932 :
考える名無しさん:2008/10/29(水) 06:58:03 O
無ってのは何かと結びついて初めて意味を為す概念で無そのものが存在するかっていうのは意味がないんじゃないか。
色なんかもそうで、白い何かは存在するが、白そのものってのはない。
933 :
考える名無しさん:2008/10/29(水) 08:01:18 0
何も無いのではなく、定義した次元での空間の中に観測できるものが無いというのが
何もないということで次元も空間も何も定時せずに有り無しというのは
意味が変だろう。
いつ、どこに、どのようになどの意味が抜けている時点で空論にすぎない。
無というものの色、つまり状態として扱う場合もあるので、前提条件が
無い考えなど妄想にすぎない。
無というのは何かという狭い意味を拾えるだけ定義し、それぞれ
有り無しを考えるのが本来のやり方だろう。
総意としての無なら存在しないでFA.
有が前提である。というか、有しか経験できない。
無は、その経験から疎外された「観念」である。
“有の経験”は様々な「無限(という観念)」を疎外・表出する。
無は、種々の無限の一つである。
いや、無限の反転、ひっくり返された無限とでもいうべきか。
存在しないことが無。
存在しないこと(無)の否定が有。
一切は存在しないと疑い否定していくと、疑い否定すると言う思考・意識が残る。
疑い否定する観測者を我とするならば「我疑う故に我あり」。
存在しないこと(無)を疑い否定することで、観測者の我ありが成り立つ。
デカルトを参考にしました。
無は存在しない。有で満たされている。
無くなったと認識してるものは、実は別の何かへと変化してるだけ、ってこと?
936 :
考える名無しさん:2008/12/08(月) 22:47:15 0
(⌒─‐⌒)
((´・ω・`))
ピョン (つ┳つ ピョン
ピョン (__)||__) ピョン
⊂§⊃
§
⌒ヽ〃⌒ヽ〃
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
937 :
935:2008/12/08(月) 23:27:22 0
間違えた。
存在しないことが無。
存在しないこと(無)の否定が有。
一切は存在しないと疑い否定していくと、疑い否定すると言う思考・意識が残る。
疑い否定する観測者を我とするならば「我疑う故に我あり」。
× 存在しないこと(無)を疑い否定することで、観測者の我ありが成り立つ。
○ 存在しないこと(無)と疑い否定することで、観測者の我ありが成り立つ。
デカルトを参考にしました。
無は存在しない。一切は有で満たされている。
無くなったと認識してるものは、実は別の何かへと変化してる、だけってこと?
938 :
考える名無しさん:2008/12/09(火) 00:20:10 0
無は有るといった場合有るはメタ
939 :
考える名無しさん:2008/12/10(水) 16:10:29 O
君らはたんに、無を有にしたいだけなんだろ?
940 :
935:2008/12/10(水) 18:20:12 0
>935、937
さらに訂正。
何度もすみません。
存在しないことが無。
存在しないこと(無)の否定が有。
一切は存在しないと疑い否定していくと、疑い否定すると言う思考・意識が残る。
疑い否定する観測者を我とするならば「我疑う故に我あり」。
○ 一切は存在しないこと(無)を疑い否定することで、観測者の我ありが成り立つ。
一切は存在しないことの否定(有)であるとすることで、観測者の我ありが成り立つ。
× 一切は存在しないこと(無)と疑い否定することで、観測者の我ありが成り立つ。
これだと一切は存在しないこととすることにより、観測者の我ありが成り立つと
いうことになって変だ。
デカルトを参考にしました。
無は存在しない。一切は有で満たされている。
無くなったと認識してるものは、実は別の何かへと変化してる、だけってこと?
パルメニデスは、今あるすべては常に存在していた。無からは何も生まれない、
存在するものは何も無にはならない、と考えた。
ヘラクレイトスは、絶え間無い変化こそが自然のもともとの性格。
「すべては流れる」と考えた。
デモクリトスは、すべては目に見えないほど小さなブロックが組み合わさって出来ていて
、そのブロックの一つは永遠に変わらないにちがいない、と考えた。そしてこの一番小さな
ブロックを「原子(アトム)」と名づけた。
現代の科学は、原子はもっと小さな素粒子に分割されると言っています。
パルメニデス、ヘラクレイトス、デモクリトス
− ヨースタイン・ゴルデル・著 「ソフィーの世界」 − より引用。
無くなったものは原子や素粒子へと変化してるだけかな・・・
心や魂までも無くなるとすれば嫌だなぁー。
知らない事物が無
知ってんのは有
無はまだあるか確認されてないから見つかりゃー有に変わり、
無いままなら無でそれは人間の頭ん中にもない
人間が知らない間は無は5分5分だな
完全な無?
ポパーのいう世界1と世界3には存在するが世界2にはないらしいね
物理的対象の世界
「ドラえもん」は有か無か。
物質としてドラえもんと称されるフォルムのものはある。
また存在としても概念としても認識できる。
では「Akugohhwd」は有か無か。
ちなみに適当に打った言葉だ。概念も存在も設定すらもわからない。
不可知論に頼ることになりそうだ。
では は有か無か。
名称もない。認識もない。概念や存在どころかそれについての思惟すらできない。
言及すらできないとすれば。
有か無か?
945 :
一般人:2009/03/10(火) 12:56:20 O
無は存在しない、あるいは無は概念として存在するなどといった議論は、極めて荒唐無稽な出来の悪いフィクションと言わざるを得ない。
有が存在するなら、無もまた存在する。
今私の前に一つのりんごがある。それは存在が有として存在している。
しかし、私の横にはリンゴは無かった。つまりそれは、「無いりんご」が存在していることに他ならない。この場合、存在が無として存在する。
無が存在しないのならば、私はどうやって無の存在を知ったのだろうか?
無は存在しないことを示すのではなく、「無の内に存在するものがなにもない」ことを示す。
そのような存在が無に他ならない。
先のりんごは、無の存在を圧倒的リアリティーをもって、私に教えてくれるのである。
946 :
考える名無しさん:2009/03/10(火) 13:41:37 O
無はある。
無という「状態」があるということ。
矛盾ではない。
有の対としての無
でも無の中に有はなく、有の中に無はない
対は同時に存在するばかりではなく、同の表裏でもあり
無が消え有が生まれ、有が消え無が生まれる
だから有が在るならば無も存在を得られるはず
948 :
考える名無しさん:2009/03/11(水) 13:35:27 0
「無」という言葉の定義による
存在しないものを無と名付けるのならば、無は存在しない。
存在するものとして無を定義するならば、無は存在する。
しかしこれは文法の性質を語っただけであり、
世界そのものについて何事をも語ってはいない。
存在―非存在とは別の軸でもって「無」という言葉を定義したときにのみ、
「無は存在するのか」という命題が
世界について何事かを語りうる。
949 :
考える名無しさん:2009/03/11(水) 14:09:26 0
無を想像できること自体が無が有ることの証明になる。
無の概念を透明無色の何もない世界だと想像してしまうことがほとんどだろう。
まあ要するに無を有る無し言う前に地面や壁の無い無という空間を完全に想像すること
自体が難しいと思われ。 美術の時間に先生に「無」を描きなさいと言われたら
どうやって描く? とにかくイメージに制約はつきものだからな。 まあ無ってのは俺の持論じゃ
人間は一日中一秒コンマ留まらず思考してる訳じゃないんだから思考していない時間を無とでも思ってる
950 :
考える名無しさん:2009/03/11(水) 16:34:56 O
星も塵も
それどころか素粒子すら何一つ存在しない宇宙って
無?
無と存在を、まずは定義してくれ
話はそれからだろう
953 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 21:18:00 0
元々なかったのなら「無」を感じないはず
「無」が存在ならそれは「有」であった残留思念とでもいえるものなんじゃなかろうか?
954 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 21:20:07 0
存在(そんざい、existence)とは、この世界の多様な現象を把握するために、
一定の条件を満たした現象群を統合した呼称。
一般的にはその現象群が物理的因果関係を持つ時、その現象群は存在する、と認識される。
例えば何らかの塊に力を加えて動いた時、我々はその塊が物理的に存在すると認識する。
そして、その表面の色、模様、感触から材質が木であることが分かり、
また、形状から機能を推定することでその塊を「椅子」として認識する。
また、そのような物理的存在を過去や未来、或いは別世界に移動して想像する時にも、
その物は存在すると考えられる場合もある。
例えば、椅子を動かしたという記憶がある時、我々はその椅子がかつて存在していたと考える。
また、多世界論理では様々な世界にそれぞれ椅子が存在し、(椅子に腰掛ける時)
我々の意思がそのうちの一つを選択するという形而上学を展開する。
これらの存在感覚の底辺を成していると思われるのは「実存感」(reality)であると思われる。
955 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 21:21:57 0
無(む、无)とは、否定を一般化した表現。対義語は有。
「定義されていない(未定義)」事とは意味合いが異なる場合がある。
指す対象を取って形容詞または接頭辞として使われることが多く、
その場合は単に対象(の存在)の否定である。
1. 物事が存在しないこと。
2. 物事が、ある状態の下にないこと。
* 〜が無い。〜は無い。
* 〜では無い。
* 絶対無。 完全な無。
* 無から有は生じない。
* 彼は無能力だ。
* 無いものは無い。
956 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/20(月) 21:22:13 0 BE:3462580499-PLT(13230)
>>951 ここにいるおいらは今のおいらと何が同じで何がちがうのか・・・
957 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 21:23:19 0
「無」という場合は、有に対する無であって、相対的な概念である。絶対無とは、
思考上の産物であって、単なる概念であり、一見すると現実には存在しないように見える。
また、そもそも西洋哲学史では有の方向に重点が置かれ、
しばしば有が無を包括する絶対有の性格を帯びる(後述するように、これが神の本質である)。
無が有より軽んぜられたことは、「無」がBeingに対して常にNon-beingとしかいわれない、
という言語的な事実にその証拠を見出す事が出来る。
ただし、英語で nothingness、フランス語で neant、ドイツ語で Nichts が
「無」に相当するとする人々もいる。
一方、東洋では無をむしろ強調し、非-有(Non-being)を超えた意味合いを含ませた。
しかし、絶対無であれ絶対有であれ、両者は非常に近い事柄を指していると考えられる。
純粋な絶対有は、そのあまりの純粋さのために、無内容性を持つ。
マルティン・ハイデッガーの晩年の著作はその点を特に裏付けていた。
現代でもレヴィナスの思想などに見えるもので、
「なにものもない不在の闇に確かにある」などとして語られる。ここから分かるように、
決して両者は対立しあう概念ではなく、単にまやかしの概念ともいえない。
このことは古今東西数知れない学者が確認している事実である。
958 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/20(月) 21:25:34 0 BE:641218853-PLT(13230)
959 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 21:29:52 0
>>958 ¥Delta(x)=|¥{¥;t¥;:¥;S_{t+1}(x)¥not=S_t(x)¥}¥;|
960 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/20(月) 21:44:23 0 BE:3462580499-PLT(13230)
時刻\(t=0\)で速度\(v_0\)をもつ微粒子(ブラウン粒子)が液体中で
粘性抵抗\(-\xi v\)を受けるときの運動方程式およびその解 \(v(t)\) を求めよ。
代表的な値 \(\xi/m=2\times10^{7}(1/s)\) を用いて、
微粒子の速度が初期値の\(1/e\)になる時間 \(\tau_0\) を求めよ。
961 :
考える名無しさん:2009/04/20(月) 21:53:48 0
哲学なんて落ちこぼれがやる学問。数学者にも文学者にもなれなかった落ちこぼれ。
962 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/20(月) 22:03:32 0 BE:1923655695-PLT(13230)
落ちこぼれ・・・
なんぞ?
963 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/20(月) 22:16:29 0 BE:1496176875-PLT(13230)
有に対する無・・・
ここがちがうな・・・
有に対する非有だな・・・
964 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/20(月) 22:18:28 0 BE:2308387469-PLT(13230)
仮に無があるとしても・・・
次元が違うところにあるな・・・
965 :
アラコキ:2009/04/20(月) 22:19:27 0
非有・非無・非有無・非非有無。
966 :
アラコキ:2009/04/20(月) 22:21:26 0
有と無は相対だから同時存在だね。
有と無の論理図(ベン図)書けばわかる。
967 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/20(月) 22:22:49 0 BE:1196941474-PLT(13230)
非有・非無・非有無・非非有無。
仏教に通じるものがある・・・
968 :
アラコキ:2009/04/20(月) 22:24:31 0
仏教の四句分別を書いただけ。
969 :
Φιλοσοφ ◆d........o :2009/04/20(月) 22:34:35 0 BE:1496177257-PLT(13230)
中論 (madhyamaka kArikA)
説一切有部を代表とする実在論を否定し、世俗においては、すべての
ものは実体として認識することはできず、単に言葉によって施説されたも
のであると説く(「有」または「無」または「有無」または「非有非無」
)。勝義においては、それらすべての言語活動すら止滅する(「有」また
は「無」または「有無」または「非有非無」において、その全ての否定
)。この主張を受け継いだのが中観派である。
これかな・・・
おいら直感でわかったお^^
へたな哲学書より仏教の方が真理が書かれてる・・・
971 :
アラコキ:2009/04/21(火) 08:29:16 0
自作自演じゃないっす。
こんなん出たね。
「入門 哲学としての仏教」(講談社現代新書1988 竹村牧男著)
:縁起・無我・空・唯識ー近代合理主義を超える思想の本質とは
今こそ仏教を読み直す!
だとさ。
972 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 01:49:34 0
なにもないという状態はある。
存在すると言えるのか?
「なにもない」という状態が無かったとします。
「なにかある」とは全く言えない状況が「なにもない」とすれば
どんなに「ないもん、ほんとだもん」と言い張っても
必ずなにかあるのだからしかたないもんね、となるわけです。
「じゃぁ、なにがあるのだ」と聞いても「うーん、なにがあるんですかね?」となります。
このような具合に不明朗な状況になるので「有るようで、無いようで」を限りなく純化していく。
で「さまざまな有り様」は有るけれど「さまざまな無い様」はなさそうなので、
どうやら「無い」は一点に収束することが予測されるが、定かではない。
このように感じます。
973 :
アラコキ:2009/04/22(水) 08:19:33 0
ないはない。
あるはある。
これらは論理的に正しい命題だね。
でも「ないはある」は矛盾だから
論理的に間違った命題だ。
古典論理では「矛盾すること」を「存在しない」
とする。
だから「ないはある」は存在しない。
QED
974 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 08:35:17 O
存在も存在しない
その存在は何だ?
分からん
人間の脳では追い付けない
975 :
アラコキ:2009/04/22(水) 08:54:20 0
「存在とは矛盾が無いこと」と古典論理ではしている。
古典論理ではと断るのは矛盾を許容する論理もあるから。
「矛盾が無いことは矛盾が無いことではない」ならやはり
矛盾だろ。だから存在しない。はて?
976 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 09:20:53 O
アラコキさん
好きな音楽はなんですか?
977 :
アラコキ:2009/04/22(水) 11:47:42 O
音楽はなんでも好きだが強いて言えば演歌かな。演歌は人生だ。縁起にも通じる。
978 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 14:49:08 0
詭弁を言う奴は一番本人が理解していない、
だって本人が無意識でそれを認知しているから、そういうずばりな
ことを言われればムカって感情を起伏させるのがその証拠なんだよな。
979 :
考える名無しさん:2009/04/22(水) 14:56:49 O
何を言ってんだ
981 :
考える名無しさん:
私は服を持ってない。
だから服を待ちまで買いに行く。
でも服を着てないと街を出歩けず、結局服が買えない。
あっネットで注文!
こんなふうに止揚できればいいな。