1 :
考える名無しさん:
愛国や愛社などという実体の無いものに
傾倒するのは愚の極みだとということは
少し考えればすぐわかるであろうに。
2 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:09:11
す〜き〜や〜 お〜さ〜か〜♪
あいらびゅ お〜さ〜か〜♪
3 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:11:54
>>1 低次元の唯物論者のようだね。
もう少し勉強してから出直しておいで。
4 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:16:32
さて、ここで「大阪」を定義してみよう。
「大阪」とはただ、関西弁を使用する一地方都市だと思われる。
だから「大阪」への大阪人といわれる者が持つ愛着とは
関西弁を使う者同士の集団意識にほかならなく、
これにより他者への優越感を持つのであれば
それは根拠のない思い込みとしか言いようがない。
5 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:17:43
6 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:21:03
>>4 大阪の土地や文化に愛着があるのよん。
なにより郷里であることに愛着があるのよん。
7 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:29:04
さて、愛着とは何か?
辞書によるとそれは
「対象を追い求めること。むさぼりの心をもって、物にとらわれること。渇愛。」
とある。
すなわち、「大阪への愛着」とじゃ自分の中の「大阪」という概念を
追い求める状態。と定義できる。
そしてそれ(大阪)は自分の概念とは別に変わり続けるのだから
「大阪」を愛するという状態は虚しい、実質、内容が無い状態だと
言わざるをえない。
8 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:35:15
>>7 >大阪の土地や文化に愛着があるのよん。
>なにより郷里であることに愛着があるのよん。
こんなのを「大阪」という単語としてシンボル化してるだけなのよん。
とおちゃんもかあちゃんも単語だけじゃ愛着はわかない。
>1
「実体」ってなんだね。機械しか信じないということか。
大阪に来るとだね、明らかに東京と違う。京都でもよい。広島でもよい。
11 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:49:09
さて、とおちゃん、かあちゃんとは
会話し、触れ合い、理解し合うことが可能だが
「大阪」と会話することは可能だろうか?
それは無論不可能である。
もし「愛着」という言葉を大阪に住んでいる自分の知人に
向けて発しているのであれば、それは
必然的に「大阪」ではなくその人「個人」を愛していることになる。
この様に実体のないものに愛着するというのは
ただの自分勝手な執着にすぎず、その対象からは何も返ってこない
まこと独り善がりな思い込みだと帰結される。
広島には平和祈念公園がある。原爆も落ちた街なわけだ。
街の雰囲気は言語化できないから、バカな知識人の発言の方が
正しく見えるだけだ。
13 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:53:44
では、次に大阪への愛着という言葉の対象が人ではなく土地だったと
しよう。
自分に所有権もない土地に愛着するというのは、
行為としては構わないが、やはり虚しいと言わざるをえない。
14 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:53:53
>>11 >大阪の土地や文化に愛着があるのよん。
>なにより郷里であることに愛着があるのよん。
その、とおちゃんとかあちゃんが「大阪」にいるのよん
郷里に帰ると、ああ、なつかしい、とならないか?
「大阪」には郷愁の感情もあるのだよ
>11
まっさらの「個人」なんていない。なんらかの文化や歴史を背負った
個人がいるだけだ。
16 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:57:54
>>13 >自分に所有権もない土地に愛着するというのは、
>行為としては構わないが、やはり虚しいと言わざるをえない。
そう?
>郷里に帰ると、ああ、なつかしい、とならないか?
>「大阪」には郷愁の感情もあるのだよ
ノスタルジーってないかな?
17 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 03:59:50
さて、ここまででわかったことは
自分の所有物や知人といった自分の周囲にあるものを、
自分がはっきりと認識できない範囲まで拡げ、
むやみに拡大し、実は他人の持ち物や自分の見たことも無い人物まで
含めて愛するという行為がどれだけ無意味な行為なのかということが
理解できる。
18 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 04:05:04
家に引き篭ったままで、思い出が何もない者には無意味だろう。
19 :
訂正:2007/02/03(土) 04:08:09
>思い出
土地の思い出
20 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 04:15:35
では、なつかしみや思い出とは何なのか?
それは自分の記憶であり記憶に残る風景とそこにでてくる登場人物を
思う気持ちと定義できる。
そしてはその記憶の中の風景になつかしみは感じても、
愛着を持つとは一体どういうことだろうか?
それはこう言い換えることが出来よう。
「記憶に愛着するとは過去をなつかしむ思いである。
そしてそれはそれ以上でも以下でもないのであるから、
それに傾倒し、何らかの犠牲を払ってももたらされる結果は
何も無い。としか言いようが無い。」
と。
>20
出身地に恨みでもあるの?カラッポの自分の方が正しいと言い張ったって
何も得るものがない。価値相対主義の末路か。それが「虚しい」と
いうことだ。
22 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 04:23:27
親元から離れ住めば親も記憶にしかいないな。
記憶の中の親を思ったりすることはある。
キミにはそういった経験がないだけだろう。
部屋に引き篭って親に食わせて貰ってる人間が言い出しそうなことだ。
23 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 04:24:06
機械的唯物論者といい、2chにはそういう人が多いねえ。
25 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 04:25:26
>>21 何をのたまっているのか意味不明なんだが。
>>22 それは思い出ではなく、親に対する愛着でしょう。
>25
「親」も「家族」も実体がない。親元を離れれば目の前から消え去る。
「実体」ってなんだね。実体しか信じないとかぬかして。
27 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 04:39:05
>>26 実体とは現に存在するもの。
物体、そして私。
それを「実体」と定義できるだろう。
どうやら君は愛着と思い出を混同している。
28 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 04:42:31
>愛国や愛社などという実体の無いものに
キミも混同している。
愛着も思い出も実体がない。
親への愛着も無意味になる。
29 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 04:47:25
付け加えると、こうなると人間おしまいだな。
30 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 10:06:45
個人で考えたら個人主義ということになるかなぁ
全体として見るとお互いに足を引っ張りまくるようになるから微妙な気がする
31 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 10:23:46
愛着とは、すべからく、「所属への欲求」でしょう。
思い出や記憶といった個別具体的な存在でさえも、
(実際にそれらと関っているかどうかは別として)
場所や記憶と関わりたい、(自己がそこに)存在していたい、
という本能的な欲求の顕われだと思います。
32 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 10:38:59
イデオロギーの優劣は何で測られるものなのか。
例えば、車なら、加速性とか最高速度とか燃費とか、
食用肉なら、柔らかさとか、霜降りとか、
さまざまな判断基準があるだろう。
33 :
考える名無しさん:2007/02/03(土) 13:31:28
>>28 だから懐かしい思い出に愛着を持つという
実体の無いもの同士を結び付けても何も得る所がないと何度いえばわかるのやら。
>>30 その点についてはそう思うだろう。
しかし統制経済よりも自由経済の方がはるかに上手く機能するように
個々人が自由に思うように生きても、一見バラバラになるようでも
案外上手くいくものなのだよ。
人から記憶をとったらなんにも残んないと思うけどな
実体のあるものにしか愛着をもてないのだろうか?
直接的にはエサを与えて育ててくれた親に愛着をもってるというお話なのかな
機械に人工飼育されれば、その機械に愛着をもつのだろうね
ひなが機械をインプリンティングしてるように
両端の全称量化記号が気になる。
実体がないものは自己証明の欲求なのだよ。
この欲求は実体ではなくて実態のない観念を求め始める。
人間が実体である衣服を着用するのと同じように
人間は実体のない観念という衣服を着用する。
実体のないものをまず着用するのだよ。
37 :
考える名無しさん:2007/03/11(日) 01:37:57
ageるよ
38 :
考える名無しさん:2007/03/11(日) 01:51:20
プ
39 :
考える名無しさん:2007/03/11(日) 09:07:05
40 :
考える名無しさん:
もしくは自分達(売国なりすまし)の安全保障と考えてるかだ。