ニーチェ セ

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219195
>>217
>ニヒリズムには受動的なものと能動的なものとがある。
>一つは打ちひしがれたペシミスティックなもの。
>もう一つは征服(克服)しきった障害(苦難)を足元に蔑視する勝ち誇ったもの。
>これはさらに上を目指すがゆえに以前の苦難を鼻にもかけない状態のことである。
>ニーチェの目指すものは当然後者であり、それは価値転換をなぜ成さねばならないのか
>という起因につながる。彼は「その次」を目指したのである。

かつてはあなたのように、能動的ニヒリズムがニーチェ自身の立場だと考えた人が
多かったのですが、能動的ニヒリズムは「強さの一つの徴候」ではあるけれども、
それはニーチェ自身の積極的な主張ではないと思われます。
ニーチェが「強者」と「弱者」という単純な二分法で語る場合、
「強者」がそのままニーチェ自身の立場を表しているわけではないのと同じです。

ニーチェは「ニヒリズム」という語を大きく分けて3つの意味で使っています。
(1)彼岸世界への信仰(つまりプラトニズム)そのものが「ニヒリズム」であるという用法。
用例はたとえば「キリスト教は最も深い意味においてニヒリズム的である」(この人を見よ)。
(2)プラトニズムの帰結として「ニヒリズム」が生じるという用法。
これは「神の死」というヨーロッパの歴史的出来事として生じたニヒリズム。
(3)プラトニズムの否認としての「ニヒリズム」。
そしてこれがニーチェが自己自身の立場として認めたニヒリズム。
220195:2007/03/27(火) 11:17:57
これら3つの用法では、ニヒリズムが生じる前提はそれぞれ異なっているけれども、
これらの用法に共通する意味がある。それは、ニヒリズムという語が、
現実世界の無意味・無価値を意味しているということ。
(1)彼岸世界が善き世界とみなされ、あらゆる価値が彼岸世界に移されることによって、
現実世界が無意味化・無価値化される(これはニーチェの視点から見て)。
(2)しかし彼岸世界への信仰によって、人々は生きる意味を与えられていたのだから、
彼岸世界から現実世界に意味と価値が付与されていたわけであり、その意味と価値が
「神の死」とともに抜き去られることで、現実世界が無意味で無価値に見えてくる。
(3)(2)の意味でのニヒリズムを、その極限まで 押し進めることによって、
ニーチェはニヒリズムの自己超克をもたらす。
「この『無駄だ!』というのが現代のニヒリズムの性格である。・・・
目標も目的もない『無駄』の持続というのは、もっともげんなりさせる思想である。・・・
この思想をその最も恐ろしい形で考えてみよう。あるがままの生存、無意味で無目標、
だが不可避的に回帰し、無への終末もない。すなわち『永劫回帰』。
これがニヒリズムの最も極端な形である」(遺稿)。

ニーチェが「ヨーロッパの最初の完全なニヒリスト」として自認したニヒリズムは、
この(3)の意味でのニヒリズムです。
「あるがままの生存」は、彼岸という究極目的を持たない。それゆえ彼岸から
付与されていた意味も持たない。「無意味なものが永遠に回帰する」『永劫回帰』、
この「ニヒリズムの最も極端な形」は、プラトニズムの否認としてのニヒリズムです。

「受動的ニヒリズム」と「能動的ニヒリズム」は、上の3つの分類とは異なり、
精神の力の強さと弱さという観点から分類されたものですが、両者は共に、
(2)の意味でのニヒリズムに含まれます。