1 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :
2006/11/01(水) 20:08:09
2 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/01(水) 20:12:01
■なぜGoogleは2ちゃんねるを買収しないのか 数式→言語→シミュレーション 近代化におけるテクノロジーの方法論として、現象を単純な法則に還元し、さらには近似的な数式 で数学、方程式による基礎がある。古典物理学で特徴的なこのような傾向は、20世紀に限界に突 き当たる。 還元が困難な曖昧なものは、言語によって表現することになる。言語においても、論理実証主義な どのように、還元主義化は進んだが、本質的には挫折し、言葉における表現は、曖昧故に有用な記 述方法であるともいえる。 次にコンピューターの発展による繰り返し計算の高速化、低コスト化によって、より複雑な現象を、 計算によってシミュレートできるようになった。たとえば進化などの言語でしか記述できなかった複雑 な現象も、ある簡易的なモデルにおいては、計算することが可能になっている。
3 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/01(水) 20:12:37
功利主義→構造主義(記号消費)→システム論(マーケティング) このような大きな潮流は、社会に様々な影響を与えているだろう。たとえば消費について考えると、 貧しければ、衣食住というようにほしいものは明確である。そこでは人間は経済学的に、功利主義 的に振るまうと考えられる。 しかし物質的に豊かな消費社会になると、このような法則にあわなくなる。価値は多様化し、欲望は 複雑になる。このような状況を示したのが、ボードリヤールのいう記号消費である。言語のように差 異として商品を消費する。多の商品との違いにこそ意味(価値)が生まれ、欲望される。その中でオ リジナル(使用価値)不在の、コピー品だけのハイパーリアルな世界が現れるということだ。これはあ る意味で、言語のもつ曖昧さ、シニフィアンの恣意性を元にしている。 しかし現代では必ずしも、イメージとしての商品を求めることから、進んでいる。マクドナルド化にお いては、マクドナルドという記号を消費することよりも、マーケティングによるシミュレーションされた 効率化によって、消費者が求めるものを安く、迅速に提供する、コンビニなどのシステムが進んでい る。そこにいけば、「とりあえず」そこそこのものが手に入るという便利さがある。 実際には、ブランド品は相変わらずよく売れ、記号消費のようなものと、「とりあえず」買うマクドナル ド化されたものと、二極化しているといえるだろう。
4 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/01(水) 20:13:10
シミュレーションの限界 最近は、このようなマクドナルド化につづいてグーグル化と言われる。マクドナルドによる「とりあえ ず」なナビゲーションを、アマゾンの「あなたへのアドバイス」というように、より大量の情報を処理す ることで、的確なナビゲーションを行おうというものである。 しかしシミュレーションの問題は、ダイナミズムを扱えないということだ。結局、シミュレーションは初 期設定内にしか変化せず、予想外の動きを予測することはできない。どんなに的確なナビゲーショ ンが行われたも、人は自分でも予測しなかったようなものを提案してもらうことを、求めているのだ。 記号消費を求める欲望は、シミュレーションによって決してナビゲートされないようなナビゲートを求 めているといえる。
5 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/01(水) 20:15:18
シミュレーション→コミュニケーション(Web2.0) このような「ナビゲートされないようなナビゲート」する方法として、注目されているのが、Web2.0だろう。 たとえば今知りたい情報を提供するとき、その道のプロの感、すなわち言葉でよいかもしれないが、 多くにおいて根拠なく記号的になる。あるいはマーケティングによりシミュレーションすることも可能だ ろう。しかしネットで起こっているのはまさにコミュニケーションによって、自律的に知りたい情報が立 ち上がる現場である。 たとえば2ちゃんねる、ブログ界隈で知りたい人々が集まり、話題が飛びかう。このようなダイナミズ ムをサービスとして、商品化するために、適度に管理、整備された場を提供するのが、Web2.0の一 つのあり方である。 2ちゃんねるはWeb2.0か。2ちゃんねるはまったくの無法地帯ではないが、管理度は低い。サービス としては質が悪いか、その自由度とダイナミズムが魅力である。ミクシィは管理度が高く、サービス の質がよい。 最近、メーカーのSNSができたしているが、単なるマーケティング調査でなく、場においてコミュニ ケーションを楽しむ中で次のブームを作っていくということだ。現に2ちゃんねるのニュースサイトの 反響は世論の一部としてマスメディアなどを経由し、社会に影響を与えている。このような社会的な 影響というダイナミズムを管理することに目的がある。
6 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/01(水) 20:15:54
GoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」
話題のGoogleによるYouTube買収は、動画コミュニケーションという新たに育ちつつある場を買った
のである。そして質の悪い場を、整備し管理し治すことになるのだろう。その質の悪さの一番は著作
権の確信犯的な放置である。
しかしYouTube買収問題の本質は単に著作権問題をどう処理するかでなく、確信犯的に放置した著
作権問題によって、生まれていたダイナミズムは維持され続けるのか、ということだろう。さっそく、
人々が離れていくということが起こっている。
>>
「YouTubeの成長停滞は一時のもの」--ネットレイティングス 2006/11/01 13:47
ネットレイティングスは11月1日、YouTubeの米国での利用者数が9月に入り大幅に減少したことを発
表した。ネットレイティングスによると、YouTubeは2005年10月以降、順調に月間の利用者数を増や
してきたが、Googleによる買収が発表された9月に、初のマイナス成長となった。
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20296988,00.htm <<
たとえば2ちゃんねるをグーグルが買収すると、大きな反発を買うだろう。そして2ちゃねらーは離れ
ていくのではないだろうか。ここには、「のま猫問題」の時と同じ問題がある。なにかが失われるのである。
「ケツ毛バーガー事件」がこれほど反響を呼んだのは、mixiが上場し、高額な値がついたこととも関
係するのではないだろうか。mixiが売り払われ、なにかが失われたことへの反発として、あの事件は
盛り上がったのだ。
7 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/01(水) 20:29:41
心身二元論の二重螺旋運動 数式法則(数字)→言語→シミュレーション(数字)→コミュニケーション(言語)の流れは、数字と言 葉の相補的な追い掛け合いのようにでもある。将来、人口知能などの技術革新によりダイナミズム が計算予測されれば、コミュニケーションのような曖昧なものに頼る必要はなくなるかもしれない。 しかしこの追いかけ合いが終わるときとは、人間が数字に完全に還元されたときであるが、人のゲノ ムが解読さ]れても、人間そのものは還元されない。これは心身二元論的な終わりなき二重螺旋運 動なのである。 記号消費という終わりなき運動、決してシミュレーションでナビゲートされず、Web2.0から逃れ続ける 終わりなきコミュニケーション。ここにあるのは、シミュレーションによってナビゲートされる「とりあえ ず」充足する「身体」に対して、差異化し続ける「心」である。それは「私とはだれでもない私」であると いう欲望である。すなわちGoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」とは、「私とはだれ でもない私」がGoogleによって管理されることへの反発である。
8 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/01(水) 20:45:29
Web2.0は帰属意識によって支えられる。
しかし2ちゃんねるでも、mixiでも管理は存在する。すなわちそこにあるのは、その場への帰属意識
であり、信頼である。「私とはだれでもない私」とは他者との関係、コミュニケーションによる差異化に
よってしか、実感できない。そして差異化運動は、強い帰属意識によって生まれる。
>>
だから情報化社会の「選択のインフレーション」でまず重要な選択は、何が「重要なこと」で、何が「重
要でないこと」かの選択です。
情報化社会において、ほとんど多くのことは「重要でないこと」に分類され、社会の「マクドナルド化」
によって、ナビゲートされるままに任せて、「とりあえず」満足することを求めます。そして多くの選択
を「重要でないこと」とするのは、一部の「ゆずれない」「重要なこと」に労力を割くためです。たとえば
父親なら仕事であったり、母親なら家族であったり、子供ならばオタク的趣味であったり、自らのアイ
デンティティを支えるものです。
「なぜ映画はおもしろくないのか」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061028 <<
9 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 00:36:46
■なぜWeb2.0にとって信頼が重要なのか 数式→言語→シミュレーション 近代化におけるテクノロジーの方法論では、古典物理学で特徴的なように、現象を単純な法則に還 元し、近似的な数式化することに基礎がある。 しかし数式への還元が困難な曖昧なものは、言語によって表現することになる。言語においても、論 理実証主義などのように、還元主義化は進んだが、本質的に言葉における表現は、曖昧故に有用 な記述方法であるともいえる。 次にコンピューターの発展による繰り返し計算の高速化、低コスト化によって、より複雑な現象を、 計算によってシミュレートできるようになった。たとえば気象や進化などの言語でしか記述できなかっ た複雑な現象も、ある簡易的なモデルにおいては、計算することが可能になっている。 ハードの発達と並行して、数式→言語→シミュレーションへの流れがあり、社会に様々な影響を与え ている。
10 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 00:37:51
功利主義→構造主義(記号消費)→功利主義的統計学(マーケティング) たとえば消費について考えると、貧しければ、衣食住というようにほしいものは明確である。そこで は人間は経済学的に、功利主義的に振るまうと考えられる。しかし物質的に豊かな消費社会になる と、このような法則にあわなくなる。価値は多様化し、欲望は複雑になる。 このような状況を示したのが、ボードリヤールのいう記号消費である。言語のように差異として商品 を消費する。多くの商品との違いにこそ意味(価値)が生まれ、欲望される。その中でオリジナル(使 用価値)不在の、コピー品だけのハイパーリアルな世界が現れるということだ。このような特性を可 能にしているのが、言語のもつ曖昧さ、シニフィアンの恣意性である。 しかし現代ではこのようなイメージとしての商品を求めることから、マクドナルド化している。マクドナ ルドでは記号を消費することよりも、マーケティング(シミュレーション)による効率化によって、消費 者が求めるものを安く、迅速に提供する。コンビニなどそこにいけば、「とりあえず」そこそこのものが 手に入るという便利さがある。 「ゆずれない」を求めた記号消費の典型であるブランド品は相変わらずよく売れ、「とりあえず」買う マクドナルド化も進んでいる。これらは二極化しているといえるだろう。
11 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 00:38:31
>>
情報化社会においては、ボクたちは様々な情報に溢れています。様々な選択を与えられ、自由度が
広がります。しかしこれは逆には、様々な選択を強いられる「選択のインフレーション」が起こります。
ひとつひとつ、選択していくことは苦痛です。だから自分に変わってナビゲートしてもらえるサービス
はとても有用です。「マクドナルド化」はボクたちがなにをすべきかを提供してくれるのです。
「とりあえず」マクドナルドへ言っておけば、「とりあえず」ファミレスへいっておけば、「とりあえず」ディ
スニーランドへいっておけば、「とりあえず」トップ10の映画に言っておけば、ある程度の商品が提供
されるだろう、ということです。
ここで重要なことは、人は情報化社会の中で、ただマスメディアにナビゲートされる「とりあえず」な受
動的存在だけではないということです。そこに満足することはできないだけでなく、「とりあえず」を支
えるのは「ゆずれない」ことの存在です。
「なぜ映画はおもしろくないのか」
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061028 <<
12 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 00:39:15
シミュレーションの限界 最近は、このようなマクドナルド化につづいてグーグル化と言われる。マクドナルドによる「とりあえ ず」なナビゲーションから、アマゾンでは「あわせて買いたい」、「この商品を買った人はこんな商品も 買っています」というようなナビゲーションが行われる。より大量の情報を処理することで、的確なナ ビゲーションを行おうというものである。 しかしグーグル化によるナビゲーションは、大量の情報、シミュレーション技術の向上を目指すもの ではない。シミュレーションは処理能力が向上しても、予想外の動きを予測することはできない。どん なに的確なナビゲーションが行われても、人は自分でも予測しなかったようなものを提案してもらうこ と、シミュレーションによって決してナビゲートされないようなナビゲートを求めているといえる。 このような「ナビゲートされないようなナビゲート」をする方法として、注目されているのが、Web2.0だ ろう。
13 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 00:40:00
数式→言語→シミュレーション→コミュニケーション(Web2.0) 知りたい情報を入手するとき、マスメディアによってプロの言葉を聞くのもいいだろう。あるいはマー ケティングによりシミュレーションされた結果を提供されることも可能だろう。しかしネットで起こってい るのは、まさにコミュニケーションによって、知りたい情報が自律的に立ち上がる「現場」である。 たとえば2ちゃんねる、ブログ界隈で知りたい人々が集まり、情報が飛びかう。小さな管理によって 整備された場を提供することで、このようなダイナミズムを生み出すのが、Web2.0の一つのあり方で ある。2ちゃんねるはWeb2.0か。2ちゃんねるはまったくの無法地帯ではないが、管理度は低い。 サービスとしては質が悪いか、その自由度とダイナミズムが魅力である。ミクシィは管理度が高く、 サービスの質がよい。 最近、車メーカーなどのSNSができたりしているが、単なるマーケティング調査でなく、場においてコ ミュニケーションを活性化する中、次のブームを作っていくということだ。たとえば2ちゃんねるの ニュースサイトの反響は世論の一部としてマスメディアなどを経由し、社会に影響を与えている。 ユーザーを単にナビゲートされるのでなく、ダイナミズムの一部として巻き込んでいる。そこでは「ナ ビゲートされないようなナビゲート」、予測されないようなナビゲートが起こる可能性がある。
14 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 00:40:55
GoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」
話題のGoogleによるYouTube買収は、動画コミュニケーションという新たに育ちつつある場を買った
のである。そしてGoogleは質の悪い場を、整備し管理し治すことになるのだろう。その質の悪さの一
番は著作権の確信犯的な放置である。
しかしYouTube買収問題の本質は単に著作権問題をどう処理するかでなく、確信犯的に放置した著
作権問題によって、生まれていたダイナミズムは維持され続けるのか、ということだろう。さっそく、
人々が離れていくということが起こっている。
>>
「YouTubeの成長停滞は一時のもの」
ネットレイティングスは11月1日、YouTubeの米国での利用者数が9月に入り大幅に減少したことを発
表した。ネットレイティングスによると、YouTubeは2005年10月以降、順調に月間の利用者数を増や
してきたが、Googleによる買収が発表された9月に、初のマイナス成長となった。
http://japan.cnet.com/news/media/story/0,2000056023,20296988,00.htm <<
たとえば2ちゃんねるをGoogleが買収すると、大きな反発を買うだろう。そして2ちゃねらーは離れて
いくのではないだろうか。ここには、「のま猫問題」の時と同じ問題がある。なにかが失われるのである。
また「ケツ毛バーガー事件」がこれほど反響を呼んだのは、mixiが上場し、高額な値がついたタイミ
ングと関係するのではないだろうか。mixiが売り払われ、なにかが失われたことへの反発として、あ
の事件は盛り上がったのだ。
15 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 00:41:59
Web2.0は場への信頼によって支えられる
記号消費という終わりなき運動、決してシミュレーションでナビゲートされず、終わりなきコミュニケー
ションの中からすくい取ろうとするWeb2.0という試み。
これらにあるのは、シミュレーションによってナビゲートされる「とりあえず」充足する「身体」に対し
て、「ゆずれない」差異化し続ける「心」である。それは「私とはだれでもない私」であるという欲望で
ある。すなわちGoogleによるYouTube買収によって失われた「なにか」とは、「私とはだれでもない
私」がGoogleによって管理されることへの反発である。
しかし2ちゃんねるでも、mixiでも管理は存在する。問題は管理そのものでなく、その場への帰属意
識であり、信頼である。「私とはだれでもない私」とは他者との関係、コミュニケーションによる差異化
によってしか、実感できない。そして差異化運動は、強い帰属意識、場への信頼の中で生まれる。
決して、貨幣価値に還元されない信頼である。そして信頼とは受動的に与えられるものではなく、主
導的に場をともに作っている実感によって作られる。
>>
だから情報化社会の「選択のインフレーション」でまず重要な選択は、何が「重要なこと」で、何が「重
要でないこと」かの選択です。
情報化社会において、ほとんど多くのことは「重要でないこと」に分類され、社会の「マクドナルド化」
によって、ナビゲートされるままに任せて、「とりあえず」満足することを求めます。そして多くの選択
を「重要でないこと」とするのは、一部の「ゆずれない」「重要なこと」に労力を割くためです。たとえば
父親なら仕事であったり、母親なら家族であったり、子供ならばオタク的趣味であったり、自らのアイ
デンティティを支えるものです。
「なぜ映画はおもしろくないのか」
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061028 <<
16 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 00:42:31
心身二元論の二重螺旋運動 数式法則(数字)→言語→シミュレーション(数字)→コミュニケーション(言語)の流れは、数字と言 葉の相補的な追い掛け合いのようにでもある。将来、人口知能などの技術革新によりダイナミズム が計算予測されれば、コミュニケーションのような曖昧なものに頼る必要はなくなるかもしれない。 しかしこの追いかけ合いが終わるときとは、人間が数字に完全に還元されたときであり、人のゲノム が解読されようが、人間そのものは還元されないだろう。これは心身二元論的な終わりなき二重螺 旋運動なのである。
17 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 01:05:10
Web2.0の制御性 記号消費では、マーケティングによるマスメディアの主導性があった。 懸命に差異化を生み出すように、マーケティングが行われ、 人々の欲望を満たそうとしてた。 消費がアイデンティティを支える役目をもった。 ネットのコミュニケーションの活発化において、Web2.0は 主導性は低いようにおもう。マーケティングはより受動的な位置におかれる。 Googleはまさにただ乗りであることで、ネット上の勝ち組でいられるのかもしれない。 ネットでは、積極的に、主張をしないことが重要なことである。 マクドナル化のようなシミュレーション以降、受動的に先行する傾向がある。 環境管理権力的である。
18 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 01:18:43
重要でないことの一極集中、重要なことの多様化、分散化 ネットにおいて、重要でないことこの一極集中こそが創発を起こし、 帰属意識を高めているということ。 たとえばはてなブログなどでは、界隈ではやりのネタへコミットすることで、 盛り上がりに参加できる。マニアックなネタでは、アクセス数、ブクマがつかない。 盛り上がりに参加することが重要になる。アイデンティティを支えることになる。
19 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 11:43:18
私たちの主体は下部構造の言語体系により様々な決定が行われ疎外されている。 これが構造主義だ
20 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 12:08:22
ソシュールが経済学からヒントをえたといわれるように、差異の体系は経済の価値体系により明確です。
21 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 13:35:03
ネットでは一局集中がおこりやすい。人が集まるところに人が集まる。 しかしほんとにそうだろうか。ネットがこれほど反映しているのはその裾野の広さ、ロングテールの存在によるだろう。 二極化と考えるほうがいいのではないだろうか。
22 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/11/02(木) 20:54:19
>21 今までのマーケティングは確かにロングテールを捨てるしかなかったですね。 ソリューションで、これを拾うことができるようになった。 とすれば、二極化とは方向性が違いますね。
23 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 21:26:35
>>22 ロングテールはマーケティング用語になっていますが、ネットそのものがもつ傾向です。
たとえばWeb2.0もマーケティング用語のように使われますが、ネットがもつ創発性をもとにしています。
ネットには、一局集中がおこりやすい傾向。ポピュリズム的な面と
ニッチが広がるオタク的な面の二極化が起こるわけです。
ここにはともに差異化運動が関係しています。
群衆の中で、少しでも差異を見いだそうとして群れる祭り的な面と、
よりマニアであろうという差異を見いだすオタク的な面です。
どちらもネットの楽しみかたであり、だれもがこの二面性を楽しんでいるのでは、
ないでしょうか。
24 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/02(木) 21:36:11
たとえば個人的なことをいえば、2ちゃんねるの楽しみ方は、 ニュース+板、実況板など(VIPは早すぎで意味不明で良くわらない) 流動性の高い板で毎夜行われている祭りを楽しみます。 それとともに、哲学板のような過疎板のさらにラカンスレなどのような過疎スレという ニッチにボチボチ書き込み楽しみます。
25 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 09:13:21
経済学が先か、市場が先か。 たとえば企業で言えば、評価は経済学的手法で行われる。 その数値を目標に企業活動が行われ、評価が行われる。 たとえばライブドアも、その数値を良く見せる操作をすることで、 株価が上がって、資本を増やしたわけです。 経済学的数値とは、シニフィアンとして作動している。
26 :
考える名無しさん :2006/11/03(金) 11:48:10
青果市場に野菜や果物が集まらないと人も集まらない。 というか心身二元論に終わりが無いとか、 精神の数学的還元は不可能というと話はよくわかるが、 何故二重螺旋がむりやり絡んでくるのかが分からん。
27 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 11:54:57
農地に野菜や果物が集まっても、そこに経済学がないと 人も集まらない、ということ。 近代化において、心身は二元化し、二重螺旋構造的である、ということ。
28 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 12:11:09
先進国の豊かさは、後進国からの搾取の上に成り立っている。 世界のお金持ちトップ500の総資産>その他60億人の総資産 当然、金持ちは平和という現状維持を求める。 それは、核の独占で維持されている。 先進国が核を使わないだろうという神話は、この搾取の構造が 保たれる限りです。 そして世界が競争世界ならば、貧しい人々が豊か人々へ攻撃する ことは当然行われることです。
29 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 14:33:49
■「Web2.0」的なものと「ロングレール」的なもの二極化
「Web2.0」、「CGM(Consumer Generated Media)」、「ロングテール」
>>
ネット時代の新潮流――CGMとは
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/18/news024.html 今、Web2.0のキーワードが注目を浴びています。その中に内包される概念としてCGM
(ConsumerGeneratedMediaの略)が存在します。簡単に訳すと消費者が生成したメディアとでも言う
べきものなのですが、一般的には消費者が作成、または見つけ出した情報を投稿(Web上にアップ)
し、発信されていくコンテンツの総称がCGMと呼ばれていることが多いと思います。
Web2.0の話とCGMの話を混同して語られている例が、よく見受けられます。しかし、Web2.0が提唱す
るブログやSNSなど「プラットフォームとしてのWeb」(以後CGMのプラットフォームと呼びます)と、そ
の中で増殖するCGMへのアプローチは、まったく異なる次元の話です。
<<
ネットでは一局集中がおこりやすい。人が集まるところに人が集まります。またそれとは別の傾向が
あります。ネットがこれほど反映しているのはその対象の裾野の広さです。
たとえば「Web2.0」、あるいは「CGM(Consumer Generated Media)」はマーケティング用語ですが、そ
の根底はネットがもつ創発性をもとにしています。ネットには、一局集中がおこりやすい傾向。ポピュ
リズム的な面あります。また「ロングテール」というマーケティング用語も、ネットそのものがもつニッ
チが広がるオタク的な面です。
30 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 14:35:12
「Web2.0的なもの」と「ロングレール的なもの」の二極化
ここにはともに差異化運動が関係しています。群衆の中で、少しでも差異を見いだそうとして群れる
祭り的な面と、よりマニアであろうという差異を見いだすオタク的な面です。どちらもネットの楽しみか
たであり、だれもがこの二面性を楽しんでいるのでは、ないでしょうか。
たとえば個人的なことをいえば、2ちゃんねるの楽しみ方は、ニュース+板、実況板など(VIPは早す
ぎで意味不明で良くわらない)流動性の高い板で毎夜行われている祭りを楽しみます。それととも
に、哲学板のような過疎板のさらにラカンスレなどのような過疎スレというニッチにボチボチ書き込み
楽しみます。
「ロングテール」はほんとうに儲かるのか、という話がありますが、それは本質的な問題ではありま
せん。いかに儲けるのか、儲かるかとは別に、ネットでは、「Web2.0」的なものと「ロングレール」的が
二極化しています。
>>
だから情報化社会の「選択のインフレーション」でまず重要な選択は、何が「重要なこと」で、何が「重
要でないこと」かの選択です。
情報化社会において、ほとんど多くのことは「重要でないこと」に分類され、社会の「マクドナルド化」
によって、ナビゲートされるままに任せて、「とりあえず」満足することを求めます。そして多くの選択
を「重要でないこと」とするのは、一部の「ゆずれない」「重要なこと」に労力を割くためです。たとえば
父親なら仕事であったり、母親なら家族であったり、子供ならばオタク的趣味であったり、自らのアイ
デンティティを支えるものです。
「なぜ映画はおもしろくないのか」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20061028 <<
31 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 14:41:22
Web2.0の受動性 記号消費では、マーケティングによるマスメディアの主導性があった。懸命に差異化を生み出すよう に、マーケティングが行われ、人々の欲望を満たそうとしてた。消費がアイデンティティを支える役目 をもった。 ネットのコミュニケーションの活発化において、Web2.0は主導性は低いようにおもう。マーケティング はより受動的な位置におかれる。Googleはまさにただ乗りであることで、ネット上の勝ち組でいられ るのかもしれない。ネットでは、積極的に、主張をしないことが重要なことである。
32 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 22:08:32
■なぜGoogleはただ乗りなのか
「Web2.0」、「CGM」、「ロングテール」
>>
ネット時代の新潮流――CGMとは
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0607/18/news024.html 今、Web2.0のキーワードが注目を浴びています。その中に内包される概念としてCGM
(ConsumerGeneratedMediaの略)が存在します。簡単に訳すと消費者が生成したメディアとでも言う
べきものなのですが、一般的には消費者が作成、または見つけ出した情報を投稿(Web上にアップ)
し、発信されていくコンテンツの総称がCGMと呼ばれていることが多いと思います。
Web2.0の話とCGMの話を混同して語られている例が、よく見受けられます。しかし、Web2.0が提唱す
るブログやSNSなど「プラットフォームとしてのWeb」(以後CGMのプラットフォームと呼びます)と、そ
の中で増殖するCGMへのアプローチは、まったく異なる次元の話です。
<<
ネットには、一極集中なポピュリズム的な面があり、人が集まるところに人が集まります。たとえば
「Web2.0」、あるいは「CGM(ConsumerGeneratedMedia)」はマーケティング用語ですが、その根底に
はネットがもつこのような創発的な動力をもとにしています。
またそれとは別の傾向があります。ネットはニッチな興味を持つ人々が出会うことができます。そし
てこのようなニッチが広がるオタク的な面がネットの裾野の広さを支えています。そしてネットそのも
のがもつこのような動力をマーケティングへと応用したものが、「ロングテール」です。
33 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 22:09:48
「Web2.0的なもの」と「ロングテール的なもの」の二極化 たとえば個人的なことをいえば、2ちゃんねるの楽しみ方は、ニュース+板、実況板など流動性の高 い板で毎夜行われている祭りを楽しみます。それとともに、哲学板のような過疎板のさらにラカンス レなどのような過疎スレというニッチにボチボチ書き込み楽しみます。 ここにはともに差異化運動が関係しているように思います。群衆の中で、少しでも差異を見いだそう として、群れる祭り的な面と、よりマニアックであろうという差異を見いだすオタク的な面です。どちら もネットの楽しみかたであり、だれもがこの二面性を楽しんでいるのでは、ないでしょうか。 たとえば「Web2.0」は成功するのか、「ロングテール」はほんとうに儲かるのか、という話があります が、それは本質的な問題ではありません。ネットでは、「Web2.0的なもの」と「ロングレール的もの」が 二極化して起こっており、いかに儲けるのか、儲かるかは、そこからいかに利益を上げるか、知恵を 絞れ、ということです。
34 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 22:11:16
消費への依存度の低下 かつてのマーケティングと結びついた差異化運動といえば、ボードリヤールがいうような「記号消費」 です。ブランド品のような他者と少し違うものを消費することによって、自己のアイデンティティを見い だす。ここでは、広告などマーケティングによるマスメディアに主導権があり、たとえば最近の販売店 の「テーマパーク化」のように、人々の消費への欲望をかき立て、ブームとしての動力を起こすよう に、能動的に知恵が絞られました。 しかしネットのコミュニケーションの活発化において、「Web2.0」、「ロングテール」では、すでに動力が あります。逆に売り込みの積極性が見えたとき、ネットの創発性の波は引いてしまいます。 さらには、もはや消費は、楽しみの選択の一つでしかありません。受動的に与えられる商品より、 ケータイの爆発的普及のように、他者とのコミュニケーションを楽しむ時代です。たとえば2ちゃんね るなどネットそのものが、テーマパークです。消費へ依存していた欲望は、その依存度が減少してい るということです。これは、消費資本主義そのものの変革を意味するかもしれません。
35 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/03(金) 22:11:49
「Googleはただ乗りだ」 ネットの動力をいかに活用するか、という受動的なマーケティングシステム、気がつくと購入してい る、あるいは知らないうちに購入している、ことが重要です。最近なにか、仕掛ける側としての能動 的な面が語られることが多いGoogleですが、「Googleはただ乗りだ」といわれるようなネット上の能動 的な変化に乗っかる受動性の徹底に本質があるのではないでしょうか。 その意味では、群衆によって突然創発的に発生した「YouTube」という動力に「ただ乗り」しようという 試みはGoogle的だったとも言えます。しかし「ただ乗り」にしては、はでに大金を払い、能動的にふる まいすぎたことで群衆にそっぽを向かれる心配が残りますが。
36 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/04(土) 00:06:05
先進国の豊かさは、後進国からの搾取の上に成り立っている。 世界のお金持ちトップ500の総資産>その他60億人の総資産 当然、金持ちは平和という現状維持を求める。それは、核の独占で維持されている。 先進国が核を使わないだろうという神話は、この搾取の構造が保たれる限りです。 そして世界が競争世界ならば、貧しい人々が豊か人々へ攻撃することは当然行われることです。 だから北朝鮮の核保有を擁護するつもりはありません。ボクもまた先進国で豊かさを 享受している身として、核兵器と打ち込まれたり、戦争とか、革命とか、されても 困るわけです。この平和が続いてほしいと思います。
37 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/06(月) 00:41:32
ネットには素人エロ画像が溢れています。カップルで取ったものが流れてものが多いでしょうが、 他の中高生が好奇心のように自分取りを流したようなもの、あるいはそれでお金をもらっている のでしょうが、多いですね。援交の簡単なものような感じでしょうか。 若気の至りというか、大人になるとこういうのは後悔することになるのでしょう。 大人になると保守化する。 こういうのは、社会の中に位置を見いだしていくことに関係するのでしょうね。 若いときは、居場所が固定しない流動性の中にいて、 外部という広い所へ向けて、裸をさらすが、 回りが見てくると、それが固定されついて回る。 世界は小さいので、一度のミスは一生言われ続けますね。
38 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/06(月) 18:23:54
ディズニーはウェブ1、渋谷はウェブ2。 人を楽しませるアプリケーションを提供するディズニー 人が楽しむ場を提供する渋谷 ネットは楽しむ場がつくられやすい。移動にコストがかからない。匿名で参加しやすい、いることはすでにコミュニケーションをのぞむ積極的な主体であるなど コミュニケーションが活性化する創発的な場である。 作られたものより変化するダイナミズムを楽しみ場である。 データベース的場、ロングテール的なものと、コミュニケーション的場、ウェブ2の二極化
39 :
考える名無しさん :2006/11/07(火) 20:50:39
いやっほ〜〜〜〜〜〜〜ぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜
40 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 10:43:22
「グーグル、アマゾン化する社会」にはなぜ2ちゃんねるがでてこないのか
41 :
考える名無しさん :2006/11/08(水) 10:50:05
なにこれ? ぴかぁ〜?
42 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 10:51:59
グーグルやアマゾンへの一極集中といいつつ、二極ある?というベタにボケつつ、 集まるところにあつまりやすいと、ヤフー、2ちゃんねるなどでも起こっていることだろう。 グーグルのすばらしさは収益に反映されている。勝ち組ということだ。 勝ち組、負け組ははじめから経済学的価値基準が導入されている。はじめからネオリベ的世界なのである。
43 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 10:56:09
2ちゃんねるは非営利サイト(ひろゆきはそこそこもうけているが)なので、話にはでてこないし、ウェブ2に入らない。 この排除される経済学的なものの外部とはなんだろうか
44 :
考える名無しさん :2006/11/08(水) 10:59:55
>>43 >2ちゃんねるは非営利サイト(ひろゆきはそこそこもうけているが)なので、話にはでてこないし、ウェブ2に入らない。
ネタなのか、本気でWeb2.0が何なのか理解していないのかはっきりしろよ。
45 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 11:14:13
僕たちは通信費、ブロバイダー費、パソコン、ソフト費を払い、ネットに接続するが ネット上での様々なサービスはただて享受している。 これらサービスはだれかが作ったものである、対価なく提供されるものもあるが、多くは対価をうける。 グーグルのほとんどの収益が広告であるように、ネットから金を徴収する方法は 広告料であり、テレビと同じように間接的に僕らはお金を支払っていることになる。 ウェブ2は簡単にいえば、より広告費を回収する方法ということになり、グーグル、アマゾンなどがそれで大成功を収めたために 市場で話題になっているということだ。
46 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 11:18:42
このために僕達はより良質なサービスが見掛け上ただて手に入り、より適切な商品紹介がえられる。 経済学の外部にあるネットの特性、一極集中と分散化の二極化した力動を活用し、活性化する。
47 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 11:27:34
ベタにいえば現在、日本にある五兆円の広告費の取り合い、まだネットは五%で、伸びる。 2ちゃんねるとミクシィは比較されるが、ミクシィは営利のために質のよいサービスを提供するよう管理が行われている。 会員制は形骸化しているが、管理されていることのPRになっている。
48 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 11:51:54
しかしミクシィと2ちゃんるを単に管理の違いで比較できない。中身がかなりちがう。 様々な問題を起こしつつ、匿名であることは多くの意義を生んでいる。
49 :
考える名無しさん :2006/11/08(水) 12:10:58
一元的にも考えられないかーーーヤフー検索:c点による時空論ーー
50 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 12:11:26
お金の力とはまさにわかりやすさにあるだろう。 中身は多様で様々であるが、そこに関連する金額により、セカイに意味付けされる。 言語化されないものは存在しないとすれば、価格化されないものは存在しない。 言語化されてもその意味は特定さるずコミュニケーションが宙吊りされる中でより的確に意味を与える。 そこにからむ価格はいくらか?千円?十万?一千万?百億?一兆? たしかにこの数字の意味はコンテクストに依存する。一万円の意味は子供には大問題だ。 それでもある重要度をつまえるリアリティをもちえている。 たとえばあなたがなんかの損害を与えた被害額が一万なのか、一千万なのか、百億なのか それは感覚的に他者との関係も意味する。命は価格化できないが、一人への損害に百億はないだろうし、 百億の損害は感覚的にある程度の他者へ損害をあたえるだろう。 会社運営なら百億の投資はかなりの労働者の生活に関係するだろう。
51 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 13:12:07
■「グーグル、アマゾン化する社会」にはなぜ2ちゃんねるがでてこないのか。 五兆円の広告費の取り合い 僕たちは通信費、ブロバイダー費、パソコン、ソフト費を払い、ネットに接続するが、ネット上での様々 なサービスはただて享受している。これらサービスはだれかが作ったものである、対価なく提供され るものもあるが、多くは対価をうける。 グーグルのほとんどの収益が広告であるように、ネットから金を徴収する方法は、広告料であり、テ レビと同じように間接的に僕らはお金を支払っていることになる。Web2.0は簡単にいえば、より広告 費を回収する方法ということになり、グーグル、アマゾンなどがそれで大成功を収めたために市場で 話題になっているということだ。 ベタにいえば現在、日本にある五兆円の広告費の取り合い、まだネットは五%で、伸びる。2ちゃん ねるとミクシィは比較されるが、ミクシィは営利のために質のよいサービスを提供するよう管理が行 われている。会員制は形骸化しているが、管理されていることのPRになっている。 このために僕達はより良質なサービスが見掛け上ただて手に入り、より適切な商品紹介がえられ る。経済学の外部にあるネットの特性、一極集中と分散化の二極化した力動を活用し、活性化する。
52 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 13:14:31
経済学的なものの外 ただグーグルやアマゾンへの一極集中といいつつ、二極ある?というベタにボケつつ、集まるところ にあつまりやすいと、ヤフー、2ちゃんねるなどでも起こっていることは必ずしもこのような経済学的 なものに還元されない。 グーグルのすばらしさはあくまで収益に反映されている。勝ち組ということだ。勝ち組、負け組ははじ めから経済学的価値基準が導入されている。はじめからネオリベ的世界なのである。2ちゃんねる は非営利サイト(ひろゆきはそこそこもうけているが)なので、話にはでてこないし、Web2.0に入らな い。この排除される経済学的なものの外部とはなんだろうか ミクシィと2ちゃんるを単に管理の違いで比較できない。中身がかなりちがう。様々な問題を起こしつ つ、匿名であることは多くの意義を生んでいる。
53 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 13:15:12
■なぜお金にはリアリティがあるのだろうか お金の力とはまさにわかりやすさにあるだろう。中身は多様で様々であるが、そこに関連する金額 により、セカイに意味付けされる。 言語化されないものは存在しないとすれば、価格化されないものは存在しない。言語化されてもそ の意味は特定さるずコミュニケーションが宙吊りされる中でより的確に意味を与える。そこにからむ 価格はいくらか?千円?十万?一千万?百億?一兆? たしかにこの数字の意味はコンテクストに依存する。一万円の意味は子供には大問題だ。それでも ある重要度をつまえるリアリティをもちえている。 たとえばあなたがなんかの損害を与えた被害額が一万なのか、一千万なのか、百億なのか。それ は感覚的に他者との関係も意味する。命は価格化できないが、一人への損害に百億はないだろう し、百億の損害は感覚的にある程度の他者へ損害をあたえるだろう。会社運営なら百億の投資は かなりの労働者の生活に関係するだろう。そしてそれだけあなたへの責任は大きくなり、リアリティ を持つのである。
54 :
考える名無しさん :2006/11/08(水) 14:38:22
ぴかぁ〜の認識でWeb2.0を語っていいものかどうか聞いてみたところ、
釣りと思われてしまったよ。典型的な誤認識のようだ。
633 :nobodyさん :2006/11/08(水) 11:39:49 ID:TFJZHqlJ
内容は漠然としていますが、専門の方々の意見を聞きたくてここに来ました。
ある高尚な思想家が、Web2.0とは、より広告費を回収する方法であると言ってます。
また、その人は、2ちゃんねるは非営利であることが理由でWeb2.0には入らないと言っております。
この人の言っていることは正しいのでしょうか?勘違いとかしてないでしょうか?
634 :nobodyさん :2006/11/08(水) 12:33:47 ID:???
>>633 正しくありません。
その愚かな思想家が何者であるのか私は知らないが、そんな事を言う奴は窓から投げ捨ててしまえ。
635 :nobodyさん :2006/11/08(水) 12:34:20 ID:???
釣り方が下手すぎるぞバカ。
55 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 14:49:20
しかし最近の株式市場などのマネーゲームな面において、このよなお金に対する責任は 失われつつあります。 それもまたたとえば岩井の貨幣論や柄谷によって指摘されているように、お金本来が もつ虚構性であり、この虚構性というお金の本質が、リアリティを持ち得ることが、 お金の不思議と言うことです。 マネーゲームであろうが、そこに出た負債は社会的な責任によって返済しなければ なりません。マネーゲームのお金は、僕らが普段1000円のスペシャルランチは 贅沢だから、700円のAランチにしようという、お金となんら変わりません。
56 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 15:51:51
■なぜお金にはリアリティがあるのだろうか 「How much?」ほど的確なコミュニケーションはあるだろうか お金の力とは「意味(価値)」のわかりやすさにあるだろう。ある対象はお金による価値化されること で、セカイに意味付けされる。 たとえばあるカバンがあり、そこには製造面、デザイナーの思い入れ、カバンマニアによる解説など などあっても、1万円と価値化されることで、還元され、様々な意味への理解とは関係なく、誰もが1 万円という意味(価値)を理解する。誰にでも、どこでもというこのわかりやすさこそが、お金の力で ある。 ある対象が言語化されてもつ意味(価値)は、質的なものであり、人それぞれ、コンテクストによって 曖昧である。それに比べて、「How much?」ほどセカイの中で早くて、的確なコミュニケーションはあ るだろうか。
57 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 15:52:30
「お金として価値化されないものは存在しない。」 言語論では、「言語化されないものは存在しない」といわれる。言語化されなければ、他者にコミュニ ケーションすることができず、社会に流通されない。意味があるものは何らかの名付けが行われて いるということだ。とすれば、同様に「お金として価値化されないものは存在しない。」と言えないだろうか。 しかしセカイにはお金に換えられないものはいくらでもある。思い出の品は値段がつけられない。し かしこれはその対象に思い入れがある人の価値であり、一般的には中古品市場でお金として価値 化され、社会的に流通していく。 あるいは人の命は決してお金に換えられない。これはその人に思い入れがある人だけではない。倫 理として人の命はお金に換えることはできない。難病の高額な医療費で命が助からないなどの話が あるとしてもである。 すなわち人間の心に関係する部分はお金に換算することは倫理的にできない。それは人間の尊厳 に関わるからだ。だから対象の言語による意味付けに比べて、お金による価値化には限界がある。 だからといってお金の力が弱まるわけではない。いわばお金の力が強力すぎるための制限である といえる。
58 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 15:53:06
金額の意味 お金によって価値化された金額そのものにもまた「意味」が発生する。たとえば1万円の意味(価値) は大人にはたいしたことはないが、子供には大問題だ。お金は量化され、コミュニケーションにおけ る的確さ、高速化の力をもつが、その金額はあるコンテクストで意味を発生される。 たとえばあなたがなんかの損害を与えた被害額が1万円なのか、1千万円なのか、百億円なのか。 それは感覚的に他者との関係も意味する。命は価格化できないが、1人への損害に百億円はない だろうから、(アメリカの裁判では異なるが)百億の損害は感覚的にある程度の人数の他者へ損害 をあたえるだろう。会社運営なら百億の投資はかなりの労働者の生活に関係するだろう。 そのようにお金はあなた責任という意味を負荷し、そこにお金のリアリティが生まれるのである。
59 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/08(水) 15:53:58
お金の虚構性によって支えられるお金の力 しかし最近の株式市場などのマネーゲームな面において、このよなお金に対する責任、そしてリアリ ティは失われつつある。たとえば岩井の「貨幣論」(ASIN:4480084118)や柄谷によって指摘されてい るように、お金がお金であるのはお金という位置にあるからだ。すなわちマネーゲームのようなリア リティの喪失はお金が本来がもつ虚構性である。逆に、この虚構性というお金の本質が、リアリティ を持ち得ることが、お金の不思議と言うことだ。 しかしお金の持つ虚構性こそが、様々な質的な意味を切り離され、コミュニケション上における的確 さ、迅速さというお金の力を支えているのだろう。 お金のリアリティは、コミュニケション上における的確さ、迅速さというお金の力を元にしている。この お金の力によって、お金という価値が共有の価値、すなわち社会性として、より広く、そしてグローバ ルにセカイに広がる。そしてお金を持つ者はそのお金を持つ者としてセカイの一員としての責任を 持った者として意味づけされる。これによってお金のリアリティはうまれるのだ。
60 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/10(金) 14:45:18
マルクスが考えるお金の力とはその非対象な位置にある。 お金はさまざまな商品と交換可能だが、ある商品はその商品を必要としているものを探さなければならない。 これがマルクスの考えるお金の位置であり、力だ。 そして岩井がいうのは、まさにこのような位置にいるからお金であるというラディカルである。 マルクスのいう労働価値とは切り離されているというお金の虚構性である。
61 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/10(金) 14:52:35
このような虚構性は物質と切り離された数字のもつ力により可能になる。 数字の力、質を量に変換する還元力、それにより達成される高速で的確なコミュニケーション。 様々な質を数字に還元し高速で的確なコミュニケーション網に流通させる。
62 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/10(金) 15:17:13
たとえばすべての商品に価格がつき、相対化され、コミュニケーション網が構築されても そこにお金がなければ交換は促進されない。 価格体系はお金を介した繰り返される交換の中でバランスされる。
63 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/10(金) 15:51:09
昨日やっていたサントリーのウイスキーブレンダーの話はすごかったですね。 0.1%のブレンドの味を見分ける。 まるで精密機械のようです。しかしプロとはあのようなものなのでしょう。
64 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/10(金) 15:58:17
毎日、昼食はうどんで体調を一定に保つ。先鋭化された機械であるとともに、強い自信、信念を感じました。 単なる機械でなく、組織の大切な役目、責任を背負い、そこに強いアイデンティティを見いだしているのでしょう。 ある意味でひとつの最高のエクスタシーの在り方でしょう。
65 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/10(金) 16:06:43
産業革命で労働がギルド的職人から合理化、標準化されることで、代替容易なものになりました。 いまの下流の代表仕事、コンビニなどは工場ラインより代替可能性があがっています。 工場ライン仕事も最近は中国でも技術熟練が要求され、賃金もかわります。 代替可能性としてのマニュアル化された労働機械化と社内でも唯一、世界的にも限られた代替不可能な精密機械化、 この対比はおもしろいですね。
66 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/10(金) 16:11:52
あのような意味で仕事は楽しいのでしょう。あれほどの強烈なまなざしを感じることが他にあるでしょうか。 宇宙戦艦ヤマトのまなざしです。
67 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/11(土) 21:51:16
「無垢」としての「仕事」の消失。「無垢」の多様化、分散化。 >> 仕事以外にあれほどの強烈な「まなざし」を感じることが他にあるでしょうか。マルクスにおいても労 働が特別であったように、人は社会的な動物であるとともに、労働する動物であると言えます。その 意味は動物のように自然に対して労働しなければ、日々の糧もえられず生存できないという意味と ともに、もっとも社会的な快楽(「まなざしの快楽」)という人間的充実をえる方法が仕事だからではな いでしょうか。 << >> ボクは「未決定の発見論的・創造的なフィールド」を「無垢」と呼んでいますが、正確には「無垢」は物 理的に未決定というだけでなく、他者に強く欲望されている必要があると思っています。他者がそれ を求めていることで、そこに「発見すべき、創造すべき未決定フィールド」が現れる。価値多様な時代 では人々の欲望は分散し、うつろいやすく、このような「無垢」の強度は低下していると思います。 <<
68 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/12(日) 02:10:44
■続 プロフェッショナル」はなぜカッコいいのか? プロフェッショナルへのあこがれと違和感 自分でもおもしろいのは、この番組を見て観じたブレンダーの方への入り交じった複雑な気持ちです ね。プロフェッショナルとして強い誇りをもてるかっこよさ、うらやましさに対して、会社の一部の機能 (精密機械)となることへの違和感という二面性です。そしてこの誇りは、精密機械であることを元に しています。 なぜ一部になることに不快を感じるのかは、情報化社会では立ち止まることのの怖さがあるのでは ないでしょうか。情報化社会ではボクたちはとても俯瞰した視線を手にれました。いまセカイでなに が起こっているのか、たえず一つ上からのアイロニカルな情報を見ることができます。いわば、高い 塔に棲むことができたと言えます。いつも上から全体を俯瞰し、国民層評論家化し、語ります。 ある対象にこだわることは、高い塔からある一部に降りることを意味します。これは恐怖です。あの 見上げた所から、みなが見下げてなにかを言っているはずです。あるいはもはや忘れ去られている かもしれません。
69 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/12(日) 02:11:40
「社会の底が抜けている」 これは宮台の「社会の底が抜けている」ことにも繋がるのかもしれません。 >> 「社会(象徴界)」は本来「底が抜けている。」他者とのコミュニケーションの同一性は自明ではない。 ラカンによる、乳幼児期の幼児的全能感=母子の想像的関係から、「父親の審級」による去勢に よって、「象徴界」を獲得する。すなわち自分の思い通りに行かない他者とコミュニケーションしなけ れば、何事の達成できない、ことをしる。しかし現代は、「父親の審級」による去勢が行われず、幼児 的全能感から抜け出せず、高い「プライド」、低い「自己信頼」によって、「脱社会的な存在」となる。 宮台真司 「サイファ 覚醒せよ!」 << ここでいう去勢とは、社会関係への帰属であり、それは社会の一部として自らの居場所を見いだす ことでもあります。現代の「幼児的全能感」を支えるのは、全体を俯瞰するような情報の提供です。 それはまた価値の多様化を意味し、社会(親)そのものが「可能性」という言葉のもとに、子供を去勢 することをためらいます。
70 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/12(日) 02:13:33
局部に閉じこもるオタクと社会の一部でありつつ局部に向かうプロフェッショナル
現代の「オタク化」は一見、このような傾向とは別のようです。地に足につけず、俯瞰し評論する客観
的な姿勢では、いつまでも自らを見いだすことができません。その反動によって、現代人は誰もがど
こかオタク化し、ある局所へ没入しています。
このようなオタク化とプロフェッショナルは、ある局所的な一部に対して、深い知識を身につけ、クリ
エイティブに掘り下げている傾向において、とても似ています。しかし大きく異なるのは、オタクとは
自らの興味のある一部に没入することで、その世界に籠もり、全能感を保持します。プロフェッショ
ナルはある一部に没入するとしても、それは仕事として、あくまで社会の一部としてです。
このような状況を映画「交渉人 真下正義」では描かれていましたが、ボクは以前、「「プロフェッショ
ナル」はなぜカッコいいのか?」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050530で書きました 。「真下」はオタ
ク傾向であっても、自らの独善的趣向に閉じこもりつつも、社会との一部としてあることも維持するこ
とでプロフェッショナルでもあったということです。
>>
また今回の「交渉人 真下正義」の場合も、鉄道マンたちであり、線引き屋であり、木島刑事であり、
頑固な「プロフェッショナル」がキーになります。「真下」は、オタク犯人に、名指しされ挑戦されること
から、鉄道マンたちから「お前達の遊びに振り回されたく」いわれます。しかし事件が進むうちに、頑
固な「プロフェッショナル」たちが、「真下」を仲間として認めていくのは、彼はオタクなどではなく、「プ
ロフェッショナル」であったことを認められるからです。
「「プロフェッショナル」はなぜカッコいいのか?」
ttp://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20050530 <<
71 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/12(日) 18:48:58
PS3が発売されたが、最近よく言われるのは、認知の取り合いである。 以前ならば、人が持っている限られたお金をいかに使わせるかの、 取り合いであったものが、様々なものの価格が下がり、 テレビ、ネット、ケータイ、ゲームなど、いまや人の認知量であり、 娯楽時間でありなにを使わせるかの取り合いである。
72 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/12(日) 19:09:26
これが時間でなく、認知限界の問題であるのは、効率化において現れるだろう。 限られ能力でより多くを楽しむこと、楽しませてくれることの、競争であるということだ。 たとえば最近、いじめ問題が様々なマスメディアで取り上げられているが、 少し前は飲酒運転問題だった。ここに見られる傾向は、それぞれ単発的に 提供するのでなく、各マスメディアが連動して、一つの大きな物語として 語り続けることで、まるで連続ドラマをみているように楽しむことができる。 より少ない認知で、情報を享受することができる仕組みである。 たとえばTVドラマ「24」は時間を忘れてみてしまうが、物語がそれぞれ異なる、 映画12本(約24時間)を見るのは、とても付かれるのではないだろうか。 それぞれで設定の読み込みなどが必要とされ、認知能力を使うからである。 このような物語を楽しむ傾向は、ブログでも顕著である。 かつてのホームページと、ブログの違いは、それぞれの間のコミュニケーション であり、連動性である。 ブログ界隈で流行っている物語に連動し、参加することで、物語の一部となる。 これは、まさにWeb2.0に繋がる。 そしてネットの一極集中化が起こりやすいことに繋がる。 みなが物語を作る楽しみにおいて、みなが集まるところへ向かう。 それが一つのネットの娯楽性である。 たとえば検索するという単発の行為においても、YahooやGoogleなどで 行うことは、そこに物語への参加が見いだせるのではないだろうか。
73 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/12(日) 19:12:56
すなわちWeb2.0とは参加型「物語消費」である。 >> 大塚によれば、オタク系文化においては、ここの作品はもはやその「大きな物語」の入口の機能を果た しているにすぎない。消費者が真に評価し、買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ実際には、 設定や世界観をそのまま作品として売ることは難しい。したがって現実には、実際の商品は「大きな物 語」でるにもかかわらず、その断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られる、という二重 戦略が有効になる。大塚はこの状況を「物語消費」と名付けた。 「動物化するポストモダン」 東浩紀 P50-53 (ASIN:4061495755) <<
74 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/12(日) 19:22:35
■認知現会社会 認知能力のシェア争い PS3が発売されたが、最近よく言われるのは、認知の取り合いである。以前ならば、人が持ってい る限られたお金をいかに使わせるかの、取り合いであったものが、様々なものの価格が下がり、テ レビ、ネット、ケータイ、ゲームなど、いまや人の認知量であり、娯楽時間でありなにを使わせるかの 取り合いである。 これが時間でなく、認知限界の問題であるのは、効率化において現れるだろう。限られ能力でより多 くを楽しむこと、楽しませてくれることの、競争であるということだ。 たとえば最近、いじめ問題が様々なマスメディアで取り上げられているが、少し前は飲酒運転問題 だった。ここに見られる傾向は、それぞれ単発的に提供するのでなく、各マスメディアが連動して、一 つの大きな物語として語り続けることで、まるで連続ドラマをみているように楽しむことができる。より 少ない認知で、情報を享受することができる仕組みである。 たとえばTVドラマ「24」は時間を忘れてみてしまうが、物語がそれぞれ異なる、映画12本(約24時 間)を見るのは、とても付かれるのではないだろうか。それぞれで設定の読み込みなどが必要とさ れ、認知能力を使うからである。
75 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/12(日) 19:23:16
Web2.0とは参加型「物語消費」 このような物語を楽しむ傾向は、ブログでも顕著である。かつてのホームページと、ブログの違い は、それぞれの間のコミュニケーションであり、連動性である。ブログ界隈で流行っている物語に連 動し、参加することで、物語の一部となる。これは、まさにWeb2.0に繋がる。 そしてネットの一極集中化が起こりやすいことに繋がる。みなが物語を作る楽しみにおいて、みなが 集まるところへ向かう。それが一つのネットの娯楽性である。たとえば検索するという単発の行為に おいても、YahooやGoogleなどで行うことは、そこに物語への参加が見いだせるのではないだろうか。 すなわちWeb2.0とは参加型「物語消費」である。 >> 大塚によれば、オタク系文化においては、ここの作品はもはやその「大きな物語」の入口の機能を果 たしているにすぎない。消費者が真に評価し、買うのはいまや設定や世界観なのだ。とはいえ実際 には、設定や世界観をそのまま作品として売ることは難しい。したがって現実には、実際の商品は 「大きな物語」でるにもかかわらず、その断片である「小さな物語」が見せかけの作品として売られ る、という二重戦略が有効になる。大塚はこの状況を「物語消費」と名付けた。 「動物化するポストモダン」 東浩紀 P50-53 (ASIN:4061495755) <<
76 :
考える名無しさん :2006/11/12(日) 19:38:55
動物化とは何ですか?
77 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 11:40:23
萌えときもかわいいの違いはなにか?
78 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 12:00:05
オヤジやグロテスクな人形をかわいぃといいはじめたのは最近だ。 かわいいが多様化している。これはなにを意味するのか。
79 :
考える名無しさん :2006/11/13(月) 12:03:32
,, ―- 、_ / '' - ,, / '' - ,, / ヽ i / /ヽ ! ,i ./ / ''―、 ! i ,、 n て'' ノノ ヾ ! i ノノノ ノ ノ ''´ ! / j ' ´ ノ ( ヽ | >-,, / ,,=━━・!' ,ノ━== ! ノ !・ ヽ | ’ニ( ●)iii、 :::::i( ●)ii=i ) \(てi iヽ ^' ~ -' /} `i_ 、 \ i_ l_j `┐ i /(,,, ,n 〉 /\\ もう物売るっていうレベルじゃねぇぞ!  ̄ ̄へ ! ' T'' l | \ | ! i ン=ェェi) i ソ ) | i´\! ,, -ェ`、_ン ノノ 〈 | | \\,, `―''´// | | つ !、_''''''''''''' / 7
80 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 12:08:59
たとえば斎藤はオタクアニメにみられる戦闘美少女をファルスであるといった。 二次元にでもリアルを感じることができるセクシャリティの力をもとにファルスは作動する。 きもかわいいにも同様にセクシャリティが隠されている。 神経質なほどに清潔になりすぎた社会において、グロテクスなものは排除されるが、それ故に引き付けられる力をもつ。 コギャルのメイクや、ルーズソックスなどにも表れる動物的なグロテスクさ。 これらの引き付けられてしまうセクシャリティをかわいいと呼ぶことで許容する。
81 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 12:35:51
空気を読みのは、価値の多様化とともに主体の個別化が起こっている。高いフライド。 その中でコミュニケーションのストレスがあがり、その補完として癒し、かわいいが重要になっている。 ある対象へのかわいいという共有により、コミュニケーションを成立される。 かわいい犬の散歩はいろんなひとがよってくる
82 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 12:40:22
このようなストレスは機械化される身体ととりのこされる心の分離に生まれる。 たとえば電車にのることだけでも、身体を電車にのせ、荷物として客体することで高速で長距離はこばれる。機械化である。
83 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 12:50:32
社会が機械化される中で身体はとりこまれ、場からきりはなされ、様々な場にはり付けられる。 ここでおこるのは心の自立である。切り離されないもの明確化
84 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 13:09:21
■なぜ「かわいい」が氾濫しているのか 身体の機械化によるストレスと心の補完としての「かわいい」の浮上 現代におけるストレスは機械化される身体ととりのこされる心の分離に生まれる。たとえば電車にの ることだけでも、身体を電車にのせ、荷物として客体することで高速で長距離はこばれる。機械化で ある。社会が機械化される中で身体はとりこまれ、場からきりはなされ、様々な場にはり付けられ る。ここでおこるのは心の自立である。切り離されないもの明確化。 空気を読みのは、価値の多様化とともに主体の個別化が起こっている。高いフライド。その中でコ ミュニケーションのストレスがあがり、その補完として癒し、「かわいい」が重要になっている。ある対 象への「かわいい」という共有により、コミュニケーションを成立される。たとえばかわいい犬の散歩 はいろんなひとがよってくる
85 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 13:10:01
「かわいい」のセクシュアリティ 萌えや、きもかわいい、エロかわいいなど多様化、氾濫する「かわいい」の強度とはなにか。 オヤジ やグロテスクな人形をかわいぃといいはじめたのは最近だ。 たとえば斎藤はオタクアニメにみられる戦闘美少女をファルスであるといった。二次元にでもリアル を感じることができるセクシャリティの力をもとにファルスは作動する。きもかわいいにも同様にセク シャリティが隠されている。神経質なほどに清潔になりすぎた社会において、グロテクスなものは排 除されるが、それ故に引き付けられる力をもつ。コギャルのメイクや、ルーズソックスなどにも表れる 動物的なグロテスクさ。これらの引き付けられてしまうセクシャリティをかわいいと呼ぶことで許容する。
86 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/13(月) 15:57:47
たとえば三次元的な肉感的リアルなエロから、二次元的オタク的エロへの移行のポイントは萌え、すなわちかわいいの強度にある。 様々な対象がかわいいへと変換されたセカイとは、身体が合理化により乖離された心のセカイである。 肉感的なリアルな身体でない、セクシャリティとしてのかわいい
87 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 08:34:40
■合理化とストレス 合理化による「客体化」 たとえば電車にのり移動するとき、身体は狭い空間に詰め込まれて、高速で長距離でこばれる。こ こでは身体は客体化されている。車による移動は、車を運転するというコントロールする主体である が、思っている以上に客体的ではないだろうか。目的地が決まれば、運転者であるか、ないかに大 きな意味はない。地図上の決められ経路をとおって、身体は狭い空間の詰め込まれて、運ばれる。 たとえば食事をすることも、街に食堂があり、メニューがありメニューに添った材料が用意されてでて くる。そこに選択はある点で主体的であるが、だれでもある程度同じような工程を経るということで客 体的である。 ここで言う客体性とは、近代の特徴である「合理化」である。そして合理化を支えているが近代の「技 術」である。社会システムは合理化され、効率が向上し、コストが下がり、物質的な豊かな社会が達 成される。 合理化から離れると急激に不確実性が増すと共に、コストが上がるために、人々は合理化された 過程を自ずと選択している、すなわち知らずに「客体化」されているである。
88 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 08:35:15
心身二元論的な「心」の自立とストレス ここでおこるもうひとつのことは、心の自立ではないだろうか。かつて土着的な人々は場に固定され て生きることで、場と一体化していた。それが合理化された社会では、身体は客体化、部品化してい る。それは単に歯車に組み込まれるということでなく、次々と様々な場に貼り付けられる。そして切り 離され、貼り付けられるものとして自分の「身体」が明確化する。 そしてこれを補完するのが物質的な豊かさである。かつての土着のように場に、そして場の他者に 依存することなく、生存することが可能になる。そして「身体」」の自立は、身体を客観視する心身二 元論的な「心」を生む。それが近代に生まれて「自立した主体」である。 そしてこのような心身二元論的な「心」の発生は、合理化によって、より自律的、高いプライドを確立 していく。これは、そもそもにおいて、場に貼り付けら他者と向き合うというストレスが強いられること を意味する。
89 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 08:35:54
「合理化の徹底」によるストレス低減 技術による合理化によって身体は客体化するとともに心の主体的自立がおこる。そして他者のコ ミュニケーションにおいてはストレスが発生する。 たとえば最近の「マクドナルド化」は、このような他者を回避するストレス低減の方法である。身体が 様々な場へ貼りつけられても、マクドナルド、コンビニ、あるいはファミレスへいくことで、すでに馴染 んだサービスを受けられ、海外でいきなり店に入ってもストレスを感じなくてすむ。ここでおもしろい のは、合理化によって生まれたストレスが、「合理化の徹底」によって補完されていることである。 合理化の徹底は世界中どこへいっても、同じ場を提供することへ向かっているのかもしれない。たと えば身体がトルコに運ばれようと、日本と同じようなマクドナルド化された様々なサービスが提供さ れれば、ストレスを感じることは低減されるだろう。国際的なホテルのチェーン店はそのように作られ ている。そして「トルコらしさ」は観光商品としてパッケージされ、マクドナルド化され提供される。 このようなことをグローバリズムと呼ぶのだろう。だからグローバリズムは、資本主義という社会シス テムの合理化、すなわち市場経済の導入を前提に行われる。そしてグローバリズムによって、失わ れるものが明確になる。どことも異なり、外来者を排他するような土着的な場そのものである。
90 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 08:36:47
人は「合理化の徹底」に充足しない では合理化の徹底において、人は充足するのか。トルコにいって日本と同じサービスがえられるホ テルに籠もることで充足するか。あるいは観光商品とした観光地をめぐるだけで充足するか。 そうはいかないだろう。そもそも合理化において、「なぜ合理化するのか」、「なぜ技術を向上させる のか」という問いが隠されている。かつては生存のためであり、豊かさのためである、と答えられた かもしれないが、現代ではそれらが達成されても、さらに進められるある種の強迫性が現れている。 そのことそのものが表しているがの、「人は合理化の徹底に充足しない」ということだろう。 合理化の徹底でストレスを回避する、一方でスリルを求めている。すなわち合理化から離れると急 激に不確実性が増すと共に、コストが上がるために、多くにおいて、人々は自ずと合理化を選択し 「客体化」されることに充足しながら、合理化の外部を求めている。 合理化の徹底は確実に進んでいるために、多くは合理化に充足しながら、合理化の外部、すなわち 非効率で、非確実でなものへの一点突破を試みるといういう二極化が起こっている。
91 :
考える名無しさん :2006/11/15(水) 09:13:32
ナミヘイさんに質問。 何のためにそんなことしてるのですか??
なるほどなあ。 新学年のクラス替えでブスばかりのクラスになっても、何週間かする とブスもカワイく見えてくる。そのうちブスと付き合う男子が出てくる。 だから「カワイイ」と日常で盛んに言うのは、心理学で言う適応だと 思う。 女子の方が、そのような適応に優れている。女子はカワイイを連呼する。 子供を育てるために、汚い子供でも「カワイイ」と思い込まなければ いけない性だから。 男子の方は「カワイイ」はあまり使わず「カッコイイ」という言葉を 良く使う。特にアニメオタクの男子は、女性の理想像が究極まで行って しまって現実に適応できなくなっている。女子の言う「カワイイ」は 現実適応であり、男子の言う「カワイイ」はイデア的なものを求める ものだ。男子と女子では、「カワイイ」の方向が違う。 おそらく昔は、男子が「カッコイイ」のイデアを求め「カワイイ女」を 現実に見ようとしていたのだろう。 映像メディアが発達していったお陰で、現在の男子はカワイイのイデアを アニメゲームの世界に追い求め、女子は現実適応のためにカワイイを 連呼する。なるほど。そうか。
93 :
考える名無しさん :2006/11/15(水) 11:03:19
94 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 13:21:06
合理化とはよりやすく生産し、大量に売ることで設ける。 やすく購入するこてで生活を豊かにするという資本主義システムである。 豊かな時代において、付加価値を求め、単なる安物だけを求めるわけではないとしても 合理的に付加価値品を開発し、生産される。合理的とは単なる安物でなく、利潤追求のための合理性である。
95 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 20:41:31
■なぜ合理化はジレンマを生むのか 合理化による「客体化」 たとえば電車にのって移動するとき、身体は狭い空間に詰め込まれて、高速で長距離はこばれる。 ここでは身体は客体化されている。車による移動の場合、車を運転するという主体的であるが、目 的地が決まれば、運転者であるか、ないかに大きな意味はない。地図上の決められ経路をとおっ て、身体は狭い空間の詰め込まれて、運ばれる。 たとえば食事をすることも、街に食堂があり、メニューがありメニューに添った材料が用意されてでて くる。そこに選択があり主体的ではあるが、結局、だれでもある程度同じような工程を経て食事にいたる。 ここで言う客体化の例は、近代の特徴である「合理化」によるものだ。合理化とは、生産者がより安く 生産し、大量に売ることで儲ける。そして消費者は安く購入することで生活を豊かにするという、資 本主義システムである。豊かな時代において、付加価値を求め、単なる安物だけを求めるわけでは ないとしても、合理的に消費者が求める付加価値品を開発し、生産すると言うことであり、合理化と は利潤追求のための効率化である。 社会システムは合理化され、効率が向上し、コストが下がり、物質的に豊かな社会が達成される。さ らに合理化は土着的な場から離脱によって、「自由」という快楽をえることができる。そして「合理化」 から離れると急激にコストが上がり、不確実性が増すために、人々はこのような合理化された過程 を気がつかないうちに選択し、「客体化」されているである。
96 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 20:42:06
心身二元論的な「心」の自立とストレスの発生 かつて土着的な人々は「場」に固定されて生きることで、「場」と一体化していた。それが合理化され た社会では、身体は客体化している。それは単に歯車に組み込まれるということでなく、次々と様々 な「場」に貼り付けられる。このときに切り離される部分と残る部分が明確化する。さらに物質的な豊 かさは、かつての土着のように「場」に、そして「場」の他者に依存することなく、生存することが可能 になる。 そして「場」から切り離される部分としての「身体」、そしてその身体を客観視する心身二元論的な 「心」を生む。それが近代的な「自立した主体」である。しかしこのような自立は、その始めから、身体 が様々な「場」に貼り付けらことで、たえず「場」とのストレスが生まれる。 たとえば電話では、移動するのは身体でなく、「場」が移動してくる。ここで「場」とは他者であること がわかる。「場」とのストレスとは「見知らぬ他者」とのコミュニケーションである。
97 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 20:42:47
「合理化の徹底」によるストレス低減 たとえば最近の「マクドナルド化」は、このような他者を回避するストレス低減の方法である。身体が 様々な「場」へ貼りつけられても、マクドナルド、コンビニ、あるいはファミレスへいくことで、すでに馴 染んだサービスを受けられ、海外でいきなり店に入ってもストレスを感じなくてすむ。 ここでおもしろいのは、合理化によって生まれたストレスが、「合理化の徹底」によって補完されると いう「合理化の循環」が起こっていることである。 合理化の徹底は世界中どこへいっても、同じ「場」を提供することへ向かっているのかもしれない。た とえば身体がトルコに運ばれようと、日本と同じようなマクドナルド化された様々なサービスが提供さ れれば、ストレスを感じることは低減されるだろう。国際的なホテルのチェーン店はそのように作られ ている。そして「トルコらしさ」は観光商品としてパッケージされ、マクドナルド化され提供される。 このようなことをグローバリズムと呼ぶのだろう。あるいは流行りの言葉でいえば、「フラット化する世 界」である。そしてグローバリズムによって、失われるものが明確になる。どことも異なり、外来者を 排他するような土着的な「場」そのものである。
98 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 20:43:47
「社会の底が抜けている」 では人はこのような「合理化の徹底」において充足するのか。このような状況は、宮台の言う「社会 の底が抜けている」や、スティグレールの「象徴の貧困」に繋がるだろう。 「象徴的貧困」とは「象徴」の合理化であり、このような「合理化の徹底」によって、帰属する「場」(社 会)から離脱し、「脱社会的な存在」になる、あるいは失われた帰属する「場」を求めて、極端な「アク ティング・アウト(決行)」が起こる。これはひきこもり、ニート、フリーターの問題でなく、現代人の多く が共通にもつストレスである。
99 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 20:44:33
合理的に「場」を提供するWeb2.0 このようなストレスを回避する場として、最近のネット、ケータイが急激に広まった。このようなネット コミュニケーションの有用性は、「場」への帰属、離脱を容易にコントロールすることが可能になるこ とである。 場を求めて帰属し、そこにストレスを感じれば離脱する。2ちゃんねるなどの匿名性に対して、mixiは 顕名性に近いことが売りである。ボクなどは、2ちゃんねるに比べて、mixiへのレスは他者への配慮 としてのストレスを感じる。そして多くの人がこのストレスに繋がっている実感を持つのだろう。 しかしネットそのものは生産者が作りあげ提供した場でなく、創発的に広がり、場が形成される面が 高い。そのために、コントロールが難しく、合理化が困難な無法地帯と思われていた。その中でネッ トの合理化に成功したのが、アマゾン、GoogleなどのWeb2.0である。 Web2.0とは、いかに合理的に「情報」を提供するかではなく、合理的に「場」を提供し、運営するかで ある。「情報」は提供すると終了するが、「出会い」はそこから情報交換が行われ、ユーザー間で「情 報」が発展されていく。人々が知りたい情報を提供するかということだけでなく、帰属する「場」を求め ることで生まれるネットの創発性をいかにうまく合理的に活用するかである。
100 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/15(水) 20:45:14
「合理化」のジレンマ ここでも合理化によって生まれたストレスが、「合理化の徹底」によって補完されるという「合理化の 循環」が継続されている。資本主義が継続されるかぎりこれは当たり前のことかもしれない。資本主 義において不十分とは次の合理化のためのニーズである。 合理化によって、土着的な「場」から切り離されることで自立してた心身二元論的な「心」は、土着的 な「場」への強い帰属によってしか満たされない。だからネットでは「場」への帰属、離脱を容易にコ ントロールすることが可能になるということは、いつまでも継続した強い帰属する「場」を提供しないこ とを意味する。「合理化の循環」はこのようなジレンマを動力にして作動しつづけるのだろう。
101 :
考える名無しさん :2006/11/16(木) 01:52:36
┌───¬ ≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪ 》ミ三三彡《 ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ .〔≡≡≡≡〕 ≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦ .Eニニニニ∃ ノ::::::::::::::::::::::::ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ | __Π_lニl ┌‐‐┐| このスレ読んで | l_l-l | // ̄| ||  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ノ/lニ/ l二__|| | unko no chikara.| 反吐が出そうなあなたに! | ┌┐ |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | の l二  ̄l| | ノ / ̄| || | /_/ ∠_|| ≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧ | ウンコ エキス ドリンク| ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ | ケツミリン50o配合 | ≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
102 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 16:17:14
ドラマ「14歳の母」のうすら寒さはなんだろう。 ドラマは基本的に障害がありそれを乗り越えることが描かれる。 特徴的なのが恋愛ドラマだ。男女が障害を乗り越え結ばれることを基本にして、問題はどのような障害シチュエーションにするか。 障害は時代背景を反映する。家柄、身分が重視される時代は、ロミジュリや駈け落ちものなど 現代の価値多様化時代では障害が少なくなり、王道はある愛の詩など病気ものである。 韓国ドラマは障害のデパートである。冬ソナでは事故死、取り合い、親、病気とつぎつぎ障害が表れる。 韓国ドラマがおばさんに受けた理由はこのような障害が彼女達にはリアリティがあるからだ。 彼女達の若い頃はまだ親、友情など社会的な拘束が働いていた。最近ではそんなのお互い好きならいいじゃん!でおわってしまう。 その意味でも日本では障害設定がむずかしく、セカチュウのように、不治の病に回帰してしまうし、 太陽の詩など病名だけがかわっていく。
103 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 16:32:25
その中でもボクがおもしろいなと思ったのは、「神様もう少しだけ」だ。 深田恭子演じる女子高生は一夜の援交の過ちでエイズに感染してしまう。あと生きられるのは10年程度。 そんななか金城武演じる挫折しかけの人気音楽プロデューサーと恋に落ちていく。 エイズという現代病、すぐに死なない、セックスできない純愛、現代的障害である。視聴率も高かったがあるリアリティを勝ちえたのだろう。 それで「14歳の母」である。これはかならずしもラブストーリーではないのかもしれないが、障害設定どらまである。 障害設定ドラマは実にわかりやすい。もし恋人が不治の病だったら。もし恋人が高い身分だったら。もし恋人が魔女だったら そしてもし恋人が14歳で妊娠したら、である。
その内容はドラマ板だな。 ちなみに「たったひとつの恋」もヒロインがまたも白血病だぞ。 同じ局で視聴率は昨今の事情と比べると逆転してる。でも今週は14歳も下がったけどね。 曲は視聴率を取り、話題に上れば御の字なんだから、おまえががたがた騒ごうが結果は出てる。 タイヨウのうたは視聴率こそ取れなかったが、沢尻の歌のダウンロードの多さが話題になった。 その沢尻のもうひとつの障害もののは後半上げて視聴率とった。ついでに沢尻はその前にも 赤坂で聾唖の役どころだ。これはドラマの筋と関係なかったし視聴率も取れてない。 くだらねードラマばかり見てんなら、ERを見ろ。日本のドラマはこんなもんだ。
105 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 16:55:50
このようなドラマで問題になるのが障害をおもしろおかしく描くためのデフォルメが、 実際そのような障害にある人々の悩みと乖離し、見せ物的になることである。 たとえばいま放送されているドラマ「ボクの生きる道」では草薙剛が自閉症を演じているが、このようなよりデリケートな部分にむかっている。 ブスの瞳に恋しているの障害はブス その意味でいまどき14歳で妊娠はそれほどめずらしくはないだろう。 障害は普通なら中絶して終わりが、生む決意をすることだ。 ドラマでは生む決意によりうまれるまわりの苦悩、倫理がヒューマンドラマ的になんらかのメッセージをもって描かれる。 命を大切に、セックスに責任をもてなど しかし生む必要性がいまひとつ説得力をもち見えてこない。ただくじけず生むことが美学といっているだけのようだ。 そもそもこれは単なる障害設定であり、美談で情緒的に色づけしているだけではないか。 昨日まで小学生役の子役が子供を生むという障害設定のショッキングが売りがあることは否めないし、実際おもしろい。 それにしてはけなげで美しすぎる。それはあまりにうすら寒いのだ。
106 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 17:04:11
志田未来の天才的なかわいらしさ、はかなげさ(あえて演技とは言わない)なら、14歳の殺人、でもはかなく美しくなるのではないか それはあまりにうすら寒い
107 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 17:09:08
14歳で子供を生むことがよいとかわるいとかでなく、 あの状況で子供を生むことを美しくみせることにどのような倫理が描かれているというのだろうか それがまったくみえず美しいことがうすら寒いのだ。
ドラマを楽しめる人が羨ましいよ。どこが面白いのか分からない。 日本のドラマのほとんどがロリコン向けに作られてる。それとジャニオタ 向け。あとは現実離れしたサスペンスドラマとNHKのオバサン向けドラマ。 もう悲惨。 ドラマって「こういう時はこういう発言や行動をするんですよ」 というメッセージを大衆に与えてて、バカが真似するから害があると 思う。社会学徒はドラマ番組の身体化を研究して欲しいよ。
志田は笑うとブスだ。シリアスな顔はきれいだな確かに。 で、ERは見たことあんのか? ドラマをここでぐだぐだ言う前に見ろ。 障害克服ドラマとしても十二分にいけてるぞ。 前クール支持された阿部ちゃんのは結婚できない障害 マイボスは頭が悪い障害 今クールのコトーは孤島での医療行為という障害 のだめは整理整頓できない障害か? こじつけて面白いかばか
>>108 ドラマはいろいろ面白い
でも面白くない奴は面白がる必要もなかろう
ドラマがチープでいやだというんならとにかくERをみろ
一話みただけでも映画一本分の価値が見出せるよ
111 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 18:04:05
結婚できない男は、もはや結婚に価値を失った現代の独身という障害です。障害としてはよわいが、あんなにおもしろいのは、機微を丁寧に描けたからでしょ。 最近は障害のインフレで恋愛ドラマ受難です。だからこそオバサンはベタな障害のカンリュウにむかった。 セカチューはなぜ受けたのか。一周したということでしょうか 流行は職業もの、特に医者ものが近年流行りです。最近、いじめ問題などで死ぬ死ぬと騒いでいますが、逆にいうと死はまだリアリティがあるということです。 だから死を身近に描ける医者ものはつよい。コトーも小さな島で死にかかわる人がですぎです。あれではコトーに近づくとなんらかの病気になるという疫病神のようです。
112 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 18:09:42
職業ものではもう一つは、シチュエーションコメディですね。ナースのお仕事、ヤンクミ、富豪デカ。マイボスもその系譜ですが、 もしヤクザが高校生だったら、奥様が魔女だったらの、これは基本はアニメです。
113 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 19:53:02
近代において乖離した心と身の二元論において、その中心は科学で還元された身体に対する体系化である。 これは生物学的な意味でなく、経済学の領域である。合理化、効率的な機械化され管理されるための体系化である。 そして排除された心は、あいまいに、ニーチェによりディオニソス的と呼ばれたように反動的に語られた。 それを体系化しえたのが、言語の体系を示した構造主義である。
114 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 22:05:01
■なぜドラマ「14歳の母」はうすら寒さのか 恋愛ドラマにおける障害設定のリアリティ ドラマは基本的に障害がありそれを乗り越えることが描かれる。特徴的なのが恋愛ドラマだ。男女 が障害を乗り越え結ばれることを基本にして、問題はどのような障害設定にするか。障害は時代背 景を反映する。 たとえば家柄、身分が重視される時代は、ロミジュリや駈け落ちものなどが語られた。しかし現代の 価値多様化時代では、もはや社会的拘束にリアリティはない。その意味で最近は障害設定のインフ レーションが起こり、恋愛ドラマ受難の時代と言える。だからこそオバサンはベタな障害設定の韓流 にむかったのだ。 韓国ドラマは障害のデパートである。冬ソナでは事故死、取り合い、親、病気とつぎつぎ障害が表れ る。韓国ドラマがおばさんに受けた理由はこのような障害が彼女達にはリアリティがあるからだ。彼 女達の若い頃はまだ親、友情など社会的な拘束が働いていた。最近ではそんなのお互い好きなら いいじゃん!でおわってしまう。
115 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 22:05:47
不治の病という現代のリアリティ 現代の王道は「ある愛の詩」など病気ものだろう。最近でも「世界の中心で愛を叫ぶ」のような不治 の病ものは強い。「タイヨウのうた」など、様々な病名を買えて繰り返される。 その中でもボクがおもしろいなと思ったのは、「神様もう少しだけ」だ。深田恭子演じる女子高生は一 夜の援交の過ちでエイズに感染してしまう。あと生きられるのは10年程度。そんななか金城武演じる 挫折しかけの人気音楽プロデューサーと恋に落ちていく。エイズという現代病、すぐに死なない、 セックスできない純愛、現代的障害である。視聴率も高かったがあるリアリティを勝ちえたのだろう。
116 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/16(木) 22:09:40
「14歳の母」のけなげな美しさ それで「14歳の母」である。これはかならずしもラブストーリーではないのかもしれないが、障害設定 ドラマである。いまどき14歳で妊娠はそれほどめずらしくはないだろう。このドラマの障害設定は普 通なら中絶して終わりであるのに、生む決意をすることだ。 ドラマでは生む決意によりうまれるまわりの苦悩、倫理がヒューマンドラマ的になんらかのメッセージ をもって描かれる。命を大切に、セックスに責任をもてなど。しかし中絶せずに生む理由がいまひと つ説得力をもって見えてこない。 昨日まで小学生役の子役が子供を生むという障害設定のショッキングが売りがあることは否めない し、実際おもしろい。そもそもこれは単なる障害設定であり、それを志田未来の天才的なかわいらし さ、はかなげさ(あえて演技とは言わない)で情緒的に色づけしているだけではないか。 14歳で子供を生むことがよいとかわるいとかでなく、あの状況で子供を生むことを美しくみせること にどのような倫理が描かれているというのだろうか。それがまったくみえず美しいことがうすら寒いのだ。
117 :
考える名無しさん :2006/11/17(金) 02:03:41
山越えたな
個人所有の日記スレッドは下げること。
119 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/17(金) 10:17:55
障害設定ドラマでありなから、また不治の病と同じ構造をもつ。 死を担保にして生きることを美しく描く。死を担保にしているから生きることを美しく描ける。 しかしこの問題を病と同じ構造で描くことはよいのだろうか。この問題で安易に生の礼賛につなげてよいのだろうか
120 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/17(金) 10:22:45
いじめ問題の自殺の反響と便乗。死にはリアリティがある。もはや死しかリアリティがない。 死を担保にしてしかコミュニケーションが成立しない社会にむかっている。あるいはそれさえもリアリティを失いつつあるのかもしれない。
121 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/17(金) 10:33:44
死のリアリティは近代の発明である。なぜなら死とは主体の死であるからだ。 死んだらすべて終わるという死だ。 近代化の中で主体の自立がおこり、現代は肥大している言われる。それが終わることの恐怖。だから死はリアリティをもつ。 そして死を担保にしてしかコミュニケーションが不可能な社会へむかっている。肥大する中身はわからないが、肥大していることは共通である。
122 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/17(金) 10:49:46
しかし安易な死の担保はまた死のコミュニケーションが困難になっていることの裏返しかもしれない。 ここには死の二面性を考える必要がある。心の死と身体の死である。
123 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/17(金) 12:17:40
たとえば北朝鮮の地方では飢てしんだ子供の死体が道端にころがっているのが一般化している。 このような死体はいわば動物の死体である。コミュニティから阻害され、心あるものとしての強度が低下し、ただ身体として扱われる。 心はコミュニティ内の繋がりで保障される。しかし近代のコミュニティは豊かさ の広がりとともに希薄に広がり、他者からの依存、コミュニティからの逸脱が心を肥大させる。 死の重要性ははある意味で大きくなるが、またある意味で小さくなる。 すなわち心の問題の位置である。
124 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/17(金) 19:35:26
現代はコミュニティの拘束力が低下している中で代替可能性が浮上し、死の尊厳は低下する。 しかしいじめ問題の自殺はなぜあれほど反響をよんだのか ボクたちは画面の向こうのコチェビの死に心痛める。それを放置する北朝鮮の人々を非難する。 マザーテレサが来日したとき、街の浮浪者に手を差し伸べ、日本人はがくせんとした。 なぜボクたちは画面の向けうのコチェビに同情し、隣の浮浪者には無関心なのだろうか。 人は日常になれてしまうのだ。いじめの自殺は非日常としてボクたちの前にあらわれた。 そして重要なことはコミュニティを立ち上げることだ。コミュニティに支えられた死の価値は代替不可能性により保障される。 コチェビの死がコミュニテイを立ち上げ、彼らをボクたちの一部であると認識しているのだ。 現代のコミュニティは、かつての土着的に固定されたものではなく、そのつど浮上する。 階級社会から民主主義において、人間は平等になった。優生学は最近まで信じられていたのが、遺伝子的に動物的な差異により平等は保障される。 それが最大のボクたちのコミュニティであるがあまりに希薄だ。死でさえ情動的な産物となる。
125 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/17(金) 19:47:47
このようなリアリティと情動の関係はさまざまなところで表れるが、最近ではネットで顕著である。 ネットはさらに匿名で代替可能な場であり、流動性の高い場では、祭りによりコミュニティはつくらる。
126 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/17(金) 19:52:38
リアリティは波のようにあらわれ波のようにさる。 少し前、連日、飲酒運転の話題が取り上げられたきっかけは子供の死だった。 それもすっかり消え、いまはいじめである。これも悲惨な自殺からはじまり、そして飽きられていくだろう。 それが認知限界社会である。
127 :
考える名無しさん :2006/11/17(金) 19:56:13
┌───¬ ≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪ 》ミ三三彡《 ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ .〔≡≡≡≡〕 ≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦≦ .Eニニニニ∃ ノ::::::::::::::::::::::::ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ | __Π_lニl ┌‐‐┐| このスレ読んで | l_l-l | // ̄| ||  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | ノ/lニ/ l二__|| | unko no chikara.| 反吐が出そうなあなたに! | ┌┐ |  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | の l二  ̄l| | ノ / ̄| || | /_/ ∠_|| ≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧≧ | ウンコ エキス ドリンク| ≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫≫ | ケツミリン50o配合 | ≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪≪  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
128 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/18(土) 09:59:14
■なぜドラマ「14才の母」はうすら寒いのか 恋愛ドラマのリアリティ ドラマは基本的に障害がありそれを乗り越えることが描かれる。特徴的なのが恋愛ドラマだ。男女 が障害を乗り越え結ばれることを基本にする。問題は障害をどのような設定にするか。このような障 害設定は時代背景を反映する。 たとえば「ロミオとジュリエット」では、障害は家柄であり、駆け落ちものでは身分である。かつてはそ のような社会的な秩序(拘束)がリアリティをもっていた。 韓国ドラマは障害のデパートである。韓国ではいまでも日本では失われつつある家族関係、家柄な どの社会的な秩序(拘束)が重要視されているために、恋愛ドラマでも重要な障害として描かれる。 オバサンたちが韓流を好むのは、彼女達が若い頃にも日本でもまだこのような社会的秩序(拘束) が働いていたためだ。 最近の若い人たちではそのような社会的秩序(拘束)は、お互い好きなら良いじゃん!と、リアリティ を持ちえない。
129 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/18(土) 10:00:21
「不治の病」ドラマという王道 現代の価値多様化時代では、障害そのものが見いだしにくくなっており、様々に試行錯誤され、障 害のインフレーション状態にあるといえる。たとえば最近では「ブスの瞳に恋している」での障害はブ スであった。「結婚できない男」では、結婚に価値がなくなった時代という障害をいかに乗りこえるか である。 その中で現代の恋愛ドラマの障害設定の王道はなんといっても「不治の病」だろう。「ある愛の詩」以 来、最近でも「世界の中心で愛を叫ぶ」や「タイヨウのうた」など、様々に病名を変えて繰り返されて いる。 その中でも良くできていると思ったのが、「神様もう少しだけ」だ。深田恭子演じる女子高生は一夜の 援交の過ちでエイズに感染してしまう。そんな中、恋人に死なれて挫折しかけの人気音楽プロ デューサーと恋に落ちていく。援交というセックスの氾濫と対比して、エイズのためにキスをするのも 命がけという究極の純愛である。
130 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/18(土) 10:00:56
「死」のリアリティ これと同じ理由で最近流行っているのが医療ドラマである。「Dr.コトー診療所」、「ブラックジャックに よろしく」、「白い巨塔」、「救命病棟24時」、「ナースのお仕事」など。死を身近に描ける点で医療もの にはリアリティがある。 最近、いじめによる自殺が社会問題になっている。文科相あていじめ自殺予告が送付され、連日 ニュースで放映されて、衝撃を生んでいる。あるいは北朝鮮の地方にはコッチェビ(浮浪児)が、 人々が普通に生活している道ばたで餓死し放置されている。このような場面がワイドショーなどで放 映され、ボクたちは画面の向こうのコチェビの死に心痛める。 これらの例も、価値が多様化し、共有することが難しい時代においても、死は人々の心へ衝撃を与 える力、リアリティを持ち続けているといえるだろう。
131 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/18(土) 10:01:45
死の尊厳はコミュニティへの帰属により生まれる 死の尊厳において重要なことは、その死とコミュニティの関係である。コミュニティに帰属し、その人 が唯一の代替不可能な存在となることで、その人の死は尊いものになる。だからかつて人々が土着 的なコミュニティに帰属していたとき、死はそのコミュニティの一部の死として尊厳を持っていた。現 代なら、ニュースでみた「どこかの誰か」の死とは異なり、自分の家族というコミュニティの一員は代 替できない存在でありその死は尊い。 だからといって「どこかの誰か」だから死に価値がないわけではない。「どこかの誰か」であっても、 「人類」という同じコミュニティの一員であり、倫理的にその死は尊ばれる。 これは人類史でみれば、当たり前のことではない。つい最近まで「人は環境か、生まれか」と真剣に 議論されてきた。生まれながらに価値ある人種と価値が低い人種が存在した。近代以降、階級社会 から民主主義に向かい人間の基本的人権は認められた。そのとき「人類」という最大のコミュニティ が出現したのだ。コチェビの死に心痛めるとき、このような「人類」というコミュニティが作動している。 そしてこの平等と最大のコミュニティの出現、すなわちリベラリズムは、資本主義社会を作動するた めに必要であり、現代のグローバリズムの基礎となっている。
132 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/18(土) 10:02:29
なぜコチェビの死に心を痛めて隣の浮浪者の死に無関心なのか たとえばマザーテレサが来日したとき、街の浮浪者に手を差し伸べた。これに日本人は違和感を覚 えた。ボクたちは、マザーテレサがアフリカの痩せこけた子供を抱く姿をテレビで見ている。日本の 浮浪者はそのような対象だったのか。 そして疑問が湧いてくる。なぜボクたちは画面の向けうのコチェビに同情し、隣の浮浪者には無関心 なのだろうか。 簡単に言えば、人は日常になれてしまうということだろう。コッチェビを放置する北朝鮮人も、浮浪者 を放置する日本人も、そのような日常になれてしまう。そしてボクたちがコッチェビを見て心を痛める のはそれがボクたちにとっての非日常として現前化するからである。 しかし自分の家族が苦しむことになれることはないだろう。「人類」であれ、「日本人」であれ、大きな コミュニティへの帰属は弱いものである。コッチェビに心を痛め人は、次の瞬間にはチャンネルを替 えて、お笑い番組にゲラゲラ笑っているだろう。
133 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/18(土) 10:03:15
情動をフックにして浮上するリアリティ 価値多様の時代、多発する少年犯罪などで、死への尊厳は低下していると言われるとき、それは社 会というコミュニティへの帰属意識の低下が考えられる。現代のコミュニティは、かつての土着的に 固定されたものではなく、流動化しており、「不治の病」ドラマやいじめによる自殺やコッチェビのみ すぼらしさなどによって想起される情動をフックにそのつど浮上する。 現代では、リアリティは波のようにあらわれ波のように去っていく。少し前、飲酒運転によって子供が 死が人々の悲しみを生み、連日、飲酒運転の話題が取り上げられていた。それもすっかり消え、い まはいじめによる悲惨な自殺から、いじめ問題が連日放送されている。そしてそれもまた飽きられて いくだろう。 このようなリアリティと情動の関係はさまざまなところで表れるが、最近ではネットで顕著である。ネッ トはさらに流動性の高い場であり、祭りにより瞬間的なコミュニティはつくられ、リアリティを共有す る。このような瞬間的な情動によってしか、密接なコミュニケーションが成立しない世界である。
134 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/18(土) 10:04:09
妊娠という「病い」の「14才の母」 ドラマ「14才の母」が話題である。純真な女子中学生が好きな男子中学生との一夜のセックスから 妊娠してしまう。これはかならずしもラブストーリーではない。ここで設定されている障害は14才の 妊娠である。 しかしいまどき14歳で妊娠はそれほどめずらしくはない。このドラマの障害設定は普通考えると中絶 して終わりであるのに、生む決意をすることだ。中絶するか、生むか、すなわち生と死である。 ここには、「不治の病」ドラマと同じ構造がある。(胎児の)死への苦悩を乗りこえて、懸命に生きる。 死を担保にしているからなおさら生きることが感動的で美しい。 このような死を担保にした障害設定によって情動のリアリティを生むことは、エンターテイメントとして 常套手段である。そして障害設定がインフレーションする中、妊娠という「病い」が考えだされた。し かし中絶せずに生む理由がいまひとつ説得力をもたないまま、妊娠を「病い」と同じ構造によって感 動的に描くことはどうなのだろうか。 14才で子供を生むことが良いか悪いかでなく、あの状況で子供を生むことが、ただ美しく感動的であ ることがうすら寒いのだ。
お前も「不治の病」なんだな
136 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 17:14:56
■コミュニティはなぜ必要なのか その2 知識としての他者 自由な社会とはお金ですべてが買える社会 資本主義の快楽とはなにかといえば、「自由」ということでしょう。 >> 科学技術の発展は、このような「大きな負債」を軽減してきました。様々な天災、飢饉、疫病など人類 に未曾有の破壊をもたらすものに対して、防衛力を発達させてきたのです。それが、贈与の連鎖とし ての地域コミュニティの絆を弱めました。そして他者への依存を弱め、「自分の好きなように生きる」 ということを可能にしました。 また貨幣交換による資本主義社会そのものが、このような贈与関係の希薄によって可能になってい るといえるでしょう。貨幣交換においても、紙幣という紙きれに価値があるというルールを共有する 内部が必要とされますが、このような内部は贈与によって支えられるコミュニティに比べれば、繋が りとしては希薄です。 「なぜコミュニティは必要なのか その1」 <<
137 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 17:15:40
科学技術、そして資本主義社会の発展において、他者への依存が低減され、個人の自立と自由が 可能になってきました。近代化における宗教革命、市民革命は、従来の他者との拘束関係から個人 の自由度を高める震動であると言えます。そして貨幣交換による市場経済はそれら補完し続けてき ました。自由な社会の一つの究極は、お金ですべてが買える社会にあるでしょう。 >> だから一人で生きて行かなければならない。そのためのは「お金」だけが頼りになるのです。そして なんでもお金で買えるように社会システムの構築が進んでいます。お金があればなんでもできる、と いうのは、システム化された社会です。お金で買えるものによって、システムとして世界を網羅している。 「なぜコミュニティは必要なのか その1」 <<
138 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 17:16:36
回帰し続ける純粋略奪と闘争としての労働 しかし自然との闘争は決して終わりません。天からの「純粋略奪」は回帰しつづけます。産業革命以 来の急激な成長は、ある種の高揚感とともにがむしゃらに進みました。しかし高揚感から冷めてくる と、様々な問題が見えてきたのが、現代ではないでしょうか。たとえば環境問題は、人は結局、自然 を乗り越えていなかった。「自然にやさしく」はウソです。自然を乗り越えたつもりが、なにも乗り越え ていなかったという、無力を隠すためのものです。環境問題は回帰する天からの「純粋略奪」です。 そして天からの「純粋略奪」は、「例外状態」を生みます。大災害など極限状態においてお金はどれ ほどの力になるでしょうか。必死でいきるなかで、お金はただの紙切れに戻ります。貨幣交換を認め る内部の「例外状態」が生まれるのです。そして貨幣交換の繋がりが脆いものであることが暴露され ます。 マルクスは、コミュニティの基本は、労働があると考えました。自然との闘争、すなわち労働におい て、他者を必要とし、始めて本当のコミュニティの必要性が現れる。そして労働によって外部を内部 へ回収し、贈与しあうことで、天からの「純粋略奪」を乗り切る。そこに現れるのがコミュニティです。
139 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 17:17:40
卑近な他者から知識としての他者へ しかし科学技術の発展、高度情報化社会において、生存ために他者への依存を弱めたという意味 は、他者が時間的、空間的に卑近な者である必要はなくなってきたということです。現前の他者より も、時間的には離れている他者=過去の他者や空間的に離れた他者によって、より有用な情報、知 識をえることができます。すなわち「知識というの他者」です。 現前の他者は、かわらない他者です。助けあい、贈与返礼によって交換を行います。「知識の他者」 は、必要なときにより有用な情報をもつ他者と繋がるという特定されことがない他者です。そして知 識を得るためにはコストがかかります。 このような意味で他者を捉えると、ネットの必然性が見えてきます。ネットはローコストで「知識の他 者」と繋がることを可能にします。
140 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 17:43:44
他者はただ生存を助け合うものではない。欲望は他者の欲望への欲望である。
141 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 17:56:01
資本主義は人々を卑近な他者から分断し、知識の他者化する。 そして知識な他者との距離は貨幣交換いよって繋がり、 そしてその差異に資本が生まれる。 しかしそれをネットでつなぐときに、大きな変化が起こる。
142 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 18:31:09
マーケティングは人々の要求をつかむことではない。 差異を利用し、そこに欲望を演出する。 ネットでつなぐとき、差異は埋まる。必要なときに、必要な知識を与える。 間をつなぐ、貨幣交換は必要がなくなる。 しかし現在のネットでは必要な知識を得ることができるだろうか。 たとえば他者の役割とはなにか。 他者へ求められるものが、 簡単な所では体系化された「知識」を聞くこと。 これはすでに体系化している時点で、 ネットでなくても、百科事典などで調べられる。 かつて村社会では老人が重要視された。 長老こそが知識だったから。 だからこそ、現代において他者に求められるのは、 より曖昧なものである。相談するということがある。 漠然として不安、あるいは問いになる前のものである。 ネットの検索は、いわばこの百科事典である。 なにを知りたいかわかり、それに関するキーワードによって 検索する。百科事典がより広く、安価にネット上に映っただけと 言える。 ネットの機能が、検索によるデーターベース機能であるとともに コミュニケーション機能であるのは、問いになる前の不安に 対応している。
143 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 23:31:13
「卑近な他者」から「知識の他者」へ 近代では、人々を「卑近な他者」から分断し、「知識の他者」を提供する。そして知識な他者との距離 は貨幣交換いよって繋がり、そしてその差異から資本主義は資本を生む。 たとえば他者の役割とはなにか。他者へ求められるものが、簡単な所では体系化された「知識」を聞 くこと。これはすでに体系化された学問であり、百科事典に象徴されるような知識である。かつて村 社会では老人が重要視された。長老こそが知識だったからだ。もはや老人に聞くよりも、本や専門 家などの「知識の他者」に聞く方が的確である。 さらに現代ならば、ネットの検索に対応するだろう。求める答えは広大なネット上のどこかにある。そ れを、いかに迅速に提供するかが課題である。それも限りなく低コストである。
144 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/19(日) 23:31:46
「繋がりの他者」 ネットの機能が、検索によるデーターベース機能であるとともに、コミュニケーション機能であるの は、求めているのが、「知識の他者」だけでなく、「繋がりの他者」であるからだ。 他者とは欲望の対象であり、原因である。マーケティングは人々の要求をつかむことではない。他者 が欲望しているような対象を演出することで、人々の欲望を作り出す。すなわち求めるものがわかっ ているわけでなく、他者が欲望するものを欲望することで、繋がることを求めるのだ。そこに意味を 見いだすのである。 このようなニーズは、本や専門家などの「知識の他者」に聞いて、わかるものではない。たとえば多く の悩みは素人である知人に相談する。このときに知人に専門的な知識を求めているわけではなく、 聞いてもらうことに意味がある。それは問いではなく、問いになる前の漠然として不安である。
電波注意報
146 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/20(月) 20:54:11
コンビニでは賞味期限の弁当は捨てられる。このように日本では大量の余剰が生まれている一方で、 世界では多くの人が飢えて死んでいる。素朴な疑問として、この差異を足し算して世界をより平準化で きないか、というものがある。 大きな問題が輸送である。日本の食料を腐らさずに迅速に海外の人々へ供給するためには、食料以上 の輸送コストがかかる。しかしコンビニは身近な飢えた人々にも、賞味期限の弁当を配ることはしない。 仮に賞味期限をタダで配れることをシステムに組み込めば、お金を払って購入する人との関係がくずれ るからだ。賞味期間を超えればただならば、賞味期限になるまでまってタダでもらう方が徳だ。購入する 意味がない。ということだ。 近代化の特性は、分業にある。得意なことをそれぞれ分担することで、全体の生産の効率がある。しか し分業には、分布された生産物をいかに平準化するかが大きな問題となる。そして平準化の過程こそ が資本が生まれる過程である。 だから差異を優位に活用することが重要になる。ある商品が世界に不足することでその商品は高騰す る。だからといって、その商品が高騰しすぎると、人々は買わなくなる。それが需要と供給の関係であり、 市場はこれらの駆け引きの繰り返しによる「神の見えざる手」によってバランスされる。
147 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/21(火) 02:58:43
なぜ「かわいい」が浮上するのか ネットの未来 知識の他者から繋がりの他者へ、そして神の他者へ 知識の他者 コンスタティブな知識をいかに迅速に的確に提供するか 繋がりの他者 パフォーマティブな不満足をいかに答えるか それは問いさえもわからない不満足である。 それは他者との卑近なコミュニケーションにおいて解放される。 Googleなどの検索は、知識の他者へナビゲートするが、 繋がりの他者を与えない。 パフォーマティブとはコンテクストの中で現れるものである。 そのようなコンテクストをサーチすることはできないだろう。 だからWeb2.0である。Web2.0は場(コンテクスト)を提供する。 ネットにおいて、満足する出会うはとてもむずかしい。 そのような出会いの場を提供する。
148 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/21(火) 03:06:38
なぜ「かわいい」が浮上するのか 人間関係のストレスが上がっている。 その中で「かわいい」は潤滑油として機能している。 癒しであり、萌えであり、エビちゃん的かわいいであり。 子供であり、ペットであり、キャラクターであり、ファッションであり、タレントであり、 「かわいい」を介して、コミュニケーションが行われる。 人が「かわいい」を目の前にしたとき、心和らぐ。
149 :
考える名無しさん :2006/11/21(火) 03:35:39
嫉むが。
IQ75の苦悩
151 :
考える名無しさん :2006/11/21(火) 10:37:37
>>1 ◎ 回答者
林: あなたの病気は悪化しています。
薬をやめたのが原因です。
このままでは危険です。
薬を再開し、主治医の先生にあなたの今の状態をよくお伝えしてください。
152 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/21(火) 11:18:15
人は不思議な生きものですべての行為を自らのアイデンティティとして回収しようとする。 ある行為はある目的のために行われるが、しかしまたその行為をした者として回収される。 それはまた転倒され、なにものかであるかのために行為が行われる。
153 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/21(火) 11:44:14
これは人に根源的に働く作用であり、行為のなかでも非功利的な行為全般をよく説明する。 最近高齢者の万引きが急増しているらしいが、彼らは社会的コミュニケーションから切り離され、誰でもよいから自らの存在をしってほしくて万引きするということだ。 あるいはネットでは自らの裸の写真を公開する少女が増えているということだ。 これらの非功利的行為は他者に自らを示すために行われる。そして他者は特定の誰でなく、だれかである。 ブログを書く行為も功利的な説明以上のものがあり、そこには、だれがにむけて自らを示したいということだ。
154 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/21(火) 11:57:27
万引き老人は社会から断絶して、万引きGにしか繋がれなかった。 裸体公開少女はネット上に繋がりを求めた。 現代はつながり難民がネットへ上陸している。救済の場となっている。 現実では功利的な行為に従い、ネット上に非功利的な行為が行われる二極化がおこっているのかもしれない。 2ちゃんねるの多くの悪意をみるとそのように感じる。2ちゃねらーは現実では普通の人だろう。
155 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/21(火) 12:05:40
そのように考えるとグーグルなどの広告収入もわかるかもしれない。 現代の消費とは非功利的行為だからだ。誰かに自らの存在を示すために消費はおこなる。 まさにこのパフォーマティブな付加価値こそが高い貨幣価値を生む。
156 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/21(火) 12:21:21
しかしこの自己証明する欲望は人間の本質だろうか。 近代の発明ではないだろうか。自己証明は他者によってしかされない。他者との繋がりの中で見いだされる。 近代に入ってからの社会の大きな転換は人々が場から解放したことである。 社会制度とともに資本主義社会において、人は労働者であり、消費者であり、一人の自立した主体であることを求められた。 ここに欠落感が発生したといえる。 自由になった。さて何をするか。さらに何かをしなければという脅迫的欠落感が生まれる。 豊かになるほどに脅迫性はますというジレンマである。
157 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/21(火) 12:30:21
人は豊かになるほど自由になりそして主体は独立し、繋がりが希薄化し、自己証明はヒステリックになる。 だれもが疎外され疑心暗鬼な社会。
>>157 ◎ 回答者
林: あなたの病気は悪化しています。
薬をやめたのが原因です。
このままでは危険です。
薬を再開し、主治医の先生にあなたの今の状態をよくお伝えしてください。
159 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/23(木) 13:52:08
代替可能性は、低コストになる。どこにでもあるほど、安くなる。 商品でも、労働力でも同じである。 様々な労働は合理化が進んでいる。 合理化とは代替不可能性を代替可能性へ回収することである。 しかし代替不可能性は決して尽きない。 合理化によって代替不可能性を代替可能性へ回収するで、 むしろ代替不可能性が広がり、多様化している。
160 :
考える名無しさん :2006/11/23(木) 20:01:26
皆様優しすぎます それにメールしても返事ないよ 本気の方お願いします 妻を性処理奴隷に調教してくれませんか? 妻のプロフです34歳で清楚です。締まりは最高ですよ上から88.60.90位です男との経験も二人しかいません 妻とは二年間セックスしてません。皆様で妻への奴隷化計画をして下さい 最初の知り合う切っ掛けと一番変態な調教内容の方にお返事します切っ掛けはお任せします。 レ○プが手っ取り早いですよね 調教内容もメチャクチャにして欲しいです 全て私が責任持ちますから過激な調教内容をお待ちしてます身体に傷か残っても改造しても構わないです
161 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 11:59:01
去勢されポジショニングされるべき社会の位置が見いだせないいま、 人々は身の回りのディテイルへのこだわることで平静をたもつ。 不安定で流動性が高い中では決まったところに決まったものが決まった時間という安定反復を求める。 このような神経質な素振りは現代ではだれもがもっている。 さらにこのような傾向は様々な細部へのマニアックなこだわりに向かう。 またこのような傾向として他者回避がある。他者とは不確実な存在であり、避けられるべきである。 ドラマ「結婚できない男」ではこのような男が描かれていた。 自らの趣向に埋没し、安定反復とコントロールされた無垢に喜びを覚える。面倒な他者は回避される。 仕事も個人経営で好きな物件をあつかい、妥協はしない。 まわりからは良い仕事はするが人付き合いが悪い変人にみられている。 その男がまわりとの関係しながら、人を好きになっていく。 少し前ならジャックニコルソン主演の映画「恋愛小説家」で描かれていた。
162 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 12:23:46
前評判もたいして高くないこのドラマが高視聴率をとったのは、滑稽なディテイル描写のうまさと人々の共感だろう。 映画「間宮兄弟」を見たがこの兄弟も同様な女性にもてないこだわりの男たちである。 この物語のおかしさは三十歳をすぎてもペアルックをくるぐらいの異常な兄弟の仲の良さにある。 普通、家族はある距離をもってかかわる。特に社会人になれば家族から離れ、社会の中で人間関係を築いていく。 これは精神分析的には去勢といわれる。家族は自分の一部のような存在であり、家族で閉じることは閉塞をうみ、近親憎悪にいたる。 去勢されることで社会へと開かれていく。 だから間宮兄弟の気持ち悪さは近親相姦的なものである。しかし彼らはそれぞれきちんとした職につき、社会関係をきづいている。 さらに彼らの関係は近親憎悪的な粘着なもなく、趣味を共有ような友達関係である。 彼らのまわりで様々な人が描かれるがみんなどこか壊れている。肉体関係だけで親に紹介してもらえない小学校教諭、彼氏に相手にされない子、流されるままに離婚する友人。 間宮兄弟という近親相姦的きもさがまともに見えてくる。彼らは去勢されてももはや居場所を見いだせない社会から回帰し、 仲の良い兄弟関係の中に居場所を見いだしたのだ。 近親相姦的関係にいたらないようにあれらの間にはいても物への細部へのこだわり、ディテイルがある。
163 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 12:37:01
かつて「母はつよし」などといったが、母とは社会的な役割である。去勢され社会的な立場に立ち、そこにある強い使命感が人のアイデンティティをつくり、強くした。 父であり、兄であり、教師であり、上司であり。 現代では役割、使命もあいまいになり、それだけでは強くなれない。 よりディテイルにむかっている。
164 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 20:13:34
■なぜ人々はディテールにこだわるのか ドラマ「結婚できない男」のおもしろさ ドラマ「結婚できない男」(ASIN:B000ILZ3WG)は前評判もたいして高くないのに、高視聴率をとり、評 判になりました。阿部寛演じる40代の独身建築家は、自らの小さな設計事務所で自分が納得する こだわった仕事をしています。そして私生活でも誰にも邪魔されない好きな趣味の世界に埋没し楽し んいる。彼にとって人間関係は自らの楽しみを妨げる煩わしさものでしかありません。だからまわり からは良い仕事はするが人付き合いが悪い変人にみられています。そしてそんな男がまわりの 人々と関わりながら、一人の女性と恋に落ちていくという話です。 このドラマのおもしろさは、このような趣味型人間のディテール(物の細部)へのこだわり方を緻密に 描くことで、その滑稽さともの悲しさが浮き彫りにされるところです。このような自らからの趣味に埋 没する楽しさと孤独は、現代人だれもがもっているものではないでしょうか。そのために人々の共感 を呼んだのでしょう。
165 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 20:14:50
映画「間宮兄弟」のおかしさ 同じような滑稽さを醸し出しているのが、映画「間宮兄弟」(ASIN:B000J107L2)です。この物語のおか しさは30代になっても同居し続け、ペアルックを着るぐらいに仲の良い兄弟という「異常さ」です。 普通、大人になれば、家族から離れ、社会の中で人間関係を築いていきます。これは精神分析的に は「去勢」といわれます。家族は自分の一部のような存在です。そこに閉じ困ることは居心地がよい が、閉塞をうみ、近親憎悪にいたります。人は、家族という閉じた世界から社会へと開かれていくこと で大人になっていきます。 だから間宮兄弟が醸し出す気持ち悪さは近親相姦的なものです。しかし彼らはそれぞれきちんとし た職につき、社会関係も築いています。彼らのまわりに様々な人が登場しますが、みんなどこか壊 れています。肉体関係だけで親に紹介してもらえない常盤貴子演じる小学校女教諭、彼氏に相手に されなくても別れられない沢尻エリカ演じるビデオ店員、強引な女上司に口説かれ流されるままに妻 と離婚する友人など。 彼らとの関係の中で間宮兄弟への近親相姦的気持ち悪さは薄れ、「間宮兄弟」がとてもさわやかな ものに見えてきます。
166 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 20:15:48
「間宮兄弟」という「儀礼」 不安定で流動性が高い社会では、もはや家族から「去勢」され社会へ開かれても、そこに居場所は 見いだせません。そしてみんな居場所を探して社会の中を徘徊しています。だから間宮兄弟は社会 から回帰し、仲の良い兄弟関係の中に居場所を見いだしたのでしょう。しかしそれは近親相姦的関 係への回帰ではありません。 たとえばポップコーンをほおばり、スコアボードとつけながら、野球中継を見る。応援してるチームが 勝つと紙吹雪をまき、ハイタッチする。小学校女教諭やビデオ店員を呼んで、カレーパーティや浴衣 パーティーを開く。寝る前に反省会が開く。それらすべて、どこか「演技的」であり、「儀礼的」です。 彼らは自らの滑稽さをわかっているのでしょう。それでもあえて「間宮兄弟」を演じあうことで、近親相 姦的、閉塞的な直接性を回避しつつ、居場所を確保し続けている。そして彼らの距離を保つのが、 ディテール(物への細部)です。ディテールにこだわって演じ続けることで居場所が確保されているよ うにふるまわれます。
167 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 20:17:03
「知的労働者(ナレッジ・ワーカー)」は「勝ち組」か
>>
ピーター・ドラッカー氏が指摘する「ITより重要なもの」
知識労働力(ナレッジ・ワークフォース)へのシフトが急激に進み、製造業における従来のブルーカ
ラー職は消えることになるでしょう。先進諸国においてブルーカラー職の数は急速に減少しておりま
す。ただし日本ではいまだに製造業が大量のブルーカラー労働力を雇用しています。
知的労働者(ナレッジ・ワーカー)は自らの仕事をブルーカラーの仕事とは大きく異なると考えていま
す。日本の標準的なナレッジ・ワーカーは、経営管理者(マネジメント)への昇進を望んでいません。
彼らはナレッジ・ワーカーとしてあり続けることを望んでいます。・・・経営職に就けば、今よりずっと良
い給与をもらえるにも関わらずです。こうした人たちの登場は大きな変化の一つです。
あらゆる先進国にとって、来る10年における大きな課題は、会社で働くすべてのナレッジ・ワーカー
をマネジメントする方針を確立し、生産性を上げることです。・・・ナレッジ・ワーカーの多くは、自分の
知識をどのようにして仕事に活かそうかと考えますが、会社の使命についてはあまり真剣に考えて
いません。これからはナレッジ・ワーカーが、自らの仕事を会社の共通の目標に向けていくようにし
なければなりません。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/biz/shinzui/shinzui1122/shinzui_06_01.shtml <<
168 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 20:17:59
本内容は2003年に行われた故ドラッカーへのインタビューです。「知的労働者(ナレッジ・ワーカー)」 は金銭よりも、地位よりも自らの技術に誇りをもち、仕事をしている。そして経営側にたって、彼らを 管理することの難しさが語られています。 「結婚できない男」は建築家、「間宮兄弟」の兄はビール会社に勤めるテイスター、弟は小学校の用 務員(小学校内の雑用をまめにこなすため、用務員室は職人部屋のように様々なものが整理されお かれている。)彼らは「ディテールへのこだわり」を元にした「知的労働」を担保に仕事をしています。
169 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 20:19:09
社会的役割からディテール(物の細部)へ かつて「母はつよし」などといわれましたが、「母」とは社会的な役割です。去勢され社会的な立場に 立ち、そこにある強い使命感が人の自信に繋がりました。それは「父」であり、「夫」であり、「教師」で あり、地位があること、さらにはお金をもっているということです。 しかし現代では役割、使命も曖昧になり、それだけでは強い自信にはなりません。そして自信をもつ とは自らを他者にかわれないで何者として見いだすこと、代替不可能性への自信であり、アイデン ティティ(自己同一性)を見いだすことです。 そして現代において、このような自信を補完しているのが、「ディテールへのこだわり」です。彼らは どちらかといえば高収入であり、自らの仕事に自信を誇りを持っています。しかしそれだけで、「勝ち 組」と言えないところに、これらの物語のおもしろさがあります。
170 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/24(金) 20:20:17
ディテールにこだわりらずにはおれない 仮に「専門性を持つナレッジ・ワーカー」が優位だとしても、同じ「ナレッジ・ワーカー」とは限らないで しょう。流動性の高い社会では、テクノロジーの変化がはやく、専門性の進歩も早く、入れ替えが起 こるだろうからです。 しかしそれよりももっと根本的なことは、「ディテールへのこだわり」は単に優位な労働ということでは なく、現代人の生き方、あるいは生理そのものに関わっている、関わらざるおえないものであるとい うことです。 人々は身の回りのディテールへのこだわることで平静を保ちます。決まった時間、決まったところ、 決まったものという「安定反復」が求められます。このような神経質な性行は現代ではだれもがもっ ています。そしてこのような傾向は「他者回避」に向かいます。なぜなら他者とは予測できない不確 実な存在だからです。 たとえば、ジャックニコルソン主演の映画「恋愛小説家」(ASIN:B000H1RH30)でもこのような神経質な 作家が描かれていました。その中で最初に登場する他者は「犬」でした。言葉が通じず、なにをする か予測できない粗雑な存在。 この存在に神経質な作家は「安定反復」を乱されイライラします。ドラマ「結婚できない男」でも同様 に、お隣の犬を預かる羽目になり、イライラさせられる話がありました。そしてどちらでも、その「犬」 へ深い愛情を持つことになります。そしてこの最初の無邪気な「他者」を受け入れることで、次のス テップとしての「恋愛」へ向かいます。 これらの物語はディテールへのこだわりざるおえない現代人の滑稽さともの悲しさ、そして救済する 物語なのです。
私40歳、妻37歳のSWでの体験です。 SWを始めて2年になり刺激的なSEXライフをエンジョイしていました。夫婦間のルールとして内緒でのプレイはしない事を厳守してきました。 相手のご夫婦は旦那様50歳、奥様42歳で共に感じの良い方で妻も乗り気でお互い3時間のデート型でのプレイを楽しむ事になりました。 私は相手の奥様の淫乱丸出しおまけに剃毛オマンコの刺激に翻弄されていました。一回戦が終わり奥様が「私には貴方のサイズが良いわ旦那のは大き過ぎて最近痛いの」と言われました。 私も並以上だと自負しているしSWした奥様からも大きわねと言われてました。相手がびっくりして挿入拒否、風俗では相手してもらえないらしいのです。 中には旦那様の虜になって問題起こす奥様もいると聞いて2回戦は不発でした。時間になり待ち合わせの駐車場に行くと先に来ていましたが車の中で抱き合っていました。 型どおりの挨拶を交わし又と云う事で別れましたが妻のオマンコがどうなっているか気もそぞろ家に帰るまで待てずに人気のない所で車を止め妻のオマンコを覗きこみました。 どうだったと聞くと「いつもと同じ」と言うだけです。然しこれが悪夢の始まりでした。
172 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/25(土) 20:47:48
犬の散歩に女の子たちがかわいいと集まっている光景がある。 現代は無関心の儀礼の時代である。他者へ干渉することは避けられる。特に電車の中など人が集まる程に求められる。 しかし赤ん坊をつれた母親にかわいいですと、見ず知らずのおばさんが話し掛けたりしている。 たとえばナンパテクとしてかわいい犬をだしにつかう、あるいはその女性がペットを買っているとその話をさせ、警戒をとくというものがある。 このように「かわいい」とは現代のマジックワードであると言える。
173 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/25(土) 20:58:51
少し前、現代の女性にとってかわいいがいかに重要かNHKで特集をしていた。 「これかわいぃ〜」と言わせることが女性たちの購買につながり、商品のヒットとなる。 その意味でエビちゃんは「かわいぃ」教のカリスマである。番組では広告でなく商品開発にエビちゃんを起用する姿がうつっていたが、 まさに様々な試作品を見せて、エビちゃんの「これかわいぃ」で価値が決まるわけだ。
174 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/25(土) 21:05:53
このような「かわいぃ」という感性の難しさは、たとえば女性がドクロの人形に、 あるいはくたびれた?サラリーマンのオヤジに、あるいはアンガールズに対して「かわいぃ」ということでもわかる。 単に通常の意味での「かわいい」とは異なる。 たとえばこれは女性だけのものではないだろう。オタクの「萌え」もかわいいのバージョンの一つである。
175 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/26(日) 15:40:02
たとえば、伊藤美咲とデートすることになったとする。軽いパニックになるだろう。どのようなデートプ ランを立てればよいのか。彼女ぐらいの女性になると多くのデート経験があり、ちょっとのことでは喜 ばすことはできないだろうと、不安になる。 ドラマ「電車男」で伊藤美咲演じるエルメスとの初デートにおいて、電車男は下見をしにいく。このよ うな不安の中で、人が行う一般的なことは、用意周到な準備である。細部まで計画を立て、細部に ついて知識を知る。 知識など細部へ埋没する現代人の性行は、このような対人関係への武装の意味をもつ。知識を身 につけることで自信をもつということであるが、多くにおいてそのような目的から解離し、ディテイル に埋没することそのものが不安の解消に向かっている。他者回避、現実逃避の面が強い。
176 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/26(日) 19:16:13
日本では新譜はほどんとが水曜日に発売される。この理由がオリコンの週計が水曜日から始まるからである。 水曜日に発売することで、発売1週目のオリコンの週計売り上げがもっとも高くなり、チャートが高くなる。 週チャートで高いポジションを取ることで、その後の販売においても、オリコン1位の!いま話題の!という 販売が優位になる。 日本でのドラマは1クール(3ヶ月)が基本であるが、その第一週の視聴率が重要である。 ドラマのヒットは1週目で評価されることが多い。今話題の。大成功。そしてその後の視聴率も、 1週目が高いと高視聴率を維持するし、低いとその後挽回することは少ない。 アメリカのビルボードでは、1週目は重要視されない。1週目から売れるのはよっぽどの 実績があるスターのものであり、多くのものは発売後に広がり、じわじわ売れて、チャートを上げていく。 このような傾向は、日本人の「新しもの好き」、あるいは同調圧力の強さ、あるいはハイコンテクストな社会と 言われる。
私の文章力の無さで一度にお伝えできず申し訳ありません。この掲示板に書いてて、農家しか知らない私と、東京で働く彼とでは全てが違うんでしょう。 女性は都会で働く男に興味を惹かれるのは自然な事だと思います。 食事の後、自分に納得させるように寝まして、4日目を迎えました。朝、妻は子供達へ電話をし楽しそうに観光の状況を話して。 それはきっと彼と出会えた(表現は違うかもしれませんが)から旅行が楽しいのか?と疑心暗鬼になってしまいます。
その日は、翌日帰るので、お土産を買ったりのんびり過ごしました。 そして忘れもしないその晩です。 食事を部屋で取りお風呂に妻と行こうとしたらロビーで彼は新聞を読んでて、また会いましたねと笑顔で挨拶をし、妻も縁がありますねと挨拶を返し。 明日帰る事を妻が伝えると、彼が今夜は飲みましょうと言ってきて、私は凄く嫌悪感を抱くほど嫌でしたが、変に思われたくなく、妻がどうする?と聞いてきて、後ほど飲みましょうとなりました。 最後の夜なので、彼がお酒は用意しますので後ほどお部屋に伺っても宜しいですか? と聞いてきて・・・渋々了承をしました。私はお風呂から上がり先に部屋に戻って数十分後に彼が訪ねてきて妻が戻る数十分の間世間話をしてました。 妻が戻ると、既に彼が居て驚いて挨拶をし、彼はお風呂上りの浴衣姿色っぽいですねと全身を見るような視線で。 妻が別部屋で髪を乾かしてる間お酒を飲み始め、妻もその後合流し私の隣に座り一緒に飲み始めましたが、次第 に彼が晩酌してくださいと妻にお願いをしてきて、私もしてあげなさいと言い、私と彼の間に妻を座らせ妻は彼に晩酌をし、 妻も結婚して以降お酒をゆっくり飲んだ事も無く、余り飲める方でもなく。 その時私は行けなかったのでしょう・・・早く彼が部屋に戻ってくれないかと内心思いながら急ピッチで焼け酒のように飲み、 彼と妻は大丈夫?と聞いてきたがその二人の雰囲気に嫉妬を感じ。 私が酔ってきて、そしたら彼は妻の手相を見てあげるとか言って妻の手を握ってきたり、浴衣がはじけて来て太ももが見えて彼は嫌らしく触りたいとか言ってきて。 妻は笑って私はおばあちゃんですよとか言って二人は楽しそうに見えて。 私はその場が嫌で一人勝手に飲みすぎてしまって意識が朦朧として、彼が私を追い出すように私を隣の部屋に運んで、妻は私に潰れちゃってと怒って。 それから40分ぐらいでしょうか、ふと目が覚めもちろん隣に
179 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/26(日) 20:41:00
ディズニーランドは「かわいい」の世界である。
彼「ご主人は酔って寝てるよ、奥さんを見てから惚れちゃったんだよ」 妻「駄目ですよ、からかっても」 彼「奥さん綺麗だよ。胸浴衣姿でも大きいなと思うけど何カップなの?」 妻「・・・Gです」彼「毎晩旦那さんに抱かれてるでしょ?」妻「もう何年も・・・」 妻は寂しかったのか?なぜ拒絶して離れようとしないんだ。そういう押し問答が続き、妻は根負けしたのか触るだけならと許したのです。 妻は私が寝てるか部屋に来そうになったので、私は急いで寝た振りをし、妻は私が寝てる事を確認し障子を閉め部屋に戻ったんです。 慌てて障子の隙間を開けたら、妻は障子に向かって正座をするような形になり、彼は妻の背後に座り・・・妻は浴衣の紐を解きブラジャーの姿になったんです。 普段妻の体を見ても勃起する事が無くなり女として見なくなってた自分が興奮し、彼と妻の行為を見たいと言う願望が沸き起こってきたのです。
彼は背後から両手で妻の胸を持ち上げるように触ってきて。その姿が、私から見たら正面で・・・。 私を起こしたくないのか、必死に声を押し殺してるのか、彼は嫌らしく私の妻の胸をブラジャーからだとはいえ、段々激しく揉んで来て。 妻も高揚したのか喘ぎ声を出し始め。彼はブラジャーのホックをはずしおっぱいが露になってそれからの行為が私とは比較にならないぐらい。 それを妻は気持ちよくなってしまっているんです。 その光景が1時間以上続き、彼は部屋に戻り妻はぐったりとして、私は情けなく隅で妻と彼との行為に興奮して。 次の朝、妻は何も無かったような普段の表情で私と居て、そのまま彼とは会わず自宅に帰りました。 しかし、あの光景が今でも忘れられず、悔しさと妻が他人との行為に興奮した自分への情けなさで葛藤してる日々です。
27歳・25歳の夫婦です。 一度他人にと思っていはいるのですが、否定されて全くかないそうにもありません・・。 近々一泊での旅行を予定しています。 宿泊先で頼んだ普通のマッサージだとウソを装って性感マッサージさせてみようかと思っています。 ただ、その際に女性のマッサージ師がいいのか(いるのかな?)男性のほうがいいのか迷います。 やはり同じ女性同士の方が安心してマッサージしてもらいそうな気がします。 また、男性・女性の2人のマッサージ師に来てもらい、各々でしてもらうか・・・。 どなたか同じような体験された方いらっしゃいませんか?最後まで行かなくてもいいので濡れているのが確認できればと思います。
情けない行為って書かれちゃうとなー・・月に一度は妻と単独さんとのプレーを見てますよ。しかし三年も女と見ない旦那さんもひどいな。
同じく興奮しましたよ!また「情けない事」では決してないですよ。 新しい興奮と、新たな奥さんへの感情 だと思います。 奥さんは旦那さん事を愛していても、一方 女性ですから他の男であっても、安心した男であれば、触れられて感じてしまうものだと思います。 奥さんも、波平さんも、いい経験をされたと思います。 少し時間が経ったら、「実はあの時、見ていたんだよ♪」と打ち明けてあげるといいと思います。 変に罪悪感をもったまま苦しいかもしれませんし。 怒っていない事を教えてあげて、新たな興奮を共有した方がいいと、思います。 いやぁ興奮しました!
都内在住、43歳の既婚中年男二人です。大切な奥様を寝取られたい願望のある旦那さんはいませんか?ガテン系中年オヤジ二人の一夜妻(3〜4時間)として、私達に大切な奥様を貸し出してみませんか?男二人に貸し出すのは不安だと思いますが、メールや電話でお話して決めて下さい。
186 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/26(日) 21:39:19
おっぱいがお尻のメタファーである。しかしメタファーの方が重視されているという転倒。
夫婦生活でもそんなことがあろうとは・・・・
結婚5年目、30半ばで日に日に他人に妻を抱かせたいとの野望が大きくなり、 いずれと思っていましたが、先日実現しました!!妻とは最近夜の方でも冷え切っており、毎日、妻に内緒でこのようなサイトに出入りしていたのですが、ある晩家路に着くと、 妻から呼び止められPCへ・・・。ソコには輪姦サイトが・・・。 バレた!!怒られると思っていましたが、以外にも妻の反応は優しく、そんなにしたいのなら浮気されるよりマシとアッサリOK。 早速妻と2人で輪姦相手探しに・・・。
189 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/26(日) 23:03:27
様々な規則の根拠は掘り下げると曖昧なものだったりする。 しかし一度決まると、それが規則として反復される中で、 強い強制力をもつ。 たとえば車の運転は18才からとして、17才ではなぜだめか、 あるいは個人差があるとか、あっても、 一度決まった規則は強い強制力をもつことになる。 そして決定した規則は、その他の根拠となり、それに準拠した法則を 作りあげている。そして自立的に体系が形成される。 それが「象徴界」である。
はじめは3Pと思いましたが、妻は若い子が、私はおじさんに抱いて欲しかったので意見が割れましたが、 2〜3人呼ぶ事で納まり(妻がよくOKしたと思ってます)いきなり輪姦となりました。 当日はドキドキしていましたが、妻の方は割りと平気らしく私だけおどおどしていたように思います。 私が言うのもなんですが、妻は年の割りに若く見られ、子供も産んでいないせいか、 スタイルもそこそこだと思ってましたが、参加者からは好評で思わず妻もニッコリ^^ 私よりおじさんが1人、20代2人と妻の好みに偏りましたが、始まりはやはり年の功、おじさんが先人を切ってキスをし触りだしました。 我先にと妻を皆で脱がし始め、全裸になる頃には妻のあそこはぐっちょぐちょ!妻もフェラをがんばってし早くも若い子は口に放出。 飲精は嫌がる妻ですがこの時ばかりは、ゴクゴク飲み干し、早くもエロモードに・・・。おじさんが我慢でき無そうにゴムをハメ、妻のおまんこを一突きすると妻は感じてすぐに逝き、 その後おじさんも割りと早く妻の2回目のアクメと共に果てました。 2人目の若者もあとにつづけとばかりに妻のアソコにバックから・・・。 ココでしゃぶってもらっていた私のモノも耐え切れず妻の口へ・・・。 私も満足しトイレ行き休憩を取り目を離していると、2人目、3人目と変わっていましたが、妻は今までに無く感じている様子。 よく見るとゴムなし、中出しされているではアリマセンか!? 中出しされてしまい、どうすることも出来ず仕方なく眺めていると、妻は感じ、逝き、ソレと共に他人の精子を自らのおまんこに次々と受け入れ。 ドロドロになり終わりました。 家に帰り、妻のおまんこを広げると、ドロドロと他人汁が流れ出す始末。 ソレを見て、私も妻に放出。 ピルなどと言うものなど飲んでいませんでしたので妊娠が気になりましたがナントカ平気でした。 妻はまた、してもいいと言っております。これからも生で・・・。
「申し訳ありません、実は他の人の子供を妊娠してしまい中絶しました。離婚されても異存はありません」40歳の妻から突然告白を受けました。 半年前の出来事です。 それからずっと悩み続けましたが、ようやく元のさやに納まりました。 しかし、私の中にうまれたのは「他人に抱かれ、生で精液を注がれる妻を見たい願望」でした。 すべてを話すなら許すと言う条件で妻と話し合いました。 初めての出来事は妻がホストクラブにはまってしまい。その店の男の子に抱かれたのが始まりでした。 その男の子は有名なクラブのママのお気に入りで、そのママにその事がばれてヤバイ系の人が妻を輪姦したのです。 そのうちの1人が超巨根の持ち主で、妻はその男に何度も抱かれ写真まで撮られていたのです。 妻に画像を見せられたとき心臓が止まるほどドキドキしました。 25cm位あるチンポを差し込まれてのけぞり喘ぐ妻の写真と妻の中から大量の精液が流れ出る写真そして妻のヌルヌルしたラブジュースにまみれた大きなチンポその先と妻の膣を糸を引くように白い精液がつながっていたのです。 涙を流しながらも男にしがみついてのけぞる妻の画像を見て私のチンポは爆発しました。 毎日10回以上抜きました。 そして妻と仲直りした後に、ベットの中で妻が「気持ちよかった」「長くて大きなちんちんに出されて何回もイキました。」 「口の中にも何回も出され、すべて飲み干せと言われました。」 「2人の男性に代わる代わる3回ずつ中に出されて失神しました。」 そんな告白を受けました。 どうしようもない夫婦関係になるかもしれません。 引越しも考えています。 しかしそれよりも妻の浮気・巨根願望がもっと問題なのです。 またやりそうです。
192 :
第三の男はつらいよ :2006/11/26(日) 23:41:58
日本の女性の多くは、巨根は痛がり、嫌らうのですが、ただ、巨根を受け入れられ、イカされた女性は、もう、忘れなくなり、病みつきとか、奥様心配ですね。 それから、その巨根の太さが、問題ですね。直径3〜4センチぐらいなら、まだ良いですけど、5センチ以上でイカされていたら、もう、その男性から、離れられない、心と身体になっていますよ。
193 :
考える名無しさん :2006/11/26(日) 23:48:44
同感です。 初めて巨根でいくときは、普段いく快感に、無理やり全身が震えるような快感に襲われる感じが加わり、その感じが身体に染み込んで巨根依存症のようになるようです。 うちの妻も、何百というチンを知っていて、その中でも別格なほどの巨根の男と交際中です。 もちろん他の男と交際なんて結婚してからは後にも先にも初めてなんですよ。 奥さんの場合、もうその男とは合えない状態ならば時間とともに薄れいくでしょうが、もし合うことができるなら、 ・・・女の快感はすごいらしいですからね。
私も浮気妻の夫さんと全く同じような経験をしました。 私の元妻もその筋の連中に輪姦されたそうです。 そしてやはり巨根の男性に犯され、強姦されているにも関わらず絶頂まで達せられたそうです。 膣の中にみっちりと肉棒を詰め込まれる感覚とその中でドクドクと射精される感覚に身体が反応してしまったという事です。 その巨根で2度、3度と犯されるうちにもうどうなってもいいという気持ちになり、巨根男性の 『オレのガキを孕ませてやる』という言葉に『孕ませて、このチンポで孕ませて!』 と答えてしまったそうです。 それは理屈や感情ではなく、肉体がそう叫ばせたという事なんでしょう。 そして浮気妻の夫さんの奥様と同じように私の元妻も妊娠してしまいました。 そして中絶した事までは浮気妻の夫さんと同じですが、私たち夫婦の場合は元の鞘には収まらず、離婚ということになりました。 話に聞くところでは、現在元妻はその巨根男性の情婦として夜の街で働き、身体を売ったりして貢いでいるそうです。 元妻が望んだ事なのかも知れませんが、もう一度やり直せなかった自分の無力さが情けないです。
夫婦生活に刺激を
196 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 09:45:18
かわいいの浮上はコミュニケーションの極限であることを示した。 極端にいえば、かわいいの近接には現代的な病いがある。 オヤジをかわいいという少女 ペットに没入するオヤジ
197 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 09:58:57
幼児を「エロかわいい(萌え)」というオタク オタクをかわいいというギャル 子供に過剰に入れ込むママ ここにはコミュニケーションの飢餓と弱者排除が作動している このような力関係の中での弱者は子供である。甘やかしながらストレスが向かう。
198 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 11:17:31
なぜギャルは強いのか 現代においてギャルは最強です。若い男は目ではないし、どんな地位のオヤジも関係がない。 なぜなら彼女達が「かわいい」からです。 現代において「かわいい」は高い価値を持ちます。
199 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 11:28:54
「かわいい」で武装する少女たち 「かわいい」を自己内製するオタクたち
200 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 11:50:57
まじめな男が美しい女性に恋をしてすべてを放り出してしまう。すべてをなげうつほどに引かれ没入してしまう。 これは昔から語られる物語のパターンです。女性が純情なら純愛物語、打算的なら詐欺と言わないまでも水商売の女性が使う手です。 このような男を引き付ける「かわいい」の引力がまし、「かわいい」の価値がましています。 かわいいことが力となることをしり、女性たちはかわいくなることをめざす。総ホステス化というのはいいすぎですが、そのような傾向があることは否めない。 そのような女性たちに、強い男は引き寄せられ、所有したくなり、弱い男たちは恐れおののく。
201 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 11:56:09
恋愛弱者のオタクは「かわいい」を内製します。それは強者としての「かわいい」女性からの逃避ですが、また重要な価値としての「かわいい」の創造です。
202 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 12:09:47
そのように「かわいい」は市場においても膨大な価値を生み出します。 若い女性の購買からオタク産業だけでなく、ほとんどの消費において「かわいい」が重視されます。 しかしこの「かわいい」という感性はとても曖昧です。オタクの「萌え」とはなにか、なかなかオタク外にはわからないでしょうし、オタクないでも明確ではありません。 どうように女性の「かわいい」はわかりません。いわは「彼女たち」が「かわいい」ということが「かわいい」のです。 「かわいい」を決定する「彼女たち」がいて強者なのです。 そして社会的な「かわいい」の重要度とともにこのような強者に近いものが力を持ちえます。 そして男はこの「かわいい」を所有し、優越することを試みます。
203 :
考える名無しさん :2006/11/27(月) 12:17:36
数日後N氏から「奥様から逢いたいとの誘いがあったけどどうしましょう」との連絡があり私は「良いですよ」と返事した所、 N氏が女性を紹介しますからとの話で3人の女性と逢いプレイしました。 いずれも30代の方でN氏のセフレのようでした。 彼女達の話によるとN氏は個人事業主で事業拡大の為に顧客に女性を紹介したり面白い遊びを提供すると聞き、多少予期していたのでやはりと思いました。
204 :
考える名無しさん :2006/11/27(月) 12:20:30
或る程度お金があって遊びが自由に出来ても他人の奥様を抱くのは簡単ではないですからね。 そういう相手を探す為にSWを始めたようです。 しかしこの時期私も紹介された女性とのSEXにおぼれ妻もN氏との関係がより深まっていったようです。 明らかに妻の持ち物が増え又下着が変わってきてセクシーになっていますTバック、穴開き、色形もです。 もうSEX奴隷として貸し出されている可能性もあるかなと考えながらも刺激あるこのことから引替えせなくなっていました。 それにしてもN氏とのSEXがはっきり見たい欲望を抑えられずN氏に妻とのSEXをビデオにと話した所「写す人が必要だから3Pでも良いですか」といわれOKをだしました。 数日後N氏からビデオを渡され驚愕のSEXシーンを知る事になります。 ビデオをみながら私も射精しました。 ビデオの内容を克明にまとめます
205 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 12:44:43
巨乳はとても象徴的な対象だと思います。男は巨乳が好きなのは母性の象徴、男はみなマザコンだ。 あるいは人間だけ乳がでかいのはお尻の象徴だ。 男は必ずしも巨乳をこのまないというとき、巨乳は最近の発明品だからでしょう。 グラビアアイドルという商品の付加価値としての差異化のなかで、男性の憧れの巨乳は作られた。 だから巨乳を前にする男性は、「これが噂の巨乳か、すげぇ〜」という/言わされる。 これは日本人のセックスはどれも同じパターンだ、につながる。マスメディアによる記憶の画一化。画一化にこそ興奮する。「これが噂のセックスか。すげぇ〜」 このようなボードリヤール的分析はいまさらですが、巨乳の女性自身はどうでしょう。巨乳としてカテゴライズされる。このよいなカテゴライズは自らを型にはめ抑圧する。 しかしまた自らを見いだせない人は注目される、そこに自らの存在意義を見いだす。 最近、ネット上に裸体をさらす少女が増えている。ケータイ写メールの普及で、部屋で自分どりして、匿名でアップすることが容易だ。 またネットに無頓着で顔をさらす子は多い。 「一歩踏み出せばだれもがヒーローだ。それがだれかの罠だとしてもだ」 それはネット上にあふれる裸体晒しに触発され、自分もということだろう。 自分の裸体など毎日見飽きた自分にとってなんの価値もないものだ。 それがネットに晒すことで注目をあび、価値をもつ。その強烈なまなざしは自らに意味を与える。
206 :
考える名無しさん :2006/11/27(月) 16:06:14
今日も朝ご主人様からの嬉しいメールがありました。 「しゃぶりに来る?」って。 私は間に合うように車を走らせました。いつもの階段で待っていてくれた彼は元気な○○○を出してくれました。 私はすぐ口に含みました。 大好きな彼の匂いと味、しばらくずっとおしゃぶりしました。すると次に彼は、私の髪を鷲づかみにし、私は立たされました。 そして私のパンツを下ろしてバックから・・・挿れてくれたのです! 「声を出さないように!」気持ちよさが体中に充満、押し広げられ突かれる私の○○○○はヌルヌルです。 動きが激しくなって「今日はそのまま出してあげるよ」って。 ○○○○の奥に勢い良く射精、最高に気持ちの良い瞬間です。○○○○の奥がぴくぴく動きました。 彼の液が流れないようにそのまましっかり閉じました。 拭かないままパンツを上げて服を整え階段で別れました。歩くと少しづつ流れたのもそのまま。 パンツを履き替えるのはまだお許しが出ていませんから今もそのままです。
・・・匂いと味で、この間彼と過ごした時を思い出しました。 そのときの事です。 10日会えない日が続いていた間、出張先から彼の艶々の〇〇〇画像が送られてきていました。 嬉しいけど触れられない〇〇〇です。それが会えない日を堪らなく長い日に感じさせていました。 身体に疼くものがいっぱいたまっていました。 彼が出張から帰って来た次の日「欲しい?どれくらい欲しいか画像で見せて。」とメールがありました。 私はトイレに行きパンティを下ろし携帯で自分のアソコを取りました。 〇〇〇〇からヌルっとした液が携帯に落ちそうでした。返信が来たのは夕方になってからです。 ホテルに入るとすぐ裸になります。いつもシャワーは使わないのにその日はシャワールームに「おいで」と呼ばれました。 彼の前に座るように言われました。私の目の前にはずっと欲しかったつやつやの〇〇〇です。 「口を開けて!」と。 でもおしゃぶりではありません。温かいおしっこが勢い良く口に飛び込んできました。喉の奥に入ります。 舌で受けました。口の周り顔にかかります。彼のおしっこの味です。 身体にもシャワーのように浴びました。おしっこは二度目です。 初めての時は訳が解らないまま〇〇〇を口に含みしっかり閉じておくように言われたのでその通りにしていると温かい液が口いっぱいになったのです。 「飲んで」と言われて懸命に飲んだのを思い出します。
208 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 18:19:23
■なぜ少女はネットで裸体をさらすのか 裸体をさらず少女達 最近、ネット上に裸体をさらす少女が増えている。ケータイ写メールの普及で、部屋で自分どりして、 匿名でアップすることが容易だ。またネットに無頓着で顔をさらす子は多い。 それはネット上にあふれる裸体晒しに触発され、自分もということだろう。自分の裸体など毎日見飽 きた自分にとってなんの価値もないものだ。それがネットに晒すことで注目をあび、価値をもつ。その 強烈なまなざしは自らに意味を与える。 「一歩踏み出せばだれもがヒーローだ。それがだれかの罠だとしてもだ」 しかしこのような傾向は必ずしも新しくない。「非行」として言われてきたことだ。学校では禁止された 行為、それは学校という枠外へでる試みである。そして少女達は学校外部では、学校内では見えな かったエロティックな価値を持つ。そして自らのそのような外部へ触れて、驚き、喜ぶ。 ただネットでは、このような外部があまりに近接している。もっとも安心できる部屋の中まで入り込ん でいるというのは、驚くべきことである。「一歩踏み出せばだれもがヒーローだ。それがだれかの罠だ としてもだ」というとき、その一歩があまりに軽すぎる。
209 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/27(月) 18:20:23
「巨乳」というハイパーリアル 現代では、「巨乳」はとても象徴的な対象だ。男が巨乳が好きなのは母性の象徴、男はみなマザコ ンだ。あるいは人間だけ乳がでかいのは、直立歩行によって性を誘引するお尻が全面についた。 しかし男は誰もが巨乳好きであるというのは神話だ、というとき、確かに「巨乳」は最近の発明品で ある。グラビアアイドルという商品の付加価値としての差異化のなかで、「巨乳」は作られた。だから 巨乳を前にして男性は、「これが噂の巨乳か、すげぇ〜」と言う/言わされる。 マスメディアによる記憶の画一化、そして現代はその画一化にこそ興奮が生まれる。ボードリヤール のハイパーリアル的な意味において、やはり「すべての男性は巨乳好き」なのである。 「巨乳」であることの喜び では、巨乳の女性自身はどうでだろうか。「巨乳」という意図しない容姿によって、その人がカテゴラ イズされ、意味づけされる。このようなことは、型にはめられ、抑圧されることを意味する。だから興 味本位に「巨乳」として注目されることを嫌がる女性は多いだろう。 しかしまたそこに喜びを覚える場合もあるのではないだろうか。ある「ステージ」において、男達が熱 狂する。そして「私もあの男性達が熱狂する「巨乳」だったの!?」という自らを認知する、注目され る喜び。 「一歩踏み出せばだれもがヒーローだ。それがだれかの罠だとしてもだ」というとき、自らを獲得する ことが困難な現代において街は劇場化している。そしてネットも。少女達は自らを意味づけすること を求めて、孤独な閉塞した場から、裸体を見られることを希望する。
210 :
考える名無しさん :2006/11/28(火) 23:23:10
211 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/28(火) 23:41:12
>> SNS最大手ミクシィ 成長神話の終焉 SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のミクシィ(mixi)が伸び悩んでいる。ネットレイティング スが発表した調査結果では、PV(ページビュー)では国内で2位につけているものの、06年7月から 伸び悩び、ここにきて減少傾向にある。しかも、利用時間が長いのがmixiの大きな特徴だったが、こ こでも一人あたりの月間平均利用時間も急激に減少している。ここまで不調にあえいでいるのはな ぜなのか。 << 個人的には上場騒ぎが大きいと思う。運営が大もうけしたことにただ乗り感を感じ、冷めたのではな いだろうか。VIPブログ問題などネットは「貨幣交換」化には敏感だ。
212 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 00:36:39
ネットの快楽において充足する人々
>>211 伸び悩みの原因はむしろケツ毛バーガーだろ
214 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 01:32:30
>>213 ケツ毛的なものはいままでもあったし、
写真を撮られて人がそれほどいるとは思えない。
215 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 12:27:15
はみ出すことへのリスクの高さによる閉塞と閉塞故の流動性の高さ
216 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 12:33:16
中国人は日本に閉塞しない。 いじめによる自殺対策としていっていたが、帰属を分散させること いじめに巻き込まれることは事故のようにだれにでもおこる。 そのとき学校内の人間関係に帰属しすぎるとそこが閉塞すると行き場がなくなる。 他に場を確保することで回避することができる。
217 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 16:02:57
いままでは家庭であり地域であり、分散があったのかもしれない。
218 :
考える名無しさん :2006/11/29(水) 16:51:37
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY =ぴかぁ〜=「機械的唯物論」者 ◆ilgJQLaPUQ
219 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 18:58:14
■なぜ能書きを言わずに愚直に仕事しないのか @「自分らしさ」という幻想 「自分探し」、「自分らしさ」というのは、幻想です。どこかに「自分」という明確がものがあり、それを 見つけだす。ここでは問題は出会うことです。それは探すことであり、来るのを待つことです。 それに対する「能書きを言わずに愚直に行為する」ということの一つの解釈は、「自分」というような ものはどこにもなく、行為によって作りだしていくということです。だからとにかく始めなければ生まれ てこない。
220 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 18:59:01
「自分らしさ」という不安感 しかしどこかにあるか、あるいは作りだしていく、にしろ、これらには、「自分」があることが前提にさ れています。だから「能書きを言わずに愚直に行為する」ことのもうひとつの解釈は、「自分」などな いというものです。ほとんどの人の行為は、「自分さがし」とは関係なく行なわれています。そしてそ れはそれで楽しく、充足しています。 むしろ充実するときには、「自分とはなにか」とは問いません。不安の中にいるときに、「自分とはな にか」という言葉が発せられる。本当は「自分探し」などどうでもよく、「能書き」を言うことそのものに 目的がある。そのことで不安を表現し、そして誰かに振り向かれることを望んでいる。 学生は将来、どこかへ向かうための仮の場です。だから不安と期待の場であり、いまもむかしも「自 分とはなにか」、「自分探し」をすることができる贅沢な時期です。しかし一方で、学生に限らず、社会 全体として、「自分さがし」が浮上しているとすれば、それは「不安」が全面化していることを意味して いるのではないでしょうか。
221 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 19:00:23
「仕事という場所」の消失 充足は決して功利的な利益の獲得でも、優位なポジションニングでもなく、「住めば都」的に場に馴 染むこと、場に愛着をもつようなことではないでしょうか。そして場とは他者との関係です。 かつて仕事と場との関係は強いものでした。たとえば多くが農民であった場合には、仕事そのもの が土地的な場とともにムラ社会的コミュニティな場と同一でした。あるいは日本型企業では、終身雇 用、年功序列によって、総中流社会を支えてきました。これは豊かであるだけでなく、企業によって、 家族を中心とした社会的なコミュニティが支えられてきました。 このような構造が崩れ、現代は仕事が二極化しているといわれます。「下流」の労働は代替可能な 労働機械になることであり、場と着脱が容易な位置に置かれます。コンビニのバイトが今日止めて も、明日からかわりのバイトがマニュアルに従い、働きます。「上流」の仕事は、代替不可能な精密 機械になることであり、場と密着しています。その労働者がいないとかわりがきかず、強い責任感 と、そして「やりがい」が生まれます。
222 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 19:05:51
知的労働者の代替可能性
ドラッカーはこのような精密機械を「知的労働者(ナレッジ・ワーカー)」として説明しています。現代の
知的労働者の優位を説明しています。
>>
ピーター・ドラッカー氏が指摘する「ITより重要なもの」
知的労働者(ナレッジ・ワーカー)は自らの仕事をブルーカラーの仕事とは大きく異なると考えていま
す。日本の標準的なナレッジ・ワーカーは、経営管理者(マネジメント)への昇進を望んでいません。
彼らはナレッジ・ワーカーとしてあり続けることを望んでいます。・・・経営職に就けば、今よりずっと良
い給与をもらえるにも関わらずです。こうした人たちの登場は大きな変化の一つです。
あらゆる先進国にとって、来る10年における大きな課題は、会社で働くすべてのナレッジ・ワーカー
をマネジメントする方針を確立し、生産性を上げることです。・・・ナレッジ・ワーカーの多くは、自分の
知識をどのようにして仕事に活かそうかと考えますが、会社の使命についてはあまり真剣に考えて
いません。これからはナレッジ・ワーカーが、自らの仕事を会社の共通の目標に向けていくようにし
なければなりません。
http://itpro.nikkeibp.co.jp/a/biz/shinzui/shinzui1122/shinzui_06_01.shtml <<
しかし知的労働者層が優位であっても、それぞれの知的労働者自身が優位であることは限りませ
ん。なぜなら技術変化が速く、一知的労働者の寿命は短くなるからです。企業はリスク管理として、
知的労働者の代替品を用意(育成)しつづけるます。そして時代に遅れた知的労働者、精密機械は
一瞬でその居場所を失います。
223 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/29(水) 19:15:51
未来も合理化された社会 現代は流動性が高いと言われます。この流動性は合理化による効率向上を目指す資本主義システ ムに支えられたものです。いわば合理化によって規定された「高速道路」が張り巡らされ、それを流 されることで流動性は向上しています。しかし一歩、「高速道路」を外れると、リスクが増加します。だ から合理化する社会において、人々は規格化され、代替可能であることは免れません。 早いリタイヤで農業などする人々が増えていますが、それは「能書きを言わずに愚直に行為する」こ とができるからです。むしろ人々は「能書きを言わずに愚直に行為する」ことを望んでいる。しかし合 理化社会において、場へ充足できること、いつ切り離されるかわからない不安が浮上します。 だから絶えず「能書きを言わずに愚直に行為する」ことの楽しさから、再帰的であり続けなければな らない。「メタ」を忘れてはいけないという、自らを宙づりし続けることが求められます。「自分らしさ」 とは、このような「メタ」が消失した「ベタ」でいられる場への渇望ではないでしょうか。
農業が楽しいのは、作物を作ることで自分自身も 再生産するからだよ。作物は万人にとって変わらない けれど、そこから引き出される「自分」は多様だから。 だから「愚直に行為する」というのとはちょっと違うんじゃ ないかな。むしろ自分探しの行為そのものだから。 農業これ毎日が自分探し。何かを作る仕事は何でもそう。
225 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/30(木) 01:13:26
自分探しを目的化して農業が行われるわけでなく、 農業が自らの再生産を行うとしても、それは結果論だと思う。 ボクが言っているのは、「愚直に行為する」で充足する、場を見いだすとはそういうこと。
226 :
考える名無しさん :2006/11/30(木) 01:17:54
作物が育つのは自然の恵みによる部分が大きい。それがいいんだろ。
労働は二重に生産する。生産物と人間自身を。資本論ですね。 自分探しか生産物か、と言う話ではなく、同時に起きるわけです。 一回きりの行為ではないから、どちらも目的だし結果ですよ。 農業に没頭することで自分自身も取り戻せるわけです。
228 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/11/30(木) 01:24:33
農業でも分業だとダメなのではないかな。 1年中種だけまく人、1年中稲だけ刈る人みたいな。 自然のサイクルというのが、生理的に満たされるのかもしれない。 近代から数世紀。進化するにはあまりに短すぎる。 人はいまだに自然の人だ。ってことかね。
229 :
考える名無しさん :2006/11/30(木) 02:04:14
作物と人間は共鳴しつつ自然の恵みを受けて生成する
230 :
考える名無しさん :2006/11/30(木) 21:47:01
┏/ >>>>ゝヽ'人∧━∧从〈〈〈〈 ヽ.━┓。 ┏┓ ┏━━┓ < ゝ{ ⊂>’ 、 ' 〃Ν ; 〈⊃ }..ゝ '┃. ┏┓┏┓┏┓ ┏┛┗┓┃┏┓┃ ∇ | | ∩___∩ | | .〆 ,┃ / ┃┃┃┃┃┃ ┗┓┏┛┃┗┛┃┏━ ┠| | . | ノ ヽ.! !'´; ┨゚━━┓┃┃┃┃┃┃ ┏┛┗┓┃┏┓┃┃。冫▽ヽ \/ ● ● | / ▽┃< ゚ ┃┃┃┃┃┃┃ ┗┓┏┛┗┛┃┃┗━ ┃ \ | ( _●_) ミ/ て く、 ━━┛┗┛┗┛┗┛ ┃┃ ┃┃ ┠─ムヽ 彡、 |∪| / .┼ ァ Ζ┨ ミo'’` ┏┓┏┓┏┓ ┗┛ ┗┛ 。、゚`。、 iヽ ヽノ / 、'’ × 个o ┗┛┗┛┗┛ ○ .┃ `、,~´+√ ▽ ',!ヽ.◇ ; o┃ . ┗〆━┷ Z,.' /┷━.''o ヾo┷+\━┛,゛;
ぴかぁ〜さん、疲れてます?
232 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/02(土) 01:51:59
■なぜギャルは強いのか ギャルという外部 現代においてギャルは最強です。若い男は目ではないし、どんな地位のオヤジも関係がない。彼女 たちがなんでも「かわいい」というとき、対象をベタに客体化した優越を意味します。オヤジさえ も「かわいい」といってしまうこの強気はどこから来るのか。 このような強気に似ているのが、水商売の女性です。どのような社長にもすり寄ることが許されま す。社長とは社会的な地位です。彼女たちはこのような社会的な拘束の外部にいます。外部にいる ことを許されていることが価値なのです。 男たちは水商売に行くことで、社会的な立場という鎧を緩めて、彼女たちに接することでリラックスし ます。これは本当の無礼講ではなく、無礼講のフリをする場としての水商売です。彼女たちもお金の ために働くプロであり、そのようなフリをしあうことで、楽しむのです。 これは、オヤジがペットに赤ちゃん言葉でしゃべることに似ています。ベタな関係によって、癒され る。「かわいい」存在とは社会的な秩序の外にいる存在です。ペットは相手が社長であるか、どうか わかりません。また小さな子供もわかりません。甘やかせることができます。
233 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/02(土) 01:52:51
「かわいい」で武装する少女たち 若い女性たちは、このような社会的な秩序の外部にいます。そしてそのような位置に自らを置く方法 が「かわいく」あることです。「かわいい」という感性はとても曖昧です。どうように女性の「かわいい」は わかりません。いわば「彼女たち」が「かわいい」ということが「かわいい」のです。 すなわちこの閉鎖性が、社会的な秩序の外部の「かわいい」コミュニティを形成しています。だから 彼女たちが顔が不細工でも「かわいい」のです。そして社会的な「かわいい」の重要度とともに力を持ちえます。 「かわいい」を自己内製するオタクたち この「かわいい」コミュニティと対立するところに、恋愛弱者のオタクコミュニティがあります。強者とし ての「かわいい」女性からの逃避であり、自ら「かわいい」を内製します。 彼らが弱者であるのは、社会的な中心の位置にいる「常識」というコミュニティとの対比によるでしょ う。「かわいい」コミュニティは「常識」コミュニティに対して、「かわいい」という差異で存在しています が、オタクコミュニティはこのような関係のさらに外部で閉塞しています。だから「オタクは気持ち悪 い」とは「かわいい」を共有しない、閉塞的な態度からきています。 そして「かわいい」は市場においても膨大な価値を生み出します。若い女性の購買からオタク産業だ けでなく、ほとんどの消費において「かわいい」が重視されます。
234 :
考える名無しさん :2006/12/02(土) 01:54:10
┏/ >>>>ゝヽ'人∧━∧从〈〈〈〈 ヽ.━┓。 ┏┓ ┏━━┓ < ゝ{ ⊂>’ 、 ' 〃Ν ; 〈⊃ }..ゝ '┃. ┏┓┏┓┏┓ ┏┛┗┓┃┏┓┃ ∇ | | ∩___∩ | | .〆 ,┃ / ┃┃┃┃┃┃ ┗┓┏┛┃┗┛┃┏━ ┠| | . | ノ ヽ.! !'´; ┨゚━━┓┃┃┃┃┃┃ ┏┛┗┓┃┏┓┃┃。冫▽ヽ \/ ● ● | / ▽┃< ゚ ┃┃┃┃┃┃┃ ┗┓┏┛┗┛┃┃┗━ ┃ \ | ( _●_) ミ/ て く、 ━━┛┗┛┗┛┗┛ ┃┃ ┃┃ ┠─ムヽ 彡、 |∪| / .┼ ァ Ζ┨ ミo'’` ┏┓┏┓┏┓ ┗┛ ┗┛ 。、゚`。、 iヽ ヽノ / 、'’ × 个o ┗┛┗┛┗┛ ○ .┃ `、,~´+√ ▽ ',!ヽ.◇ ; o┃ . ┗〆━┷ Z,.' /┷━.''o ヾo┷+\━┛,゛;
235 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/02(土) 16:36:34
最近は若手女優ブームですね。 綾瀬はるか、蒼井優、宮崎あおい、 沢尻エリカ、上野樹里、長澤まさみ 新垣結衣、堀北真希など
236 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/04(月) 18:20:10
世界はなぜ数学的か 世界があり、数学はそれを記述する道具なのか、それとも 数学が世界を構築しているのか。
237 :
考える名無しさん :2006/12/04(月) 18:32:38
ぴかぁ〜キモッ、おまけに臭え!!ゲロゲロゲェ――――――――――!!  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ぅぉぇっぷ 〃⌒ ヽフ / rノ Ο Ο_)***
238 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/04(月) 18:36:04
たとえば経済学が経済世界を構築している。たとえば企業は経済学手法により自らを表す。 数字そのものがめざされるとき、経済世界は数字に従属し構築されていく。 マルクスの疎外論はこのような意味である。
239 :
考える名無しさん :2006/12/04(月) 20:59:03
240 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/05(火) 22:03:21
数には魔力がある。数とは比の関係であり、普遍的な調和である。
241 :
無音の神 :2006/12/05(火) 22:25:47
0から始まり、終わり無き。負と正へ続き続ける。
242 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/05(火) 22:53:00
■世界はなぜ数学的か 世界があり、数学はそれを記述する道具なのか、それとも数学が世界を構築しているのか。たとえ ば経済学が経済世界を構築している。たとえば企業は経済学手法により自らを表す。数字そのもの がめざされるとき、経済世界は数字に従属し構築されていく。マルクスの疎外論はこのような意味で ある。 数には魔力がある。数とは比の関係であり、反復である。このような法則性は世界の下部構造とし て普遍的な調和があることを示している。世界がこのような調和の中にあることは一つの快楽であ る。アインシュタインが「神はサイコロを振らない」というときの信念はそのような快楽への信念である。 この快楽は強烈である。コペルニクス的転回の快楽である。そして快楽こそが世界を構築している。
243 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/05(火) 23:21:55
たとえば火星表面写真の人面も調和である。ボクたちは人工物と自然物とを見分ける。 その差は調和があるか無いかである。
244 :
考える名無しさん :2006/12/06(水) 00:09:09
┏/ >>>>ゝヽ'人∧━∧从〈〈〈〈 ヽ.━┓。 ┏┓ ┏━━┓ < ゝ{ ⊂>’ 、 ' 〃Ν ; 〈⊃ }..ゝ '┃. ┏┓┏┓┏┓ ┏┛┗┓┃┏┓┃ ∇ | | ∩___∩ | | .〆 ,┃ / ┃┃┃┃┃┃ ┗┓┏┛┃┗┛┃┏━ ┠| | . | ノ ヽ.! !'´; ┨゚━━┓┃┃┃┃┃┃ ┏┛┗┓┃┏┓┃┃。冫▽ヽ \/ ● ● | / ▽┃< ゚ ┃┃┃┃┃┃┃ ┗┓┏┛┗┛┃┃┗━ ┃ \ | ( _●_) ミ/ て く、 ━━┛┗┛┗┛┗┛ ┃┃ ┃┃ ┠─ムヽ 彡、 |∪| / .┼ ァ Ζ┨ ミo'’` ┏┓┏┓┏┓ ┗┛ ┗┛ 。、゚`。、 iヽ ヽノ / 、'’ × 个o ┗┛┗┛┗┛ ○ .┃ `、,~´+√ ▽ ',!ヽ.◇ ; o┃ . ┗〆━┷ Z,.' /┷━.''o ヾo┷+\━┛,゛;
245 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/07(木) 12:02:08
ネットはなぜ呪術的なのか ネットはコピヘ天国なのにパクリに神経質です。 すなわちコピヘ天国だからこそオリジナルが尊ばれる。 そしてこのオリジナルへの尊敬とはアウラです。ネットはとても呪術的世界です。
246 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/07(木) 14:04:31
しかし不思議です。コピペ天国を可能にしているのは、下部構造としてのアルゴリズムです。 このデジタルの世界に呪術的世界が構築される。
247 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/07(木) 14:39:25
しかし認識論的に考えれば環境がアナログであってもデジタルであってもあまり変わりない。人は人形にも恋することができるのですから。 ならばネットの呪術性を支えるものはなにか? それはリアルとはなにかにかかってくるでしょう。身体を置き去りにしているネットにおいては認識論的なリアルです。 すなわち人はなににリアリティを感じるのか。そしてパクリでないオリジナルとはリアリティなのです。 アウラのリアリティとはなんでしょうか。ベンヤミンによれば一回性です。そしてその一回性を保障する神性です。
248 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/07(木) 19:01:17
ネットは転送速度の問題からテキストをベースにしている。 視覚、聴覚メディア全盛から活字離れがいわれる中でこの逆流はおもしろい。 現に余暇時間、費用がテレビ、音楽などの視覚、聴覚メディアからネットコミュニケーションにむかっている。 これは人々がテキストに回帰したわけではなく、転送速度の限界という偶然性からきているのではあるが
249 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/07(木) 19:27:21
この偶然性は今のネットコミュニケーション文化には決定的です。仮にネットがその始めから視覚、 聴覚的であったならば、ネットコミュニケーションは大きく変わっていたでしょう。その大きなものは視 覚、聴覚コミュニケーションでは匿名性が損なわれる。 テレビ電話、あるいはテレビネットコミュニケーション、あるいは動画が普及しないことには、ネットコ ミュニケーションにおいて、テキストベースであることには必然性があるのかもしれない。それは、い くら視覚聴覚メディアが発達しても、活字媒体が決して無くならないことに関係する。 活字媒体の有用性は、大量の情報量の操作することに優れていることである。たとえば1万のメディ アから必要なものを探す場合に、活字媒体は格段に優れている。
250 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/08(金) 19:34:22
■なぜクレイゾーンの時代なのか 現実界の二通りの意味 >> エディソンのフォノグラフ(蓄音機)がその溝に刻んでいたのはこの振動数以外のものではなかった。そ れにたいして音階や和音は、比率、つまり整数にたいする分数のことをいう。・・・十九世紀になってはじ めて登場してきた周波数という概念は、・・・長さの比率のかわりに時間が独立変数となっている。それ は音楽のメトロノームやリズムとなんの関係もない純粋に物理的な時間であり、人間の眼ではとうてい とらえられない速度の動き、すなわち一秒あたり二十から一万六千という振動を数量化した時間なので ある。つまりサンボリックなもの(象徴界)にかわってリアルなもの(現実界)がそこでは登場してきている のだ。 「グラムフォン・フィルム・タイプライター」 フリードリッヒ・キットラー P67 (ASIN:4480090347) << 現実界のとらえ方には二通りあって、一つはカントの「ものそのもの」で、人の認識の外という意味で す。キットラーは人間の認識できない周波数などを現実界としています。もうひとつは精神分析的でジ ジェクが大好きな「欲望の不可能性」です。不可能であることである「もの」です。 キットラーのような「科学の知」をどのようにとらえるか、むずかしい問題です。たとえばネットをするとき その下部には人間の認識できないプログラムがあります。マトリクスでは完全に人間の外ですが、僕た ちは音が周波数であり、ネットがプログラムであることは知っています。するとこれらは象徴界の位置に くるのでしょう。 キットラーのテクノロジー論ではこの違いが混同されているところがあります。キットラーや読者がいま や象徴界になった過去の人の現実界を語る。すなわち神の位置に立っているということです。しかしこ れは歴史を語るうえでの当然の立ち位置です。この位置を確保できないと歴史を語ることはできません。
251 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/08(金) 19:37:01
ポストラカン派VSジジェク デリダ、キットラー、東はポストラカンを目指すという同じ系列に位置しています。人の(言語)認識の外 部にある科学知識の全面化によって「象徴界の現実界化」が起こっているということでしょうか。そのた めのシニフィアンの物質性(エクリチュール)が重要になります。物質性によって、認識の外部で科学技 術操作の対象となっているということです。この流れは最近ではメディオロジーなどにも繋がっています。 そしてジジェクの主張は現実界をこのような静的なものから、精神分析(欲望)へと取り戻すことでしょ う。現実界の本質は、単なる認識の外でなく、欲望の不可能性であり、象徴界は「物質的な」構造では なく、欲望の磁場であるということです。 デリダ、キットラー、東でも彼らが語るとき、神の位置などでなく、欲望の磁場の中にあります。いまや象 徴界になった過去の現実界を語るような神の位置に立つことは不可能であり、それそこが欲望であると いうことです。
252 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/08(金) 19:40:32
機械論の欲望
ネットの下部としてのプログラム、音の周波数などの「客観的な」科学的事実でさえ、欲望の磁場から逃
れることができません。論理であり、数字であり、それらの「客観性」は、「客観化したい」という強い欲
望によって作動しています。ボクはこれを「機械論の欲望」と呼びました。((Googleはなぜ「世界征服」を
めざすのか その2 「機械論の欲望」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060214 ))
科学技術はあくまで、現実界という認識の外部を「客観視」したい欲望です。だから音の周波数は発見
されたのでなく、発明された。音が周波数として表現されたときに、周波数は生まれたのです。そしてこ
のような数量化というシニフィアンの欲望は、欲望の不可能性としての現実界を産み、さらなる数量化
したいという欲望をかき立てます。
たとえばボクたちが感動的な音楽を、他者の鳴き声を聞くとき、それを周波数として分析することができ
るでしょうか。そこには数量化では表せないものがあります。あるいは次に人の生理に心地より指数が
「発明」され分析されるとしても、そこにまた残余が残ります。そしてまた新たな指数が・・・と、その不可
能性こそが、現実界です。
たとえばキットラーのテクノロジー論、グラモフォン・フィルム・タイプライターでいくらシニフィアンの物質
性を分析しても、音楽、映画、小説などの感動であり、宗教的な強い思い入れは、見えてきません。むし
ろこれらが数量化されるほどに、数量化されない不可能性=現実界が際立ってきます。それはネットで
も現れているでしょう。なぜデジタル化されたネット上で人々はこれほど欲望剥き出しに、さらに信仰的
に振るまうのか。
253 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/08(金) 19:42:04
東浩紀の「ポストモダンの二重構造」の外部
このような状況を東浩紀は「ポストモダンの二重構造」として示しました。((ネットと社会はなぜ「断絶」す
るのか その6 終わりなき「断絶」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060612 ))下部構造としてのプログラ
ムなどの環境管理の層、それは物質性の層であり、シニフィアンも物質としてコントロールされる。そし
て人間の物質性=身体が管理される層です。
それに対して、人々の趣向が多様に現れる心の層です。ポストラカン派として当然、これは環境管理を
下部とした上部構造として描かれます。ボードリヤールのいう移ろいやすいシミュラークルの層です。
しかし現実界を欲望の不可能性として考えた場合に、これら二層構造のさらに外部として現実界を想
定することが必要です。環境管理といってもその動力は、「機械論の欲望」です。このような二層構造そ
のものが決して到達しない不可能性への欲望の磁場ということです。
254 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/08(金) 19:42:56
科学技術の領域とサントーム(症候) しかしポストラカン派が指摘するように、ラカンにおいてはこのような科学技術(環境管理)の領域への 言及が弱いように思います。ラカンのいう想像界/象徴界/現実界というボロメオの環において、このよ うな科学技術(環境管理)の領域は、象徴界/現実界の間の曖昧な位置になります。ボクはラカンが後 期に思考した「第四の輪」「サントーム」にカギがあるのではと思っています。 サントームは、ボロメオの輪の解体をつなぎ止める「症候」という「第四の輪」です。ラカンはサントーム の説明にジョイスのエクリチュールを用いますが、ここには、物質的(存在論的)な意味があります。 >> 症候ジョイスに基づいて強調されていることは、主体の構造の構成における(技術の研鑽、工夫を凝ら した方法といった月並みな意味での)人工物の重要性である。ラカンは、あらゆる発明は結局、サントー ムであるとまで言う。 精神分析事典 「サントーム」 (ASIN:4335651104) 解釈を越えるばかりか、幻想をも越えて生き残るこの病理学的形成物すなわち症候を、どう扱ったらい いのだろうか。ラカンはこの問題にサントムという概念でもって答えようとした。この新語には一連の連 想が含まれている(合成人造人間、症候と元号との総合、聖トマス・・・)」 「イデオロギーの崇高な対象」 スラヴォイ ジジェク (ASIN:4309242332) <<
255 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/08(金) 19:44:16
科学技術の発展=グレイゾーン化 人間になるとは、言葉か、道具(技術)か、というぐらいに、技術は根源的なものです。また言語も一つ の技術といえますが、特に近代以降の「科学技術」の発展は人間の認識(無意識(言語))では到達し えない領域であり、科学技術によってのみ秩序をもちえる外部との境界部です。 ボクはこのような領 域をアガンベンからとって、「グレイゾーン」と呼びました。グレイゾーンとしての科学技術の特性は以下 のようになります。 >> 科学技術は外部を開拓(グレイゾーン化)する力をもつ。 科学技術は一つの象徴界であるが、人の認識(言語(無意識))を超えて作動する。 << 環境管理のように、機械化される人間、すなわち心が身体化されていく時代において、この意味はとて も重要になります。それは単にシニフィアン、欲望によっては、説明することが難しくなっています。ラカ ンにはこの技術の次元が明確でありません。ポストラカンの意味はそこにあるのだと思います。 神経生理学や認知科学が人間を解体(数量化)するほどに、解明されない「もの」が残り続け、それがさ らに欲望を想起するというベタな欲望論的展開が起こっているとしても、科学技術の発展の影響を無視 することはできません。
256 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/08(金) 19:45:31
技術という人間の「症候」の増幅 象徴界の発見は、レヴィ=ストロースにより未開社会の「親族の構造」に数学的な法則性があったこと に始まります。そして社会的な法則性として言語の構造(差異の体系)が指摘されました。親族の構造、 言語は社会秩序を通して、人びとの無意識の中で伝達されていきます。それに対して、ネット上で作動 するプログラムそのものは、無意識にも認識されることはなく、環境を変えてつくっていきます。 このような環境を変え造るという「技術の力」は近代の発明でなく、人間が人間たる特性であり、環境を かえずにはおれないという意味で人間の「症候」です。しかし近代以降の技術の革新はこのような力を 増幅にしました。 マルクスが指摘した下部構造としての経済もグレイゾーンを含みます。経済学が経済学として学ばれる ときには象徴界に位置し、事後的に経済学というシニフィアンの構造で表示されますが、資本主義とい うプログラムは経済学的手法(技術)として外部をグレイゾーン化(開拓)します。
257 :
純一 :2006/12/08(金) 19:55:16
>>255 >ボクはこのような科学技術の領域をアガンベンからとって、
>グレイゾーンと呼びました。
違います。
ぴかぁ〜は私のブログで使われていた用語である、
「グレーゾーン」を「グレイゾーン」に改竄して使っています。
258 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/08(金) 19:57:00
情報化技術により、シニフィアンの時代からクレイゾーンの時代へ ポストモダンにおける構造主義という精神分析的「心の理論」はボードリヤールのシミュラークルで臨界 に達した感があります。力をもっただれか(マスメディアなど)がコストをかけて環境を書き替えることで、 象徴界を操作し人々の欲望をかきたてる時代としての、ボードリヤール的消費社会です。 しかし情報技術社会では、だれもが低コストで環境を作りかえ、作り出す時代になっています。その原 点をキットラーは「グラモフォン・フィルム・タイプライター」として表したのでしょう。科学技術がシニフィア ンを超えて人間の影響を及ぼすことは、「情報技術」によって決定的になったということです。言語より 「情報技術」、象徴界よりグレイゾーンが影響をもつ、それがグレイゾーンの時代です。
259 :
純一 :2006/12/08(金) 19:57:14
>>250 >>927 >マトリクスでは完全に人間の外ですが、僕たちは音が周波数であり、ネットがプログラムであることは知っています。
>するとこれらは象徴界の位置にくるのでしょう。
>極端なことを言えばそれは、『マトリックス』のネオ君が見たところのエルフの王様、
>じゃなくてエージェント・スミスみたいなものかもしれません。
>もともとコンピュータ・プログラムでしかないエージェントさんたちは、
>リアルな目から見ると文字の集積に見えてましたよね。Welcome to the real world.
http://d.hatena.ne.jp/rothko/20060812
260 :
純一 :2006/12/08(金) 19:59:11
261 :
純一 :2006/12/08(金) 20:00:09
>>254 >「症候ジョイスに基づいて強調されていることは、主体の構造の構成における
>(技術の研鑽、工夫を凝らした方法といった月並みな意味での)人工物の
>重要性である。ラカンは、あらゆる発明は結局、サントームであるとまで言う。」
>(精神分析事典 サントーム)
>最初にラカンが取り上げたのはジョイスでした。ジョイスが精神病圏の
>かたであることはよく知られていますが、でも彼は精神病者ではなかった。
>それは彼の著作活動が補填となっていたからではなかろうかしら、と。
http://d.hatena.ne.jp/rothko/20050719
262 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/09(土) 21:33:21
ネットによって暴露されたのは、テレビで語ることの限界である。 テレビというコンテクストの特異性である。 考えてみれば当たり前といえば当たり前ではあるが。
>1 テーマに対する第一見解に浅みが見える
心身二元が快楽と権力 こいつは男だろう このテーマを語るにスキルが足りていない
265 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/10(日) 14:25:52
自己確立は近代の発明である。 近代以前、場と密接な関係にある場合、主体という独立は存在しなかった。 近代において、社会に流動性が向上し、身体が容易に様々な場へ 切り取り、貼り付けされることで、主体という独立性が生まれた。 主体とは、なにか確かなものがあるわけでなく、 切り離されることで、生まれた空白である。 その始めから欠如によって生まれた存在である。 欠如によってはじめて現れる。
266 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/10(日) 14:27:11
だから自分探しとはとても矛盾したことである。 探せば探すほどに主体性は向上し、空白が開いていく。
267 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/10(日) 22:52:11
NHKでまた「ワーキングプア」をやっていました。あれを見るとなにか複雑な気持ちになりますね。 アフリカの飢えた子供がもの悲しそうにこちらを見つめている写真を見せられているように、 情動に訴えかけるドキュメンタリーに違和感があります。
268 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/11(月) 00:06:03
仕事こそが生き甲斐であったが、 もはや生き甲斐の一つの選択しでしかなくなった。 仕事の獲得から、楽しい仕事の獲得へ
269 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/11(月) 09:44:02
自己確立は近代の発明である。近代以前、場と密接な関係にある場合、主体という独立は存在しな かった。近代において、社会に流動性が向上し、身体が容易に様々な場へ切り取り、貼り付けされ ることで、主体という独立性が生まれた。 これをドキュメンタリーに語ったのが、近代思想の祖、デカルトである。デカルトの「方法的懐疑」は 様々な場へと紡がれる中で生まれた不安である。このような意味で「我思う故に我あり」は一つの叫 びであることがわかる。そして次に起こることは「我とはなのか」という「自分探し」である。 主体とは、なにか確かなものがあるわけでなく、切り離されることで、生まれた空白である。その始 めから欠如によって生まれた存在である。欠如によってはじめて現れる。だから「自分探し」とはとて も矛盾したことである。探せば探すほどに主体性は向上し、空白が開いていく。 しかし無駄ではないだろう。「自分探し」を続けることで徐々に回りとの関係性に絡め取られる。会社 に帰属し回りとの関係が生まれ、扶養家族をもち、ローンを背負いという「責任」によって絡め取られ る。そして絡め取られ身動きができなくなったとき、「自分探し」は終わる。これが「本当の私だ」という 充実感がえられるわけではないが。
270 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/11(月) 09:50:24
だから「自分探し」は不安への名付けとして理解すべきである。 「自分探し」と名付けることで、不安は現前化され、共有化され、少し緩和される。
271 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/11(月) 12:15:27
企業コミュニティ崩壊において大切なことは、知識コミュニティにコミットすることである。 手に職をつけると食いっぱぐれない。オタクな興味への没入など この根底にあるのも知識コミュニティへのコミットである。 家庭、学校崩壊などいわれるがこれらが企業コミュニティを前提にした装置であったからだろう。 家庭、学校により新たな企業コミュニティの人員は教育された。正しくそだてれば企業コミュニティが請け負ってくれた。 その崩壊により家庭、学校は受け皿を失い、作動し続けている。 知識コミュニティは企業よりも広い。他者により切断されることがない。
272 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/11(月) 12:54:34
知識コミュニティは明確な境界も資格ももたない。ただ帰属しているだろうことのみである。 いかに実感をえるかは難しい問題であったが、ネットコミュニケーションが実態化しつつある。これは一つの知識革命かもしれない。 企業コミュニティの崩壊により家庭、学校は解を失った。そしてネット上に新たな解があらわれつつある。 しかしこの解は従来の秩序からは大きく逸脱しているし、かつての学歴のように幸せな仕事にありつく明確な解をあたえるわけでない。 むしろ気休めに近いかもしれない。精神的な安定のよりどころにしかならないかもしれない。 地域コミュニティ→企業コミュニティ→知識コミュニティ かつてはマスメディアのイメージでしかなかったが、ネット上には現実にコミュニケーションできる。 たとえばニート、フリーターという企業コミュニティから排除された人々もなんかの知識コミュニティに帰属している。 あるいは三年でやめる新入社員も知識コミュニティに帰属しているだろう。 たとえば電車男はどこに強い帰属をかんじていたか。会社、エルメス、おまいら
273 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/11(月) 13:15:42
企業コミュニティの幸福さは心身ともに満たしたことにある。やりがいある仕事により安定した収入。 知識コミュニティはこころを満たすかもしれないが収入による身体の充足をみたさないかもしれない。 もはや心身同時の充足はとてもむずかしくなっている。 だから企業コミュニティに身体を売り、知識コミュニティでこころを買うことが求められる。 身体の基準と心の基準の二重性がある。格差社会は心身一元の幸福な価値基準で語られる。 身体が満たされているが心がみたされない。心がみたされているが身体がみたされない。心身ともにみたされない。 心身ともに満たされていることはよいとして、心がみたされているが身体がみたされないことは幸福ではないだろうか
274 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/11(月) 13:53:24
地域コミュニティとは土地に依存することで身体的 企業コミュニティは土地の移動である。 知識コミュニティは土地から離れ情報である。 心は物理的でないが身体との距離、拘束の問題がある。 心が身体から乖離する。
275 :
純一 :2006/12/11(月) 22:29:50
>>255 >ボクはこのような科学技術の領域をアガンベンからとって、
>グレイゾーンと呼びました。
違います。
ぴかぁ〜は私のブログで使われていた用語である、
「グレーゾーン」を「グレイゾーン」に改竄して使っています。
276 :
純一 :2006/12/11(月) 22:30:37
>>250 >マトリクスでは完全に人間の外ですが、僕たちは音が周波数であり、ネットがプログラムであることは知っています。
>するとこれらは象徴界の位置にくるのでしょう。
>極端なことを言えばそれは、『マトリックス』のネオ君が見たところのエルフの王様、
>じゃなくてエージェント・スミスみたいなものかもしれません。
>もともとコンピュータ・プログラムでしかないエージェントさんたちは、
>リアルな目から見ると文字の集積に見えてましたよね。Welcome to the real world.
http://d.hatena.ne.jp/rothko/20060812
277 :
純一 :2006/12/11(月) 22:31:08
278 :
純一 :2006/12/11(月) 22:31:48
>>254 >「症候ジョイスに基づいて強調されていることは、主体の構造の構成における
>(技術の研鑽、工夫を凝らした方法といった月並みな意味での)人工物の
>重要性である。ラカンは、あらゆる発明は結局、サントームであるとまで言う。」
>(精神分析事典 サントーム)
>最初にラカンが取り上げたのはジョイスでした。ジョイスが精神病圏の
>かたであることはよく知られていますが、でも彼は精神病者ではなかった。
>それは彼の著作活動が補填となっていたからではなかろうかしら、と。
http://d.hatena.ne.jp/rothko/20050719
279 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 22:09:11
■なぜ「自分探し」は自分を探すことではないのか。 「自分探し」は近代の発明である。近代以前、場と密接な関係にある場合、主体という独立は存在し なかった。近代において、社会に流動性が向上し、身体が容易に様々な場へ切り取り、貼り付けさ れることで、主体という独立性が生まれた。 これをドキュメンタリーに語ったのが、近代思想の祖、デカルトである。デカルトの「方法的懐疑」は 様々な場へと紡がれる中で生まれた不安である。このような意味で「我思う故に我あり」は一つの叫 びであることがわかる。そして次に起こることは「我とはなのか」という「自分探し」である。 主体とは、なにか確かなものがあるわけでなく、切り離されることで、生まれた空白である。その始 めから欠如によって生まれた存在である。欠如によってはじめて現れる。だから「自分探し」とはとて も矛盾したことである。探せば探すほどに主体性は向上し、空白が開いていく。 しかし止められない。「自分探し」は不安への名付けであるからだ。「自分探し」と名付けることで、 不安は現前化され、共有化され、少し緩和される。
280 :
純一 :2006/12/14(木) 22:53:05
384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
削除屋@壮仁さま、度々すみません。
このような違反スレ立て荒らしの場合、あらし報告・規制議論に報告するには
どうしたらよいか、よろしければご教示ください。
>>146 ,142,137,135,157,167,172,179,182,197,199,208,209,212,220,225,227,231,234,239,
245,250,256,258,263,270,277,285,300,303,312,319,325,343,346,369,373,375,378,380,382等、
3年前より哲学板で恒常的に続いている同一違反スレの再発です。
削除対象アドレス
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1166085712/ 削除理由・詳細・その他:GL3:固定ハンドル(2ch内)に関して
・固定ハンドルが題名に入っている
>>207 ,210,212,227,231,234,239,244,251,261,270,287,303,312,319,325,332,346,369,373,375,378,380,382の再発です。
削除対象アドレス:
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1166031741/ 削除理由・詳細・その他:GL4. 投稿目的による削除対象
・全く情報価値が無い・真面目な議論や話し合いを目的としない・利用者の気分を害する
GL6. 連続投稿・アスキーアート
281 :
純一 :2006/12/14(木) 22:53:56
384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp 384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp 384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp 384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp 384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
282 :
純一 :2006/12/14(木) 22:55:49
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283 :
純一 :2006/12/14(木) 22:57:29
>日本初のサービス 無料プロバイダSolootは、2002年2月8日に日本初の画期的なサービスを開始しました。 >セキュリティに充分配慮しながらも入会手続き不要で今すぐインターネットを利用可能な全く新しいタイプの >無料接続サービスです。現在では、似たようなサービスをいくつか見かけますが、品質やセキュリティ対策まで >無料プロバイダSolootを真似られるとは限りません。 proxy代わりかね?
284 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/15(金) 14:30:20
労働価値説の限界にかかわらず、労働は重要でありつづける。 その理由は大きく二つ上げられるのではないだろか。 一つは人は労働する動物であり、そこに労働する快楽があるということ、 もう一つは価値が労働に還元できないとしても、労働なき経済は存在しないということ。 それは経済活動は生存を支えており、最低限の生活維持費の確保が 商品価値という相対的な価値においても、相対的であるゆえに発散し崩壊することを支えるからだ。 価値体系が差異の体系、あるいは戯れのシニフィアンであっても、生存に結び付いた労働価値がベースとしてある。
285 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/15(金) 14:35:14
たとえば高いブランド品を買う女性も生活必需品は堅実な価格で購入する。 そして限りなく労働価値説に近接するのだ。 欲望の次元と欲求の次元、心身二言論である。
286 :
純一 :2006/12/15(金) 21:25:02
287 :
純一 :2006/12/15(金) 21:26:09
>182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
>>>削除遠雷 ★さん、ありがとうございました。
>
>以下、
>>146 ,142,137,135,157,167,172,179等、
>約二年前より哲学板で恒常的に続いている同一違反スレの再発です。
>
>削除対象アドレス:
>
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1122736469/ >削除理由・詳細・その他:
>GL3:固定ハンドル(2ch内)に関して
>・固定ハンドル叩き・固定ハンドルが占用している・閉鎖的な使用法
>・固定ハンドルが題名に入っている
この11.7.244.43.ap.livedoor.jpのホストは、
おそらくはproxyだと思われますが、ライブドアの何かのサービスでしょう。
288 :
純一 :2006/12/15(金) 21:27:18
おそらく、このサービスを使って
ぴかぁ〜は削除依頼しているのでしょう。
インターネット接続サービス『プライム』月500円
http://isp.livedoor.com/prime/dialup.html >料新サービスでは、アナログ回線、PIAFS(PHS)、携帯電話、ISDN(MP接続のみ)で
>インターネット接続できるサービスです。 電話回線を使って、livedoorの
>アクセスポイントに接続し、そこからインターネットへアクセスします。
289 :
准一 :2006/12/15(金) 22:42:58
お好み焼きは広島起源なのか大阪起源なのか?
290 :
純一 :2006/12/15(金) 23:14:39
291 :
准一 :2006/12/15(金) 23:36:46
私も研究中ですが、なかなか決定的な史料が見つからず、困っております。
292 :
純一 :2006/12/15(金) 23:53:40
千利休が都の菓子職人に依頼し作らせた、 麩の焼きがお好み焼きの元祖らしいのです。
293 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 11:20:21
■成熟社会 過剰な欲望を想起する資本主義システム 「幸せ」とはなにか、いろいろに考えられますが、ひとつの案として、現実的により多くの人で実現可 能なものとして、生存が確保され、過剰に欲望が想起されず、ほどほどに充足する状態(中庸)と考 えてみましょう。 科学技術が発達した現代で、生存を確保することはできるようになってきています。それ以上に、過 剰に欲望を想起されている、煽られている面が強いです。欲望は始めからあるものでなく、状況の 中で作られるものです。それは、資本主義社会システムから来ている面が大きいです。現代では需 要を想起し続けなければ、経済成長は維持されません。 この始まりが、フォーディズムと言われます。フォーディズムは大量生産だけでなく、労働者を消費 者とすることで、大量生産を可能にする大量消費を作りだしたと言われています。現代ではさらに多 様化しマーケティングに繋がります。 中庸を実現するためには、過剰な欲望の想起を抑制する必要があります。「贅沢するな」ということ ではだめです。「贅沢するな」が欲望を想起してしまうからです。過剰そのものをなくさなければなり ません。 欲望は他者への欲望ですから、消費社会は他者への競争を煽ることで成り立っています。自由と平 等による自己の自立(自分探し)による他者との繋がりの分断と、その疑心暗鬼による不安による欲 望の想起の螺旋構造が、現代の資本主義社会です。 とはいっても、資本主義的欲望の想起、経済成長を抑止すると、大量の失業者の発生、あるいは国 際競争に負けるなど、大変なことになってしまいます。
294 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 11:21:11
資本主義的成長の抑止としての高齢化 その中でもボクが一つ気にしているのが、なぜ先進国では少子化し、人口は減少するのか、という ことです。収入が低くて、多くの子供が作れない福祉政策の問題が言われますが、むしろ貧しい国 は多産です。これは、豊かな社会になるほど、その社会の生活水準を一人の子供に与えるためにコ ストがかかるためです。 当然ですが、豊かな社会ほど、一つにかかるコストが上昇します。欲望がされるほどに、さらにコスト がかさみ、自分を維持するのがいっぱいいっぱいで扶養家族を養うどころではなくなる、ということで しょう。そして高齢化し、少子化し、人口は減少する。 これは、ここ200年で爆発した資本主義的成長の抑止として働くのではないでしょうか。経済学的に 終わりなき成長の資本主義モデルという定常状態から成熟期への遷移です。経済学では決して予 測できないものです。 高齢化社会はそれはそれで、経済の維持の面で異なった問題が生まれるでしょう。顕著なのが年 金問題のように、高齢者の福祉費をどのように確保するのか。 欲望は他者への欲望ですから、幸せの基本はコミュニティの再生です。現代の豊かさに裏付けられ た自我の肥大は、コミュニティの帰属を嫌い、過剰な欲望に充足を求めています。これは矛盾してい ます。他者をもとめつつ、他者と離れる。この矛盾が資本主義が終わりなき成長できる動力でしょ う。
295 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 11:23:49
高齢者は成熟するか 高齢者とは、若者よりも生物的に成熟し、どん欲さが減ることが考えられますが、さらには死の近 接、終わりを意識するということです。老いは死に至る病と考えられますが、そこに悲惨さありませ ん。病による死とは異なり、受け入れる死です。 高齢者は若者よりも、欲望は想起されにくいのではないでしょうか。物的量よりも、質に価値を求め る。フィジカルよりプラトニック。中庸に向かうことが期待されます。中庸とは、適度な他者との関係 の構築に行き着くのだと思います。高齢者を美化しすぎでしょうか。 高齢化というメタファが示すのは、老練的なものでない。老人は達観するはあまりに若者からみたイ メージすぎる。むしろ生理的な老化的なもののほうが良いだろうか。感受の速度、量の面で劣ってく る。人々は老化し社会は成熟する。
296 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 11:24:32
歴史の終わり このような人の成熟についてコジェーブの予測の一つがスノビズムである。欲望の対象の飽和は反 復の様式美へむかう。もう一つは動物化。豊かで生理的な充足は欲望を消失させる。老化は後者 に近いだろうが、動物化において欲望を封じ込めるには終わりなき生理への刺激開発が欠かせな い。コジェーブが動物化をアメリカの高度成長期にみたように、活性化された消費資本主義に対応 する。この歴史の終焉論がフクヤマのリベラリズムの勝利宣言にむすびついたのはそのためである。 それがとどこうると欲望のバックラッシュが起こる。現代のネットや暴動などさまざまな「祭り」にみら れる。それに対して老化は生理そのもの減退であり、無理に欲望を封じ込めない。
297 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 11:25:04
成熟した社会システムの可能性 しかし人は老化するのだろうか。高齢化で生理の感度がにぶっても、欲望の次元、すなわち他者へ の感度は鈍るとは限らない。現に豊かさのなかでストレス社会といわれるように他者との関係が浮 上している。現代の動物化はコジェーブの考えた幸福なイメージよりむしろ他者回避する逃げであ り、他者が浮上していることの反面の傾向が強い。 ここに資本主義における生理への物理的な充足という終わりなき脅迫の限界があるようにおもう。 高齢化、人口減少社会という傾向のなかで、老化に対応したシステムの模索がひつようだろう。
298 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 14:18:48
■すべては複雑である。 科学的帰納法という寛容 科学は帰納法であると言われます。帰納法とは「観察や実験を繰り返し行い、観察事実(データ)を 蓄積し、たくさんの観察事実(データ)に基づいて、理論を構築する」ということ。ここで問題は、繰り 返しということ。たとえば物体Aと物体Bの衝突実験のように力学の基礎実験は繰り返し(検証)が 容易だろう。誰がいつやっても再現されることで、「確からしさ」が積み上げられていく。 でもその後、それにあわない結果が出る可能性は排除できない。たとえばニュートン力学は多くの 人に繰り返されて、「確からしさ」が確認され、教科書にものっている。しかしそれがアインシュタイン によって崩された。 科学的帰納法の有効性はここにあるわけ。「別に絶対の真実でなくても、みんなが「確からしい」と 認めればよいじゃん!」という寛容さこそが、社会に活用され、成功しているわけだ。
299 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 14:19:21
なぜ超能力は科学でないのか では心理学どうだろうか。これは科学もあるから、帰納法が用いられる。ある条件で人はどのように 行動するか。それが繰り返し行われる。しかし力学のような誰がいつやっても再現されるような「確 からしさ」がえられにく。経済学や社会学など社会科学もそう。 では超能力研究はどうだろうか。超能力の非科学性は、もっと再現性が低いからだ。できたり、でき なかったり、心霊現象や宇宙人なども。科学は真実ではないが、「確かなもの」だ。では、どこまでが 「確からしさ」で科学なんだろうか。この議論が20世紀初頭におこったわけだ。
300 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 14:21:53
「反証可能性」という排他主義 そしてその中で「科学とは「反証可能性」があるものだ」という考えがカール・ポパーによって示され た。反証可能性とは、誰にでも繰り返し実験(検証)が可能で、いつでもその間違いを指摘できる(反 証可能性)ような理論だけが、科学である。繰り返し実験ができない、やるたびに違う結果が出るよ うなものは、「確からしさ」を調べられず、科学とはいえない。ということ。そうすると、社会科学は科 学でないことになる。 これも一つの考えであり、科学とはなにかに、答えはないわけだ。でもみんな漠然と繰り返し検証さ れたことを科学的と思っているだろう。すなわちここで行われているのは、繰り返し検証できるものを 科学という内部と、検証できないものを非科学として外部に排除すること。さらにいえば、単純なこと を科学と言い、再現が難しいほど複雑なものを非科学といおうということなわけだ。 「反証可能性」においては、超能力は当然であるが、心理学や社会学や経済学など人文科学全般 が科学であるか、微妙になる。
301 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 14:22:25
すべての現象は1回限りで複雑だ すべての(自然)現象は厳密には、1回限りで繰り返しなどできない。物体Aと物体Bの衝突だって、 厳密には同じ結果は起こらない。力学は近似的に繰り返されているとしているだけ。厳密には物体 Aと物体Bが衝突するときの回りの環境は厳密に同じであることはありえない。そして回りの環境が 異なれば、厳密な繰り返し(検証)でなく、異なる結果ということ。力学実験ではこの環境の差が小さ いから、誤差として、近似的に繰り返されているとしているだけ。 でも最近のカオス理論でいえば、小さな差がその後の結果に大きな現象の差を生み出すという結果 が出ている。すなわちすべての現象は複雑なわけだ。自然が単純なわけでなく、科学が自然を単 純に切り取って、見せているだけだ。
302 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 14:23:17
要素還元主義と帰納法という自然の切り取り このような単純化の代表的な手法が、古典力学に代表的である、複雑なものを単純な要素に還元し て、単純なモデルとつくる要素還元主義だ。物理学が、原子、陽子、クオークなどへとより細部の単 位へ向かったのも、要素還元主義を展開するためである。 心理学や社会学や経済学でも、要素還元主義が用いられる。たとえばこれらのの実験結果は、統 計学的に示される。80%の人がAの行動したので、「確からしさ」があると検定される。ひとりひとり 違う人が、あたかも人間という同じ単位の集まりと還元し、それが繰り返されるとして「確からしさ」を PRされている。 世界に同じもの、同じ現象は一つとしてない。それをある単位の集まりとして扱うことで、近似的な 単純化されたモデルをつくる(要素還元主義)。そして単純化されることで観察の繰り返し(検証)が 可能になり、みんなで「確かだ」と信じること(帰納法)が、科学であるということだ。 複雑な対象を要素へと還元すること(要素還元主義)と、一度きりの現象を繰り返しへと還元するこ と(帰納法)によって、科学は、自然を単純に切り取って、見せているだけだ。
303 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 14:23:56
すべては複雑系である。 それに対して、最近の科学の傾向が、複雑系という非還元主義である。還元主義は「全体は部分の 総和である」という考えであるが、複雑系は「全体とは、部分の総和以上である」という非還元主義 である。要素がそれぞれに関係することで、全体としてより複雑な振るまいをする現象である。 要素還元主義と複雑系の違いは、機械と生物の差を考えるともっともわかりやすい。機械は古典物 理学(力学)に従い、全体が部品の総和として機能する。しかし生物は力学に還元されず、部品の 総和以上に機能し、成長する。 複雑系のような考え方は、アリストテレスの時代からあるが、処理能力として複雑すぎて扱えなかっ たわけだ。だから要素還元主義が発展したといえる。複雑系が1970年以降に発展したのは、コン ピューターの普及によって、多くの要素とそれぞれの関係を考慮した複雑系をシミュレーションする ことができるになったためだ。 天候、交通渋滞、経済などの生物のようなに振るまう複雑系は、コンピューターによってシミュレー ションされている。しかしすべての現象は複雑な環境をもち、厳密には成長する複雑系なのである。
304 :
十二使鳥 :2006/12/17(日) 14:59:18
心身二元。ね。 つまり、心(無)身(有)だな。 この世は有と無から成る。とする俺と同じだな。 久しぶり。第三の波平くん。
305 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 15:39:50
宇宙の「歴史」と人の歴史の違い しかし複雑系であっても、科学である以上、自然を単純に切り取って、見せていることには かわりがないだろう。本当の複雑さとは、1回限りの現象であるということだ。 たとえば科学において、宇宙の創生(ビックバン)から終焉(暗黒の世界)が予測されている。 さらにはこれは一つの宇宙の始まりと終わりであって、世界には多くの宇宙が存在し、それ ぞれで始まりと終わりが繰り返されている。これは科学者の想像の世界であるが、科学らしい 想定である。世界は反復に溢れているのではく、世界から反復を取り出すことが科学であると いうことだ。そしてボクたちは、科学と通して世界を見るのだ。 このような宇宙の「歴史」に対して、人の歴史はどうだろうか。人の歴史には繰り返しはなく、 すべて一度きりのものだと考えている。これを宇宙が単純で、人が複雑であると考えては いけない。すべては複雑であるが、この差は、人の認識方法の差である。人は宇宙を科学的に 反復に還元し単純化して認識するが、歴史すなわち自らの物語は反復によって単純化すること を「好まず」、複雑な姿を複雑なままで見ようとする。そして科学でなく、言語によって記述される。
306 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/17(日) 15:40:24
人の歴史は科学によって記述されないという倫理的信念 人の身近さということでは、宇宙の「歴史」と人の歴史の中間に位置する「生物」の歴史、すなわち 進化論はどうだろうか。進化論は地球において1度かぎりのものと考えられるが、他の地球が あれば、反復される可能性も考えられるという意味で、まさに科学と「歴史」の中間に位置する。 ここでダーウィンとほぼ同世代を生きた、ニーチェの永久回帰を考えるとおもしろいだろう。永久 回帰の思想は、科学的反復の世界と歴史的一回性の融合である。宇宙の反復が人の歴史に 接合されるが、人の歴史の唯一性を守るために、無数に近い反復の中で、いつか同一の人の 歴史が起こる。 進化論と同じ衝撃、一回限りの人の歴史が、科学の反復に取り込まれることの不安である。 たとえな人が科学として解体される、すなわち反復によって単純にされる不安とは、ボクという 唯一の存在は、単に反復の存在、個性のない多くの内の一人でしかない存在へおとしめられる ことの不安である。蟻の群の1匹には個性がなく、多くのただの1匹のように扱われることの 不安である。ボクが死んでも、誰も気にせずに、部品交換のように他の人が入れ替えされることが できる不安である。人はだれもがかけがえのない唯一の尊厳ある存在であるという倫理を おとしめることである。 人の歴史とはかけがえのない人が起こしたかけがえなのか時間であり、科学によって反復に単純化 され、宇宙の「歴史」と同列に語られるよなものではないだ、という倫理的信念である。
307 :
十二使鳥 :2006/12/17(日) 16:57:33
本来、宇宙と人は比較対象外だな、 科学と自然もしかり、 科学は自然を超えることはできないのだよ。 自然の摂理を利用するだけのものだ。 人は宇宙にあくまでも【含まれる】もので、それ以上には成りえない。 つまり、【対象外】。宇宙に対して人が独立しているのではないのだからな。 とはいえ、比較対象してみるのもいいだろう。含まれるものゆえ、 同じ摂理が見えてくる。 そんじゃ。
308 :
純一 :2006/12/17(日) 17:10:14
309 :
純一 :2006/12/17(日) 17:10:49
>182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
>>>削除遠雷 ★さん、ありがとうございました。
>
>以下、
>>146 ,142,137,135,157,167,172,179等、
>約二年前より哲学板で恒常的に続いている同一違反スレの再発です。
>
>削除対象アドレス:
>
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1122736469/ >削除理由・詳細・その他:
>GL3:固定ハンドル(2ch内)に関して
>・固定ハンドル叩き・固定ハンドルが占用している・閉鎖的な使用法
>・固定ハンドルが題名に入っている
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310 :
純一 :2006/12/17(日) 17:11:45
おそらく、このサービスを使って
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>アクセスポイントに接続し、そこからインターネットへアクセスします。
311 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/18(月) 13:53:16
多くの悩みは他の人からみるとなんてことはない。なんでそんなことぐらいで、悩み、極端には死を選ぶ。 みじかさとはそのようなものである。
312 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/18(月) 13:54:23
ここにあるのはやりなおし、反復に回収できない一回性である。
頭がぴかあ。 サザエさんか。 なるほどね。
314 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/18(月) 19:25:01
利益とはなにか。なぜ利益が必要なのか。企業コミュニティではみんなで勝ち、みんなで豊かになることがめざされる。 マルクス経済学の基本である資本家/労働者の二項対立が隠されている、あるいは解体されているのか。 会社の利益はみんなの利益である、だけでなく、利益をあげるという共通目的がコミュニティ、帰属がささえられている。 そこでは内部競争こそが帰属を高める。強い共通項として利益が求められる。それを失ったとき大きなものが消失する。 しかしその帰属に関係しない人々がいる。
315 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/18(月) 22:03:54
多くの悩みは他の人からみるとなんてことはない。なんでそんなことぐらいで、悩み、極端には死を選ぶ。 みじかさとはそのようなものである。ここにあるのはやりなおし、反復に回収できない一回性である。 そんなこと誰にでもある、始めは誰でもそうさ、という反復によって緩和されない、いまここ、このとき という1回性が悩みにやり直しのなさという絶望を与える。
316 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/18(月) 23:31:02
子供達のネットコミュニケーションが活発化している。生まれてすでにネットコミュニケーションが あった世代の台頭である。
317 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/18(月) 23:43:04
自意識が高いというとき、このような1回性が高いことを示す。この1回がすべてであるという 強い執着。場所的な反復=他者のそうである、時間的反復=なれてくる、ような反復へと 緩和できない。 自己とは1回性によって支えられている。誰とも違う唯一の存在、繰り返されないいまこのとき。 多くの人のうちの一人、何度でも繰り返される行為(経験)においては、自己の強度は低下する。 それは生物の群である。蟻はどれも同じで、機械のように決まったプログラムで行為を行う。 1回性の高さは自意識を支える。そして「身近」な存在ほど、自分にとってかけがえのない、 すなわち反復されない存在ということだ。
318 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/18(月) 23:56:20
唯一の存在、繰り返されなこのときにおいて、生への緊張が生まれ、 そして尊重という倫理的要請が生まれる。 その意味で若者について言われることは両極にある。 最近の若者は、他者への尊重が低く、命の尊うに疎い、言われる。 最近の若者は自意識が高く、小さなことで、絶望し、弱い。 この両極が確かであるならば、現れる状況は、「身近さ」の小ささである。 自分の近接にのみ「身近さ」があり、少し外れると希薄化する。 このような傾向は、オタク関連でいう「セカイ系」に近い。 象徴界の消失、社会関係の希薄化
319 :
純一 :2006/12/19(火) 00:23:57
320 :
純一 :2006/12/19(火) 00:24:38
>182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
>>>削除遠雷 ★さん、ありがとうございました。
>
>以下、
>>146 ,142,137,135,157,167,172,179等、
>約二年前より哲学板で恒常的に続いている同一違反スレの再発です。
>
>削除対象アドレス:
>
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1122736469/ >削除理由・詳細・その他:
>GL3:固定ハンドル(2ch内)に関して
>・固定ハンドル叩き・固定ハンドルが占用している・閉鎖的な使用法
>・固定ハンドルが題名に入っている
この11.7.244.43.ap.livedoor.jpのホストは、
おそらくはproxyだと思われますが、ライブドアの何かのサービスでしょう。
321 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/19(火) 00:45:51
■いじめ問題と多チャンネル化 いじめ対策 異なるチャンネルを担保しよう。 いじめが問題になっているが、いかにいじめをなくすか、という視点は不毛なように思う。人間のコ ミュニティにおいては、排他は必然ではないだろうか。誰かを外部へ排他することが内部を形成する 条件であるように思う。そしてだれが排他されるかは、偶有性がある。だれにも排他される可能性は ある。 様々に語られるいじめ対策の中で、比較的有効だろうと思ったのが、学校のクラスなどの小さな世 界に埋没せず、異なるチャンネルを担保しようというアドバイスである。 1回性と反復 多くの悩みは他の人からみるとなんてことはない。なんでそんなことぐらいで、悩み、極端には死を 選ぶのだろうかと思う。ここにあるのはやりなおし、反復に回収できない一回性である。そんなこと誰 にでもある、始めは誰でもそうさ、という反復による緩和がない。いまここ、このときという1回性が悩 みにやり直しのなさという切迫感を与える。 このような1回性の強度は、自意識が高いことに繋がる。誰とも違う唯一の存在、繰り返されないい まこのとき。そして「身近」な存在ほど、自分にとってかけがえのない、すなわち反復されない存在と いうことだ。唯一の存在、繰り返されないこのときにおいて、生への緊張が生まれ、そして尊重という 倫理的要請が生まれる。 その反対が、多くの人のうちの一人、何度でも繰り返される行為(経験)においては、自己の強度は 低下する。それは生物の群である。蟻はどれも同じで、機械のように決まったプログラムで行為を行 う。そこでは倫理は希薄化する。
322 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/19(火) 00:46:43
肥大した自意識近辺の小さな世界に住む住人 その意味で若者について言われることは両極にある。最近の若者は自意識が高く、小さなことで、 絶望し、弱い。また最近の若者は、他者への尊重が低く、倫理観が低い。 この両極が共存する状況は、「身近さ」の小ささである。自分の近接にのみ「身近さ」があり、少し外 れると希薄化する。このような傾向は、オタク関連でいう「セカイ系」に近い。社会関係の希薄化。こ のような肥大した自意識近辺の小さな世界に住む住人が、いじめによって追い込まれたとき、それ 逃げ場のない絶望へと繋がるのではないだろうか。 1回性と反復のバランス このように考えると、重要なことは、1回性と反復のバランスである。強い自意識に追いつめられな いように、適度に反復へと緩和することを知らなければならない。それとともに回りに対しては「身近 さ」という1回性の強度を持たなければならない。 このようなバランスを保つ方法として、小さな世界に埋没せず、いくつかの異なるチャンネルを担保 することが有効ではないだろうか。
323 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/19(火) 00:47:27
しかし情報化社会においては、流動性が向上し、容易にチャンネルを見いだすことができるように思 う。たとえば容易すぎる危険として、出会い系などが上げられている。
324 :
純一 :2006/12/19(火) 01:50:27
おそらく、このサービスを使って
ぴかぁ〜は削除依頼しているのでしょう。
インターネット接続サービス『プライム』月500円
http://isp.livedoor.com/prime/dialup.html >料新サービスでは、アナログ回線、PIAFS(PHS)、携帯電話、ISDN(MP接続のみ)で
>インターネット接続できるサービスです。 電話回線を使って、livedoorの
>アクセスポイントに接続し、そこからインターネットへアクセスします。
325 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/19(火) 01:55:03
326 :
純一 :2006/12/19(火) 02:02:07
この2つのサービス使って、ホストを偽装してからぴかぁ〜は削除依頼しています。
>384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
proxy代わりに無料プロバのSolootというところを使って書き込んでいます。
http://soloot.jp/ >>182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
インターネット接続サービス『プライム』月500円
http://isp.livedoor.com/prime/dialup.html
327 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/19(火) 02:18:15
ネットの始まりに、3Dコミュニケーションブームがあった。 それが衰退したのは、伝送速度の遅さがあったが、 コミュニケーションするのに、3Dである必要があるのだろうか。 テキストであることは、情報量の少なさ以上に、簡潔さがあるの思った。 そしてネットにおいて3Dの意味はあるのだろうかと思った。 しかしアメリカで「セカンドライフ」が流行っているらしい。 そこには内部なりの貨幣経済が成り立っている。 オンラインゲームでは一部あったが、よりリアルな生活があるらしい。
328 :
純一 :2006/12/19(火) 02:43:07
訂正
この2つのサービス使って、ホストを偽装してからぴかぁ〜は削除依頼しています。
>384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
proxy代わりに無料プロバのSolootというところを使って書き込んでいます。
http://soloot.jp/ >182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
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329 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/19(火) 11:33:30
子供ちゃんねるの薄気味悪さとは一回性の強度、自意識過剰である。 私をわかってほしい。自己アピールとしての 実際、学校でもこのような濃厚さがおこっており、その闘争としていじめは発生しているのではないだろうか。
330 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/19(火) 12:03:37
反復とははやりのことばでいえばフラット化といってもよいだろう。 情報化社会、フラット化のなかで生まれた子供たちの一回性へのキユが、ネットに押し寄せている。 彼らの過剰はメディアリテラシーの教育がたりない以上に飢えているのではないだろうか。
331 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/19(火) 22:28:10
>> 組織には6つの集団がいます。 周囲に影響を与えたり、組織を動かせるリーダー(指導者) その横にいてリーダーに対していろいろ言ってあげられる参謀、 言ったことをちゃんとやるフォロワー(追随者)。 あとは言ったこともやらなくて、ぐれているパラサイト(寄生者) リーダーの逆で周囲を腐らせるキャンサー(組織のガン) 最後の1つはエイリアン(異端者) エイリアンは、個人としては才気煥発で優れているけれども、 コンサバティブな組織の中では排除される傾向にあります。 <<
332 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/20(水) 08:40:49
フラット化という反復圧と一回性への希有 これはデカルトみられる。我ありと機械論、すなわち心身二元論である。 機械論と帰納法と要素還元主義という反復圧である。科学技術の力そのものであるが、本質は人間そのものにある。 道具であり、言葉である。
333 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/20(水) 08:58:16
アナログとデジタルに特徴的である。アナログとは一回性である。デジタルはそれを切り刻む反復可能にする。 これにより人間は環境を管理し、作り替えることができるようになる。 反復欲は人間の本質であり、脅威であり続ける環境に対抗し、生存を確実にする。 たとえばいまぼくたちは日々生存に悩まされない。衣食住は当たり前、無意識な存在だ。 これは反復の厚い防御にまもられているからだ。それでも地震など反復に回収されない出来事にさらされる。
334 :
考える名無しさん :2006/12/20(水) 10:30:55
反復というか、生命は常に生殖や分裂を通して 個体レベルの作り替えを繰り返しています また、古いものを排出し新しいものを作る、 新陳代謝という新旧のリモデリングを繰り返し続けている存在です 原子生物から常に行っている反復行為ですので アナログやデジタルは関係ないのです
335 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/20(水) 12:50:56
生命活動と人間技術デジタル化の大きな違いは、生命は成長するということですね。 すなわち反復と差異です。差異は反復からみると反復を破壊するマイナス要因と考えられます。 人間技術も成長しますが、それはいつも反復の外部から破壊者としてやってきます。 人は反復に回収しようとして、さらには差異さえ管理しようとしますが、たえず回収されない残余こそが差異です。 最近、ウェブ2といわれるのは差異をとりいれ成長を促す方法です。管理したいが管理すると成長が抑制される。2ちゃん、ミクシィなどをみればわかります。
336 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/20(水) 13:05:01
構造主義は反復の世界です。ドゥルーズの差異、デリダの差延は反復に回収されない残余です。 構造はマルクスの下部構造もそうですが、科学です。
337 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/20(水) 13:52:07
■反復と差異 心身二元論のドキュメンタリー フラット化という反復と一回性への希有。デカルトに「方法序説」はこの間で苦悩するドキュメンタリー である。「我あり」という1回性と機械論という反復、すなわち心身二元論である。機械論は帰納法と 要素還元主義という科学的な反復でによって、人間を回収することであり、回収された領域は「身 体」と呼ばれ、回収されない領域が「心」と呼ばれる。 近代初期に、科学技術の急激な発展は、人々にこのような分離感の不安を抱かせたのだろう。そし てマルクスの疎外論へと繋がる。 反復は近代の科学技術によって急激に発展したが、その本質は人間そのものである。反復とは道 具であり、言葉である。環境を道具であり、言葉によって、反復への回収することによって、人々の 間でより正確な伝達が可能になる技術の発展を促す。
338 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/20(水) 13:53:19
反復という厚い防御策 このような発展は、アナログとデジタルという関係で考えられるだろう。アナログとは一回性である。 デジタルはそれを切り刻む反復可能にする。これにより人間は環境を管理し、作り替えることができ るようになる。 反復欲は人間の本質であり、脅威であり続ける環境に対抗し、生存を確実にする。たとえばいまぼく たちは日々生存に悩まされない。衣食住は当たり前、無意識な存在だ。これは反復の厚い防御にま もられているからだ。それでも地震など反復に回収されない出来事にさらされる。
339 :
考える名無しさん :2006/12/20(水) 13:53:48
構造からは安定したルールが定まる でも、時にルールのちょっとした変化が構造に影響を与え それによりルールもちょっと変わり、やがて安定する たえず、安定とちょっとの変化のサイクルを通して ちょっと、ちょっとちょっと進化をしていくのである
340 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/20(水) 13:54:00
「他者」という差異 しかしアナログのデジタル化にはかならず残余が残る。たとえば、生命活動と人間技術(デジタル 化)の大きな違いは、生命は成長するということだ。すなわち反復と差異である。差異は反復からみ ると反復を破壊するマイナス要因であるとか、ノイズであるとか、考えらる。人間技術も成長するが、 それはいつも反復の外部から破壊者としてやってくる。人は反復に回収しようとして、さらには差異 さえ管理しようとするが、たえず回収されない残余こそが差異である。 構造主義は反復の世界である。構造主義的差異とは、反復によって構築された内部の差異であ る。それに対して、ポスト構造主義におけるドゥルーズの差異、デリダの差延は、反復によって構築 された内部からの差異であり、成長(リゾーム化)を促す差異である。 たとえば、最近、ウェブ2.0といわれるのは、ウェブ1.0が反復の世界だったのに対して、差異をと りいれ成長を促す方法だ。デジタル世界であるはずのネット上において、差異を生み出すのは「他 者」である。「他者」がどのような発言をするか、どのような行為をするかわからない。 たとえば2ちゃんねるやミクシィにおいて管理したいが、管理すると成長が抑制される状態にある。 すなわちルールをこえた「他者」の行為が差異であり、そのような差異があるから、人々は2ちゃん ねる、ミクシィにあつまり、コミュニティ自体が成長する。
341 :
純一 :2006/12/20(水) 17:26:53
342 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/20(水) 18:07:24
主体は啓蒙主義の産物であるが、これが受け入れられるには、科学技術による反復の力は不可欠だろう。 反復は外部環境の障壁となった。時間、空間を反復へ回収することで予測可能性を向上させた。 世界は格段に安全になり、生存率は格段に向上し、近接した集団、そして場所への依存が小さくなり、個人の自立、そして流動性向上する。 どこでも一人でも生きていける。この中で互酬贈与から貨幣交換へ、すなわち資本主義社会へむかったのは偶然ではないだろう。 すなわちお金さえあれば一人で生きていける。お金があるほど自立する主体。 このような反復の防壁のなかで自意識は育ったのである。
343 :
純一 :2006/12/20(水) 18:52:36
>182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
>>>削除遠雷 ★さん、ありがとうございました。
>
>以下、
>>146 ,142,137,135,157,167,172,179等、
>約二年前より哲学板で恒常的に続いている同一違反スレの再発です。
>
>削除対象アドレス:
>
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1122736469/ >削除理由・詳細・その他:
>GL3:固定ハンドル(2ch内)に関して
>・固定ハンドル叩き・固定ハンドルが占用している・閉鎖的な使用法
>・固定ハンドルが題名に入っている
この11.7.244.43.ap.livedoor.jpのホストは、
おそらくはproxyだと思われますが、ライブドアの何かのサービスでしょう。
344 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/22(金) 22:28:38
重要なことは、「自然」である。 現代の資本主義推進、新自由主義において、そこにあるのはアダムスミスの「神の手」である。 資本主義こそが「自然」なことであり、余計な干渉は避けて(小さな政府)、「自然」なままがよい というわけだ。 ヘーゲルからつづく、コジェーブ−フクヤマの歴史の終焉も、資本主義において、歴史は終わる のであり、それは、それが自然なことだからだ。 このような考えへの反論には二通り考えられる。一つは資本主義が自然ではないということだ。 それがマルクスである。マルクスは類的存在として自然との調和こそが最終地点であるとみた。 資本主義は歴史的に特殊な状態であり、唯物史観において、その後に社会主義という歴史の 終焉が訪れると考えた。 もう一つの反論は、自然であることが良いことではないということだ。 なんらかの管理によって、社会は正しく機能する。ソビエトなどの国家社会主義、 資本主義の保護主義などでそれに当たるが、上手くいっていない。 それは操作することの難しさである。
345 :
純一 :2006/12/23(土) 00:43:00
おそらく、このサービスを使って
ぴかぁ〜は削除依頼しているのでしょう。
インターネット接続サービス『プライム』月500円
http://isp.livedoor.com/prime/dialup.html >料新サービスでは、アナログ回線、PIAFS(PHS)、携帯電話、ISDN(MP接続のみ)で
>インターネット接続できるサービスです。 電話回線を使って、livedoorの
>アクセスポイントに接続し、そこからインターネットへアクセスします。
純一 もうやめろよ。ほっといてやれよ。マジで、 新ネタあるなら、ともかく、つまらないよ。
347 :
純一 :2006/12/23(土) 03:30:19
この2つのサービス使って、ホストを偽装してからぴかぁ〜は削除依頼しています。
>384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
proxy代わりに無料プロバのSolootというところを使って書き込んでいます。
http://soloot.jp/ >>182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
インターネット接続サービス『プライム』月500円
http://isp.livedoor.com/prime/dialup.html
348 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/23(土) 11:09:36
なぜお金がほしいのか 好きなものがかえるから 好きなことをして過ごせるから 行為の可能性が増えるから みんなへの優越がえられるから 将来が安心だから
349 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/23(土) 11:15:42
反復欲は人間の本質であり、脅威であり続ける環境に対抗し、生存を確実にする。たとえばいまぼく たちは日々生存に悩まされない。衣食住は当たり前、無意識な存在だ。これは反復の厚い防御にま もられているからだ。それでも地震など反復に回収されない出来事にさらされる。 反復を維持するにはコストがかかる。維持しなければ、環境はすぐに反復の防御策を解体してしまう。 お金のもつ貯蓄性は、このような反復の維持のための特性をもつ。すなわちお金とは、 そのまま反復の源泉力の意味を持つ。お金を持つことで、強い反復性を維持することができる。 これは、生存率と富の密接な比例関係からわかるだろう。
350 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/23(土) 12:06:52
■反復とお金 「反復」は近代の科学技術によって急激に発展した。「反復」とは道具であり、 言葉であり、人間の本質である。外部環境を道具であり、言葉によって、反復へ 回収することによって、人々の間でより正確な伝達が可能になり、記憶として蓄積され、 歴史(進歩史観)を生み出す。 脅威であり続ける外部環境に対抗し、反復の防御策は生存を確実にする。 たとえばいまぼくたちは日々生存に悩まされない。衣食住は当たり前、無意識な 存在になっている。これは反復の厚い防御策にまもられているからだ。 街をぼーと歩けるのも、家でくつろげるのも、反復の防御策に守られているからだ。 回りが安全であり続けるという反復であり続ける安心である。 明日のいまごろなにをなにをしているだろうか。反復の防御策に守られたボクたちは、 かなり正確に予測できるだろう。反復は空間だけでなく、時間的に働く。決められて いつも通りのルールに従えば、次の瞬間、予期しない危険がやってくることは、ほぼない。 しかし1年後、10年後はどうだろうか。未来とはいつも不確実性である。この安全が 続くという保証はない。たとえば地震はいまも予期できなく、突然、反復の防御を破り、 大きな被害をもたらす。より先まで、そしてより広く反復の防御策が働くように、人は 求めている。
351 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/23(土) 12:07:24
そしてこのような反復の維持のための重要なことは、コストである。コストをかけて、 維持しなければ、外部環境はすぐに反復の防御策を解体してしまう。 特にお金のもつ貯蓄性は、このような反復の維持のための特性をもち、さらにリスク管理 にとって重要である。すなわちお金は、そのまま反復の源泉力の意味を持つ。お金を持つ ことで、強い反復性を維持することができる。 これは、生存率と富の密接な比例関係から わかるだろう。 だから「反復」が近代の科学技術によって急激に発展したことと、貨幣交換を基本とする 資本主義社会への移行が同期していることには意味があるだろう。近代以前にも「反復」は 作用していたが、反復の発展(進歩史観)という思想、方法論はなく、外部環境からの脅威は 封建的なコミュニティの結束で守られていた。人々の生存は、場に帰属することで守られていた のだ。しかし近代に、科学技術の発展によって、反復の防御策が発展することで、外部環境 からの脅威を守ることは、それを獲得し、維持するためのお金が重要になったのである。
352 :
純一 :2006/12/23(土) 17:32:39
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>384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
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http://soloot.jp/ >>182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
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353 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/23(土) 18:22:56
哲学は心について語る学問です。特に近代において心身が分離し、身体が科学技術によって 開拓する中で、特にその特性は増している。 しかしなおさら、問われるのは、哲学の可能性である。 たとえば疎外される心の補完への需要はどんどん増しているが、 そのための様々な芸術作品、エンターテイメントなどが活発化する中で、 哲学はどんどん斜陽している。 心を言葉で解説することにどのような意味が見いだせるのだろうか。
354 :
純一 :2006/12/23(土) 19:00:38
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>384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
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http://soloot.jp/ >>182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
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何が第三の波平だあ。しばくぞ
356 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/28(木) 13:17:27
■リビドー(欲動)の探求 ニーチェは真実とは形而上学的な錯覚であるといった。そしてさらにそこに真実を求める力=権力への 意志を求める。これはフロイトと同じ構造である。真実とは超自我が作り出す錯覚であり、その根底に は力動的なリビドー(欲動)が働いている。 しかしここでニーチェとフロイトは大きな相違点をもつ。ニーチェは進化論からも影響を受け、この権力 への意志を、生物がもつ力と考えたのに対して、フロイトはリビドーを性的なものとして、人間のもつ性 的倒錯などの特殊性も含めて、生物と断絶された人間特有のものであると考えるのである。 ラカンは一見、フロイトを継承する。超自我とは象徴界であり、リビドー(欲動)とは現実界である。しかし その根底が大きく異なっている。ラカンは認識論(言語論)の人であるために、リビドー(欲動)という存 在論的なものを排除する。その代わりにハイデガーの現存在の欠落の発想を借りてくる。ハイデガーは 存在論の人であるからこれはおかしいように思うが、ラカンが継承されたハイデガーは、コジェーブを経 由した人間主義化されたヘーゲル+ハイデガーであったのだ。
357 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/28(木) 13:18:04
その論理は、現実界はリビドー(欲動)であるが、それは認識(象徴界)の外にあり、あるとはいえない。 そうではなく、象徴界に開いた裂け目、ないことであるものである。あるいは隠されていることで、あるよ うに見えるものであり、そこに欲望という力が発生する。これはまさにハイデガーの現存在の切れ目の 構造である。 このようなないことである否定的な構造を否定したのが、ポスト構造主義者としてのドゥルーズであり、 デリダである。ドゥルーズはリビドー(欲動)を「器官なき身体」として積極的に提示したのが、「アンチオ ディプス」である。またデリダは、ラカンの欠如の構造を否定神学として反論した。 ここにあるのは、ラカンが臨界とした認識論から、存在論への展開である。認識論にあってはカントがそ うであったように、現実界は「物そのもの」として、積極的に語ることはできない。しかし存在論におてい は、内部を超えた外部の存在の根元を語ることができる。デリダはある意味で、ニーチェであり、フロイ トに回帰し、そこに物質性をみるのだ。それがシニフィアンの物質性を指摘したエクリチュール論である。
358 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/28(木) 21:21:07
■バラエティ番組の構造 最近のバラエティ番組には一つの構造がある。タレントが演じるVTRをスタジオで司会者らのタレン トと観客が見ている。そしてこれをTV視聴者が見ている。(((@VTRタレント)A司会者+コメンテー ター)BTV視聴者)というメタ言語の構造がある。 普通に考えれば、((@VTRタレント)ATV視聴者)という構造である。演劇でもそうである。たとえば 舞台で殺人が行われても観客が驚かないのは、そこに演劇というコンテクストが共有され、観客がメ タ視線で見ているからだ。 最近のTVは間にAの層が挟まれる。これの原点は、コメディなどで挟まれる笑い声だろう。そして古 くから構図を持つものがワイドショーである。ここでAの役割は、ガイドである。笑い声、最近の画面 のコメントなどは、画面との解説であり、どこがどこがおもしろいのか、どう楽しめばよいのかというこ とだ。人々はAに同期しながら、どう楽しめばよいかという労力から解放される。 たとえばこのような構造は漫才のボケとツッコミにもある。ボケという宙づりという不快を、ツッコミは ガイドする。緊張と緩和である。
359 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/29(金) 00:15:04
デリダ 内部・・・反復可能性、散種の多義性化 外部・・・差延、代補の運動、誤配、幽霊 倫理・・・「痕跡」のまったき他者 存在論・・・「痕跡」の物質性 ラカン 内部・・・象徴界、シニフィアンの連鎖、クッションの綴じ目 外部・・・現実界、主体の欠如への欲動(他者性) 倫理・・・幼児期の他者との経験の1回性
360 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/29(金) 00:50:27
デリダの外部は弱い。外部を呼び込む代補の運動において、 痕跡の「他者」はウィと肯定可能な他者=種の他者に限定される。 すなわち外部は、他者のもつ不確実性に限られる。 強い外部、たとえばただ到来する自然災害などは、含まれない。 このような強い外部の欠如は、強い内部の必要性を隠蔽する。 生存するためには強い内部が必要とされる。 デリダの世界はブルジョアジーな幸福な世界である。
361 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/29(金) 00:57:29
たとえば進化論では二種類の外部が想定されている。 一つは自然淘汰であり、もう一つは突然変異である。 デリダの外部とは突然変異である。痕跡が差延としてずれ、 内部を変容させるという突然変異である。 デリダには、もう一つの自然淘汰という外部環境からの 不確実性はない。
362 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/29(金) 09:05:51
デリダが横の差異としての構造主義的共時性から縦の差異としての通時性に 言及すると言うこと、時間が流れるということは、「存在と時間」において 存在論の扉を開くと言うことであり、シニフィアンは「痕跡」という時間の獲得 とともに、存在としての物質性を手に入れる。
363 :
純一 :2006/12/29(金) 23:13:53
この2つのサービス使って、ホストを偽装してからぴかぁ〜は削除依頼しています。
>384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
proxy代わりに無料プロバのSolootというところを使って書き込んでいます。
http://soloot.jp/ >182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
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364 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/30(土) 18:06:52
テクスト内にこだわる、テクストの内部に内部としての外部(差延)はある。 ラカンの現実界はテクストの外部として、単数化されることで、否定神学と批判される。
365 :
純一 :2006/12/30(土) 21:58:26
この2つのサービス使って、ホストを偽装してからぴかぁ〜は削除依頼しています。
>384 :第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2006/12/14(木) 18:06:17 HOST:211-127-156-54.customer.soloot.jp
proxy代わりに無料プロバのSolootというところを使って書き込んでいます。
http://soloot.jp/ >182 :ぴかぁ〜 :2005/07/31(日) 12:52:14 HOST:11.7.244.43.ap.livedoor.jp
インターネット接続サービス『プライム』月500円
http://isp.livedoor.com/prime/dialup.html
366 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/01(月) 23:33:29
フセイン元大統領が死刑になりました。 年末のドタバタのためか、 当然であると考えるからか、 もはや忘れられて存在であるのか、 あまり騒がれることなく、あれあれと言う感じでした。 ここには、なにか見なかったことにしたい後ろめたさがあるのではないでしょうか。 911のパニックの中、ビンラディンとも関係がなく、そして核兵器も見つからず、 ただ興奮の中でイラク戦争が起こり、イラクは内戦状態と言われ、 あれあれとここまで来た。 フセインが悪政であったとしても、裁く権利があるのか、 結局のところこれは、力関係でしかない。 資本主義体制であり、キリスト教圏が圧倒的に強いという これだけのことである。
367 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/01(月) 23:34:03
フセイン元大統領が死刑になりました。 年末のドタバタのためか、 当然であると考えるからか、 もはや忘れられて存在であるのか、 あまり騒がれることなく、あれあれと言う感じでした。 ここには、なにか見なかったことにしたい後ろめたさがあるのではないでしょうか。 911のパニックの中、ビンラディンとも関係がなく、そして核兵器も見つからず、 ただ興奮の中でイラク戦争が起こり、イラクは内戦状態と言われ、 あれあれとここまで来た。 フセインが悪政であったとしても、裁く権利があるのか、 結局のところこれは、力関係でしかない。 資本主義体制であり、キリスト教圏が圧倒的に強いという これだけのことである。 フセインにしろ、北朝鮮にしろ、地球環境問題にしろ、こちらに正義があるのではなく、 ただ自分たちが生き残りたいためである。 フセインの死刑は、正義という言説の限界の中で、本音が暴露されている。 それでもボクたちは沈黙する。これは精神分析でいう抑圧である。 そして抑圧されたものは、必ず回帰する、が精神分析のテーゼである。
368 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/01(月) 23:35:00
フセイン元大統領が死刑になりました。 年末のドタバタのためか、 当然であると考えるからか、 もはや忘れられて存在であるのか、 あまり騒がれることなく、あれあれと言う感じでした。 ここには、なにか見なかったことにしたい後ろめたさがあるのではないでしょうか。 911のパニックの中、ビンラディンとも関係がなく、そして核兵器も見つからず、 ただ興奮の中でイラク戦争が起こり、イラクは内戦状態と言われ、 あれあれとここまで来た。 フセインが悪政であったとしても、裁く権利があるのか、 結局のところこれは、力関係でしかない。 資本主義体制であり、キリスト教圏が圧倒的に強いという これだけのことである。 フセインにしろ、北朝鮮にしろ、地球環境問題にしろ、こちらに正義があるのではなく、 ただ自分たちが生き残りたいためである。 フセインの死刑は、正義という言説の限界の中で、本音が暴露されている。 それでもボクたちは沈黙する。これは精神分析でいう抑圧である。 そして抑圧されたものは、必ず回帰する、が精神分析のテーゼである。
369 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/02(火) 08:45:59
RPGをクリアするのは時間がかかります。 この労力はゲーム制作者が「労力」させるために作りだしたものです。 このようなゲームをすることには、なぜ労力をつぎ込むのかという疑問がある。 たとえば囚人なのでいじめて、穴を掘らせて、次にそれを埋めさせる、ということを 反復させるということがある。すなわと生産性のない労力を前に、人は脱力です。 人はそこになんらかの生産性を見いだすことで、労力を行うのだ。 RPGの生産性とはなにか。さらには生産性とはそもそもなにか。
370 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/02(火) 17:17:30
年末あたりから重いですね。つながらないと思っていたら三連続投稿になっていました。
371 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/03(水) 12:01:46
ずっと重すぎ
372 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/03(水) 12:14:55
少し前、ケータイ依存症、ネット中毒ということが言われたが、 最近はあまり聞かれなくなった。 それはそのような症候がもはや一般化しすぎたためだろう。 電車の中でみなが一心不乱にケータイをのぞき込んでいる光景は ある意味で異様だろうが、もはやどこにでも見られる光景である。 たとえばTVもそうなのかもしれない。とりあえずつけておく。 ついていないと落ちつかない。これも新しい光景なのだろう。
373 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/03(水) 12:20:07
情報伝達の発達では、ボクたちは懸命に情報入手を試みているが、 そこほど大量の情報を入手する必要性がどこにあるのだろうか。 情報を入手することでボクたちは多くの問題を入手する。 アフリカのどこかの悲惨な戦争。 知ってしまうと悲しくなる。なら知らなければ良いのでないだろうか。 知ったところでなにが変わるわけではない。 知らなくても日常は変わらない。 それは、そのような不幸も含めて、情報そのものが一つの快楽である としかいえない。
374 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/03(水) 12:23:08
知ることの快楽は、アダムとイブであり、パンドラの箱であり、 人間の原点の物語として描かれる。 人間は知らずにはおれない好奇心旺盛な動物である、ということだ。 まさにこの知る快楽に人間社会の動力の根元があるといってもいいだろう。
375 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/03(水) 14:47:36
現代の知る快楽とは安全な退屈への反動にかかわるだろう。 反復の防御癖に囲われた退屈さ。そこでは防御癖か商品になるとともに、防御癖内の退屈さを紛らわすものこそが商品になる。
376 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/03(水) 19:17:07
たとえば企業の研修プログラムを考えるとわかるのは マニュアル化できることは限られているということである。 だから場への執着を育てることである。 人はなぜそこにいるのか問うことをさけ、場にいる。本質的に反復にいることを望む。
377 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/03(水) 20:08:58
トフラーの「富の未来」はまだ読んでいないが、NHKスペシャルで見た中で、 「プロシューマー(生産消費者)」というのはおもしろかったです。 最近、ネットの群集知が話題で、Web2.0などと呼ばれていますが、 そのようなネット上の無料の労働も含まれますが、ボランティア、趣味で畑仕事、 日曜大工をする人も含めれます。 Web2.0というのは、まったくの金銭経済用語です。ネットに生まれた群衆知をいかに お金にかえるシステムをつくるのか、ということです。 ブログなどもそうですが、ネット上のなぜ無料で労働するのか。という議論があります。 最近のWeb2.0、グーグル化などの議論は、金銭経済が基本にするという従来の 考えから抜け切れていません。 すなわちネット上の無料労働は、あくまでも金銭経済の余剰であっても、暇人が 実社会で認められない余力を、ネットではらす、というようなことであり、 結局、その労力は、Web2.0としての金銭経済によって、回収される、 グーグル、amazon、mixiの金儲けに使われる、あるいはそのような勝ち組に なるために、Web2.0を学ぼうということです。
378 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/03(水) 20:09:51
「プロシューマー(生産消費者)」という概念の大きさは、金銭経済と非金銭経済という 新たな潮流を指摘していることです。大きな人類の潮流として、非金銭経済ができつつある、 人々は金銭のためでなく、労働をする。労働とは本来、金銭のためのものであるのではない。 金銭のために労働することは、産業革命以降に発明されたことである、ということです。 なにかマルクス的ですが、トフラーはこれによって資本主義から社会主義へ移行するという ことではなく、このようなパラダイムシフトは現在の資本主義によって到来した情報社会に よって可能になっているために、ある種の共存が行われると言うことでしょう。 産業革命以降の合理化社会は、分業化し、人を均質化することで、大量生産、大量消費という 豊かさを達成してきました。その結果、ある部分で人はそれぞれの個性を取り戻そうとしている ということではないでしょうか。情報化社会はそれを可能にしているということです。 たとえば机がほしいとして、家具屋で既製品を買うと安く買えます。特注品を頼むと、 高く尽きます。自ら作ることで、自分にあった、自分だけのものが手に入ります。 しかし従来は、自分で作ることには労力や、ノウハウ、コストの問題があったものが、 情報化社会において、低コスト、簡単にできるようになっているということです。 それがブログなどであれば、他者のためにもなります。 これは自然に帰るようなこととは違うのは、オタクという「プロシューマー(生産消費者)」の 先行者に特徴的であると思います。すなわち全てを内製するのではなく、 自らの興味があり部分を内製し、その他は安価な大量生産に頼るということでしょう。 すなわち金銭経済と非金銭経済にまたがり、有効に活用し、生きているということです。 このような見ると、現代の格差社会、下流がなぜ起こらないのか、も見えてきます。 格差社会という問題がないとはいいませんが、それはあくまで金銭経済からみた面でしか、 ないということです。
379 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/05(金) 15:01:07
映画「かもめ食堂」を見ました。日本人女性3人がフィンランドで食堂をやっていく物語です。 同じ時期に公開された映画「間宮兄弟」との対比がおもしろです。 「かもめ食堂」は女性3人の友人、「間宮兄弟」は兄弟2人であり、 彼らは人生のパートナーのような関係にあります。 一般的なパートナーである男女という単位から見ると、異質なパートナーです。 象徴的に両映画ともに破綻仕掛けの男女パートナーがでてきます。
380 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/05(金) 16:36:18
映画「かもめ食堂」を見ました。日本人女性3人がフィンランドで食堂をやっていく物語です。 同じ時期に公開された映画「間宮兄弟」との対比がおもしろです。 「かもめ食堂」は女性3人の友人、「間宮兄弟」は兄弟2人であり、 彼らは人生のパートナーのような関係にあります。 一般的なパートナーである男女という単位から見ると、異質なパートナーです。 象徴的に両映画ともに破綻仕掛けの男女パートナーがでてきます。
381 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/05(金) 19:37:49
目指されるのは「家庭」です。パパ、ママ、子供。 しかしこれが近代の発明であり、現代において破綻しかけている、ということです。 これらの映画だけで語るのには無理がありますが、「かもめ食堂」=女性、 「間宮兄弟」=男性の構図で語るとおもしろいです。 「かもめ食堂」の潔さに対して、「間宮兄弟」のいさぎ悪さ。 「間宮兄弟」は懸命に、「家庭」を目指します。そこに滑稽さが生まれます。 男であるボクは断然、そこに親近感を感じておもしろいわけですが。 しかし気になるのは、「かもめ食堂」の現実性のなさです。 なぜフィンランドなのか。外国でも、アメリカ、中国、イギリスなどでは、 現実的にイメージで来すぎる。フィンランドという日本人にとって、 西洋の神秘の国。 そして多くも場面は厨房と食堂にまったく境がない、 外にガラスで開かれた小さな1室で淡々と進みます。 ある女性がフィンランドの中に食堂を開く。始めは誰も来ないが、 女性は気長に待ちます。そして少しづつ輪が広がっていく。 そして気が付くと、2人の日本人のパートナーと店は常連でいっぱいに なっている。
382 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/05(金) 19:39:58
まるで定年後、熟年離婚であたふたする男と、 開き直る女性の構造があります。
383 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/05(金) 19:47:26
このような開き直りの強さを「女性」だからというのは、形而上学的すぎるでしょうか。 「女心はわからない。」
384 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/08(月) 19:53:11
女性のわからなさは男が欲望を通してしかみれないからだろうか とにかく男の女性への執着は異常である。これを乗り越え社会生活が遅れているのが不思議なぐらいである。
385 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/11(木) 16:12:36
美とは誰かからの呼び声である。
386 :
考える名無しさん :2007/01/11(木) 16:32:20
よお ぴかぁ〜健在なようだね。
387 :
純一 :2007/01/11(木) 16:34:57
ふ〜、 私も健在ですよ、
388 :
純一 :2007/01/11(木) 16:36:37
ぴかぁ〜、 これも美かね?
389 :
考える名無しさん :2007/01/11(木) 16:40:04
>これを乗り越え社会生活が遅れているのが不思議なぐらいである。 これを乗り越え社会生活をおくることができるのが不思議なぐらいである。 だろ?
390 :
純一 :2007/01/11(木) 16:41:37
相変わらず日本語が不自由ですな、
391 :
純一 :2007/01/11(木) 16:49:30
ふ〜、
392 :
考える名無しさん :2007/01/11(木) 17:03:11
純一〜〜
393 :
純一 :2007/01/11(木) 18:17:19
暇になりましたな、
394 :
考える名無しさん :2007/01/12(金) 18:30:14
純一〜〜♪♪
395 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/15(月) 00:40:51
デリダは形而上学の不可能性を示したといえる。 そこにはたえず差延(痕跡、エクリチュール)が作動している。 それに対して、ラカンは形而上学回避の不可能性を示したといえる。 人は形而上学的な思考なく、生きることはできない。 2人ともフロイトを評価している。 ラカンは、無意識の作動としての、圧縮、置き換え(隠喩、換喩)を重視する。 人は無意識にこれらのことを行っている。不可避であるという。 そしてデリダは、まさにこの無意識の作動において、形而上学でしかないと、 暴露するのだ。 「郵便は必ず宛先に届く」と「郵便は必ず宛先に届くとは限らない」は、 まさに裏と表である。
396 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/15(月) 12:46:59
なぜ人はニュータイプになれないのか テクノロジーの進歩は人をいかに変容させただろうか。最近、NHKでみたのはおもしろかった。このままテクノロジーが進めば、人は新たな段階に進むというものだ。 このようなニュータイプ化の予測が外れるのは、自然主義の誤謬があるからだろう。 ニュータイプとは進化であるが、進化は技術進歩のように短い期間では起こらない。 だからテレビゲームによって人の脳が変わったというのは誤謬である。
397 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/15(月) 13:17:08
ひねていえばニュータイプに憧れ続けることに人のかわらなさがあるといえるだろう。 ネットの初期に語られたグローバルビレッジ、最近では智民などもニュータイプ論の亜流だろうが、 開いてみればネットはむしろ退化したような人間臭い世界である。
398 :
考える名無しさん :2007/01/15(月) 18:06:40
半年前から、主人の同僚と大人の関係になっています。 飲んだ帰りに主人が彼を連れてきたのですが、むげに帰すのも失礼だと思い、居間で軽く飲んでいました。 主人は、そのうち寝てしまい、彼と二人で会社での主人のことや、たわいの無い話しをしていると急に私の太腿を触ってきました、 私もバツが悪いので笑いながら手を払いのけたのですが、耳元で「奥さんのことが好きになったよ、少しだけ触らせてお願い!」 と言われ、前からちょっといいかなと思ってた人だったので、ヒヤヒヤしながら胸とアソコを触らせました。
399 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/15(月) 21:48:14
■なぜ人はニュータイプになれないのか
技術進歩にしかし未来はない
NHK-BS「未来への提言」の発明家レイ・カーツワイル(
http://www.nhk-jn.co.jp/002bangumi/topics/2006/052/052.htm )
はおもしろかった。彼はまず、情報技術が毎年2倍ずつ成長していることをベースにする。これは10年で
千倍、25年で十億倍を意味する。そして2045年には人類全体の知能の10億倍の能力を持った人工知
能が登場し、人間が制御できなくなる可能性のある未知の領域に入る、これを「特異点(Singularity)」と
呼ぶ。
この議論でおもしろいのは、情報技術が毎年2倍ずつ成長しているという事実をベースにしていることで
ある。ここにあるのは「強烈な」一次元性である。世界は多様な価値に溢れている。ある人にとってそれ
が正であっても、他の人にとって同じとは限らない。技術の特徴はこのような価値の多様性が排除し、
実用性へと一次元へ集約したことにある。
この一元性によって、進歩は可能になり、「時間」は流れる。このような技術の1次元的な進歩(時間)
は、外部化された記憶が継続されることによる。ドーキンス的にミームということだ。さらに近代技術
の成功とは、外部化された記憶の正確さ、伝達速度の速さの向上、すなわち徹底した数量化である。
トフラーなど未来学を可能にするのも、技術進歩という一次元によって、未来予測が可能になるからで
ある。逆にいえばそこにしか、未来予測は成立しない。
400 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/15(月) 21:49:10
技術進歩の外は存在しない 一次元的な変化がある臨界値(特異点)を越えると、一次元では理解できない超越的なものが生まれ る。それがなんであるかは、一次元の世界に住むボクたちにはわからない。このような特異点の議論 は、超越した人々の登場としての「ニュータイプ化」議論の1例といえるのではないだろうか。 このようなニュータイプ化の予測は、基本的に自然主義の誤謬である。ニュータイプとは進化である が、進化は技術進歩のように短い期間では起こらない。だからテレビゲームのやりすぎで人の脳が変 わったということと同じような自然主義的な誤謬である。 未来予測は技術進歩の内でしか成立しない。その外へ延長することに根拠がない。だから「特異点」な のだろうが、それはなにもいっていないこと等しいのではないだろうか。技術を越えた未来はどううなる かわからない。どのような事件(こと)が起こるか、だれにもわからない。当たり前のことである。 人間はなにも変わらず、「ニュータイプの夢」を見る ニュータイプ化の夢は新しいテクノロジーの登場とともに必ず回帰する。デカルトの示した機械論のヴィ ジョンに人々は世界は機械だと熱狂する。ポストモンダンの創発性のヴィジョンに世界は創発性だと熱 狂する。ネットの初期に語られたグローバルビレッジ、最近では智民(クリエイティブコモンズ)なども ニュータイプ論の亜流だろう。最新版はGoogleが世界の知を征服するというヴァージョンだろう。 しかし開いてみればネットはむしろ退化したような人間臭い世界である。ニュータイプに憧れ続けること にこそ、人のかわらなさがあるといえるだろう。そして技術が人間へ与える影響とは、人間を技術革新 へと熱狂させつづけることである。 「ニュータイプ化への夢」は神話である。現代においては、新しい技術は「神」です。宗教にかわり、Goo gleに熱狂するということです。そして熱狂とは、ポピュラリティである。
401 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/15(月) 21:56:38
永久回帰という狂気 科学技術は、帰納法、要素還元主義に代表されるが、それは伝達の正確さ、速さである。それが検証 を容易にし、プラグマティックに世界の変容を可能にする。外部化とは世界の細分化である。そして人 の身体と接合され、高速の足(車)、高速の脳(コンピュータ)破壊的な力(爆弾)と手に入れ、世界を管 理し、征服することに享楽する。どれだけ実用性があるかが「正しさ」です。世界を変えることができる魔 法としての科学技術に人々は、享楽する。「外部化」が進むところでは、たえず一方で外部化されない 心を考えないといけない。 情報化社会で、「外部化」が進み、管理社会に向かっていることは、もはや否定できないだろう。進歩が 目指すのは、完全に管理され、予測可能性が向上し、永遠に生存を確保されることである。ニーチェの いう永久回帰である。これが近代的主体の見る究極の夢である。しかしここまでくると、狂気である。す なわち管理社会とは狂気の裏返しであり、身体の管理と、身体管理を目指す心という二元論。心身二 元論的パラドクスである。
402 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 08:32:45
2ちゃんの閉鎖騒動であるが、状況をみるとある種の限界かと思う。 法治国家においてあからさまな対応無視は刹那的な対応で、いけるところまでということだろう。 しかし2ちゃんねるがなくなれば問題の本質が解決するわけでもなんでもない。匿名性によるヒボウ中傷や著作権の問題である。 ウィニーの有罪や新たな法整備などネット規制の流れは進んでいる。このようなネット文化自体がマイナーから脱却する時期なのかもしれない。 それは社会的なシステムに組み込まれるというよりもある種のはじまりなのだろう。
403 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 08:48:06
十三才の岩崎恭子がオリンピック水泳で金メダルをとったとき「生きていた中で一番幸せです」発言は有名になった。 オリンピックで金メダルとることは確かに人生でも希有な体験だろうが、この発言のおかしさが人生経験がない子供がつかう言葉ではないということだろう。 彼女はどうような場面でこの発言が使われていることを知っていて、喜びを表現する適切言葉として思わずでてきたのだろう。 しかし少し用法が間違っていたのだ。子供の発言には多々ある。「そんな発言どこでおぼえたの」というとってつけたような、子供らしからぬ発言である。 逆説的にここではヴィトの言語ゲームが浮き彫りになる。言語ゲームは「規則に従う」ことである。これは言語の規則があり従うのではなく、規則より先に、「規則に従う」実践がおこなわれ、学ばれるということである。 人はとにかく言葉を使ってみることで言語ゲームはなりたっている。
404 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 08:58:52
そして岩崎恭子は使ってみたということだ。 さらにここにある滑稽さはまるで腹話術の人形のように言わされている滑稽さがある。 前もって大人にいうことを決められていればこのような滑稽な発言はしないだろうが、 とってつけたようなセリフじみた発言である。ならば誰に言わされたのか?大文字の他者ということだろう。
405 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 12:35:29
僕達はおもう「そんな無理におとなのふりすることないよ」 しかしボクたちか求める子供らしさも一つの子供としての「規則に従って」ほしいという抑圧なのかもしれない。
406 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 12:57:43
カラ谷は「探求」の中でウィトの教えるー学ぶ関係を「暗闇への飛躍」と言った。 精神分析は意味不明な言葉の世界であり、まさに「暗闇への飛躍」であり、橋をかけようとする。
407 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 12:59:42
岩崎恭子の発言は反復可能性であり、エクリチュールである。
408 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 13:08:32
ウィトが後期に発見したものは他者である。発話は他者に向けられると端的な事実である。 私的言語は存在しないのはそこに他者が存在しないからであり、 「痛い!」でさえ他者に向けた宣言としつの言語行為であることからのがれられず、「痕跡」なのである。
409 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 16:42:54
ボクたちは貨幣の使い方を学ぶことで成員となる。貨幣交換の正しさがあるわけではなく、 それはいつも贈与に毒され、道徳と混在しながら、反復され、差延し、共同体そのものをずらしていく。 あるいはホリエモンのように境界に予想しないものを持ち込む。それは貨幣システムの危機であるとともに、いつも道徳の問題である。これはいつも切り離すことはできない。 なぜなら純粋な貨幣交換は、経済学のテクストの上以外には存在しないからである。
410 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 18:11:42
古くはブルジョア、プロレタリアート、最近手は先進国、後進国、あるいは格差問題などの資本主義が生み出すとされる搾取の問題は、 マルクスに始まる貨幣交換システムに内在するものだけに還元することに無理がありだろう。 純粋な貨幣交換は存在しない。そこには贈与互酬の趣向の問題であるとともに、 貨幣システムは共有していても、言語ゲームの非対称性が存在する。法への言語ゲームが示すのは強者の論理である。 ブッシュが正しいかフセインが正しいという絶対的な法など存在しない。フセインは言語ゲームの外にあり、負けたことでさばかれたのである。
411 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 18:20:56
強い反復の強度をもちい、規則をみいだしたことによる。規則が確かだから強度をもちえるのでなく、「規則に従う」反復そのものが優位な価値規則を作り出すのだ。
412 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/17(水) 18:25:05
そしてそれは事後的に外部記憶化されプログラム化され、もはや当たり前すぎで意識に上らない環境のように無意識化される。
413 :
考える名無しさん :2007/01/17(水) 20:16:14
ここ一人でやってるみたいだけど、誰もレスしないってことは誰も読んでないってことでしょ? なんの為のスレなの? 何やってんの?この人
414 :
考える名無しさん :2007/01/18(木) 08:55:11
あ、俺はここ見てるよ 読んではないけどでも気になるところがあったら読むかも 哲学板は勝手気ままに自分の意見が言える場所つくれるからいいね
415 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/18(木) 13:40:23
正義の名の元、フセインはさばかれたというときには二重の隠蔽がある。 あたかもなにが悪いかわかっていること、法というプログラムが判断するということ 法には意味がなく、内部の取り決めであること、法は道具であり道具を使う者の欲望があること。
416 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/18(木) 16:49:52
たとえば「日本人」と言うとき、それが一つの実践的発話行為であるということ、 それにより「日本人とはなにか」がすでに確かにあるように転倒されていることが暴露される。 さらに問わなければならないのば、なぜ転倒されるのか、という動力のありかである。 まさに言語ゲームを維持する力である。それは意志ではなく、そんな力がはたらいているとは普通きづかない力である。 これは「日本人とはなにか」問うまでもないという無意識とは異なる。それは欲望であるが、 欲望を作動する動力であり、欲動と呼ばれる。
417 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/18(木) 17:18:19
無意識とはランガージュのように構造化されているとは、無意識が規則と用法の総体であることを示す。どのように言語を扱うべきか。 だからコミュニケーションなおいてシニフィアンは規則に従った用法にあわせて流れだす。 そして用法そのものが欲望である。〜する!という規則に従うという欲望である。 発話とはすべて規則にしたがう、したがえということなのである。1+1=2でさえ、そうであると(我々に)従え。ということを含む。 それが言語を習得することが精神分析の社会性を身につけるという去勢に対応する理由である。 そしてなぜ発話する、用法に従い作動する、欲望するのか、そこにあるのは理由でなく欲動という力である。
418 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/18(木) 17:23:21
規則に従うとは大文字の他者に従うこと、大文字の他者の望むものを望むこと(無意識に)
419 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/18(木) 17:27:14
しかし大文字の他者自身もなにを望むのか知らない。望むべきものは大文字の他者(言語)の向こうにある
420 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/18(木) 21:35:05
純粋なプログラムは存在しない。
421 :
考える名無しさん :2007/01/19(金) 00:09:31
心身二元って馬鹿だな 俺は解決してる 身と心はほとんど同じモンだ
422 :
考える名無しさん :2007/01/19(金) 00:59:41
第三の波平、またはぴかぁ〜、またはpikarrは 頭がわるい。 繰り返し言おう。 第三の波平は頭が悪い。 救いようがない。 [企業広告]
423 :
考える名無しさん :2007/01/19(金) 08:26:38
うん、では証明してくれ。
424 :
考える名無しさん :2007/01/19(金) 08:47:17
425 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 10:45:10
たとえば学問の最前線はいつも闘争の場であり、欲望が表出する。
426 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 10:58:08
「欲望(大文字の他者)に従う」といえるだろう。
427 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 11:58:44
マルクスは、商品が価値をもつか否かは、それが売られる(交換される)という「命がけの飛躍」にかかっている、いう。 しかし人は(命がけの)リスクを嫌う。対等な契約関係でなく、今回はただであげでもよいから貸しをつくることで(継続的な)友好関係を築く。 あるいは力により支配し、略奪する。 しかしこれは選択でなく、使い分ける戦略である。 これがまさに共同体の間で行われてきた現実だろう。 資本家と労働者間、先進国、後進国など貨幣交換は欲望うずまく戦略の場であり、マルクスの指摘した貨幣と商品の非対称性はこのような場において有効に活用される。 規則はただあとから見いだされるのでなく、欲望ゲームの戦略としつ見いだされる。 だから単に支配することは継続性がむずかしい。ローマ帝国がそうであったように、現代の資本主義がそうであるように支配し、友好関係をともに規則をみいだす。 それはフーコーのいう規律管理型権力である。生権力も差異はないかもしれない。これは身体的な行為のレベルでおこなわれるからだ。
428 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 12:32:32
マルクスがいう商品のフェティシズムは大文字の他者が欲望するからであり、貨幣のフェティシズムも同様の意味をもつ。 それはさらにマルクスのいう買う立場の強さという非対称性が加速させる。 さらには欲望の場における戦略を優位にすすめる可能性を高める道具である点にある。 資本家の方が労働者によりも戦略的に優位に立つ。しかし貨幣は一アイテムでしかない。 たとえば情報をより多くもつことも戦略アイテムの一つである。 現代、特にネットにおいて情報のフェティシズムへむかうのもそのためだ。
429 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 12:42:35
世界が大きくなり言語ゲーム的強度か低下し、価値が多様する中で さまざまな場で断絶が露呈しはじめた。欲望が表出し、闘争が起こる。 そして人々は戦略を優位に進めるアイテムを求める。お金であり、情報である。
430 :
ロウマン :2007/01/19(金) 15:37:33
さすがぴかぁ〜さんですね。 ますます腕を上げられて 留まるところを知らないようです。 やはり才能というかセンスというか… 次元が違うのですね。
431 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 16:05:30
子供をさらうということは一番は利便性である。弱い存在で扱いやすい。 しかしこのような利便性を越えたところに「無垢」があり、引き付けられる魅惑がある。 これはロリータの一部ではあるだろうがロリータではない。子供への根源的ないとおしさである。 その脆さが逆に破壊衝動を想起する。
432 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 16:29:02
帝国、フラット化、環境管理権力、動物化、グーグル化、ネオリベなどの機械論的イメージが隠しているもの、それは強者の欲望であり、泥臭い政治的ゲームである。
433 :
考える名無しさん :2007/01/19(金) 16:32:40
欲望というよりは恐怖だな。
434 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 17:03:58
■なぜ貨幣交換は泥臭い「政治ゲーム」なのか ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とラカンの「象徴界」 ヴィトゲンシュタインがいう「言語ゲーム」(規則に従う)とは、「確実性」として疑いえないような実践的行 為(経験命題)の総体である。規則(論理命題)は、「規則に従う」という実践の反復の中で、実際に使え る(プラグマティック)という判断によって、事後的に「硬化」していく。だから数学も、そして「痛み」でさ え、言語ゲームとして獲得していく。 ラカンにおいて、「去勢」とは、母親との想像的な関係から、父という第三者の介入によって、社会の一 員になること、「象徴界への参入」を意味する。そして第三者の介入とは、言語の獲得を意味する。 ラカンは「無意識はランガージュ(ラング+パロール)のように構造化されている」と言ったが、それは言 語規則(ラング)を学ぶことではなく、言語ゲームとは、日常会話(パロール)という実際の使い方(言語 ゲーム)を学ぶことを意味するからだ。 父という第三者は、実際の父親ことではなく、大文字の他者である。言語(ゲーム)学ぶとは、超越論的 他者(大文字の他者)の命令を無意識へ内面化することである。「規則に従う」ことに理由はない。ただ 社会生活を営むために従うのである。
435 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 17:04:41
「欲望の場」としての「言語ゲーム」 このようなヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」とラカンの「象徴界」は同様な意味をもつ。そしてラカン の欲望論は、言語ゲームの生成について示している。 人は「他者」を内面化することでしか、充足できない欠けた存在である。だから言語ゲーム(大文字の他 者)を無意識に内面化することで充足を求めるしかない。「みんなが欲しいものがほしい」、大文字の他 者の欲望を欲望する。ここに「言語ゲーム」の強力さがある。主体は「言語ゲーム」なくては、主体たりえ ないのであり、容易にそれを否定することはできないのだ。 しかしまた大文字の他者もまたは不完全である。だから人は大文字の他者(言語ゲーム)の彼岸を望 む。言語ゲームを逸脱すること(タブー)を望む。「禁止されるからやりたくなる」 ここに「欲望の場」としての言語ゲームの生成場面が見いだせる。人は完全な言語ゲームを欲望して、 その彼岸を開拓していくことで、言語ゲームは代謝していく。
436 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 17:05:11
他の「言語ゲーム」との遭遇において欲望は表出する だから数学も「痛み」も、必ず欲望的な意味がある。しかしそれは無意識にあり、当たり前なものとして 表出しにくい。このような(無意識の)欲望的な意味が表出しやすいのは、他の「言語ゲーム」との遭遇 の場面である。 言語ゲーム内では当たり前すぎて誰も疑問に思わないことが、他の言語ゲームとの遭遇において、疑 われる。それは主体が主体であるという当たり前のことが疑われる狂気である。そして言語ゲームは立 脚する明確な論理を持ち合わせてないのだ。 そして言語ゲーム間を調停するような規則は存在しない。そこに欲望が剥き出しになる。たとえば冷静 な知の蓄積の場であるはずの学問でさえ、その最前線では、派閥争いという欲望が表出する闘争と化 している。それは自らの「言語ゲーム」を守るための闘争であり、ベンヤミンがいう「神話的暴力」である。
437 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/19(金) 17:06:09
泥臭い「政治ゲーム」 マルクスは共同体と共同体の間でこそ商品交換は始まると言った。そして「商品が価値をもつか否か は、それが売られる(交換される)という「命がけの飛躍」にかかっている」という。 しかし人は(命がけの)リスクを嫌う。対等な交換よる「他者への命がけの飛躍」という善意に賭けことを 待たない。たとえば、力により支配し、略奪する。あるいは貢ぎ物を差し出し、貸しをつくることで(継続 的な)友好関係を築く。すなわち商品交換以外に、互酬、略奪の方法論がある。 しかしこれは選択でなく、政治的戦略である。単に支配し略奪するのでは、秩序を継続性することむず かしい。これら3つの方法を戦略的に駆使することで優位に進める。これがまさに帝国主義と植民地、 資本家と労働者、先進国と後進国など、共同体と共同体の間で行われてきた現実ではないだろうか。 現代の資本主義がそうであるように、帝国主義的に植民地を支配しなし、あからさまに資本家は労働者 を搾取しない。(継続的な)友好関係を見いだしながら、経済的に支配する。支配と被支配者という二項 対立でなく、フーコーがいう規律管理型権力のように、自らの言語ゲームを優位に進める「政治ゲーム」 なのだ。 それはゲーム理論の「囚人のジレンマ」のようにルールを守る「善意」のゲームではなく、「取調官」に泣 きつき、ワイロし、すべてをゲーム内に巻き込むもっと実践的で、泥臭く「政治ゲーム」である。
残念ながら痛みはゲームに含めることができない。 ゲームは痛みを排除し隠蔽する。 ゲームにメスを入れるのが痛みだからだ。 痛みが新たな言語ゲームの可能性を秘めているからだ。
ある言語ゲームがその参加者の痛みを隠しきれなくなり痛みをゲームに取り入れるようになれば、ゲームはおしまいになる。
痛みを忘れるため、痛みへの恐怖に基づく意志と欲望のために言語ゲームは生み出され営まれる。。 ある言語ゲームが痛みを認め常々思いださせるならば、それは本末転倒の無用の長物となり、 そこに痛みを忘れるための新たな言語ゲームが模索される機会が生じ、次第に前者に取って代わり実現されはじめてしまうだろう。 たとえそれが溺れる者の藁に過ぎないものであってもだ。
441 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/20(土) 11:19:57
古くは禁酒法など、アメリカが多くにおいて、極端な法的な結果を生み出すのは、 多民族において、何らかの結果を見いだす圧力ががあるためだ。 そしてそもそもどこまで掘り下げても、正解が見いだせない。 社会は、曖昧な規範において保たれていることが、露呈されるのである。
442 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/20(土) 13:45:33
情報化社会とは、情報が正確に、高速に、広く伝達される社会である。 そして伝達された情報によって、より多くの人によって、情報が活用される。 情報が活用されるとは、新たな改善が行われるということである。 情報が正確に、高速に、広く伝達されるためには、強固なインフラが、 そして改善とは、流動性を高めるということだ。 ここに両義性がある。
マスコミか波平は。 情報の正確性、善悪と情報の正確な伝達とは異なる。 情報の正確な伝達が必ずしも改善に繋がるわけではない。
444 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/20(土) 17:32:13
まさに、情報の高速、広範囲、正確な伝達とは、反復である。 より多くの同一の反復が行われるということ。 世界の不確実性を、同一の反復への回収するということ。 それが、事後的に善悪をも産むのです。それは暴力でもありますが。
445 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/21(日) 14:15:55
恋愛が一つの錯覚というとき働くのは、無数の中から彼女しかないという収束である。 たとえばなにかの拍子にモテモテになったとき、収束を維持するのは難しくなるだろう。収束には力が求められる。 収束は感染にはじまる。なぜ彼女に感染したかはわからない。理由は事後的に語られるのみである。 感染は理由がないところで起こるのであり、理由があれば感染はおこらない。 だから恋に反復は存在しない。
446 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/21(日) 15:46:24
■なぜ貨幣は恋をしないのか 「恋した者の負けである。」 恋愛が一つの錯覚というとき、働くのは無数の中から彼女しかないという収束である。収束は感染には じまる。なぜ彼女に感染したかはわからない。理由は事後的に語られるのみである。 感染は理由がな いところで起こるのであり、理由があれば感染はおこらない。恋に法則はない、そして恋に反復は存在 しない、いうことだ。 「恋した者の負けである。」といわれる。恋した人と恋された人との関係は非対称性である。恋した人に は恋した人は唯一の存在であるのに対して、恋されさえた人にとって、恋した人は多くの人々の内の一 つである。 モテたいということが資本主義の動力 ここには、マルクスのいう商品のフェティシズムの構造がある。恋した者とは「売る」立場であり、恋され て者とは「買う」立場である。商品をもち「売る」立場(恋した人)にとって、貨幣をもち「買う」立場(恋され て人)は特別である。買ってもらえなければ、商品は価値を持ち得ない。それに対して、貨幣をもち「買 う」立場は、他の商品を買うという可能性に開かれている。 資本主義におけるお金持ち(貨幣蓄蔵)は、「「売る」という危うい立場をまぬかれようとする衝動にほか ならない。」より多くの人から恋される立場に立ちたち、すなわちモテたいということが、資本主義の動力 である、ということだ。
447 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/21(日) 15:53:19
貨幣の孤独 たとえばある人がある商品にいくら払ってもおしくないと思ったとき、すなわちその商品に恋したとき、感 染し「恋する」立場に転倒してとき、貨幣の優位性は転倒する。だからマルクスがいうような貨幣の優位 性は商品に溢れ、どれも同じである場合、感染しない場合に限られるのである。 たとえばある有名なミュージシャンは、大観衆の熱狂の中で、強烈な孤独を感じたという。これはいわ ば、貨幣の孤独ということである。多くの人に恋され、選択の可能性が広がる中で、彼はどこに錯覚を 見いだすことが困難になる。貨幣が貨幣であるためには決して恋してはいけない。さらに貨幣の位置 は、錯覚することがむずかしい。
448 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/21(日) 16:06:05
現代人はまさにこのような「貨幣の孤独」の位置にいる。価値が多様化し、多くの人にモテることを望 む。人は感染せずに生きることはできないが、それを継続することがむずかしい。恋でさえ一つの感染 である。つぎつぎに商品へと感染する。
449 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/22(月) 11:45:06
マルクスの言説では貨幣は永遠の憧れの恋人である。恐慌において貨幣が紙切れになる以外は。 ここに労働力を買う資本家と労働力をうる非対称性が指摘される。 資本主義では金を持つことで、モテ夫になることができる。消費社会におけりあふれる商品、魅惑的な広告はモテ夫へのラブコールである。
450 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/22(月) 12:01:57
感染には注意する必要がある。売る立場に転落する。 彼女をつくる方法はほんとに好きかの命がけの飛躍を隠蔽し、恋愛ゲーム、ごっこか化することである。 仮にうまくいかなくても大丈夫。ネタであることを自分にも相手にも残す。 このために友達は重要である。好きな思いをノリに転換し続けあえる。集団ナンパ、合コウの有効性はここにある。規則に従うだけの言語ゲームであり、真意はあとからわかるわけだ。
451 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/22(月) 12:06:58
売る立場に転落しないこと。純愛はさけて、商品に感染しては離れることで買う位置、モテの位置を確保すること。 恋愛においては深く惚れず多人数に分散し、ゲーム性を残すこと。 ゼロか複数かである。
452 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/22(月) 12:18:33
命がけのリスクを下げて、規則を共有するように、しているように引き込む「政治ゲーム」をめざす。 芸術家はあえて命がけの飛躍を試みるものたちである。いかに伝わるかを試みることはつたわらなさ、断絶にむむきあうことである。 その意味で非モテは芸術家的である。恋愛においては純愛をめざしているのだ。安易な妥協を許さない。
453 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/22(月) 12:23:02
カラ谷は命がけの飛躍の例を教える学ぶ、買う売るで説明するがわかりやすいのは恋愛ではないだろうか。 相手の気持ちの過剰な読み、そして告白は命がけ飛躍の典型だろう。
454 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/22(月) 12:40:07
非モテは政治ゲームに疎いだけでなく、純愛にこだわるのだ。 なぜ非モテは純愛をもとめるのか 純愛とは好かれるかどうかの命がけの飛躍への恐怖がある反面、強烈な独占、エゴイスティクな行為であり、純愛は奴隷に転落することで主人を独占する想像的な関係である。
455 :
考える名無しさん :2007/01/22(月) 21:16:37
イヨッ ぴかあ 日本一 の暇人
456 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/23(火) 18:47:42
資本主義という誘惑の世界において、 人に恋する(感染する)ことはリスキーで恐怖である。また商品でなく人に恋する必然性はどこにあるのか。また恋したとして、誘惑のあふれる中で、感染しつづける難しいだろう
457 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/23(火) 19:10:35
低収入が結婚できない/と結婚しないのは、消費者という優位を手放したくない、もはや恋さえも一つで感染でしかないからだ。
458 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 09:45:43
日本人はほんとにあたらしもの好きです。 特徴的例の一つが音楽CDのチャートです。日本では発売一週目が勝負でそこで売り上げの大半を稼ぎます。 また音楽CDのほとんどが火曜日発売なのはオリコンの集計が火曜からはじまり、発売週のチャートをもっとも高くするためです。 またチャートをみて買うわけです。 アメリカのビルボードは一週目ではなく発売してからが勝負です。ラジオでかけてもらうなどして売り上げをのばしていきます。 最近、ビデオ、ゲームなど一人で刺激を楽しむ娯楽にあふれていますが、新製品の騒動などみていると共時性が大切だということです。 ゲームをしていてもそれはただ一人ゲームを楽しむのでなく、背景を楽しんでいる。 みんなに話題になっているこのゲームを楽しんでいる。この面をクリアーしたぞ。みんなどうだい。すごいだろう。 これは言語ゲームです。ウィトの私的言語は存在しないとはこのように理解すべきでしょう。 ウィトは言語ゲームをただいわれたことをするだけでなく、いわれたことがみんなに共有しているというメタ言語としてとらえています。 ベイトソンはこれを学習理論へと展開しました。 第一段階は反射、プログラムのようにただ命令にしたがう。第二段階は命令にしたがっている自分をしる
459 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 10:51:05
■なぜ学ぶことは楽しいのか 日本人はあたらしもの好き 日本人はほんとにあたらしもの好きです。特徴的例の一つが音楽CDのチャートです。日本では発売一 週目が勝負でそこで売り上げの大半を稼ぎます。また音楽CDのほとんどが火曜日発売なのはオリコン の集計が火曜からはじまり、発売週のチャートをもっとも高くするためです。またチャートをみて買うわけ です。アメリカのビルボードは一週目ではなく発売してからが勝負です。ラジオでかけてもらうなどして売 り上げをのばしていきます。 最近、ビデオ、ゲームなど一人で刺激を楽しむ娯楽にあふれていますが、新製品の騒動などみている と「みんな」が大切だということです。ゲームをしていてもそれはただ一人ゲームを楽しむのでなく、背景 を楽しんでいる。「みんな」に話題になっているこのゲームを楽しんでいる僕。「この面をクリアーしたぞ。 みんなどうだい。すごいだろう。」このような「みんな」の視線(まなざしの快楽)なく、人はなにものも楽し むことができない。ヴィトゲンシュタインのウィトの「私的言語は存在しない」とはこのように理解すべきで はないでしょうか。
460 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 10:52:01
ベイトソンの学習理論 ヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」をただいわれたことをするだけでなく、いわれたことがみんなに共 有しているというメタ言語としてとらえていました。そしてベイトソンはこれを学習理論へと展開しました。 ゼロ学習は遺伝子など先天的な命令に従うことで、学習されません。機械にあたります。INPUTに対し て同じOUTPUTするという、正確な「反復」です。 学習Tはパブロフの犬のような学習です。学習によって反射するようになることです。 学習Uは、状況(コンテクスト)が学ばれます。ここで「みんな」という」まなざしが生まれます。 学習Vは、状況(コンテクスト)を操作するようになることです。 ゲームをするためには、まず学習Tのように、操作を覚える必要があります。うまく行けば、ご褒美がも らえる。しかし人は学習Tで楽しむことはできないでしょう。「ゲームをしていてもそれはただ一人ゲーム を楽しむのでなく、背景を楽しんでいる。」というとき、学習Uということです。 さらに人間には学習Vまで可能と言われています。コンテクストを楽しむ自分に自覚的になり、コンテク ストから離れたり、異なるコンテクストを選択するということです。ブームに対してあえて距離をおいて、 マイペースでいるなどでしょうが、実際これはなかなかむずかしいと思います。一概にコンテクストといっ ても強度があると思います。ゲームを楽しむ「コンテクスト」なら良いのですが、社会生活を行う深く浸透 したコンテクストは容易に離脱が困難です。
461 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 10:53:05
学ぶと言う「まなざしの快楽」 「日本人はあたらしもの好き」というのは、日本というハイコンテクスト(高いコンテクストの共有)によると 言われるのは、同じコンテクスト共有し、みんながほしいものがほしいという(大文字の他者の)欲望が 作動しているからです。 ここに欲望論の基本、「欲望とは他者の欲望への欲望である」があります。すなわち学習Uとは欲望が 生まれる次元です。そして学習Vとは欲望を操作する次元です。これは学習Uのコンテクスト(言語 ゲーム)ないにいてはわかりません。コンテクストとコンテクストの間の「命がけの飛躍」を行う次元です。 「言語ゲーム」を学ぶとは、「規則に従う」ことは、誰かに命令されて従うという学習Tではありません。 学習Uとしてコンテクストを学びます。その命令は大文字の他者の命令であり、共同体員の祝福をのぞ んで行われます。学ぶと言うことはまなざしの快楽なのです。
462 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 11:05:56
しかしみんなとはだれだろうか。みんなとは誰かわからない故にみんなをもとめるのである。 コンテクストなどない故にあるように振るまわれる。
463 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 11:31:18
コンテクストが学ばれるというより、コンテクストがあるように振る舞うという秘密を分かつ共犯者となる ここにジジェクのいうシニシズムがあらわれます。 そのイデオロギーが破綻していることはわかっているが従わずに折れない。破綻しているという秘密こそがイデオロギー維持の役割をはたす。
464 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 11:57:17
たとえば経済学は現実と整合しない、という指摘には意味がないのです。整合しないから望まれるのです。
465 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 12:02:43
なぜ1+1=2なのですか?シィー!声が大きい。ここだけの秘密だぞ。理由はないんだ。だからみんなの前ではあたりまえのように振るまえ。
466 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 12:04:30
この音楽ってそんなにいいですか?シーッ!大声出すな・・・
467 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 12:36:07
規則は外部記憶としてゼロ学習化され、すなわち技術化され、社会の安定な基盤をになっているが その基盤のもろさこそが人々が基盤を守る理由である。 この脆さを支えることに命がけの飛躍としての技術の改良が行われる。
468 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/24(水) 12:38:22
それが学習3である。
469 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/25(木) 13:01:45
女性は男性とかわらないということ。たとえば人生の大半をあるひとりの家政婦のように生きることにたえられないということなのだろうか。 しかし男性は女性に母を求める。 女性の変化に男性はついていけていないということなのか。
470 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/25(木) 13:07:38
資本主義のマジックは人を貨幣をもつことで「恋される」優越な立場におくことだといった。 自意識の肥大はさまざまな社会性に反抗し、個別化にむかわざるおえない。 そして貨幣がなければ/ありさえすればという位置へむかわせる。 格差はむかしからあるが問題はこのようなコミュニティが解体され、貨幣によりすべてが決定される社会において、低所得であることが、きびしい状況を生む。
471 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/25(木) 13:12:12
幸福と格差の関係が密接になる社会。 かつてはより重要なのはコミュニティであった。お金でできることなど限られていた。
472 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/25(木) 13:15:29
ゼロ学習とはエクリチュールである。
473 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/25(木) 14:01:20
問題は下流といれる人々がなお孤立している、ということだ。取り残され孤立化している。 お金があれば回避されるものではない。コミュニティさえ消費をベースに行われている。 ネットワークはまだ本当な弱者にいたっていない。
474 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/25(木) 14:19:29
だから経済は外部化されたシステムでなく、構造主義的無意識(欲望)なのである。
475 :
考える名無しさん :2007/01/25(木) 14:23:30
ハゲ凡人波へいよw ハゲってどう?
476 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/25(木) 14:49:43
■下流はなぜ個別化するのか。 資本主義のマジックは、人が貨幣をもつことで「恋される」優越な立場におくことだといった。自意識の肥 大はさまざまな社会性に反抗し、個別化にむかわざるおえない。そして貨幣がなければ/ありさえすれ ばという位置へむかわせる。 格差はむかしからあるが、貨幣の力でできることなど限られていたので、より重要なのはコミュニティで あった。問題はこのようなコミュニティが解体され、幸福と格差の関係が密接になっているということであ る。コミュニティさえも消費をベースに行われていることで、下流であることが、取り残され孤立化する。 しかしそれ以上に、下流と言われる人々が、自ら個別化しようとしてように見える。
477 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/26(金) 12:33:32
近代以降、革新的技術を手に入れたがなにかかわっただろうか 最新のテクノロジー中でそだったネットに巣くうキッズたちの人間臭さはなにか。
478 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/26(金) 12:34:24
なぜ技術は人を進化させないのか
479 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/26(金) 13:07:14
ムーアの法則が示すCPUの向上によりなにがかわっただろうか バソコンに熱狂し、ウインドウズに熱狂したが、いまだに立ち上がりがおそくとろい。CPUの向上とともにソフトも重く、体感されない。 しかし逆ではないか。そもそもCPUの向上には重いソフトを無駄に動かすしか使い道がないのではない。 重いソフトはムーアの法則の無駄さを隠蔽してあげていれのではないか。 なぜならそれが暴露されれは新機種を買わせる理由がうさなわれるからだ。これはPS3にもいえるだろう。
480 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/26(金) 13:17:00
これは認知科学にもいえるし、ウェブ進化論にもいえるだろう。
481 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/28(日) 12:50:10
「科学技術の見えざる手」 ポピュラリティは創発性ということに近い。すなわちシステム論的であり、むしろポスト構造主義的です。 システム論への一般的な批判は、結局、現状維持でしかないということです。たとえばアダムスミスの 「「神の見えざる手」ですね。 しかし「神の見えざる手」ならば世界には恣意性がなく、偶然性が支配しているはずが、近代以降は科 学技術という強烈な一次元性が発生している。そして「神の見えざる手」に大きく影響せざる終えないだ ろう、ということです。これを「科学技術の見えざる手」とてもいいましょう。これがボクの世界観です。 これは正確にいえば、哲学ではない。哲学とは、特に近代以降において、倫理と同じだからです。これ が、複雑系ということで近いことを言いながら、現状を記述する科学としてのシステム論と、ポスト構造 主義の大きく違うところです。 この世界観を倫理につなげれば、この「科学技術の見えざる手」を脱構築することです。強烈な一次元 性=進歩史観には必ず、「科学技術の見えざる手」が働いている。近代主体→構造主義→ポスト構造 主義という流れて語るときもそうです。脱主体のような言説もそうですね。 環境管理社会に対するボクの批判は、「環境管理社会は存在しない」というものです。そこには「科学技 術の見えざる手」が働いている。そしてそれはいつも機械論的な姿をして現れます。人間を離れたとこ ろで、先行して機械的に世界を管理するというような。ネオリベラル、グローバリズムも同様です。「帝 国」、フラット化、ポストヒューマン、グローバリズム、ネオリベラル、動物化・・・そこに進歩史観=「科 学技術の見えざる手」が当然のように、前提とされています。環境管理社会はそのようなものではなく、 人の欲望が蠢く、泥臭いものです。
482 :
考える名無しさん :2007/01/28(日) 13:06:50
けしからん いたずらばかりしおって
483 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/29(月) 10:57:47
ホンダのASIMOの登場依頼、二足歩行ロボットが一般化している。二足歩行ロボットの難しさは、重心 移動にあった。直立から歩くときにどうしも重心が安定しない。この問題のブレイクスルーは、歩くとは倒 れることである、ということだ。あえて前に倒れ、倒れる前に足を一歩出す。この繰り返しが歩くというこ とだと、ということだ。 ボクたちは何気なく歩きいている。傾斜を、段差を、そして走り、跳ぶ。しかしこのメカニズムを解明する ことは至難の業である。一流のアスリートの次元になると、その発言は神懸かり的である。 それでもできているということが驚異である。これを指摘したのがヴィトゲンシュタインである。日常会話 といういい加減な発言の連続が、確かなシステムをもって運営されていることへの驚きである。そこにあ るのは、規則や法則でなく、実践である。人は実践を繰り返すことで、体で覚えていくのだ。
484 :
考える名無しさん :2007/01/29(月) 11:10:32
ひきこもりニートスレ
485 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/29(月) 18:46:14
書くっという行為はそれたけで拘束される。
486 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/29(月) 23:23:08
書くっという行為はそれたけで拘束される。 書くというコンテクスト。
487 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 10:49:50
後期ヴィトの射程 言語ゲーム→ パラダイム、象徴界、大文字の他者 規則の事後性→命がけの飛躍、痕跡 規則に従う→言語行為論、コンテクスト、暗黙知、プラグマティズム 発展→ラカンの欲望論、ベイトソンの学習論
488 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 11:13:09
言語ゲーム(規則)という認識論が成立する条件 デリダ、カラ谷、ラカン→差延せざるおえない反復、せきたてによる命がけの飛躍によるズレ 命がけの飛躍への死の欲動規則に従うとは規則などない命がけの飛躍であり、 そこにせきたてが存在する。そしてたえず誤配されずれていく。すなわち学ぶことはたえず新たななにかを生む。 せきたてにむかうのはそこに学びことの喜び(欲望)があるから。 言語ゲームに帰属し主体として認められる喜び=大文字の他者の欲望=ベイトソンの学習2 またあえてずらす。学ぶことのはじめは死への欲動に享楽するが反復されることで退屈(閉塞)を生む。 コンテクスト(学習2)そのものに再帰的になる。 再び命がけの飛躍(死の欲動)を享楽し、コンテクストそのものをあえてずらす。脱構築する。ベイトソンの学習3、ニーチェの子供の遊び
489 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 11:33:02
ベイトソン的学習システム 学習1…規則に従う、命がけの飛躍、 学習2…言語ゲーム参入、同一の反復、規則、コンテクストの事後性 ゼロ学習…規則、外部化された知識 学習3…、遊び、脱構築、コンテクストずらし→学習1へ ゼロ学習との近接において外部化としての存在論があらわれる。 暗黙知も身体内部に外部化された記憶 言語行為とは身体内部に外部化された言語記憶を道具として扱う
490 :
996 :2007/01/30(火) 12:05:34
なつかしい。 なみへいさん。 なつかしい。どういうことかおしえてください。
491 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 12:17:14
近代技術の発見は外部化に数量化を発見したことにある。 因果法則はよく再現され、よく伝達される特徴をもち世界に浸透、実働し、世界を外部記憶として数量化されつくした。 そして記憶の蓄積という存在論において進歩、時代は流れる。 しかし規則に従うとは、存在論的に外部化された記憶、ゼロ学習との関係であるとともに、 それだけでは完成しない他者への命がけの飛躍、他者をまねるしかなくズレる、である。 デリダは痕跡をフロイトのマジックメモにたとえているが、無意識に書かれた痕跡(エクリチュール)と事後的にしか現前しないズレた意識の表象 なぜ学ぶことは楽しいのか
492 :
996 :2007/01/30(火) 13:10:14
なるほど。 蓄積ですか。 どうして、蓄積していくんでしょうね。 まね、模倣ですか。 まね、がズレているんでしょうか、そういうことですよね。 なぜまねることは楽しいのか。 なつかしいんでしょうね。そういうことですよね。 ありがとう。
493 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 14:17:11
■なぜ学ぶことは楽しいのか 後期ヴィトゲンシュタインの射程 後期ヴィトゲンシュタインを元にいくつかの思想を紡いでみる。後期ヴィトゲンシュタインは、曖昧に思え る日常会話がなぜ成立するのか、と問う。そこにある集団内で共有化された基底し、それを言語ゲーム と読む。たとえば世界の普遍的な体系と考えられていた数学でさえも、ある集団内の一つの約束でしか ないこと、それ故に書き換えられていく不完全なものでしかないことを示す。 規則は不完全なものであり、人は規則を習得し、言語ゲームに参入するのではなく、「規則に従う」とい う実践の反復の中でゲームを習得する。そして規則とはそのような多くの反復の中で事後的に見いださ れていくものである、ということだ。 後期ヴィトゲンシュタインの3点について、他の思想との関係性を以下に示す。 言語ゲーム・・・一つの慣習を共有する集団としては、クーンの科学技術のパラダイム、ラカンの象徴界 (大文字の他者)などがある。 「規則に従う」・・・オースティンの言語行為論、マイケル・ポランニーの暗黙知、ベイトソンの学習論 規則の事後性・・・柄谷の「命がけの飛躍」、デリダの痕跡
494 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 14:17:48
ヴィトゲンシュタインとデリダ 規則を学び、行為することには限界があということは、一つのそこに「断絶」が存在することだ。だから 「規則に従う」という正しいかどうかでなく、他者を信じまねるしかないということ、これを柄谷は「命がけ の飛躍」、そして「他者性」と呼んだ。たとえばこれはラカンの「囚人のゲーム」に対応されるだろう。そこ では「せき立て」によって、断絶を飛躍しないいけない状況が描かれる。そして規則に従うという反復に おいて、この断絶は同一の反復であることを妨げる。同一の反復はありえない。それはズレていくしか ない。ここにデリダの差延を見いだすことができる。どのような規則も必ず誤配可能性をもつ差延なので ある。 しかしデリダはむしろこの誤配可能性こそが、反復を同一性に見せるという。人は1回かぎりであるとい う他とは異なることに現前性としての「確かさ」を見いだす。ここにあるのは、差延こそが「確かさ」である ということだ。これは、ヴィトゲンシュタインの規則の事後性とともに、規則が「確かさ」をもつ原理を説明 するだろう。
495 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 14:18:27
ベイトソン的学習システム ベイトソンは後期ヴィトゲンシュタインから影響を受けながら、学習理論を提案している。これをもとに以 上をシステムとして示す。ただベイトソンはサイバネティクスとして、コンテクストをあるものとして示して いるなど、以下ではそこに曖昧さを導入することになる。 人において、学習はその始めから必ず学習Uだろう。人はゼロ学習はもちろん、学習Tを行うことは難 しい。なぜなら人は必ず行為とともに、言語ゲームとして状況を読み込んでしまうからだ。しかしまずた だ言われたことを盲目的にするということで、学習Tをスタートとする。 @学習T…「規則」を実行する。 A学習U・・・「規則に従う」という同一の反復の中で状況を読みむ。そこには必ず「命がけの飛躍」が内 在し、差延している。 Bゼロ学習…同一の反復の中で事後的に、規則が見いだされ、知識として外部化される。言語ゲーム を受肉する。しかしこれは完全なものではない。 C学習V…同一の反復の中で事後的に、コンテクストに再帰的になり、あえてズラす。差延が受動的な ズラしならば、これは脱構築としての能動的なズラし、能動的な「命がけの飛躍」である。これは、ニー チェも指摘しように「遊び」の本質である。
496 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 14:19:09
ゼロ学習としての機械論 ゼロ学習(規則の事後性)とは、言語ゲームにおいても、フレーゲが示したように犬は漠然としても犬の 現実的な概念を示し、それが記憶されているを示している。規則がなければ、言語ゲームは成立しな い。言語行為論では身体内部に外部化された言語記憶(規則)を様々なコンテクストで道具として扱うこ で、多様な意味を見いだすことができることを示している。さらに暗黙知では、それが外部記憶としての 道具と密接に結びついている。 近代は、Bゼロ学習において、外部としての「数量化」を発見したことにある。数量化された知識は、よ り正確に拘束に伝達される、そして因果法則により再現されるという利便性をもち、世界中に広がるとと もに、外部記憶として蓄積されていった。 たとえばクーンがパラダイム論でいうように、科学技術が一つの言語ゲームであり、断絶的にパラダイ ムシフトを起こしていても、たとえばニュートン力学と相対性理論にパラダイムシフトがおこっても、外部 記憶として蓄積の変わらず一次元性を持ち続ける。それが進歩史観であるとともに、近代における時間 そのものを影響するという強力さをもつ。これは主知主義的な幻想を産みだした、規則によって世界を 記述できるということ、、機械論である。
497 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 14:19:48
動力としてのラカンの欲望論 ラカンにおいては、このようなシステムおいて、「なぜ人は学ぶのか」と問われるだろう。まず学習するの は象徴界(言語ゲーム)に参入することであって、主体となることである。人は社会の中でしか生きられ ないということであり、社会に参入することを欲望する。 しかしラカンの欲望論では、参入の欲望とともに、享楽の次元がある。たとえば学ぶことの楽しさは、み んなと同じように知ることをともに、新たな「命がけの飛躍」を享楽するのである。これがより明確に明確 になるのが、言語ゲーム(学習U)を習得し、反復されることで退屈(閉塞)を生む時、あえてズラすとい う学習Vを目指す。自ら「命がけの飛躍」をえらぶ。これはフロイトの「死の欲動」である。これは大文字 の他者(象徴界)から(現実界の)他者性への移行なのである。ここに人の欲望の動力を見いだすこと ができる。学習システムは欲動によって作動する。そして近代以降に発見された機械論は、享楽を加速 し、静的な構造としての科学技術知識は享楽の痕跡である。
498 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 18:07:09
ゼロ学習的なコミュニケーションは成立しない。 ラカンはわかりあっているふりをするという。だから手紙は届く。 デリダはわかりあえないことがわかりあえる条件だという。だから手紙は届かないかもしれないがそれが届く条件だ。 ヴィトは実践的な習得によりわかりあえるという。だから手紙を出しつづけることでうまく届くようになる。
499 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/30(火) 18:52:53
ヴィトは子供、外国人によりコミュニケーションの困難を示した。しかし精神分析患者は訓練でさえコミュニケーションできるとはかぎらない。ここにラカンラディカルさがある。そしてこの不完全性に欲望は生まれる。 しかしヴィトの規則にしたがうでしめしたのは、言語が意味以上に伝達されることだろう。 言語行為論はそれをコンスタティブとパフォーマティブととらえることでより、コミュニケーションの不可能性を示してしまった。 またこれをラカン的に超越論的にただ信じるととらえるのも違う。 それは他者の真似を反復することで確かになるなにかである。 他者との現前性はラカンにおいては母子の想像関係である。それは闘争くである。 しかしヴィトの関係は師弟関係であり、父子の象徴的に近いだろう。しかし鏡像的であるという。 ラカンとは異なる次元、言語と異なる次元である。
500 :
円玉 :2007/01/30(火) 21:07:45
程度の価値
501 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 07:58:16
■なぜ学ぶことは楽しいのか 後期ヴィトゲンシュタインの射程 後期ヴィトゲンシュタインを元にいくつかの思想を紡いでみる。後期ヴィトゲンシュタインは、「曖昧に思 える日常会話がなぜ成立するのか」と問う。そこにある集団内で共有化された基底、それを言語ゲーム と呼ぶ。たとえば世界の普遍的な体系と考えられていた数学でさえも、ある集団内の一つの約束でしか なく、それ故に書き換えられていく不完全なものでしかないことを示す。 規則は不完全なものであり、人は規則を習得し、言語ゲームに参入するのではなく、「規則に従う」とい う実践の反復の中でゲームを習得する。そして規則とはそのような多くの反復の中で事後的に見いださ れていくものである、ということだ。
502 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 07:59:02
「規則に従う」と差延 「規則に従う」という正しいかどうかでなく、他者を信じ、まねるしかないということ。以下のようにヴィトゲ ンシュタインがいうとき、超越論的である。ここに言語ゲーム=ラカンの象徴界(大文字の他者)との近 接を読みとれる。 >> 「いかにして私は規則に従うことができるのか」 もしこれが因果関係に関する問いでないなら、それは 私が現にこのように規則に従っていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くした 時、私は固い岩盤に突き当たってしまい、私の鋤は跳ね返される。そのとき私はこう言いたくなる。「た だ私はこのようにやっているだけなのだ。」 「規則に従っているとき、私は選択をしない。私は規則に盲目的に従っているのだ。」 << 「規則に従う」の特徴は反復である。実践的に繰り返し習得し、規則は事後的に見いだされるするという とき、デリダのエクリチュール論に近接する。たとえば「署名(サイン)」することは、署名する−本人確認 (自己同一性)が示される。しかしデリダは毎回微妙に違う署名がなぜ自己同一性をしめすことができ のかと問う。奇妙なことは、署名が確実性として機能するのは、毎回微妙に違うという可能性、それはま た偽造可能性に依存しているということだ。 ここに示されるのは、ヴィトゲンシュタインがいうように規則は事後的にしか見いだされないということ と、「規則に従う」ということが失敗する可能性の反復によって、そこに事後的に規則が見いだせるの が、あたかも先に規則があるような振るまいが超越論的である。 後期ヴィトゲンシュタインから影響を受けた言語行為論は、言語の意味をコンスタティブ(事実確認的) とパフォーマティブ(行為逐次的)に分けた。これに対してデリダはどのような発話もコンスタティブであ るか、パフォーマティブであるか、コンテクスト決定することはできないことを指摘した。ここにも同様に、 ヴィトゲンシュタインとデリダの近接が見いだせる。
503 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 07:59:44
大文字の他者と「命がけの飛躍」 再度言えば、反復され、そこに誤配可能性(差延)があることが、事後的な規則を生み出すが、それが 充実したイメージを超越論的(大文字の他者)に現前化される。 ここに見いだせる超越論は、大文字の他者Aではなく、斜線を引かれた大文字の他者A/である。ラカ ンは大文字の他者とは不完全であり(斜線を引かれ)、現実界への穴が開いているという。そして現実 界は不可能な領域であり、それを隠すように充実のイメージとしての「幻想」でふさがれるという。 柄谷はヴィトゲンシュタインの「教える−学ぶ」の関係、すなわち「規則に従う」を「命がけの飛躍」といっ た。そして「他者性」と呼んだ。たとえばこれはラカンの「囚人のゲーム」にも対応されるだろう。そこでは 「せき立て」によって、断絶を飛躍しないいけない状況が描かれる。これはまさに、斜線を引かれた大文 字の他者A/であり、断絶とは現実界への穴である。 そして「規則に従う」という反復において、この断絶は同一の反復を短絡させる。だから同一の反復はあ りえない。それはズレていくしかない。ここにデリダの「差延」を見いだすことができる。どのような規則も 必ず誤配可能性をもつ「差延」なのである。
504 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 08:00:30
ベイトソン的学習システム ベイトソンは後期ヴィトゲンシュタインから影響を受けながら、学習理論を提案している。これをもとに以 上をシステムとして示す。ただベイトソンはサイバネティクスとして、コンテクストをあるものとして示して いるなど、以下ではそこに曖昧さを導入することになる。 人において、学習はその始めから必ず学習Uだろう。人はゼロ学習はもちろん、学習Tを行うことは難 しい。なぜなら人は必ず行為とともに、言語ゲームとして状況を読み込んでしまうからだ。しかしまずた だ言われたことを盲目的にするということで、学習Tをスタートとする。 @学習T…「規則」を実行する。 A学習U・・・「規則に従う」という同一の反復の中で状況を読みむ。そこには必ず「命がけの飛躍」が内 在し、差延している。 Bゼロ学習…同一の反復の中で事後的に、規則が見いだされ、知識として外部化される。言語ゲーム を受肉する。しかしこれは完全なものではない。 C学習V…同一の反復の中で事後的に、コンテクストに再帰的になり、あえてズラす。差延が受動的な ズラしならば、これは脱構築としての能動的なズラし、能動的な「命がけの飛躍」である。これは、ニー チェも指摘しように「遊び」の本質である。
505 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 08:01:02
環境(コンテクスト)開拓システム では「なぜ人は学習するのか」。すなわち「言語ゲーム」の学習システムの動力をどこに見いだすのか。 このような「言語ゲーム」の学習システムは外部を開拓しつつ、規則を書き換え新陳代謝することで安 定した内部を維持するようなシステムである、考えることができる。 一つの大きな目的は生存である。このようなシステムは、人間という種が生き残るシステムであるという ことだ。たとえばユクスキュルの動物的な環世界がある。これは基本的にゼロ学習である。遺伝子に組 み込まれて行為を環境に対して行うことで、自らの世界を作りだす。 しかし人は環境そのものを開拓する能力をもつ。学習U、Vによって、コンテクストに再帰的になり、そ して書き換え、ゼロ学習的な「規則」を外部記憶化し、環境として構築する。「言語ゲーム」の学習システ ムをこのような環境(コンテクスト)を書き換えていくシステムとして見いだすことができるだろう。
506 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 08:01:42
ラカンの欲望論 これに対して、ラカンの欲望論は、「なぜ人は学習するのか」を生存に還元できないことと指摘する。ラ カンの欲望論のラディカルさは「性関係に存在しない」という言葉に現れる。これは、ベイトソン的なゼロ 学習の不可能性であり、人間におけるユクスキュルの生物的な環世界の不可能性である。人間はゼロ 学習が不可能であり、学習Uでコミュニケーションを行うが、それは不可能である。ラカンにおいて学習 Uとは欲望が発生する場である。 「規則に従う」ということは、他者がなにを言いたい(意味)、共有されるコンテクスト、事後的に見いださ れるのであり、そもそも存在するのか、とわからないのである。柄谷は「命がけの飛躍」を、言語ゲーム と言語ゲームの間に見いだしたが、ラカンはコミュニケーションとはたえず「命がけの飛躍」を内在する ことを指摘する。 これは先の、斜線を引かれた大文字の他者という不可能性、そして現実界への穴を充実のイメージとし ての「幻想」でふさがれることに対応する。ジジェクは、このような状態を、言語ゲームの成立は、言語 ゲームが成功しないことを隠蔽し、成立しているように振るまうことで成り立っているというシニシズムと して説明する。規則、コンテクストは決して成功しない故に、欲望され続ける。 このような傾向がより明確になるのが、あえてズラすという学習Vである。それは、自ら「命がけの飛 躍」をえらぶことであり、現実界の穴を目指すという享楽である。享楽は、フロイトは人間のもつ生物的 な生存に従うという快感原則に対して、その彼岸としての「死の欲動」である。「なぜ人は学習するのか」 それは享楽である。
507 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 08:02:20
生存と欲望 このように「言語ゲーム」システムには二重性が見いだすことができる。一つは生存を目指すというプラ グマティックなものである。学習U、Vによって、ゼロ学習的な「規則」を外部記憶化し、新たに環境を書 き換える。 もう一つは享楽を目指す欲望である。コミュニケーションの不可能性から、学習U(言語ゲーム)が成立 しているように振るまう、さらには学習Vとして、その振るまいさえもズラしていこうとする享楽による終 わりなき欲望である。 近代以降、科学技術という「言語ゲーム」システムの特徴は、ゼロ学習において、外部としての「数量 化」を発見したことにある。数量化された知識は、より正確に拘束に伝達される、そして因果法則により 再現されるという利便性をもち、世界中に広がるとともに、外部記憶として蓄積されていった。この延長 線上に機械論がある。たとえば強固な建築物、空調、時間管理などの規則の反復は、「反復の壁」とし て、外部環境という不確実性から、生存圏と予測可能性なものとして、守る。 しかしまた科学技術の発展は、現代の環境問題などの「暴走」を生み出す。近代以降の「反復の壁」は 単なる安定した生存環境を作り出すだけではない。機械論は、享楽を加速し、「反復の壁」が過剰でき らびやかなであるのは、享楽の痕跡であるからだ。
508 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 08:02:59
マルクスのフェティシズム さらに近代以降の「言語ゲーム」システムとして、資本主義システムが上げられる。資本主義システム は、世界を貨幣という数量化された価値へ還元する。 マルクスはこの数量化に潜む神秘性を暴露した。世界はそもそも商品価値を持つように見いだしている が、それは「命がけの飛躍」という貨幣交換過程によって事後的に見いだされる。それを商品のフェティ シズムと呼んだ。それは貨幣の超越論性である。「なぜ人はお金がほしいのか」という貨幣へのフェティ シズムは、経済発展が安定生存を可能にすることに還元できない欲望である。
509 :
短パン :2007/01/31(水) 08:03:43
・・・。第一の波平は。 第二の波平は。。。。。。。 ふんっ。。。 バカか己はw
510 :
考える名無しさん :2007/01/31(水) 08:07:23
(ぴかぁ〜でいいんじゃ?) ・・・。関係ねぇが。な?
511 :
短パン :2007/01/31(水) 08:08:57
『共鳴は?』 する。 『感銘は?』 それもする。けど・・・・
512 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 09:33:52
しかし生存と欲望の対立は言語ゲームとして対立、プラグマティズム的と、構造主義の対立に対応する。 ラカンとパースやベイトソン、あるいはデリダとローティなどの近接がある、すなわち同様なシステムを持ちながらも、また背中合わせの関係でもある。 それは科学というゼロ学習を蓄積として重視する進歩史観と、アイロニーとして学習3を重視し、たえずズレていくだけであると進歩を脱構築する立場である。
513 :
若ハゲ波ヘイの母 :2007/01/31(水) 10:19:00
カレーできたわよ。 ニートの息子へ。 ガソリンスタンドバイトするんでしょ?
514 :
短パン :2007/01/31(水) 10:31:44
ワーイ。カレーだw っつか、 >ニートの息子へ。 し、しまったw釣られたwwww アヒャー(だって、カレーだったから。。。後日談w)
515 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 10:56:47
進歩史観はあからさまな科学主義でなく、機械論的言説としてあらわれやすい。
516 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 12:21:41
たとえばローティはデリダと近接し、アイロニーと学習3を強調するが、 それでも彼がプラグマティズムであるのは、彼の重点が学習3はゼロ学習へと構築される通過点であるからだ。
517 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 12:33:16
これはヴィトももっていた点である。 このゼロ学習は生存、生物という自然主義的なものとして可能になるのだ。 規則に従うとは超越論的であり、自然主義的そして言語論的(事後性、痕跡)である。
518 :
ニートへ :2007/01/31(水) 13:06:04
今日の昼飯はママのカレーか?
519 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 13:33:24
生存にたいして、人間が壊れた動物であることを指摘したのは、フロイトの死の欲動論であり、ラカンはそれを欲望論としてつなげだ。
520 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/01/31(水) 13:34:44
自然主義的、プラグマティズムがたえずつまずく場所にいる。
521 :
考える名無しさん :2007/01/31(水) 17:05:29
短パンが来てると聞いて、取り急ぎ参上つかまつった。
522 :
純一 :2007/01/31(水) 17:19:21
>521 ほ〜、なぜかね?
523 :
考える名無しさん :2007/01/31(水) 17:29:40
オマエラ、ぴかぁ〜さんの神聖なスレをあらすな。
524 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 11:48:35
たとえば資本主義、リベラリズムが歴史の終わりをとき、グローバリズムを推進するとき それが「自然なこと」だと振るまうとき、それは二重の偽装をしてあらわれる。 一つは人間の意図をかいさない機械論の姿として二つ目は科学はドグマでしかないというアイロニーをもって
525 :
父より :2007/02/01(木) 12:05:36
おまえ何してんだ? 家出すね。 明日から。 ホームレスになれ。 うんこへたれ息子よ。
526 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 12:26:53
ヴィトは超越論的というよりも超越的な倫理感をもっていた。 これは自然主義に還元されないだけでなく、抗するものである。
527 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:36:19
■なぜ「言語ゲーム」は自然主義的で超越論的なのか 後期ヴィトゲンシュタインの射程 後期ヴィトゲンシュタインは、ポイントは「規則に従う」ということである。ヴィトゲンシュタインは、「なぜ曖 昧な日常会話が成立しているのか」と問う。そこにある集団内で共有化された基底、それを「言語ゲー ム」と呼ぶ。人は規則を習得し、「言語ゲーム」に参入するのではなく、「規則に従う」という実践の反復 の中で「言語ゲーム」を習得する。そして規則とはそのような多くの反復の中で事後的に見いだされて いくものである。世界の普遍的な体系と考えられていた数学でさえも、ある集団内の「言語ゲーム」であ り、書き換えられていく不完全なものでしかないことを示した、ということだ。 この「規則に従う」という謎めいた言葉をどのように捉えるか。
528 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:36:53
超越論としての「規則に従う」 >> 「いかにして私は規則に従うことができるのか」 もしこれが因果関係に関する問いでないなら、それは 私が現にこのように規則に従っていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くした 時、私は固い岩盤に突き当たってしまい、私の鋤は跳ね返される。そのとき私はこう言いたくなる。「た だ私はこのようにやっているだけなのだ。」 「規則に従っているとき、私は選択をしない。私は規則に盲目的に従っているのだ。」 << 確かな道(規則)がなく、盲目的に「規則に従」っているということを、柄谷は「命がけの飛躍」といった。 人はいかにこの「飛躍」を行うのか、ということだ。そして「盲目的に」従うしかないと、ヴィトゲンシュタイ ンがいうとき、超越論的である。 たとえば大澤「他者性」の中で、「第三者の審級」という超越論的他者を想定しているが、これはラカン の大文字の他者に典型的である。「言語ゲーム」とはラカンの象徴界であり、大文字の他者を信じて飛 躍は行われる。それはもはや飛躍ではなく、確かな「教え」であるということだ。 このようにラカンと繋ぐと、ヴィトゲンシュタインが例に上げた「教える−学ぶ」という言語ゲームへの参 入が、精神分析的な「去勢」に相当することがわかる。人は幼児期の母子の想像的な関係から、大人に なることで父の介入によって社会性を身につけていく。父の介入、社会性というものが絶対的な基盤に 支えられたものではなく、その文化の慣習であるということだ。
529 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:37:34
自然主義としての「規則に従う」 しかしまたヴィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」を自然史と呼ぶとき、自然主義に近接する。これをもっ とも純粋に継承したのが、ライルであり、マイケル・ポランニーだろう。 ポランニーが「暗黙知のの次元」で指摘している「暗黙知」とは、言語的表現ができないような、実践に 技として伝承されていくような知識である。また本書の中でどうように「創発性」を指摘しているのは特徴 的である。すなわちこのような技は、確かな真理ではないが、人間という種が生きてきた中、すなわち 「自然史」の中で創発的に培い共有してきた基盤である、とうことだ。 このような考えは、クワインの「ホーリズム」にも通じ、それがプラグマティズムと関連するのは必然であ るように思う。すなわちヴィトゲンシュタインが直接そのように言わなくとも、「言語ゲーム」を自然史と見 いだすとき、種としての人間が「生存するために、世界と実働的な関係を(創発的に)築いてきた延長線 上に、「言語ゲーム」の確かさはあるとことだ。この自然主義の流れは、現代では認知科学に繋がっている。
530 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:38:16
ヴィトゲンシュタインとデリダ 後期ヴィトゲンシュタインの言語論的な影響として、言語行為論がある。発話はコンスタティブ(事実確 認的)であるとともに、言語を道具のように行為するパフォーマティブ(行為逐次的)に分ける。これは言 語表現とそれを用いる使用者や文脈(コンテクスト)との関係を研究する語用論に繋がる。 しかし言語行為論が文脈(コンテクスト)を明確にあるものとして扱うとき、コンスタティブな発話とパ フォーマティブ発話を分類するとき、「命がけの飛躍」は隠蔽されている。これに対してデリダはどのよう な発話もコンスタティブであるか、パフォーマティブであるか、コンテクスト決定することはできないことを 指摘したのは、まさにヴィトゲンシュタイン的である。 たとえばデリダは「署名(サイン)」することは、署名する−本人確認(自己同一性)が示される。しかし毎 回微妙に違う署名がなぜ自己同一性をしめすことができのかと問う。さらに奇妙なことは、署名が確実 性として機能するのは、毎回微妙に違うという可能性、それはまた偽造可能性に依存しているということだ。 「規則に従う」という反復において、そこに「飛躍」があり、同一の反復を短絡させ、同一の反復はありえ ない。だからそれはズレていくしかない。これがデリダの「差延」である。どのような規則も必ず誤配可能 性をもつ「差延」なのである。反復され、そこに誤配可能性(差延)があることが、事後的な規則を生み 出すが、それが充実したイメージを超越論的(大文字の他者)に現前化される。 ここに示されるのは、ヴィトゲンシュタインがいうように規則は事後的にしか見いだされないということ と、ヴィトゲンシュタインが「規則に従う」を実践的な反復、さらに「学ぶ」という反復は間違いの中で学ぶ と言うことであるが、ここでもヴィトゲンシュタインと近接する。そして「規則に従う」ということが失敗する 可能性の反復によって、そこに事後的に規則が見いだせるのが、あたかも先に規則があるような振る まいが超越論的である。
531 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:38:50
超越論的なものが生み出される創発性 ここには超越論的なものが生み出される創発性とでもいうものが見いだせるだろう。しかしデリダのこの ような考えは自然主義には還元されない。自然主義において、確かな基盤の形成は、自然の長期的な 偶然性の中での創発性が生まれるという、より多くの反復と、その基盤としての強度が強調され、擬似 アポリオリな側面をもつ。これが「自然主義的な誤謬」と言われる。すなわち殺人も人間の慣習であるの か、ということだ。 それに対して、デリダが示すのは、いかに強固に見える基盤もあやふやさなものであるという人が陥る 認識論的ドグマである。殺人を自然主義的に正当化するような慣習は存在しないという倫理的な要請 である。ヴィトゲンシュタインの立ち位置は曖昧である。ただヴィトゲンシュタインの他の一面としての 「生の思想」という倫理において、創発性にないことは確かである。
532 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:39:38
ラカンの欲望論 超越論的にドグマが強調されることを、よりラディカルに示したがラカンである。そのラディカルさは、ヴィ トゲンシュタインが言語ゲームを子供や外国人が「学ぶ」ことで説明したのに対して、精神分析患者は 訓練でさえ、「学ぶ」ことができるとはかぎらない、ことに現れるだろう。 ラカンの欲望論のラディカルさは「性関係に存在しない」という言葉に現れる。これは、ベイトソン的なゼ ロ学習の不可能性である。人間はゼロ学習が不可能であり、学習Uでコミュニケーションを行うが、そ れは不可能である。ラカンにおいて学習Uとは欲望が発生する場である。 「規則に従う」ということは、他者がなにを言いたい(意味)、共有されるコンテクスト、事後的に見いださ れるのであり、そもそも存在するのか、とわからないのである。「命がけの飛躍」の「断絶」とは、象徴界 (大文字の他者)に開いて現実界への穴である。 ここに見いだせる超越論は、大文字の他者Aではなく、斜線を引かれた大文字の他者A/である。大文 字の他者に斜線引き、その不可能性を強調した。大文字の他者とは不完全であり(斜線を引かれ)、現 実界への穴が開いているという。そして現実界は不可能な領域であり、それを隠すように充実のイメー ジとしての「幻想」でふさがれるという。 ジジェクは、このような状態を、言語ゲームの成立は、言語ゲームが成功しないことを隠蔽し、成立して いるように振るまうことで成り立っているというシニシズムとして説明する。規則、コンテクストは決して成 功しない故に、欲望され続ける。 このような傾向がより明確になるのが、あえてズラすという学習Vである。それは、自ら「命がけの飛 躍」をえらぶことであり、現実界の穴を目指すという享楽である。享楽は、フロイトは人間のもつ生物的 な生存に従うという快感原則に対して、その彼岸としての「死の欲動」である。「なぜ人は学習するのか」 それは享楽である。
533 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:41:02
ベイトソン的学習システム ベイトソンは、後期ヴィトゲンシュタインから影響を受けながら、認知科学の先駆けのような、学習理論 を提案している。これをもとに以上をシステムとして示す。ただベイトソンはサイバネティクスとして、コン テクストをあるものとして示しているなど、以下ではそこに曖昧さを導入することになる。 人において、学習はその始めから必ず学習Uだろう。人はゼロ学習はもちろん、学習Tを行うことは難 しい。なぜなら人は必ず行為とともに、言語ゲームとして状況を読み込んでしまうからだ。しかしまずた だ言われたことを盲目的にするということで、学習Tをスタートとする。 >> @学習U・・・「規則に従う」という同一の反復の中で状況を読みむ。そこには必ず「命がけの飛躍」が内 在し、差延している。 A学習T、ゼロ学習…同一の反復の中で事後的に、文脈(コンテクスト)と規則が見いだされる。反復 の強度の中で、知識として外部化され、言語ゲームの構造を作る。 B学習V…同一の反復の中で事後的に、コンテクストに再帰的になり、あえてズラす。差延が受動的な ズラしならば、これは脱構築としての能動的なズラし、能動的な「命がけの飛躍」である。これは、ニー チェも指摘しように「遊び」の本質である。 <<
534 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:41:52
学習Uの反復中で、学習T的なもの(規則)が事後的に生み出されていくというとき、このような「言語 ゲーム」の学習システムは外部を開拓しつつ、規則を書き換え新陳代謝することで安定した内部を維持 するようなシステムである、考えることができる。 特に、自然主義的な立場は、むしろ学習T的なものが、「生存」という自然との関係の中で確かな基盤 として、創発的に構造化されるということに注目すると考えられる。このようなシステムは、人間という種 が生き残るシステムであるということだ。 学習U、Vによって、コンテクストに再帰的になり、そして書き換え、ゼロ学習的な「規則」を外部記憶化 し、環境として構築する。「言語ゲーム」の学習システムをこのような環境(コンテクスト)を書き換えてい くシステムとして見いだすことができるだろう。
535 :
996 :2007/02/01(木) 13:43:10
今日はもう終わりですか?
536 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:43:43
生存と欲望 このように「言語ゲーム」システムには二重性が見いだすことができる。一つは自然主義的にプラグマ ティックなものである。世界が規則によって体系化されるというような形而上学ではなく、世界は学習 U、Vのような「言語ゲーム」であるが、それでもゼロ学習的な「規則」を外部記憶化し、新たに環境を 書き換えることができる、というAが強調される。そのようにしては人は生存するために分かりあうということだ。 近代以降、科学技術という「言語ゲーム」は、数量化され、外部記憶化された知識は、より正確に拘束 に伝達される、そして因果法則により再現されるという利便性をもち、世界中に広がるとともに、外部記 憶として蓄積されていった。たとえば強固な建築物、空調、時間管理などの規則の反復は、「反復の壁」 として、外部環境という不確実性から、生存圏と予測可能性なものとして、守る。この延長線上に機械 論がある。 もう一つは超越論的であり。@、Bが強調され、学習U(言語ゲーム)、学習Vに内在する「差延」が強 調され、その不可能性故に、終わりなき欲望がある。人は分かりあえない故に、分かりあおうとして言語 ゲームが成立しているように振るまう。 科学技術の発展は、単に安定した生存を求めるだけでなく、悲惨な戦争や環境問題などの「暴走」を生 み出した。機械論は享楽を加速し、構築された「反復の壁」が過剰で煌びやかであるのは、それが享楽 の「痕跡」であるからだ。
537 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/01(木) 13:44:39
資本主義による生存と欲望 このような享楽の次元を見いだしたのは、フロイトであるが、もう一人の先駆者がマルクスである。アダ ムスミスの「神の見えざる手」という自然主義的な創発性を根底にもつ古典経済学に対して、貨幣交換 というものが、自然主義的な人間に確かなものではなく、西洋、近代という特殊な状況の「言語ゲーム」 であることを示した。 さらにマルクスはこの数量化に潜む神秘性を暴露した。世界はそもそも商品価値を持ち、世界を貨幣と いう数量化された価値へ還元することが「自然なこと」とする古典経済学に対して、貨幣交換過程が「命 がけの飛躍」であり、価値は事後的に見いだされることを示した。これが商品、あるいは貨幣のフェティ シズムという超越論性である。「なぜ人はお金がほしいのか」という貨幣へのフェティシズムは、経済発 展が安定生存を可能にすることに還元できない欲望である。 しかしマルクスは自然主義者である。類的存在を人間のあり方の基本とする。そしてこのような欲望論 を資本主義へ問題へと還元する。そのために新たな機械論としての社会主義を夢見てしまう。自然主 義と欲望論は、「言語ゲーム」システムに内在するものであり、機械論そのものに欲望は内在するのだ。 逆に欲望論の臨界の一つにボードリヤールの消費社会論としてのシミュラークル論を上げることができ る。このようなシニフィアンの戯れが失われているものとして、生存に根ざした自然主義的な行為として の確実性を見いだすことは有用だろう。「規則に従う」という言語ゲームは二重性として見いだす必要がある。
538 :
996 :2007/02/01(木) 13:47:52
目的はなんなのでしょう。 さびしいのですか? かなしくなりませんか? 話し合う気がないようですねえ。その点では私も似てますけれど、 筋金入りなのでしょうか。 はたして、まともに見ている人が何人いるか。 張り合いでしょうかね。 掲示板にはあわないような。 殴り書きでしょうか。
539 :
996 :2007/02/01(木) 13:55:15
同類のことを何回も書いていませんか? 解説者? マルクスがどうのこうのはもうどうでもいいよ。 著書は読んでも、あなたの解説は読まない、多分。
540 :
996 :2007/02/01(木) 13:56:54
ということで、私はここに、 徒然日記を書かせてもらうことにした。
541 :
996 :2007/02/01(木) 14:02:11
もしかして、これ、保存しているの? 私も日記は書いたものだけれど、残存していない。 これからも、残すつもりはない。 だって、読み返すのはなつかしいけれど、 情けなくなってきてね。 写真なんかよりずっと、情けなくなる。どうしてでしょうね。 おそらく、そんなものを大事にとっておこうとしていた自分が、 情けなくなるんだろう。内容も大したことないし。
542 :
996 :2007/02/01(木) 14:09:53
中味がないんだ。だらだらと長いばかりで。もちろん、私のことさ。 単刀直入に言えばそれで済むというのに。 どうして、こんなに無駄ばかり身につくのだろう。 無駄が肥大化して、どれが、大切なものなのか。 体の見た目は普通だが、どうしてこうも、頭は無駄ぶとりしていくのだろう。 まさしく、今、ぶくぶくと成長していっている。 もっとも、排除もしていっているわけなんだけれど。 心筋梗塞や脳卒中ではないけれど、このままでは、 どっか支障をきたすような気がする。
543 :
996 :2007/02/01(木) 14:14:25
こないだねえ。辞書で礼儀だったか、調べたんだ。 そうすると、敬意とか敬いとか書いてた。 それで、今度は敬意とか調べた。また、なんとかかいてた。 結構、しぶとく、調べていったが、結局、最終的な答えが、 見つからなかった。 見つからないし、知らぬ間に同じところへ戻っているんだ。 辞書にはだまされた。答えがのってないんだもの。 回りくどくされた上に、回された。
544 :
996 :2007/02/01(木) 14:18:34
暗黙の了解ってやつなんでしょうか。 辞書はそれを、私たちに求めている。 結局、自分らで、適度なところで納得しなさい、とね。 ニュアンス、なんだね。知るってことは。 コンテクスト。意味不明だが、ニュアンスで分かるよ。
545 :
考える名無しさん :2007/02/01(木) 19:42:46
ぴか一さんは頭いんだおー
546 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 01:10:04
自作自演の機械なみの常駐にーと幼稚文コテ。 こいつは親が死んだら危ないな。 死ぬかな〜 犯罪起こすなら自殺しろ。
547 :
996 :2007/02/02(金) 08:14:30
人多すぎで、見れなくなってる。 どういうことだ? 2チャンネルも終わりが近いのかな。 ナミヘイ氏にとって、2チャンネルは育ての親であった。
548 :
996 :2007/02/02(金) 08:19:36
すっきりするから、やる気が出てくるのだろうか。 それとも、 むらむらするから、やる気が出てくるのだろうか。 私は、前者のほうが強いんだ。 後者のほうはね。犯罪に繋がりやすい。 人間、いや、私だけかな。満足感がないと、次の一歩がなかなか 出ないんだ。満足感を得たいために生きるんじゃないよ。 次の一歩に進むために生きるんだ。
549 :
996 :2007/02/02(金) 08:24:35
知的満足感はいつになったら感じられるだろうか。
550 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 09:46:24
みんなでぴかぁさんを励まし応援しようよ。 こんな価値のある文は滅多にないょ。
551 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 09:56:12
スマンちょっと紙借りるよ。 キレが悪くて、近頃…
552 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 10:30:31
中身のない 幼稚な パクリ文w ニートウンコ製造気は 社会もわかんねーからなぁ。 コンビニ店員できるかな?
553 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/02(金) 12:33:48
自然主義がいうのはゼロ学習の可能性である。 にんげんという同じ種において、言語をこえたつながりをみいだせるはずだ 実践とは効用であり生存であり、さらに反復である。 生きるために反復することでひとは言語をこえて動物のようにわかりあえる。 。 認知科学においてこれは機械論と接合される。動物は精密な機械であり、人が動物なら機械だ。 そしてこれが実働的な効果をあげ、ボクたちの信頼の基底である。ボクたちは科学技術の基底なく生きていくことはできない。 だから超越論は科学世界の限界の倫理においてのみ必要とされることになる。 その意味でいえば、最近の自然主義の巧妙さはまさにウィトから伝承されている。
554 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/02(金) 12:58:47
それは哲学者が踏みとどまらなければならない地点である。 クワインの態度は象徴的である。ホーリズムの相対主義は言語ゲームに近接しているといわれる。 しかしその先に認識論の自然主義化といわれる物理主義に踏み込んでいき、哲学者として非難をあびることになる。
555 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 13:15:20
昼に起床の 気楽なニート。 職歴無し。もう 就職しても 年下の高卒ヤンキー上司だけ。 大好物は 年金ひっぱく貧乏ママのカレーを横盗りカレー。
556 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/02(金) 18:07:01
たとえばある朝、友達とあったとき、突然笑いだした。なぜか。 これは無数の理由が考えられる。間違ってパジャマをきていった。散髪したてだった。昨日酔って転んだことを思い出し笑いしたなど。 しかし私はいった。「笑いたきゃわらいな」そして友達は「ごめんごめん。元気だせよ。」 昨日一緒にナンパしうまくと思ったらつつもたせだったのだ。 ここに命がけの飛躍がある。友達の笑いの意味がこれだという理由はない。 コンテクストからそうだろうと推測したが共有されたコンテクストがあるわけではない。そして多くにおいて間違えるのだし、どこまでいっても完全に共有されることはない。 しかしとにかく飛ぶのだし、わかりあえてるようにふるまうのだ。 これは人工知能の不可能性、フレーム問題である。人工知能はこのような状況において、無数の可能性の前にフリーズしてしまう。
557 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 18:11:45
昼寝から幼稚園児が起床。こんな過疎なところで 毎日無駄に当たり障りないものかいて 無駄だど思わないの?w まじで不思議。
558 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 18:14:20
サザエさんの波へいって ハゲのほうだっけ? おまえ、若ハゲか? ひきこもり原因? デブ臭いなぁ。なんせ、 ひきこもり 藁
559 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 18:18:11
すくりぷとに 野次立てる輩も すくりぷと
560 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 19:05:30
お前らぴかぁ〜さんを馬鹿にするなよ。 ぴかぁ〜さんはエライんだゾヌ
561 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 19:07:25
えらくても 書くものあれじゃ 馬鹿丸出し 字余り
562 :
考える名無しさん :2007/02/02(金) 19:11:37
〜 〜 〜〜 〜 〜 あ ゴメ 尻毛着いてた?
ゼロ〜学習Vまでの過程と、想像界・象徴界・現実界の 関係はどうなるのでしょう? ゼロ学習は、遡及的に想定される現実界ですね。リアルそのものです。 学習Tは「暗黙知」の次元として、象徴化されない残余としての現実界ですね。 学習Uは去勢により大文字の主体を「知っていると想定される主体」として受け入れる過程 学習Vは、象徴界のネットワークの中に自身を見いだす段階ですね。 学習Uと学習Vの間の関係は、無時間的モデルか有時間的モデルかの違いと思われます。 精神分析の過程に置き換えれば、学習Uとは学習Vとはその段階の差と言えます。 「すなわち症候を解釈することと、幻想を生き抜くことである」 (イデオロギーの崇高な対象p118) 従って、学習Uから学習Vには、過程が、時間的な経過が存在し、その過程を推し進めるのが 対象aですね。享楽です。 ここに断裂が存在する。 てな感じで理解したんですが、違うかな?
564 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 00:37:12
大変おもしろい理解ですね。ほぼ同意します。 ボクが思うのは、 学習Uには断絶が受動的に内在するが、対象aという幻想で隠されている。 学習Vは断絶を能動的に操作する。すなわち脱構築であり、 ラカン的には幻想に騙されず、「己の欲望に譲歩するな」と言うことかなと思いました。
565 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2007/02/03(土) 01:43:50
ご返答ありがとうございます。 「幻想に騙されない」とは、「幻想の向こうには何もない」こと、 つまり「幻想を機能させているのは主体たる自身である」ことを 認識することですね。 「言語ゲーム」を成り立たせているのは、「『言語ゲーム』という 規則が存在するという幻想」を持った主体の行為であるわけですね。 行為の前に言語ゲームは存在せず、行為の後に遡及的に見いだされる。 だから「言語ゲーム」の規則は常に書き換わるが、「安定したもの」と 「想定される」。 波平さんが言われる「ジジェクのシニシズム」ですね。「幻想」が認識論的な ものではなく、行為をもたらす存在論的なものとして現れる。 ゼロ学習と学習Tのレベルは、学習Uから学習Vへの絶え間ない進行とは 異なる次元に、確固として存在している。その点を整理されていると思うのですが、 うまく理解できませんでした。もう一度読ませていただきます。
566 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 02:12:05
ボクの理解は、 規則は、行為の後に遡及的に見いだされます。たとえば数学です。 数学は学習Uの言語ゲームですが、あたかもコンテクストから 切り離されてた法則のように、すなわち学習Tのように学習されます。 さらには、この規則が電卓などに外部知識化されるとゼロ学習です。
お前のコテ見るたびに昔、98BASICで半分遊びで 作った糞プログラム思い出すわ。
あれはリーマン時代で、ああ。
569 :
考える名無しさん :2007/02/03(土) 02:21:09
アルビン・トフラーの『第三の波』を捩ったんじゃねえの? パワー・シフト!ってTVで叫んでたオッサンいたでしょ。
ああ、そうそう。
いや、俺はサザエさんだったけど。
572 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:00:04
■なぜ「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」は心身二元論を要請するのか @「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」という「断絶」 後期ヴィトゲンシュタインでは、「なぜ曖昧な日常会話が成立しているのか」と問われる。ヴィトゲンシュ タインは、そこにある集団内で共有化された基底を「言語ゲーム」と呼んだ。「言語ゲーム」は人々に共 有された規則が存在し、「言語ゲーム」が成立するのではなく、「規則に従う」という実践の反復によっ て、「言語ゲーム」は行われている。規則は「言語ゲーム」というある集団内の反復の中で事後的に見 いだされていくものでしかないということだ。 世界の普遍的な体系と考えられていた数学でさえも、ある集団内の「言語ゲーム」であり、書き換えられ ていく不完全なものでしかないことを示した。 >> 「いかにして私は規則に従うことができるのか」 もしこれが因果関係に関する問いでないなら、それは 私が現にこのように規則に従っていることを正当とする根拠の問いである。正当化の根拠を尽くした 時、私は固い岩盤に突き当たってしまい、私の鋤は跳ね返される。そのとき私はこう言いたくなる。「た だ私はこのようにやっているだけなのだ。」 「規則に従っているとき、私は選択をしない。私は規則に盲目的に従っているのだ。」 << この「規則に従う」とはなにか。規則は事後的でなく、確かな道(規則)がない中で盲目的に「規則に 従」っている。クリプキはこれを「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」(ASIN:4782800177)といい、柄谷は 「命がけの飛躍」といった。人はいかにこの「断絶」を飛躍するのか、ということだ。
573 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:00:33
A超越論的に「規則に従う」 クリプキはこれを「共同体」に求める。すなわち「規則に従う」ときに、それを他者が承認することで、盲 目の飛躍は可能になる。しかしロビンソークルーソーなどの孤立した個人はどうなるのか。それが「共同 体説」への反論である。このためにこの他者は「超越論的な他者」として現れてくる。すなわちラカンが いう「無意識」(大文字の他者)である。 このように精神分析につなげると、ヴィトゲンシュタインがあげた「教える−学ぶ」という「言語ゲーム」へ の参入は、精神分析的な「去勢」に相当することがわかる。人は幼児期の母子の想像的な関係から、 大人になることで父の介入によって社会性を身につけていく。すなわち無意識として規範(大文字の他 者)が内面化されていく。 ロビンソークルーソーなどの孤立した個人であっても、誰もいないからといって「狂気」に走るわけではな く、かつて「去勢」されていれば、「無意識」(大文字の他者)によって「規則に従い」規範的にふるまうだ ろう、ということだ。 しかしラカンの欲望論においては、大文字の他者Aは、斜線を引かれた大文字の他者A/として、その 不完全性が強調された。そしてこの不完全性(断絶)=象徴界(大文字の他者)に開いた穴を現実界と 呼んだ。そして現実界は(認識)不可能な領域であり、人はその穴(断絶)を充実のイメージとしての「幻 想」を見るだけである、ということだ。 大文字の他者においても、この「断絶」の飛躍を完全に承認することはできない。「断絶」は決してふさ がれることがなく、「言語ゲーム」の成立は、「断絶」を隠蔽し、成立しているようにふるまうことによって 成り立っている。そして「飛躍」は決して成功しない故に充実のイメージとしての「幻想」が欲望され続け る。すなわち「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」の不可能性と、それこそが逆説的に「言語ゲーム」の成 立を支えているというジジェクのいうシニシズムである。
574 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:01:07
Bデリダのエクリチュール論 後期ヴィトゲンシュタインの言語論的な影響として、言語行為論がある。発話はコンスタティブ(事実確 認的)であるとともに、文脈(コンテクスト)に依存し、言語を使うパフォーマティブ(行為逐次的)に分け る。これは言語表現とそれを用いる使用者や文脈(コンテクスト)との関係を研究する語用論に繋がる。 しかし言語行為論が文脈(コンテクスト)を明確にあるものとして扱い、コンスタティブな発話とパフォー マティブ発話を分類するとき、「断絶」は隠蔽されている。デリダはどのような発話もコンスタティブである か、パフォーマティブであるか、事前にコンテクスト決定することはできないことを指摘し、再び「断絶」を 開いた。 これはデリダのエクリチュール論に繋がるだろう。たとえばデリダは「署名(サイン)」することは、署名す る=本人確認が示される。しかし毎回微妙に違う署名がなぜ自己同一性をしめすことができのかと問 う。これはまさに「言語ゲーム」である。 この本人確認というのは、確かな生の現前性であるが、それが事後的な転倒でしかない。署名は署名 するという「規則に従う」反復によって、「署名する−本人確認」という規則が事後的に生まれている。反 復は「断絶」によって短絡されるために、生の現前性という自己同一性は同一の反復はない「差延」である。 さらに「署名」の奇妙なことは、印刷のような署名の同一性ではなく、署名は毎回微妙に違うということ、 それはまた偽造可能性によって、生の現前性が保証されているということだ。反復され、そこに誤配可 能性(差延)があることが、事後的な充実したイメージとして超越論的(大文字の他者)に現前化される。 これは、ラカンの不可能性が「言語ゲーム」の成立を支えているというシニシズムに近接する。
575 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:01:52
C「決して現前化しなかった過去」の反復 ヴィトゲンシュタインの「規則に従う」という実践において、同一の反復は不可能だろうし、失敗すること もあるだろう。デリダにおいては、まさにこの非同一な反復(差延)こそが、規則の形而上学的な「確か さ」を保証されている、ということである。 ただデリダの言う反復は、実際に行われてものではない。デリダは差延を「決して現前化しなかった過 去」という。たとえば極端にいえば、「署名」は1回だけ行われた行為(「規則に従う」)であっても良いの である。過去に署名された反復だけでなく、反復されるだろう可能性によって、「確かさ」は擬装されえるのだ。
576 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:02:23
D自然主義としての「規則に従う」 ラカンの欲望論とデリダの「エクリチュール」論は、「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」への超越論的な 不可能性としての解答となっている。しかしヴィトゲンシュタインが、「規則に従う」において「実践」を強 調し、ときに「自然史」と呼ぶとき、自然主義に近接する。ここではまさに「実際に行われた過去」の反復 が語られるだろう。 これをもっとも純粋に継承したのが、ギルバート・ライルであり、さらにはマイケル・ポランニーだろう。ポ ランニーが「暗黙知の次元」(ASIN:4480088164)で指摘している「暗黙知」とは、言語的表現ができない ような身体的な知である。たとえば自転車に乗るというのは、まさに「規則に従い」実践的に習得してい く。あるいは人はどのように歩いているのか。人の顔のどのように区別しているのかなど、決して言語で は表現できない「暗黙知」があるということである。 自然主義において、「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」という言語的な「断絶」は身体的な知によって乗 りこえられるということである。これは人間は動物のように遺伝子にプログラムされた完全なコミュニ ケーションは不可能であっても、究極的には人間という同じ種において、言語を越えて繋がることができ るだろう期待がある。 ヴィトゲンシュタインのいう「実践的反復」の自然主義的な読みは、「生存のため」に「身体という物質の 自然との確実な関係性」と1度ではダメでも、「繰り返す」ことで、少しでも動物的な完全なコミュニケー ションに近づくことができる、ということだ。
577 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:03:03
Eベイトソンの学習論 さらにこのような自然主義は認知科学に繋がっていく。動物は精密な機械である。人が動物ならば、人 間も機械である。その意味で、ベイトソンの学習論は、後期ヴィトゲンシュタイン、そして言語行為論から 影響を受けた自然主義の系譜であり、そしてサイバネティクスという認知科学の前段に位置する。そし てベイトソンの学習論では、自然主義的に埋められて、もはや「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」の「断 絶」は存在しない。 >> ゼロ学習・・・遺伝子、あるいは機械プログラム。インプットに対して同一反復にアウトプットを出力する。 学習で習得するものではない。「断絶」は存在しない。 学習T・・・条件反射のように、あるコンテクストの中で入力に対する出力が学習される。ただコンテクス ト事態は学習されない。「暗黙知」はここに相当するだろう。「断絶」は身体的反射によって埋められる。 学習U・・・コンテクストを学習することで、コンテクストの認識(状況判断)が可能になる。「言語ゲーム」 はここに相当するだろう。「断絶」はコンテクストによって埋められる。 学習V・・・コンテクストの差異を知り、コンテクストの操作を学習する。「断絶」はコンテクストのコンテク ストによって埋められる。すなわち「断絶」そのものを操作する <<
578 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:03:37
F超越論的「言語ゲーム」システム ベイトソンの学習論では、「断絶」は乗りこえられている。しかしラカンは「断絶」を開く。ラカンが「性関係 は存在しない」というのは、ゼロ学習は人間には不可能な領域であるということだ。人は動物のように遺 伝子プログラムによって生殖を行うことはできない。人は「言語ゲーム」(学習U)において学習するしか ないが、事前にコンテクストという「断絶」を埋めるものは存在しない。 たとえば人間において、性関係(生殖行為)はセックスとして学習するものであり、それはもはや生殖の ための行われるものではない。さらに最近の日本人のセックスがAVのようにパターン化しているといわ れるように、「言語ゲーム」、地域的な文化として学ぶしかないが、そこに正解はないのであり、全てが 倒錯的(フェティシズム)なのである。 このような不可能性を考慮して、ベイトソンの学習論を参照に超越論的に「言語ゲーム」システムを示す と以下のように考えられる。
579 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:04:16
>> 超越論的「言語ゲーム」システム @言語ゲーム(学習U)・・・人はゼロ学習、学習Tは不可能であり、コンテクストを読み込もうとする学 習Uからスタートする。しかしコンテクストは決定不可能であって、「断絶」が存在する。動物や機械のよ うには正確な行為はできないのである。すなわち「差延」が内在している。 A事後的な「規則」化(学習T、ゼロ学習)・・・そのための差延の反復の中から、学習T的なコンテクス トと規則が見いだされる。さらには外部記憶化されることで、ゼロ学習となる。これが数学や科学法則、 あるいは法であり、言語ゲームの構造となる。これはあくまで、根拠をもたない不完全なものであり、形 而上学である。 B創造と破壊(学習V)・・・学習Uの反復の中で事後的に、コンテクストに再帰的になり、受動的なズラ しとしての差延ではなく、能動的なズラとしての「脱構築」が行われる。これは、ニーチェも指摘しように 「遊び」であり、創造である。このような「遊び」によって、言語ゲーム(学習U)によってダイナミズムがう まれる。 しかしラカンの欲望論において、このような意図的な「命がけの飛躍」は享楽(フロイトの死の欲動)と言 われる。すなわち創造とは(既存の安定の)破壊である。このような能動性としての享楽は「言語システ ム」そのものの動力であると考えられるが、その「破壊」が生産的的なものであるか、非生産的なもので あるかは、事後的にしか決定できない。 <<
580 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:05:58
G科学技術と、破壊と創造 このような超越論的「言語ゲーム」システムは、外部を開拓しつつ、規則を書き換え新陳代謝することで 安定した内部を維持するようなシステムである、考えることができる。 そしてそこには二面性を見いだすことができるだろう。一つは、@事後的な「規則」化を重視する面であ る。「言語ゲーム」は、「事後的な「規則」化」過程において、学習T(さらにはゼロ学習)のようなコンスタ ティブな規則を外部記憶化し、蓄積し、新たに環境を書き換えている。それは、幸せか、善かの「道徳的 (モラーリッシュ)」ではなく、「実用的(プラグマティッシュ)」であり、現に「進歩」し、人の生存率は向上し ているという端的な事実に基づく。 近代以降、科学技術という「言語ゲーム」は、数量化され、外部記憶化され、より正確に高速に伝達さ れ、情報交換され、検証され、利便性において淘汰され、先鋭化されて、蓄積されていった。これによっ て、世界中に広がるとともに、強固な構造物となっている。この科学技術の強固な構造物=「反復の壁」 は、外部環境という不確実性を解体し、予測可能性なものして、人の安定した生存を支えている。 そしてこの強固な「反復の壁」の形成に、科学技術は自然主義の導入を目指す。学習T(さらにはゼロ 学習)のようなコンスタティブな規則は、言語よりもより確かな「暗黙知」という身体の次元によって補完 されるだろう。ここに認知科学の「使命」がある。 もう一つはB創造と破壊な面である。学習U(言語ゲーム)に内在する差延、学習Vの脱構築は創造で あるとともに、破壊である。その不可能性故に、終わりなき欲望がある。人は分かりあえない故に、分か りあおうとして言語ゲームが成立しているように振るまう。 科学技術の発展は、単に安定した生存を求めるだけでなく、悲惨な戦争や環境問題などの「暴走」を生 み出している。機械論は享楽を加速している。構築された「反復の壁」が過剰で煌びやかであるのは、 それが享楽の「痕跡」であるからだ。
581 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:06:31
Hマルクスの機械論という欲望 このような享楽の次元を見いだしたのは、フロイトであるが、もう一人の先駆者がマルクスである。マル クスは、アダム・スミスの「神の見えざる手」という創発性によるバランスを根底にもつ機械論的古典経 済学において、貨幣交換というものが西洋、近代という特殊な状況の「言語ゲーム」であることを示した。 それとともに世界はそもそも商品価値を持ち、世界を貨幣という数量化された価値へ還元することが 「自然なこと」とする古典経済学に対して、貨幣という数量化に潜む神秘性を暴露した。貨幣交換過程 が「命がけの飛躍」であり、価値は事後的に見いだされる。 これが商品、あるいは貨幣のフェティシズムという超越論性である。「なぜ人はお金がほしいのか」とい う貨幣へのフェティシズムは、経済発展が安定生存を可能にすることに還元できない欲望である。 しかしマルクスは自然主義者である。類的存在を人間のあり方の基本として夢見て、このような欲望論 を資本主義の問題へと還元する。そのために新たな自然主義的機械論としての社会主義をめざす。し かし機械論と欲望論は、「言語ゲーム」システムに内在するものであり、機械論そのものに欲望は内在 するのだ。
582 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 11:07:14
I「言語ゲーム」の心身二元論 「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」を機械論的に基礎づけることは、科学技術の発展などの現代の実 情に近いように思える。このような機械論的な科学技術は、実際に効果を上げて、ボクたちの信頼の基 底となっている。ボクたちはもはやこのような科学技術の基底なく生きていくことはできない。しかし機械 論的科学主義は強固すぎる。そのための地域的な偏向した「言語ゲーム」というパワー(暴力)ゲーム に至る。 そして超越論は科学世界の限界の倫理的な地点において必要とされるだろう。超越論(欲望論)に基礎 づけることは、世界を曖昧にしすぎ、相対主義的ななんでもありの倫理観の発散を生む可能性がある。 しかしデリダやラカンは「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」という「断絶」において、倫理的な他者性を呼 びこみ、「言語ゲーム」というパワー(暴力)ゲームを脱構築することを重視する。 「言語ゲーム」システムには、機械論と欲望論の二面性において、捉えなければならない、ということで ある。これは機械論という「身体」と欲望論という「心」に対応する。すなわち心身二元論は倫理的な要 請としも必要とされる、ということだ。(終)
583 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 15:11:20
プラグマティズムの祖であるパースの根底にあるのは可謬主義(アブタクション)である。 可謬主義とは結果から原因への推論であり、そこに誤謬の可能性がつきまとうが飛躍がある。 プラグマティズムは疑惑により行為するという飛躍の反復がいつか真理へ到達することである。 これはウィトの「規則に従う」という命がけの飛躍に近く、特徴が飛躍は経験主義的、実存主義的におこなれる、まさにプラグマティシュである。 ここからジェームス、ミードなどの行動主義がうまれてくる。パースが開いた断絶は自然主義的に埋められていく。
584 :
考える名無しさん :2007/02/03(土) 15:53:07
プ
585 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 17:02:29
ヴィトゲンシュタインがこの断絶の前で立ち止まり、悩み続けたのに対して、 プラグマティズムは実存主義的な行為によって飛躍する。
586 :
考える名無しさん :2007/02/03(土) 17:17:16
ん?
587 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 22:51:47
超越論的「言語ゲーム」システム @言語ゲーム(学習U) 人はゼロ学習、学習Tは不可能であり、コンテクストを読み込もうとする学習Uからスタートする。しかし コンテクストは決定不可能であって、「断絶」が存在する。動物や機械のようには正確な行為はできない のである。すなわち「差延」が内在している。 A事後的な「規則」化(学習T、ゼロ学習) そのための差延の反復の中から、学習T的なコンテクストと規則が見いだされる。さらには外部記憶化 されることで、ゼロ学習となる。これが数学や科学法則、あるいは法であり、言語ゲームの構造となる。 これはあくまで、根拠をもたない不完全なものであり、形而上学である。 B創造と破壊(学習V) 学習Uの反復の中で事後的に、コンテクストに再帰的になり、受動的なズラしとしての差延ではなく、能 動的なズラとしての「脱構築」が行われる。これは、ニーチェも指摘しように「遊び」であり、創造である。 このような「遊び」によって、言語ゲーム(学習U)によってダイナミズムがうまれる。しかしラカンの欲望 論において、このような意図的な「命がけの飛躍」は享楽(フロイトの死の欲動)と言われる。すなわち創 造とは(既存の安定の)破壊である。このような能動性としての享楽は「言語システム」そのものの動力 であると考えられるが、その「破壊」が生産的的なものであるか、非生産的なものであるかは、事後的に しか決定できない。
588 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 23:03:06
強度、あるいはヴィトゲンシュタイン的には「硬度」 事後的な「規則」化(学習T、ゼロ学習) > 言語ゲーム(学習U) > 創造と破壊(学習V) @言語ゲーム(学習U) 物理学、法などのアポステリオリな総合判断 A事後的な「規則」化(学習T、ゼロ学習) 数学、論理学など、カントのいう「アプリオリな総合判断」を最も硬度なものとする。 あるいはアルゴリズム B創造と破壊(学習V) 文学、詩などの隠喩の飛躍はどこから導かれるのか。 学習Uのような「言語ゲーム」からの飛躍、内在する飛躍の暴露(脱構築)
589 :
考える名無しさん :2007/02/03(土) 23:04:41
学生か?w
590 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 23:11:13
たとえば音楽とはなんだろうか。 音の混沌からいかように秩序づけられるのか。 しかしその秩序はなんらかの規則(法則)に従ってったものではない。 それは超越論的なものである。 神からの啓示によって、混沌の海から浮上してくる「美」である。 これは音楽だけに限らない。絵画でも、あるいは夕日でも、美人でも良い。 それらは混沌の海から、ただ現前化し、ボクの魂を振るせるのだ。 なぜ神は、ボクの中心にあるものを知っているのか。 なぜ神はわしづかみにすることができるのか。 神とは何者なのか。 ボクは決して一人ではない。それが「美」である。
591 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 23:15:39
ザイオン・・・言語ゲーム(学習U) マトリクス、スミス・・・事後的な「規則」化(学習T、ゼロ学習) ネオ・・・創造と破壊(学習V) スミスはネオによって内破(脱構築)されました・・・
592 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/03(土) 23:24:41
たとえば音楽とはなんだろうか。音の混沌からいかように秩序づけられるのか。しかしその秩序はなん らかの規則(法則)に従ってったものではない。それは超越論的なものである。神からの啓示によって、 混沌の海から浮上してくる「美」である。 これは音楽だけに限らない。絵画でも、あるいは夕日でも、美人でも良い。それらは混沌の海から、ただ 現前化し、ボクの魂を振るせるのだ。 なぜ神は、ボクの中心にあるものを知っているのか。なぜ神はわ しづかみにすることができるのか。神とは何者なのか。ボクは決して一人ではない。 それ故に、美とは現前化である。決して反復されることがない奇跡(1回性)である。そして反復されるこ とで、規則として定着される。
593 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/04(日) 01:47:16
「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」の不可能性、それこそが逆説的に「言語ゲーム」の成立を支えているという ジジェクのいうシニシズムは、たとえばお笑いにおいて、見いだされる。 笑いとは、不可能性が開く緊張に対する、緩和である。 たとえばボケとツッコミの関係において、ボケはあえて不可能性を開き緊張を産みだし、 ツッコミがそれを「言語ゲーム」へ回復することで緩和が生まれ、笑いが生まれる。 なにがなく見て、笑っている「お笑い」であるが、ここには断絶と回復、緊張と緩和が 行われている。このような小さなレベルで不快が生まれている。 たとえばボクたちは会話するときに、愛想笑いも含めて、社交性として笑いを挟む。 このようなレベルで不快は現前化している。 「命がけの飛躍」という仰々しい表現であるが、実際に世間話においても、 不快な緊張が生まれ、懸命に緩和しようとしているのだ。 すなわちここにあるのは不可能性を隠蔽することで、「言語ゲーム」を成立しているように ふるまうというシニシズムがある。
594 :
大爆笑 :2007/02/04(日) 03:11:44
波ヘイも他のコテと 一緒で 消えるんだろうな〜
595 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 15:26:40
人は実によく笑う。楽しいときでなくても、愛想笑いをし、社交的に笑う。 笑うとはひとつの好意であり、一つの感情といわれるぐらいに根源的である。 赤ちゃんも笑い顔を認識するといわれるが、笑うのは人間だけである。
596 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 15:32:48
笑いは間と密接に関係する。人と人の間、コミュニケーションにおける文脈(コンテクスト)であり、 コミュニケーションに間をもつのは人間だけといわれるが、人間だけが笑うとつながる。 笑いは間に対応する。間にを操作し、間に強制される。 だから笑いは政治的である。えらい人はよく笑う。笑うことで間を操作する。
597 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 15:35:02
愛想笑い、苦笑い、おお笑い、微笑み、不適な笑み、高笑い
598 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 16:04:06
苦笑い、照れ笑い、鼻で笑う、
599 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 16:06:40
すなわち「規則に従う」とは、狂気の開示を押さえようとすることにある。
600 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 16:23:08
人はなぜこれほど間を恐がるのか テレビで赤ちゃん笑顔を認識するということをやっていた。 無表情な人には笑顔をかえすらしい。生まれながらの生存戦略であろうか たとえばアイロニーはダブルバインドによる宙ずりであり、狂気開口の開示である。
601 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 16:37:18
アメリカ人はよく笑う。知らない人でも目が合えばほほえむというマナーもある。 多民族でローコンテクストな社会では、間はより恐怖であり、過剰と思えるほどに埋めることが儀礼化さている。 だから日本の電車の無表情が恐いという。 規則に従うをせき立てとするとき、このせき立てるものは間を埋めることであり、狂気を隠蔽することである。 「言語ゲーム」では間をうめるというせき立てが動力となる。 これはルーマンのシステム論に近いかもしれない。システム論の基本単位はコミュニケーションであるが、これは間があることが前提とされる。伝わなさがコミュニケーションの基本であり、システムが動作する前提である。 この間への恐怖は根源的であるだろう。
602 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 17:52:46
■人はなぜこれほど間を恐がるのか 「笑い」とは「敵意のないこと」 >> 愛嬌(あいきょう)笑い・愛想(あいそ)笑い・薄ら笑い・薄笑い・大笑い・思い出し笑い・豪傑笑い・忍び笑 い・せせら笑い・空笑い・高笑い・千葉笑い・追従(ついしょう)笑い・作り笑い・泣き笑い・苦笑い・盗み笑 い・馬鹿(ばか)笑い・初笑い・独り笑い・含み笑い・福笑い・物笑い・貰(もら)い笑い 大声で笑う 喜んで笑う 笑む 微笑(ほほえ)む にこにこする 北叟(ほくそ)笑む 〈思わず〉噴き出す 笑い零(こぼ)れる 笑い崩れる 笑い興じる 相好(そうごう)を崩す 腹を抱える 腹の皮を捩(よじ)る 破顔〈一笑〉 〈一同〉解顔 破笑 発笑 莞爾(かんじ) 婉然(えんぜん) 大辞林(国語辞書) << 人は実によく笑う。単に楽しいからでなく、様々な場面で笑う。笑うのは人間だけである。またテレビで赤 ちゃんは笑顔の対する生まれながらの戦略をもつことが知られている。相手の笑い顔を認識し、そして 笑顔をかえすことで、行為をもたれるようにふるまう。弱者としての戦略である。 またアメリカ人はより笑う。知らない人でも目が合えば微笑むという日本人にはないマナーもあるぐらい である。多民族でローコンテクストなアマリカ社会では、他者が何者であるかわからないという恐怖があ り、笑いによるコミュニケーションが重要であると言われる。だからハイコンテクストな日本で、電車にの るとその無表情が恐いという。
603 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 17:53:28
「笑い」の柔軟性 このように笑いは他者との敵意のないことを示すために行われる。しかしこのような笑いの多様性は単 にそれだけでは説明がつかない。「敵意のないこと」という笑いの意味は、コンスタティブ(事実確認的) なものであるとすれば、その多様性はパフォーマティブ(行為遂行的)なものと言えるかも知れない。す なわち「敵意のない」という「笑顔」を一つの道具として行為が行われる。 「笑い」の他に、「怒り」、「泣き」など、それぞれの感情も、たとえば嘘泣きやあえて怒るなどのパフォー マティブ(行為遂行的)に用いられるが、その中でも、「笑い」ほどに多様性があり、柔軟性をもって使わ れる表現はないという意味で特別であるように思う。 動物のコミュニケーションと人間のコミュニケーションの違いは、たとえばベイトソンの学習論による分類 がわかりやすい。動物はゼロ学習、学習Tによってコミュニケーションを行う。それに対して人間のみが 学習U、学習Vという言語によるコンテクスト(文脈)をもってコミュニケーションを行う。これは逆にいえ ば、動物はより正確なコミュニケーションが可能であるが、人間は柔軟性がある反面、動物のような正 確なコミュニケーションは不可能になっている。 「怒り」、「泣き」などが、動物でも行う表現として、ゼロ学習としてのアプリオリ性をもち、それ故に柔軟性 に乏しいのに対して、「笑い」は人間のみに可能であるというアポステリオリな柔軟性を持ち得ている。 その柔軟性がパフォーマティブ(行為遂行的)なものであるということは、すなわち学習Uのようなコンテ クストという柔軟な場を操作することを意味する。
604 :
考える名無しさん :2007/02/06(火) 18:05:02
このただの掲示板で 何がしたいの? 無意味だぜ。 真性ニートだろうけどさ。 就職。
605 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/06(火) 18:15:21
先にラカンをひき、コミュニケーションの不可能性を隠蔽することでコミュニケーションは成立しているといった。 人間のコミュニケーションがそのようなものならばまさに笑いが必要とされるだろう。すなわち「笑ってごまかせ」である。 さらには人間にのみ笑いが可能であるとすれば、逆説的に笑いの起源の可能性が推理される。 すなわち人間が言語を手に入れ、コミュニケーションの多様性を獲得するとともに破れた不完全性を隠蔽する機能として笑いは生まれた。 「笑ってごまかせ」ではなく、ごまかす、場を繕うことこそが笑いの役割である。
606 :
みんな失笑している。 :2007/02/06(火) 21:34:50
なるほど、ニートピカー君は 自分の過疎うんこ素人サイトを 過去ログで、 リンクして めめしく宣伝しているわけね激藁 かっこわりー! 2chなくなったらやばいやん。 頼るなよ、2chに。
607 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 08:22:32
せき立ては他者性にもあらわれている。世界を安全なもの、内部に回収することを望む。
608 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 08:55:02
痛いは私の感覚の記述でなぐ他者への表出である。 私的言語は存在しない。 行為としての痛いは、その体験し、表現法をマスターしていくことである。 こうしてマスターしていくのが言語ゲームである。 笑いに対応するが、笑いはより多様な用法をもつのはそれがそもそも、対コンテクスト用、対断絶対策として発生したためではないだろうか
609 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 10:35:14
■なぜ人間だけが笑うのか 「笑い」とは「敵意のないこと」 >> 腹の皮を捩(よじ)る、腹を抱える、笑い崩れる、噴き出す、大笑い、馬鹿(ばか)笑い、高笑い、愛想笑 い、作り笑い、せせら笑い、薄ら笑い、鼻で笑う、苦笑い、忍び笑い、含み笑い、不適な笑み、氷の微 笑、謎の微笑み、母のような微笑、思い出し笑い、独り笑い、照れ笑い << 人は実によく笑う。単に楽しいからでなく、様々な場面で笑顔を作る。動物の中で笑うのは人間だけで あるが、後天的な能力ということではない。赤ちゃんは良く笑い、また相手の笑い顔を認識する。笑顔を 作ることで、好意がもたれるようにふるまう先天的な弱者の戦略であると言われている。 またアメリカ人はより笑う。エレベーターなどで知らない人とともになり、目が合えば微笑む、という日本 人にはないマナーもあるぐらいだ。これは、多民族で「ローコンテクスト」なアメリカ社会では、何者であ るかわからない他者と出くわし緊張がうまれる。そのときに「敵意がないこと」をあえて表現し、その緊張 を緩和するためだと言われる。 「ハイコンテクスト」社会である日本で、そこまで他者への緊張はなく、むしろ知らない他者との間は無表 情でいることが求められる。外国人にはこの無表情が落ちつかず、不安になるらしい。
610 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 10:35:49
「正しいセックス」は存在しない 動物のコミュニケーションと人間のコミュニケーションの違いは、たとえばベイトソンの学習論による分類 がわかりやすい。動物は先天的な決定にしたがう「ゼロ学習」、あるはパブロフの犬のようにある条件下 での条件反射を学ぶ「学習T」によってコミュニケーションを行うとされる。動物がだれに教えられること なく、性関係を行えるのは「ゼロ学習」であるといえる。 それに対して人間は、「ゼロ学習」さらには、「学習T」は難しい。人は自分の置かれた状況(コンテクス ト)も共に学ぶしまうため、「学習U」や「学習V」として学ぶ。だから先天的な決定した性関係を行うこと はできない。セックスをするためには学ぶしかないのだが、単に行為として学ぶではない。人は犬のよう に路上でも、どこでもセックスすることは禁じられている。行為とともに状況(コンテクスト)を学ばなけれ ばならない。しかしそもそも学ぶべき「正しいセックス」とはどこにあるのだろうか。ゼロ学習としての性関 係を失ったとき、迷走し、靴だろうが、二次元だろうが、見境なく発情してしまうという倒錯するしかない のである。 動物の正確なコミュニケーションに対して、人のコミュニケーションが壊れていることで、多様なコミュニ ケーションが可能になっている。後期ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」で示したのは、人間のコミュ ニケーションの壊れぐわいと、それでも多様なコミュニケーションが可能であることの不思議さである。
611 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 10:36:35
「微笑み」という謎 たとえばヴィトゲンシュタインによると、「痛い!」という発話は、私の感覚の記述でなく、他者への表出 である。人間において、「痛み」とは、それを体験し、その表現法をマスターしていくことで獲得される「言 語ゲーム」としてしかない。 それが「私的言語は存在しない。」ということだ。だから先天的なゼロ学習と しての拘束された動物の表現に対して、人間の表現は、多様で柔軟性をもつ。 「笑い」も同様に「言語ゲーム」である。他者への「敵意のないこと」を示すというコンスタティブ(事実確 認的)な意味をもつとともに、「言語ゲーム」としてのコンテクスト(文脈)に会わせたパフォーマティブ(行 為遂行的)な意味をもつ。いわば、「敵意のない」という「笑顔」を一つの道具として、多様なコンテクスト で行為が行われる。 たとえば「微笑み」が謎であるのは、コンテクスト(文脈)をどのように捉えるかで、無限の意味を持ち得 るからである。それは人間のコミュニケーションが壊れて、不可能であることを元にしている。
612 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 10:37:19
誤魔化すために「笑い」は生まれた
このような「言語ゲーム」は、「笑い」以外に、「怒り」、「泣き」などすべての表現においていえることであ
る。たとえば嘘泣きとは、「泣き」という道具を活用したまさに「言語ゲーム」であるし、人は怒るときにな
かなか我を忘れることはない。どこか演技的(パフォーマティブ)である。しかしその中でも、「笑い」ほど
に、多様性があり、柔軟性をもって使われる表現はないのではないだろうか。
先にラカンを引いて、「言語ゲーム」はコミュニケーションの不可能性(断絶)を隠蔽することで成立して
いるだけでなく、不可能性があることこそが、「言語ゲーム」の成立を支えているといった。
>>
大文字の他者においても、この「断絶」の飛躍を完全に承認することはできない。「断絶」は決してふさ
がれることがなく、「言語ゲーム」の成立は、「断絶」を隠蔽し、成立しているようにふるまうことによって
成り立っている。そして「飛躍」は決して成功しない故に充実のイメージとしての「幻想」が欲望され続ける。
すなわち「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」の不可能性、それこそが逆説的に「言語ゲーム」の成立を
支えているというジジェクのいうシニシズムである。
なぜ「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」は心身二元論を要請するのか
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070202 <<
人間のコミュニケーションがこのようなものならば、まさに「笑い」が必要とされるだろう。すなわち「笑っ
てごまかせ」である。さらには人間のコミュニケーションが壊れているということ、そして人間にのみ「笑
い」があるということから、逆説的な「笑い」の起源の可能性が推理される。
すなわち人間が言語を手に入れ、多様性を獲得するとともに、壊れたコミュニケーションを隠蔽する機
能として、人間は「笑い」を作りだした。「笑ってごまかせ」ではなく、誤魔化す(場を繕う)ことこそが「笑
い」の役割であるということだ。
613 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 10:37:55
「笑い」の政治性 「痛み」、「怒り」、「泣き」などのその他の表現に比べて、「笑い」はその始まりから、「言語ゲーム」という コンテクスト操作を高い親和性をもって生まれたということであり、それが「笑い」が特別、多様な表現方 法をもっている理由である。 だから「笑い」は多くにおいて政治的である。その場の空気(コンテクスト)に親和性を持ち、「笑い」をう まく活用することで、場の空気を操作することを可能にする。たとえば、作り笑い、愛想笑いすることで、 友好的な雰囲気を作り出す。大げさに笑うことで、その場の価値を決定し、主導権に握る。薄笑いを浮 かべることで不穏な空気を作りだし、相手を不安におとしいれるなど。たとえばイジメなどで場から排除 されると、笑うことが難しくなる。
614 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 10:52:24
なぜ笑いは武器なのか
615 :
考える名無しさん :2007/02/07(水) 10:56:01
おい、今日は平日たぞ? ママのサイフから いくら盗すんでんの? 中途半端君へ。 おじさんより。
616 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 10:56:30
このような武器としての笑いの強力なものが、皮肉(アイロニー)である。 相手をベイトソンの言うダブルバインド状態におき、宙ずりにする。デリダの脱構築も同様な効果をもつ。
617 :
考える名無しさん :2007/02/07(水) 11:07:56
いつまでもそうしてらんねーぞ。 ウンコ製造機へ。 ママのカレーより。
618 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 12:24:27
空気を読むとはこわれたコミュニケーションにおいては無限後退にしかむかわない。 空気とは関わるものであり、関わらざるおえないものであり、そのときに重要ななるのかまさに笑い(ユーモア)である。
619 :
996 :2007/02/07(水) 12:34:36
なかなかいいですね。 括弧書きしてくれると、ありがたい。 カタカナは分かりづらくて。 最近オルターナティブを、覚えたばかりなのに。
620 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 12:55:58
このように考えると見えてくるのが「言語ゲーム」の引力のようなものである。 断絶を開示せずに、言語ゲームという完成をめざしたい。ラカンはこれを「手紙は必ず宛先に届く」と表現した。それは負債が支払われこと安心する着地点である。 ラカンがコミュニケーションの不可能性が言語ゲームの成立条件であると考えたのはそのためである。 人間のコミュニケーションは壊れているだから壊れていないように振るまう。 この振るまわずにおれないことこそが「言語」ゲームの引力である。
621 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 13:07:04
ウィトはなぜ壊れたコミュニケーションにおいて言語ゲームがなりたつのかを、「規則に従う」表現した。 ではなぜ人は「規則に従う」のかと考えたとき、このような「言語ゲーム」への引力があげられる。 人はコミュニケーションが成立しないこと、壊れていることが表出することを嫌い、不安になる。 たとえばこの不安を示す例として、電車の中で一人ごとごとを話す人の存在がある。 それを前に襲われる不安はそのひとがなにか強行に及ぶのではないかという恐怖に還元されない。 その独り言が暴露するのは電車で静かにしていることも儀礼的無関心という一つの「言語ゲーム」であり、またそれがいかにもろさであるか。隠蔽しているが、狂気はそこにあるということだ。
622 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 13:32:19
隣で黙っている人のことなどいちいち気にしない。しかしそれは当たり前のことではなく、互いに無関心を儀礼的に守りあうという同じ「言語ゲーム」の住人であるからだ。 独り言が開示するのは、どうして隣の人が同じ住人といえるのか。これはまさに「ヴィトのパラドクス」である。 神経症においてまさにこのようなバラドクスに陥る。だれも味方がいない。ほんとにこの椅子は大丈夫だろうか。食堂のこの食器はきれいにあらわれたのだろうか。 有名なラカンの小咄。 しかしこれは大げさなこととは言えない。最近の耐震偽装や不二家やパロマなどおそらく多かれ少なかれどこにもあることで、世の中は不完全でできているのだ。 思い出すのが、インドネシア沖地震のときに移された津波被害の瞬間の映像である。 地震後、沖に白波がたった。海岸にいる人々は気がつきそれをものめずらし毛に眺めている。そしてそれが危機であると気付いたときには遅く、波に飲まれてしまう。ほとんどの人が助からなかっただろう。
623 :
考える名無しさん :2007/02/07(水) 14:00:28
小学生のオナニー。 リーマンが時間があると このようなスレをつくってしまう。 万人オナニーである。
624 :
考える名無しさん :2007/02/07(水) 14:08:38
1のチラ裏ウゼー 死ね カス
625 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 14:08:43
ラカン的な、不完全性こそが「言語ゲーム」の成立条件とはこのように考えないといけない。 人は世界の不完全性という「真実」を開示されたまま、生きていくことなどできない。 だから懸命になかったことに無意識深く抑圧する。しかし現実界はかならず回帰する。 ラカンは「囚人のゲーム」でせき立てをあつかったが、日常におけるせき立てとはこのような狂気の隠蔽だろう。 たとえばお笑いとはボケという「言語ゲーム」をズラすことであり、狂気の開示され緊張がうまれる。これをボケは「言語ゲーム」に引き戻す。ここのコンテクスト操作において、緩和としての笑いがおこる。 ボケがスベるとき、笑われないたけでなく、ボケがうまく回収されず、一瞬、場が氷り、緊張が走るときがある。あわてて誰かつっこみ、遅れて苦笑がやってくることで場が復帰する。司会者、出演者は冷や汗ものだろう。 これは日常でもおこっている。笑いとは関係なく、コミュニケーションにおきて、かならず発生する。 それはコミュニケーションが戦いだからだ。そしてうまく回収されないぎこち悪さぱ、弱い誰にかを押しつけることで回避される。
626 :
考える名無しさん :2007/02/07(水) 14:12:31
友達と会話できない中年
627 :
んじゃ、僕もオナニーレスしますね。てっへ笑 :2007/02/07(水) 14:17:55
ママのごはんが大好きな1 底辺塗装工の面接でやたら笑顔な1 コンビニの面接でさえ落とされる1 上司がすべて年下、高校生先輩バイトに敬語を使う 底辺の1 リストラにあって放心状態の1 樹海にいく1 すべて真実
628 :
オナニーレス :2007/02/07(水) 14:29:10
携帯がずっとならない 遊びにいくのはいつもひとり エロビオナニーする 鼻糞ほじりなから駄文レスする ママのごはん、という言葉に喜ぶ 素人童貞 ブサイクチビ若ハゲ 食べ方が豚汚い 未来は浮浪者かと実は悩む友達の誘いがまったくない年賀ハガキはゼロ 死んでも誰も困らない 友達いない1
629 :
究極 :2007/02/07(水) 14:33:51
結婚できない1
630 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/07(水) 15:31:52
「言語ゲーム」の引力において内部が形成されるなかで内部では権力闘争が生まれざるおえない。 精神分析的には、闘争を制圧し秩序をもたらすのが言語ゲームという去勢である。
631 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 08:50:46
ぴかぁ〜さんを馬鹿にするな。ほ んとのぴかぁ〜さんは知的でカッコイイんだぞ。 女にも不自由してない。
>631 誤)女にも不自由してない。 正)男にも不自由してない。
633 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/08(木) 12:14:39
ウィトのアスペクト論は「〜として見る」は認識に於いても行為が作用することを明らかにした。 言語ゲームの認知的、生理的な深さを示す例といえる。 先に、言語ゲームは狂気の隠蔽でなりたつ。これは言語レベルであり、後天的な浅さを感じるが、 先の笑いの例で示したのは笑いと後天的なコンテクストの親和性と、そして笑いの人間だけという浅い先天性と関係でみえる、笑いとコンテクストの自然主義的、認知的な側面である。
634 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 12:30:43
さっすが〜 ぴかぁさんカコイイ
635 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/08(木) 12:34:11
ウィトゲンシュタインの超越論(認識論)の自然主義化というキーワードは、デリダ、ラカンにもつながる。彼らはフロイトの弟子であり、科学なのである。 より踏み込んだのクワインの自然化された認識論により顕著である。 しかしこのクワインの踏み込みが非難されるのぱウィトが示したのがまさに自然主義では決して認識論は説明されないことである。 それはウィトのパラドクスががそのまま人工知能の不可能性であるフレーム問題であることからわかる。 だからどどまる地点としての超越論の自然主義化があるのだ。
636 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/08(木) 12:39:58
ウィトの魅力はまさにそこにある。あの絶妙な立ち位置。それはデカルトがたち、カントが立ち、フロイトがたった位置であり、ラカン、デリダの位置でもあるのだろう。
637 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/08(木) 14:58:45
たとえばコンサートの終盤、感動しみんな立ち上がって、手をたたいている。 しかしはたしてほんとうに隣の人は感動ししているのだろうか、あるいは私と同じ感動をあじわっているのだろうか。 問題はクオリアはいかに共有されるのか、ということである。 その意味でコンサートはよくできた感動共有装置である。 閉鎖空間、感覚をマヒさせる音量、かた寄せる他者との距離など、群集心理として他者に同期するようなマインドコントロールが起こりやすい心理学的な場である。 最近、同期するという意味でミラーニューロンが発見されて生理的な裏づけがおこなわれたが、テレパシーではないのでかなり限定的なものだろう。
638 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/08(木) 15:10:07
このように同期が困難であるならば、ボクたちはなんと孤独なのだろうか。 たとえば映画をみて感動したとき、興奮さめやらずつたえた仕方がなくなる。しかしいくら語ろうがつたわらないもどかしさが残るが、 あるとき同じような感動を味わったという他者にでくわすと、興奮し話がはずむ。
639 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/08(木) 15:32:55
たとえば夕日の美しさへの感動にもこのような共感が働いているのではないだろうか すなわちこの美しい夕日をつくった人はまったく同じ感性の持ち主だ。 あまりの美しさに、偶然でなく、意図的なものであるという錯覚である。 これはウィトの私的言語は存在しないにつながる。私的な「美しさ」存在しないという超越論である。 同期はいつも超越論的に働いている。仮にこのような超越論的な同期がはたらなければ、人工知能のフレーム問題のように、無限の行為の可能性の前にフリーズしてしまう。 とりあえず他者をまねることで人は行為を行うことができるのだ。
640 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/08(木) 15:40:11
このように考えるとアイロニーの効果が見えてくる。アイロニーはコンテクスト二重帰属、ダブルバインドであり、同期を中断させる。まさにフリーズさせる。 笑いはこのようなアイロニーへの扉をあけやすい。「行為をもつ」という笑いのコンスタティブな意味をばっしながら、様々な発言をくりだす。 そのことばに同期して発言しようとすると、笑いへの同期がジャマをする。
641 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 15:55:46
639>とりあえず他者をまねることで人は行為を行うことができるのだ。 そのような見解では 自傷行為のように自己完結性を有した行為を 説明できないのでは?
642 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 16:27:25
哲学って 分かりやすく 書いたら 価値がなくなるの?
643 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 16:31:50
自演でぴかあー援護か、 おっちょくりで馬鹿にされているのにぴかあーは勘違いで喜んでいるかだな。 ずげー [おっちょくりで馬鹿にする] 童貞ぴかぁー
644 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/08(木) 18:56:56
>>641 ヴィトゲンシュタインなら、自傷行為は「言語ゲーム」だというでしょう。
自傷行為は他者に向けて行われる。
645 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 19:05:42
キターー(゚∀゚)ーー!! ツヅキキボン
646 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 19:13:40
ほれっ つづき 私の熱くドロドロになった部分に音を立ててキスしながら、縛っていた手と目隠しのスカーフをはずすS木さん。 「K美さんのオマ○コをしゃぶっているところを見てください!」そう言うと私のお尻をさらに高く持ち上げて私のオマ○コに長い舌を這わせます。 私は悦びに声を上げながらパンティのパックリと割れた部分をさらに広げました。 「もっともっとキスして!指で中をかき回して!」とおねだりします。 私は片手でオマ○コを左右に広げ、空いた手でオッパイを、乳首をこね回します。 彼の指が入って来て中を激しくこすります。指を激しく動かされながらクリトリスにされる熱いキスで私は何度も何度も達します。 「あああぁぁぁ、いやいや!逝く逝く!たまらない!もう止めてぇぇぇ!」大きな声が自然に出てしまいます。 私は両手で自分の太ももを持ってこれ以上は広がらないほどに足を開きます。彼は中指に加えて人差し指も中に入れてきます。 指のピストンとクリトリスやオッパイへのキスで私は堪らなくなりお願いします。 「ねぇ、S木さんの大きいのをオマ○コに頂戴!」彼は何も言わず私を抱きかかえ(この年になってお姫様ダックしてもらえるなんて!) ベッドルームへと続く引き戸を開きます。リビングの弱い明かりが差しこむクィーンサイズのベッドにやさしくおろされます。 パンティをやっと脱ぎました。早く、早く入れてほしい。 この大きなおちんちんが欲しい!「ね、入れて」「僕のペニスが欲しいんですね?このでかいペニスを入れて欲しくてたまらなかったでしょ?」「 そうよ、あなたのペニスが、その大きくて固くていやらしいペニスをオマ○コに入れてちょうだい!」と彼に抱き付きます。 彼は固いペニスを私のオマ○コの周りにこすり付けます。彼のいやらしいお汁と私の液でヌルヌルになってる。 あぁ、何年振りかしらカチカチのおちんちんを迎え入れるのは!彼が「さぁ、入れますよ」といいながら大きな亀頭を中に入れてきます。「あぁ、大
647 :
釣るだましおっちょく例 :2007/02/08(木) 19:21:12
やめれ。 ぴかぁーは すごいんだぞ! オナニーなんかしないぞ!
648 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 19:36:42
貴様ら、哲学板随一の良スレになんということを
649 :
釣り2 :2007/02/08(木) 19:37:56
そうだぜ。 俺は仕事がある。 (^-^)/~~
650 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 19:45:38
ばっきゃろー ぴかぁー様見習って 親に寄生して ただのひとつの過疎スレを五年間意味もなく 上げてみろ! 馬鹿にしかできんぞ! 彼は親が死んだらそのまま樹海にいくぜ。 葬式も誰もしんだことに気付かないぜ。 こんな廃人ニート馬鹿におまえらなれよ!
651 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 19:45:36
ぴかぁ〜さんは浮世の仕事ごときものに執着するきみらのような小市民ではないのだ。
652 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 19:48:06
このスレがりっぱなオナニーである件。
653 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 19:49:05
よーし。 俺も仕事やめて 年金貧乏親に寄生するぜ! 俺も毎日過疎スレあげつつげるぜ。閉鎖まで。 親に飯つくるらせて 金とったるぜ。 しょうしみんになったるで! ぴかぁー見習ってよ!
654 :
びかぁーの親 :2007/02/08(木) 19:51:18
あんた泣 周りを糞ニートするのはおやめ。 それだけは。 黙って自殺して。殺したら私らが刑務所よ。 甘えんなよ。
655 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 19:52:34
甘えたい
656 :
予想 :2007/02/08(木) 20:01:55
三年後にびかぁーは 頭狂って終りだな。 すでに総失病ぼいな。
657 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 20:11:25
総失病って何WWWWWWW
658 :
ド田舎職安年下面接官 :2007/02/08(木) 20:11:47
ぴかぁーは無職歴何年目だ? いくつでニートしてんの? 仕事ほしいか? 皿洗いでっきぺか? 上司は高校生だけどいいべなぁ?
659 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 20:14:02
おまいらナニ僻んでんだよ。悔しかったらここに相応しいレベルのレスをしてください。
660 :
考える名無しさん :2007/02/08(木) 20:15:39
なんだっぺよ〜
661 :
光清和源氏 :2007/02/08(木) 20:16:17
そだね
662 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 00:22:26
この過疎板10人ぐらいしかいねーな。 板無くなるぞw
663 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 00:26:10
664 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 01:55:10
なぜそういいきれる?w
665 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 02:50:29
>>664 2ちゃんねるが閉鎖されると騒ぐ奴はオマエか?
666 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 09:50:38
さて今日もレベルの高い書き込みをお願いします。 ではぴかぁさんドゾー つ
667 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/09(金) 10:31:52
人工知能の問題は、人工知能にいかに皮肉をいわせるか、であるともいえる。 それは高度な文脈操作がもとめられるからだ。
668 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/09(金) 12:31:54
なぜこれが超越論的なのかは、固有名の議論にもつながりますが、状況が定記述の束に還元されないからです。 しかし驚きなのがネットコミュニケーションである。ここではいかなる超越論的な同期がおこなわれているのか。コミュニケーションが成立しているのか。 それは奇跡としかいえない。
669 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/09(金) 14:14:36
■なぜ創造は可能なのか
「なぜ「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」は心身二元論を要請するの」
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20070202で示した 「超越論的「言語ゲーム」システム」を改訂する。
1) 言語ゲーム(学習U)
人はゼロ学習、学習Tは不可能であり、コンテクストを読み込もうとする学習Uからスタートする。言語ゲー
ムは、共同体というような大きな概念であり、内部には流動的なコンテクスト(文脈)が存在する。しかしコン
テクストは決定不可能であって、「断絶」が存在する。動物や機械のようには正確な行為はできないのである。
このような「断絶」はフリーズを引き起こすために、「前のめり」な欲望による超越論的な同期、すなわち「み
んながしているから」という「せき立て」によって、「命がけの飛躍」が試みられる。「断絶」において短絡しつ
づけ「差延」する。
2) 事後的な「規則」化(学習T、ゼロ学習)
そのための差延の反復の中から、学習T的なコンテクストと規則が見いだされる。さらには外部記憶化さ
れることで、ゼロ学習となる。これが数学や科学法則、我々の生存を確保する強固で快適な建造物、様々
な社会システム、そして規則、法などである。そしてこれらも超越論同期、「みなが信じているから信じる」と
無意識の安心に支えられているということだ。
670 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/09(金) 14:15:32
3) 創造と破壊(学習V) 学習Uの反復の中で、コンテクストに再帰的になり、受動的なズラしとしての差延ではなく、能動的なズラと しての「脱構築」が行われる。これは、ニーチェも指摘したように「遊び」であり、創造であり、発想の転換である。 創造とは(既存の安定の)破壊である。その「破壊」が生産的的なものであるか、非生産的なものであるか は、事後的にしか決定できない。このような「遊び」という創造と破壊によって、言語ゲーム(学習U)にダイ ナミズムがうまれる。 しかしこのような意図的なズラしは、なぜフリーズせずに行われるのか。すなわち創造はいかに可能なのか。 ラカンの欲望論において、このような意図的な「命がけの飛躍」はフロイトの「死の欲動」と重ねられ、享楽と いわれる。それはまた他者へと向かう「前のめり」な欲望をもとに考えられる。超越論的な同期は決して欲 望を満足させることができない。そのために人は彼岸(禁止)を目指さずにはおれない。 ここで示唆的なことは、創造は禁止を目指すということだ。すなわち創造はまったくの一からの創造ではな い。マルクスが指摘したように貨幣交換は共同体と共同体の間で生まれる。それはある共同体の彼岸であ り、共同体の外ではない。当事者にとってはある種、満足を目指した結果、あくまで当たり前のことにように 「言語ゲーム」の延長上に創造は行われる。 たとえば「遊び」は、「ほらできたよ」というような誰かに(超越論的他者)に褒められるように行われる。すな わちそこに「前のめり」な欲望による超越論的な同期が働いている。
671 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/09(金) 18:15:46
エジプト画など古い絵への違和感は遠近法のなさである。見えるままに書くというルネサンス以降の人間主義は芸術に革命を起こしたが、 近代の理性主義の見えたままという現前性への懐疑よりもはやく、ひとつの拘束となり解体された。 それは写真の発展と関係すると言われるが、見えたままが決して真実などでなく〜としてみるという間主観的な行為であり、写実性は社会的な拘束である。 たとえばマンガがリアリティを与えられるのは走っている、泣いているなどそこに表現のルールがあるからだが、写実主義もどうような規則に従っているからだけだ。 美術はより自由で創造的な表現が可能なはずである。 このような既存の言語ゲームの脱構築の有名なものがデシャンの「泉」である。 しかしある意味で現代美術は脱構築をめざしすぎている感も否めない。 コンスタティブよりもパフォーマティブにむかい、見るものを宙ずりにすることに重きがおかれすぎている。 さらにいえば社会全体がパフォーマンス化、劇場化している。とにかく消費の流行が早い。人々は次々に欲望を求めている。
672 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/09(金) 18:36:35
最近量販店にいくと薄型の大型がならびすごい迫力である。ゲームにしてもリアルな画像がたのしめる。 このような視覚メディアの発達は人間の感性を変容させるというような言説があるが、疑わしいのは、端的に人はなれてしまうからだ。 これはリアリティとはなにかに関係する。それはコンスタティブでなく、パフォーマティブにおいてである。 ヒント ジュラシックパークの魅力と続編魅力のなさ。じじぇくのリアリティ論。
673 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 19:09:43
ぴかぁ〜さん、じじぇくのリアリティ論とはどういうものですか? 是非、ご高説を賜りたく、宜しくお願い致します。
674 :
短パン :2007/02/09(金) 19:32:01
すわw こ、こやつ。かつて「ぴかぁー」とか言ってたうんこチン? (ちょっと、待て。仕方がないから、一応目を通してやる。。。) プロファイリング中ー・・・・・
675 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 19:40:06
676 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 19:42:59
677 :
短パン :2007/02/09(金) 19:43:12
んん。。。(いよいよ、内容が意味不明だ。。。) ・・・さて。 同一人物かどうか、と問われれば、俺的にも「それ臭い。」と言っておこう。 けど、、、、んまぁ。いんでね? 中の人は隠れているつもりでいるらしいし、ほっといてやんなよ。。。 それも大人というもの。っさ。
678 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 19:44:33
短パンさんって新顔だよね
679 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 19:45:28
短パンさんて純一?
680 :
短パン :2007/02/09(金) 19:53:47
>>675-
>>676 なるほどね。。。なんとなく、ぴかーの人気に嫉妬w
(しかし、古いのしかHITしてねぇな。。。)
結局。こいつにとっては、
「本来ならば、ゴミ箱へ、丸めて捨てたであろう原稿用紙を、君達愚民に、みせてやろう」
的、クソ解釈なんだろぅな。(行間が、それを、ほざいてる。)
んん。ま。好きにさせとけば?(あんまり、関係ないっぽいし。)
681 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 19:56:18
>680 ぴかぁ〜さんは昔から哲板のみんなに愛されているアイドルだよ みんなそれをストレートに書かないだけ
682 :
短パン :2007/02/09(金) 20:05:38
えっ?(哲学板って、こんなに飛脚レベルレスだったっけ?・・・ちと、焦ってるw)
>>678 う・・・・うん。新顔か、、、っつか。なんだろw「新人で〜すっ。」(よくもまぁ、ぬけぬけと。)
>>679 〜〜〜〜〜。これも、なんて答えたらいいのか、よく解らない問いなんだよな。。。
いぁ。否定文なら、モチロン。別の人がそれぞれ打ち込み入れてるから、
カンタンに書けるんだけど。。。。。
(いや。真実ほど、伝わり難いのかもしれんにょ。)
難儀だねぇ〜。
(・・・っつか、8レス縛りだから、そんなに連投できへんし。)
っつか。また、くそぴかーに癇癪起こされて、削除依頼されんのも、面倒臭いので、
ここまで。
じゃ。また、何処かで。ノシ
683 :
考える名無しさん :2007/02/09(金) 22:56:06
は〜ぁ 短パンってもっと賢い奴だと思っていた。 こんな見当違いのこと言う奴とは… がっかり
684 :
考える名無しさん :2007/02/10(土) 11:09:13
ということで、天才ぴかぁさん今日も張り切って登場です。
685 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/11(日) 00:54:23
風邪を引くことは多々ありますが、そのときの体調の変化はなんとなく反復として わかっています。しかしいままで経験したことがない体長変化というものがあります。 以前、始めて食中毒になったときに、なにが起こったかわかりませんでした。 はじめての経験でそれが最初、病気であることに気が付かず、なんらかの不安のようなものと 思いました。その後、激しい下痢によって、食中毒と思いましたが、 それでもいままで経験したことがないような体調の変化に、恐怖しました。 それは医者にいって、その変化を、実際に食中毒として名付けられ、 医者にとっては良くある経験であることとして承認されることで、 ものすごく気持ちが楽になりました。 実際、人はそうそうそのような新たな体調を経験することはありません。 それは、自分の体ですが、心身二元論的に身体が解離した、コントロールされない とことを感じる恐怖です。 たとえばこのような解離感は、薬を飲んだときに起こります。 ボクは風邪を引くと、とっとと薬を飲んで、治しますが、 薬が効いて、発熱が一気に下がる経験は、身体的な疎外とともに、 ある種の快感があります。快感とは、うすのろの身体がいとも簡単にコントロールされる ことの快感です。 実際、ここにある心身二元論は錯覚なのでしょう。 身体に聞いていることは、精神への影響を与えているだろうからです。 そこでもこの快楽が、機械論の欲望の本質があるのではないでしょうか。 このうすのろを、コントロールしたい、ということです。 そしてそれは感じることはできないということでしょう。
686 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/11(日) 01:13:41
結局のところ、誰もが自らの不甲斐なさを感じています。 それは徹底的に独我論的なものです。 他者もまた似たような問題を抱えているだろうからです。 しかし自分にとって自分を体験することは特別であり、それしかありませんから、 誰もが、自らの思い通りにいかなさ、「理屈ではわかるが・・・」を抱えています。 そのようなジレンマに対して、機械論の欲望は働きます。 たとえば車を運転することの快楽の一つもここにあるでしょう。 車によって体験したことがないような速度をコントロールすることによって、 うすのろな日常から脱出としての、超越感を味わうのです。 そしてこのような超越感は宗教的なものとは異なるのは、 近代的な科学技術という数量化に支えられているということです。 ある対象を数量を還元することによって、それは無限の可能性をもちます。 人は移動はあまり速度で考えません。人が歩く、走るといことは 先天的に固定されているものであって、単一として存在します。 しかし速度という概念が示すのは、一次元的な世界です。 (歩く)<自転車<車<飛行機<ジェット機・・・とような世界を提供します。
687 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/11(日) 01:15:14
このような数量化に身体が組み込まれることで、心身二元論が作動し、 そして「延長」を持ち得ることで、欲望が生まれるのです。 これはとても構造主義的な考えです。 まさに数量化というシニフィアンによる差異によって、大文字の他者の欲望が 生まれ、欲望するということです。 数量化というのはまさに欲望の生まれる場であるわけです。 たとえば学力による競争社会と言われますが、これもどうように数量化によって 欲望が生まれています。 知性という本来数量化されないものを、一次元的な価値(数量というシニフィアン)に 還元することで、まさに無限の数量という終わりなき欲望の対象が生まれ、 まさに競争が想起されるのです。 このような競争は本来人間がもつものでなく、数量化というシニフィアンの差異に 人はただ無意識に従っているという構造主義的なものです。
688 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/11(日) 01:38:55
構造主義の先駆けになった、レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」の驚きは、 その構造が数学的(群論)であったことです。 構造主義的なシニフィアンとは、数量化においてもっとも重要であるのは、 ないでしょうか。 ラカンは「無意識は言語(ランガージュ)のように構造化されている」と言いましたが、 「無意識は(多くにおいて)数字のように構造化されている」ということもできるのでは ないでしょうか。 現代人にとっては、世界を数量的に見るということは、もはや染みついているのでは ないでしょうか。すなわち「延長」として見るということです。 「延長」とはデカルトの物理空間であり、「延長的実体」と「思惟的実体」という心身二元論です。 そして「延長」は唯物論であり、機械論です。
689 :
考える名無しさん :2007/02/11(日) 08:14:26
こじつけというやつだな
690 :
オタマジャクシ :2007/02/11(日) 10:58:00
こじ付けでもないと思う。 でも、二元論に陥りたくは無いです。
691 :
考える名無しさん :2007/02/11(日) 11:27:28
雑音は意に介さずひたすら自己の思い込みを深めるパラノイアぴかぁさんドーゾーー
692 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/11(日) 13:17:24
■なぜ無意識は(多くにおいて)数字のように構造化されているのか 身体という「うすのろ」 風邪を引くことは多々ありますが、そのときの体調の変化はなんとなく反復としてわかっています。しか しいままで経験したことがない体長変化というものがあります。以前、始めて食中毒になったときに、な にが起こったかわかりませんでした。はじめての経験でそれが最初、病気であることに気が付かず、な んらかの不安のようなものと思いました。その後、激しい下痢によって、食中毒と思いましたが、それで もいままで経験したことがないような体調の変化に、恐怖しました。 それは医者にいって、その変化を、実際に食中毒として名付けられ、医者にとっては良くある経験であ ることとして承認されることで、ものすごく気持ちが楽になりました。実際、人はそうそうそのような新たな 体調を経験することはありません。それは、自分の体ですが、心身二元論的に身体が解離した、コント ロールされないとことを感じる恐怖です。 たとえばこのような解離感は、薬を飲んだときに起こります。ボクは風邪を引くと、とっとと薬を飲んで、 治しますが、薬が効いて、発熱が一気に下がる経験は、身体的な疎外とともに、ある種の快感がありま す。快感とは、「うすのろ」の身体をいとも簡単にコントロールできる快感です。
693 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/11(日) 13:18:16
機械論の欲望 誰もが自らの不甲斐なさを感じています。それは徹底的に独我論的なものです。他者もまた似たような 問題を抱えているだろうからです。しかし自分にとって自分を体験することは特別であり、それしかあり ませんから、誰もが、自らの思い通りにいかなさ、「理屈ではわかるが・・・」を抱えています。 そのようなジレンマに対して、機械論の欲望は働きます。たとえば車を運転することの快楽の一つもここ にあるでしょう。車によって体験したことがないような速度をコントロールすることによって、「うすのろ」な 日常から脱出としての、超越感を味わうのです。 そしてこのような超越感は宗教的なものとは異なるのは、近代的な科学技術という数量化に支えられて いるということです。ある対象を数量を還元することによって、それは無限の可能性をもちます。人は移 動はあまり速度で考えません。人が歩く、走るといことは、先天的に固定されているものであって、単一 として存在します。しかし速度という概念が示すのは、一次元的な世界です。(歩く)<自転車<車<飛 行機<ジェット機・・・とような世界を提供します。 身体と精神に境界などなくても、このような数量化に身体が組み込まれることで、心身二元論が作動 し、そして「延長」を持ち得ることで、欲望が生まれるのです。「延長」とはデカルトの物理空間であり、 「延長的実体」と「思惟的実体」という心身二元論です。そして「延長」は唯物論であり、機械論です。
694 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/11(日) 13:19:03
無意識は(多くにおいて)数字のように構造化されている 現代人にとっては、世界を数量的に見るということは、もはや染みついているのではないでしょうか。た とえば学力による競争社会と言われますが、これもどうように数量化によって欲望が生まれています。 あるいは、資本主義という貨幣価値化の世界とは、1万円もつことは、10万円を望み、そしてそれは終 わりなき数字を導きます。数量化というシニフィアンによる差異によって、大文字の他者の欲望が生ま れ、欲望するということです。数量化というのはまさに欲望の生まれる場であるわけです。 知性という本来数量化されないものを、一次元的な価値(数量というシニフィアン)に還元することで、ま さに無限の数量という終わりなき欲望の対象が生まれ、まさに競争が想起されるのです。このような競 争は本来人間がもつものでなく、数量化というシニフィアンの差異に人はただ無意識に従っているという 構造主義的なものです。 構造主義の先駆けになった、レヴィ=ストロースの「親族の基本構造」の驚きは、その構造が数学的 (群論)であったことです。構造主義的なシニフィアンとは、数量化においてもっとも重要であるのは、な いでしょうか。ラカンは「無意識は言語(ランガージュ)のように構造化されている」と言いましたが、「無 意識は(多くにおいて)数字のように構造化されている」ということもできるのではないでしょうか。
695 :
考える名無しさん :2007/02/11(日) 17:18:57
よし、ぴかぁかえるよ、今日はもういいだろ? 大好きな菓子パンあげるからな。
696 :
考える名無しさん :2007/02/12(月) 11:31:22
やることもいくところもなく、訪ねてくる友もなくひたすらキーボードの前に居座り続ける自称賢人ぴかぁさん、 本日も狂気の連貼りレッツゴーでございます。
697 :
考える名無しさん :2007/02/12(月) 17:12:48
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698 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/12(月) 17:56:56
ジジェク的シニシズムにおいては、断絶があることが言語ゲームを維持していることであるが、 さらに断絶さえも事後的なものであるとかんがえられる。 言語ゲーム設立は内部としての言語ゲームと外部として禁止された断絶を生み出す。 これはオートポエイシス的かもしれない。作動がシステムをうみ、内外はない。
699 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/12(月) 17:58:23
ならはウィトの行為に従うとは、オーポエ的な作動である。
700 :
考える名無しさん :2007/02/12(月) 18:01:47
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701 :
考える名無しさん :2007/02/12(月) 18:09:06
偽問題です 無意識が数学のように構造化されているのではありません ヒトの脳は知覚するすべての現象を構造化しようとする 働きがあるのだというだけです そこに意識だとか無意識だとかいう屁理屈を いれる必要ないのです つまり、ヒトが生み出すすべての現象は脳の働きを 写像したものにすぎないわけです その写像=知覚からの情報をみて=思考し、無意識が構造化されているだなんて 本末転倒な笑い話を繰り広げているのが2ちゃんねらーなわけですね
702 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/12(月) 18:31:07
>>701 脳の働きを写像するとはどのようなことでしょうか。
人は脳で考える、以上のことを言っているように思えないのですが。
703 :
考える名無しさん :2007/02/12(月) 19:09:47
よかったな、大先生、久しぶりに相手してくれる奇特なかたがいて。
ヒトの環境世界は脳機能から生じた写像でしかないわけです なぜなら、認識可能な環境世界は写像でしかなく、 その写像世界とのインタラクションとして行為や知覚も 脳機能から生じた写像なのですから とうぜんより強い構造化=脳化へと向かうわけです われわれは構造化が運命づけられた写像世界に閉じ込められているわけです これを打ち破るには脳を壊すしかないわけです 壊れた脳の写像世界Bのヒトは、正常なAの世界では適応できなくなります
705 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/12(月) 21:18:53
>>704 ・脳の働きを写像するとはどのようなことでしょうか
ただの独我論?アスペクトは?
・なぜそれが強い構造化に向かうのでしょうか。
・構造化とは具体的になにをいっているのですか?
706 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 00:03:52
世界を知覚することがすでに構造化なのです 知覚=構造化とおぼえましょう 赤ちゃんも生得的に世界の構造化=パターン認知しています これわ実験で確かめられているハードファクトです ですから、知覚する時点で構造化なんですから、 構造化からぼくたちは逃れられない宿命なのです そもそも生命体の存在そのものが、ネゲントロピーという 構造化なんですから。
707 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 00:22:37
人間はある形が三次元でみえます しかし、視覚情報は網膜上はただの二次元なのです そこで、左右の視覚情報を一度バラバラに分解して視覚野に送ります そこで奥行き、色、形、動きなどの情報を一つものとして構造化することで はじめて立体的な三次元像として認識されるのです このように、五感を通して脳に入力されるあらゆる情報は、 構造化される定めなのです 脳を中継点として情報をループさせるかぎり、その構造化作用により 人が働きかける環境も構造化される定めなのです
708 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 00:46:27
>>706 べたな指摘をすると、外部からの光学情報と私たちが見るものに
相関関係がないことは、常識です。オートポイエーシスを出すまでもなく。
すなわち人間の生理構造に、ある種の処理方法(あなたのいう構造化)が
あるとしても、それを認識論に直結できないことが問題なわけです。
そこには「断絶」がある。
精神分析的にいえば、一番は性関係です。
人間のこの多様な倒錯(フェティシズム)を、その「脳の構造化」から
いかように導くのか、ということです。
精神分析は、それを言語(シニフィアン)の構造化にもとめるわけです。
ゲーム脳など、文化を脳機能に還元するのは、カテゴリーミステイクであり、
自然主義的誤謬なのです。これが、教科書的な脳至上主義への反論です。
709 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 01:01:27
すなわちあなたのいう脳還元、至上主義こそが、私が
>>692-694 でいった、
「機械論の欲望」そのものなのです。
身体を機械へと還元し、この「うすのろ」から解放されたいという欲望です。
あなたの無意識は数字という言語(ランガージュ)のように構造化されているのです。
710 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 01:37:03
構造化されたものしか認識出来ません なぜなら、知覚は構造化されているからです すべての認識(構造化)は行為であり すべての行為(構造化)は認識なのです
711 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 01:41:51
風邪を引くことは多々ありますが、そのときの体調の変化はなんとなく反復としてわかっています。しか しいままで経験したことがない体長変化というものがあります。以前、始めて食中毒になったときに、な にが起こったかわかりませんでした。はじめての経験でそれが最初、病気であることに気が付かず、な んらかの不安のようなものと思いました。その後、激しい下痢によって、食中毒と思いましたが、それで もいままで経験したことがないような体調の変化に、恐怖しました。 それは医者にいって、その変化を、実際に食中毒として名付けられ、医者にとっては良くある経験であ ることとして承認されることで、ものすごく気持ちが楽になりました。実際、人はそうそうそのような新たな 体調を経験することはありません。それは、自分の体ですが、心身二元論的に身体が解離した、コント ロールされないとことを感じる恐怖です。 たとえばこのような解離感は、薬を飲んだときに起こります。ボクは風邪を引くと、とっとと薬を飲んで、 治しますが、薬が効いて、発熱が一気に下がる経験は、身体的な疎外とともに、ある種の快感がありま す。快感とは、「うすのろ」の身体がコントロールされている快感です。 ここで示されているのは逆説に、ボクたちがいかに深層においてもコントロール化あるか、ということです。 ヴィトゲンシュタインなら「私的言語は存在しない」であり、デリダなら「エクリチュール」というでしょう。 未知なものが如何に恐怖であるか。それ故に引きつけられるか。
712 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 01:50:54
たとえば始めての薬を飲んだときに、自分の体が自分でないような、どこに連れて行かれるのだろう という恐怖があります。身体への直接性には特別な感覚があります。
ちなみに文化を脳機能に還元とは? 知覚情報が脳を通過することで、人の営みが生じるのですから、 産出されるものは脳癖=人臭さを潜在させています 人工物と自然物の違いは一瞬でわかりますよね? つまり、写像世界意味論では、文化は脳の糞です
714 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 01:59:13
>>713 知覚情報が心を通過することで、人の営みが生じるのですから、
産出されるものは心癖=人臭さを潜在させています
人工物と自然物の違いは一瞬でわかりますよね?
つまり、文化は心の糞です
なにか違いがありますか?
形而上学とはこういうものです。
偽問題です こころは身体と脳と写像世界との間における 情報のハイパーカップリングにより産出される 排出物ですよ
716 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 02:07:12
>知覚情報が脳を通過することで、人の営みが生じるのですから、 なにもいっていないのですよ。 だから構造化とは具体的に脳の中でどのように行われているのか。 上履きフェチの人は、脳のどのような構造化によって、上履きに性欲を かき立てられるのでですか?と聞いているのです。 あなたは、脳の中で行われている何を知っているというのですか。 脳を信仰して、なにかを言っているつもりになっているだけですよ、と言っているのです。
717 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 02:10:59
ブルーバックスのテクニカルターム信仰による世界征服は、 青少年が誰もが一度は陥る幼児的な全能感です。
718 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 02:14:53
人間にとって必要不可欠な全能体験だけどね
719 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 02:21:00
どこまでいっても世界を知ることなどできないわけで、 どこかで誰もが信仰に着地する。 >知覚情報が脳を通過することで、人の営みが生じるのですから、 これはあまりに根を上げるのが速すぎる。 もう少し努力して、遠くへ飛ばないと、議論以前ですね。
脳の階層構造にヒントがあります つまり、脳内コミュニケーションですね 脳内部で、爬虫類脳(反射)とアニマル脳(情動)、 おサルさん脳(欲望)、ヒト脳(知性)がバトルロワイアルをしているわけですね この脳内階級抗争とそれに刺激された身体(内分泌・免疫系)と 写像世界から入る情報が 脳内で渦を巻き起こし、ある点で収束したときに排出物として産出されるのです
ブルーバックスなめるな。もっと詳しいぞ。
ぴかあさんどうしましたか?
ポイントは情動です 情動はヒト脳のコントロールをすり抜けるからです つまり、黒幕です ヒト脳がつかまえる情報=意識なわけですが そのつかまる手前で情報が写像世界に漏れてしまうわけです いわばビオンのアルファ機能です そうすると、漏れた情報はキャッチ出来ませんから、 写像世界からのレスポンスにより事後的に知るわけですね これが、他者に向けられた無意識の招待です
724 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 09:22:25
言いたいことは「無意識」を使わなくても、無意識は説明できるということでしょうか。 無意識を脳の一部にある器官と考えるのではなく、神経症において起こる作用を説明するために、 導入された概念として理解した方が良いでしょう。 フロイトが発見した作用とは、ズレと事後性です。 外部の体験は、まず無意識に到達し、その後、意識(自我)として浮上します。 そして一部は抑圧され、意識に浮上しません。 そして事後的に、隠喩的にシニフィアンとして浮上するのですが、 それは無意識の痕跡そのものとはズレています。 たとえば、夢とは、体験の一部が抑圧され、しばらく立ってから、体験とはズレた形で回帰したものです。 だからこのズレと事後性を、無意識でなく、脳の一部だと、いったところで、なんの意味もありません。
725 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 09:31:53
>>723 この説明では、ズレと事後性が説明されません。
漏れるのならば、なにものも隠されません。
またすり抜けでは、反復して回帰しません。
動物と人間の違いは、動物が体験と刺激が直結しているのに対して、
人間は、ズレと事後性に言語という間接物が入ることです。
この間接物が多様な表現を可能にあるわけです。
たとえば人の多様な性癖(フェティシズム)は、幼児時代の体験の
回帰であり、単に抑圧されたものそのものではなく、シニフィアンの衣を着て、
回帰するために多様なのです。
726 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 09:52:01
フロイトの無意識がその後に多大な影響を与えたのは、 体験(外部からの情報)と意識(自我)が、事後的でズレるという「断絶」が あるのに、ボクたちは世界を生きていけているという驚きです。 この断絶は、言語的、すなわち文化的なのですね。 あなたとマサイ族の見る「赤」は違うのであり、あなたとボクの見る赤は違うのです。 あなたがなにを言おうと、それをボクは正確に理解することはできないのです。 なのに、生きていけるという不思議です。 現に重症の神経症患者は、このズレの前で立ち止まってしまうのです。 あるいは人工知能はこのズレの前で、フリーズしてしまうのです。
727 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 10:07:48
これに対して、ヴィトゲンシュタインが与えた答えが、「規則に従う」ということです。 「規則に従う」とは、人は他者の真似をするという世界との関わり(実践)の学習によって、 この「断絶」を乗りこえるということです。 さらにいえば、人の行うことは全て他者にむけての行為(実践)であるということです。 ヴィトゲンシュタインはフロイトから影響されていると言われますので、 これはフロイトに回帰します。フロイトの第二局所論では、無意識は エス/超自我/自我(意識)と言われます。 「規則に従う」=他者の前をするとは、文化的な命令としての 超自我に近いと考えられます。 エス・・・無意識の痕跡、決して浮上しない記憶 ****「断絶」、ズレ******* 超自我・・・「規則に従う」という文化的、実践的な命令(禁止) 自我・・・事後的な表象の意識
728 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 10:29:08
さらにフロイトの無意識から説明されるのが、人間の欲望です。 例えば人は、そこに山があるからと命がけで山に登ります。 こんな動物が他にいるでしょうか。 動物が山に登るのは、食料を求めて、敵から逃げるためなど、 生きるためです。 人が山に登るのは、困難である、止めろという(禁止されている)からです。 禁止されるとやりたくなる。これは、アダムとイブ、パンドラの箱などで、 人間が人間となる物語として語られるような、人間の根元性、好奇心です。 禁止とは超自我であり、好奇心とは超自我への反抗です。 「断絶」があるのに、ボクたちが世界を生きていくための超自我の設立は、 それは真実のエスへの抑圧でもあるということです。 超自我の設立とともに、それを破りたいという欲望の同様に生み出された ということです。 ここでは断絶があり、乗りこえるために超自我が生まれたのか、 超自我が生まれることで、抑圧としての断絶が生まれたのか、 という卵が先が、ニワトリが先かの問題が生じます。 このような起源を問うことにはあまり意味がありませんが、 精神分析にはエディプスの物語など、幼児期の段階的な発達論に 起源を求めます。
729 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 10:58:45
夢とは記憶の整理=構造化です 夢を見ているときは、目ん玉が物凄い勢いで左右に反復運動をしています そうです、アイムーブメントは情報処理なのです トラウマ的な記憶に固着している神経症患者には その記憶が生じているときに、アイムーブメントをやらせます すると、固着により停滞していた記憶=トラウマが 構造処理され呪縛から解き放たれるわけです
730 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 11:00:35
無意識とはズレと事後性を説明するための概念 言いたいことは「無意識」を使わなくても、無意識は説明できるということでしょうか。無意識を脳の一部 にある器官と考えるのではなく、神経症において起こる作用を説明するために、導入された概念として 理解した方が良いでしょう。そして人間はみな神経症です。 フロイトが発見した作用とは、ズレと事後性です。外部の体験は、まず無意識に到達し、その後、意識 (自我)として浮上します。そして一部は抑圧され、意識に浮上しません。そして事後的に、隠喩的にシ ニフィアンとして浮上するのですが、それは無意識の痕跡そのものとはズレています。たとえば、夢と は、体験の一部が抑圧され、しばらく立ってから、体験とはズレた形で回帰したものです。 だからこのズレと事後性を、無意識でなく、脳の一部だと、いったところで、なんの意味もありませんし、 この説明では、ズレと事後性が説明されません。漏れるのならば、なにものも隠されません。またすり抜 けでは、反復して回帰しません。 動物と人間の違いは、動物が体験と刺激が直結しているのに対して、人間は、ズレと事後性に言語と いう間接物が入ることです。この間接物が多様な表現を可能にあるわけです。たとえば人の多様な性 癖(フェティシズム)は、幼児時代の体験の回帰であり、単に抑圧されたものそのものではなく、シニフィ アンの衣を着て、回帰するために多様なのです。
731 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 11:01:23
無意識とはズレてるのに生きていけるという不思議を説明する概念 フロイトの無意識がその後に多大な影響を与えたのは、体験(外部からの情報)と意識(自我)が、事後 的でズレるという「断絶」があるのに、ボクたちは世界を生きていけているという驚きです。この断絶は、 言語的、すなわち文化的なのですね。あなたとマサイ族の見る「赤」は違うのであり、あなたとボクの見 る赤は違うのです。あなたがなにを言おうと、それをボクは正確に理解することはできないのです。なの に、生きていけるという不思議です。現に重症の神経症患者は、このズレの前で立ち止まってしまうの です。あるいは人工知能はこのズレの前で、フリーズしてしまうのです。 これに対して、ヴィトゲンシュタインが与えた答えが、「規則に従う」ということです。「規則に従う」とは、 人は他者の真似をするという世界との関わり(実践)の学習によって、この「断絶」を乗りこえるというこ とです。さらにいえば、人の行うことは全て他者にむけての行為(実践)であるということです。 ヴィトゲンシュタインはフロイトから影響されていると言われますので、これはフロイトに回帰します。フロ イトの第二局所論では、無意識はエス/超自我/自我(意識)と言われます。「規則に従う」=他者の 前をするとは、文化的な命令としての超自我に近いと考えられます。 エス・・・無意識の痕跡、決して浮上しない記憶 ****「断絶」、ズレ******* 超自我・・・「規則に従う」という文化的、実践的な命令(禁止) 自我・・・事後的な表象の意識
732 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 11:03:55
無意識とは欲望というパラドクスを説明するための概念 さらにフロイトの無意識から説明されるのが、人間の欲望です。例えば人は、そこに山があるからと命 がけで山に登ります。こんな動物が他にいるでしょうか。動物が山に登るのは、食料を求めて、敵から 逃げるためなど、生きるためです。 人が山に登るのは、困難である、止めろという(禁止されている)からです。禁止されるとやりたくなる。 これは、アダムとイブ、パンドラの箱などで、人間が人間となる物語として語られるような、人間の根元 性、好奇心です。禁止とは超自我であり、好奇心とは超自我への反抗です。 「断絶」があるのに、ボクたちが世界を生きていくための超自我の設立は、それは真実のエスへの抑圧 でもあるということです。超自我の設立とともに、それを破りたいという欲望の同様に生み出されたとい うことです。このように考えると、欲望は「断絶」を乗りこえようとする動力であることがわかります。 ここでは断絶があり、乗りこえるために超自我が生まれたのか、超自我が生まれることで、抑圧として の断絶が生まれたのか、という卵が先が、ニワトリが先かのパラドクスの構図があります。これを、超自 我を設立する欲望と超自我を破る欲望と考えると、フロイトのいう生の欲動、死の欲動に対応します。 たとえばこのようなパラドクスは登山だけでなく、人間行動一般に見られますね。現代ならば、ブランド 品を借金をしてでも買うとか、2ちゃんねるをするとか。 このように人間というこの不思議な動物を説明するために、無意識という概念が必要とされたのです。 それはいまだに脳神経学、心理学、認知科学の躓きの石であり続けているために、無意識という概念 は、いまだにラディカルであり続けているのです。
733 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 11:07:30
だから
>>729 のような説明は、フロイト以前からある機械論の回帰の1パターンであって、
無意識という概念の反論でもなんでもないのです。
無意識は、このような機械論が回帰しつづけることを自体を説明するための概念なのですから。(終)
734 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 11:28:54
たしかに、脳内の化学コミュニケーションも見逃せませんね 黒質から解き放たれる恍惚たるドーパミン おそろしいことに、これらの化学物質は私たちの内部にあって 写像世界の制御下にあるのです いくら気合いをいれても内部操作不可であり、 一度、知覚機能という写像世界との受付を通さないとアクセス出来ないわけですね つまり、世界とインタラクションしているわけです
735 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 11:35:16
そこで人類は発明しました 口という受付を通して、アクセスを試みたのです それが人類初の薬=麻薬です フロイトもこれに逸早く気付きコカイン(コーク)の研究をしました しかし、知り合いのコーラ(→コーク←コカインの隠語)に出し抜かれました。 その挫折からフロイトは化学コミュニケーションをあきらめたのです これが、フロイト理論が不完全になったエピソードですね
736 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 11:59:41
ゴシップはよいとして、二つの提示の回答を願いましょう。 いかにコミュニケーションは可能か 欲望とはなにか?
コミュニケーションはあらゆる物質で生じています 一つのイメージとして、価電子の媒介とした 元素コミュニケーションを想像して下さい われわれは物質法則の上にのっかているのですから、 コミュニケーションが可能か不可能かという子供のおしゃべりみたいなことをする必要はありません そうです、方法はどうであれコミュニケーションをする宿命なのです それは、なぜ地球が存在しているのか問うても意味がないことと同様です そう問うた瞬間に神様を捏造せざるをえなくなるからです
ここでまず、情報のボットン便所である記憶を考える必要があります おサルさん以下は、メタファーが理解できず、剥きだしの感情=意味で行為が生じています メタファーという隠された意味・意図を理解し使いこなすには、 情報のボットン便所たる記憶空間の拡がりが必要になるのです つまり、表の意味を記憶しつつ、隠され意味を感じ取る必要があるのです これが動物にはできないので、直接的な欲望が剥きだしになっているのです 要するに、ヒトは海馬という情報のボットン便所が発達しているので 一時的にそこに情報が溜まるのです
739 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 13:28:35
たしかに、いかに言語コミュニケーションは可能か。 これはいまの認知科学には難問ですね。 しかし宿命はないんじゃないですか。 形而上学に逃げ込むの速すぎますよ。 宿題ということで、おもしろい考えができたら、 またお願いします。
740 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 13:28:42
コミュニケーションはいかにして可能か・・・ 難しく、そして厳しい問いだ・・・共犯的な了解がいる。談合的なものだ。 相対するものに開放し外部にたいして閉じるような・・・共同占有のような。 挿入する性器と受け入れる性器のような結合がある。 呼気と吸気のようなリズムも必要だ。若干の勇敢さ、蛮勇とも・・・。 確認の連続であり反応の交換であり。儀礼的ながらもコンセプチュアルでない瞬間の祝祭の様な。 離れた洞窟から互いの洞窟に石をなげあうような。探検でもあるが、洞窟の暗さに 違いは無い・・・。破綻するであろう計画で試すような。 欲望・・・。さらに困難。
つまり、ヒトは剥きだしの情動をオブラートに包み込む変換機能が必要なのです その一つが言語なのです かつて僕は、言語とはクオリアを包み込む道具だといいました このように、装いを新たに外部空間に情報を投げ込むのがコミュニケーションです しかし、反復になりますが、オブラートに包み込む前に情報は漏洩します その剥きだしの情報漏洩は意識のキャッチあんどリリースシステムの外部です クライン派精神分析学者ビオンのアルファ機能なのです
742 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 13:45:46
ぴかあーが死ねか、 親死ぬかで このスレダット落ちかw 笑えるw
743 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 14:18:12
>かつて僕は、言語とはクオリアを包み込む道具だといいました >このように、装いを新たに外部空間に情報を投げ込むのがコミュニケーションです では初歩的な間違いをひとつ。 これだとクオリア(情動?)というものがすでにあり、言語(シニフィアン)をラベリングするようになります。 クオリア(意味)は、言語の差異の体系として決定します。 クオリアは言語的な実践と関係するということです。 都会に雪と言う言葉しかないのでどの雪も同じに思えますが、 雪国の人は様々な雪の言葉があり、実際の雪を見分けられる、というように。 言語がクオリアを決定します。 このような傾向は神経科学においても確かめられています。 人間は、動物モデルのように、先に情動があるのでなく、 シニフィアンという下部構造が情動を、欲望を生む、ということです。 これをフロイトの無意識は説明するわけですね。
744 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 14:22:06
それが無意識は言語のように構造化されているの意味です。
いわば、言語はクオリアを概念にコト分ける道具である と言い換えますと、コト分け=言語はクオリアを消去するシステム という実像が浮かび上がります 雪はただ雪でしかなく、そこにクオリアが消去された言葉をなげかけることにより つまり、写像化することにより写像界が生まれます 情報が脳(身体)をループする作用として立ち現れる写像界は あくまでフィクションなのです しかし、ループですからフィクションに影響をうけ支配されます
746 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 15:13:40
だいぶとよい感じになってきたのではないですか 写像界=象徴界 クオリア=現実界 さて難解は欲望です。なぜひとは過剰に欲望するのか
象徴界とはなんでしょう? ヒトの写像世界言語をバクるのではなく、自分のことばとして述べてください
748 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/13(火) 15:42:09
デリダに従えば構造主義的構造は事後的な構造物であり、なおかつそもそもに於いて存在しないことになる。 構造はそのはじめから差延により解体されている。
749 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 16:46:18
ぴかあーみたいなひきこもりが自殺したよw
750 :
質問 :2007/02/13(火) 16:59:24
ぴかあーはニートで毎日家にひきこもっているがさ、 一日何回オナニー、いや、ウンコするの? トイレットペーパー代は誰が払ってるの? あと、自分をよくウンコと感じないか? まじで、質問ね。 就職から逃げる弱虫だから、また都合の悪いことにはシカトかい? 楽な人生だな ニヤニヤ いつまで続くかね
751 :
考える名無しさん :2007/02/13(火) 22:18:55
賢人ぴかぁ様に無礼ですぞ
752 :
考える名無しさん :2007/02/14(水) 09:25:18
屁理屈の達人而してその精神年齢は五歳児。筋金入りのニートの中のニート。 引きこもりのヒーロー ぴかぁ〜さん今日も決して読まれることのないレスを宜しく〜
753 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/15(木) 12:14:57
コクったことがある人ならわかるだろうが、結果もあるが、コクったことそのものである種の満足がある。 好きであるという過剰は人を神経症な状態にする。なんでもない一言、動作から過剰な読みこみをして、自ら宙ずりになってしまう。 コクることはこのような状態からの解放である。とにかく行為する(規則に従う)。 振られてもまたそこから無限の読みは可能である。「ほんとは好きなのにあえてやさしさから…」など しかし繰り返しの実践のなかで相手との交渉は生まれる。ひとりで妄想におぼれるよりは だからラブレターは結果でなく書くことに意味がある。 ここにラカンが言う「手紙はかならず宛先に届く」の純粋な形態がみいだせる。 これは対象への強い転移を作動原理にするために、ラブレターなのだ。転移関係において主体は手紙の前でもはや書かざる終えない位置に追い込まれる。 手紙という対象aを中心に好きなひと、ライバル、恋する私という構造が生まれる。 これは恋したあとに生まれる関係であるが、作動においては無意識に構造自体が先行され、手紙を出さざる終えない位置にたっている。
754 :
考える名無しさん :2007/02/15(木) 12:21:57
本日も快調、まだまだ続きます。
755 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/15(木) 12:35:09
しかしこれはほんとうに恋したあとに見いだせる位置だろうか。 私はなぜあの人に恋したのか。ライバルがよいといったから、構図に導かれ、位置に立つこと恋させられたのではないか。 それは無意識のシニフィアンの連鎖であり、わたしにはわからない。
756 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/15(木) 12:53:15
権力者の力はまさにその肩書きにある。組織の秩序が与える位置により支えられる。 しかしまさにここに権力者のジレンマがある。部長という肩書きは私である必要なく、私が部長でなくなっても価値を維持し続けるということ。 だから権力者はたえず私の意味をといつづける。部長でなくなっても回りは同じように接してくれるだろうか、という懐疑であり、神経症である。 しかしこれは権力者だけのジレンマではない。だれもがもつ。なぜなら私とは構造のなかでしか生まれないからだ。耐えず代替可能性の不安に苛まれる。 これはまさにデカルトの不安である。土着性が高かった時代に放浪者であったデカルトは確かさが地域的なものであることをしる。 人は位置からなにものであるかを手に入れている曖昧な存在だという不安が、神経症的な私はなにかという懐疑へむかわせた。 そして彼らがわれわれの代表者たるのは情報化社会においてもはやわたしたちが同じ懐疑にさいなまれているからだ。
757 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/15(木) 13:38:46
手紙というものがあるときにすでに象徴界は作動し、手紙の機能は果たされている。
758 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/15(木) 18:11:49
同じ日本人が苦しんでいるのを見るのは忍びないという負債感です。 格差社会そのものをどのように評価するにもかかわっています。格差社会論に感じるのは事後性です。 格差がないわけではない。そこに悲惨な実情がないわけではない。しかしそれを上塗りするように言葉が正当化されることです。 これは環境問題にも感じます。ある言葉へ還元すること、ニーチェの隠喩であり、ルサンチマンです。 これがくだらないとかでなく、これがまさに共同体ではないでしょうか。このイデオロギーと呼ぶには稚拙で、しかし実際に経済学というシニフィアンと同じレベルで、経済学の彼岸のシニフィアンとして社会を動かしてしまう。 池田氏のいらだちがくしくも浮き彫りにしたのは、苦渋を舐めてきた?まさに回帰する死の欲動です。
759 :
考える名無しさん :2007/02/15(木) 20:40:19
ラカンを全く理解してない0点
760 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 07:46:06
今日も究極の駄スレ発射オーラル
761 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 10:03:56
ぴかぁ〜を誹謗中傷するのは止めなさい! 今日本で世界平和と人類の幸福を祈り行動しているのはとぴかぁ〜先生だけです! 世界がぴかぁ哲学に注目し求めているのは明らかです。 ぴかぁさんのスレッドには、偏向したマスコミが 伝えない真実がしっかりと書かれています。ぴかぁスレッドを読みなさい!
762 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 10:50:53
>761 同意
763 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 12:46:50
手紙は届かない エンコードされた情報が 適切にデコードされるとは限らない そこには必ずノイズがはいる そう、主観というノイズが
764 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 12:58:35
来年までこのスレがあったらヤバイ。 ひきこもりゴキブリ息子もつと親も大変だな。 しまいには殺されるかもしれんしな。 あたりさわりないどこにでもあるパクリ文延々に素人が続ける無意味さ。 いずれ気付いて自殺だなw
765 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 13:04:03
俺が中退、卒業、職辞め以来、家にひきこもっている 馬鹿ぴかあーの親だったらたたき出してホームレスにしているねw おまえら、こんな息子つくるなよ。家庭内暴力、 年金食われちまうぞ。 ゴミに。 だれか、ひきとるか?w さあさあ、ぴかあーくんをひきとれよ。 ニヤニヤ シーン
766 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 13:11:48
ぴかあーは中学生ぼいよなw 青森あたりの田舎か? 大爆笑 んだべー
767 :
未来予想 :2007/02/16(金) 13:19:52
ぴかあーがこの板に来なくなる理由予想。 親が死ぬ。 自分が病気になる。 自殺する。 以上。
768 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 20:51:28
ぴかぁって魅力あるキャラなんだな。 無視すりゃ済むのにこんなに粘着されてんだからな。 おれにはわからんがね。
ぴかぁ〜氏は消えたのか?
770 :
考える名無しさん :2007/02/16(金) 23:56:35
消えるわけないだろ。 春一番をやりすごしているだけ。
某所でまた暴れてますぜ。
てかブログみれば生きてるかわかるでしょ 某所ってどこよ?あげ
773 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 11:35:42
格差社会においてもそれを経済的なものに還元する傾向でいえば、経済学的なものの引力圏にとらわれています。 格差問題といわれるものの経済格差に還元できないもの ボクは繋がりの喪失による不安をあげました。幸せがお金に依存している。お金を介してしか繋がれない。 「物質的豊か」になるほど「豊か」に依存する。ここに市場原理主義のジレンマがあるのではないでしょうか。
774 :
考える名無しさん :2007/02/18(日) 12:23:35
休日なのにお疲れ様でございます。 雑音にめげず意義深い連投頑張ってください。
775 :
考える名無しさん :2007/02/18(日) 12:32:46
豊かさは相対的に達成できても、その帰結として満足が得られるとは限らない。 依存が高まるほど満足と乖離する。 つまり、人が真に求めているのは豊かさなどではなく、満足することその一点につきるわけなんですね。 実は豊かでなくとも良いということになるんでしょうか。
776 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 13:06:06
>>775 いや、「経済学の彼岸」はもっとラディカルではないか、というのがボクの意見です。
相対的であってもそこに「満足」ということで、価値の一元的な還元化が起こっているということです。
「繋がり」とは他者との関係です。
777 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 13:08:59
「効用」という自己完結的な満足へと還元 経済学の基本である「効用」は、功利主義からきています。功利主義が画期的であったのは、幸福のよ うな曖昧なものを、「効用」という自己完結的な満足へと還元したことです。これによって、貨幣交換によ る資本主義、リベラリズム(自由主義)を科学的に語る下地を作りました。 最近、行動経済学のように、従来の経済学が合理的すぎるために、人間らしい心理学的側面を考慮し ようという考えがあります。しかしこれらにして、幸福のような曖昧なものを自己完結的な満足へと還元 することにはかわりません。
778 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 13:11:06
「経済学の彼岸」の「他者」 このような「効用」という自己完結的な満足に対して、「経済学の彼岸」は、「他者」との関係です。「他 者」との関係が、功利主義的な「効用」に還元されないのは、そこに「断絶」があるからです。 たとえば「恋は盲目」と言われるように、人が恋するときに、功利主義的「効用」で説明できません。誰に 恋をするのかは偶然であり、さらに好きになるほどに満足であるとともに不満足である。愛であり、憎し みという「転移」の関係です。合理性、経済性を無視し自己破滅的にもなります。 たとえばシャネルのカバンはあんなに高いのになぜ買われるのか。他者が欲しがっているからです。他 者が欲しがっているものを所有することで、愛されたいということです。しかしそれは失敗しますので、さ らにほしくなるということです。欲望は終わりがありません。 経済的にいえば、これは経済学で扱われる貨幣交換に対する、贈与関係に近いでしょう。貨幣交換は 基本的に貨幣をもっている相手なら、誰かを選びません。それに対して、贈与関係は他者がだれである かが重要です。転移関係によって作動します。先に経済学の彼岸として、「同じ日本人なのに」というよ うな負債感の連鎖による「日本人共同体」感を上げました。これも、贈与関係です。 このような曖昧なものを相手にしてどうするのか。現実に社会はどこまで(経済でなく)経済学という学問 に影響され、どこまで人々の「欲望」が影響するのか。先に「「幸福」議論とは幸福とはなにかを議論す ることだ」と言いましたが、このような「他者」との関係において幸福がなんであるかは、決して決定でき ません。それは議論し続けるしかありません。「経済学の彼岸」とは「科学の彼岸」です。科学という人間 をある単位に還元することに対立する、倫理的な次元です。デリダはこれを「まったき他者」と呼びました。
779 :
考える名無しさん :2007/02/18(日) 14:06:59
しつこい
確かに、ぴかあさんの考えるように、かつてジラールが述べた 欲望のトライアングルによる古典的記号消費 というモノをターゲットにして成り立つ 古典的経済活動も依然としてあるでしょう しかし、ヒトとモノという二元消費論は過去のスタイル になりつつありますね現代は旧式ポストモダンで測りキレない 情報という消費スタイル、つまりIT消費社会へと エコシフトしているからです これによりモノとヒトとの二元論的関わりから 情報(モノ)とヒトとの一元論化へと力が向かうのです
つまり、モノから情報へと消費スタイルが変化していくなかで、 モノの消費のように必ずしも大金を必要としない 情報消費というものが、近年の非正規雇用の増化という社会現象と 相まみえ、求心的な渦を引き起こし、一元論的に絡み合い始めたのです
前世代の記号消費が意識の消費だとしたら、 私が仕掛ける最先端の消費スタイルというものは 無意識の消費だといえるでしょう これはフロイト式の抑圧された?無意識とはことなります これは、前頭葉における意識的活動(=制御処理)である 意思決定ルートを介さないネットワーク、 つまり、自動的情報処理のルートを指します 意識的コントロールが難しい認知的無意識を 外部から意識的にコントロールしていくアプローチ だと考えるとスッキリします
かつて私は、3秒ルールということを述べました 三秒であれば、その間の出来事はチャラになることです つまり、3秒間は無意識なのでした しかし、不二家問題でもクローズアップされましたが、 今や3秒ルールは社会のニーズに合わない時代になりました そうです、時代は2秒に縮まったのです 今や2秒間の意思決定で多くの決断が下ります だから、コンビニで飲料を選択する時間は、2秒なのです
整理しましょう 意識消費は脳内私という小人さんが支配する世界 メタ認知=仮想的二元論だということでした。 そして、時代は小人さんを殺しにかかったのです そうです、それが認知的無意識消費なのです よろしいでしょうか?
785 :
考える名無しさん :2007/02/18(日) 15:42:50
指導あげ
786 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 16:00:54
うまくつたえてきれていないのを痛感しました。 記号消費は無意識の言語という差異の体系に従わされるという象徴界です。 ボクは経済学も一つの体系としての言語でしかないといっています。 だからボクがいうのはデリダ的なポスト構造主義的です。しかしうまく説明できていないですね。 しかし自動的情報処理はひどい。もうSFですよ。ネットを見てください。情報化はむしろ人を人間臭くしているのです。東の環境管理とか構造主義をSFチックにした亜流でしかありません。
たとえば、行動を起こした後にも操作は可能です 事前、事後ともに認知的無意識をコントロールできるのです 一つ例をあげますと、 フォーワード(orバックワォード)・フレーミングで 簡単に意識(事後的性質)に干渉できます しかも、意識的には変化を認識できませんからエレガントです 無意識的抵抗がないのです
つまり、記憶(意識感)は捏造されるのです あるある大辞典で明らかになったのは、 捏造のアウトソーシングということです 自分でやらずともテレビが変わりにやってくれたので 人々は熱狂し没入したのです
789 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 16:31:54
なんか、妄想やばいですね。あるあるは普通に単なるデマでしょ。
790 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 16:38:20
要するにいまのあなたが記号消費中ということです。経済学も言語であり、まるでそのような世界があるように人々は無意識に従うのです。
791 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 16:54:41
ラカンは他者を思考しました。人にとって他者は特別です。人は早熟で生まれ他者へ依存するためといわれます。それは想像的他者です。 これは他者をみる、という次元です。ここに言語がはいってくると、言語の不完全性から、他者を見る私を見る他者をみる…ということが起こります。 これは現前に他者かいなくても見られているという超越論他者を導きます。すなわち共有された超越論的他者のもとに間主観的社会は形成されます。それが象徴的他者である。 それでも他者がなにを考えているか絶対にわかりません。それが現実界の他者です。 すなわち他者は引き付けられずにおれず、いつもみらるていて、決してわからないものです。
792 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 17:06:49
言説はこのように機能します。たとえば経済学という他者の言説に引き付けられいつもみられているという神の言葉として作動し、社会を開拓します。 しかしそれは不完全で地域的信仰であるために現実界の「他者」の出現により破綻します。それが経済学の彼岸です。
793 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 17:13:48
世界は本質的に経済学の彼岸です。たとえば貨幣は超越論的に機能していますか、世界のほとんどはお金でかえない、経済学の彼岸です。
794 :
考える名無しさん :2007/02/18(日) 17:20:46
珍しく賑やかだな どーしたの?
795 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 17:36:25
たしかに経済学的なものは協力に作用していますが、しかし超越論は経済学だけではありません。多様な構造を形成しています。
796 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 23:02:52
ラカンは他者を思考しました。人にとって他者は特別です。人は早熟で生まれ他者へ依存するためとい われます。それは想像的他者です。これは他者をみる、という次元です。ここに言語がはいってくると、 言語の不完全性から、他者を見る私を見る他者をみる…ということが起こります。これは現前に他者か いなくても見られているという超越論他者を導きます。すなわち共有された超越論的他者のもとに間主 観的社会は形成されます。それが象徴的他者である。それでも他者がなにを考えているか絶対にわか りません。それが現実界の他者です。すなわち他者は引き付けられずにおれず、いつもみらるていて、 決してわからないものです。 言説はこのように機能します。たとえば経済学という他者の言説に引き付けられいつもみられていると いう神の言葉として作動し、社会を開拓します。しかしそれは不完全で地域的信仰であるために現実界 の「他者」の出現により破綻します。それが経済学の彼岸です。世界は本質的に経済学の彼岸です。た とえば貨幣は超越論的に機能していますか、世界のほとんどはお金でかえない、経済学の彼岸です。 たしかに経済学的なものは協力に作用していますが、しかし超越論は経済学だけではありません。多 様な構造を形成しています。
797 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/18(日) 23:04:40
コミュニティの崩壊と言われるが、情報化社会においてむしろコミュニティは 容易に作成されている。問題はコミュニティをいかに維持するかということです。
たとえば、 ドン!ドン!ドン! ドンキ〜♪ と聞いたことがありますね? ないですって? ではこれはどうでしょう 引っ越し〜!引っ越し〜!♪ さっさと引っ越し〜!しばくぞ〜!♪ は、ありますよね? そうです、思い出せた=脳内再生化できてしまったなら すでに認知的無意識がコントロールされています これは、米国大手ミュージック社が行う イヤーワームと呼ばれる聴覚機能を利用した 埋め込みの一種です このイヤーワームは強制的音韻ループにより 低次脳機能に記名=感染されるのです このように、ぼくたちはミスターXの意図する 物語に巻き込まれキャラクター化されるのです このようなコントロールは巧妙ゆえに 人々の意識には生じず、事後的に意識・行為の 辻褄を合わせ納得するのです このようにして、お釈迦様の手のひらの上で、 ぼくたちは、自由という名の幻想のもとに 熱狂する(させられている)のです こうして、ぼくたち孫悟空はサルへと 退化(退化=進化の一種)するのです
「黒猫」 エロゲー・アラン・ピカァ著 以下略(
800 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/19(月) 12:12:29
実世界において存在するとはすでに世界に投企された存在である。しかしこのようなハイデガー的だけだけでなく、ラカン的に多重な意味で他者と関係がなければ存在しえない。 しかしネットで存在するとは別である。ネットで存在するにはロムからレスという能動性が要求される。 たとえば実社会ではだまって他者と同じ空間に存在してしまっているだけで関係が発生してしまうが、ネットではロムっているかぎり、存在しない。 すなわちネットに存在するとは行為である。行為としての存在である。
801 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/19(月) 12:27:52
このような能動的な存在は能動的な消失を可能にする。しかしこのようには簡単とはいえない。 このような能動性は匿名性に支えられている。ケン名性、すなわちネットと実社会が繋がるとき、転倒がおこる。 実社会の逃げられない存在がそのままネット上の能動的存在とつながると、ネットの逃げられなさが浮上する。 ネットの記録は世界に高速でコピーされ、存在として消すことがむずかしい。 たとえばウィルスで裸体写真をばらまかれた人のように。
知覚している以上、関係はできてしまいます たとえ情報の発信者と受信者との間に、 対面性のない時間的・空間的ズレがあってもです ぼくたちは時空間を超えてつながるのです つまり、知覚するとは関係を結ぶということなのです なぜなら、対象を知覚しただけで、仮想的に 同じ行為や思考を脳内て模倣するからです これは、リゾラッツィーが発見した ミラーニューロンの働きによります 能動的に意識せずとも受動的に無意識に機能してしまいます
803 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/19(月) 13:13:08
実世界において「存在する」とはすでに世界に投企された存在である。しかし実世界で「存在する」と は、このようなハイデガー的だけだけでなく、ラカン的に多重な意味で他者と関係がなければ存在しえない。 しかしネットで「存在する」とは別である。ネットで「存在する」には、ロムからレスという能動性が要求さ れる。たとえば実社会ではだまって他者と同じ空間に存在しているだけで、気遣いのような関係が発生 している。しかしネットではロムっているかぎり、その人はネット上に存在しない。ネットに「存在する」と は能動的な行為である。しかしまたこのような能動性は、「存在する」だけでなく、「存在しない」という能 動性も可能性にある。すなわちネットにおいては、存在/非存在が能動的な行為であるということだ。 しかしこのようには簡単にはいかない。なぜならこのような能動性は匿名性に支えられているからだ。 たとえばネットと実社会が繋がるとき、顕名性において、実社会の「存在するという逃げられなさが、ネッ ト上の存在のあり方と繋がる。ネットの存在では、存在するだけで記録され、コピーされ、世界に伝達さ れ、残り続ける。たとえばWinnyウィルスによって裸体写真が実世界で特定され、ネット上にバラ巻かれ ばらまかれた人のようにである。 ボクたちはある匿名性の信頼の上で、ネット上の存在を能動的に行為している。この場合にある種の責 任が求められる。「私が存在しているということは能動的に他者とコミュニケーションする用意がありま す」、という宣言である。だから用事がなく街で知らない人に声をかけるのは必ずしも良く思われない が、ネット上においては、当たり前のことである。実社会でのコミュニケーションの抑止は一つの象徴的 な秩序であるが、ネットコミュニケーションではそれはすでに越えられている。
804 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/19(月) 13:15:06
805 :
考える名無しさん :2007/02/19(月) 14:29:27
波平って頭良すぎだろ 何言ってるかさっぱり解んない
>>804 知覚しなければ無です。
ロムは知覚です。
807 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/19(月) 16:46:06
>>806 ロムしている人をどのように知覚するというのですか
知覚は関係です。 感覚機関で知覚しないと生物はイキられません。 よって、生きているならば必ず知覚するのです ぴかあさんは視点が固まっています つまり、エイジングにより神経が刈り込まれすぎているのです 私のようにオートポイエティックに作動すれば落ちるはずです。
終了しました。
810 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/21(水) 11:48:33
池田山形論争は実に象徴的に終演しつつある。 山形氏が経済学のマスターたちへ質問状を送ったことは異常な行為ではあるが、正しい。 なぜならそこにしか経済学の「真実」はないからだ。これは実際の経済の問題でなく、経済学という「言語ゲーム」内の問題であるということだ。 逆説的に経済学そのものの限界を露呈している。だから池田氏の最後の文は池田山形論争をこえ、この開いた穴を取り繕うことになる。「経済学などしょせん…」
811 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/21(水) 12:12:05
もはや「経済学は役にたつか」これ以外の言葉は池田氏にのこっていないだろう。 この物語のおもしろさは経済学の限界にむけてのチキンレースである。池田氏がたえず境界を見極め、とどまり続けたのに対して、 山形氏は最初から境界が見えなかった観があり、いってしまった。それがキャラなのだからみごとな役割をはたしたということか。 そしてその期待以上にみんな拍手…パチパチ それでも経済学は有用であることは何もかわらない。それが科学技術というものである。
812 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/21(水) 12:13:37
とんでもないマスター。それはマスターて、あるほどよい!
813 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/21(水) 12:18:47
なぜ池田山形論争はおもしろいのか これが有名人の論争であるからだ。有名人でさえ基本的問題で議論になるという経済学の特性が暴露されているから これらを俯瞰したところで、ネット住人の好物の一つである学問的権威の滑稽さが露呈している。
814 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/21(水) 12:28:33
もっとも経済学的であろうとすりことで、踏み越えていってしまった。 マスター以上に真実をしるもの者がいるだろうか、すなわち神にもっとも近い者がいるだろうか。 そう経済学は神学である。
815 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/21(水) 13:01:16
なぜ池田山形論争はおもしろいのか 経済学の彼岸 その4 池田山形論争は実に象徴的に終演しつつある。山形氏が経済学のマスターたちへ質問状を送ったこと は異常な行為であるのだろうか。異常だろうが、正しすぎる故に異常である。 この物語のおもしろさは「経済学の限界」にむけてのチキンレースである。池田氏がたえず境界を見極 め、とどまり続けたのに対して、山形氏は池田氏よりもより経済学的であろうとして、踏み越えていって しまった。経済学のマスター以上に経済学的「真実」をしるもの者がいるだろうか。神の言葉にもっとも 近い者がいるだろうか。そしてこの「正しい」行為が、経済学そのものの限界を露呈してしまった。経済 学は神学である。 これが山形氏のキャラであり、その大役を期待以上にみごとにはたしたということにみんな拍手する・・・ パチパチ・・・そして池田氏に「経済学は役にたつか」これ以外の言葉は残っていないだろう。経済学に 開いた穴を取り繕う言葉である。 ブログ界隈にしばらくいるが、ぶっちゃけ、本当に読むほどのものなどほとんどない。当然、ボクも含め て。しかし今回の論争はブログでしか見ることができない醍醐味ではないだろうか。経済学者たちが自 ら穴を暴露する。このような楽しく、勉強になるものを見せて頂いたお二人に感謝します・・・
816 :
考える名無しさん :2007/02/21(水) 17:20:39
いいね、毎日お気楽で
817 :
考える名無しさん :2007/02/21(水) 17:29:46
アナルセックスが物凄く好きな奴っているじゃん。 そう言う奴ってハッキリ言って男でも女でもいいんだろ?アナルの感覚が好きならばどっちに入れたって同じじゃん。 そう思って俺も男に挑戦してみようと思ったのだが全然勃たなかった・・・そりゃそうだよ 見た目は大事なんだよ。 男の身体と男の顔見ながらセックスなんてできん!アナルが同じ形だって他が違い過ぎる。 アナルが好きな奴は一度男に挑戦してみろよ。 男でもOKならば世界が広がるじゃないか。男でも女でもできるならセックスできる機会が単純に倍になるんだからな。
818 :
考える名無しさん :2007/02/22(木) 12:04:19
ぴかはなぜつまらないのか? 評論家として三流以下
819 :
考える名無しさん :2007/02/22(木) 12:10:17
ぴかあさんはパラサイトですから。 自ら産出をするという痛みを伴った行為をせずに、 他者が排出した糞に食らいつくのです。 パラサイトとというのは強者という安全基地に隠れ、 その威光の力を巧みに利用した戦術なのです
821 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 09:11:15
心理学と精神分析の違いとは、たとえばいままでの物理学と量子力学の違いである。 従来の物理学では観察者は現象の外のいるが、量子力学で観察者が観察から逃れられない。観察者が観察することで観察結果があらわれるのである。 心理学がめざすのは観察者の影響の排除である。どれだけ客観的に、観察と離れられるかが問題になる。 さらに客観性を見いだすために繰り返しにより、統計的な処理により法則がみいだされる。 ワトソンの行動心理学はまさには人をものとしみれるかにある。それが科学であるからだ。 それに対して精神分析は分析医と被分析者の関係の場としてはじめられ、影響を活用する。 二者関係となることで、客観的な法則性を見いだすのはむずかしくなる。毎回毎回が一度きりの対面としてあらわれてしまうからだ。 すなわち私に対する不確実な「他者」が登場する。 このような意味で経済学は心理学である。 幸福を効用という観察される結果に還元し、人を単位と還元する。 現代の情報社会では情報速度の速さから、他者の影響が無視できない。 たとえば流行は結果的に流行っているわけでなく、流行っていることで流行るという再帰的である。これで現象はシステム論的になる。
822 :
考える名無しさん :2007/02/23(金) 09:36:04
朝から気楽なもんだね。
823 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 09:51:21
昨日発売され一部で話題のモンスターハンターポータブルですが、ゲームはそれほどやらない のですが、久しぶりにはまりそうです。なかなか良くできております。 ・アクション性が高い爽快感 ・恐竜などの魅力的なキャラクター この当たりはMHPに特有とは言えないのでしょうが、 クエストという時間が限られたミッション形式が良いですね。 RPGのような物語では、どこかでたるんでしまう。 あるいはシューティングではノンストップ性が高く、 長期的な継続よりも、短期的なやり込みに向かい、 時間的な制限がある者にはつらいですね。 時間管理という方式、毎回毎回の魅力的で多様なミッションで、 忙しい現代人でもマイペースで進められる楽しさがあります。
たとえば、フロイトは精神分析を科学とするために 当時の科学パラダイムであるニュートン力学を模倣した 精神をエネルギー作用としてとらえたのである これが、精神力動論と言われる所以である
時は金なりと言われているが、ビジネスマンに必要なのは時間管理である 24時間働けますか? とにかく働けとバブル時代は問われましたが、現代はいかにエネルギー消費を節約して 生産性を上げるかという効率性が問われています。 それはシリコンバレーから始まりました。有能なコンピュータ技術者たちは こぞってアイデアを出し合いました。この無駄を省いた効率性・快適性を 追及するムーブメントは、次第にHacksと呼ばれました この合理性を追及する方法論は、社会のIT化の波と重なり合い ビジネスマンの間でさまざまなハックス化現象を生み出しています いまや、すべての業務がハックされてしまい、余白が排除されているのです
826 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 11:55:20
フロイトの精神分析で成功したものがないといわれます。そのつまずきが転移です。科学的であろうとしても避けれない他者との関係性 これはまた逆転移としても現われます。まさにフロイトの失敗と試行錯誤の中で精神分析はあります。 そして他者を排除し、わかりやすくしたいという心理学化(科学化)への欲望はおこります
たとえば、精神分析学者シャーンドル・フィレンチェは重大な発見をしました 精神分析では普通、過去の記憶・葛藤が自由連想により呼び起こされて、 その葛藤が目の前の対象=分析者に投影され、過去の体験を 再演してしまう転移症状が現れると解釈します しかし、その場の感情的な表れは、実は過去の再演ではなく、 その場における体験が無意識の情報処理により その場に表出していることがわかりました その場に表出した体験は認知的無意識が表れたものですので、 本人は意識できないその行為の理由づけは出来ません もちろん、分析者も同様に同じ人間に特有なその癖が表れます ですから、二者空間で生じたその意味は正しく解釈されずに、 治療空間において捏造されるのです これが、司法の場で争われた作られた偽記憶問題です 人はその場の状況における膨大な情報をキャッチしています そして、意識で処理しているのは、そのごく一部であり、 ほとんどは無意識的に処理され、無意識的に外部に表出しているのです
828 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 13:44:36
フロイトのいう事後性です。意識と断絶としての無意識であり、 それはその場限りの他者との関係、すなわち自由連想法という対話において、 捏造されます。
わかりやすく説明します。 睡眠中の相手に、ある刺激を与えるとします。 すると、その人物は夢の中で、その刺激に関連した 夢を見ると報告されています。 これは、昔から広く知られた現象で、実際に実験でも 実証されており、特に反論の余地はなさそうです。 そこで、一つの仮説が浮かび上がります。 外部刺激を受信した認知的無意識機能は、 その刺激に対する連想をしている、つまり、 物語りを作る働きがあるということです。 しかも、夢と同じく、本人は全く気付かずにです。 つまり、これらの現象はれっきとした神経活動の 結果にすぎないのです。 そこに無意味な解釈を施す必要はありません。
830 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 15:30:04
>そこに無意味な解釈を施す必要はありません。 夢の物語の起源が、いま寝ているときに与えられた外部刺激に 還元できるということですか!? フロイトは、過去が回帰することを示したわけですね。 それは子供の頃の体験でも良い。 これは子供の頃の体験を夢で思い出すのでなく、 その外傷が、別の夢として物語られます。 夢の解釈とは、見た夢の意味ではなく、 抑圧され、夢にならないものを解釈するのです。
夢が外部刺激に還元できる場合もあるというだけです。 それは、認知的無意識の情報処理機能についての 根拠の一つでもあるということです。 復唱しましょう 夢の本質的機能は記憶の構造化です 夢はレム睡眠、つまり、物凄い勢いで眼球が 左右に反復運動をしているのです 右から左へ 左から右へ 左右の脳が情報を東郷しているのです
つまり、あらゆる記憶は構造化されいます 意識にあがる意味記憶、エピソード記憶はもちろん 意識に生じない、手続き記憶などもです だから、神経活動により無意識は構造化される他ないのです
精神の老化とは、思考の柔軟性を失うことだ と、僕はかつて言いました。 ぴかあさんはエイジングがはげしいように思います。 過去のパラダイムに依存しすぎたあまり、 そこに当てはまる現象しか見えなくなっていたり また、無理に当てはめようとしているようです 脳のアンチエイジングはまだ四十手前でも間に合います 神経はたしかに死に向かい減り続けます しかし、神経間のネットワークは増やせますし、 新たに神経を作りあげることも最新の研究では可能なのです
834 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 16:05:30
だから問題は構造化されない記憶、エス(現実界)なわけです。
構造化されない記憶は記憶としてはありません 本物だろうが偽物だろうが、記憶は構造化されています というより脳身体に宿る情報は構造化しないと宿れないからです よって、構造化されない記憶は原理的にありません それは記憶とは呼べない未知の事象です
836 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 16:33:40
世界は構造化されていません。それを認識可能なように構造化します。これをシステム論で複雑性の縮減といいますが、 それがうまくいかず世界を生で体験したとき、傷として残るのです。 そして事後的に構造化されようと反復回帰するのです。それが夢であり、無意識のいい間違いだったりすりわけですね。
837 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 16:39:39
記憶は混沌を構造化するために毎日ファイティングしてぼろぼろです。 そのときの傷をいやすのが夢なのです。
838 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 16:41:38
たまに同じような悪夢にうなさるます。決して完全に完治することがない古傷がしみるのです。
いくつか間違いがあります それは私の意図的なコントロールにより 導き出されたものですが、とりあえず 仮説の検証として今はよしとしましょう
840 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 16:56:19
世界そのものは混沌で構造化されていません。それを認識可能なように構造化します。これをシステム 論で複雑性の縮減といいます。しかしこのような構造化がいつもうまくいくとはかぎりません。特に子供 の成長では、積極的に世界を構造化する中で、多くの構造化されない傷を負います。失敗しながら学ぶ というように、傷を負わない成長はありません。傷を負うことそのものが成長であるといういみで「去勢」 と呼ばれます。 その傷がなくなることはありません。だから大人になっても事後的に回帰し、それを構造化するしかない のです。それが夢であり、無意識のいい間違いだったりするわけですね。たまに同じような悪夢にうなさ るます。決して完全に完治することがない古傷がしみるのです。記憶は混沌を構造化するファイティン グの中でぼろぼろです。そのときの傷をいやすのが夢なのです。
841 :
考える名無しさん :2007/02/23(金) 17:02:35
なるほどおれは学生時代の夢(捏造された) をよくみるのはそういう事か
世界はエントロピーの法則に支配されています 混沌と秩序が相互に表れて世界を作り上げています
しかし、ぴかあさん、あまりにひどいよ。 もう何でもありなんですか? とにかく説明してしまおうとする癖を治さないと。 分からないことは分かるまで暖めましょうよ 結論を急いで茶番劇を演じてもしょーがないでしょうよ? あなたはコメディアンを目指しているのか?
844 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/23(金) 18:18:37
声が震えていませんか。ボクの発言が外傷的でしたか。悪い夢を見ないように。
どうかしましたか? 自分から不安を吐露しちゃうなんて。 同意をもらって安心したいですか?
846 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/25(日) 15:22:05
「可哀想な動物」というのがある。最近では崖に取り残された野良犬、少し前なら矢が刺さったカモなど、 連日放送され、テレビでも話題になる。 しかしここにいつも違和感があるだろう。毎日大量の動物が殺されているという事実の差である。 保健所では犬猫年間400.000頭が処理されているという事実がある。 崖に取り残された犬も話題にならずに、保健所に捕まえられれば、処理されていただろう。 思春期には誰もが一度は考えるこのギャップをどのように考えればいいのだろうか。
847 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/26(月) 09:41:52
ゲームマニアに「作業ゲー」という言葉がある。RPGなどでは経験を積むことでレベルをあげる方式がとられる。 キャラクタが成長していくのがゲームの楽しみであるのだが、それが面倒な反復でしかないと感じる退屈なゲームを「作業ゲー」という。 これは主観的なものであり、多くはいくつものゲームの人生を経験したゲーマーでは先が見えてしまうということ、 ゲームに対するメタな視線によりこのゲームの制作側が見えてしまうということだろう。ここで経験値を上げさせる設定だな。 このような予測可能の退屈さはゲームに限らないだろう。 予測可能と不確実性のバランスが重要である。不確実が多すぎても難解すぎる。 はてさて、本当の人生は「作業ゲー」化していないだろうか。 ボクは科学技術の発展を予測可能性の壁といった。社会の予測可能性は高まっている。 しかしそれ故に不確実性のギャップが広がっている。それは人を不確実をさけ予測可能性に引きこもる保守化にむかわせるだろう。 予測可能性が檻として作動する。この中では娯楽が発達する。退屈な日常の解放を、安全な危険に求める、ジェットコースターは恐いがそれは安全に支えられている安全な危険である。
848 :
考える名無しさん :2007/02/26(月) 10:55:06
そういった話はすでに大沢や茂木が述べています 今更ながら偶有性というキーワードを思いだして下さい 可哀相な動物は、要するにミラーニューロンモジュールにより 感情移入するシステムが生得的に組み込まれているからです つまり、自分の立場に置き換えてしまうのです 以上、なにかありますか?
849 :
考える名無しさん :2007/02/26(月) 10:58:35
>>846 つまり、見せてあげればいいだけ
見せてあげればミラーニューロンモジュールが作動するからです
見ないものには働きませんからギャップでも何でもありません
850 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/26(月) 11:53:02
人は生得的に同情する動物であるといことですが、ミラーニューロンの発見が猿実験で発見されたのはご存じだとおもいますが、猿は同情しますか? これを単に「複雑化」で片付けるなら、すべてはそれでおわってしまいます。
>>850 ミラーニューロンというのは、意図を読み取る機能です
それにより社会的駆け引きをおこないつつ群れを維持するのです
他の感情や意図を読み取り
それにより自己のとりうる行為を決定しているわけです
その基本的機能が高度化しているのがヒトなのです
852 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/26(月) 12:29:03
このような特定の対象への志向性を感染と呼んでみましょう。そして人はどんな場合に感染するか考えましょう。 感染は強弱があります。強いものは親や恋人、親友など、弱いものでは知らない街より、一度いった街など このように考えると感染は人のすべての行為に作用していることがわかります。
853 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/26(月) 12:37:01
感染の強弱において、強を収束、弱を発散ということができます。 ある対象への収束とは他では代替できないその対象への思い入れであり、 拡散は代替可能な対象への転落です。感染の典型的な例は恋です。熱い思いはいつかは覚めていきます。
↑ おまえ。何処のジジィだ?(・∀・)
855 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/26(月) 18:26:53
ストレスとは圧力である。ある自然な心の状態がありそこに圧力がかかるとストレスとなる。 たとえば自分が車の運転がプロ並にうまいのに運転へたな人の助手席にのせられ我慢するような状態におかれるときだといわれる。 自らひとりに対する圧力よりも他者との関係の中でストレスはうまれやすい。 心が他者と深く関係しているためだろう。
856 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/26(月) 19:00:33
そしてこのようなストレスは感覚的には内部にたまりやすい。身体的疲労が体を休めると解消されるのに、心の疲労は解消されにくい。 なんらかの形で意図的に放出する必要があるように思う。 ストレス解消で運動や遊びというのもあるが一番はやはりおしゃべりではないだろうか。 精神分析を出す迄もなく、友達との愚痴や、サラリーマンの仕事のあとの酒など
857 :
考える名無しさん :2007/02/26(月) 21:22:43
その通りです 「楽しい」おしゃべりが不可欠なのです 大切なのは、ストレス反応に適切に対処する感情コンピテンス の獲得することが必要なのではないでしょうか? なぜなら、ストレス反応というものホルモンなどの内分泌系のみならず 免疫系にも作用するやっかいな一面をもっているからです つまり、ある情報をキャッチすると大脳辺縁系の感情中枢によって評価をうけるわけです そして、その情報を脳が脅威と評価すると、脳幹の視床下部が副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモンを出します これは下垂体を刺激して、下垂体は副腎皮質刺激ホルモンを放出します 次にこのホルモンは副腎皮質を刺激して、ストレスホルモンである コルチゾールを血中に放出するわけです また、一連のストレスホルモンリレーとは別に視床下部は 交感神経系を通して副腎髄質を刺激し、アドレナリンを産生し放出します これにより、心臓血管系・神経系が刺激を受けます 何がやっかいかと言うと、慢性的にストレス反応が生じることです 例えば、コルチゾールの濃度が慢性的に高ければ、 免疫系を抑制したり、腸に潰瘍を発生させたりするし、 アドレナリン濃度が慢性的に高ければ、血圧をあげ心臓に害を与えます つまり、過剰なストレス反応は生化学的コミュニケーションを乱し 身体の恒常性を崩すわけです
858 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/27(火) 08:45:33
人生の作業ゲー化が進む。対策は愛しかない。愛とは対象への思い入れであり、感染である。 他者との関係の中でしかみいだせない。悲しい動物も一つの感染である。
859 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/27(火) 09:02:48
下部構造としてのはてなブシステムがある。
860 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/27(火) 09:56:24
「作業ゲー」ではメタ目線が含まれている。 ゲーム製作者の意図、情報など界隈の事情などの知識を持ち得ることに関係する。 しかし人生にはそのような制作者はいない。 マルクスの資本主義、構造主義の言語(ラング)、最近ならば資本主義システムとしての 「帝国」、フラット化などが、世界を設計するプログラムである。 メタを目指す視線であると言える。 たとえば経済学などが世界の法則であるように考えることは、メタな読みである。 しかし本当に社会のメタ言語は存在するのだろうか。
861 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/27(火) 10:34:04
これは情報化社会の一面であるといえる。はやく人生ゲームのメタ位置を確保し、優位な位置をしめ安心したい。
いちいちメタメタ言うのなんてやめたらどうですか? そんな仮想的な檻を仕立てあげて、その中に自己を閉じこめることで 束の間の安心を貪るのも一つの生き方でしょう でも、ぼくは外から檻を眺めるでしょう 動物園のように、「ぴかあ」と書いてあるプレートがかがけられた檻をね
863 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/27(火) 14:56:05
言葉にするということは拘束を感じる。思っていることと言葉にしてしまうということには 大きな差がある。いってしまうことでさらに自己確認として回帰する。
体を動かしましょう
メタはメタのために死ぬ、そしてメタがメタになる。 人間がいなければ全ては、すでに、メタでなくともよいメタ、である。 どこからどこまでがメタか?この問いへの答えすべてが嘘だ。
心身ニ元の二重螺旋運動とは、合同回避継続ということだろうか。
867 :
考える名無しさん :2007/02/28(水) 09:45:22
メタとはメタボリックですか? ネタですか?
868 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/28(水) 12:29:23
快楽とはなにが一つのテーマです。モンスターハンターにはまっていますが、モンスターとの格闘の興奮はなんでしょうか 格闘中はまわりが見えなくなり画面に集中し体が緊張し興奮します。 また強敵はわずかなスキをついて勝つしかないわけで、プログラムなので動きのパターンを読もうとするのですがなかなかかしこ そこには高度な疑似的な他者がいるわけです。 しかしこのような没入とは別に、人はかならずこの状況を俯瞰するメタ視線があります。 鏡をみてそれが自分であると認識できるように、どんなにリアルに、ヴァーチャルになろうとこれがゲームの設定であることをわすれることはない。 やはりゲームの中はさびしいです。そこにはこの楽しさを分かち合える誰もいません。 たとえばモンハン2が先週発売されてから、携帯ゲーム板は祭り状態です。 まちわびた興奮をともにいわい、ゲームをしては同じ失敗、成功を語り合い興奮する。 その興奮を共有し、そしてまたゲームを楽しむわけで、そこに共同性の興奮(すなわちまなざしの快楽)があります。 すなわちモンハンをみんなが楽しんでいるから楽しいという、身体的な没入とは異なる精神的な感染が作動しています。 これは二元論でありつつ、また混在し相補的です。かつての狩猟時代にも二元論はあったでしょう。狩りはゲームと比べものにならないぐらい没入するでしょうし、それを祝祭により感染するでしょう。
869 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/28(水) 12:38:16
ならばストレスは他者を伝バンしつづけます。主に弱いほうへ。 いじめの問題とはストレス社会のストレスの出口なのかもしれません。 会社内のストレスが父から母へそして母から子へ、そして学校でいじめられっこいきつく。 ストレス社会を生むもの社会の流動性です。テクノロジーは身体をさまざまな場面に張りつけますが、心はついていけません。 他者はストレスを解消するものから沈黙の抑圧にかわります。 だからネットコミュニケーションはおしゃべりであり、ストレス解消の場です。
870 :
考える名無しさん :2007/02/28(水) 13:29:06
例えば、視覚機能を考えてみましょう 「見える視覚」と「見えない視覚」があることが知られています 「見える視覚」は簡単に錯視図形に騙されます しかし、「見えない視覚」は錯視に騙されず正しい対処を行います 私たちの意識は、「見える視覚」に依存しています だから、すぐに騙されるのです むやみに見えるものに頼らず、一端カッコに入れて見てください そして、身体反論の為すがままに任せて観るのです そう、「見えない視覚」を働かせることにより 私たちがでっち上げた虚構世界の呪縛から、自己を解き放つのです
871 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/28(水) 16:09:31
■身体的な没入と精神的な感染 身体的な没入と精神的な感染 モンスターハンターにはまっている。モンスターとの格闘の興奮はなんだろう。格闘中はまわりが見えな くなり画面に集中し体が緊張し興奮する。また強敵はわずかなスキをついて勝つしかないわけで、プロ グラムなので動きのパターンを読もうとするが、なかなかかしこい。そこには高度な疑似的な他者がいる。 しかしこのような「身体的な没入」とは別に、人はかならずこの状況を俯瞰するメタ視線がある。鏡をみ てそれが自分であると認識できるように、どんなにリアルに、ヴァーチャルになろうとこれがゲームの設 定であることをわすれることはない。やはりゲームの中はさびしい。そこにはこの楽しさを分かち合える 誰もいない。 たとえばモンハン2が先週発売されてから、携帯ゲーム板は祭り状態である。まちわびた興奮をともに 祝い、ゲームをしては同じ失敗、成功を語り合い興奮する。その興奮を共有し、そしてまたゲームを楽し むわけで、そこに共同性の興奮(すなわちまなざしの快楽)がある。すなわちモンハンをみんなが楽しん でいるから楽しいという、「身体的な没入」とは異なる「精神的な感染」が作動している。これらは二元論 でありつつ、また混在し相補的である。
872 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/28(水) 16:10:34
「可哀想な動物」 「可哀想な動物」というのがある。最近では崖に取り残された野良犬、少し前なら矢が刺さったカモな ど、連日放送され、テレビでも話題になる。しかしここにいつも違和感があるだろう。毎日大量の動物が 殺されているという事実の差である。保健所では犬猫年間400.000頭が処理されているという事実があ る。崖に取り残された犬も話題にならずに、保健所に捕まえられれば、処理されていただろう。思春期に は誰もが一度は考えるこのギャップをどのように考えればいいのだろうか。 このような特定の対象への志向性が「精神的な感染」である。そして人はどんな場合に感染するか考え ると、感染には強弱がある。強いものは親や恋人、親友など、弱いものでは知らない街より、一度いっ た街などこのように考えると感染は人のすべての行為に作用していることがわかる。 感染の強弱において、強を「収束」、弱を「発散」ということができる。ある対象への収束とは他では代替 できないその対象への思い入れであり、拡散は代替可能な対象への転落である。感染の典型的な例 は恋だ。そして熱い想い(収束)はいつかは覚め(拡散し)ていく。
873 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/02/28(水) 16:11:08
人生の「作業ゲーム」化 ゲームマニアに「作業ゲー」という言葉がある。RPGなどでは経験を積むことでレベルをあげる方式がと られる。キャラクタが成長していくのがゲームの楽しみであるのだが、それが面倒な反復でしかないと感 じる退屈なゲームを「作業ゲー」という。これは主観的なものであり、多くはいくつものゲームの人生を経 験したゲーマーでは先が見えてしまうということ、ゲームに対するメタな視線によりこのゲームの制作側 が見えてしまうということだろう。「これは経験値を上げさせる設定だな。」このような予測可能の退屈さ によって感染は発散する。感染を維持するのは、予測可能と不確実性のバランスが重要である。不確 実が多すぎても難解すぎる。 はてさて、本当の人生は「作業ゲー」化していないだろうか。ボクは科学技術の発展を予測可能性の壁 といった。社会の予測可能性は高まっている。しかしそれ故に不確実性のギャップが広がっている。そ れは人を不確実をさけ予測可能性に引きこもる保守化にむかわせるだろう。予測可能性が檻として作 動する。この中では娯楽が発達する。退屈な日常の解放を、安全な危険に求める、ジェットコースター は恐いがそれは安全に支えられている安全な危険である。すなわち感染の発散を補うために、身体的 な没入に向かっている。すなわちより体感的な興奮である。 これは「動物化」といわれる傾向であるが、人生が「作業ゲーム」化すればするほど、このような「身体的 な没入」に向かうのであるが、また反動として「可哀想な動物」のような過剰な「精神的な感染」を呼ぶ。 これは切り離すことができない。
874 :
考える名無しさん :2007/02/28(水) 16:22:19
ちょっとした下心と退屈しのぎの出会い系のメールで何度かやり取りをしていた、若い子と、 つい先日のこと、幸か不幸か、確認できる最寄の駅前で落ち合い、お互い直ぐに確認し合えまして...。 その子は、本当にどこにでもいるような、マジメそうでかわいい顔立ちの女の子で、クルマに乗せると、 コートの下は、淡い色のブラウスとミニスカートから覗く膝や、脹脛、ブラウスを押し上げている胸はどう見ても18才だとは言っていたが、 成熟した女の体つきで、でもどこか懐かしい思いがしたのでした。
875 :
考える名無しさん :2007/02/28(水) 16:25:15
「おじさんでびっくりしたぁ?」と聞くと、 意外な答えで、「うう〜んわかっていたから平気」と言われて、一瞬どきっとさせられましたが、その時はただそれだけだったのですが。 続いて「間違ってたらゴメンナサイ。もしかして高校時代バスケットをしていた大内さんですよねっ?」 って聞かれて、それまでありふれた名前でメールしてたので、改めてどきっとされられ、慌てて、つい つい 正直に 「ええっあっそう...どうして?なんで知ってるの?」と明らかに慌ててしまって....。 その子はにこっと笑いながら、「母の卒業アルバムで見て知ってます 実は私、×沙耶香っていいます。 私の顔に見覚えありませんか?」と、どぎまぎする私の顔を覗き込んで、いきなり切り出してきたのです。 確かにこの子に感じた懐かしい思いは、高校時代付き合っていて、お互い初体験をした×順子に似ていることに気づかされたのです。
876 :
考える名無しさん :2007/02/28(水) 16:30:23
精神性ビギナーです。 精神性が高いとどんな良い事があるのですか?
『ボク』という記号、『ボクたち』という言語ゲーム
878 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/01(木) 08:23:32
いま、ボクたちの解決は効率向上による低コスト化という「コンビニエンスな」方法のみに集約されつつあるようにおもう。 コンビニエンスなつながり、快楽、他者、終わり(孤独死) より多様な解答をもつべきであり、贈与という埋もれた資源を効率的に使えないだろうか
879 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/01(木) 08:38:05
ネットが無償の労働でなりたっていることは、他者のためになにかをしたいからだ。 たとえ自分が楽しいからやっているだけだとしても、他者のためになにかをしたいと対立しない。 他者のためになにかをすることが自分が楽しいということであり、自分だ楽しいから他者のためになにかをしたいということである。
880 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/01(木) 08:43:27
最近ならウェブ2という創発性としてのネット可能性があるのではないだろうか トフラーがいうような潜在性である。
881 :
考える名無しさん :2007/03/01(木) 12:21:59
ヤング波平2007/03/01 (木) 02:01No.10923 はじめて文字を投稿するので文章が下手ですみません。 なぜ、自分がこのHP上に書き込むのか、怒りを覚えているにもかかわらず、悔しくも興奮しているからなのか。 ここに書き込みされている話しのどれだけが実話なのか。。何度か このHPを訪れ、皆さんの投稿したお話を読み作り話だろうと思っても、擬似的に興奮したり、投稿画像でコラをつくって妄想したりして楽しんでいました。 しかし、現実に自分の身の上に、妻の浮気の発覚がふりかかると、えもいわれぬ気持ちです。 私は35歳、妻は38歳、年上女房ですが、私にしてみれば手に入るはずもないと思っていた高嶺の花でした。 自画自賛して申しわけないですが、料理も上手だし、上品だし、美人だし、体も大好きでした。 結婚してから、一度も浮気したいなどと考えたことはありません。何年経っても、妻に夢中でした。妻も、同じ気持ちだと考えていたんです。 しかし、昨日、夕食後、私を突然地獄に突き落としました。妻『言いずらいことだけど、言わなくちゃいけないことだから・・・はっきり言うけど 私、ちょっとアソコがおかしくて産婦人科へ行ったの。。』私は顔色が変わりました。。 マズい!こんなに愛する妻が子宮ガンにでもかかったのか!?そう一瞬考えただけで、心臓がはりさけそうでした。 私『うん。それでよく診てもらった?』 妻『うん。。言いずらいんだけど、結果から言うとクラミジアだって。 それで、あなたにもうつってる といけないから、言わなくちゃと思って。。』 そうか、ガンではなかった!よかった!!・・・ほっとしたのもつかの間ん!?待てよ?!?!? アタマはフル回転しました。私は風俗すら行ったことないし、ましてや浮気もしてない。 なぜ、妻がクラミジアに? 私は妻の顔を見ました。妻『あのね・・・。ごめんなさい。浮気してました。』 何が起こったのかわかりませんでした。
882 :
考える名無しさん :2007/03/01(木) 12:25:15
私の妻が!!他の男とセックスを?なぜだ?どうしてだ。 何が起きた。このあと、聞いた話で、妻の浮気相手が仕事関係であること。 妻は店をやっています。そこに出入りする男が相手でした。相手の男にも家庭があります。相手の年齢は45歳。 私も面識があります。3人で飲んだことも。関係は半年くらいだそうです。毎週のように会っていたことを考えるとセックスは30回以上はしているのでしょう。 妻は私と別れたくないと言います。どこかでやめなきゃと思っていたけれど、ずるずると続いてしまったようです。 私は妻を愛しているので、むしろ別れたくありません。妻に怒りを覚えるよりも、相手の男に激しい怒りを覚えました。 けじめとして、当然、慰謝料の請求などをしますが、そのへんの対応についてはここに書いても、掲示板違いになりますので省略します。 私は、だいたいの話しを聞いたあと、昨日のことですがすぐに決断しました。
883 :
考える名無しさん :2007/03/01(木) 12:53:01
四年間〜ひきこもる、 ぴかあー若ハゲ波へい。 平日にアゲ続ける。 哀れ
884 :
考える名無しさん :2007/03/01(木) 17:52:33
ぴかあさん あとしばらくしたら、たまにしか寄れなくなりそうです 自己の弁に陶酔しないためにも先人のアホリズムを 心の片隅において、忘れないでください 「「みんなの意見」は案外正しい」
885 :
考える名無しさん :2007/03/01(木) 19:40:58
ぴかぁから自己陶酔をとったら何も残らんがね。
886 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/02(金) 00:01:14
最近、文章がすっかり長くなって、ブログで読む長さを明らかに越えている。 なぜ文章が長くなるかは、買い慣れたということがある。 「書き慣れた」という意味には色々あるが、上達してという意味があるが、 考え方がパターン化したという意味がある。 特にディスプレイで読むという物理的なことを考えると、長さに限界があるように思う。 ディスプレイで長い文章を追うことはほぼ不可能である。ボクはディスプレイで 長文を読むときは、一度、テキストエディタでコピペして、マーキングしながら読むようにしている。 だから、もっと言いたいことを、簡潔に書くべきである。 それをわかっていてなぜ長文になるのかは、書くことそのものは一つの快楽であるという、 エゴイズムがある。
887 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 05:17:51
馬鹿丸だし
888 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 07:36:58
語彙か乏しい。 素人丸だし。 小学生か? 2chだから何でもありか?w
889 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 07:38:27
ボクのプロレス感想
890 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 08:12:06
コテスレ削除〜 運営に問題あるな。 ぴかあーは削除人か?藁 ぴかあーしかかいてねーじゃん。笑 規約違反だろ。
891 :
短パン :2007/03/02(金) 08:16:43
解き放たれて、好きに書くしかない者と、 制約をあえて従えても、表現にあえぐ者との差か? どぅしたよ?
892 :
短パン :2007/03/02(金) 08:19:03
「心身二元の二重螺旋」の緒言には、興味がある。 書いてくれないか? ん?
893 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 08:44:04
短パンは器がでかい。 だがチンポは小さいとボクはいった。
894 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 08:53:51
ニートのアホパンと ひきこもりの馬鹿ぴかあーw 孤独死 ニヤニヤ ん?職安は?
895 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 08:57:02
はよ、樹海いけよ。 ゴミ二匹w 短パンとぴかあーはよ。 いずれいくんだからよ。 凡人素人へ。 餓死したいか? 苦しいぞ。 プ
896 :
未来のぴかあー :2007/03/02(金) 09:22:19
親が死にました。 金無くなり、樹海に行きます。 ホモ達の短パンも 一緒に逝くそうです。 金くれよ。泣 では、サヨウナラ。 負け素人ただのニートより
897 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/02(金) 10:16:24
ネットの不思議は、なぜこれほど短期間に爆発的に普及したのか、ということです。 一つの転機はwindous95で、ネット接続が組み込まれ、容易になったことです。 資本主義的なシステムを補完するためには、開かれたインターネットよりも、 セキュリティがしっかりした閉じたイントラネットが良いわけです。 それでも、ネットによって、様々な商品を購入することが可能になった面はあります。 グーグルのアフェリエイトの成功は、広告を資本とは関係がないところに置くことです。 趣味で行われている個人のブログなどに、置くこと。 それはネットにおいて人々が集うところが、資本と関係がないことところだからです。、 ボクが言いたいことは、柄谷的な3元 資本=国家=ネーションにおいて、 資本が強い現代で、地域コミュニティや終身雇用的な会社のようなコミュニティ(ネーション)が 解体されていく中で、ネットはそれを補完するように発展したということです。 もっといえば、ネットへ想像的なものが移動したために、 地域コミュニティや終身雇用的な会社のようなコミュニティ(ネーション)が解体を早めたと いってもいいかもしれません。 それが、ネットこれだけ短期間で発展した大きな理由の一つではないでしょうか。 資本主義システムを補完するためでも、それにかわるシステムとしてでも、 あるいは監視社会のためでもなく、 だからもはやネットにおける無償で労働や、繋がりの社会性を求めるような傾向は 切り離せない。
898 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/02(金) 10:37:40
グーグルのアフェリエイト以前は、ネットの大部分は、資本と関係がない いわば「野蛮な領域」と考えられ、避けられてきました。 広告があっても、まともな企業が広告を出すようなところではなく、あやしい企業が 出す領域だった。 グーグルはの成功は、そこにまともな広告を展開することが可能にした。 これによって、大きな鉱脈を掘り当てた。 ボクは、いろいろ神話的に語られますが、グーグルの成功はこの1点であるといってもいいと 思います。 しかしこれはネットそのものとっては、大きな問題ではないと思います。 NHKでアフェリエイトで生活する青年が取り上げられていましたが、 所詮、あの程度です。 また企業がグーグル検索の上位を競うという話がもありましたが、 それはあくまで「あちら側」の話であって、「こちら側」とは別物です。 「こちら側」の本質は、ネーション的な熱狂にあるわけですから、 それらはあちらとこちらの境界に生まれる端部の現象です。 たとえばボクがネーション的という意味は、 たとえばWinnyのような資本の論理を崩壊しかねない革命的な現象も、 単に繋がりたいというだけの単純な遊びでしかないということです。 ファイルがほんとうのほしいと言うようrも、ファイル交換されたときの 繋がれた無邪気な喜びでしかないということです。
899 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/02(金) 10:42:35
一般的言われるネットの問題は、一方でこちら側の些細な無邪気な行為が、 あちら側では革命的な波紋を与えてしまうということです。 近代において分離した資本=政治=ネーションの3次元が、 現代より資本が解離し、グローバリズム、帝国、フラット化などのように 「透明で不気味な怪物」として語られるまでになった中で、 取り残された感があったネーションもまたネットによって 「野蛮な化け物」として浮上してきたということでしょうか。
900 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/02(金) 10:51:12
だからウェブ進化論はもちろんですが、グローバルビレッジも、スマートモブズもプロシューマーも生産的すぎる すなわちあちら側からの味方であるということです。
901 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/02(金) 11:01:04
やはり本質的にみながあちらがわで生活する人間なので、こちら側から語るというのはむずかしい。 だからネットは野蛮でいい加減で破壊的で非生産的であるということがもっとも適切であると思います。 2ちゃんねるのようなこと特別なことではない。 だから生産性は資本に求めるべきでネットはいかにうまく防衛し利用するか、考えるべきです。 それでもネット言う野蛮は暴走しつづけるでしょう。
902 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 11:24:52
書き慣れて長文になるとかいうヘンテコな理屈はともかく、慣れてるなら誤字脱字何とかせい。 自己陶酔型妄想狂ぴかぁ。
903 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/02(金) 11:38:20
こちら/あちらの対立は天使と悪魔である。
『ボク』 『ボクたち』
905 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 12:07:28
まあな、確かにカクのは快感だわな。
906 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 14:23:50
会社員になれないぴかあー時間があまる。 職歴無し。 就職不可。 年下ヤンキー面接官に爆笑される。 不採用。
907 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 14:25:47
ぴかあーは アホコンビニ店員も無理。 働けねーゴミは氏ねや。 親に迷惑かけんな。 おまえはへらへらした悪魔か?
908 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 14:40:46
ぴかぁの父親は 就職して おまえの飯を確保し続けたが、 おまえはどうすんだ? ニヤニヤ
909 :
考える名無しさん :2007/03/02(金) 22:53:37
しろうとは何処にいるの? 今日はぴかぁ〜はお休みですね。
910 :
考える名無しさん :2007/03/03(土) 22:38:26
波平=ぴかぁ〜は何処に行ったのか?
911 :
考える名無しさん :2007/03/03(土) 23:10:21
純一こそどこいったのだろ?
912 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/04(日) 17:12:19
ブログ管理はいかようなものか。コメント、トラバ削除の基準はどのように考えるべきかを考える「事件」がありました。 ボクのスタンスはひぼう中傷は即削除 返答も気が向いたらという感じでやっています。 ボクは本質的にネットコミュニケーションはつたわらないもの、つなわり方が冷たくつまわるものと考えています。 某ブログで口論になりました。まずボクが彼のブロクの内容に言及したわけです。 その彼のコメントへはいくつかの否定的な言及がありそのうちのいくつかであり、彼もそれについて弁明?しています。 しかしボクは注意をはらい言及したつもりでしたが、なぜかボクのブログにはコメントとは関係ない、ボクのブログの内容はいいかげんで読者をだましているとコメントがつきました。 即削除し、彼をコメント拒否にしたわけですが、コメントを削除された彼は自分のブログに書いたわけです。ボクはトラバも拒否しました。
913 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/04(日) 17:13:05
本来のボクならそれで終了ですが彼を昔から知っている、2ちゃんねる仲間だったので気になり、彼のブログになぜそのようなことをするのかコメントしたわけですが、 彼は本題にはいっさい触れずにただ感情的に中傷を繰り返すだけです。 これを簡単に考えればいままでも感情的に口論になることがあり、恨みがたまってボクのコメントと関係なく、きっかけとして切れたということでしょうか。 ボクが気になったのが、単に中傷をいいたいなら他に方法があるからです。 ある程度、人気がある自らのブログ上での管理能力の低さです。 一つはコメントを消すのが卑怯だから私は消さないという考えでした。
914 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/04(日) 17:15:24
一つの考え方として、消すということはそこに主観的価値判断がはいり、都合悪いものを隠蔽するという権力が発生します。 この辺りの公開性はネットに求められるものでありますが、2ちゃんねる的であるように感じます。すなわちそこにすでに大きな権力が発生してしまっている場合に当てはまります。 そもそもブログでは他のブログに開かれていることに意味があります。だから削除されてもコミュニケートすることは可能です。 たからボクはコミュニケーションの困難さを重視します。
915 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/04(日) 17:20:39
ボクはネットコミュニケーションがどこのだれかわからないひとがテクストだけが届くという、 コミュニケーションの極限にあることに自覚的であるべきだとおもいます。 たしかに2ちゃんねるではそれが通用します。むしろそれを可能にするためにつくられたともいえます。 しかしブロクなどではそれは通用しない、削除、放置されても仕方がないことを知るべきだと思います。
916 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/04(日) 17:28:02
特にこのような一言批判の暴力がつかられているのが、ブクマです。 ブクマが暴力としての有効であることも自覚しています。 ブクマにはマジレスされず気軽に嫌味なことを書ける。削除されない。 つたわらない短いコメント
917 :
考える名無しさん :2007/03/04(日) 17:33:43
お前、こういう素の文をかくと、その稚拙さ表現力のなさが一目瞭然だな。 コムヅカシイ理屈こねる前にやることあるだろ、ボクよ。
918 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/04(日) 22:24:52
ブログ事件 ブログ管理はいかようなものか。コメント、トラバ削除の基準はどのように考えるべきかを考える「事件」 がありました。某ブログで口論になりました。まずボクが彼のブロクの内容に言及したわけです。その彼 のコメントへはいくつかの否定的な言及がありそのうちのいくつかであり、彼もそれについて弁明?して います。しかしボクは注意をはらい言及したつもりでしたが、なぜかボクのブログにはコメントとは関係 ない、ボクのブログの内容はいいかげんで読者をだましているとコメントがつきました。即削除し、彼を コメント拒否にしたわけですが、コメントを削除された彼は自分のブログに書いたわけです。ボクはトラ バも拒否しました。 本来のボクならそれで終了ですが彼を昔から知っている、2ちゃんねる仲間だったので気になり、彼の ブログになぜそのようなことをするのかコメントしたわけですが、彼は本題にはいっさい触れずにただ感 情的に中傷を繰り返すだけです。これを簡単に考えればいままでも感情的に口論になることがあり、恨 みがたまってボクのコメントと関係なく、きっかけとして切れたということでしょうか。単に中傷をしいたい なら他に方法があるからです。それは彼にしかわからないことで推測しても仕方がないことです。
919 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/04(日) 22:25:36
コメント、トラバ削除のリテラシー ボクが気になったのが、コメントを消すのが卑怯だから私は消さないという考えでした。一つの考え方と して、消すということはそこに主観的価値判断がはいり、都合悪いものを隠蔽するという権力が発生し ます。この辺りの公開性はネットに求められるものでありますが、2ちゃんねる的であるように感じます。 すなわちそこにすでに大きな権力が発生してしまっている場合に当てはまります。そもそもブログでは 他のブログに開かれていることに意味があります。だから削除されてもコミュニケートすることは可能です。 たからボクはコミュニケーションの困難さを重視します。 ボクはネットコミュニケーションがどこのだれかわからないひとがテクストだけが届くという、コミュニケー ションの極限にあることに自覚的であるべきだとおもいます。たしかに2ちゃんねるではそれが通用しま す。むしろそれを可能にするためにつくられたともいえます。 しかしブロクなどではそれは通用しない。削除、放置されても仕方がないことを知るべきだと思います。 ボクのスタンスはひぼう中傷は即削除。返答も気が向いたらという感じでやっています。ボクは本質的 にネットコミュニケーションはつたわらないもの、つなわり方が冷たくつまわるものと考えています。これ に自覚的ない人が多いように思います。 誹謗中傷のようなことをいえば、ネットでは炎上するのは当たり前です。そこでは自らのプライドをかけ たものになります。それを自らのプログですることの不注意すぎます。
920 :
考える名無しさん :2007/03/04(日) 22:57:02
これが 書くことに『慣れた』やつの文 とは、とても思えんな。 ジャーゴンがないと、剃毛されたホウケイちんこみたいだな。
921 :
考える名無しさん :2007/03/04(日) 23:45:16
まさにオナニー。 本人は気付いていない。 テレビでたまに出る晒しもんで笑われる素人みたいだ。 オンチなのに歌を歌い続けるオタク男同類。
ぴかぁ〜ちゃん負けんでよ〜!
ぴかぁ〜ちゃんいなくなってよ〜!
924 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/06(火) 20:33:21
健康を商売にすることでも問題は、あるあるで暴露されたが、 より気持ちが悪いのが、「最終警告!本当は怖い家庭の医学」である。
925 :
考える名無しさん :2007/03/06(火) 22:35:42
確かに気持ち悪いが、お前の書く文ほどではない。
926 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/07(水) 08:42:30
ブクマの快楽とはなにか 民主的な抑圧の顕著な例が学校である。いじめはその一部であるようにおもう。 なぜはてなはコミュニケーションに恐怖するのか。貧弱なコメント欄、ブクマなコメントの抑圧 ブクマの快楽は軽い参加であるが、確実な参加であるが、その先に2ちゃんに向かうのではないか マスメディアが行う視聴者参加型という茶番を2チャンはあっさり達成した。 特にニュース+は秩序あるほうであるが、スキャンダラスに偏る、議論を可能にしているいいにくい。 グーグルは量的に重み付けする。ディックは2ちゃん以上を越えていけるのか 量を求めるとき発散にむかうしかない。質を求めてブログは発生し、再び量に回帰する。 マニア化と一極集中はネットの両端にあるのだろう。 しかし質的なマニア化が動力であり、ネットの可能性である。量化は事後的なものでしかない。 ネットが夢見た民主化は平等に抑圧されたものからの解放である。ひとは同じではないという端的な事実の解放である。 平等がもつ重要な倫理を継承しつつ、平等から解放される可能性である。 ネットの質の解放とは 専門家と素人が同じ一票に還元されてもよいのか。しかしまたこれは危険である。ネットは抑圧された質を解放する。発言を可能にする。
927 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/08(木) 09:02:48
精神分析と心理学の違いは量子力学的である。従来の物理学が対象に対して客観的な位置から観察することであったが、 不確定性原理が示したことは観察が観察対象に影響を与えてしまうことである。 精神分析においては対象(患者)をみる客観的な位置は存在しない。すでに医者も巻き込んだ場が形成される。 これこそがコミュニケーションである。コミュニケーションにおいて純粋なメタ位置は存在しない。 精神分析がさらに示したのはこの場がとても緊張を孕んでいることである。 そこでは相手に対して転移がおこる。他者は私であり、私は他者であるという所有権の問題がおこる。 これが良好ならば愛であるがそれは憎しみの裏目である。 しかしこのような想像的な関係では生産的な活動がむずかしくなるために、超自我という規律により関係は調停される。 みななんらかの社会的役割を演じる。父、母、子、恋人、友達、先生、生徒、上司、部下など このような象徴的関係が想像的関係を抑圧しつづけている。この作用の影響は子供がことばを習得することに対応するように深い。 ネットの匿名とはある部分で超自我の抑圧が回避される。社会的役割から解放されることで、愛憎という想像的な力が回帰する。 ネットコミュニケーションがどこのだれかわからない匿名同士の短期的な関係にかかわらず、実社会のものように身近なものに感じるのはこのためであり また極端には炎上のような闘争関係にいたりやすいのもこためである。 ネットのリテラシーとしてこのようなことは知ってほしいと思う。
928 :
考える名無しさん :2007/03/08(木) 10:35:53
ここで一つ注意が必要です 量子力学的な意味合いでの観察が 対象に影響を及ぼす不確定さ つまり、光の性質により、位置の測定と運動量の測定が 相互に影響を与えてしまい 測定結果にズレが生じてしまう不確定な現象 しかし、これはあくまで量子の世界でのスケールのお話であり これを日常のスケールで捉え直してみると だいたい10の−34乗という、 日常生活に全くなんら影響を与えない数値なのです スケールの違う世界をあたかも同じスケール上に乗せて おとぎ話を創作するお馬鹿さんが多いですが 皆さんはカテゴリーミステイクに気をつけなさってください
929 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/08(木) 12:12:29
さらには明確に答えのある議論などないし、ただ冷静な議論自体もなく、議論そのものがおもしろい。 そしてどこにもいきつかず堂堂巡りのなかでの馴れ合いが感情的にむかう。
930 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/08(木) 12:27:53
だから匿名だから荒れるとはかぎらない。けんめいは逃げ場がなく闘争が壮絶になる。 とにかく理解し、成立しているようにふるまうという共犯関係としてコミュニケーションは成立する。
931 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/08(木) 12:29:50
ブログなどみずからの管理範囲があればそれを使い、安定をはかる必要がある。
932 :
考える名無しさん :2007/03/08(木) 15:14:57
反響無し。 ダット落ちが恐くて毎日カキコミ。アホ。 ネットカフェホームレスになれよ。親しんでね。プ
933 :
考える名無しさん :2007/03/08(木) 15:17:11
このキモいの何年間、うんこなの? 就職もう無理だから放置かなw 餓死ホームレス未来。 ざまあーw
934 :
考える名無しさん :2007/03/08(木) 15:27:37
平凡ニートぴかあーの一日 起床 糞 ママでオナニー ママの飯 昼寝 無言 うんこ 父帰宅 おびえる 2ch 夜 就寝 毎日繰り返す。 親もただ食うだけの肉の塊飼って大変だな。藁
935 :
考える名無しさん :2007/03/09(金) 10:48:49
まだ?
936 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/09(金) 11:14:47
■市場主義的「コンビニエンスな」解決の閉塞とネーションとしてのネットの可能性 市場至上主義による「コンビニエンスな」解決への一元化 市場至上主義傾向の中で、ボクたちの解決策は、効率向上による低コスト化という「コンビニエンスな」方 法に一元化されつつあるように思う。社会的な「問題」は開発課題となり、汎用的な商品となり、効率的に 安価で提供される。コンビニエンスな快楽、コンビニエンスな繋がり、コンビニエンスな老後、コンビニエンス な環境問題策、コンビニエンスな死(現代の「自然死」が孤独死であるのは悲しすぎる。)現状ではこれ以上 の問題解決策をボクたちは持っていないだろう。ボクはこのような一元化を、「お金があればなんとかなる 社会」=「お金がなければどうしようもない社会」と呼んだ。そして格差社会の問題は一元的にしか出口が 見いだせないことにあるだろうといった。
937 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :2007/03/09(金) 11:15:20
想像的な「ネーション」としてのネットコミュニケーション もはやボクたちは市場経済による効率向上による「コンビニエンスな」方法に依存しなければ生きていけな い。しかしまた市場主義による自由競争は社会の不確実性を高め、格差を生む。たとえばそれは、暗闇の 中の宝探しゲームのようなものかもしれない。そこには情報が重要になる。宝の在処の地図、道を照らす 明かりを持つ者は「予測可能性の壁」を拡張し、宝まで迅速に安全にたどつけ、勝ち続けることができる。 しかし持たざる者は暗闇の中で安易に動けず、身の回りの小さな「予測可能性の壁」に囚われる。そして人 生は作業ゲー化し、コンビニエンスな身体的快楽に没入し、「誰かのためになにかをしたい」という想いは、 「可哀想な動物」に感染し解消される。ネオリベラル(ネオコン)では、そのような格差はある程度許容され つつ、国家(政策)によって解消されるいうことだろうが、実際には不確実性の高さから十分に対応されるこ とは期待できない。 柄谷的にいえば、このような資本と国家とともに重要になるのが、ネーションという「想像的なもの」である。 いわば、暗闇の中で動けない弱者たちが、「そっちはどうだ。大丈夫か」と互いに声をかけ、情報交換を行 い、「予測可能性の壁」を拡張するように助け合う。ネットに求められる役割とはこのようなものではないだ ろうか。しかしこの例えは、宝物を獲得することのみを目的化にしている点で、市場主義的である。本当の 宝物は宝物を探す中で生まれた他者との繋がりだった、という童話風な解もあるだろう。宝物(幸福)がな にかは、「開かれ」ていなければならない。それも「想像的なもの」としてネットに求められるもの一つだろう。
938 :
第三の波平 ◆V8RGN/F1uY :
2007/03/09(金) 11:16:23 「群衆の叡智」は質的な出会いによって生まれる可能性 ネットに限らず、ボクたちが求めているのは量ではなく、少ない人数であろうと質のある出会いである。量は 質的な出会いの可能性を広げるためでしかない。そしてネットの可能性としての「群衆の叡智」は、資本主 義では効率化によって排除されきたような、質的な出会いによって生まれるのではないだろうか。 これを具体的に考えると、たとえばある問題に対して、住民投票を行う場合に、現在の民主主義では一人 一票の権利を持ち、多数決を行うことになる。しかし様々な知見をもつ専門家と、特に問題意識もない住民 が同じ1票で良いのだろうか。たとえばTVの歌審査番組などでは特別審査員は10点、一般視聴者1点と いう重み付けを持っているように、すべてを1票という量に還元せずにそこに質的な重み付けを行う方法も あるだろう。 この重み付けの問題は様々な倫理的な問題を含んでいる。誰に重みをおくのかですでにそこに意図が含 まれてしまう、あるいは「言葉を持たない」弱者の意見が排除されるなど。(間接民主主義とはこのような問 題をはらむが) ここでの問題の本質は、質を公開する場がマスメディアに占められて、そこで選ばれたわずかな人しかが 質を披露することができず、その一部の意見に投票が左右されてしまうということだ。そしてネットはいまま で抑圧されていたようなこのような多様な質を公開することを可能にした。選挙そのものは一人一票で行う としても、ネットは投票までの活発な質的な意見の交換、議論の場を可能にした。これがボクがいう、資本 主義では効率化によって排除されきたような質的な出会いによって生まれる「群衆の叡智」としてのネット の可能性の一例である。