資本とネーションと、時々、国家 2

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318純一
では、東や宮台がデータベースと言い始めるのは何故でしようか。
実はここが一番の問題なのです。その前にぴかぁ〜のプロセスを見てみましょう。

@ぴかぁ〜はそもそもオタクの自我を持っており、
  このコンプレックスを理論的に正当化し、補強する理屈を求めていた。
Aしろうとの理論は、オタクをポストモダンという新時代の
  ニューエイジとして祭り上げる理論として、格好のものにぴかぁ〜には映った。
B更に、しろうとの拝する東浩紀に至っては、評論家として多大な評価を受けている為に、
  ぴかぁ〜には、オタクとしての自我が正当化できるまでではなく、偉人になれるものと映った。
C更に、東浩紀が拝する柄谷に至っては、世界的評論家として評価されるという特典が付くものと映った。

ぴかぁ〜の意識では、@〜Aのプロセスは削除されています。
そして、BとCを語るので、結果論としてデータベース的(中身の無い知識の並べ立て)になるだけです。
更に、この@とAのプロセスを削除した状態でのBとCを語るのは、動物化(中身の無い脊髄反射的な知識)
にも見えます。つまりは、東や宮台が語るポストモダン化というのは、このように、
@とAのプロセスを削除して、BとCを語るからそう見えるというだけです。