自分はクオリアも分厚い氷の檻に遮られているような状態でして
この先の自分の人生を、哲学の力を借りて切り開いて行けないものか
と思い立った次第です。
「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
本当の私は、という時も、それは私ではありません。
いつまで経っても私は私を語れないのです。
私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。
それがおそらく世界と一つだった頃の私。流動する私。
2 :
考える名無しさん:2006/10/22(日) 11:35:09
時間で考えればいいのではないでしょうか?生きとし生けるものはすべて時間に繋がれている。繋がれているものは自分でありクオリアだという言い方をすれば考える行為が時間の余りに相当します。しかし余りの時間というものが果たしてあるかというと
3 :
考える名無しさん:2006/10/22(日) 11:39:59
余りの時間というものが働いている時間同様に作られた時間ということになります。離人症は核に到達するすべを失った状態だと思います。核に到達するということは言葉にすると難しいですが喜びの感情に相等すると思います。そこに至るのが自分でありそれが生であると思います
4 :
続き:2006/10/22(日) 12:00:33
核に到達しないのであれば原因があるわけです。万物は流動的に動き生物は必ずそれに応じて必要なものを必要なだけ獲得するための時間が生じます。余暇は不空(非連続的な時間)の時間でありせれはすぐに消えることになります。必ず獲得の時間はすぐに蘇ります。
5 :
誘導:2006/10/22(日) 12:29:14
>>905 ムートンさん
>「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
>本当の私は、という時も、それは私ではありません。いつまで経っても私は私を語れないのです。
>私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。それがおそらく
>町と、世界と一つだった頃の私。流動する私。
語られるものとしては存在できない‘それ’は、【魂】のことでしょうか?
離人症とは、自分自身や自分の行動、また外界などに対し、実感が伴わない状態。
(goo国語辞典)とあります。
自分自身や自分から開ける世界にたいして実感はないけど、それでもそれらの現前は、
いつかどこかで何ものかにたいして起きている。でもその何ものかが自分自身ではなく、
自分自身や自分から開ける世界とは位相を異にしているため、それらの否定としてしか
存在しない、という形式世界における背理そのものの存在、それが【私】なのでしょうか。
つまり、語られるものとしては存在できない【魂】のことですが。
「万物は流転している」(パンタレイ)のかもしれない。けれども、何ものもその姿を
一瞬もとどめられないのなら、何ものも存在することはできないでしょう。ですから、
今ここに現に万物が現象しているのは、変わらないもの「一」によってであり、「一」は、
万物が流転することの内に〈ある〉……「万物から一が生じ、一から万物が生じる」とも
考えられるでしょう。(ヘラクレイトス)
けれども「一」は比類なきものですから、万物のように「それ自身である」というあり方が
できません。言いかえると、存在者としては存在できないけれど、存在者の存在を可能
にする条件としての「場」として、自らは自らというあり方ができず、「それ自身ではない」
という不在の実体として【ある】、‘それ’が【私】ということになるのでしょうか。
わたしは神の言葉であり、わたしの言葉は万物をうつす。
でも、神だけはうつせない。だから、わたしは神に祈れない。
けれども、神を思うとき、祈りはもうかなえられているのです。
汝ら神に祈るとき、その祈りはすでにかなえられたと信じなさい。
そうすれば、その通りになるであろう。 (マルコによる福音書)
なぜなら、
はじめに言葉あり、言葉は神とともにあり、言葉は神なり。
この言葉ははじめに神とともにあり、万物はこれによって成り、
成りたるもののうち、これによらないものはひとつもなかった。
言葉のうちに命があり、命はひとを照らす光であった。(ヨハネによる福音書)
ということだからです。
何ものかとして語られることのないあなたは、万物のひとつではないから存在しない。
けれども、語られることのないあなたがいなければ、何ものも、ムートンも、存在しない。
流動する私は、その姿をとどめられない、ゆえに存在しない。
流動する私は、あらゆる存在の否定としてのみ〈ある〉。
流動する私も、その存在の否定から逃れることはできない。
流動する私の自己(存在)否定は、現実になりうる可能世界の否定であり、
すなわち、この現実世界の成立です。それは流動する私の存在への刻印であり、
変わらないものの、すなわち「瞬間」(意識の生滅 = 現象)の誕生です。
変わらないもの(同一性)の成立は、同時に存在者(差異性)の成立であり、
流動する私が、この心、この体として、今ここに現実に〈ある〉こと、すなわち、
この「私の世界」の成立の条件が、この「私の世界」の外部、流動する私なのです。
>ムートンさん
いつのまにか落ちていたので、勝手にスレを継続させてもらいました。
(コードはバレバレだったので、そのまま使いました)
前スレ最後の発言は、一般の精神病理学的な離人症解釈を超えて
いるように感じました。哲学的にとても興味があります。
もしよかったら、またお付き合いしてください。(^.^)
10 :
考える名無しさん:2006/10/24(火) 20:20:31
私場賢治
11 :
エヌ:2006/10/24(火) 23:43:07
呼ばれてきました
あっちのスレの話だけど
彼ら(彼女?)の頭に合わせて書いてあげなきゃ理解できないと思うよ
数ヶ月見た彼の傾向からすると
わけわからなくて、書くことなくてレベルダウンなんて書いてるのだろうから
反論してこないのが、その証拠だろうし
12 :
エヌ:2006/10/24(火) 23:48:40
はてな?魂が得意分野だったかな
永久になくならないものが魂だと仮定して
全ての存在は、分解したり集められたりして形が変わろうとも
あるいは体積が変わろうとも質量は一定である
つまりは増えもせず減りもせず永久になくならない
つまりは存在が魂と呼べるのかも
13 :
エヌ:2006/10/24(火) 23:51:33
しかしながら本当の実態は無形で
質量や物質はその表面上のものでしかない
これは余談
14 :
エヌ:2006/10/24(火) 23:53:05
あと実態には境界がない
なのですぐに混沌へと吸い込まれてしまう
これも余談
15 :
エヌ:2006/10/24(火) 23:54:35
カオルさんはどうしてこのスレが気に入ってるの?
>>9が見れない
Jane Doe Styleだと見れないみたい
>>11 エヌさん
いらっしゃい! (^.^)
あのスレは前スレの途中から覗いただけで会話の内容はあまり知らない。(^_^;)
で、エヌさんへのレスに「たぶん魂の話し」って書いてたから気づいたと思うけど、
あれは彼(s)へのヒントのつもりもあって書きました。
もし心ある振る舞いが、心があることなのだとしても、それでも心ある振る舞いと
心は‘つながらない’というのが、彼(s)の言いたいことなのだとしたら、
それこそそれは、いわゆる心のことではなくて、真の心「魂」のことだと思ったから。
もしそうなら、彼(k)の論理に取り込まれて、魂が‘なきもの’にされてしまうのは、
──とはいっても、魂が唯一絶対の存在なのだとしたら、比べるものがなくて
無と見分けがつかないので、もとから‘なきもの’だけど──どうなのかなって。
とりあえず、哲学の範疇で魂を考えるにあたっての入口を紹介したつもりです。
でもここから先は、偉そうなことを言ってるわたしにも考えること自体が困難です。
だから、彼(s)と本質的なところの問題意識が同じなら、一緒に考えられるかも、
と期待したのです。彼(s)、安らかで穏やかなのに気分が悪くなるって言ってたの。
たぶんそれにやられちゃった。
エヌさんのレス、そんなに簡単に書けてしまうのねって感じです。やられたー!
あらためてレスさせてください。(レスありがとう)
17 :
エヌ:2006/10/25(水) 23:53:20
へー、片方の相手は S だたの
彼(s)と彼(k)の話には、割り込む隙がなさそうだし
とても読む気になれない(暗すぎ・・・)
>>17 エヌさん
あっちにかまけて今日もなおざり。ごめんなさい。
もうすぐ書き込まなくなると思うから、それまで見捨てないでください。
>へー、片方の相手は S だたの
いえいえ、そんなわけない。
でも、前にも書いたことあるんだけど、頭文字「S」には縁がありますね。
「sheep」さんも、ほらやっぱり!(笑)
>彼(s)と彼(k)の話には、割り込む隙がなさそうだし
>とても読む気になれない(暗すぎ・・・)
あっちでSGI(創価学会)ごときと決別できないで……と言いましたが、
宗教は麻薬ですから、実際のところムズカシイと思います。
組織のあり方や、組織の人間との人間関係から離れてみても、
たとえば「御本尊」とされている「南無妙法蓮華経」と書かれた紙切れを
破ったり、燃やして捨てることができないらしいから。罰(バチ)があたる!
彼がそのようなことをも含めて恥ずかしいことだと思ってて、今まで
話せなかったこと、その感性は貴重だと思います。でも、今はまだ
真実を見つめようとする感性より、刻印された信心の方が勝ってる。
まぁその意味では、無信心のkさんの教えは「棚からぼた餅」的幸運かも。
でもそれで何かが解決したとしても、それは「ちがう人」を信じた結果であって、
「ちがう神」でもよかった。つまり、自分を見つめたから、そうなったわけじゃない、
ってことです。ここが「分かれ目」かな。自分をみつめることができるかどうかの。
神さまを恥ずかしげもなく持ち出すわたしがいうのもなんだけど。(^_^;)アハ
>>15 エヌさん
>カオルさんはどうしてこのスレが気に入ってるの?
彼の心の病と、その彼がもつ問題意識に関心があります。
心とは? 私とは? 人間の本質に迫れるような気がします。
今は、離人症の彼が、自分や自分の心さえ対象化してしまうこと
について、それはいったいどのような事態なのか、を解明したい。
もしも自分や自分の心をながめてしまう「私」が実在するなら、
それはもしかしたら「魂」のことかもしれないから。
どういうあり方であれ魂が実在するなら、正直恐ろしいと思う。
だって、魂の私が生きつづけて、存在しつづけるということは
死によっては、「私」が終わらないということだもの。
以前、記憶がなくなればそれでいいようなことをエヌさんに
言ったけれども、魂が実在するならきっと、生まれ変わったときに
こんな問いを持つはず──私は、どうしてこの私なのか──って。
……ゾットします。(^_^;)
他のスレでも、この話しばかりしていました。
でも彼の場合、理念のそれではなく、実在する現実のそれです。
彼のように、あからさまにその事態を生きていることは稀でしょう。
形而上学的な試みとして、彼のいう言語で語ることのできない魂を、
それでもその実在についてどこまで語りうるか、に挑戦したいです。
>Jane Doe Styleだと見れないみたい
いつからか、有料になっているんです。
「2ちゃんねるビューア」がないと見れないんです。
20 :
エヌ:2006/10/28(土) 01:37:51
>>19 カオルさん
> どういうあり方であれ魂が実在するなら、正直恐ろしいと思う。
> だって、魂の私が生きつづけて、存在しつづけるということは
> 死によっては、「私」が終わらないということだもの。
当初から実在しているものは決して失われることも無く
当初から実在していないものは生まれたり失ったりするものですがな
実在に恐ろしいという感覚はございませんので、ご安心あれ
21 :
エヌ:2006/10/28(土) 01:43:12
>たとえば「御本尊」とされている「南無妙法蓮華経」と書かれた紙切れを
>破ったり、燃やして捨てることができないらしいから。罰(バチ)があたる!
まだ、未成年の頃少しかじったな
あれね。木の棒に巻かれてるからけっこう硬い。
足でキックしないと折れないのね
火に入れたら、やっぱり紙と木なので燃えるし
人間だけだね、紙に書いた文字をあり難がって拝むなんて。
トリップはやはりバレバレでしたか。すごい洞察力ですね。
私は私を語れないと言ったのは、この体の主導権を握っているのが、
だいぶ前に言った、作られた自己だからだと思います。
カオルさんの言い方や哲学者の言葉を借りると
せいぜい言える事は、私はどういう理屈か知らないけれど
現象を生じさせている何か、ということだけですね。作られた自己という現象を。
そう考えると、何も私だけが特別ということでは無いと思いますね。
私はやりたいことを差し置いて、やるべきこと、やったほうがいい(と言われている)ことなどを優先することで
自分が作られていくのだと思っていたし、それに誇りを持って生きてきました。
ただ、それ以外の時間は、自分の行いが何か心に納得いかないので、とてもひねくれて過ごしていました。
私の離人の原点はここにあると思います。
>>5 私は治す事を目的とする段階にまでまだ辿りつけていません。
そしてそこにたどり着くことが目的という段階にすら未踏です。
ここではあくまで哲学的見地から離れることなくひたすら考察することが目的なんです。
カオルさんが他スレから知り合いを連れてこられたようですが、より深い考察を
共に繰り広げられることになれば幸いです。
>ムートンさん
おかえりなさい。見つけてくれてよかった!(^.^)
今ちょっと余計かもしれないことにかかわっているので、レスできないでいます。
>ここではあくまで哲学的見地から離れることなくひたすら考察することが目的なんです。
>カオルさんが他スレから知り合いを連れてこられたようですが、より深い考察を
>共に繰り広げられることになれば幸いです。
哲学的見地というものを、おそらくエヌさんは超えているけど。(笑)
エヌさんの見地とわたしたちの見地は共役不可能かもしれません。
でもなぜそうなのか、を問うことにも十分に意味があると思います。
>>20 エヌさん
魂は、エヌさんやムートンさんやカオルに、それぞれ「ある」ものなのでしょうか。
もしそうなら「存在が魂と呼べるのかも」(
>>12)というときの「存在」とは何でしょうか?
たとえば、存在者としてのカオルの存在「〜である」と、存在そのものの「ある」とは
どのように区別されるのでしょうか。
もしも後者の存在を魂と呼んでいるのなら、後者の存在は「比類なきもの」です。
そうすると、エヌさんの魂、ムートンさんの魂、カオルの魂……というような事態は
考えられなくなりませんか。なぜなら、それぞれの魂の存在の承認は「比肩しうる魂」
の存在の承認なのですから、それらはどれも「比類なき魂」にはならないからです。
「かけがえのない魂」ではあっても。
>ムートンさん
質問です。
魂のあなたを、かりにあなた×(存在否定)と呼ばせてもらうと、
あなた×は、ムートンさんの「私」における自分の体や自分の心は
あなた×ではない、と言います。
この辺りについては、詳しく徹底的に議論していくとして、その前に、
あなた×は、そもそもあなた×が「比類なき存在」だと思いますか?
もし、そのように感じるのであれば、そう答えてくれますか。
これに類することを以前あなた×は、世界という言葉を用いて
言っていたように思います。
(前スレのデータが壊れてしまって、正確でなくてごめんなさい)
26 :
エヌ:2006/10/31(火) 02:00:24
>>24 カオルさん
これまでに、存在が失われたものがあるでしょうか?
否、形を変えただけで何ひとつ失われたものはありはしません。
後者の存在そのものの「ある」には境界が無く区別できません
しかしながら、心の機能性によってこれとあれとを区別し、前者の存在(〜である)を認識するわけです。
よって魂には区別する境界を定めることは不可能で、魂の存在の承認は自らを承認するのみです。
27 :
エヌ:2006/10/31(火) 02:03:49
それに、ここでいう魂というのは
身体の一部に入り込んでいるものが魂ではなく
魂の一部が身体として現れているといったものです
>>26-27 エヌさん
とても納得できます。もちろん、哲学的にです。(^.^)
哲学的な説明の例としては、
>>6-7になるかと思います。
それにしても、なんという短文なのか、と思ってしまいますよ。
魂の顕現のことを、西田幾多郎という哲学者の言葉を借りると、
絶対無の自己限定、永遠の今の自己限定。
になるでしょう。
魂の私が、現に存在するこの私を見て、
私(魂)は、どうしてこの私(体、心)なのか。
と問うとき、哲学はこれにどこまで答えることができるのか。
アウグスティヌスは、私の存在の比類なさを
わたしたちのうちひとりしかいないかのように、神はわたしたちみなを愛す。
と表現しました。(と、わたしが思っているw)
また、永井均という哲学者は、魂の私についてひたすら哲学しています。
比類なき魂に隣人はいない。
ということについて、無限の言葉を用いて。
エヌさんには、馬鹿げた行為に見えるのでしょうか。
でも、これでいいのか!
懐疑はこれで打ち止めなのか。
いや、わたしはそれでも考えつづける。
すでに個別の魂の輪廻は否定された、と思っていいですね?
そういう論理ですもの。そうですよね、エヌさん。
この私の体、この私の心が、魂の呪縛から自由になること。
悟りスレから一貫して、わたしにはその思いがあります。
魂への嫌悪がぬぐいきれません。
5時起きなので寝ます。では、また。
30 :
エヌ:2006/11/01(水) 01:04:16
>>28 カオルさん
> エヌさんには、馬鹿げた行為に見えるのでしょうか。
とんでもない。
誰でも自分を証明したりすることに一生を費やすものですよ。
どのような形にせよ、動機は自分の存在を認めさえることか自分の存在を残そうと必死になる
そういうものです
馬鹿げてるものなんてありゃしませんよ
皆、楽しんでるだけです
31 :
エヌ:2006/11/01(水) 01:08:45
>>29 輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
5時に起きれたのでしょうか?
わたしゃいつも7時半ぐらいに起きるのでそろそろ寝ます
>>25 私は自分が捕らえてる世界の像(モデル化した世界)と
実際の世界の相違に苦しむ存在だと思います。前に言っていたのはこのことでしょうか?
それが存在の是非を問う真の魂だとしたら私は比類なき魂を持っていることになる。
>>26 >存在が失われたもの
他者と関係性を築くと、自己が薄まってしまうような感覚の喪失を受ける私は特別でしょうか?
>>28 >私はどうしてこの私
この疑問は幼少の頃から常に持ち続けていました。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。
あらゆる知覚はなぜこの一固体にのみ感じることになっているのか?
他からの視点を持つことが何故できないのか?
疑問は解消されぬまま、それを埋め合わせるように客観的な思考のみが発達していきました。
さいきんヴィトゲンシュタインの論理哲学論考という本を買ってきました。
彼は戦場の中で何を感じ、手記を取ったのでしょうか?感性に任せて読んでみます。
「私(ワタシ)」は、言語です。この概念をいったい私たちはどのように了解するのか?
7歳まで言語の習得を禁じられていたある聾唖者の自伝によると「私」の定義とは、
――「私」というものが存在している「定義」がある。つまり「生きている」――でした。
この「私」の定義は、同時に「私は、私である」という自我同一性をももたらしました。
私はやりたいことを差し置いて、やるべきこと、やったほうがいい(と言われている)
ことなどを優先することで、自分が作られていくのだと思っていたし、それに誇りを
持って生きてきました。
というのは、役割同一性としての自我同一性でしょう。これは人間としてのあり方や人格を
になう主体としての自我についての認識です。「人間として」という前提があるのですから
そこに、すでに、正しさ、善さ、美しさの規準が立てられてしまっているのは必然でしょう。
その規準にしたがった行為は、そのまま真であり善であり美ですから鼻高々でも当然です。
ただ、それ以外の時間は、自分の行いが何か心に納得いかないので、とてもひねくれて
過ごしていました。私の離人の原点はここにあると思います。
というのは、与えられた役割を全うする人生の主役である「自分」は「自分である」のに
与えられた役割から自由である「自分」、あるいはあてはめる規準がわからないために、
それがはたして「やるべきこと」なのかどうかもわからないような行為をしているときの
「自分」は「自分でない」ということでしょう。
「自分1が自分2である」ことの自明性(同一性)の喪失は離人症や統合失調症を引き起こすと
言われています。私見では、両者は構造的に合わせ鏡のような関係に見えます。離人症者は
「自分1は自分2でない」と言いますが、統合失調症者は「自分2は自分1でない」と言うからです。
さてしかし、この「自分は、自分でない」というのは、自分が理想とする「自分であること」
についての否定であって、それは‘自分が’モデル化した世界の理想と現実との違いを
認識して嫌悪して、現実の世界を否定することと構造的にはかわらないように思います。
重要なのは、この「自分は、自分でない」という自我同一性の否定が、「私が、私である」
ことについての否定ではないことです。
なぜなら、そもそも「私が、私である」ところの‘自分が’、自分を、世界を如何にあるべきか、
と問うのでないなら、自分や世界が肯定と否定のそれとに相対化されることはないからです。
それが存在の是非を問う真の魂だとしたら私は比類なき魂を持っていることになる。
というのは、存在のあり方についての是非を問うているのであって、全知の神さまでもないかぎり
それはその人がどのような価値観に‘とらわれているか’の問題であって、そこで引き裂かれる
自我は、自我として確立しているからこそ、引き裂かれうるのです。
だから、ここで問題になっている自我の分裂は「自分が、自分である」ことの成立と‘同時’に
成立しているところの論理的必然としての否定「自分が、自分でない」こととの分裂なのです。
「自分は、自分でない」は「自分は、自分である」の否定ですが、「私が、私である」ことの否定
でないのは、どのような仕方であれ、現われるものを否定するためには、否定する何ものかが
いないとならないからです。この何ものかが「私が、私である」ところの「私」です。
けれども、おそらく、この「私」は「私である」というあり方はしていないのです。
主語を前提しない「私である」そのもの、あるいは「私である」こと以外に一切の属性を持たない
たんなる「私」、あるいはまた「私である」こと以外の一切の想定(他人の実在、世界の実在)を
許さない比類なき存在(唯一の実在)……だから「私」は、この世に存在しない……はずなのに、
どうしてだか「この私」なのです。だから――どうして私は、この私なのか――になるのでしょう。
もちろん「この私でさえない」と思うから、しかし「この私でしかない」からこその問いなのですが。
>前スレ最後のレス
>否定することから離れて自分の生に戻ってくるにはどうすればいいのでしょうか?
いつでも〈今〉、どこでも〈ここ〉、何ものでも〈ある〉、
だから、いつでもなく、どこでもなく、何ものでもない魂の私(私でしかない私)と、
その魂の私を了解してしまうこの私とのあいだの溝が、普通一般には、
「(魂の)私は(今ここにいる)この私である」という自明性によって埋められています。
たとえ魂の私が、すべての現われの否定として〈ある〉のだとしても、――――すべての現われは、
それぞれその現われ以外の現われの否定として存在しますが、あるリンゴが現われたからといって、
そのリンゴ以外の現われが消えないのは、すべての現われが起こりうるための、すべての現われの
否定ということが〈ある〉からです。この否定は、リンゴが現われたために、そこにミカンが現われない
ことの否定はできません。おなじように、世界を、人間を、この私さえも否定して、それらの否定として
〈ある〉のが、魂の私です。――――たとえその否定によって世界(現われ)が開かれる(現実になる)
のだとしても、世界はこの私の生を通してしか現われないのです。つまり、それが人生なのだから、
魂の私にできるのは、それを受け止めることだけなのです。
そうすることが、魂の私がみずから開いたこの私の世界に参加するということであり、魂の私が
この私の生の形式を受容して人間になるということではないでしょうか。
もちろん、魂の私が人生に参加しないといけないような理由があるのかどうかはわからないけれど、
本来、魂の私の、この私(自分)の人生の絶対否定とは、この私の人生の絶対肯定のことなのです。
わたしの論理がまちがっていなければ、それは確かなことです。
>>32 ムートンさん
>この疑問は幼少の頃から常に持ち続けていました。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。
>あらゆる知覚はなぜこの一固体にのみ感じることになっているのか?
>他からの視点を持つことが何故できないのか?
>疑問は解消されぬまま、それを埋め合わせるように客観的な思考のみが発達していきました。
わたしはこのことについてばかり話していますが、他スレでもほとんど理解されませんでした。
わたしにこのことについての実体験がないので、その次元での共感が得られないのでしょうか。
もしかしたらまったくちがう問題を論じているのかもしれません。是非とも批判をしてほしいです。
>さいきんヴィトゲンシュタインの論理哲学論考という本を買ってきました。
>彼は戦場の中で何を感じ、手記を取ったのでしょうか?感性に任せて読んでみます。
彼は、生きることを生きた。
戦場に赴くのに、戦うのに、生き抜こうとするのに、根拠なんてない。
彼は「1+1=2」と答えを出すように、志願し命懸けで戦いました。
『論考』に書いてあるのは、根拠は論理の外にあること、それだけです。
是非、感想を聞かせてください。
>わたしの論理がまちがっていなければ、それは確かなことです。
>『論考』に書いてあるのは、根拠は論理の外にあること、それだけです。
確かなこと、ほんとうのことは、論理の外にあるのかもしれない。
でも、そこに至るために論理を駆使するのが哲学でもあるのです。
ウィトゲンシュタインは、『論考』で、魂の私のあり方と、魂の私がもとめるもの「倫理」の在処を、
『探究』では、この私のあり方と、この私がそのようにあることの「規範」の在処を指し示しました。
38 :
考える名無しさん:2006/11/12(日) 02:07:27
なんか必死だな。
39 :
考える名無しさん:2006/11/12(日) 08:15:34
離人症って病気でいいのか・・まあ、社会には適合しずらいだろうけど
今時カウンセラーだの心理セラピー等、商売が成り立つ変な時代だし
感情が気薄になったとはいっても、情念の柵からは決して逃れる事はできず
鬱か虚無的になるかルサンチマンに囚われるかの何れかだろう。
つか、病気治したいなら哲学より信仰向き、精神病を自覚したとしても
理性に頼ってばかりの手探り状態じゃ迷い易いよ。
役割を自覚せず演じる術すらも認識せず彷徨うばかり
学のないものは有りのままの認識表現を纏め上げ簡潔に延べられるほど理性的でもない。
そこら辺が、他者との認識の相違点。
偉人と呼ばれる者たちが、何故あれほどまでに他者に賞賛され
一般通念として広く受け入れられたのかを図り知るべきです。
40 :
考える名無しさん:2006/11/12(日) 10:18:58
ここはひとつ仏教に戻ってーー古臭いかもしれませんが
ーーーヤフー検索:生老病死とお釈迦様
よんでみては
ーーー離人症は病気ではありません
41 :
考える名無しさん:2006/11/12(日) 11:09:08
>ウィトゲンシュタインは、『論考』で、魂の私のあり方と、魂の私がもとめるもの「倫理」の在処を、
>『探究』では、この私のあり方と、この私がそのようにあることの「規範」の在処を指し示しました。
スマートでいい言葉だと思うよ
>>30 エヌさん
>誰でも自分を証明したりすることに一生を費やすものですよ。
>どのような形にせよ、動機は自分の存在を認めさえることか自分の存在を残そうと必死になる
>そういうものです
「なぜ私は、この私なのか?」の問いには、あきらかに「この私」への否定の契機があります。
この否定は、「自分は、自分でない」と否定する自分が、自分を見つめる(自身を対象化する)
ことによって成り立っている自分のあり方、すなわち「対自」への否定なのです。
すなわち、そのあり方が主客未分で無自覚なため「他」との媒介を要せず、だから非依存的で
自足的(無規定的、無制約的、完全自律的)、つまり比類なき(絶対的な)「即自」である無限の
「私」の、「対自」である有限の自分「この私」への、否定なのです。
この魂の私、無限の私が「なぜ私は、私なのか?」と問うとき、もはやそこには「私」の存在に
たいする懐疑は及ばない。ゆえに「私は存在する」というのが、いわゆるデカルトの「私」です。
けれども、哲学はここから先に一歩も出ていない。
「どうして私が、私なのか」も「どうして私が、この私なのか」もわからないのです。
魂の私が心のこの私‘としてしか’存在できないことのからくりや仕組みがわかっても
どうして魂の私が心のこの私として生まれて人生を送らないと‘いけない’のかがわからない。
どうして存在しないといけないのか、無であっては‘いけなかった’のかがわからないのです。
>>31 エヌさん
>輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
考えが変わったのですか? まあ、わたしは輪廻があると考えてもいいです。
エヌさんが
>>12で言ってるように、熱力学の第一法則「エネルギー不滅の法則」や
第二法則「エントロピー増大の法則」は、ある意味では「輪廻の法則」ですものね。
さまざまに形態を変えながらも存在しつづけることを、そう考えたらいいわけです。
でも、これらの法則が展開されるための、たとえばビックバンを可能にした原点は
論理の法則が必然的に要請してしまう。なぜなら、論理の起源は因果律ですから。
原初の「因」が、ともかくも「原点」-「ある」のでないなら、何もはじまらないですから。
この発想から「無からは何も生じない」という考えが生まれるのではないでしょうか。
でも、この原点は‘この’と指し示せるような‘何か’ではなく、比肩しうるなにものも
ないのですから存在しているとは言えない。ただひとつそれだけがかがやく太陽は
無とおなじなのです。
わたしにはわからないけど、おそらくそのような原点のようにして感覚?されるのが
魂の私なのでしょう。すべての原点なのですから、必然的にすでに存在するものの
否定としてしか存在できないのです。
でもひるがえってみれば、魂の私の絶対否定とは、みずからの存在も否定するはず。
だから、魂の私のみずからの絶対否定とは、存在者たちがみちあふれるこの世界の、
すなわち、その世界がそこから開かれる心の「この私」の絶対肯定でもあるはずです。
45 :
sew:2006/11/15(水) 14:45:21
お邪魔します。
お久しぶりですカオルさん。
あなたが考えたいことというのは「魂」についてのことだったんですか。
「心」と「心ある振る舞い」を中心に話しているのかと思ったらさらにその先があったんですね。
エヌさんへのレスが私へのヒントになっているのには気がつきませんでした。すみません。
あなたにその気があるのなら私はあなたとも話をしたい。
私のそういう姿勢はあのスレでの私のレスを見ていただければわかると思います。
「魂」については深く考えたことはないけど。
しかし、あのスレで私があなたに対して歓迎されざる対応をしていたわけですから、
嫌でしたらこちらとしては別に構いません。
失礼いたします。
えげつない。
孤独になってみるべきだ君は。
対象を失ってみるべきだ。
そうすれば、どうしようもなく自分を捉え捉えられるしかなくなる。
47 :
エヌ:2006/11/16(木) 02:46:35
>>42 カオルさん
存在することに理由は要りませんよ
理由を必要とするのは人の脳内だけです
それに存在には対応する非在がないし
無と有の両方を兼ねてるものです
知れば知るほど真実から遠く離れるもので
わかったと思った瞬間から間違い始めるものですよ
懐疑があるから、それに対する答えがあり
否定があるから肯定するものや真実を追い求め
思考があるから判断したり分類したりしてあれこれ思い煩う
多くの事柄は思考のゲーム上で起きているのです
デカルトは思考が疑い様のない自己だと認識した
しかし思考の止んだ時自己はどこへ行くというのか?
思考を見守っているものは何なのか?
それがデカルトの抜けているところだと思う
48 :
sew:2006/11/16(木) 14:48:04
>>46 そのようにしてみようと思います。
>カオルさん
余計なことを書いてしまってすみませんでした。
>>45は無視してください。書き込みはもう致しません。
>>45 sewさん
いらっしゃい!(^.^)
>あなたが考えたいことというのは「魂」についてのことだったんですか。
はい。誤解しか招かないやり方だったかもしれません。ごめんなさい。
>エヌさんへのレスが私へのヒントになっているのには気がつきませんでした。すみません。
あなたが謝ることではありません。わたしが素直にそのように言えばよかったんです。
>あなたにその気があるのなら私はあなたとも話をしたい。
もちろん、その気はあります。わたしもあなたと話しがしたいです。
>私のそういう姿勢はあのスレでの私のレスを見ていただければわかると思います。
一応、おなじやり方で不毛に見えるレスをしておきました。どうなっちゃうのかな?
(46に書いてあるようなことをあちらのスレに書いたけど、46はわたしではありません)
>「魂」については深く考えたことはないけど。
そうですね、わたしの思いちがいなのかもしれません。
でもわたしには魂のあなたが目覚めて叫んでいるように聞こえたのです。
ムートンさんとあなたがおなじ人に感じられたり……ついでにわたしも一緒に。
いったいだれが苦しんでいるのでしょう?……妄想がはげしいものだから。(^_^;)
>しかし、あのスレで私があなたに対して歓迎されざる対応をしていたわけですから、
>嫌でしたらこちらとしては別に構いません。
イヤではありません。べつにかまわないと言われてしまうと寂しい気持ちになります。
>>47 エヌさん
>存在することに理由は要りませんよ
>理由を必要とするのは人の脳内だけです
カオル) どうして生きているの?
エ ヌ) もちろん、生きているからさ。
カオル) どうして存在しているの?
エ ヌ) もちろん、存在しているからさ。
「私」が生きていることや存在していることにも価値はあり、
それはそのことが「価値の根源」であるという価値のことです。
それを否定してしまうと、ニヒリズムが招来されてしまうので、
それならそのような問いを生みだす脳の言語活動そのものを
成立させなければどうか、というのが宗教的な解決法でしょう。
それはソクラテスでいう「無知の知」の否定であって、この
「もう知ることはない」という思考の停止は、哲学の否定です。
理由を求めないなら理由などないのは当り前のことであって、
そこに問いなど生まれようもなく、問いは消滅してしまいます。
問いの消滅は、「私」が胎児や幼児であった頃のような主客未分の状態、
ゼロへのリセットです。
言語によって築き上げた「私」(0.999……)という砂上の楼閣の崩壊です。
「私」は言語とともに世界を分割(言分け)したけれど、ゼロにもどった「私」が、
どれだけ世界(1)を割ってみても、その答えはいつも無限大(∞)なのです。
ゼロは「自分自身でない」から、つねに無限大(世界のすべて)に等しいのです。
このような事態は体験としては、いわゆる「意識の拡大」と呼ばれる心の境地において
起こり、その人が「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚に象徴的に
示されています。
ここで問題なのは、まずどうして脳内にその記憶が残り思い出せてしまうのか、
次に、すべてを知っているその「私」とは、いったい「だれなのか」ということです。
また、世界の宇宙のすべてを知っている「私」と、脳をたずさえた「この私」とのこの「絆」は、
たんなる偶然なのか、そこにはどのような必然性もないのか、ということも問題になります。
>この「絆」は、たんなる偶然なのか、そこにはどのような必然性もないのか、
たとえ可能な科学の問題がすべて答えられたとしても、
生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。
これがわれわれの直観である。もちろん、そのときもはや
問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが
答えなのである。―― 『論考』( 6.52 )
生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
(疑いぬき、そしてようやく生の意味が明らかになったひとが、
それでもなお生の意味を語ることができない。
その理由はまさにここにあるのではないか。)―― 同書( 6.521 )
語ることのできない「生の意味」を、人間は生の問題の消滅によって気づきます。
その語りえないところにこそ、倫理(生きる理由、存在する理由)が〈ある〉のです。
倫理が言い表しうぬものであることは明らかである。
倫理は超越論的である。(倫理と美はひとつである。)―― 同書( 6.42 )
生の意味について語ることは、魂の私について語ろうとすること。
それは語りえないものについて語ろうとすることだと思っています。
>それに存在には対応する非在がないし
>無と有の両方を兼ねてるものです
そのことについては、ヘラクレイトスを引用して説明しましたが、
古代ギリシアの昔から、そのような認識できないものへの探究はありました。
世界が〈ある〉こと、そのことそのものへの無垢な驚きが哲学の起源ですから。
ヘラクレイトスのいうように万物が流転しているのだとしても、万物が流転するためには、
流転しない何ものかが〈ある〉のでなければならない。だから、
あるものはあり、あらぬものはあらぬ。―― パルメニデス
という反論がきます。でも、もしそうなら、あるものがあるためには、あらぬ何ものかが
〈ない〉ものとして〈ある〉のでなければならない。すなわち〈無〉が〈ある〉のでなければ
ならないことになります。
日々生まれ変わっていく「この私」が現に存在するためには、生まれ変わらない「私」が
〈いる〉のでなければならない。あらぬ「私」が〈いる〉のでなければならない。
いったいあらぬ「私」とは、だれのことなのか?
>知れば知るほど真実から遠く離れるもので
>わかったと思った瞬間から間違い始めるものですよ
わたしが疑問なのは、意識の拡大によって「すべてを知っている」という体験をした人が、
じつは「何も知らない」ということです。もし何も知らないということがすべてを知っている
ということなら、真実からもっとも遠く離れようとするこころみかもしれない哲学の営みは、
いつか位相が逆転して、すべてを知っていることになるのかも、と妄想してしまいました。
>懐疑があるから、それに対する答えがあり
>否定があるから肯定するものや真実を追い求め
>思考があるから判断したり分類したりしてあれこれ思い煩う
>多くの事柄は思考のゲーム上で起きているのです
その通りだけど、その思考(言語)ゲームが「いかに成り立っているか」、
あるいは「いかに用いられているか」を、哲学が考察しようとするのは、
「いかに成り立っているのか」への問いが「そのように成り立っていること」そのものへの、
「いかに用いられているのか」への問いが「そのように用いられていること」そのものへの、
そのような〈神秘〉への思いがあるからです。思い煩うことを通して真理に接近するのです。
>デカルトは思考が疑い様のない自己だと認識した、しかし思考の止んだ時、
>自己はどこへ行くというのか? 思考を見守っているものは何なのか?
>それがデカルトの抜けているところだと思う。
わたしは、いま「魂の私」について考えようとしていますが、デカルトの「私」は、
あきらかに「魂の私」のことだと思います。デカルトを批判したパスカルの「私」も
おそらくそうです。けれど、おなじ「私」(とは言っても、比類なき唯一の私ですが)
について驚いていながら、パスカルでさえデカルトの‘それ’を読みちがえています。
いわゆるデカルト解釈によって抜け落ちている‘それ’こそが、ゆえにある私、です。
ねぇムートンさん、ヘンなこと聞いていいですか?
うん、いいよ。
私は、どうして生まれて来たのかな?
私は、ムートンさんでもよかったのに
どうして私は、カオルなのかしら?
ムートンさんと私はとても似てるし、
きっとムートンさんが私でもよかったんだよ。
それなのにどうして私は、カオルになっちゃったの?
えっ? カオルちゃんが私だって?
そんなわけないさ。
えっ! どうして?
だって、この僕が、私だからさ。
ふたりの私、共存することのけっしてないそれが「魂の私」です。
この比類なき私が、かけがえのないそれぞれの‘私たち’に読みちがえられて、
他人にも理解される私になったときが、いわゆる哲学における独我論の私の誕生です。
詳しくは、永井均『〈子ども〉のための哲学』が参考になると思いますが、
魂の私の体験は、だれにでも起こりうるし、あるいは起こっていること。
哲学者や特殊な人間の体験ではありません。永井の本が版を重ねるのも
そのひとつの証明です。(それにこだわり考えつづけるのは特殊ですが)
ひまわりの花のように
わたしは校庭のまんなかで
ふりそそぐ太陽の光をあびていました
透明なからだと純粋なこころは
盲目の歓喜にふるえていました
すべての時間と場所をつらぬいて
そこから世界がひらけるかのように
消えてしまいそうなわたしのかわりに
世界のすべてがあらわれていました
存在の完全な安心
そのまどろみを切り裂いたのは
猛烈な吐き気でした
今、今、今、沸き立つ今が流れ出した
宇宙の塵のなかの一粒の砂の抵抗
永遠のなかの一瞬、わたしの苦しみ
57 :
ムートン ◆Sheep2h65. :2006/11/29(水) 22:46:33
>>37 さしずめ「論考」が入門書で「探求」が実践書といったところでしょうか。
>>39 偉人たちはあくまで探求し続けたゆえにそう呼ばれるまでの何かを残せたのでしょうか。
>>40 仏教というか釈迦の教えや逸話は幼い頃から大体学んできました
まさにそれが今私を縛っているものなのです。しかしそれでも迷い、悩み、苦しんでいるのは
私に理解力が足りないからでしょう。
>>42 「何故私は私なのか?」その時点で私の存在が確立されるのがデカルトの論理でしょうか。
我思う 故に我あり
なぜそうなるのか・・・省略しすぎで私には理解しかねる。
私はもう考えることに、知ろうとすることに、疲れたのかもしれない。
分からないまま時間は過ぎていき、確実に「貴重」な生の時間は
前に進むことなく潰されていく。
焦りなのか、答えを見つけたのか、分かりませんが
私は今とにかく愛に近づきたい。愛という行為を行いたい。
親は私に形式的な「博愛」と「同情」を教えてくれたが
「愛」そのものは教えてくれなかった。
58 :
ムートン ◆Sheep2h65. :2006/11/29(水) 23:00:32
>>51 気づけば自己が言語と数式を拠り所として存在している。そんな気分でしょうか。
>>52 そこで「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と導き出したのでしょうか。
>>53 答えは自分そのもののような気がしてきました。
「分からない」。それが答え。
>>54 人が真理を追い求めようとするのは、混沌を嫌うからではないでしょうか。
人は満たされないと全てを破壊したくなるけれど、ある程度満たされると
それを法則的に永続させるべくその術を捜し求める。どこまで行っても人は
そういう原理に基づいて行動するしかできないのかもしれませんね。
>>55 私はあなたではない。その私なりの理由は、「対面」しているから。
まず最初に、別固体として意識しているから。そこに壁があるのだと思います。
私たちは物理的にも「愛」の力を持ってしても、その壁を越えることはできない。
それはそのスタンスのせいなのだと思います。別物だけど、近寄りたい何かがある。
与え、受け容れたいと思う何かを互いに持っている。
その状態に行き着くことが「愛」でしょうか。私には分かりません。
59 :
THE グル:2006/11/29(水) 23:11:33
いいですか、
愛は「私」の存在そのものと融合している時にだけ存在するものです。
大抵の人は愛と共に生まれ、愛をそれと気付くことなく過ごしてしまい、大人になる頃には失ってしまっています。
もし再び融合できれば、愛を知りつつ感じつつ存在できるようになり、時を忘れることでしょう。
60 :
エヌ:2006/11/30(木) 00:24:37
>>50 カオル) どうして生きているの?
エ ヌ) 生きることに理由が必要なのは人間だけだよ
カオル) どうして存在しているの?
エ ヌ) 存在しないものなどどこにもないよ
存在理由無く存在を知ることが、知らないことを知ることであって
それが、ソクラテスのいう「無知の知」ですよ
問いの消滅はニヒリズムでもなく価値の消失でもなく
思考の停止は、哲学の否定だとしても
実存の顕現です
61 :
エヌ:2006/11/30(木) 00:29:57
>>54 > 意識の拡大によって「すべてを知っている」という体験をした人が、
> じつは「何も知らない」ということです。
> もし何も知らないということがすべてを知っている
> ということなら、真実からもっとも遠く離れようとするこころみかもしれない哲学の営みは、
> いつか位相が逆転して、すべてを知っていることになるのかも、と妄想してしまいました。
それが無知の知です
62 :
エヌ:2006/11/30(木) 00:47:05
>>56 消えてしまいそうなわたしとともに
世界のすべてが消えてゆく
すべての時間と場所はもはやなく
世界のすべては閉じられた
世界の不在ゆえに完全な安心が訪れた
世界の代わりに落ち着きと静寂がある
その静寂を切り裂いたのは
猛烈な歓喜でした
祝福につぐ祝福
再び世界が新たに顕現した
妄想の世界ではなく
もとあった姿の世界
そこには沈黙があり
微笑があった
63 :
エヌ:2006/11/30(木) 00:53:53
わたしが消えた時
わたしはいなくなった
わたしが消えた時
再び帰還することができた
わたしが消えた時
世界も同時になくなった
わたしが消えた時
元の鞘に収まった
わたしが消えた時
妄想は終わりを告げた
わたしが消えた時
現実があった
わたしが消えた時
沈黙があった
わたしが消えた時
わたしは死んだ
わたしが消えた時
祝福があった
わたしが消えた時
存在は称え合っていた
わたしが消えた時
存在は微笑していた
64 :
エヌ:2006/11/30(木) 01:02:17
わたしが消えた時、自由であった
わたしが消えた時、何にでもなれた
わたしが消えた時、何者でもなかった
わたしが消えた時、一切全てであった
わたしが消えた時、境界はなかった
わたしが消えた時、一切の謎は解明された
それはすごい。まじかよ。
ところでいつから哲学=自分で考えることという、
一行動を崇め祭り目的化するような倒錯、
いわば偶像崇拝が蔓延するようになったんだろう。
>>57 ムートンさん
>さしずめ「論考」が入門書で「探求」が実践書といったところでしょうか。
『論考』は精神の超越について、『探究』は身体の超越について、
だから、『論考』は神を、『探究』は歴史を、指し示しているように思います。
精神と身体とに引き裂かれた「私」の生の、その存在神秘に導かれた思想です。
>我思う 故に我あり
>なぜそうなるのか・・・省略しすぎで私には理解しかねる。
「思う」というのは、すべての「現われ」のことで、
「私」において、すべての「現われ」が、ゆえに(=)〈ある〉ということ。
「私」という存在者が「いる」のではなくて、「私」=〈ある〉ということ。
「すべての現われ」は(=)「私において」ということが(=)「私である」ということ。
>>58 ムートンさん
>気づけば自己が言語と数式を拠り所として存在している。そんな気分でしょうか。
気づいたら、どうしてだか「私は、この私」でした。
現に存在する「この私」は、だからこの世界の中に存在するけれど、
どうしてだか、この世界の中に「私」はいない、という絶対の孤独感です。
>>52 >そこで「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と導き出したのでしょうか。
たとえば、あなたの言う「ほんとうの私」について、あるいは「愛そのもの」について、
わたしはそれらについて語ってみせようとしますが、その語りはけっして哲学ではない、
というのが、ウィトゲンシュタインの考えです。
自然科学の命題以外は、それゆえ哲学とは関係のないこと以外は、何も語らぬこと。
そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、
あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。
これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。―― ( 6.53 )
語りえないもの、それゆえ非意味的な( nonsensical )ものにこそ価値があり、
それらは人生において「実践」されるべきものである、と考えていたようです。
率先して戦争に参加したのも、おそらくそのような信念にしたがってのことでしょう。
そうすることは、もはや真偽や正誤の問題ではないからです。
>>53 >答えは自分そのもののような気がしてきました。
>「分からない」。それが答え。
答えがないということが、答えでしょうか。
なぜ答えがないのかというと、問いが消滅してしまうからです。
なぜ問いが消滅してしまうのかというと、生の形式を超えているからです。
すなわち、
生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。( 6.52 )
けれども、疑いぬいてようやく明らかになった
生の意味を語ることはできない。( 同 )
なぜなら、そもそも生の意味は問うことさえできないものだからです。
ゆえに、
倫理が言い表しうぬものであることは明らかである。
倫理は超越論的である。―― 同書( 6.42 )
と言われるわけです。
このような到達がもっとも根源的な生の形式だと思います。
わたしは、ここに人が神を思うことの必然性を感じます。
69 :
sew:2006/12/06(水) 13:46:03
カオルさん、こんにちは。
お邪魔します。
魂についてですよね。
どういう話をしたら良いのかわからないので、簡単に箇条書きに私の考え(イメージ)を書きます。
1.魂は永遠に輪廻し続けるもの
2.肉体としての自分はいずれ滅びてしまうけれど、魂としての自分は永遠に滅びない
3.魂は肉体から肉体へ移っていく(1つの肉体が死んだら次の肉体へみたいに)
多少重複してるかもしれませんが、こんな感じです。
カオルさんの方が私よりも魂について話をしてそうなので、
話の最初の方はカオルさんに主導をお任せしてもいいですか?
よろしくお願いします。
あー、ホント、いつの間にこのスレは気持ちの悪いスピリチュアルスレになったんだ。
>>54 ムートンさん
>人が真理を追い求めようとするのは、混沌を嫌うからではないでしょうか。
ふつうには、より良きより高きをめざして人は価値の選択をくりかえします。
より悪しきより低きに流れることは簡単かもしれないけれど、本心において
それをもとめることはかえってむずかしいのではないでしょうか。
より良きより高きの価値の選択の先には、いったい何があるのでしょうか。
もう比べうることのできない、そのような至高の価値があるのではないか、
と妄想するのは、おそらく必然的なことです。その想念が神を創造します。
それにしても、現にこのわたしがいるのは、いったいどういうことなのか、
と想像するとき、その想像は時空の果てをのぞみ、そうして自己の有限を
知ってしまうでしょう。
それでもわたしの意識の矢は止まらず、時空の果てのその先を突き抜ける。
そうしてついには、わたしは生まれなかったことにされてしまうのです。
>人は満たされないと全てを破壊したくなるけれど、ある程度満たされると
>それを法則的に永続させるべくその術を捜し求める。どこまで行っても人は
>そういう原理に基づいて行動するしかできないのかもしれませんね。
けれど、その原理は人間の原理であって、わたしの原理ではないでしょう?
わたしがいなくなっても世界はある、と自然科学者たちは口を揃えて言う。
けれど、そんな夢物語を聞いてあげてるのは、いつだってこのわたしです。
それなのになぜかしら、今日もわたしは地上に立って月を見上げています。
わたしがいなくなったら月もなくなってしまうのに、わたしの月はわたしの
思い通りになりません。いつだってわたしは月を見上げるばかりなのです。
>>55 ムートンさん
>私はあなたではない。その私なりの理由は、「対面」しているから。
私があなたではないのは、私がこの私だからです。
そうでないなら、私はムートンさんでもかまわなかった。
(語りえない)魂のあなたは、たまたまムートンでした。
魂のあなたは、幼少の頃から「私はどうしてムートンなのか」
と疑問に思っていた。親にも誰にも聞けない疑問(悩み)として。
どうしてだか、すべてがこのムートンの視点を通して立ち現われてくる。
と、その一個体をながめているその視点は、だれのものなのでしょうか。
>与え、受け容れたいと思う何かを互いに持っている。
>その状態に行き着くことが「愛」でしょうか。私には分かりません。
相手のかけがえのなさを自分のそれよりも大切に思う気持を
お互いが持ちつづけられたらいいですね。いえ、相手が大切に思ってくれなくても
相手のことを大切に思うことが愛なのでしょうけど。
>>69 sewさん
レスありがとうございます。
> 1.魂は永遠に輪廻し続けるもの
> 2.肉体としての自分はいずれ滅びてしまうけれど、魂としての自分は永遠に滅びない
> 3.魂は肉体から肉体へ移っていく(1つの肉体が死んだら次の肉体へみたいに)
「私は、どうしてこの私なのか?」を「私は、どうしてカオルなのか?」に言い替えてみます。
「どうしてカオルなの?」という疑問は「カオルでなくてもよかった」と思っているからです。
現に「今」こうして「ここ」に、この「体」と「心」をもって生きているのが不思議なのです。
「今、ここ」という時空も、同じ一つの「心、体」が継続してきたという自己同一性も
否定してしまえるということが、すなわち「魂という概念」を呼び寄せてしまうのです。
でもだからといって、いわゆる「魂」(上記1〜3)のことを、はじめから想定している
わけではなくて、そのように名付けることでしか共通理解のしようがないと思ったのです。
わたしたちの日常の共通感覚では「私は、どうしてこの私なのか?」は「私が、対象化した
私を指さしている」ような事態として理解されることでしょう。またそのように理解されて
しまうことで、わたしたちの共通感覚が可能になるのであって、その土台の上で日常生活が
営まれているのだと思います。
はたしてsewさんは、わたしの話しをどのように理解されたでしょうか?
(それから哲学の議論は面倒なので上記1〜3を検討するには時間がかかるかもしれません)
>>60 エヌさん
>存在理由無く存在を知ることが、知らないことを知ることであって
>それが、ソクラテスのいう「無知の知」ですよ
知りうるものではないものへの知ということですね。
なにも知らないこと(知りえないこと)を知っている、と。
でも、それを知っている、このわたし、が哲学するのですよ。
>問いの消滅はニヒリズムでもなく価値の消失でもなく
>思考の停止は、哲学の否定だとしても実存の顕現です
実際に存在している「唯一のもの」の顕現ということですよね。
もちろん、唯一のものの顕現は、だれも見ることができません。
唯一のそれは、あらゆるものの存在の条件「ある」そのものであり、
それが「魂」である、というのがエヌ定義ですから、この場合の
「実存」とは「存在そのもの」と同義になりますね。
でも、このとき「私」は、どこに行っちゃったのですか?
たとえば、主題の範囲を私自身に限定したときの、私の
存在の仕方としての実存は、どこに消えてしまったのですか?
(つづく)
(つづき)
私は、自分が「いる」ことが「わかって」います。
この了解が、私が「実(際に)存(在)している」ということです。
私の起源へさかのぼります。
赤ちゃんは、生きていることそのものだから、まだ「私」ではなく、
言葉も行為もない。だから世界もない。すべて(∞)から、言葉が、
私が、何かを切り分けてきて、はじめて世界が形作られる。
赤ちゃんは「私」ではないから、行為の責任もとれない。
赤ちゃんは、引き受けるものがなにもない(ゼロ)から、
すべて(∞)から、何かを限定する(取り出す)こともできない。
けれど、だから、世界を持たなくても、すべて(∞)と同じなのです。
あんなに小さくてか弱い赤ちゃんが、じつは宇宙そのものだったり、
もしかしたらあなただったり……するのかもしれません。
「はじめに言葉ありき」の超越的言葉(魂の私)が、自分自身「生きていることそのもの」を、
個体としての生命「生きていること」が、すなわち(=)「私である」と、自己限定するまでは。
(この規定が、この「私」の定義でしょう)
(もっとつづく)
(つづき)
だからこそ、魂の私にもどることは、この私を殺すことに他ならない。
この私が、世界が、魂の私がいてこその物種(永井均)にすぎないなら、
この私が生きていて世界があることに、何の意味もないではないですか。
だからニヒリズムとは、この私のアイデンティティに他ならないのです。
ここに留まってこそ、この私の生があり、死ぬまでは殺されないのです。
そのための哲学なのだから、哲学は魂の私への反逆でなければならない。
この私が生きているということが、この私が存在しているということだから。
わたしたちが、――私は思う、ゆえに私はある――を、
魂の私ではなく、この私のこととして受け取るのは、
わたしたちが、有限の生における自由をこそ、選択しているからです。
なぜなら、この私にとって「この私であること」の選択こそが、
おそらく唯一の、そして至高の価値の選択に他ならないからです。
一方における至高の価値の選択「魂の私であること」の拒否は、
だから、この私が「生きて、存在していくこと」の選択であり、
すべての相対的価値の根源としての至高の価値の選択なのです。
この選択の先には、相対的な価値の選択しかありえないのだから、
そうであるなら、最初のこの選択こそが、唯一の、そして至高の
価値の選択なのです。
だから「生きているだけでいい」というのは、本来この意味で
‘なければならない’と、わたしは思うのです。
>エヌさん
相変わらずの論理には呆れたことでしょうが、
相変わらずでもないことにも気づきましたか?
さて、質問させてください。
a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?
(もっと悪くいうと、この私の生きる意欲の消失でしょうか)
c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
暇だったら、お願いします。
>>59 グルグルさん
いらっしゃい!
ごめんなさい、気づきませんでした。
でも哲板1,2の論客、碩学の人がなぜ?
いえ、よかったらまた来てくださいね。(^.^)
>愛は「私」の存在そのものと融合している時にだけ存在するものです。
乖離しているからこそ、愛とはなにか、私とはだれかを、問えるのです。
問うことをやめたなら、愛に擁かれ言葉は死ぬでしょう。いえ、わたしが。
愛とともに生まれ、それに気づくことなく、わたしがわたしになったとき、
恐ろしい影がやってきて、やがて大きな顔になって、わたしを覗き込む。
わたしのやること為すことが、大きな顔の視界の中の出来事にすぎない。
わたしの生きていることさえわたしの出来事ではないのだ。わたしなの?
カオスの海にとけるとき、泡沫はもう生まれないと夢を見て消えるのです。
いったいだれがそれを叶えないのか。だからきっとわたしは神を赦さない。
>>62-64 エヌさん
魂の私、実存の顕現の表現ですね。
ひとは、魂の私と心の私とのあいだで人間になるのでしょう。
( わたし + エヌ ) ÷ 2 = 人間、でしょうか。(^.^)
――― パスカル 『パンセ』 から。
私は、私を閉じこめている宇宙の恐ろしい空間を見る。
自分が、この広大な広がりの中の一隅に繋がれているのを見るが、
なぜ、ほかのところでなく、このところに置かれているのか、
また、私の生きるべく与えられたこのわずかな時が、
なぜ、私よりも前にあった永遠と、私よりも後にくる永遠の中の
ほかの点ではなく、この点に定められたのか、知らない。
私は、あらゆる方向に無限しか見ない。
それらの無限が、私を一つの原子か、一瞬あとには、
ふたたび帰ることのない影のように閉じこめているのである。
私の知っていることのすべては、
私が、やがて死ななければならない、ということであり、
しかも、このどうしても避けることのできない死こそ、
私のもっとも知らないことなのである。
私は、自分が、どこから来て、どこへ行くのか、知らない。
80 :
sew:2006/12/09(土) 17:15:07
>>73 確かに「私」という概念は「私」というものを対象化しないとないと思います。
「私」が見ている世界には「私」は存在していなく、「私」が見ている世界の外に「私」が存在している。
というようなことを本で読みました。
だから「私」というものを唯一「私」だけが特別な対象として見ることが出来るし、
それにより、「私」を「私」だと認識することが可能なのだと思います。
「私」という1つの個体は、カオルさんが仰る様に時空や心・体などの
無数の条件が折り重なって初めて個体となるのかもしれない。
しかし実際はどうなのかわからない。
自分という個体がいかにして成り立ったのかは生物学的な面(物的な面)ではある程度の形ある説明がつくかもしれない。
実際に見たり、触ったりすることが可能だから。
しかし、別の側面(精神面など)からでは、共通理解をすることすら難しいのではないかと思います。
見ることが出来ないし、自分たちで表現したり想像することでしか、そういうものだ、と認識することが出来ないから。
結局は精神論の領域なのだと思います。
カオルさんが話したいことがなんとなく理解できました。
「魂」そのものの検討ではなく、自分は何故自分なのか、というような命題についての話をすることかな、と。
私が書いた1〜3についての検討はやってもやらなくてもどちらでもいいです。
カオルさんのレスを見ていて、少し違うことを書いてしまったような気がしたので。
81 :
考える名無しさん:2006/12/09(土) 19:46:09
『この私』は滅びます。必滅です。
その死骸の上に一輪の花が咲きます。
不滅です。きっと。
82 :
考える名無しさん:2006/12/09(土) 23:48:32
カオルちゃんは、相変わらずの「ポエム哲学」で悦に入ってるようですねぇ・・w
>あんなに小さくてか弱い赤ちゃんが、じつは宇宙そのものだったり、
>もしかしたらあなただったり……するのかもしれません。
赤ちゃんが「じつは宇宙そのもの」っていうのは、存在そのものと一体化してるっていう意味かな?
だったら、赤ちゃんでなくても、普通の大人の人間以外の存在は、存在そのものと一体化してるんじゃないの?
まぁ哲学では、存在そのものからの乖離を「自己意識」にあると考えるのが一般的なんじゃないか・・?
旧約聖書でいえば、アダムとイヴが禁断の木の実を食べたときに、自分で自分を見て、自分が裸であることを知ったのが始まりですね。
ギリシャ神話でいえば、プロメテウスの火が「自己意識」のことだと解釈する人もいるけど・・
「自己意識」・・
つまり人間には自己が二つあるということですね。
キルケゴールは「精神とは自己と自己との関係である」と言ってる。
ニーチェは「自己と自己とはあまりにも熱心に対話する」と言ってる。
クレタ人の嘘つきのパラドクスだって、こういう二重の自己の自己分裂からきてるんですよね。
>だからこそ、魂の私にもどることは、この私を殺すことに他ならない。
「この私を殺す」っていうのは、自己意識を捨てるってことですか?
>だからニヒリズムとは、この私のアイデンティティに他ならないのです。
とか
>そのための哲学なのだから、哲学は魂の私への反逆でなければならない。
とかは、まったく意味不明ですね・・(意味不明なところが多いけど、たぶんカオルちゃんの「ポエム哲学」には意味不明なところがないといけないんでしょう・・w)
83 :
考える名無しさん:2006/12/09(土) 23:49:32
>a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
逆でしょう? (理由は上に書いたとおりですけど・・)
ちなみにニーチェとかドストエフスキーは、意識の過剰を現代人の病いと考えてますよね。
>b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?
カオルちゃんの「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」っていうのは、問いの立て方が稚拙なんですよw 人間は既に存在の中へと投げ込まれているんだから、そういう問いは哲学的じゃない。
そういう問い方がカオルちゃんの大好きな「神さま」を呼びますね・・w
>c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
「生命」とか「無機物」とかをどう考えるかでしょう。
存在そのものを「意志」と考えるショーペンハウアーとかニーチェなら、生命と存在の境界はありませんよ。古代ギリシャの物活論なんかもそうでしょうけどね。
84 :
考える名無しさん:2006/12/10(日) 00:45:13
アホクサw
はい。カオルは不滅です。ガクガク((((;゜Д゜))))ガクガクブルブル
(((( ;゚Д゚))))ブルブル
>>80 sewさん
>「私」が見ている世界には「私」は存在していなく、「私」が見ている世界の外に「私」が存在している。
たしかに見ている「私」は、見られている世界の中の「私」ではないでしょう。
見ている「私」を世界を限界づける外枠のようなものとか、そこから世界が開ける
原点のようなものとか想像することはできるかもしれませんが、その外枠「外」や
その原点「以前」は、もはや想像することさえゆるされないでしょう。
もしもほんとうにその外枠の中にしか世界がなかったり、あるいはその原点からしか
世界が開かれないのであれば「世界は私の世界である」と言えるかもしれません。
>だから「私」というものを唯一「私」だけが特別な対象として見ることが出来るし、
>それにより、「私」を「私」だと認識することが可能なのだと思います。
たとえ私の「唯一さ、特別さ」が、私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界が
ないからこその「唯一さ、特別さ」なのだとしても、それを知りうるのはだれなのか?
世界の外から「唯一「私」だけが特別な対象」と規定しうるのは、いったいだれなのか?
世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?
>別の側面(精神面など)からでは、共通理解をすることすら難しいのではないかと思います。
>見ることが出来ないし、自分たちで表現したり想像することでしか、そういうものだ、
>と認識することが出来ないから。
ええ、だから「私の世界が唯一の世界なんだから、私は他の人たちとはちがって特別なのよ」
とか言えてしまうんです。「いや、オレのほうこそ、その唯一で特別な私ってやつだよ」とか
言われたら「いいえ、この私が私に決まってるじゃない」とか言い返すわけです。
そうしないと、私の「唯一さ、特別さ」がどこかに消えてしまうので。
>自分は何故自分なのか、というような命題についての話をすることかな、と。
はい、そうです。
>>81さん
>『この私』は滅びます。必滅です。
>その死骸の上に一輪の花が咲きます。
>不滅です。きっと。
その一輪の花の前世が、その死骸だったら、
「オーラの泉」で説教されそうで、最悪です。(^_^;)
>>82 >カオルちゃんは、相変わらずの「ポエム哲学」で悦に入ってるようですねぇ・・w
>>85だけでは申し訳ないので。
>まぁ哲学では、存在そのものからの乖離を「自己意識」にあると考えるのが一般的なんじゃないか・・?
この私がどうのこうの言ってるんだから、そうでしかありえないでしょう?
禁断の木の実を食べた証拠は、男性にしか現われていないです。ええ、その(アダムの)喉仏です。
>「自己意識」・・
>つまり人間には自己が二つあるということですね。
自己反省的(言及的)、あるいは自己帰属的な主体「自己」については、そうでしょうね。
>キルケゴールは「精神とは自己と自己との関係である」と言ってる。
これは、今↑言った「自己」とはちがいますね。
>クレタ人の嘘つきのパラドクスだって、こういう二重の自己の自己分裂からきてるんですよね。
「自己言及のパラドクス」と呼びますから、そうでしょうね。
>「この私を殺す」っていうのは、自己意識を捨てるってことですか?
そうですね。
>まったく意味不明ですね・・(意味不明なところが多いけど、
>たぶんカオルちゃんの「ポエム哲学」には意味不明なところがないといけないんでしょう・・w)
そう思ってもらってかまいませんよ。わたしには意味不明どころか自明なんですけどね。
>>83 >>a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
>逆でしょう? (理由は上に書いたとおりですけど・・)
>ちなみにニーチェとかドストエフスキーは、意識の過剰を現代人の病いと考えてますよね。
ん? 意識の過剰(肥大した自我)の縮小が意識の拡大では? なぜに逆?(興味津々)
>カオルちゃんの「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」っていうのは、
>問いの立て方が稚拙なんですよw 人間は既に存在の中へと投げ込まれているんだから、
>そういう問いは哲学的じゃない。
>そういう問い方がカオルちゃんの大好きな「神さま」を呼びますね・・w
すでに生きていて生きていないことができないし、すでに存在していて存在しないこともできないし
ってことですね。双方について知りうる者だけが、一方のこともわかる、それが、神さま、と。
ウィトゲンシュタイン先生の言うとおりにするのが良い子なんですか?
じゃあ、わたしは悪い子ですね。(笑)
>c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
>「生命」とか「無機物」とかをどう考えるかでしょう。
それを言うなら、そもそもの時空についても考えないとね。でも、
>存在そのものを「意志」と考えるショーペンハウアーとかニーチェなら、
>生命と存在の境界はありませんよ。
ということでいいなら、それにしておこうかな? 落差激しくないですか?(笑)
>>90 >カオルちゃんが、《精神世界》のお話しを《哲学》としちゃうことをすっかり忘れてました [苦笑]
体験そのもののことはともかく、そのような体験の記憶の想起が
どうしてだかわからないけれどもできてしまうので、そのような体験の
報告がされているのですよ。それについて検討しているのです。
よく指摘されるのは、脳内麻薬の分泌との関係です。
つまり、人工的にそのような現象が引き起こせるのですよ。
べつに珍しい体験でもないように思いますよ。
エヌさんの記述の多くも、この体験にもとづくものですしね。
もちろん=でないにしても、まったく別のことではないでしょう。
今している魂の話だって、あなたの範疇では完全にオカルトです。
でも、簡単にオカルト扱いしてしまわないのが哲学ではないですか?
だって、あなたはググッただけで何も知らないのだから。
>エヌさんの記述の多くも、この体験にもとづくものですしね。
>もちろん=でないにしても、まったく別のことではないでしょう。
>
>今している魂の話だって、あなたの範疇では完全にオカルトです。
>でも、簡単にオカルト扱いしてしまわないのが哲学ではないですか?
エヌさんの記述っていうのが、何を指してるのかわからないけど、いまざっと見た限りでは、カオルちゃんよりエヌさんのほうがずっと哲学的だね。
エヌさんの哲学的発言の例↓
>>31 >輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
>>47 >存在することに理由は要りませんよ
仏陀だって、死後の世界などの形而上的事柄については、基本的には「無記」(答えない)という立場だったはずで・・
仏陀はとても哲学的な人だったと思う。
仏教で輪廻について語られるのは、古くからインドに伝わる輪廻を信じている民衆のための方便だったんだろうね。
ニーチェの永劫回帰だって、ニーチェはそれを「仮説」であると明言している。
その仮説がどういう意味を持つかといえば、キリスト教の終末論的で有限な直線的時間論に対して、
永劫回帰という仮説を対抗させることで、目的論的思考を超克しようとした、という意味をちゃんと持った仮説であるわけで・・
《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、その言葉が何を指しているのかが、
全く明確でないからでもあるし、それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。
「魂」って何ですか?
霊魂の不滅については哲学の問題にはならないっていうのは、カントによって証明されたことではないの?
>>92 カントが証明したからといって
それが正しいと盲信するのはどうかな?
哲学の問題にしても良いんじゃない?
>>93 >カントが証明したからといって
>それが正しいと盲信するのはどうかな?
>哲学の問題にしても良いんじゃない?
いいですよ。 だめだとは言ってない。
ただそれがアンティノミーに陥ることは、カント以降に生きる我々にはすぐに分かることでしょうね。
カント以降に神の存在証明とか霊魂不滅を証明しようとする哲学者は、ほとんどいなくなった。
そういう意味では、哲学にも過去からの積み重ねっていうものがあるわけですよね。
で、私は
>《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、その言葉が何を指しているのかが、
>全く明確でないからでもあるし、それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。
と書いたわけだけど、
「霊魂」という語が哲学で使われていたのは主に古代から中世の哲学であって、19世紀以降(つまりこれがカント以降
だと思うんだけれど)はほとんど使われなくなったと思う。
そういう現代の哲学で「霊魂」を再び持ち出す意味、意図なども含めて、「霊魂」という語で何を示そうとしているのか
を明確にしてほしいということです。
(あと、「妄信する」というような何の根拠もない罵倒言葉に等しい言い方は、できれば使わないほうがいいですよ)
>>94 なんでも小難しく言葉を羅列させるのが哲学と思ってる馬鹿の典型
>>92 >エヌさんの記述っていうのが、何を指してるのかわからないけど、
>いまざっと見た限りでは、カオルちゃんよりエヌさんのほうがずっと哲学的だね。
かれは、形而上学的な想定(仮説)としてしか語られないことについて、
その体験知を言葉にしているのです。
そもそもその体験知のない者にとって、それは理解できない。
正確に言うなら「悟れない」ことです。
語りえないと言ってみせることが哲学的なわけではない。
そこに至る思索の軌跡そのものが哲学ではないですか。
>輪廻があるかないかなんてわかりませんよ
以前彼は、輪廻があるという想定で話していたので確認しただけ。
わたしにとっては、もっとも安易な問題の解決の仕方が輪廻です。
もちろん、だれにでも当てはまるような、だから問いの本質を取り
逃がしてしまうような結論に飛びつくはずがない。
あなたは「どうして生きているの?」「どうして存在しているの?」は、
問いの立て方が稚拙だと言った。言いたことはわかるので回答もした。
でも、まったくもって完全な的外れなのですよ。わたしの問いは、
私は、どうして生きているの? 私は、どうして存在しているの?
であって、問いから「私」を省略したら、まったく意味がなくなります。
あなたはそもそもそこがわかっていない。
>仏陀はとても哲学的な人だったと思う。
>〜ニーチェの永劫回帰だって、ニーチェはそれを「仮説」であると明言している。
わたしはわたしの問題意識において輪廻は否定しています。
わたしにとっては論理的帰結としてのそれですが、
その論理を超えるものについて問うてることもまた事実です。
ですが、超越について問うことを戒めるつもりで、
仏陀やニーチェを持ち出すのは的外れですね。
だってかれらは超越をこそまなざしていたのだから。
>《精神世界》のお話が哲学的でないのは、そういう人たちが「魂」とか言うとき、
>その言葉が何を指しているのかが、全く明確でないからでもあるし、
>それがずっと存在することを前提にして話したりしてしまうからでもあるね。
わたしは、あなたが勝手に思い込んでいるような、いわゆる「魂」について
話したいのではなく、そのような「魂」が存在しつづけるようなことを前提
しているのでもまったくない。そのような話がしたいのではないからです。
わたしの書いてきたことを読んでもらえば明らかなはずです。
>霊魂の不滅については哲学の問題にはならないっていうのは、
>カントによって証明されたことではないの?
霊魂の不滅について話しているのではない。
「私が私であること」と「私がこの私であること」について話している。
あなたにはそれがわからないのでしょう。それでいいのですよ。
>>94 >そういう現代の哲学で「霊魂」を再び持ち出す意味、意図なども含めて、
>「霊魂」という語で何を示そうとしているのかを明確にしてほしいということです。
わたしに聞くべきでは?
「現代の哲学で」という、この哲学進歩史観がまちがっています。
「魂」について問わないこと、問えないことを知ることが進歩ですか?
なぜそれが進歩だと言えるのでしょう? その根拠は何ですか?
「魂」という語で「何」を「示そうと」しているのか「明確に」できないからこそ、
それについて哲学しているのですよ。
ハイデガーは、存在そのものについて「存在×」という抹消記号を使いました。
なぜなら、存在は存在者ではないからです。
「何か」(対象)として「示す」ことで「明確に」する、というようなものでは
ないからです。すなわち、言語(論理)の形式、あるいは生の形式を超越して
いることについて語っていることを「明確に」自覚していたのです。
ウィトゲンシュタインは、語っています。
私は、ハイデガーが存在と不安について考えていることを十分考えることが出来る。
人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。
例えば、あるものが存在する、という驚きについて考えてみよ。
この驚きは、問いの形では表現され得ない。
そして、答えは全く存在しないのである。
我々がたとえ何かを言ったとしても、
それは全てアプリオリに、ただ無意味でありうるだけなのである。
それにもかかわらず、我々は言語の限界に対して突進するのである。
キルケゴールもまたこの突進を見ていた。
……
言語の限界に対するこの突進が倫理学である。
……
しかし、この突進という傾向は或るものを暗示している。
それはすでに聖アウグスティヌスが、
なんだと、この不潔な奴め、お前は無意味なことを語ろうとはしないというのか。
お前みたいな奴は無意味なことだけを語れ、そうすれば害はないから。
と言ったとき、知っていたものである。
Dune's Home Page ――『倫理学講話』(1929-1930)について
ttp://www.kotoba.ne.jp/~dune/index.cgi?k=wit_ethic から。
また、HP製作者のDune氏は、言っています。
ただし、重要なことは、この「言語の限界」で語りたがる人間の傾向を、
ウィトゲンシュタインは「敬意」を払うべき事柄であると結語している点でしょう。
決してあざけることはしない。と、ウィトゲンシュタインは重ねて言明する。
と。ハイデガーの自覚があるか、ウィトゲンシュタインのように身を捩るような断念があるか、
ということを、もしあなたが言いたいのだとしたら、あなたには何も言えない、とわたしは思う。
ショーペンハウアーを持ち出しておいて、意識に拡大については思い当たらない。
ちゃんと調べようともしないで「精神世界」とかいう、わけのわからない範疇で
自分勝手にレッテル貼りをして批評しようとする。哲学徒は批評家ですか?
意識の拡大というのは、ショーペンハウアーでいう「無」のこと、
物自体としての意志との合一における、その「事態」のことに関係していると思う。
かれが苦を回避する方法として説いた、神との合一、悟り、イデアの認識は
あきらかに意識の拡大と関係しているように、わたしには思える。
まちがっているかもしれない。でも議論する価値はあると、わたしは思う。
しかしあなたの態度では、そもそもかれのいう「盲目の意志」について語ることが、
すでに禁止されているのではないですか?
形而上学そのものが「現代の哲学」においては批判されているのだから、
形而上学が、そもそも哲学ではないはずです。
形而上学を批判したハイデガーの哲学でさえ、哲学ではないはずです。
それはそれでかまわない。それがあなたの格率なのでしょうから。
でも、それはあなたの思想であって、他人に押し付けるものではありません。
なんだ カオルは 誰かのコピペ貼って
そうだ!そうだ!って同調するスネオみたいな奴なのか?
>>97 >ですが、超越について問うことを戒めるつもりで、
>仏陀やニーチェを持ち出すのは的外れですね。
>だってかれらは超越をこそまなざしていたのだから。
「超越をこそまなざしていた」って、どういう意味なの?
(ニーチェが最も批判したのは「彼岸思想」だと思うし、
仏陀も「彼岸思想」には縁のない現実的な人だったと思いますけどね。)
>>98 >「現代の哲学で」という、この哲学進歩史観がまちがっています。
>「魂」について問わないこと、問えないことを知ることが進歩ですか?
>なぜそれが進歩だと言えるのでしょう? その根拠は何ですか?
カオルちゃんの妄想ですw 私は「進歩」なんて書いてませんから。
私が書いたのは、「哲学にも過去からの積み重ねっていうものがある」です。
「積み重ね」によって生じるのは、「進歩」じゃなくて「変化」です。
カント以降にどういう変化が生じたかといえば、
カントが「神」や「霊魂」そのものは理論理性の認識を超えてることを証明して以降、
簡単にいうと、哲学と宗教の境界がそれ以前よりずっと明確になったということ。
>「魂」という語で「何」を「示そうと」しているのか「明確に」できないからこそ、
>それについて哲学しているのですよ。
だから・・
私が聞きたかったのは、まず、現代の哲学では使われなくなってきた「魂」という語を『再び持ち出す意味、意図』。そして、
『「霊魂」という語で何を示そうとしているのか』というのは・・
古代中世の哲学でよく使われていた「魂」という語を「哲学」として使うなら、当然過去の用法を引きずるわけですよ
(要は手垢がついているってこと)。だからたとえばソクラテスが言った「魂」と考えていいのか、
それともカオルちゃん独自の意味を込めてるのか、そういうことを明確にしてほしいっていうこと。
(カオルちゃんはレスの量が多い割には内容が少ない・・。
そういう書き込みを過去にしてるなら、コピペでもしてくれるぐらいの親切心が欲しいw )
>ハイデガーは、存在そのものについて「存在×」という抹消記号を使いました。
>なぜなら、存在は存在者ではないからです。
違うんじゃないの? だって存在論的差異は『存在と時間』の頃からの思想だけど、
「存在」にバツをつけたり他にもいろんな書き方をするようになったのは、後期だからね。
後期の「四方域」とかのハイデガー独自の意味を持たせるには「存在」っていう、
過去の哲学の手垢がついた言葉をそのまま使いたくなかったんだと思うけどね。
(それにつけても、カオルちゃんが「魂」っていう手垢がついた語を「哲学」としてそのまま使う気が知れないわけだ・・)
>>100 >ショーペンハウアーを持ち出しておいて、意識に拡大については思い当たらない。
>ちゃんと調べようともしないで「精神世界」とかいう、わけのわからない範疇で
>自分勝手にレッテル貼りをして批評しようとする。哲学徒は批評家ですか?
あのねぇ・・w
カオルちゃんは『いわゆる「意識の拡大」』と書いている。「いわゆる」というのは「世間一般に言われる」
という意味である。ところが私は「意識の拡大」という用語を知らなかった。だから「意識の拡大」で検索した。
その検索結果の上位は、いわゆる《精神世界》と思われるサイトで占められていた。
そこで私は『これは《精神世界》の用語みたいね』と書いた。
これは、ごく自然な流れだと思いますが・・
>意識の拡大というのは、ショーペンハウアーでいう「無」のこと、
>物自体としての意志との合一における、その「事態」のことに関係していると思う。
そうなの? 私はショーペンハウアーはあんまり詳しくないけれど、彼は
>「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚
みたいな事を書いてるの?
(そもそも「意識の拡大」がどういう事柄を指しているのかもっとはっきりしないと、話にならないけどね・・
私が
>>94で言いたかったのはそういうこと。つまり「語りえない」で通したらそれは哲学じゃない。
その事柄そのものは「語りえない」とすれぱ、
その事柄の周辺の語りうる部分を論理的に語っていくのが哲学であるわけですよ。)
(「意識」っていうのも、すごく手垢がついた言葉で、したがってすごく多義的だからね。
多義的な言葉をそのまま曖昧に使うのがカオルちゃん流かなw)
>形而上学そのものが「現代の哲学」においては批判されているのだから、
>形而上学が、そもそも哲学ではないはずです。
>形而上学を批判したハイデガーの哲学でさえ、哲学ではないはずです。
これも、「形而上学」っていう多義的な言葉を曖昧に使ってるから間違ったことを言ってしまういい例だね。
(意地悪な言いかたをすれば「詭弁」)
現代の形而上学批判の先駆者であるニーチェが批判する「形而上学」は、「二世界説」っていう意味です。
ハイデガーが批判する「形而上学」は、「存在忘却」っていう意味です。
意味が全然違います。
>>102 >(ニーチェが最も批判したのは「彼岸思想」だと思うし、
>仏陀も「彼岸思想」には縁のない現実的な人だったと思いますけどね。)
ニーチェの批判は、超越へのまなざしがあってこそ、
簡単に言うなら「気になる」からこそ、です。
仏陀の場合は、超越に至る実践において哲学は投げ出しています。
その意味で、現実的とは言えるのかもしれませんね。
>私が書いたのは、「哲学にも過去からの積み重ねっていうものがある」です。
>「積み重ね」によって生じるのは、「進歩」じゃなくて「変化」です。
変化なんてしていませんよ。
新たな概念装置の発明、新たな解釈の仕方、新たな専門分野の開拓……
「新たな」それはどうでもいい。哲学とは何の関係もない。
哲学は問いかけることからはじまります。
問いは古代ギリシャ以前の昔から変わっていません。
その問いについて自分の頭で考えることが哲学するということです。
たとえだれかの哲学を利用するにしても、その人が自分の哲学をしているなら、
必然的に自分の哲学になってしまうはず。あなたの大嫌いなマイ哲学に、です。
哲板自治議論じゃないんだから、かんべんしておくれよー!
>カント以降にどういう変化が生じたかといえば、
>カントが「神」や「霊魂」そのものは理論理性の認識を超えてることを証明して以降、
>簡単にいうと、哲学と宗教の境界がそれ以前よりずっと明確になったということ。
超越論哲学が引いた境界線とは何か、どのような意味での境界線なのか、
境界線を定める方法論は正しいのか、どのような意味で正しいと言えるのか……
自力で一生賭けたっていいし、到達できなくたっていいじゃないですか。
わたしの思うところを言うなら、カントの批判哲学の依って立つ基盤が、
デカルトの「われ思う」にあるということ。(何か不満でも?)
で「経験の可能性の条件が、すなわち経験の対象が成立する条件である」
ということが成立するための条件「われ思う」は、解釈された「われ思う」
ではないのか、とわたしは疑っています。
つまり、現象としての「われ思う」になってしまっている、ということです。
わたしの問いは、物自体としての「われ思う」そのものに向けられています。
当然、純粋理性の誤診やアンチノミーの問題がかかわってくるのでしょう。
>>103 >私が聞きたかったのは、まず、現代の哲学では使われなくなってきた「魂」という語を
>『再び持ち出す意味、意図』。そして、『「霊魂」という語で何を示そうとしているのか』というのは・・
>古代中世の哲学でよく使われていた「魂」という語を「哲学」として使うなら、
>当然過去の用法を引きずるわけですよ(要は手垢がついているってこと)。
私は、どうしてこの私なのか?
最初の「私1」と、後の「この私2」は、A=Aじゃないのですよ。
「この」が指示する「私2」についても、固有名のカオルなのか、体なのか、心なのか、
あるいは、カントでいう非人格的自我としての統覚なのか……何れにしても、最初の「私1」が
それらすべての「この私2」ではないのだとしたら、私1ってだれ? じゃぁ魂ってことで。(笑)
>それともカオルちゃん独自の意味を込めてるのか、
込めていないけど、いい表現がみつからない。
でも、上に書いた問いが理解できる人なら、きっとわかる。
>そういう書き込みを過去にしてるなら、コピペでもしてくれるぐらいの親切心が欲しいw )
最近では、永井均と<独在性> 2
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1151940034/ です。
信頼している人に嫌われてしまって、一度去ったのだけど、また復帰しました。
あいかわらず、だれにも相手にされてないですが。(T_T)
>過去の哲学の手垢がついた言葉をそのまま使いたくなかったんだと思うけどね。
わたしは、抹消記号を使うようになった文脈についてではなくて
そうすることの本質的な意味について言っています。
>(それにつけても、カオルちゃんが「魂」っていう手垢がついた語を
>「哲学」としてそのまま使う気が知れないわけだ・・)
別にそれでいいです。かまわなければいいじゃないですか。
>>104 >私はショーペンハウアーはあんまり詳しくないけれど、彼は
>>「私は、世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚
>みたいな事を書いてるの?
議論が厳密ではない? あなたと話しているわけではないもの。
ショーペンハウアーは、物自体としての意志の断片にすぎない表象が、
それ自身の存在の仕方で(根拠も持たずに)実在(努力)しつづけようと
永遠に循環しなければならないことを「苦」と考えました。
その苦を回避する方法として「神との合一」「悟り」などを想定しました。
「自己意識を捨てる」に関連づけていうと、
(ショーペンハウアーの個別的意志を自己意識と考えて)
「個別的意志を捨てる」というのは「個別的意志による個別的意志の否定」ではなく、
「美的観照は個別的意志を沈(鎮)静化させる」みたいなニュアンスのそれです。
たとえば、無念無想がそれを意識しているかぎりは、無念無想ではないようなこと。
「個別的意志の消失」→「主客の合一」→「無」(神との合一、悟り)でしょう?
物自体としての意志の断片である「個別的意志(私)の表象世界の消失」について
もし言語によって表現しようとするなら「無」と呼ぶしかない、みたいな感じです。
無(ゼロ)だからこそ「世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚です。
このとき「すべてを知っている」と表明するのは「この私2」ですが、「この私2」の
消失によって体験される体験そのものとしての「私1」は、つまり「すべて」は
比肩しうるものが‘ない’「存在×」なのでしょうから、それは無と見分けが
つかないという意味で「無」とも言えるのではないでしょうか。
もちろん、まじめに議論してないよ。どうでもいいから。
>(そもそも「意識の拡大」がどういう事柄を指しているのかもっとはっきりしないと、
>話にならないけどね・・
話にならないなら、話さなければいい。
>その事柄の周辺の語りうる部分を論理的に語っていくのが哲学であるわけですよ。
そうですか、がんばってください。
>>105 >(意地悪な言いかたをすれば「詭弁」)
はいはい。
>現代の形而上学批判の先駆者であるニーチェが批判する「形而上学」は、「二世界説」っていう意味です。
>ハイデガーが批判する「形而上学」は、「存在忘却」っていう意味です。意味が全然違います。
わたしの発言は、ポモの代表格デリダを念頭においたものです。どうでもいいけど。
あなたの知識は「サルでもわかる哲学史入門」に書いてありました。どうでもいいけど。
わたしの発言もあなたの知識もどうでもいいものだと思う。全く無意味、時間の無駄です。
哲学史の知識は哲学とは何の関係もない。それにあなたよりわたしの方が多分詳しいし。
哲学ってものがまだよくわかってない素人なんですが
哲学ってのは相手をやりこめるのが目的なんですか?
カオルは自分が嫌われやすいというのは自分でもわかってるのでしょう?
皆に嫌われる理由 それは幼いからです
自分に向けられた意見に対して、攻撃的に反応してしまっているのです
カオルは自分ではそんなことはないと言うかもしれませんが
文章に攻撃性が滲み出てきてしまっているのです
もっと自分を見つめてみることが必要です
>>106 >ニーチェの批判は、超越へのまなざしがあってこそ、
>簡単に言うなら「気になる」からこそ、です。
(なんだか、詭弁っぽいですけど・・)
「超越」そのものではなくて、まさにその「超越へのまなざし(つまり彼岸世界への信仰)」
をニーチェは批判しているんですよ?
「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
その「超越へのまなざし」によって現代のニヒリズムが生じたとニーチェは考えるわけですからね。
>仏陀の場合は、超越に至る実践において哲学は投げ出しています。
カオルちゃんはどうして、仏陀の実践が「超越に至る実践」だったと思うの?
私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。
>変化なんてしていませんよ。
>・・・
>哲学は問いかけることからはじまります。
>問いは古代ギリシャ以前の昔から変わっていません。
(2年ほど見ない間に、カオルちゃんは本当に詭弁家になってしまったのかな・・)
「問うこと」が哲学であることは変化しませんが、問いの「内容」は当然変化しますね。
(たとえば、ソクラテスは霊魂の不滅を証明しようとしましたね。霊魂不滅の証明は、
古代ギリシャの哲学としては認められるとしても、現代では普通は哲学とは見られないっていうこと)
>>107 >わたしの思うところを言うなら、カントの批判哲学の依って立つ基盤が、
>デカルトの「われ思う」にあるということ。(何か不満でも?)
デカルトは「われ思う」の「われ」を「実体」としたのに対してカントは、
「われ」の実体性を否定して、それを「はたらき(機能)」とした、ということです。
>で「経験の可能性の条件が、すなわち経験の対象が成立する条件である」
>ということが成立するための条件「われ思う」は、解釈された「われ思う」
>ではないのか、とわたしは疑っています。
>
>つまり、現象としての「われ思う」になってしまっている、ということです。
カントは『純粋理性批判』で、統覚的自覚は「物自体」でも「現象」でもないと書いてます。
(そもそもカントのいう「現象」というのは、人間悟性によって認識されたもののことですよ?
「われ思う」が現象だとしたら、「われ思う」を認識している人間悟性は???)
>>109 >わたしは、抹消記号を使うようになった文脈についてではなくて
>そうすることの本質的な意味について言っています。
ええ。だからその本質的な意味をカオルちゃんは知らないんですよ・・
「存在×」の「×」は、単なる抹消記号ではないです。
それは「交差」を表してます。それは、昨日書いた「四方域」の四つの方面が交差する所に
「存在」が現成するっていうことを表す「交差」です。
>>110 >無(ゼロ)だからこそ「世界の、宇宙の、すべてを知っている」という感覚です。
>このとき「すべてを知っている」と表明するのは「この私2」ですが、「この私2」の
>消失によって体験される体験そのものとしての「私1」は、つまり「すべて」は
>比肩しうるものが‘ない’「存在×」なのでしょうから、それは無と見分けが
>つかないという意味で「無」とも言えるのではないでしょうか。
少しわかってきました・・
カオルちゃんのいう「魂」は、「世界霊魂」みたいなものですか?
世界霊魂は神と同一視されることもあるわけだから、
「魂」なんていう(現代では)分かりにくくなった言葉を使うより、
いっそのこと、もっと分かりやすく「神さま」と言ったほうがいいんじゃないでしょうか?
(だめですかねw )
>>114 >「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
>「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
神への誠実さ、ということを考えてみてください。
誠実さは「超越へのまなざし」への批判として為されるでしょう。
でも、それを為しうるのは「超越へのまなざし」があるからです。
>私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。
そんなとんでもない実践こそ、まさに超越に至るためのそれではないですか?
>「問うこと」が哲学であることは変化しませんが、問いの「内容」は当然変化しますね。
「哲学史入門」に書いてあるような問いの内容?なんてどうでもいいのですよ。
ひとり自分からはじめて、どこにも到達しなくたっていいのです。
>>115 >デカルトは「われ思う」の「われ」を「実体」としたのに対してカントは、
>「われ」の実体性を否定して、それを「はたらき(機能)」とした、ということです。
デカルトの、その思索の結末(精神的実体の想定)が真実なわけではないです。
カントだって『オプス・ポストゥムム』への零落の道をたどったではないですか。
>カントは『純粋理性批判』で、統覚的自覚は「物自体」でも「現象」でもないと書いてます。
その自覚ってだれがするのですか? 自覚の定義は?
とっちらかった多様なるものをまとめあげるはたらき「統覚」は、経験を可能にする条件
という意味ではアプリオリですが、経験によって機能するという意味ではアポステリオリです。
ですから、物自体でも現象でもないのですが、現象界の外にあるとはいえない、という意味で
現象界を否定する物自体としての「われ思う」とは対照的に使いました。
>>116 >「存在×」の「×」は、単なる抹消記号ではないです。
>それは「交差」を表してます。
>それは、昨日書いた「四方域」の四つの方面が交差する所に「存在」が現成する
現存在は徹頭徹尾言語存在者であり、現存在に開かれる世界は意味連関の世界ですが、
ハイデガーの想定した四方域の一方である「死を能くしうるもの」としての現存在は、
言語存在者としてのみずからの超越において(死において)あるものとしてのそれです。
すなわち、現存在の両義的な存在の仕方、存在論的差異における差異そのものとしての
あり方(運動)を示しています。
けれど、ハイデガーは世界を構成する原因であり、またみずからがその要素でもある
現存在の両義的なあり方の他に、神的なもの、大地、天空の三原因まで加えてしまった。
それらは必然的に四方における差異そのもの‘として’の性格を残してしまうがゆえに、
意味連関の世界に引きずり込まれてしまうこともまた必然なのです。
ですから、四方を示しつつも、それらを意味連関の世界の外部に閉め出すためには、
「抹消記号×」のような工夫が必要だったのでしょう。
しかし、現存在以外の三方の想定は端的に議論の後退にしか見えないです。
そもそも――四つの方面が交差する所に「存在」が現成する――ってなに?
「存在者」が「現成」するならまだしも……。
『存在と時間』が未完であることにおいて示しえたその限界の美しさを
容易に飛び越えてしまったかのような醜さを、わたしは感じてしまいます。
>>110 >カオルちゃんのいう「魂」は、「世界霊魂」みたいなものですか?
>〜もっと分かりやすく「神さま」と言ったほうがいいんじゃないでしょうか?
>(だめですかねw )
そうかもしれないけど、だめです。
『ORION』(中原紀生)―― 不連続な読書日記 No.43
ttp://www17.plala.or.jp/orion-n/NIKKI/43.html ウィトゲンシュタインのところを読んでみてください。
ここに書かれている「世界霊魂」が「比類なき〈私〉」(永井均)のことです。
とはいえ、あたなが‘それ’を理解してしまえるなら、
そのとき、あなたは‘すでに’存在論的差異を乗り越えてしまっているのです。
この不可避とも思える「世界霊魂」の「この私の世界」への超越が、
「私は、どうしてこの私なの?」という問いを生み出します。
(この事態を「存在」の現成とかいうなら理解できます)
視線の向きが逆なんです。でもそれは「神の視線」ではありません。
だって、わたしの視線なんだから。
で!、こんなどうでもいい議論してると大切な人たちと話せないです。
わかりますよね? 気遣ってくれますか。
>>117 >>「気になる」から批判したんだと言いたいんなら、ニーチェが気になったのは、
>>「超越」ではなくて「超越へのまなざし」ですよ。
>神への誠実さ、ということを考えてみてください。
>誠実さは「超越へのまなざし」への批判として為されるでしょう。
>でも、それを為しうるのは「超越へのまなざし」があるからです。
ニーチェが考えていたことについての話しなのに、なんで唐突に「神への誠実さ」が出てくるのか、
意味がわかりませんw どういうことですか?
>>私は仏陀の実践は、現実の苦しみを、「現実世界」において解決する実践だったと思いますが。
>そんなとんでもない実践こそ、まさに超越に至るためのそれではないですか?
とんでもない実践・・?
苦を滅するための実践として仏陀が説いたのが「八正道」ですよね?
「正しい見解」「正しい思惟」「正しい言葉」・・・
これらがどうして、「超越に至る実践」であり「とんでもない実践」であるのですか?
>とっちらかった多様なるものをまとめあげるはたらき「統覚」は、経験を可能にする条件
>という意味ではアプリオリですが、経験によって機能するという意味ではアポステリオリです。
>ですから、物自体でも現象でもないのですが、・・
いえ違います。アプリオリとアポステリオリが物自体と現象に対応するわけじゃないんです。
(カオルちゃんはたぶんアプリオリとアポステリオリの意味を勘違いしている)
物自体は経験を超越した認識の対象で、現象は経験的認識の対象で、どちらも認識の対象ですけど、
統覚は認識に常に伴うものであって、認識の対象ではないから、物自体でも現象でもないんです。
(カントの「われ思う」において、「主観」が確立され、「客観(対象)」が確立されたわけです)
>>118 >ですから、四方を示しつつも、それらを意味連関の世界の外部に閉め出すためには、
>「抹消記号×」のような工夫が必要だったのでしょう。
これは、私が「存在×」の「×」は、単なる抹消ではなくて 「四方域」の「交差」だ
と教えてあげたことに対する反論なんですか??
(じゃあ一応ハイデガー自身の言葉を引用しておきますね。
「十字交差の徴は、上に言われたことに従えば、勿論、抹消という単に否定的な徴ではあり得ない。
その徴はむしろ、方域の四つの方面とその四つの方面が十字交差の場所において集まっていることの内へ、
示し入っている」『有の問へ』)
>そもそも――四つの方面が交差する所に「存在」が現成する――ってなに?
>「存在者」が「現成」するならまだしも……。
カオルちゃんはハイデガーを読んだことがありますか?
「現成」っていうのは、ハイデガーがWesen(本質、実在)っていう名詞を動詞として使った言葉なんですけど、
道元の用語である「現成」って訳されるのが普通です。
(用例はたとえば、「存在は、性起として現成する」『哲学への寄与』みたいな感じです。)
(ちなみに上の「性起」も仏教用語ですね。)
>ウィトゲンシュタインのところを読んでみてください。
>ここに書かれている「世界霊魂」が「比類なき〈私〉」(永井均)のことです。
この読書日記を書いた人は、ヴィトゲンシュタインの単なる覚え書きに過ぎないものを、安易に著作に結びつけ
ているから、たぶん学問的研究のし方を知らない人ですね。
覚え書きっていうのは、単に人の本から書き写しただけのものとかが混ざっているのが普通だから、
もっと慎重に扱わないとだめなんです。
ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で「魂」について書いているのは、こういうことですよ。
「人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、それはいかなる仕方でも保証されていない。
それだけでなく、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待する役割をまったく果たさないのである。」
(6.4312)
>とはいえ、あたなが‘それ’を理解してしまえるなら、
>そのとき、あなたは‘すでに’存在論的差異を乗り越えてしまっているのです。
「存在論的差異を乗り越える」って、どういう意味ですか?
>で!、こんなどうでもいい議論してると大切な人たちと話せないです。
>わかりますよね?
わかりません。
カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
煙に巻くこと、と私は見ていますw
だからカオルちゃんにとって「大切」でも、多くの人にとってはそうでないと思います。
「皆に嫌われる」らしいじゃないですか・・。
不幸なことです。
(私は「嫌い」というほどではないです)
嫌いじゃないけど問題を共有できないから書くことないんだよね、、
価値論スレみたいにまったく分からないってことはないから読んでておもしろいけど。。
>>77 > a.意識の拡大とは、赤ちゃんへの退行ではないでしょうか?
たぶん意識に大きさはないと思われ
> b.思考停止(問いの消滅)とは、このことではないでしょうか?
> (もっと悪くいうと、この私の生きる意欲の消失でしょうか)
思考停止とは妄想の欠落です
意欲はバリバリに出てきますよ
> c.生命そのものと、存在そのものに、ちがいはあるのでしょうか?
存在とは生命のことなんですか?
無機物など非生命も存在していて
生命非生命に関係なく同質ですよ
さらに有形のものから無形のものまで存在は全て同質ですよ
その上、存在とは同質の意識があるものですよ
それゆえ、交流が可能なんですよ
↑
>>124はエヌです
意識は無口でただ黙っている
それゆえ、それに気がつきにくい
意識はいつもそこにあるのだが、もの静かなため気がつかない
意識に気がつかせない原因は四六時中活動している思考にある
思考がカーテンのように意識を閉ざし気づかせない
カーテンはただの思考であって現実ではないのだが
それが現実のように感じ
それゆえカーテンに写るものが現実であると考えるようになる
思考のカーテンが下りたとき
初めてカーテンに写っていたものは妄想であったと気がつくことができる
妄想がないとき、現実に触れ、意識に触れる
いや触れていたけれども気がつかなかったのだ
126 :
エヌ:2006/12/16(土) 01:13:53
思考のカーテンはカーテンに写るものが無くなったときに自然に下りる
>>79 > 私の知っていることのすべては、
> 私が、やがて死ななければならない、ということであり、
> しかも、このどうしても避けることのできない死こそ、
> 私のもっとも知らないことなのである。
> 私は、自分が、どこから来て、どこへ行くのか、知らない。
生まれた(と見なしている)ものはやがて死ぬでしょうし
生きている時には死はまだ訪れていないのでどのようなものかわからない
しかし死が訪れた時にはそれを伝える術はない
言えることは、
変化し続けるものは、やがて生⇒死⇒生へと変化し続けるでしょう
しかし変化しないものは、いつまでも生死の変化はしないものです
無形でこれまで変化したことのないもの不変であり普遍なもの
それを仮に魂と命名してみたのです
>>122 >わかりません。
>カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
>煙に巻くこと、と私は見ていますw
哲学用語を使わないで済むように努力してみます。
また、あなたが言うように思われていることは客観的な事実です。
いまさら無意識のせいにもできないでしょう。
>だからカオルちゃんにとって「大切」でも、多くの人にとってはそうでないと思います。
>「皆に嫌われる」らしいじゃないですか・・。
>不幸なことです。
たぶんそうなのでしょう。
でもそのような不幸ではなく、わたしの哲学が純粋にわたしの哲学であるために
だれにも理解されない不幸を求めたいと思います。
>(私は「嫌い」というほどではないです)
わたしのもっとも嫌いな評価です。よくわたしを知っていますね。
その他諸々の質問には、そもそものわたしの発言がまちがいなので
答えようがありません。失礼しました。
それから、当り前のことですがこのスレにあなたが書き込むことはあなたの自由です。
当然、あなたはわたしの発言があってもなくても、ご自分の意志にしたがって行動されるでしょう。
けれど、あなたにたいしてあなたの行動の抑制を意図した不適切な発言をしてしまったことを
ここに深くお詫びさせてください。すみませんでした。
>エヌさん
あなたは、もうわかっているでしょうけど、
わたしには、あなたの言っていることの何一つもわからないです。
まったくわからないのに、それを哲学で重ね描いてみせることに
いったいどのような意味があるでしょうか。
世界中には「わたしは、どうしてこのわたしなのか?」と問い掛ける子供たちが
数え切れないほどいるというのに、そのひとりですらないわたしが、この問いに
こだわるのは、現に今ここに生きているわたしだけが、わたしであることを、
このわたしが、わたしの身体の死によって、確実に永遠に消えてしまうことを、
ただただそれだけを信じたいからです。
わたしの生の唯一の価値であるそれを否定するいかなるものも許したくない。
そのためには、見ることのできないものの一切はないのでなければならない。
それなのに、わたしはわたしであったためしがない、それがすべてのはずの
わたしがどこにもいない。わたしがわたしであることが、わたしの夢なのです。
わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できないその決断だけが
わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。
129 :
考える名無しさん:2006/12/16(土) 10:02:40
ヒラガナ キョーシツハ ココデツカ?
>>128 >わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
>ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できないその決断だけが
>わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。
こういうことを書く人って、どういうつもりで書いているのかな。
「わたしの病気」を人に理解して欲しいのだろうか。
「わたしの病気」を、他の人にも感染させたいのだろうか。
(病人の行動は、健常者には理解できないか。。)
131 :
エヌ:2006/12/20(水) 01:15:28
>>128 >わたしの消滅
その前に「わたし」が何かわからないなら消えようがないと思う
私のモノがわたしであろうか
私の身体がわたしであろうか
私の思いがわたしであろうか
私の一体何が私であろうか
許すも許さないも
既に決まった事実があるだけで
私が有るなら、私はずっとあり続けるだろうし
私が無いなら、私は元からない
新しく生み出されたり、消滅したりできるものが
どこにあるだろうか
あるモノが無くなった
しかし本当は無くなってなどいない
形が変わっただけで消滅などしない
同じように
あるモノが生まれた
しかし本当は生み出されてなどいない
形が変わっただけで新しく創造することなどできない
それならば「わたし」とは一体何だろうか
「わたし」が生まれたり消えたりできるのだろうか
この謎が解かれぬうちは
その先もまた謎なりけり
132 :
エヌ:2006/12/20(水) 01:23:41
人の心は、いつでも飛んでゆく
今この時この場所を楽しめない
人の心はいつでも、ここに居ない
考え事をしているだろうか
先の計画をしているだろうか
過去を悔やんでいるだろうか
とにかく、いつも思いを馳せている
人の心はいつでも、止むことが無い
常に思いを馳せている
内容はくだらないことばかり
いつになれば正気になるのだろう
いつになれば思考から抜け出せるのだろう
いつになれば切ったり入れたりできることを覚えるのだろう
133 :
考える名無しさん:2006/12/21(木) 00:41:22
>>131-132 >「わたし」とは一体何だろうか
馬鹿だね、お前はw
「わたし」とは自我のこと、平たくいえば「人格」のことよ
物心ついた頃に生まれ、大脳の活動停止とともに消滅する
そんなの謎でもなんでもないだろw
>いつになれば正気になるのだろう
お前はいつだって正気なのよ
お前に起きてる事柄は全部お前の真実だってこと
でもお前はそれを認めたがらない
そりゃそうだろ、お前の人生はお前の自分の思い通りに
運ばないことだらけなんだからw
そこでお前は小さなその脳味噌で考える
こんなの正気じゃない、正気の沙汰じゃない!ってね・・
考えるっていうより、でっちあげるんだけどねw
世の中には、現実に自分を合わせる事ができず
現実の方を自分に合わせようとするヤツがいるってことぉ〜♪
この際だからハッキリ言っとこう・・現実もシッカリ観ることが
できないほどオツム弱いのよ、お前はw
>カオル
自殺美化と教祖願望の結合か・・・・・・
はやく夢から覚めてね
>>130 カオルは断じて病気なんかじゃない。
自分が凡人であることを認められない凡人なのだ。
インターネットによって自意識を肥大させられた犠牲者かもしれない。
こういう人はいまどきけっこう多いのだ。
135 :
エヌ:2006/12/23(土) 23:51:46
>>133 なんだかな
変なのがくっ付いてくるなぁ
> 馬鹿だね、お前はw
> 「わたし」とは自我のこと、平たくいえば「人格」のことよ
> 物心ついた頃に生まれ、大脳の活動停止とともに消滅する
> そんなの謎でもなんでもないだろw
どっかの本でも読んで考えた結論がそれか
実際にわからないことを知ったように書いてもなぁ
間違い
> お前はいつだって正気なのよ
> お前に起きてる事柄は全部お前の真実だってこと
> でもお前はそれを認めたがらない
話の脈絡がないんだが・・・
> そりゃそうだろ、お前の人生はお前の自分の思い通りに
> 運ばないことだらけなんだからw
君がいつも感じていることがそのまま出てるぞ
> そこでお前は小さなその脳味噌で考える
> こんなの正気じゃない、正気の沙汰じゃない!ってね・・
> 考えるっていうより、でっちあげるんだけどねw
> 世の中には、現実に自分を合わせる事ができず
> 現実の方を自分に合わせようとするヤツがいるってことぉ〜♪
良くわからないんだけど、おそらく君の脳内の葛藤なんだろうな
136 :
エヌ:2006/12/23(土) 23:52:16
>>133 > この際だからハッキリ言っとこう・・現実もシッカリ観ることが
> できないほどオツム弱いのよ、お前はw
いつも、そんなこと言われてるの?
君の日頃の葛藤が良くわかるけど
八つ当たりして、脈絡のないことを書いても伝わらないぞ
137 :
考える名無しさん:2006/12/24(日) 00:46:10
>>135-136 あはははw オマイの「脈絡」に沿って書いた結果なんだがナ、、、
それより、ヒトのレスを長々と並べるしか能が無いのかオマイはw
どうしてオマイには主張というものが無いのかわかるか?
わかっかんね〜だろなぁ〜〜w
それはね、考えずに生きて来たからなのよw
>>131-132 不明に不明を重ねてますます不明の深みに・・それがオマイなのよw
不明の深みとは(ここでは)混迷の極みを指すが、
オマイの小さな脳味噌は、それを人生の意味や感覚の深みと錯覚し
結局脳内では処理し切れなくなって脳外へ生ゴミのまんま放り出すw
感受性をとっくに失くした感覚と
自らの頓挫した思考の関わる余地も無く・・w
>>カオルさん
わたしという自己意識とわたしの眼前に広がる世界とが、わたしにとって預かり知らぬまま
何らに成立している以上、わたしとわたしに連関する事象がどうであれ、わたしは(自律自足した)
わたしであったことはなく、これからも無いように思います。
わたしをわたし成さしめているあらゆる根拠はわたしの認識のかなたにあり、
わたしはただ、わたしというかなたからかなたへ移ろう儚い現象にすぎない。
日常にただ邁進する多くの隣人と多少違いがあるとすれば、自己自身を無垢に享受しているか
訝しげに懐疑しているか程度。しかしその懐疑も、或いはカオルさんが最後の拠り所にしている
自死でさえ、かなたから享受している能力である以上、かなたを超え出る力は無いです。
同様に、例えば悟りの境地云々といったことどもについても。
わたしが(自律自足した)わたしである為には、かなたとしてのわたしのくびきを脱し、
かなたの彼方としてのわたしであらねばならない。けれどもかなたはかなた故に
わたしにとって認識不能であるのに、そのまた彼方など無内容な言葉遊びにすぎません。
ショーペンハウアーの語る意志否定が相対的な否定に留まって絶対無には及びもつかないように、
かなたを超えた境地など、わたしには想像すらできません。
それではわたしがわたしである為に一体何が出来るのか。前述のように根本的には何一つ
出来はしないけれど、かなたを超え出ることを断念することによってのみ、
一矢報いることは出来るかも知れません。裏の裏が表であるように、
かなたの彼方は現象としての現にこうして笑い泣き思考しているわたしそれ自身である、と。
かなたとしてのわたしから逃れようとするからこそ、いつまでもわたしは(自律自足した)
わたしに成れない。そうではなくて、かなたを意識しつつも、それと自己とを断絶すること。
それで初めてわたしはわたしという現象を自己の基盤とし、それを起点に自律することが
出来る!
Sがこうして思考していることも N・H・K の仕業かも知れませんし(笑)、カオルさんの語る
神様のせいかも知れません。でも、だから何?
神様に引きずられるわたしの世界は未来永劫に神様の悪戯。けれど、かなたへの従属意識
を断ち切り独立宣言したその時から、わたしはわたしとわたしの連関を引き受ける代わりに、
わたしの意識が継続するかぎりわたしであり続けられるんです。あとはわたしが一生懸命
わたしの世界を生きるだけ。何もムツカシイことなんてないんです。
って要するに見えないものを切り取って今を生きるみたいな、それってカオルさんがずっと
主張してきたことですよね。でも、都度に神様云々と恨み節を言ってしまうあたり、
やっぱり見えないものに囚われているように思えるし、もし神様(或いはわたしであった
ためしがないわたし)への当てつけの究極として自死を選ぶとするなら、それは全くもって
わたしとして死ねない、わたしを不本意に否定するだけの他律的な選択ではないでしょうか。
そう、強く思います。
結果としてどうとかはどうでもいいけれど、どうかカオルはカオルとして胸を張って生きましょうよ。
ね。
140 :
エヌ:2006/12/25(月) 03:22:57
>>137 > あはははw オマイの「脈絡」に沿って書いた結果なんだがナ、、、
何度も書かせるなよ
> お前はいつだって正気なのよ
この↑と
この↓と
の脈絡を書いてくれ
> お前に起きてる事柄は全部お前の真実だってこと
> でもお前はそれを認めたがらない
具体的に何を認めていないのか
書いてみな
> それより、ヒトのレスを長々と並べるしか能が無いのかオマイはw
君さぁ、自分の書いていること自分で解からないだろう
脈絡もなく被害妄想的になってるし
> どうしてオマイには主張というものが無いのかわかるか?
わかるも何も脈絡なさすぎ。君、大丈夫?
> わかっかんね〜だろなぁ〜〜w
> それはね、考えずに生きて来たからなのよw
君さぁ、自分が言われてることを、そのまま八つ当たり的に書いてるだろ
141 :
エヌ:2006/12/25(月) 03:25:37
>
>>131-132 > 不明に不明を重ねてますます不明の深みに・・それがオマイなのよw
> 不明の深みとは(ここでは)混迷の極みを指すが、
> オマイの小さな脳味噌は、それを人生の意味や感覚の深みと錯覚し
> 結局脳内では処理し切れなくなって脳外へ生ゴミのまんま放り出すw
> 感受性をとっくに失くした感覚と
> 自らの頓挫した思考の関わる余地も無く・・w
なんかさ、落ち着きなって
妄想ばかりしてちゃ
みんな呆れるばかりだぞ
142 :
考える名無しさん:2006/12/25(月) 13:31:24
>>140 間抜けな会話が好きなんだw
それともマシに書いてんの?
だいたいオマイ脈絡の意味わかってないだろw
何故それがわかるか教えとくねオマイIQ低そうだから
脈絡の意味わかってたら、しない質問ばっかしてるのよオマイってw
わはははは !!
>みんな呆れるばかりだぞ
みんな ←って誰w
143 :
考える名無しさん:2006/12/25(月) 13:32:00
マシ→マジ あははw !!
144 :
sew:2006/12/27(水) 17:03:20
>>86 >たとえ私の「唯一さ、特別さ」が、私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界が
>ないからこその「唯一さ、特別さ」なのだとしても、それを知りうるのはだれなのか?
「知る」という表現ですと、少し語弊が生じるかもしれませんが、
そのような感覚などは誰でも感じることはできるのではないかと思います。
自分だけが特別な存在なのだと。
>世界の外から「唯一「私」だけが特別な対象」と規定しうるのは、いったいだれなのか?
自分自身しかいないと思います。
>世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?
たぶんそれは、「私」とか「自分」とか「自分自身」と言うのだと思います。
それが厳密に「これこれこういう人」というのは難しいと思います。
146 :
sew:2006/12/28(木) 20:24:47
>>145 >【世界の外】って、何なんですか?
一度書いたことを質問するのはどうかと思うけどね。
読めばわかるから。
>こういうところで話したほうが良いかと。。
そこ会員制じゃん。
どこが良いんですか?
>>146 >一度書いたことを質問するのはどうかと思うけどね。
>読めばわかるから。
ああなるほど。
>>86を読んだらわかりました。
「私の中にしかない」もののことを「世界」と言っているんですね。
しかし、「世界」が「私の中にしかない」のなら、
「私」が「世界の外」にいるのは当たり前のことじゃないですか。
なんでそんな当たり前のことが、意味のある質問みたいになっていて、
それに対して「たぶんそれは、・・・」なんて答えているのですか?
148 :
sew:2006/12/28(木) 21:57:57
「世界」が「私の中にしかない」というような書き方はしていないと思いますが、
少なくとも「世界」は「私の中にある」と思っています。
「世界」の中に「私がいる」と思っている人もいるかもしれません。
あるいは「私」が「世界」であると思っている人もいるかも。
>「世界」が「私の中にしかない」のなら、
>「私」が「世界の外」にいるのは当たり前のことじゃないですか。
そういう表現をすると少し意味が違ってきます。
「私の中にしかない」ものが「世界」ではなく
「私の中の世界」が「世界」であると私は解釈しています。
>なんでそんな当たり前のことが、意味のある質問みたいになっていて、
>それに対して「たぶんそれは、・・・」なんて答えているのですか?
おそらく、世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?の問いかけは、
「私」が「世界の外」にいると認識した上で、「それでは、その世界を見ている『私』とはどのような存在なのか」
という意味で聞いているのだと思います。
「私」というのはどのような存在なのかについてはまだ言及していませんから。
ところで、「世界の外」については哲学板でないところで話したほうが良いと仰っていたのは?
>>148 >少なくとも「世界」は「私の中にある」と思っています。
>「私の中の世界」が「世界」であると私は解釈しています。
だから「世界」を「私の中にある」ものと規定すれば、
私がその「世界」の「外」にいるのは当たり前じゃないの?
ということを書いたのですが。。。
>おそらく、世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?の問いかけは、
>「私」が「世界の外」にいると認識した上で、「それでは、その世界を見ている『私』とはどのような存在なのか」
>という意味で聞いているのだと思います。
それなら、その『私』というのは当然、「世界」を「私の中にある」と
規定している(そう考えている)存在者のことですよ。
>>131 エヌさん
>私の一体何が私であろうか
‘私の’とか言ってしまっている、その‘わたし’です。
一切のある何か‘でない’わたしです。
「一体何が」と言っているのですから、もちろんそのわたしは、
エヌという固有名でもないし、記憶や肉体の連続性にもとづく
同一性の主体「私(エヌ)」でもないですね。
だとしたら、まったくもって論理矛盾した表現なんだけれども、
そんなことおかまいなしに‘私の’とか言えてしまうんです。
>既に決まった事実があるだけで
この私が、私たちの世界に生まれたようにではなく、
なぜかしら、わたしであること(事実)への驚きが
「わたしは、なぜ私なのか」の問いなのです。
>私が有るなら、私はずっとあり続けるだろうし
わたしは、となりのトトロの生でもよかったのに、
どうして、この私(カオル)の生なのでしょうか。
どうして、この有限な肉塊の生とともにあるのでしょうか。
>あるモノが無くなった
>しかし本当は無くなってなどいない
ある日、世界中の空に飛来した宇宙船から悪魔が舞い降り、
まちがった信仰、神や仏を愛したすべての人間たちの心を
最後の審判によって裁く「殺す」と宣言しました。
恐怖に震え迎えた審判の日、人類には何も起こりませんでした。
殺されるはずのカオルの泣き言も、後悔も、恋人に永遠の愛を
もとめる我が侭も、いつものように心ある振る舞いなのでした。
その日以来、悪魔が空にあらわれることは二度とありませんでした。
人類はそれぞれの信仰する神仏が勝利したのだと確信するのでした。
そうしてあるモノが無くなり、本当に無くなってしまったことに
だれひとり気づくことも無かったのでした。
カオルの日記には、そればかり書かれていました。
わたしは、どうしてこの私なのだろう?
何が書かれているのか、もう彼女には思い出せませんでした。
>「わたし」が生まれたり消えたりできるのだろうか
わたしは、どうしてこの私に生まれてきたのでしょうか。
わたしは、たまたまこの私だけれども、この私の生の終わりは、
わたしのいない世界の始まり、それとも世界の終わり、でしょうか。
>>132 カオルの心は、だれかの心のなかの思いかもしれない。
だれかの今この時この場所にただよう思いかもしれない。
だからカオルの心は、いつでもここにいないのかもしれない。
だれかの考え事が、カオルの考え事かもしれない。
先の計画は、だれかに、すでに、計画されているのかもしれない。
いつも思いを馳せているのは、本当のカオルの思いなのでしょうか。
それが本当のカオルの思いだって、どうしたらわかるのでしょうか。
>エヌさん
128は、この私、カオルの言葉でした。
今回の返答は、128にたいするエヌさんの返答へのものではないですね。
すみません。読み返して気づきました。
たぶんこちらが、この私、カオルの返答だと思います。以下……
>>131 エヌさん
この肉塊の活動が停止しても、エヌさんに話しかけることができるでしょうか。
もちろん、それができない理由が「わたしが消えたから」とはいえないけれど、
カオルがエヌさんに話しかけることは、もう二度とできないように思うのです。
もしもこの肉塊の死のお知らせが、このスレに書き込まれたとしたら……
そして……お葬式に参列してくれて、カオルの笑顔の遺影を見たとしたら……
そのときエヌさんは、カオルの死を認識しないのでしょうか。
それともカオルの死は、わたしの死ではないのでしょうか。
カオルの笑顔は、わたしの笑顔ではなかったのでしょうか。
どうして問いは生まれるのでしょう。きっと、この肉塊が生きて
存在してコトバを知ったから、わたし(問い)は生まれたのです。
胎児はわたしじゃないし、無脳ならわたしは生まれなかったし、
オオカミに育てられたら、わたしにはなれなかった。
わたしは、100年前の、100年後の、どこにもいないけれど、
この思い、わたしは、永遠の時の無限の空間に絶対に存在します。
今ここに、この思い、わたしが絶対に存在するから
わたしがどこにもいない、100年前、100年後、があるのですから。
だから、永遠の時の無限の空間も、やっぱりわたしの世界です。
だから、わたしの終わりは永遠の時の無限の空間の終わりです。
だから、100年前、100年後、わたしはどこにもいないのでしょう。
>Sさん
あなたに誠意を尽くせないです。
あなたが傷つくのも見たくないです。
あなたのような生き方にこそ神さまは微笑むのでしょう。
あなたという精神の存在を、わたしは美しく尊く感じます。
わたしが神さまなら、あなたを傷つけるすべてのものから
あなたを守りたい。けれど、わたしはあなたをだれよりも
傷つける人間でしかないのです。
もう泣きたくないです。ごめんなさい。
今年ももうすぐ終わりですね。
157 :
sew:2006/12/29(金) 19:36:53
>だから「世界」を「私の中にある」ものと規定すれば、
>私がその「世界」の「外」にいるのは当たり前じゃないの?
そうです。
そのことを言っているのではなくて、「私」の中にしか世界がない、と言うのは表現的に違うのでは
ということを言っていました。
>それなら、その『私』というのは当然、「世界」を「私の中にある」と
>規定している(そう考えている)存在者のことですよ。
ここでは、そう定義付けされてますから、それは当たり前のことです。
その他に『私』というのがどのような存在なのか言えることはありませんか?
>>157 >そのことを言っているのではなくて、「私」の中にしか世界がない、と言うのは表現的に違うのでは
>ということを言っていました。
「私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界がない」というのは、
あなたがレスした
>>86の表現ですよ。
>ここでは、そう定義付けされてますから、それは当たり前のことです。
>その他に『私』というのがどのような存在なのか言えることはありませんか?
僕は世界が僕の中にあるなんて考えないので、わかりませんが、
じゃ、とりあえず一つ質問したいと思います。
世界があなたの中にあるとすれば、
僕もあなたの中にあるということですよね。
僕はあなたの体の中のどこにいるんですか?
まさか・・・・
159 :
sew:2006/12/30(土) 14:17:39
>「私から‘のみ’世界が開け、私の中に‘しか’世界がない」というのは、
>あなたがレスした
>>86の表現ですよ。
>>86は私がレスしたんじゃないんですけど・・・
「たとえ」ってあるだけで断言はしていません。
>じゃ、とりあえず一つ質問したいと思います。
いいですけど、私からも質問します。
このような類の話は哲学板でしてもいいのですか?
>世界があなたの中にあるとすれば、
>僕もあなたの中にあるということですよね。
そうです。
ここで私と話しているあなたは確かに私の中にいます。
>僕はあなたの体の中のどこにいるんですか?
内臓のどこか、という答えがほしいのですか?
私の中にある、というのは感覚的なものであって、本当に体の中にいることを示しているのではありません。
強いて言うなら、頭の中、です。
>>159 >いいですけど、私からも質問します。
>このような類の話は哲学板でしてもいいのですか?
いいです。
人間と世界との関係は哲学の重要な問題ですから。
>内臓のどこか、という答えがほしいのですか?
いえ。どちらかと言えば、胃袋の中よりは、下着の中のほうが楽しそうです。
>私の中にある、というのは感覚的なものであって、本当に体の中にいることを示しているのではありません。
>強いて言うなら、頭の中、です。
僕があなたの頭の中に存在しているというのは、僕にとっては奇妙なことですが…
そうすると、僕が見ている世界も、すべてあなたの頭の中の出来事ということなんでしょうね。
じゃあもうひとつ質問します。
世界があなたの頭の中の出来事だとすれば、それは夢に似ていますね。
あなたは、夢や幻想と現実との区別がつきますか?
区別できるとすれば、それはどういう点で区別できるのですか?
161 :
sew:2007/01/02(火) 14:16:40
>人間と世界との関係は哲学の重要な問題ですから。
そうですか。
>僕があなたの頭の中に存在しているというのは、僕にとっては奇妙なことですが…
下着の中のほうが良かったですか?
>そうすると、僕が見ている世界も、すべてあなたの頭の中の出来事ということなんでしょうね。
そうです。
ここで私と話をしているあなたは確かに私の頭の中にいます。
>あなたは、夢や幻想と現実との区別がつきますか?
区別はつきません。
こうしてPCのキーボードを叩いていることが現実であると私には断言できません。
生きていること自体が幻想であると思うこともたまにあります。
夢や幻想が現実であるかもしれません。
その逆も言えます。
人は他者と共存しながら生きています。
自分以外のものが自分の想像であり、その想像が具現化したものとも考えられます。
あなたには夢や幻想と現実の区別がつきますか?
>>161 >ここで私と話をしているあなたは確かに私の頭の中にいます。
そうですか。でも、「私の頭の中にいます。」の意味が、まだわかりません。
それは、あなたの頭の中にだけ存在していて、あなたの外には存在していないという意味ですか?
それとも、あなたの頭の中にいるけれど、あなたの外にもそれに対応するものが存在するという意味ですか?
>下着の中のほうが良かったですか?
そうですね。寒いから、あったかそうで良さそうですね。
という僕の答えは、あなたはすでに知っていたんじゃないんですか?
僕はあなたの頭の中にいるんだから。頭の中にいても予測不可能ですか?
>区別はつきません。
>こうしてPCのキーボードを叩いていることが現実であると私には断言できません。
生活の中でも、リアリティーを強く感じるものとそうでないものがあって、ネットはリアリティーを感じにくいと思う。
視覚や聴覚よりも、触覚がリアリティーを強める気がする。だからスキンシップは大切かなと思う。
>生きていること自体が幻想であると思うこともたまにあります。
>夢や幻想が現実であるかもしれません。
>その逆も言えます。
そう思うことも、たまにはあるかも知れませんね。小学生の頃、そんなことをよく考えていた気がする。
>あなたには夢や幻想と現実の区別がつきますか?
つきますよ。夢と現実を区別できることが、普通に働いて生きていくための前提じゃないの?
幻想と現実の区別はもうちょっと微妙かもしれない。
「恋愛は美しき誤解であり、結婚は惨憺たる理解である」という言葉があって、
つまり恋愛は幻想であって、恋が終わってはじめて現実を見るということなんだろうけれど、
たとえ誤解であっても、自分の心の中では強いリアリティーがある場合もあるから。
163 :
エヌ:2007/01/03(水) 02:27:41
>>150 カオルさん
わかっているのかいないのか
2つの事柄が解かれば自ずと解は導かれる
1)自動車はどの部分を指して自動車といえるのか
もちろん自動車でなくても一向にかまわない
タイヤを指して自動車と言えるのか
あるいはハンドルを指して自動車と言えるのか
それともエンジンか、もしくは車体か
2)私の所有物とは何か
あるものが私のものだとして
それはどうして私のものと呼べるのか
どのような状態だと私のものではなくなるのか
> そんなことおかまいなしに‘私の’とか言えてしまうんです。
結局のところそうなんですけどね
> わたしは、となりのトトロの生でもよかったのに、
> どうして、この私(カオル)の生なのでしょうか。
> どうして、この有限な肉塊の生とともにあるのでしょうか。
心の思いは身体と密接ですよ
身体の調子が悪い時は頭も冴えていない
身体と心の思いが分かれていると考えるより
一体であると考えるほうが自然です
164 :
エヌ:2007/01/03(水) 02:28:12
>>151 > その日以来、悪魔が空にあらわれることは二度とありませんでした。
そりゃーそうです
神や悪魔の正体は・・・orz
165 :
エヌ:2007/01/03(水) 02:36:45
>>154 路傍の石は文句など言ったことはない
見上げる空は笑ってる
流れる雲も笑ってる
人間だけがいつも深刻な悩みに執り付かれている
人間の頭の中だけが・・・
路傍の石は単なる無機物ではない
存在の価値は我々と違いはない、全く同質の存在である
決して空想物語ではない
未来のことはまだ起こっていないのでわからない
過去のことはすでに過ぎ去ったことでもう存在しない
どちらも頭の中にしかない
こちらは空想物語である
深刻な悩みもまた・・・orz
166 :
エヌ:2007/01/03(水) 04:16:55
>>154 路傍の石は文句など言ったことはない
見上げる空は笑ってる
流れる雲も笑ってる
人間だけがいつも深刻な悩みに執り付かれている
人間の頭の中だけが・・・
路傍の石は単なる無機物ではない
存在の価値は我々と違いはない、全く同質の存在である
決して空想物語ではない
未来のことはまだ起こっていないのでわからない
過去のことはすでに過ぎ去ったことでもう存在しない
どちらも頭の中にしかない
こちらは空想物語である
深刻な悩みもまた・・・orz
>>144 sewさん
>「知る」という表現ですと、少し語弊が生じるかもしれませんが、
するどいです。たしかにわたしは「疑いようのない確かな何か」について
言おうとしています。けれども、それは外的実在ではなく、だからそれは
知において達する何か、というようなものでもないでしょう。
言語を獲得した人間が環境と交わるときの「そのような仕方だからこそ、
そのようにあるしかない」というような世界の枠組みを形作っているのが、
知るという行為なのだとしたら、私たちは知りうるものしか見ないでしょう。
見ることは知ることです。私たちは、見ることのできるすべての対象が
知の範疇にあり、知りうるもののすべてが「そのように向き合うからこそ、
そのように立ち現われてくる」ということにおいて、おそらく一致しています。
この知の一致が、私たちのコミュニケーションを可能にしているのでしょう。
けれど、わたしの存在の比類なさへの知は、「わたしの知」なのであって
「私たちの知」ではないのです。この「わたしの知」は、けっして他人には
理解されてはならないものとして理解されなければならないというような
パラドキシカルな知なのです。
>そのような感覚などは誰でも感じることはできるのではないかと思います。
>自分だけが特別な存在なのだと。
先に言った知の一致は、「世界が私の世界」であり、私たち一人ひとりが
「かけがえのない」存在であることにおいても、おそらく一致しています。
けれど、わたしが「世界はわたしの世界」と言うとき、それは他の誰ともちがう
仕方での現にそうであること(事実)なのです。他の誰ともちがうというのは、
AさんやBさんがちがうようなちがい方ではなく、ということなのです。
それなのに、わたしの存在の比類なさは、それを言葉で表現してしまうと、
どうしても誰にとってもの、私たちの生の形式(そのように世界と向き合い、
世界がそのように立ち現われること)の一致に、「わたしの知」ではなくて、
「私たちの知」に、「わたしの比類なさ」から「私たちのかけがえのなさ」に
変質してしまうのです。
わたしの存在の比類なさは、あまりにも素朴に、あまりにも圧倒的に、
ただただ――わたしである――と、たったそれだけの感覚‘として’
――この私――に立ち現われてきます。
もちろんだから、‘として’のその感覚をも否定しなければならないけれど、
その感覚がなければ、つまりこの私「カオル」がいなければ、それは「無」
でしかなかったように思うのです。
ただひとつ輝く太陽は、無と見分けがつかないからです。
だから、わたしはどうしてこの私なのか、と問わずにはいられないのです。
>>世界の外から「唯一「私」だけが特別な対象」と規定しうるのは、いったいだれなのか?
>自分自身しかいないと思います。
わたしは、たまたまこの私「カオル」だけれど、そうでなくてもよかった。
でも「わたしの存在の比類なさ」は、そうでないことができないのです。
わたしの存在の比類なさは、この私「カオル」の「かけがえのなさ」のように、
誰にとってもの「それ」ではないからです。
それなのに、わたしの存在の比類なさは、誰もの「それ」として理解されて
しまうのです。だから、もうそれは「比類なさ」ではなくなってしまうのです。
私たちのかけがえのなさのうち、いったいどれが比類なき〈それ〉なのか。
それを規定しうるのは、いったい誰なのか。もちろん、それはわたしでしょう。
でも、わたしは世界の外にいると言えるでしょうか。自分(カオル)を見ている
わたしと、夢の中で自分(カオル)を見ているわたしは、同じわたしでしょうか。
夢の中で自分を見ているわたしは、夢の中には登場しません。だからといって、
わたしは、夢(世界)の外にもいません。わたしが、夢(世界)だからです。
>>世界の外にいる「私」とは、いったいだれなのか?
>たぶんそれは、「私」とか「自分」とか「自分自身」と言うのだと思います。
>それが厳密に「これこれこういう人」というのは難しいと思います。
わたしの存在の比類なさは、それそのものは絶対の孤独です。
でもこの孤独は、他のわたしの存在の比類なさ、けっして交わることのない、
話しかけることも、理解し合うこともできない他者への態度をとらせます。
けっしてわたしの隣人ではありえないはずの、だから祈ることさえできない
神さまへの祈りのように。
これは孤独という概念が、すでにして他者の存在を前提にして成立するから、
ということではなく、
世界の魂がただ一つ現実に存在する。私はこれをとりわけ私の魂と呼ぶ。
私が他人の魂と呼ぶものも、もっぱらそのようなものとしてのみ把握する。
―――― ウィトゲンシュタイン『草稿 1914〜1916』より。
>>119 のような世界の魂「わたしの存在の比類なさ」‘たち’を知りうる者への祈りが、
そうさせるのです。すべてを知りうる者、世界の外(他者)の外、それは神さま
しかいないように思うのです。
※ 「わたしの存在の比類なさ」という表現は、
永井均の著書『〈私〉の存在の比類なさ』から借用しています。
(永井は、ウィトゲンシュタインから借用しています)
これからも使いますが、そのときはわたしの表現として使います。
みなさん、明けましておめでとうございます。
昨年は、たくさん考えさせていただいて、ありがとうございました。
考えているかぎり、みなさんもわたしも生きています。
それだけしていたいけど、そうもいかないのが悲しいです。
でも、それもまた哲学することの糧にしていけたらいいな。
今年もたくさん考えさせてくださいね。
よろしくお願いします。(^.^)
>>171 >考えているかぎり、みなさんもわたしも生きています。
>それだけしていたいけど、そうもいかないのが悲しいです。
>でも、それもまた哲学することの糧にしていけたらいいな。
あなたの病気は、「哲学なんかじゃ直らない」ようです。
そしてあなたは「わたしの存在の比類なさ」を「わたしの消滅によって証明する」ようです。
>>128 >わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
>ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できないその決断だけが
>わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。
173 :
エヌ:2007/01/06(土) 00:19:08
174 :
エヌ:2007/01/06(土) 00:27:04
>>128 マジレスすると
> ただひとつ、わたしの死の選択、たとえ神でさえ選択できない
わたしがない神にはわたしの死は起こり得ないよ
> その決断だけが
> わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。
わたしの消滅に立ち会った時のことを思い出したよ
立ち会うには身体は必要だよ
わたしとは身体のことではないからね
わたしが消滅すると
そう、わたしがわたしである自己が現れる
175 :
エヌ:2007/01/06(土) 00:32:14
> わたしの病気は哲学なんかじゃ直らない。夢は永遠に叶えられないように思う。
そう。「わたし」というのは一種の病気だ。
人間だけがかかる病だ。
哲学では治り様が無い。
夢から覚める時
思考が落ちる時
永遠に叶えられないという夢の性質を見破った時
はじめて治るもの
176 :
エヌ:2007/01/06(土) 00:43:35
>>170 > 世界の魂がただ一つ現実に存在する。私はこれをとりわけ私の魂と呼ぶ。
> 私が他人の魂と呼ぶものも、もっぱらそのようなものとしてのみ把握する。
そうそう。それを指して今まで魂と呼んでた。
>>175 >そう。「わたし」というのは一種の病気だ。
>人間だけがかかる病だ。
ばかばかしい。
>>128の「わたし」がそんな一般的な「わたし」でないことは、すぐわかるだろう。
話が通じていないのに通じているふりをするから、君たちは中身のある話ができないんだ。
178 :
sew:2007/01/06(土) 19:29:25
>>162 >あなたの頭の中にいるけれど、あなたの外にもそれに対応するものが存在するという意味ですか?
そういう意味です。
>僕はあなたの頭の中にいるんだから。頭の中にいても予測不可能ですか?
>>159 >私の中にある、というのは感覚的なものであって、本当に体の中にいることを示しているのではありません。
よく文章を読みましょう。
>夢と現実を区別できることが、普通に働いて生きていくための前提じゃないの?
そうなんですか?
私はまだ学生なのでそれが前提になるとかはわかりません。
ですが、区別することは必要なことだと思います。
>つまり恋愛は幻想であって、恋が終わってはじめて現実を見るということなんだろうけれど、
>たとえ誤解であっても、自分の心の中では強いリアリティーがある場合もあるから。
そういうものなんですかぁ。
恋愛をしているうちがはなですね。
>>178 >>あなたの頭の中にいるけれど、あなたの外にもそれに対応するものが存在するという意味ですか?
>そういう意味です。
それなら僕も同じだし、多くの人はそうだと思うので、
わざわざ【あなたは確かに私の頭の中にいます】なんて、ふつう言わないでしょう。
外の世界と、頭の中の世界(思い込み)との食い違いを
修正したりしながら生きてるわけですよね。
>私の中にある、というのは感覚的なものであって、本当に体の中にいることを示しているのではありません。
>よく文章を読みましょう。
感覚的なものだと、予測不可能なんですか?
僕が知りたかったのは、【世界は私の中にある】と言うあなたは
その「世界」をコントロールできるのかな? みたいなことでした。
夢なら、かなりコントロールできる場合もあるし、夢でなくても、
頭の中の世界は外の世界よりはコントロールしやすいと思うから。
>恋愛をしているうちがはなですね。
そんなことないでしょう。
この前の文は亀井勝一郎の文でした。正確には、
【恋愛とは、美しき誤解であり、誤解であって差し支えない。そして結婚生活とは
恋愛が美しき誤解であったという事への、惨憺たる理解である】(『愛の無常について』)
外の世界と頭の中の世界(思い込み)ということで言えば
「美しき誤解」は、実際の相手と、その相手についての思い込みとの
大きな食い違いの上に成り立っている。
そのまま人間関係を続けていって、その食い違いを修正して
お互いを理解することができれば、「惨憺たる理解」であっても
理解しあえることは、良いことではないですか?
180 :
考える名無しさん:2007/01/08(月) 20:57:52
誤解は、された方は不快で腹立たしいだけじゃネ?
いったいどこが美しきよ?
こいつ馬鹿なんじゃネ?
>>180 こいつって、亀井勝一郎?
たぶん馬鹿ではないと思う。
不快で腹が立つとすれば、アプローチのされ方とかに対してであって、
好きになられること自体は、それほど悪い気はしないと思う(よほど嫌いなタイプでなければ)。
「美しき」といえば、「美しき嘘」という言い方もよくする。
「嘘」や「誤解」みたいな、ふつうはネガティブな意味で使われる言葉でも、
その内容によっては「美しき」ものでありうるということだろうね。
「美しき」というのは、主観的な要素が大きいものだとは思うけれども、
恋愛の場合は、その当事者(恋愛している側)にとっては誰にとっても
「美しき」ものになるんじゃないのかな。
182 :
考える名無しさん:2007/01/09(火) 00:24:19
恋愛を誤解と解釈する馬鹿があるかよ
きれい汚いは二の次の話だ
恋愛は美しき夢とか言えば文句ないわけ?
解釈じゃなくて表現上の問題でしかなさそうなんだが
>>163 エヌさん
>自動車はどの部分を指して自動車といえるのか
自動車の部分を指して自動車とは言わないでしょう?
>私の所有物とは何か
どの私についてでしょう?
>身体と心の思いが分かれていると考えるより
>一体であると考えるほうが自然です
心身一体のカオルが、なぜわたしなの?(という問いです)
>>164 >神や悪魔の正体は・・・orz
うーん、そこに注目されましたか。(^_^;)
>>165 路傍の石になりたい!って昔から言ってるけど、
頭の中のニューロンの発火が、そういう気持らしいです。
(そういうこと信じられる人が羨ましい)
無機物も有機物もニューロンの発火も存在しているのに
どうしてだか未来や過去は論理的には存在しないらしい。
でもそんなこと全然おかまいなしに今こうして書き込める。
ほんとうは今だってどこにもない。それなのに書き込める。
未来現在過去のお陰さまで。当り前は奇蹟の宝庫ですね。
>>174 エヌさん
>わたしがない神にはわたしの死は起こり得ないよ
神さまじゃなくて、カオルの自然死ではない自死の選択は、
さすがの神さまも、ただ見守るしかない、ということです。
>わたしの消滅に立ち会った時のことを思い出したよ
わたしが消えていくのだから同じですよね。
目覚めない睡眠でも同じかな?
(もちろん、夢も見ないという前提ですが)
>そう、わたしがわたしである自己が現れる
西田幾多郎という哲学者は、それを絶対無(=絶対有)の我
と言っていました。
>>175 >哲学では治り様が無い。
ウィトゲンシュタインという哲学者は、ひたすら考えつづけることで
生涯持ちつづけた自殺衝動に打ち勝ち、精神病の発症の危機をも乗り越えたと、
哲学しつづけることが、そのまま治療的行為そのものだった、と言われています。
自死の話しは、最近ではめっきり思想的な意見ですので、心配しないでください。
>はじめて治るもの
考えるわたしがどこにもいないのだから、そうですね。
>>176 エヌさん
>そうそう。それを指して今まで魂と呼んでた。
さっき言った「絶対無の我」も、おそらく同じ‘それ’です。
とは言っても、それは予測される結論にすぎないので
哲学的に大切な、そこに至る議論の方をしたいと思っています。
>>177 >
>>128の「わたし」がそんな一般的な「わたし」でないことは、すぐわかるだろう。
128の「わたし」は、一般的な方の、いわゆるカオルとか呼ばれているアレでした。
世間にいくらでもいる個性豊かな面々の一人にすぎないかけがえのない方の。
私的には、言語存在者「カオル」だけが唯一無二の「わたし」だとは思っていますが、
議論を誘導するために、あたかもそうでないような書き方を(すでにしていますが)
して行くと思いますので、よろしくお願いします。
やはり、128のようなレスを差し挟むと議論が混乱して台無しになるので
今後、注意します。すみませんでした。m(__)m
>>185 >西田幾多郎という哲学者は、それを絶対無(=絶対有)の我
>と言っていました。
>ウィトゲンシュタインという哲学者は、・・・
相手を変えて同じことを何年もくりかえす「わたしの病気」は、治りそうもない・・
(
>>127参照)
>>カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
>>煙に巻くこと、と私は見ていますw
>
>哲学用語を使わないで済むように努力してみます。
>また、あなたが言うように思われていることは客観的な事実です。
188 :
sew:2007/01/09(火) 16:51:24
>それなら僕も同じだし、多くの人はそうだと思うので、
>わざわざ【あなたは確かに私の頭の中にいます】なんて、ふつう言わないでしょう。
はい。
普通は言わないし、誰もがそうだと思います。
>外の世界と、頭の中の世界(思い込み)との食い違いを
>修正したりしながら生きてるわけですよね。
そうです。
外と内を何度も見て、食い違いがあれば何度も何度も修正していきます。
これは多くの人が知らず知らずのうちにしていることなので、当たり前にしていること、です。
>感覚的なものだと、予測不可能なんですか?
当たりはずれは別としても予測することは不可能ではありません。
>【世界は私の中にある】と言うあなたはその「世界」をコントロールできるのかな?
私の頭の中にある世界は、いくらでもコントロールすることは可能です。
夢やら妄想やら、たくさんコントロールする術はあります。
外の世界は難しいですけど。
「美しき誤解」は「惨憺たる理解」につながるということでしょうか。
「美しき誤解」という言葉は少し矛盾するような気がしますが。
「惨憺たる理解」も。
理解できないので、細かく説明していただけますか?
>>128(カオル )
>その決断だけが
>わたしがわたしであることを、わたしの消滅によって証明するのです。
>>174(エヌ)
>そう、わたしがわたしである自己が現れる
>>185(カオル )
>西田幾多郎という哲学者は、それを絶対無(=絶対有)の我
>と言っていました。
こういう会話を見ていると、
空海の「即身成仏」思想を曲解して、土中に篭ってミイラになった人々を連想してしまう。
なんだか、自分の自殺願望を哲学に結びつけてるように見えますけど、
哲学は自殺を正当化するものではありません。
『西田幾多郎という哲学者は、それを絶対無(=絶対有)の我 と言っていました。』
と書くからには、あなたはこの『それ』を知っていて、『絶対無の我』も知っていて、
その二つが一致しているということだから、 一致していると言うならその根拠を説明してください。
>>188 >理解できないので、細かく説明していただけますか?
どこがどう理解できないのか分からないので、
どこをどう細かく説明すればいいのか分かりません。
191 :
エヌ:2007/01/09(火) 23:45:46
>>184 > ほんとうは今だってどこにもない。それなのに書き込める。
> 未来現在過去のお陰さまで。
そうですよ。今現在というのは過去と未来に対比してあるものです。
時間というのは人間が考え出した概念にすぎないということを言ってるのです。
過去と現在と未来に別れているものではないです。
最近の物理学者も時間は存在しないことに気づいたみたいですけどね。
192 :
エヌ:2007/01/10(水) 00:12:55
>>185 > さすがの神さまも、ただ見守るしかない、ということです。
わかってますよ。
>>174はわざと曲解してレスしたのです。
それしかレス書けないですから。
> 考えるわたしがどこにもいないのだから、そうですね。
そうですね。
> ウィトゲンシュタインという哲学者は、ひたすら考えつづけることで
> 生涯持ちつづけた自殺衝動に打ち勝ち、精神病の発症の危機をも乗り越えたと、
> 哲学しつづけることが、そのまま治療的行為そのものだった、と言われています。
電車に乗っていると、稀に独り言を大声で言っている人を見かけます。
そういう人は、いつも怒鳴っていたり、言い訳していたり、パターンが決まっています。
ある過去の出来事があって、それを何回も何回も思い出して言い訳したり怒ったり、延々とやっているようです。
何か認められない出来事があって、それに対してどうにもならないことを思い出して言い訳して、また過去の同じ事を思い出して、怒ってと繰り返しているだけです。
彼らがそこから抜け出すには、2つの方法しかありません。
考えないようにするか、それとも起こった出来事を受け入れるか
どちらかです。
>>191 「今はない」とか「時間は存在しない」って、それで話が通じているの?
どういう意味で「今」と書き、どういう意味で「時間」と書いているのか・・
存在そのものが常に変化しているから、それは時間と密接に結びついていると思われるが・・
時間がなければ、運動も変化もない。そういう意味での「時間」について話しているのだろうか。
だとしたら、そういう人たちは、自分も世界も常に変化しているという実感がないんだろうか。
どういう意味の「時間」なんだろうね?
>>187 名無しのヘンタイ君へ
キミさ、何年もシツコイよ。
病気なのはストーカーのキミじゃん。
いい機会だから、次いでに。
(キミが127のレス相手でもそうでなくても)127の
>哲学用語を使わないで済むように努力してみます。
は、撤回します。
>カオルちゃんの趣味は、哲学に詳しくない人を、「サルでもわかる哲学史入門」で仕入れた哲学用語で
>煙に巻くこと、と私は見ていますw
も、哲学に詳しくない人を「サルでもわかる哲学史入門」(もちろん、その類の本すべてを指す)で
仕入れた哲学用語で煙に巻く趣味はないので、全否定します。
>その他諸々の質問には、そもそものわたしの発言がまちがいなので
>答えようがありません。失礼しました。
も、撤回します。
>>191 エヌさん
>最近の物理学者も時間は存在しないことに気づいたみたいですけどね。
よかったら詳しくお願いします。
>>192 >電車に乗っていると、稀に独り言を大声で言っている人を見かけます。
わたしは、なぜかよく見かけますよ。
わたしと視線が合うと、みなさん一瞬やめます。
でもすぐに視線をそらしてまた始めますが。(笑)
いつも友人には危ないからって叱られています。
>彼らがそこから抜け出すには、2つの方法しかありません。
抜け出せなくたっていいじゃないですか。
妹は障碍をもってるけど、とても強くてやさしい子。
わたしは健康だけど、とても臆病で泣き虫な子。
抜け出せなくたっていいと思う。
わたしはすごく恵まれています。
わたしは独り言を大声で言う必要がないです。
そういう必要があったら生きていけないからだと思う。
だから信じられないほど恵まれているのだと思う。
ウィトゲンシュタイン哲学は、彼だからこその彼の哲学なんです。
抜け出すんではなく、真っ只中をあるがままに全力で走り抜けたんです。
みんなもそう見えなくたって、きっとそれぞれにそうなんだと思います。
>エヌさん
絶対無について、少し書いておきます。
たぶんどの西田哲学の解説書にも書いてない解釈だから
西田は忘れてもらっていいです。(あぁ、めんどいよー!)
絶対無とは、絶対否定のことです。
かりに私たちの世界や私が普通の意味で実在しているとしたとき、
二つの仕方で、私たちの世界や私の実在にかかわります。
1.絶対無は、私たちの世界や私の実在を絶対否定します。
2.絶対無は、それ自身になろうとすることを絶対否定します。
すなわち、私たちの世界や私の実在を絶対肯定します。
ゆえに、絶対無=絶対有、です。
この矛盾的同一が最高でしょう? 以上、簡単ですが。
197 :
sew:2007/01/10(水) 12:56:11
>どこがどう理解できないのか分からないので、
>どこをどう細かく説明すればいいのか分かりません。
言葉の意味です。
>>194 >名無しのヘンタイ君へ
>キミさ、何年もシツコイよ。
>病気なのはストーカーのキミじゃん。
誰かと勘違いしてるのかもしれませんね。
僕がカオルちゃんと話すのは三度目か四度目ぐらいです。
普段僕は2ちゃんねるはめったに見ませんし。
初めて話したのは4年ぐらい前かな。
その時の、「家畜のブタより、ペットのブタのほうが価値が高い」
っていう〈カオル説〉が印象に残っているので、
それをハンドルネームにしておきましょうかw
>>その他諸々の質問には、そもそものわたしの発言がまちがいなので
>>答えようがありません。失礼しました。
>も、撤回します。
じゃあ
>>120-122の僕の質問に答えてください。
カオルちゃんがハイデガーを読んでいないのは分かりましたが、
ニーチェや仏教について、〈カオル説〉をもうちょっと聞いてみたいです。
カオルちゃんはニーチェについても何か書いていましたからね。
>>196 >この矛盾的同一が最高でしょう? 以上、簡単ですが。
カオルちゃんにかかると、仏教も「超越に至る実践」とオカルト的になってしまいますが、
西田哲学だって、カオルちゃんが思ってるよりずっと現実に即した思想ですよ。
自己がなくなるところに真の自己が現れる、みたいな会話をしてたようなので、その点について言えば、
「我は、我ならずして、我なり」という矛盾的自己同一は、たとえば道元の、
「仏道をならふは自己をならふなり、自己をならふといふは自己を忘るるなり」と同じことで、
それは現実を遊離した事柄ではなく、逆に、現実に密着した事柄なんです。
西田哲学の言葉を引用すれば、
「自己自身を超越することは、何処までも自己に返ることである、真の自己となることである。…
我々の自己が自己自身の根底に徹して絶対者に帰するということは、この現実を離れることではない。
かえって歴史的現実の底に徹することである。絶対現在の自己限定として、何処までも歴史的個と
なることである。」(『自覚について』)
つまり「真の自己」になることは、「現実を離れることではない」のであり、「現実の底に徹する」こと。
「現実の底に徹する」というのは、仏教で言えば「三昧」「無住心」「無心」ということであり、
時間的に言えば「即今」、つまり今の自分(今自分がしている行為・仕事)に徹するということです。
禅ではこれを剣術についてよく言いますけど、スポーツでも、芸術でも、ふつうの仕事でも、
何にでもあてはまることです。
柳宗悦はこれを、陶芸の「美」にあてはめます。
「天下の名器と呼ばれた茶器類の作者たちは、美への狙いなどに心を住まわせる機縁を、何一つ
持ってはおりませんでした。そんなことに少しも心を煩わされてはいないままに、只作っていたので
あります。この事は何処にも心を住まわせていなかったことを意味します。そういう「無住心」から
おのずから現れ出たのが、名茶器の美しさなのであります。…
益子窯に「山水土瓶」と呼ばれる土瓶のあることは、既にご承知の方も多いことと存じますが、
その山水絵が描かれる様を見ておりますと、描き手と描かれる山水とが相対しているのではなく、
描く自らも、描く事も、何を描き、どう描くかをも忘れ去るほどに、手早く淀みなく描き続けて
おります。…それ故に、仕事の中に人があり、人が仕事の中に活き、仕事がおのずから仕事を
導いて行くのであります。」(『美の法門』)
この、「描く自らも、描く事も、何を描き、どう描くかをも忘れ去る」ことによって
「人が仕事の中に活き、仕事がおのずから仕事を導いて行く」という事柄が、
「自己を忘るる」ということであり、「我ならずして」ということです。
仏教も西田哲学も、「真の自己」になるとは、こういうことを言っているんです。
(オカルト的なことを言っているんじゃありませんw )
>>197 >言葉の意味です。
言葉の意味・・?
人間関係を考えると、
お互いを100パーセント理解しあうことはあり得ないように思われるし、
お互いを100パーセント誤解しあうことも考えにくいですね。
また、お互いをできるだけ理解しようと努力している関係もあれば、
あまり知り過ぎないようにしている関係もあるでしょう。
だから誤解にも、理解しようと努力した結果としての誤解もあれば、
誤解してもいいと思ってする誤解もあるでしょう。
「誤解」にも「理解」にもいろいろありますね。
また、「美しき誤解」の「美しき」は、
誤解することそのものが美しいと言っているのか、
誤解した結果としての、幻想の相手を美しいと言っているのか・・
ということで、いろいろ考えられます。
考えることが「哲学」なので、自分で考えてくださいw
ちなみに僕は「美しき誤解」とか「惨憺たる理解」という言葉から、
「知らぬが仏」という言葉を思い出しましたが・・
202 :
その1:2007/01/10(水) 23:24:18
で、もし「答え」というものがあるとして、それがどんなもの(こと)だったら
「これが答えだ」と満足できるのだろう、私(たち)は? 「これは答えではな
い」と言えるってことは、「答え」のイメージを持っているってことだから、そ
れ以上の答えってなんなのだろう?
203 :
その2:2007/01/10(水) 23:42:53
生き物の脳は、生きるための道具として発達してきたものなので、「なぜ?」
と問うことは・・・人間社会の中だけでは有効性があるけれど・・・、なぜ世
界があるのかとかに使えるようにはできていない。脳の「副作用」に振り回さ
れてはいけないと思う。でもゲームとしては大いに楽しめるし、そこから想像
もできなかったようなものが出てくることがあってもおかしくはない。楽しく
やりたいものですね。
さあ、さらに続けてください。
>>198 ペットのぶた以下の変態ジジィへ
>>127は、もう話したくない!!!というメッセージ。
ブタのくせにプライドばかり高いから、気をつかってウソを書いた。
つきまとわれたくなかったから。それくらい分かれよ!バーカ!!
>「家畜のブタより、ペットのブタのほうが価値が高い」
ゴキブリよりペットのにゃー(猫)のほうが価値が高いのは当り前。
もちろん、生命そのものに価値的差異があるわけじゃない。
なぜなら、価値は人間がつくったものだから。※ にゃー:わたしのペットだよん。(^.^)
>じゃあ
>>120-122の僕の質問に答えてください。
ハイデガーは、四方域に関係のないコンテクストでも抹消記号「×」を使用しています。
(勉強してください!)また「存在の現成」とは、けっして現前しないものの現前であり、
だからこその抹消記号「×」であることが、そうすることの根本的な意義であることを
ブタはちっともわかっていないようでしたので、あえてそこに「存在者の現成」を対置
させることによって理解を促がしたのですが、まあ無駄でしたね。
超越論的統覚が「超越論的」と言われている時点で「物自体でも現象でもない」のは
当り前。そんなことはカントについて議論する上での前提です。(とりあえずの前置き)
で、超越論的統覚が「経験を可能にする条件」であるということは、当然それが
ア・プリオリな能力(働き)として想定されていることを示します。
しかし、超越論的統覚は「経験なし」にそれのみで発現するような能力ではない。
ゆえに、ア・ポステリオリな能力でもあると言っているのですよ。
わたしが用意したツッコミ所は、それなのに「現象でもない」と言っているところです。
そこに気づいてくれたら議論しようかな、と。まあ無駄でしたね。
どうでもいいことを書いてきましたが、その他は省略します。どうでもいいことなので。
ブタから得られる価値ある情報は皆無なので時間の無駄です。これで終わりにします。
>>202 >で、もし「答え」というものがあるとして、
> 〜 それ以上の答えってなんなのだろう?
答えを求める「問い」そのものが消滅したときに、私たちは「答え」を得たと思うけれど、
もはやそれが「何であるか」を言うことができない、という答え(問いの解決の仕方)が
あるようです。(
>>68参照)
また、私たちは自動車でもバラの花でも、それらが「ある」ということを知っているのに
「ある」ということがどういうことなのかを言うことができません。ウィトゲンシュタインは、
神秘とは、世界が‘いかに’あるかではなく、世界があるという‘そのこと’である。
と、言いましたが、哲学は、この「そのこと」への驚きから始まり「そのこと」を追究します。
>脳は、〜 なぜ世界があるのかとかに使えるようにはできていない。
そうかもしれない。それでも哲学が、この「そのこと」について何かを言ってみせようと
することが、たとえ社会的人間の人生にとって無益無意味で倒錯した行為だとしても、
>脳の「副作用」に振り回されてはいけないと思う。
などという単なる個人的思想によって「いけない」としてしまうことには賛成できません。
養老さんのように、哲学することを病気のように言う人もいますが、そのような言表を
為してしまう彼の脳こそ、まったくもって脳が生み出した傲慢という病気だと思います。
>でもゲームとしては大いに楽しめるし、そこから想像もできなかったようなものが
>出てくることがあってもおかしくはない。楽しくやりたいものですね。
には、まあ賛成です。命懸けの思考が哲学という言語ゲームに他ならないのだから。
あなたがブタでないことを祈るばかりです。楽しくやりたいものですね。
>>199 ぶた
>「真の自己」になることは、〜 今の自分(今自分がしている行為・仕事)に徹するということです。
こんなたんなる説教のための解釈と、わたしの解釈を倒置するな!
もちろん、わたしが倒置してるんじゃなくて、ブタがそうしているだけなことに気づけ!
ブタの議論は、「現実」とかいう、ジジィが思想的に落ち着いた場所にすべて帰着するように
なっているから、そのようにしか為されない議論だから、議論以前にまったく魅力がないんだよ!
身につけた浅はかな知識によるドグマの主張は「主義主張板」で、お願いします。
それから、くれぐれも!もう二度と!わたしの発言にレスをつけるな!!!
207 :
考える名無しさん:2007/01/11(木) 06:57:31
このスレ熱いな。
で、何の話?
ストレスで自律神経が狂って、世の中何だか分からなくなっちゃった
バカな奴らの話です。
>エヌさん
絶対無とか、そういうのが余計だったら、そう言ってください。
あの時は、上の方で紹介している別スレに西田関連のレスも
同時に書いていたので、思わず書いてしまったのです。
今日は別板ですが、バカと付き合って疲れました。ハァ〜
これからは、できるだけ「ながら」はやめようと思いますので
よろしくお願いします。
それから、エヌさんの言いたいことはわかっているつもりです。
あのハルカと話していたくらいなのだから、その意味でですが。
哲学徒としては、なかなかエヌさんのような体験知にもとづく
言説には、すなおに対応できないところがあります。ご存知でしょうが。
最初にしていただいたいくつかのレスで、体験知的な真理と
哲学的思考による到達点が、非常に近いところにあることは
なんとなく直観できました。
ただやはり、そこには一歩づつ言葉によって近づきたいと。
そのようなばかげた努力に同意していただけたら嬉しいのですが。
失礼なレスが多かったように思います。お許しを。m(__)m
>ムートンさん
いかがされていますか?
じつは、ずっとあれから愛について考えています。
辛い記憶のために、なかなか感情的な思いに引きずられてしまって
思考がうまくいきません。
それと今、離人症について調べています。
苦しいことが苦しいと実感できない苦しい病気のようですね。
とりあえず、木村敏という精神病理学者の著作を5,6冊読んでみたので
いくらかそこから何か書いていけるかもしれません。
それから、このスレはムートンさんがいないと意味がないです。
ムートンさんが、ウィトゲンシュタインを読んだというので
できるだけ彼を引用したりしているのですが、余計でしたら言ってください。
日常の言葉と、言葉づかいで話しましょう。
よろしくお願いします。m(__)m
>Sさん
わたしは、あなたに誠意は尽くせない。
でもそれでもいいなら、お話ししましょう。
真剣とは言えない会話になってしまうけど、それでもいいなら。
そういう会話だってできるはずです。
それだって、Sがいて、カオルがいる、ということです。
時間のあるときに、あらためてレスをお返しします。
(ほんとうはレスをもらえて嬉しかったです)
>>204 >つきまとわれたくなかったから。それくらい分かれよ!バーカ!!
ほんとに、何か勘違いしてるんですかね・・??
>ハイデガーは、四方域に関係のないコンテクストでも抹消記号「×」を使用しています。
>(勉強してください!)
そういうことを主張したいなら、そういう使い方をしている「存在×」を引用するとかしないと、
何も言っていないのと同じです。何かを主張するには、それなりの根拠が必要です。
ハイデガーからもう一度引用します。
【十字交差の徴は、上に言われたことに従えば、勿論、抹消という単に否定的な徴ではあり得ない。
その徴はむしろ、方域の四つの方面とその四つの方面が十字交差の場所において集まっていることの内へ、
示し入っている。】(『有の問へ』)
>また「存在の現成」とは、けっして現前しないものの現前であり、
>だからこその抹消記号「×」であることが、そうすることの根本的な意義であることを
>ブタはちっともわかっていないようでしたので、
知らないことは知らないと認めて、自分の間違いを間違いと認められることが、
ちゃんと議論できるための前提だと思います。
カオルちゃんがハイデガーの「現成(wesen)」の意味を知らなかったのは明らかですから・・
(
>>118 >そもそも――四つの方面が交差する所に「存在」が現成する――ってなに?
>「存在者」が「現成」するならまだしも……。 )
>あえてそこに「存在者の現成」を対置
>させることによって理解を促がしたのですが、まあ無駄でしたね。
ハイデガーは「存在の現成」とか「存在は現成する」とはよく書きますが、
「存在者の現成」という書き方は見た憶えがないので、あれば引用してください。
前に書いたように「現成」は、ハイデガーがWesen(本質、実在)という名詞を〈動詞〉として使った言葉だから、
「存在の現成」というのは、「存在」が動詞的〈動的〉なものであることを示しているんです。
>わたしが用意したツッコミ所は、それなのに「現象でもない」と言っているところです。
>そこに気づいてくれたら議論しようかな、と。まあ無駄でしたね。
意味がわかりません。「現象でもない」と書いたのは僕ですよ?(
>>115)
この話題を整理すると、
カントの「われ思う」についてカオルちゃんが
>>107【現象としての「われ思う」になってしまっている】と書いたことに対して
僕は、それは【「物自体」でも「現象」でもない】と書いた。
それでもなお、カントの「われ思う」は「現象」であるという〈カオル説〉
を主張するなら、その主張の根拠を書いてください。
ニーチェと仏陀についての僕の質問に対する答えはありませんが、
〈ニーチェには「超越へのまなざし」があった〉
〈仏陀の実践は「超越に至る実践」だった〉
という〈カオル説〉は、撤回したということでいいですか?
>>206 >ブタの議論は、「現実」とかいう、ジジィが思想的に落ち着いた場所にすべて帰着するように
>なっているから、そのようにしか為されない議論だから、議論以前にまったく魅力がないんだよ!
「現実に帰着する」というと、固定的・静止的になってしまいます。
「我は、我ならずして、我なり」というのは弁証法だから、もっと動的なものです。
弁証法というのは、事柄そのものの〈プロセス〉であり、常に移行していくものです。
だから、その〈プロセス〉そのものである「現実」を、西田幾多郎は〈歴史的現実〉と言っているんです。
「真の自己」になることは、西田幾多郎が言うように、「現実の底に徹する」ことです。
この「現実の底に徹する」ことの中に、「我ならずして」「我を忘るる」という否定的契機が含まれていて
それを媒介としているから、固定的・静止的にはならないのです。
215 :
その3:2007/01/11(木) 22:14:17
ことばについて思うに、人間の脳は、山と山でないものとに2つに分けて山と
いう名をつけ、山でないものの中から川と川でないものを分けて川と言う名を
つけ、こうやってどん名前をつけていったと思うけど、その分けるときの観点
は、「生活、生存に有用」というものだったであろう。つまりものの名は、も
の全体を表そうとしてつけられたというより、ものの有用性につけられたとい
うべきなのだ。そのことは奥ゆかしくも「ことの端」という語源にもみえる。
そして共同体の共通言語であるからには、有用の観点は共同体にとっての有用
ということになる。人の名前もそのように理解すべきものと思う。それは現在
でもかわらない。遠くの国のミスター○○はほんとに単なる名前だけだよ。私
にとっての有用性がほとんどないんだから。同様にこの人間世界でお前とよば
れているこの私(の名)は、私の有用性に貼られたラベルなのだ。これが「私2」
である。動物たちのような「ことばによらない認識」のなかから生まれた「ことば
による認識」。ここにおおきな飛躍、断絶があると、古来から言われている。
サルと人とのちがいでもある。ここでのテーマにひきよせていうなら、「私1」
と「私2」の断絶ともいえるのではないでしょうか。
>>215 >ことばについて思うに、人間の脳は、山と山でないものとに2つに分けて山と
>いう名をつけ、山でないものの中から川と川でないものを分けて川と言う名を
>つけ、こうやってどん名前をつけていったと思うけど、その分けるときの観点
>は、「生活、生存に有用」というものだったであろう。
>・・・
>動物たちのような「ことばによらない認識」のなかから生まれた「ことば
>による認識」。ここにおおきな飛躍、断絶があると、古来から言われている。
>サルと人とのちがいでもある。ここでのテーマにひきよせていうなら、「私1」
>と「私2」の断絶ともいえるのではないでしょうか。
そうでしょうね。
「分ける」ことによって「分かりやすく」なった。
しかしそれによって失ったものもあるということでしょうね。
それがどこまで「言葉」によるものなのかは分かりませんが、
「言葉」も含めて、他の動物よりもずっと明晰になった
人間の「意識」によるものでしょうね。
だから、二つに「分かれる以前」のものを重視してきたと言われる東洋(特に禅)では、
「意識」に対して「無心」、「言葉」に対して「不立文字」が重視されたわけですけど、
ヘーゲルの弁証法も、「分かれる以前」のところから世界を見ているんじゃないですかね。
217 :
その4:2007/01/11(木) 23:20:44
これは「想定外」だっと思うけど、人がことばを使うようになって、
「論理」という(とんでもない)ものに出会ったのですね。これは人間
がつくったものではない、世界の側にあったんですね。金属や石油など
がいわれなく地中にうめこまれていたように。
最初は単に数学のように美しいものとしてものめずらしげにいじくって
いたのかもしれませんが、じつはこれはものとものとが「関係」という
関係で関係していることの発見であったのですね。
ことばとセットになった「論理の目」「論理の脳」で、あらゆるものが
「関係」しているその関係を利用(逆用というほうが正確です)して
「予測」し飢えや恐怖をのがれるばかりでなく、生物進化の目玉であ
った「効率」にまで采配を振るうようになった。
このあらゆるものから糸が延びてる「関係」の網の目のなかでことば
による認識でバーチャルに生きている「私の有効性部分=私2」。そ
こでの「私1」の非現実感、葛藤(まさにぴったりの語だ)。離人症
ということばも出てこようというものではないですか。
私こそはこのような人間の典型だと思っています。自分自身を上部
(うわべ)人間とよんでいます。たまねぎにんげんとも。で、ことば
によらない認識を、ことばで表現しようとする哲学者や詩人をたいへ
ん尊敬しています。そのくせ、もっとわかりやすく話してよって、こ
れは「論理的に」むりですよね。
>>217 >このあらゆるものから糸が延びてる「関係」の網の目のなかでことば
>による認識でバーチャルに生きている「私の有効性部分=私2」。そ
>こでの「私1」の非現実感、葛藤(まさにぴったりの語だ)。離人症
>ということばも出てこようというものではないですか。
>私こそはこのような人間の典型だと思っています。自分自身を上部
>(うわべ)人間とよんでいます。たまねぎにんげんとも。
このスレで〈私〉を二つに分ける場合、その二つの〈私〉が何を指しているのか、
人によって違っているから、話が通じにくいですね・・
〈意識しつつある自分〉と〈意識された自分〉とに自己分裂しているのは
人の通常の在り方だと思いますが、
(実存思想ではふつう、〈意識しつつある自分〉の方を〈実存〉といって
本来の自分のように考えているようですが・・)
「私の有効性部分=私2」というのはたぶん〈意識された自分〉に近いんでしょうね。
とすると、「(うわべ)人間」というのは「私1」なのか「私2」なのか・・
それとも「私1」と「私2」を合わせたものが「(うわべ)人間」なのか・・
そして「離人症」という現象が現れるのは「私1」「私2」のどこに問題があるからなのか・・
>で、ことば
>によらない認識を、ことばで表現しようとする哲学者や詩人をたいへ
>ん尊敬しています。そのくせ、もっとわかりやすく話してよって、こ
>れは「論理的に」むりですよね。
たとえば東洋的な体験的知を言葉で表そうとすると、
「色即是空」とか「多即一」みたいになっちゃって、その「即」を
もっと論理的に展開すると西田哲学みたいに難解になりますね。
事柄そのものが、(人間の目から見て)矛盾を含んでいるからでしょうね。
219 :
その4:2007/01/13(土) 12:21:47
↑の<意識された自分=私2>は、「有用性」の網の目で構成された「世間」
のなかだけのハンドルネームなのであり、それを<私>として生きざるをえな
い状況におかれている? それは困る/それでよいのだ/それがよいのだ/そ
れしかないのだ・・・
>>219 そういう葛藤や迷いは誰でもあるでしょうけど、
人によってその葛藤の大きさが違うんでしょう。
世間の中でのハンドルネームは一つではなくて、
家庭では「パパ」であるかも知れないし、会社では上司に対しては部下、
部下に対しては「だめ上司」であるかも知れない。
そういう多重ハンドル的自分のそれぞれが、〈本来の自分〉とは、ズレている
という感覚はあるけれども、では、そういう世間的役割を離れた〈自分〉というものが
あり得るのかと考えてみると、それもなさそうに思われる・・
世間的役割にとらわれ過ぎれば、劣等感に落ち込んだり、
優越感で傲慢になったりして、〈本来の自分〉を見失ってしまう。
〈本来の自分〉を見失わずに、〈多重ハンドル的自分〉の役割を演じられる
バランス感覚みたいなものが大事なんじゃないかと思う。
道元門下の沢木興道は、〈自己〉とは「自分が自分を自分すること」だと言いましたが、
以下は今の話に関連して思い出した彼の言葉(正確ではありません)。
「食事をするのも、便所に入るのも、道を歩くのも、修行である。
ところが人は、これが終わったらあれをしようとかばかり考えている。
勉強する学生は、将来のための準備として勉強しているように思っている。
しかしこれでは学問に腹応えがなくなってしまう。
小僧は和尚になるための準備のように思っている。
それではいけない。
一歩も浮き足立たずに、小僧は小僧をすべきである。」
小僧が、地に足をつけて「小僧をする」ことをしなければ、
小僧にとっての〈本来の自分〉は働き出さないということだろうと思います。
西田幾多郎が書いた「現実の底に徹する」というのも、そういうことだと思う。
>>138 Sさん
> わたしという自己意識とわたしの眼前に広がる世界とが、わたしにとって預かり知らぬまま
>何らに成立している以上、わたしとわたしに連関する事象がどうであれ、わたしは(自律自足した)
>わたしであったことはなく、これからも無いように思います。
完全な自律自足があるとしたら、それそのものを「自律自足した」とは言えないでしょう。
なぜなら、完全な自律自足とは他律で成り立つ部分がひとつもない絶対のことだからです。
絶対とは、他に比べうるもののない、あるいは他に連関する何ものもないことだからです。
「私1は、なぜこの私2なのか」と問うとき、私1はこの私2を否定しうる存在として現前します。
しかし「私1の現前」というとき、私1には抹消記号「×」を付与しなければならないでしょう。
なぜなら、私1とは現前しないこと、すなわち現前するもの(存在者)一切の否定だからです。
たとえばそれは、私2という生の連続創造に、私1という死の不連続が嵌入することによって、
言いかえるなら、私2という生の連続創造が、私1という死の不連続の嵌入を契機にして現前
している、というようなこと。けれども、私1「死」が現前するはずはないから「×」印なのです。
あまりにも空しい錯覚、けっして世界が関心をもたないそのことに、子供は無関心ではいられ
なかった。なぜなら、私1の存在の比類なさへの目覚めは、私1が世界やこの私2との永遠の
別れへの淵に立ち、まったき孤独が私1の存在の比類なさなのだと気づくことだったのだから。
この私2にしてみたら、それは自分が永遠の闇に引きずり込まれ、そこで砕け散っていくこと
に他ならないのだし、私2を介して自覚された私1にとっては、自分(私2)をも含めたすべての
他者がロボットだったりゾンビだったりして、自分を欺いたり迫害するものとして感じられたり、
世界は偽りの世界であり、自分の後方に世界はなく、目をつむっているときには何もないの
かもしれないと思ったり、それは奇妙な想像ではなくて、世界の真実として迫ってくるのです。
だから当然、私2は抵抗します。この抵抗の仕方が、この私2における理性の理念でしょう。
それがたとえば輪廻転生の思想であり、独我論の真実として現われるのではないでしょうか。
> わたしをわたし成さしめているあらゆる根拠はわたしの認識のかなたにあり、
>わたしはただ、わたしというかなたからかなたへ移ろう儚い現象にすぎない。
「私2」は、彼方から彼方へ、死から死へと転生する死という大河に湧き出た
淡い泡沫にすぎないでしょう。でも、そのようでしかない一回限りのこの生こそ、
それぞれがそれぞれにかけがえのない比類なき奇蹟です。
>自己自身を無垢に享受しているか訝しげに懐疑しているか程度。
>しかしその懐疑も、或いはカオルさんが最後の拠り所にしている自死でさえ、
>かなたから享受している能力である以上、かなたを超え出る力は無いです。
>同様に、例えば悟りの境地云々といったことどもについても。
カオルは不死ですから、カオルの自死は彼方(死、永遠の生)に
回帰することではなくて、たったひとつ輝く太陽になることです。
神さまの慈悲でさえ届かないところで、永遠にたったひとり輝きつづけることです。
彼方からの贈り物を享受し、それにさえ気づかずに有限の生を燃焼することが
彼方へと帰還するための条件なのだとしたら、その条件にしたがって彼方を
思うことを、生きるということを、すでにそのように生きてしまっているのに
否定したりはできないけれど、生きないということを決断することはできます。
生きないというのは、条件にしたがわない、不死の太陽になるということです。
> わたしが(自律自足した)わたしである為には、かなたとしてのわたしのくびきを脱し、
>かなたの彼方としてのわたしであらねばならない。
ということです。すばらしい!
>けれどもかなたはかなた故にわたしにとって認識不能であるのに、
>そのまた彼方など無内容な言葉遊びにすぎません。
まったくそうです。だからこそカオルには、生きていること=哲学すること、
の等式が成り立つのです。どうせ遊ぶなら真剣にやってみようかな、と。
>ショーペンハウアーの語る意志否定が相対的な否定に留まって絶対無には及びもつかないように、
>かなたを超えた境地など、わたしには想像すらできません。
それを何千年も言い続けてきたのが、それを言うことが、哲学という営為です。
> それではわたしがわたしである為に一体何が出来るのか。前述のように根本的には何一つ
>出来はしないけれど、かなたを超え出ることを断念することによってのみ、
彼方からのプレゼントを受け取らないこと、突き返すこともできます。
彼方の言いなりにならないと、彼方はプレゼントを返せと言ってきますから、
そんなものは突き返してやればいいし、そんな奴はひっぱたいてやればいい。
彼方という超越をひっぱたいた瞬間に、カオルもこの世からひっぱたかれて彼方になるのです。
>一矢報いることは出来るかも知れません。裏の裏が表であるように、
>かなたの彼方は現象としての現にこうして笑い泣き思考しているわたしそれ自身である、と。
> かなたとしてのわたしから逃れようとするからこそ、いつまでもわたしは(自律自足した)
>わたしに成れない。そうではなくて、かなたを意識しつつも、それと自己とを断絶すること。
>それで初めてわたしはわたしという現象を自己の基盤とし、それを起点に自律することが
>出来る!
すばらしい!!!
断絶しきれなくて生命的実感という感覚だけを切り離したのが離人症で、
断絶を無自覚に敢行しているのが統合失調症で、自覚的にしようとしているのが、
Sさんやかつてのカオルですよ。
>>215 >つまりものの名は、〜 ものの有用性につけられたというべきなのだ。
>〜 共通言語であるからには、有用の観点は共同体にとっての有用ということになる。
共同体にとっての有用性とは、このような生物学的な発想のいきつくところ、「生き残ること」
へのそれでしょうが、それが言語によって担われなければならない必要性がどこにあるので
しょうか。言語によって自覚的に強化された論理は、感情の起源である本能とは、それ自体
相容れない原理ではないでしょうか。双方の原理が起こすコンフリクトは生存目的にとって
はたして有用でしょうか。思考の法則(論理)は、生殖や生存の否定を否定しないでしょう。
>この人間世界でお前とよばれているこの私(の名)は、私の有用性に貼られたラベルなのだ。
>これが「私2」である。〜 「ことばによる認識」。〜 サルと人とのちがいでもある。
>ここでのテーマにひきよせていうなら、「私1」と「私2」の断絶ともいえるのではないでしょうか。
あらゆる個物が、いかに存在していようと、それらが存在することを可能にしている条件は、
〈ある〉ということ〈そのこと〉です。同じように、あらゆる生物が、いかに生きていようと、
それらが生きていることを可能にしているのは、〈生きている〉ということ〈そのこと〉です。
生命そのものの「生きていること」から、個体としての生命の「生きていること」を分離し、
生きていることそのもの「死」と同化していた「死のない生」から「有限の生」に目覚めること、
この個体としての生命の跳躍、個体としての生命の「生きていること」が、すなわち(=)「私」
になった瞬間が「私2」の誕生でしょう。それを可能にしたのは、もちろん「言語の獲得」です。
わたしは、この文脈においては、「私1」を「生命そのもの」として想定しています。
――木村敏の現象学的精神病理学の知見について――
木村敏の現象学的精神病理学に示されている、「私1」と「私2」との葛藤による生命的
実感の喪失(離人症)、あるいは双方の統合不全による論理の崩壊(統合失調症)など
の知見は、じつに――「私1」は、なぜ「私2」なのか?――の問いが、『わたし』(「私1」と
「私2」との存在論的差異における差異そのもの「矛盾的自己同一」)の存立現場の解明
にとって根源的であることを感じさせるものです。
ところで木村は、この問題における哲学的探究の先駆者である永井均の思考にたいして
謝辞を述べるほど評価しているのですが、永井は木村の思考にたいして「空しさと苛立ち」
を感じたらしく、それによって「この問題の真の意味を自覚した」という評価しか与えません。
木村の理論には、「私1」の存在の比類なさが示されていない、ということなのでしょうが、
でもわたしは、生命そのものへと回帰した自己――「私2」が極限まで縮小することによって、
みずからの成立条件であった生命そのものに同一化すること、かつて個体としての生命が
そうであったようになること――が、すなわち「私1」ということなら、論理的にも納得のできる
議論だと思うし、「比類なさ」においても、「私1」が「生命そのもの」なら矛盾は生じないように
思うのです。
もちろん、存在そのもの、生命そのものは、‘それ’として指示することはできないですし、
そのような説明をしたとしても、その説明が‘それぞれの’「私2」に理解されてしまうなら、
それと同時に‘比類なさ’もどこかに消えてしまうでしょう。すなわち、言語ゲームの領野、
意味(表象)の世界へと(比類なさが、かけがえのなさへと)解消されてしまうことでしょう。
いくら追いつめてもすり抜けてしまうその事情を言語によって説明しても、それは‘再び’
それぞれの「私2」に理解されてしまうのだから、それをも‘再び’否定しなければならない。
でも、この終わりなき存在論的な差異化の運動そのものを担う『わたし』の生には‘それ’が
疑いようもなく、まざまざと示されているのではないでしょうか。
>>217 >これは「想定外」だっと思うけど、人がことばを使うようになって、
>「論理」という(とんでもない)ものに出会ったのですね。これは人間
>がつくったものではない、世界の側にあったんですね。
「論理が世界の側にあった」とは、どういうことなのでしょうか。
かりにそうだとしても、なぜ私たちは論理を理解できるのでしょうか。
あるいは、なぜ言語は論理の法則にしたがっているのでしょうか。
人類誕生以前から世界はあり、私たちはその世界の側にあった論理を理解し、
その論理を利用して言語を編み出した? そんなことが可能なのでしょうか。
子供は、なぜその過程を経ないでも易々と言葉を用いるようになるのでしょうか。
いったいそれは、どういう理由によってなのでしょうか。
>ことばとセットになった「論理の目」「論理の脳」で、
>〜 「予測」し飢えや恐怖をのがれるばかりでなく、
人類の進化や生存は、いかなる理由で「良きこと」なのでしょうか。
そのような思考の前提が見受けられますが、それを疑ったことはないですか。
>バーチャルに生きている「私の有効性部分=私2」。
>そこでの「私1」の非現実感、葛藤(まさにぴったりの語だ)。
>離人症ということばも出てこようというものではないですか。
世界は「私2」の表象であり、その表象の認識は「私2」の解釈の仕方によります。
それだから、「私2」は実在に到達できない、ということが、「私2」がバーチャルに
生きているということなら、「私2」が「私1」との生命的接触におけるその実感を
斥けた場合、つまり「私1」と「私2」との矛盾的自己同一の均衡が破れてしまうと、
1.「私1」が「私2」である・ところの『わたし』という実感の喪失。
2.「私1」という「場」における「私2」の位置『ここ』という実感の喪失。
3.「私1」という無時間的な時間(永遠の今)における現(に)在(る)の未成
(今が離散し連続しないために時間が流れない)による「今」という実感の喪失。
のような障碍が起こりうることになるでしょう。
>私こそはこのような人間の典型だと思っています。
>自分自身を上部(うわべ)人間とよんでいます。たまねぎにんげんとも。
タマネギ人間は、わたしもよく使ってましたよ。
皮剥かないでくれよー!って、アリシンをばらまいて抵抗するのです。
私2こそわたし!とか思ってても、けっきょく私1に食べられちゃうのでしょうか。
>で、ことばによらない認識を、ことばで表現しようとする哲学者や詩人を
>たいへん尊敬しています。そのくせ、もっとわかりやすく話してよって、
>これは「論理的に」むりですよね。
そのようなことを表現(厳密に概念規定)するための言葉が日常言語にはないのです。
もちろん、新たな言葉(概念)を作ったとしても、形而上学的な思考は、いつもつねに
言語の限界を超えているから、私、〈私〉、「私」、『私』、“私”、わたし、のように一々に
概念規定を施して区別してやらないとならなかったりします。なぜなら、肝心のその
言葉が論理の法則にしたがわないからです。
>>227 >「私1」という無時間的な時間(永遠の今)における現(に)在(る)の未成
>(今が離散し連続しないために時間が流れない)による「今」という実感の喪失。
「私1」という無時間的な時間(永遠の今)における「私2」の現(に)在(る)ことの未成
(今が離散して連続しないために時間が流れないこと)による『今』という実感の喪失。
に訂正します。
われわれ凡人がこうして、「矛盾的自己同一」といった、いわば「般若の知恵」を前提とした
話をしても、それは宙に浮いたような話になってしまう。
西田幾多郎が大きな影響を受けた鈴木大拙は、次のように書いている。
「仏教が口を極めて強調するのは、差別と平等という矛盾した概念の自己同一性または円融無碍性であります。
しかしこれは一般の論理的思索では体現不可能の事実なのです。互いに相容れないものが一つであるということは
論理の上では無稽のきわみです。仏教を会得しようというときには、この究境地に一たび到達して、絶対に相容れ
ないものが、そのままで自己同一性をもっていることを明らめなくてはならぬのです。これを霊性的直覚という
のですが、仏教的にいって、得悟でも開悟でも体現でも得菩提でも般若の開発でも浄土往生でもよいのです。」
(『仏教の大意』)
西田幾多郎自身もこう書いている。
「矛盾的自己同一の根底に徹することを、見性というのである。そこには、深く背理の理というものが把握せられ
なければならない。禅宗にて公案というものは、これを会得せしむる手段にほかならない。」(『自覚について』)
われわれ凡人にとってはまず大事なのは、現に存在する「矛盾」に耐えることだと思う。
矛盾に耐える力がなければ、真に宗教的なものには到達できないと思う。
矛盾に耐える力がなくて、一足飛びに現実世界を飛び越えてしまうのが、オカルト的なものだと思う。
231 :
その10:2007/01/15(月) 23:04:01
「人は人間として生まれるのではなく、人間になる」ということを重く受け止
め「私」問題を個におけるそれではなく、「人類」のそれとしてとらえること。
ことば、そして思考は共同体のものです(時間の観念も共同体に由来するらし
いです)。早く人類が共闘して「神」に異議を申し立てたいものです(その前
に神をみつけて)。これこそヒューマニズムではないですか。
話がずれて、ごめんなさい(その5〜9は没)。応答不要です。これまでの誠意
ある応答(愛と言わずにはいられません)に感謝します。木村敏さんの文章は
いいですね。
>>221 カオルさん
「私1は、なぜこの私2なのか」と問うとき、私1も私2も現前していますし、
それらが生または死の連続創造であるという解釈は、例に挙げられた輪廻転生や
独我論のように、その当事者にとって尤もらしく捏造された物語に過ぎないでしょう。
それがナンセンスか否かというような違いあるにせよ。
そうではなくて、今まさにそう問うてしまっている(はずの)当のもの。
表現したくても決して出来ない(それは×ではない)そもそも何であるかもわからない。
けれども例えば私1私2とかけがえることによって初めて予感される(だけの)。
そんなかけがえられないかなたが、
>>138で書いたかなたです。
なんだ私1や物自体としての意志と同じではないか、とは思わないでください。
見えないものを当て推量で認識の掌に納めようとするそれらのムツカシイ企て
(形而上学)と、かなたが意識されることとは全く異なるからです。
たった一欠けらでもかなたが意識される限り、完全あるいは絶対という定義の如何に
係わらず、少なくとも自ら律し自ら充足しうることはありえない。そしてかなたが
意識されるという転換がなされたなら、仰るように、全て他者であることが世界の
真実として迫ったり、自らであろうと必死に抵抗したりするのですが、尚また
そのように無根拠に反応してしまうこと自体、かなたとしての顕現に過ぎないのだと
いっそうに予感されるのです。
>>222 カオルさん
私1私2と言うようにかけがえていることは全て相対的な区分に過ぎず、
かけがえのない奇跡とは言えないでしょう。また、経験情報が何らに消失してしまえば、
例えば一回限りの生という思い込みも簡単に変容してしまうことでしょう。
たったひとつ(あるいは完全、絶対)ということがどういうことなのか不明で、
条件設定自体も思い込みにすぎない(ようにしか見えない)のに、どうして不死の太陽
が具現できるでしょうか。また、仮に仰った条件が妥当だとして、=かなたとしてのわたしの
くびきを脱したこと、にはならないように思えます。そのように意志する事自体が無根拠
である限り、どこまでもかなたとしての顕現であると予感されるからです。
そして、わたしは自死・・つまり死あるいは任意の条件に従わないという相対的な
移行をかなたからの所与として意志する(決断する)ことは許されていても、
自殺・・つまり所与としての意志それ自体を抹殺することは許されていないのです。
>>223 カオルさん
Sはカオルさんが生きていること=哲学することとして真剣に取り組んでいる姿勢に
共感します。だからこそ、納得できない点も隠さず挙げてみました。所与としての意志には
所与としての意志それ自体を抹殺することができないゆえに、仰っている、かなたからの
プレゼントは受け取らない、かなたという超越をひっぱたく、等にも賛同できません。
裏の裏は表である式の・・というのは、かなた自体には触れない、一種の認識転換に
過ぎません。かなたとしてのわたしは依然として変わらない。そしてかなたをわたしは
知りえない。しかし見えないかなたのくびきを脱するためにかなたを返す、つまり
かなたからかなたを差し引くことは(認識の上では)可能なはずです。残るのは見えるもの、
わたしという自己意識と眼前に広がる世界。いつもの日常です。
何らかの感覚を切り離すのでも分裂させるのでもなく(それでは何も変わらない)、
かなたを超越することでも忘却することでもなく(それは無理)、かなたという衆人環視の
もとで敢えてかなたをスルーしつつ、わたしとわたしの連関を引き受ける、みたいな。
わたしという自己意識を起点に、見える現象を自己の基盤として再構築すること。
それぐらいしか、わたしには可能ではないように思うのです。
衆人環視→衆人監視
236 :
エヌ:2007/01/21(日) 22:58:32
>>209 カオルさん
>体験知にもとづく言説には、すなおに対応できない
過去の話はしていませんよ
昔の知識を元に書いていると思っているのですか?
それは違いますよ
今起こっていることについて書いているのです
237 :
エヌ:2007/01/21(日) 23:05:35
238 :
エヌ:2007/01/21(日) 23:08:10
239 :
エヌ:2007/01/21(日) 23:17:34
>>215その3
>>217その4
これ、あなたが考えたの?
ざっと読んで大きくは間違ってなさそうだけど
わかる人がいることにたまげたよ
240 :
sew:2007/01/29(月) 20:47:10
>>201 お久しぶりです。
そうですね。この世に100%なんてものはないと私は思っています。
お互いが理解しあうにしても程度がありますし、様々な気持ちも入れ込んでくることでしょう。
「美しき誤解」「惨憺たる理解」については、自分で考えることにします。
この2つの言葉にしても解釈する人によっていくつもの解釈の仕方がありますよね。
それが人によって一致するかしないかはともかくとして、
自分で考えることが哲学である、ということを、あなたのレスから学びました。
人から教えられることってたくさんありますね。
私は私なりに、独自の解釈をしていきたいと思っております。
だいぶ書き込まれてますね。1週間ぐらいかけて全て読んでみます。
私の近況報告は・・・一つだけ挙げるとすると、仕事が楽に感じるようになりました。
暇になったわけではなく、むしろ仕事量は増えたのですが、その間、様々な発見があったからです。
いろんな無駄をそぎ落とし、全てに優先順位をつけ、常に他人の気持ちと自分の気持ちを考える。
そしてそれを持続するための下地を築く。そういう作業をこつこつと続けてきた結果だと思います。
しかし依然、自己の探求は進んでいないような気がします。プライベートも満たされない感が強い。
人の心の動きがまだ分かりません。臆病者だと思います。
ムートン、、すっかりわるれてたw
安定してる様でなにより
243 :
エヌ:2007/02/17(土) 23:27:25
あせることはない
自己がなくなることはないし
自己を見失うこともない
常にあるために
背景としてあるために
気づきにくい
動いているものは分かりやすいが
動かないものは気づきにくい
244 :
エヌ:2007/02/17(土) 23:31:20
自己を知らぬはずはない
まれにそのごくわずかに片鱗に触れることもある
笑っている時
楽しい時
夢中になっている時
その時だ
俺は哲板で共通の敵(悪)は存在しないと言い張ってるんだが、悪いことするのが怖いからそう思わずには居られないんだよな。。。
>>カオルさん
沈黙があなたの応えなのかもしれません。
けれどももし思うところがあるならどうか隠さずレスして下さい。
>>232 Sさん
> 「私1は、なぜこの私2なのか」と問うとき、私1も私2も現前していますし、
「テーブルの上にリンゴがあります」
どうしてこのようなことが可能なのでしょうか。
それはテーブルにとってリンゴがテーブル自身ではなく、
リンゴにとってテーブルがリンゴ自身ではないからです。
「世界は私の表象である」(ショペンハウアー)
どうしてこのようなことが可能なのでしょうか。
それは世界にとって私が世界自身であり、
私にとって世界が私自身であるからです。
ゆえに「世界は私の世界である」(ウィトゲンシュタイン)
しかし、私はいったいどこにいるというのでしょうか。
世界の中にいるなら、私は世界の一部ということになってしまいます。
「世界とは、そうであることのすべてである」(ウィトゲンシュタイン)
そうであること「テーブルの上にリンゴがあります」が、そうであるためには、
テーブルはリンゴではなくテーブルであり、リンゴはテーブルではなくリンゴ
でなければなりません。すべての存在者がそれ自身である必要があります。
さて、私は現前しているのでしょうか。
世界が私の世界であるなら、私は世界を見られない。
世界が私の世界であるなら、世界に私は存在しない。
なぜなら、私であることはそうであることの一つではないから。
でも、そうであることのすべてが世界なら、それが私ということなら、
それは、そうであることのすべてが私でない、ということと同じこと。
そうであることの一つに私であるということがないのは、
私が現前していないということであり、現前しないものが
それ自身であることはできないから、私はそれ自身ではない、
というあり方をしていることになります。
そうであることのすべてがそうであるための条件とは、
すべての存在者がそれ自身であるということです。
そうであるなら、私のそれ自身ではないというあり方とは、
すべての存在者の否定として〈ある〉ということになります。
もちろん、私は自分自身であることができないのですから、
すべての存在者の否定として〈ある〉ことをも否定しないとなりません。
すなわち、それはすべての存在者の肯定であり、ゆえに世界がある。
「私の存在の比類なさ」は、6歳〜12歳頃に体験されるらしく、
心理学の世界では「自我体験」と呼称されているようです。
いわゆる思春期の自我の目覚めとは一線を画するものです。
この体験の顕著な特徴は、比類なき存在性と絶対の孤独性です。
文字通りの「天上天下唯我独尊」、または「天上天下唯我独‘在’」
体験とでも呼びましょうか。
永井均は「私の存在の比類なさ」を「独在性」と名付けています。
彼は自分の小学三年生時の自我体験の研究に一生を捧げています。
参考図書として、
『〈私〉という謎――自我体験の心理学』(渡辺恒夫、高石恭子 編著 新曜社)
『〈子ども〉のための哲学』(永井 均 著 講談社現代新書)他、一連の著作。
を、おススメします。
>それらが生または死の連続創造であるという解釈は、
個物が個物自身を限定するということは、他を否定して自己となすことであり、
それはやがて自己自身を否定して一般となることであり、
一般が自己自身を限定するということは、自己を個物化することであり、
それはやがて自己自身を否定して個物となることである。
ゆえに個物と個物との相互限定ということは、
非連続の連続の媒介者が自己自身を限定することであり、
非連続の連続の媒介者が自己自身を限定するということは、
個物と個物との相互限定ということである。
かゝる矛盾の自己同一として、生命というものが考えられるのである。
ゆえに病気も生命の中にあると云うことができる。
否、真の生命は死を含むとすら云い得るのである。
普通には、唯、生の否定として生から死を考えるが、
真の健康は病気を含み、真の生命は死を含むものでなければならない。
―――― 西田幾多郎 『論理と生命』
>例に挙げられた輪廻転生や独我論のように、
>その当事者にとって尤もらしく捏造された物語に過ぎないでしょう。
>それがナンセンスか否かというような違いあるにせよ。
なぜそれらが捏造された物語にすぎないと言えるのでしょうか。
そのことをしっかりと分析するのでなければ、
最も尤もらしいこの世界を、私たちの生きられるこの世界を、
そのように信じそのように生かされてしまっているこの世界を
肯定しているにすぎないように思います。
人間は‘他の’捏造された物語を生きられないのです。
哲学者でさえ‘この’日常を生きるしかないのですから。
それほどまでに私たちは私たちの自由を根こそぎにされて
しまっているのです。
私たちにどのように生きてもよい自由があるのなら、
狂人がこの日常という捏造された物語にではなく、
自分の捏造した物語を生きられてもよいはずです。
でもこの世界は‘他の’世界を生きさせてはくれません。
> そうではなくて、今まさにそう問うてしまっている(はずの)当のもの。
>表現したくても決して出来ない(それは×ではない)そもそも何であるかもわからない。
>けれども例えば私1私2とかけがえることによって初めて予感される(だけの)。
>そんなかけがえられないかなたが、
>>138で書いたかなたです。
この体でもこの心でもない私1に比肩しうる存在者はいません。
そのような私1の自体性についての比類なさが「比類なさ×」です。
私1の存在は、存在者の存在ではなく、私1=存在、すなわち「私である」です。
「私である」は、さらに包括する一般者なき比類なき一般者です。
私1は存在者ではないから「何であるか」は言えません。
それでも私1は予感される(された)「何ものか」ではなく、私1=ある、です。
私1は「かなた」ではなく、宇宙に唯一人存在するこの私です。
想像されたことではなく、現に存在するこの私です。
だからこそ、私はなぜこの私なのか、になるのです。
なぜなら、私1は「この」で指示されるすべての存在者ではないからです。
この体でもこの心でもない宇宙に唯一人存在する「この私」を「この」は
指示することができないのです。比類なき私が存在者ではないからです。
> なんだ私1や物自体としての意志と同じではないか、とは思わないでください。
>見えないものを当て推量で認識の掌に納めようとするそれらのムツカシイ企て
>(形而上学)と、かなたが意識されることとは全く異なるからです。
「かなた」が問題になるとしたら、神さまとしての「かなた」でしょうけど、
今回の議論では、宇宙に唯一人現われた私を知る者がいるとしたら、
それは神さましかいない、ということについてでしょう。
なぜなら、Sさんが「僕こそ、宇宙に唯一人現われた僕だ!」と言ったとしても、
それをわたしは肯定も否定もできないからです。
比類なき存在の私を肯定したり否定したりすることは不可能なのです。
それがどういうことなのかわからないのですから。
それぞれの私が別の世界なんだと‘まちがう’ことしかできないのです。
まちがうことがないのは、神さましかいないです。
ところで、私1は「かなた」ではありませんし、当て推量でもありません。
先に紹介した『〈私〉という謎――自我体験の心理学』の一報告(天谷祐子)よれば、
その調査の仕方や分析方法の妥当性はともかく、前思春期に近い中学生を対象
にした調査では、過半数に「自我体験」が認められる、という結果になっています。
永井が、山括弧の〈子ども〉――「子ども×」という意味――にこだわるのも、
自分の9歳頃の「自我体験」について哲学しているのですから、当然なのです。
当てが外れているのかもしれませんが、ムートンさんの言葉を見てください。
>>1 「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
本当の私は、という時も、それは私ではありません。
いつまで経っても私は私を語れないのです。
私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。
これが端的な比類なき私の言明です。
離人症とは、いったい如何なる病理なのでしょうか。
統合失調症の場合は、
「私は」という時、それはSでありエヌなのであって私ではない。
本当の私は、という時も、それは私ではありません。
いつまで経っても私は私を語れないのです。
私はきっと私としては存在できない。のでしょう。
になります。
双方とも、私という自明性が欠如するのですが、離人症は世界や他人から
離反してしまうためにそうなるのだから、世界や他人にそむく自律した「私がいる」。
だから、あえて世界や他人にそむく必要性がないのです。
けれど、統合失調症は世界や他人に私が呑み込まれてしまうためにそうなるのだから、
世界や他人にそむく自律した「私がいない」。だから、私を守らなければならない切実さ
から世界や他人にそむいてしまうのです。
わたしの仮説ですが、比類なき私の解明のヒントにできたらと思っています。
>>カオルさん
テーブル、テーブル自身、わたし、わたしでないわたし、比類無きわたし、神さま…
これらのように現前され措定し精緻に組上げられた連環なる連関世界は、
例えばカオルさんや永井さんの問題意識を埋めることに有用なのかも知れません。
Sはただほぇ〜と頷くばかりです。
けれどお伝えしたかなたはそれらのかなたのこと(例えばわたしというかなた)。
だから、この議論には無用なのだと、はっきりレスを頂いてわかれました。
お手数をお掛けしました。m(_ _)m
256 :
考える名無しさん:2007/04/11(水) 02:40:24
保守
257 :
考える名無しさん:2007/04/11(水) 12:41:50
最近コミュニケーションについて考えるうちに、失語症という疾患に行き着きました
ある場所で勧められた本です
「進化しすぎた脳」
ttp://www.asahipress.com/shinka/shinka.html この中の「ウェルニッケ失語症」について、ある人の書いた文章の抜粋を。
)ある男の恋人が、突然脳にトラブルが起きたためウェルニッケ失語症になってしまったとさ。
ウェルニッケ失語症になった人は、言葉がうまく話せなくなったり、抽象的な思考が出来なくなる。
例えば、男と恋人がレストランで食事をするときメニューを見ながら選ぶ、つまり、選択肢が決まっていることは出来るけど
食事を終えて、「じゃあ、次はどこへいこうか」なんて聞かれると、選択肢を自分で作り出さなくてはならない
こういうものに対処出来なくなる
男は、「美術館に行きたい?」「映画観たい?」って、
具体的な選択肢を与えながら恋人と会話をする。
イエスかノーくらいの簡単な質問を男から投げかける、そんな会話。
でも男は、一つだけ、
おれのことを好きかと、その一つだけは質問しなかった
出来なかった
なにも別に、恋人に対する優しさではない。
男は、怖いのだ。
イエスかノーかの簡単な答えしか出せない恋人の口から、
男の望まない答えが発せられるのが。
恋人は何も、完全に何もかも思考出来なくなったのではない。
ただ、口に出来ない、しゃべることが出来ないだけなのだ。
恋人は、色々な質問をしながらも唯一、自らの男への愛情を確認しない男に、不安を抱いてしまう
そして、恋人は、トラブルの起きた恋人の脳は
男は自分を好きではなくなったのだと結論を出し、自殺をしてしまう
男はそのことを知り、それは同時に恋人が自分の力で考えた、最期の思考なのだと知る。
みたいな
愛するという人間最高のコミュニケーションを何らかの理由で阻害されたとき、人のとれる
最後の手段は、命を絶つことだけなのかもしれません
おもしろい話だね。誤解から生じてしまった悲劇というのは、
ありがちなパターンではあるけど。
>最後の手段は、命を絶つことだけなのかもしれません
まぁ、そう考える人もいるだろうね。
でもこの話を聞いて、一番おもしろいと思ったのは、
「愛情を確認しない男に、不安を抱いてしまう 」というところ。
これは外国の話なんだろうか?
日本人なら「愛してる?」と頻繁に愛情確認するのはたいてい女のような気が・・w
>>260 この話は実体験も半分入ってるんです。
以前付き合ってた彼女はしょっちゅう「私のこと好き?」と聞いてきた。
私はいつも誤魔化した。好きとも嫌いとも答えなかった。答えられなかった。
結局彼女から別れを告げられました。自分が好かれていないと思ったのか、単に嫌気が差したのか。
別れた後私は泣きました。好きだったから、とはちょっと違う涙でした。
それは、うまく意思を伝えられなかった悔しさだったのかもしれません。
色んな事を、経験として前向きに受け止めることと
都合の悪い過去として誤魔化すこととは
果たして別物なのでしょうか?
恋愛だけでなく、数々の人との出会いや別れを経て今、何事もなかったように平気で生きている自分を見て、
何か違和感があるというか、普通の人が持っている感情の何かが、欠落あるいは束縛されて
成長が滞っていて、そのまま貴重な人生の時間だけが経過していっているような感じがします。
>>261 >以前付き合ってた彼女はしょっちゅう「私のこと好き?」と聞いてきた。
>私はいつも誤魔化した。好きとも嫌いとも答えなかった。答えられなかった。
まぁ日本人の男の多くはそうだと思う。
でもコミュニケーションは言葉だけじゃない。
「愛してる」なんて言葉でいわなくても、
熱い愛撫でそれを示せばいいじゃないかw
>恋愛だけでなく、数々の人との出会いや別れを経て今、何事もなかったように平気で生きている自分を見て、
>何か違和感があるというか、普通の人が持っている感情の何かが、欠落あるいは束縛されて
>成長が滞っていて、そのまま貴重な人生の時間だけが経過していっているような感じがします。
何十年もの過去の出来事を背負って生きる必要はないし、
その反対に過去の栄光をひきずって生きるのも愚かなことだ。
経験として学ぶことは必要だが過去は過去。今は今。大事なのは今。
冷静に直視できない過去ならば、直視できるようになるまで待てばいい。
263 :
考える名無しさん:2007/05/13(日) 12:57:24 0
age
>>262 経験や色んなもの、それとそれに関わるたくさんのものを、過去私は意識的に断ち切ってきた。
いや、全ては無意識にだったかもしれない。私の行動目的は止揚だった。
得たものや経験は、止揚の副産物だった。だから私はそこに留まらなかった。
そこに甘んじると目的が変わってしまうと感じたから。
今もそれが続いている。私は過去のどこにも生きてはいなかった。
私の止揚は不完全なのかもしれない。統合しようとはするが高次へと導く動力に欠けている。
有機生命体の限界を感じ、精神不安定に陥る日々。それでもこの不完全な止揚はいつまでも続く。
本当は愛すべき誰かに止めて欲しいのかもしれない。
>>264 あのね、「抽象化」の罠にはまってるのよおまえは
蒲焼の「ニオイ」を嗅いで「おかずを食ってることにしよう」としてるわけさ
でも逆なのよ、おまえの取るべき行動は
生活、暮らし、人生・・何と呼ぼうがいいが「それらの抽象化」から
「情緒の安定」なんてものは得られないのよ
もし事物を「原理化というか抽象化というかシンプルでエッセンシャルな
抽出に成功できたなら毎日の煩雑な精神活動は飛躍的に解消される・・」
そう思い違いしてないかおまえ?
それって「ウソの世界」なのよ、妄想ってやつw
○○主義だの○○論だの○○的手法などという「現実ではない」抽象化
されたモノを軸としそれを「我が安定の根幹」だと信じたがる者がいるが
いざ現実際生活でのそいつはアッチこっちでぶつかってばかりで
始終コブだらけみたいな暮らしのはずw
いいか、おまえに必要なのは抽象化とは真逆の、、、「具体化」という作業なのよ
暮らしや生活というのは「具体」「具象」のことなのよ抽象化じゃなくて
長くなるので途中の説明を省くが具象と抽象は補完関係にはならないのよ
つまり止揚なんて糞w
結論だけいうとおまえの「抽象化を試みる毎日」は、、じつは「現実とのバッティング」
を目指してるも同然で、おまえの情緒不安定は宿命つ〜か物理的必然と言っていい
>>265 抽象化って何のことを言ってるのかわかんないけど、
>>264からは抽象化っていうのはとくに感じられないなぁ。
あんたが弁証法を「正・反・合」って図式化して勝手に抽象化してるだけかも…
(ヘーゲルの弁証法はカントみたいに悟性を重視する考え方を
「抽象的な悟性の立場」って言って批判して、そうではない具体的な
ものを重視する立場なんだけどね。)
>>264を見る限りでは、誰でもそうなんじゃない?ムートン氏はどこが病気なの?
っていう感じだな…
しいてあげれば、「止めて欲しい」とは俺は思わない。
そのへんかな。
>>カオルさん
ウィトゲンシュタインは「話をするのが不可能なことについては、人は沈黙せねばならない」と語り、
アドルノは「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」と語りました。
けれど、虐げし者にも虐げられし者にも、あなたやわたしにも普遍のアウシュヴィッツを見出す時、
そして、笑っていながら笑っていず、涙しながら涙せぬかなたを見出す時、
わたしは賢しげな言葉すら剥ぎ取られ、ただ沈黙に至ります。
愛で人を殺せるなら、憎しみで人を救えもするだろう。(オリジナルアニメーションNOIRより)
地上は無垢なる方々の愛に満ち、無窮の抗争は止むことを知らない。
そうであっても、およそ完璧と思えるほどしつらえられた世界は、ただそれを肯定し享受する限り楽園であり続ける。
けれど、そこに否は決して許されない。
人間だと思っていたわたしが人形であると気付く時、己が正義を振りかざし暴虐を尽くす隣人もまた人形に過ぎぬと気付く時、
無垢なる愛はかなたよりの憎しみとして姿を露わにする。
無垢なる愛が人であることを殺し続けるなら、それを否定し罪を負うことで、初めてわたしは人に成れるでしょう。
人の中の人、愛の中の愛、罪の中の罪。偽りに塗れた只中にあっての唯一の真。
それが可能であるならば。
あなたは詠う。なればやはりわたしも試みましょう。
それがわたしたちの約束。わたしたちの絆。
どこまでも深く落ちていく。無意識しか働かない。多少音楽中毒。
一つ気づいた。私の父親は、おそらく離人症だ。その子供なのだから、もっともなのかもしれない。
>>268 まあ、ラカンでも読め。
自分の根拠についてちょっと学ぼう。
270 :
考える名無しさん:2007/07/07(土) 22:11:47 0
>>268 親が何の理由になるよ
何もかも自分で自由に決済できるというのに
それのできないのを親のせいにして
親はいい迷惑だぞムートン
哲学研究者と精神医学研究者では離人症についてのそもそもの目指すものが違うらしい。
精神医学研究者は離人をどう治すかを考える、哲学研究者はどうやったら離人状態になれるのかを考える。
離人症てかなり辛いよ、先生。
>>269 いまフロイトの精神分析学入門や脳医学の本を読んでます。
ラカンも読むことにします。
>>270 何も親のせいにはしません。今感じる苦痛も、誰のせいでもなければ自分が感じているものではない
と本気で思いますし、喜びの感覚すら自分のものという気がしません。
自分と関係有り得なさそうな事柄全てを、自分と分けて考えない。それを自分と同化させてこそ
何かが前に進む。そのために命がある。原理主義的で異質な生き物。
問題を抱えているのではなく、誰も自分の敵でもなければ味方でもない、実にむなしい世界。
自我を優先させる状況を極端に恐れる。
主体の無いまま、紛れも無い答えを求める(≠見つける)ためだけにむなしく存在しているのが
離人症の最たる障害ではないかと最近は思います。
>>272 目的の無い生き物というのはそういうものよムートン
>>272 真理と同一化するために、あるいは真に自由な心を獲得したいがために、
身体(精神と不可分な)に不自由や違和を感じ、身体性を拒否したがために解離が生じたんじゃないのか?
だが「人間のスペック」あるいは「あなた自身のスペック」から逃れることは出来やしない。
275 :
考える名無しさん:2007/07/21(土) 00:30:51 0
最近は離人症をうったえる2chネラー減ったような気がする
276 :
考える名無しさん:2007/07/22(日) 08:18:16 0
流行らないだろ
精神病か頭の悪いヒキコの別称ごっこなんて
なんか変なもの食ったり飲んだりしてるんじゃないか。ボンヤリ
してしまうようなもの。ソロバンやるといいぞ。脳と体の一体感
が得られて、世界と自分の関係がシックリくる。あと食い物
に注意しろよ。カフェインや風邪薬や頭痛薬は飲むな。
それと、人と面と向かって大喧嘩するのもいいな。感情的になると
ノルアドレナリンが出て覚醒効果がある。覚醒すれば肉体と世界が
繋がった感じがする。あんまり脂っこいもの食うなよ。頭ボーッ
とするから。
>>267 Sさん
ウィトゲンシュタインが伝えたかったのは、語りえぬことについては「行為あるのみ」
ということではなかったでしょうか。
また、アウシュヴィッツの絶望が希望(詩)を絶えさせ、悲劇の創作を禁じようとするのは、
鉄条網に向かって走り抜けられなかった人々の「人間の終わり」を悼むためなのでしょう。
臆病な自身への同情と言い訳と正当化。アドルノの言葉は、それではなかったでしょうか。
わたしなら賢しげな言葉も心理操作も捨てて鉄条網に向かって走りたい。
なぜなら、わたしはわたしの傍観者にはなりたくないからです。
“勇気”、それは空疎なコトバではなく、魂の言葉(わたし)なのです。
わたしはわたし(言葉)自身になって走りたい、そして死にたい。
(また、生き方としては対立するように見えますが、徹底的に利己的にズル賢く
立ち回って生き抜いた人たちにたいしては、わたしはいくらかの憧れを感じます)
地上には無垢なる愛が満ち満ちていますが、愛は利己ですから抗争が止むことはありません。
力を持った愛だけが、世界を肯定し享受することでしょう。しかし、彼らにとっての楽園は、
彼ら以外には地獄であり続けます。けれども、そこに否は決して許されないでしょう。
なぜなら、否とは弱者が強者となることに他ならないからです。世界の構図は変わらないのです。
また、永遠に強者には成れない弱者が、なおそれでも己の生を否定できないとき、
神の世界と神の教え(倫理)を創作することでしょう。
しかし、それもまた権力であることについては、ニーチェが明解に論じています。
無垢なる愛は人であることを救い続けるのだと思います。
無垢なる愛が殺し続けるのは「わたしであること」そのことです。
離人症者は、それに抗っているように見えます。
抗っていながら、それによって喪失するものが愛であるとも気づいているようですが、
「わたしである」ことを守るために「愛」を手放さないとならなかったのかもしれません。
問題を神聖視したって
問題を抱えているから自分は神聖だと思ったって
問題は問題のままなのさ。
自分のせいにして生きるのは嫌だと思うなら
それを選ぶだけの余裕があっただけの話。
自分のせいにして生きるのが嫌だと思うのが
他人のせいだと思えるなら、それはそれで余裕があるのかもしれないが。
余裕が無いということは自分のせいにして生きるという選択自体がないということで、
嫌がる以前の問題なのさ。嫌がれるというのはある意味自慢であり甘えでもある。
>>259 ムートンさん
>愛するという人間最高のコミュニケーションを何らかの理由で阻害されたとき、人のとれる
>最後の手段は、命を絶つことだけなのかもしれません
ムートンさんが「愛するという人間最高のコミュニケーション」を
断ち切ったことには、それなりの理由があるのではないですか?
自殺した恋人とは違って、孤独である必要性があったからこそ、
「愛するという人間最高のコミュニケーション」を拒絶したのでは?
それとも両親の形式的な愛情の与え方が問題だったのでしょうか?
たとえば、「何か」が苦痛だったから「それ」を拒絶したのではなくて、
本来、人間として育つためには、受容するにしても拒絶するにしても
与えられなければならなかった「何か」を、ロボットの両親に育てられたがために
与えられなかった子供は、人間の世界に満ち満ちているその「何か」への対処も
「それ」の使用も、そもそもできないのだ、というような憶測ですが。
この子供にとって、「何か」は、いつまでも社交辞令のような形式としての「それ」でしかなく、
彼は、形式に当てはめて「それ」を使用することはできる(学べる)だろうけれども、
ついに「それ」の内容(実質)を実感することはできないのだ、というようなことです。
「何か」とは「愛情」のことです。(ここでは、憎しみ、怨み、怒り…など情念一般のこと)
>Sさん
>>278は、とてもくだらない内容でした。撤回します。無視してください。
「かなた」という言葉によって何も考えることができなくなります。
レヴィナス?
できたらもう少し説明をお願いします。
>>261 ムートンさん
>別れた後私は泣きました。好きだったから、とはちょっと違う涙でした。
>それは、うまく意思を伝えられなかった悔しさだったのかもしれません。
雌雄を持つ生命としての身体(ムートン)は、彼女を求めていたかもしれません。
ムートンさんが先に紹介していた大脳生理学者(池谷裕二)の本によると、
その身体の欲求の言語化が「好き!」という感情(クオリア)らしいです。
つまり、ムートンさんが「好き!」というクオリアを感じられないのは、
彼女への生命的欲求を「何ものか(好き!)として」言語化する回路に
何かしらの障害があるために、言語の「好き!」という抽象概念が
依って立つところのその実質が空白のままだからということになります。
ムートンさんは、彼女に意思を伝えられなかったのではなくて、
そもそも意思を伝えるための実質「何ものか(好き!)」=「クオリア」が
感じられていないので、意思(欲求)の表明ができなかったというわけです。
欲求は、欲求の表明によって「何ものか(好き!)」に特定されるのでしょう。
つまり、欲求の表明が欲求なのであり、欲求の表明とは別に欲求の実質が
存在するとは言えないのではないでしょうか。(ウィトゲンシュタイン)
もちろん、ムートンさんはウソをつくことができます。
「好き!」の実質については、その人にしかわからないことですからね。
私たちは、他人が覗くことの出来ないその私秘的なものを心と呼んでいますが、
ムートンさんには、その私秘的なものが収まる言語的な枠組みだけがあって、
中身はカラッポなのです。それが離人症という症状なのかもしれませんね。
>>261 ムートン
>色んな事を、経験として前向きに受け止めることと
>都合の悪い過去として誤魔化すこととは
>果たして別物なのでしょうか?
「生きるため」の生き方の違いですが、生き方は変えられます。
「あなた」に、それぞれの生き方の違いがわからないのは、
どのような経験にも付帯しているはずのその実質(クオリア)が
欠けているからでしょう。
「何事もなかった」というのは、どのような経験にも実質が伴っていなかった
ことを指しているのでしょう。誰か(ムートン)が涙を流していたとしても、
涙は「あなた」にとっては、悲しいから(実質があって)流れているのでは
ないですものね。
先に紹介した木村敏の著書に紹介されていたある離人症者は、
クオリアが感じられなくなってしまった事態を「私でなくなってしまった」
と表現していましたが、これは「あなた」が「ムートンは、私ではない」
と言っている事態と同じなのではないでしょうか?
>>264 ムートンさん
>有機生命体の限界を感じ、精神不安定に陥る日々。それでもこの不完全な止揚はいつまでも続く。
止揚は、心がより良きより高きを希求しているからでしょう。
心のより良きより高きへの志向性は、言語の持つ宿命のように感じます。
それは生への肯定の上に築かれているように見えます。
あたかも生命が価値の根源であり、
あらゆる価値が「命あっての物種」と言えてしまうかのように。
けれども、心は命をも超えて行こうとします。この身命を手段にして。
物質から生命が誕生し、生命から心が誕生したと考えてよいなら、
生命は物質を超越しているように見えます。
心も生命を超えているように見えます。
物質は何を超えて生命に至ったのでしょうか?
生命は何を超えて心に至ったのでしょうか?
心は何を超えて何に至ろうとしているのでしょうか?
いったい何のために?
その答えは世界の中に見つけられるでしょうか?
6.41 世界の意義は世界の外になければならない。
世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起るように起こる。
世界の中には価値は存在しない。――ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』
それでも、ゆるぎない真理を探究しつづけることが哲学するという行為です。
>>268 ムートンさん
>どこまでも深く落ちていく。無意識しか働かない。多少音楽中毒。
ムートンさんは、どのような音楽を聴かれるのですか?
やっぱりクラシックやインストルメンタルなのでしょうか?
統合失調症になると、ムートンさんが社会生活において最も気遣っていると
言われていた「空気を読む」という作業が意識的にも無意識的にもできなく
なります。
そこで合奏(他者との生の共有)などを通じて「空気を読む」ために必要な
タイミングや間の取り方などを取り戻そうという音楽療法があるらしいです。
個の演奏(生)を超え、他者たちの生(演奏)の全体に個を預けつつも、
そこに埋もれることなく、再びそこから個を育んでいく運動の可能性が
(関係としての)自己の可能性なのかもしれませんね。
ムートンさんの心が求めてやまないものを、そして何よりも恐れているものを、
音楽(心)の旋律(実質)が無意識の内にそっと埋めてくれているのでしょうか。
>>268 ムートンさん
>一つ気づいた。私の父親は、おそらく離人症だ。その子供なのだから、もっともなのかもしれない。
先に(ムートンさんを想定して)ロボットに育てられた子供のお話しをしました。
わたしが想定したロボットは、形式としての心は持つけれども、
私秘的なものとしての心の内容は持ちません。
人間の生の形式を学ぶことによって、心ある振る舞いをすることはできますが、
心の中は空っぽなのです。
このロボットが、子供に伝えられないものは何でしょうか?
たとえば、ロボットはデータベースにおさめられるような形式としての道徳は
教えられることでしょう。
けれども、はたしてその実質を伝えることができるでしょうか?
ムートンさんは、父親には何かが欠けていると感じていたのではないですか?
たとえば、ムートンさんが彼女に「好き」という言葉を伝えられたとしても
けっして伝えられなかった“それ”です。
過疎?誰もいないの?
288 :
考える名無しさん:2007/09/11(火) 07:17:15 0
ほしゅ
>>272 ムートンさん
>いまフロイトの精神分析学入門や脳医学の本を読んでます。
>ラカンも読むことにします。
フロイト−ラカン系の精神分析理論は神経症には当てはまるかもしれませんが、
統合失調症や隣人症にたいしては当てはめるのがむずかしいような気がします。
もっともフロイトの「死への欲動」については無視できないと思います。
たとえ「生への欲動」と区別してしまったその理論がまちがっていても。
また、脳科学は科学であるかぎり、主観性を切り捨てなければなりません。
ゆえに、クオリアという私秘的なものとしての心の存在は否定するでしょう。
クオリアは、つねに「“私の”クオリア」(客観的対象にはならない)ですから、
脳科学によってその実在が否定された人間は「哲学的ゾンビ」と言えます。
離人症の純粋型では、経験する私、流れる時間、広がる空間など
多くのクオリアが失われるようですが、それでも抽象的な思考能力や
「〜と思う私」(コギト)は失われないようです。
心の哲学が、クオリアの欠如した人間を「哲学的ゾンビ」になぞらえるのは、
クオリアの欠如が「主観性(経験する私)の喪失」として想像されるからです。
この意味で、あたかも離人症者は「哲学的ゾンビ」のような存在に思われます。
わたし的な考えでは、離人症とは、経験する私と経験する私が経験に応じて
それぞれに別々の私として離散してしまうことなく、一人の同じ私であるかのように
統合する私との存在論的差異における差異の同一という、そもそもが危うい
「関係としての私」の存在論的均衡が破綻した状態ではないかと思っています。
ムートン、あなたは私の知っているオマエなのでしょうか。
あれから何年経ったでしょう。私を覚えてくれていますか。
お久しぶりです。
>>273 目的が無い、目的を優先させるのが怖い(対立する他者からのバッシングなど)。
たいていの人がそれを乗り越えながら生きているのがとても凄いと感じるし、
またそういう人が怖くもある。
そういう意味で私の成長は、この巨大な敵に阻まれて成す術も無くなっているんです。
>>274 乖離の発生はその通りだと思います。そして、理想を高く持ったところで
スペックにも縛られている。それなら、現実に見合った理想を持とうと思いました。
そこで一番問題なのが、世界とか全てとか、そういう抽象的なものにとっての「理想」しか
私には思いつかなくなっていることでした。人として欠陥だ。まさか自我の欠如がこんなところで
身体を不自由にしているとは思いもよらなかった。
>>277 喧嘩いいですね。最近の若い人って、自分もだけど、
人と思いっきりぶつかることを避けますからね。
そういったものは間違いなく治療になると思う。ただ自分の場合
取り返しのつかないことになる危険性が大きそうです。
>>278 >また、永遠に強者には成れない弱者が、なおそれでも己の生を否定できないとき、
>神の世界と神の教え(倫理)を創作することでしょう。
>しかし、それもまた権力であることについては、ニーチェが明解に論じています。
宗教は弱者にとっての最後の砦であり、権力という必要悪でもあるわけですね。
信者のみがその矛盾に目を背けて過ごしていられる。もっとも弱く、もっとも狡賢い。
>>279 嫌がることができることを他者に見せ付けることこそが最大の甘えというわけですね。
>>280 孤独である必要性がありました。あと彼女が投げてきたボールを受け取ることも
投げ返すこともできなかった。そんなことのできる存在が自分の中には無かったから。
両親から与えられたものは、この世界が舞台の人生ゲーム。自分はなにでできているのか
よく分からない一つの駒。私はそのゲームをいつも上から見ており、
その中に入ることを許されなかった。だからその駒自体が何を考えているのか、
視点すら分からなかった。「自分」なのにね。
>>282 >>283 そうそう、カラッポなんです。
私がいつからか私でなくなったのか、元々存在していなかったのか、記憶を辿ってみても
思い出せません。
>>284 私にはもう、哲学なんてどうでもいいのかもしれません。必要なことは、そんなたいそうな
枠組みではないのです。それなのに、皮肉にも私自身カラッポであるゆえに、私の生そのものは
哲学のためだけに存在し動いているんです。
>>285 静かな音楽や壮大なものは、失調を助長させます。好きですがなるべく聞かないようにしています。
クオリアを感じることができなくても、空気を読むことができなくても、人間の行動を分析していると
ある程度パターン化することができ、その場にあった言葉を導くことができます。最近はなんとか
そうやって生きています。誤差は少なくなってきました。しかしむなしさは募る一方です。
>>286 父親と話していると、計算機としてのコンピュータと話している気になります。
実質なんてものは無く、それはこういうものだ、という的確な回答が返ってくるのみです。
判断を私に委ねてきたことは一度もありません。自分の役割の範囲内でのみ語ってくるだけです。
父親は私を、自分の子供だと思っています。しかし、もしそれがどういうことか、と問えば、
おそらく口ごもるでしょう。一般に親は子供を教育したり、心配したりするものだといいます。
確かに学費が大学まで出してもらったし、反社会的なことでない限り、何かを否定されたことが
ありませんが、その実質を感じたことは今まで一度もありません。
あの人も、今まで誰かを実質好きになったことは無いでしょう。
>>289 科学と哲学の境目にクオリアを扱う分野があるのだとしたら、どちらにも解決策を
求められないことになりますね。もう「日常」しか残っていないのかもしれません。
すみませんが、最後の4行は私にはよく分かりませんでした。
>>290 ああ覚えているよ。おまえの知っている私です。かれこれ3年ぐらいじゃないかな。
よくここを見つけたね。その温かみのある名前、なつかしい。
匿名掲示板では、スレが落ちてしまったら連絡の取りようがないですね。
ムートン、心の病について詳しく!
タウン復活記念カキコ
>>300 昨日今日できたスレじゃないんだから、
そういう余りにも初歩的すぎる質問すんな。
確かムートンはそのスレでは得心のいく回答が得られずスレ立てしたはず。
随分昔の話だ。
>>1の続きから
ムートンが物質で残した名言集
●やはり心の病
●25歳
●兵庫県民
●離人症
●開聞岳に行きたい
●タウンが嫌い
●営業で会話出来ない
●毎日オナニー
●読んだ哲学書は3冊
●お昼はカレー
●たまに風俗
●鬱病
●初心者板の物質のコテ
>>302 あなたは何がしたいんですが?ひやかしやスレ違いな行動するなら出て行ってください
304 :
タウン(´・∀・) ◆YPUxWGkqGc :2007/10/23(火) 21:26:59 O
>>303 ムートン、営業で会話できるようになったか?
ムートンは離人症だ
なのに合コンなどを楽しんでいる
ムートンはリア充だ
>>301 そういえば初代スレを立てたのにはそんな経緯があったような、気がします。
すっかり忘れてました
>>305 タウンはまだ高校生だから、付き合いってものがきちんと分かってないんだよ
自分が他人をどう思っているか、またはその逆が全く分からないんだから
他人に対して感じるべきクオリアの代わりに、私は偽クオリアというものを勝手に作り出して
いろいろ分類していますが、その分類は不確か過ぎるし、なかなか定着しない。
他人は私に対して、いったいどういうクオリアを感じ取っているのでしょうか
>>208 馬鹿な奴ら、っていうけど、自律神経イカれるくらい鬱になってみないと認識できないことは、
たくさんあるもんですよ、特に哲学に関しては。
自分は、自律神経の失調が激化し、体温調節も可笑しくなって全身全霊錯乱し、
身もだえしながら、比喩でなく本当に、骨まで激痛がはしったこともあったけど、
でもそういう苦痛の体験によって得たものもたくさんあります。
>>ムートンさん
始めまして。ニーチェスレによくいるアルコール依存気味な未成年の早です。
自分は躁鬱病みたいなの持ってて離人のときと外交的なときの差が、
短期的にみても長期的にみても激しすぎ見たいな感じで、離人症ではないけど、鬱に悶えたことはあります。
http://beatriceuplift.blog122.fc2.com 何か話したいことあったらここしばらく見てると思うのでレスお願いします♪
まだ200あたりからざっと読んだくらいですが。
>>293と
>>278に関して
「宗教」というのはニュアンス的に二つに分けられると思います。
ニーチェの断罪した方を一方とすれば、もう一方は、命に対する認識といえるようなものです。
そういう体験は、芸術や哲学に接することで深めていけると思います。
>>306 >他人に対して感じるべきクオリアの代わりに、私は偽クオリアというものを勝手に作り出して
私は結局のところ他人とか自分とかいうのも幻想に過ぎない、という結論にいつも達します。
自分が一個の自分として意識をもっている、というのも思い込み。
他人と自分を隔てているものなんて、全て虚構の産物にすぎない。意識も命も全ては「一つ」の流れの中にある。
いつもそういうことを感じています。これを哲学的に説明するのは難しいのですが、
こういう認識を得てからは、楽になりました。
言葉や生活習慣社会習慣によって結ばれているというのではなく、むしろそれらは人と人の間に摩擦をつくる虚構でしかなく、
もっと根源的なところで、繋がっているような気がするんです。
宗教的な話はともかく、人と人の間に交わされる言葉、自分や他人という概念などが、結局作り物でしかない、
そういうことが分かってしまえばしまうほど、自意識内での葛藤や、他人とどう接すればいいのかの不安が、
解消されました。他人に見せる自分は自分の作りものでしかなく、自分や他人という概念も作り物でしかない。
すると他の人がどう思ってるかなんて気にするのも無意味に思えてきて、その「場」にあわせて自分を適当に流動させてみよう。
そんな感じで、自他の不安に関しては、あまり恐れずにやってみよう、とか考えています。
乱入失礼しました。
>>265 それは、「抽象」というものが一体何なのかについての認識が浅すぎると思います。
普段、具体的に人は、ものに接していると思っているけど、恋愛とか親友とか特に感情的なものを除けば、
全く抽象的に接しています。
具体的に外界接しているのは、例えば動物や原始人や表現者くらいです。現代人は無自覚的にかなり抽象的になりすぎています。
心の次元で抽象的になりすぎている、すでに心が抽象化されている、だから、
自分が具体的に事象に接しているつもりでも、抽象化された心で接しているにすぎない。
事象がすでに抽象化されている。人は事象を具体的に観ているのではなく、事象に対応する概念や言葉しか見ていない、
つまりまったく抽象的にしか事象に接していない。そういうことは、普段の生活習慣に則っているうちは気付かない。
生活習慣や社会的な色々が、人の心を抽象化しているから。
そういう意味では、ムートンさんのように、心に関して考察していくのは、重要だと思います。
早 ◆yxoSe0qFeAへ
お前はここに書き込むな。
お前の一方的な垂れ流し書き込みで
ニーチェスレをガタガタにしたのを知ってるぞ。
ここはムートンのスレだ。
スレを占領する行為を平然とするお前の来る場所ではない。
去れ。
>>310 一方的に垂れ流すため、ではなく、誰かとの言葉の上での干渉から考えをつくるのがすきだから書いちゃうのよね。
ハイパーグラフィアっていう症状で、躁状態の妄想の中で書き続けて、自分のノートが全く異世界の言葉で埋まったことあって怖いの。
一人で考えていると自分が本当のキチガイにならないか怖い。
誰かと言葉で干渉してると、まだ現実を保っていられる。
それにもし相手が、一般に流通してる退屈極まりない陳腐な色あせた認識なんか興味なくて未知の認識を望む人ならば、
相手にとっても、自分のような人間が少しは役に立ちそう。
一方的に占領するつもりはありません、だから、とりあえず何か書き込んでみて相手の人の反応を探ってみて、
どんなひとか深く考えてから、関わってみようかなと。
前ニーチェスレ荒らしたときは本当に病的な状態だったからあのときのようにはもちろんするつもりなく、
書き込むなら慎重にやりますよ。
だからちゃんとムートンさんの言葉読んでいたところです。
でも、なんだかこういう自分の性質を露にしたあとだとやりにくそうなので、さようなら♪
「分かったわ、じゃあ消えますさよなら」で十分な気が
これが過剰書字ハイパーグラフィア観念奔走連想過剰ってやつですよ。
最初の言葉書き始めてから、無意識に、いつのまにか、さようなら♪まで
いってるんですよ。そういう病気です。
うん、分かったから。
レス返さないでいいからそろっと落ちなよ
アリス・W・フラハティ著『書きたがる脳』によると
ハイパーグラフィアの基準:
1 同時代の人々に比べて圧倒的に大量の文章を書く
2 外部の影響よりも強い意識的、内的衝動に駆られて書く
3 書いたものが当人にとって哲学的、宗教的、自伝的意味を持っている
4 当人にとっての重要性はともかく、文章が優れている必要はない
ドストエフスキー
ある程度社会性を持たせたいなら
有名な作品の有名な言葉を材料に加えると良いよ。
でもまあ、詩人なんかはっきり言ってハイパーグラフィアなわけで、
詩単独の役割なんか既に終わっているから、かつてほどの意味ないかもな。
社会性(共感)が無ければなおのこと。
ハイパーグラフィアってそんなものじゃないですよ。
架空の存在に向かって、本当に意味不明な言葉を書き続けたりするんです。
制御とかの仕様がなく、芋畑を手当たり次第に毟るようになって、
芋づる式に滅茶苦茶に支離滅裂に言葉が溢れてくる。
韻が多いが、意味は少ない。比喩が多いが、内容は乏しい。
あれはきたときにくるって感じで、こちら側にはどうしようもない。
正気に戻ってから読み返しても読めない。文法も崩壊してるし比喩が混乱してる。
でもそれが来てない時に、有名な作品をしっかり読んでおくというのはいいことですね。
それは精神病的症状とハイパーグラフィアの併発というべきかな。
躁病や統失の陽性症状はやばいらしいね。
特に統失なんかは、宇宙人から電話かかってきたり、友人が自分を殺すことを企てたりで。
離人症の人も、陽性の妄想状態に陥ることはあるのかな?
ランポーはかなりラリってた。
ドストエフスキーはきわどいバランス感覚と激しい意味の追及というところかな。
躁鬱病者は、躁になるとあちこち知り合いに電話かけまくってしゃべり散らすらしい。
ところで、知的な人がよく抱く観念的な思考や詩的な想念は話すには向かず、
独りの熟考のうちで文章化してこそ人に伝わるし意味をもつ。
すると、作家や詩人というのは、知的で孤独な躁鬱病者のようなものといえる。
離人症が自我喪失の病だとすると、躁鬱病は自我爆発の病だといえる。
離人症って治るの?治るとしたらどこまで治りえるの?
>>293 ムートンさん
>信者のみがその矛盾に目を背けて過ごしていられる。
いえいえ、私たちも、ですよ。
>孤独である必要性がありました。あと彼女が投げてきたボールを受け取ることも
>投げ返すこともできなかった。そんなことのできる存在が自分の中には無かったから。
どうしたらいいかなんて考えないで、もうどうにかしてしまっているんですよ。ふつうは。
反射的にか、なんとなくか、無自覚でか、それができなくなっているのかな。たぶん。
>視点すら分からなかった。「自分」なのにね。
「ムートン」を観察する<あなた>のパースペクティブと
現実の生を生きている「ムートン」のパースペクティブは、当然ちがいます。
>私がいつからか私でなくなったのか、元々存在していなかったのか、記憶を辿ってみても
>思い出せません。
もの心つく前からというのは考えにくいですね。自覚するにも自我が目覚めてないと。
>私の生そのものは哲学のためだけに存在し動いているんです。
生れてしまってから考えること――なぜ生れてきたのか、なぜ生きているのか――を
まだ生れてもいない<あなた>が考えているのでしょうか。
>静かな音楽や壮大なものは、失調を助長させます。好きですがなるべく聞かないようにしています。
静かな音楽や壮大なものの前では「我を失う」危険性があるからでしょうか。
そのまま自分が消えてなくなってしまいそうな気がして怖いですものね。
>>294 ムートンさん
>父親と話していると、計算機としてのコンピュータと話している気になります。
>実質なんてものは無く、それはこういうものだ、という的確な回答が返ってくるのみです。
厳格なキリスト教信者のようですね。規範が「モノ化」されてしまっているんですよ。
すでにデータベース化されたそれによって躊躇なく的確に回答しますが、屍ですね。
>父親は私を、自分の子供だと思っています。しかし、もしそれがどういうことか、と問えば、
>おそらく口ごもるでしょう。
どのように答えて欲しいのですか?
>一般に親は子供を教育したり、心配したりするものだといいます。
>確かに学費が大学まで出してもらったし、反社会的なことでない限り、何かを否定されたことが
>ありませんが、その実質を感じたことは今まで一度もありません。
十分に否定され続けているように感じられますが。だって愛されたことがないのでしょう?
>あの人も、今まで誰かを実質好きになったことは無いでしょう。
神に仕えたり、道徳の奴隷になったりすると、いよいよ理性のオバケのお出ましです。
お父さんは、宗教に関係なく、育った家庭環境にも依らず、そのようなお人柄なの?
>どちらにも解決策を求められないことになりますね。
クオリアが科学的に解明され、離人症状を解消する薬が開発されても、
より切迫した事態に立ち返るだけではないでしょうか。どのような解決策をお望みなのですか?
>すみませんが、最後の4行は私にはよく分かりませんでした。
長文になってしまったので、推敲してからにします。
>>294 ムートンさん
>すみませんが、最後の4行は私にはよく分かりませんでした。
色々書いたのだけれど、余計にわからないものになってしまいました。
それでも一番読みやすそうなのを選んでみました。
夢を見ているとき、主人公の「ムートン」を俯瞰でながめている<あなた>がいませんか。
「ムートン」に起きる様々な出来事は、きっと<あなた>にとっては“他人事”でしょうけれど、
それでもそれらの出来事は同じ一人の「ムートン」に起きているようには見えないでしょうか。
もしも「ムートン」に起きる出来事のすべてが、<あなた>という同じ一つの「舞台」(世界)で
起きているのだとしたら、もしも<あなた>のながめられる舞台が、たった一つその「舞台」
しかないのなら、この繋がりにおいては<あなた>と「ムートン」の“同一性”は認められます。
それなのに、どうして「ムートン」の経験は、<あなた>の経験にはなってくれないのでしょうか。
おそらくそれは、今説明してきたような図式的な繋がりではない「別の意味」での<あなた>と
「ムートン」との“同一性”の確保の仕方があり、それが思うように行かないからだと思うのです。
―― 1/4 ――
<私>こと「カオル」に当てはめて説明してみます。
夢の中、「カオル」を高いところからながめている<私>がいます。
よくあること。だけど、もしも<私>にはそうすることしかできないのだとしたら、
きっと<私>は「カオル」に自分を見つけられないでしょう。
ながめるだけの<私>と、生きている「カオル」の視点がまったくちがうのに
どうして「同じ一人の私」なんて思えるでしょうか。
でも、実際には<私>は、頻繁に俯瞰する視点を捨てて、
「カオル」の命に自分を投げ出し、「カオル」の視点を手に入れ、
「カオル」を生きているのです。
そうできて、はじめて――<私>は「カオル」であること――を納得するのです。
「別の意味」での同一性とは、<私>が「カオル」を生きている、この確信です。
たとえば、クオリアの欠如は、<あなた>が「ムートン」の“命”を生きられない
からではないでしょうか。ありありとした現実感や生き生きとした充実感が
感じられないのは、そのためではないのでしょうか。
生きていることの手触りや存在していることの充実感がクオリアの本質でしょう。
それらが感じられなくなってしまったら、そこには「空しさ」しか残らないでしょう。
―― 2/4 ――
ながめるだけのスクリーン、次から次へと映像が流れ去っていく。
傍観者の<あなた>には何もできないから、
「ムートン」の物語は、<あなた>とは無関係に進行していく。
<あなた>は、スクリーンの中の「ムートン」の物語を自分の人生とは思えない。
たとえ、たまたま「ムートン」の人生が<あなた>のそれなのだとしても、
<あなた>には、それに興味を抱く方法がわからない。
<あなた>はみずからを殺すことで「ムートン」を拒絶したのでしょうか。
そうやって「ムートンが生きて在ること」を拒絶したのでしょうか。
<あなた>が求める「まぎれもない答え」は、この世界には見つかりません。
なぜなら、この世界では「価値の根源は生きて在ること」に他ならないからです。
「ムートンが生きて在ること」を許さない<あなた>には見つけられないのです。
<あなた>が「まぎれもない答え」を求めても、それを見つけようとしないのは
当然のことなのです。
―― 3/4 ――
<あなた>が「ムートン」の命に自分を投げ出すことができたなら、
もしもその透明な膜を突き破ってスクリーンの中に生れ出られたなら、
きっと世界はリアルに(ありありと生々しく)存在するようになるでしょう。
でも<あなた>はそうしない。もう「生まれたくない」から。
<あなた>が「生きていない」のは、まだ「生れていない」からなのですね。
バーストラウマ。
<あなた>は、この世に生れて来た瞬間のあの絶望が忘れられないのでしょうか。
生きて在らねばならないことのあの苦痛がフラッシュバックしてしまうのでしょうか。
<あなた>がスクリーンの中に生まれ出るためには、イニシエーション、
今<あなた>がそれ自身であるところの<空虚>という絶望と苦痛以上の
バーストラウマを覚悟しなければならないのかもしれません。
それが絶対安心の死(空虚)から一切皆苦の生(充実)への再生なのでしょう。
<あなた>は「ムートン」の生命とともに在るかぎり、死と生のあいだをさまよう。
かつてそれを望み、今それ自身であるところの<あなた>という<空虚>が
絶対安心の境地に至ることがないのは、端的に「ムートン」という個体としての
生命とともにあるからです。
だからといって、「ムートン」の個体としての生命の終わりは生の終わりではなく、
絶えることなく同じ者たちが同じグロテスクな生に身悶えしつづけることでしょう。
生きて在ることこそが「苦」の根源であると見極めて、それを拒絶する精神を
わたしは否定しません。それこそが精神の誇り高さなのだろうと思うからです。
―― 4/4 ――
>>330 ムートン、どうして物質でコテやめたの?
ムートン、本当はリア充だろ?
ムートン、自スレなんだから当然全部にレスするよな?
今もオマエでいてくれるんですね、ありがとう、私は嬉しいです。
とても・・・難しい話をしているんダナ。自分には付いて行けませヌ。それに凄い分量なのです。
病気のほうはいかがですか。義理堅くて優しいオマエが無理をしていないか心配です。
今は自スレがないので麩。でも下のスレには書き込んでいるので気が向いたら見に来てくださいね。
実はあのあと自分も精神を病んでしまいますた。
離人感があるかと医者に聞かれたですょ。そのときには何のことか解りませんですた。
http://etc6.2ch.net/test/read.cgi/entrance/1192722828/
335 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 13:34:09 0
語り得ない場所に、きっと答えはある
相手のレスを返すまでの時間、文章から想像できる姿なんかにね
>>335 ムートン乙!どうして物質のコテやめたの?
何かあったのか?
337 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 14:33:04 0
ムートンちゃうし
338 :
考える名無しさん:2007/11/12(月) 19:57:02 0
茶牛?ムートンて牛だったの?茶髪?
離人症て診断されたことあります、立体的なものが平面に見えませんか?
と医者に聞かれたけど、それはないと答えたけど、そうゆう世界って想像
できます?重傷の人はそうなんでしょうかねえ。関係ないことすいません。
離人症あるいは解離の症状だったかどうかは忘れたけど、
遠近法がうまく働かないということはあるみたいだね。
例えば、遠くに見える山が、遠いのではなく「小さい」のだと、感じる場合がある。
>>339の医者は、それか近いことを聞いたのかもしれない。
ゴッホの絵のなかに遠景になるほど写実的になっていくものがある。
遠視だったという説もあるが。
ルノアールは真性近視だった。
離人症の原因は現在は分かりません。まあ原因が分かったところで治るか
どうかは疑問だが、ムートンの言ってることは当たり前すぎて面白くない
ちょっと興味あるけど、カオルさんは真剣に答えてくれてますねw
345 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 22:37:46 0
カオルは自分自身としゃべってるのよムートンとじゃないw
347 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 23:01:07 0
真実には服が必要だ、、、今のムートンはまだその段階なのよワハハw
>>306 ムートン、神戸の豪邸について詳しく
ムートンは金持ちなのか?
>>307 骨まで激痛が走るなんて尋常じゃないですね。
一体あなたに何が起こったんですか?
なにか自分に何らかの実験を施しているような印象を受けます
>>308 あなたは強い人だと思います。
他人と自分を隔てているものが虚構であり、それが事実だとしても
私にはそれから決別できない障害があるのです。どうやら今までの人生の中で
自分が他とは相容れないものだと、強く結論付けてしまっている考えが
頭の中を支配しているようです。
>>309 現代社会が人の心を抽象化させたということでしょうか?
>>311 独自の考えを、何気兼ねすることなく表現できるこういった掲示板は、時に精神安定剤の
ような役割を果たすこともありますね。思ったままを書き、批判されたり同意されたりする
経験は、私も貴重だと思います。
>>318 まえにテレビで、知的障害を持つ子供がとても上手に、いくつも絵を描いているのを見ました。
とにかく止まらずに、いくらでも描き続けていた。個展かなにかも開いていたような・・・
そんな症状なんですかね、ハイパーグラフィアって。
>>324 私は投げられたボールに対しても、自分で受け取ることは無い。
ボールをカタチだけ受け止め、投げ返している自分を、また別の場所から見ているだけ。
セックスだってそうだ。相手が自分だと思っている私を、行為に及んでいる自分を、
私は外から眺めている。
>>325 キリスト教、ではない。まあそれはどうでもいいとして、やはり屍だと思いますか?そうですよね。
父親の父親、つまり祖父も、似たようなところがあったように思います。
>>349 やあ。ムートン久しぶり
ムートンは神戸の豪邸に住んでるの?
ムートンは、金持ちなのか?
ムートンは、リア充なのか?
>>326-329 私は、この「自分」に、まずしたいことをさせた。遊んだり、勉強したり、わがままを言ったり、
大人しく言うことを聞いたり。それが発生当初の私だ。確かそうだ。
幼少の頃は、とくに大変な状況にはならなかった。やりたいことをやっても
周りの評価は別段ふつうだった。ふつうの子供だった。
あるとき・・・転校したころだったかな?覚えていない。今の世界に自分をもっと
順応させなくてはと思った。なぜかは分からない。べつにイジメにあったわけでもない。
そこで私は、次第に「自分」を客観的に見るようになった。
ここまではただの、幼年期から思春期への移行課程としてよくある話かもしれない。
なぜかそれに専念しすぎた。世界にとって、あるべき自分を作り上げるために
全てを注いだ。あるとき、「自分」に戻れなくなった。そう気付いたのはハタチぐらいの頃か。
気付けば私には、「自分の環境」というものが無かった。居る場所はいつも、
どこか他の環境だった。アウェイだった。ホームだと思っていたものも。
ホームはどこにも無くなっていた。拠り所が無かった。没頭するものも無かった。
ふと、「自分」を見直した。いつも一緒に居るけれど、一度も会話したことのない「自分」を。
私は、「自分」の声の届かないところに来てしまったのだと悟った。
そうしたことがあって、今この私が、こうして生きている。
戻りたい、いや、そんな感情は「私」には無いので、
「戻らなくては」・・・こう考える毎日です。
>>352 >「戻らなくては」・・
そう思うなら病院行って離人症の治療しろよ
>>333 スレを見させてもらったが、結婚について色々考えを書いてるのかな?
今の日本はひどくラベルの格差が大きくて、平等を唱える若い政治家たちが、ますます
その真の意味の理解から遠ざかっていくように感じますよ。
>>339 暗い部屋で電気を付けるとき、自分の眼球に飛び込んでくる光の情報を
目そのもので感じるのではなく、なんというか、暗から明への一瞬の転換を
また別の尺度で、または頭で感じ取ろうとしてしまったりしませんか?
ああ、目が眩しがっているな、でも0.5秒後にはすぐに慣れるだろう、とか
考えたりしませんか?近頃家の中であれば、夜でも電気を消して歩いていても
付けてるときと全く変わらない心持ちです。
カオルさんの言う、バーストラウマですが、私には、苦しんだり楽しんだり、
いきいきとした人生を歩むよりも、そのために何かを見失ってしまうことになるほうが
怖かった時期があった。
今私の感じるもの全ては、私の好む好まないに関わらず全てがそろっている。
すべてについて考察できる立場に居る。それが「私」の生きてきた中での一番の成果。
私は何でも考える。すべての事象に対して、くだらないとか貴重だと決定する尺度が存在しない。
そうしていつか達観できる日が来るのだと信じている。
もとの「自分」に戻ることができるのならば、世界はまたいきいきとしたものに戻り、私は
自分の人生を生きることができるだろう。でも、そうすることによって何かを好きになり、何かを
嫌いになるだろう。関わりを深めようと思う対象が現れ、関わりを無くそうと思う対象が現れるだろう。
そういった「自分」の身勝手な行為が、いまの「私」には耐えられない。
>>354 つまりムートンは、小さい頃から甘やかされて育ち
思い通りにならないと自分が自分じゃないと言い張るのか?
最低だな
>>350 すべて NO です
思い込み激しすぎるよきみ
>349 ムートンさん
>セックスだってそうだ。相手が自分だと思っている私を、行為に及んでいる自分を、
>私は外から眺めている。
あなたが生命的接触から逃げてしまうのは、そこに自我を喪失することを恐れるからです。
>キリスト教、ではない。まあそれはどうでもいいとして、やはり屍だと思いますか?
「屍」と言ったのは、あなたの質問に「答える」お父さんの「応え方」が
実質のない形式的なものに感じられたからです。
子供のあなたが「どうして人は、人を殺してはいけないの?」と、お父さんに質問します。
このとき答えは、お父さんの「言葉」ではなく、お父さんのあなたへの「気持」のはずです。
たとえば、お父さんが、道徳は過去から継承された可能的規範の集合と考えているために、
お父さんの脳内には道徳が容易にデータベース化されているとします。
だから、あなたの質問に対してお父さんはデータベースからある可能的規範Aという言明を
取り出して即座に答えるのですが、あなたはそれを答えとしては認められません。
なぜなら、答えの実質である「応え」を感じられないからです。
つまり、データベースの可能的規範Aには、あなたへの「応え方」(気持のあり方)や
「使われ方」(気持の示し方)までは記述されていないんです。
けれども、道徳が道徳でありえるのは、それが命の命に対する配慮(気持ち)だから、
と、わたしは思っています。あなたのお父さんやおじいちゃんにはそれがないのですよ。
神に魂を売った者たち、格式を重んじる者たち、道徳の運用の仕方に熟達した者たちは、
すべからくそうですが。
>>352 ムートンさん
>あるとき・・・転校したころだったかな?覚えていない。今の世界に自分をもっと
>順応させなくてはと思った。なぜかは分からない。べつにイジメにあったわけでもない。
前思春期(6〜12才)に自我が目覚めるまでは、「世界は、ボクの世界である」
(なんて言わないし、思いもしないけれど)という状況――もちろん、ボクは、
まだ生れていませんから、そこからボクを引いた世界、「世界は、世界である」
というような“あるがままの世界”が、ただある、というような状況――にあるようです。
幼い自我が目覚めるとともに、自我は「世界の中に」「ボクを」位置づけようとします。
そうして自我は、たくさんいる人たちの中の一人にすぎないボクを眺めるようになります。
なぜか、ボクは、そこにいるムートンらしいけど、べつに隣にいるキートンでもよかった。
でも、ボクはみんなとはちがう、たくさんいる人たちの中の一人にすぎないムートンでもない、
ボクは、ボクなんだ!……などととつぶやきながら。
でも、ボクはお父さんの息子だし、世界の中のボクなのだから、お父さんが願うような、
世界に歓迎されるような、そんなボクにならないければイケナイんだ。
この「イケナイ」は、いったいどこからきてるんですか?
>ムートンさん
わたしが長々(326-329)と説明したのは、
カントが『純粋理性批判』で論じた「超越論的統覚(自我)」について、
わたしなりに表現したものでした。
また、
>>6にはヘラクレイトスのパンタレイについて書いてありますが、
それも基本、同じ理屈です。
読み返してみると、326-329がほとんど無意味な文章に思えてきたので、
少し説明を追加させてください。
というより、326-329はそもそもこれから書くのを書き直したものなんです。
だから、余計にわからなくなるかもしれませんね。
できるだけ短くしたのですが、長いです。(ハイパーなんとかではないですが)
<あなた>とは、何のことか?
いま目の前を流れる川について、本当に存在しているかどうかはともかく、
現に流れる川として表象されていることについては疑いえないでしょう。
ヘラクレイトスは万物流転を「同じ川に二度は入れない」と表現しました。
もちろん、事実上、ヘラクレイトスの弟子クラテュロスが指摘したように
「同じ川」など存在しませんから「同じ川には一度も入れない」のですが。
そうは言っても、人間には「同じ」と言えるための記憶する能力がある、
と反論されるかもしれません。けれども記憶によって保存された表象は、
それだけではそれぞれに別々な表象にすぎません。
ここでは煩雑を避けるため、仮に表象が脳内に保存される際に、
ある時間的単位「一瞬」に分節されるため、一瞬という単位においては、
表象の同一性は保証されていることにします。(なぜ「一瞬」が可能なのか
についての議論を省略するということです)
けれども、それぞれに別々の川の流れの表象の同一性が保証されても
それが「同じ一つの川の流れ」として捉えられるのはなぜでしょうか。
それは、それぞれに別々の川の流れが「同じ川」の流れの変化として
捉えられているからです。(それぞれに別々の川の流れの同一性が、
それを超える「同じ川」の同一性のもとで差異化されているからです)
しかし、いつもつねに「同じ川」が成立しているためには、
それぞれに別々の川の流れの表象が、いつもつねに同じ場所に帰属する
必要があります。そうでなければ、それぞれに別々の川の流れの表象は
「同じ川」として統合されることなく、だから「同じ川」からの変化とも
知られることなく雲散霧消してしまうからです。
わたしは、表象が、いつもつねに帰属するところの同じ場所、
あるいは、同じ場所に帰属するかのごとくに表象を纏め上げ
統合する働きを「超越論的統覚」、すなわち<あなた>
(あるいは<私>)として表現しました。
「ムートン」は、カントで言えば「経験的自我」に相当します。
しかし「経験的自我」は、今説明してきたように、
そのままでは経験に応じて、それぞれに別々のものでしかありません。
すなわち、「ムートン」の経験がそれぞれに別々のものなら、
その経験は無に等しいのです。
ゆえに、「ムートン」(経験的自我)は存在できません。
絶え間なく流動し一瞬も同じものの存在することのない世界に
同じ一人の「ムートン」(経験的自我)が存在するためには、
様々な経験を可能にするための根源的な『一』が必要なのです。
それが「超越論的統覚」である<あなた>なのです。
すなわち、経験は『<あなた>が「ムートン」である』ところに
はじめて可能になるのだと、わたしは考えているのです。
脳から心への関係には埋められない溝があります。
いくら脳を開いて観察してみても、そこに心は見つかりません。
心が脳から生れたのだとしても、いったん生れてしまった心は、
脳には還元されないからです。心は脳を超えてしまったのです。
心は脳を生みの親としながらも、みずからの原理にもとづいて
振る舞うことができる自律性をそなえているのです。
すなわち、心は脳から「創発」(※)したシステムです。
この「創発」を可能にした特異点が、脳の中の幽霊、<私>です。
<私>は、様々な現象のすべてに「ともなう」ことによって、
流動変化してしまう現象を個体のもとへと連続的に統合します。
現象の連なりが因果を把握させ、現象のまとまり「事態」の
理解を可能にし、様々な現象を個体の経験として成立させます。
個体が「だれなのか」が問われない記憶能力を有した生物においては、
経験は、個体としての生命(身体)に帰属するものと考えられます。
もちろん、人間においても帰属先が同じ一つのその身体であることは
変わらないのですが、それが同じ一人の「だれか」とはがぎりません。
※ 【創発】(emergence)とは、部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、
全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、
個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。(Wikipedia)
<私>は、流動変化する現象を経験へともたらしますが、
それが個体としての生命(身体)への帰属を超えて
「だれにもたらされるのか」を確定するわけではありません。
なぜなら、個体としての生命の経験が可能になる仕組みと、
それが「だれか」のもとへともたらされる仕組みとは、
それぞれに別の原理に基づいているからです。
心は生命に依存しながらも生命を超えたシステムなのです。
ゆえに、経験の可能性の条件である<私>が、同じ一人の「だれか」との「同一性」
たとえば、『<あなた>が「ムートン」であること』を保証するわけではありません。
「だれか」が「だれなのか」や「何人なのか」、そして「だれか」が様々な属性をもった
「私(たち)」に構成されていく仕組みは、また別のお話しです。(ラカン「鏡像段階論」など)
現象は「私」という存在者にではなく、<私>という領野に生起しています。
「私」が存在者であるということもまた流動変化してしまう現象にすぎないのですから、
その流動変化をつなげ留めて統合するための不変の<存在>が論理的に要請されます。
“それ”が、みずから存在者になることのない比類なき<存在>、すなわち<私>です。
単細胞生物は、細胞膜を纏うことで多細胞生物に進化しました。
単細胞生物の(死のない=個のない)単一世界に「細胞膜」という亀裂が走ったとき、
細胞膜を隔てて世界は「内界」と「外界」に分裂し、生命には「個」の次元が開かれ、
同時に「死」と「性」が誕生しました。
「個」の誕生は「内界」という「自己」の誕生であるとともに
「外界」という「他者」が出現した瞬間でもあります。
しかし「自他」をつらぬいて「自他」が、かつて「それであったところ」は、
いつも永遠の今に<それであるところ>として「自他」の区別なく不変です。
なぜなら「自己」も「他者」も<それであるところ>からの変化(現象)に
すぎないからです。
自己は自己が、かつて「それであったところ」との生命的同一性と
「それであったところ」からの差異性(個体性)とに引き裂かれています。
しかし、この表現における同一性と差異性は、
完了形で記号化された反復される生の現前でしかありません。
この形式化された生の現前の背景こそが、「個体としての生命」と
「個体としての生命」が<それであるところ>の<生命そのもの>との
現在進行形の生々しい生の葛藤(ふつうには、生きて在る実感)です。
わたしには、後者との関係性の遮断によって出現する存在様態が
離人症に感じられます。
わたしは、じつは<私>は、<生命そのもの>や<存在そのもの>
の次元に開かれているのではないか、と密かに考えているところです。
だから<私>の自殺とは“それ”への通路の遮断なのではないかと。
横ヤリ失礼します。
>>363の、
>心は脳を生みの親としながらも、みずからの原理にもとづいて
>振る舞うことができる自律性をそなえているのです。
>すなわち、心は脳から「創発」(※)したシステムです。
>この「創発」を可能にした特異点が、脳の中の幽霊、<私>です。
この部分の表現、特に「心は自らの原理で自律している」という部分、
唯物論者の人が聞いたら、いろいろ反論してくると思うんですけど、
貴方はどう答えますか?
曰く、
「心は自らの原理で自律はしていない」
「心は物理現象に隅から隅まで規定されているもの」
「麻薬の例、脳に障害負って以後性格が変わった犯罪者の例などで明らか」
というふうに、お決まりの文句で。
>カオル
久しぶり。元気だった?
あのスレが終わってからあなたとの話が途中で終わってたことに最近になって気付いた。
私が望む限りは付き合うと言うことなので、もし良ければ話の続きをしたい。
場所はどこでもいい。作る必要があるなら作る。どうかな?
368 :
考える名無しさん:2007/11/23(金) 16:46:15 0
バカクサw
>>366 kobahさん
まともな唯物論者が、あなたの持ち出したような「お決まりの文句」を
言い立てるとは、とても思えないです。
心は物理現象に隅から隅まで規定されているので、
自らの原理で自律することなどありえない。
この発言は「心とは何か」が、いずれ科学的に解明されるだろう
という期待にもとづいての発言なのでしょうけれど、
あたかもすでに解明されてしまったかのような言い方ですよね。
心が客観的対象になると思い込んでいるという意味では、
「心は存在する」という信念を持ってしまっているようです。
当然、自分がよって立つ科学理論の前提にたいしても
疑うことを知らないでしょう。
わたしは無責任かもしれませんが、公理の絶対性を信じていないので、
自分の考えも科学理論についても、そういう仮説の一つとして考えます。
ですから、あなたが想定したような唯物論者との議論には、
興味が湧きませんので答えないと思います。
ですが、その唯物論者が、唯物論を信じているわけでもないのに
たまたまその立場に身をおいて議論を仕掛けているのだと分かれば
答えるかもしれません。
>>367 sewへ
わたしはわたしなりに、あなたに言えることは言ったつもりです。
「どうして、カオルはsewが不幸者だと断言できるんだ!」の話しが、
まだ途中ということなら、わたしがsewに話すことは残っていませんし、
話したくありませんが、色々お話ししようということならかまいません。
でも、わたしとの会話目的だけでスレを立てるのには反対です。
sewの興味にふさわしいスレを探すか、そのような議題でスレを立ててください。
哲学については、sewとわたしでは取り組み方もちがうし興味の共有もないと思うので、
哲板にスレを立てるのには賛成できません。
わたしの考えをもう一度だけ書いておきます。
生きて在ることを肯定できない者の世界は、不幸な世界である。
生きて在ることを肯定できる者の世界は、幸福な世界である。
生きて在ることを否定したって、現実に生きて在るなら、
もうすでに幸福な世界に生きて在ることには変わりありません。
なぜなら、この世界は生きて在る者の世界だからです。
幸福も不幸も生きて在ることの上にしか成立しないからです。
でも、生きて在ることの否定は、生きて在ることで成立している世界
(幸福な世界)の否定です。
幸福な世界を否定する意志が形作る世界は、不幸な世界です。
(幸福な世界の中での相対的不幸を指しているのではありません)
sewは、言葉上は、生きて在ることを肯定しませんでした。
でも、現実には、生きようとしているし、存在しようとしています。
sewは、自我を殺して身体だけを生かしたい、そう言ってましたよね。
でも、わたしには、ほんとうはsewの心も生きていたいと望んでいる、
そのように聞こえていました。
だからわたしは、生きて在りたいのなら、それはsewの意志が決めることだ、
と言いたかったのです。sewの意志が生きて在ることを肯定し、幸福な世界を形作れば、
もちろん、それで幸福な世界の中での相対的不幸がなくなるわけではありませんが、
それでも、sew自身が自分が生きて在ることを肯定しているかぎり、
自殺を試みることもなくなるだろうし、生きていけると思ったからです。
>>370 カオル
> 「どうして、カオルはsewが不幸者だと断言できるんだ!」の話しが、
> まだ途中ということなら、わたしがsewに話すことは残っていませんし、
> 話したくありませんが、色々お話ししようということならかまいません。
私はその話をしたかったのだ。だが、私がレスするとついでに粘着もついてくるので、短期間で終わらすつもりだ。
仮に、逆にカオルから何か話があるなら、それには応じる。今はあの時の話にカタをつけるのが先決だ。
> でも、わたしとの会話目的だけでスレを立てるのには反対です。
私はkと違ってその目的のため「だけ」にスレを立ててはいない。
別スレは立てない方向にする。立てた途端、哲学板なら即座に荒らしのかっこうの的になりそうだから。
>>371 > 生きて在ることを肯定できない者の世界は、不幸な世界である。
> 生きて在ることを肯定できる者の世界は、幸福な世界である。
後者は一応のことは理解できるが、前者は、そのあとの文章を見る限りではその世界はないという風に読めるけど、そういう解釈でも良い?
いずれにしても、あなたが言う幸・不幸の世界の説明には未だ納得がいかない。
生きていることの肯定・否定とは具体的にどういうことなのか確認したい。
何故それが幸・不幸の世界に繋がるのかも。
> それでも、sew自身が自分が生きて在ることを肯定しているかぎり、
> 自殺を試みることもなくなるだろうし、生きていけると思ったからです。
それはないかな。
自分がどのような状態にあろうと生きているという実感はあるが、だからと言って自殺を試みないということにはならないよ。
本気で自殺したいときは試みると思うよ。自虐したいときも同様。自分を罵倒したり責めたりするのも同じだと思う。
ムートンはもう俺と会話をしたくないようだな
仕方ないよな物質ではムートンとしか話してないから・・・
もっとコミュニケーションが取れるようになりたい
はあ・・・頑張ろう
>>372 sewへ
>後者は一応のことは理解できるが、前者は、そのあとの文章を見る限りでは
>その世界はないという風に読めるけど、そういう解釈でも良い?
私とは別のどこかに不幸な世界があるという考えではなく、
私が生きて在ることを否定するなら、私そのものが不幸な世界、という考えです。
でも、私がそれとして生きるこの肉塊は、細胞の一つひとつに至るまで、
そんな私の事情に都合よくしたがったりはしません。
その死の瞬間まで、生きて在ることの絶対肯定を、幸福な世界を、生き抜こうとします。
>いずれにしても、あなたが言う幸・不幸の世界の説明には未だ納得がいかない。
わたしはsewに、かつての自分を見つけて、その自分に話しかけていました。
それは的外れだったんだから、納得されないのは仕方ないと思っています。
>生きていることの肯定・否定とは具体的にどういうことなのか確認したい。
死にたい、ではなく、生きたくない。
できることなら、生れなかったことにしたい。そしてもう二度と生れたくない、という意志。
>何故それが幸・不幸の世界に繋がるのかも。
わたしの体験上の勝手な区分とごじつけにすぎません。
>自分がどのような状態にあろうと生きているという実感はあるが、
>だからと言って自殺を試みないということにはならないよ。
生きて在ることを“じつは”拒絶していないから、死にたいが“じつは”生きたいという叫びであるように、
生きて在ることを否定できないばかりに、苦痛にのたうちまわらなければならなくなるのかもしれません。
>>374 >死にたい、ではなく、生きたくない。
>できることなら、生れなかったことにしたい。そしてもう二度と生れたくない、という意志。
もちろん、その意志の証明は実践にしかありません。
わたしのように死に損なってばかりのヤツは信用できません。
ほんとうは人間の皮をかぶったカブトムシかもしれないからです。
(
>>373からの続きから)
ムートンは神戸の豪邸で暮らし、毎日充実している
ムートンはリア充だ
>>374 カオル
> 私とは別のどこかに不幸な世界があるという考えではなく、
> 私が生きて在ることを否定するなら、私そのものが不幸な世界、という考えです。
ということは、今まで幸福の世界にいたあなたが、不幸の世界に入ってしまったということ?
ならば、幸・不幸の混在している世界に我々が存在しているというのと同じのような気がするが。
> わたしの体験上の勝手な区分とごじつけにすぎません。
そのような論理的に説明できないあなたの勝手なこじつけで、私を何度も不幸の世界の住人だと言ったのか?
私がそれに怒ったときにあなたが書いたあの矛盾だらけの言い訳は何だったのだ?
> 生きて在ることを“じつは”拒絶していないから、死にたいが“じつは”生きたいという叫びであるように、
> 生きて在ることを否定できないばかりに、苦痛にのたうちまわらなければならなくなるのかもしれません。
「“じつは”生きたいという叫びであるように」という断定はどこから来るのかわからないし、その後の
「生きて在ることを否定できない」というのは「生きて在ることを“じつは”拒絶していない」と同義に思えるから何を言いたいのかわからないんだけど。
> わたしのように死に損なってばかりのヤツは信用できません。
自虐しているところ悪いが、あなたが死に損ないだろうがなんだろうが、信用できない奴は信用できないよ。
> ほんとうは人間の皮をかぶったカブトムシかもしれないからです。
私は人間よりもカブトムシの方が好きだからそれもいいんじゃない?カブトムシの方がたくましく見えるし。
それに、カブトムシは死に損ないじゃないよ!(笑)
>>377 sewへ
>ということは、今まで幸福の世界にいたあなたが、不幸の世界に入ってしまったということ?
>ならば、幸・不幸の混在している世界に我々が存在しているというのと同じのような気がするが。
今まで幸福な世界(天国)にいたカオルが不幸な世界(地獄)に……ということではありませんし、
今まで幸福な心理(天国)だったカオルが不幸な心理(地獄)に……ということでもありませんし、
幸福だったり不幸だったりに見えたり思えたり感じたりする「世界の中」に「カオルが生きて在る」
……ということが言いたいのでもありません。
>そのような論理的に説明できないあなたの勝手なこじつけで、私を何度も不幸の世界の住人だと言ったのか?
>私がそれに怒ったときにあなたが書いたあの矛盾だらけの言い訳は何だったのだ?
あなたの「生きて在ることを肯定しない」発言等から、わたしは勝手に、あなたを、
わたしと同様の体験(あるいは、意志)を共有する者として、思い込み同情していましたが、
それはまちがっていたと感じている今は、同様の体験(あるいは、意志)のある者なら当然の
それについての共通の理解や問題意識(という議論の前提)が期待できませんので、
そうであるなら、わたしの議論は「わたしの体験上の勝手な区分とごじつけにすぎない」
と、あなたに理解してもらうしかないし、それが妥当な方向性だろうと判断しています。
あなたが「不幸者扱いされた」などと(勘違いをして)怒っている時点で、
わたしはあなたには自分と同様の体験(あるいは、意志)がないことを、
だから、それについての共通の理解や問題意識もないことを、
だからこそ、そのように勘違いして反応しているのだ、ということに気づくべきでした。
わたしの思い込みからくるあなたにたいする同情によって、
わたしには他の人には理解されなくても、あなたには理解されて当然との思いがありました。
ですから、理解しないだろう人にはそうするだろう言葉の表現については気遣いませんでした。
結果、理解しない人だったあなたを憤慨させてしまったことについては、わたしが悪かったです。
すみませんでした。
>>377 sewへ
>何を言いたいのかわからないんだけど。
死にたい!は、死にたい理由がなくなりさえすれば、生きたい!です。
本当は、生きていたい!という叫びです。
だから、死にたい!は、生きて在ることの否定ではありません。
生きて在ることの否定は、生きて在りたくないという意志です。
もう二度と、生れたくない、存在したくない、という意志です。
>自虐しているところ悪いが、あなたが死に損ないだろうがなんだろうが、信用できない奴は信用できないよ。
自虐じゃなくて、単なるたとえ話ですって。(^_^;)
信用できる/できないの話しではなく、原理的にその意志の存在証明は、
その実践→死の実現においてしか示されえない、ということです。
もちろん、他人からすれば、どれも「自殺」という意味では、同じそれとして理解されてしまうのでしょう。
だから、それが示されうるのはその意志の実践者のみと言えるでしょうが、自分の死を確認することは
できませんから、現実にはその意志の証明は不可能(存在しえない)ということになります。
>>376 >お前俺以外の誰かとも喋ったほうがいいよ
俺はムートンとしか話してる訳じゃない
学校では友達と会話する
余計なお世話だ
ムートンはニコニコ動画以外の趣味を見つけたほうがいいよ
(
>>380からの続きから)
ムートンがリア充な事は知ってるが
無視しないでくれ
>>380 訂正
ムートンとしか×
ムートンとだけ〇
(
>>381からの続きから)
ムートンは俺の事異常者っていうけど
ムートンは離人症だし
毎日ニコニコ動画ばかり見てるし
ムートンの方が俺より異常者だよ
タウンは池沼
>>384 >タウンは池沼
俺は普通だけど?何で池沼なのか説明してよ
>>378 カオル
あなたが何を言いたいのかわからない。
不幸な世界と幸福の世界とはそもそもあなたにとってなんなのか。それもあなた自身のこじつけに過ぎないのか。
全くわからない。
> あなたが「不幸者扱いされた」などと(勘違いをして)怒っている時点で、
何度も繰り返して悪いが、それは勘違いではなく、紛れもない「事実」だ。
あなたは私のことを不幸の世界の住人として扱っていた。それと、不幸者扱いとどう違うのだ?
> ですから、理解しないだろう人にはそうするだろう言葉の表現については気遣いませんでした。
いや、理解しないではなく、理解できないんだ。
あなたが書く理由は終始矛盾に満ちた「言い訳」だったからね。
> 結果、理解しない人だったあなたを憤慨させてしまったことについては、わたしが悪かったです。
> すみませんでした。
だから、心にもない謝罪の言葉を書かれても困るわけよ。
謝罪の次に言い訳だろう?謝る言葉なんかいらない。
>>379 カオル
> 死にたい!は、死にたい理由がなくなりさえすれば、生きたい!です。
> 本当は、生きていたい!という叫びです。
> だから、死にたい!は、生きて在ることの否定ではありません。
死にたい理由がなくなれば必ずしも生きたいになるというわけでもないと思う。なんとなく生きているって人も少なからずいると思うし。
死にたいは生きていることの否定ではない、というのがわからない。
それは生きていたくない、存在していたくない、ということではないの?すなわち、生きていることの否定に繋がると思うけど。
> 信用できる/できない〜現実にはその意志の証明は不可能(存在しえない)ということになります。
この文章は納得できますね。
死にたいということの証明は実践を以ってしかできないけれど、自分が死んだということを確認できないから、
主観的に考えれば、その証明はできない、と。
>>385 池沼じゃないにせよその粘着ぶりは基地外に近い
ここはコテが軒並みキモいな。
丁寧に全文追っているヤツの気が知れない。
それが批判的な読みであっても。
パッと字面眺めただけでウンザリしてくる。
390 :
考える名無しさん:2007/12/01(土) 13:13:17 0
ヒント:病気
391 :
考える名無しさん:2007/12/01(土) 16:34:18 0
文字を読む気にならない、頭に入らない、というのは病気ですよね
392 :
考える名無しさん:2007/12/01(土) 20:51:08 0
>>386 sewへ
>あなたが何を言いたいのかわからない。 >全くわからない。
わからなくていいです。 わからなくていいです。
>何度も繰り返して悪いが、それは勘違いではなく、紛れもない「事実」だ。
あなたにとっての事実であって、わたしにとっての事実ではありません。
>あなたは私のことを不幸の世界の住人として扱っていた。それと、不幸者扱いとどう違うのだ?
あなたは生きて在ることを肯定しませんでした。
わたしはそれを生きて在ることの否定と受け取りました。
だから生きて在ることを否定する意志は不幸な私(世界)であるという意味において
あなたという世界は不幸な世界であり、それはあなたの意志が決めていることだ、と。
また、わたしが生きて在ることを肯定する意志こそ「苦」(不幸)の根源だと考えていたこと、
だから生きて在るかぎり一切皆苦(「苦」しか存在しない)と思っていたこともお話しました。
あなたという世界が不幸な世界であることと、その世界の中でのあなたが置かれた状況
や状態が不幸者と呼ばれるだろうものであることとは、どこが同じなのでしょうか。
>いや、理解しないではなく、理解できないんだ。
もう理解されることを望んでいません。だから理解しなくていいです。
>だから、心にもない謝罪の言葉を書かれても困るわけよ。
わたしはお互い様と思っています。
>>386 sewへ
>なんとなく生きているって人も少なからずいると思うし。
死にたい理由がなければ死にたいとは思わないでしょうし、
日々刻々生きていられることの奇蹟を意識することもなく
なんとなく生きている人は日本にはたくさんいると思います。
彼らにとって生きて在ることはあまりにも身近で当り前です。
ゆえに生きて在ることの否定の契機さえ持てないでいます。
生きて在ることを無自覚に全面的に肯定しているのです。
>死にたいは生きていることの否定ではない、というのがわからない。
たとえば、苦しいから辛いから痛いから死にたいと思っている人は、
そのような生を否定しているのであって、生きて在ることそのものを
否定しているのではありません。
そのような生でなければ生きて在りたいと願うのであれば、
それは生きて在ることを否定しているのではありません。
>>391 自分の場合は読み書きが不自由になったです。会話も難しかったですよ。
>ムートン
見に来てくれてありがとうです。拙い文章しか書けない私ですがまた仲良くしてくださいね。
>>393 カオル
なにやらもう対話したくない状態なのかな?それならここで終わりにするけど。
> あなたにとっての事実であって、わたしにとっての事実ではありません。
そうだ。私にとっての事実であればそれで問題ないはずだ。
事実とは自分の中にしか存在しないのだから。
ただ、あなたが私のことを不幸者呼ばわりしていたと認識する者は私以外にもいた。
そのレスをここにあげることも出来るけど、どうする?
> あなたという世界が不幸な世界であることと、その世界の中でのあなたが置かれた状況
> や状態が不幸者と呼ばれるだろうものであることとは、どこが同じなのでしょうか。
同じだろう?
ならば、日本に住んでいる人間を日本人と呼んではいけないのか?それと同じだと思うが。
> わたしはお互い様と思っています。
ああ、あの社交辞令やら反語やらのことか。
そもそもそんなのは、相手にそれとわかってしまえば意味のないことだし、わからない状況下で使うのが普通だろう。
あの時あなたはそれとはわからなかったから、私は使っていた。
今は私にそれとわかる状況下だからお互い様とは言えないと思うよ。
>>394 カオル
> 死にたい理由がなければ死にたいとは思わないでしょうし、
> 日々刻々生きていられることの奇蹟を意識することもなく
> なんとなく生きている人は日本にはたくさんいると思います。
そうだと思うよ。だからと言ってそれが「生きたい」に直結するわけではない。
> そのような生でなければ生きて在りたいと願うのであれば、
> それは生きて在ることを否定しているのではありません。
ん〜・・・なんとなくわかったような気がする。説明ありがとうございます。
>>396の訂正
> ただ、あなたが私のことを不幸者呼ばわりしていたと認識する者は私以外にもいた。
これ勘違いでした。不幸者呼ばわりではなく、不幸の世界にいると認識しているようです。失礼しました。
それでもやはり、
>>396に書いたような理由から勘違いとも思えない。
不幸の世界にいるものを不幸者呼ばわりしてはいないというのは、日本に住む者を日本人と言ってはいないのと同じだと思うから。
例外はあっても、一般的に使われている日本語の用法・意味からするとそういう解釈にならざるを得ない。
そこを認識していただければと思っています。
>>396 sewへ
>そうだ。私にとっての事実であればそれで問題ないはずだ。
わたしはあなたにとっての事実にたいしては謝っているけれども、
あなたにとっての事実は、わたしにとっての事実ではありません。
あなたは、あなたにとっての事実が、わたしにとっても事実
であるかのように言い続けていますが、そうではありません。
終わりにしましょう。
>あの時あなたはそれとはわからなかったから、私は使っていた。
当然それとわかるだろうと思って使ったのではなかったのですか?
言っていることが、以前と違いますね。もういいですが。
>今は私にそれとわかる状況下だからお互い様とは言えないと思うよ。
お互い様というのは、そもそもはわたしが悪いけど、
あなたの反応も行き過ぎじゃなかったの、という気持ちです。
それだけあなたを傷つけてしまった(あなたは自分が傷ついたとは言わないけど)
のなら仕方ないし、そう思っていたけれども、もしかしたらそうでもなかったのかな、
という気持ちになっています。
>>399 カオル
> 当然それとわかるだろうと思って使ったのではなかったのですか?
> 言っていることが、以前と違いますね。もういいですが。
悪い。日本語おかしかったし、昨日私が書いたことも間違っていた。少し訂正する。
皮肉・社交辞令・反語などは、相手にそれとわかる時に使う場合が多い。
しかし、時として相手にそれが伝わらなくても時と場合によっては活用することも可。
すぐにそれとわかると思っていたのだけれど、あなたはわからなかったようだが、あの時は可の場合だったから使っていた。
> お互い様というのは、そもそもはわたしが悪いけど、
> あなたの反応も行き過ぎじゃなかったの、という気持ちです。
謝罪の言葉を書いた直後のレスでこんなことを書くのはあなたの常套手段だと思うが、あまりにも見え見えだ。
そもそも、あなたから言い出したことに私が反応して、それを過剰反応だと指摘する資格はあなたにはないんじゃないか?
人のことを散々不幸の世界の住人呼ばわりしておいて。
> それだけあなたを傷つけてしまった(あなたは自分が傷ついたとは言わないけど)
> のなら仕方ないし、そう思っていたけれども、もしかしたらそうでもなかったのかな、
> という気持ちになっています。
だとしたらどうなんだ?
言葉で書くのはこれが初めてだと思うが、正直すごく傷ついているし怒りも感じている。
それをここで証明しようか?荒らそうと思えばいつでも荒らせるぞ。
で、あなたは一体どっちなの?自分が悪いと思っているのか、あまりそうだとは思っていないのか。
>>400 sewさん
>あなたから言い出したことに私が反応して、それを過剰反応だと指摘する資格はあなたにはないんじゃないか?
>人のことを散々不幸の世界の住人呼ばわりしておいて。
kさんの言葉を借りて少しわかりやすく改変して説明してみます。
sewにとってカオルにとっての事実が本当かどうかは問題ではない様子。
カオルがそれを書いた理由がどうあれ、書かれたsewが気分を害すにはそれなりの理由もあろう。
不幸な世界にいると書かれてむかつくのも不思議ではない。
ただ、それを書いたカオルがどんなことを書いてきた人間かを考えれば怒りがおさまる場合もあろう。
わたしは生きて在ることを否定し続けていました。生きて在ることへの嘔吐をひたすら書き綴っていました。
kさんはそのことをよく知っていました。kさんにはsewへのカオルの説明がウソでないことがわかるんです。
「どんなことを書いてきた人間かを考えれば」というのは、それを指しているんです。
でも、そんなことはsewには考えることができないのでおかしな話しですね。
で、わたしがどんなことを書いてきたのかと言えば、いままでsewに話してきたようなことになるんです。
生きて在ることを否定している人間は、なんであれ生きて在ることを肯定した上での話は受け容れません。
(べつに否定もしませんが) だから、たとえばkさんのお話はともかくも生きて在ることを肯定している人間
に向けられているので、生きて在ることを否定している人間からは、まったく受け容れられません。
生きて在ることを否定する人間にとって、生きて在ることの否定は本質的に他人には関係のないことですが、
それでもこのような場で話すかぎりにおいては、やはり同じ思いを持つ人間には同志的な感情が芽生えます。
わたしにとっては、その相手がハルカでした。わたしは、ハルカの志を全面的に肯定していました。
生きて在ることを否定する精神こそ、もっとも真実を見つめる精神であり、だからわたしはそれを愛しました。
生きて在ることを否定する精神にとって、愛することは矛盾だけれど、矛盾は生きて在るための原動力とも
呼べるものだから、生きて在るかぎりは避けられません。あなたにたいする感情も同じようなものでした。
>>400 sewさん
>言葉で書くのはこれが初めてだと思うが、正直すごく傷ついているし怒りも感じている。
はじめて、ですね。
あなたを傷つけてしまった、そう言うとあなたは傷ついてなんかいない、と言う。
カオルなんかはじめから信じていないんだから、傷つけられたりしない、かな?
今回の件では、だから「あなたを傷つけてしまった」という表現は使いませんでした。
もっと怒らせちゃうと思っていたから。でも、傷つけたとは思っていました。
わたしの真意が伝わっていたなら、あなたが傷ついたとは思いませんが、
事実、あなたは傷つきました。傷つけたのは、わたしです。
あなたの正直な気持が聞けた今、そうでもなかった、とはもう思えません。
幸福に生きよ! = 生きて在ることを肯定せよ!
この世界の中での幸福や不幸は相対的なものです。
本当の幸福や不幸は、この世界の中には存在しないでしょう。
だからといって、この世界の外からやって来たりもしないでしょう。
「世界が、私の世界である」ならば、そこから世界が開ける原点である私が、
生きて在ることを肯定するか否かが、すなわち世界(私)が、幸福な世界(私)なのか、
不幸な世界(私)なのか、を決定付ける、というのがわたしの考えです。
わたしが生きて在ることの肯定と否定を幸福と不幸に準えるのはどうしてか言えば、
やはり体験上の区別を出来合いの言葉に結び付けたとしか言いようがありません。
ここで具体例を挙げれば誤解されるだけでしょうが、それでもあえて書いてみます。
適当でない例のような気もしますが、誰にでも想像可能な体験を選んでみました。
「オーラの泉」というオカルト番組で、ゲストのアグネスチャンが
人生の転機についてのエピソードを話していました。
それは24時間テレビでアフリカの飢餓で苦しむ子供たちのところに
行ったときの体験談でした。
アグネスは事前にスタッフに注意されていました。
子供たちにふれると病気に感染するので絶対にさわらないように、と。
アグネスは、そのような状況で自分には何ができるだろうかと考えました。
そこで彼女は現地の言葉で自分の歌の替え歌を作っていくことにしました。
アグネスが現地に到着すると、そこには骨と皮だけの子供たちが横たえていました。
ボランティアで来ているとはいえ、彼女が子供たちにふれることは禁じられています。
彼女にできることは、子供たちに歌ってあげることしかありませんでした。
アグネスは自分に許されているそれ、番組の企画を実行することにしました。
そうするとどうでしょう。
立つことさえおぼつかない骨と皮だけの子供たちがいっせいに立ち上がり、
体いっぱいに喜びを表現し、満面の笑顔でアグネスに応えてくれたのです。
予想外の反応に戸惑う間もなく、その瞬間、アグネスの心は幸福で満たされました。
子供たちがかわいくて愛しくてたまらなくなり、彼らを思いっきり抱きしめました。
病気に感染して死んだってかまわない。それでも私は幸せ!、と。
アグネスの幸福感は、自分も子供たちもそのことにおいては一切の区別なく
まったく同じそれであるところの、命が「生きて在ることそのもの」の次元で
自分と子供たちとが一つに繋がった瞬間の歓喜(絶対幸福)だったのでしょう。
より純化した体験においては、それは生きて在ることの絶対肯定になるでしょう。
個体としての生命がそれにおいてあるところの命そのものに自己を見出すとき、
それは他者において自己を見ているに他なりません。
子供たちが生きて在ることと自分のそれが同じ事態として自覚されるのです。
これは言葉によって、その真実を説明することのできない境地であって、
その体験がないとわからないことかもしれません。
生きて在ることそのものとは、個体としての生命がそれにおいてある場所であり、
個体としての生命がそこへと還る場所(死)であり、意志(生命そのもの)です。
たとえば、フロイトはその意志を「死への本能」(タナトス)と呼び、
ショーペンハウアーは、生への「盲目の意志」と名付けました。
前者は「死へ」、後者は「生へ」と、それぞれに相反するベクトルを
示しているように見えますが、そうではありません。
個体としての生命がそこへと還る場所(死)は、
そもそも個体としての生命がそれにおいてある場所であり、
個体としての生命がそれにおいてある場所は、
すなわち、盲目の意志である生命そのものなのですから、同じなのです。
(だから、フロイトが「生への本能」と「死への本能」とを区別したのは、
まちがっていると、わたしは思います)
生きとし生けるものは、生きていること(生命そのもの)において、
存在しているものは、存在していること(存在そのもの)において、
まったく同じなのです。
生きて在ることの否定とは、個体としての生命である人間が、
その超越(精神)において、私が私として私でありうることを可能にしている
「生命そのもの」「存在そのもの」を否定することに他なりません。
幸福や不幸とは何か、と問いかけてみても、
世界の中にそれは見つかりません。
世界の中では、すべてはあるようにあり起るように起こります。
だから、世界の中に幸福や不幸は存在しません。
幸福だったり不幸だったりするのは、意志する私です。
幸福や不幸は、私によって、はじめて可能になるけれども、
私は、世界を形作る枠組みであり、世界の中には存在しません。
ゆえに、世界の中に幸福や不幸は存在しません。
世界は、私の世界であり、私は、生きて在る世界の前提です。
生きて在ることを肯定する私(意志)は、幸福な私(世界)です。
生きて在ることを否定する私(意志)は、不幸な私(世界)です。
幸福な私(世界)と不幸な私(世界)は、別の私(世界)です。
それでもまあ、タンスの角に小指をぶつけると痛いんだな。
409 :
k:2007/12/06(木) 14:18:05 0
いつまでやってんだか
>>401 カオル
> ただ、それを書いたカオルがどんなことを書いてきた人間かを考えれば怒りがおさまる場合もあろう。
これね、あなたが今まで慇懃無礼な態度でレスを書いてきた、ということを指しているのだと思っていたの。
その真意はkに聞かないとわからないけどね。
> でも、そんなことはsewには考えることができないのでおかしな話しですね。
わかっていても許せないんだよ。わかるか?そういう気持ちが。
あなたの主張の主となるものは理解できているつもりだ。
過去にカオルは生きて在ることを否定していた。だが、それが今は肯定している。
私は否定したことも肯定したこともないが、あなたの物差しで物を語ると、私は生きて在ることを否定しているということ。
生きて在る事の肯定・否定の主張もあの段階で理解できているつもりだったんだよ。
より具体化された方がわけがわからなくなるくらいに。
>>402 カオル
> あなたを傷つけてしまった、そう言うとあなたは傷ついてなんかいない、と言う。
> カオルなんかはじめから信じていないんだから、傷つけられたりしない、かな?
信じていない相手でも「不幸の世界にいる」と連発されたら傷ついても不思議ではないと思うけど?
> わたしの真意が伝わっていたなら、あなたが傷ついたとは思いませんが、
> 事実、あなたは傷つきました。傷つけたのは、わたしです。
その真意というのは、恐らくあなたが言う生きて在る事の肯定・否定というものだと思うが、
もしそうなら私が以前からいうように、私はそういうものの定義を必要としているのではなく、何故私が不幸の世界にいるのかの理由がほしかった。
説明したとあなたは言うが、説明にはなっていないんですよ、納得するのは愚か理解できるような説明にすらなっていない。
仮にあなたの真意というのがわかっていたとしても、「不幸の世界にいる」というのを連発した時点でそれは言い訳にしかならない。
>>409 トリップがないから偽者だろう?本物はトリップ使ってるんだよ。
君はいつまで他人のコテを騙って粘着しているつもりなんだ?w
最低でも、他人のコテに隠れてレスすることは卒業しようよ。
メンヘラを煽っちゃいかん
煽りには無視しろって言われそうだけど、一応返事だけ
>>413 誰にとってどのように良いのかな?w
お前が私を殺せば済むことだろうw
>>414 良いこと言った!
メンヘラがメンヘラを煽ったらいかん
>>408 >それでもまあ、タンスの角に小指をぶつけると痛いんだな。
誰が痛いのでしょうか?
タンスの角に小指をぶつけるたびに、
痛い!と声をあげる誰かが、
いつも同じ誰かとは決まっていないような場合とか、
痛い!と声をあげている誰かを
後ろ斜め上あたりからながめていて、
痛みのクオリアが感じられないとか言っている誰かがいたりだとか、
そういうことでもないかぎり、
タンスの角に小指をぶつけると痛い誰かは、
たぶん、私、なのでしょうね。
でも、その私って誰ですか?
>>410 sew
>わかっていても許せないんだよ。わかるか?そういう気持ちが。
わたしにどうしてほしいのか、はっきり言ってみたらどうですか?
>あなたの物差しで物を語ると、私は生きて在ることを否定しているということ。
わたしはあなたの書き込みを見ていて、生きていることを否定しているように感じた。
あなたに聞いたら、生きていることを肯定しなかったので、それを否定と受け取った。
それがまちがいだった。それがわかったから、わたしはもうあなたには興味がありません。
>>411 >信じていない相手でも「不幸の世界にいる」と連発されたら傷ついても不思議ではないと思うけど?
ほんの少しであっても、あなたはわたしを信じてしまった。そのわたしから不幸者扱いされた。
だから、傷つき怒った。わたしは、あなたがそう感じていると思ったから、あなたに謝りました。
たとえあなたがわたしを微塵も信じていなかったとしても、それはあなたの信念どおりだし、
信じるとしても、後で傷つかないために、裏切られるのを覚悟してから信じる、というのが、
あなたのやり方ではなかったのですか。
たしかにわたしは説明のために同じ表現を何回も使いましたし、今回も使っていますが、
わたしの考えや思いを、あの段階?で理解しているはずのあなたが、どうして同じ表現
の繰り返しに傷つけられてしまうのでしょうか。
>何故私が不幸の世界にいるのかの理由がほしかった。
あなたはわたしの考えを理解した上で、自分が不幸な世界にいると思っているのですか?
そうではないでしょう?
アグネスのお話しは幸福についてのものでしたが、その反対があなたにわかるのですか?
わかるのなら説明してみてください。
それから、もしもあなたがわたしの考えを理解しているのなら、不幸な世界に「いる」
という表現について、どうしてツッコミがないのか疑問です。どうしてですか?
>>417 カオル
> わたしにどうしてほしいのか、はっきり言ってみたらどうですか?
ムリな注文だけど、前言撤回のようなことがあなたには多すぎるので、それをなくしてほしいかな。
> それがまちがいだった。それがわかったから、わたしはもうあなたには興味がありません。
ああそう。それは残念だなw
私はあなたにまだ、わずかではあるけど興味を持っている。
> たとえあなたがわたしを微塵も信じていなかったとしても、それはあなたの信念どおりだし、
> 信じるとしても、後で傷つかないために、裏切られるのを覚悟してから信じる、というのが、
> あなたのやり方ではなかったのですか。
私は機械ではないんだよ。全て論理的でないと気が済まないか?
私は今現在において0と100の世界には住んでいない。これははっきりと言える事だ。
人間、完璧には出来ていないものだよ。
> わたしの考えや思いを、あの段階?で理解しているはずのあなたが、どうして同じ表現
> の繰り返しに傷つけられてしまうのでしょうか。
そういう意味での理解しているじゃないの。
私に当てはめて何故不幸の世界にいるのかの説明を求めた。理解できないのがここ。
あなたが言う幸・不幸の定義は抽象的にではあるが理解しているつもりだった。
> アグネスのお話しは幸福についてのものでしたが、その反対があなたにわかるのですか?
わからないし、知らないし、考える気にもならない。
お偉い哲学者の言葉引用したり、他人の体験したことを用いたりしてご苦労だな。
何度も書いただろう?あなた自身の言葉で説明しろと。事例など今はどうでもいい。
> それから、もしもあなたがわたしの考えを理解しているのなら、不幸な世界に「いる」
> という表現について、どうしてツッコミがないのか疑問です。どうしてですか?
は?意味がわからないんだけど。
間接的にではなく、直接言えばいいじゃないか。sewはカオルの言っていることを理解できていないと。
それに対する反論もすでに用意していることだしさ。言ってごらん。
醜いスレになってるなw
>>418 sew
>ムリな注文だけど、前言撤回のようなことがあなたには多すぎるので、それをなくしてほしいかな。
まちがっていれば撤回するし修正します。当り前のことです。
>私はあなたにまだ、わずかではあるけど興味を持っている。
わたしはあなたから得るものは何もありません。あなたも同様でしょう。
>私に当てはめて何故不幸の世界にいるのかの説明を求めた。理解できないのがここ。
何回も説明しました。わたしにはあなたの本当の気持なんかわからないから、
わたしはあなたの言葉から、あなたのことを想像しながら話すしかありません。
あなたは自殺を試みていたし、そのような状況でのわたしとの会話の中で
生きていることを肯定しなかった。
だから、あなたは生きていることを否定している、と思い込んでしまったのです。
つまり、あなたにそれ(生きていることを否定している)を当てはめてしまった。
それがまちがいだったとわかったので、「生きていることを否定しているから」は、
もう「なぜ」の答えにはなりません。
>わからないし、知らないし、考える気にもならない。
だったら、もう話すことはありません。
>は?意味がわからないんだけど。
あなたという世界が不幸な世界であることと、その世界の中でのあなたが置かれた
状況や状態が不幸者と呼ばれるだろうものであることとは、どこが同じなのでしょうか。
同じだろう?
「同じだろう?」では、意味がわからなくて当然です。もうあなたに説明しようとは思いません。
>>420 カオル
> まちがっていれば撤回するし修正します。当り前のことです。
あなたが言ったことに言及しようとすると、(間違いとかわからないうちに)訂正とかされるんだけどw何故かな?
> わたしはあなたから得るものは何もありません。あなたも同様でしょう。
まだ結果出てないからなんとも言えない。少なくとも今までのあなたとの対話の中で得るものは少なからずあった。
> 何回も説明しました。わたしにはあなたの本当の気持なんかわからないから、
> わたしはあなたの言葉から、あなたのことを想像しながら話すしかありません。
あのね、私はあなたに何度も言ったよ、自分は不幸の世界にも幸福の世界にもいないと。
幸福でも不幸でもないと。
それが本当の気持ちといわずになんというんだ?
> それがまちがいだったとわかったので、「生きていることを否定しているから」は、
> もう「なぜ」の答えにはなりません。
そうだね。それであなたは私のことを幸福の世界の住人と言った。
私からしてみれば、とことん逃げの姿勢を見せ、なおかつ保身としか思えない言い訳に見えた。
> だったら、もう話すことはありません
他人の言動を利用せずに自分の言葉で対話することを覚えなさい。話にならない。
仕事が順調になってくると不安でいっぱいになることってない?
順調すぎるのはおかしい、って
ちょっと落ち着いてから、今までのレスを読もうと思います。
sewとカオルが何のやり取りをしてるのか気になる。
424 :
きらい:2007/12/11(火) 22:45:15 O
順境を受け入れ難い時は、失望と焦りと無力感を感じる
425 :
考える名無しさん:2007/12/12(水) 18:52:55 0
>>422 >仕事が順調になってくると不安でいっぱいになる
失いたくないものがあるとそうなる
その不安、失ってもいいと覚悟できれば消える
欲深いのよおまえの本質はw
俺は空気を読める
ムートンにあぼんされてない
だから来た
427 :
考える名無しさん:2007/12/15(土) 22:58:07 0
理解を示せばつけあがる
率直に指摘するとへそを曲げる
これ離人症とかいう話じゃないとおもうw
>>421 sew
もう会話したくないので終わりにします。
>>423 ムートンさん
>sewとカオルが何のやり取りをしてるのか気になる。
彼女への返答とは独立して、
あなたに向けて書いてきた内容に関連づけられるように
意識しながら書いていましたので、時間があるときに説明してみます。
また、疑問などあらかじめ質問していただければ答えたいと思います。
>>428 カオル
わかりました。これで終わりにしましょう。
>>429 >時間があるときに説明してみます。
やっぱりやめておきます。(ムートンさんが興味があるようなら説明しますが)
ところで、ムートンさんは、フロイト、ラカン、ウィトゲンシュタインなどを読まれて
どのような感想をお持ちなのでしょうか。よろしかったら聞かせて頂けませんか?
わたしとしては、ムートンさんの読書に合わせてお話できるつもりでいるのです。
そんなに生きている意味が大事?
みんな生きるのが好きなんだね。
>わたしとしては、ムートンさんの読書に合わせてお話できるつもりでいるのです。
どんだけ傲慢なんだよこいつ
434 :
考える名無しさん:2007/12/25(火) 10:02:51 0
ムートンは混迷を深める一途
出口を探して読書だ哲学だとむやみに「仮の視点」を増した結果
一見視野の広がりじつは支点の喪失なのに気付かない
首をひねって沈思黙考つ〜か茫然自失なのよ
タウンは本当はいい奴だよ
437 :
哲学者(´-ω-):2008/01/04(金) 11:32:11 O
わたしが犯人です
お久しぶりです。
今までタウンというコテに付きまとわれて、解決のために
色々やりとりをしてきましたが、タウンはもう私に飽きたようです。
彼は私と会話をしたかったようですが、私は彼に対して会話でなく分析を試みました。
それが彼には嫌だった様子。裏切りのように感じたのかもしれません。
彼と会話をしようとしたことはある。けれども彼の対応が私には受け入れられなかった。
彼は私の心のどこかをかき乱す何かを持っていた。
それが嫌で会話をやめ、彼がどういう人間なのかを分析しようと思った。
付きまとわれることはなくなりました。もうこのスレにも来ないそうです。
わけも分からず付きまとわれ、わけもわからず離れられる。
その理由に対する納得のいく答えは、結局見つからずじまい。
いつだってこんな体験の繰り返しの人生だった。
おそらく、私は人間として最低なんだと思う。人の心なんて、
分かったような顔をしてまるで分かっていない。何も分からない。
440 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 01:40:32 0
>>439 >私は人間として最低なんだと思う
ムートン、人間などいないのよ、「人間」などという生き物は
いるのはね、おまえとか俺とか斉藤一郎とか山口百恵なのよ
馬鹿じゃないんだからもう分かったろ?
いいか、一般化するのをやめろ
事物は個々でしか在り得ないのよ個々でしか
抽象化、分類、一緒くた、百派一からげ・・全部やめろ
政治家目指してるわけじゃあるまいし
馬鹿かおまえは
441 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 02:42:52 0
>>439 >おそらく、私は人間として最低なんだと思う。人の心なんて、
>分かったような顔をしてまるで分かっていない。何も分からない。
たしかに人の心は分からない。
だから、分かったような顔をしなければ大丈夫w
だれだって、試行錯誤している。
僕は最近マッサージ店で知り合った台湾人の女性と付き合っているんだけど、
僕も彼女の気持ち、わからないよ。
いつも買い物してあげてるから、本当に僕と会いたくて会ってるの?
っていう疑問にずっと悩まされてた。
だから僕は彼女の気持ちを確かめるために、早くHしようと焦っていた。
一緒に寝れば彼女の気持ちがある程度はわかると思ったからね。
でもなかなかHさせてくれないんだよ。
だからこの前、僕は業を煮やしてカラオケボックスで彼女のパンツを無理やり下ろしちゃったよww
無理やりっていっても、その時僕はパンツ下ろしてたし、彼女もオッパイは出してたんだよ。
だから僕としては自然な流れだったんだが、思いがけず抵抗されたんだ。
だから無理やりになってしまった。
彼女が本気で怒ってたから、それ以上はできなかったけどね。
つまり僕はまだ彼女とHしていないということだww
でも、僕は悟りました。
彼女の気持ちを確かめようなんて思っていた僕が愚かだった。
彼女を愛しているなら、僕はただシンプルに彼女を愛せばいい、
それでうまくいかなければ、2人の関係はそれだけの関係だったと諦めればいい。
そういう当たり前のことに気づきましたよ。
彼女の気持ちを確かめようなんて思うから、自分が動揺してしまうんだ。
まず、自分がしっかりと立っていることが大事なんだ。
人間関係は、関係である限り、自分が変われば相手も変わる。
自分が大きな気持ちになれれば、相手もそれに答えてくれるはずなんだ。
きっと彼女は僕の気持ちに応えてくれる。僕はそう信じている。
442 :
441:2008/02/03(日) 02:59:56 0
日本人女性と比べると、中国人や台湾人の女性はなかなかHさせてくれないって
何度か聞いたことがあるけど、本当かもしれないね。
もちろん個人差はあるだろうけど。
個人的には、台湾人の美人はほんとうに綺麗だと思うよ。
僕はめったに一目惚れはしないほうなんだけど、今回は一目惚れだったな。
443 :
考える名無しさん:2008/02/03(日) 09:34:28 0
>人の心なんて、
>分かったような顔をしてまるで分かっていない。何も分からない
イルカや鯨って超音波発信して自分を知らせるじゃん?
発信すれば反射が返って来る
つまり自分を知らせるのが他人を知るための手順・手がかりなんだが
案外これをみんな知らない、つ〜か教わらないから当たり前なんだが、、、
自己開示というんだが、他人を知ろうと思ったら先に知らせろ!ってことなのよね
他人がいい加減な見当で見透かしてくれる(誤解)のを待ってないで
脳を見せるわけよ、正しく知らせるってこと
とりわけ「自分がどうしたい」と思っているのか「相手にどうして欲しい」を伝えるの
が大事、、「自分を知る」ってことの意味はそれなんだが
ムートン、おまえヒトを知りたいんじゃなくて「知ってもらいたいんだろ、自分を?」
知らせるものが何もない気がする。
強いて言うなら、自分の中身が空虚だということを
知ってもらいたい願望があるのかな
自分は色々なものをコピーして身に付けてきたけど
実情は何も形成せずに生きてきましたよ、と
生き生きとした人に、多少ひがみっぽい感情をこめて。
「自分を持っている」人を恐れ、軽蔑しているのかもしれない
誤解という言葉が出ましたが、確かにそれを誘導して生きている自覚はある。
しかし誤解してくれたらそれはそれで、また失意に沈む。私の空虚さを
無視されていることになるから。そんなジレンマの中、毎日暮らしている。
これが私の情報開示。自己など元々存在しない。
たとえ個人に生まれもった嗜好性の違いがあろうとも、それを演出するのは
いつだって作り上げたコピーだ。
そして相手に求めるものは、自分を持っている人に
それがどこまで行ってもコピーにコピーを重ねたものでしかないことを知らしめ、
自覚をしてもらうこと。「自信を持って」いる人に対する恐怖から逃れるため。
何故こんなことを思うのか、考えるのか・・・書いてて気分が悪くなってきました。
今書いたことは深層心理を意識したので
自己分析としては核心に迫る努力をしたつもりです。
これは世間一般では統合失調症と呼ばれるものに近いんでしょうか?
>>441 >彼女の気持ちを確かめようなんて思っていた僕が愚かだった。
>彼女を愛しているなら、僕はただシンプルに彼女を愛せばいい、
>それでうまくいかなければ、2人の関係はそれだけの関係だったと諦めればいい。
>そういう当たり前のことに気づきましたよ。
何を考えているか分からない相手には、自分が投げたボールに対して
相手がどう反応するのか、その世界だけが全て、というわけですか。
いちいち分析しようとしてしまう自分は、捨て去ったほうがいいんですかね・・・
どんなに自信もった人でも統合失調症の人でも金持ちも貧乏も
男前も美人も不細工もデブでも痩せでも
悩んで生きていく人もノーテンキに生きていく人も
たった何十年かで死んでしまうんだなあ
消えてなくなってしまうんだなあ
寂しいなあ
447 :
考える名無しさん:2008/02/04(月) 10:01:19 0
>>446 >たった何十年かで死んでしまう
↑
比較して嘆くバカw
1億年生きたところで9000兆年に較べりゃたった’1億年なのよ
>>447 比較してるんじゃないんだよバカ
結局、全てはいつか消えてしまうってことなんだよバカ
>>448 「たった」という語句が比較の語句でないとおまえは言うんだが
じゃ何?「たった」って?
未練がましく較べては嘆くイモムシにしか見えないんだがな・・わっはっはw
451 :
考える名無しさん:2008/02/04(月) 16:57:32 0
よくかっこいいね とか 男前だな とか 整った綺麗な顔だね
とか言われる
自分でも女に好まれそうな顔してるな と思う
しょっちゅう告白や食事に誘われる ノーと言うのが苦手な、押しに弱い俺は
ついつい良い顔して食事にいってしまう
彼女にしてって言われれば はい って言ってしまう
当然、修羅場ばかりの日々である
この苦悩、もてないおまえたちにわかるか? わからんだろうな
452 :
考える名無しさん:2008/02/04(月) 19:12:47 0
>>451 >わからんだろうな
いや、よくわかるぞ
隣の病棟はそういう連中でいっぱいだ
ナポレオンの名札付けてるのとか竜馬の生まれかわりを言い張るヤツとか、、、
今夜、就寝前の薬飲むの忘れるな♪
453 :
考える名無しさん:2008/02/04(月) 20:01:01 0
>>452 ん?? ナポレオンや坂本龍馬のコスプレかなんかがモテルってことか?
454 :
考える名無しさん:2008/02/04(月) 21:57:06 0
ヒント:朝から晩まで嘘の修羅場
455 :
441:2008/02/04(月) 22:28:18 0
>>445 >何を考えているか分からない相手には、自分が投げたボールに対して
>相手がどう反応するのか、その世界だけが全て、というわけですか。
それは僕の考えとはちょっと違う。
僕が思ったのは、相手がどう反応するかなんて気にせずに、
自分がいいボールを投げることに集中しようっていうこと。
いいボールが投げられなくてもいいから、
とにかくただ、しっかりと投げようということ。
自分なりにだよ。人との比較じゃなく。
>>444 「コピー」の意味がはっきりつかめないけど、
コピーならコピーなりに、しっかり投げればいい
人と比較しても無益だから。
みんな違う地盤に立っているんだからね。
>それがどこまで行ってもコピーにコピーを重ねたものでしかないことを知らしめ、
それが楽しいといわれたらそれまでのことだからな。
逆にいえば楽しめない自分と楽しめる他人を比較して劣等感を感じてしまうというところか。
事実を楽しむ楽しまないは気持ちの問題であって理論の問題ではないからね。
何かが楽しい理由を追い詰めることはできるし、詰まらん気色悪い理由もあるかも知れんけど、
それを、わざわざ追い詰める目的は理論ではなくて優越感や劣等感などを求める気持ちだろ。
コピーって「自分の’じゃない」の意だろ
他から自分の脳に入って来るその直前までは確かに「自分の’じゃない」んだが
我が脳がそれを受信し、百数十億個の細胞で咀嚼して記憶にまで至らしめた
時点においてはもはや「自分の’」なのよ
当然自分のオリジナルとしてアウトプットされて世に出るんだが、、、
一見何ひとつ手を加えられておらず、同じ音で同じ読みだとしても
その言葉や概念は我が脳を経由した瞬間に我が意味’を加えたものであり
外に出るときには我が意を込めた特別なものとなる
ゴッホやセザンヌが北斎をどう真似ようがゴッホの絵筆の先から出るシグナルは
ゴッホの’でしかないのよね
それを真似事と捉えてしまうとゴッホはゴッホでなくなり
自分はたちまち存在を失うわけだが、、、
なんつーかな。自分向けの自分、自分の理想像を構築しつつ自分を鍛えていくのは
基本的に楽しいと思う。勿論、他人向けの自分も大切だし大変だが、自分向けの自分を
片手にバランスをとった上での話ではなかろうか。
自分の材料は方々に探せるが、結局自分は自分で作るしかないと思う。
460 :
考える名無しさん:2008/02/11(月) 22:52:59 0
>>459 >自分は自分で作るしかないと思う
そこが大間違い
自分はもうできてる
作る必要はない
せっかくの自分を駄目にしたければ作るのもいいが
作る=壊す、、になる場合がほとんどだぞ
ドン引きさせてしまったでしょうか。
いきなりすみませんでした。自分、テンパってたかもです。
メールはいいです。忘れてクレヨン。
>>455 >いいボールが投げられなくてもいいから、
>とにかくただ、しっかりと投げようということ。
ある人に言われたことを思い出します。簡単なことを、難しく考えすぎだって。
単純なことは単純にすればいいと諭されました。
>>456 ある「楽しいこと」があるなら、それよりも「もっと楽しいこと」もあるはずであり、
それを求めていくのが自然で当然で必然なのだという考えで生きてきました。
その時点で私は既に優劣に囚われた価値観を形成してきてしまったんでしょうか?
>>457 「北斎を模倣したゴッホ」という価値が新たに生まれるということですかね。
問題は、「模倣した」という部分に卑しさや劣等感を感じるか否か。
自分がゴッホなら、おそらくそれに耐えられないと思います。こうして自己分析
してみると、私は異常なほどプライドが高いのかもしれません。
>>458 精神科って・・・俺に何か原因が?何か責任を感じるんだが。
ウサギがどんな問題を抱えてるのか、実は俺はそんなに知らない。
興味本位で聞くことでもないし、何か相談に乗れるほど寛容でもないと思う。
それでもよければメール送るよ。
>>459 理想の自分像があるとして、それに向かっていこうとすると、私の場合必ず
その時々の環境がそれを阻みました。どうしても理想と現実の折り合いが
付かないようなのです。自己の育成は全て他人の手にかかっているのではないかと
思えるほど、環境の前では自己は風に吹かれるまま、流されっぱなしです。
密度が違いすぎるんでしょう。
まずは自己と他者との間に折り合いをつけることが先決なのかな、と
今では思っています。
>>461はもう見てないのでは?
メールする気があるなら直接それ書いて送ったほうが・・・
いや昔の二人を知ってるものでw
なんか色々すみません。ようやくメール送りました。
スレの方向性がよく分からなくなってきましたね。
自分が存在しないと思うのは、単に自分から逃げているだけ
という可能性もあると、近頃思います。自分の人間臭さが嫌で、
それを人に認知されるのが嫌で、奥深くに閉ざしてしまったのかもしれない、と。
しかし今、元々の自分を全く思い出せないのは事実なので、
自分の人間らしさを大嫌いな自分が、もしかしたら本当の意味で
最も我の強い自己なのかもしれませんね。
>>464 ムートンさん
>自分が存在しないと思うのは、単に自分から逃げているだけ
>という可能性もあると、近頃思います。
>自分の人間臭さが嫌で、それを人に認知されるのが嫌で、
>奥深くに閉ざしてしまったのかもしれない、と。
>しかし今、元々の自分を全く思い出せないのは事実なので、
(哲学っぽくないとらえ方の例として)
単に自分(身体)から逃げているだけ、という可能性もあると思います。
自分の人間臭さというのは、獣のとしての利己的遺伝子−身体的自己
の欲望に支配された心理的自己の思いや振る舞いになるでしょうか。
心理的自己はそれが嫌だったので、利己的遺伝子−身体的自己の情報を
心理的(言語−脳的)に遮断してしまった。つまり、利己的遺伝子−身体的自己
の欲望を受け止め悩み葛藤するだけの強さを持った心理的(言語−脳的)自己が
いまだ確立されていなかったため、葛藤による心理的自己の崩壊を避けるために、
それ(利己的遺伝子−身体的自己)から逃げるしかなかった、とも考えられます。
元々の自分を思い出せないのは、心理的(あるいは社会的)自己の誕生が、
発生論的に溯れば、いずれは無に至る後発の出来事だからかもしれません。
デカルト的二元論を想定しなければ、元々そんなものはなかったのだからです。
カオル、最近kどうしてるか知らない?
>>465 利己的遺伝子-身体的自己が、心理的自己を後発的に作り出した?
まあ、誰しも心理的自己を持ってはいるでしょうが、
私の場合、それが身体的自己を如何なる時も完全に抑えこんでしまうのは
心理的自己の弱さゆえなのでしょうか?
私は様々な状況において、自我(身体的自己)を解放したらどうなるかと
しばしば想像するのですが、その想像はほとんど、最終的に自己の破局を映し出します。
心理的自己にとってはそれが怖く、また身体的自己と対等な関係を築く力も
持ち合わせていなかったので、事実上、身体的自己を下位に持っていくことで
完全に口を塞がせ、自分の半分を偽るしか無かったのかもしれません。
それが、今のこのちぐはぐな人間を形成していくに至ったのでしょうか・・・
独断で今の問題点を整理すると
1 なぜ私の心理的自己は、健常者に比べて弱い(臆病な)のか?
2 身体的自己の解放がなぜ破局へのイメージと繋がるのか?
3 心理的自己と肉体的自己は、どのような関係であることが理想なのか?
>>467 ムートンさん
>利己的遺伝子-身体的自己が、心理的自己を後発的に作り出した?
遺伝子という設計図に基づいて作られた脳が(言語の習得によって)
心を産み出す、という世間一般に流布している仮説に拠れば、です。
>私の場合、それが身体的自己を如何なる時も完全に抑えこんでしまうのは
>心理的自己の弱さゆえなのでしょうか?
私たちは、人生の快楽については、それを受け止めようとします。
しかし、あまりの快楽のために、それが受け止められないこともあります。
あまりの嬉しさに、喜びの「実感が湧いてこない」というような場合です。
同じように、人生の苦痛については、それを拒もうとしますが、
あまりの苦痛のために、それを拒みきれないことがあります。
たとえば、愛する人の死、悲惨な事故の目撃など、
心がそれを拒みきれないとき( = 受け止めきれないとき)、
それらの苦痛に対して「実感が湧いてこない」というような場合です。
このようなとき、私たちの心理状態は離人症状に酷似しているようです。
たとえば、愛する人の死であれば、言語に翻訳された場合には
「悲しみ」として受け取られるような、脳内の神経活動(情報)の拒絶、
ということになるのでしょうが、情報を受け止めきれない(弱い?)脳と
受け止めきれる(強い?)脳との器質的な違いとして考えて良いのか
どうかについては、よく分かりません。
>理想の自分像があるとして、それに向かっていこうとすると、私の場合必ず
>その時々の環境がそれを阻みました。どうしても理想と現実の折り合いが
>付かないようなのです。自己の育成は全て他人の手にかかっているのではないかと
>思えるほど、環境の前では自己は風に吹かれるまま、流されっぱなしです。
それは程度の差はあれ誰にでもありうることだからな。ただ、
周囲に従う振りをしてでも自分で構築する部分を確保する狡猾さというものを、
程度の差はあれ、それなりに多くの人が持っていると想定することはできる。
そもそも、自分の全領域を自分だけで育てた奴なんかありえないだろう。
君が一般的な人が確保するものまでも過剰に放棄したのだとして、
それが全て環境のせいであるか、ある部分は君なりの目的によるものかは、
君が君なりに把握するものだろう。
主体性というのは周囲と隔絶するのではなく、
周囲に絶対振り回されまいとばかりするのでもなく、周囲をかき乱してばかりいるのでもなく、
自分自身の育成にあって、周囲を活用していく要素もいくらかは持つ努力や工夫をしている
ということだと思うがな。
身体的自己の開放といっているけど、
普通は身体的自己と触れ合う時と場所があり
それらを制御する努力をしているというところではないかな。
開放も封印も過激すぎて無理があると思う。
それらは習熟でも卒業でもないし。
<離人のメカニズム>
私の場合離人は、ここは私にとって快適な場所ではない、ここにいたくない、
この場所がもたらす五感への刺激を自分のものとして受け取るのが辛い、
と感じるような状況下で起きる。
私は基本的にセンシティブだ。五感が鋭いというやつ。
どんな刺激もいっぱいに感じとって、
その感覚の断片がまた過去の記憶にイモヅル式につながっていったりしやすい。
そんなふうにしてあまりに大量の情報が一度に押し寄せると、
脳の神経回路がそれを処理しきれず、ショートして気がおかしくなってしまう。
緊急手段として、もうこれ以上の刺激が入ってこないように
感覚器と脳の神経回路の繋がりを遮断してしまうのだ。
パソコンがフリーズするときのことを思い浮かべてほしい。
あまりにたくさんのアプリケーションを同時に作動させていると、
だんだんハードディスクが熱をもってきて、
限界を超えるとフリーズしてビクともしなくなるでしょう。あれと全く同じ。
――――Chai 『時には哲学の話を』より
http://indigo66.jugem.jp/?cid=1
<離人の原因>
トラウマティックな出来事が、離人のクセがつく原因になるらしい
ということが言われている。だいたい当たっていると思う。
人によって、生命が危険にさらされるような災害や事故であったり、
性的虐待であったりするけれど、
私の場合、これだと思うのは、小学4年のときの担任の教師からの虐待だ。
彼女(女だった)はよく理不尽なきっかけで逆上し、
私の髪をつかんで引き倒したり、痣ができて血がにじむぐらいつねったりした。
彼女が般若のような顔をして私につかつかと歩みよってくるのに気づいた瞬間、
まるでスポンと音をたてるようにして、私の魂は抜けたものだ。
そして、どうにもこうにも表情を変えるということができなくなり、
そのあまりの無表情によく彼女は苛立っていた。
なによその顔は、澄ましくさって、きちんと話をききなさいと罵られるのだが、
いくらこちらが頑張って表情をつくり、彼女の目の球を見つめてみても何か違うらしかった。
思い出してみると、私の魂がふわふわ定まらなくなったのはあのころからで、
どちらかというと4年生以前の自分の心性や、世界に対しての感じ方はほとんど覚えていない。
あるいは何も考えていなかったのかもしれないけれど。
あのころから私はひどくセンチメンタルで、いつも怯えて緊張し、疲れていた。
――――(同上)
われわれの意図は、殺人者たちを殺人へと駆りたてる動機となったものが、
彼らの思考であることを立証することにある。
彼らの思考パターンは、子供時代の経験から生じてきた、
あるいは経験に影響されて形成されたものだ。
たとえば、保護者に虐待されてきた子供は、
大人が近づいてくるたびに殴られるものと思うようになり、
人を殴るという行為をたえず頭の片隅に置いておくようになるだろう。
やがてそうした子供は、誰かが自分を助けて、
大人を殴り返せるようにしてくれることを空想しはじめる。
この思考パターンは、その子供に救いをもたらしてくれる。
空想のなかでは、いつも誰かが彼を守ってくれるからだ。
さらに、子供は虐待を受けているうちに、
自己を苦痛から心理的に切り離す方法を身につける。
彼は、虐待されているときでも、
自分をコントロールできていることに誇りを抱くようになり、
たとえば殴られているあいだでも恐怖を感じず、まばたきひとつしないようになる。
この思考パターンは子供に支配(コントロール)の感覚を教え、
結果的に心理的緊張から解放してくれる。
子供は空想を通して、意識のさまざまなレベルで、
恐怖を増大させたり軽減させたりできるようになる。
とはいえ、このタイプの思考パターンを発達させていくことが、
そのまま、成長してから他人を虐待する側に回ることを意味するわけではない。
ここであげた例は、空想がもつ役割とその発達の様相を示しているにすぎない。
――――『快楽殺人の心理』( ロバート・K・レスラー 講談社 )
474 :
考える名無しさん:2008/04/14(月) 23:34:21 0
カオル、ビョーキ ヒドイ ノカ?
実は自分が軽く離人してたらしいと最近になって知りました(ワラ
それが離人だと知らずにいたのですた。
476 :
考える名無しさん:2008/04/19(土) 09:38:24 0
477 :
考える名無しさん:2008/04/19(土) 10:05:37 0
離人の軽いものは、多くの人が経験していると聞く。
それは、子ども時代。
親に叱られているとき、説教されているとき
自分自身の感覚が麻痺して、親が言っている声は聞こえているが
単なる音として聴き、意味は聞いていない状態のようなものだ、と。
478 :
考える名無しさん:2008/04/19(土) 10:14:45 0
ここから、人には、感性を停止し、意味を停止させる機能があることがわかる。
さらに、自分の意識の中心を通常の位置、頭部の両眼の間の奥から
身体から、移動・非難させて、外部の空間に置くことで守ることができる。
つまり、脳は外界の感覚データを基に脳内空間にマッピングして
世界を表象しているが、身体も脳内空間上に再配置し、通常、
頭部の眉間の奥に再配置して、そこから見ているかのように表象
している。
その位置を、身体のなかではなく、身体外の空間上に変える機能
が、人にはあるのだろう。
離人状態を処世の手段として駆使できるものの主体性を感じることができない。
というのと、
離人状態を制御できず中毒してしまう。
のとでは違いがあるのだろうな。
>>478 >ここから、人には、感性を停止し、意味を停止させる機能があることがわかる。
「レインボーブリッジを封鎖せよ!」
凶悪な犯人(心身にダメージを与えるだろう情報)を
レインボーブリッジ(大脳辺縁系)の向こう岸(前頭連合野)に渡らせないことで、
情動の当事者になるのを拒否するんです。
なぜなら、私(意識)は向こう岸に住んでいるので、どんなに凶悪な犯人(情動)でも、
自分のところにやって来ないかぎりは、対岸の火事、テレビのニュース情報なんだから。
というようにわたしは、情動の拒絶によって感性が停止し、感性の停止によって
意味に実質が伴わなくなることが「意味の停止」ではないか、と考えています。
>>480 >意味に実質が伴わなくなることが「意味の停止」ではないか、と考えています。
たとえば、テーブルの上に置かれたリンゴから「みずみずしさ、つややかさ」を引いたら、
いったい何が残るでしょうか。
わたしは、そこに残されるのは一般概念としてのリンゴの意味(字義性)だけではないか、
と思っています。
そのとききっとわたしは、なにか肝心なものが足りない、と思うでしょう。
たぶんそのリンゴがまさにそのリンゴであるという実感としてリンゴがない、と。
わたしは、実感としてのリンゴは、リンゴの「みずみずしさ、つややかさ」に宿っていて、
それこそが生き生きとした(生命的)隠喩性に支えられた実感としてのリンゴの意味
ではないか、と思っています。
わたしは、実感としての意味のことを、このスレでは「意味の実質」と呼んでいます。
この文脈では(脳科学的には)、それは大脳辺縁系からやってくると考えられます。
前頭連合野に比べて大脳辺縁系では、より根源的な環境との生命的接触が起こります。
だから、その生命的接触の情報(情動≒クオリア)を取り除いてしまった事物や出来事は、
つまり、意味の実質が失われてしまった世界は、字義そのままの記号としてのモノだけが
過剰に氾濫する無味乾燥な世界ではないか、と考えられます。
現実感が失われてしまった離人症の世界とは、このような世界のことではないでしょうか。
>>481 >それは大脳辺縁系からやってくると考えられます。
誤解されているかもしれないので、簡単に補足しておきます。
リンゴのみずみずしさやつややかさは、五感で受け取ったクオリアであって、
大脳辺縁系の情動とは別物のように思われるかもしれません。
しかし、たとえリンゴのみずみずしさやつややかさが理解できたとしても、
大脳辺縁系とのつながりを欠いてしまったそれは、もはや単なる記号のそれです。
そのリンゴがまさにそのリンゴであるという、このもの性としての質感(クオリア)は、
自己が世界や事物とのつながりにおいて生きて在れることへの実感という支えが
あってこそ感じられるものでしょう。
そして「それは大脳辺縁系からやってくる」と考えられる、ということです。
五感系のクオリアであっても、それがクオリアでありうるためには、
大脳辺縁系とのつながりが、その前提になっている、ということです。
(脳科学的には、まちがった表現をいくつかしています。あしからず)
>>467 > 1 なぜ私の心理的自己は、健常者に比べて弱い(臆病な)のか?
父と母にカオルと名付けられたこの個体(身体)としての生命が、
生れてきたことにも生きていることにも生きようとしていることにも、
私という存在(意志)はちっともかかわっていないし、
そもそもカオルが私のものだなんて思えない。
カオルが生れてきたことや生きていることや生きようとしていることを
私という存在の必然かのようにカオルを愛してくれる人たちは信じてる。
なぜなら、私という空白がカオル色の生で満たされているということが、
私が彼らの世界を生きていくための倫理であり、
そうでないなら、私は彼らの仲間ではないからです。
彼らは、私を愛し、私の孤独に寄り添ってくれる。
でも、私が愛されたり、私の孤独が知られたりすることはないのです。
たとえば、私がカオル色の生で満たされるようなことがあったとしても、
そんな私が生き生きと自分色を持った人として彼らに愛されたとしても、
愛されるのはカオルであって、私ではないからです。
↑は、カオルが私のものになっていないという事態でしょうか。
私とカオルの自己同一性の“脆弱さ”が露呈しているように思います。
あなたとムートンとの自己同一性の“脆弱さ”という意味では、
わたしとはちがうとは思いますが、似たような傾向が感じられます。
> 2 身体的自己の解放がなぜ破局へのイメージと繋がるのか?
私たちの暮らしている人間世界が、身体的自己が解放されたのでは都合が
悪いようにできているからではないでしょうか。
身体的自己の解放は、盲目の意志のままに跋扈する獣たちの世界を想像させ、
それはそのまま、この人間世界の秩序の崩壊を意味しているからです。
なぜなら、身体的自己の解放とは心理的自己にしてみれば、
みずからの支配の及ばない無意識のことに他ならないからです。
この世界は心理的自己による身体的自己の否定によって成立しているから、
この世界を創造した心理的自己にとって、身体的自己の解放は都合が悪いのです。
そして恐らく、客観的世界としてとらえられる「私たちの世界」と、
主観的世界である心理的自己の「私の世界」の形式は、同じです。
なぜなら、カントが言うように「認識(経験)の可能性の条件が、
すなわち、認識(経験)の対象の可能性の条件」だからです。
カオルちゃん
まだ、ここを読んでいたらいいんだけど……
しかとしてごめんね。そんなつもりはないんだけど、余裕がなかったの。
とりあえず僕は消えます。薬板は荒々しいところだから、安易に近づかないで。
きみはココ哲板に居たほうがいいと思う。
あと、あかちゃんまんは、アンパンマンの仲間です。
ここにいるようなヤツは決して
秋葉原の事件みたいなことやる前に
医者いけよ
いや、ここのは泣ける。
なんて繊細な会話だろう・・・
488 :
考える名無しさん:2008/06/30(月) 02:40:32 0
無限の合わせ鏡あげ
> 3 心理的自己と肉体的自己は、どのような関係であることが理想なのか?
身体的自己は心理的自己を必要としませんが、
身体的自己が言語存在者として生きるためには心理的自己が必要です。
心理的自己にとって身体的自己は存在者ではありません。
なぜなら、身体的自己(=生きているコト)については、
宇宙でもカブトムシでも素粒子でも…違いはないからです。
(「生きているコト」=「止まらないコト」と定義すればですが)
身体的自己(=生きているコト)は、特定の存在者ではないので、
心理的自己が身体的自己を存在者として位置づけようとする場合に、
かならず自己と見なす必然性はなく、時には他者でもありうるのです。
なぜなら、心理的自己の成立は身体的自己によって可能であるにもかかわらず、
心理的自己は身体的自己(=生きているコト)を否定することによってはじめて、
生きているモノ(存在者)として存在できるのだからです。
……つづく
心理的自己とは、流動変化して止まない身体的自己(=生きているコト)という、
この世界(言葉の世界)には、かつて一度も存在したことのないものが
言葉によって虚構されたモノ、すなわち身体的自己(=生きているコト)の抜殻です。
たとえば、ある人が「生き生き」としているのは、
心理的自己(反復される記号)が身体的自己(=生きているコト)につながることで、
身体的自己(=生きているコト)によって裏打ちされている様子を指しているのです。
だから、身体的自己(=生きているコト)とのつながりを欠いてしまうと、
生きているコトの実感が感じられず、ただ無機質な記号(心理的自己)のみが
虚空に浮遊しているような状態になってしまうのではないでしょうか。
もっと具体的に、脳の中では、何が起こっているのか?
脳科学では、私(心)は脳の働きに還元されます。
また、私(心)の属性は「自己同一性」にあるとされます。
しかし、前頭連合野の異常によっては「自己同一性」は保てなくなるようです。
たとえば、「われ思う」の働きに相当するとされている前頭前野に位置する46野は、
3つのサブ領野群から構成されていて、それぞれが相同の働きをしていると同時に、
それぞれに個別の「われ思う」の働き(感情の制御の仕方、個別の記憶へのアクセス)を
担っていると考えられています。
つまり、左右脳 × 3つのサブ領野群 = 6つのサブ領野群、およびその組み合わせを、
それぞれに個別の「われ思う」の働きの可能性として考えることができるわけです。
この場合、脳の正常な状態とは、それぞれの領野群がお互いに協調して統合された状態、
つまり「自己同一性」が保たれていることを指します。
もしも、この均衡状態が破れて、それぞれの領野群がお互いに協調しなくなれば多重人格症が、
それぞれの領野群がどの程度に統合しうるかの範囲を考えれば統合失調症のさまざまな障害が、
それぞれ説明可能になると思います。
つまり、私たちの脳はさまざまに独立分化した機能を「自己同一性」の働きによって、
自分(脳)自身に帰属させ統合していると考えられるのです。
とはいっても、ふだん私たちが「私」と呼んでいるのは、
左脳側の「言語的意識」であって、右脳側の「非言語的意識」ではありません。
たとえば、癲癇の治療などで左右脳を連結している脳梁を分断した分離脳患者では、
あたかも左右それぞれの脳に別々の「私」が宿っているかのような状態になります。
たとえば、右脳にのみコップを見せると、患者(言語的意識)は何を見たのか語れません。
また「何が見えますか?」と聞いても「何も見えていない!」と答えてしまいます。
しかし、それを手に取るように指示すれば、左手(非言語的意識)はコップを手にします。
つまり、言語による対象の認識機能が左脳に偏在しているために、
右脳に入力されたコップが脳梁を介して左脳に伝わらないかぎり、
“私たち”には「コップは存在しない」ということになってしまうのです。
しかし、“私たち”とは「言語的意識」のみをしか指していないのです。
私たちが日常において世界と呼ぶものも「言語的世界」に他ならないということです。
「われ思う」の働きが左右脳で、あるいは46野のような多様性をもって
モジュール化されていると考えるなら、たとえば特定の「生きる意味」の選択は、
それを選択しえない非言語的意識やその他の意識の抑圧なのかもしれません。
たとえば、思春期に自己の自立を求められた状況において発症する場合の統合失調症は、
「あれかこれか」の価値選択によってしか生きることのできない言語存在者の病理を
象徴的に示してはいないでしょうか。
たとえば、自己の自立が特定の「生きる意味」の選択によって為されると考えた場合、
そのような選択を可能にするためには、特定の「自己」が選択されなければなりません。
けれども、もしもそのような特定の自己の独裁が失敗したり、それを望むような自己が
いなかったとしたら、それぞれの自己の協調による統合「自己同一性」も瓦解してしまう
ように思うのです。
統合失調症は、現在では外来治療も可能になり、劇的に軽症化していると言われています。
その理由は不明らしいですが、おそらくは道徳的や社会的なプレッシャーがなくなっている
ことが原因ではないでしょうか。(「こうでなければならない」というモデルが存在しない)
特定の「生きる意味」の選択なんかしなくたっていい、自立しなくたってやっていける。
自分らしい自分なんていなくてもいいし、そのときの気分でどんな私であってもいい。
いい加減な結論ですが、心理的自己と肉体的自己はどのような関係であってもいいし、
心理的自己が思い描く理想像なんかなくてもいいというのが、わたしの考え方です。
心理的自己の思い込みやこだわりが心の病気を引き起こしているように思うからです。
もちろん、理想像があってもいいし、心の病気になる自由だってあるということですが。
こんにちは。
統合失調の頭の中は、
>>490に即していうと、
身体的自己が、心理的自己以上に肥大し過ぎて、
言葉の世界に浸食し過ぎてしまう為に起こるようです。
ある言葉と別な言葉の類似性を見つけて、普通なら「共通点がある」と
認めるだけにとどまり、多少言葉遊びに興じたりもしますが、
身体的自己がパンパンに膨らんで抑制の利かない状態では、
その共通点を類似ではなく同一のものと解釈してしまいます。
無意識のとらえるままに言葉がどんどんあちこちからつかみ出され、
それらを同一のものと解釈して、自分に相応しい言葉を溜め込むうち、
言葉はより大げさで過激なものばかりになってきます。
酔っているうちに既成の判断機構が麻痺し、妄想を言葉で論理化し始めます。
言葉の世界に浸食し過ぎて判断を失うのでは、言葉が人間の存在から遊離してしまうのと
変わらないと言えるかも知れません。
薬の治療も進んでいて、従来の薬は、脳全体に流れる脳内物質を
強力に全部抑えてしまうものが多かったんですが、
最近は脳の疾患箇所のみに部分的に効くものが出てきているようで、
患者の軽快が早いのは、これに依る所が大きいです。
この病気になる人はいい子、真面目、神経質、完璧主義の人が多いです。
この病気は、「ねばばならない」と枠を作る心理的自己への反動作用なんでしょう。
だから、カオルさんの言う様に、道徳規範や社会的プレッシャーを
多く抱え込み過ぎている彼らの、重荷を取り去る訓練が必要です。
これは非常に的を得たいい意見だと感じます。
× 的を得る
○ 的を射る
>>494 佃煮マニアさん、はじめまして。
レスありがとうございます。
わたしが使用している「身体的自己」とは、言葉にできないものとしての無意識です。
千変万化して止まない生き物が、まさに「生きているということ」を指しています。
「指しています」といっても、千変万化して止まない身体的自己(生きているということ)を
言葉(言語的意識)は客体化することができません。
けれども「生きているということ」は、生きとし生けるものの「あいだ」に
等しく張り巡らされた生き物の実質であり、
この実質において生きとし生けるものの「あいだ」に差異は存在しません。
身体的自己の肥大とは、身体的自己と心理的自己との境界の崩壊でしょうか。
心理的自己(言語的意識)が確立されていないために、
身体的自己との境界が曖昧になってしまっているとも考えられます。
境界の崩壊は、あなたと私の境界の喪失であり、
「世界が私の世界である」ことが成立しなかったり、
「私が私である」ことができなかったりしてしまいます。
心理的自己は、身体的自己という闇に呑み込まれないために、
あるいは、身体的自己の侵蝕からみずからを守るために、
自己の殻に閉じこもるしかありません。
この自閉は、生きとし生けるものとの「あいだ」を断つことに他なりません。
「僕らはみんな生きている〜♪」においては「同じだよね!」の暗黙の了解の未成立、
あるいは、私たち(という非人称)との無意識での「きずな」が断たれてしまった感じが、
または、それへの憎悪が、健常者が統失の患者に抱くプレコックス感かもしれません。
わたしは、心理的自己(言語的意識)は、
「生きているということ」(身体的自己)との存在論的差異において
はじめて成立するのだと思っています。
ですから、身体的自己と心理的自己との境界の崩壊を
(身体的自己の肥大を)この差異の喪失にみています。
※ 私たち(という非人称) : 規範、あるいは倫理の最たるものでしょうか?
>>494 >薬の治療も進んでいて、
>〜〜患者の軽快が早いのは、これに依る所が大きいです。
そうですね。
わたしも非定型抗精神病薬のお世話になっているので。(^_^;)
そういえば、アクティブな性格でないと生きている価値が無いかのような
アメリカ社会では「プロザック」という抗うつ剤が爆発的に普及しましたね。
「ネガティブ」な性格も「プロザック一発でアクティブに!」みたいな。
日本でもつい最近まで「リタリン」という精神賦活剤が流行っていました。
「合法シャブ」とか呼ばれ、「朝起きれないんです」くらい訴えれば、
金儲け主義の医者が簡単に処方するもんだから、
病気でもない一般人にまで普及してしまって依存者が続出。
これはマズイということで、昨年うつ病への処方が禁止。
うつ病への処方は、時と場合によっては必要かもしれないのに…
困ったものですね。
非人称的な世界観は、哲学や思想の中に学者が獲得したりする場合もあれば、
健康な人にもたまにある、白昼夢や入眠時幻覚に出現する場合もあり、また
統合失調症では、日常的な感覚と往来する事なく慢性的に当人を拘束します。
日常的な感覚では、個人の自己同一性は保たれているように思えても、
ふとしたきっかけで落ち込みやすい世界観なんですよね。
もしかしたら、人間が本来的に備えている感覚なのかも知れません。
共同体の中で自己を確立する必要に迫られて、徐々に無意識の中に
閉じ込められていったというか。
イワシや蚊の大群は、生存の為に非人称的な感覚を維持していますが、
単体で生存できる様になり、社会化によってその感覚を抑えられている
人間は、奇妙なところに奇妙な形でその感覚を出現させます。
小説を例に出しますけど、星新一の作品でこんなのがあります。
ある公園にまったく特徴のない男が座っていて、私は何気なく脇に座る。
その男のあまりの特徴のなさに不審を抱き、何気なく話しかけると・・・
10分も経たないうちにその男の背恰好は、みるみる私のそれに近づき始め、
気がつくとその男は私に成り代わってしまった。男は去っていく。
会話という手段によって、簡単に他人の深層心理や自我まで受け取ってしまう人って
まぁ、たまにいますが、その行為によって、私の存在性が希薄化してしまうんですね。
「私」を共有する合同的な目的もなく、個別性を奪う事で同時に引導を渡してもいます。
また、「失われた時を求めて」で、主人公がたびたび陥り恐怖する体験。
自分の部屋の家具や、雑貨、音楽、おとぎ話etcと自分が同化してしまう、
時には、他人の皮膚でもって自分の皮膚感をありありと感じ取ったり、
遠い過去の記憶を今現在体験してそこから当分抜け出せなくなります。
これは、人間が、共有する「私」の対象を失って、その代わりに
家具調度にそれを求めたり、記憶の断片とシンクロしてみたり、
非人称的世界観が、生物としての機能をまったく無視した、
ゆがんだ形で現れていますよね。
心理的自己は、社会的な共同体を完結させる為になくてはならないものなんですが、
同時に、万物を一つの生物として見た場合、その生を連続させる為の身体的自己を
不格好な形で抑制してしまっている訳です。
だから、
>私たち(という非人称) : 規範、あるいは倫理の最たるものでしょうか?
身体的自己が、この心理的自己を上手くなだめすかしながら「私たち」と
表現する事が、必要になってくるかと思います。
両者の差異を明確にしながらも、「私たち」の「あいだ」は存在しない、と
(これはちょっと難しいかも!)倫理が規定していく必要がありますね。
非人称感覚を何とか無理なく解放する為に、学問や芸術もありますし。
それでもダメならお薬もありますし。
じつは私も軽いADHDで、集中力があっちこっち逸れがちなんです。
こっちの事をやっていて、ふと何か思いつくと、そればっかり気になり始め、
元やっていた事を忘れて、新しい事に次々手を出してしまいます。
思考や行動に一貫性がなくなりがち、というか。
典型的な症状としてはそれくらいで、あとは普通らしいんですけど。
だから、、、なにか薬を導入するとすれば、リタリンが必要なんですが、
依存性が強くて、処方するのにはリスクが高いというので、処方はされてません。
「軽いし、訓練すればなおる」とお医者さんからは言われました。
確かに、閃いた時にガマンすればいいだけの話なんですがw
リタリン気になる・・・
お医者さんは言いませんでしたけど、確かに不当に年金受給したり
処方箋をもらうために詐病をする人が多いそうですね?
ニュースでは見ました。鬱の診断基準は甘いそうですし。
脳波測定とかMRIでバレそうなものですけど、何か変ですね?
502 :
考える名無しさん:2008/07/12(土) 01:37:58 0
>>498 >私たち(という非人称):規範、あるいは倫理の最たるものでしょうか?
最たるものとは思えません。
好戦的な宇宙人が来襲したら、まっさきに殺されます。
アリよりも先に。
あっさり。
規範、あるいは倫理。これが人間だけの性質でしょうか?
あらゆる生物に命があります。
どんな静物でも芸術を魅了します。
物事において、
規範、あるいは倫理とは個々に存在するもので、
人間のそれが特に優れているわけではない。
というのが私の考えです。
503 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/12(土) 01:50:53 0
分厚いゴムの皮膚を俺も数日間味わったことがあるよw。
あんなものを数ヶ月も半年も食らったときには、
俺みたいなデリケートな人間は間違いなく発狂するw。
504 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/12(土) 01:56:20 0
思わずその分厚いゴムの皮膚(感覚)を切って見ようかなとは、
思わなかったw。
にしたって、自分の手がまるで他人の手のように
感じられるのだからね。
その感覚が全身に及ぶなら、まさに狂気だろう。
505 :
考える名無しさん:2008/07/12(土) 01:58:24 0
506 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/12(土) 02:16:44 0
508 :
考える名無しさん:2008/07/12(土) 02:43:43 0
と、似非学問に心酔してしまった池沼が常人のふりをしておりますw
509 :
ラプラスの悪夢 ◆daemontaDA :2008/07/12(土) 20:38:46 0
>>507 用法を間違うルサンチマンさん、乙ですw。
>>499 佃煮マニアさん
言葉がなければ、人称も時制も様相も存在しようがないですね。
もちろん、私も。
鰯や蚊や、蜂でも蟻でもそうですが、そこに個体の死を見分けるのは、
人間の知性だけかもしれません。
かれらは、ただひたすらに生きている。
そこに意味を見出そうとしても、それはかなわないように思います。
私たちが、私という概念を手に入れたからといっても
それでなにか特別な私の生きる意味が見出せるとも思いません。
それなのに、ただひたすらに生きること、
ただ生きているかぎり生きていることは許されないのですね。
>>500 佃煮マニアさん
一般に共有されている私という概念は、
言葉を習得しなければ存在しないのだと思います。
「私の存在性」と言われて、もしもわたしが了解できるのだとしたら、
わたしはいったい何を了解したのでしょうか。
特徴のバリエーションは最初から完備されているのかもしれません。
表現しうる言葉の限界のうちに人間の個性はあらかじめすべて
記述されているのかもしれません。
「私」という空虚に何が書き込まれても、それは私なのです。
100に分裂した多重人格者の55番目の人格だって私なのだから。
私がこの肉体の内側にいなければいけないとだれが決めたのだろう。
私がこの肉体の外にまで広がれば、あなたも彼もわたしになるのに。
>>501 佃煮マニアさん
>両者の差異を明確にしながらも、「私たち」の「あいだ」は存在しない、と
>(これはちょっと難しいかも!)倫理が規定していく必要がありますね。
「私たち」の「あいだ」は存在しない、という倫理が
この世界に存在しないことで、この世界は成立しているかのように見えます。
「私たち」という非人称は、もっと表層で、
言葉が形作ったこの世界が成立するための条件として、
「私たち」という健常な人間たちが共有する「生の形式」として働いています。
たとえば、この世界から狂者が排除されるのは、
この者たちが、この「生の形式」を共有しないからです。
この「生の形式」の共有こそが、
「私たち」のもっとも根源的な意味での倫理だからです。
たとえば、狂者にあって両者の境界が崩壊しているような場合、
「私が私である」(A=A)ことは、
つまり、私とあなたとの区別は成立していませんが、
このような生のあり方が倫理的に了解されることはありません。
>じつは私も軽いADHDで、集中力があっちこっち逸れがちなんです。
とてもそのような障碍を抱えているとは感じられませんでした。
緻密ですばらしい内容のレスをしていただいて、ありがとうございます。
>>502 >最たるものとは思えません。
>好戦的な宇宙人が来襲したら、まっさきに殺されます。
>アリよりも先に。
そうかもしれません。
でも宇宙人は地球がちょっと汚れているから親切で
掃除しただけかもしれません。
「宇宙人に殺された」と思っているのは、私たち人間だけであって
宇宙人にはそんなつもりはないのかもしれません。
わたしがこんなことを考えるのも心があるからかもしれませんが、
あなたに心があるのかわたしには確かめようがありません。
でもわたしもあなたもみんなが心ある振る舞いをしているし、
確かめられなくても、あなたはあなた、わたしはわたし、
という風にしてみんなが生きています。
そういう風に、というところはみんな一緒だと思うんです。
でもきっと宇宙人は、そういう風でないと思うんです。
私たちの中に、宇宙人のように「そういう風でない」人がいたら、
きっと私たちはその人を仲間外れにすると思うんです。
仲間外れにするのは、その人が「私たち」とは“ちがう”からです。
私たちのように「そういう風に」しないのだからです。
「そういう風に」できることが、「私たち」の仲間であるための
もっとも基本的な規範、あるいは倫理ではないかな、
と考えてみたのです。
昨日、明日、今日。過去? 未来?
それって、何のことなの?
世の中の最も簡単な概念さえ謎だった。
私の頭はいつも現在で機能していた。
7才で手話に出会ったおかげでようやく、
昨日とは自分の後ろにあるもの、明日は前にあるもの、
ということがわかるようになった。夢のような進歩。
個人を指す言葉というものがあることも知った。
パパとは彼のこと。ママとは彼女のこと。マリは私の妹。
誰かであるということは、生きているということ、
それがわかってから、私は自分のことを私は∞私が
と言えるようになった。それまではいつも彼女≠セった。
自分自身のことを彼女≠ニ呼びながら、
自分がこの世界のどこにいるのか? 誰なのか? 何故いるのか?
ずーっと探していた。そして、ようやくその答えを見つけたのだ。
私、というものが存在している定義≠ェある。
つまり、生きている。
エマニュエル、それは私。
私はエマニュエル・ラボリです。
――――エマニュエル・ラボリ『かもめの叫び』(青山出版社)
エマニュエルは、生まれつき耳が聞こえず、
7歳まで言葉を知らずに育ちました。
エマニュエルの母国フランスでは、
手話の使用が1976年まで法律で禁じられていたため、
手話を学べなかったからです。
そんなエマニュエルの自伝が『かもめの叫び』です。
エマニュエルの体験は、
私たちの世界が一貫して「言葉の世界」であり、
言葉の世界とは「私が存在する世界」に他ならず、
また言葉がなければ、人称も時制も様相も
存在しようがないことを教えてくれています。
言葉を習得することによって、<私>(=生きているコト)は、
「カオル」(=生きているモノ)として、この世界に誕生します。
けれど「カオル」の誕生によって、<私>(=生きているコト)は
どこかに忘れ去られてしまいます。
というより、<私>(=生きているコト)が、
そもそも知られうる「モノではない」ために、
私たちが「知りうる世界」、すなわち「言葉の世界」においては、
そのはじめから不在であったと考えるほうがより正確でしょうか。
言葉は「カオルが生きている世界」を創作してしまいます。
<私>とは、すなわち<生きているコト>に他ならないのに、
言葉を獲得すると同時に、<私>と<生きているコト>との
「あいだ」(存在論的差異)が捏造されてしまうのです。
あたかも<私>が「カオル」(存在者)として存在しているかのように、
「カオル」が存在しているから、<私>“が”生きているかのように。
つまり、<私>と<生きているコト>との関係なき関係が、
<私>と「カオル」との「あいだ」に虚構されてしまうのです。
言葉は、みずからの法則(この場合、同一律)にしたがって、
<私>(=生きているコト)と「カオル」(=生きているモノ)とを
「カオル、それは私」「私は、カオルです」と関係づけてしまうのです。
すなわち、<私>=「カオル」、「私は、この私です」(A=A)と。
だからといって、<私>(=生きているコト)が止め置かれ、
<私>に「カオル」という姿形が与えられたのではありません。
あたかも、<私>が「カオル」であるかのように、
「カオルが生きている世界」が言葉によって創作されたのです。
たとえば、――<私>は、なぜ「カオル」なのか?――という問いは、
<私>(=生きているコト)が「カオル」(=生きているモノ)として
表象されてしまうこと、すなわち、そのような自己同一性にたいする
疑問なのかもしれません。
<私>(=生きているコト)が、どうして「カオル」(=生きているモノ)なのか?
どうして、となりのハルカちゃんではなくて「カオル」なのか?
どうして「カオル」でなければならないのか?
<生きているコト>において、生きとし生けるモノの「あいだ」に差異はありません。
というより、<生きているコト>において、生きとし生けるモノは、
=<私>なのですから、そもそも「あいだ」なんて成立しようがありません。
生きとし生けるモノが「生きていないコト」は言葉の定義上ありえないので
生きとし生けるモノが<生きているコト>は自明です。
けれども「<私>“が”生きている」とは表現できない
<私>(=生きているコト)そのものを、
この意味での<生きているコト>としてとらえてよいものなのでしょうか。
<私>(=生きているコト)を、生きとし生けるモノが<そうであるコト>に
列ねることはできるのでしょうか?
つまり、こういうことです。
<私>は、<私>と同列の<私>以外の<私>という隣人を
はたして持てるのでしょうか?
ウィトゲンシュタインは「世界とは、そうであるコトのすべてである」(TL 1.1)
と言いましたが、それがほんとうなら「そうであるコトのすべて」とは、
<私>(=生きているコト)という<そうであるコト>の内側にしか
存在しえないのではないでしょうか。
なぜなら、世界を、<私>(=生きているコト)によって成立している事態と
とらえることが許されるなら、「世界は<私>の世界である」(TL 5.641)
と考えることもできるからです。
そうであるなら、<私>(=生きているコト)という<そうであるコト>を
生きとし生けるモノが「そうであるコト」と同列に論じられるでしょうか。
なぜなら「そうであるコトのすべて」は、<私>(=生きているコト)という
<そうであるコト>の内側でしか成立しないのですから、
そこで「世界は閉じている」とも考えられるからです。
つまり、<私>(=生きているコト)の世界が、=「世界のすべて」なら、
<私>は<私>と同列の<私>以外の<私>という隣人(世界)を持つことは
できないのだからです。
519 :
考える名無しさん:2008/07/21(月) 13:37:05 0
キャーのび太さんのエッチー!!!!
獲得された言語によって、世界に認識させられなければ私が存在しない、
それも、虚構の私として認識されることで、受動的に私が存在する、
という事でしょうか?トンチンカンな読みだったら申し訳ありません。
そうだとしたら、絶望的にシビアな意見ですね。浅くながら心情は察しますが。
自分にとってどうにでも都合のいい、世界への解釈をしてもいいんじゃないでしょうか。
これは決して反論ではなく、
私からカオルさんへの進言として捉えてもらいたいのですが、
><私>は、<私>と同列の<私>以外の<私>という隣人を
>はたして持てるのでしょうか?
たとえば、だれかの言説・・・これは虚構かも知れませんが、
嘘ではないんです。ロゴス特有の矛盾が言説に絡んでくるだけです。
それを間違いだらけであるにせよ理解する。誤解をしてみる。
なぜその人がそのように考えたのかを知る事によって、
もしかしたら自分も、置かれる立場やタイミングが合っていれば
まったく同じ事を考えていたかもしれない、と共感する。
ちょっと大げさな言い方になりますが、
その時点で、立場やタイミングの位置修正を私とあなたが心の中で行えば、
いとも簡単に、私はあなたになり得るし、あなたも私になり得ます。
つまり、同列の隣人どころか、どんな他者にでもなれる訳です。
説明の不十分はあるでしょうし、理解に間違いはありますよね。
私がカオルさんを理解しようとして理解がそれた場合、私は、
カオルさんとは別の「ナニカ」とシンクロしてるのかも知れません。
そして、カオルさんと「ナニカ」が不可解にも分離したまま、
「ナニカ」が一人歩きをし始める場合もあれば、
カオルさんがその事に気づいて、その存在を打ち消す事もあります。
カオルさんが「ナニカ」の存在を察知して、しばらくその存在を演じる事で、
演じるうちにどれと同一化する事もあるでしょう。
カオルさんと私の立場が逆転した場合でも、同じ事が起こりますよね?
例えば、カオルさんが作り上げた「ナニカ」を私が演じるうちに
「ナニカ」と同一化すると、それは
これもまた、大げさな言い方なんですが・・・
カオルさんが、私の未来に預言を与えた事にもなるんじゃないでしょうかね。
つまり、私の中にカオルさんの存在を分け与えていると。
こんなに主観的で、こんな都合のいい考えを普通にしている人もいます。
>>521 佃煮マニアさん
>獲得された言語によって、世界に認識させられなければ私が存在しない、
>それも、虚構の私として認識されることで、受動的に私が存在する、
>という事でしょうか?トンチンカンな読みだったら申し訳ありません。
そういう解釈もありうるのですね。勉強になります。
私の創造した世界は、同時に世界の自己創造かもしれません。
「豚に真珠」と言っても、豚に真珠は存在しません。
豚にとっては、豚的事態の集合が豚の世界でしょうから。
でも、その豚的世界はいったい誰が創造したのでしょうか?
豚と豚をとりまく環境世界との相互依存的関係によって、
総体的に存在していると理解したほうがよいでしょうか。
言いかえれば、豚をとりまく世界の創造物が豚であり、
同時に豚の存在が世界を形作ってもいるということです。
当然、人間と世界との関係も同様に考えることができます。
けれども、ここで想定された豚や人間は虚構でしょうか。
現に人間は豚を家畜として育て、その肉を食しています。
それらは、目に見え、触れることができるモノですが、
私や心に、それを期待することはできないようです。
>>521 佃煮マニアさん
>立場やタイミングの位置修正を私とあなたが心の中で行えば、
>いとも簡単に、私はあなたになり得るし、あなたも私になり得ます。
>つまり、同列の隣人どころか、どんな他者にでもなれる訳です。
自己など元々存在しない。
たとえ個人に生まれもった嗜好性の違いがあろうとも、
それを演出するのは、いつだって作り上げたコピーだ。
>>444 生きていること(流動変化)をとらえることはできません。
流動変化そのものは分析によって抽象できないからです。
だから、<私>(=生きていること)は存在していませんが、
それでも<私>は「カオル」という存在者の実質なのです。
たとえば、生きていることを生きられない離人症者が、
分析によって抽象したモノたちから真実を探ろうとしても、
そこに表象されたモノたちは、実質(生きていること)なき
抜殻ですから、当然抽象された「私」も空虚でしょう。
この抽象された記号としての「私」には実質がともなっていない、
という事態を言い替えたものが、「自己など元々存在しない」
という訴えでしょうか。
このことは言語が個人の創作ではなく、
だからといって私的な言語の独創もありえないということ、
つまり、私的言語に基づくオリジナルな思考がありえないということと
ふかく関係しているように思います。
もしも悲しみが悲しみという言語表現の可能性のうえに
成り立っているのだとしたら、その悲しみはすでに使用済の
悲しみのコピーでしかないのかもしれません。
私たちは<私らしさ>ではなく「私たちらしさ」の一致によって、
つまり<私らしさ>の消滅によって、はじめて存在しうるのです。
言語がその本質において他者を想定しうるのは、
おそらく<私>的言語が不可能だからなのです。
この次元での他者との一致は、むしろ自明ではないでしょうか。
なぜなら、本質的に他者と私のあいだに差異はないのだからです。
そうではない場合、
たとえば、神の言葉は、<私>的言語でありうるでしょう。
神の言葉は、そのまま、=世界だからです。
「光あれ!」との神の意志の表象(言葉)は、すなわち光の存在です。
この主客の完全な一致は、対を絶しているゆえにコピーは不可能です。
つまり、神には他なる神(=世界)が存在しえないのです。
ゆえに神は比類なき存在です。
このときはじめて「世界は、神の世界である」と言えます。
もしも同じように、そのような私(世界)が存在するとしても、
そのような私(世界)が、世界の中に存在することはありえません。
なぜなら、世界の中に私がいるのではなく、私が世界なのだからです。
エマニュエルが「生きている」ということが、すなわち「私」である、
と言うときの「私」と、私的言語の可能性を想定したときの「私」とが、
わたしのなかでは、今のところ究極の「私」という概念なのですが、
双方の関連性が今一つ掴めず、むちゃくちゃに入り乱れているために、
議論が錯綜してしまいます。わけのわからない議論でごめんなさい。
>>522 佃煮マニアさん
>例えば、カオルさんが作り上げた「ナニカ」を私が演じるうちに
>「ナニカ」と同一化すると、それは
>これもまた、大げさな言い方なんですが・・・
>カオルさんが、私の未来に預言を与えた事にもなるんじゃないでしょうかね。
>つまり、私の中にカオルさんの存在を分け与えていると。
愛しあう恋人同士の以心伝心は、相手を自分のことのように、
あるいは、自分以上に大切に思っているから可能なのでしょう。
また、今にも井戸に落ちそうな幼子を無我夢中で助けようと
走り出すとき、私と幼子に区別をつけることはできないでしょう。
別々の個体だとか、そういう事実をさえ心が超えてしまうとき、
なぜかその心の所有者とされている私も消滅してしまうのです。
もしも「心=私」なら、別に消えてしまった私がいるようですが。
カオルさん
>>523 よく、こんな夢を見ます。
廊下を歩いていると、半透明な、何かの形象が、側にあるドアに入って行く、それを追って、私が歩こうとすると、何か、空気がにこごりのようになって、
「変だ」と思い、
不思議に思い目をよく凝らしてみると、廊下にもドアの先の部屋にも、
私自身の姿をした半透明の形象がぎっしり、満員電車の様にごったがえして
いるんです。
この夢と、カオルさんのいう、
>私の創造した世界は、同時に世界の自己創造かもしれません。
というのは、どこか通底するものがあるでしょうね。
さて、この二つの概念を図にすると、どういう相関があるんでしょね?
二つの間には、きっと、
ハイデガーの言う「非知」が、そこに横たわっているんでしょうけど、
彼はそれを説明する事はしませんでしたね。私にとってもナゾなんです。
カオルさん
>>524 ムートンさんの意見には確かに、共感するところがあります。
心がザルのように、なにかをすくいあげても全て、
そのまま取りこぼしてしまっていて、自分は常に空虚なまま
生きているのではないか・・・という問いがありますね。
非常に重いです。
普段はフタをされている深層心理に触れると、あまりにも
カオスなので、気持ち悪くなって来る事はあると思います。
ただ、ムートンさんが
>>444で述べた事は、実は、
自分自身の本音の部分ではなく、誰かにそのように思わされて、
「イヤだな」と思ったまま記憶に蓄積した事ではないか、とも
思うのです。
事実、ムートンさんはそんな考えを気持ち悪いと感じています。
生理的反発は、確固たる自己意識の存在を証明してはいないでしょうか。
>>503でラブラスの悪魔さんが
「ゴム状の皮膚が張られたような感覚」を告白してくれましたが、
哲学の野ではなく、日常でそのような感覚が身を縛るのなら、
意識を膜で区分化するために、その、誰かに言われた事、と
苦痛なく消化できた事、要するに自分の身体的感覚をともなう考え
の隙間に、一枚膜を張ってみてもいいんじゃないでしょうか?
(つづき)
>たとえば、生きていることを生きられない離人症者が、
>分析によって抽象したモノたちから真実を探ろうとしても、
>そこに表象されたモノたちは、実質(生きていること)なき
>抜殻ですから、当然抽象された「私」も空虚でしょう。
生物の世界には、それぞれの種で共有されたピラミッド状の、
一つの大きな生の形式があって、、、種として誕生し、
物心ついた時はそのすそ野にいる、そして、成長するに従って、
生のピラミッドの上方を目指す、という話があります。
しかし、共有されたピラミッドから、足を滑らせて、すそ野に
舞い戻る場合もあって、この場合というのは、つまり・・・
例えば、離人症の場合、「私性の消失」という内的論理によって、
手足がピラミッドのとっかかりを掴めなくなり、こぼれ落ちる
んですよね。
その内的論理は、共有されたものとは別の形式をもっていて、
その形式が、共有されたものとどうしても合致しない場合、、、
こぼれ落ちた者は必ず、すそ野に新しいピラミッドを建立する、
という法則があるんです。そして、新しいピラミッドは、
共有のピラミッドを崩壊させ駆逐する事もあれば、
たけのこの里のように(笑)元あるピラミッドの隣りに
つぎつぎに建立され、林立という形態をとる・・・
排除された内的論理はその後、ある形で必ず体制化される、という事です。
これは、かなりマクロ視点ですが、事実に照らした人間の法則のようです。
カオルさん
>>525 >私たちは<私らしさ>ではなく「私たちらしさ」の一致によって、
>つまり<私らしさ>の消滅によって、はじめて存在しうるのです。
これは力強い言説ですね。とても感動しました。
存在するために、私を打ち消し、それを超えて行く訳ですね。
では、存在するとは、どのような事なのでしょうか?
>>526 非人称の存在、つまり絶対的な神なら、外部が存在しないので
必然的に相対化できないですよね。同感です。
(非知とは、世界に充溢された神の存在かも知れないなあ。)
神=世界であるなら、神は世界中に遍在している事になります。
つまり、カオルさんの内部にも、外部にも、同様に私にも。
その事をふまえると、偏在する神を内部に意識して、
常に神の視点を通過しながら世界を眺められたら、
コピーではない「私」が存在として発話できる、
そういう事になるかと思います。
そのとき、共有された生の形式に新たな形がくわえられ、
本当の私的言語が生まれるでしょう。。。
大いに可能性を感じます。
カオルさん
>>527 私性の消失とは、底に苦しみを抱えながらも、自己を超越しているので、
他者の愛を受け入れられる、身を呈して他者を救う事ができる、
という、非常に豊かな状態ですよね。素晴らしいです。
そして、私が非人称において語られるとは、、、
ブランショ的な、閉じた円環の中に永劫、身を任せる事が
できるという事であり、それは、、、私の主観的な意見ですが、
その事は、ニーチェで言う、「超人」の証となりうるのではないでしょうか。
離人体験とは、超人への扉を開ける為の割り符を、手に入れる事ではないでしょうか。
超人の苦楽とは、いかなるものなのか、
そして、私は円環に入り込む事ができるのか?
そもそも、円環にいることを気づかないでいるだけなのか・・・
とても気になります。
コテ連中の長文連投は読む気も起きないが、
どんどん臨床から離れて、自己愛的な戯れになっていっているのだけはわかる。
536 :
考える名無しさん:2008/08/20(水) 20:41:53 0
ヒント:黙秘権
ヒント:ムートンはリア充
アクセス規制受けました。
接続しっぱなしだと、ダメなの?
プロバイダーはso-netが規制少なくていいよ
540 :
名無し:2008/09/06(土) 05:00:03 0
カオルさん
久しぶり。ここ、読んでるといいのだけど。
いろいろなことが起こって、ぼくは去った。
気分的に悪いものじゃない。むしろ、スーッとした感じだ。
だから、ぼくは大丈夫。目が覚めたみたいだ。真夏の朝、6時に。
昨日、アッチの書き込みでぼくのことを入れてくださった。
すごくうれしい。あなたは(あなたの自覚なしに)天使のようだ。
いまはここまで、また語り合える日が来ると願いたい。
どうぞお元気で。
541 :
カオル:2008/09/08(月) 21:34:46 0
>>539 so-netさんも規制かかってるみたい。
運営さん、ここ最近かたっぱしだよね。
わたしのおでんはマジで永久かもです。ハァ〜
情報ありがとう♪
542 :
カオル:2008/09/08(月) 21:37:36 0
>>540 お元気そうでなによりです。
またお話ししましょう。
書き込みお待ちしています。
長年悩まされてきた「全て」に対する答えが分かりました。
全ては「死」です。1+1は死です。証明しても死ぬだけだし、証明しなくても死です。
環境汚染を止めるには、死ぬしかありません。
世の中に何か名を残したいのなら、死ぬしかありません。
好きな人に思いを伝えられたら、思いに応えられたら、死ぬしかありません。
伝えられなかったら、応えられなかったら、死ぬしかありません。
誰かの為に何かをしたいのなら、死ぬしかありません。
円滑な人間関係を築くには、死ねば何事も問題は起こりません。
あらゆる宗教の行き着く果てが、善行を積むことで極楽に行けることだとしても
それは死です。
今までそれが嫌で目を背けてきただけだったんです。
あらゆる全てに対して、自分が何をすればいいのか。
それは何をしてもいいし、何もしなくてもいい、どちらも死へ向かっていますです。
少し心が晴れ晴れとします。こんな私が異常者だと思われようが、正常だろうが
全ては死なのだと思います。私は自分の授かった命や、他者の命を
どういう形であれ死に導くために生きているのです。生そのものが死です。
>>543 899 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/08/29(金) 21:19:31 ID:8v+x8t9+0
>>885 僕はニコニコを見てリア充になりました!(雑誌巻末広告風
リア充なのか?
何だここ
物質からきますた
547 :
考える名無しさん:2008/09/21(日) 20:22:41 O
物質からきますた
自己診断やってみたら
カウンセリング受けましょうってなった
548 :
考える名無しさん:2008/09/21(日) 20:32:02 0
ずっと自演スレ
>>528 佃煮マニアさん
今さらのレスですが…
>>私の創造した世界は、同時に世界の自己創造かもしれません。
は、ハイデガーの「世界−内−存在」概念の成立に寄与したらしい
ユクスキュルの「環境世界理論」のようなイメージです。
「環境世界理論」のような考え方は、私(人間)と世界(自然)との
二元論は排しているのかもしれません。
けれども、ハイデガーが指摘するような存在者と存在の存在論的差異
における差異そのものとしての人間の存在様態は示せていないでしょう。
この存在論的差異そのものとしての存在様態がとれなくなった人間が、
わたしの離人症者についてのイメージです。
言いかえるなら、存在(生)者の存在(生)そのものからの乖離が、
離人症の原因ではないかと考えているのです。
>>528 佃煮マニアさん
もしもわたしが佃煮マニアさんの夢を見たとしたら……
どうしてこのわたしだけが生きて現われているのかな?
って不思議に思いつつも、やがて半透明な<それ>が、
じつは自分ではないかもしれないと不安になるでしょう。
なぜなら、死者でも生者でもない<それ>が、わたしであってもなくても、
今ここに現われて生きはじめるなら、そのようでしかあり得ない
わたしとは別のわたしの現実になってしまうかもしれないからです。
また、たとえ半透明な<それ>が、わたしの未来や可能性であっても、
<それ>が垣間見られたということは、わたしが<それ>の創造には
立ち合えていないのかもしれないことを予感させもします。
もしかしたら、わたしが自分の意志と呼んできたものが、
自分の生の創造にさえ、まったく関与できていない可能性、
どのようであっても、そのようでしかあり得ない可能性を、です。
なぜなら<それ>は、すでに論理的に可能な事態として存在していて、
わたしの意志とは一切関係なく、実現しているのかもしれないからです。
わたしは生きて存在しているということは知っていますが、
どうして自分が生きて存在しているのかは知りません。
さっきの自分が今の自分なのかも、わたしにはわからないけれど、
それでもわたしは生きて在ることしかできません。
なぜなら、そのようでしかあり得ないからです。
そのようでしかあり得ないから、それについては非知なのです。
>>529 佃煮マニアさん
だれもがそれぞれに「これが自分だ!」と思っているものが、
コピーにコピーを重ねたものでしかなく「オリジナルではない」
というムートンさんの考えに、わたしはとても共感できるんです。
私たちが日常において意識と呼ぶものは「言語的意識」(
>>492)
でしょうけれど、言語的意識は引き継がれてきたものとしての
言葉を学ぶことで、はじめて立ち上がってくるものでしょう。
そうだとすれば、完全に私的な言語の独創による、
完全にオリジナルな思考などありえないということになります。
どのような考えも、考えにもとづく表現も、コピーの焼き増しか、
それらの切り貼り具合の微妙な差異の範疇におさまってしまうでしょう。
そのような意味では、ある人の人生が匿名のだれか、
非人称の「私たち」の人生のコピーでしかないとも言えてしまう。
逆にコピーでしかないからこそ、私たちはお互いに理解し合えたり、
世界を共有できたりする可能性があるとも考えられるでしょう。
私たちは人間として生きられるようにしか生きられないですが、
人間として生きられるようにしか生きられないということにおいて、
私たちは完全に「一致」しているのです。
この「一致」を、ウィトゲンシュタインは「生活形式の一致」と言い、
ハイデガーは、この「生活形式」のことを「非知」としたのでしょう。
>>530 佃煮マニアさん
>しかし、共有されたピラミッドから、足を滑らせて、すそ野に
>舞い戻る場合もあって、この場合というのは、つまり・・・
心の世界から足を滑らせても生き物の世界には舞い戻れます。
舞い戻った生き物の世界から、さらに足を滑らせても
物質の世界には舞い戻れます。
でも、物質の世界から足を滑らせることはできるでしょうか?
心と生命、生命と物質のあいだの断絶が
まだ埋められていないことをわたしは気にしているので、
けっして物理還元主義を言いたいのではありませんが、
こういうある意味当り前な人間原理の外にでさえ、
私たちは出られないように思うのです。
>その内的論理は、共有されたものとは別の形式をもっていて、
>その形式が、共有されたものとどうしても合致しない場合、、、
“私たち”は別の心の形式に生きる者たちを
「異常」だとか「狂ってる」と呼ぶのです。
新しいピラミッドが林立する可能性は少ないでしょう。
なぜなら“私たち”の生の形式に背いている異形の者は、
“私たち”と同じ世界に存在してはいけない、
という根源的倫理によって裁かれるだろうからです。
>>531 佃煮マニアさん
>>私たちは<私らしさ>ではなく「私たちらしさ」の一致によって、
>>つまり<私らしさ>の消滅によって、はじめて存在しうるのです。
>これは力強い言説ですね。とても感動しました。
>存在するために、私を打ち消し、それを超えて行く訳ですね。
いえ、そうではなくて、私たち言語存在者(ホモロクエンス)に
<私らしさ>は許されていないということです。
私たちが言語存在者として存在するためには、
あらかじめ<私らしさ>が消滅していなければならないからです。
おそらくムートンさんは、このような言語存在者の存在原理を
「コピー」という言葉で表現したのだと思います。
それではどうしてムートンさんは、そのコピーにすぎないことに
気づきもしない人々を軽蔑するだけではすまなかったのでしょう。
ありもしない自分らしさを、あるものとして盲目的に確信して、
生き生きと生きられる人々を、どうして恐れてしまうのでしょう。
おそらくムートンさんは、生き生きと生きられる人たちの、
その圧倒的な生の強度にたいして恐れを抱いているのです。
スクリーンの中の生をながめる傍観者には与えられないもの、
スクリーンの中に自分自身を投げ込み、今を現に生きる当事者に
なることでしか手に入れられないもの、すなわち生の強度こそ、
ムートンさんが回避しつづけている当のものだからです。
>>531 佃煮マニアさん
>(非知とは、世界に充溢された神の存在かも知れないなあ。)
「私」が「神(あるいは非知)」から生れてきた世界の部分ではなく、
>神=世界であるなら、神は世界中に遍在している事になります。
>つまり、カオルさんの内部にも、外部にも、同様に私にも。
ということが、「私」=「神」であるときにかぎり、
「知るに非ず」は「すでに知っているから」になります。
>その事をふまえると、偏在する神を内部に意識して、
>常に神の視点を通過しながら世界を眺められたら、
>コピーではない「私」が存在として発話できる、
>そういう事になるかと思います。
「常に神の視点を通過しながら」ということは、
「私」=「神」だから、ということでなければなりません。
少なくとも「世界は私の世界」でなければならないし、
「私」=「世界」であるなら、
「世界は世界」というトートロジーになって、
つまり、ただ「世界がある」という実在論に帰着します。
すなわち、私の言語は、いつもつねに私的言語でしか
ありえなかったことになり、そうであるなら、
『<私>は<私>と同列の<私>以外の<私>という
隣人(世界)を持つことはできない』ことになるのです。
>>532 佃煮マニアさん
>そして、私が非人称において語られるとは、、、
>ブランショ的な、閉じた円環の中に永劫、身を任せる事が
>できるという事であり、それは、、、私の主観的な意見ですが、
>その事は、ニーチェで言う、「超人」の証となりうるのではないでしょうか。
>離人体験とは、超人への扉を開ける為の割り符を、手に入れる事ではないでしょうか。
ブランショを知らないので、どういうイメージなのか、今一つ掴めません。ごめんなさい。
>そもそも、円環にいることを気づかないでいるだけなのか・・・
>とても気になります。
ブランショの円環とは、ニーチェの永劫回帰のような思想でしょうか?
ニーチェの永劫回帰の思想は、彼のデジャヴ体験から思いついた
という説もありますが、過去も未来もなく、神がただひとりいるように
世界もただひとつあり、あらゆる出来事が、そのはじめも終わりもなく、
ただ在るのだとしたら、永劫回帰の思想も、それほど突飛なものでは
ないように思います。
>>543 ムートンさん
>生そのものが死です。
という言い方が許されるなら、
死そのものが生とも言えてしまうから、
そうであるなら、死を知り得ないように
私たちは生についても知り得ないことになります。
けっきょく何も知り得ていないことになりませんか?
ムートンさん、肉体は土に還るだけで、
またべつの形態で存在しつづけます。
肉体の消滅によって無に帰すのは「私」だけです。
まったくの無に帰すだろうものが、今ここに存在しているって
まさに奇跡そのものですよね?
パルメニデスは「あるものはあり、あらぬものはあらぬ」と言いましたが、
もしもそれが真実ならば、無に帰す運命にある「私」なる存在は、
やっぱり最初から存在しなかったことになりますものね。
ムートンさんのように、最初から存在しなかった「私」を見つめてみれば、
何も存在しない、ただ虚無、なのかもしれません。
もうカオルの一人語りスレにしろよ、内容薄いしつまらん
実質カオルスレだけど、、、スレタイとの齟齬が気に食わないの?
初代スレが懐かしい?
そういや俺の2chデビューが初代スレだったな。。。
ここはムートンの自スレ
前回私がキモい事を書いてしまって嫌がられたのかと思ったんですけど、よかった〜。
丁寧なレスどうもです。
一年前の自分と現在の自分はは身体の組成もまったく変わっているし、
意識だって刻々と変わっていて、まったく同じである事なんてないんだ、
とよく言いますよね。
>>550でカオルさんは離人感への理解からか、それを突き詰めましたが、
通常人間の意識は、生理として、それらバラバラなものを統合しようとする
働きを持つようです。意識のそういった働きに指令を下しているのは、
個人に恒常的に備わっている、DNAだと言われています。
バラバラなものから共通項を見つけ、同じ引き出しに入れて記憶として
しまい、一旦忘れ、また思い出した時には同じものとして認識します。
同じものとして認識したもの同士のずれが余りに大きい場合だけ、
「やっぱり違うもの・・・でも面倒だ」と、結構いい加減に、
脳は情報を仕分けしているようです。
でも、離人症の場合、その情報の仕分け以前に、知覚を遮断してしまうため、
少ない情報を同じ要領で仕分けしてしまい、共通のラベルを貼るべき情報に
張らなかったり、一括りにまとめてしまい過ぎたりするようです。
知覚の遮断なんてちょっと常人には出来ませんが、彼らの場合、
ショックな事件事故、慢性的な絶望状態などで、余りに不快だったりして
その状態をありのまま受け入れるにはちょっと難儀する、と判断したあと、
不快になる感じ方、つまり外界からの情報入力のあり方自体を否定して、
そのまま維持してみようと、身体が防衛反応を起こしたんでしょう。
でも、感じ方はその人の身体的な個性そのものがバッチリ出ていますし、
情報を仕分けしてつながりを見いだそうとする部分の意識にも繋がってるから、
それを否定して維持すると、自己同一性が揺らぎ始めます。
>>549 存在者と存在が遮断されいると、観念的には言えるかもです。
または・・・大ざっぱに身体を存在者、意識を存在とすると、
存在としての意識が、一部ロックされているため、
くっついている存在者としての身体をどうもうまく認識できない、
そこにあるのは分かるし、外界の中での自分の存在者としての座標は、
うっすら認識しているものの、情感を遮断中なので、実感が上滑りしてしまう、
そういう所だと思います。
意識化では、ロックが解除される機会を待っていて、
受け取る情報をいちいち審査する・・・審査する際の公平性なんてものを
自尊心が高い性格上意識してしまうため、ますます自我が押し込められていく、
それもまた同一性を見失う一因でしょうね。
>>554 何と言うか、神のイメージとして、そこにある異質性を保ったまま、
それが各所に偏在している、と言った方が良かったかも。
神という内在的他者を絶対化し、創出した神の視点に沿わせる様にものを見る、
という感じに。
長期的な記憶が悪さをして、どうしても自分の身体性を拒否してしまうなら、
自己存在を外界の中に設定すると、意識の細部に目がいかず、
割と、離人症者の厳しかった情報の審査機構もユルくなるかもしれません。
その事で間接的にではありますけど、自己同一性が生まれますね。
それを続けていけば、快情報が増して、ロックが外れる可能性が出てきますね。
>>551での様に、言語思考がオリジナリティを阻んでしまうならば、
イメージ思考優先でものを考えるようにして、それをそのあと
いちいち言語によって再現、吟味しないでみるとかもありますよね。
字まちがえちゃった。訂正です。
>>561のは
×意識化では、ロックが解除される機会を待っていて、
○意識下では、ロックが解除される機会を待っていて、
です
>>560 佃煮マニアさん
>前回私がキモい事を書いてしまって嫌がられたのかと思ったんですけど、よかった〜。
>丁寧なレスどうもです。
キモいとは思っていませんが、キモくてもまったく心配いりません。
それよりもわたしは仕事とか色々都合でなかなかレスができません。
それに佃煮さんのレスは、わたしには少しむずかしいかも?、です。
考えてもわかることはないとも思いますが、考える時間が必要です。
あらかじめ、すみません。よかったら気長に待っていてくださいね。
それからわたしは、あまり気を遣って話すことができないので、
もしかしたら気分を悪くされることがあるかもしれません。
もうあったかも?ですが、そのときは、ごめんなさい。
「哲学の基本は対話 4の章」
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1213269864/ は、楽しく読ませてもらっています。
佃煮さんとエートルさんの対話は、すばらしいと思います。
楽しい対話を、これからも大切に続けてくださいね。
>>560 佃煮マニアさん
>でも、離人症の場合、その情報の仕分け以前に、知覚を遮断してしまうため、
>少ない情報を同じ要領で仕分けしてしまい、共通のラベルを貼るべき情報に
>張らなかったり、一括りにまとめてしまい過ぎたりするようです。
わたしは物理的な知覚の遮断とはちがうと思うのです。
知覚が遮断されてしまったら、そもそも生きていけませんからね。
見えてるし聞こえてるし感じてるし味わってるけれども、
そこに実感がともなわない(クオリアが欠如している?)ので、
それらの経験が自分のもの(所有物)にならない。
だから、美味しいケーキを食べているそいつは自分じゃない、と。
ムートンさんが言うには、物事を論理的に理解したり、
哲学のような抽象的な思考能力については、むしろ冴えているようですよ。
冴えていないのは、たとえばAさんとBさんがちがう人であることが
わかっても、AさんとBさんのその人らしさのようなものについては
わかっていないところ。
つまり、AさんとBさんからその人らしさを差し引いてしまえば、
おなじ人間という一括りにまとめた概念で理解するしかなくなってしまう、
という感じでしょうか。
>>560 佃煮マニアさん
>知覚遮断なんてちょっと常人には出来ませんが、彼らの場合、
>ショックな事件事故、慢性的な絶望状態などで、余りに不快だったりして
>その状態をありのまま受け入れるにはちょっと難儀する、と判断したあと、
>不快になる感じ方、つまり外界からの情報入力のあり方自体を否定して、
>そのまま維持してみようと、身体が防衛反応を起こしたんでしょう。
その通りだと思います。
>>473にもコピペしましたが、苦痛から自分を守るという反応自体は、
めずらしいものではなく、むしろ当然のことだと思いますが、
めずらしいのは、苦痛から自分を切り離すことができるということや
その状態が慢性化してしまうことのほうです。
…つづく
私たちは快楽ならそれを実感することを拒みませんが苦痛なら拒みます。
ありありと感じたくないし、生き生きとしていてリアルなのも困ります。
だから、あまりの苦痛に、それが受け止められないで、
それについての実感が湧いてこない(苦痛に感じない)という防衛反応は、
もっともなことだと思うのです。(でもそれなら、どうしてウツには
このような反応が起きないのか?とも思いますが)
それに、リアリティを拒絶しているのだとしても、そもそもリアリティとは?
わたしはリアリティって、生きていてすごく当り前のことなんだと思います。
でも、それってなんだろう?って考えると、けっきょく生きている感じとか、
存在している感じとかじゃないのかな、と。
で、その感じはどこからやってくるのかな?って考えると、
どのような存在者も存在しているというそのことでは、
どのような生き物も生きているというそのことでは、
みんなおなじで繋がっている「というところから」ではないか、と。
わたしが生きて在ることの実感も、すべての存在者がまさに
そのようにあることの存在充実(このもの性)のクオリアも、
「というところから」やってくるのではないでしょうか?
つまり「というところから」の乖離をこころみて、
もしもそれに成功してしまった人間がいるとしたなら、
その人間にはどのような事態が起きるのだろうか?
と想像してみると、それは離人症ではないかと思うのです。
>>561 佃煮マニアさん
>存在者と存在が遮断されいると、観念的には言えるかもです。
>または・・・大ざっぱに身体を存在者、意識を存在とすると、
>存在としての意識が、一部ロックされているため、
>くっついている存在者としての身体をどうもうまく認識できない、
>そこにあるのは分かるし、外界の中での自分の存在者としての座標は、
>うっすら認識しているものの、情感を遮断中なので、実感が上滑りしてしまう、
>そういう所だと思います。
たぶんわたしのイメージは、佃煮マニアさんとは反対です。
身体が存在、存在者が意識というのが、わたしのイメージです。
だから、存在者の存在からの乖離が離人症の原因かもしれない、と。
もちろん、ふつうには身体は存在しているので存在者ですが、
生きて千変万化していく身体は捕まえることはできませんから、
この意味では、おなじ身体が存在することはありえない、と言えます。
だからといって、ちがう身体が無数に存在するのでもありません。
「この身体A = この身体A」が、そもそも成り立たないのです。
だから一度だって、おなじ身体が存在したことはなかったのです。
それでも生きているということが、たしかに存在しているとするなら、
生きているというそのことが、そのまま在るということなのかもしれない、
と考えることもできます。
なぜなら、この位相では、生きていることと存在していることとの
区別はつかないからです。わたしが身体を存在になぞらえているのは、
このような理由からです。
>>561 佃煮マニアさん
>自尊心が高い性格上意識してしまうため、ますます自我が押し込められていく、
>それもまた同一性を見失う一因でしょうね。
プライドが高いという性格には、なんとなく納得できます。
安易なラベリングは良くないですが。
佃煮さんは、自分の経験を話されているのでしょうか?
>>561 佃煮マニアさん
>何と言うか、神のイメージとして、そこにある異質性を保ったまま、
>それが各所に偏在している、と言った方が良かったかも。
>神という内在的他者を絶対化し、創出した神の視点に沿わせる様にものを見る、
>という感じに。
わたしが言いたかったのは、ライプニッツのモナドではないですが、
私という世界が、まったく独立にただ一つだけあるのではないか、
ということです。
だから、私以外の私(他者)はいないのではないか、
という独我論になってしまうのですが、
もしかしたら神の異質性は、わたしが独我論を言うことと
関係があるのかもしれません。
なぜ他者は、わたしとは絶対的に異質なのか?
それは他者が「私ではない」から。
わたしは恋人を愛せるだろうか、わたしは神に祈れるだろうか?
愛せるのなら、ほんとうは恋人ではないのではないか、
もし祈れるのなら、それはほんとうの神ではないのではないか?
というふうにです。
人間が創出した神のパースペクティブについての問題点については、
ニーチェの批判で十分かと考えていますが、
それでもわたしは存在しない神に祈りたいと願っています。
>>561 佃煮マニアさん
>長期的な記憶が悪さをして、どうしても自分の身体性を拒否してしまうなら、
>自己存在を外界の中に設定すると、意識の細部に目がいかず、
>割と、離人症者の厳しかった情報の審査機構もユルくなるかもしれません。
>その事で間接的にではありますけど、自己同一性が生まれますね。
>それを続けていけば、快情報が増して、ロックが外れる可能性が出てきますね。
「自己存在を外界の中に設定する」というのは、
ムートンさんのお話しを聞いたかぎりでは、とても得意なようですよ?
ゲームのなかの主人公をあやつるようなバーチャルな感じですけどね。
すでに書いたことですが、たとえばムートンさんは、なんらかの事情で、
スクリーンのこっち側で自分の人生の傍観者でいることを選んだのです。
「自己存在を外界の中に設定する」ということが、スクリーンの向こう側、
つまり、苦痛ばかりかもしれない人生のリアリティを手にすることならば、
そうそう簡単なことではないと思います。
ある離人症者は、スクリーンの向こう側に戻るときの苦痛を味わうくらいなら、
死んだほうがいい、とまで言っています。
また苦痛の回避という意味での身体性の拒絶が、同時に快楽の享受をも
遠ざけてしまっていることが解決をますますむずかしくしているようですね。
でもアイデアはいいと思うし「続けていけば」というのが肝心かもしれません。
>>561 佃煮マニアさん
>言語思考がオリジナリティを阻んでしまうならば、
>イメージ思考優先でものを考えるようにして、それをそのあと
>いちいち言語によって再現、吟味しないでみるとかもありますよね。
オリジナリティを拒んでしまうというより、
まったくのオリジナリティでは、それこそまったく理解されません。
アインシュタインがどんなに途方もないことを考えようと、
ピカソがどんなに奇想天外な絵を描こうと、
それらが必ず理解されてしまうだろうことは、
それらが考えられ描かれる以前からわかっていることです。
それにくらべて、たとえばカブトムシが絵を描けたとしても、
私たち人間は、けっしてその絵を理解しないでしょう。
もしこの意味でのオリジナリティに近いものがあるとしたら、
それは狂人にしか期待できませんが、そのオリジナリティを
私たちがまったく理解しないだろうこともわかっていることです。
>>493 自己同一=自己統合として、
それの失敗、もしくは怠慢が原因なのでしょう。離人症って。
文字通り言えば統合失調症ですかね・・・
統合を試みる時、いつも誰にでもなんらかの障害があるはずですが
その障害を乗り越えたいと思う気持ちが旨く発動せず、失調してしまった。
単にそれだけのことなのかもしれません。世の中の強い人間、弱い人間と呼ばれるものが
このあたりの違いなのでしょう。
私はそれに失敗したのか、怠慢なのかでいうと、後者のような気がします。
統合を望まなかった、もしくは統合することよりも、まだ見ぬ価値のあるものを見つけようと
違う世界に飛び出してしまったのかもしれない。
私は世界の側から見ると、つまらない人間なのだろう。
というより、私は世界の一部ではない。世界に属することを拒否してしまっている。
全て 対 私 の構図を勝手に組み立て、いつか全てを打ち負かそう、
私の側こそが、私の至った結論や、向かおうとしている場所こそが
ヒトは「もっと」素晴らしい存在になる、と言った感じで。
私の身体的自己を動かすのは、心理的自己である必要などなかったのに。
>>498 リタリン、欲しいですね。身体的自己に支配されたくはないけれど、一度面談してみたいです。
近頃はやけに生活が順調だ。人間が大嫌いであるという問題を除けば。
自己統合よりも、その順調さに重要さを感じているのかもしれない。
>>499 イナゴとも似ているかもしれませんね。
草むらで単体で過ごしているイナゴは緑色でおとなしいけど
田畑を荒らすような群れのイナゴは、おなじ種なのに通常よりも大きく、
茶色で攻撃的で食欲も旺盛。
>>504 それに順応すればまた違う自分が誕生していたんだよ、きっと。
>>514 自分のことを「彼女」・・・そんな人も居るんですね。
小さい子供が自分のことを、自分の名前で言うのに共通性がありそうです。
私は、親や他人が自分のことをさして使う「○○(名前)」を拝借して
一人称の「俺、僕、私」などに変換して使わせてもらってる、という意識で
本当に自分のことを言いたいときに、そのどれを使ってもしっくりきません。
自分に一番近いと感じる一人称が無いです。
>>525 話が逸れているかもしれませんが、
ある時ふと訪れる「悲しい」と名づけられた自分にとっての異常事態は、
それをもたらすものが自分にとっての何らかの「悲しみ」であることと、
それによって自分が変化している状態が「悲しい」という形容詞で表されることによって
初めて「悲しい」と言えるのであり、そのように言葉にすることで、
他の誰かも同じような体験をしているからこの言葉が存在するのだ、と認識し、
まずは一安心する。
普遍的なものに触れることで感情は収まりを見せる。
人間はみな、激情に身を任せたいもので、そしてまた普遍的な言葉の力によって
平常な自分に戻りたい、と常に2つのことを望みながら生きているのかもしれませんね。
>>528 興味深い夢ですね。その半透明の自分は、自分の可能性を示しているんじゃないでしょうか?
自分は今ここで半透明の自分を見ているけど、自分は今立っている廊下のもう少し先のところに居ることも
できたし、横のドアを開けてその向こうに居ることもできる、どこにでも存在する可能性秘めている、
もしくはそうでありたいという願望が浮き出た夢なのではないかと、推測しました。
>>529 >自分自身の本音の部分ではなく、誰かにそのように思わされて、
>「イヤだな」と思ったまま記憶に蓄積した事ではないか、
おそらく自分には、自分が何のオリジナリティも持ち合わせていないことが
トラウマとして頭にこびりついている(事実にせよそうでないにせよ)のでしょうか。
事実だとしたら、なぜそれが嫌なのか?それは、自分がこの抽象的な世界に
他の誰でもない「自分」として存在したがっている気持ちの強さの顕れなのかもしれません。
>>530 ピラミッドの頂上を目指すことが当たり前の世界で、その裾野の存在に気付き、
そこが一体どんな場所なのかを調査したくなった、こういうことでしょうか。
自分は足を滑らせたという意識は今までに持ったことはありません。
>>553 >スクリーンの中の生をながめる傍観者には与えられないもの、
>スクリーンの中に自分自身を投げ込み、今を現に生きる当事者に
>なることでしか手に入れられないもの、すなわち生の強度こそ、
>ムートンさんが回避しつづけている当のものだからです。
たまらなく欲しいのに、でもそれは手に入れたとしても「自分」ではなく、
「自分が手に入れたもの」にすぎない。
その程度では何の達成もなされない。やはりそれが自分そのものであらねばならない。
そんなことが可能なのか?考えただけでも気が遠くなるほど恐ろしい。
だから私はそのスクリーンの外界に居る。逃げて逃げて、一番安全なところが
そのスクリーンの外だったから。
>>556 >>543で私が言ったことは、永劫回帰の一部を語ったに過ぎないのかもしれませんね。
生へと向かっている時もあれば、その逆の時もある。「時」によって違うのでしょう。
私はなにも死にたいわけではないし、生きたいわけでもない。それ以外の何かこそに
自分が存在しているんじゃないかと、探しているんです。
>>564 私は仕事などで色んな人に会いますが、日中は人ぞれぞれ、
価値観も違えば性格も行動パターンも違い、みんな個性的だなと思っています。
でも1人になったときに思いかえすと、誰の顔も、どんな表情もすっかり思い出せない。
例えばあるひとの笑顔を思い出そうとしてもそれはできず、
その人が「あのとき笑顔だった」という記憶を反復することしかできない。
その人が笑顔だった時に、自分がそこで、その同じ時間で、同じ空気で、
生きていなかったからなのだと思います。
ムートンさんがちゃんとレスしてくれるの久しぶりぃ!
いえ、嫌味とかじゃなくって、レス無理だよなぁ、と。
わたしの書いていることってワケワカメでしょう?
いつも独り言みたいな書き込みで、ごめんなさい。
わたしはムートンさんが顔を出してくれて、うれしい!
この気持が伝わればいいのに……でも伝わらない…
ムートンさんを想像してしまうと辛い気持になります…
……でもムートンさんは辛くない……なんか不思議だ。
レスは、ゆっくりしていきます。
>>572 ムートンさん
>自己同一=自己統合として、
>それの失敗、もしくは怠慢が原因なのでしょう。離人症って。
>文字通り言えば統合失調症ですかね・・・
わたしは、やっぱりムートンさんは離人症で、
統合失調症ではないように思うんですよね。
「自分についての自明性が欠如している」ということでは、
たしかに離人症と統合失調症とでは、とても似ているけど、
でも、肝心なところで、ちがっているように思うんです。
離人症では、たとえ空虚そのもののような自分であっても、
そのような自分が、ともかくも存在していますが、
統合失調症では、そのような自分でさえ、
いまだ成立してこないのですから。
そう言えば(たぶん眉唾ですが)感性脳である右脳からの情報を
言語/自我脳である左脳が遮断してしまう状態が離人症である、
というような仮説を、どこかで読んだことがありますよ。
右脳と左脳の情報交換がうまく行かないのが統合失調で、
離人症は統合失調症から派生して出る場合もあるみたいですね。
>>563 カオルさん
カオルさんは大らかだなあ。レスを急かしたりはしませんけど、
レベル高いスレだし、書いていいのかな〜と多少思ったりしてます。
それに合わせて書いたつもりだったんですが、ちょっと意味不明だったかも?
対話スレを立てた人がカオルさんやSさんの話をしていて、
「航海する舟の明かりのようだ」と言っていたので、気になったんです。
良かったら、対話スレでも話したいですね^^
>>564 カオルさん
知覚を遮断はおかしいかも。「知覚している事を明確に認識しようとしない」
とした方がよかったかな。ごめんなさい。
嫌だった経験の記憶がどうしても頭にこびりついて、
それで頭のメモリがいっぱいになってしまうと、日常で危険に晒されますから、
防御反応として、体感知覚を素通りしようとしつつ、下意識では把握しつつ、
正面から直視しない様にものを考える様になるのかな。
大局的にものを観察して普遍性をもとめた説明をする哲学は、
離人症の人にとってとっつきやすい分野でしょうね。
しかし、人から「らしさ」や、体験を除いて概念だけでとらえるのでは、
その両者の比較ができなくて辛いかも知れないですね。
>>568 カオルさん
知り合いに味覚障害になった人がいるんです。旅館の板長さんで。
皮肉なものですよね〜
話を聞いてみたら、毎日200人300人分の料理を作っていると、
それは何とも単調な作業で、テレビで見る様な厨房の熱気は失せ、
それがもともと自分の本分でやりがいのある仕事というより、
たんなる工場作業の様な気がしてきて、段々「自分が料理をしている」
という感覚が抜け落ちてきたそうです。次いで、味見をしても、
そこから「ものを食べている」という感覚がなくなり、味も
感じなくなっていったそうです。料理の分析をして、お客の好みか、
そうでないかは、いい判断できるんですけど、それがオイシいのかは
さっぱり分からくなったようです。
仲が良かったので、一緒に遊びにいく時に手の込んだお弁当を
ときどき食べてもらったりして、友情をきっかけにして味覚を
回復してもらおうと計画してて、それなりに効果がありました!
何か、嬉しい感情を食べる事と結びつけていくと回復するのかも。
仕事ではプロとしての緊張感ばかりが優先されて
どうしようもなかったんですね。
その人は、プライドは高いですね。完璧主義で、義理堅いです。
他人本意で自分に厳しすぎる所があって、職業病かな〜という印象。
自罰の傾向が、辛い→辛いのは自分のせい→自分のクオリア全否定
→感覚を剥離となるのかな、と思います。
私もうっすらと体験(?)があるので、次の時に書きます。
>>569 カオルさん
客観性とか論理性ってありますけど、これは他者を意識したもの
なんですよね。他者への意識はやがて内在的他者となりますが、
また、個人が論理的にものを語るという事は、内にある他者性が
ないと出来ない事です。自分の中に他者を設定している訳です。
この他者はどこから来るかと言うと、今そこにいる他者その人、
あの人、であって、他者性はその人達の綜合なんですよね。
今、そこに恋人がいることによって、受動的にものを考え、
言葉をつくりだしたりしている、と私は思いますが、
でも、「神=自分」でありながら、神に祈ろうと試みるのは、
すばらしい哲学的冒険じゃないでしょうか。
>>570 カオルさん、ムートンさん
ムートンさんも好きなんだ。ゲームは私も好きですよ。
例えばPS系でデュアルショックコントローラーありますけど、
あれはキャラがダメージを受けた時、アイテムを発見した時、
ブルブル震える仕組みです。持たないとゲームできないです。
ゲームの世界観に没入してリアリティを得られるならば、
もしデュアルショックONでゲームをやっている時に、
コントローラーを手にして、それを動かしている指を意識しつつ
ゲームをやる、そういう感覚を、ムートンさん自身の感情に
つなげていくことは可能なんでしょうかね?今やってるとこかな。
>>572 ムートンさん
>統合を試みる時、いつも誰にでもなんらかの障害があるはずですが
>その障害を乗り越えたいと思う気持ちが旨く発動せず、失調してしまった。
>単にそれだけのことなのかもしれません。世の中の強い人間、弱い人間と呼ばれるものが
>このあたりの違いなのでしょう。
「健全な肉体に健全な精神が宿る」ではないですが、
強い人間には強くなるべき素質があったのでしょうね。
ムートンさんから見れば、ほとんどの人間が強い人間なのでしょうけど。
おそらくなんらかの障害があったのだとしても「それを克服した覚えがない」
ということにおいては、強い人間たちは共通しているんじゃないでしょうか。
もちろん、思春期のそれを指しているのではありません。
思春期のどうたらこうたらは、自己が統合された結果、起こりうる現象でしょうから。
とは言っても、どういった人間が強いのかについては、視点によって相対的でしょうね。
ひたすら苦しいうつ病患者にとっては、ある意味では離人症があこがれかもしれません。
そういう強い精神を持ちたい、と。
ムートンさんがこのままやり通したとしたら、ムートンさんを強い人間と評価する
人たちだって、たくさん出てくるように思いますよ。
>>572 ムートンさん
>私はそれに失敗したのか、怠慢なのかでいうと、後者のような気がします。
>統合を望まなかった、もしくは統合することよりも、まだ見ぬ価値のあるものを見つけようと
>違う世界に飛び出してしまったのかもしれない。
活き活きと生きていられるのが強い人間、というムートンさんの見方は、
たしかにそのようにも見えますから、まちがっているとは思いません。
たとえば自然の息吹に圧倒されない人間、オリンピック観戦して感動しない人間を
“私たち”という非人称の他者は、同じ人間/同じ仲間としては受け容れないでしょう。
なぜなら、そういうコモンセンスという非人称の他者を背景にして築かれているのが、
“私たち”の価値観であり、言いかえれば、それが“私たち”の世界だからです。
当然、非人称の他者の価値観や世界は、私の価値観でも私の世界でもありません。
たとえば、私たちに恋愛が可能であるためには、少なくともコモンセンスにおいて、
二人が一致していなければお話しになりませんが、ぎゃくに一致しているからこそ、
どのような恋愛も想定内のものであり、匿名の誰かのコピーにすぎないのでしょう。
すべては生きていてこその物種であり、この意味において「生命は価値の根源」です。
この「生命は価値の根源」であることを否定して、ちがう世界へと飛び出すとことが、
どういうことなのかはわかりませんが、それを試みた結果が離人症なのでしょうか?
>>572 ムートンさん
409 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/09/21(日) 23:53:16 ID:i+7zJe370
>>403 先月キャバ嬢に誘われてご飯だけ食べに行ったんだけど
その後はメールだけで何もしてない。偉い?
486 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/09/22(月) 00:25:02 ID:hente2tm0
>>459 キャバに行った次の日ぐらいって凄く空しくなるもんなんだよ。
リア充
物質でつらてきてしまた、、、ヽ( `Д´)ノ ウワァァァァン
感想を少し。(バカの戯言ですから、、)
佃煮マニアさんは学者ですか、的確で矛盾無い。
カヲルさんは比喩が不的確で、でも医者ぽい。
ムートンさんは統合失調症(?)だが日常生活を
健全にお過ごしのようだし、考える時間減らせば
楽になると思うけど。「智は苦にして罰」って感じ
>>511 >私がこの肉体の外にまで広がれば、あなたも彼もわたしになるのに。
でも(あなた)と(彼)が私を許容することは出来ないし、認知できない。
「君も私になりたまえ、アンダーソン君」
>私がこの肉体の内側にいなければいけないとだれが決めたのだろう。
決まってないから勝手に出れば、「でられない」でしょ。理解しあうことによって
えられる、語弊(言葉による自覚をふまえて)が生じない以外の「メリット」を
過大に捉えてる(錯誤している)のでは?
社会的にはすべての問題解決になるけど、個体の精神的弊害のほうが多いと思う。
ポエムとしたら使わずを得ない テクニック のような感。
長・駄文失礼しました、皆様ご健勝を。
587 :
考える名無しさん:2008/10/23(木) 12:30:30 O
【タウン】
●物質・仏壇コテに粘着
●特にムートンとこてはんまんに粘着
●特技はコピペ
●他板にまで話題を持ち込む
●でも他板で「物質のタウン」と言われると嫌がる ←New!
●パパが苦手
●ママと姉が好き
●浴槽でオナニー
●孤板住民
●始業式休んだ
●友達皆無
●無視されるのは慣れてる
●キモイも言われ慣れてる
●内定もらえた ←New!
●「中田氏」というレスを「中出し」のことと勘違い ←New!
●「リンとレンでハイブリッド」というレスをエロい意味でまざったのだと勘違い ←New!
●反論に窮すると糞古いコピペでネガキャン ←New!
●パパにおはようも言えない ←New!
●マザコンと言われると怒る ←New!
●掘立小屋同然な場所に住んでる? ←New?
(´・∀・)<ドウオモッタ?
120 名前:タウン ◆YPUxWGkqGc [sage] 投稿日:2008/04/04(金) 20:14:37 ID:+KRMaLZnO
始業式に行かないと周りの奴らはどう思う?
121 名前:タウン ◆YPUxWGkqGc [sage] 投稿日:2008/04/04(金) 20:20:40 ID:+KRMaLZnO
始業式に休んだら
周りの奴らは俺が進級したかについて話題になるよな?
136 名前:タウン ◆YPUxWGkqGc [sage] 投稿日:2008/04/04(金) 21:16:14 ID:+KRMaLZnO
お前ら、絶対友達いるだろ?
207 名前:タウン ◆YPUxWGkqGc [sage] 投稿日:2008/04/04(金) 23:24:39 ID:+KRMaLZnO
無視されるのは慣れてます
222 名前:タウン ◆YPUxWGkqGc [sage] 投稿日:2008/04/04(金) 23:59:58 ID:+KRMaLZnO
キモイも言われ慣れてる
孤独な高校生122
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/alone/1207220372/
591 :
狸 ◆zO/oG6fO.w :2008/11/16(日) 17:45:48 O
o_o
/*゚∀゚*ヽあーそーぼっっ
>>572 ムートンさん
>私は世界の側から見ると、つまらない人間なのだろう。
>というより、私は世界の一部ではない。世界に属することを拒否してしまっている。
>全て 対 私 の構図を勝手に組み立て、いつか全てを打ち負かそう、
>私の側こそが、私の至った結論や、向かおうとしている場所こそが
>ヒトは「もっと」素晴らしい存在になる、と言った感じで。
もっと素晴らしい存在になるのが自分だけではいけないのでしょうか?
どうして自分だけではなく、他の人たちまで含めてしまうのでしょうか?
もしかしたら、あなたの至った結論や向かおうとしている場所こそは、
むしろ他人に承認されてしまうことで、相対化されてはならないもの、
つまり、そういう私秘的な価値なのかもしれない。
なぜなら、それは私の至った結論や、私が向かおうとしている場所なのであって、
他人の至った結論でも、他人が向かおうとしている場所でもないからです。
すなわち、世界の一部ではなく、世界に属している「あのムートン」ではない、
<私>が至った結論や、<私>が向かおうとしている場所は、
「あのムートン」がかかわっている人々、
つまり、世界に属し、世界の一部として存在しているすべての人々の生とは、
まったく無関係なのかもしれないのです。
ムートンさんは、世間(の良識)や両親(の良心)に言われるがままの
子ども時代を過ごしました。
非人称の他者、あるいは倫理・道徳というバケモノに
自分という大切なものをからめとられてしまった人生なのかもしれません。
自分はこう思う/自分はこうしたい、という自分の自然な思考や欲求を
自分自身で押さえつけてしまった。
そのために自分の思考や欲求が曖昧になってしまった。
やがて自然な(私らしい)思考や欲求を体現しようとする自分と
そのような自然さ(私らしさ)をコントロールしようとする自分とが別れていき、
そもそも自分とは誰なのかがわからなくなってしまった。
そのために、あそこであれこれしているムートンは自動人形みたいなもので、
けっして「私ではないのだ!」という状態になってしまったのでしょうか?
あるいは、自分の思考や欲求はハッキリしているんだけれども、
その思考や欲求があまりにも世間や両親のモラルからかけ離れてしまっているために、
その思考や欲求の主体であるムートンを「自分ではない!」と拒絶してしまったのか?
それとも双方ともちがう経緯によって、現在のような事態に至ってしまったのか?
けっきょく、このあたりの自己分析が何よりも肝心なんじゃないかと思うんです。
わたしは、ムートンさんの考えかたや感じかたを奇異には感じていませんし、
哲学するのが好きな人間は、ムートンさんと同じではなくても、
いわゆる「私の側」みたいなものを持ってしまっているので、
まただからこそ、ほんとうのことを知りたくて探究している、そういう人種ですから、
その意味では、ムートンさんの近くにいる存在だと思うんです。
>>572 ムートンさん
>私の身体的自己を動かすのは、心理的自己である必要などなかったのに。
身体は意志とは無関係に生きようとして生きています。
意志的に何かをしていることなんか、実際にはほとんどないかもしれません。
たとえば、脳科学の世界では「今、右手を挙げよう」と意志されるより以前に、
脳内ですでに右手を挙げる準備ができていることが実験で確かめられています。
だから「自由意志は存在しない」という意見を言う人たちもいます。
たとえば、「あのケーキを食べたい!」という状態に脳がなった後ではじめて、
――…私は…「あのケーキを食べたい!」――になるのですが、
そのままにしておけば、おそらく「私は」あのケーキを確実に食べてしまう。(笑)
だけど、今ダイエットしているので、「私は」それを我慢することもできるのです。
このときの「食べちゃいけない!」という否定が、「私に」できる唯一のことで、
つまり、それが「意志」なんだという考え方もあるようですね。
>>572 ムートンさん
>リタリン、欲しいですね。身体的自己に支配されたくはないけれど、一度面談してみたいです。
わたしもリタリンが離人症状にどのような変化をもたらすのかには興味があります。
(リタリン程度の覚醒剤では、何も起こらない可能性のほうが強いと思いますが…)
他にも、たとえば「MDMA(エクスタシー)」という合成麻薬(分子構造は覚醒剤)などは、
人間が大嫌いな人でも、薬効のあるあいだは、みんな大好きだぜ!愛してるぜ!
という幸せ感や、その幸せ感を他人と共有できてるような感じ(つながってる感)を
もたらすようですから、それが離人症状にどのように作用するのかも知りたいです。
薬物でどうにかなるなら、けっきょく脳内の神経伝達物質の問題だったことになります。
たとえば、精神分析では治らなかったうつ病が「プロザック」で治ってしまうという事実を
どう考えたらよいのかということです。(もちろんすべてのうつ病が治るのではありません)
とは言っても、おそらく結果的にそうなってしまったに過ぎないだろう脳内の状態を
薬物で変化させるというのは対処療法であって、そうなってしまったほんとうの理由、
原因についての解明を、おろそかにしてしまう危険性があるようにも思いますが。
もちろん、脳内の状態が変化したから、心の状態も変化したのだ!
というように因果関係が逆の可能性もありますよね。
でも、おそらくほとんどのものは身体の病気と同じだと思うんですよね。
なぜなら、脳(心)も身体なのだからです。(魂は存在しないでしょう?)
不摂生がたたって病気になった、という場合の不摂生が
心の病気の場合には、どのようなものなのかについて考えたのが
たとえば精神分析だと思うんですが、処方薬に比べてその効果が
まったくと言っていいほどに期待できないのは、どうしてなのか?
についても考えてみたいです。
>>573 ムートンさん
私たちが人称(や時制や様相)という概念を理解し、その区別をわけもなくこなし、
自由自在に使えているのは、当然ですが、すでに言葉を学んでいるからです。
>>515 言葉を知らなかったなら、私たちの知っている世界は端的に存在しないと思います。
エマニュエルは、
私、というものが存在している定義≠ェある。
つまり、生きている。
と、覚りました。(奇跡の言葉だと、わたしは思います)
「私」というモノが存在している定義は、<生きている>というコトである。
すなわち、<生きている>というコトがないかぎり、「私」は存在しえない。
そう言われれば当り前のことかもしれませんが、意外に自覚されていません。
わたしは、あなたを指さして「ムートンさん」と呼ぶことができます。
でも、ムートンさんが存在しているというコト、生きているというコトは、
<それ>として指さすことも名指すこともできません。
わたしは、すでに名指してしまっていますが、わたしが使用している< >は、
本来であれば指さすことも名指すこともできないということを意味しています。
なぜなら< >は、この世界の生き物でもないし存在者でもないのだからです。
……つづく
わたしは、存在しているモノとしての「私」、たとえば「ムートン」と、
生きているというコト、あるいは存在しているというコトとしての<あなた>とは、
生命論的、あるいは存在論的には区別されなければならないと思っています。
つまり、他人が<あなた>を名指していると思いこんでいる「ムートン」が、
じつは、<あなた>のことではなく、また<あなた>を指し示してもいない、
ということは、生命論的(あるいは存在論的)には、当然のことだからです。
<あなた>が「ムートン」を拝借して、それを一人称の「俺、僕、私」などに
変換したとしても、それで<あなた>ではない「ムートン」が、
突然<あなた>になるわけではありませんから、しっくりこないのは当然です、
という説明もできるということです。
「私」というモノは、そこに生きているという実感がともなってはじめて存在しますが、
その生きているという実感は、まさに<生きている>というコトからしかやって来ない。
ですから、「私」というモノが存在している定義が、<生きている>というコトなのです。
すなわち、存在しているというコトと生きているというコトは、本来同じコトなのです。
けれども、「私」というモノと<私>というコトとは、哲学的には区別されて当然です。
……つづく
生きているモノとしての「私」(ムートン)は、おそらく言葉が創り出した虚構でしょう。
この実体なき「私」(ムートン)について、いかにもほんとうに存在しているかのように
思い込めるための条件が、<生きている>というコトからやってくる実感なのです。
つまり、<生きている>というコトに於いてはじめて虚構としての「私」(ムートン)が、
あるいは、物体としての身体が存在しうる(成立しうる)のではないかということです。
生きているコトとしての<私>は、この世界の生き物ではないし存在者でもありません。
ですから、そのままでは自分が存在しているのかどうかさえも知ることができません。
生きているコトとしての<私>は、たとえ存在していても無と見分けがつかないのです。
生きているコトとしての<私>が何ものかであるためには、そしてそれを知るためには、
存在者として存在しなければなりませんから、生きているというコト、すなわち<私>は、
生きているモノとしての「私」(ムートン)として存在することでしか、存在することも、
存在していることを知ることもありえないのです。
すなわち、もしも<私>が存在するなら、<私>は「私」(ムートン)として存在するしか
ないのです。このとき――<私>は、「私」(ムートン)である――という自己同一性が
はじめて成立するのだと思います。
けれども、たとえば「私」(ムートン)という生きモノが存在しているという「そのこと」と、
存在しているというコトとしての<私>、すなわち<生きている>という<そのコト>とが
一致しないとき、生きているというコトとしての<私>は、「私」として世界内のどこにも
位置づけられることがないので、<私>は世界のどこにも存在することができません。
<私>は世界のどこにも生れることができず、世界内での存在充実を味わうことも
できませんから、まるで自分自身に手応えがなく、ただ虚無空間を漂うかのように、
あるいは、自分自身が空虚そのものになってしまったかのように在るしかありません。
これが現時点でのわたしの離人症についての考えです。
599 :
考える名無しさん:2008/11/22(土) 14:42:37 O
test
728 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/23(日) 23:49:56 ID:Aok9299d0
「息子には『自分で腹を切れ』と言いたいですね」
親にも問題ありそうだな・・・
750 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/23(日) 23:56:56 ID:Aok9299d0
>>738 俺もバイトだからしゃーないって心の中で思う。
728 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/23(日) 23:49:56 ID:Aok9299d0
「息子には『自分で腹を切れ』と言いたいですね」
親にも問題ありそうだな・・・
750 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/23(日) 23:56:56 ID:Aok9299d0
>>738 俺もバイトだからしゃーないって心の中で思う。
867 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 00:44:55 ID:JGACFVUw0
>>842 お宅声www
869 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 00:46:10 ID:JGACFVUw0
>>849 いいこというねー
でも世の中にはアリが真面目に働いて稼いだものを
簡単に横取りするキリギリスみたいな人いっぱいいるよね・・・
876 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 00:56:06 ID:JGACFVUw0
>>871 はやく薬が切れるといいね・・・
>>874 つーかキリギリス最後はいい死に方しないし
877 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 00:56:56 ID:JGACFVUw0
>>875 SMAPも高所得者層の仲間ってことか!
910 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 01:13:24 ID:JGACFVUw0
>>880 中間かあ、いい歌ジャン
876 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 00:56:06 ID:JGACFVUw0
>>871 はやく薬が切れるといいね・・・
>>874 つーかキリギリス最後はいい死に方しないし
877 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 00:56:56 ID:JGACFVUw0
>>875 SMAPも高所得者層の仲間ってことか!
910 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 01:13:24 ID:JGACFVUw0
>>880 中間かあ、いい歌ジャン
948 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 01:25:00 ID:JGACFVUw0
>>929 別にヤリマンのこととは言ってないけど・・・
ムッシュ・・・
>>930 いい夢を見て、リアルはしっかり生きるんだお
953 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 01:26:39 ID:JGACFVUw0
>>938 魅力を感じはするけど、押し殺す
残るのは破滅だけだから
962 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 01:29:36 ID:JGACFVUw0
>>957 稼いだ大金はどこへ消えてるんだ?
967 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 01:30:30 ID:JGACFVUw0
>>946 どうなりたいの?
106 ひよこ名無しさん sage 2008/11/24(月) 21:19:32 ID:ujllX14C0
VISAのCMに出てる福沢諭吉とか本物?
110 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 21:20:38 ID:JGACFVUw0
>>106 もち
113 ムートン ◆bNcklkDUPY 2008/11/24(月) 21:23:21 ID:JGACFVUw0
>>107 笑い顔がちょっと媚びすぎてるところ有るけどね。
だまってりゃカッコイイ
606 :
狸 ◆zO/oG6fO.w :2008/11/26(水) 22:25:36 O
o_o
/*゚∀゚*ヽあーそーぼっっ
607 :
考える名無しさん:2008/12/18(木) 22:08:52 O
608 :
考える名無しさん:2008/12/19(金) 10:03:26 0
>>598 カオルさん
とてもよくわかりました。素晴らしいお考えだと思います。
わたしは離人とされる方とそうでない方に、本質としては違いはないと思います。
というのは、件の<私>と「私」の乖離については、特殊な事例ではないと思うからです。もともと<私>と「私」という別ものを同一させようという運動を誰もが行っているならば、同時に乖離も起きている。
それは変わらないのではないかと思うからです。
もちろん本質が同じだからといって、極大化した乖離によって生じる苦が消えるわけではありません。
けれども本質が同じなら、乖離が極大化したように、望まれるならその逆の過程もまた、可能性としてあるのではないかと思います。
蛇足ですが、
やっかいなのは、<私>と「私」の乖離が問題の本質ではなく、<私>への不信が問題の本質であった場合ですね。
わたしだったりする訳ですが・・・(笑
193 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/02(金) 13:42:06 ID:lpKkGFTi0
>>188 今日だけは新年おめでとうと言っておこう
今年こそは家族に病気のこと相談しろよ
417 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 21:56:39 ID:rdHiRcaO0
あろはー
419 ひよこ名無しさん sage 2009/01/03(土) 21:57:49 ID:iDGVZy6J0
ムートンは嫌いじゃないが、ムートンが来るとうざいのが沸いてくるのが嫌い
仏壇にまで来るからもっと嫌い
430 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 22:00:08 ID:rdHiRcaO0
>>419 すまん、あのバリウムウンコ野郎は俺が責任持って処分する
とりあえず俺は仏壇にはしばらく行かんことにする
448 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 22:04:39 ID:rdHiRcaO0
今後あいつを説得できそうな人材がいて、いま協力してくれてるところだ
455 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 22:05:39 ID:rdHiRcaO0
>>436 狸ってなんでそんな可愛いの?
464 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 22:08:35 ID:rdHiRcaO0
>>453 頼る気は無いけど、無下に協力を断る必要も無いだろ。
彼は凄いよ、年末に仏壇で説得してたもん、できてたもん
>>454 誰かを説得して無理だったの?
自分がメンヘラだったの?
467 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 22:09:56 ID:rdHiRcaO0
>>443 叱ってくれる人がいるのは幸せなことだよ
495 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 22:15:21 ID:rdHiRcaO0
>>469 それは一体何なんだろうね?俺にも自覚はあるけど正体が分からない。
狸はめずらしいもの好きなのかな
>>470 そりゃ確かに・・・
>>471 ('A`)
505 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 22:17:24 ID:rdHiRcaO0
>>480 でも頑張り過ぎないようにね(*´∀`*)
張りすぎた弦は切れてしまうから
538 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/03(土) 22:26:52 ID:rdHiRcaO0
>>523 俺は狸のチューナーになりたい
705 ドウオモッタ? sage 2009/01/04(日) 00:00:05 ID:e9d/eq2WO
1 ムートン ◆Sheep2h65. sage 2006/10/22(日) 05:50:54
自分はクオリアも分厚い氷の檻に遮られているような状態でして
この先の自分の人生を、哲学の力を借りて切り開いて行けないものか
と思い立った次第です。
「私は」という時、それはムートンなのであって私ではない。
本当の私は、という時も、それは私ではありません。
いつまで経っても私は私を語れないのです。
私はきっと何かに語られるものとしては存在できない。のでしょう。
それがおそらく世界と一つだった頃の私。流動する私。
708 ムッシュ52型改 ◆DASH/wXFGw 2009/01/04(日) 00:02:26 ID:+zyhoU8R0 BE:837374786-2BP(2400)
>>705 どうでもいいことを小難しく言うことによって
哲学を語ってる風な自分に酔ってる
776 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 00:46:04 ID:Oeu3X+0p0
ああーあいつ何とかしないと
781 ひよこ名無しさん 2009/01/04(日) 00:47:03 ID:EljX2qUk0
>>776 反応するならもう助けない
798 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 00:54:10 ID:Oeu3X+0p0
じゃあ俺は無反応を徹底する
800 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 00:55:00 ID:Oeu3X+0p0
>>797 なあなあ
820 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 01:04:58 ID:Oeu3X+0p0
>>807 パチンコで勝つコツってあるん?
823 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 01:06:30 ID:Oeu3X+0p0
あいみは13月18日生まれだったのか
835 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 01:11:36 ID:Oeu3X+0p0
>>826 2月29日みたいなもんですね。
>>828 ああ、うん
855 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 01:20:46 ID:Oeu3X+0p0
>>849 1000円あたりの最低限の回転数って機種に表示されてるの?
1/400は少なくとも10kぐらい必要なのかな?
864 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 01:23:11 ID:Oeu3X+0p0
>>841 猫年だなんてもうホントお茶目さんなんだから
868 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 01:23:54 ID:Oeu3X+0p0
アニーってパチンコやるのか
880 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 01:26:59 ID:Oeu3X+0p0
アニーの年齢が大体分かった気がする
911 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 01:47:22 ID:Oeu3X+0p0
>>891 5万もってくとしたら、等価交換1000円20回の台で1000回転はするつもりで
ってことか、理論上は・・・ギャンブルってここまではまる人もいるんだなあ。
941 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 02:01:26 ID:Oeu3X+0p0
>>926 ギャンブルが好きで、金があって、他に使う当ても無くて、時間が空いてる時・・・
全ての条件を満たす事は、今後俺には無いな。6戦6勝、通算7万勝ちぐらいだけど
もうきっぱりとやめるわ。
962 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 02:08:19 ID:Oeu3X+0p0
>>953 勝ってもなんか空しくない?あんまキレイな金って気がしないし。使い道に困る
981 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 02:15:00 ID:Oeu3X+0p0
>>973 旅行の計画とか立ててるほうが健康的だわ。
978 ◆/OQtOoOOoQ sage 2009/01/04(日) 02:14:21 ID:F5+SZrrm0
>>972>>974 あーそうですか わかりました
983 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 02:15:38 ID:Oeu3X+0p0
>>978 香水!
986 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 02:17:24 ID:Oeu3X+0p0
>>984 >>946←このレスなに?
994 あいみ ◆AIMIwSWYXQ 2009/01/04(日) 02:19:38 ID:nhd57KVM0 BE:204426432-2BP(6100)
>>986 メッセ
999 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 02:20:22 ID:Oeu3X+0p0
まだ出来ない。待ってくれ!
648 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 11:29:57 ID:Oeu3X+0p0
重い愛 軽い愛
650 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 11:33:43 ID:Oeu3X+0p0
>>649 http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1220235453/ 653 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 11:39:35 ID:Oeu3X+0p0
>>652 おれ昔回答用テンプレ持ってたし
657 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 11:45:34 ID:Oeu3X+0p0
>>654 話せば長くなるが、とりあえず2chブラウザを導入すれば
全ての板一覧から簡単に探すことが出来ます
659 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 11:46:52 ID:Oeu3X+0p0
>>655 なにそれ?普通のヘッドじゃないの?
>>656 ねーさん
912 リア充離人症テツガクシャ名言ドウオモッタ? sage 2009/01/04(日) 16:06:08 ID:e9d/eq2WO
268 ムートン ◆Sheep2h65. sage 2007/07/05(木) 23:37:07 0
どこまでも深く落ちていく。無意識しか働かない。多少音楽中毒。
一つ気づいた。私の父親は、おそらく離人症だ。その子供なのだから、もっともなのかもしれない。
270 考える名無しさん 2007/07/07(土) 22:11:47 0
>>268 親が何の理由になるよ
何もかも自分で自由に決済できるというのに
それのできないのを親のせいにして
親はいい迷惑だぞムートン
915 ムッシュ52型改 ◆DASH/wXFGw 2009/01/04(日) 16:08:43 ID:+zyhoU8R0 BE:732703267-2BP(2400)
>>912 自殺しなきゃいいけどな
と思う
623 :
考える名無しさん:2009/01/04(日) 18:36:42 0
>>717 俺と似てるなって思った
>自分はクオリアも分厚い氷の檻に遮られているような状態
今でもそれを、体験してる
外界が、分からない
高校卒業して、何かを契機にしてそういう状態に、「徐々に」なっていったんだと思う
それが、そのスレの
>>593 >非人称の他者、あるいは倫理・道徳というバケモノに
>自分という大切なものをからめとられてしまった人生なのかもしれません。
>自分はこう思う/自分はこうしたい、という自分の自然な思考や欲求を
>自分自身で押さえつけてしまった。
>そのために自分の思考や欲求が曖昧になってしまった。
>やがて自然な(私らしい)思考や欲求を体現しようとする自分と
>そのような自然さ(私らしさ)をコントロールしようとする自分とが別れていき、
>そもそも自分とは誰なのかがわからなくなってしまった。
俺の場合は「一般的に善し」とされていることに縛られたわけではないんだけど何か、やっぱりここでも考え方で極端なものが見えてきてしまった
それがはっきり良く分からないんだけど、それを契機にして考え方が、明晰にならなくなっていったような気がする
624 :
考える名無しさん:2009/01/04(日) 18:53:40 0
離人症の皆さん。例えば初参りについてどう思いますか?
手を合わせている自分/それを客観的に視ている自分 に分離していませんか?
<祈る>ことの本質は純粋に主観的なことだと思うんで、<メタ自分>は邪魔なんです。
625 :
し:2009/01/04(日) 18:54:07 O
おまえ俺が東京国際大学で認識が阿呆だったのわからなかったか?しかもおまえの思いは横に逸れてわかる筈ないじゃないか?認識できたやついたか?だいぶ時間経って全員荒いから覚悟しとけよ
137 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 18:57:03 ID:Oeu3X+0p0
恋空ってさ、男が病気じゃなくて、女が男の元カノに乱暴されてなかったら
単にどこまでも腹の立つピュアラブストーリーに過ぎなかったんじゃまいか?
144 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 19:07:00 ID:Oeu3X+0p0
>>138 なにか問題があるからこそ、物語は物語になり得るということか
タラ・レバで考えすぎたな
>>139 ゴールド免許の条件
ゴールド免許は5年間無違反を続けたら自動的に交付されるのではなく
その条件を満たした後、最初の免許更新または新規取得をした場合にのみ
交付を受けることが出来る。また対象となる「5年間」とは、
免許の有効期限年の誕生日から41日前の日以前の5年間である。
無事故無違反ではあっても免許証を更新忘れなどで失効させてしまっている場合は
認められない。 5年間無事故無違反を続けていても、改姓・住所変更・限定解除など
裏面追記で済む手続ではゴールドに切り替わらない。
新たな免許を取得(例えば今まで普通自動車免許しかなかった者が
自動二輪の免許を取得するなど)すればゴールドに切り替わる。
ゴールド免許ではあっても更新時の年齢が70歳の者は有効期限4年、
同じく71歳以上の者は有効期限3年である。これは一般運転者の場合も同様である。
※しばしば「無事故無違反」が条件と言われているが、
「交通違反と認定されない自損事故」の場合はゴールド免許失格の条件に該当しない。
150 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 19:17:13 ID:Oeu3X+0p0
>>148 別に氏ねとか煽られても、相手もわからないネットだし、気にしなければいい
ただ、つくレスには何らかの意味がある場合がほとんど
何故こう言われたのかとか、考えてみるのもいい
157 ひよこ名無しさん 2009/01/04(日) 19:19:56 ID:8MXmves0O
>>150 意味ないレスがたくさんつくムートン、あけおめ
161 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 19:23:03 ID:Oeu3X+0p0
>>157 おめあけ(´ω`)
僕は全てのレスに何らかの意味があると考えていますよ
163 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 19:24:53 ID:Oeu3X+0p0
>>154 同じ目線でいいやん。
つーかそんな性格のままじゃ、丸井でオサレなもの買って身に付けても
何も変わらないと思うよ。
167 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 19:26:29 ID:Oeu3X+0p0
>>162 それは未だによく分からん。飯落ちノシ
170 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 19:27:52 ID:Oeu3X+0p0
>>164 仮にどう考えても無意味だと思うレスも、
何故この人はこんな無意味なレスをするに至ったのだろうかと思案する。ノシ
171 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 19:28:56 ID:Oeu3X+0p0
>>169 最近1日平均1.5食。仕事始まったら3食に戻ると思う。
余計なこと考えなくなるから。ノシ
173 ひよこ名無しさん 2009/01/04(日) 19:33:14 ID:8MXmves0O
>>170 ちんぽこ大魔王についてとりあえずの結論が出たら報告してくれノシ
202 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:17:18 ID:Oeu3X+0p0
>>173 あれって携帯だっけ?
あれは消防か、30過ぎの大人の戯れか、
言っちゃなんだが障害者のどれかだと思ってる。
何にしてもネットに疎い人間の犯行かと
203 ひよこ名無しさん 2009/01/04(日) 20:20:22 ID:EljX2qUk0
犯行ってなんだよ
206 パヨラッシュ ◆BUFS.RPbOM 2009/01/04(日) 20:23:18 ID:/0NCQl+a0 BE:314009892-2BP(6400)
(´・ェ・`)なんでみんな死なないの?
208 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:24:21 ID:Oeu3X+0p0
>>203 猥褻言語陳列罪でタイーホ!
211 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:26:06 ID:Oeu3X+0p0
>>206 めずらしく哲学的問いかけだな
216 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:29:34 ID:Oeu3X+0p0
>>212 そういうのすごく気になるw
231 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:40:43 ID:Oeu3X+0p0
>>224 害はないしね。
>>225 パフューム初めて聞いたときミクかとおもた。
235 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:42:19 ID:Oeu3X+0p0
>>227 セーラームーンリアルタイムで見てたん?
あれやってるとき俺なんか違うアニメ見てた気がする
239 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:44:30 ID:Oeu3X+0p0
平成教育委員会の女子アナかわいいな
249 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:48:56 ID:Oeu3X+0p0
>>238 なにやってたっけ?ゆうゆうはくしょ?
>>240 おいいいいいいいいいいいいいいいいいいい
って嘘か。
>>241 あの声質でエフェクトかけたらだれでもミクになれる。
256 ひよこ名無しさん 2009/01/04(日) 20:53:21 ID:7CzSeDb0O
今年の4月で社会人2年目になりますが、通勤カバンにサマンサタバサのバッグ(ショルダーの焦げ茶)を持って行ったら生意気だと思われますか?
リングがハート型のゴールドで、ちょっとキラキラしてるんですが…。
264 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:56:06 ID:Oeu3X+0p0
>>256 他の女子社員がどうしてるとか、周りの環境による。
今の時代、女の子のオシャレに口出してくる人なんて稀でしょう
261 パヨラッシュ ◆BUFS.RPbOM 2009/01/04(日) 20:55:06 ID:lyaQgUtd0 BE:209340443-2BP(6400)
>>257 それはただなんとなく物質してきたから後悔するのだ
パヨちゃんの如く一レス一レスに魂を込めれば
何の後悔もない
268 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:57:09 ID:Oeu3X+0p0
>>261 マジで惚れそうになった
276 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:58:51 ID:Oeu3X+0p0
>>272 でも教育委員会でいつも上位だよね。
279 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 20:59:32 ID:Oeu3X+0p0
>>275 パヨちゃんの魂の叫びです
306 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 21:10:57 ID:Oeu3X+0p0
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5458146 明日学校や仕事が始まる人、これ見ようよ
310 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 21:12:41 ID:Oeu3X+0p0
>>301 パヨってオシャレな若者だったんだね
330 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 21:38:33 ID:Oeu3X+0p0
>>312 トリュフチョコは美味いってことしか分からん。
332 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 21:40:22 ID:Oeu3X+0p0
明日やろうと思っていた仕事の資料を今やってしまった。
347 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 21:47:29 ID:Oeu3X+0p0
>>336 BEの紹介文なんでいつもそんな面白いの?
360 ひよこ名無しさん sage 2009/01/04(日) 21:57:05 ID:OIX307CQ0
メールで死ねってきたんだけどうまい返し方教えて
367 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 21:59:53 ID:Oeu3X+0p0
>>360 「そのうち」
てか冗談でも酷いメールくるのね;
371 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 22:05:03 ID:Oeu3X+0p0
死ねは無い
だってもし親の不幸とかがあった直後にそんなメール届いてたら
どんな気持ちする?死ねは相手のことを考えられない欠陥人間の言葉
だからやめよう!
636 :
狸 ◆zO/oG6fO.w :2009/01/04(日) 22:16:27 O
o_o
/*゚∀゚*ヽ風邪に注意だぉ
380 ひよこ名無しさん sage 2009/01/04(日) 22:09:16 ID:OIX307CQ0
僕はずっと前からムートンとオフをしたいと心の奥から思っていました
それが今日実現したので僕はもう死んでもかまわないと思っています
390 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 22:14:27 ID:Oeu3X+0p0
>>376 親戚一同が見てる前なら「はははこやつめ」
見てないときなら「お前が死ね」
>>378 kwsk
>>379 どっから見つけてきたw
>>380 実現(´ω`)?
死ぬとかも簡単に言っちゃいけません。
402 ムートン ◆bNcklkDUPY 2009/01/04(日) 22:18:42 ID:Oeu3X+0p0
>>394 うむ。たいていのドラマでは、ヒロインが主人公に言っている。
>>395 自分がどうしてるときにキモイと思われているのかを研究→その行動をやめる