◆決定論:脳は物質だから意識は必然に過ぎない88◆

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507素人
>>486
彼の意図がどこにあるかはわかりませんが、
最高位の(警察・検察の強引な証拠固め及び提訴のようなw)断定に
異議を唱える者はこのスレに多い。私も当然そう思う。
おおこりゃこりゃさんの主張も、本筋は「即断・拙速だろ?」というものだろうと思われます。

ただ私の場合は、彼の断定が主となっているわけではありません。
(唯物論がどうなろうと知ったことじゃありませんからw)
「私」「私」と連呼されるその「私」が、
(ムクドリの群のシルエットのようなw、或いは小魚の群れのシルエットのようなw)
3時1時風に言えば「仮設されたもの」ではないのか?というものです。
「私」が無いわけではない。が、その「在り様」は、純粋・固定的なものではないであろう、・・・と。

この時、その「私」を、【総体として】
『生命(いのち)』という捉え方をするか、『(ただ)在るもの』という素朴な捉え方をするか、
『世界というグラデーションの(切り取られた)一部』と捉えるか、
『世界と断絶された、(水面に浮かぶ油の一滴のような)孤高の存在』と見るか、
方向性は色々出てくるでしょうが、『個別の、唯一のもの』であることは論を待ちません。
(普遍的集合としての括りは、また別の話となりましょう。)
少なくとも、永遠不変の固定的存在という見方には、異を唱えたい。

あと、他の方へも言いたいことではあるが、『静的に一瞬を切り取ったものを対象化することは、
対象を常に名詞として(静止した実体として)捉えることと容易に同義となる』わけで、
気をつけなきゃならないのでは?・・・と。(→それが人間の認識として可能かどうかは判りませんが・・・w)
また、『動き・働き(動詞)には必ず、【それとは別の】主体(主語)がある筈だ』というのも、
先入観に過ぎないのでは?・・・と。

以前にも書いたかもしれませんが、
『この世には「動き」しかない』のではなかろうか?・・・と。
『必要に応じて、都度、任意に最小単位を設定し境目を設けている』だけではないか?・・・と。