★ラカンと愉快な仲間たち セミネールW★

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79第三の波平 ◆V8RGN/F1uY
■ラカン的ネットコミュニケーションの可能性

<コミュニケーションにおいて純粋なメタ位置は存在しない>

精神分析と心理学の違いは、それまでの物理学と量子力学の違いに似ている。従来の物理学が対象
を客観的な位置から観察するという科学的理念を実現するのに対して、量子力学の不確定性原理が
示したことは、観察そのものが対象に影響を与えてしまい、客観的な位置を保つことが難しいことを明ら
かにしたことである。

心理学では科学的理念が目指され、いかに人間という対象を客観的に観察するかが問題になる。そこ
から行動心理学のように曖昧な内面でなく、客観的に観察しやすい行動を研究するような方法が生ま
れる。精神分析では、医者が対象(患者)を観察するというような客観的な位置は存在しないことに自覚
的であり、その上でいかに治療は可能かが大きな問題となる。治療の場とは、すでに医者も巻き込んだ
場として形成され、対象(患者)は観察者の影響を受ける。この場の形成こそがコミュニケーションであ
る。精神分析に限らず、コミュニケーションにおいて純粋なメタ位置は存在しない。
80第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/28(水) 16:39:57
<想像的な愛憎と象徴的な役割>

さらに精神分析が示したのは、このすでに巻き込まれるコミュニケーションがとても緊張をはらんだもの
であるということだ。そこでは他者は私であり、私は他者であるという所有権の問題がおこる。これが良
好ならば他者への愛であるが、それはまた憎しみと同じものである。

しかしこのような愛憎の「想像的な関係」だけでは、社会的な生産活動がむずかしくなる。このために
「超自我」という規律により「想像的な関係」は調停される。すなわちみななんらかの社会的役割を演じ
ることで、規律ある社会関係が営まれる。たとえば親と子、彼と彼女でさえ一つの役割である。その他、
父、母、子、恋人、友達、先生、生徒、上司、部下など。

この「象徴的な」作用の影響は、子供が言葉を習得することで獲得するというように深く作用している。
だから純粋に「想像的な関係」は言葉を獲得する前の生まれたばかりの母子のようなところにしかな
い。しかし社会においても、他者へ向かおうとする「想像的な」力は、「象徴的な関係」に抑圧される形で
たえず強力に働いている。
81第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/28(水) 16:40:48
<ネットコミュニケーションは想像的闘争にいたる>

ネット上のコミュニケーションも想像的な関係と象徴的な関係のバランスで成立している。とくにネットは
匿名であるということで、社会的役割から解放されるなど、「象徴的な」抑圧が働きにくく、愛憎という想
像的な力が浮上する。ネットコミュニケーションがどこのだれかわからない匿名同士の短期的な関係に
かかわらず、実社会の関係よりも身近なものに感じるのはこのためである。

またそれは炎上のように愛憎の闘争関係に向かいやすいことをしめす。そしてこのような闘争関係はど
ちらが正しい(意見を持つ)という所有権の問題として現れる。その想像的な所有権とは、私を形成する
一部、肉と血であるために、プライドをかけた引くに引けない感情的なものとなる。
82第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/28(水) 16:41:24
<ネット上のコミュニケーションはほんとうに成立しているか>

さらにネットにおいて想像的な関係が浮上しやすい背景としては、相手のことを良く知らず、その場も共
有されていないところで、テキストのみを交換するという極限的なコミュニケーション条件がある。言葉
の意味とはその場の状況(コンテクスト)と切り離しては生まれない。たとえば「馬鹿!」という言葉は、
怒っている親か、友達の雑談かなど、どのような状況で発話されたかで、大きく意味が違う。さらにいえ
ば、それでも言ったものと聞いたものとでは同じ意味を共有するとは限らない。冗談での愛のある「馬
鹿!」が、相手には蔑視で取られることは避けられない。

だからむしろネットにおいて、良く知らない相手とテキストのみの交換でコミュニケーションが成立してい
ることが驚きであるし、本当にコミュニケーションが成立しているか、かなり怪しい。受け手は耐えず、勝
手に意味を読み込んで理解し、お互いにコミュニケーションが成立しているように気になっているだけで
あると考えた方がよい。

<想像的な関係こそがネットコミュニケーションの魅力である>

しかしこのような想像的な関係こそが人々がネットコミュニケーションに向かわせるものである。社会的
な抑圧からの解放、すれ違うことで伝わらない故に伝えたいと熱くなる。ここに人々を魅了するネットコ
ミュニケーションのおもしろさがある。ただ冷静に事実を述べあう議論はないし、議論の結果、明確な答
えに到達する議論もない。そこにはどこにもいきつかず堂々巡りの中でコミュニケーションそのものを楽
しむ「想像的な関係」の成立があり、だからこそ容易に闘争関係に転倒する。