340 :
純一:
カント、ハイデガー、ラカンという流れと、
ウィトゲンシュタインという流れは大きく違います。
つまりは、英米系哲学による大陸哲学の解釈の問題がここに絡みます。
柄谷の流れが、英米系の流れを汲むものである限りは、
英米的思考による大陸哲学の曲解が避けられないのです。
カントにせよ、ハイデガーにせよ、ラカンにせよ、
一部で受けられているならともかくとしても、これは本流の理解とは
また別の解釈でありまして、あくまでウィト寄りにしたカント、ハイデガー、ラカンという
形で流通しているもので、本流の理論とはまた違います。
でも、ぴかぁ〜はそこは知らずにパクっているのをよく見かけますが、
これは特に哲学を考えたことが一度もないから気が付かないのだと思います。