資本とネーションと、時々、国家 2

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314純一
ぴかぁ〜は以上の様に、オタクとしての自我の学問的権威付けに使用されるが為に、
AはBと関連しているというブログや書物から得た知識を、BはCに関連しているという
別の知識とただ繋ぎ合わせるという方法でしか書けないのです。
例えば、柄谷は資本、ネーション、国家であるという記述と、資本、ネーション、国家が、
ラカンの図式であるといった知識自体を、書物やブログからの知識の間に合わせでありまして、
AはBと関連し、BはCと関連し、CはDと関連しているということをただただ書き連ねているだけです。
ですから、コジェーブやハイデガーといった記述も、ブログや書物で見かけたものを、
キーワードごとにリンク付けしているだけで、そこに何かの思考があるわけではありません。
私純一にとっては、こういうぴかぁ〜の哲学の消費の仕方それ自体が動物化という現象で
あるように思えます。ただし、私純一は、これを動物化とかポストモダンとか言わないのが
正確であるという点です。一昨日申しましたように、オタクの生態と哲学とは実はあまり関係が無いのです。
ここで私が言う動物化も実はコジェーブとは全く関係ありません。コジェーブはヘーゲルの解説者であり、
共産主義の擁護者であるわけですから、動物化はその中のキーワードの1つに過ぎません。
私純一としましては、ぴかぁ〜のこの哲学の消費の仕方は、言わばオタクの物の消費の仕方です。
そして、それはつまるところ、90年代組のオタクの意識の形成の問題でしかなく、ポストモダンは全く関係無いのです。