11 :
考える名無しさん:2007/06/20(水) 12:07:05 0
まあまあ、こいつが本当に観念論が崩せるのか、見守ろうじゃないか
12 :
考える名無しさん:2007/06/20(水) 12:12:43 0
>>9 公共性の哲学って何か退屈なんだよな
哲学の感性が違うというか合わない
13 :
考える名無しさん:2007/06/20(水) 12:19:45 0
kyrieよ、音大生なのに哲学の卒論書くのかよw
自分語りの文と人に読んでもらうための文は違う
15 :
考える名無しさん:2007/06/20(水) 13:17:14 0
そんな当たり前の論理的思考もできない馬鹿が哲学やってるんだな
論理的、じゃないとポエムになるよ。
>>7 これから半年前の日記から順々に書いていくから、俺にもよく分からんところがある。
多分、他が自体するということはありえないから、他はもう一方の他を自体させる、という意味において
「他」は自体の表現に過ぎないのであり、また「他」がそれによって表現される、
唯一の手段(ここでは2つの他しかないのだから)である、ということじゃないかな。
>>4より
最近、分析哲学者リチャード・ローティの書を読んで、空間について改めて考えさせられた。
なぜ「空間がある」と言えるのかがまず分からない。
それは物質と非物質の問題に引き継がれるわけだが、物質がそうなる前、というのが求められはしないだろうか。
それは延長的意味(AがBからxメートルの位置にある、という意味)の問題を導き、どこにAが場所指定されるのか、
が問題となってくる。
考えられる仮設は、物質がそうなる前の情報といったものがあって、それが空間を満遍なく覆っている、ということだ。
>>4より
「心的空間」が、カントにはどういうものか良く分かっていない
なぜなら、心的空間とは、イメージの支配性そのものであり、
心的イメージの自明さと、直観の自明さ(さらには存在了解の自明さやコギトの自明さ)とは明らかに違っている、と考える。
直観の自明さは、リチャード・ローティによれば、「こころは身体とは別のものである」というものであるが、
その存在を視界に対しての非主題性に負っている。
一方で心的イメージの自明さとは、イメージは必ずある、が、それは「イメージ」という観念であり、
それに対応する実際のイメージがあるかどうかは分からない。
20 :
考える名無しさん:2007/06/20(水) 23:59:26 O
大学入ったらいわゆる「中2病」とか「高2病」とかについて学んだり調べたりしたいんだが、そーいうのは哲学?心理学?社会学?
よくROMる板がここだからここで聞いた。スレ違いすまん
21 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 00:01:26 0
ここはアホの子が集るスレだなあ
>>19より
「イメージ」は俺の哲学の根幹をなすものである。
ここで問題は、イメージは、イメージがどんなものであるのかを、説明する必要があるのかどうかだ。
観念としての、ある「イメージ」がもしあるとするならば、それを構成する諸イメージの断片、といったものがあるのか、
つまりは、あるイメージは、それ自体で部分であり得るのか全体であり得るのか、そのいずれでもないのか、が問われる。
つまり,
「外部空間には存在しないイメージが心的空間に存在する」
ということだろうか?
想像力のようなものを念頭におけばいいのだろうか?
24 :
考える名無しさん:2007/06/21(木) 03:15:40 0
ネトゲシタイン
>>23 ここではまだ、外部空間には触れていない。
当面は独我論の形をとる。
想像力・・・というより、(想像力とはなべて自ら進んでするものだから)心にあるイメージ、
あまり使いたくない言葉を用いると「表象」、かな?
ただし、文字も、イメージ的に解釈するとする。(文字は、形をもったイメージであるから)
>>25 目の前のパソコン等も「イメージ」だろうか?
すると,とりあえず身近にあるもの全部(=認識によって立ち現れているもの全部)
がイメージという理解でよい?
>>26 現れているものは必ずしもイメージではない。
それって現象のことでしょ?イメージは現象の表現。
身近というのもよく分からないし。
>>28 だとすると「表象」ではなくて「観念」のことだろうか?
指導するがわからするとこういうタイプの自分哲学卒論は非常にこまるので
やめてください。
落第だせればいいんだけど、ふつうの大学では落第させるより
卒業させることを優先しなきゃならないし。
訳の分からない気取りで、わざと難解そうな文章を書く人はどうせみんなから捨てられる。
このことは、肝に銘じておいたほうがよい。
日本の知識業界は、長く1920年代からの、昭和初期の新カント学派と呼ばれる、「ドイツ哲学の学者達」の
悪弊に始まって、やたらと難解な文章を書くことが、偉い事だとだという巨大な思い違いをしている。
この病気は今でもなかなか治らない。本当は自分の頭が良く無いだけのくせに、やたらと、象徴語と、
ドイツ式観念語(本当は禅用語を無理やり当てはめただけ。観念とか本質とか根本とか意識とか。500語)を使いたがる。
読んでいる方はいやになる。こんな下手な誰も説得できないような文章を、苦しみながら書いてるとあとあと大変だろうな。
どうせ誰も読んで分かることは無いのだから。当たり前のことを、はっきりと書くことができない。
やたらとこねくり回してそれが「するどい批評になっていなければいけないと、勝手に思い込む。
副島隆彦「属国日本論を超えて」
2つの他をつなぐ緊張、普遍は自体しているのでなく、空間が緊張の表現である。
2つの他は、それぞれ何らかの仕方で「向かい合っている」、他の自体のために。
2つは常に、互いの把握である。
>>29 あんまり既存の概念に捕らわれないほうがいいよ
>>30 一応主要な哲学書はおさえている。その上での自分の哲学だから。
てか本物の教授がこんなところに来るなw
むしろ弟子にしてくださいw
>>31 それは散々言われてきた。これからの課題だね。
今までは、そんなに難しいこと言ってるつもりはないけど。
パトナムなんか、表現はすっごい分かりやすいのに、内容は新鮮で鋭かった。
ちょっと見習いたい。
>>34 HPを読んでみて、議論の終局的な目標は何となく分かったのだが、
イメージの具体的な範囲がやはり分からない。
例示的に教えていただけるとありがたいのだが。
>>35 例示的に言うと、例えば目の前があるとする。これはそこから色を抜いてみたり、その輪郭を、
直線と曲線だけで描くこともできる。これがイメージの抽象化。
逆にイメージの装飾化とは、本来的な色をオブジェクトが取り戻したり、また木が目の前に一本あるとしたら、
その横にもう一本、木を付け足してみたりすることが、現実に可能である、ってこと。
ヒラリー・パトナム著「理性・真理・歴史」より
「双子地球上で用いられるときの『水』という語は、エイチ・ツー・オーではない。
水ではなくて、この別の液体を指示する。
しかし双方の人間とも、心的状況のの差異はない。
物質が違うのだから、指示対象は違う。
状況全体から切り離された心的状態は、それだけでは指示対象を固定しない」
これから引用もバリバリやっていくぜ!
>>37より派生した議論−
「私」は、「私的コンテクスト」をもつ。「私的コンテクスト」は「日常コンテクスト」を含むのみならず、
「日常コンテクスト」上のあらゆる現象・物体を指示している。それは「外側」「内面」と言われるものによらずに、である。
「コンテクスト」とは、現象と物体とを結びつける手段である。
誰もついて来れてないww
俺は見ている。
「なぜ色が?」という問いは、色を知らなければ現われることのない問いである。
ある種の事象事物は「色」を個性の手段としている。
微妙にウィトの解説書みたいだな。
今日もたくさんの考え事をしました。
事実は、概念の羅列、つまり文章に先立つのか。どうやって知ることができよう。
概念的な生、において、たいてい私は生きている。しかしそうでないときが−あるのだ。
例えば注目するとき、それ以外のものどもは、ものども(概念)として捉えられているかどうか。
もっと拡大解釈すれば、私はこの生のうちに生きている、それを概念的と認めよう、そして生きていた頃の生は、
ある程度未だに生きている生である、しかし既に生きていない生は?
生きている限りの概念では、生きていない、ということを概念では説明し切れないのではないだろうか。
私生的コンテクストは、過ぎたる誕生から、来たる死にまで、連なっている。
その限りでは、私生的コンテクストは、なべて概念的であると認めるとしても、
来たる死への未来的経過を知らないところのコンテクストは?あるいは生前のコンテクストは。
「私−他生的」コンテクスト(数多の他のうち、行動、作用をそれらから汲み上げ、あるいは共同して、営むところの営み)
において、共同して生を営む共同以外の、生においては?
それだから、事実は概念に先立つ、とは言えないにしても、全ての概念は事実に包されている(それが同時的か否かは、時間の問題に譲る)。
文は、それ自体複数の概念からなる概念である。事実を、解釈し、その解釈を時間的に押し広げ、その時間内の全体的解釈を、
意味的延長に区切り分け、その時間に沿って、その延長的区切りに近似的に対応する概念をあてがい、
区切りを概念で生め、時間を満たしたなら、初めて文ができる。
さて、意味が概念を包するのなら、文をそれにおいて弄ったとき何が起こるのか、を、概念からではなく意味から解釈しなければならない。
すなわち、文を弄ったまさにその時、文の意味のメタモルフォーゼが起こるが、それはその新たな文を形作る概念を区切って、
いちいち解釈するという仕方ではなくて、概念をそれが対応していたところの意味的延長的区切りに還元し、区切りを払いのけ、
時間性を一閃し、事実そのものを観照し、起こったメタモルフォーゼを確認する、といった仕方でなければならない。
46 :
考える名無しさん:2007/08/16(木) 01:44:32 0
age
まだやってたのか
全体の論旨を3レス以内でわかりやすく要約せよ。
そしたら応援する。
批判もしよう。
俺はデリダ読んで深い感銘を受けた。上の記述は一切捨てる。
私の街、私の家、私の手…ものは私に極限まで近づく。その延長において。
その極限とは?それを脳科学に求めることはできる。
手は私ではないのか。手に触れること。手に、思いが触れる。これは手を意識しだすことか。
思いは、触覚を介す。手に身体が触れて、これが手だ、と思う。このときの思いは、手を思い、
手が思いであり、手の思いが私に触れる。しかし手が、思いに触れるのでは決してない。
また思いは、触覚に触れる。触覚は、全て部分外部分である。
部分外部分は、その部分の内部分を含まない、純粋な外部分である。つまり、触覚は身体を含まない。
触覚と身体の臨界点。触覚は、身体に触れそうになり、身体から、外部に触れようとするが、決して
外部には触れ得ない。むしろ身体が外部に触れる。
このとき、思いは、身体に触れる。身体は、触覚を外部として、触覚に触れそうになる。
身体が触覚に近づくほど、身体は触れることを思い、触れることの思いを私に告ぎながら、
私は触覚に触れる。私だけが触覚に触れることができる。身体にはそれがどこまでもできない。
身体は、思うことができる。身体の思いは、触れそうな部分を志向する限りで、思う。
身体が触れそうになるのは、身体であり、身体内であり、身体外であるが、身体は志向にいつまでも
触れることができないし、身体は思いに触れることができない。
しかし思いは身体に触れる。この一方通行。その可能は。
私という、全てに触れることが可能な超越者がいる。私は触覚に触れる。外部に触れる。身体に触れる。
私は、部分に還元できないし、全体にも還元できない。内部もなければ外部もない。
私は、触れようとするときに限り、思いに触れる。触れようとする思い、思いは触れられず、
私の部分でさえある。この矛盾。しかし矛盾こそ、哲学に残された唯一の方法論である。
私の部分である思い。しかしこの部分は、全体への志向を持たない。
全体が見えない、見ようとしない。全体があるのかどうか、無知のままである。したがって、いくら
思おうとも、何をを思おうとも、私を思うことはできない。造られた私、例えば心理学用語の「自我」
、デカルトの「コギト」、これらは造られた私である。
sage
>>50 サイトも見たけど貴方の言葉は空虚です。意味なんてありません。
哲学にも何にもなってません。
音楽が好きなら、哲学止めて、音楽だけにしたほうがいいと思います。
53 :
考える名無しさん:2007/12/15(土) 11:59:33 0
54 :
考える名無しさん:2008/02/06(水) 17:37:55 0
バカでも分かりやすい文や例だしてください
55 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 06:08:51 0
なるほどなるほど。
などがってまなどがってまうと、のががってまうとゆうことか。
にれないワンをすんだ・・・。
マ゙ウががってまうとゆうんだってまなってまうと、のががってまうとゆうことか。
にれないワンをすなるほどなるほど。
などがってまなどがってまうと、のががってまうとゆうことか。
にれないワンをすんだ・・・。
マ゙ウががってまうとゆうんだってまなってまうと、のががってまうとゆうことか。
にれないワンをすんだ・・・。
マ゙ウががってまうとゆうんだ・・・。
んだ・・・。
マ゙ウががってまうとゆうんだ・・・。
56 :
考える名無しさん:2008/02/18(月) 11:48:52 0
57 :
考える名無しさん:2008/03/02(日) 05:16:00 0
自分の気の持ちようにどんな違いがあるか、をよく考えた人だと
みんなに驚いてもらえると思うぞ
寄り道は時間が掛かるよ
59 :
走行時間:2008/04/28(月) 22:01:35 0
脇題:時間が掛かるほうが良い方への試論
寄り道は全てを指して、不倫であるが、ほどほどの付き合いを指して愛
と呼び、一時を指して遊びと言う。
不倫にも本道に帰るものがあり、本道に帰らないものが不倫におけ
る愛である。遊びは不倫という訳ではない。
愛で全てを説明しようとすると倫理的に許されないものがある。それなので、
愛は全てを説明できない。愛であるから、全てが上手く行くと考えるのは間違
いである。
全てを遊びであると考えると愛や倫理というには過大である。全てを遊びで
説明するとなると、倫理的に許されざる愛があり得る。
全部が遊びであると考えると倫理的に愛されざる遊びがあるだけであり、それ以外に
ないので本道に帰り、時間は掛からない。
それなので、時間が掛かることは遊びという訳でない許し難い愛であると判る。
60 :
考える名無しさん:
純粋理性批判を研究する人おる?