哲学は難しすぎる【2】

このエントリーをはてなブックマークに追加
512E2 ◆igyenga13c
(判る/判らない)二分法による点の定義(1/2)
まずは、ユークリッドの原論の定義部分を掲げておこう。
@点は部分をもたないものである.
A線とは幅のない長さである.
B線の端は点である.
C直線とはその上にある点について一様な線である.
D面は長さと幅のみをもつものである.
(ユークリッドの原論:酒井文雄:http://www.rimath.saitama-u.ac.jp/lab.jp/fsakai/he.html。丸付き括弧は僕の都合により付け替えた)

或る事象があり、その事象には判る部分と判らない部分が在る。判る部分を殺ぎ落として、判らない部分をより鮮明に明らかにしていく作業は、どの学問であれ行なっていることである。これを繰り返していくうちに判らない部分はそれ以前に比べると小さくなっていく。
事象平面とでもいうものを想定しておくと話が見えやすいか。まわりは『判った』で囲まれ、その中に『判らない』ところが残っているイメージ。
この過程、仏師が仏様を造り出す際、「仏様を自分が彫る、ということではない。仏様自身が姿を露わにされてくるのを助けているだけなのです」というような発言と類似した感触を持つ方もいるだろう(参考:『ガラスの仮面』紅天女篇に登場する仏師の言動)。
また、「判る部分を殺ぎ落とし」と表現しているが、医学に例えるとこの作業は基礎医学分野における態度であるにすぎず、臨床医学分野においては『判った部分』をうまく利用している/したい、ということがあることも了解している。

『判らなさ』自体は小さくなるにつれ、ものすごく判らないことになっているだろうな。これも容易に想像つくことである。質的には困難さが飛躍的に向上していることだろう。
しかし現在、この質自体は問えない。なんせ『或る事象』と一般化しているわけだからね。その内容を吟味しなければ『質』自体の有り様は問えないのは当たり前すぎるほど当たり前のことである。
で、僕にとっては『質』の部分に対するこの性格、非常にありがたいことでもあるわけです。「それは何?」と問われることがないわけですからな。
(続く)
513E2 ◆igyenga13c :2007/08/02(木) 11:36:36 0
>>512(判る/判らない)二分法による点の定義(2/2)
さて、話を進めますか。『判らないところ』はどんどん小さくなっていくことでしょう。そして終(つい)には「判った!」という状況になったと想像してみてください。
その瞬間の状況。その事象平面は『判った』で埋め尽くされ、『判らない』の痕跡とでも言うべきものがその中心にぽつんと残されている、このイメージ。
時間軸を事象平面に交わらせ立体化したならば、その瞬間前は『判らない』ところが或る面積を占め、その瞬間後は『判らない』ところが全くない、その間隙。
面積を占めず、かといって、無い訳ではない、その瞬間に生成されているもの。これが『点』の定義に繋がるな、と。哲学での思考実験結果と数学の第一定義が、この点によって接する。

「『判った!』としたならば、そこにどんな世界が広がるのか?」を仮想して始まったのがユークリッド原論。
仮想した数学上で組み立てた論理なり理論なりが、現実世界上での物の動きや変化を説明する際に有効に働く。これが物理学や化学であり、その他の理系学問にもうまい具合に適応していく。
この検証過程を通じて、数学という仮想、仮説の信頼性が高まり、ひいては点の定義を通じ、哲学の信頼性も高まってくる構造。

現実を直視し、そこに在るものを確認し合い、その有り様を貫く共通性とでもいうべきものを仮想し、或るモノに適合するかどうかで検証を行なっていく作業。ま、理科系では当たり前田のクラッカー。これをやっているに過ぎない、本来であれば。
現実での検証が不可能な領域、仮想の上に仮想を重ね、まるで知恵の輪を作りそれを解くのを楽しむグループがいたところで、それは趣味だからね、他人がとやかく言うことではない、本来であれば。
だが、現実に存在してしまっている権力機構と結びつくことで、趣味であるこういう哲学が権威を持とうとした歴史があったのかもしれない。

  祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
  娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらは(わ)す。
  おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
  たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
   (『にほんごであそぼふぁんさいと』http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/jugemu/gion.htm

的状況に陥ってしまっているのかもしれない。