まあいいです。ピントを絞って、ズームインして、個別な『私A』・『存在性A』に注目しましょう。
普遍的『私』・『存在性』は包括的グループであり、
個別の『私A』・『存在性A』を指してはいない、という反論は受け入れられる。
また、「私の『私』」、「私の『存在性』」が、唯一個別のものであることも頷ける。
が、それは、『動き』とか『時間』(或いは『社会』『共同体』)とかのような、【抽象的在り方・在り様】ではないか。
写真に撮るように切り取ったり、果物の種を取るように切り取り取り出せるものではなかろう。
生憎と、私はまだふさわしい適切な言葉・ラベルを見つけてはいない。
どうやら、【意識・精神活動】でもないようだし、
【思考している事実】/【そこ(ここ)に在ること(居ること)】でもないらしい。
※(『存在性』と呼ぶのみならば後者が近似な説明かもしれないが、『私』という表現に於いては抜け落ちる部分がある・・。)
【思考しているという実感(そのもの)】でもないらしい。
【思考そのもの】bでもないらしい。
【(在るという)性質】でもないらしい。
≪a【自身によってのみ、「在る(居る)」と実感される対象】≫とでも言うべきか・・・。(循環してるなぁ・・・。)
≪b【思考するもの】≫とでも言うべきか・・・。(絶対的根拠には弱いなぁ・・・。)
≪c【思考という動態(=自己を見出しているという動態)】≫とでも言うべきか・・・。
最高位自身「在るとしかいえないもの」と言うように≪d【今まさにここにいるもの】≫とでも言うべきか・・・。
『私』と表現せざるを得ないニュアンスがわからないわけではない。
※(≪a〜c≫辺りは龍樹、≪d≫は禅、を参考にして掘り下げると面白いかもしれない・・・。)