キリスト教は邪教です! PART10

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474考える名無しさん
◆「ユダヤ人は宗教の名の下に、それまで寛容が支配していた世界に非寛容を持ち込んだ。ローマ人の宗教は
限界を知る人間の謙遜さの表われだった。知られざる神々への神殿までつくるほどだったではないか。かつて
ユダヤ人は古代社会にキリスト教を持ち込み、破滅をもたらした。今、また社会問題の解決とやらを口実に
同じことを繰り返そうとしている。同じ手口だ。かつてサウロが使徒パウロに変身したように、現代、
モルデカイがカール・マルクスになったのだ。」

◆「本来キリスト教は破壊的なボルシェヴィズムの顕在化にすぎなかった。だが後にキリストと呼ばれた
ガリラヤ人は、全く違うものを目指していたのである。彼はユダヤ人に対抗する民衆のリーダーと
見なされていたにちがいない。ガリラヤはローマがおそらくゴール人の軍団を駐留させていた植民地であり、
イエスがユダヤ人でなかったのは確かである。ユダヤ人はといえば、イエスのことを娼婦の子、娼婦と
ローマ人の子供と見なしていた。
イエスの教義を決定的に歪曲したのは聖パウロである。彼は個人的野心を秘め、巧みにやってのけた。
ガリラヤ人の目的は祖国をユダヤ人の圧政から解放することであった。イエスはユダヤの資本主義・
物質主義に対抗し、そのためユダヤ人に抹殺されたのである。」

475考える名無しさん:2007/07/25(水) 18:28:08 0
◆「聖パウロの努力にもかかわらず、キリスト教の教えがアテネでは普及しなかったのはおもしろい。この
貧乏ったらしいバカな考えに比べて、ギリシアの哲学ははるかに程度が高く、使徒の伝道を聴いたアテネ
市民は大笑いしたという。しかしローマでは聖パウロを受け入れる下地が整っていた。人類は平等という
考えが、生活の基盤を持たない大衆の心をつかんだのである。
だがローマの奴隷の実像は、我々が想像するものとはかけ離れている。実際のところ、奴隷とは戦争の捕虜
(今日の意味で)で、解放される者も多く、ローマ市民になる可能性もあった。この奴隷に、今日のイメージ
のように身分が低いという考えを植えつけたのが聖パウロである。
ローマでは、ゲルマン民族は深い尊敬を勝ち得ていた。ゲルマンの血はたえずローマ社会に新しい命を吹き
込んでいた。一方、ユダヤ人はローマでは軽蔑されていた。ローマ社会はこの新しい教義に反感を抱いたが、
純粋な段階のキリスト教は民衆を動かして反乱を起こさせた。ローマはボルシェヴィキ化され、ボルシェ
ヴィズムが後のロシアと同じ結果をローマにもたらしたのである。

476考える名無しさん:2007/07/25(水) 18:30:30 0
後になってゲルマン精神の影響で、キリスト教はそのあからさまなボルシェヴィキ的性格を徐々に失って
いった。いくらか我慢できるものになったのである。今日では、キリスト教がよろめくと、ユダヤ人が
ボルシェヴィキ的な形のキリスト教を再び持ち上げるのである。ユダヤ人はこの実験をもう一度繰り
返すことができると思っている。昔と同様今日の目的も、人種的統一を乱して国家を滅ぼそうという
のである。ロシアでユダヤ人が組織的に何十万もの男を移住させたのは偶然ではない。強制的に置き去り
にされた女性は他の地域から来た男たちに回される。人種の混交を大規模にやっているのである。
昔も今も、目的は美術と文明の破壊であった。ボルシェヴィキが力を持った時、ローマで、ギリシアで、
どこででも、破壊しないものがあっただろうか? ドイツでもロシアでも同じことをしてきたのである。
比べてみたまえ、片やローマの文明と美術、神殿や邸宅、片やカタコンベのお粗末なやっつけ仕事。昔は
図書館も破壊された。ロシアでもそうだっただろう? おかげで恐ろしくレベルが落ちてしまった。
中世になると、破壊のシステムは殉教や拷問という形をとるようになった。昔はキリスト教の名の
もとに行なわれ、今はボルシェヴィズムの名のもとで行なわれている。昨日の扇動者はサウロだった。
今日の扇動者はモルデカイである。サウロは聖パウロとなった。モルデカイはカール・マルクスである。
このような害虫を駆逐することは、人類に対するこの上ない貢献である。」
477考える名無しさん:2007/07/25(水) 18:32:46 0
◆「イエス・キリストはアーリア人だった。パウロがイエスの教えを利用して犯罪者どもを動員し、
『原始共産主義』を組織したのだ。この時、それまでの天才、ギリシア・ローマ人の時代が
終わったのだ。人間が自分の前にひれ伏すのをみて喜ぶ『神』とはいったい何者なんだ。
その神は自分で罪を犯しやすい状況をつくり、悪魔の助けを借りて人間に罪を犯させるのに成功、
それから処女に男の子を生ませ、その男の死で人間の罪をあがなった。何ともばかばかしい話
だとは思わんのか!

マホメットの説く天国に夢中になる人間の気持ちは私にも理解できる。また、自然の脅威を畏敬
する人間の気持ちも分かる。だが、キリスト教の無味乾燥な天国だけは分からん。生きている間は
ワーグナーのすばらしい音楽に聞き惚れていた君らが、死後、シュロの枝を振りながらハレルヤを
歌うしかない世界、赤ん坊と老人しかいない世界に行くのだぞ。キリスト教! これは腐った
脳味噌の産物だ。これ以上に無意味でひどいやり方で神を馬鹿にした宗教はない。パンと葡萄酒が
キリストの体と血だなどと真面目に信じている人間よりは、タブーを信じている黒人の方がはるかに
上等だ。」

478考える名無しさん:2007/07/25(水) 18:35:19 0
◆「信仰とは、信じない者には力によって強制すべきものであるらしい。もし人間が神を信じることを
神自身が望んでおられるのであれば、なぜ、責め苦によってその目的を果たそうとなさるのだろう。
ついでながら一ついっておきたいことがある。よきカトリック教徒だと自認する人々の中でも、教会の
宣伝するたわごとを全面的に信じている人はほんのわずかしかいないということだ。熱心に教会に行く
のは、もう人生から降りて諦念している婆さんたちだけだ。教会の広めるたわごとは、すべて無用の
長物だ。そんなものにかかずらって時間をむだにしてはいけない。

教会の組織する組合には、物質的ご利益のみを求めてそれ以上のものには目も向けないという輩が意外
に多い。また、しかめっ面こそが信仰だと思っている連中もいる。さらに驚いたことには、神に仕える
聖職者どもが実は無心論者だということすらあるのだ。」

479考える名無しさん:2007/07/25(水) 18:36:36 0
◆「自分の主張を通すためには祈りで十分だと信じるのであれば、なぜ血を流して戦うのだ? 
スペインの坊主どもは『我々は祈りの力で防衛する』といってしかるべきだった。ところが
実際には、教会を救うには、異教徒を雇ってでも戦う方が妥当だと考えたではないか。もし
私が哀れな罪深い人間のまま悔い改めもせず死んだとしても、ああ、それで結構。それでも
死ぬ前に10マルクも献金すれば、私の生前の行ないは多少はよく評価してもらえるとでも
いうのだろうか。それが神の望むところなのか?

素朴な労働者や田舎娘が教会の謳い文句にのせられるのは理解できる。しかし、どうしても
容認できないのは、インテリ層までが迷信宣伝の共犯者となったり、何千何万という人間が
迷信と愛の名の下に抹殺されたりしたことなのだ。嘘偽の上に築かれたものがいつまでも
持ちこたえるとはとうてい信じられない。私は真実を信じる。長期的には真実が必ず勝つと
確信しているのだ。

宗教に関しては、我々は寛容の時代に入りつつあるのかもしれない。誰もが自分に最も
ふさわしい形の救いを求めるのが許される時代だ。古代社会にはこの種の寛容さがあった。
改宗の必要などなかったのだ。私が教会堂に入って行ったとしても、それはイエスや
マリアの像を打ち倒すためではない。美しいものを求めて行くのだ。」

480考える名無しさん:2007/07/25(水) 18:38:14 0
◆「私は私自身の信念に従って行動している。他人が黙祷するのを妨げるつもりはない。しかし、
神への冒涜は許せない。私のために頼んでもいない祈祷などしてくれるな。

天の摂理によって私がこの世に生を受けたというのであれば、私の存在は至高の意志によるものだ。
教会などには何の関係もない。教会は魂の救いを売り物にインチキ商売をしている。残酷極まりない。
私の考えを力ずくで他人に押しつけることはできない。しかし、他人の肉体や魂に苦痛を与えて
喜ぶような人々には、私は恐怖すら覚える。

我々の時代はキリスト教という病気の絶滅の時代だろう。もっとも、完全に絶滅するまではあと
100年か200年はかかるかもしれないが。これまでの預言者たち同様、残念ながら私にも
約束の地を見はるかすことはできない。我々は陽光あふれる時代、寛容の時代へと入って行くのだ。
そこでは、人は神から与えられた能力を自由に伸ばせるようになるのだ。何よりも重要なのは、
より大きな虚偽が、今や絶滅途上にある虚偽に代わって入り込むのを阻止することだ。すなわち、
ユダヤ共産主義の撲滅だ。」

481考える名無しさん:2007/07/25(水) 18:39:32 0
◆「キリスト教の到来は人類にとっては最悪の事件だった。ボルシェヴィズムはキリスト教の私生児である。
どちらもユダヤ人の生み出したものだ。宗教に嘘を持ち込んだのはキリスト教である。ボルシェヴィズムも
同じような嘘をつく。人間に自由をもたらすといいながら、実際には奴隷にしようとしているのだ。

太古の時代には人と神との関係は本能に根ざしたものだった。それは寛容に彩られた世界だった。敵対する
ものを愛の名において滅ぼした宗教はキリスト教が最初である。そのキーワードは非寛容なのである。

キリスト教がなければイスラム教もなかっただろう。ローマ帝国はゲルマン民族の影響のもと世界帝国へと
発展したことだろう。15世紀にわたる文明を一瞬のうちに失うはめには陥らずにすんだことだろう。
キリスト教のおかげで人が精神的生活に目覚めたなどといってほしくはない。それは物事の自然な進展の
結果である。ローマ帝国の崩壊は数世紀に及ぶ暗黒をもたらしたのだ。」