資本とネーションと、時々、国家 2

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849純一 ◆Fn0dptrDJw
例えば、私は本上まもるや太郎やポールに関係無く喧嘩を売りますが、
ぴかぁ〜は例外無く、これらの人物に媚を売ります。
その結果、ぴかぁ〜は本上まもるや太郎やポールから評価されます。
これは媚を売った結果としてありますが、同時に協調性とも呼ばれます。
反対に私純一は彼等に喧嘩を売るので、現実では評価されません。
これは協調性が無いとも呼ばれます。が、哲学の理論性というものや
ものの正当性というものは、媚を売るという形式では、成長しないのも
また事実であり、媚を売ってそこで理論の正当性を曲げるという様な
事が介在すると、理論的純度が落ちるというのもまた確かな事です。
そういう意味では、私純一の理論は実力はあるが、評価はされない、
何故ならば、喧嘩を売るからだ、と言えましょう。反対にぴかぁ〜は
本当は実力は無いものの、権力者に媚を売る事で現実の醜さを
甘やかされて覆い隠されてしまうという点があるものと推測されます。