私純一も、思想や哲学が社会性と両立できるか?と考えましたが、
答えはNOであると思われます。私純一の統一理論は労働とは離れた場所で
構成されたものでありますし、労働とは親和性が無いと思うからです。
それでは、この作ってしまった思想は何処へ行くのでしょうか?
純一統一理論がもし、世間の他の真理と同じ様に、例えば、
創価学会や統一教会、仏教等と同じく世俗の組織の一部として存在するとしたなら、
私純一はそういう事をやりたいが為に作った理論では無いと思います。
YESや釈迦を、宗教色を抜いて、黎明期の思想だけ抜き出し、これを哲学とすると、
今と全く教義が違う事が分かります。これは良く出来た思想であれ、
社会性を持つとこうなってしまうという事の良い例です。私の思想も同じだと言えます。
社会性を持った思想は、本来やろうとした事と正反対に動いて行きます。
ですが、それを再び元来の形に戻して理解しようとする者が稀に居ますが、
これも社会性によって、そして、同じ思想界での闘いという名目で消されてしまいます。
消した主体は社会なのですが、表向きは学者同士の論争という事になります。
社会性を持つと、同時に、社会に使われる理論になってしまい、本質が歪みます。
これが思想を公表する際に起こりうる難しい事です。