>>217 >ニヒリズムには受動的なものと能動的なものとがある。
>一つは打ちひしがれたペシミスティックなもの。
>もう一つは征服(克服)しきった障害(苦難)を足元に蔑視する勝ち誇ったもの。
>これはさらに上を目指すがゆえに以前の苦難を鼻にもかけない状態のことである。
>ニーチェの目指すものは当然後者であり、それは価値転換をなぜ成さねばならないのか
>という起因につながる。彼は「その次」を目指したのである。
かつてはあなたのように、能動的ニヒリズムがニーチェ自身の立場だと考えた人が
多かったのですが、能動的ニヒリズムは「強さの一つの徴候」ではあるけれども、
それはニーチェ自身の積極的な主張ではないと思われます。
ニーチェが「強者」と「弱者」という単純な二分法で語る場合、
「強者」がそのままニーチェ自身の立場を表しているわけではないのと同じです。
ニーチェは「ニヒリズム」という語を大きく分けて3つの意味で使っています。
(1)彼岸世界への信仰(つまりプラトニズム)そのものが「ニヒリズム」であるという用法。
用例はたとえば「キリスト教は最も深い意味においてニヒリズム的である」(この人を見よ)。
(2)プラトニズムの帰結として「ニヒリズム」が生じるという用法。
これは「神の死」というヨーロッパの歴史的出来事として生じたニヒリズム。
(3)プラトニズムの否認としての「ニヒリズム」。
そしてこれがニーチェが自己自身の立場として認めたニヒリズム。