【唯物論者の】 安部 繁 【  宗 教  】

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1考える名無しさん
唯物論者である著者が到達した事実とは!
2考える名無しさん:2007/05/06(日) 12:43:58
宗教きも〜い!
31:2007/05/06(日) 12:51:01
この本はたぶん図書館でしか読めないから読みたい人は
図書館でどうぞ。
とはいえ、その一部を(かなり長く)引用します。
41:2007/05/06(日) 12:52:51
・・・・今私が呼吸すると、今まで私の体内にあった細胞の中のいくつかは、
炭酸ガスとなって体外へでてゆきます。その炭酸ガスはどこかの
草の葉に吸収されて、その草の身体の一部分となります。その草が
牛に食われれば、かつて、私の身体の一部分であった細胞がこんどは牛の
身体を造ることになります。その牛が殺されて、人の食物にされれば、
それこそどこかの王様の身体ともなるでしょうし、あるいは、乞食の
身体となることもありましょう。その同じ細胞がこんどは乞食の身体から、
大根かにんじんか何かの野菜の中に入るかもしれませんし、あるいは、
うじ虫になることもありましょう。それから海に流されて魚となり、
再びめぐって人間の身体に入るかもしれぬでしょう。かくの如く、
私の身体を今構成している物質は次の日い空気となって、アメリカ大陸へ
渡ることも出来ます。その地で野菜に化して、カンヅメの中味に使用
されれば、こんどは欧州大陸に送られて、フランス人の体内にも、あるいは
ドイツ人の体内にも、自由自在に入って行けます。人間の身体を造っている
物質は、一人の身体から他の人の身体へ、又人間の身体から草の中へ、
草から動物の中へと移ります。かくして、あるいは、土の中にもぐり、
水に流れ、雲と飛び、火と燃えて、何人もこれを一ヶ所に留めておくことは
出来ません。
51:2007/05/06(日) 12:54:41
あらまし右のごとくですが、このほか想像をたくましくすれば、色々に
考えることが出来ましょう。とにかく、身長五尺何寸、体重十何貫という
私の肉体を構成している物質は決して私の独占物ではありません。
これを独占しようとすれば、かえって私は死んでしまいます。同様に
あなたの身体もあなたの独占物ではありません。肉体を構成する物質は、
時々刻々その一部が肉体の外に出て行き、また、その
肉体は時々刻々外からその補給を受けております。それを我々は新陳代謝と
呼んでいますが、この新陳代謝という言葉はこの現象を一つの肉体の内部だけに
限って観察して名付けた言葉です。私は自分の肉体を時々刻々離れて行く
物質が、その先いかなる道行きを辿るのかどこどこまでもつけてみたのです。
そして、その結果、私の肉体を今構成している物質は、私とあなたの共有物
であることを知りました。いえ、それはあらゆる人の、あらゆる動物の、あらゆる
生物の共有物です。私が死んでか私の身体が他の生物に所有される
というのではありません。私が生きている内に私の肉体が他のものに所有さ
れるに到るのです。その代り、あなたが今持っているあなたの肉体も、
私に共有させてもらいます。これが我々の生命のいとなみ方なのであります。
この生命のいとなみ方を反省することが、すべての宗教の出発点であると
私は考えているものであります。
61:2007/05/06(日) 12:56:16
次にもう少し広く、地球の外の事までも考えておきましょう。
私どもの生活している地球そのものも太陽なくしては存在する
ことが出来ません。太陽系全体も、恐らくは、他の無数の星
からの引力の均衡によって、今ある如くに存在し得ているものであり
ましょう。その他、宇宙線という様なものを考えてみても、我々の
生活が太陽系以外のところから、どんな風に影響されているか、
ちょっと我々の想像し得ぬものがそこにあるに違いありません。
 さて斯くの如きことが、一体何を我々に教えているでしょうか。
それはほかでもありません。私の生命が宇宙的規模でいとなまれて
いるという事実であります。あなたの生命も同様であります。
地球上に住むすべての人間のいのちが宇宙規模で営まれているので
あります。人間だけでなく、あらゆる生物、動物も植物も含めて
一切の生あるものの生命が皆宇宙的規模で営まれている訳であります。
この様に生命の現象を大きく観察するならば、生あるものが生あるために
には無生物もその生命現象から除外することが出来ないわけであります。
人間の身体を外界から遮断すれば、たちどころに死んでしまいます。
ですから自分というものの大きさをこの五尺何寸かの身体に限ると
すれば、それは時間的長さの少しもない、ただの空間という三次元に
おける存在でしかなくなってしまいます。単なる三次元における自分は
写真に写した自分の姿と同様、死んだものです。空間的大きさに時間を
加えた四次元の世界において、自分というものを考えれば、前述した
ごとく、当然に宇宙的規模にまで、その生命の大きさを拡張しなくては
ならないのであります。
71:2007/05/06(日) 13:00:50
ところで、宇宙的規模においていとなまれている生命といえば、それは
この宇宙に唯一しか存在していない生命であるはずです。従って無数の
生命が皆この唯一の生命に一致してしまう、あるいは帰一するわけであります。
ここに宗教の神秘的な意味が存在しているので、私の話もそろそろ
神秘的になってきたといわれるかもしれません。無数の命が唯一つの
生命に帰一するという言葉は、まだ皆さんの心にしっくりと納得の
出来ない事かと思います。理屈が屁理屈の様に思われ、詭弁の如く感じられる
のであります。これは一体なぜでしょうか。その理由は人間の心というものの
成立の仕方を明らかにすれば自らわかってくると思いますから次章において
我々の心について少し考察してみましょう。
前章においては、我々人間の生命を始めとしてあらゆる
生物の生命が皆同じように宇宙的規模で営まれているという
事を述べました。この事はこの宇宙空間の現象を科学的に
冷静に観察すれば、なんぴとも斯く云わざるを得ないところの
事実であります。ところが我々が普通に生命というものを
考える時にはどうしても個々の生物体の体内においてのみ
生命を考えてしまいます。生命は生物の身体の中でのみ営まれて
いる様に常識で考えてしまって身体の外の現象までも生命の
営みとして考えるなどという事は普通の人の夢想もなさない
ところでありましょう。
81:2007/05/06(日) 13:02:30
勿論、生物学の上では生物の体内における営みのみをとりあげ、
それをもって生命の現象と考えて差支えは少しもないでありましょう。
しかしながら、宗教の何たるかを知ろうとするには、この様な
生物学的な生命の見方に反省を加えねばならないのであります。
然るに、この反省たるや、我々の常識にとって、まさに難事中の
難事であります。宗教の難しさは、実に、我々の心そのものの
起源に存在しているのであります。ですから、私は次に、
我々の心そのものの成立について少し考察してみたいと思います。
人間の心はいうまでもなく、我々の脳の働きであります。
この心と脳との関係を科学的に詳しく述べる事は随分
難しい事でありましょう。私は科学者でもなく、医者でもないので、
専門的に我々の心と脳との関係をここに説明する能力を持ちません。
ですから詳しいことは専門家の書いた著書にゆずることに致しまして、
ここでは極く簡単に常識的に話を進めさしていただきたいと思います。
 それでは、我々の脳の働きはどうして発達してきたかと考えて
みますと、まず、我々の全身の神経が受け取った感覚が全部脳へ伝え
られてまいります。初めは脳はその感覚が何であるかを判断する力を
持ちませんが、とにかく、その伝えられた感覚を記憶として自らの内に
貯えておきます。そして段々とその貯えを増して行き、その内容が豊か
になって行くにつれて、全身の神経によって伝えられて来る感覚が
何を意味するか、すこしずつ判断出来るようになります。
91:2007/05/06(日) 13:04:54
斯くの如く全身の神経から伝えられて来る感覚を我々の脳に集めて、
そこに綜合し判断し、その判断の結果をまた自らの内に記憶して、ますます
その内容を豊富にして参ります。かくの如く、感覚し、判断し、記憶する
ことを繰り返し、くりかえして、我々の脳の働きがいっそう高くなって行きます。
そしてこの高度に発達した脳の働きが我々の心と呼ばれるものにほかなりません。
人間の心において、脳の働きは他の何の動物よおりも高く発達したことは
いうまでもありません。我々人間の心は有無を考え、愛憎を考え、損得を考え、
善悪を考え、あらゆる外界の事象を考え、そして遂には、心自身を考える
ところまで到達したのであります。しかしながら、人間の心がどれだけ
高度の発達を遂げたとしても、それがやはり脳の働きであり、その脳の働きが
人間の肉体の神経によって受け取られる感覚に基いて成立し、発達したものである
事に変りはありません。すなわち我々の心は我々の肉体を基礎として出来上がった
ものであります。
この様に我々の心はその肉体を基礎として成立したものでありますから、
心が我々の肉体をもってわが身体と考え、肉体の生命をもって、わが生命と
考え、すべて肉体の大きさの内に自分という存在を意識しております。
これは我々の心が肉体の上に造り上げられたものである当然の結果で
あります。従って我々の心において生命の大きさは、やはり肉体の大きさ
しか持っておりません。自分の生命は肉体と共にあり、肉体と共に栄え、
肉体と共に亡びるものであると考えます。
101:2007/05/06(日) 13:06:57
続きはまたあとで。
111:2007/05/06(日) 15:35:26
我々は、生まれてから唯この様に考え続け、そして大部分の人は最後まで、
この様に考えながら、その一生を終えるのであります。かくの如くして、
前章に述べた人間の生命の極めて大きな営みの有様など考えようとする事も
なく衰生夢死するのが人間の常であります。
しかしながら、宗教を考え、生命の問題を考えようと志す人は、右の様な
感覚の陥穽にとらえられた概念から超越しなければなりません。
五尺の肉身をもって自分の身体であると考え、肉体の生命をもって自分の
生命であるとする通俗の考え方は、生命のほんとうの営み方から考えれば、
感覚の陥穽におちいった錯覚であるという事が出来ます。
そしてその錯覚を錯覚と気付く人が少ないのは、人の心が全く感覚を
基礎として造り上げられているからにほかなりません。
121:2007/05/06(日) 15:37:06
私は肉体の生命をもって自分の生命であると考える事が錯覚であることを
指摘し、人々の生命の見方について反省してもらうために一つの質問を
提出致します。
それは
「肉体の生命は生きているものであるか、それとも生かされているものであるか。」
という事であります。勿論一般の人は常識によって簡単に
「肉体の生命は生きているものである。」と答えるでありましょう。
しかし前章に述べたところの生命の営み方を理解するならば、そんなに簡単に
「肉体は生きている。」と言い切れないはずです。生命を肉体の大きさに限定するならば、
その生命はむしろ「生かされている」と言った方が正しいのではないでしょうか。
「生きる」とは一体どういう事でしょうか。正確にその作用の内容を観察するならば
「生かされる」事を我々があまり深くも考えずに「生きる」と称しているのにほか
なりません。その生かされているところの肉体の生命をもって簡単にいきていると
考えてしまったのが我々の心の錯覚であります。そしてその錯覚は我々の心が肉体の
感覚に基いて成立し、発達して来たという事に原因しているのであります。
131:2007/05/06(日) 15:55:38
 今、仮に宇宙を一個の人体と考えてみましょう。するとこの身体はその全体に通ずる
統一された神経を持っておりません。この人間はその身体の中のどこか小さな一ヶ所
だけに神経を有するに過ぎず、他の全身において無感覚という極めて変わった身体であり
ます。かりにその神経のある場所を左手の人差指であると仮定しましょう。そしてこの
人差指が与えられた神経を基として一本の指の心を持つに到ったと致します。すると
この人差指の心は左手の人差指一本だけが自分の身体である様に考えるのが当然であり
ます。又この心はその人差指が全体の身体に依って生かされている事にも気付かず、
自分の身体、つまり小さな一本の指が自ら生きている如くに錯覚するでありましょう。
実は、自ら生きているものは全体の身体であり、一本の指はその全身の生命に依って
生かされているにもかかわらず、その指の心は一本の指が自分で生きているかの如く
考え、自分を生かしてくれる大きな生命、全体の身体に通ずる生命の存する事に
気付かないでありましょう。
141:2007/05/06(日) 15:57:22
先に述べた様に我々人間の真の生命は宇宙的規模で営まれているのでありますから、この大きな
生命を生きている全体の身体、すなわち宇宙を一個の人体に譬えてみたのであります。
この場合人間の肉体は宇宙という大きな人体の中の一本の指に相当するものであります。
一本の指が生きているのは、全体の身体の中の血液がその指の中に出入りしているお陰で
ある如く、我々人間の肉体も、空気や水やその他各種の食物がそれに出入りする事に
依って生かされているのであります。その生かされている肉体の神経を基礎として
成立した我々の心は、宇宙という全身にとっては丁度一本の指の中に限られた小さな
感覚の上に発生した指の心にほかなりません。一本の指の心過ぎないところの我々肉体の
心はほんとうの自分の全身というものをなかなか見ることが出来ません。
151:2007/05/06(日) 16:03:21
 もう一度まとめて言えば、指の中を流れる血液が全身のどこへでも共通に流れる如く、
空気や水や食物なども全世界の内をどこへでも誰の身体の中へでも共通に入って行きます。
又指の神経が指の中だけに限られている如く、人間の神経も人間の肉体の内だけに限られて
います。そして、その為に一本の指に与えられた心が自分の本当の生命の大きさを知らぬ
如く、我々人間の肉体に与えられた心も、自分の本当の生命の大きさを知りません。
 要するに、我々人間が自分の生命と考えているものは、「生かされている」生命であって、
決して生きている生命ではないのであります。感覚をもとにして成立した我々の肉体の心は、
生かされている生命のみを見て、生きている生命を見る事が出来ません。我々は生かされている
生命を見て、単純に生きていると思い込んでいるわけであります。しかしこの考えは既に
何回も述べた如く感覚にもとづくところの錯覚なのであります。およそ地球上に住む生きとし
生きるものは皆、一つの大生命に依って生かされているのであります。然るに我々はそのすべての
生物の親ともいうべき一つの大生命の存在を考えずに、かえって小さな生かされているもののみを
見て、それを生命と名付けたのであります。つまり「生きる」という言葉の意味する内容を厳密に
考察すれば、それは生かされる事にほかならなかったのであります
161:2007/05/06(日) 16:04:54
 それでは、本との意味において自ら「生きる」とは如何なることでありましょうか。
一体自ら生きているものがこの世の中に存在するものでありましょうか。人間を始めとして皆
生かされているところの無数の生物の外に自ら生きるものを認めるか否かは宗教にとって
まさに一番大切な問題であります。私は宇宙を一個の人体に譬えて、人間の肉体をその宇宙
という人体の中の一本の指に相当するおものと考えました。それは宇宙こそ自ら生きている
唯一のものであると考えたからであります。宇宙は時間的にも空間的にも無限の存在であり、
従って宇宙が自ら生きているものであるならば、その生命も無量であり、無始無終であるはず
です。時間的にも、空間的にも有限の存在である我々人間が、自己の生命の不滅を信じようと
するならば、この宇宙の生命を我が生命とし、肉体の生命を宇宙の生命に帰一させるよりほかに
その道は無いのであります。
171:2007/05/06(日) 16:06:30
 宇宙をもって無量の生命を持つ一個の生命体であると考えるにしても、その宇宙の生命が、
我々人間の生命と無関係に、人間の生命とは別の生命体として存在するならば、いかに
それが無限の生命であるにしても、宗教となるわけには行かないでありましょう。
一本の指の譬えで示した様に我々人間の肉体は、実にこの無限なる宇宙の生命に依って
生かされているものであり、換言すれば、我々人間は肉体を生きているのではなくて、自ら
無限なる宇宙の生命を生きているのであると言い得るのであります。それは一本の指が生きている
生命は、その指一本の生命ではなくて、その指につながる全体の身体んお生命であるのとまったく
同様であります。
 我々の感覚の陥穽によって生じたところの錯覚から脱却して、我々が今現に宇宙の生命を
生きている事を自覚して下さい。勿論宇宙の生命というものは、唯一つの存在でありますから、
どの人の生きている生命も皆同一の生命であります。あなたの生きる生命と私の生きる生命
とは別の生命ではありません。すべての人が同一の無限なる生命を生きているのであります。
唯異なるところは、生命を感覚してとる場所が少し違うだけであります。心の発生する場所が、
この指かあるいは、あの指かの相違であります。この身体か、あの身体かの相違では無くて、
一つの身体の中の何の指で、全身の生命を味わうかの違いに過ぎないのであります。
181:2007/05/06(日) 16:08:58
 前章において、我々の生命が宇宙的規模で営まれている事実を観察致しましたが、自分の
生命であると考えるとき、初めて我々自身の生命が自ら生きている生命となるのであります。
私はこの宇宙的規模で営まれているところの自ら生きている生命を「誠の生命」と
名付けようと思います。つまり我々人間は皆この「誠の生命」を生きているのであり、
肉体においては、生かされているものであります。われわれの生きている「誠の生命」は
宇宙の大きさを持っているものであるのに、我々の心は小さな肉体の大きさしか持って
おりません。我々の生きている生命の大きさと我々のもつ心の大きさとの、この不一致、
これが人生における根本的な矛盾であり、人間のあらゆる苦しみ、悩みはこの心の矛盾
から起るのであります。もしも生きている生命と心とが同じ大きさとなり、その範囲が両者
一致するならば、その時、人生から悩みが消え去るでありましょう。しかし、かかる事は
望んで得られることではありません。我々の心が「誠の生命」と一致しないで、生かされて
いる肉体に従っているという矛盾が、人生の苦悩の根源であり、それは永遠に救うことの
出来ない矛盾であることを、我々は、ここに明確に理解しなければなりません。
191:2007/05/06(日) 16:26:53
 「誠の生命」は宇宙間に唯一つ存在する生命であり、「誠の生命」のみが自ら生きて
いる生命であり、すべての生かされたいる生命がこの「誠の生命」によって生かされているのである。
とかくの如く、生かされている生命の概念をある意味で否定して、自ら生きている生命の概念を
新しく設定することが、あらゆる宗教の本質であります。
私は次章以下において、キリスト教、仏教、儒教の三つの宗教が、それぞれ如何なる説き方で
この宗教の本質を伝えようとしているかを調べたいと思うのでありますが、我々がその内の
どれの宗教に従うにしても、まず前述したところの人間の心の起源にもとづく錯覚から
脱却して、それらの宗教を聴かなければなりません。この錯覚は我々の肉体の心の誕生の
当然の結果として持って来た錯覚でありますから、この錯覚から目覚めることは、とりも
なおさず、我々の                        (以下 原稿紛失)

(このあと続稿あり)


引用はここまで。

201:2007/05/06(日) 16:53:16
>>7

>成立の仕方を明らかにすれば自らわかってくると思いますから次章において
>我々の心について少し考察してみましょう。
以前と
>前章においては、我々人間の生命を始めとしてあらゆる
以後は分けるのを忘れた。これは別の章。


んで、どうだい?感想は?
211:2007/05/06(日) 23:06:52
安部繁がこれを書いたのは昭和18年か19年。それから約34、5年
書棚の一隅に押し込めて眠らせたまま、その間一度も人に話したことがなかった
と書かれてる。
俺の感想は、まず、この人は神というものを想定せずに世の仕組みというものを
考えていった。そこからそこから引用した考察のもとで宇宙が一つの生命体と考えた。
だから、それはまだ神という名前さえ与えられていない。生命体とはいえ、それが、
人間のように知性を持っていると言っているわけではない。又、超能力とか霊などのような
科学的には証明されていないものについては、触れない。それは、そういうものが
存在するわけではないと言っているわけでもないということだ。そういうものを
想定しなくても、これだけに込み入ったものが事実であるということを言っているわけである。
その上で超能力や霊がもし存在するとしたらもっと込み入っているということになる。
著者はそれについてはこの本には何も書いていない。それでも「生かされている」という
事実は事実だと、それまでの唯物論者には近寄り難かったものを事実として提示する。

これと併せて読むといいと思えるのは本荘可宗の『無』。
今手元にないんで引用することは出来ない。又『唯物論者の宗教』も
今手元にはない。有るのはコピーだけで、引用した分だけ。
『無』では確か、「人生を上手くやるには」的な疑問から出発して、金を
集めることや、物を集めることや、知に頼ることなどを候補にあげ、
それらがいずれも上手く行かない場合があることを挙げる。
食べ物ををいつも用意しておいても、死ぬときは死ぬ。
「食べ物を用意すれば食べる」という固定観念への批判。
それに執着することで他の選択肢を見失わせがちになるということへの批判。
それらに執着しないことが最も見通しが良い。それが「無」である。
そしてあの手この手を講じる以前から、人はなんだかんだ、そこそこにやって
きている。それが下手だとか上手いとかの話以前に「そう有る」ということは
人間技ではないということ。自力ではどうすることも出来ないことを、人間は
なぜか、やってきている。そのことへ安心立命すること。
たしか、そういう様なことが書いてあった。
221:2007/05/08(火) 09:59:42
たしか『無』では「因縁」という言い方をする。
それは、仏教のどこかの宗派で言っているかは知らないが、
「あなたの前世が原因で今この様な結果を到来させたのですよ」という様なもの
とはちょっと違う。とはいえ、前世は無いと言っているわけではない。
『無』には
「あなたがパンを食べて生きる」のではなく、
「あなたが生きる因縁があるがゆえにパンの方がやって来るのだ」という様なことが
書かれていたかもしれない。(間違っていたらスマソ)
その「因縁」というものは無我の境地になったりならなかったりしていることの
幾度かの揺らぎのうちで自然に思えてくるものであるのだろうか?
そうだとしたら、「前世」とか「行い」が「こうだから、ああだ」と細かく概念化することは
かえって思いを欺いたり、選択肢を曇らすことなどで 無我の境地から遠退くのではないだろうか?
不自然且素朴な憶測に過ぎないということで『無』では考察し得ぬものとして、
ただ「見詰めること」が最善だとしているのかもしれない。
231:2007/05/08(火) 10:12:39
これから書くことで気分を悪くする人がいるかもしれないので
あらかじめ謝っておく。スマン。

俺はこの『唯物論者の宗教』を昔、三回程読んだことがある。
余りにも、読書が足りなかったせいなのか、読んでいて悪い気はしなかった。
だが、今回このスレッドでこれを書いてから、妙に気分が悪くなった。
何か気持ち悪いのだ。吐き気とまでは言わないが、その方向のものである。
同じ様な気分を味わっている人がいるとすればスマナイ。

考えてもみてくれ。
「それが事実だとしても、そんなこと想像させんじゃねーよ」
と言いたくならないだろうか?

例えば、今あなたがミカンを食べているときに、
「そのミカンにはねー、アメリカ人の細胞の一部だったものやアフリカ人の
細胞の一部だったものや、牛の細胞の一部だったものや、鶏の細胞の一部だったもの
も入ってるかもしれないんだよ」と言われてみたらどう思う?
241:2007/05/08(火) 10:28:48
今食べている「鶏肉」と呼ばれる肉は元々は「鶏」を殺したものではないと
思って食べている人がいるとする。
その人に対して
「いや、それは君の間違いだ。間違いなくその鶏は存在します」
と言う人がいるとして、その人はそう思う自由を強引に奪っていないだろうか?
「石川リカはうんこなんかしない」という人に「いや、うんこする」という人も
同様だし、誕生日を祝ってせっかくケーキを用意してあげたのに、
「生まれた日がなぜ愛でたいの?又なんでケーキなの?ケーキ屋の戦略に決まってんじゃん」
という人。・・・・・(ちょっと違うかもしれんが)
とはいえ、気分が悪くなるが、一度はそういう考えがあることも知っておきたいという人は
何度も聞かされるわけでなければ、何とか忘れられるくらいのものだとは思う。
免疫になってちょうどいいという考え方もありだと思う。

まあ、こういう考えもあるということで。。。
251:2007/05/08(火) 10:42:05
おっと、まだ書くこと忘れてた。

この『唯物論者の宗教』の「全宇宙という生命体」というのをより、解明してゆけば、
「神」をより詳しく言い表すことになるのだろうか?
例えば、霊というものが存在し、超能力というものが存在し、思いは現実化するなどなど
を解明していって、その「全宇宙という生命体」に組み込むことで「神」を
より詳しく言い表したことになるのだろうか?
この『唯物論者の宗教』を読んでキリスト教の信者が
「ああ、有り難いことだ。これは神の一つの栄光だ」だと思うとしたら、どうだろうか?
こうは考えられはしないだろうか?
それは的違いではないだろうか?
この「宇宙という生命体」というものは「神」とは逆の方向に行っていないだろうか?
「人間の思いがこの現実を作り出した」というのが正しいとしたら、
そのような生命体は人間の思いが産み出した「化け物」ではないだろうか?
「石川はうんこするとは限らない」ではないか?
261
>>22
>ただ「見詰めること」が最善だとしているのかもしれない。
ここを
「その場合その場合に適した判断をする」のが最善であるとしているのかもしれない。
に訂正しておこう。