1 :
考える名無しさん:
道徳心が厚いって、哲学性のないことの言い訳じゃん
哲学性があることって、結局、道徳心がなくて社会不適合者ってことじゃん
3 :
考える名無しさん:2007/05/16(水) 04:56:37 0
/:.:.:.:.:.:/:.:.:.:.l:.:、:.:|:.:.:.:.:.:.:.、:.:.:.:.:.:.:.:ヽ:.:.ヽ
//:.:.:.:./:.:./:/ |:.:.|:.、:.:.:.:.:.:.:.:\:.:.:.:.:.:.l|:.:.:.:ト!
|:|!:.:.:.:.:!:.:.|:/ !:.:|:.:l:.:.:._l:.:.:.:.l:.:.:.:.:.:.||:.:.:ノ| 禁則事項ですぅ☆
|ハ:.:.:.:.:|:.:.|'| ̄ !:.:ト、\:.:.:.|l`ヽ|:.:.:|:.:/l:/ハ
l! ヽ:.:.:.l:.:.l:| ヽl ヽ=≠-、:.l|:.:.:|//彡/:|\
\:|:.:.|=-‐ トしrハ|:.:ノ|/! |´|:.:|:.:.:ヽ
i`:.l , ー‐' ,':.:.:.:トノ:!:.:l:.:|:.|:.l!|
|:ノ:.\iヽ ー‐ /:.:.:.:/:|:.:.:.|:.:|:.:lソレ'
//:.:.:.l「| ト、__,.. ィ/:.:.:.:斗-!:.:.:|:.:.:.:.ヽ
/:.:/:.:.:./l/ ノ,へ ! /:.:./ \l:.:.:.:.:.:.',
/:.:.:/:.:.:./|/ 'ー-ri /:.:.:.:/ , |ヽ:.:.:.:.:.:',
/:.:.:.:.ノ!:.:./ ! 二j´ /:.:.:.:/ / l:.:.\:.:.:.:.',
/:.:.:.:.:.:/ ∨ノ/ ,rノー|:.:/ノ´_,,. -‐ /!:.:.:.:.:ヽ:.::.:l
!:.:.:.:/_, -‐' .〉 ,ィ´ ̄l:/ '´ /:.|:.:.:.:.:.:.:|::.:.:|.
4 :
考える名無しさん:2007/05/16(水) 07:03:40 O
キチガイや社会不適応者が現実から逃げた結果、すがりつくのが哲学。
哲学自体に罪はない。
5 :
考える名無しさん:2007/05/16(水) 08:06:56 O
それは決定論じゃない、ただのお前の思考にすぎない
警 告
荒らし・誹謗中傷・煽り・板違いスレッドが設立された場合、レスはつけないで完全放置して下さい。
無視できない場合、荒らしや煽りと同類項と見なし、レス削除します。
削除ガイドラインに違反している場合は、所定の手続きに従い削除依頼を
削除要請板もしくは削除整理板に提出します。
重要削除対象や警察に相談中の方は削除要請板に提出して下さい。
削除依頼が出された場合、権限の与えられた削除人の裁定により、
スレッド又はレスの削除・停止・移動の措置が取られることがあります。
>>1>道徳心が厚いって、哲学性のないことの言い訳じゃん
>道徳心が厚いって、哲学性のないことの言い訳じゃん
道徳とは人の行うべき道のことです。
哲学の哲とは道理にあかるいことを指し学とは、それを希求することを意とします。
道徳とは道理にあかるく成ることに依り始めて得られることですので
道徳心が厚い人は哲学的に優れている、と言うことです。
哲学の望む道理に直結する道徳心を否定する哲学は有り得ないことです。
それを数学に当てはめると数字を否定し数学の道を目指す事と一緒で矛盾の極みです。
8 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 21:29:23 0
有名な哲学者でカントって香具師がいるんだが、道徳心が厚いことで有名だぞ。
どうみてもおまいより頭よさそうだぞ?
9 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 21:38:45 0
ニート?
>>8 貴方の書き込みは、どう控えめに見ても他人の頭を測定できる頭では無いと思われますが如何でしょう。
と本当のことを言ってしまうと罵りにレスを返すことに成りますので駄目ですね。
>>1 お前にとっては学校の先生や両親の言う道徳が全てなのか
お前が正しいと考える道徳はないのか
12 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 21:54:55 O
いゃ、哲学に矛盾はおきないだろ。哲学に決まり事なんてなくね?現にこうやって対立してる。道徳的ではない哲学は、哲学じゃないってこと。じゃ道徳的ではないものはいったいなに?
13 :
考える名無しさん:2007/05/17(木) 22:05:36 O
時代の変化に道徳はついてこれない。
ドットコムさんはさあ、
真理を知れば(悟れば)みな善良で最高の精神性を持った人間になるとソクラテスのように信じてるんだよ。
でもそれは証明不可能だからその思い込みで人を説得することは無理なの。
“知る”ことと“する”ことは違うしね。
即時的な快楽に溺れてはいけないとその人が知っていても、その人が即時的な快楽に溺れることは大いにありえる。
人間が過ちを犯すのは無知ゆえだけじゃなく、無力ゆえでもあるよ。
15 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 08:48:38 0
ドットコムの脳内理想哲学と道徳にどのような関係が成り立つにせよ、
現実世界の哲学とはあまり関係がない。
>>11 道徳とは人が物事の理を悟ることで本当の理と言う真理を知り人として有るべき道筋があきらかに分かる、そのものを道徳というのです。
そして人は物事の理を悟ると言うことで心の中で潜在し眠り続けている知能が育ち、本物の正しい智恵を始めて産みだすことができるのです。
つまり人は物事の理を悟ると言う行為を終えなければ生涯に渡り正しい智恵を産みだせず無知蒙昧にて終わらなければ成らないのです。
このことは信じる信じない等の次元の低い問題ではなく現在、明らかにされている歴然とした事実です。
辞書には智恵とは道理に添って物事を考えることとか広辞苑では「智恵=物事の理を悟り、適切に処理する能力」と明確に智恵のことが記されています。
私が正しいとか正しくない、とか言うことでは無く正しい智恵は物事の理を悟らずば誰も産みだせないのだ、と事実をもうしているだけなのです。
>>12 哲学を正しく考えれば矛盾など微塵も有りませんが、哲学を正しく考えられぬ人が哲学に対立するだけです。
>>13 人類史で口先では道徳を唱える人が大勢いましたが、実際は道徳が社会の表に現れたことは一度もないのです。
>>14 物事の理を悟ることは人に正しい智恵を与え、人類社会が構築した無知蒙昧から人類が脱出する唯一の手段です。
正しい智恵がなければ何事も正しく解決できませんが但し智恵が有れば全てを正しく解決できます。
私の言うことに少しでも矛盾が有りますか?
人が過ちを犯すには人が無知蒙昧で有るが故です。
世界は力を崇拝し理に反する蒙昧に支配され戦争や飢餓や犯罪から虐めまで、これ全て無知に依って起こされる力の作用です。
>真理を知れば(悟れば)みな善良で最高の精神性を持った人間になるとソクラテスのように信じてるんだよ。
これはソクラテスが言ったことを信じるのではなく歴然とした事実です。
17 :
14:2007/05/18(金) 09:57:26 O
>>16 矛盾があるというか、楽観がある。
もう一度言うが人間が即時的な快楽に溺れるのは無知ゆえだけじゃない。
それがいけないと知っていてもそれをする人は無数にいる。
自身の欲望を抑圧をする時、そこには我慢がある。
その我慢ができない者の方が世には多い。忍耐力は知だけでどうにかなるものではない。
人間が過ちを犯すのは「それが間違いということを知らなかったから」だけではない。
それに、例えば二人の子どもが河で溺れていて、どちらかを助けるためにどちらかを見捨てなければいけない状況があったとする。
そういう時、二人を一緒に引っ張れる力が人間にはない。
知恵は最善の選択を生み出すことはできても、最善がそれすなわち問題の完全な解決というわけではない。
知恵にも限定はある。それを否定するのなら、今から1秒以内に世界平和を実現してみたまえ。
知恵は全能じゃない。
18 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 10:02:25 0
で、ドットコムというやつは、どうすればその「理を悟る」ことができる
って言ってるんだ? だれか簡単に説明してくれ。
>>14 どうも、例えが悪いね。
難しいことを例に上げて、それ見ろ智恵が有ってもできないことはできないだろ、とあたかも全てを智恵が無くても良いと言うような表し方ですよ。
河で溺れた子供が二人いて一人で一度に二人を助ける体力が有れば助けられますが、その前に子供に河の危険性を諭すとか河に遊びに行くときは
必ず浮き袋を背中に付けて遊ばせることを法律で定めれば良いでしょうね。
事故が起きてから考えるのか事故が起きぬことを考えるのか、はどちらが良いと思いますか?
>知恵にも限定はある。それを否定するのなら、今から1秒以内に世界平和を実現してみたまえ。
正しい智恵を産みだせない状況の者が智恵に限界が有るとどうして言明できるのか?そこをお尋ねしたい。
正しい智恵を見たことも触れたことも感じたことも無くて無限の可能性を人類にもたらす智恵の限界を知ってるとは思えません。
智恵を持たぬ者の特徴は理に通じぬ為に理が無い無理なことを言い不合理を押し付ける特徴を備えています。
その例が>今から1秒以内に世界平和を実現してみたまえ。知恵は全能じゃない。知恵は全能じゃない。と言う無知の見本です。
道徳とは、母集団内の全員が共有する一意性を保つ目的の観念構造の事。
1さんが、ここに書き込む自体が、道徳を求めているという事なのかな。
勝ち負けを煽らないと論拠らしきが得られないという事かもしれない。
一意になりようがない虐待文化を道徳として推奨しているように見えます。
1さんは矛盾しているのではないかな。
思考とは、人格の一意性を保つ作業の事だと思います。
つまり、道徳は思考の結果ではないでしょうか。
21 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 12:01:54 O
>>19 あのさあ、河に溺れた子どもというのはただの比喩だから。
直接的に言うなら、一方を選ぶために一方を見捨てなければいけない状況を解決できる力が人間にはないということだよ。
君はその正しい知恵とやらに見たことや触れたことがあるのかね?
ないのなら、何故知恵に無限の力があると言える?
あるのなら、その知恵で1秒以内に世界平和を実現してみたまえ。
無理だとか、理がないとか、それは知恵に限定があることの証明に過ぎない。
1秒が極端ならば一年でも十年でもいいよ?要は思考する時間は無限にあるわけじゃないということ、
そして知恵に1秒で解決できるほどの力はないことを言っている。
それで忍耐力の件については何も触れないのかね?
最善の選択と問題の完全な解決は違うことについても反駁しないのかね?
不合理なこと?1秒以内に世界平和を実現することのどこが不合理なことなんだね?
1秒以下の内にそれをできる方法があるというなら確かに不合理だが、不合理と不可能を混同しないように。
>>21 私の言うのは、そのような状況を産みださない智恵が人間なら有ると、言っているのですよ。
不合理とは理に反することで理論的に可能で無いこと、理に叶わぬことを指します。
1秒で世界を平和にすることが貴方は理論的に可能と思っていますか?
従って貴方が不可能なことを言うのは理に叶わぬ不合理を言っているのです。
無理とは理の無いことで理が無ければ智恵を産みだせず無理を通すことで全てを賄う、と連鎖します。
智恵を産みだす方法を説く者に智恵が無ければ叶わぬと言う道理も有ります。
皆さんが持ち合わせの無い知恵は人類の抱える全ての問題を解き明かす万能の機能を備えています。
その「正しい知恵を人類が使い始めれば」今後、10年で人類は陰湿な支配社会に別れを告げ、全く新しい
自由と平等を重んじ全ての人々が生き甲斐を持ち人生を送れる時代がくることを私が保証します。
仕事に生き甲斐と智恵が有れば忍耐力などの我慢をしなくても人は楽しみながら生きていけます。
23 :
俺:2007/05/18(金) 12:44:46 0
あのさあ、今ある道徳が世界に適応していると思っている人は相当馬鹿だと
思うよ。最近は国とか社会とかじゃなくて人類という単位で物事を考えなくちゃ
いけない時代なんだぞ?その問題を解決させるのが哲学。1の主張は正しいが
もうひとつ、自我の為に思考を停止するゲスがいることも忘れてはならない。
24 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 13:06:25 O
>>22 知恵が全能ならば理論的には可能になるはずだけど?
でもまあ、君もそれは不可能だと思うだろう。
つまり知恵にも限界はあり、全能ではない。
では全能でないのならどれだけのことができるのか?
君はどれだけのことができる?はっきり言って君にはできないことがありすぎる。俺一人説得することはできない。
そして、知恵をもってしてもに不可能なことが沢山あるなら、
「知恵を悟れば全ての問題が解決する」というのはただの夢想でしかないことになる。
25 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 13:13:07 O
ドットコム。「哲学を正しく考えられぬ人が哲学に対立するだけです」と言うのは違うでしょう。哲学を正しく考えられぬ人」と言うのは貴方の自己判断でしょ?貴方が考える哲学が正しいとなぜいえる?今、哲学にある定義は昔はなかった貴方より賢い人もたくさんいたよ。
>>23 道徳の源は理で、その理は真理から倫理・理論・道理・道徳・人格・知能・知性・智恵と全て連鎖しているのですが道徳で物事を考えられない人を蒙昧と言いますが
馬鹿と言うのは少し行きすぎと思いますよ。
貴方は全体に正しいことを言っていますので評価は高いですね。
とにかく貴方の先が楽しみです。
>>24 >知恵が全能ならば理論的には可能になるはずだけど?
>でもまあ、君もそれは不可能だと思うだろう。
私は理論的に可能で有れば全て可能ですので理論的考査で可能と結論がでています。
>>25 哲学の昔は諸学が一緒でしたが諸学に必用な論理的思考を育てることに哲学が必用で有ることは今も昔も些かも変わりません。
愛智の意でも哲学と言う言葉の意味合いは同じで哲学の哲は道理にあかるいことを指し、それを希求する学と言う文字を合わせて西周が誤訳したものです。
ですから哲学は道理にあかるいことを目指すために物事の理を悟ることの一点が哲学の目的です。
物事の理を悟れば知能が育ち人は始めて正しい智恵を産みだせ諸学に活用できるので哲学を諸学のの源と言う位置に据えたのです。
これは事実で事実は自己判断に含みません。
27 :
考える名無しさん:2007/05/18(金) 13:55:58 O
>>26 そうか
じゃあ1秒以内に世界平和を実現しておくれ
智慧とは人間本来がもつロマンチズムへの渇望、その軌跡である
また俺の語録が増えちゃったな
負け惜しみはよくないというのは、道徳的判断でしょうか。
もし道徳的判断ならば、
スレタイは、道徳を道徳によって批判していることになるような。。。
(笑 が哀しい自嘲の調べを響かせています(笑 ルルル~ララ~
30 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 03:16:35 0
http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20070512 国家観には二種類ある。
ひとつは、国家を、一人ひとりの人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考えるものである。国家は水道や電気や医療や交通網のように、人びとの生存にとってきわめて重要なものだ。
しかし、いかに国家が重要であるとはいえ、それを「愛する」などというのは、水道管や電線をぺろぺろ舐めまわし、女性の靴や下着のにおいを嗅ぐのと同様、変態である。
この第一の国家観からいえば、愛国心はフェテシズムの一種である。国家が愛国心などという変態心性を万人に要求する制度は、日本国装置の性能の悪さとして、国家プライドを大いに傷つけるだろう。
それに対して、国家を一人ひとりの人間の生命を超えた、より高次の崇高なる集合的生命とする国家観がある。このようなリアリティを生きる人びとにとって、国家装置の防衛メンテナンスのための危険業務組織(軍隊)は、集合的生命の男根のように感じられる。
アメリカに負けて憲法九条を押しつけられたのは、「全能感を断念しなさい」と去勢されてしまったような、屈辱の体験である。そして日本は、自由だの人権だの民主主義だの甘ったるい白粉をぺたぺた塗られて、女にされてしまったと、彼らは感じる。
第一の国家観は、人びとの安全と生命を守りながら繁栄をもたらそうとするリアリズム政治のための、基本の基本である。国益の計算や戦略的思考も、この国家観を前提としなければ、何の意味もない。
第二の国家観は、非常時に短期間「だけ」、ひとびとを狂わせるための興奮剤である。必要がないときに使ってはならない。
そして二一世紀の世界でそれが必要になる時は、もうない。いまではこういったドラッグは、貧しい国々で誤用され、悲惨な流血や国土の荒廃をもたらす廃棄すべき毒物でしかない。
>>29 道徳で判断すべきでない←という道徳的判断。
これでいいのだ。
32 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 03:46:02 0
なんでも道徳になる。性犯罪者は軒先につるされている異性のパンツを
盗むべきというのも道徳の一つに過ぎない。
33 :
権藤有二郎 ◆EN8cDNURt. :2007/05/23(水) 05:46:28 0
違うな。
道徳を考えそれを進化、深化させ発揮することは
金には成らないが金を超越した
考えることの一つだ
34 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 05:49:18 0
道徳心があついのと、道徳を考えるのとは、少し違うんでないの?
35 :
考える名無しさん:2007/05/23(水) 06:20:05 0
ニーチェは地方管区の俗物的な牧師の息子だったし、
その道徳批判はより高い(とニーチェが考える)規範意識より発している。
道徳批判哲学が道徳によって道徳を叩いているように見えるのは、別に不自然ではない。
とはいえそうした西欧キリスト教の伝統より発した「より高い内的規範」も
現代日本人のまったり気質からは何となく忌避したくなるようなウザったるさに感覚されているようだ。