になる。
そういえばニーチェはオペラを批判していたが。
ちなみに熱情の第二楽章と第三楽章はその境界はないようなものだし、似たように息づかい調べになると思うがね。
敢えていえば二楽章は水流よりもむしろマグマかな。
イメージや言葉で音楽を解釈したり演奏するのは邪道だろう。
「あやや」という造語をしなければ語りえないほどのものだから、イメージとか言葉は邪道になるのだ。 尾崎LOVEさんにいうのも酷な話だが、 仕方ない、ニーチェスレなんだから。
238 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 00:21:58 0
http://that4.2ch.net/test/read.cgi/kaden/1132223714/ 847 :目のつけ所が名無しさん :2005/12/19(月) 23:18:18
↑ここの掲示板での書き込みは真実です。
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239 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 00:26:55 0
ニーチェの思想に近い音楽なら、ベートーヴェンよりバッハでしょう。 「諸力の波の戯れ」としての世界にふさわしいのは、モノフォニーより、ポリフォニー。 バッハの音楽は即興性が高い点でもニーチェの思想にふさわしい。
>>238 ニーチェの晩年となんらかの因縁がありそうな会社ですな
>>238 芸術ディレッタントにとっては、刑務所的労働、経営者の搾取沙汰による鬱病などの話を聴くと、重労働している人に比べて、
演技で入手した鬱病処方箋によって手に入れた向精神薬に依存しながら荒し的に2chしてる自分の存在に、疚しさを感じます....
>>237 >>228 ストレートな音楽愛、伝わってきます
楽器演奏に関しては人前での経験数回しかないような素人で鑑賞中心なので、
個人的には詩的なイメージで色付けするのに慣れてしまっています。
ラテン人が突然躍り出てくるイメージとか...クラシックギター弾きながら想像してみたり。
ちなみに、聴いてて水流のイメージがしたのは、アシュケナージ演奏のCDの音源です。
そういえば、ニーチェって、既成の「言葉では言い表しにくいもの」をよく天才的直観によって捕らえ、
ディオニュソス的ーアポロ的だとか、自由に造語したり概念を量産したりしますね。
比喩が多いのも、未知のもをたくさん捉え、それを既知の言葉に還元するとき比喩にならざるをえない、というのもあると思います。
ニーチェのような熱をもった高速の思考では、たぶん類似性をみつけて物事や観念を同時並列しながら未知の認識へ飛躍していくのが、直列的に並べて因果を見つけ演繹する思惟よりも、大幅に先走ってしまうのだと思います。
ここで音楽の根源性についての話の時、ついスレ違いにも熱情を持ち出してしまったのですが、
そのことがきっかけで、実際にピアノ弾く人の考えを少し2chできけるなんて、知り合い少ないもんで、なんだか嬉しかったです。
そろそろ,私的な書き込みにここ見てる人がいい加減うんざりしているだろうから....
>>238 できません、という前に病んでみますのミドリです・・・orz
247 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 02:44:56 0
30 :名無しさん@引く手あまた :02/10/14 19:34 ID:oQX57Zfu ミドソ電化のブラッキー&ドモュソぶりは転職版の伝説だが、その勢いは 衰えを知らず、狂おしい暴走は果て無き加速を重ね、不毛の荒野に 聳え立つ屍の山は、その標高を天上にまで到達させんと無謀な増殖を やめようとしない。邪悪の頂上で圧政を振るう暗愚の独裁者にとって、 社員の流す血の涙は美女の酌する金色の銘酒、社員のあげる悲鳴は ミューズの奏でる麗しき音曲、社員の生命は路傍の石に過ぎない。 社員は換算時給500円での1日14時間労働。 実現不可能、天井知らずの空虚な目標をつきつけられ、達成が危うければ 給料ドロボーと罵られ休日も無償奉仕を強いられる。 仕事内容は1日中作業と接客の無理な両立に、ドキュソな客の相手、 非常識なTELフォローによる強引な需要の捏造、残業手当のない閉店後訪問販売。 中途入社の新人が乱造するクレームの処理。しかもその内容は己の無知を 棚に上げた客の見当違いな言い掛かりなのだが、責任はすべて販売員が負うことになる。 そして会社のイヌである店長は現場の実情に目を背け、本部の指示をごり押しで 実行させようとする。本部の認識と現場の状況のギャップの調整をするのが 幹部の仕事のはずなのに、責任を全て現場に押し付けて小言をかます人間の屑。 給料も異様に安く、目標に到達しなければ更に安くなる。 その僅かな稼ぎさえ社内特別販売という名の現物支給に変えられる ことが多く、欲しくも無い事故品や不良品や出戻り品を買わされる。 休日は突如変更になったり、携帯で店に呼び出されたり。年末年始も当然出勤。 家族や学生時代の友人とは疎遠になるし妻子持ちは家庭不和になりがち。実際バツイチ多い。 それでいてスキルというものは身に付かず長時間労働だけが取柄の 作業マスィーンと化してしまう。社会的地位も当然低い。
248 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 02:49:19 0
それでもミドリ社員は訪れることのない安息の日を夢見つつ、癒えることのない 傷にうめきながら、自分自身の吐き出した乾くことのない血の大河を渡り、 報われることのない戦いを続ける。今日も、明日も、明後日も・・・ 永遠に醒めることのない眠りが彼に安らぎを与える日まで。
249 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 03:38:02 0
店にウンコしに行ったけど、あんなとこで就職して自分の身売る奴って よっぽどアホだよな。 ミドムって、行動範囲の狭い学生とか情報感度の低い底偏差値層を相手に、 搾取してるのに。 こういう層は低能だけどぼったくり搾取で会社が儲かってる。 国公立大周辺なんて騙せそうな学生や人脈もおらんからな。
イチキュッパの笑顔広告の裏には 中国ベトナムの工場員の汗とミドリ社員の涙があって、 抑圧されたミドリ社員の苦痛の叫びが2chでは大いに喚かれ、挙句にニーチェスレにまで響いてくる。
アルゲリッチは情熱的なお姉様。
>>242 サンクス!ド素人の感想だけど、同じラフマニノフでもヘルフゴッドに比べて繊細というか、
メロディーで叙情をそそる感じがした。前者が「胸が潰れるような」感じと
すれば、こちらは「思いが膨らんでいく」というか。
アルゲリッチは、叙情の中に少し物憂気な陰影を仄かめかせるときがある。 女性ピアニストといえば。 マリア・ジョアン・ピリスのモーツァルトが繊細な名演、ピアノ8番は綺麗な名曲。 ラ・カンパネラ、藤子ヘミングのライヴ録音でかなりいいのを聴いたことがある。
255 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 13:22:32 O
で、 そろ そろ スレタイ読みませう。
256 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 13:56:29 0
買った 買った また 買った ミドリ電化で また 買った 買ってみたら (人間の尊厳が) 安かった
ミドリ電化で囚人になればニーチェのように発狂できますか?
258 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 15:39:56 0
代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ 代わりは幾らでもおるんじゃああああああああああああああああああああああああ
ニーチェスレってさ、 いつもさ、 こうなる運命にあるのね
>>211 君のほうが色んな要素をごっちゃにして整合性がつかなくなっているように思えるのだが説明して欲しい。
君は認識において『力への意志』を持ち出すが、そもそも力への意志自体が節理的な第一法則めいたもの
なのであって、引用の項目しだいで幾らでも多義的になりうることを看過している。
遺稿集などを読んでも、それが機械論的宇宙観を指すものか、自然界の在り方をいうものか、弱肉強食めいた
争いのことか、人間の心理面においてのことか、とその引用の仕方は様々なのだ。
つまり認識において力への意志を持ち出すのならば、それが主体としてなのか、機能としてなのか、魂的な
ものとしてなのか、あるいは別の使用法においてなのかを明確にすべき必要があるだろう。
この多義性を個別の事象のうちにあてはめる場合、それをどう解釈するのか、ということが重要なのだ。
トランプのジョーカーのように意味と解釈が広範囲になりうるものをそこに持ち出すならば、議論の
観点が曖昧なものとなってしまう。
ニーチェが力への意志を持ち出す場合、その結論は多段的な思索の経緯を経て導き出された結論の『総体』
として出てくるのだろうから、ただその単語を何の検証も成さずに借り受けるのは片手落ちであろう。
つまりこの言葉が使われる時には、それがどういう意図で使用されているのかということを検証する必要が
あるのだ。
>>260 >ニーチェの考えは近代の認識論でいえば、観念論に近い側面があるんだけど、ニーチェは「主観(主体)」の
>存在も強く否定してる
背面世界論者
まことに、あらゆる存在は証明し難く、語らせ難い。だが、兄弟たちよ、あらゆる事物のうちで
最も奇妙なものが、最もよくその存在を明示しているではないか。
然り。この我、そしてこの我の矛盾と混乱とは、その奇妙さにも関わらず、最も率直に自らの
存在を語っている。一切の事物の尺度であり価値でであるところの、創造し、意欲し、評価を
行なうこの我は。
君はこれをどう解釈する?
それにもう一つ。
君は弱者の捏造も一つの創造であると言うが、それは味噌も糞もゴッチャにして同列に扱っているのと
同じことなのではないのか?
臆病や卑劣さから出た“弱者の自己肯定”や価値の捏造と看做されるものこそをニーチェは非難したであろうに、
それも創造行為だと持て囃す心理がニーチェの論旨に則ったものだとはとても思えない。
お前ら荒らすな。余所でやれ。
>>261 ニーチェは真理を虚構することであれ捏造であれ何でもとにかく力つまり創造行為の一元に還元してる。
↑の段階では、認識論的な問題であって、価値はどうか良いか悪いかのどうこうは干渉しない。
力の一元に還元して説明した後に、
その力が強いかどうか、価値があるかどうかを問題にしている。のではないでしょうか。
264 :
213 :2007/07/22(日) 17:47:35 O
>>261 > 君は弱者の捏造も一つの創造であると言うが、それは味噌も糞もゴッチャにして同列に扱っているのと
同じことなのではないのか?
教会のあの捏造は驚嘆する。
事実多数の信者を魅了する力があるは認める。
しかし系譜学からみればニーチェの趣味には合わない。
ここが糞味噌いっしょではない。
正しい事と悪い事は解釈ならば、前者に必然的に力があるわけでもない。そういう世界の自由さが面白い。
265 :
考える名無しさん :2007/07/22(日) 17:57:15 0
> 君は弱者の捏造も一つの創造であると言うが、それは味噌も糞もゴッチャにして同列に扱っているのと 同じことなのではないのか? ミドリ電化への就職は自ら弱者の捏造への加担を企てている一種の創造的行為なのだろうか?
>>264 そう、趣味の問題だ。ニーチェは巨大な大多数の『好敵』としてそれを選び、ひとりで立ち向かった。
>>265 それを事例として面白く論にしてみろ暇つぶしの荒らしなら黙ってろ。
>弛緩した精神は実は"世界”への認識を鈍らせる >【油膜】に覆われているのだ。ではこの絶縁体とは何か? 何が意識を鈍らせ世界を退屈に変えるのか? >それは日常的感覚の中で幅を利かす固定観念的な意識である。全てが自明であってその自明的で >あることの繰り返しの中で、全ては"当たり前のこと”として消化されてしまうからである。 >ここに精神の弛緩が起きる。 時給換算600円、ボーナス数マゾ円、退職金制度無し、10年勤続は毎年数人、毎月転勤とゴラァクレーマーに怯える毎日。 その様な日常的反復に自ら身を投じようとするミドリ社員の行為は成熟が為し得る創造的行為なのか? それとも憶病と卑劣が為し得る自己喪失行為なのだろうか?しかし、ミドリのカンバンが一般大衆を魅了する力があるのは認める。
268 :
213 :2007/07/22(日) 18:40:50 O
>>267 おいおいそこで俺の書き込み持ち出すのかよw
>>267 世の中って大変。人間はいつの世も救われざる苦を背負っている。生きることの苦しさ。
教会があるのもうなずける。
自分では何もできない苦境に追い込まれたとき、大きな存在に救いを求める、
偉大なものを信じていたい、それも人間の一属性。
イエス・キリストのような人、あるいはニーチェのような人が実在し、悩み苦しみ考え、自らの愛や信念を後世な人々に遺した。
それは人間にとって、大きな救い。
簡単に癒やされたがるのも見当違いだがな。 傷を抱えて足掻き続けるほうがマシ。
>>270 神が救いであるというのも大きな誤謬だ。
ツァラトゥストラ第四部に出てくる「最も醜き人間」は、神を信仰するが故にその存在を拒絶せざるをえなかった。
神通力めいて「すべてがお見通し」であるならば、神の実在を信仰すればするほどその鬱陶しさが問題になるだろう
自分の弱さ、卑しさ、みみっちさ、人間にある卑屈な感情そのすべてをのぞき見られ、それを防ぐ手立ても無く、しかも
それに厚かましくも同情されるとしたならば、そんな神はこの手でくびり殺さなければ人間は尊厳を保ちえないだろう。
お気楽に恋歌で神様にお願いする流行歌が持て囃されるが、その願いに含まれる自分勝手な欲念と偶然を棚ぼたで
掠め取ろうとする手抜きぶりまで神様に覗きこまれるとしたならば、誰も神様に願いを込めようとはしなくなるだろう。
神への敬虔ぶりを気安く口にする人間ほど、神の実在を本気で信じてはいないのだ。
「神が我々をお守りくださいます」
もしも私が創造主ならば、退屈まぎれに人の悲劇すら所望することだろう。どうして“人間”だけを気にかけることがあろうか?
古より神とは自然そのものであった。あらゆる災害が神の計らいとして直結していたからだ。自然が人間に与える残酷さこそが
『神』であり、それゆえにその恩恵として五穀豊穣を祝ったのだ。
人間をやさしく見守る神こそが、あまりにも人間的な一つの誤謬なのだ。
>自分の弱さ、卑しさ、みみっちさ、人間にある卑屈な感情そのすべてをのぞき見られ、それを防ぐ手立ても無い 哀れな囚人を利用する「神」→アボアキラ >神への敬虔ぶりを気安く口にする人間ほど、神の実在を本気で信じてはいないのだ。 「できませーんといえまえにー!やってみまーーーーーす!!!」 >自分では何もできない苦境に追い込まれたとき、大きな存在に救いを求める、 自分では何も出来ないスキルの無いニートが大企業のカンバンという大きな存在に救いを求める。 寄らば大樹→ミドリのカンバン
>>273 いいからとっとと就職するか転職しろ。
お前が考えているより世の中はいい加減なんだから、お前を受け入れてくれる給料の支払先も
みつかるさ。語るべき内容が無いなら余所へ行け。
>>260 >遺稿集などを読んでも、それが機械論的宇宙観を指すものか、自然界の在り方をいうものか、弱肉強食めいた
>争いのことか、人間の心理面においてのことか、とその引用の仕方は様々なのだ。
力への意志は「より強くなろうとする意志」であって、それが自然界のあり方でもあり、
人間の心理にも働いているわけで、そこには何ら矛盾はないと思うが…
>つまり認識において力への意志を持ち出すのならば、それが主体としてなのか、機能としてなのか、魂的な
>ものとしてなのか、あるいは別の使用法においてなのかを明確にすべき必要があるだろう。
『主体』については、この前書いたようにニーチェは「主体への信仰」を批判的に見ている。
『魂的なもの』については、力への意志は「精神と物質」とが分かれる以前の根源的なもの
だと思うから、『魂的』の意味がよくわからない。
>>261 >君はこれをどう解釈する?
近代的自我というのは周知のとおり、デカルト〜カントの『われ思う』のこと。
「最も奇妙なものが、最もよくその存在を明示している」というのはその『われ思う』
という近代的自我に対する批判だろう。
「最も奇妙」であるのは、デカルト〜カントが、『われ思う』という思惟的自我の
背後にある身体的自己に気づいていないから。そして『われ思う』だけを取り出して
それを実体化してしまったから。
「創造し、意欲し、評価を行なう」のは、本当は、デカルト〜カントのような思惟的自我では
なく身体的自己である。そして思惟的自我は身体的自己の道具である。これがニーチェの考え。
>君は弱者の捏造も一つの創造であると言うが、それは味噌も糞もゴッチャにして同列に扱っているのと
>同じことなのではないのか?
そうじゃない。
>>209 で俺は【「末人」の「創造(捏造)」と「超人」の「創造(捏造)」との
違いについて 話を進めればいいのではないのかな? 】と書いただろう。
君は『創造』はポジティヴで『捏造』はネガティヴだと単純に決め付けているようだが、
そうではないということを俺は言っている。
>>276 じゃあ単純に君の単語の使い方が間違っているだけなのか?
ついでに肉体の軽蔑者を解釈するなら?
>>277 もうちょっとまとまりのある文章を書いてくれ。
それだけじゃあ、答えようがない…
>>278 つまりさ、捏造という単語と創造という単語が『造りだす』という行為においては同列に扱いうる
ものだとしても、そのニュアンスは甚だ違うものだという一般的な認識を無視して一緒くたに
してることが気に障るわけよ。
意志の疎通に文章を扱うならばそこは譲れない一線であり、それを覆すならば詳細な論を
講じて相互に理解しあえるような『前提』を作らなければならない。詩の世界であるならば
まだしも、議論の場においては単語から意味を汲み取る作業は重要なウェイトを占めるものだから
そこを適当に済ますわけにはいかないだろう。
『肉体の軽蔑者』とはツァラトゥストラ第一部の項目だ。そこに君の認識もある。
>>279 俺は「創造」と「捏造」が常に同義であると言っているのではなく、
同義になり得る場合があるということを言っているのだが、それが分かりませんか…
(過去ログから)
【「捏造」も「創造」と同様な肯定的な意味を持ちうる】(
>>203 )
【そういう場合(その創造作用について無自覚である場合)は、ニーチェは
「創造」のかわりに「捏造」という語をよく使う。 この「捏造」もまた別の
文脈ではポジティヴに使われるのだが…】(
>>205 )
【真と偽との本質的対立への信仰から脱却すれば、 「虚構」や「捏造」という
語が従来持っていたネガティヴな意味も失われる】(
>>207 )
そして「創造」と「捏造」が同義に扱われている例として次のニーチェの文を挙げたわけだ。
「創造(形成、捏造)、虚構の能力が、諸々の存在者の根本能力である」(遺稿34[247])。
反論があるならもうちょっと具体的に反論してくれ。
>『肉体の軽蔑者』とはツァラトゥストラ第一部の項目だ。そこに君の認識もある。
意味不明。
>>280 >同義になり得る場合があるということを言っているのだが、それが分かりませんか…
同じ俎上に上りえないからこそのツァラトゥストラの文脈だと思うんだが・・・
「創造」と「捏造」が同義に扱われている例としてミドリ電化の囚人達を挙げているのだ。
「創造」と「捏造」の融合 ミドソ上場キャンペーン→一部上場企業の子会社になっただけ 規模を追わず内容で日本一→10年で倍の店舗網、教育が追いつかず CMは流さない(社長方針)→流しまくり「ちゅーとはんぱやなぁ」「あかいはミドリ」「ミドリちゃん」 従業員持ち株購入制度で退職時は億単位の資産形成も可能→潰れればただの紙くず、退職金制度無し、そもそも定年までいった人間が殆どいない。
>>281 >同じ俎上に上りえないからこそのツァラトゥストラの文脈だと思うんだが・・・
ツァラトゥストラでも同じだろう。
さっき君が引用した文の直前にも、ポジティヴとは言い切れない「創造」の用法があった。
【一躍でもって、死の一躍でもって、最後のものに達しようとする疲労、もはや意欲しよう
とすらしない、或る無気力な無知な疲労、これがすべての神々と背後世界を創造したのだ。】
もはや意欲しようとすらしない無気力な疲労が、背後世界を「創造」する。
つまり、「無への意志」も「力への意志」の一種なのだという根源的なところを
考えて書く場合にニーチェはこういう書き方をするんだ。
>>285 あっそう、としか言いようが無いよ。
それは俺の関心事ではない。
287 :
金曜日 :2007/07/23(月) 00:29:03 0
機械論的宇宙観というのがくせものだね。 ニーチェが現代に生きていて アインシュタイン以降の現代の宇宙論を知りえていたなら 自分の啓示的な体験の解釈をまさに現代的に解釈して うまく説明できただろう。 サイコロなんかの例で説明するから ドウルーズなんかにつっこまれて誤解されるようになったんだな。 そこのところを どうして世のニーチェ学者たちはくみ取らないか 不思議であり はんぶんなんとなくわかる気もします。 永劫回帰の恐ろしさや馬鹿らしさの両面でね。 でも私は永劫回帰の思想はいずれさまざまな解釈を含みながら 時には宗教のような形をとりながら いつか世界に伝搬していくと思うね。 ニーチェの思想としての枠組みをこえてね。 行く手は遠くはるか先だろうけど。
288 :
考える名無しさん :2007/07/23(月) 00:32:34 O
アルゲリッチかなり美女だな。 早速惚れた。
>>287 具体的にその恐ろしさや馬鹿らしさを書いてくれ。
本の書評はその後どうしたの?
期待してたんだけど・・・
ミドソ囚人の囚人根性の源は世代間に渡る奴隷制度の永劫回帰なのでつ。
つ フロム『自由からの逃走』
>>286 >あっそう、としか言いようが無いよ。
>それは俺の関心事ではない。
おいおいw
もともとこれは、
>>195 で俺が【彼らの力への意志によって「創造」されたものだということ。】
と書いたのを、君が【間違い】だとしたことから始まったこと。
逃げるのはいいけど、自分の間違いは間違いとして認めることは必要だろう。
そうでないと議論なんて成り立たないぞ。
293 :
金曜日 :2007/07/23(月) 00:41:22 0
いやもう寝る 今度の金曜日だ
>>288 今はたぶん50〜60くらいだったけど、
若いときのは気の強い女って感じで素敵な人。
自分が審査員の一人を務めるショパンコンクールで、
自分がお気に入りのピアニストが選考の対象にならなかったことにキレて、
帰っちゃった、みたいな話があったかな。
そうさ、囚われ人の人生は再び囚われの未知を選ぶのさ。
>>288 美女、に関して言えば、
今大活躍中の森麻季さんていう若いソプラノ歌手、声はマリア・カラスにはまだまだ勝てないけど、
華々しく美貌です、歌姫です。
>>292 なんかつまんなくなってきてさ〜
君が引用するのもニーチェがツァラトゥストラで拒絶するものばっかだから、
方向性としておかしくなってるような気がするんだよね。
弱者の自己肯定を容認するなら超人の理想も必要ないわけで、
そうするとじゃあ別個に棲息すればいいじゃん、て話で終わるだろ。
>>297 >弱者の自己肯定を容認するなら超人の理想も必要ないわけで
そういうことにはならない。
前にも書いたけど、ニーチェは力への意志がさまざまな形で発現する様態、
つまり発現の仕方を問題にしている。
弱者のうちにも力への意志が働いている。その点に着目すれば彼らの意志も
創造的な意志の一種であることになる。
だがニーチェのいう「創造」は常にポジティヴであるとは限らない。
【弱者の自己肯定を容認する】と言っても、その「容認」は、ニーチェにとっての
ポジティヴな「肯定」とは意味が違うことは明らかだろう。
「そもそも禁欲主義的な生というのは、一つの自己矛盾である。そこには比類のない
ルサンチマンが支配しているが、これは生のある部分をではなく生そのものを、生の
最深かつ最強の、もっとも基底的な諸条件を制圧しようとする飽くなき本能と権力意志
とルサンチマンである。・・・これらのことはすべて、極度に逆説的である。ここに
見られるのは、おのれ自身を分裂せしめようと欲する一つの分裂性であるが、この分裂性
はその苦悩の中で自分自身を享楽するばかりでなく、それ自身の前提である生理的生活力
の減退するに応じて、いよいよ自信を増し、勝ち誇りさえするようになる」(『道徳の系譜』三、11)。
弱者のうちに働く創造的な力への意志は、このような分裂的な発現の仕方をする。
ニーチェは弱者がこのような形で自己保存することを一応容認すると同時に、
彼らにおける力への意志の発現の仕方を批判してもいるわけだよ。
>>296 ハズレだな森さんは。
美女かどうかというのも結構好みの問題だろうしな。
>>298 >彼らにおける力への意志の発現の仕方を批判してもいるわけだよ。
だからそれ(弱者)以外の方向性を模索して、関心がそこに移行しているわけだから、
今さら弱者の自己肯定を褒めそやしてそれに必要性を見出す必要があるのか、ってこと。
君が「創造」として捏造に新たな価値を付与しようとするのはそこに係るものだ。
力への意志というものを単純に「生命力」とか生きる力みたいな感じに変換すれば、
そりゃ強弱様々な生きとし生けるものが生命力の発現において創意工夫を凝らし
自分の人生を邁進している、というのは認めるのに吝かではないが、たとえば
「すっぱいブドウ(by:永井均)」を創造行為として認めるのには抵抗があるのであり、
それはツァラトゥストラの主張に反するものだろう。
そもそも禁欲主義者が弱者のカテゴリーに入るのか微妙じゃあないのか? 禁欲を続けられる意志の強さが単に生命力の委縮でない限り、その意志の強さは 敬意を払われるべきものなのだから。
>>300 >だからそれ(弱者)以外の方向性を模索して、関心がそこに移行しているわけだから
意味不明。
弱者のうちにも力への意志が働いていることに着目して書かれた『道徳の系譜』は
『ツァラトゥストラ』より後の著作。
>弱者の自己肯定を褒めそやしてそれに必要性を見出す必要があるのか
「褒めそやす」とか「必要性を見出す」という話では全然ないんだよ。
弱者のうちにも力への意志が働いているというのがニーチェの世界解釈だということ。
「この世界は力への意志である。そしてそれ以外の何ものでもない。しかもまた君たち
自身がこの力への意志であり、そしてそれ以外の何ものでもないのである!」(『権力への意志』1067)。
ここでニーチェが「君たち自身がこの力への意志であり」と言っているのも、特にポジティヴな
意味で言っているのではないということは「創造」と同じこと。
つまりそれがニーチェにとってのあるがままの世界だということ。
そうでないとすれば、どういう解釈があり得るの?
>>302 だからさ、そういう件で『力への意志』を持ち出すのは、「皆それぞれ生きようとしている」ぐらい
普遍的な意味で使われているわけだよ。
問題はその“力”の方向性に貴賎があるのであり、その『貴賎』こそがまさに問題となるわけだよ。
>>303 なら、俺が
>>203 で書いた内容に同意ということでいいのかな?
>一切は「力への意志」であり、全ては「解釈」であるのだから、
>「創造」でないものなどないということ。
>で、問題はそれがどのような「力への意志」であり、どのような「解釈」であり、
>どのような「創造」であるのか、ということになってくる。
では、君の反論は撤回ということで?
>>304 >力への意志というものを単純に「生命力」とか生きる力みたいな感じに変換すれば、
そりゃ強弱様々な生きとし生けるものが生命力の発現において創意工夫を凝らし
自分の人生を邁進している、というのは認めるのに吝かではないが、たとえば
「すっぱいブドウ(by:永井均)」を創造行為として認めるのには抵抗があるのであり、
それはツァラトゥストラの主張に反するものだろう。
>その『貴賎』こそがまさに問題となるわけだよ
NO。
なんかラ・カンパネラを中学生だか高校生が弾いてるわな。プロいね。 てか下手なプロよりはうまいわな。 下手なプロといっても技術は非常に高いわけだが、自意識が強くて、自惚れてる。 逆説的だがそれで演奏が浅はかで機械的になってしまうのだ。 自我が強い方が個性的で味のある演奏ができるように思われそうだが、 事態は逆なのである。
恐らく天才は最も没個性的でありながら、 最も個性的に見える人々なのに違いないのだ。
>>305 どうも君は「創造」という語にポジティヴな意味を読み取る先入観から抜け出せないようだねw
君が引用した『背後世界論者』の中の次の文の「創造」は、『精神の三つの変化』
における「子供」の「創造」と同じポジティヴさは全くもってはいないだろう。
その辺のニュアンスを考えてみてくれ。
【一躍でもって、死の一躍でもって、最後のものに達しようとする疲労、もはや意欲しよう
とすらしない、或る無気力な無知な疲労、これがすべての神々と背後世界を創造したのだ。】
>>308 君は是が非にでも強者と弱者を同列にしたいらしいな。
君の引用した背後世界論者の文は疲弊した弱者の件であり、
君が今までに強者の立場の価値規範を意図的に扱おうとしないのに
違和感を覚える。背後世界論者の創造を三様の変化と同列に扱おうと
すること自体が馬鹿げている。ロジックな遊びじゃないんだ。
何故に君は強者の誇り高さ、自分を偽らない気概、恐怖に打ち勝とうとする勇気、
生に切り込む躍動感を扱おうとはしないのか?
弱者の僻んだ価値転換(ルサンチマン)が創造だとは絶対に認められない。
>>309 >何故に君は強者の誇り高さ、自分を偽らない気概、恐怖に打ち勝とうとする勇気、
>生に切り込む躍動感を扱おうとはしないのか?
繰り返しになるけれども・・・
もともとこれは、
>>195 で俺が【彼らの力への意志によって「創造」されたものだということ。】
と書いたのを、君が【間違い】だとしたことから始まったことなんだよ。
で、君は反論にもなっていないような反論を繰り返しているから、
論点がそこから動かないんじゃないか。
>弱者の僻んだ価値転換(ルサンチマン)が創造だとは絶対に認められない。
だったら、逃げずに、次の文の「創造」をきちんと解釈しなさいよ。
【一躍でもって、死の一躍でもって、最後のものに達しようとする疲労、もはや意欲しよう
とすらしない、或る無気力な無知な疲労、これがすべての神々と背後世界を創造したのだ。】
>>310 これは『捏造』だっつーの。
君が捏造を創造だというからおかしくなっているんだよ。
捏造も創造だというのは詭弁だろ。
ちなみにツァラトゥストラが弱者の捏造を『良し』として推奨している箇所があるのか?
遺稿集からでも、君の引用より多くの文が弱者の価値転換を否定しているだろ。
>>311 >>308 で俺は【どうも君は「創造」という語にポジティヴな意味を読み取る先入観から
抜け出せないようだね】と書いた。その意味が分かりますか?
その後で君が書いた
>>309 の【弱者の僻んだ価値転換(ルサンチマン)が創造だとは絶対に
認められない。】の「創造」にも、君は無意識のうちにポジティヴな意味を与えている。
>>311 では「背後世界を創造した」の「創造」について、【これは『捏造』だっつーの。】
と書いている。つまり「創造」=ポジティヴ、「捏造」=ネガティヴという前提から君は
一歩も抜け出せていない。
ニーチェが「創造」と書いているのに、君が勝手に「捏造」と読み替えているわけだ。
じゃあなんでニーチェは「捏造」と書かずに「創造」と書いたのか、ということになるだろう。
なぜですか?
http://geopoli.exblog.jp/ (地政学を英国で学ぶ)
「パワー」を「コントロール」する:その1〜3
地政学関連の古い文献を集めているのですが、最近読んだ中で面白いと思ったものに『地理とマルクス主義』という
本がありました。実はマッキンダーなどは歴史観がマルクスの唯物史観理論とけっこう似通ったところがあり、この
点については小著でも以前指摘したとおりです。
具体的にどういうことかというと、マルクスが「人類の歴史は階級闘争の歴史である」というようなことを言って
いたのに対し、マッキンダーは「人類の歴史は、ランドパワーとシーパワーの闘争の歴史である」ということですね。
地政学というのは基本的にリアリズムに属する国際関係の見方をしますので、当然のように「パワー」や「闘争」と
いう面を強調します。
実はこれ、マルクス主義でもまるっきり同じで、彼らの理論や論理の作り方などを見ても、「パワー」や「闘争」と
いう面を見る部分はけっこう似ているわけです。その良い例が、マルクス主義(というか従属理論)の影響を強く
受けているウォーラスタインの「世界システム」というアイディアですが、この人の(ニセ)地政学も、完全に
パワーという観点から分析したものでした。
そういう意味では、あまり指摘されることがないのですが、地政学やリアリズム、そしてそれに立脚した戦略学
という学問は、実はマルクス主義の理論と非常に近いのです。
ところがマルクス主義の理論と地政学等をハッキリと区別するものがあります。
私はこれがそこにこめられたルサンチマン(英語だとリゼントメントですな)が存在するかどうか、という部分
が重要ではないかと考えております。
地政学・リアリズム・戦略学というのはマルクス主義の思想とけっこう近いものがあると指摘しましたが、 ここで共通するのは「パワー」に注目する、という部分です。しかしながら、純粋なマルクス主義と地政学 その他をわけるものがあります。それがルサンチマンではないか、という話を前回しました。 なぜなのかというと、答えは簡単。 地政学などは、あくまでも「自分が使う学問」なのであり、「恨みをバネにして民衆の怒りを代弁する」 ようなマルクス主義思想とは相容れないからです。これはジョン・ルギーか誰か(忘れた)が言っていた、 「セオリーとは誰かが何かの目的のために使うものである」という名言にすべて言い表されております。 マルクス主義ですが、マルクス自身の生涯や性格などを見てもわかる通り、とにかく「権威・権力に たてつけろ!」という思想で満ち溢れております。 彼の主著である『資本論』などを読んだ方はわかると思われますが、冷静な経済の分析や数学的な 計算のあとに、「だから資本家や上流階級たちをつぶさねばならない」という余計なコメントが わんさかつけられております(笑 つまり、彼の場合はあくまでも「左」の観点から、支配構造というものを説明するために「パワー」 という概念を使っているのですね。 ところが戦略学、リアリズム、地政学というのは、国家が国益争いを行う際に、パワーがどのように 使われるのか、そしてそれをどのように活用して(!)いけばよいのか、という立場から論じられ ております。 しかもここで重要なのは、地政学などでは「パワー」という要素に注目しながらも、それが支配構造 の批判に向けられるというよりも、それを自分の有利な方に持っていこうということを提案している点です。 よって、極端にいえば、「資本家や上流階級をつぶせ!」ということよりも、むしろ逆に「(自分から 資本家や上流階級になれたらなって、)パワーをコントロールせよ!」ということを説いているわけですね(笑 そういう意味では思想的には「完全に右」なわけです。
さて、昨日はマルクスが左で戦略学が右だという話をしましたが、そもそもこの「右」とか「左」と いうのがどういうところに原因があるのかという疑問が生まれてきます。 私はこれをルサンチマンにあると提案しましたが、簡単にいえば「弱者のヒガミがあるのかないのか」と いうことになるでしょうか。 まず戦略学の理論書などを読むとわかりますが、表向きは「戦争というものはどういうものか」という 本質論から解いたものがけっこう多いです。 代表的なのがクラウゼヴィッツの『戦争論』ですね。 ここでひとつ初歩的なことを書いておきますが、巷に出ている本で「戦争論」をハウツー本のように 解説して売っているものがあります。あれはブーですね。 たしかにこの本は「どうやったら勝てるか」という法則が書いてあるかのような錯覚を起こして しまいがちですが、実際は戦争の本質を哲学的に述べたもので、決してハウツー本ではないのです。 で、欧米で盛んになった戦略学なんですが、その底にはもちろん「どうやったら戦争に勝てるか」 という狙いというか欲望が、実によく見え隠れしております。 つまりここで動機にあるのは「純粋に勝ちたい!」もしくは「コントロールしたい!」というもの なのであって、けっして上をうらみつつ「支配構造を暴きたい!」ということではないんですね。 よって、戦略学などには「うらみつらみ」というものはほとんどないのです。 (中略) ここで簡単に結論です。 マルクス主義と戦略学/地政学/リアリズムというのは、パワーという点に注目するという点では 似ております。しかしマルクス主義系の理論というのは、どうしても「支配階級への恨み」という ものがその根底にあって、それが決定的に「自分たちが冷静に分析して(支配階級の目で)活用 する学問」としての戦略学と違う、ということです。 両方ともパワーなんですが、戦略学系のほうが「パワーを自らコントロールする」という自立的な 意図が明確にあることが違うんですね。
>>312 君は単語だけを読んで、その前後の文脈を読み取る能力に欠けているのではないのか?
そこでの意味が肯定的に使われているかどうかを考察すれば普通一般なら理解できると思うが・・・
ネガティヴな意味で使われているのならそれは当て擦りにわざと飾って表現されるものだ。
辞典引いて日本語からやり直せよ。
>>316 君はここでは一番まともそうだが、その程度か・・・
じゃあさっきの文について俺が勝手に解説してまとめておく。
【一躍でもって、死の一躍でもって、最後のものに達しようとする疲労、もはや意欲しよう
とすらしない、或る無気力な無知な疲労、これがすべての神々と背後世界を創造したのだ。】
という文の少し後に、次のように書いてある。
【身体は、頭でもって、また頭でもってだけではなく、最後の壁をつらぬき、「あの世界」へ
超え行こうとした。】
つまりニーチェはここでも「身体」という根源的な次元、つまり「世界は力への意志であり、
君たち自身も力への意志である」という根源的な次元で考えているわけだ。
【頭でもってだけではなく】というのはさっき書いたように、それがデカルト的な『われ思う』
の思惟的自我ではない、もっと根源的なものであることをあらわしている。
始めに君が引用した【一切の事物の尺度であり価値でであるところの、創造し、意欲し、評価を
行なうこの我は。】の「我」も、思惟的自我の根底にある「身体」の次元を視野に入れて
書かれているはずだ。
(続き)
そのような根源的な次元で見れば、力への意志でないもの、つまり「創造」でないもの
など何もないということになる。
(繰り返すけれど、その場合の「創造」には、特にポジティヴな意味が込められている
わけではない。根源的に見れば、創造的な力への意志の作用連関として世界が生起している
ということであって、それがニーチェにとっての『あるがままの世界』なのだということ。)
これぐらい解説すれば
>>195 で俺が書いたことは理解できるだろう。
【さらに言えば、『善良な市民』が価値規範と思っているものの中にも、実は力への意志が
働いているのだということ。 つまり彼らが「価値そのもの」だと思い込んでいるものも、
彼らの力への意志によって「創造」されたものだということ。 そこまで考えていけば、
「創造」でないものなどはありえないことになるわけだが。】
ここで俺が【彼らの力への意志によって「創造」された】と書いた「創造」が、さっきの
【背後世界を創造したのだ。】の「創造」の意味に近いことは、これで分かっただろうw
めでたしめでたし…
666にとっては、めでたくない。 彼はきっと悔しくて眠れないだろう。 しかたないな。自業自得。
>>299 容姿の好き嫌いは人によりますね。
とにかく最近、歌う人で華のある人少ない。
pop系はかわいい子いても音が退屈だし感性も品も力もだめ。ロックの生音の方がずっといい。
最近のアメリカのflyleafっていうロックバンドの未成年なヴォーカルさんなんかいいかもよ。
かわいい少女っぽさと退廃的な印象が同居したヴィジュアル。
声かわいいし表現力凄いし、PVの身振りもヴォーカルもとにかくemotional。
>>306 指揮者なんかは自我自意識が強かったら曲にはどう表れるでしょう。例えばカラヤン、かなり強そうだけど。
>>六六六さん
変にそういうことに拘ってしまうと、重箱の隅お箸でつつきまくってるだけで、中の食べ物に議論が向かわない。
あなたの文章、レアな味が出て噛みごたえあるときもあるのですから、創造と捏造の話に変に拘って延々と反論しあっても、時間も労力も勿体無い気がする。
めでたし、てことにしておいては?
>>321 >変にそういうことに拘ってしまうと、重箱の隅お箸でつつきまくってるだけで、中の食べ物に議論が向かわない。
重箱の隅じゃないだろ。あれが重箱の隅なら哲学は全部重箱の隅みたいなものだろ。
つうか哲学を知らないやつは黙って見てればいいのでは?
はい... 敢えて口出しするなら、 個人的には、議論の流れ見た感じ 捏造⊂創造 でFAだと思ってます。 細かいこと気にせず明快にニーチェを語る六六六さんらしい文章をみたいって気がするんです。 勝手にコテハン批評するのもあれですが、六六六さんの文章を見た感じ、純哲学的な思考空間の中で学問的な精度を以って用語や概念を吟味するのは苦手そうで、 騎士道的ヒロイズムなニュアンスでササっと裁いてくださるところや、日常の具体例と見事に結びついているところが、出版本の類ではお目にかかれない種類の魅力なんですから。 でもとにかく、ニーチェにおいては基本的に、 捏造⊂創造だと思います。 ニーチェは単に人間的な次元で創造という言葉を使うだけでなく、宇宙の原理とか身体の原理として創造とか力への意志という言葉を使っていて、 それは、捏造とか創造とかの一般的ニュアンスよりももっと根源的な次元、 というより一般的な用語のニュアンスの意味が完全に消滅せざるを得ない、強弱、主客、物心とかがまだ未分化な次元 に遡っての原理的なお話だと思います。 とにかくニーチェは、同じ一つの概念に対して色々と違った説明を下す傾向が強く、前人間的前言語的な根源への遡行と具体的な対象に対する揶揄や批判が行ったり来たりして、ややこしい。 というより、前言語的な根源にいると同時に現実を言葉で批評している。ていう印象がする。そういうテキストだから誰にでも読めて誰にもよめないのかしらね。
>>323 >というより、前言語的な根源にいると同時に現実を言葉で批評している。ていう印象がする。そういうテキストだから誰にでも読めて誰にもよめないのかしらね。
そんなのはニーチェに限ったことでないだろ。
ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものについては沈黙しなければならぬ」と言ったが、語り得るものと語り得ぬものとの境界で思索するのが哲学だよ。
御免なさい、 ニーチェくらいしかまともに読んだことないもんで。 有難い言葉、参考になります。黙って見ておきますw
>>323 >ニーチェは単に人間的な次元で創造という言葉を使うだけでなく、宇宙の原理とか身体の原理として創造とか力への意志という言葉を使っていて、
>それは、捏造とか創造とかの一般的ニュアンスよりももっと根源的な次元、
>というより一般的な用語のニュアンスの意味が完全に消滅せざるを得ない、強弱、主客、物心とかがまだ未分化な次元
>に遡っての原理的なお話だと思います。
それもあるんだけれど、「捏造」と「創造」に関しては事態はもっと複雑。
大事なのは、
>>207 で書いた【真と偽との本質的対立への信仰から脱却すれば、
「虚構」や「捏造」という語が従来持っていたネガティヴな意味も失われる】ということ。
「捏造」(でっちあげ)というからには、「捏造」ではない真なる創造ということが想定されて
いるわけで、つまり「真」にたいする「偽」という意味合いが「捏造」という語には付着している。
その「真」と「偽」との価値対立を廃棄するのが、ニーチェによる価値転換であるということ。
分かりやすい例を一つあげておこう。 「一切の価値の価値転換、これが人類の最高の自省の行為を言い表す私の定式である。私の運命は、 私が自分を数千年にわたる虚偽に対する敵対者として自覚していることを欲しているのだ。・・ 私が初めて真理を露呈した。初めて嘘を嘘として感じ取ったことによって」(『この人を見よ』)。 ここで「嘘」と言われているのは、「真理は神的である」という形而上学的信仰によって立てられた 「真の世界」のこと。そしてニーチェは「数千年にわたる虚偽に対する敵対者として自覚している」 のだから、この「嘘」には当然ネガティヴな意味が込められている。 ところがニーチェは、次の文では「真理」と「嘘」という語で指示されている事柄をほぼ正反対に 入れ替えている。次の文では「真理」が形而上学的「真の世界」を指しており、「嘘」には、 ポジティヴな意味が込められている。 「真理への信仰は、われわれにおいてその最終的帰結にまで到達する。すなわち・・、いやしくも 何か崇拝すべきものがあるとすれば、崇拝されねばならないのは仮象なのではないのか。そして、… 真理ではなく…、嘘こそが神的であるのではないか?」(遺稿6[25])。 上の二つの引用箇所の「嘘」のところに「捏造」を代入してもどちらも文意はほとんど変わらない。 「捏造」から「偽」というネガティヴな意味合いが失われるのは、このような価値転換による。
ニーチェがこのような価値転換によって「真」と「偽」との価値対立を廃棄しようとしたのは もちろん、形而上学的世界を真の世界であるとみなすプラトニズム-キリスト教的世界観から 脱却するためなのだが… だけれど、このような真理の相対化はニーチェ自身の哲学そのものにも跳ね返ってくるわけで、 だからニーチェは「真」と「偽」という価値基準に代わる新たな基準として、「強さ」と「弱さ」、 「高貴」と「卑賤」という価値基準を中心に据えざるを得なかったと思われる。
>>328 >だけれど、このような真理の相対化はニーチェ自身の哲学そのものにも跳ね返ってくるわけで、
>だからニーチェは「真」と「偽」という価値基準に代わる新たな基準として、「強さ」と「弱さ」、
>「高貴」と「卑賤」という価値基準を中心に据えざるを得なかったと思われる。
そう、だからそこなんだよ。素朴な意味でどうもしっくりこないのは。
ニーチェの提示した価値基準はキリスト教世界観のそれと質的に違うとしても、
形式としては結局二項対立なんじゃないか、「肉体と精神」という認識の呪縛から脱し得ていないんじゃないかって。
このことは「哲学」的思考形態そのものの問題なのでは?
だからこそ『ツァラトゥストラ』のようなメタファーによる手法で表現しようとしたというのは解るんだけども、ニーチェが時代的・個人的条件という限界により、【語りえなかったもの】とはどんなことだろう?現代の東洋人であるわれわれから見て。
なんてw、たまには批判的にニーチェを語りませんか?
330 :
213 :2007/07/23(月) 22:35:25 O
自己肯定する者は、対立しないでしょう。 強者対強者は和解するでしょう。 お互いを認めるでしょう。 強者対弱者は、前者からみれば対立にはならないでしょう。 ただ笑うだけでしょう。
331 :
考える名無しさん :2007/07/23(月) 23:29:46 0
自己否定する囚人は、対立するでしょう。 →「こんな会社にいれてもらえてありがたいと思いなさい」 弱者対弱者はけなしあうするでしょう。 →「試合に勝てよ」 お互いを蔑むでしょう。 →「ミドリはちゅーとはんぱは大嫌いや!」byちゃらんぽらん 強者対弱者は、前者からみれば対立にはならないでしょう。 囚人は搾取するだけです。 ただアボアキラが笑うだけでしょう。
332 :
考える名無しさん :2007/07/24(火) 00:46:46 O
光の画家、レンブラントの絵画は見事な光を描き 出している。 ただ残念なことは暗闇の中では、それが見えな いことだ。 真理や道徳みたいなもんについて。
>>321 俺的に美女ではなかったな。
可愛いとも思わないね。
プロピアニストの演奏の映像は聴衆の前での演奏だから、 自意識過剰になりやすく忘我状態になることは困難だという事情がある。 プロより上手くみえるような素人もいざ観客の前での一発勝負の演奏ともなると、プロよりやっぱり明らかに下手なんだろうな。 どうも他者と自我は同時発生的なんだよ。
335 :
考える名無しさん :2007/07/24(火) 01:20:45 0
ニーチェの末人とウェーバーの精神のない専門人というのは ほぼ同じ意味と考えてもいい?
>>333 たしかにバンドや音や歌詞に愛着なかったら、そうなのかもしれないね、
ていうか愛着あるからルックスにも愛着もってしまうんだろうけど
神々しい声の女性voオルタナバンド(EVANESCENSE)が主力ギタリスト脱退してつまんなくなってた時にちょうど表れた、アメリカ女性voバンド期待の星
シンセ少ない生音で勝負、音はまだ青く若い印象受けるけど、既に10代の等身大の声がバンドを引っ張ってる
EVANESCENSEがシンセで耽美なゴシックメタルを演出するとしたら、こっちは若い感情で勝負!
http://www.youtube.com/results?search_query=flyleaf
道徳外の意味における真実と虚偽は、名文。
339 :
考える名無しさん :2007/07/24(火) 22:40:38 O
341 :
考える名無しさん :2007/07/24(火) 23:52:01 0
新店ポッポ♪ 新店ポ♪ けっけけっっっけえええっっけええええええええええ ミードリ電化の塵塵新店ポ♪ 塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵 /.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\けっけけっっっけえええっっけええええええええええ ^^ 「どこにできたの?」 ::;;;;;;;;;;;;栄光あれーーーーっっ!!! / うひひひひっひっっひいいいいいいい ミロリってエデオンにのまれたんや 新CM見ました ますます恥ずかしい知らんかったからいやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ! ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩 ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! ウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 ;;;;;;;;;;鬱 死;;;;;;;::..ヽ ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱  ̄ /⌒ヾ/ / .,;;;;;;:/.:;| -―'――ー'''‐'ー'''―‐'―''''\,./ / .::;;;;;;:/‐'| :;|'''ー'-''――'`' おあああああっまっっさっさまままああああああああああああああドピュウウウウウウウッ0,,,,,,, 大人になれば栄光あれーーーーっっ!!! / ミロリってエデオンにのまれたんや 知らんかったからいやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ! ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩 ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! 僕らはみんな生きている 生きているからんはああーーーーっンッ、ウンコ゜.,,.:lllllll!: 青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 il°イナバウアー取lii,, .'゙゙lアホlアボ° ..,,i゙ 囚人全員、そり返りながら 青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 ■■□■■■■■□■■■■■□■■■■■■■■□□■■■■■■■ 何でも出来ると思ってた。けど子供以上に不自由なんだな。 子供の頃の俺が今の俺を見た塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵らなんて思うだろうな。
神話、ファンタジー、妄想の方が現実よりリアルである。 現実こそが影絵、フィクションなのだというプラトニックな考えの方が当たっている。 世界は合理的ではあるが根本的に不合理であることは否めないのだ。 世界の合理性と不合理性を兼ね備えているのが言語である。 言語は前世界的な神秘である。 ディオニュソス的存在である。
言語を合理的に学ぶには限界があり、井の中の蛙に止まる。 それは芸術を合理的に学ぼうとするのと同様なのである。
存在することが不合理だ! 存在そのものが… なんて話はよくある罠。 合理的根拠といっても突き詰めると、そりゃあ不合理じゃんって話で。
合理化にも限度がある罠。それでも私は考える、故に我あり!なんてのもよくありそうな話だわなw。
あるある大事典だな。
347 :
考える名無しさん :2007/07/25(水) 05:04:36 0
ニーch
早君 ときどき出没か
349 :
早速 :2007/07/25(水) 10:14:33 0
>>342 >世界の合理性と不合理性を兼ね備えているのが言語である。
まではそのままにして
>言語は前世界的な神秘である。
>ディオニュソス的存在である
を個人的に詳しくするとしたら、
言語自体は神秘ではなく、後世界的、後人間的な存在であり、
人間は言語によって、神秘の世界や混沌の世界という、安全な生存や他者との意思疎通が不可能な不合理な世界を合理化し、生存のための秩序を創り出しているのである。
しかしその秩序は、人間の生を拘束するものであって、神秘や混沌の世界(脳の原始的な領域や中枢神経)を遠ざけ、人間の生存の場を道徳的社会的な世界(皮質上)にする。
(因みにあまり関係ないけど、中枢神経から皮質上の前頭葉へのA10神経の道を、左脳を通ればフロイト、右脳を通ればユング、って言う人もいる)
詩人や神秘主義者は、その言語の性質を逆手に取り、自分達の言葉によって、それまで自らの生を拘束していた既成の言語の束縛を破壊し、
神秘や混沌の世界へと遡り、その世界をありのままに表現しようとする。彼らの言葉は、一番際どい言葉であって、
下手すれば他人だけでなく自分を欺く自己破壊的な言葉にもなりうるし、
上手くいけば自分の生を縛る言語や概念を破壊し、精神的な自由を手に入れることもできる。
2ーch
>>332 レンブラントは色盲だったという説がある
352 :
考える名無しさん :2007/07/25(水) 21:46:41 0
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嵐よ 去れ だな アホも 回帰するのか 仕方ないなあ
354 :
考える名無しさん :2007/07/25(水) 22:07:13 O
チャットしてた人が昔ライブいってたくらいのXファンで延々と話聞かされて、つられて一時かなり熱狂してた。
自分は解散後に知ったのであまり詳しくないけど、その人によると、かなりドラマのあるバンドらしい。
ヒデちゃん、上手いって感じはしないけど、かっこいい音。ゲーム音楽でいうとF−ZEROの音楽みたいなかっこよさ。
ベースが微妙であまんり映えてない、ベースの音はラルクの方がいい。
ヨシキのメロディ、覚えやすくて分かりやすいのにクラシックやってただけに結構芸術性ある。彼のライブのドラムは失神級だし、
Mステ出たときなんてセット破壊したし、パフォーマンスもいいね。容姿は別に好みじゃないけど、ヌード出すくらいのナルシズムが、魅力的。
一番好きな曲は、バンドサウンドないけどcrucify my love。ピアノやバイオリンかストリングス系の音が綺麗だし、Toshiの声はあれくらいにしといたほうがいいような気がする。
次はDAHLIAあたり、クラシックとメタルが上手く混ざってるとこがすき。
当時だったら、あのヴィジュアルや爆音は相当刺激的な革命だったんだろうな、と思う。
因みに今のV系はPV撮るためのメイクに数時間かけたりするらしい。
最近のDir以外のV系よりもずっといい世界表現してると思う。やっぱヨシキが才能あるから。
>>349 興味ない、どちらかというとああいうタイプ嫌い。
>>356 スレ違いじゃないよ。
YOSHIKIはディオニュソス的なる者じゃん?
あまり好みではないか。
好みだと?
青白くか細い病的な美しさ、叫び、軋めくような力が好み?
苦が力をもたらすのか、力が苦をもたらすのか… ニーチェは両者を区別し、前者を邪道視するようだが、 別に本質的に差はないと思うね。 力と苦が赤い糸で結ばれているだけだ。
要するに好みの問題で、力を求めようが、苦を求めようが、もたらされるのは力と苦なのである。
とはいえ、いずれをも敢えて求めなかったとしても、いずれをも程度の差こそあれもたらされるものだ。 一切は力と苦の混沌への意志である!!
ニーチェの後を追ったのがハイデガーらしいな。
「悲劇の誕生」がニーチェの革命的最高傑作。 間違いない。 他読まないうちからわかる。
363 :
213 :2007/07/26(木) 00:55:58 O
最高の苦悩は最高の歓喜が過ぎ去ろとする時。 誰が苦悩したって?
「必然性の風に乗る」という逆説的な表現がなかなか写実的な表現であるのは何故なのか?
何故に必然性が自由感をもたらすのか?
主客なき状態における一体感と自由感の関係はいかに?
自由は主体のおかれた状況、疎外、であり、
切り離され疎外されたあるものが主体なのであり、
主体に許されし可能な事はただ故郷の影を認識することのみである。
主体が自由を求めるのは疎外された怨み、反感による。
自由という観念で真に求めているのは、つまりその本心はむしろその自由からの解放、逃走、そして自由なのであるw
自由からの自由、それが「必然性の風に乗る」ということである。
>>356 椎名林檎はどうよ?
自由を求めるというのは、その実、自由からの自由を求めるものであった。 それはすなわち愛欲である。 それは人々が互いに、また自然から切り離され、個人化していき、愛を失っていくほどに高まっていく感情である。
>>364 どちらかというと鬼束の方が好き。
メンタルサイト行けば林檎ファンいっぱい。
この二人、女の深い内面の自己主張性、みたいな感性が伝わってきてなかなかいい感じ。
>>362 悲劇の誕生って、ダイナミック。
ゲーテとかシラーがギリシャに見た桃源郷的な輝かしいイメージの裏に、
ニーチェは恐ろしい深淵をも見ていた、ていうのがゾクゾクする。
ギリシャ人は生きていることがぞっとするほど怖ろしいものであることを感じていて、
生きるために止むに止まれぬ必要から、生存の恐怖に対置して神々という輝かしい偶像を対置しなければならなかった、
美や力の裏には恐怖や苦がある、て感じのをギリシャ文化にさえ見抜いたところは、さすがニーチェて感じがする。
生存することの苦しみ、だけでなく、「生そのもの」が秘めている神話的な呪わしい恐怖や苦痛を、ニーチェは直観で具体的に捉えていた、てのが伝わってくる
だから、あんなに高級な審美センスや力強さを伴ったダイナミズムで、ギリシャの文化を説明できたんでしょう。
哲学的な観念や自分の熱に浮かされたような心理と具体的な現象や事実との同時並列力が桁外れ。理論の枠を破壊しようとする情熱と、熱を論理的に文章化しようとする哲学的知性が、拮抗したような、力動的な迫力がある文体。
マーヤのベールが切り裂かれアポロが司る固体化の原理が崩壊すれば、むき出しの苦痛と恐怖が顕現し、ディオニュソスの酒、根源的一者の血が溢れ出て、全ては一つの生命へと一体化する、てイメージを、文章の内容だけでなく文体が見事に表現してるとこが芸術的。
悲劇に対するアリストテレスの、あるいはその他伝統的な捉え方 ・「世界の道徳的見方のために英雄を犠牲にする(悲劇の誕生)」 ・人間が神々の定めた限界を超えようとすると、たとえばエディプス王のような不幸に陥る、 つまり神的な力に人間が近寄るのは危険なので、真似してはいけないということを悲劇のうちで示しておく ・道徳的、教訓的 悲劇に対するニーチェの認識 ・道徳に対して大きな犯罪を犯すことによって、エディプス王は神聖な悲劇的運命を歩むことになり、 つまり、道徳的な掟を超越あるいは破壊する強烈な衝動や情熱によって、生の崇高なあり方が演じられ、 その力強い生のあり方を見ることによって人が、道徳的価値評価を超越した恐ろしいヴィジョンを見出すことに、創造的意義がある ・道徳破壊的
え?それニーチェの解釈?本当に? だとしたら失望だな…陳腐すぎる
またポエムのスレに戻ってしまったか…
370 :
考える名無しさん :2007/07/26(木) 19:38:30 0
少し恥ずかしげに「店長うんこてんこ盛りにしたい」と、店長に全てをビチビチぶちまけた。 マゾ店長はおなかのウンチを確認すると、もがくようにしてフロア奥の処刑台と呼ばれる個室に入った。 他の部下はマジックミラー越しに観察して処刑台には一人だけだ。 店長は、処刑台の上に立ってウンチまみれで裸になった。 周囲の囚人共は「うけけっけけっけやっってえてえてみまああああああああああす」 と絶叫しつつ痙攣と興奮の坩堝に酔いしれていた。 店長のウンコまみれの体に距離を置きつつこわごわと処刑台を凝視。 店長は「うっっっっっっっけけけけけけえええええええ!!!やればできるぅ!」と言い放った。 囚人は呼応するように発狂を保ちながら、「ヒヒヒヒヒイ」と呻いた。 雄叫びはそろえるよりも不協和音の方がキチガイじみていい。
371 :
考える名無しさん :2007/07/26(木) 19:39:49 0
──グチュッッブリrビリリbニイイビチイイイイイイイイビリイブルリリリリリリイイイイイ!!!!! 酷く下痢症状の深みのある排便音が店内に響いた。興奮した店長はいきなり ミドリの加給のような青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 「オオオオオオフォオオオオオオフォオオオオアオオアオアブブリリリリリブリビrモンリアgナオgハイ9オ〜もくひょう ひったーつ!」 店長の切ないあえぎ声と、そのたびに響く便の滴る音に突き動かされるように囚人はうっとりする。 そして激しく痙攣する店長の肛門に自らのチンポを突っ込むさせると、腰をガクガクはずしながらナメナメ。 店長は声を出せず恍惚に額のしわを寄せ、うめくように快感に耐え、店長の視線、いや肛門は、
372 :
考える名無しさん :2007/07/26(木) 19:41:11 0
囚人の白濁した精液でべとべとになっていた。 店長はもう一本指をいれると、囚人の快感のツボは肛門の右の壁と、 恥骨のウラあたりのザラザラにあたるようにしてさらに続ける。 囚人は耐え切れなくなったのか、首を激しく横に振っている。 そして── 全身を震わせ囚人はのけぞりながら‥‥‥昇天した。 ウギググググググウグググゲエエエエエエエエエやってみま やってみまッッツツツツッ
373 :
考える名無しさん :2007/07/26(木) 19:54:43 0
http://that4.2ch.net/test/read.cgi/kaden/1132223714/ 847 :目のつけ所が名無しさん :2005/12/19(月) 23:18:18
ここの掲示板での書き込みは真実です。
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>>370 どうしようもなく辛いとき、毒を吐かずにはいれないときなどは、
とりあえず抗鬱剤を処方してもらってはどうですか?少しは楽になれるかもしれません。
ストレス、不安、憎悪感情、毒、内側で飽和しそうな怒りなどには、もちろん個人差はありますが、
デプロメールがゆっくり穏やかに効いていくことが多いようです。
>>366 林檎は化粧してるとなかなか綺麗だね。
自律神経系を刺激するものがある。
もう一人は知らない。
ところで悲劇の誕生日本語で読んでるなら幹爺の文体なんじゃね?
幹爺が若い頃ハイスピードで訳したやつなんだが、
見かけによらずなかなか色男ではあったといえるな。中身は。
いまじゃ中身も見かけによるようになってきているようだが、
爺さんのことだ、仕方ない。
つまりね、ドイツ語の文体云々できるほどドイツ語わかんのかよって話しなんだけどな。
幹爺の文体ではないか。 幹爺が敬語使うのやめても、昔のようにはいかない。 別人になったな。
まあでもね自律神経によらないと何事も拙劣にしかできないよね。 いちいち考えてちゃ歩くことさえままならないもの。 自意識過剰なようでは右手と右足を一緒に出してしまったりする。 考えるからわからなくなるできなくなるというのはあるから、 貴族じゃあるまいし、考えるのも程ほどにせにゃあかんよ。 自律神経的に考えてしまう性ならば仕方ないが、早死にしやすいだろうな。 ニーチェのソクラテス非難は悪くないと思うね。 ソクラテスは人を無能化してしまいかねない。犯罪だろ。 何故にそうなるかといったら合理的な思考なんてのは根拠を与えることができないばかりか奪いさえする。 根拠は不合理だからだ。
378 :
考える名無しさん :2007/07/27(金) 01:58:23 O
ニーチェの認識形式、対象理解の形式は、昔の幹爺がいうには、対象との同化である。それが幻想であれ構わない。 これは俗に相手の身になるというやつだろう。 これによって主観的直観的でありながら尚且つ客観的に正解な認識が可能になるのである。 その認識は学問的ではないかもしれないが、その有効性、正当性は学問に匹敵するどころか、超えるものがある。 それはあたかも無学な者にも内在する文法が文法学に匹敵するどころか、超えているようなものである。
幹爺も死にそうということだろうな。
池田もそんな感じだったし、
ショーペンハウアーなんかもそんな感じだったな。
いやいや、宿命ですよ。
>>374 千住明に「宿命」って曲あるけどそれって、どうよ?
最近知ったのだがニーチェ学会というのがあって 富樫一弥というのが会長で 西尾幹二 立花隆 宮台真司が会員になっている。 これ一体なんだろう。 検索して意見を聞かせてください。
>>380 何ってそのままだろ。
何だと思ったわけ?
いや 富樫氏のサイトがオカルト的で それに加わっている人とのとりあわせがね。 規約は立派だが 西尾と 宮台はわかるが 立花隆が加わるとはね。 どうしてなんだ。 ニーチェ研究会がこの有様では日本のニーチェ研究は 希望がないね。
>>379 映画音楽とか作曲してる人?
その曲は知らないです。
>>377 ニーチェは、
合理的認識が何もかもを説明しうるはずだ、と断定する事自体が、
そういう神話、合理性の限界を誤魔化す神話に対する信仰である、とか言ってますね。
フロイトは、自律神経系の心理さえも全て合理的に説明しうる、
つまり心理を科学的要素へ分解し、その要素同士の組み立てによって全体が純科学的に説明できる、
て狂信して、ああいう精神分析学を樹立したけれど、やっぱ神話でしかないんですよね。
たしか悲劇の誕生で、ニーチェは、科学の円周がどうこうってメタファーで、
理論的な人間でも科学で全ての秘密を解くことにはいつかは失敗する、そしてそこで新しい認識形式、
つまり悲劇的認識が必要になってくるのだ、みたいなこと書いてましたね。
そこで現れたのが、悲劇的というよりは神話的認識といったほうが合うけど、ユングてわけですね。
>>383 >合理的認識が何もかもを説明しうるはずだ、と断定する事自体が、
>そういう神話、合理性の限界を誤魔化す神話に対する信仰である、とか言ってますね。
>たしか悲劇の誕生で、ニーチェは、科学の円周がどうこうってメタファーで、
>理論的な人間でも科学で全ての秘密を解くことにはいつかは失敗する、そしてそこで新しい認識形式、
>つまり悲劇的認識が必要になってくるのだ、みたいなこと書いてましたね。
引用するならちゃんと引用しろばか。
>>384 手元にある資料少なくて、メモもあまりしてなくて、漠然とした記憶と勝手なまとめでやってます...
後で悲劇の誕生調べて確かな引用を書き込みます。こういうことしないよう気を付けます。
>>378 ユングの考えによると、他人との同化による認識は、自律神経の領域に関連している、ていえそうです。
「・・・「交感神経」の国、すべての生命あるもののこころの国が始まり、
そこでは私はこれでもありあれでもあって区別しがたく、また私は自分のうちで他人を体験し、
私とは別の人が私を体験しているのである(元型論)」
>>375 鬼束は、入眠のとき聴くといい感じ。ベスト版で充分。
ドイツ語はまだ、全然だめで、文体、ていっても訳者を通して伝わってくるものしかわからないです
自律神経系を刺戟するアニメといえば劇場版エヴァ、↑の「」のようなものが最高の映像と音楽で表現されてる。
ギリシャ的な神々しさだけでなく、神々しいよりも聖なると形容するにふさわしいキリスト教的なシンボルやイメージも、使い方や表現方法によっては、生命感情を極度に刺激する。
(聖書も宗教書ではなく作品として読んでみると、結構表現的に感動的な女性受けする言葉が多い)
ニーチェのいうディオニュソス性とは全く別のタイプだけど、生命の根源的な合一が完璧な表現で描かれて、本能や幼少の記憶を強く刺戟する神秘主義的なアニメ。
そんな独りよがりの書き込みじゃあ対話がなりたたないんだよばか。
ばかばかと言うばかりでなく自ら話題を振ってみたらどうかねチミ。
>>386 気をつけます。スレの流れを凍らせてしまい、寒い空気にしてしまう悪い癖です。
>>384 「・・・それはソクラテスという人物の中で初めて世に出たものであって、
思考が因果律の導きの意図をたどって存在の深淵の王低まで潜入し、また、
思考が存在を単に認識するばかりでなく、修正することさえできるという、
あの確固不動の信念である。この崇高な形而上学的妄想は、
本能として学問に添えられていて、・・・(悲劇の誕生15)」
「ところが学問のほうは、その力強い妄想に駆り立てられて止みがたくその限界に向って突進し、
この限界に来ると論理の本質に隠されていた楽観論は挫折するのである。なぜならば、
学問の円の周辺はかぎりない多数の点を持つのであって、・・・・・・
高貴で有能な人間であればかえって現存在の半ばにも達しないうちに、不可避的に円周の限界点に達してしまい、
開明しがたいものを凝視するだけになる。・・・・・・そこに認識の新しい形式、すなわち、
悲劇的認識というものが出現するのであり、・・・・(同)」
合理的な因果を全ての事象に適用しようとすることの弊害はたくさん。 たとえば人間の心理を、純科学的な要素へ還元し公式的に説明できたとしても、あるいは、 鬱病などの病理を脳内の化学物質によって説明してその結果抗鬱剤が開発されても、 それが人間の生きる「意味や価値」を高める上では全く役にたたないこともある。 因果論的な思考は、人間の生にとって不必要なくらい細かいことに拘ってしまうことが多い。 細かい因果関係による説明では、社会規模あるいは世界規模の問題と人間の心理を結びつけて説明するのが難しい。 だから、具体的な鬱病対策、抗鬱剤、などが研究・開発されても、たとえば某電荷の搾取沙汰などのような鬱病患者を増やす社会問題の根本的改善には何一つ干渉しない。 人間の心理的問題について、全体的な社会背景あるいはもっと普遍的な人間精神や神話と照らし合わせながら、たとえ確かな因果関係を得られず漠然としたままであっても、 全体的なヴィジョンで取り組もうとすることが、根本的な改善に繋がることが多い。 合理的思考で全てが解決するというのは一種の神話、合理的神話であり、そういう価値観に基いて哲学や科学を行うことよりも、 悲劇的神話性をもつ人間の根源的な本質を不合理にでも機能させようとすることの方が、 ものごとの根底的な意味あるいは人間の生にとって意義のある意味を見出したり人間の生の価値を創造したりしていくことに繋がる。 ニーチェは、合理的に全てを確かな原因に還元させそこから因果的に体系化しながら人間や世界を説明していくより、 生にとって根源的に何が価値があるのか何が生を上昇させるのかなどについて考えるほうを、遥かに高くみていたのでしょう。
┌─┴─┐ . | ヽヽヽ ―┼― .| ヽ | \  ̄フ .  ̄| ̄ヽ | , | | | \  ̄| ̄ヽ | . | ─┼─ ,ノ │ ノ . | \ | ゝ | | ノ │ |/ ̄ヽ J . ノ ヽノ . J \_ レ ノ ヽノ _ノ _____ ____ー┼ー | / _/_ -- 二二_ /~| ̄/ヽ / ヽ | \  ̄ ヽ | | ノ .| ∨ | / _| | | | ̄| ノ l____, \ノ ノ (_ノヽ レ
『エヴァンゲリオン』にしても、「ぼくはなぜここにいるんだろう」というような甘ったるいアイデンティティへの問いが基調にあり、 それは父や母といった擬似精神分析的なテーマを招き寄せずにおかない。 イケイケのポストモダン消費社会ではアイデンティティなど雲散霧消したかに見えたのだが、 「イケてないおたく」の内面ではアイデンティティの悩みが予想外に深くわだかまっていたのだろうか。 問題は、しかし、そういう幼稚な煩悶が、突然きわめて暴力的な反応に反転しかねないことなのである。
392 :
考える名無しさん :2007/07/27(金) 18:54:22 0
ρ ピュッピュッ _ ._ /::. ソ . :;;ヽ /::. ....:::;;ヽ /::. ....::;;;;ヽ /::. ..::;.:;;;i (::. ..::;;;丿 >::...___..::::;;;イ !ヾ. ̄⌒__ ̄彡| iミ:::ミC= ≡..::: ) |::: 丶ヽ ..:ヽ ) |::: (' ( ::;;;| illllllllllllllllllllll!li゙゙ll,, やってみま やってみまっ! ,lllll゙゙゙lllllll゙゙゚lllll!li、゙ll,、 やってーーーみまぁぁぁぁぁ! ,lllil .゙ll° 'llllllli, .゙ll, ,il!ll′,、 ,, '!llll!lli, .'li, ,lllll,,,,,,lll,,,,llli,,,,,,li゙lllllli, ,,lll lllllllllllllllllllllllllllllllllll,lll゙゙゙゙゙゜ ,illlllllllllllllllllllllllllllllllllllll、 l!!!!!!ll!!!!!!l!!ll!!!!!ll!!l!l!″ ll ll ll ll ll ll ll ll ,ll ll,,ll .ll| ゙lllllllll!゙゙lllllllll!°
どう読んでも早にしか読めないんだが、 日記を書き続けるなら鳥付けてくれくれないかな。
>>391 エヴァの基調、シンちゃんのアイデンティティもあるけどそれよりもまず、
「母なるもの」の聖性とか、世界の終わりや命の合一の象徴的イメージとかだと思う。
精神分析とかじゃなくて、もっと宗教とか神秘主義とかの本質に近いものがある。無意識の海の最下層を見せてくれる。
主人公の葛藤は、いわば無意識への門、水面みたいなものであって、深くに潜む母性や女性性が重要なテーマだと思う。
最期の方は完璧な表現で胎内の印象がする宇宙的な感動を描いてる。
ああいう作品が、単に娯楽というだけでなく、生命の本質に関わる観点からみて重要な意義のある、永遠的な価値をもつ、神話的なアート。
オタク文化のいけないとこは、ああいう純粋なアートを、吐き気を催すような俗臭芬々たる汚い色で穢してしまうこと。
消費文化は、人間の意識を根源から引き離してしまう。
表現がなかったとしたら、現代で深い深い心理に浸るには神経症的な自意識の煩悶やLSDあるいは狂気に至るくらいの恋愛くらいしかないくらい。
だから、エヴァみたいな映像作品で、宗教的な感動を体験することは、生きる上でかなり価値のあることだと思う。
「神話がないならば、どんな文化もその健康で創造的な自然力を奪われてしまう(悲劇の誕生23)」
椎名林檎がでてCoccoが出ないとはどういうことだ!
397 :
金曜日 :2007/07/28(土) 00:26:25 0
三富明「永劫回帰思想と啓蒙の弁証法」 について批判的なことを言うとするなら マックスホルマーたちの「啓蒙の弁証法」には触れずに 機会的永劫回帰についてのみ論旨を一貫してもらいたかったということだ。 また三富氏はニーチェ(ツアラ)の言い分に従って無限の時間の中での有限な空間での回帰に 説明が寄っているが 思い切って現代宇宙論のひとつの仮説としてある 有限な時間と有限な宇宙の 発生と終焉の無限回帰として論じてほしかった。 そのうえでニーチェは幻想と知りつつ信じることに賭けたという解釈をするなら 三富さんの書物としての一貫性と評価が決定的になるのではと思う。 でも遠慮かあからさまに永劫回帰の自説を表明することが怖くなったのかもしれない。 三富氏は永劫回帰の思想は私たちに苦痛や緊張ばかりを強いるとは限らず 慰安や夢の部分も含みまた死というものへの恐れを克服する思想であると ニーチェの思想の枠を超えて 永劫回帰の思想として一歩進展した解釈を獲得している。 私が評価するのはそのこととです。
『悲劇の誕生』はニーチェの思想の理解には役立たない。 事実、ニーチェ本人が「やりきれない本」といっているわけ。 上の方で『悲劇の誕生』に影響を受けて書き込みしている奴は、超初歩的なニーチェ誤読w
399 :
金曜日 :2007/07/28(土) 00:41:13 0
宇宙的規模の永劫回帰と人類の歴史や自己の人生や生死が交差して成立する永劫回帰が 連結して成立する永劫回帰のの思想は たとえ真理あるいは事実あるいは現実であったとしても 結局私たち精神の幻想にすぎないといいきることもできる。 それをしりつつ宗教のように信じるとき 神の存在は背後に退き 永劫回帰だけがとりのこされる。 私たちの幻想領域での精神の現象はそのようにできていると ニーチェは言いたかったのかも知れないと今の私は考えている。 信仰をもたない私の妄想では 宇宙的な神はやはり存在していて永劫回帰のなかで眠りについているのかな。
400 :
考える名無しさん :2007/07/28(土) 00:51:40 0
幽体離脱 ,,,,,, ,,,,,,liiliiiiliiiiiiil,,,,, ,,,,iillll゙゙゙,ll ,,lll!!!lllllllllllllllllllllllllllii,,, .,illlliilll!!llil゙ ,,ll゙゜ .゙゙゙゙!!!lllllllllllllllllllllllllilllllllllll゙° ,ll゙゜,,lii,,,,,,、 ゙゙゙゙゙゙゙゙!!!!!!゙゙゙!l ̄ ,,l゙`,ill゙゙゙゙li,゙゙ll, .,,illiiilll,,, ゙i、 ,l°,ll゜ ll" ,l! ,ii!゙゜゙゙li ゙゙l, .lli, l″ lll,. ,,,i!゙ .,ll° .,ll° .,ll" ll! ,llli,, .,ll!゙゙゙゙゙li, ,l′ '゙!!lll,,illl゙゜ .!li,,,,,il!’.,ll° .llllllli,, 'l, .ll .ll ゙゙!!lllllll゙° .,lllllllllllii,, ゙゙l, ゙l,.゙l, .lト ,illlllllllllllllllii,,,, ゙l, ゙l,,゙l,、 .,,illi,, ,illllllllllllllllllllll!゙′ '゙l,, ゙゙ll,lll,, !l,,ill .,,,illllllllllllllllll!!゙゙゜ ゙ll,,、 .゙゙ll!lii,,,,、 ゙” ,,,,lll゙’`゚゙゙゙゙゙゙″ ゚゙%,,,、 .゙゙゙゙!lliiliiiiliiiiiliiiilllll,,、 / 永劫 回帰 \ / y Y | | 〈 ュ__─-__ュ__〉 | | 7 l | | / ∧ | | l 丶 l | L__ ` / /ノ \ ` l ∩ l ノ 〈 \_/ / / / \ \ / / \ \ `ー ' `─ '
401 :
213 :2007/07/28(土) 01:01:07 O
>>398 それじぁ悪いのはニーチェであるわけで。
>>395 こっこちゃん、独特の味あるし、いい声してる。林檎、鬼束、Coccoは、シンガーソングライターとしては宇多田に勝てないかもしれないけど、
「表現者」としては、上かもしれない。たまに女の壊れそうな本能を露骨に表現するとこがいいよね。穏やかときはほんと穏やかな癒し系。
>>398 たまには毒舌失礼、名無しじゃわるいから鳥っ符晒して。
後年のニーチェが「やりきれない」といっていたことと悲劇の誕生のニーチェ読解における無意味さを算術めいた単純さで連結するような発想
でしかものを考えられないような太い神経に、ニーチェの生を讃える精神が歌う音楽は、共振したりしない。
「(悲劇の誕生を)音楽のための書物として、そもそもの初めから共同の稀有な音楽経験のために結合していた人々のための「音楽」として、
芸術における血縁者たちのための識別票としてかかれた書物として認める(自己批判の試み3)」
ニーチェ自身の思想に依るとしても、重要なのことは、ニーチェの正しい理解なんて無機質な(あるいは最初から不可能な)教養よりも、
ニーチェのテキストを読むことでどれだけ有機的な「自分の考え」を創っていけるかじゃないのかな。
悲劇の誕生は、ディオニュソスについての語りが扇情的なだけでなく、いい感じに比喩の混乱が犇いていて、ニーチェの思想的エキス含んだ有機的な栄養素を抽出しやすいと思う。
どちらにしても、抗鬱剤漬け脳髄乱れ気味かつ哲学素人な私でも、悲劇の誕生はニーチェ理解する上でかなり重要だと思う。
>>402 宇多田はすごいと思ってるようだが、
宇多田ってどうよ?
俺はあいつは臭いと思ってる。
精神的に異臭を放ちさえしてるとね。
好きといえば好きだが、嫌いといば嫌い。臭いからね。
きっとすごいやつほど、矛盾を孕んでるんだ。
ということは肉体的には意外といい臭いかもしれないということだ。
女は二十歳ぐらいから妙な臭いを発散するようになるものだが、
宇多田はいい臭いなのかもしれない。
機会があれば嗅いでみようと思ってる。
404 :
考える名無しさん :2007/07/28(土) 03:42:06 0
First Love が一番いいね。
宇多田の音楽の障害物はあいつ自身だよ。 そんなことは、誰にでもいえるだろうが。 でも自分自分うるさいのは自分の希薄さの隠蔽みたいなもんだろうね。 でも自分を出すほどに文字通り自分は出ていってしまう。 それが他人の嗅覚を刺激してしまうのだろう。 芸術的にはそれでいいわけだろうが、 他人の鼻に付くわけだから、煩わしい社会生活を送る羽目になる。
いやという程の苦しみや恐怖を身に浴びたときに、往々にして認識の夜の花が開くのだ ニーチェ
>>402 >後年のニーチェが「やりきれない」といっていたことと悲劇の誕生のニーチェ読解における無意味さを算術めいた単純さで連結するような発想
>でしかものを考えられないような太い神経に、ニーチェの生を讃える精神が歌う音楽は、共振したりしない。
何か内容のあることを言おうとしているのかどうか分からないが、
君はまず、もうちょっと意味が通じる文を書く訓練が必要だな。
『悲劇の誕生のニーチェ読解における無意味さ』って何だよw
『ニーチェの生を讃える精神が歌う音楽』も、わけわからんなw
とりあえず、『の』の使い方に気をつけること。
まともな文章をかけない奴は
『の』の意味が曖昧な文を書く奴が多いから。
408 :
考える名無しさん :2007/07/28(土) 11:34:32 O
>悲劇の誕生のニーチェ読解における無意味さ ≠ ニーチェの思想を理解する上で「悲劇の誕生」を読むことはむしろ障害になるということ >ニーチェの生を讃える精神が歌う音楽 ニーチェの生を讃える精神が奏でる音楽
>>408 不合格w
自分が言いたいことを過不足なく相手に伝える訓練が
全然できていない。
あと『の』の意味に気をつけるということの意味すら
君には分からなかったようだ。
『ニーチェの生を讃える精神』の『の』は、
『生』にかかるとも『精神』にかかるとも
どちらともとれるんだよ。
410 :
402 :2007/07/28(土) 11:51:00 0
>>409 は
>>402 とは別の方です
>>407 指摘ありがとうございます
苛立ってると、自分が打ってる文字なんか見もせず、文法の崩壊や明らかにポエムなメタファーとかに気付かず、書き込みクリックしちゃうのよ
>『悲劇の誕生のニーチェ読解における無意味さ』って何だよw
「悲劇の誕生の」が「無意味さ」にかかってる
「ニーチェを理解するにあたって、悲劇の誕生を読むことが無意味であること」という意味。
一回目の「ような」までのすべてが「発想」にかかっていて、
「発想でしかものをかんがえられないような」と「太い」が「神経」にかかってる。
>『ニーチェの生を讃える精神が歌う音楽』も、わけわからんなw
「ニーチェの」と「生を讃える」が、「精神」かかっていて、
「精神が歌う」が「音楽」にかかってる
それで、「神経」に「音楽」が「共振する」、ていう心理的なものと物理的な現象をごっちゃにした滑稽なメタファー。
ニーチェが後で『悲劇の誕生』を批判したからといって、
『悲劇の誕生』がニーチェの思想を理解するのに役に立たないと見做すことは、
間違ってる。そういう短絡的な考え方では、ニーチェの精神を感じることはできない。
だいたいこんな内容を言いたかったわけです。
>>398 どうせ意味不明の文章なんて本気にしていないでしょうけど、とにかくごめんなさい。
昨日、吐き気するくらい気分悪かったときに見てしまって。悲劇の誕生は、感情的に愛読した本だったから、つい。
一般的に粘着コテハンの毒舌なんて、
檻に監禁された怠惰なエゴイスト
底なし毒沼に投獄された哀れな鉛
贓物を吐き出しのたうつナメクジ
の独りよがりの嘔吐みたいなもんだから、適当に冷笑しといて頂戴。
411 :
402 :2007/07/28(土) 11:54:29 0
412 :
考える名無しさん :2007/07/28(土) 11:59:25 O
>>409 意味を考えれば
ニーチェの 生を讃える精神
という解釈に決まってくると思いますが?
>>『ニーチェの生を讃える精神が歌う音楽』も、わけわからんなw >「ニーチェの」と「生を讃える」が、「精神」かかっていて、 >「精神が歌う」が「音楽」にかかってる そういう意味の文を書きたいなら、 今後はせめて『の』のあとに『、』を打ちなさい。 文章の書き方の初歩的なところだろうな。
414 :
考える名無しさん :2007/07/28(土) 12:06:07 O
そんな句読点は普通の人には無用です。
解釈の自由とは? 自由の度合いとは何か? 自由は能力に反比例するものである。
自由とは不能である。
自由は不可能性であるといった方が正確だろう。 これは欲望と同じだ。 不可能性に自由と欲望がある。 そして可能性には必然性があるわけだ。 必然性は可能性であると。
いや、可能性は必然性である。
420 :
考える名無しさん :2007/07/28(土) 13:39:13 0
>>419 そんな考えしとったら統合失調症になるで
ニーチェの娘、息子さんはいま何を?
ニーチェは生涯独身
ニーチェは素人童貞
>>415 文脈があるんだから、それをちょっとでも考慮して意味が通るように解せばいいだけ
>>424 そんなことはないだろう。文章の書き方の基本を知らないと恥かくよ。
「ニーチェの生を讃える精神が歌う音楽」はおかしい。
「生を讃えるニーチェの精神が歌う音楽」ならまぁわかる。
「悲劇の誕生のニーチェ読解における無意味さ」もおかしい。
独りよがりな書き方をする人っていうのは、それを読み手がどう読む
可能性があるのかを考える想像力が欠如してるんだよ。
「生を讃えるニーチェの精神を歌う音楽」 でしょ しっかり『語弊があるかもしれないが・・』って文頭か文末に付け加えたほうが適切だとは思うw
427 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 19:37:41 0
現実への対抗物としての芸術賛美・・・これも一つのルサンチマンに過ぎない。
>「生を讃えるニーチェの精神を歌う音楽」 >でしょ ますます意味不明になってきたな…w
ヘラクレイトス的
430 :
考える名無しさん :2007/07/29(日) 23:05:59 O
431 :
考える名無しさん :2007/07/29(日) 23:29:55 0
違うよ。 讃える生のニーチェを音楽の精神、だよ。
432 :
430 :2007/07/30(月) 00:10:39 O
文体の不具について幾つも書き込み来てたなんて、敢えて恥知らずな道化に相応しく表現してみると、2chてなんだか変にちくちくする笑気が漂うのよね。
色々指摘して下さるのは嬉しいのですが、
>>402 については
>>410 で詳しく説明したから、心理的にあてこすりたいだけならともかく、これ以上の言及は不要だと思います。
>>408 崩れた文章、代わりに解釈説明してくれて、ありがとうございます、確かに、奏でる、のほうが自然だったかも。
ヘラクレイトスとタレスは、世界の「根源」を考えた哲学者。 ヘラクレイトスは万物の根源は火であると、 タレスは万物の根源は水であると考えた。 個人的には水の方が(あくまで比喩として)それっぽい気がする。母なる海、母親の羊水、無意識の流動性。 ニーチェは、タレスを重要な哲学者として評価していて、万物はもともと一つだった、というタレスの考えこそがタレスをギリシャ初の本格的哲学者たらしめると考えた(「ギリシャ人の悲劇時代における哲学」)。 同論文に依ると、そのほかにも、それまでのギリシャ人は自然の環境も現象も何もかもを人格化的して把握し説明する方法しか知らなかったが、タレスが初めて人間や神々でなく水という自然の事物で世界を説明したことが、概念的把握の先駆者としてのタレスの功績。 たしかヘラクレイトスも、思想的にも人格的にも同論文でかなり高く評価されてた。 「根源的一者」「一なるもの」「存在の単一性」という、哲学的直観を備えた人なら幼児期から漠然と感じるような観念を、彼らが鋭い直観で認識していたことが、ニーチェに共感をもたらしたのかもしれない。 ヘラクレイトスの哲学の代表的な概念「逆流」は、ユングが自分の心理学に応用的に取り入れ、いろんなとこで使われている。 意識の態度がある極に偏った状態であるとき、意識下ではその極と対立する反対の極を無意識が担っていて、その不均衡な状態がずっと続くと、その不均衡さが限界を超えたとき、 無意識にある極が一気に意識上へ浮上し、その人の心理的な偏りは劇的に逆転する。 密度の大きい液体の中に低密度の物体を液面下へ無理やり手で沈めているとき、そのためには力が要るので疲れて、ちょっと気が抜けたとき手の力を緩めてしまうと、物体が一気に上方へ跳ね上がる。喩え。 キリストの教えに従う人々を迫害していたファリサイ派パウロが、突然イエスの幻視を見て、心打たれて改心し、キリスト教会を築いたことが、有名な例。
ふ、幻視と言い切るのはどうかな
>>391 >突然きわめて暴力的な反応に反転しかねない
ニーチェにこういうのがあった。
「精神において孤独者であり自由人である彼らは、世間の目に映じている自分達の姿が、自身の意中のそれとはたえずどこかで食い違っているのを承知している。
・・・・・そのために彼らの額には憂鬱の暗雲が立ち込める。それというのも、こうした気性の持ち主たちは外見が不可避であることを死よりも憎むのであり、そのことで
常々憤懣が蟠っているために、いつ爆発するかわからない火山に似た存在と化している。・・・・・
身を隠していた洞窟からおそろしい形相で出てくる彼らの言動にはさながら火山爆発の観があるのであり、身を滅ぼすことにもなりかねない。
・・・・・総じて非凡な人間に対するもっとも恐ろしい仕打ちは、彼らを内面の奥深く追い込み、そこから出て来る彼らの再登場がその反動で
火山爆発じみたものになるように仕向けることである。もっともこうした悪条件にもめげずに、堂々と胸を張って生きる半神のような人間は
いつの世にも存在した。そうした人間の孤独な歌を聞きたいのなら、ベートーヴェンの音楽を聞くがよい。」(教育者としてのショーペンハウアー3)
その鬱陶しい摩擦や負荷に全神経系が擦り切れてしまいそうな人間関係網や社会の一員として、学校予備校バイト先などで白々しく振舞はなければならないことに対して、
全部投げ出したいもう人間引退したいくらいてくらい煩わしい気分になったり、ニュースとか見てて毒気や吐き気したりしたときなどは、
「教育者としてのショーペンハウアー」なんか開いてみると、名文の節々に響くニーチェの声のようなものが、心を晴れやかにしてくれる。
気高い人間性、穏やかならぬ優しさ、自分や尊敬する人に対する徹底した誠実、などが感じられるいい文章。
ニーチェは人間的にも思想的にもショーペンハウアーの真の弟子だったんだな、て伝わってくる。
哲学以外の意味でショーペンハウアーの随想の魅力が、鋭い感性が繰り出す読む方もストレス解消になるような絶妙な皮肉にだとしたら、
ニーチェの随想の魅力は、一途な人間性と卓越した批判精神による誠実な反骨、ちょっと暑苦しい真っ直ぐさ、たまに猛々しい激情、みたいなのが語りかけるような溌剌とした調子で滲み出てるとこ。
二人ともユーモアがあって、読む人に親近感みたいなものを喚起する。以上、下らない独り戯言でした。
>>435 ありがとうイエスの幻視じゃだめだった、
光の幻視とイエスのお告げの幻聴、が有力な説らしい。
統合失調症患者の住み家はここですか?
666は生きてるか…? せめてあなたがいないとこのスレは崩壊します。
これ以上ヘンなの呼び寄せるな
>>433 >色々指摘して下さるのは嬉しいのですが、
>>402 については
>>410 で詳しく説明したから、心理的にあてこすりたいだけ>ならともかく、これ以上の言及は不要だと思います。
独り言の羅列よりは、日本語教室やったほうが有意義。
論理的思考力を高めることになるから。
>410は意味の説明をしてるだけで、それが何故悪文であるのかが書かれていない。
「悲劇の誕生のニーチェ読解における無意味さ」について考えてみよう。
「悲劇の誕生の」が「無意味さ」にかかていているとすれば、この部分の意味は、
〈ニーチェを読むことにおいて、悲劇の誕生は無意味である〉ということになる。
しかし悲劇の誕生が無意味なのではなく、悲劇の誕生を読むことが無意味なのだから、
「悲劇の誕生の無意味さ」という句自体が不適切だということになる。
できるだけ表現を変えずに適切な言い方に改めると、
『ニーチェ理解における悲劇の誕生読解の無意味さ』のようになるだろう。
>>434 >ヘラクレイトスの哲学の代表的な概念「逆流」
ヘラクレイトスの「逆流」って有名?
聞いたことがない・・
詳しい解説希望。
「キリスト教は邪教です!」を読んだ。次はツァラトゥストラがいいかな?
>>438 統合失調症患者は2chにいるだろうけど別次元のタイプ。陽性だと、本当にイエスの幻聴が聞こえるかもしれないし、上のリンクにあるように月へ行ったりするし、現代の患者だったら、
友達からの親切な電話を自分に対する殺意だと解釈し警察へ駆け込んだり、テレビに出てるニュースキャスターが自分の心の中にあることを話してると妄想する。
リスカ癖持ちの患者になると、自分の腕の中に盗聴機が入ってるから取り出さないといけないと思い込んで、カッターで切開することもある。
陰性だと、哲学なんて読めたもんじゃなく、苛立ちも情念も鬱も一切なく一日中何もせず、たぶん2ch住人だとオカルト板で一行文句延々と並べたりしながら、ぼぉっとしてる。
2chを哲学めいた長文で荒らしてストレス解消しようとするのは、典型的な神経症者や人格障害者の悪癖。
鬱病患者が、責任意識がつよいけど弱気で内気、正直で表と裏がほとんどないかあるいは表と裏が違うことにくよくよ気に病むような人に多いのに対して、
神経症になりやすい人の性格的特徴は、表と裏が極端、本心から優しいけど実は脳内毒舌、親切だけど内側では自己中心的、相矛盾するものを同時に抱えている、神経質、演技が上手い、無責任、依存的、などで、
症状としては、自意識的な葛藤、演技的自己顕示的行動、慢性的な苛立ちなどが多い。
例えば、仮に、優しくて快活な優等生を演じながら心の中では学校を家畜小屋に喩え呪詛しているような生徒がいたとしたら、
その人は典型的な神経症的人格。寓話的に描くなら、罪人の拷問現場を目にして、罪人の身になって苦悩しながら拷問官と一緒にくすくす面白がる、そういう人。
>>445 の上のリンクって↓のことね。順序ミス。
>>442 「逆流」というのはユングが使うときのイメージであって、
ヘラクレイトス的文脈では「エナンティオドロミア」というギリシャ語↓のままでいったほうが良かったみたいです。
曖昧なままここに晒さされるのはいけないので指摘ありがとうございます。
エネルギーがこのように行ったり来たりする状態を、ユングは「エナンティオドロミー」と言いました。
エナンティオドロミアというギリシア語は、古代ギリシア哲学者のヘラクレイトスの言葉です。
ヘラクレイトスの「万物は流転する」という言葉は有名ですが、これは万物は対立し争いながら、
その対立する相手の方に変化していく、しかし対立しても元に戻って、全体としては調和しているのだという見方です。
(
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/jung5-3.htmlより引用 )
エナンティオドロミーとは「逆流」という意味である。ヘラクレイトスの哲学においては出来事の逆転がこの概念で呼ばれている。
すなわち存在するものはすべて反対のものへ移行するという世界観である。(ユング「タイプ論」)
絶対的固定的な対立があるのではなく、相対的な動的な対立があって、何かが一極に傾くと必ずもう一極へ行こうとする力が働き、
逆転したりしながら、なんとか調和をとろうとする。その逆転する現象のことが「逆流」「エナンティオドロミー」
>>441 丁寧な日本語教室、ありがとうございます。
>>436 の日本語正しておきます。
>その鬱陶しい摩擦や負荷に全神経系が擦り切れてしまいそうな人間関係網や社会の一員として
おかしい日本語なのかどうか自分ではわからないけどとりあえず英語でいうと、
だいたいas a member of human relastions or communities
whose depressing friction and load seem to crumble our whole nervous systemという意味。
>絶妙な皮肉にだとしたら
→絶妙な皮肉だとしたら、絶妙な皮肉にあるとしたら
>>434 も
>それまでのギリシャ人は自然の環境も現象も何もかもを人格化的して把握し説明する方法しか知らなかったが
人格化的して→人格化して
>>442 万物の流転についてもっとヘラクレイトス的文脈でいうと、ニーチェの言葉を借りるなら、
「・・・・火の辿る二つの変化の過程の起動は休むことなく、上へ下へ、先へ後へ、または互いに並行して、
火から水へ、水から土へ、土から再び戻って水へ、水から火へと駆け巡る。」(「ギリシャ人の悲劇時代における哲学」6)
「・・・・この世界に罪、不正、矛盾、苦悩は存在するのか?
然り、とヘラクレイトスは叫ぶ。しかし、そういうものが存在するのは、
物事をばらばらに分けて見て、まとめて見ようとしない人間という偏狭な者にとってだけであって、
物事を総括的に見ている神にとってではない。神にとっては互いに`背き合う一切が馳せ寄って、
一調和を集大成している'のである。もとより、これは普通の人間の眼には見えないが、ヘラクレイトス
のような静観する神にも似た人間には了解しやすいことである」(同7)
ニーチェのヘラクレイトスについての著述は、思想的にも人間的にもかなり深く感情移入してる。
まさに自律神経的に、
>>378 にあるように、ヘラクレイトスの身になって、考え、感じ、書いている。
哲学者がニーチェに紹介されると、読み手にとっては、まるで文面から生身の姿が伺えるかのような、生き生きとした実感で、
その哲学者の精神に触れることができる。
根源に対しての直観力のある人は、世界を絶え間ない「生成」の過程として流動的に捉え、
抽象化による概念の量産、固定的な解釈、などを蔑視する傾向が強い。
表面上にあらわれるさまざまな現象を、個々の概念で細かく把握し因果関係を結ぶのではなく、もっとダイナミックな一元的なものを唯一の原理的中心におき、
世界の表面をその一者的なものの動きの相対的表れとしてとらえる。
また、何でも何処にでもとにかく書かずにはいれない妙な病を抑えられず、魔が差してしまいました、迷惑な嵐、大変失礼しました。
六六六さん、熱い議論どうぞ。
今日は仕事で疲れてるんで明日書くよ。
>>397 それを読んだこともないのだが、『永劫回帰』について少し書いてもいいかいな?
,,,,,, ,,,,,,liiliiiiliiiiiiil,,,,, ,,,,iillll゙゙゙,ll ,,lll!!!lllllllllllllllllllllllllllii,,, .,illlliilll!!llil゙ ,,ll゙゜ .゙゙゙゙!!!lllllllllllllllllllllllllilllllllllll゙° ,ll゙゜,,lii,,,,,,、 ゙゙゙゙゙゙゙゙!!!!!!゙゙゙!l ̄ ,,l゙`,ill゙゙゙゙li,゙゙ll, .,,illiiilll,,, ゙i、 ,l°,ll゜ ll" ,l! ,ii!゙゜゙゙li ゙゙l, .lli, l″ lll,. ,,,i!゙ .,ll° .,ll° .,ll" ll! ,llli,, .,ll!゙゙゙゙゙li, ,l′ '゙!!lll,,illl゙゜ .!li,,,,,il!’.,ll° .llllllli,, 'l, .ll .ll ゙゙!!lllllll゙° .,lllllllllllii,, ゙゙l, ゙l,.゙l, .lト ,illlllllllllllllllii,,,, ゙l, ゙l,,゙l,、 .,,illi,, ,illllllllllllllllllllll!゙′ '゙l,, ゙゙ll,lll,, !l,,ill .,,,illllllllllllllllll!!゙゙゜ ゙ll,,、 .゙゙ll!lii,,,,、 ゙” ,,,,lll゙’`゚゙゙゙゙゙゙″ ゚゙%,,,、 .゙゙゙゙!lliiliiiiliiiiiliiiilllll,,、 / 永劫 回帰 \ / y Y | | 〈 ュ__─-__ュ__〉 | | 7 l | | / ∧ | | l 丶 l | L__ ` / /ノ \ ` l ∩ l ノ 〈 \_/ / / / \ \ / / \ \ `ー ' `─ '
「816」崎谷博征(さきたに・ひろゆき) SNSI研究員 の 新刊 『グズな大脳思考 デキる内臓思考』
を紹介します。浅薄な「合理主義的思考」に代わる新しい思考法は、現実の生活にも大いに役立つ思考法です。
2006.12.24 副島隆彦が文末に加筆しました。2006・12・26
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#2401 始めの問題に戻るが、「人間は、生まれつき(生来)、その能力や性質が、決まっている」と考える立場である
ネイティビズムは、生来決定論と言ってもよい。
ルネ・デカルトが、この学派の創始者の一人とされる。もっとさかのぼると、アリストテレスが、この学派である。
だから、近代法思想の中の自然法派( natural law ナチュラル・ラー、 自然界の法則と同じように、人間界にも
自然の掟があるとする派)もここにつながる。中世のノミナリスト(個物派)もこの流れだ。
だから、ヘーゲルも、ニーチェも、ハイデガーなどの個物派系の思想家たちも、実はネイティビズムだ。
個人の能力は、それぞれ、生まれながらに決定されている、だから、後天的に変えることはできない、とする。
このネイティビズムの立場では、生まれた後の、環境や教育によっても、その人はほとんど変らない、とする。
それに対して、ビヘイビアリズム「行動科学主義」の立場では、「人間は、生まれた時は、真っ白な紙
( tabla rasa ,タブラ・ラサ)である。それが、環境と教育の力でどんどん書き込まれて、改善されて行く。
人はより優れた人物になることができる」という思想である。
これは、ジョン・ロックの思想(ロッキアン)の系譜とされる。さかのぼれば、プラトンのイデアリズム
(理想主義)にまでゆきつく。このビヘイビアリズムが、現在のリベラル派の思想の土台であることが分る。
それに対して、ネイティビズムが、保守派の思想である。
今の私は、当然、ネイティビストである。ただし2割ぐらいは、環境と教育の力で人格改善できる、しかし
8割は無理だ、とする中間の立場だ。
452 :
金曜日 :2007/07/31(火) 06:50:12 0
>>451 人間の身体的な特徴は両親からうけついだ遺伝子て的要素でほとんど決定される。
しかしながら精神の基底的な部分は母体内での環境で決定され
生後まもなくの母親を主とした環境でも性格そのほかが影響をうける。
妊娠時に母親が偶然にも交通事故にあったとしよう。
その子の人生にとってそれもまたおおきな環境のひとつだ。
また人生での経験はひとの性格や思考に影響を与え
ひとはそれによって日々おおくのものを学ぶ。
その偶然的要素と必然的要素の割合は不確定だ。
2割とか宿命的な考え方は好きじゃないなあ。
>>451 この崎谷博征って人は哲学をよく知らない人だな。
>だから、ヘーゲルも、ニーチェも、ハイデガーなどの個物派系の思想家たちも、実はネイティビズムだ。
>個人の能力は、それぞれ、生まれながらに決定されている、だから、後天的に変えることはできない、とする。
ヘーゲルもニーチェもハイデガーもそんな思想じゃない。
>>453 だよね。
ヘーゲル、ニーチェ、ハイデガーがなんで唯名論者になっちゃうの・・・
>>451 は、
自由と必然を、実念論と唯名論にそれぞれ割り当てているところがおかしい。
ニーチェについて言えば
「運命愛」という思想が、自由と必然との一体性をあらわしている。
合理的思考一般が浅はかかどうかは置いといて、 そもそも著者自身が浅はかな合理的思考でしかものを考えられてないから意味がない 浅はかでない人なら、ふつうあんな俗っぽいことにこだわったりせず、せめて哲学の常識くらいは知ってるはず。
モスバーガー
>>456 ニーチェは哲学者達から自分で遠ざかった人間ではないのか?
扉を後ろに強く叩きつけて…ヤギのように紙をパクつく教授たちに愛想を尽かして。
もし、「生を肯定する哲学」というものが有り得たとしたなら、それは
哲学とは呼べずに「思想」と形容されるべきものだろう。
「この人を見よ」で紅茶やコーヒーの飲用についてまで書き連ねるのを
気が狂う前兆であると言い切った論評を昔読んだ記憶があるが、
体調管理と思考への影響すら視野に入れる思想家の方がよっぽど面白いと思えたものだが…
ニーチェの魅力というものを取り上げるとき、私が一番に思うのは、「高潔さ」に対して感受性があるかどうかだと 思っている。 君たちもその当事者になったことはないか? 学級における陰湿な集団疎外の「いじめ」という現場を… 当事者を除く彼らはまったく無邪気に害悪である。そして干渉しないことが自分の「善性」を保証する隔壁だ思っている。 そのくせ自分を『善人』であると信じて疑わない。 いじめられる本人をかばって励ましてみれば依存心もいいとこで「弱者は守られて当然」みたいな思い込みで自助努力の 痕跡も皆無。留守の間に被害に遭えばこちらを非難してくる始末…。おまけに集団疎外の雨あられ・・・ 「人間とは身勝手なものだよ」と締める前に、なんでこんなに人間は“中途半端”なのだろうと憤慨せねば気が治まるまい。 どうしてお前らが正義であろうか!? どうしてお前らが善人であろうか!? と・・・ 小学生の頃から思ったものだ、「お前らはヒーロー戦隊ものを観て何に共感するか、それはヒーローではなくて無償で助けてもらう 市民の立場ではないのか」と… ツァラトゥストラの「市場の蝿」を読んで笑ったものだった。「彼らはまったく無邪気に人を刺す。彼らに血(情熱となりうる意欲)が ないゆえに、彼らは人を刺すのだ」 ニーチェの「市井の道徳」に対する批判、善人に対する批判も根っこは似たような学徒時からの体験から得た確信だったかも知れない。 それが宗教的なものから還元された道徳へと矛先を向けたとき、一つの整合性を持って自己欺瞞的な“善良な市民”に対する 薄っぺらさや偽善的な良心に対する酷評へと変貌したのだとすれば、この視点は一貫したものだと言えるだろう。 「善人とは"終わりの始まり”である」 なぜ彼はそう語ったのか? 末人を解析する必要が日に日に迫っているのではないのか?
460 :
医学生 :2007/08/01(水) 06:17:09 0
行動主義か遺伝主義か。ドイツ哲学はこんな議論しません。どちらも還元主義の唯物論です。問題は観念論的意志論的か唯物論的機械論的かだ!ヘッケルみたいな神秘唯物姦通ご都合主義者は罷免されよ!
>>458 >ニーチェは哲学者達から自分で遠ざかった人間ではないのか?
>扉を後ろに強く叩きつけて…ヤギのように紙をパクつく教授たちに愛想を尽かして。
そんなことはないでしょう。
過去の哲学への批判と、過去の哲学からの影響によって自らの
哲学を作っていった点で、ニーチェも他の哲学者たちと同じでしょう。
ニーチェに特徴的なアフォリズムや文学的な文体についていえば、
それはヘーゲルを頂点とする体系的哲学に対する反動だと思われ、
キルケゴールにも共通することであるので、時代的なものとも考えられる。
>>459 >「人間とは身勝手なものだよ」と締める前に、なんでこんなに人間は“中途半端”なのだろうと憤慨せねば気が治まるまい。
>どうしてお前らが正義であろうか!? どうしてお前らが善人であろうか!? と・・・
それは現実に対する不満なわけだけれど、その不満と、
あるがままをそのまま肯定する運命愛とは、両立する?
本を読まない若者の薄っぺらさのほうが個人的には深刻な問題だ
463 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 17:08:47 0
映画 「ルー・サロメ 〜善悪の彼岸〜」
464 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 21:15:49 O
偉大なものは、鳴き続けるって あれ、どの書籍に乗ってるの? 教えてエロい人!
465 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 21:17:07 0
466 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 21:38:59 O
偉大な者は 鳴き続ける ウリナラマンセー まで、読んだ
467 :
考える名無しさん :2007/08/01(水) 21:46:48 0
美人とセックスする時は顔しか見てないから 貧乳でもいいってことじゃない? 俺がそうだし
鳴き止まないFender Mustang 外へ出たがる赤い鮮血 身体に流れる拙い詩
>>459 >自己欺瞞的な“善良な市民”に対する
>薄っぺらさや偽善的な良心に対する酷評へと変貌したのだとすれば、
コレ、本当に六っち?なんか、ガッカリだなあ。まんまルサンチマンじゃん。
>「彼らはまったく無邪気に人を刺す。彼らに血(情熱となりうる意欲)が
>ないゆえに、彼らは人を刺すのだ」
この文章からは、確かに【語り手】が無邪気な多数者よりも自己の視点を上位に
据えたニュアンスが感じられるけれども、それは飽くまで形容する表現であって、
比喩の選択や文体も含めて「市井の道徳」を造形したに過ぎないんじゃない?
【語り手】ってのはツァラトゥストラであり、即ちニーチェでなくっていう。
俺の方がおかしい?だとしたら、ニーチェってのも所詮そんなもんなのか?
>>461 >それは現実に対する不満なわけだけれど、その不満と、
>あるがままをそのまま肯定する運命愛とは、両立する?
運命愛が諦念であるわけは無いというのは自明の事ではないのか。
ツァラトゥストラに、何にでも「然り」というのを総体満足家として揶揄する項がある。
そもそもあるがままを受け入れて善しとするならツァラトゥストラの教説自体がナンセンスだろう。
彼が必然を口にするのは大衆と決別した後の『離反』の状態からではなかったのか?
ツァラトゥストラが必然を口にするのは過酷さを引き受けてなお然りという自分の「生き様」への態度に対してであり、
詳細に検討したとしても自分にはそういう行動にしか出ることはできない、という確信が、無限回生まれ変わっても
そういう自分でありたい、とする意欲に変わるとき、それを「運命愛」というのではないのか?
それが自分の“趣味”を尊ぶ、ということではなかろうか?
もっともこの世界に対する認識(意義付け)自体がそもそも趣味の問題なのだが…
あ、趣味という単語で連想ゲームをするのは辞めてくれ。
あくまでツァラトゥストラの文脈に則った話だ。
>>469 )まんまルサンチマンじゃん。
もしもこれが自分の憤懣を書き連ねただけだったならそうだろうね。
だけど重要なことはそれじゃないんだ。
最重要項目で考えなくてはならないのは、何故「善人とは"終わりの始まり”である」と語ったのか、なんだ。
この視点は今まで読んだことが無かったくらいにカルチャーショックだった。
あまりにも根が深すぎるからだ。
そもそもツァラトゥストラが末人を改善しようとしているだろうか?
否、否、三度否である。
472 :
考える名無しさん :2007/08/02(木) 00:10:24 0
「然り」が肯定や受容と言ってもよいが、気分は別だろ。 つまり、「俺んちは確かに貧乏だった」それゆえ「高校もあきらめ」なんたら かんたら・・・すべては、「そのよう」だったのだ。
>>470 >運命愛が諦念であるわけは無いというのは自明の事ではないのか。
自明ではないでしょうね。
運命愛は仏教の諦念に近いと考える人もいます。
>そもそもあるがままを受け入れて善しとするならツァラトゥストラの教説自体がナンセンスだろう。
あるがままの世界をよしとするのが運命愛ですよ。
そして、あるがままの世界に対する不満とあるがままの世界
に対する肯定とは、両立するのか?というのが私の問いです。
>彼が必然を口にするのは大衆と決別した後の『離反』の状態からではなかったのか?
どういうことですか?
>そういう自分でありたい、とする意欲に変わるとき、それを「運命愛」というのではないのか?
それは運命愛についてのニーチェの説明とはかなりずれていると思います。
ニーチェの説明では、運命愛というのは、
「割り引きもせず、例外もつくらず、選択もしない、あるがままの世界に対するディオニュソス的な肯定」
「必然的なものを耐え忍ぶだけでなく、・・・必然的なものを愛すること」
です。
>>471 >何故「善人とは"終わりの始まり”である」と語ったのか
この定言において「善人(末人)」の態様に関しては著作に多く言及されている。
寧ろ疑問に感じるのは、「終わり」とは何を表わしているかだ。
「【末】人」という表現の中にも、ニーチェの或る指向性が表現されている。
基本的に『ツァラトゥストラ』の構成やプロット、並びに文体が聖書のそれを
擬した形態をとっているのは改めて言うまでもないが、「終わり」或いは「末人」
といった表現によって【否定さるべきもの】を描いていることのうちには、
それこそキリスト教会が信者に対して破滅という恐怖を煽る形式が見られる。
とはいえ、この形式自体を批判しているのではない。
要するに、『ツァラトゥストラ』は飽くまでドイツ人であるニーチェがキリスト教
圏の読者に向けて最も効果的に受容されるべく書かれた述作であるということだ。
ニーチェはまた「終わり」に対して、独自の視点である「永劫回帰」を述べている。その思想の解釈には実に多くがみられるが、その真贋はさておき、畢竟この
曖昧なまま残された表現には、読む者に著作との個人的な関係付けを作る機縁を
与える効果が生じる。
結局、人は【読みたいものだけを読みとる】と言ってしまえばそれまでであるが、
上記したような論理的脱落があってこその『ツァラトゥストラ』であり、その表現
された思想の解釈においても各人の体験如何による違いが生じざるを得ないのだろう。
レスに対する反論にはなってないけど・・・あしからず
>>461 >ニーチェに特徴的なアフォリズムや文学的な文体についていえば、
>それはヘーゲルを頂点とする体系的哲学に対する反動だと思われ、
>キルケゴールにも共通することであるので、時代的なものとも考えられる。
文学的文体が、時代的なものだと第三者的にはそう思えたとしても、ニーチェやキルケゴールの精神や人生という完全に個人的な要因が重要だと思います。
思想や文学における偉人達においては、もともと彼らが超時代的な天分を持っているからこそ時代を動かすような思想を生成する可能性をもっているのであって、
自分の個性に付着した時代的なもの、彼らにとっては不要で邪魔な不純物を、精神的な苦闘の中で能動的に取り去ってはじめて、
精神的な自由を手に入れ、天分を束縛から解放し最大限発揮することができ、その可能性を発現して「血を以って」の思想の生成に繋がるのだと思います。
ニーチェは、個々の哲学の内容に対する批判というだけでなく、もっと根底的に哲学のあり方や哲学そのものに対し、
一般的な哲学の範疇を軽く超えた生の全体像が展望できる視点から、鋭い批判をしている。
その時代のほとんどの領域と敵対してまでも真の哲学を行おうとする彼の精神は、もちろん完全な孤独を約束された。
ニーチェの衝撃力のある文体は、時代の流れから完全に独立した孤独や苦悩の境地で初めて生まれるものであって、
ニーチェ自身の超時代的な天分や孤独な境遇がもたらしたものだと言えると思います。
「反時代的考察」には、哲学教授に対して愛想を尽かすことを示す言葉が見られます。
学問としての哲学の整合性、体系性などに知性が向けられることによって、
もともと哲学が扱う対象であったはずの生そのものへ知性が向かわなくなってしまうことにたいする憤りがあったのだと思います。
ニーチェは学者達が陥りがちなそういう陥穽とは無縁で、哲学のあり方そのものやそういう哲学しかできなくなった同時代の哲学教授の生のあり方を批判し、
芸術への深い理解や鋭い自己認識に直結した視点から、哲学の意義を根底的に捉えなおした、
そういう意味で、
>>458 の>ニーチェは哲学者達から自分で遠ざかった人間ではないのか?
は、的を得ていると思います。
(文明の)終わり
477 :
考える名無しさん :2007/08/02(木) 20:57:46 O
ふと思ったんだが早の心身を写実的に描いたとしたら、ピカソチックなひねくれた奇妙な絵になると思うんだがどうよ。 別に早でなくてもそうなんだけど。 ピカソときたら、精神と物質を一元的に描いたのだというのは、どうよ?
ピカソとニーチェもある意味似てるような気もするね。 両者とも写実的客観的認識能力は秀逸なわけだが、 あえて正道とされている道から逸脱していったわけだから。 秀逸故にその限界もよくわかったというわけだ。 それはカントが純粋理性批判を著わしたのと同様のところがある。
同様といえば、かのソクラテスの無知の自覚もそうだが。 合理性の限界に不合理な神秘的なるものを見出さざるをえないというもんだろうね。
iiilllllllllllllllllllllllllllllllllllllliiii,,, .,,,,iiiilllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllii,,,,、 .,,illlllllllllllllllllll!!!!!゙゙!!!!!゙゙゙゙゙!!!!!!!!!゙!!!!lllllllllli,、 ,,llllllllllllllllll!゙゙` ゙゙!llllllllli,, ..,illlllllllllllllll!゜ '!llllllllllii, .lllllllllllllllllll! ,,,,,,,,,,,_、 : : .llllllllllllli、 .llllllllllllllllll!: ,,ll!!゙゙゙゙゙゙゙゙llll,, .,,lll!!!!!!!lillllllllllll| .lllllllllミllllll°゛ ゙ド .:l゙° ゙リllllllllll .'゙lllllllllllll′ iiiill!!lllll%、: .ililllllllllト.゙!lllllll! '゙゙!lllllll° .'゙lアボl,i. 'lマンセー '!!!゙ ..,,゙!lll、 ,,,,,'゙′ .,,: .,,i、 .:ll、'!l, ,,,:lll゙:.゙,,,midori,ii,.:!l!: :ll゜ .゙li: '゙ll,, .,iill゙’ : ゙!゙゙゙゙゛ ゙lii, .:,ll :ll,,_: lli、: : `: ,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,e,,,,,,, ′,il° `゙゙l゙;lil,,、 .゙゙゙!ウメハラマンセーl!゙゙゙゙゜.,ii″ .,,iiii゜'l!lllii,, .'゙゙lアホlアボ° ..,,i゙ <だーれが悪どいねん : ,,iillllll゜.,,.:lllllll!: : : ,ill゙ 儲けるためには囚人からは搾取し illllllllllll、゙!iillllllii,,,,,,,、 .,,ll!゙゜ 客からはボッたくるwこれ当然 llllllllllllll, .゙゙!!llllllllllllliiiii,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,iilllllliiiii,,,,,,,,_ llllllllllllllli,, .゙゙゙!!lllllllllllllllllllllllllllllll!"llllllllllllllllllllllllil
>>475 >自分の個性に付着した時代的なもの、彼らにとっては不要で邪魔な不純物を、精神的な苦闘の中で能動的に取り去ってはじめて、
>精神的な自由を手に入れ、天分を束縛から解放し最大限発揮することができ、その可能性を発現して「血を以って」の思想の生成に繋がるのだと思います。
では、ニーチェの運命愛とは何なのですか?
運命愛の「運命」は、時代的なものとは無縁なものなんですか?
>芸術への深い理解や鋭い自己認識に直結した視点から、哲学の意義を根底的に捉えなおした、
>そういう意味で、
>
>>458 の>ニーチェは哲学者達から自分で遠ざかった人間ではないのか?
>は、的を得ていると思います。
前に書いたように、どんな哲学者も、過去の哲学への批判と、
過去の哲学からの影響によって自らの哲学をつくります。
ニーチェが何かを批判する場合、その批判の意味をよく考えなければならないと思う。
或る思想が自分の思想に近いが故に批判するという場合が、ニーチェには特に多い。
そういう場合には、近さの中にある遠さだけが強調されるわけです。
ほんとうに遠ざかっているとすれば、批判もせずに、無関心に通り過ぎるだけでしょう。
>>475 的を得ている・・・×
的を射ている・・・○
ニーチェは他の哲学者から生きた道連れを探した しかし、結局見つからなかった そういうことだろ?
>>477 ピカソチックなひねくれた奇妙さ、というより、カンディンスキー的な支離滅裂に近いかも。
カンディンスキーの絵の中心に人型を描いてみたような、
心が身体からはみ出て滅茶苦茶んなってるような、支離滅裂な気分。
ピカソ、ってカタチに対する直観が凄いと思う。
いろんな造形物が、常に、頭の中で、あちこち動いていて、それを心の眼で、いろんな角度から自由奔放に眺めていそう。
精神と物質の一元性に関係するかどうかわからないけど、ピカソの精神は造形的なものでほとんど埋め尽くされてたりして。
すごい収集癖あったみたいで、アトリエにはガラクタがあちこち転がってて、ポケットの中にはそこら辺で拾った釘とかでも何でも入れてたらしいです。
>>482 >どんな哲学者も、過去の哲学への批判と、
>過去の哲学からの影響によって自らの哲学をつくります。
>ほんとうに遠ざかっているとすれば、批判もせずに、無関心に通り過ぎるだけでしょう。
たしかにそういわれると、
「‘哲学教授’から自分で遠ざかった」とは言えたとしても、
「哲学者から自分で〜」とは完全には言えないかもしれないです。
「哲学者から〜」て言えるかどうかはともかく、自分がニーチェが他の哲学者とは遠いところにいるように思ったわけは、前の書き込みに付け足すなら以下の通りです。
ニーチェの場合、過去の哲学からの影響とかそれに対する批判とかが、そもそも哲学的なあるいは哲学史的な次元より、生の創造性に関しての次元で起きている度合いが強いと思う。(もちろん哲学的にも認識した上でだけれど)
時代的、歴史的、哲学史的ていえるようなレベルで過去の哲学を見るより、ニーチェ自身の(「生に対しての歴史の功罪」の)言葉を借りるなら「非歴史的感覚」「批判的歴史感覚」で(あるいは哲学者との同化
>>378 によって)過去の哲学に接触している傾向がある。
現在の生を中心に見据えその創造性を最大限に発現させようとするためなら、史実の能動的忘却や過去に対する強引な解釈も生産的だと見做されるような歴史観。
そういう歴史解釈を優先させるニーチェにとって、哲学史やキリスト教含めその他歴史の全てが、こんな言い方が許されるとしたら、
自分の思想を形成するための触媒、表現するための素材にすぎないのかもしれない、て個人的には思えました。
他に、前の書き込みとは重複することですが、
人間の生活経験や歴史や他の学問を所謂哲学的諸概念へと抽象化し概念群を体系的に綜合していくことで普遍的な知へと昇華させていくような、ソクラテス以来の従来の哲学の在り方を、本当の意味での哲学ではないと根本的に否定し、
生の創造性を最大限引き出すことや生を肯定することが哲学の第一義である、と見做した点で、やはりそれまでの哲学とはほとんどかけ離れた地点で哲学を行っていたように思えます。
>では、ニーチェの運命愛とは何なのですか? >運命愛の「運命」は、時代的なものとは無縁なものなんですか? 475の>自分の個性に付着した時代的なもの〜血を以っての思想の生成ができたのだと思います は、客観的に見て「運命愛」が時代的なものとは無縁かどうか、に関係するレベルでの話ではなく、 少し付け足しながら説明するなら、 ‘ニーチェ自身にとってみれば'、「運命愛」などの晩年の思想に至るまでに、 時代的なもの、普遍的な真理、歴史的な見方、道徳、大衆的価値観など外部に存在する既成のあらゆる価値に対しての批判的な攻撃や破壊、世界や生に対する能動的なニヒリズムなどを体験していた、 そういう経過を辿ってはじめて自分の天分を最大に発揮し晩年の重要な思想を創造できた、 というようなことが言いたかったわけです。
>>485 できれば一つ身も心も描いてみたらどうよ?
しかし結構幹爺気にいったようだなww
さすがだ。幹爺。中島とは一見似ているようではあるが、中島ではこうはいかないだろう。ああそうさ!
江戸と明治には思ったなかったにせよ、戦前と戦後の間には断絶があるんじゃないかということだ!!
「どこにできたの?」 ::;;;;;;;;;;;;栄光あれーーーーっっ!!!うひひひひっひっっひいいいいいいい ! ウンチヲ肛門からspreadしはじめから、バカな客どもは黙ってすすめられた物を買えよ。 鬱 死;;;;;;;::..ヽ ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;; 10数万のエアコンを「これけっっっけえええっっけええええええええええミードリ電化の塵塵新店ポ♪ 塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵ええですわあ」と薦めている自分は 10年使用のワトリの毛を毟り取りながら肛門にチンポ突っ込みながら包丁で 扇風機が血まみれになりながら唯一の空調設備。これがミドソ最下層流 さあ、明日うひひ生きるなうひひ生きるなうひひ生きるなは三菱の激売だし、 三菱の霧ヶ峰アボーン様のニーズにあった商品を売りまくるぞ。 真のマゾプロ集団をめざします EMをす新店ポッポ♪ 新店ええですわあ」と薦めている自分は 10年使用の扇風機が唯一の空調設備。これがミドソ最下層流 さあ、明日はオマエラ全員ツンデシマエの三菱の激売だし、三菱の霧ヶ峰を売りまくるぞ。 ED新店ポッポ♪ レベル上げ中ボスにぶっ殺されてからちんぼもりもりです新店ポ♪ けっけポ♪ けっけ塵塵塵鬱 ;;鬱 おあああああっまっっさっさまままああああああああああああああドピュウウウウウウウッ0,,,,,,, 大人になれば栄光あれーーーーっっ!!! / ミロリってエデオンにのまれたんや 知らんかったからいやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ! ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩 ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! 僕らはみんな生きている 生きているからんはああーーーーっンッ、ウンコ゜.,,.:lllllll!: 青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 il°イナバウアー取lii,, .'゙゙lアホlアボ° ..,,i゙ 囚人全員、そり返すめるから、バカな客どもは黙ってすすめられた物を買えよ。 シャープも激売だろ
ミドソの糞糞新テンポ代わりは幾らでもおるんじゃあああああああ羅仮死破羅ああああああ あああ糞糞糞糞糞糞糞糞仮死破羅とチンポの絶妙なコラボレーション うひひいひいいひひひ いいいいうんこなりいいいいいいいいひよこなりいいいいいいけっけけけええええええええ 仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅 ρ仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅 仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅ρ ピュッピュッ 仮死破羅仮死破羅仮死破羅仮死破羅 仮死破羅仮死破羅仮 _ ._ 仮死破羅仮死破羅仮死破羅糞糞糞糞糞糞糞糞肝肝肝肝蛆 蛆蛆蛆蛆蛆ミロリってエデオンにのまれたんや 知らんかったからいやぁぁっ!あたし、こん なにぶてぃいっっっっっっいっぱいウンチ出してるゥゥッ! ぶびびびびびびびぶびびびびびびび ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!多 三 般 倒 掛 般 無」 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩 ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! 僕らはみんな生きている 生きているからんはああーーーーっンッ、ウンコ゜.,,.:lllllll!: 青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 塵塵塵塵蛆屑屑屑屑蛆蛆蛆蛆 蛆屑屑蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆肝肝肝肝肝肝蛆肝肝肝肝肝肝蛆蛆蛆蛆蛆肝肝肝肝肝肝肝肝 屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞肝肝肝肝蛆蛆蛆蛆蛆蛆塵塵塵塵蛆 屑屑屑屑蛆蛆蛆蛆蛆屑屑蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆囚人は生きるな生きるなオナニー肝 肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝蛆肝肝肝肝肝肝蛆蛆蛆蛆蛆肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝 肝肝屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑肝蛆肝肝肝肝肝肝蛆蛆屑屑屑屑屑屑屑屑屑屑糞糞糞糞糞糞糞糞糞 糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆肝肝屑屑蛆蛆蛆糞糞糞糞糞糞糞糞糞 糞糞肝肝肝肝蛆蛆蛆蛆蛆蛆塵塵塵塵蛆屑屑屑屑蛆蛆蛆蛆蛆屑屑蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆蛆 肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝蛆蛆蛆肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝肝屑屑蛆屑屑屑屑屑
己の心身を描くということは対象と主体の同化というやつが必要なわけだ。 ここで描くということは対象化を意味しない。 創造といえるのはこういった表現のことだろう。
主客融合したものは創造的なるものである。
主客なき状態自体が創造的なるものである。 その創造的状態そのものを暗示する軌跡が芸術である。
>>487 何が言いたいのかわかりません。
私がニーチェのアフォリズムのような文体には時代的な必然性が
あったのかも知れないと書いたことに対するあなたのレスが、
『自分の個性に付着した時代的なもの、彼らにとっては不要で邪魔な不純物を、
精神的な苦闘の中で能動的に取り去ってはじめて、 精神的な自由を手に入れ、
天分を束縛から解放し最大限発揮することができ・・・』というレスだったわけですね。
それに対して私は、『運命愛の「運命」は、時代的なものとは無縁なものなんですか?』
とたずねた。ニーチェの思想は時代的なものに密着した思想であると思われるからです。
『自分の個性に付着した時代的なもの』を取り去ったあとに残るのは、
具体的な『個性』などではなく、「個人」という抽象物でしょう。
生を肯定するという場合の「生」にしても同じです。それが時代的なものから
切り離されてしまえば、普遍的な「生のイデア」のようなものになってしまうのです。
ニーチェ自身も、自分が時代的制約の中にいることを自覚していました。
例を一つ挙げるとすれば、
「我々はキリスト教から一人立ちした。それは我々がキリスト教からあまりに離れて
住んでいたからではなく、あまりに近くに住んでいたからである。いやそれに以上に、
我々がキリスト教の中から育ってきたからである」。
>>486 >哲学史やキリスト教含めその他歴史の全てが、こんな言い方が許されるとしたら、
>自分の思想を形成するための触媒、表現するための素材にすぎないのかもしれない、て個人的には思えました。
ニーチェにとってのキリスト教や哲学史の重みを看過していると思います。
上に引用した文を見るだけでもニーチェ自身にとってのキリスト教の重みがわかると思います。
>人間の生活経験や歴史や他の学問を所謂哲学的諸概念へと抽象化し概念群を体系的に綜合していくことで普遍的な知へと昇華させていくような、ソクラテス以来の従来の哲学の在り方を、本当の意味での哲学ではないと根本的に否定し、
>生の創造性を最大限引き出すことや生を肯定することが哲学の第一義である、と見做した点で、やはりそれまでの哲学とはほとんどかけ離れた地点で哲学を行っていたように思えます。
昨日「近さ故の批判」と書きましたが、批判している部分だけを見てそれを真に受けるような
読み方をしていたら、ニーチェを理解することはできないと思います。
たとえばニーチェが頻繁に批判しているプラトンにしても、彼に対してニーチェは
大きな尊敬の念を持っており、自分の思想への近さを感じているのです。
「プラトン、パスカル、スピノザ、ゲーテについて語る時、私は彼らの血が
私の中にも流れているのを意識する」。
「善悪の彼岸。彼は機械論的世界考察を援用し、自分が運命の下に屈服していない
と感じる。彼が運命である。彼が人間の命運を握っている。ただ少数の者達にとって
のみ。プラトン、スピノザは? もしかすると成功したのだろうか?」。
>>495 >たとえばニーチェが頻繁に批判しているプラトンにしても、彼に対してニーチェは
>大きな尊敬の念を持っており、自分の思想への近さを感じているのです。
>「プラトン、パスカル、スピノザ、ゲーテについて語る時、私は彼らの血が
>私の中にも流れているのを意識する」。
このときニーチェが持つ「尊敬の念」が、所謂哲学史的な観点での理解によるものではなく、
「彼らの血が私の中にも流れている」という表現で示されるように感情移入や対象との同化
>>378 主客融合によってなされているものであり、
それが生の創造性に直結している、あるいはそうすることで過去に対して力のある再解釈をすることができる、
そしてそういう風に過去の哲学に接触したニーチェは、歴史的な見方だけではなく非歴史的に感覚する能力をもっていた、というようなことがいいたかったわけです。
>ニーチェにとってのキリスト教や哲学史の重みを看過していると思います。
もちろん哲学史やキリスト教が軽かったとかニーチェはそれらを無視していた、といいたいのではないです。
ニーチェは哲学史やキリスト教の流れに沿わずに、それらに対しほとんど強引に独自の再解釈をしかけて、
それら過去のものを自分一人のなかに引き込んで、自分の思想を表現するための素材にした、そうやってこそ哲学史を動かすような革命的な思想が誕生した、て個人的には感じるんです。
‘客観的に’キリスト教の歴史や哲学史はどうだったか、という歴史学者的な問いはニーチェにとってはあまり意味をもたず、
キリスト教や哲学史に対しどれだけ‘力のある再解釈’ができるか、という系譜学者的な問いがニーチェにとっては重要だったように思われます。
>>494 >ニーチェの思想は時代的なものに密着した思想であると思われるからです。
>『自分の個性に付着した時代的なもの』を取り去ったあとに残るのは、
>具体的な『個性』などではなく、「個人」という抽象物でしょう。
>生を肯定するという場合の「生」にしても同じです。それが時代的なものから
>切り離されてしまえば、普遍的な「生のイデア」のようなものになってしまうのです。
もちろん時代に影響を受けてない接触していないって言いたかったのではなく、
時代的なものに洗脳されなかったからこそ、独立した個性が守られて、だから時代を鋭く批判できた、
あるいは、
色々と批判的な考察をした行為はもちろん時代を見つめながらのものだけれど、ニーチェがその批判を行った心理的な地点が、当時の潮流とは完全にかけ離れた先史代的なほとんど原始的なところにあった
というようなことが言いたいんです。
時代的なものを取り去ったあとに残る個人は、決して抽象物ではなく、先史から変わらぬ人間の本能的な生身の姿であり、
普遍的な「生のイデア」にニーチェは近づいたというより近づきすぎたと私は思います。
ここでいう「生のイデア」は、プラトン的な意味でのイデアのような透明な理念的なものではなく、
もっと神的要素と獣的要素を両有した神々のような根源的な原型だと思っています。
一言でいえば、ディオニュソスです。
ニーチェが嫌った「普遍的なもの」は抽象的な理念のことですが、本当の意味での「普遍的なもの」は言い換えれば「根源的なもの」であって、
抽象なんていう近代的なものの考え方の干渉を受けない、神々、本能、愛、美の次元にある心を揺さぶるようなもののはずです。美しいものに感動するのはギリシャ時代から変わらぬ普遍的な人間の性質です。
西洋の歴史において、彼岸を想定してしまうキリスト教、最も本能的な芸術家である詩人を「国家」から追放してしまうプラトン主義、概念ばかり量産する哲学、科学的認識の発展、
などによって、人間の意識は表面上に浮遊し、根無し草の状態にあったときに、
ニーチェが哲学者として単独で、表面の時代的な流れから離れて深層の底流を流れる先史から変わらぬ(ここでいう)生のイデアに近づき、
そういう地点から時代を哲学的に批評していたんだと思います。
>>496 >感情移入や対象との同化
>>378 主客融合によってなされているものであり、
>それが生の創造性に直結している
ニーチェがプラトンやスピノザと「主客融合」というのが、どういう事なのかわかりませんね。
それならばプラトンやスピノザに対する激しい批判については、どう解釈するのですか?
「近さの中の遠さ」と解釈しなければ説明が難しいと思われますが。
>ニーチェは哲学史やキリスト教の流れに沿わずに、それらに対しほとんど強引に独自の再解釈をしかけて、
>それら過去のものを自分一人のなかに引き込んで、自分の思想を表現するための素材にした
あなたのレスは全体的に曖昧で荒唐無稽な感じがします。
ニーチェが過去の哲学に対して「強引に独自の再解釈」をしたというのは、
具体的にはどういうことですか?
>>497 >色々と批判的な考察をした行為はもちろん時代を見つめながらのものだけれど、ニーチェがその批判を行った心理的な地点が、当時の潮流とは完全にかけ離れた先史代的なほとんど原始的なところにあった
>というようなことが言いたいんです。
ますます分かりませんが・・・
あなたは、私が、ニーチェのアフォリズムのような文体には時代的な
必然性があったのかも知れないと書いたことに反論しているのですよね?
実際ニーチェは、ヘーゲルのような体系哲学への批判をしている。
反論するとすれば、ニーチェのアフォリズムは、体系への批判とは無関係
だということを示さなければならないのではないのですか?
>普遍的な「生のイデア」にニーチェは近づいたというより近づきすぎたと私は思います。
それは誤解だと思われます。
ニーチェが考える根源的なものとしての「生」つまり「力への意志」は、
永劫回帰するものとして、つまり時間的にのみ存在します。
力への意志が普遍的なものと誤解され、ハイデガーの言う「存在者」のように
誤解されて、対象化されれば、それはもう一つの「背後世界」になってしまいます。
ニーチェはそのような誤解を防ぐために、「力への意志というものがあるわけでは
ないのだ」と書いています。
>>498 つまりニーチェはショーペンハウアーやゲーテを讃えるときも、プラトン哲学を批判するときも、キリスト者を非難するときも、
その対象の客観的な姿を分析するのではなく、(もちろん学問的にも優れた知性をたもちつつ)一般人であれば小説の主人公に感情移入するときのような感じの感情的な態度で、
相手の身になって認識しているのだと思うってことです。
このとき、実際に生きていた史実的なプラトンの姿とニーチェの心の中で生きているプラトンの姿が食い違っていても、
あるいはニーチェがキリスト教やキリスト教徒の姿を正しく把握していなかったとしても、
そういう認識をすることでニーチェが独自の思想を展開することができたのだったら、それはとても創造的なことである、
ていうようなことが、
「強引に独自の解釈」をしつつそれが創造的であった、ということの具体例になると思います。
自分のニーチェに対する態度をいうなら、(学問的な知性をあまりともなわず)感情移入している、て感じです。だから荒唐無稽にしか説明できなくて申し訳なく思ってます。
>>494 >何が言いたいのかわかりません。
>私がニーチェのアフォリズムのような文体には時代的な必然性が
>あったのかも知れないと書いたことに対するあなたのレスが、
あなたのように哲学史的な観点から客観的にみたら、ニーチェの文学的文体には時代的必然性があるように思えて、
自分のように哲学史にあまりなじんでいなくて感情移入的にニーチェの文章に触れてきた人間にとっては、
ニーチェの文体を時代的なものに照らして考える前にニーチェ自身の芸術家的な天性、ディオニュソス的な原始的生命感、などを先に直感してしまう。
たぶんこういうことだと思います。
つまりニーチェについてのダイアローグは、結局、
>>474 >思想の解釈においても各人の体験如何による違いが生じざるを得ないのだろう。
てことになるんでしょう。読み方が人によってあまりにも違うのし、掲示板の性質を考えると、どうしてもかみ合わず、モノローグになってしまうのかもしれません。
だからこのスレには六六六さんのような魅力的な個性をもった人が登場するし、キチガイみたいな某コテハンもいた。
「総体性へのあの光り輝く溶解を生きる前は人はニーチェの作品を一語たりとも理解していなかったのである」
「彼を体験する者は、自分自身、血を流してみるのではない限り、当の行為をまっとうすることはできない」
というひどく内的経験的なバタイユのニーチェ読解と、哲学史家のニーチェ読解を比べてみたときの内容の差には驚きます。
>>494 >反論するとすれば、ニーチェのアフォリズムは、体系への批判とは無関係
>だということを示さなければならないのではないのですか?
体系への批判以前に、というよりその体系への批判の動機として、ニーチェの芸術家的天分があった、と自分は考えています。
>>500-501 >つまりニーチェはショーペンハウアーやゲーテを讃えるときも、プラトン哲学を批判するときも、キリスト者を非難するときも、
>その対象の客観的な姿を分析するのではなく、(もちろん学問的にも優れた知性をたもちつつ)一般人であれば小説の主人公に感情移入するときのような感じの感情的な態度で、
>相手の身になって認識しているのだと思うってことです。
感情的な態度で批判するという事の意味が分かりません。
ニーチェの批判は学問的なものです。
一例として、スピノザへの批判を少し引用しましょう。
「因果関係への信仰に人を向かわせる心理的強制は、意図を持たない生起など表象できない
ということによるのだ。原因への信仰は目的への信仰と表裏一体である(スピノザと彼の
因果論に反対する)」。
「余計な目的論的原理に用心せよ。自己保存衝動もそういったものの一つだ(これはスピノザの
首尾一貫性のなさによるものだ)」。
ニーチェはスピノザの汎神論的な肯定の思想に共感し、影響を受けつつも、
上のように、その因果論、目的論に対しては、批判的に考察することで、
スピノザの思想とは「近くて遠い」自らの一切肯定の思想を形成していくのです。
だから、ニーチェは『哲学者たちから遠ざかって』などいません。
>つまりニーチェについてのダイアローグは、結局、
>
>>474 >思想の解釈においても各人の体験如何による違いが生じざるを得ないのだろう。
>てことになるんでしょう。
人によって解釈が違うのは当たり前のことであってニーチェに限ったことではありません。
>読み方が人によってあまりにも違うのし、掲示板の性質を考えると、どうしてもかみ合わず、モノローグになってしまうのかもしれません。
解釈が違っても、論点がずれなければ、ちゃんとした対話になります。
あなたの場合は論点も論拠もはっきりしないので対話にはなりにくいです。
因果論に対する反論、というのは、感情的なものや、あるいは鋭い直観力が在って初めて生まれるものです。 一部の人にとっては、人間の想像力、感情、直観、言語などを拘束する因果律というのが、生理的に受け付けないものであって、憎悪さえしたくなるんです。私はその一人です ニーチェにおいては、学問的なものと感情的なものが一体化しているんだと思えるんです。 彼が、それまでの哲学を批判したのは、哲学が人間の生と離れてしまっていることにたいする憤りがあったからでしょう。 つまり、哲学は哲学、生活は生活、というふうに、分離してしまっていることに対する批判です。ニーチェが一貫して主張してきたことのひとつに、哲学は生命力と直結していなければならない、ということがあ挙げられるとおもいます。 ニーチェは、普通の人にとっては抽象的な次元のものさえ、具体的な実感と、感情的な心理を伴って、把握していたように思われます。そうでないと、抽象的な次元の観念を、あんなに巧みな比喩で表現することはできない。 根源的なものを抽象的な方法で因果論的にしか考え方しかできない哲学教授を、「カタカタと音をたてる計算機械」とまで嘲罵しています。感情的にも、因果論的思考しかできない哲学教授を感情的に嫌っているように思われます。
想像力、感情、直観、言語などを拘束する因果律 →想像力、感情、直観などを拘束する因果律や言語
>>504 ニーチェにおける『感情的なもの』の比率の高さというあなたの主張は、
あなた自身の考えの論拠がはっきりしないのだから、論点にはならないでしょう。
それでは単なる感想で終わってしまいます。
話を整理すると、
>>461 の六百六拾六さんの
>ニーチェは哲学者達から自分で遠ざかった人間ではないのか?
という書き込みに対して、私は
>過去の哲学への批判と、過去の哲学からの影響によって自らの
>哲学を作っていった点で、ニーチェも他の哲学者たちと同じでしょう。
と書いた。
>>495 や
>>503 の私の引用は、その論拠になっていると思います。
>>495 や
>>503 の引用にある言葉を、あなたは非感情的にとらえ、ニーチェはいかにも所謂純哲学的な方法でそういう言説を展開したと見做し、
それを論拠に「ニーチェも他の哲学者と同じでしょう」という結論が出る、その流れ自体が、因果論的すぎて哲学史の表面をかすめたにすぎないないと個人的には思います。
ニーチェ自身の精神には触れていない。
わたしが思うには、ニーチェがそれまでの哲学者から遠ざかっているかどうか、という問いは、
因果論的な議論の運びだけでなく、学問的なものも感情的なものも境遇的なものも含めた‘ニーチェ自身’の精神に達するような考察をしてみないと、意味がない。
どちらにしても、そういう問いは、客観的に明確な答えが出る収束的な問いではなく、人によって答えが様々で当然の拡散的な問いなのだから、
どちらが正しいかという最終的な答えよりも、人によって違う答えに至るまでの考え方を(それに論理的に納得するかどうかはともかく)見ていくことのほうが、大事だと思われます。
だから私は、「自分がニーチェが他の哲学者とは違う」と結論付けるに至った(そもそも決して明確に見つかるはずのない)論拠でなく、
ニーチェ自身や彼の思想について色々と拡散的に話を発展させつつ、「ニーチェが他の〜」て思うに至るまでの個人的な考え方や感想を提示したわけです。
>>507 >わたしが思うには、ニーチェがそれまでの哲学者から遠ざかっているかどうか、という問いは、
>因果論的な議論の運びだけでなく・・・
たぶんさっきの、スピノザの因果論への批判を誤解しているようです。
あなたはたぶん「因果論」を「論理的思考」のように考えているようですが、
ニーチェの因果論批判というのは、「原因と結果の取り違え」、「時間の逆転」のことです。
>ニーチェ自身や彼の思想について色々と拡散的に話を発展させつつ、「ニーチェが他の〜」て思うに至るまでの個人的な考え方や感想を提示したわけです。
個人的な感想を提示するのはいいのですが、それを私のレスへの
反論にしてしまうから、おかしなことになるのです。
反論するならば、それなりの論拠が必要なのです。
そうでないと、
>>507 のように、内容的には単なる罵倒言葉のようなものになってしまいます。
私が『ニーチェ自身の精神には触れていない。』となぜ言えるのですか?
>反論するならば、それなりの論拠が必要なのです。 なんだか曖昧な書き込みばかりで申し訳ないです。 出来る限り、ダイアローグ的な反論とモノローグ的な感想を明確に区別するよう気をつけます。 >私が『ニーチェ自身の精神には触れていない。』となぜ言えるのですか? 精神に触れる、ためには、感情移入、主客融合、対象との同化などがある程度はないといけないと思います。 そのういう認識をする際、認識が一般的妥当性をもっているかは問わない。 そういう風に対象に接する人は、必然的に、対象を評価するとき主観的要素が混じるはずです。 つまり感情移入的に何かを評価してそれを文章化すれば、その文章には、たとえば六六六さんの文章のように、個性的な文体や独自の思考が表れる傾向が強いはず。 >あなたはたぶん「因果論」を「論理的思考」のように考えているようですが、 論理的思考=因果論、て思っているわけではなく、自分が因果論的だといってあなたの思考過程を批判したときに思っていたことは、 〜だから〜と因果関係をつくってしまっているけれど、その原因と結果をむすぶ‘だから’が妥当性をもっているようには思えない、 あるいはそういうふうに単純に原因と結果を結び付けてしまうから対象の本質に迫れずに、簡単に結論付けてしまう、ということです。 論理的なものの考え方そのものが悪いと思っているのでは決してなく、原因と結果、論拠と結論を結びつけるとき、それが論理的に正しいという妥当性だけを持っているだけで、対象の本質(ここではニーチェ自身)には迫っていないように思える、というわけです。
>>509 >原因と結果をむすぶ‘だから’が妥当性をもっているようには思えない
妥当性があると思えない理由を、あなたがきちんと書けるようになれば、
あなたとも対話できるようになるのでしょうが、
あなたのは、すべて漠然とした感想に過ぎないので、答えようがありません。
(漠然とした印象で批判するのは、やはり罵倒に等しいと思います。
批判された側がそれに対して答えようがないのだから、卑怯なことだと思います。)
>>510 >妥当性があると思えない理由を、あなたがきちんと書けるようになれば、
原因と結果や論拠と結論を結ぶ‘だから’に、妥当性があると思えない理由を敢えて挙げるとすれば、
ニーチェが哲学者から遠ざかっているかどうか、
という問いについては、答えが一つに収束する議論はそもそも不可能だし、答えるときその答えには明確な論拠がそもそもあるはずはない、てとこです。
つまり、何に対しても明確な原因や理由や論拠があってそれら原因的なものを見つければ論理的に結果まで帰結できるはずだという相で、ニーチェという人間を考察すること自体、そもそも間違いではないか、という疑問があったわけです。
>>507 の上や
>>509 の下は、あなたの考え方を批判したというより、因果律に沿う思考そのものを批判していたのであって、そういう思考ではニーチェ自身に対する考察には至らないのではないかていうことを表現したいつもりでした。
全て読み直してみましたがたしかに、この書き込み含め、漠然としすぎてますね。こちらの論理的思考力と言語表現力の不足が悪いんです。
あなたに対する批判や反論というより、個人的な自論や感想だと思っておいてください。
気を悪くされていたら申し訳ないです。
>>511 >ニーチェが哲学者から遠ざかっているかどうか、
>という問いについては、答えが一つに収束する議論はそもそも不可能だし、答えるときその答えには明確な論拠がそもそもあるはずはない、てとこです。
そんなことはないです。
六百六拾六さんの、【ニーチェは哲学者達から自分で遠ざかった人間ではないのか?】
という問いの「哲学者達」「遠ざかった」の意味を、議論の中で考えていけばいいだけのことです。
六百六拾六さんからの答えはありませんでしたが、もし六百六拾六さんがあなたと同じように、
ニーチェが【ソクラテス以来の従来の哲学の在り方を、本当の意味での哲学ではないと根本的
に否定】したと考えているのならば、それは間違いだと思います。
そう思う理由はすでにいくつか書きましたが、その私の考えに対して別の角度からの反論があれば、
それを書けばいいのです。
>何に対しても明確な原因や理由や論拠があってそれら原因的なものを見つければ論理的に結果まで帰結できるはずだという相で、ニーチェという人間を考察すること自体、そもそも間違いではないか、という疑問があったわけです。
何に対しても明確な論拠があるなどとは全く言っておりませんよ。
反論するなら論拠が必要だということは言いましたが。
曲解しないでください。
「哲学者達」「遠ざかった」やニーチェの思想の表面を議論の中で考えていけたとしても、 「ニーチェ」という人物が、テキストの性質や彼の狂気に至るまでの孤独な生涯を考慮すると、議論の中で明確にしていくには、不可解な謎に満ちすぎているのではないでしょうか。 それでも敢えて論理的に白黒を導いていくことが可能であると仮定してみても、やはり、ニーチェはそれまでの哲学から自分で遠ざかった、ていえると思います。 まずここでの「哲学者達」が、「哲学教授」なら、議論するまでもなく言えることだと思います。 問題は、「哲学者達」に、スピノザ、プラトン、などニーチェが影響を受けた大物を含めて考えた場合ですね。 個人的には、ショーペンハウアー以外の哲学者達、なら大物哲学者であっても「遠ざかっている」といえると思います。
まずニーチェは、哲学的認識と生の創造性の直結、哲学的な世界観と人生観や生き方(もっというと六百六拾六さんの言葉借りるなら‘生き様’)の一致を、求めます。 つまりニーチェが哲学というとき、それは、人生そのものです(ここでいいう哲学者や一般的にいう哲学者の「哲学」には、普通そういうニュアンスは含まれません)。 そこで「遠ざかっている」について考えるなら、思考の上だけでなく、生き方という次元においても考えなければならないと思います。 あなたの「哲学者達から遠ざかっていない」という考えに反論するとしたら、 「哲学から影響を受けた、哲学を批判した、それはどの哲学者も同じこと」という理由で、哲学の思考的な面では「遠ざかっていない」といえたとしても、生き方や人生観というレベルにおいては関係しません。 ニーチェは「教育者としてのショーペンハウアー」で、「カントは大学にしがみつき、時の政府に服従し・・・・したがって彼の先例が大学教授や教授哲学を生み出した」という風に、 人生観や生き方に直結した哲学という意味合いにおいては、カントに対してさえ、ニーチェがいう真の意味での哲学者ではない、というようなことを言いたげです。 そしてショーペンハウアーを、生き方においても真の哲学者として生き抜いた点で、讃えています。 とにかく、ニーチェにおいては、哲学者は、学問的認識においてだけでなく、生活や人生観においても、哲学を実行しなければならない、ということになります。 しかもニーチェが、「哲学を実行する」というとき、かなり孤独な行為であり、外部に対しての批判を行ってまでも自分が真であると思ったように考え抜き生き抜く、というような意味が含まれるはずです。 「この人を見よ」(序言3)では、 「私がこれまで理解し生き抜いてきた哲学とは、氷と高山の中で自ら進んで生きることにある。」 「偶像の黄昏」(箴言3)では、 「一人で生きるためには、人は獣であるか神であるかでなければならないとアリストテレスは言っている 第三の場合が欠如している。つまりひとは両者なければならない、つまり哲学者で・・・」 そして実際ニーチェはそうして生きてきた。 (個人的には認識の面でも「遠ざかっていた」といえるように思えるのですが)上記の意味でも、他の哲学者からは遠ざかっていた、といえるのではないでしょうか。
>>513-514 >まずここでの「哲学者達」が、「哲学教授」なら、議論するまでもなく言えることだと思います。
ではそれについても、一つ例を挙げておきましょう。
バーゼル大学教授だったタイヒミュラーという哲学者は、ニーチェの同僚でした。
(タイヒミュラーがドルパト大学に移った時にニーチェは哲学教授の席を得ようとしたが失敗した。)
そのタイヒミュラーの主著である『現実世界と仮象世界』をニーチェは1884年前後に読み、
ノートに抜書きをしています。
ニーチェの中心思想の一つである「遠近法主義」が、このタイヒミュラーの思想の影響に
よるものであることは、ニーチェの遺稿の研究で明らかになっています。
「真の世界と仮象の世界」の対立についてニーチェはよく書いていますが、これも
タイヒミュラーが説いた対立です。
このタイヒミュラーの例を考えてみただけでも、哲学者達から「遠ざかっている」と主張するのは
難しいのではないかと思います。
「生き方」という(これもまた曖昧な)ことを問題にするとすれば、哲学教授の席を得ようとして
失敗して、ニーチェは生き方を変えたということですか?
>>515 >「生き方」という(これもまた曖昧な)ことを問題にするとすれば、哲学教授の席を得ようとして
>失敗して、ニーチェは生き方を変えたということですか?
そういうことではなく、ニーチェが哲学者の真にあるべき姿として描く哲学者は、生き方においても(ニーチェの言う意味での)哲学を行う存在でなければならない、
そしてニーチェは実際そういう哲学者として生きた、ということが主旨です。(言語表現が曖昧で申し訳ないです)
「善悪の彼岸」205には以下のように書かれています
「・・・・けれども本当の哲学者は・・・・・、「世に言われる哲学者とは違って」また「世に言われる賢明さをもたずに」、とりわけ
世に言われる利口さなどを捨てて生きるものである。そして本当の哲学者は、人生の百にも及ぶ試練や誘惑に立ち向かう重責と義務を感じるものである。
彼はたえずおのれを賭けて危険に立ち向かい、最悪の賭けそのものに身を賭するのである・・・」
つまり、ニーチェは「真の哲学者」と「世に言う哲学者」を根本的に違う存在として描いていて、
ニーチェ自身実際にニーチェの言う「真の哲学者」を学問的な面だけでなく生き方で体現した、ということです。
>>516 >つまり、ニーチェは「真の哲学者」と「世に言う哲学者」を根本的に違う存在として描いていて、
>ニーチェ自身実際にニーチェの言う「真の哲学者」を学問的な面だけでなく生き方で体現した、ということです。
タイヒミュラーのことを考え合わせてみると、「真の哲学者(ニーチェ)」は、
「世に言う哲学者(タイヒミュラー)」の本をこっそり読んで(ニーチェは公刊された
著書では一度もタイヒミュラーの名前に言及していません)その思想を借用する。
それが「真の哲学者」の生き方だ、ということになってしまいませんか?
(皮肉めいた書き方になりましたが、あなたのレスはやはり議論にはなりにくい感想的なものです。)
ニーチェには、何かを批判する際に十把一絡げにして批判する癖があります。
たとえば、従来の宗教、道徳、哲学を「これまでの人類の理想主義全体」などと言って批判します。
そういう十把一絡げなやり方は、議論を分かりやすくするたに単純化しているのであって、
実際には、その「人類の理想主義全体」の中にも、ニーチェが高く評価し、影響を受けている
思想がたくさんあるのだということです。
ニーチェの代わりは幾らでもおるんじゃあああああああああああああああ!!!
つまり結局私が言いたいのは、私の感想的なレスが議論になりにくい以前に、ニーチェが自分で哲学者達から遠ざかったのではないか?という問い自体が、 論拠を探しながら色々因果関係を明らかにして結論へと至るという形式の議論にはなりにくいということです。 >タイヒミュラーのことを考え合わせてみると、「真の哲学者(ニーチェ)」は、 >「世に言う哲学者(タイヒミュラー)」の本をこっそり読んで(ニーチェは公刊された >著書では一度もタイヒミュラーの名前に言及していません)その思想を借用する。 >それが「真の哲学者」の生き方だ、ということになってしまいませんか? >(皮肉めいた書き方になりましたが、あなたのレスはやはり議論にはなりにくい感想的なものです。) あなたのこの書き込みにおいては、議論上の言葉に対する論理的思考に頼るあまりに‘因果関係’を作ってしまっています。 あなたの因果関係の作り方が悪い、というのではなく、繰り返しますが‘ニーチェ自身’について因果関係を色々探しながら明確に議論していくこと自体が不可能ではないのか、て一貫して私は思っているわけです。 ニーチェが哲学的な内容を感情的に考察する傾向があるのは、文体を見れば分かることだし、哲学的文章においてだけでなく箴言においても哲学について言及している。 だからニーチェに関しての意味での「哲学」や「哲学者達」がどうかなのかさえ、ニーチェ以外の第三者にとっては明確にするのが難しい。 さらに「ニーチェ」という人物が特殊すぎる。 そういう意味で、ニーチェ自身やニーチェのテキストの性質から、「ニーチェは哲学者達から自分で遠ざかったのではないか?」という問いに答えなどない、て言いたいわけです。 仮に結論があるとすれば、ニーチェに感情移入するなら「哲学者達から自分で遠ざかった」といえて 客観的に見るなら「哲学者から遠ざかってなどいない」、ていうことになるていう結論しかないと思います。
>>519 >繰り返しますが‘ニーチェ自身’について因果関係を色々探しながら明確に議論していくこと自体が不可能ではないのか、て一貫して私は思っているわけです。
そうではありません。
議論というのは、相手が論拠を挙げた場合に、その論拠に対して返答しなければならないのです。
あなたの場合には、ずっとですが、それが全く欠けています。
あなたは、相手が挙げた論拠に答える代わりに、自分の曖昧な感想を繰り返しているだけなのです。
それでは議論にはなりません。
今回の場合は論拠としてタイヒミュラーについて書いたのだから、
それについてのあなたの何らかの解釈がなければ、話にならないのです。
議論が苦手なら、しかたありませんが… では今日はこのへんで。
活発なご議論、楽しく拝見しております。 早君、君は何が噛み合っていないか、本当は分かってるよね。 しかし、どうしてもニーチェを奉ずる余り、観点の位相の違う所で無理矢理食い下がってしまうんだろう? 実際、「遠ざかっている」かどうかなんて、実に抽象的な話だ。 ごく単純に考えてみてくれ。ニーチェは飽くまで【哲学】という範疇で語っており、それを自覚もしている。どれほど【哲学】という体系に斬新な定義・形式をもたらしたとしてもね。 時代性についても同じことだ。実際に著作でソクラテスやスピノザやショーペンハウアーに言及しているということは、近代までの歴史があってこそ可能なこと。 哲学であれ、芸術であれ、先駆者の積み重ねに拠って新しいものが生まれるんだ。 そうして生まれた成果物にとって重要なのは真であり美であって、手法や形式の新規さ或いは特異性など二次的な要素に過ぎない、とは思わないか? 穴居時代の昔から相も変わらず人間はものを考え、また美を形作る、その「相も変わらないどうしようもなさ」が尊いんじゃないか。 端的に言えば、成果物(作品)の重要さに比して、人格的個人(作者)などはどうでもいいとさえ言える。君が表現者であるならこのことは理解できるはずだ。 ニーチェが「自分でそう言った」ことが【事実】なわけがなかろう? それが作品に表れてあることならば、全ては【表現として】捉えるべきじゃないか?
創造的なるものは、それから派生したもの(絵、テキストなど)にはない。 それは主客なきところの生の力動そのものにある。 とはいえ真、美などというものならば、 そこから派生したものを鑑賞するときによく認められるものである。 そのときには主客提携とでもいった状態にある。 まあ愛というやつかな。
愛は? 盲目である…
早は幹爺に感化されてはいるが六の影響はうけてないようだ。 そのくせ六に好意をよせ、 幹爺に好意を寄せないとはなんたる自己欺瞞だろう。 なんたるひねくれ者だろう。 てか好意というのはそんなもんか。 こいつは俺より余程六を軽視している。 そうなんだよね〜、軽蔑という名の好意、 軽視ゆえの気の置けない関係というものがあるんだよね〜。
526 :
考える名無しさん :2007/08/05(日) 02:38:25 O
最近の若い者は早みたいに不誠実でいかん。 それゆえに誠実な人間に惹かれるわけだが、 わかっちゃいるけどそんな人間を侮蔑してしまう。 そして自分の同類を憎悪し、 自分から遠ざかろうとしている。 早は資質からして学者向きなんだよね。 そんな自分の運命をニーチェに重ね合わせているとみた。
527 :
考える名無しさん :2007/08/05(日) 03:11:28 0
190 :考える名無しさん:2007/08/05(日) 01:04:17 0
730 名前:待った名無しさん :2007/08/04(土) 15:44:02 0
貴乃花は大関時代、
舞の海から受けた力水を土俵に吐き出すわ、
その舞の海に負けて全く礼をせずに土俵を降りるわ、
濱の嶋に負けて降りた直後に土俵を蹴っ飛ばすわ、
負けたのに次の力士に力水を付けようとするわ、
巡業を重視する協会にとって神様に等しい客(しかも子供)を突き飛ばすわ、
大関どころか力士としてしてはいけない所作を
次々とやらかしていた。
土俵態度は何一つ褒められない失格力士だったんだよ
731 名前:待った名無しさん :2007/08/04(土) 15:48:36 0
>整体師洗脳。両親どろどろ不倫・熟年離婚。
>母親のヌード。
>葬儀中でも兄弟のドロドロ対立。名門相撲部屋崩壊。
これには目をつぶっていた奴らがなにをいまさらwwwwwwwwwwwwwwwwwww
732 名前:待った名無しさん :2007/08/04(土) 15:51:54 0
>>730 >>731 そんなもんみんな知ってる。
朝青龍の悪行に比べたらかわいいものだ。 ← 「はたしてそうかな??? 」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
↑深夜オカルト部貴乃花物理計算理論の研究者の一言
528 :
考える名無しさん :2007/08/05(日) 03:15:31 0
矢印訂正 「はたしてそうかな???」 ↑↑ 深夜オカルト部貴乃花物理計算理論の研究者の一言
丁度いい幹爺きたんじゃないのこれ 「カントによる科学と哲学の役割の区別は、 因果法則に基づく科学世界の拡大に対する、 形而上学の側の自己防衛策であったといってもいい」 ああ、きたさきたさ。
そうきたか。 そう、早の肌は学者肌。 ああ、そうさ。 京大目指してる早さ。
>>516 >つまり、ニーチェは「真の哲学者」と「世に言う哲学者」を根本的に違う存在として描いていて、
>ニーチェ自身実際にニーチェの言う「真の哲学者」を学問的な面だけでなく生き方で体現した、ということです。
こういう無邪気な奴がいるから、ニーチェ教とかニーチェ信者とか揶揄されるわけだ。
「真の哲学者」を生き方で体現したなんて、なんで言えるのか? ニーチェ以外の哲学者はそういう生き方をしなかったなんて、なんで言えるのか? ニーチェ信者だから言える、としか言いようがない。
533 :
213 :2007/08/05(日) 08:14:45 O
>>516 利口とは。
@賢いこと。
Aものわかりが良いこと。
B要領が良いこと。
が辞書的解釈。
以下私的解釈。
小で大を成すこと。
本来の実力以上を成せること。
(自分の事を棚に上げられること。)
つまり口先で事を成せることが最も理想。
「常識です」
「普通は。。。。」
「道理に反する」
のような超越的な判断基準を使用(話)し誘導する事。
>「常識です」 「普通は。。。。」 「道理に反する」 >のような超越的な判断基準を使用(話)し誘導する事。 これが「利口」? ぴんとこないな。 まぁ言葉についてもつイメージは人それぞれか。
535 :
213 :2007/08/05(日) 08:34:23 O
>>501 >
>>474 >思想の解釈においても各人の体験如何による違いが生じざるを得ないのだろう。
>てことになるんでしょう。読み方が人によってあまりにも違うのし、掲示板の性質
>を考えると、どうしてもかみ合わず、モノローグになってしまうのかもしれません。
確かに玉石混交、俺のような門外漢も自由に発言できる2ちゃんの性質上、議論の
噛み合わないことは多い。
しかし、あなたが引用されたレスの主意はそういうことではなく、文芸作品(言語
による表現物)の外形的な手法について述べたものであり、今まさになされている
議論のレトリックに使われるのは本意ではない。
ニーチェが全てを意図して著したという前提に立って『ツァラトゥストラ』を眺め
たとき、前述した文学的手法、即ち「想像の余地を残すための綻び」を採用するこ
とに拠って、哲学についての著作でありながらも読み手に文学的な「ふくらみ」を
与える効果が生じる、ということだ。これを言い換えれば「曖昧さ」となる。
創造的余地を残してるのも関わらず、それを「まとまってない」と一蹴し 考えるのを放棄されると居た堪れない気持ちになる
昨日
>>515 で書いたタイヒミュラーの件を考えてみても、ニーチェが哲学者達から
遠ざかっているとするのは無理があるわけですが、ついでにもう少し書いておきましょう。
ニーチェがインスピレーションによっていっきに書き上げたと信じている人が多い
『ツァラトゥストラ』の成立については、特にアメリカの哲学者エマーソンの影響が
非常に大きいことが、これもニーチェの遺稿の研究で明らかになっています。
『ツァラトゥストラ』の草稿の間には、エマーソンの著書『エッセーズ』の参照
ページ数が記されており、ニーチェの遺稿の編集者が確認できた箇所だけでも、
ニーチェが『ツァラトゥストラ』でエマーソンの著作を利用した箇所が20箇所以上
あることが明らかになっています。
ゾロアスターを主人公にしたことも、おそらくエマーソン読書によるものです。
エマーソンがゾロアスターについて記述している箇所にニーチェはアンダーラインを引き、
「これだ!」とメモしています。
「超人」についても、エマーソンの思想である‘Oversoul’や‘Plus-Man’の影響が指摘さ
れており、また「永劫回帰」や「運命愛」についても同様です。
ニーチェがエマーソンの著作から抜き書きした次のような部分を見るとそれがよくわかります。
「今や精神が生きて過去と未来とを今この時に吸収する。」
「私は歴史全体を自分個人の中で生き抜いてみたい。」
ちなみに『悦ばしき知識』の表題下に記されているモットーである「詩人と賢者にとっては
万物は友となり、清らかな捧げ物となる、すべての体験は有益となり、すべての日々は神聖に、
すべての人間は神々しくなる」は、エマーソンの言葉を少し変えただけのものです。
そしてエマーソンという人は、自分のことを「悦ばしき知識の教授」と呼んでいた人です。
!宇宙戦艦ヤマト→宇宙戦艦ゴモラ→宇宙戦艦★絵癖リオン!UPLの宇宙戦艦ゴモラPS3妖怪変化魑魅魍魎跳梁跋扈初回決戦は松本零士の宇宙戦艦ヤマトを超純和風にした様な感じだー!
>>531 >「真の哲学者」を生き方で体現したなんて、なんで言えるのか?
>ニーチェ以外の哲学者はそういう生き方をしなかったなんて、なんで言えるのか?
>ニーチェ信者だから言える、としか言いようがない。
実際その通りだと思ってます。つまりニーチェに感情移入するならこういう説明ができる可能性はあるのでは、と思ったわけです
感情移入てのは結構恐ろしいほとんど神秘主義的な行為。
ニーチェと「この人を見よ」の一人称や「ツァラトゥストラ」と私が完全に一致する。
太宰治と「人間失格」の一人称と私の3つが一つになる。そういう世界。
書くほうも自分の表現に感情移入してるし、私は表現に感情移入する。「表現者」と「表現」と「鑑賞者」の合一。
だからニーチェみたいな人物に対して、感情移入的に接触しすぎると、本当にあぶない。
ランボー信者だったころは、頭のなか比喩だらけになって、世界や人類を本気で呪ってやろうと妄想して、人間の真に宗教的な本性を道徳化してしまう原因となった神学者達に(現代の自分には関係ないのに)罵殺の言葉を羅列してた。
詩人の想像力が美しい神々の世界を生み出したのであって、神が人間の背後から道徳的な命令を下してるわけじゃない。神学や教義こそ神性や聖性に対する冒涜だ。ていうような内容について、‘自分のものとは思えない’口汚い憎悪的な比喩ばかり浮かぶ。
ランボーにはこんな言葉がある。
「言葉以上でも、言葉以下でもない」「詩人は自分だけでなく他人を体験しなければならない」
ついでにボードレール
「詩人は、思うがままに彼自らであり、また他人であることを得る、比類なき特権を享受する。
・・・ただ彼一人のために、人はみな空席に他ならない。」
>>538 私は論拠を用意していなかったし、あなたの論拠に対して反論できるわけではないので、
六百六拾六さんが現れて反論しない限り、「遠ざかっていない」でいいと思ってます。
感情移入の状態、つまり、自分とニーチェしかここにはいなくてあなたや哲学史は見えない、てのを、他人との議論に持ち込むこと自体が間違いで、
>>519 の>ニーチェに感情移入するなら「哲学者達から自分で遠ざかった」といえて、客観的に見るなら「哲学者から遠ざかってなどいない」
ていう結論は、今言った理由から議論としてはおかしいですね。
まとめるならつまり、‘感想’の中では「遠ざかっている」とはいえても、‘議論’の中では「遠ざかっていない」になる、ってことでしょう。
自分でも「遠ざかってる」ということを確かに信じていたわけではなく、
ただ色々と引っかかることとかが多くて、
感情移入とは何なのか、因果関係を結ぶことがどういうことなのか、ニーチェとは一体どういう人物なのか、
みたいな自分の心のなかで絡まった糸みたいな漠然とした想念がたくさんあって、
思考や想像の可能性を探りたくて、試行錯誤的にアイデアを紡ぎ出そうとして
長々と議論してしまったんです。論点ずれてばかりで噛み合わなくてごめんなさい。
昨日あんなに長いこと、身勝手な妙な議論につきあわせてしまって、迷惑おかけしました。
ありがとうございました。
543 :
考える名無しさん :2007/08/05(日) 20:48:13 0
いいから働けよ
>>529 いいのきましたね。
因果律は、実用性、功利性、外界の科学的な把握などの面では役に立つことが多いけれど、直観的純粋認識(形而上学)、生の創造性(芸術)、という面では、邪魔になることが多いと思う。
>>525 六六六さんに影響受けてないわけでも、ないですよ。
個性的な文章や詩的散文が好きで、軽視せず興味深く読んでいます。
西尾さん、「存在と言葉の出会い」みたいな題のニーチェについての文章と、例の
>>378 しか読んだことなくて、あまり知らないから幹爺love♪てわけじゃないけど、
結構、お気に入りかもね。
>>544 >
>>529 >いいのきましたね。
>
>因果律は、実用性、功利性、外界の科学的な把握などの面では役に立つことが多いけれど、直観的純粋認識(形而上学)、生の創造性(芸術)、という面では、邪魔になることが多いと思う。
>>529 の文の意味を誤解していると思います。
カントの『純粋理性批判』は、人間の理性が必然的に迷い込む誤謬推理について書かれています。
カントは、世界は有限であるのか無限であるのかとか、世界に始まりはあるのか無いのか、などの
四つの二律背反の問題を挙げています。
そしてカントは因果法則に従う現象の世界と、因果法則には従わない「物自体」の世界とを区別
して、前者を理論理性(上の文でいえば「科学世界」)に割り当てて、後者を実践理性(上では
「形而上学の側」)に割り当てることによって、二律背反の問題を解決しようとした。
「形而上学の側の自己防衛策」というのは、カントが「物自体」というものを想定することによって
宗教と道徳とのために場所を確保しようとしたことを指していると思います。
ニーチェがカントを批判するのはまさにここなんです。
カントが実践理性に優位を与えたことによって、「物自体」の世界がニーチェ(タイヒミュラー)
の言う「真の世界」となり、それによって現象世界が「仮象の世界」として、価値の少ないもの
と見なされてしまったこと、ニーチェの批判はそこに集中しています。
「真の世界を除去することが、決定的に重要である。真の世界があればこそ、私たち自身がそれである
世界が大いに疑問視され、その価値を減ぜられる。すなわち、真の世界はこれまで私たちにとって
生の最も危険な謀殺であったのである」(『権力への意志』583)。
ニーチェに則れば野人にならざるをえないんじゃね?
547 :
考える名無しさん :2007/08/06(月) 00:55:52 O
>>544 >個性的な文章や詩的散文が好き
ポエムのことか!!
548 :
考える名無しさん :2007/08/06(月) 01:02:54 O
人工芝、あまりに人工芝 人間だもの
549 :
考える名無しさん :2007/08/06(月) 01:36:20 O
ニーチェは欧米にかぶれた挙げ句のナショナリストにある意味似ている。 あまりに不自然な人間が、反動として自然を求めるのである。 その意味でルソーはニーチェの先駆者であった。
>ニーチェがカントを批判するのはまさにここなんです。 >カントが実践理性に優位を与えたことによって、「物自体」の世界がニーチェ(タイヒミュラー) >の言う「真の世界」となり、それによって現象世界が「仮象の世界」として、価値の少ないもの >と見なされてしまったこと、ニーチェの批判はそこに集中しています。 すげー言い回しが難しくて判り辛いな。 神々しいものや神の寵愛に満たされた天国、または『真理』のある世界を人間が捏造し、神化させて しまったがゆえに、この世界の"現実”(有為転変で弱肉強食・常者必滅の流動的な世界)が蔑視 されていたのだ、ということだろう。 道徳も人間の牙を抜き去り、生の躍動感も痩せ衰えていく一方であるが、本来あるべきは 「生きて在ること」を確かめ、愛そうと求めるがゆえに我を高めようと努めることが肝要なのだ、と。 人間のいう真理は、人間の理解の範疇における「真理」を超えはしないだろう。 そういう意味では真理とは『仮定』ではないだろうか。 我々は未だに宇宙の外側があるのか無いのかを知らないし、死後があるのか無いのかを知らない。 それよりも「存在とは何か」を知る由も無い。非存在の状態を知ることは出来ないのだから。 形而上的な仮定として『永劫回帰』も有り得るわけだが、彼にとってそれは「使える仮定」であったのだろう。
いまさら人間になりたいだなんて…
552 :
考える名無しさん :2007/08/06(月) 15:01:20 0
__ -‐ '´ ̄ ̄` ‐、 `> ヽ // ', /lイ / l/ l /ト ', i ', .,'ノ レ `ヽ从 |、 ト、 ヽl ● ● '| l .|ノ入 ヽ / ,ヘ⊃ 、_,、_,⊂⊃.lノノ \', / / /⌒l,、 __, イレト ',ヽ . / / /_/ |三/ //:::::ヽ ', i / / ,'::::::::l:::ヾ∨ //.::ヒ::::彡, i/
学べば学ぶほどに、 情報化、知識社会化、国際化が進むほどに、 原始的なるものへの憧憬は強まり、 ルソーやニーチェは評価は高まっていく。 彼らはいわば過去からやってくる未来人である。
強くなろう、賢く、豊かになろうなんていう意志が、 逆に人間を小さく弱く貧しくしていくという逆説があるのは見え透いてきたといえよう。 巨大化するのは社会なのであった。 ニーチェは未来人として悲劇の誕生を著わした。 だが、彼は歳を重ねる度に近代化していったようだ。 すなわち時間を遡っていった。 この歳をとると共に精神的にも、古くなっていくというのは、一般性があることだろう。 時代を担い、先へ進めるのは若者である。
近代化、現代化が人間自身の退化をもたらしたとすると、 ニーチェの老化、古いものへの回帰は、人間ニーチェ自身としてはある意味進化だったのだともいえよう。
しかし歳をとるということは、時間を遡ることだというのは、本当だろう。 まさに身も心も古くなるわけだw 若いときのほうが歴史的に、あるいは客観的には進んでいるわけだ。 時代に逆行するのも悪くないご時世だとは思うが、 それでも若い人間ほど時代を進めていく。 いかに破滅的な未来が予感されていたとしても、 若い人間がいなければお話にならないわけだから、止めようがないものがある。
今や歳をとるということ、古くなっていくということ、 すなわち進んでいく時間に対して逆流していくということで、 逆に元気に快活に健康的になっていくというよな、 そんなご時世になってきてしまったといえるだろう!!w いやいや幹爺みたいな爺さんにはわからない最近の、そして未来の話なんだが。
「悲劇の誕生」は未来の人口にかいしゃするところの偏見的な思想、主義になるとみた。 名付けて「ディオニュソス主義」は結局、 近代的なるものの追求が反近代的なるものへと人々を改変していったように、 反ディオニュソス的なるものへと人を導き改変していくことだろう。 さて反ディオニュソス的なるものとは何か? ところでディオニュソス的なるものとはなんだっただろう。忘れてしまった。 しかも幹爺の翻訳捨てちゃったよ。 もはや原文しかない。実に困ったことになった。 もしかしたら、こういった間抜けくさいのが反ディオニュソス的なるものなのかもわからない。 とすると、こんなことでは文化文明は軽視され絶たれてしまうだろう。 アレクサンドリアの大図書館が灰と消えてしまったようにだ。 これは敵視ではないのである。 無関心であるゆえに余程危険なものがあるのである。
>>550 >人間のいう真理は、人間の理解の範疇における「真理」を超えはしないだろう。
>そういう意味では真理とは『仮定』ではないだろうか。
>我々は未だに宇宙の外側があるのか無いのかを知らないし、死後があるのか無いのかを知らない。
>それよりも「存在とは何か」を知る由も無い。非存在の状態を知ることは出来ないのだから。
>形而上的な仮定として『永劫回帰』も有り得るわけだが、彼にとってそれは「使える仮定」であったのだろう。
まぁそうなんでしょうが、それだとカントの認識論とどう違うのかがはっきりしません。
カントは「物自体」を認めましたが、「物自体」は認識できないとしました。
つまり認識論的には「不可知論」です。
【我々は未だに宇宙の外側があるのか無いのかを知らないし、・・・】という
上の文章も、不可知論のような感じがします。
また、カントは「物自体」は認識できないけれども、理念として、実践理性によって
「要請」されると考えました。
そのカントの「要請」と、上の文章の「仮定」との違いもはっきりしません。
辞書には「仮定」は「事実に関係なく、仮にそうだとすること」とあります。
ニーチェの認識論は、(知り得ないとしても)何らかの事実があって、仮定する
というものではないでしょう。
「仮定」という言葉を使うなら、事実の無い仮定でしょう。
「事実などはないのだ。解釈だけがあるのだ。」
ニーチェに興味あるやつって5分の1くらいはゼノだろ?
なんだその「ゼノ」ってのは。
ゲームか。 ゲームを取っ掛かりにするのも悪くないと思うが、 よほど興味を覚えない限り著作を読む前に挫折しそうな気がしなくもない。
ニーチェの認識論って解釈解釈ばっか
566 :
金曜日 :2007/08/07(火) 23:25:19 0
>>550 六百六拾六さんへ
>我々は未だに宇宙の外側があるのか無いのかを知らないし、死後があるのか無いのかを知らない。
君自身はどうおもっているのかね
また我々とはいったい誰のことかね
すくなくとも<わたしたち>そして私は
(こういう比喩は君には理解不能かもしれないが)(またニーチェの読者やこのスレの連中でもない)
は死後(死後の世界)なんて無いとおもっているし
宇宙の外側なんて思考の感知しないことだよ。
ニーチェを語る君の思考の底が割れたみたいだ。
ツアラツストラを最初から読み直してください。
>>566 永劫回帰がなぜツァラトゥストラに必要だったのかを考えていた。
ただ強く在るだけなら「シーシュポスの神話」的な幕で充分だったのではないのか?
ツァラトゥストラ全体に、いや、『大地の意義』に不協和音を重ねそうな形而上の観念を
そこに持ち出すのには彼なりの必要性があったと考えるべきだろう。
が、永劫回帰という観念がツァラトゥストラの一貫性にどれだけの悪影響を及ぼしているかを
考えれば、普通に狂気の沙汰と言わざるをえない。余りにも唐突だからだ。
なるほど話の流れでそのストーリーを把握するにそれを「筋書き」として誰かに語る程度には
理解は出来るだろうが、それを自分自身で“実践”しようと努めることが出来るだろうか?
ところがニーチェの遺稿集の中にある未完著書の「あらすじ」を箇条書きした項目を見ると、
彼の思考は単なる思索や哲学の範疇を超えて『思想書』めいたものがある。
(彼が哲学の範疇を超えて先に行こうとしていたのではないか、という論拠はここだ)
と、なると、ツァラトゥストラは単なる「芸術作品」「文芸」ではなく思想書の原型めいたものと
みることもできる。
ところが、なぜここに現実の生活と乖離した形而上的な問題を挟まねばならないのか?
生を見つめるならば生だけを愛し汲み取っていればいいのではないのか?、と・・・
568 :
金曜日 :2007/08/09(木) 05:48:24 0
>>567 私が君に聞きたいのは
単純になことです
君自身が死後(死後の世界)なんてあるのかどうか
どうおもっているのかということです。
キリスト教のいう天国や仏教的な輪廻なんかを
半分でもありうると考えているのでは
と君を疑ったのです。
ツアラツストラも言っているではないか
「天国なんかいらない」
その上での永劫回帰ではないか
機械的永劫回帰はありえないとして
人間存在の実存のあり方としての解釈をとるにしても
ニーチェを語る人が
あの世の存在や
何かの宗教を信じていてはこまるよね。
君にはそうあってほしくないとおもわず書き込みしました。
視点はそこじゃないんだけどなァ・・・ 人間の理解の範疇という限界があることを強調したかっただけなんだけど。不可知という・・・ その前に、無いと言い切れる根拠はどこにあるのだろう? 宗教をいえば、第4部でツァラトゥストラは老いた僧侶から「敬虔なる無宗教者」だと揶揄される わけだが、機械論的宇宙観を広げて永劫回帰を展開させる彼の心理に宗教心めいたものは まったくないのだろうか?
570 :
金曜日 :2007/08/09(木) 08:37:54 0
ニーチェはキリスト教の神は否定しても 神自体(宇宙的な神あるいは実体としての神といってもいいが)の存在は 否定していないようにおもいます。 ツアラツストラにおいても神自体の存在についてもあいまいなところがありますね。 永劫回帰についても機械的永劫回帰は全くの間違いかもという ニーチェの告白みたいなのが遺稿のなかにたしかにあります。 でも彼はそれにもかかわらず機械的永劫回帰を信じていることに 賭けたのではないでしょうか。 晩年の最後期の遺稿をみればわかります。 しかしなながらニーチェは現在に生きていても 天国や輪廻はきっぱりと否定したと思いますよ。 ニーチェの永劫回帰はそうしたものとは次元が違うのでしょう。 私も天国や輪廻もありえないと断言するね。 それでも私は神自体の存在や宇宙的永劫回帰は否定できないものとしてあります。 でも明確に信じてはいるわけでもなく<信>になっていないのでね。 私はキリスト教も仏教もイスラム教もすべての宗教あるいは人間の共同幻想に根ざした 宗教的な迷妄の世界は克服されるべきものと考えます。 しかし人々にとってあらゆる宗教が終わったあとでも ニーチェの永劫回帰や神自体の存在への<信>は ひとびとのそれぞれの自己の幻想の中で生き延びることが出来るとおもいますね。 宇宙的永劫回帰については遺稿を読むまでもなく ニーチェのツアラツストラの第4部で明確に理解できますよ。 この地点から逆行するようにしてニーチェのすべての著作を読み直してみる視点が必要では。 私としては「悲劇の解読」を書くニーチェをもう一度理解してみたいです。
>>567 >なぜここに現実の生活と乖離した形而上的な問題を挟まねばならないのか?
永劫回帰を「現実の生活と乖離した形而上的な問題」と考えるのは誤解だと思います。
生々流転する現実世界そのものが、永劫回帰する世界です。
永劫回帰を「円環」と言っていたのは、たしか侏儒で、それに対してツァラトゥストラは
「黙れ!」と言っていたように思います(「円環」という言い方は遺稿にもありますが)。
「円環」として表象するためには、人は永劫回帰する世界の外に立っていなければならない。
世界の外に立つ傍観者的態度で語られた永劫回帰は、ツァラトゥストラの永劫回帰とは異なる。
だから「黙れ!」と言ったのだと思います。
「人間と世界が『と』というちっぽけな言葉によって隔てられているのを見ると、私は
笑い出してしまう」(悦ばしき知識)。
>永劫回帰がなぜツァラトゥストラに必要だったのかを考えていた。
ニーチェは永劫回帰のことを「新たな重し」と書いています。
他の箇所でもニーチェは何度か、我々は「新たな重し」を必要とすると書いていたと思います。
終末論と神の国の到来というキリスト教の教説が力を失ったことによって、
その教説によって意味づけられていた現実世界は重みを失ってしまう。
重みを失った後の生成流転する現実世界を、「諸行無常」として受け入れるのではなく、
永劫回帰する世界として「新たな重し」にしなければならなかったのは、
ニーチェがキリスト教世界の中で生きた人であるということを抜きには
理解しがたいことであると思います。
>>570 >私も天国や輪廻もありえないと断言するね。
>それでも私は神自体の存在や宇宙的永劫回帰は否定できないものとしてあります。
ここは矛盾していると思います。
「神自体」、「宇宙的」永劫回帰とは何を指しているのでしょうか。
「天国」や「輪廻」という<実体>は存在しないが、
それらに似た<形而上の>働きとしては存在すると言うのでしょうか。
ならば、「神自体」も「天国」も唯名論的な宗派の違いに過ぎなくなってしまいます。
>しかし人々にとってあらゆる宗教が終わったあとでも
>ニーチェの永劫回帰や神自体の存在への<信>は
>ひとびとのそれぞれの自己の幻想の中で生き延びることが出来るとおもいますね。
あなたは「幻想」を信じることができるでしょうか。
ニーチェが目指したのは既存の宗教が「幻想」に堕してしまったのを見て、
今一度生への信仰を取り戻そうとした試みだったと思われます。
信仰とは<実在として>認識することです。偶像を創案して崇めることではありません。
そのためにニーチェは合理哲学の破綻点である永劫回帰を必要としたのではないでしょうか。
このことはニーチェが近代における人間至上主義の万能感を打ち破るべく、
ツァラトゥストラに託した<恐怖の剣>であったと考えます。
この点、やはり彼はイエス・キリストを意識していた節が窺われます。
573 :
金曜日 :2007/08/09(木) 11:12:49 0
ひとこと付け加えると ニーチェは「ツアラツストラ」を思想書として書いたのだとおもいますよ。 聖書という宗教聖典を超える思想の聖典をね。 これは私の解釈ですが。 またニーチェは永劫回帰を現実の事実のようにうけとっていたと思う。 それは彼の例の啓示的体験が基底にあると思う。 私なんかそんなものはなにもないからあくまで仮想の現実としてうけとるだけだけど。 でも仮に真実だとしたら仰天するかも。 でもありうると思うね。 それ以上にそんなものは不可知として排除するのではなく 不可知としてもそれを受け入れることによって 、 人生観や生死の問題を考える場についての未知の可能性を見出すのです。 たとえばキリスト教において天国にいくことや 仏教におけるの死後の世界の仏との融合などの幻想を断念拒絶して 現実のひとりひとりの人生の過去の復活的な救済の仕方を選択することで 死に行く人にとって死後の世界についての不安や死後の無の虚無に対して ふたたび自分がこの世にもどって同じ人生を送ることが出来るというのは 救いになるのではないかと思うね。 永劫回帰はきわめて現代的な宗教を超えた思想の課題だとおもう。 また宗教としても伝播する可能性があるね。 ところで 現代の宇宙物理学者が観測結果をもとに現実の事実のようにして 宇宙のイメージを抱くように、 宇宙理論だけでも現実のようにして宇宙のイメージを先行させることもできる。 異次元宇宙は存在すると主張するアメリカの女性宇宙物理学者の話はおもしろいね。 こういう話題とニーチェの永劫回帰とをつきあわせるとおもしろい。 でも宇宙物理学者は天国や輪廻なんてあるとは絶対に主張しないでしょう。 でも神(キリスト教ではない)の存在を信じている人は多くいるね。
リサ・ランドール博士って、すごく美人。アリスが大好きらしい。 今年くらい五次元空間を実証するためにスイスで実験するみたい。わくわくする。 もし五次元が実証されて、それが科学体系に色々貢献して、新しい宇宙観が出来てきたりしたら、おもしろい。
「宗教」を2つにわけるなら 1神や仏を教義や道徳にとりいれ大衆をそれらに従わせる宗教(キリスト教など) 2内的な経験として神を体験することや自己の内での悟りを目指す宗教(小乗、神秘主義) にわけられると思う。 ニーチェは1の宗教は全面的に批判したけど、2の意味での宗教については(批判したのもたくさんあるだろうけど)ニーチェ自身そういう精神的なものを体験していたと思う。 内的な経験として神を体験する、というのは、決して神を絶対的実在として信仰することではなく、 むしろ神を偶像として信仰したり教義的道徳的な外部の善悪観に服従したりすることを拒絶し、自分の心を深く内観すること。ニーチェは「おのれの善悪を持て」といっている。 1の宗教は、神を外的実在として信仰してしまい、超越的な世界「天国」が人間世界より上位に実在すると想定してしまう。 それによって現実の生が貶められることがニーチェが一貫して批判した点。 でも内的な体験としての神は、たとえばニーチェにとっての「ディオニュソス」とか「根源的一者」ユングの「自己」「神イメージ」マイスター・エックハルトの「内なる神」のように、 実際に彼らの「生」と密接な繋がりをもっている。しかもそういう神的なものの体験から、血の通った思想を得ている。 そういう意味では、(ニーチェがいう神ではなく)内的な「神イメージ」を心理的に体験することは、かなり思想的な成長に繋がる。 本当の「神イメージ」とかその他啓示的体験は、決して彼岸的な信じる対象でもなければ哲学的な認識論であつかえる対象でもなく、内側から心を強く揺さぶる実感的なもので、 自分の生に強力な思想性を与えるものだと思う。
576 :
金曜日 :2007/08/09(木) 20:53:27 0
>>570 >私としては「悲劇の解読」を書くニーチェをもう一度理解してみたいです。
訂正します。
>私としては「悲劇の誕生」を書くニーチェを解読してもう一度理解してみたいです。
「悲劇の解読」は吉本隆明の本だったな。アハハ。
577 :
金曜日 :2007/08/09(木) 21:26:50 0
>>572 >ニーチェが目指したのは既存の宗教が「幻想」に堕してしまったのを見て、
>一度生への信仰を取り戻そうとした試みだったと思われます。>信仰とは<実在として
>認識することです。偶像を創案して崇めることではありません。
>そのためにニーチェは合理哲学の破綻点である永劫回帰を必要としたのではないでしょうか。
>このことはニーチェが近代における人間至上主義の万能感を打ち破るべく、
>ツァラトゥストラに託した<恐怖の剣>であったと考えます。>この点、やはり彼はイエス・キリストを意識していた節が窺われます。
その程度だったらニーチェは自身の霊感で得た思想を自ら畏怖することもないでしょう。
当時にかぎらず無信論はいつの世でもごろごろしていたし、仏教についてもある程度の知識はあったしね。
遺稿を読む限りキリスト教については終生近親憎悪的に意識していたのは
事実ですけどね。それは彼の生きた当時の情勢に因りますよね。あるいは彼の人生の歩みというか。
永劫回帰の怖さが私にあるとすれば永劫回帰の解釈の中にしかない。
あなたの言う次元なら畏怖すべきものでもなんともないね。私はキリスト教の聖書は極言すると一個の童話にしかおもえない。
でもイエスが啓示によって受け取った神は半分あるのかなとおもっています。
ところで機械論的宇宙論は簡単にいうと当時のエネルギー保存の法則や時間の無限や空間の有限性
から考えられた永劫回帰のことで私のいう宇宙的永劫回帰は現代の素粒子物理学や宇宙の観測から得られた宇宙論から
のイメージによっています。。私は専門家ではないですが
アインシュタインやホーキング博士の本によって宇宙の発生と終焉イメージを描くことができます。
宇宙が終焉して無になってふたたびそこから発生するときに終焉の条件が発生の条件が逆転するように引き継がれるとすれば
機械論的永劫回帰とそれほど違いはないと思いますね。そのとき時間は有限ではなく無限になるわけですから。
ところであなたはキリスト教を信じているのですか。
578 :
金曜日 :2007/08/09(木) 21:39:30 0
>終焉の条件が発生の条件 訂正 >終焉の条件と発生の条件 失礼しました
579 :
572 :2007/08/09(木) 22:29:31 0
>>577 >ところであなたはキリスト教を信じているのですか。
信じてませんよ。
どうやら「宗教」という言葉のイメージの相違から齟齬を生じているようですね。
あなたと同じく(と文章から推察しますが)、私も既存する特定の宗教団体については概ね否定的な見解を持っています。それは日本人であり、近代合理主義に染まったわれわれとしては当然の成り行きでしょう。
さらに言えば、現代における神、あるいは宗教はこの近代合理主義、人間至上主義と言ってもいいですが、つまりは理性の偶像化であると考えます。
前にも述べた通り、>信仰とは<実在として>認識すること、ですからね。
しかしその信仰には決定的な瑕疵がある。人間とその他の存在を別して考えることになるからです。であるからして、その瑕疵を補うのに、
>ところで機械論的宇宙論は簡単にいうと当時のエネルギー保存の法則や時間の無限や空間の有限性
>から考えられた永劫回帰のことで私のいう宇宙的永劫回帰は現代の素粒子物理学や宇宙の観測から得られた宇宙論から
>のイメージによっています
のような「合理的な」行き方はしません。っていうか、↑これちょっと意味が分かりにくいので、よかったらもう少し説明いただけませんか?
>>573 >ニーチェは「ツアラツストラ」を思想書として書いたのだとおもいますよ。
>聖書という宗教聖典を超える思想の聖典をね。 これは私の解釈ですが。
>またニーチェは永劫回帰を現実の事実のようにうけとっていたと思う。
>それは彼の例の啓示的体験が基底にあると思う。
これは同意なんですが。でも、その後で
>私なんかそんなものはなにもないからあくまで仮想の現実としてうけとるだけだけど。
>でも仮に真実だとしたら仰天するかも。 でもありうると思うね。 それ以上にそんなものは不可知として排除するのではなく
>不可知としてもそれを受け入れることによって 、 人生観や生死の問題を考える場についての未知の可能性を見出すのです。
とあり、あなたの理解がどこにあるのかやや不明瞭に感じます。
580 :
金曜日 :2007/08/09(木) 23:48:19 0
宇宙的永劫回帰の解釈のひとつとして 私が解釈して採っているのは宇宙が無限に発生と終焉をくりかえしていて 地球の存在や人類の歴史やその中での人の個人の歴史 も永遠に同じものとして繰り返すということです。 だから私が死んでも宇宙の終焉のあと宇宙がゼロから発生し地球ができ ふたたび私が生まれ同じ人生を繰り返すということです。 あなたの人生だって同じです。無限に同じ世界を繰り返すなら1回だって同じという考えかたもありますけどね。 また永劫回帰の別の解釈をすれば無限の変幻で回帰するという解釈もありますね。 同じ人生の少しの違いがあったり全くべつの世界として回帰するとかね。 ついでに私の見解ですが宇宙的永劫回帰と神の存在は両立しないようにおもいます。どちらかを信じるというなら 私は神の存在より宇宙的永劫回帰のほうが信じられます。 でも<信>にはなっていないですよ。やはり幻想領域に属するものとしてかんがえています。 しかし楽しいではないですか。自分の人生を肯定的にうけとり死後わたしが無になるのではなく もういちど自分の人生を繰り返すことができるなんて。嫌なこともあるけどね。 機械的永劫回帰は当時の科学の世界観からでてきたものでニーチェの遺稿やニーチェ論にさかんにでてくる概念で 多くのニーチェ批判につかわれている科学用語でこれによってニーチェの永劫回帰を批判しているのはことごとく間違っているとおもうな。 ハイデッカーからドウルーズまでみんな誤解というか曲解している。日本の学者もみんなそうだ。 しかし別の考え方として振り返ればニーチェを論じる学者が宇宙的永劫回帰は真実なんて発言したら学生から狂気や変人とおもわれたり 排除されたりという見えないタブーがあるのでしょう。ヨーロッパでも同じだと思う。現在でもキリスト教世界の無言の威圧がおもいやれれるな。 とにかくニーチェの永劫回帰への確信と当時の科学的常識の誤差や偏差を考慮にいれないとね。 ニーチェもその落差に苦しんだと私は想像しています。性病以上にこのことが狂気にニーチェを追い込んだとおもう。
>>579 >私も既存する特定の宗教団体については概ね否定的な見解を持っています。それは日本人であり、近代合理主義に染まったわれわれとしては当然の成り行きでしょう。
あなたと違って既存する特定の宗教団体について概ね否定的な見解という差別観はあまりないなあ。
私はすべての宗教組織についておおむね否定的な見解と最低の肯定的評価があるね。
どんなひどいと思われる宗教団体でも髪の毛一本ぐらいの良さがあり評価しないとね。
582 :
572 :2007/08/10(金) 10:14:54 0
>>580 ご丁寧にどうも。確かに想像(幻想)する分においては楽しいですね。
ニーチェの発想に当時の背景(科学、社会)の影響や制約があるというのは間違い
のないところと思います。
しかし、それが幻想に過ぎないと「信じ」ているのであれば、全く人間の生に対し
ても無力ではありませんか。
私見ですが、永劫回帰というのはそれ自身が何か動かざる真理、あるいは超越的な
存在として捉えるべきではなく、寧ろ「そうあるべき状態」の表象として考えられ
ないでしょうか。彼のゴッホが好んで書簡に記した言葉を借りて言えば、「倦ま
ず、たゆまず」というのがそれで、個人においては行為となって表れるものである、と。
また、「倦まず、たゆまず」こそは自然のあり方であり、かく在ることに依って
「人間と自然」のような近代合理的二項対立の<隔絶感>から免れ得る、という可
能性が見えてこないでしょうか。
然るに、自然のうちに在る人間(の行為)と同様に、永劫回帰の思想も「それ自
身」としてこれを論うのは無意味であって、飽くまで『ツァラトゥストラ』という
作品全体の中にあってこそ意義を持ち得ると思います。
>ニーチェもその落差に苦しんだと私は想像しています。性病以上にこのことが狂気にニーチェを追い込んだとおもう。
なるほど。一見識と思います。いずれ苦悩するということは、何らかの意思と現実との乖離があったのでしょうから。
583 :
572 :2007/08/10(金) 10:18:09 0
>>581 「概ね否定的」なんだから、肯定する部分がないわけではないですよ。
つまり、あなたと同じ意見ということです。
584 :
571 :2007/08/10(金) 10:57:24 0
>>580 >ニーチェを論じる学者が宇宙的永劫回帰は真実なんて発言したら学生から狂気や変人とおもわれたり
>排除されたりという見えないタブーがあるのでしょう。
ニーチェの遺稿に見られる永劫回帰の科学的記述については、ニーチェが永劫回帰を
哲学的思想として理論化しようとした過程で書かれたものではないかと私は思います。
そしてそれらの科学的記述は、力への意志の思想の誕生とも関係していると思います。
「諸力からなるこの世界は決して平衡状態に至ることはなく、一瞬たりとも静止することはない。
その力と運動はどんな時でも同じ大きさである。今のこの瞬間は、かつて何度も存在した。
そして同じように何度も回帰してくるであろう。その瞬間には、すべての諸力が今とまったく
同じように配置されるのだ」(遺稿11[148])。
まず重要だと思われるのは、上の引用文では「力」と「回帰」との関係が書かれていること。
そして、遺稿の中にこのような科学的記述が多く見られるのは、永劫回帰思想が
生まれた直後、そして力への意志の思想が生まれる直前の時期であることです。
ニーチェは上と同じ時期の遺稿で、当時の科学的な「力」概念について批判しています。
「我々は線を使わずに運動を思惟することができない。それゆえ、我々にとって運動の本質は
隠されてしまう。数学的な点と線とで表された『力』、これがその最終的帰結なのであるが、
それはまったくナンセンスなものなのだ」(遺稿11[235])。
そして、これらの遺稿が書かれた直後に力への意志の思想が生まれました。
(上の二つの引用文の「力」は‘Kraft’であって、力への意志の「力」‘Macht’ではない)
永劫回帰思想の到来、そしてそれを科学的力概念によって理論づけようとする試み、
さらには科学的力概念への不満があって、そして力への意志の誕生した、という流れ
が重要なのではないかと思います。
585 :
金曜日 :2007/08/10(金) 11:24:40 0
>>471 いえそこではなく
特定の宗教団体というところですよ。わたしは宗教団体をすべて平等(へんな言い方ですが)もしくは並列的にみているのです。
>自然のうちに在る人間(の行為)と同様に、永劫回帰の思想も「それ自身」としてこれを論うのは無意味であって、飽くまで『ツァラトゥストラ』という
作品全体の中にあってこそ意義を持ち得ると思います。
そこがあなたとの違いでしょうね。ニーチェは永劫回帰を「ツアラツストラ」の作品の中だけにとじこめたのではなく。
遺稿をふくむ多くの論でおりにふれて述べている。
思想というより確信だったのでしょう。わたしが<信>にかぎりなく接近しながら<信>の内側にはいれないのはニーチェのような体験がないからです。
また現在の宇宙論においてもそのことの証明はとてもおぼつかないからです。
たとえ永劫回帰の可能性が宇宙物理学で証明されても<信>にはならないでしょう。
でもニーチェの確信が私にとって<半確信>になっているのですよ。
ニーチェの死後30年たってドイツでは戦争に赴く若者の多くが『ツアラツストラ』携えていったらしい。
彼らの心中は測り知れませんが私のように半分信じていった若者もいたとおもっています。
結局この問題は永劫回帰をあなたの受け取る者と私のように受け取る者に二分されるのでしょう。
あるいは宗教的に狂信する者たちも出現するかもしれないですね。
586 :
金曜日 :2007/08/10(金) 11:30:01 0
587 :
金曜日 :2007/08/10(金) 12:17:50 0
将来 永劫回帰がどのように個々のひとに受け取られていくかは 未知の部分が多いとおもいますね。宗教についていえばキリスト教も仏教も日本のような国では無力であることを否めない。 現代の宗教が人々の精神的救済にどれほどの力があるのか。 永劫回帰が宗教のようになっても個々の人生にどれほどの影響を与えるのか予想不可能です。無力かもしれない。 結局個々の人がどのように受け取るかの問題に帰してしまう。 だから私の予想としてはニーチェの予想あるいは予言したとおりにはならないとおもうね。 しかしながら永劫回帰思想が『ツアラツストラ』の物語の内部にとどまらず 現実のこの世界の思想として未来を生き始めていると私は思うのです。
金曜日がじつは早だったりて
590 :
考える名無しさん :2007/08/10(金) 12:59:35 O
>しかしながら永劫回帰思想が『ツアラツストラ』の物語の内部にとどまらず 現実のこの世界の思想として未来を生き始めていると私は思うのです。 何でやねん?
だから金曜日みたいに信じる人間が生きてるってことだろう
592 :
572 :2007/08/10(金) 17:14:55 0
>>585 「特定の」という語の使い方が悪かったかな?「現存する」、としましょうか。
まあ、この部分についてはあなたとそんなに変わらない立場と思いますよ。
>>582 で述べたのは、前置きしたように私見に過ぎません。
ニーチェ自身の意向については、タイミング良く
>>584 さんが事実経過と照らし合わせて解説してくれてますね。勉強になります。
>>588 >>589 敢えて「早」的に表現するならたとえばこんな感想文かくよ。
ニーチェの真髄は、表現に入水する芸術家、思想に殉教する求道者、低音に溺死するジャンキーのような、苦痛と恐怖に喘ぐ孤独な人種のみ知れる、小乗宗教的なものだから、
近代合理主義に染まった人が事実関係を照らし合わせてニーチェを探ってもニーチェの表面しかみえないんじゃないのかな
とか、
ニーチェの思想は外部のあらゆる価値観から完全に離脱した知的野人の知る物であって、永劫回帰の思想を同じように多数の人が共有したところで、
そんなのニーチェの真意からはなれたものでしかない。「永劫回帰」はニーチェの精神の内でおこった究極的な現象であってそれが永劫回帰として表現されたところで、
それはニーチェの啓示的な体験という言語表現不可能なものをあらわす二次的なメタファーでしかなく、
一次的な価値があるのは思想の中心で燃え上がっているニーチェの精神だ、
とか、
ニーチェという太陽が放つ白色光線が、いろいろな事実や自分の著作というプリズムで、分光して、あちこち散乱してるけれど、
合理主義的な人はプリズムの角度とか位置とかを調べてるだけで、ニーチェという太陽光線をみない。
白色光線を知るには、プリズムなんか調べてないで、あちこちちらばった七色スペクトルの光線を自分の心という一つのスクリーンに集約させ、もとの白色光線にもどさなければならない
みたいな。
もし本当にニーチェを読むには自身が合理主義から離脱した知的野人にならなければならない、ていう経験主義的な考えもってるから、金曜日さんたちの議論には、価値観的前提が根底から違って、入っていけない。
永劫回帰なんかニーチェ以外の人には知りえない奇怪な思想にはほとんど興味なくて、大袈裟な救済劇「パルジファル」を腑抜けの賎民どものまえで白々しく披露した、みたいなこといってワーグナーとVSしちゃうときのニーチェの気持ちのほうが、興味ある。
>>575 は私が書いたけど。
真に宗教的だといえるものは、教会のように外部の権威を通過したり多数の間で広まったりするものではなく、完全に内的な世界で、直接、肉体的かつ精神的に「個人」の生命に訪れる生き生きした実感を伴った体験だと、確信してる。
早的感想文でした.
真面目なお話中邪魔して御免なさい。
早君が大好きな尾崎豊がNHKで出てるねw
みてるw もうやばい 泣きそう
596 :
572 :2007/08/10(金) 23:11:38 0
どうも近頃は「僕は他人と違うんだ!」ってことに拘るご仁が多いようで。
>>593 >近代合理主義に染まった人が事実関係を照らし合わせてニーチェを探ってもニーチェの表面しかみえないんじゃないのかな
>とか、
>ニーチェの思想は外部のあらゆる価値観から完全に離脱した知的野人の知る物であって、永劫回帰の思想を同じように多数の人が共有したところで、
>そんなのニーチェの真意からはなれたものでしかない。
これじゃ、ただのワガママか勘違いですよ。「君らは解ってない!僕だけが理解してるんだ!!」じゃあね。
例えば、
>>584 さんのようなアプローチを指して言ってるんだったら、
そりゃあんたが人間の精神の大きな部分を放棄してるだけであってさ。
第一、私や金曜日さんに至っては、思考の偏向ぶりにそれぞれのクセはあれども、
あまり「合理的」とまでは言えないでしょ。(金曜日さん、失礼!)
>それが永劫回帰として表現されたところで、
>それはニーチェの啓示的な体験という言語表現不可能なものをあらわす二次的なメタファーでしかなく、
この辺りは割と私の意見と近いと思うんだけども。人により様々な見方や得意分野
や方法論はあるにしろ、共通点は共通点として認めてはいかが?じゃないと、対話
なんか始めから成り立たないでしょう?
>真に宗教的だといえるものは、教会のように外部の権威を通過したり多数の間で広まったりするものではなく、完全に内的な世界で、直接、肉体的かつ精神的に「個人」の生命に訪れる生き生きした実感を伴った体験だと、
こう一概に言い切ってしまうのは一面的に過ぎませんか。古代においては供儀は
集団における行為として、形式として個々の生にも意義を持ったでしょう。それが
時代が下るにつれ社会構造の変化とともに教会(祭祀の形式としての権威)の意義
にも変化をきたした。同時に、自我意識がより集団から離れ孤立化する傾向が
あって、信仰もそれまでより個人的な問題という様相を帯びてきた。
以上は随分ざっくりとはしていますが、内面を語るにも外面との関係をも示さなけ
れば相互理解へは至りようがないと思いますよ。
あなたの確信は確信で結構ですけどね。それも信仰ですから。
>>596 >例えば、
>>584 さんのようなアプローチを指して言ってるんだったら、
もちろん人のアプローチを批判しているのではなく、
>>588 見て書きたくなってみたような単なる感想文です。
>どうも近頃は「僕は他人と違うんだ!」ってことに拘るご仁が多いようで
>これじゃ、ただのワガママか勘違いですよ。「君らは解ってない!僕だけが理解してるんだ!!」じゃあね。
「君らは解っていない」ていいたい気があるんじゃなくて、でも「君らは解っていない」て思おうとする気持ちがどうしても伴ってしまうのがニーチェだとは思ってるんです。
ニーチェが言いたかったことを本当にわかろうとするには、自分が一度はシニズムやニヒリズムを実際に体験し、排他的にならざるを得ないような気がする。
私はニーチェを理解してるなんて思ってないし、ニーチェ自身について思い巡らせると畏怖の感情が伴ってしまい、理性とか事実とかどうでもよくなってしまって混乱して、すぐ
>>593 のようになってしまう。
悲劇の誕生に表れてるようにニーチェは神話や自然の創造と破壊のプロセスに対する直覚力がすごすぎて、たぶんそういう詩的精神も哲学的精神も兼ね備えたニーチェの精神を本当に理解できる人なんて一部の天才くらいだろうけれど、
ニーチェを理解するかはともかくニーチェを本当に読むということは自己や神話的なものを深く認識することなんだと思う。
あるいは、誰にとっても自分にしかニーチェは理解できない、ていう妙な逆説もいえる。
デカルト的近代的な思惟する自我の背後に、もっと根源的な自己をニーチェは見たけれど、これを実際に自身の中に見ることこそ、ツァラトゥストラの教えを理解する上で大事なことの一つ。
私は決して此処で議論してる人に「君らはわかっていない」ていいたかったのではなく、
ニーチェの思想を体験するなら誰でもニヒリズムを体験しなければならないのではないか、
そういう体験の方が永劫回帰ていう奇怪な思想の理解より大事なのではないか、
ていう気持ちがあって、そういうことを考えているうちにその思考が情動にまで具現化されてきて実際に外界に対して攻撃的になってしまい、つい感情的にああいう感想が出てきたんです。
>>596 >内面を語るにも外面との関係をも示さなければ
野人的思考の一例になってみます・・・あなたにたいする反論ではなく、自分が
>>593 でかいた宗教的なものについての説明の延長だと思って下さい。
川に浮いてる水草がいっぱいあったとします。隣の水草同士絡まりあったりして、一つの大きな塊をつくってる。
一度その塊から離れてしまう水草が一つあった。その水草は、流されたりして一定した位置を保てなくて孤独で不安。
でもその水草は本能的に根を伸ばし、時間をかけて水底にまで根が達し、しっかり固定される。そして以前の隣の水草に支えらていた時の状態よりも安定したとする。
このとき、そういう安定した地に根を下ろした生存を手に入れたのは、一度隣の水草と逸れてしまったことがきっかけになっている。
そして、「地」という生の普遍的な場所と繋がっている。
水草同士絡まりあっていたときは、水草同士の支えあいが重要だったけど、でも地に根を下ろすことの方が実はもっと普遍的な価値のあることだった。
ていうまともに文章化できてないたとえ話ですが、さっき思いつきました。
内面にある気がするんです。外面との関係というのはこの妙なたとえの中では、水草同士の絡まりあい。社会も同じ。
内面の深くに認識の根を下ろしたとき、ニーチェの嫌った意味での「普遍的」なではなくどちらかというと根源的なという意味での普遍的な生の姿に、達するような気がする。水底、地。
私は、多くの個人が自分の内面への認識を深めれば、外の世界でも摩擦の少ない相互理解が達せられると思っています。
そういう認識が向かうべき対象は、外的事実でもなくもちろん単なる自分個人の問題や関心事でもなく、神話的なもの(ニーチェではディオニュソス)。
もちろん神話的な表現のままでは現代では通用し得ないので、こういうのを外部に伝わるように表現するならどうしてもメタ的なものになると思う。
とにかく根源へ認識が根ざした生の姿は、思惟的な自我の背後の根源的な自己であって、それは先史から変わらぬ自然の創造と破壊のプロセスに繋がったものだと思う。
>>307 のパラドックスは、だいたいこんな感じで解けそう。
尾崎豊が言う「俺」は、尾崎豊でありながらしかも、根源的一者。
599 :
571 :2007/08/11(土) 01:37:04 0
>>597 >デカルト的近代的な思惟する自我の背後に、もっと根源的な自己をニーチェは見たけれど、これを実際に自身の中に見ることこそ、ツァラトゥストラの教えを理解する上で大事なことの一つ。
その根源的な自己をニーチェは「身体」と呼んだわけですが、
あなたの書き込みからはそういう「身体」的なものが私には感じられません。
あなたはニーチェの「身体」についてどのように理解していますか?
>ニーチェの思想を体験するなら誰でもニヒリズムを体験しなければならないのではないか
ニヒリズムを体験するというのは、詳しく言うとどういうことですか?
あなたが考えるニヒリズムの内容を教えてください。
また、ここにいる他の人がそのニヒリズムを体験していないとあなたが思っているとすれば、それはなぜですか?
>>597 >ニーチェが言いたかったことを本当にわかろうとするには、自分が一度はシニズムやニヒリズムを実際に体験し、排他的にならざるを得ないような気がする。
>ニーチェは神話や自然の創造と破壊のプロセスに対する直覚力がすごすぎて、たぶんそういう詩的精神も哲学的精神も兼ね備えたニーチェの精神を本当に理解できる人なんて一部の天才くらいだろうけれど
早のいつもの自己正当化。
(言うまでもないかw)
ttp://caramel.2ch.net/kaden/kako/976/976441264.html 80 名前: 目のつけ所が名無しさん 投稿日: 2001/06/18(月) 13:48
ミドリ電化の最悪な労働環境
ミドリ電化は、派遣で家電量販店での販売で行っていた。
他の家電量販店と比べ労働環境が最悪です。エアコンの販売だったが、 入店したら昼の食事の時も外に出られない。
店内の一部の8畳くらいの狭い部屋で事務をし、そこで着替えをし食事もする。
食事するときにはその部屋に店内を見渡せる位の木の台あり、その上に 上らされて食事を食べさせるようにしている。
15分くらいで食べて出ないと 次の者が食事を取れなくなっている。
基本的に会社の方針が性悪説にのっとっているから、 どんなときであっても常に監視されている状態だ。
ほとんど休憩を取るなと言わんばかりの体制、社員間での相互監視体制が 取られていて、
社員は休憩取れないなかで派遣が取れるはずの休憩は ほとんど取れない。まさに息の詰まる職場環境。
常に何かをやらされる。客が居ないときでも常に雑巾を持たされ掃除など
大量の荷物が届けば商品に紐かけて他のフロアであっても商品を運ばされる。
ときには、夏真っ盛りに店の周りの草刈りを店長に命じられやらされた派遣の者もいる。
これは他の量販店と全く異なり、派遣者の間では「ミドリは行ってはいけないところ」
というのが合い言葉になっているぐらいだ。
ミドリの社員一人一人はいい人もいるんだが、やはりこんな環境で毎日販売
競争させられていると人間性も少しずつ歪んでくるのだろうか。
長年居る社員は接客時とそうでないときのギャップがあまりに違う。
メーカーから派遣されていくのだが、そのメーカの商品はほとんど売らせてもらえない。
シャープか利益率の高い商品に限られるのだ。ミドリ電化とシャープの関係は深い。
ミドリ電化の設立時にシャープがかなり協力的だったからだ。そしてミドリ電化で
ダイキンのエアコンが販売されていないのはダイキンと依然揉めたからだそうな。
こういう事情からもミドリ電化の上層部の狭量な経営体制がよくわかると思うが、
社員を徹底して搾取している。安い給料で休みもなく長時間働かせる
生かさず殺さず。現代版『女工哀史』、『ああ野麦峠』のようなものか。
ごめんなさいまたせっかくの議論のながれとめてしまって。悪戯染みた感想文だと思って下さい....
>>599 >あなたの書き込みからはそういう「身体」的なものが私には感じられません。
前提としてまず私は「神話」ていうとき、決して超越的な天国のような世界だとは思ってなくて、
オリンポスの神々の世界に現れているようにむしろ太古からかわらぬ大地や本能の創造と破壊のプロセスだとして認識してます。
価値観は人によってさまざまだけれど、身体構造は人間である限り同じ。
ニーチェが嫌った意味での普遍的なものは価値観を共有するために絶対的「真理」を想定してしまうようなことだけど、
根源的なという意味での「普遍的」は身体的生理的とも言い換えられる。
「悲劇の誕生」で説明されているところの「神話」というのは、人間の根源的な生の力動を最も上手く表現しているものだといえると思う。
ニーチェは「神々しい」という形容詞を使うとき、芸術的だとか生の創造性を体現しているだとかいう肯定的な意味で使うときと、
彼岸的や非現世的みたいな非難する意味で使うときに、分かれる。ここで私が言ってる「神話」とは前者の意味です。
>あなたはニーチェの「身体」についてどのように理解していますか?
根源的な自己と呼んでみたのはツァラトゥストラの身体の軽蔑者の章で出てくる「おのれ」であって、書かれているとおり「身体」であって、生の力動をもったものだと解しています。
私は、自己への認識を深めれば深めるほど、それは本能的なものに近づくと考えています。
身体を認識するというのは、決して「わたし」の背後に「おのれ」があるってニーチェが言ったということを言葉の上で理解するのではなく、
本当に自分の本能を認識すること、そして本能的なものを意識化することだと思っています。ニーチェは本能と認識が直結している。
そういうことを純哲学的に認識したり言語化することには、そもそも哲学があくまで思惟的な自我や「わたし」で成り立っているもの故に、限界があるだろうから、
アフォリズムの文体やツァラトゥストラのような文学性が必要不可欠。
言語の詩的用法「象徴」による表現というのは、解釈の想像的余地を残すことに意義があるだけではなく、直接イメージ、情動、本能の領域(交感神経)に訴えかけることにも意義があるんだと思う。
>>599 ニーチェの文脈ならニヒリズムというのは、
今まで世界や生の価値を規定していたキリスト教の神という絶対者や真理という普遍的概念が、人間が捏造した都合のいいつくりものだと看破し、それを根底的に信じられなくなること、
だから、そういう虚構的なものに意味付けられていたそれまでの生に何の意味も感じなくなること。
可愛らしい身近な具体例としては、学校教育を受けていたとして本当にこのような教育法が意味があるのだろうか、むしろ人の生の可能性を奪ってしまわないだろうか、とか疑って(そして詩や古典文学を読むほうが意味のあることだと思って授業中に詩集を開いて!)みたり
社会通俗的に出回っている通念がばかばかしく思えてそういう価値観に立脚することには何の意味もないと感じたり、
もっと言えば、近代合理主義に則った思考方法を前提としたこの世界の仕組み自体が、生きる上で何も意味がないと感じてみたりすること。
ニヒリズムを体験することの意義は、今まで意味と価値を与えていたものに敵対したり遠ざかったりすること自体にあるのではなく、
(もちろん世界の仕組みに意味を感じなくなったり世界は狂っていると思ったりするとこで止まってしまうのは単なる我侭にすぎない)
そういう認識に達することで、
たとえば
自分で新しい価値を創ってみる(価値の転換)、
今までの自分や一般的多数の人とは別の角度から生に対する新しい認識をする、
アウトサイダー達に興味をもってみることで非通俗的で新鮮な人間観人生観を描く、
比喩的にいえば白紙を目の前にしてそこに自分の血で絵を描く、
ようなことを実践することにある。
ニヒリズムを克服しようとするときに、新しい価値が生まれる。
だから心理的にニヒリズムを体験した人なら、その人が創った独自の認識や表現のようなものが出てくるはず。
たしかニーチェは自分は完全なニヒリストだと自称していたけど、もちろんそういう「完全な」ニヒリズムはニーチェのような博学と批判精神を兼ね備えた人物が体験することであって、
私達がニヒリズムを体験するとしたら規模の小さいものだろうけれど、
でも、それを体験することで秘められていた可能性を発現させたり新しい価値を創れたり何にも隷属しない独立した生を歩むことができたりしたら、それはとてもいいこと。
>>603 >学校教育を受けていたとして本当にこのような教育法が意味があるのだろうか、むしろ人の生の可能性を奪ってしまわないだろうか、
>とか疑って(そして詩や古典文学を読むほうが意味のあることだと思って授業中に詩集を開いて!)みたり
君が早君だったら?
来年京大受験だろう?
まあ受験勉強の合間に君の内部に収めきることが出来ない思考の噴水を
ここに撒き散らしてるんだろうと推測してますが
大学入ることに努力するより今やれることは何か、を考えるべきかもしれんな 尾崎豊が好きならさ
606 :
金曜日 :2007/08/11(土) 20:53:22 0
六百六拾六さんは最近どうしてるのかな 白水社のニーチェ全集は揃いましたか? たぶん本屋での全巻入手は不可能でしょう どうするのかな
607 :
571 :2007/08/11(土) 21:49:16 0
>>602 >根源的な自己と呼んでみたのはツァラトゥストラの身体の軽蔑者の章で出てくる「おのれ」であって、書かれているとおり「身体」であって、生の力動をもったものだと解しています。
>私は、自己への認識を深めれば深めるほど、それは本能的なものに近づくと考えています。
>身体を認識するというのは、決して「わたし」の背後に「おのれ」があるってニーチェが言ったということを言葉の上で理解するのではなく、
>本当に自分の本能を認識すること、そして本能的なものを意識化することだと思っています。ニーチェは本能と認識が直結している。
あなたがニーチェの言う「身体」を理解していないように思われる理由は、
あなたがその根源的な自己をすぐに一般化してしまって、「根源的一者」のような
ものに結び付けてしまうからです。
「身体」はそのような一般的なものではなく、ニーチェはその個別的な
現れ方を問題にしています。
ニーチェは、「健康な身体」と「病弱な身体」とを区別します。
あなたが上で書いている『身体の軽蔑者』についても、ニーチェは、
「彼らが学びなおし、教えなおすことではなくて、ただ彼らの身体に
別れを告げ、かくして無言になることが望ましい」と書いています。
それは「彼らにとって、この身体は或る病的なものである」からです。
そしてニーチェは「健康な身体、完全で端正な身体は、より正直に、
より清澄に話す」(『背後世界論者』)と書いています。
あなたは「ニーチェは本能と認識が直結している」と書いているけれども、
ニーチェはここで、根源的な生と意識が分裂している場合(デカダンス)を
問題にしているのです。
「君たちの自己それ自身が死ぬことを意欲し、生にそむくのだ」(『身体の軽蔑者』)
と書かれているように、(身体の軽蔑者たち自身は気づいていないけれども)、
身体を軽蔑している者たちの意識を規定しているのは彼らの「身体」なのであるから、
彼らの生の在り方は、〈生にそむく生〉、〈身体を否定する身体〉という分裂的で
倒錯的なものです。
608 :
571 :2007/08/11(土) 21:52:08 0
>>603 >私達がニヒリズムを体験するとしたら規模の小さいものだろうけれど、
>でも、それを体験することで秘められていた可能性を発現させたり新しい価値を創れたり何にも隷属しない独立した生を歩むことができたりしたら、それはとてもいいこと。
「ニヒリズム」と「創造」とをそのように結びつけるのは安易すぎます。
なぜならニーチェの目から見れば、ほとんどの「創造」行為は、ニヒリズム
からの逃避に過ぎないからです。
そもそもニーチェによれば、キリスト教に代表される彼岸世界への信仰は、
現実世界の無意味さ(とくに苦しみの無意味さ)に耐えられない病弱な人々が
自己保存するためにつくった(創造した)ものであるのです。
「禁欲的理想は、退廃しつつある生の防衛本能と治癒本能とから生じる。
退廃しつつある生は、あらゆる手段をもって自己を保持することを試みる」(『道徳の系譜』)。
「キリスト教的な道徳上の仮説はどのような利点をもたらしたか?
(1)人間は生成流転の流れの中で偶然的で小さな存在であるのに、その反対に、
この仮説は人間に一つの絶対的な価値を与えた。
(2)この世界は苦しみや災いに満ちているにもかかわらず、この仮説は、
世界に完全性という性格を与えることによって、神の弁護人たちに仕えた。
災いには十分な意味があるように思われるようになった。この仮説は、
人間が人間としての自己を軽蔑することを防ぎ、人間が生に対抗することを防いだ。
この仮説は、自己保存の手段であった」(1886-1887年の遺稿5[71])。
609 :
571 :2007/08/11(土) 21:53:31 0
ニーチェはキリスト教だけでなく現代の実証主義や無神論までこの「禁欲的理想」 の系譜に含めているのだから、自分では「新たな価値の創造」と思っているとしても、 ニーチェの目から見れば、そのほとんどはニヒリズム(現実世界の無意味さ)からの 逃避に過ぎないということです。 ニヒリズムを安易に「創造」に結びつければ、それはニヒリズムからの逃避になります。 まず大事なことは、ニヒリズムに耐えることができるのかということです。 「どこまで事物のうちに意味なしでいられるか、どこまで無意味な世界のうちで 生き耐えられるかが、意志力の測定器である」(『力への意志』585)。
610 :
平下流 :2007/08/12(日) 00:13:18 0
>>586 そうですね。
最近、早はどうしたんでしょうかね。
611 :
医学生 :2007/08/12(日) 13:08:49 0
「愚の骨頂、すなわち想像可能なあらゆる解釈の中でも一番貧しいものだ。これは今日、嬉々として哲学者たちと付き合っている機械論者の耳に向かって言っている。」
612 :
医学生 :2007/08/12(日) 13:10:03 0
「彼らは機械的なものこそ第一の、そして究極の法則であり、その基礎の上にすべての存在が構築されなければならいと絶対的に信じている。しかし、本質的に機械的な世界とは、本質的に馬鹿げた世界というべきだ。」ニーチェ
613 :
医学生 :2007/08/12(日) 13:14:26 0
ドイツ哲学に詳しいなら観念論生気論主意主義と唯物論機械論主知主義を区別しましょう♪対立を避けることは愚の骨頂
>>607 たぶん、ニーチェ・ツァラトゥストラの文脈と自分の考えを明確に区別せず混ざってしまってる私の文章の性質が悪いみたいです。
明確にして下さって助かります。
ニーチェを読みたいと思ってるのですが最初は道徳の系譜と善悪の彼岸がいいのでしょうか? あと副読本としておすすめがあったら教えてください
616 :
金曜日 :2007/08/14(火) 02:39:47 0
『ツアラツストラ』をまず読むべき 中公クラシックスの手塚富雄訳のが手軽 三島憲一さんの解説がいいね。 ニーチェ入門の解説書は平凡社の渡辺二郎編の『ニーチェセレクション』が特にいい。 解説書で最悪なのは講談社現代新書の永井均『これがニーチェだ』これはいつか批判したい。 あとNHK出版の『ニーチェ』神崎繁もよくない。一読してみればわかる。 全集はちくま学芸文庫のニーチェ全集が利用しやすい。ここでは『生成の無垢の下巻』もすすめる。全集は白水社もあるけど全巻入手不可だ。 以外にいいのは現代書館のイラストつきのの『ニーチェ』はおもしろい。 ちくま新書のおなじく竹田青嗣の『ニーチェ入門』もドウルーズなどのニーチェ解釈にふれていて参考になる。 私の一押しは三富明の『と永劫回帰思想と啓蒙の弁証法』だな。啓蒙の弁償法については読みつらいが 本の性格が明確で三富明の永劫回帰の解釈が明確だな。 とりあえず。
617 :
金曜日 :2007/08/14(火) 02:46:36 0
訂正 三富明の『と永劫回帰思想と啓蒙の弁証法』 は 三富明の『永劫回帰思想と啓蒙の弁証法』です。
「神話なくしてはあらゆる文化がその健全な創造的自然力を喪失するのであり、神話に囲まれた水平線こそは 初めて一つの文化運動全体をまとめて統一体にするのである・・・神話の諸形象は気付かれぬままに偏在する ダイモン的な番人であるにちがいなく、その保護のもとに若い魂は成長し、・・・・・・ ここで、以上のものに並べて、神話なしに導かれた抽象的人間・抽象的教育・抽象的倫理・抽象的国家を 置いてみるがいい。・・・・これが神話の根絶を目指す、あのソクラテス主義の結果としての現在なのである。」悲劇の誕生23 神話と本能と大地について。想像による独断的な。 生命が誕生して数十億年かけて、弱肉強食や環境との適応の中で、ホモサピエンスという種の遺伝子が決定された、その過程では、 血を流してきたし、色々な木の実を食べてきたし、あらゆる地形を走ったり泳いだり、愛し合ったり、とにかく色々なことを体験していている。 他の動物、植物、風、海、太陽、月、夜空、不断に創造と破壊を続ける大地、などあらゆる要素が億単位の年月を通して人間の祖先の生命に影響を与え続けながら、 人間の遺伝子、つまり人間の生得的本能的なものが決定されてきたことになる。 進化の結果、人間は地に二足で立ち、手で道具をつかうようになったのだけど、 そういう外的なものでなく内的なイメージも、脳や神経という身体器官に依るものなのだから、遺伝的傾向があるはず。 つまり幾億年に及ぶ大地上での生命の進化の結果である遺伝子には、人間の外見や運動機能だけでなく「心理」を決定付ける要素も刻まれている。
神話的な自然観は、太古の人々が謎、神秘、驚異に満ちた偉大な自然を目の前にして、畏怖の念に駆られながら自分達とくに詩人的な人たちの想像力によって自然を把握しようとして、生まれたのかもしれない。 恐ろしい天災、美しい自然現象、誕生や死、などいろいろなものに自分達が想像した名を与えることで、太古の人々にとっての神々の世界が出来ていく。 恐ろしく美しく謎に満ちたものであるからこそ、神格が与えられ、崇められる。 現代人でも大きな切り立った断崖を目の前すると全身圧倒される。 科学によって自然界を把握していなかった古代の人にとっては、どんな自然物も自然現象も驚くべき恐ろしい対象だったかもしれない。自然に対して畏怖の念が起こるのは、おそらく本能に由来する、命の現象。 謎に満ちた自然や知らない過去に名や物語を与えるのは、想像力によるものだったのだろうけど、科学もその他人工文化もそれほど発展していなかった時代、内的なイメージは人工概念よりも本能に方向付けられていた度合いが強かっただろうから、 物語には人間の生得的要素が関係してるはず。世界各地の神話を比較したとき共通点や類似点が見つかるのは、それが生得的な傾向によって創られているからだといえる。 神話は太古の人々の心を通過しながら語り継がれていく。 英雄の活躍の話なら、文字がない時代事実がそのまま記述されるのではなく主に口頭で伝承されたものなのだから、ある人が聞いた話を別の人に語るとき、 話す人の想像力や感性あるいは神話的な世界観がその話の内容に染みこんでしまい、少しづつ人の想像力や感性に影響を受けながら長い間話が語り継がれていくなかで話が神話化されていく。 その太古の人々は自然の本能に忠実な生を歩んでいたのだから、本能的傾向が想像力や感性の性質を決定付けていて、 たとえば生命に訴えかけないものは省略され、命を揺さぶる鮮烈な印象を伴うものは詩化されたりする。 つまり神々の神話にも英雄の物語にも、人間の心理の本能的傾向が色濃く表れているといえる。神々は自然や人間の生命の性質が詩的な想像力によって際立たされながら擬人的に表現されたもの。 本能、という生得的なものは上に書いたように数十億年の環境と生命の関係のなかで決定されてきたものだから、 神話にはそういう進化論的単位の年月を通して命に影響を与えてきたものが集約されていることになる。
有史以来、高度な文化を築いたことによって、神話的なものが大きな打撃を受けることになる。 話的な世界観の中で人が生きていた3000年前の時代なら大地や神話に則って人生を歩んでいた人も、 もし現代に生まれ高度な教育を受けてたら唯物論的科学者になっていたであろう資質だったりするかもしれない。 (3000年くらいなら自然淘汰の影響を余りうけていないだろうから、3000年まえの先史の人間と今の人間は、遺伝子的にはそんなに違わないとみて差し支えない) つまり生得的要素は3000年前とかわらなくても、後天的なものが現代の人に大きな影響を及ぼしている。 その後天的なものは、ほとんど自然環境や先史の生命の経験からは独立した人間世界の中で作り出された概念、言語、真理などによって構築されていて、 言語体系、概念体系、という抽象的なものは、億単位の年月の生命の大地上の経験によって決定された遺伝形質とは違い、数千年という比較的短い人類の歴史の中で出来てきたもの。 しかもキリスト教という、生に背く傾向がつよい宗教が、この文明の基盤になっている。 (無神論、主知主義も、キリスト教的な世界観(あるいはソクラテス・プラトン主義)があってはじめて出来たものであって、東洋では思惟の形態がそもそも違っていて、 自然を対象化せず認識主体が自然に溶け込んでいるような世界観、思惟形態だったから、東洋からは決して科学的世界観は生まれなかったでしょう) つまり、今まで長い時間大地や他の動物と密接に関わった進化をしてきて遺伝子が決定されてきたのに、人間中心の言語や科学の世界の中で、突然不自然になってしまうことになる。 後天的に人間に与えられる人工の概念体系という抽象的なもの以前の、生得的本能的なものが発生させる具体的な生命現象が、天然の力をもっているはずなのに、科学や情報化が進むにつれ、 人間の心の性質は自然の根源性から離れてしまっている。 大事なのは、ルソーのように全面的に文明に背を向けることではなく、もちろん科学や情報化によっても人間の生の営みに利益はたくさんもたらされたのだから、 現代の認識をしながらも、先史から変わらぬ根源的な心の基盤、本能のダイナミズムに意識を繋げておくことだと思う。 心の世界も本能に大きく関わっていて、誰にでも`生まれつき'心の最深層には、太古の印象やディオニュソス的な自然力が宿ってる。
早君かな。 ルソーの「自然に帰れ」とニーチェの神話解読とをあわせて の作文でしょうが論理に飛躍や無駄がおおいね。 君だけの独創的なものはカケラもないのが残念。
ニーチェやルソーは「自然に帰れ」「大地に忠実に」ていう方向性が同じだったから書いてみただけで、 >しかもキリスト教という、生に背く傾向がつよい宗教が、この文明の基盤になっている。 以外は、二人に関連したことはほとんど書いてないですよ。 この二人よりはたぶんユングの「元型」に近いこと書いてる気がする。 (たしかユングはニーチェをディオニュソスよりもオーディンに見立ててた) 作文や論理、ていうより単に、論理の覆いを纏った、価値観や言語への本能的な憎悪がもよおす嘔吐、全身を泳ぎ回る血中の毒虫、みたいなもので、 チラシの裏に書きたいままに書くと呪いや憎悪の言葉ばっかになるし、毒虫が手首から赤い姿で出てきては欲しくないから、 知性化して吐いてしまおうかな、と。 でもとにかく、 >神話にはそういう進化論的単位の年月を通して命に影響を与えてきたものが集約されていることになる。 てとこは、どこでもいいからとにかく叫びたくてうずうずしてるようなこと。 深くに潜在する心の根源的な力を体験しないと、命の本質を半分知らないまま一生を終えることになってしまう。 それは恋愛を経験しないとわからないことがあるのと同じようなものだと思う。もともと命の本質なんかに興味がない人がほとんどだけど。 でも本能や命の本質と繋がらない精神構造で「自然破壊はいけない」とかいっても自己欺瞞でしかなくて、どうにもならない単なる御託になってしまう。 限界まで心を下っていくと、不安に襲われつつ、色々な観念が神話関係や自然物の比喩を帯びる、象徴的な瞬間が来る。 ニーチェやショーペンハウアーの巧みな比喩のセンスは、精神的な苦悩や根源のイメージを強く体験していた証拠。 ニーチェには、ディオニュソスだけでなく、アルテミスの悲しみと狂気についても、深く語って欲しかった。 月を見ると血が騒ぐのも、本能がさせる命の現象。 セレネよりも狂気染みたものを持ち合わせた聖なる女神。 血を見ると何故か落ち着くのはきっと、アルテミス神の加護。 長い感想文失礼しました。 夜空に神々を描いたギリシャ人達、無数の星々を包む想像力♪ 星座の下でどんな素敵な夢をみていたのでしょう....☆
>>618 の引用はまずいね。
途中を省略するのはかまわないが、自分に都合がいいところだけ引用して
都合が悪いところは省略するというのはまずいだろ。
「これが神話の根絶を目指す、あのソクラテス主義の結果としての現在なのである。」
の前の君が省略したところに、「芸術的空想が、郷土の神話の制御も受けずに、
無規律に彷徨するさまを思い描いてみるがよい。」とあるだろ?
ニーチェは「郷土の」神話に基づく「規律」について書いてるわけだ。
君の書き込みがまさにその「ソクラテス主義の結果としての」無規律な空想に見えてしまうのだが…
こういう引用のしかたを見ても、君が、自分に都合のいいところだけを
自分に都合のいいようにしか読んでいないということが推測されるわけだ。
本を読むときはむしろ、自分にとって分かりにくいところや、違和感を感じるところ
に注意して読まないと進歩がないよ。
624 :
572 :2007/08/16(木) 09:36:47 0
>>623 >「芸術的空想が、郷土の神話の制御も受けずに、
>無規律に彷徨するさまを思い描いてみるがよい。」とあるだろ?
>ニーチェは「郷土の」神話に基づく「規律」について書いてるわけだ。
まさにその通り。
>>622 早くんよ、だから君の言葉には血が通わないのだ。
足元を見よ。四季も美しい、花に満ちたこの敷島の大和を。
君の考えは悪くないと思うが、考えるだけでなくかく在らねばならないのだ。
>>623 >>624 たしかにその通りです。
>君の書き込みがまさにその「ソクラテス主義の結果としての」無規律な空想に見えてしまうのだが…
単なる子供の駄々だと思っておいて下さい....たぶん
>>618 〜は根拠の薄い空論です。
>足元を見よ。四季も美しい、花に満ちたこの敷島の大和を。
御指摘どおり、大地がどうこう言っておきながら、観念が地につかず異界の空を飛んでしまってます。
レスありがとうございます。
以下は懲りずにおなじみの長い感想文♪
現代には生命力のある象徴体系がないから、あるいは人の心が神話の流れと繋がってないから、
私のような性格破産者、倒錯者、ジャンキー、リストカッターなど自分の精神の内で悶絶しそうな人種もたくさんいるかと思えば、
自己肥大化した経済(経済なんて無意味な脂肪だらけ!一体人間にとって何か価値のある運動をしているだろうか!?)の排泄物たるポストモダンな人工物や街が大地を塗りたくっている、
ってことかもしれません。
生き生きした「象徴」がないと、人間の認識は大地に達しない。象徴は、大地と学問、本能と知性、原始性と哲学性を繋ぐ大事なもの。
たぶんニーチェの時代には、キリスト教の本来の象徴体系としての生きた力が失われて、
象徴の抜け殻として化石として道徳だけが残ってしまっていたから、ニーチェにはキリスト教が生に背く宗教だと思えたのかもしれない。
(骨の髄まで荒々しいゲルマン人の血統が染み込んでるようなニーチェの気性も大きかっただろうけど)
ニーチェの言葉は、象徴と理論が見事に融合している。自身、特に「ツァラトゥストラ」で、新しい象徴的存在になっている。
ニーチェは超越的なものを否定しながら、ニーチェを読む人は超越的な何かを感じてしまう、という逆説は、こういうとこに起因していると思う。
真に宗教的なものは信仰なんかではなく強烈なイメージを伴い、理性の拘束を突き破って生に対する認識が根底から覆る、ウェルテルの恋心にも似た、内的な体験のこと。
「本物の」神秘主義(オカルトは象徴を内的なものの比喩としてではなく外的事実として扱うのが根本的におかしくて、内的な価値を秘めているはずの象徴の意義が本末転倒している)は、
合理主義に見捨てられてた心の内奥へ認識の根を下ろしていたという点で、合理主義の一面性を補うためにも評価されるべきだと思う。
神秘主義の象徴を哲学的に翻訳したら、根源的な基盤と表層の価値観が橋渡しされる。
信仰、電波、みたいな言葉が揶揄する意味で使われるけど、国家という個人のための抽象的な機構が、どれだけ具体化されてしまい、少なくとも世界大戦前後にはどれだけ個人が国家の奴隷になってしまっていたか、
そういうことを考えると、言語で規定されてる抽象的なものや価値観に対する信仰からは、人間は逃れられないのかなと思う。
政治経済用語が指す対象の多くは、誰も見たこともなければ実感的に体験したこともないものばかり。それに扇動されてしまっている。熱弁を奮う政治家自身も。
それに比べ、詩人や名文家が表現する言語のもっとも純粋な姿、人間の内面に訴えかける言葉は、具体的な価値をもってる。
「情報」が信仰されてしまいそうな気がして、神を体験せず信仰だけしていたから結局は人が神の奴隷に成り下がり生の価値が損なわれてしまったように、
情報に扱われるだけの思考になってしまいそう。象徴や芸術は、表層を動く言葉とは違って、個人に心の深みを自覚させる命にとって重要なもの。
宗教が象徴としての機能をなくし大衆道徳や集団組織に堕っしたときにこそ、新しい生きた宗教や、芸術がその役目を負わなければならないはず。
科学が進歩しても科学を使う人間の精神が進歩しないのは、自滅能力を養っているのと同じ。
ニーチェを読んでも、真面目な読み方をせず
>>623 さんの指摘どおり我侭に読んでしまい、自分の言葉やニーチェの言葉に神経が切り殺されそう(しかも出血をこのスレに垂れ流してる)な私が、
こんなこと言う資格は根本的に皆無で、抽象論を抽象論で批評しただけの単なる子供の駄々、しかも抽象的な子供の駄々になっちゃってるけど。
いろいろアドバイスされて、早は「参考になります」とか書いているが、 その後のポエムを見れば、参考にしてないことがわかるわけで…www このレベルで京大に受かるとは思えないが、まぁがんばれw (それより、病気が進行してるんじゃないか? 病院いってるか?)
>>627 >参考にしてないことがわかるわけで…www
参考にしてます。
>>623 >>624 さんのように親切に細かく批評して下さる人は好き。
どこがどうポエムになってるか指摘して下さったら、とても嬉しいです♪
>このレベルで京大に受かるとは思えないが、まぁがんばれw
わざわざそういう個人的なことで揶揄するんならこっちもわざわざこういうこと言い返したくなっちゃうんだけど、
私、これでも高3のとき、授業放棄の欠点ぎりぎりの状態から、自宅独学4ヶ月で一気に京大A判定出したの。
その後に神経症が悪化して、一日中夢みながら死にかけたり象徴派詩人や神秘主義に熱中して頭ん中全部比喩になったり。
精神的な病気は、言語にかなり打撃あたえるから、地歴や論文のウェイトが大きかったら絶対無理だけど、理系受けるし理系もともと得意だし。
実は、受験の合否より、入試当日まで生きてるかどうかを気にしてる。
>その後のポエムを見れば
言語感覚イカれ気味で、しかも哲学なんて1000ページ読んでるか怪しいくらいなのに、無理やり背伸びして哲学的に考えようとしたら、
ポエムっぽい他人に不親切な言葉になるのかもしれません。迷惑かもしれないと思って反省してます。
でも、いつも自分の考えや表現が人に通じるのかな?って思って、書き込んでみたくなる、ていうのも実はあります。
あとメタ思考は得意だけど論理的思考がかなり苦手なの。
>病気が進行してるんじゃないか?
初めてきたとき、「メタファーで具現化されたような文体に心臓が突き刺される」てポエムどころじゃあないこと書き込んでたし本当にそれが現実だって信じてた。
現実と妄想を隔てる壁の主成分「ような」が完全に消失して、比喩とそれ以外の表現の区別がなかった。進行はしてません。
>病院いってるか?
病院なんて、行っても、抗鬱剤処方してもらえるだけ。精神的な苦痛が病院いって解決するような程度だったら、たぶん文学や宗教なんてなかったでしょう。
鬱というより神経症なのに、一日3〜6錠も抗鬱剤飲んでたら、ちょっとハイになって観念奔走、妙な発想ばかり思いつく。
>>628 >病院なんて、行っても、抗鬱剤処方してもらえるだけ。
心の病は先生との相性が一番大事らしいから、いろんな先生をあたってみたらどうだ?
揚げ足取りはみっともないぞ やるなら正面から堂々と意見を言え
>>632 そういうのは揚げ足取りとは言わんだろ。。。
>>632 すぐ死ぬかもしれないと自分で言っている人に対しては、
まず病気の心配をするのが当然なんではないかい?
(君はへんな人だね)
>>629 病気の心配してくださってるのならありがとうございます。
三人くらいはあたってるけど、全然だめ。ていうか素直じゃなさすぎて人間関係仮面演技ばっかで、現実では病人以外の人とほとんど心の接点もったことない自分がだめ。
本の中に心の接点を求めてる。ツァラトゥストラもラスコリーニコフも大好き。ムイシュキンとロゴージンにはどこかしら同性愛の匂いがする。最近はキリーロフにはまってる。でもやっぱスタフローギンが一番love。かっこいい。
まあニーチェの思想は効きすぎるワクチンのようなもので、神経症の状態でニーチェの思想に感情的に耽溺するのは、擦り切れた神経に熱湯かけるような苦痛が伴ってるような気がするけど、
でも慣れたら心の病に対する耐性も上がってるだろうな、とか思う。
>>633 >>634 多分まず私が変な人で妙な書き込みばかりするから、人によって私の言葉をどうとるかが違いすぎて、
その妙な書き込みに対するレスも人によってどうとるかは当然違ってくるから、揚げ足とってる、ていうふうに感じる人もいればそうでない人もいるってことですよ。
いくらコテハン使ってる人でも自演なんかわざわざしたいなんて思ってるひといるはずないのに、
もしいたら相当ひまなんだろうけれど、とにかく少なくとも私は自演なんか一度もしたことないし、めったに自演なんかありえないとして、
コテハンに対して自演してると勘違いするのが多いのは、きっとそのコテハンが変な人で妙なこと書き込むから、
人によってどう取るか違いすぎて、それに対する他人のレスも変に思えて、自演なんじゃないかしらっていう疑惑が出てくる、
ていうのも同じ原理でしょう。
>(君はへんな人だね)
そういうわけで、へんな人は
>>630 さんではなく私になるってことです。
>>635 >その妙な書き込みに対するレスも人によってどうとるかは当然違ってくるから、揚げ足とってる、ていうふうに感じる人もいればそうでない人もいるってことですよ。
君は
>>630 以外にはレスしているが
>>630 だけはレスしていない。
ということは君も揚げ足取りと感じたということだろうな。
自演の話はよくわからなかった。
わざわざ先回りして言わないほうがいいと思う。
かえって疑われるだけだ。
では病気の話はもうやめようか。
病気の話に触れてほしくなかったら君もリスカとか、病気の話はもうするな。
まあ病気だってかまわんじゃないか。誰だってどこかしら病気だ。 むしろ文明世界全てが・・・なんて言い出したらそれこそ病気だ。 ニーチェ先生だって言ってるだろう、病も生の一部だって。 人間に害を為す世界が病気か、世界に害をもたらす人間が病気か。 人間にとって害あるものも、他の生物にとっては益となることもある。 それに、そもそも人間とはこの世界の一部だ。世界そのものだ。 ある部分が不調をきたしても、全体としてあると思えば沢山じゃないか。 今日は5回もうんこした。明日もやっぱりうんこするだろう。 快便こそ生なり。入れたら出す。出したら入れる。
638 :
金曜日 :2007/08/17(金) 23:35:22 0
早君がこのスレにいるのもわかる気がする。 過疎スレだが以外にみんなやさしい。 ところで最近読んだニーチェ本を紹介する。 りー・スピンクスの『ニーチェ』青土社の現代思想ガイドブックです。 入門解説書としてはとてもよくできている。 これ一冊でニーチェの全体がわかるようになっている。 あとはこれを参考にしてニーチェの著作をよめばいいというくらいだ。 早君もこれを読んで君の偏向的なニーチェ理解を修正したほうがよいと思う。 私の勝手なおせっかいだが。 それよりも受験だな。
639 :
考える名無しさん :2007/08/18(土) 00:08:02 O
綺麗な女ほどウンコ、オシッコに頻繁にいくという仮説は確かめられてきているよ。 話が抽象的すぎてさっぱりわからないという声もあろうが、 具体的に話すことは困難なのでご了承願いたい。 ところでこれは性別によらないに違いないと思われる。 そこでこれからは「美人はトイレと仲良しだ」と少々一般化させた仮説を検証していきたいと思っている。
私がこんな検証作業に血眼になっているのも他でもない、 かの「中島の悲劇」を二度とこの世に誕生させないためである。 排泄に肯定的なるものが認知されれば、 からかわれることもなく堂々と排泄をすることができる世の中になるだろう。 たかが排泄、されど排泄だ。 中島の血と涙の教訓は決して無駄にされることがあってはならないのである。 そこで私は神妙な面もちで一念踏ん張り、 立ち上がることにしたというわけである。
私は家が狭いために通読した本は読み捨てる人間なのだが、 彼の名著「孤独について」は依然として書棚に飾ってある。 ニーチェのいう深淵はここにあると私は信じている。 またそれは受験よりも大事なことであると。
美人はウンコを頻繁にするという説は案外有り得る 現に白石美帆(美人かどうかは感性によるが・・・)はメディアでうんこトークを公然としていた 後、歌手のCoccoも僕らの音楽という音楽番組で「歌はウンコ」と連呼していた これは果たして偶然なのか? 女は総じてウンコが好きなのではないのか?
白石美帆のような可愛いお姉さんがウンコが好きで、 私ウンコをするためにこそ食べるの♪ とえくぼを浮かべつつ美しく微笑むとは… 現実は小説より奇なりとはこのことだろうか。 ディオニュソス的なるものは意外と身近なところに潜んでいるようだ。 それでこそ根元的なのだ。 いやはやまったくもって日常の奇怪さに気付く能力は哲学徒には欠かせない能力である。
644 :
金曜日 :2007/08/18(土) 02:55:08 0
昔 吉永小百合が付き合ってた人から 「あなたがウンコをするなんて信じられない」 といわれたことが悲しい とどこかで言っていたが・・・ 世代がばれたかな
自演がばれて早が荒らしてるの?
>>645 すっきりするために妙な文章、迷惑にも書いちゃうのに、
自演なんてわざわざ自分の●食って出すようなすっきりしないこと、一度もしたことないよ。
>>638 ありがとうございますその本、一度読んでみたいと思います。
ここは、金曜日さんの言うとおり、細かく批評してくれる親切な人多いし、ニーチェについて詳しい人が長文書いてくれたりして、
つい気に入っちゃって出て行けないのよ。
>>639 人から聞いた話だけどそういうサービスしてるお店って結構あるみたいです。
美人と●を本気で愛してるのでしたら、実際にサービス体験して、抽象的にじゃなくリアルに具体的な報告してみてw
私はスカトロジーそんなに好きじゃないけど、精神的な排泄、カタルシスは大好き。図書館色々探してみれば、偏執狂の著作とか隠密的な著作とか毒々しいのみつかったりする。
ロートレアモンの「マンドロールの歌」ていう散文詩、難解というか晦渋すぎて、通読不可能だけど、自分の嘔吐と排泄の大洪水で人類を呪うような勢いが感じられて素敵。
言葉が滅茶苦茶になるまで世界を憎悪し錯乱しつくした人の、いけない匂い。
「ツァラトゥストラ」の「通過」(第三部)にも、ちょっといけないものを感じる。
「マルドロールの歌」は、読むのしんどいしgayの人とか同性愛ものが好きな人でもない限り素敵だとは思えなくて、 感じやすく感化受けやすいけど現時点は健全ていう感じの人は読まないほうがいい本。 デュカスもランボーも早熟早死の男色少年。 デュカス=ロートレアモンはちょっと気味悪い。ランボーの方が精霊や動物みたいで、表現が鮮やかで綺麗。
>>637 >むしろ文明世界全てが・・・なんて言い出したらそれこそ病気だ。
に少し関連して。ユングがとてもいいこと書いてた。
「まったく個人的な問題、それゆえ主観的だと思われていた問題が、個人的葛藤と同じ心理的要素をもった外の出来事に出会うと、
突然、人類全体を包み込むほどの普遍的問題に成長する。個人的問題と時代の大事件との関連を見出しまた見抜くことができれば、
この出会いは、単なる個人的なものと関わっているという孤独から救われるほどの意味をもち、主観的問題が普遍的問題にまで広がる。
これは解決の可能性にとっては極めて有利なことである。なぜなら、個人的問題には自分自身についての意識的な関心の
僅かなエネルギーしか使えないのに対して、いまや集合的な原動力が流れ込んで自我の関心と合流し、これによって新しい状況が生まれて、
この原動力によって、個人的なエネルギーでは克服できないような障害を乗り越えることができる。」
ニーチェは、自分の心理的な苦悩を世界規模の疾患と照らし合わせることで、
あるいは後にナチスとして発症することになるドイツの潜在的病を自分の心に引き込みドイツという患者とともに葛藤することで、
色々な鋭い時代批判を展開していったのかもしれません。
こないだ死んじゃった阿久悠がいいこと言ってた。
「自分が投票した政治家が悪いことをしたときに、『私が1票を投じた者が情けないことをして申し訳ない』というくらいの意識にならなければ、本当の民主主義は根付かない」って。うろ覚えだけど。
>>649 のユングの場合は、飽くまで自我の内側での話だよね。意識の焦点をずらすだけであって、自我と外物との交流まで至っていない。
ま、精神を体系化し記述しようとする心理学者と、大衆の心情の最大公約数をつかみ取ろうとする流行作詞家との基本的な指向性の違いがあると思うが。
>ニーチェは、自分の心理的な苦悩を世界規模の疾患と照らし合わせることで、
>あるいは後にナチスとして発症することになるドイツの潜在的病を自分の心に引き込みドイツという患者とともに葛藤することで、
>色々な鋭い時代批判を展開していったのかもしれません。
本人の意識はどうあれ、そういう側面は持たざるを得ないだろうね。何しろニーチェはドイツ人なんだから。
そう? 個人的な関心(趣味)を、あくまで個的なものとして 見出そうとするのがニーチェだと思うけど。 時代的なものとの「合流」っていうのをニーチェのどういう ところに感じたんだろう。
>>650 ユングって、何を書いても、自我と外物が交流しない内容ばかりなのよね。
民俗を研究しても、全て自分の元型論のもとに解釈されていて、民族史的な流れは見えない。
自身、自分と現実との繋がりは悲惨なものだった、みたいなこと書いてる。
だからこそパイオニアになれたんだろうけれど。あらゆるものが内に向かってる、典型的な内向的思考。
外向的な人が民主主義であれ外部のイデオロギーに便乗するタイプとすれば、
内向的な人は心理的経験に大きな価値を置いて決して〜主義とかにはなりえないようなタイプかもね。
阿久悠さんが外向的か内向的かは解らないけど、あの人の歌詞みると、なんでこんないろんなジャンルの詩かけるんだろと思う。
ユングの文章は哲学的にもユングの性質的にも難解だから、河合隼雄のユングの思想と日本の文化や具体的な症例を上手く結びつけてくれる文章はユング読みたい人には助かる。
その河合さんも一ヶ月前、死んじゃった。
ニーチェはドイツ人の中でも特にドイツ人だったと思う。
当時のドイツに対し常に批判的で時代的観点からみたら当時のドイツ人とは離れてても、ゲルマンの血統という点ではまさにゲルマン人。
ツァラトゥストラの荒々しさ。筋金入りのゲルマン人だったからこそ、当時のドイツの不具を鋭く直観してたのかもね。反ユダヤ主義には凄く反対してたし。
ニーチェの露骨なドイツ批判がドイツの自己批判みたいなものだったとしたら、ヒトラーが政権取る前に、
たくさんの賢い人達がニーチェの言説に耳を傾けてたら、偏執狂に一国が振り回されるような集団妄想なんて起こりえなかっただろうね。
>>651 ユングの言いたいことは、時代的なものとの合流が、自我の「内側」でおこってるというようなこと。
たぶんあなたが考えている「合流」の仕方は、一般的な批評家や歴史学者の時代への接し方で、それは関心が外的事実へ外向するような向き。
ユングが言ったような「合流」、私がニーチェがそういうふうに時代に接しているのではないかと思ってる接し方は、
時代的な出来事を個人的関心の内に引き込み、外のものと内のものを重ね合わせるような、内向的な接し方。
>>652 「集合的な原動力が流れ込んで自我の関心と合流し」っていうのは、
集合的無意識と関連してるわけでしょう?
ニーチェにそういうことを感じるとすれば具体的にはどういうところ?
集合的無意識ていう述語はユングの中でも色々な違った意味合いで出てくるからややこしいけど、 とにかく集合的無意識というユング用語をここでの文脈での意味にかえるなら、 時代の表層に抑圧された隠れていた、時代の底辺を流れる潮流、みたいなもの。表層が意識だとしたら、底流は無意識で、だいたい対立関係にあることが多い。 一般的なドイツ人は表層の価値観だけに左右されていたとして、ニーチェがドイツの表層を鋭く批判してたとしたら、 底面も含んだ時代の全体の流れをしっかり汲み取っていた、ていうことにもなりそうだと思って。 時代の表層の流れだけしか感じてない人だったら、批判的にはならないだろうし、 完全に時代とかかわりない人も時代批判なんかしないだろうし、つまりニーチェは表層の価値観からは独立した地点から、 時代に抑圧されていた底流も見据えた精神で、批評していたてことなんじゃないかな?わからないけど。あまり具体的になってなくてごめん。
>>654 >一般的なドイツ人は表層の価値観だけに左右されていたとして、ニーチェがドイツの表層を鋭く批判してたとしたら、
>底面も含んだ時代の全体の流れをしっかり汲み取っていた、ていうことにもなりそうだと思って。
ん・・・
集合的無意識は個人的無意識の対語だから、個人的無意識に対して集合的無意識は、
個別性ではなくて共通性に焦点が当てられているわけだよね。
ニーチェの場合は、関心とか趣味とかは、共通性よりも、遠近法的な差異のほうに
力点があるんじゃないかと思ったから聞いてみたんだけど、まあいいです。
当時のドイツの集合的無意識を具体的に表現するとすれば、
キリスト教道徳などによって抑圧され、歪んだ状態にあって暴動の可能性を潜在させているゲルマンの血、みたいなものかもしれません。
ニーチェに内的な葛藤があったとしたらその個人的な次元の葛藤を、ドイツの時代的問題を内面に引き込むことで、
ドイツ表層の意識と底流の無意識との葛藤という次元まで普遍化させたというようなことです。
個人的意識と個人的無意識の間の葛藤を、集合的意識と集合的無意識の間の葛藤にまで普遍化させる、
というのが、たぶん
>>649 のユングの引用の主旨にもなると思います。
>ニーチェの場合は、関心とか趣味とかは、共通性よりも、遠近法的な差異のほうに
>力点があるんじゃないかと思ったから聞いてみたんだけど、まあいいです。
もともと以上はユング的な文脈からニーチェを見たときの話であって、
ニーチェ的文脈でニーチェを見たときとはどうしてもズレがおきてしまうのかもしれません。
どっちも特異な資質の持ち主だから。
>>656 >個人的意識と個人的無意識の間の葛藤を、集合的意識と集合的無意識の間の葛藤にまで普遍化させる
そうでしょう。
そこのところの方向がニーチェと逆なんじゃないかと思う。
ニーチェはそういうところを普遍化するのは嫌うでしょ。たぶんね。
ニーチェのいう「普遍化」と、
>>649 でのユングの文脈での「普遍化」がまず違っていて、
>>649 の引用の心理的な行為は、そもそも普遍的一般的な規範に基づいている人には起こり得なくい、
完全に個人的な行為。普遍化させる、という行為は、決してニーチェが嫌う普遍的な価値観をつくるという意味ではなく、
「個人」の自我の内側で行われる心的行為。
普遍化させる、というのを語弊のないように言い換えれば、意識と無意識の葛藤に時代的要素を付加することで自分の中で集合的無意識を集合的無意識を戦わせるみたいな意味。
659 :
訂正 :2007/08/19(日) 00:49:27 0
集合的無意識を集合的無意識を →集合的意識と集合的無意識を
>>658 ん・・・
集合的無意識は共通性に着目したものだから
>>649 の普遍化は共通性に向かう
方向であることは間違いなと思いますよ。
そこのところを敢えてニーチェと比較するなら、そういう感じで深層に降りていくと
力への意志っていう共通なものがあるわけだけど、でもその力への意志っていうのは
力と力の闘争っていう形であるわけだからね・・
やっぱり違うなと・・・
まあいいです。
勝手な直感ですがたぶんあなたは
集合的無意識の共通性と遠近法主義の差異
に焦点を与えている。
>>649 には集合的とか普遍的とかでてくるけど、
「共通性」ということに焦点はもともとなくて、「個人の内で時代を悩む」というのが焦点です。
だから
>>651 からお互いの論点がまず一度も一致していなくて、それで食い違いが出てるのだと、私は感じます...
というより、ニーチェもユングも独特すぎるから、二人の述語が交錯しながらしかも明確に議論していくのは、私は議論が苦手らしいので難しいです...
>>661 >
>>649 には集合的とか普遍的とかでてくるけど、
>「共通性」ということに焦点はもともとなくて、「個人の内で時代を悩む」というのが焦点です。
>>649 の「普遍」は「個人的問題」と「普遍的問題」が対比されてるんだから、
「個」に対する「普遍」って考えていいと思う。
そういう「個」から「普遍」に向かう方向はニーチェはとらない。
これが僕の見解。
ではでは。
私の見解は、
>>649 の引用には「個から普遍に向う」という内容は書かれていなくて、
「時代の悩みを自分の内に引き込む」という内容が書かれている
という見解です....
つまり結論は、
>>649 の引用の解釈が私とあなたで根本的に違うということでしょう
>>663 「時代の悩みを自分の内に引き込む」のはそうなんですよ。
その「時代の悩み」っていうのが「個人的葛藤と同じ心理的要素をもった」
ものであってそこに「連関を見出して」いくってことで普遍的問題に広がる
っていうことなんで・・
まあでもそのあとの「孤独から救われる」なんていうのもすごくニーチェ的で
ないなぁなんて思うんだけど・・・
ニーチェじゃないんだからニーチェ的でなくて当然だなあw
666 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 01:43:45 O
内なる普遍性の目覚し者は偉大なる力を手にするだろう。 人々は彼を崇め、敬愛し、彼に従うだろう。 彼はもはや彼であって彼でないからである。
>>664 敢えてユングの文脈とニーチェの文脈を強引に繋げるなら、
まず、
>>662 >>657 あたりの「普遍」は、「集合的意識」にあたると思います。
そして、時代の中で、普遍的な価値観として見做されていたものと、抑圧されていたもの、
それをニーチェは自分の中に引き込んで普遍的(集合的意識という意味の普遍ではなくドイツや世界を含めたという意味での普遍)な次元で悩んだ。
つまり「時代の悩みを自分に引き込んだ」
それでニーチェは、集合的意識と集合的無意識を自分ひとりのなかで戦わせ、
普通の気質の人だったら個人的次元を集合的次元に成長させることで
>>649 の通り原動力が上手く合流し孤独から解消され妥協点を見出していくところを、
ニーチェの場合は例外で激しく真剣に戦わせすぎて、結局ニーチェの自我のうちでは「集合的無意識」(言い換えればディオニュソス的なもの、あるいはゲルマンの荒々しい血)が圧倒的に勝ってしまった。
それで「表層で普遍的」だと見做されていたキリスト教道徳だとか一般的なドイツ人の価値観だとかにあたる「集合的意識」に対し、ずっと好戦的になっていた。
ほとんどの人の価値観である集合的意識とは対立する「集合的無意識」にニーチェは憑かれていたのだから、当然すごい孤独を約束された。みたいな感じだと思います。
ニーチェは退廃に気付いていただけであり、 しかも同時代人より一層退廃が進んだ人であったからこそ、それと気付いたのであり、 彼自身退廃から免れていたわけでは全然ない。 ニーチェが大衆の同情や人気を博すというような事態になれば世も末なのだろう。
669 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 02:11:56 0
ニーチェには「鈍」が欠けていたわけだよ。
670 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 02:14:27 0
>>667 2つの思想を勝手に合体させたらいかんww
ここは学問カテゴリーであるから、比較思想について記述するなら、
2つの思想を区別した上で、その類似点、相違点について書くのがよろしい。
671 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 02:23:11 0
ユングはニーチェが普遍的無意識の最高形態である「自己」に取り付かれていた という。 普遍的無意識としての「自己」はキリストや仏陀などがその象徴とされる。
672 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 02:25:58 0
>>671 ユングがオカルトといわれるのも頷けるなww
>>670 ちょっと微妙なことで議論していて、上手く噛み合わないので、
ぱっと解りやすくなるかなと思って、敢えて強引にでも、つなげてみたのよ
ごちゃごちゃして余計わかりにくくなってるけど
とにかくたぶん、‘ニーチェの嫌う’「普遍的なもの」がユングの「集合的意識」にあたって、
「ディオニュソス的なもの」が「集合的無意識(普遍的無意識)」にあたる、ていうのはニーチェとユングを繋ぐとき断言しても差し支えないと思う。
ニーチェは「普遍的なもの」をきらっって遠近法的に何でも捉えていたけれど、
「ディオニュソス的」という点では、‘ユングの文脈においては’「普遍的(集合的)」だといえる。
ユングが無意識に関して「普遍的」というときは、‘生得的’な本能に基づくものという意味で「普遍的」といってる意味合いが強い。
ニーチェは現代人よりも進んでいる。 未来人であり末人である。 ニーチェの孤独、苦しみに共感を覚える末人はどうしても増えていく。 行為における個人、自由、客観主義によって、実態的には主客分離が進みつつ、 卓上では主客融合を夢見るというような人が増えていくのである。
675 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 02:44:44 0
>>673 >「ディオニュソス的」という点では、‘ユングの文脈においては’「普遍的(集合的)」だといえる。
初期のニーチェはそういうところがあったかも知れないね。でも後期は違う。
後期のニーチェはショーペンハウアー的な根源的一者からは離れてるから。
「ディオニュソス的」というのは「根源的」という意味は保持しているとしても、
「一者」という意味は当然薄れてるはずだよ。
ニーチェは、カント-ショーペンハウアーの「物自体」を否定したんだから。
676 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 02:47:56 0
ユングの普遍的はおおよそ「生得的」であり、「集合的」は民族や時代に 近い。 ディオニュソス・パン・バッカスはギリシャ・ローマ神話で大体同じ。
とはいえ私は失楽園においてルソーが古代の英雄に憧れ、 ニーチェが古代ギリシア人に憧れ、 ユングが古代の聖者に憧れるというような、良き過去への憧憬が、 単に病の症状であるかというとそうでもなく、 薬でもあるだろうという一縷の望みを大事に抱いてはいるが、 ルソーやニーチェの晩年というのは、そんな希望を打ち砕くものがあるのは否めない。
ユングによれば、
ニーチェはキリスト教の神が機能していないということは鋭く見抜いていたものの、
自分自身がディオニュソスやキリストのような第一級の神的存在を象徴する「自己」そのものになっていたという大きな罪を犯してしまった、
ということになります。
ユングが勧めるのは「自己」を‘意識化’することであって、「自己」に憑かれて「自己」そのものに‘同一化’するのは自我肥大で病理的な現象だと見做される。
ユングとオカルトの大きな違いは、
ユングは(自己などの)象徴を内的なものと見做しているのに対し、
オカルトは外的なものとして象徴を現実化してしまってるとこ。
ユングにとって霊的なものは大きな内的価値をもっていてもあくまで人間の想像力の産物であって、
オカルトでは霊的なものは外的な実在になる。
現代では普通の人はニーチェを哲学として読んでも主客融合は達せられないでしょうね。
でも「マルドロールの歌」とか「地獄の季節」とかみたいなフランスの散文詩で、精神的な地獄を知ってみたら、主客融合のカオスに遡行できるかもね。
主客融合でニーチェに接するというのは学問的ではないけどバタイユのニーチェ理解みたいなものでしょう。
>>675 そこが難しいとこなんです。
ユングはニーチェを「自己」(つまり「一者」)と同一化しているといっている。
でもニーチェは「一者」を否定している。
679 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 03:01:13 0
哲学系用語の「普遍的」は「一般的」と言い換えても大体は通じるよね。 「生得的」ということは、生まれながらに皆が「一般的」に持っている ということだろうな。 デカルトは神を生得概念としたが、ありえん…
680 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 03:11:45 0
生得観念だった…
精神的な地獄というのは主客分離の末期症状だよ。
とはいえ死によって主客分離の条件がなくなるから、 精神的な地獄は主客なき状態への契機にはなるだろうね。 でもこれは狂気だろうね。
主客分離の末期症状 → 自己分裂 → 離人症?
昔話だが残酷なことをすらいかにも溢れんばかりの健全さをもって語る人間が昔は多かった。 ニーチェにはそんな健全さが皆無なんだよね。 だからこそ渇望した。
主客なきものの一方に生の充実があれば、他方には生の欠如がある。
686 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 07:44:43 0
>>587 宗教は力だけど、永劫回帰は無力です。
無力だからこそ、宗教や資本主義、国家・・・などの諸力を引き受けることができる。
永劫回帰とは、諸力に対して差異化を推し進めるものでしょう。
>>654 で「集合的無意識」について一面だけを説明してしまったので、ユング知らない人が読んでしまって誤解したらいけないから、一応念のため多面的に書いときます。スレ違い失礼。
「集合的無意識」という術語は、だいたい主に三つの意味合いに分けられる(ユングは一つの概念に対し曖昧な何通りかの説明をつけたり複数の意味を持たせたりして、ややこしい)。
全て同じ集合的無意識だし、それぞれ混じりあって初めて集合的無意識なんだけど、明確にするために意味的に分けたらこうなるだろうなという話。
1個人の内に潜む無意識の中でも深層の、生得的要素によって決定されている人間である限り普遍の心的内容。元型によって構成されている。根源的なイメージ。
wikipediaに載ってる集合的無意識の定義。普通はこの意味で使われる。
(古書など一度も読んだことない)精神分裂病患者の妄想と、ミトラ祈祷書の内容が、
ほぼ完全に一致(太陽から筒が出ていて筒から風が吹いている)していたという事例がきっかけで、ユングはこの概念を発案。
2時代の表層の価値観などによって抑圧されている、その反対物。集合的意識に対立するものとしての集合的無意識。
>>654 で書いた意味合い。
時代を一つの個人と見た場合での無意識。根源的イメージが抑圧されている非根源的な合理主義的世界の中では、1の意味での集合的無意識と内容的には同じ。
ニュアンスの違い。1が集合的無意識の一次的な定義でこちらが二次的な意味。
3この意味で出てくることはかなり稀だけど、テレパシーなどの共時的現象の因子としての集合的無意識。
現実の出来事は一つの大きな無意識に影響を受けてるというオカルト的な考え方。共時的現象は1の集合的無意識の定義では明らかに説明できない。
この意味での集合的無意識が個人に作用して、たとえば母親が危篤状態に陥っているのを娘が別の国で直観的に知覚したり、未来予知やありえない確率の偶然が起こったりする。
>>681 >>683 離人の状態でも、文学の世界に触れるかどうかで大分ちがう。
個人的問題ばかりで地獄だったとしたら、単に客が消えて主のみになるだけなんだけど。文学に憑かれたら違う。特に、詩や、危ない文学。
離人的で心理が内向しているときであればあるほど、集合的無意識という主客を超越した宗教的な深層心理との接触の可能性が増え、元型的な文学がそれの機会になる。
孤独な心理状態で「マルドロールの歌」を読んだら、マルドロールは、本の中にではなく自分の中に発見してしまう。
人間への激越な憎悪を愛する同性の幼子へぶつけるような、愛憎のサディズム、そういう悪が、自分の中に潜在しているという恐怖、愛する幼い少年達への容赦のない攻撃。
本の世界の中でマルドロールが動くのではなく、禁断の詩的文体を読み進めるうちに自分の心の暗い影が立体化していってマルドロールになっていって、
結局自分がマルドロールに憑かれてしまう。
ナチスの収容所に囚われたあるユダヤ人は、ドイツ兵のする悲惨な残虐行為を見ていると、ショックのあまり悲しみも苦痛も限界突破、
ドイツ兵がするような悪をやってみたい衝動を、自分の中に発見してしまったらしい。
とにかくこの作品は、読みにくすぎて一気に通読はできないけど、単に鑑賞としての作品であるだけではなく、命に直接訴えかけるグロテスクな力をもってる。
人によるけど、凄く感じやすい人ならこれ読んだら、ほんとに狂気に近い状態になるかも。ニーチェがこれ読んでたかは知らないけど。
↑!?俺様の切り札の最終兵器は特別学習カードのマイナスプライド時空乱流永劫回帰波動砲と存在消滅時効中心鉄旧学問相転移砲とミノフスキー粒子とモンスターボールと朝貢土台進化荷電粒子砲でお前らを攻撃だー?!↑
691 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 22:07:05 0
こりゃ禁断じゃーなんて言ってるうちは ひなたぼっこしながら浅い水たまりにいるようなもんなんよ 突然足をすくわれる深みはまだまだ遠い テレビで?なんて銘打ってる番組がことごとく無難なのと同じ
692 :
考える名無しさん :2007/08/19(日) 22:08:12 0
マル秘なんて銘打ってる
693 :
金曜日 :2007/08/19(日) 22:32:59 0
>>686 >>宗教は力だけど、永劫回帰は無力です。
>>無力だからこそ、宗教や資本主義、国家・・・などの諸力を引き受けることができる。
>>永劫回帰とは、諸力に対して差異化を推し進めるものでしょう。
もっとくわしく説明してほしいですが
私の意見は私は現在の宗教はすべて終わったものして把握しています。
現実には世界に今も多くの宗教があり国家にも影響力を持つ宗教がありますね。
そのことをあなたは言っているのでしょうか。でも結局は宗教は国家を超えることができない。
また巨視的に見た場合宗教は無力化していくとおもいます。
私たちの内面にも居場所はなくしていくでしょう。
私の中では宗教は過去に通過した私自身の宗教心として眠りについており
今は「宗教とは?」と思考の対象として存在するだけです。
『ツアラツストラ』の第1部「新しい偶像」の中で「国家が終わるところ
・・・君たちには見えないか、あの虹と超人の橋が」これにはさまざまな解釈が可能ですが。
「永劫回帰」は全ての宗教を駆逐する力があるとおもいます。
国家を超えることは未知数ですが。また現実にも無力ではあるかもしれません。
でも私たちの内面にたいしては力を持つのではないでしょうか。
>>永劫回帰とは、諸力に対して差異化を推し進めるものでしょう。
これについては同意します。しかし解釈としてあなたと違うかもしれません。
>>693 >「永劫回帰」は全ての宗教を駆逐する力があるとおもいます。
これはいったいどうやって?
>でも私たちの内面にたいしては力を持つのではないでしょうか。
それは『信仰』と、どう違うのでしょうか?
永劫回帰ってのは一つの仮説であり、一つの信仰だ。 それは「生を肯定する」ための一つの信仰だ、と思う。 だが、信念を持つには常にひとつの“信仰”が必要ではないのか? 遺稿集を読み耽っている。 ツァラトゥストラの試作が載っているのは興味深いな。 ところで全集を買い漁るのが不可能だというのはなんでですか? 出版社がとうの昔に倒産とか?
696 :
686 :2007/08/20(月) 01:45:23 0
>>693 宗教とは道徳的法則を利用したものですが、道徳とは超越的な視座から私達の生を捉えようとする欲望があり、
それはニーチェのいう「<力>への意志」を「支配欲」と取り違えてきた、という解釈があります。
そうではなくて「<力>への意志」とは、意志のうちで欲しているもの(ディオニュソス)であり、
ニーチェが告発したのは、そのディオニュソスが十字架にかけられている・・・ということでした。
永劫回帰とは宗教とは違って道徳に繋がれた意志ではないので、「
>>587 永劫回帰が宗教のようになっても・・・」
というのは原理的に違うのではないか?と言いたかったのです。このような文脈で、つまり永劫回帰には<力>はない、といいました。
ところで、「宗教は終わった」というのはある一面では同意しますし、さっさと卒業してもらいたいという本音もあります。
しかし、この「支配欲」が根本的に解決されない以上、悪意あるパロディとして反復する危険性があることを指摘しないわけにはいきません。
近年の最悪な形としてセルビア人による民族浄化があり、このような<他者>を外部に排除する傾向は世界的な傾向として ― 日本も例外ではなく ― 強まっているといえるでしょう。
このような原理主義者たちが<然り>を否定するために、新たな道徳、新たな宗教を必要とすることも考えられると思うのです。
697 :
考える名無しさん :2007/08/20(月) 02:01:19 0
ポッポ♪ 新店ポ♪ けっけけっっっけえええっっけええええええええええ ミードリ電化の塵塵新店ポ♪ 塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵 /.:;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;::.\けっけけっっっけえええっっけええええええええええ ^^ 「どこにできたの?」 ::;;;;;;;;;;;;栄光あれーーーーっっ!!! / うひひひひっひっっひいいいいいいい ミロリってエデオンにのまれたんや 新CM見ました ますます恥ずかしい知らんかったからいやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ! ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩 ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! ウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 ;;;;;;;;;;鬱 死;;;;;;;::..ヽ ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱 ;;鬱  ̄ /⌒ヾ/ / .,;;;;;;:/.:;| -―'――ー'''‐'ー'''―‐'―''''\,./ / .::;;;;;;:/‐'| :;|'''ー'-''――'`' おあああああっまっっさっさまままああああああああああああああドピュウウウウウウウッ0,,,,,,, 大人になれば栄光あれーーーーっっ!!! / ミロリってエデオンにのまれたんや 知らんかったからいやぁぁっ!あたし、こんなにいっぱいウンチ出してるゥゥッ! ぶびびびびびびびぃぃぃぃぃぃぃっっっっ!!!!ボトボトボトォォッッ!!多 三 般 倒 掛 般 無 無 明 法 眼 是 不 亦 色 厄 多 観 摩 ぁあ…ウンチ出るっ、ウンチ出ますうっ!! 僕らはみんな生きている 生きているからんはああーーーーっンッ、ウンコ゜.,,.:lllllll!: 青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 il°イナバウアー取lii,, .'゙゙lアホlアボ° ..,,i゙ 囚人全員、そり返りながら 青天井トップスピードでウンチヲ肛門からspreadしはじめた。 ■■□■■■■■□■■■■■□■■■■■■■■□□■■■■■■■ 何でも出来ると思ってた。けど子供以上に不自由なんだな。 子供の頃の俺が今の俺を見た塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵塵らなんて思うだろうな。
698 :
金曜日 :2007/08/20(月) 07:08:20 0
>>695 古書で全集を買い求めるしかない。
白水社では何巻か在庫がない。たとえば
第2期の7巻。他にもある。
だから本屋の店頭にはそれらは並ばない。
全巻並んだ本屋があったら教えて欲しい。
全集読破なんて何年もかかるんだろうな
宗教の実際の機能は、宗教の本義とはいつも対極にあるのが実態。 カルトや原理主義は宗教の意義を完全に見失って、命に背くことをする。宗教の本当の目的は内観によって命に対する認識を極限まで高めること。 開祖はそれをするが信者はそれをしようとしない。だから結局、開祖や一部の人しかその宗教を本当に解っていないというのがほとんど。 宗教性は人間の精神を高めるが、宗教は人間を宗教性のない群蓄にするという背理。 宗教が本当の機能を失った時代こそ、生きた哲学や芸術が個人の内面深くに思想を通わせないといけない。 人間は集団と化せば、カルトだけでなく政治だって簡単に盲目の野獣となり得る。 内なる野獣にしっかり目を向けないから、集団になると集団の盲目性に気付かず、破壊的な行動をしてしまう。 さらに巨視的にみれば自然破壊だって人間の盲目性による破壊的行為の一つ。 心に深くに浸透し得る有機的な思想がなければ、大きな問題は根本的に解決しない。 ニーチェは内なるディオニュソスに対し鋭い認識をした。それに比べナチスは肥大して病んだディオニュソスにただ憑かれて集団妄想に走った。 ディオニュソスは思想や芸術に導かれて初めて有意義になる。
>>691 確かに、禁断の、なんて銘打っちゃってる表現だったね。でもマルドロールて読む人によってはだけどほんとに麻薬になり得る。
マルドロールは内容も文体も奇怪すぎ、直喩暗喩混交の長ったらしい比喩がたくさん。韻文じゃないから日本語で愉しめる。
ああいうタイプの言葉を読むとき、想像力を能動的に酷使しないと読めないから、読むほうの心理要素も生々しく絡みあっちゃう。
原始的な植物と軟体生物が敷き詰められた湿った空間がむくむく動きだすかのような、幾重もの比喩の流動が、
全身の神経を撫で回して、自分の心や肉の中にある色々なもの特に陰惨なイメージや感覚が、
嘔吐物がみぞおちあたりまで昇ってくるかのように、湧き上がってくる。
晴れた日に水溜りの傍で平和に日向ぼっこしてるとき、何気なくその水溜りを見てみると、
自分の暗面がうつってて、その暗面が自分の両足を掴んで水溜りに引きずり込み、水溜りの底は突然流砂と化して、
地下の世界へ堕とされてしまうような感じで、マルドロールなんか読んだら心の平安が突然乱されてしまう。
幼少時に性的虐待を受けた人がどれだけその記憶を時間の海で洗い流そうとしても痕跡を完全には消すことはできないように、
グロめの印象が心の表面にしつこくこびりついてしまい完全には忘れられず、
数億の精子の大半が死滅してもそのうち一つでも卵子と結合してしまえば事が完了してしまうように、
忘れたつもりでもマルドロールの歌は心と受精してしまっていたり、というような感じで、
深く読んだ人の何人かに一人くらいは主客融合的にマルドロールと性交して心の中で奇形児が産声をあげちゃった人がいるかも。
デュカスの詩は奇怪で支離滅裂だけど、同じ支離滅裂でもアンドレブルトン風の陳腐さとは対極、罪色の芸術美がある。
ゲーテの比喩は、自然物を覆う永遠の女神のイメージ、自然界を風とともに優しく旅するする牧歌 ニーチェの比喩は、半分は太陽と酒神の輝かしい恵みに酔いしれる人もう半分は舞踏蜘蛛に噛まれ毒にやられて舞踏病になってる人で構成された集団の、狂騒的な合唱 ボードレールの比喩は、美神の身体に着せるための、自然や神話のあちこちから精密に切り取られた断片が美しく貼り合わされて出来た、衣装や装飾品 ランボーの比喩は、世界を自由に放浪する精霊の歌声 アンドレブルトンの比喩は、そこら辺の紙切れやスクラップを適当に集めて創ったガラクタを芸術品と勘違いするような空想 ロートレアモン伯爵の比喩は、解剖台もミシンも傘もタコも怪物もギロチンも黙示録も滅茶苦茶に混ざった大洪水
704 :
金曜日 :2007/08/21(火) 06:26:55 0
ウイキペヂィアはニーチェに限らず間違いというか 少しずれているのが結構ある。 思想政治関係がそうだな。 解説に競争もあったりしてね。 自分の詳しい項目でしらべればすぐ分かる。 こんなのにいちいち付き合ってられない 誰かがそのうち修正するだろう
>>700 >宗教の実際の機能は、宗教の本義とはいつも対極にあるのが実態。
>宗教性は人間の精神を高めるが、宗教は人間を宗教性のない群蓄にするという背理。
「宗教の実際」をどれほど知っていて、そういうことを言ってるの?
仏教だって、仏陀の精神を受け継いでいる人が日本にもたくさんいる。
現代でも、道元門下の沢木興道、内山興正をはじめとして、すばらしい
仏教者はたくさんいる。
抽象的な批判は無意味。
>>705 たしかに具体例出さずに一般化しすぎた書き方してしまってあなたの指摘どおり、抽象的になりすぎてますね。
>「宗教の実際」をどれほど知っていて、そういうことを言ってるの?
「宗教の実際の機能」て書いてみたのは、ニーチェの文脈でのキリスト教や、現代によくある新興宗教団体の怪しげな活動など。
「宗教の本義」「宗教性」に、仏教については詳しくは知らないのですがあなたが名を挙げるようなしっかり宗教の精神を受け継いでいる人たちの思想などがあたります。
>仏陀の精神を受け継いでいる人が日本にもたくさんいる。
だから「開祖や一部の人」にその人たちは含まれていて、批判の的にしたかった宗教はカルトや
>>696 にあるような原理主義や、ニーチェ的文脈でのキリスト教などです。
宗教もしっかりと先人達の精神を受け継いでいけば本当の宗教性をもつけれど、
ただ単にすがりつくために信じる宗教とか、野蛮な力に動かされてるだけの宗教集団には思想がない。
思想があってはじめて宗教は本当の宗教になる。
宗教は人間の精神にとって欠かせないものなのに、今の時代では本義から反れた宗教ばかり増えているのではないのだろうか。
というようなありきたりなことをいいたかったんです。
>>706 >宗教は人間の精神にとって欠かせないものなのに、今の時代では本義から反れた宗教ばかり増えているのではないのだろうか。
>というようなありきたりなことをいいたかったんです。
勝手なイメージで批判してもしかたないから、もっと地に足のついた話をしようよ…
708 :
705 :2007/08/21(火) 11:19:14 0
>>706 >宗教は人間の精神にとって欠かせないものなのに、今の時代では本義から反れた宗教ばかり増えているのではないのだろうか。
君の言うカルトなどはむしろごく一部であって、仏教本来の精神に触れようとする人のほうが多いだろうと思われる。
かなり前から仏教の本がとても売れていて、親鸞や道元の人気があるのはその現われだろう。
(宗教に無関心な人も多いだろうが、それは別として)
>>708 自分で矛盾してるって気がついてないのか?
「宗教は人間の精神にとって欠かせないもの」であるなら、
「宗教に無関心な人も多い」なんてことはあり得ないんだが。
大体何が「それは別として」だ。
そんな簡単に別にできるくせに、
「欠かせないもの」なんてご大層な言い方してるから
「勝手なイメージ」と指摘されるんだよ。
711 :
709 :2007/08/21(火) 14:39:41 0
宗教が欠かせない、じゃなくて、宗教性が欠かせない、て書いた方がよかった。 教義や信仰や道徳ではなく、個人の内的な体験に基づく、根源的なものに対する認識や感情などのこと。 そういうのを欠いた時代だからこそ新しい宗教がその欠如を補充しなければならないのに、新しい宗教はそれを欠いていて、 近代以降では宗教よりもニーチェなどの思想や文学のほうがその役割を果たしている。
晩年ニーチェは、永劫回帰や運命愛などの思想に至ったわけだが、十代の頃から運命と自由意志などについて思索して論文書いてたらしいね。
714 :
考える名無しさん :2007/08/22(水) 01:47:06 0
ニーチェ初学者なんですが質問です。彼の思想ってこんな感じですか? 人生は無意味だから何でも快楽や欲望のままにやりほうだいしてよい。 利己のため名誉のためなら家族や恋人も蹴落とせば良い。 死んだらどうせ消滅だから、意味のない生存中に自分の利益だけ考え上昇せよ。 死後は地獄も天国もないのだから。 神はいないのだからこれらを実践しても後ろめたさも何も無い。
↑!?超時空戦艦◆マ口ボバのマイナスフィールドエフェクト時空乱流永劫回帰強制追放永久隔離究極存在破壊装備最終終焉最後幻想夢想妄想崩壊敵対生物熱戦放射完璧消滅超波動砲が有ればイチコロでアボーンだー?!↑
716 :
金曜日 :2007/08/22(水) 07:01:11 0
>>686 >永劫回帰とは宗教とは違って道徳に繋がれた意志ではないので、「
>>587 永劫回帰が宗教のようになっても・・・」
>というのは原理的に違うのではないか?と言いたかったのです。このような文脈で、つまり永劫回帰には<力>はない、といいました。
あなたのいう意味はよくわかります。
私がいうのは永劫回帰の未来についてです。
永劫回帰があなたのいう道徳につながれて解釈され道徳性や戒律を獲得して宗教のように
なることもありうると私は悪い予感もしますね。
ツアラツストラの後継者とか永劫回帰の伝道者とか主張する者があらわれて
そこに集団が形成されるとあっというまに宗教として成立してしまいます。
それだけ永劫回帰の思想には解釈可能性の幅があり
あるいは人々に与える影響について未知数だと私は解釈しています。
717 :
考える名無しさん :2007/08/22(水) 12:25:01 0
ニーチェを読むと死にたくなる
719 :
考える名無しさん :2007/08/22(水) 14:08:40 0
自分のニーチェ解釈を書きます。どうでしょうか? ニーチェは、牧師の息子として生まれて、キリスト教的道徳の知識から 道徳が非道徳的目的からくることをみつけ、道徳批判をしました。 道徳は自分に利益を省みず、人のために行うことなのに、実は道徳的行為自体が自分の得になるから 行っているのだと・・。 そして、彼は自己の専門の系譜学を用いて、道徳の起源を研究し、 道徳の起源は現実の世界で弱者の人間が精神世界の中で強者になろうという試みから くることを突き止めました。そして、これをルサンチマンと名づけました。 さらに、ニーチェは権力への意思という考え方に辿り着きます。 道徳にしろ、個々人の世界観にしろそれを人に押し付けることは各人の権力への意思なのだと・・・ 皆権力への意思をもっていて、自分の世界観で人を支配しようとしていると・・・ しかし、ニーチェは権力への意思という考え方自体も権力への意思に過ぎないことに気づきます・・・・・ このことは誰も権力への意思から逃れることができないことを示します。 ついに、ニーチェは、権力への意思から逃れる手段として永劫回帰という思想を考えだしました。 永劫回帰とは次のようなことです。 『もし、あなたが、今まで一度でも、もう一度味わいたいという体験があったなら、 それは他の全ての体験ももう一度と望んだことになると』 ニーチェによれば、永劫回帰を受け入れれば、人間は超人へとなれるのです。超人はもはや権力への意思をもちません。 ルサンチマンももちません。デュオニソス的世界をあるがまま生きていくことができます。 そして、ニーチェはツゥラトゥストラの姿を借りて、叫びます。『人間とは克服されるべきものだ』と・・
720 :
719続き :2007/08/22(水) 14:11:53 0
しかし、超人なんて、永劫回帰なんてあまりにも無理な思想ではないでしょうか・・・ ニーチェはその後発狂して廃人になってしまいました。ニーチェが発狂した原因は梅毒が頭に回ったという説が有力ですが 、 私は、ニーチェは永劫回帰思想に耐えられず発狂してしまったのではないかと思います。 ニーチェは、人間が社会的人間として生きる限界を見せてくれました。 人は皆権力への意思から逃れることはできないこと。 外面は笑顔でも、心では人を見下すこと。 世間にはあわせて生きていても、心では、別の考えをもつこと ルサンチマンを抱えて生きること・・・ それらを超えることはできないのです・・ そして、善意と呼ばれるものもまた、周囲から押し付けられた道徳に過ぎず、 それを実践する人も道徳心から道徳を実践するわけではないのです。
>>719 明らかに間違っていると思われるところは、
>ニーチェは、権力への意思から逃れる手段として永劫回帰という思想を考えだしました。
と
>超人はもはや権力への意思をもちません。
なぜ貴方は上のように考えたんですか?
権力への意志、という訳が語弊がある。 力への意志の「力」は、権力、よりも、生成する力、生の力、というニュアンスの方が強かったり、 あるいは権力や生や人間とか以前の世界の根本的な原理のようなもの。
>>713 >晩年ニーチェは、永劫回帰や運命愛などの思想に至ったわけだが、十代の頃から運命と自由意志などについて思索して論文書いてたらしいね。
『運命と歴史』と『意志の自由と運命』はニーチェが17才の時の論文だね。
「運命なしの自由なる意志というものは、ちょうど実在者なしの精神や、悪なしの善と同様に、
全く考えられ得ぬものである。なぜなら、両者の対立が、はじめて、固有なる性質を作り出す
からである」(『運命と歴史』)。
運命愛における自由と必然の両立の思想がすでにここには感じられるし、
「対立」が固有の性質を生み出すという考え方は、ディオニュソスとアポロン
の対立をはじめとして、後期の力への意志の対立、闘争の思想にもつながる。
>>719 力への意志は人間の普遍的な行動原理として発揮されてるので
別に逃れる必要はないだろう。というより寧ろ逃れたら生を否定することになる
ただ、その<力>の様態に問題があるとニーチェは指摘してるわけだ。
人は生きることから逃れることはできない。曰く永劫回帰からは人は逃れられない
超人はそれとは別でしょ
ニヒリズムには2種類ある。 一つは『弱きニヒリズム』 「どうせそんなの大した価値なんてないのさ」という迂回と詭弁だ。 対象に対する価値の排除が目的だ。 二つ目は『強きニヒリズム』 対象を蹴破するがゆえにそれにもはや価値を見出さない。 当事者としての克服が前提である。 両方とも相手を攻撃しその価値を破壊するという方向性においては 同じであるが、ニヒリズムそのものによって、それをどんなに極限まで 突き詰めようともこの運動から『創造』へのプロセスへと発展することは無い。 ニヒリズムから何かが生まれ出ることなど有り得ない。 ニヒリズムでは不可能である。 しかしながらニーチェは、小児を忘却と創造を司るシンボルとして描くのだ。 では、ニヒリズムがその帰結において最も克服し難き難関とは何であろうか? 何故にその方向転換は生まれるのか? 答える人はいるだろうか? 永劫回帰が宗教を超えるという人たちに聞いてみたい。 なぜそんなにも安易に結論が出せるのだろう? ツァラトストゥラですら嘔吐に苦しめられるほどのものを、君たちは概念として 捉えること以上に宗教人的に自分の身に切実に生きることが本当に出来るのか? 本当の宗教とは観念(的遊戯)じゃなく、リアルそのものじゃないのか? 永劫回帰を受け入れるためには、それ相当のリスクを引き受ける覚悟が必要ではないのか? それを肯定するには、『没落』と1セットなのではなかったのか?
726 :
金曜日 :2007/08/22(水) 23:52:53 0
>>706 >>ニヒリズムには2種類ある。
消極的ニヒリズムと積極的ニヒリズムでもいいかな
>>ニヒリズムから何かが生まれ出ることなど有り得ない。
>>ニヒリズムでは不可能である。
ニヒリズムを何か理念のようにしてとらえその理念によって生きるならその人は何も生む意思がないのは当然でしょう。
ニヒリズムはそんなにつごうよくそこらにころがっているわけでもない。
ニヒリズムとはヨーロッパの神なき時代や無神論の人生への虚無観の象徴としてつかわれている。
ニヒリズムは東洋では虚無あるいは人生の無常観としてなじみ深いものである。
私なんか神なんか最初から信じていないのでニヒリストになるかもしれないがちっとも人生に悲観したことないぜ。
馬鹿といわれればそうだが。でも創造意欲はいっぱいある。詩もかくし絵もかく。
ニヒリズムをいつもニーチェのツアラツストラの内面と対比させるから大層なことになるのだ
ツアラツストラの言説の中では虚無をもっとおおらかにうけとめよといっているように思えるね。
>>永劫回帰が宗教を超えるという人たちに聞いてみたい。
>>なぜそんなにも安易に結論が出せるのだろう?
>>永劫回帰を受け入れるためには、それ相当のリスクを引き受ける覚悟が必要ではないのか?
>>それを肯定するには、『没落』と1セットなのではなかったのか?
そんなリスクなんてないね。内面的に宗教に無援な人はおそらく日本の現代社会は過半数をこえている。
自身が信じている宗教にこだわるタイプが永劫回帰を受け入れることに拒絶するのだとおもう。
無宗教なタイプは永劫回帰さえ無視すとおもうね。
たとえ宇宙物理学で証明されたって「俺の人生とは関係ない。俺は自分の1回だけの人生のつもりで生きる」
というふうに大衆に永劫回帰がうけいれられる時には
大衆の楽観性や怠惰な心性をもまきこんでいくとおもうね。
少し極端な意見を述べてみました。でもあなたのいうことも半分同意してるつもりです。
どうでもいいけど、ニーチェ(ツァラトゥストラ)にとって、「宗教」はましな人間達が驢馬を崇めてるだけの印象しかないわ 特に新興宗教なんてどれもそう 宗教は総じて観念世界から一歩も抜け出せてない。だからどいつもこいつも引き籠ってるんだ ツァラトゥストラの洞穴にな。出ようとしても獅子に追っかけられて引き戻される 驢馬が「さよう、さよう」と答えればましな人間達は頭を下げて「ハハー」と寵愛する なんとバカげていることかw
728 :
金曜日 :2007/08/22(水) 23:58:10 0
金曜日さんはよくわからないな 案外早みたいに少し病的かも 僕の想像ですが
>>727 >宗教は総じて観念世界から一歩も抜け出せてない。だからどいつもこいつも引き籠ってるんだ
宗教ほど、それに接する人によって接し方が千差万別なものは他にないくらいなもんだから、軽くみちゃいけない。
神秘主義とかに深く耽溺してみると、象徴の力によって心が刺戟され、
内面深くからすごい情動やイメージが引き出されて、世界観が地の底から反転しちゃうし。
>>705 氏のいうように仏陀の精神を受け継ごうとしてる人もいる。
神に関してもマイスター・エックハルト、ユングなど、正統派教会の教義から完全に離れた解釈で、神についての独自の奥が深い思想を持つ人もいる。
合理主義自体、キリスト教の神やプラトンのイデアの影響の上に成り立っている世界観や思惟形態をしているのだから、
ニーチェが神なき虚無の世界というとき、こういう合理主義的な世界観から脱した世界のことを言っているのであって、
神を信じない、といったところでキリスト教に歴史的に影響を受けている価値観や概念体系の上に立つ自我がそいういっているだけでしかない。
宗教は、信じる信じなというような単純な問題ではもちろんなく、
>>725 六百六拾六さんの問いの通り深刻な問題であって、
宗教人の中には尊敬すべき精神をもった人もいるし、原理主義者は恐ろしい。
数年前、日本人のジャーナリストかカメラマンか忘れたけど香田さんていう人がイスラム過激派の人質になって結局殺害された事件なんか、
過激派は行為を示したがるもんだからインターネットにも殺人凶行の映像が流出してて、
私は見ちゃったけど、宗教がどれだけ軽視すべきではないものか実感した。
切れ味の凄い50センチくらいのナイフで、数秒で骨まで首が切り落とされる。
新興宗教はだいたいだめで、たとえばキリスト教系の新興宗教の、エホバの証人、の場合は、
独自の新しい聖書解釈をして「兄弟」や「姉妹」を集めているけどその聖書解釈や教理は哲学を欠いていて近代以降の思惟とは相容れない空虚な彼岸。
時代が宗教性を忘れていくにつれて、逆に原始的なものや霊的なものに対する無意識裡の憧憬は高まっていくのだから、
その欲求がカルトのように歪んだ形で表にでたりしないように、宗教的なものに対して哲学を以って接するのは重要なことだと思う。
ヲイヲイw まさか全集は積読じゃないよね?
732 :
金曜日 :2007/08/23(木) 01:55:12 0
たとえばオウム真理教の問題。日本社会に深刻な問題をひきおこしましたね。 またこの教団は今後も存続していくには違いありません。 社会の関心事であり私なんかも関心はあります。しかしやはり宗教一般の問題として終わった問題にしかすぎません。 思想として問題にはなりません。なぜこうした宗教がありうるのかという現代の日本の社会や日本人の心性の問題としては ありますがやはり思想からみた宗教の問題としては終わっているのです。 世界でおきている宗教問題をどう見るかも思想のある側面から見たとき宗教事体の終末や終焉の問題として未来を抱えこむ視線で見ることが必要です。 ニュ―スのおおきな問題がこの世界の思想や観念の問題に移乗されて大きく倍加されて見ることは注意しなければなりません。
>>725 >しかしながらニーチェは、小児を忘却と創造を司るシンボルとして描くのだ。
>では、ニヒリズムがその帰結において最も克服し難き難関とは何であろうか?
>何故にその方向転換は生まれるのか?
>答える人はいるだろうか?
『ニーチェの思想って何なんですか?』と聞いているようなものだな。
自分の考えを書いてみて、それについて賛否を問うならまだしもだが。
オウム真理教の存在は、社会が隠しているあるいは気付こうとしない人間の裏の心理、 社会の表の価値観が日の光を浴びることによって出来てしまった影を、集中的に背負っている宗教団体だと思います。 つまり、オウム・アレフの存在は他人事ではなく、社会全体が責任を持っている。 中世ではキリスト教の正統派教会やそれに基づく社会の偏った価値観に対立する存在として 魔女や錬金術師や神秘主義者などが裏の世界にいたように、社会の表層の価値観があれば必ずそれに対立するものがある。 社会は社会に協力的なものを善と見做していてもそれは単に相対的な善でしかなく、 オウム真理教や犯罪者のような悪を勝手に絶対的な悪と見做してしまうのも間違っていて、 むしろ社会が善を設定すると必然的に生まれてしまう相対的な悪であって、社会全体がああいう犯罪には責任をもっている。 オウム真理教こそ社会の一次的な被害者で、サリン事件の被害者は社会の二次的な被害者だという見方も出来ないわけではない。 悪は、キリスト教のいうような善の欠如なんかではなく、人間にあって当然の本性なのだから、犯罪などを一方的に悪いものとして 社会から排斥しようとするのなんて空虚な欺瞞でしかない。あるいは日の光を浴びても自分には影はないというような不合理極まりないこと。 現代を一つの生き物として見ると、オウム真理教は炎症を起こしてるできものみたいなものであって、現代が不健康な証拠でもあり、 自分自身治療せずには炎症は治まらない。 ナチスの気違い染みた暴動を経済や政治の相のもとにみても何も意味が無く精神的な相でみてはじめて真相が見えてくるように、 犯罪も社会的な観点からみても一面的な評価しか出来ずなにも意味が無くて精神的な相でみないとだめ。 心的力動論の相で社会を見るとしたら、人間の多くは、神々の「恐ろしい」世界、人間の深層心理に潜む破壊力のある力に、認識が届いていない。 悲劇、芸術、思想のうちで多くの人が恐ろしい心的な力を認識しておくと、こういう力が暴動することを防げるのに、宗教も芸術も全く機能していなくて、 多くの人がそういうものに対しての認識を欠いているので、どこかで精神的な不具が顕現されてしまう。 近親相姦や親殺しが平気で乱発する神々の恐ろしい世界は、人の心の中で悲劇として体験されないと、現実のものになってしまう。
上裕はmixi
736 :
金曜日 :2007/08/24(金) 23:54:00 0
>>723 >『運命と歴史』と『意志の自由と運命』はニーチェが17才の時の論文だね。
そうですね。驚くべきだね。
ところでこれらの論文は理想社やちくま学芸文庫にはあるのに
かんじんの白水社のにはない。全24巻では完結せず初期の遺稿はまだ続行中らしい。いつのことになるのやら。
737 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 00:02:15 O
今日はニーチェの107回忌だったような気がする
大いなる正午はいつ訪れるんでしょーか?
>>738 まことにお気の毒ですが、貴方には訪れません。
740 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:16:04 0
月の骨はいらない
741 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:23:04 0
月の骨は要らない
742 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:23:38 0
月の骨は入らない
743 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:27:10 0
月の骨は煎らない
744 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:35:14 O
舎利子
745 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:38:18 0
車輪の下敷きになったからか?
746 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:43:45 0
じじい!
747 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:50:30 0
じじい
748 :
考える名無しさん :2007/08/25(土) 20:57:04 O
縁と円をお大事に。すべての人の右には人がいる。すべての人の左にも人がいる。ありとあらゆる円が無限に私と世界を繋げている。
749 :
考える名無しさん :2007/08/26(日) 13:11:30 0
750 :
考える名無しさん :2007/08/26(日) 20:15:28 0
ハイル!ハイル!ハイルヒトラー!! まあワーグナーにしてもニーチェにしても、この二つを合体させられたら 民衆は甘酔してしまう R・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」にしても、みんなを酔わせること は事実 ああ〜俺もきっと危険人物なのでしょうね
久々に「羊たちの沈黙」でも見てディオニュソス的芸術の素晴らしさに酔いしれようかね
思うに、陶酔は嫌というほど現実に晒され犯されたときにきやすいね。 あまりに陳腐でくだらない現実に意識が満たされたとき、 現実に亀裂が入り、夢が侵入してくる。 怒りだよ。怒りによって俺の中のディオニュソスとアポロが目覚めるんだ。
陳腐な現実を嫌というほど味わうがいいのだ。 幸か不幸か陳腐な現実にはことかかない。 現実主義でいけば夢を観ざるをえないだろうし、夢を愛さざるをえないだろう。 そしてその夢こそが実現して新たに陳腐な現実となってしまい、 我が夢破れたりと嘆いたりするに違いないのだろう。
ということだろうから、現実というのは夢の墓場みたいなもんなんでしょうな。
現実は肥溜めってとこだろうな。 まあ、生きる上でウンコは大事なりという中島の教訓は忘却されてはならないことではあるが。 とはいえどうせ死ぬわけだが
実際あまりに陳腐なウンコの上に芽がでて健やかに育って実をつけるというのは、 人間の心身にもいえることだ罠。 ようやくわかったが「ウンコが肝心である」というのが結局真理だったんだ。 なんともくだらないことが大切ときた。 くだらない事物をこそ大切にする奴が伸びるというのはこれまた言い古された陳腐な話だな。 実にウンコまみれの世界である。
極力夢をみないように努める現実主義的な人間こそ、大いに夢見る非現実的なる者なのである。 その夢は現実的である。 ニーチェはそんな人間の一人だろう。 逆にいかにも夢見ようとして現実を繕い作ろうとするような人間こそ、 現実的な人間なのである。 いわゆる大人がこれである。 大人自身は現実的だが、その夢は非現実的である。
せっかくのニーチェのスレなのに ウンコみたいになってるね。 これも永劫回帰なら仕方ない。 ウンコも枯れ木と同じにぎわいかな。
ウンコは現実だ。 水に流そうとも消しさることはできない。 宇多田がくさいのは偶然ではないのだ。 やつは現実の中で育った。闇の中から育ってきた。 とくにあの歌詞のくささに絶望的に夢見る宇多田自身がよく表現されている。 それは月の光や蛍の光のように淡い悲壮な光が闇を舞台にして織り成す幻である。
ニーチェ→ボン大学→無神論者→無国籍 マルクス→ボン大学→無神論者→無国籍 19世紀人間の末路
無神論で世界の存在をどうやって説明すんのかと。
言っていることがわからん 世界は神様が造ったからか?
表象と時間 お前らはこれまでもこれからも表象で生きるwwww おれが時間だったら破壊するまでもなくお前らを塵々に追いやってやるよwwww そしたらまた別の表象にしがみつくんだろう お前らはwwww
「国」とは? 哲学+宗教+経済=国
765 :
考える名無しさん :2007/08/31(金) 20:16:56 O
人
-人-
久しぶりにこのスレ、短文な流れになってきたな
>>764 むしろ
国家−国家権力−国家幻想=社会
だね
>>768 反対だ
国家=国家権力+国家幻想+国家官僚
社会=国家+経済+生活+文化+・・・etc
で国家は社会のおまけだ
かり国家がなくたって社会は存続する
日本国家<日本社会だから
770 :
769 :2007/09/01(土) 09:05:21 0
>>769 間違えた
かり=かりに
イメージでいうと<日本国家>のイメージより
<日本社会>のイメージのほうが実態的で大きく広く感じる。
何故だろうか。
つまらない
ニーチェはどこ?
そろそろ容量いっぱいなんじゃないの
775 :
考える名無しさん :2007/09/03(月) 15:12:01 0
早くんいる?
776 :
考える名無しさん :2007/09/03(月) 18:24:53 0
どいつもこいつも死ねや /ヽ / .ヽ /.゙、 / ゙、 ,/` ヽ ,/` ヽ ,/ .ヽ ,:' ゙l /゙ 、 ヽ .,,:' 一--.-,,,,,,,、 ,/ .,,i´ ヽ ,:' _,、-‐、、、 `" .,/ ヽ ./ -゛.__ ○ ヽ ‘''ヽ、 ゙i、 l゙ `^ `゙''-、! ゜ ゙l, | ` ,-''''"''ヽ、 | ! 、 ´…-、○ ヽ | ! .|ヽ ゙ヽ .| l゙ ゙, | `'-,_ ` l゙ ゙l .l゙ `"―---、、---ー フ l゙ ヽ ヽ + ,,′ l゙ `- \,_ + + _,,/` ," `'、、 `"…、--ー‐″ /` ,,`'i、,、 ,,/′
♥
六百六拾六も金曜日もデイオニッソスもいなくなった
ギリシャ神話の発祥の地が大変なことになっとるね 山火事の惨事に続き大洪水・・・ ニーチェもさぞあの世でショックを受けてるだろう・・・
780 :
考える名無しさん :2007/09/04(火) 00:24:34 O
神は死んだ\(^O^)/
山火事がおこる2,3日前、ヨーロッパ一帯が火事になる夢をみた。 夢では放火ではなくひどい乾燥が原因だったけど。 正夢にならないか心配した。 山火事おこった次の日に大洪水になったらいいのになと思った。 まあそんなことはどうでもよくて。 ああいう惨事起きた後、昔の人は、因果を物語にして神々の怒りとして語り告いでいくんでしょうね。
物語は変わるにせよ、人間は人間である限り物語の中に住んでいる。 もちろん物語の登場人物もまた物語っている。 このように各種の物語の坩堝が現実なわけだ。 正しい物語があるとすれば神が抱き築いている世界という進行中の物語だけである。 科学というのはそれを読みとり創造主としての神の存在を証明せんとするような宗教的な営みである。 またそれは一つの物語である。 ばらばらの事実、現象を貫き結びつける論理の糸である。 この物語を構成する論理がなければ何事も起こりはしない。 つまり何事も物語として起こる。 とはいえ論理がないということはあるだろう。 何事も起こらない、ただ存在するだけということは… これは世界以前の神の存在の状態であると思われる。 ことれ比較すれば永劫回帰も可愛いくみえる。
歴史は物語でなければならない。 また人間が物語として説明不可能だとすれば、 我々もまた世界以前を味わうチャンスがあるということである。
世界以前、神の状態、一者、意志としての世界といえるようなものを味わうのは、形而上的直観。 そこには、言葉も因果律も届かなくて、物語も理論もなく、あるのは一者だけ。 あらゆる現象は起こっているのではなく意味もなく、ただ在るだけで、 物質も意識も世界の存在も全て、一者の客体化にすぎない。 個人の人生、視覚的な世界、物質の存在は全て、一者がみた夢のようなもの。一者の心の画像化、実体化。 こういうことを考えていると、自分が意識や命を持っているということ自体に途方も無い恐怖を感じる。
785 :
考える名無しさん :2007/09/04(火) 18:51:30 0
ニーチェでニチェニチェ
786 :
金曜日 :2007/09/04(火) 21:20:15 0
>>184 >>世界以前、神の状態、一者、意志としての世界
ユダヤ教の旧約聖書の話かな
永劫回帰に比べれば神の存在は小さく見えるのだ。
神が世界をどのように創ろうとそれが永劫回帰してしまうのだ。
神の役割って何だ?神が不在であっても世界は自然に創られ現在に至る。
意思に見えるのは原子の無限運動にすぎないのでは。
くだらない意見です。
早なのか? 金曜日はひさしぶりだ 金は少しボケてる 夏の熱さで回復しないの? みんな戻ってきてください
>>787 >>781 は、どうでもいいことを半分以上書く性質からして、早。
>>784 は、根源的一者についてしつこく言及するところをみると、早。
このレスも、自己言及だったりしてこれを書いてる自分は、早。
古代の人の世界では概念が未構築で論理的思考も明確な文法もなかったから、
芸術のうちだけでなく日常的にも、主観と客観が未分化で軽く融合した状態だった。
だから、自然現象を認識するときも対象である現象になったつもりで感情移入的に、対象に主観を投影して認識していくうちに、
客観であるあらゆる現象や表象に対して、人間が持っている性質が付与されていったんだと思う。
それに、未知のものがたくさんありすぎてしかも理論とかがない場合、未知のものを説明するには既知のもの性質で喩えながら説明するしかない。
そして昔の人にとっての第一の既知のものは人間だった。だから外の世界にも人格が宿っている。
それは、ショーペンハウアーが、唯一の物自体であると考えたものに、「意志」という名を与えたのとある意味では似てる。あくまで、ある意味では、だけど。
「物自体ををなんとかして客観的に考えることのできるものにしようとすれば、物自体はなんらかの客観から、
なんらかの客観的に与えられているものから、したがって自らの現象の一つから、名前と概念とを借り受けてこなければならなかった。
ただしこの名前と概念をひろく納得のいく了解点として役立てるためには、物自体にとっては自らの現象のなかでもっとも完全な現象、
すなわちもっとも明白な、もっとも発達した、認識によって直接照らし出された現象よりほかにいかなる現象も考えられなかった。
これがすなわち人間の意志なのである。」(主著第22節)
>>786 >ユダヤ教の旧約聖書の話かな
一者の「者」も人間の性質の一つだし、>一者が夢をみる>一者の心、などは人格的すぎる表現をしちゃったけど、
実際に人格をもっていて聖書に書いてるように世界を創造したユダヤ・キリスト教的な神様のような存在に言及したいのではなくて、
(関係ないことだけれど、
>>788 に書いたようにギリシャ的なアニミズムは主客融合的だけれど
キリスト教の神は逆にかなり主客分離を促す、あるいは実際に促したようになんとなくだけど思える)
私が唯一存在していると想定している物自体に、上の引用と同じような理由で名前を与えるなら「根源的一者」がニーチェも前期はよく使ってたし一番気に入ってるからそういってます。
前世界的に「一つ」だけ形而上的存在、物自体があって、それ以外はその一者の現象であるというショーペンハウアーの考え方と似たような確信をもっていて、
でもその物自体にショーペンハウアーが与えたような否定的な性質、盲目的に欲しているだけだという性質があるとは認めていなくて、
現象の世界からみたら肯定的にも否定的にも(しかし一者自体には否定や肯定の属性はなく)不断に創造し世界を変動させている何か、と認識している。
だから「意志」というショーペンハウアーの述語を使ってなくて「一者」と呼んでみた。
私は個人的に、こういうことに関してはニーチェ的な認識よりも、意思も原子や素粒子の運動も含め現実すべては一者の現象だというショーペンハウアー的な認識を、
たとえ今年明らかになるであろう異次元空間があろうとなかろうと、(盲目的だという否定的な性質を物自体には与えたくないけれど)支持してる。
そういうわけで、
>>784 のような文章。(相変わらずだらだらと一方的に長文になってしまって恐縮であります)
こういうことに関しては結局、どういう考えが正しいか、永劫回帰や意志が本当なのか、なんて問いに答えはないのだから、人によって認識が違うのは当然で、
一者を想定してみてみることによって、永劫回帰に基づいて思索することによって、あるいは他にも唯物論と観念論や必然と自由意志を比較したり戦わせたりすることによって、
価値のある思想や世界観をつくれたら創造的である、ということなのかもしれません。哲学は全部がそんな感じなのかもしれませんが。
790 :
考える名無しさん :2007/09/05(水) 19:03:50 0
ソーデスネ
馬鹿じゃないの ぽまえら 一番大きな力=時間 これだけだよ
散々まわり道するのも人生だが 常に先取る生き方も普通にあるのだよ 超人だとか永劫回帰だとか それだけだよ
物語なんか持ってる暇ねーよ ばーか
時間は 一者の空間よりも直接的な表現形式 一者のもっとも一次的な客体化の形式 世界を解釈するための前提的な解釈形式 であるような気がするけどそれでも一者は 時間少なくとも人間が認識できる時間じゃない 時間が一番根源的なものだったら予言が説明できない 共時的現象においては 因果律には沿わない二つの出来事が明らかに繋がっているということや 時間的に逆のことがよくおこる 私はたまに本を見てから本の言葉を知るのではなく 本の言葉が頭に浮かんでから直後にその言葉が書かれている本のページをみる マグダラのマリアのことを空想しながら図書館まで自転車で走っていて 図書館に到着して初めに手に取った本 宗教関係でもない西洋史関係の本棚から適当に取り出した本 それを適当に開いてページに目をやると そこには「マグダラのマリア」とかかれてた 時間が逆になっているしこういうこと何度も起こるから偶然にしてはありえない だから時間は絶対的なものではない 時間すら何か大きな根源的な「一つ」の力の相対的表れ その一つの力が現象として発現する際の一形式でしかない 時間も空間や言葉とおなじように世界に被せた虚構 世界を認識するため語るための虚構にすぎない 時間は一者の中にではなく知性の中にあるのみである ということを将来ずっと将来哲学的に詳しく 考察できたらいいなと思っている でもベルクソンやハイデガーが難解で手がでない 自分の読解力や数学的能力のなさに呆れかえっている でも時間とか意識が一体何なのかに どうしても不安を感じてしまい考えずにはいられなく なぜか一者が心を占領してしまっている今日この頃
意見をお願いします。初めて哲学板にきました。 Aは人情的な奴、Bは本とかよく読んでそうな子、俺はなんとなくBに納得がいかない AがBを誘うがBは面倒だから断った、というシーンです。 A「俺は友達だから気軽に一緒にやりたい」 B「一緒にやるための準備に必要な行動がめんどくせーんだよ」 A「なんでお前は機械的な答えばかりするんだ」 B「人間の全ての行動の根底は損得勘定で動いている」 俺「線路に落ちた人を助けようとして線路に降り、轢死してしまった人の行動は損得勘定?」 B「とっさに本能の中で損得勘定をして判断してるんだよ」 俺「とっさの判断って本能でするものでしょ?本能より深い場所に損得勘定があるの?」 B「ニーチェも読んでねぇのかよ」 俺「(ニーチェって誰だよ)他人の言葉借りて並べてるからわけわからん」 B「物を知っていないなら物を知っている人の言葉を借りるべき」 俺「損得勘定って表現がおかしくないか?本能的な判断じゃないの?」 B「全ての判断をしてるのは脳みそだろ?判断する基準は損得勘定だろ?」 俺「は?」 B「話がかみ合ってないから議論する意味がないな」 結局AとBが電話で話し合ったようですが、どうなったかわかりません。 俺は中途半端に無知を晒して突っかかったのでモヤモヤします。 まず俺がニーチェを知らない時点で話が出来てないってことでしょうか。 彼の言うニーチェとは何なんでしょうか?
ようするに定義に拘って実質が見えてないんだね。 ニーチェを持ち出すまでもないってか、意味も無い。
797 :
金曜日 :2007/09/06(木) 19:00:36 0
>>791 時間も空間も有限だ。
永劫回帰は無限に回帰するので数として無限ということになる。
永劫回帰に対して空間も時間も従うのです。
おまえ 無限 知らないだろ
ヒント:有限なものも無限小をみれば無限
>>795 少なくともその話の流れにニーチェは全く関係してない。
B氏はただ屁理屈を並べているだけのように思われる。
哲学的な言い回しをしてみたり定義に拘ってみたりして話を反らしたいとか。
おまえたちを食ってやろうか /ヽ / .ヽ /.゙、 / ゙、 ,/` ヽ ,/` ヽ ,/ .ヽ ,:' ゙l /゙ 、 ヽ .,,:' 一--.-,,,,,,,、 ,/ .,,i´ ヽ ,:' _,、-‐、、、 `" .,/ ヽ ./ -゛.__ ○ ヽ ‘''ヽ、 ゙i、 l゙ `^ `゙''-、! ゜ ゙l, | ` ,-''''"''ヽ、 | ! 、 ´…-、○ ヽ | ! .|ヽ ゙ヽ .| l゙ ゙, | `'-,_ ` l゙ ゙l .l゙ `"―---、、---ー フ l゙ ヽ ヽ + ,,′ l゙ `- \,_ + + _,,/` ," `'、、 `"…、--ー‐″ /` ,,`'i、,、 ,,/′
>>801 無限小なんてないね
すくなくとも現代物理学じゃ
光子や素粒子などの最少単位に行き着く。まあもっと分割できるだろうが
限界が存在するにのだ。
>>801 801の頭の中に無限は存在する。
け
有限頭の中に無限が・・・
ヒント:合わせ鏡
君らの限界
>>806 合わせ鏡だって理論上の仮定だぜ。光はそこで曲り拡散する。
無限直線なんてない。
おまえんちに鏡ないの? そもそも直線って何よ?
810 :
♪ :2007/09/06(木) 23:14:06 O
無限は自然界には存在しなくて頭の中に数学的観念として存在するものだと私は思う。 仮に光が拡散しなくて完全な直線を描くとしても、 光の速さは無限じゃないから、無限の像はできない。 30cmの幅の合わせ鏡の中心にナルシストなX君を置いてみる。 光の速さが30万kmとしたら 一秒で300000000m割る0.3mで1000000000回反射するんだから、 片方の鏡には500000000のX君が写る。 しかも一番遠いX君は、計算や0の数、自信ないけどたぶん、 150000000m向こうにいて、一次的な像の100000000分の1の大きさ。 その小さな小さなX君の分身を含め、500000000もの自分をX君は愛してることになる。でも無限小のX君や無限個のX君には至らない。
811 :
♪ :2007/09/06(木) 23:19:00 0
↑は一秒での話ね X君、30センチの合わせ鏡のなかに無理やりいれちゃったら、狭くて一次的な自分の鏡像しかみえないから、 もうちょっと設定を変えればよかったと思っている。ていうか単に物体Xでよかった。
812 :
♪ :2007/09/06(木) 23:30:02 0
無限秒鏡をみないかぎりたとえ無限の像はできないということです。
>>810 の訂正
>しかも一番遠いX君は、計算や0の数、自信ないけどたぶん、
>150000000m向こうにいて、一次的な像の100000000分の1の大きさ。
は間違ってて
〜〜〜向こうにいて、(X君からみて)一次的な像の500000000分の1の大きさ。
813 :
♪ :2007/09/06(木) 23:31:45 0
↑訂正 >無限秒鏡をみないかぎりたとえ無限の像はできないということです。 無限秒鏡をみないかぎり(たとえ光が完全に直進し拡散によって光度が弱まらなかったとしても)無限の像はできないということです。
スケールを変えれば至る 像がなくとも あるものはあるよ それが力 万有引力も見えなかった 無限秒とはつまり時間が止まっている状態でしょ この辺で頭痛くなる人もいるかな?www
815 :
金曜日 :2007/09/07(金) 00:28:21 0
時間が止まるなんて不可能だね。 アトムはこの宇宙があるかぎり運動し その運動が時間の時計の役割をはたす。 時間がない時あるいは停止するのはこの宇宙が終焉し存在しない時のことだ。 あるいは理論上の話でアトムの運動が停止し時間も停止するならありうる。 君の頭の中だけで。
何にしても宇宙も地球も人の意識に支配されるってことでいいじゃん 人の意識から時間という概念が消滅すれば草木も枯れず人も老けないかもよ まぁ冗談だけどね
時間が止まらないのには同意するよ ここの一貫性がわからないかもしれないけど だけど 存在と像は別 また理解にも力が必要 トポロジー的には簡単なことなんだけどね
818 :
金曜日 :2007/09/07(金) 01:13:08 0
半分同意 ニーチェは時間は永遠だといい そこに力の意思を想定していたからね 力は我々人間の精神のことを言っているのか万物の有機的な力のことをいっているのか 意見が別れるところですが・・・
819 :
♪ :2007/09/07(金) 01:18:21 0
ギリシャ神話の、
クロノス(時)が父のウラノスを殺し、クロノスの息子ゼウスがクロノスを殺す、
というのが
今が過去を殺し、未来がやがて今を殺す、
のメタファーになってて面白い。
どうでもいいけど一応
>>810 >>812 の訂正
>
>>810 の訂正
> >しかも一番遠いX君は、計算や0の数、自信ないけどたぶん、
> >150000000m向こうにいて、一次的な像の100000000分の1の大きさ。
> は間違ってて
> 〜〜〜向こうにいて、(X君からみて)一次的な像の500000000分の1の大きさ。
は間違ってて
「一番遠いX君の像は、300000000m向こうにいて、X君からみて一次的な像の1000000000分の1の大きさ」
時間がとまることがないように無限秒なんてものも実際にはやっぱりないと思う。 直観的には認識もできない、抽象的な死んだ概念。 無限はたんなる人間の頭にしかない数学的概念だとしても、‘永遠であり今という一瞬である何か’としか言いいようのないものなら、 (物自体を想定するなら)物自体の世界に含まれる前人間的なものであるような気がする。 物自体に含まれるものだから人間には完全には認識できないけど。 永遠は、終わりのない時間、無限秒、止むことなく時間が流れ続けている状態、などではなくて、時間の対立物のようなもの。 物自体の世界があるとしたら、そこには時間なんてなくて、‘永遠でありしかも一瞬である人間には認識できない時間形式’のうちに何もかもすべてが起こってしまっている。 そして物自体を完全には認識できず、物自体に含まれるものではなく知性のなかにしかない時間によってしか世界を認識できず、時間に基づいて生存している人間は、 その‘永遠の一瞬’の内に一者(物自体)が見た夢を‘永遠の一瞬’においてではなく時間という形式にもとづいて把握しているのである。 みたいなことをショーペンハウアーは考えてるような気がする。一者=物自体だけが唯一(あるいは未来を霊視する霊能者も)時間の束縛を逃れている。 未来のことも一者にとっては今起こっていて、過去のことも今起こってる。 だから一者を通して時間を無視してスウェーデンボルグが未来のことを見てしまったら、それは過去のことのように変更不可能であって、実際にスウェーデンボルグの見たとおりに起こる。 物自体を想定するなら、たぶん認識主観「私」が死んで意識も時間感覚も消滅した後は、 「私」にとって、「私」の親やニーチェやパソコンや2ちゃんねるなどはすべて一者になって、「私」にとって残るのは物自体の世界だけだと思う。 ニーチェもパソコンも全て現象する以前の一つの物自体として「私」に立ち表れる。 詩的に言ったら、死んだら一者とずっと合一したままで一者以外には何もなくなる、といえるかもしれない。
時間がない時あるいは停止するのはこの宇宙が終焉し存在しない時 って無だよな 無や無限を恐れる気持ちはわかる だけど無って偏在的に在るんだよwww 無限小の今、存在は無の終わりであり無の始まり 今はダイナミックに過去と未来とつながってる そこから元気もらえるかどうか ダイレクトに元気をもらうのは術 ただダイブすりゃいいんだよ 後押ししてくれるよ
822 :
金曜日 :2007/09/07(金) 09:14:23 0
別に無や無限をおそれているわけではない 時間の無限は無いといっただけ <無=存在しないこと> ならいくらでもあるじゃないか 空間の無限小や無限大や 時間の無限小や無限大は理論上しかありえないのだ。 しかしニーチェは時間は永遠=無限といい 空間と時間の無は存在しないといっているね。 これはニーチェにとって永劫回帰が成立するための大前提だった。 無限の時間の中で宇宙の有限な物質が回帰すると考えた。 当時の宇宙論ではこの宇宙に終焉があるしとはかんがえられなかったのだ。 現在では宇宙は無から無数に発生し無数に終焉してきたとかんがえられている。 しかし同一の宇宙として発生と終焉をくりかえしているのか誰にもわからない。 現代においてニーチェの永劫回帰を宇宙的な解釈として理解しようとするとき 現代宇宙論の考え方で現代における永劫回帰の可能性を見ていくことが必要です。 ところで現代物理学では無の空間からの宇宙が発生もありうるらしい。 異次元空間を唱える女性科学者もいるしね。
だから お前はわかってないんだよ 力の領域をモデルで検証するのが物理学 どこまでいってもモデルこそ仮説 他人のモデルを像として利用している限り力に至ることはない
あんたのいう力て何? ニーチェのいう力なのか あんたの独自の解釈の力なのか
>>821 >そこから元気もらえるかどうか
>ダイレクトに元気をもらうのは術
>ただダイブすりゃいいんだよ
>後押ししてくれるよ
これこそひとりよがりのダイブじゃねえか
勝手にダイブしてくれ
おまえらは それはおれの像だといいたいのだろうけどwwww 他人のモデルを像として利用している限り力に至ることはないんだ
力のことを理解できている人物の文章ではないようにおもいます(笑 笑)
2CHだからねえ おれは 普段哲学板なんて見ないし こういった事柄はとっくに卒業してる おまえらのだれかのヒントになればと たまたま書き込んだ じゃあな
829 :
考える名無しさん :2007/09/07(金) 16:37:29 0
まあ、人生を考え過ぎてたらきりがないよね。 ただニーチェはそれを探究し続けてたことは間違いないな。 みんなもそう思わないか? 辛い悩み事をやっと乗り越えて、これで人生を安らかに生きられる、 と、 思いきやまた新たな壁にぶつかってしまう。 人生とはそういうものなのでしょうね。 よし! ならばそれを素直に受け入れて生きていこうじゃないか!
ニーチェが「啓蒙思想はダメだ」と言っていたのを見て、おお確かにと思った あれ?啓蒙されてね?
>>829 ニーチェの魅力は、
人生を哲学しているところ、
そして哲学から生きる力を得ているところ、にあると思います。
読んだだけで、人生の薬になるときもあれば、毒薬になるときもある。
純粋な学問的な意味での哲学としては、たとえばヘーゲルの体系を批判したところで論破なんてできるもんじゃなく子供の感情にすぎなくても、
生きることを哲学する哲学としては、そういう批判をすることで力強い生のあり方を示している。
それにあの文芸的な表現力からは、苦悩、神経発作、精神の煉獄の麻薬的な香りがして、高揚を誘う。
既成の概念の体系を論破できなくても破壊できるくらいの力はある。
832 :
考える名無しさん :2007/09/08(土) 17:42:10 0
ニーチェが主語を批判するのは、キリスト教自由民主主義を批判することに通じていると思うのだが、 そういうものを批判して拠って立つ場というのは、至高性主義か仙人主義のほかにあるのだろうか。
ニーチェって人はなんでも批判するんだな。主語まで。
自己批判も試みたニーチェ
パバロッティ死んじゃった
836 :
金曜日 :2007/09/09(日) 23:14:22 0
>>832 たとえば
『善悪の彼岸」で
私という主語は「思考過程の解釈だけを含むものだけであり思考過程そのものには属さない」
などといっている部分や
『権力への意思』で「精神、思考するなにか・・・つまり行為も行為者も想像の産物なのである」
といっている部分などが想起されますが
キリスト教批判を超えて主体という概念への異議や問題提起とみるべきだはないでしょうか。
至高性主義か仙人主義によって立つどころかギリシア哲学以降の主体概念への転倒の意味をはらんでいるとおもいます。
すこし大袈裟ないいかたですが。
じゃ主体=私はどこにあるかというと<行為の総体であるにすぎない>ということになるのかな
私なんかは」こういうニーチェの考え方にウーンと考える。
837 :
金曜日 :2007/09/10(月) 00:18:18 0
訂正 兼六への意思 は 権力への意志(力への意志) です
兼六? 権力です
「主体」という自己同一的な何ものかがあること、どのような結果にも原因があることなどを前提とすることは、 この多様な流動的な混沌の世界に対して秩序をあたえ、厳密に筋道を立てて思考すること、 多くの人と認識を共有することなどを可能にするけれど、そうすることによって多様な解釈の可能性を限定してまう。 思考する「主体」について考えてみるなら、まず思考を厳密にいうなら脳を含め身体の中でおこっている色々な生理的な感覚だといえて、 そうすると、決して思考する「主体」が色々な感覚を認識しているのではなく、 「主体」が認識しているとおもっていること自体も感覚(後にこの感覚を解釈することによって「主体」が認識している思い込む)であって、 感覚があってはじめて「主体」の思考がある、つまり思考の「主体」は感覚の総体にすぎないのであって、 「主体」は思考する主ではなく、思考の後に解釈されたものにすぎない。 「主体」という自己同一的な主観を想定し、「主体」とその他を明確に区別することによって、 世界をうまく対象化でき、世界の解釈に秩序が備わるし、 「主体」の自己同一性が、自我の状態を流動的な世界から独立した安定したものにする。 でも本当は、自己同一性も「主体」も解釈にすぎない。ある解釈が、解釈である、ということを忘れてしまうと、 そういう解釈が固定的絶対的なものになってしまい、他の解釈の可能性を奪ってしまう、 あるいは他の解釈に比べてその解釈が優位の価値を持っているという錯覚をつくってしまい他の解釈の価値を貶めることになる。 たとえば、主体と客体の区別も解釈にすぎないのに、その区別が絶対化されてしまうと主客融合の状態の可能性が奪われる。 解釈だということが忘れられた一般的な解釈、固定的な解釈を、多数の人が共有することによって、 その集団は同じ世界をもち、道徳が人間を規定すること、その集団が生に安住することが可能になる。 でも、そのような生や世界に対しての道徳的な解釈、固定化された解釈が、生の創造性を奪ってしまうこともある。 この世界は特定の解釈によって固定されているもののではなく流動している諸力の総体であるという認識をもつことで、 あらゆる解釈の可能性が引き出される。
解釈というと、いわばテキストのような固定的なものが前提されているように思われるわけだが。
普段の感覚では「解釈」はそんなかんじだけど、 ニーチェの哲学は主語と述語の関係や因果関係が成り立たないような混沌の領域が対象になってるから、ややこしいことになる。 ニーチェにおいては、何でもあらゆるものが解釈、遠近法(パースペクティブ)、創造あるいは捏造された虚構などになってしまうから、 ここでの「解釈」は日常的なニュアンスよりも包括的な意味をもってて、 ニーチェの遠近法主義の術語とみたほうがいいかもしれない。そういうこと書いておくべきだった。 何かを〜のようだと解釈するときメタファーが生まれるけど、ニーチェにとっては対象の把握や認識すべてがこういう詩的捏造だといえる。 思考している「主体」すら、生理的感覚を解釈して出来た二次的なメタファーでしかない。解釈者は解釈の結果。 特定の価値観、テキスト、概念体系、真理など固定的なものは、ニーチェにとっては一度生や世界がある遠近法によって解釈された結果でしかなくて、 ニーチェのいう生や、ニーチェの哲学の対象は、 なにもかもが固定されていない混沌とした領域、何の意味づけもされていない虚無の領域。 だからニーチェにとっては、前提が何一つ存在しない少なくともほとんどの前提が掘り崩された領域も、解釈の対象といえる。 既に固定されているものだけでなくて、人間の個々の感覚や感情や行動など色々なものを含めた流動している生に対して、 どれだけ力のある解釈(その解釈も生の流動の一環)を行うことができるか、 どんな遠近法で生を解釈すれば生をディオニュソス的に肯定することができるかが、 ニーチェの哲学の課題みたいなもの。 「力への意志」としての世界は、強い解釈が他の解釈を支配する場、遠近法同士が戦う場のようなもの。 だと、思います。
842 :
考える名無しさん :2007/09/10(月) 19:55:50 0
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やはり「解釈」という用語は相応しくないようだが。 解釈というとどうしても解釈以前に何かしら既与のものがあり、 その何かを解釈するということになるだろう。 その何かが混沌だとか、流動的な生だとかいってみても、 これがすでに非根源的なるもの、固定的に見えるね。多少は。 根源的には解釈する何かはない。あるとすれば無だろうと思う。 根源的なところでは目的語がない、対象が一切ない、従って主体もなく、解釈は不能なのであり、 そこで何かしら起こるにせよ、 非人称主語 自動詞 という形式に限られる。 解釈は根源的ではない。
844 :
考える名無しさん :2007/09/11(火) 03:42:07 O
宇多田のCDケースの上に飲み物を置いておいたら、 宇多田の鼻の穴の下に水滴がついていた。 驚いた。調和していたからだ。そこにはハーモニーがあったからだ。 さすがはシンガーソングライターだと思った。 いいたいことはそれだけだ。
その文章、絶妙にいい感じ。 ふとした偶然にかんじる、ささやかなポエジイ。 リズムがある。「いいたいことはそれだけだ。」もなんかいい。 即興ぽえむ。 「暗い日曜日」を聴いていたら、怖くなった。 なぜ?怖くなったのか考えていたら、 壁に飾ってあったムンクの「マドンナ」がふと目に入った。 そこには答えがあった。しかしその答えが何なのかはわからない。 答えだけがそこにあり意味はなかったのかもしれない。 そういうことを考えてると眠くなった。 いつのまにか私は、部屋の中で独り、黒い闇の中に溶けている。 自分の心が黒くなって渦を巻き、身体を飲みこんでいるようだ。 窒息しそう。さっきの恐怖感が蘇り、私は叫んだ。 夢だった。目が覚めて眠気も失せ、全てが明らかになった。 もう一度「暗い日曜日」を聴いてみた。 いい曲だなと思った。
宇多田はまた太ったけど歌声はなかなかいい。 でもやっぱ日本人は、 「暗い日曜日」やもうすぐ映画になる「愛の賛歌」を歌ってる美輪さん越路吹雪 のようなジャンルの歌声の方が深さというか濃厚な肉感性があってずっといい。 いい恋してたんだろうな。ていうのも伝わってくる。 ていうか若き日の美輪明宏の美貌はやばい。三島が恋したのもわかる。 ニーチェはクラシックについてよく書くけど、実際ニーチェは音楽の才能ある。 CDまで出てる。
>>843 あなたのいうことはもっともなことであってそのとおりだと思います。
でもニーチェが「解釈」をけっこう原理的な意味でつかっていて、
ニーチェのテキストの性質を考えたら読むほうも慎重に吟味しないといけないのですが、
たぶん私がニーチェのいう「解釈」を精確に捉えられていないか表現できていないから
違和感があるのかもしれません。だからもっと本質的なレベルでできるだけ厳密に考察してみます。
とりあえず引用してみると。
「力への意志が、解釈の働きをするのである(或る器官の形成のさいに問題なのは、解釈である)
すなわち、この力への意志は、度合いを、力の差異を、区別し、規定するのである。たんなる力の差異は
それだけではまだそれとして感じ取られないかもしれない。そこには、成長しようと欲する何か或るものが
現存していなければならない。このものが、ほかの成長しようと欲するものをことごとく、
それぞれの価値の点から解釈するのである。この点でおしなべて----実は、解釈とは、何ものかを支配して
主人となるための手段そのものである。(有機的過程は、たえず解釈を前提としている。)」(『力への意志』643)
解釈する主体があるとしたら「力への意志」だけであって、解釈される対象は色々な力の差異だといえるかもしれません。
原理的には力への意志が解釈するのだから、「力への意志」が主体以前の非人称的な力のことだということを考えると、
こういう根源的な次元での「解釈」においては〜が〜を解釈するという主語と目的語の関係はそもそも成り立たなくて、
根源的な力への意志の後にあり解釈の後にある人間の一人称的主体にとっては、
「解釈」は「解釈する」という他動詞としてより「解釈作用が起こる」という自動詞だとも考えられる。
848 :
訂正 :2007/09/11(火) 17:51:09 0
↑引用一行目 ×器官→○機関
つづき つまり解釈者すら解釈の結果であるという主語が成立しない根源的な次元での話になるなら厳密にいうと、 人称的な何かが流動的な生など何ものか対象を解釈するというのはあなたの言うとおり成り立たなくて、 混沌とした流動的な生の場において非人称的な力への意志が何らかの差異(他の諸力の間にみられる差異)を解釈する あるいは力への意志が解釈を生むといえると思います。 「現象のところで立ち止まって「存在するのはただ事実のみである」とする実証主義者に反対して、 私は言うであろう。いや、まさしく事実など存在せず、ただ解釈のみが存在する、と。 ・・・・ 「全ては主観的である」と君達は言う。けれどもこのことがすでに解釈なのである。 ・・・解釈の背後にさらに解釈者を定立することなどは、とどのつまり果たして必要であろうか。 実はそうしたことがもうすでに、虚構であり仮設である・・・・『力への意志』481」 対象が与えられてそれを解釈するのではなく、 力への意志の解釈作用(人間においてはまず衝動、欲求、感覚など身体的なものとしてあらわれる)が起こってはじめて、 解釈する主体という概念が生まれてその主体は対象を自分が解釈していると解釈する。 主体も客体も、解釈作用としての力への意志の作用の結果として形成されている。 わかりにくかったり間違ったことかいてたりしたらごめんなさい。。
>>847 解釈の前提として主体が、ニーチェがいうにはすなわち“成長しようと欲する何か或るものが
現存していなければならない。”
そしてまたニーチェがいうには“ほかの成長しようと欲するもの”が対象として現存していなければならない。
主体は何らかの基準によって対象を解釈する、ニーチェ的にはすなわちそれらを“ことごとく、
それぞれの価値の点から解釈するのである。
この点でおしなべて----実は、解釈とは、何ものかを支配して
主人となるための手段そのもので”あって、
主体と何ものか自体は「解釈」ではないのだ。
>>847 の引用からして、次のことがいえる。
力への意志が解釈の主体であり、対象である。
しかもこの主体と対象は別物である。
解釈によって主体は対象との力の差異を規定する。
“それぞれの価値”とあるから複数なので、 力への意志は一人称的な主体なんじゃね?って感じだな。
早は書き込むのならHNつけてほしいものなんだが。いやなんとなく。 解釈について長文かいてるのは早なんだよね。
三島ってリアルホモだったの?
855 :
金曜日 :2007/09/11(火) 23:11:46 0
早君は成長してるなと 最近思う
856 :
金曜日 :2007/09/11(火) 23:19:47 0
>>854 それこそ仮面の内側はわからない
奥さんも何も言わなかったからな
まあホモに近かったとみんな思っている
ニーチェもそうだったのか
そんな文どこかで見た記憶があるけど
誰かしっていますか
857 :
はや :2007/09/11(火) 23:53:43 O
恋、て言ってしまうのはよくなかったけど、美輪さんと三島由紀夫は 友人関係知人関係とかは遥かにこえた親密さはあったみたい。 芸術家は同性愛者かなり多いし(ランボー♥ヴェルレーヌ、デニス・クーパー、デュカス!)、 美少年って、美人に劣らずもしかしたらそれ以上に、 同性愛あるなしかわらず芸術家に、霊感を与える存在だと思う。
858 :
はや :2007/09/12(水) 00:04:21 O
>>851 根本的な次元まで遡れば、解釈する主体は力への意志以外にはなくなってしまう。
だから、主体自体が解釈だというのではなく、主体の人称性が解釈だと言ったほうがよかった。
859 :
↑訂正 :2007/09/12(水) 00:28:43 O
私は敢えて同性愛者という仮面をつけて、 女の警戒心を取り除き、妙に接近しようという奇策を練っているところなんだが、 三島はそういった意味で先輩だと思っている。 美少年に惹かれるのは汚れた人間にとっては不思議なことではない。
>>858 てか「力への意志」って解釈だとは思わないの?
例えば、それは「盲目的意志」の一つの解釈なんではないのかとかさ。
根源的なるものには力は極めて充実していて充溢するほど爆発するほどだと考えるのが普通なんではないか?
そんなものが力への意志などもつわけがないと考えるのがね。
むしろその意志するところは力の解放であり、力からの逃避、避難なのであるというのが。
金曜日さんも早ファンになったのか 早はすぐつけあがる 早は受験勉強してるのか
>>846 ピアノ曲だったね
確か15年程まえに買いましたよ
なかなかの名曲でビックリした
哲学板の他スレに、ひかるが来てる
865 :
はや :2007/09/12(水) 22:39:57 O
ニーチェはピアノの小曲をよく作曲したみたいですね。
ニーチェの音楽は、言語表現の烈しくて勢いのある感じ(音楽でいうならベートーヴェン)とはなんか違って、
たとえるならリストっぽい。ラ・カンパネラっぽくはないけど。
>>861 力への意志すら解釈にすぎないというのもあり得る、というのはニーチェもたしか書いてたような気がします。
たぶんそこまで言ってしまうと、物自体を否定するニーチェの哲学においては、認識論は循環や堂々めぐりになってしまうと思う。
〜は解釈にすぎない〜は仮像にすぎない、って全てをそうみなした終局に残るのが、
結局、盲目的意志や根源的一者など物自体的なもの以外にはないから。
ニーチェの特徴は、解釈にすぎない仮像の捏造にすぎないとしてもその解釈や捏造が
創造的なプラスの価値も持ちうると考えているところ。
真か偽かではなく強度があって支配的あるかどうかが一番の指標。前提的に全てが虚構であってもいい。
だから、真の世界や物自体という考え方は必要ないし
そちらに価値を持たせることで仮像の世界の価値が下がってしまうことを批判する。
866 :
早 :2007/09/12(水) 23:07:03 O
>>855 金曜日さんが以前ここで紹介していた、リー・なんとか氏著のニーチェについての本
読んで、かなり影響受けました。それでニーチェ理解を深めることや少し厳密にすることができました。
事実はなく全ては解釈にすぎないというのはニーチェだろう。 そしてそのあらゆる解釈の働きをする根源的なるものとして力への意志を定立してるようだ。 にもかかわらず解釈の背後には解釈者を必要とするというのが既に解釈だという。 にもかかわらず力への意志を解釈者としているわけだし、 力への意志は解釈だということにもなるわけだ。 。 めちゃくちゃでわけがわからん。
解釈だけが存在するというのは、解釈という言葉の定義上無理である。 何故に矛盾を犯してまで全ては幻であるとか非人称的なことをいわないで解釈、意志、捏造、創造というように主体的人称的な用語を使うのかと。 ショーペンハウアーも、盲目的なとはいえ意志という言葉を温存しているわけで。 西洋人の誇り、偏執だわ。 人称偏執狂どもだ。文法的あまりに文法的。
/ヽ / .ヽ /.゙、 / ゙、 ,/` ヽ ,/` ヽ ,/ .ヽ ,:' ゙l /゙ 、 ヽ .,,:' 一--.-,,,,,,,、 ,/ .,,i´ ヽ ,:' _,、-‐、、、 `" .,/ ヽ ./ -゛.__ ○ ヽ ‘''ヽ、 ゙i、 l゙ `^ `゙''-、! ゜ ゙l, | ` ,-''''"''ヽ、 | ! 、 ´…-、○ ヽ | ! .|ヽ ゙ヽ .| l゙ ゙, | `'-,_ ` l゙ ゙l .l゙ `"―---、、---ー フ l゙ ヽ ヽ + ,,′ l゙ `- \,_ + + _,,/` ," `'、、 `"…、--ー‐″ /` ,,`'i、,、 ,,/′
若いニーチェは崇拝され賛美され愛されるに値した男だったろうが、 俄かにそして着々と堕落していったように見える。 堕落は一般的なことで仕方ないが、 その後期ニーチェをすら愛するということは正しく盲目的な愛のなせる業である。
>>870 どこか変だ。
父親の不在。母性的なものへのあこがれ。
家族への諦念。
ニーチェの女性を常に支配しようとする性格。
愛についてはニーチェは常にめぐまれなかったが、
すばらしい女性との出会いにはめぐまれた。
ところで
堕落とは何についてなのかな。
心身
>>871 どこか変だ。
ニーチェは今尚愛されている。例えばここの六氏やフライデー氏に愛されている。
それはニーチェが女を賛美し愛するほどまでには堕落しなかったからだろう。
欲情こそしたかもしれないが。
>>873 確かにそうだ(笑い)
金さんや六さんはニーチェを愛している。ホモであるみたいに。
というよりツアラツストラに恋してるのかも。
イエスにはもう恋はしない。というより誰であってもイエスに恋とはキモイ。
イエスとツアラツストラの共通点。女よりも永遠なるものを愛した。
永劫回帰か神か。どちらも煮ても焼いても
喰うには苦労する。
試みに猿のメスを愛してみたらどうだろう。 優れた男は同様に人間のメスも愛せないはずである。 一般男性にしたってそれは同様ではないか? もし愛しているとすれば、女勝りの己の醜悪さに裏打ちされているときに違いない。反省すべきである。反省しえないほどに盲目的になっているのだから。反省すべきである。 せめて物質的にのみ女を好むという段階に踏みとどまれるよう努力するべきである。 女を愛するということは大いなる堕落の兆候である。 などと、三島の影響を受けて男色を装ってみるテスト
もはや満員電車には乗りかねるほどにわからなくなっているような時代だが、 本来肉体的にも明らかに男の方が綺麗なものだよ。 その点では動物と同様なのだ。
我ながら男色を装っているようであるが、 真面目な話、 女は大概化物なのにもかかわらず、綺麗な女より、 綺麗な男のほうを多く見かける今日この頃なんだがこれは偶然ではないだろう。 いつも欲情してて女にしか注意していない男にはわからんだろうが正当な認識だと思う。
878 :
考える名無しさん :2007/09/16(日) 07:05:40 0
ニーチェは、父の抑圧と小心、母親の野性的本能、二つの性質の葛藤の申し子。 最後は神を殺し、デュオニソスになり、爆発した。 抑圧が広く見られる日本で、 人気が高いのもうなづける。 ニーチェ好きを見ればよくわかる。 彼らは同じような精神状態にある人。抑圧と本能(生命力)との葛藤がある。 高校、大学あたりの若者に人気があるのはそのせいだ。
>>878 父はニーチェが小さいとき亡くなったので父の幻影とてもいったほうがいい。
母の野生的本能とはなんだ。母はニーチェの思想や著作に無理解というより無関心。
>抑圧が広く見られる日本で、
>人気が高いのもうなづける。
本当かねえ
正直に白状 今、日本に出回っている翻訳署(小林秀雄の崇拝世代) 逆に日本文学研究の“独研究者”に翻訳して頂きたいな(逆に翻訳できず) いったいニーチェの思想がどんな書になるのかな? 少し難関すぎでは? だってニーチェを平易な解釈で出版すれば、現代の若者が一番に肯定する のですが?
平易な案内書でやっと理解できるような馬鹿若者には読んでほしくないなあ。 有害でもあるしね。でも好きにしてくれとも思う。
確かにな〜 だけど今現在の若者達て、本当に光りを求めてるんだな これが! やっと人生の光明が見えた そして思わず光に向かって突き進む あと一歩だ その瞬間 誰かが仕掛けていたのでしょうね 落とし穴にストーンです 正直みなさんどう思われますか?
883 :
考える名無しさん :2007/09/17(月) 16:16:16 0
教えてください!!大学生です。 ゼミの選考試験に落ちて、志望者の少ない教授のゼミになりました。 この教授はニーチェ大好きな人で、当然論文もニーチェを薦められました。 ニーチェは今まで選択必修で「ツァラツストラはこう言った」しかやった ことがなく、あまり関心もないのですが、今から挑戦してみます。 どんなことをテーマに考えたら、初心者でも20000字の論文を書き易い でしょうか?自分としては、「神は死んだ!」しか印象的な言葉がないの ですが・・・。よろしくお願いいたします。
こんなんが大学生かね・・・
885 :
考える名無しさん :2007/09/17(月) 21:09:02 O
>>883 無神論者の多い、現代日本において、『神は死んだ』が印象的だって
。。。。。欧米か!
神の死とか超人はキャッチフレーズとしてみても印象的だとは思うけどね 著作を読んでなくとも
超人なんて魅力感じないな。 俺はナルシストになりたい。 超人も半ばナルシストだろうが。
灯台下暗しで、このなりたいという気持ちこそ愛じゃないか? これは純粋な愛とさえいっていい。 愛するものになりたくないならば何かしら愛するものを否定しているのだ。 さて、率直なところあなたは愛してると思っている人になりたいだろうか? なりたくないだろうか? なりたくないはずだ。 なりたいものをこそ本当に愛しているのであるから。 などと、同性愛を啓蒙しようとしてみるテスト。
すると自分を愛するなんてことはできないということじゃないか。 すでに自分にはなっているわけだから。 ナルシストにはなれない。 にもかかわらずナルシストになりたいとは、素晴らしい。 この愛は決して破れはしないということか。
ここは自己愛や同性愛を啓蒙するスレですか?
>>883 「同性愛とツァラトゥストラの男性的精神について」というのは如何ですか?
しばらくハイデガーやキルケゴールに浮気していたが、
やはりニーチェが面白いな。
>>883 「生の肯定」を骨子に論文を展開してみたら。
ニヒリズム、自己超克、永劫回帰、超人・・・などなど。
いずれも論旨として絡めやすい。
ここは「ニーチェを愛する男たち」のスレですよ。
人格的なるものが高度に削ぎ落とされた数学でさえ、 数学者間の情愛が研究の動機になってると思う。 知的な世界は男色の世界なのだ。 早の男装は合理的であるといえる。
いや男装じゃなくて、筋がね入りの男色青年だったりしてな?w 男であれ女であれそういう男色野郎ほど男装するわけよ。男になりたいものだから。 いずれにせよ早は男を愛する人間だわ。 てかあまりにも堕落しないことには人間は女を愛することはできないが。 そして人間は己を愛することはできない。 そこでペットが貴重な存在になると。 池田晶子でさえ、ペットを必要とした。 いや池田晶子だからこそ、ペットを必要としたのである。 美女ほどペットの必要性を認識するのだ。
男であれ女であれの前に「でも」をカキコ忘れた。
自分の性別はともかく、両性愛者です♪ 携帯の詩サイトやメンタルサイトやってるアリスな女性は愛してる。あと娼婦は、白痴であれ狂女であれ神聖な存在だと思う。 アリス、娼婦、聖母、魔女、女神みたいな非現実的な女性像には惹かれる。ていうか不思議の国のアリスは最高傑作だと思う... 私は父とは一度しか会ったことがなく、母は恐ろしく母性的。 こういう父との離縁や母との本能的な過干渉は、子が男であれ女であれ、 醜い娼婦と付き合いながら世界一の美を描いたマザコン:ボードレールもその例でもあるように、 性倒錯、芸術家気質、精神病、表現の世界への耽溺、現実への憎悪などの原因になる。 15歳で現実の女性には興味をなくし「一なる女性を信ず」という題の詩を書いたランボーも、父とは幼いころに別れている。 ジョンレノンもニーチェも。 ついでに。プラトニックラヴのplatonicはプラトン的という意味で、そのプラトンには同性愛の傾向があった。 ショパンは同性愛者で、最初は男っぽい女と付き合っててでも振られて、次は男に恋をしたがなかなか逢えず、 何度も逢いたいという手紙を出しているうちに病気で死んじゃったという、悲しい恋をしてる。 ワーグナーはdon juan型で、「私は君がいないと手足が切断されそうだ」などいかにもワーグナーな言葉を撒き散らしながら、 リストの娘を男から奪ったり、少女に手紙を書いたり、不倫だらけ。奥さんは芸術的感性のためになるからという理由で不倫を許可。