509 :
考える名無しさん:2010/03/17(水) 15:55:49 0
記憶を上記のように2種類に分割して考えているのでしょうか?
510 :
考える名無しさん:2010/03/19(金) 01:36:38 0
>>507さん。
まず
>(1)そもそも、主語的部分、述語的部分は、それぞれ何に相当?
くわしく述べるスペースはないが、ヘーゲル論理学においては、この場合
主語=(概念の)普遍性 述語、もしくは主語からいまだ分割状態にある述語=(概念の)特殊性
そして主語と述語が統合された、(全体としての)概念=個別性
あなたの言う「記憶」の意味がよくわからないが、それを「発話」の過程性で述べるなら、
主語=「概念」の根源的かつ内的な抽象段階として、その概念が発話される以前の、いまだ発話者ののアタマの中に留まっている段階としての「概念」
述語=「概念」の根源的かつ外的な抽象段階として、その概念が発話される以前の、その発話者とはまったく無関係に「可能態的段階」に留まっている「概念」の意味一般
概念=主語と主語と述語が統合され、その「発話者のアタマ」からも「抽象的な意味一般」からも相対的に独立した、主体と意味が結合され「実体性」を獲得した生きた「内容」
>(2) また、述語に移行したこの状態は、Hegelの云う根源非分割状態に相当するのですか?
主語が完全に述語に移行し、またその述語が完全に「概念」という「実体性」を獲得してしまえば、
もうそれは主語と述語への再分割は不可能。よってそれはあなたのいう根源非分割状態。
>(3) そして、これが対自意識によって判断Urteilの形式で、再主語化、最述語化の部分に再分割されて発話??
ここはおそらく、その「発話」によって主語と述語が統合・実体化され「概念」となたった「意味」が、
それはいまだに現在においては「実体性」を所有しているにもかかわらず、未来にむけ
またふたたび「抽象的段階」に引き戻され、新たにまた「発話者」により同じ手続きでもって、
「より高度な概念」を目指してさらなる永遠の発展的継続をくりかえすこと。
だと思う。 俺は責任はとれないがね(w
>>510 この時代には通じているがヘーゲルについては門外漢の俺だが、基本的に
あってると思う。(1)は20世紀以降の言語哲学にも通じる内容だね。
512 :
考える名無しさん:2010/03/19(金) 16:08:32 0
>>510,
回答大変有り難かったです。まだ、すぐには掴みきれていませんのでゆっくり読ませて貰います。
ただ、そもそもカテゴリーについて、私は誤解していて、述語の最上位類概念とばっかり思っていましたので困っていたのです。思惟そのものの形式なのですね。
Heglの論理規定が、Knt的なカテゴリーにどのように対応するのかは掴みかねてますが。
>>512 カテゴリーっていうことばはどこから引っ張ってきたの?
514 :
考える名無しさん:2010/03/19(金) 17:04:28 0
認知科学で言うカテゴリーでなくて、昔からのアリストテレス的カテゴリーの意味にずっと引っ張られてきた。
カテゴリー自身が前進するという意味でのカテゴリーならヘーゲルにもあるっぽい。
516 :
510:2010/03/19(金) 22:00:00 0
>>512さん。
>Heglの論理規定が、Knt的なカテゴリーにどのように対応するのかは掴みかねてますが。
これはどこにも対応しません。
カントの例の12のカテゴリー表ですが、これはヘーゲル自身が、
ちょうどエンゲルスが反・弁証法信者に「形而上学的」というレッテルを貼りつけ葬ろうとしたように、
ヘーゲルもカントのカテゴリー表を、「あまりに固定的な形式論理学的であり、これでは千変万化する現実に対応できない」
といっとような理由で、『哲学史講義」や『大論理学』等で、そのカテゴリーの吟味・検証さえまともにやろうとせず、
脇に放り投げています。
よって、ヘーゲル自身には、カントから受け継いだカテゴリーは存在しないはずですが、
だがじつは、
>>515にもあるように、ヘーゲルの「絶対精神」とは、「運動し歴史を駆ける『物自体』」であり、
アリストテレスからカントへ引き継がれた形式論理学では登場しない、ヘーゲル論理学固有に思える「個物性」という概念も、
結局はヘーゲルがその形式論理学から発展させたものにほかなりません。
つまり、ヘーゲルの強がり、自己申告にかかわらず、じつはヘーゲルの体系はカントという先人が存在しなければ
成立しないものだったのです。
私の
>>510は、字数の関係で論の結論しか述べてない、非常にわかりづらい文章になりました。
>>510かほかのことでも、疑問がでたらおっしゃってください。
最近は忙しいのですが、ヒマができたらレスしますんで。
517 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 10:23:10 0
>>516 有難いの極みです。少し考えたり調べたりします。今後を宜しく。
518 :
考える名無しさん:2010/03/20(土) 18:06:58 0
550
精神は解放されると、自己自身に到達し、自らの真実態を実現するようになる。
この仕事こそ最高の絶対的な"法"である。
特定の民族の自己意識は、普遍的な精神がその定在においてその度毎に展開する段階の担い手であり、
この精神が自らの意志を投げ込む客観的現実である。
このような絶対的意志に反するときは、それ以外の特定の民族精神の意志は権利を失う。
そういう民族は世界を支配するものであるが、普遍的精神はその度毎の自らの所有を、特定の段階と
して超えて出て行き、やがて民族を没落するままにしておき、審判にまかせる。
ヘーゲル『エンチュクロぺディー』河出書房新社 p.415
一応ヘーゲル大論理学では、概念論の主観を論じた部分で、判断表(質/量/関係/様相の順)が参照、
改訂されている。ただし、4つの範疇よりもその中のそれぞれの三つの契機が強調され、概念へ
の止揚が優先される。
カントは範疇を数学的と力学的の二種類に分けたが、ヘーゲルはそれさえ主体化の中で揚棄してしまっ
ているために範疇間の差異よりそれぞれの三つの契機が優先されたと思われる。
そもそもその存在論で、質、量、限度といった範疇そのもののトリアーデ化もはかられていると見てよい。
(絶対理念)\
(生命) 理念 (認識)
/______\
/\ <概念論>/\
/推論\ /__\
/ 主観的\ /客観 \
/[概念]_判断_\ /______\
/\ /\
/ \ / \
/限度 \ 『論理学』 /現実性 \
/______\ /______\
/\ <存在論>/\ /\ <本質論>/\
/ \ / \ / \ / \
/ 質 \ / 量 \ /存在本質\ / 現象 \
/______\/______\ /______\ /______\
520 :
考える名無しさん:2010/03/21(日) 06:59:21 0
>>516 >>503 >>510から、
なにか、主語述語それぞれにおいて、独立に、(個別/特殊/普遍)、あるいは(本質Wesen/現象的実在Ex-/現実存在Akt-)のような、論理規定の即自態、対自態、即且対自態が、ずれつつ回転して、主語述語の、基体としての同一性を成立させているような。
もう少ししっかり考えます。
521 :
考える名無しさん:2010/03/21(日) 07:03:24 0
>>519 論理規定の進展は、トリアーデのフラクタル構造みたいに見えます。
・たとえば最上位のstageは、(存在/本質/概念)の3要素。
・次の第2stageは、これらの各要素がそれぞれの3要素に。従って全要素は32の9個の論理規定の集合。すなわち、存在は(質/量/限度)、本質は(反省/現象/現実性)、概念は(主観性/客観性/理念)。
・次の第3stageは33の27個の論理規定。
・そして概念では、下位の第6stageまでの展開も。たとえば第5stageに見られる(総合的認識)は、さらに第6stageの(定義/分類/定理)へ。
このフラクタルの、左右の進展は、論理規定の(即自/対自/即且対自)の「弁証法的展開」ですね。
そこで、教えていただきたいのは、この上下stageの進展(その「展開」、ないしは「運動」)は、hegl研究の皆様の間で「一般」になんと呼ばれているのでしょうか?
この、論理規定の上下の展開に特に興味を持っているものですから。 どうかよろしくお願いいたします。
522 :
考える名無しさん:2010/03/21(日) 07:08:59 0
>>521の訂正
上から4行目の「32」は、3の2乗。
上から6行目の「33」は、3の3乗。
523 :
考える名無しさん:2010/03/21(日) 07:27:35 0
私
>>520ですが、
>>516の「ヘーゲル論理学固有に思える「個物性」という概念」がはっきり掴めません。
524 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 18:53:29 0
>>521 この過程、単純に考えるなら、「分析的認識」です。でも、上位の論理規定が対自態や即且対自態であっても、いずれもが下位では即自態に変容するところに、どんな機構が考えられているのか。
単に分析的認識というほど単純でないと思うものですから。何らかの呼び名がついているのかと思うのです。
525 :
考える名無しさん:2010/03/22(月) 19:21:50 0
たとえば、「総合的認識」は対自態のカテゴリーですが、その下位の「定義」は即自態です。
526 :
横レス:2010/03/23(火) 02:43:44 0
ヘーゲル体系の基本は(左下から番号順に)、
3類=普遍(即且対自)
/\
/__\
1個=個別 2種=特殊
(即自) (対自)
ですが、その論理学においては、以下やはり番号順に、
1類
/\
/__\
2個 3種
だったり、
2類
/\
/__\
3個 1種
だったり、
あらゆるパターンが駆使されます。
すべてが循環してしまうというところに矛盾があると言えばあるのですが
(その意味でコジューヴもジジェクもヘーゲルには弁証法はないと言う)、
ヘーゲルの論理学は実は(ゲーテゆずりの)生物学モデルなのですべてつじつまがあってしまいます。
527 :
考える名無しさん:2010/03/23(火) 13:31:38 0
>>524 門前の小僧の恥ずかしい一人相撲。
論理規定体系の表現に色々あります。平面正三角形のフラクタル、逐条展開、左右数直線のデデキント的無限切断、同一直径の回転上昇、、、。これらに釣られて、つい、Kant的instrumentalな図式を持ち込みたくなりました。
この過程(
>>521,
>>524)、各項をそれぞれ否定するため、該項を改めて即自的に肯定した上で、「否定」を行っている。要は論理系の「記述の否定的展開」だと思いました。
いま、ご回答に接し、改めてよく読ませて頂き、考えます。
528 :
510:2010/03/24(水) 23:01:28 0
>>523さん、まだいらっしゃいますか?
>私
>>520ですが、
>>516の「ヘーゲル論理学固有に思える「個物性」という概念」がはっきり掴めません。
ここは簡単なことです。形式論理学には「普遍性」と「特殊性」という概念はあるが、
この両者は、カント哲学における「物自体」と「現象」の関係性に見られるごとく、原則的に対極の関係にありながらも、
けっしてお互いに交わることのないものだと規定されています。
ところが、ヘーゲル哲学にあっては、この二者の他にこの二者と異なる「個別性」≒「個物性」という概念が登場します。
そしてこの「個別性」とは、原則として抽象的規定体である「普遍性」と、同じく可能態的抽象物である「特殊性」が
合一されることにより発生する「実存・実体的存在」です。
ここは当然に、ヘーゲルが形式論理学における「普遍性」と「特殊性」を生きた運動物としてヒュージョンさせた結果、
生まれた概念だといってしまえるでしょうが、背景の事態はそれだけはありません。
時間があれば、カントの三批判書を成立順に読み返してみてください。
元来なら「現象世界」=「特殊的事象の集合体」に対しては「物自体」=「絶対的普遍性」は決して直接的には関与せず、
または「現象世界、およびそこの住人である我ら人間」は、「物自体」に関しては不可知なはずですが、
これが三批判書を読み進んでいくにつれ、いつのまにやらだんだんとカントが「物自体」の性質を述べている箇所が多く見られるようになってきます。
それ自体は動かず、運動せず、なにとも関わることのないはずの「物自体」に、
だんだんと色が染まってくるのがわかります。
こうしたところもまた、ヘーゲルが「個別性」という概念を獲得できた理由のひとつかもしれません。
現在、めちゃ多忙なので、今度いつレスできるかは保障しかねますが、
なにかあったらまた質問をageといてください。ヒマができたら書きこみしますんで。
では
>>523さん、ヘーゲル研究をがんばってくださいね。
529 :
Fucking all night♪♪♪:2010/03/25(木) 10:33:59 0
今日は嬉し、恥ずかし、奥さんとのデートだよ、と。
最低限のエチケットとして爪は切っておけよ、と。
530 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 13:47:20 0
>>528 「個物性」とは、所謂、「個別」、ないしは「個別性(Einzelheit)」のことだったのですね。
確かに、「個別性」は、個々の物、個々の人として発現するとされるわけですから、「個別性」≒「個物性」としてもよいわけですね。了解しました。
>>527のことですが、Hglは、Kntの範疇論よりKntの時間図式論を高く評価したそうです(ヘーゲル事典 弘文社;「範疇」項 p404)。
Hglのカテゴリー(論理規定の意)の図式論について何かお考えをお持ちでしょうか。
531 :
横レス:2010/04/01(木) 23:42:24 0
ヘーゲルにおいて(カントと違い)感性と悟性が統一され主体化
されるのはいいとしても、実際にはキリスト、ナポレオンと単に
現権力の追認という形として実体化されただけだから、評価は難しい。
彼が空間論より時間論を重視したのも単に自然科学からの乖離をあらわ
しているに過ぎない。
だがそれでも歴史的存在としてのヘーゲルは棄てきれない。
その理由をうまく説明できないのがもどかしい。
ヘーゲルって個物とか個体とかまともに論述してる?
論理学である程度の記述はあるけど、
>>528の話しとは
違うような。
その記述はどこに書いてあるん?
533 :
横レス:2010/04/13(火) 02:57:36 0
ヘーゲル自然哲学の最後の方でホメオパシー(同種療法、長谷川訳 576頁)について言及されている
ので驚いたことがある。
自然哲学における個体についての論述はゲーテの影響を受けながらも当時としてはかなり具体的かつ
先進的なもの(背伸びしたもの?)だったのではないかと思う。
534 :
必殺技 傲慢!剥奪蔑視 魔波:2010/04/15(木) 20:20:08 0
障害はしだいに衰退していくものである。単に生活しているなんてまあまあの人生を
送れてる。怪我をしたって、失敗したって、どんなに不利益を蒙っても、一つ一つの失敗
の陳列なんていうのは悪いものじゃない。障害を学ぶことで、どういった方法で失敗する
と知り、如何に恵まれてただけかを自覚させるのだ。
如何に油断していたかだ。ごく限られた世界で上手く行っていたに過ぎない人は自覚し
てない、どんなに成功しても安息してたら自覚なんてできない。何か意味があって、逸脱
したのです。意義が無いとしたら、油断したままだったはずだ。
順調に行ける奴なんていない。どこか誤りに迷いこんでいるはずだ。
障害は社会に対応できなかった。対応できてたらそのままだったはずだ。昔のことに
固執してたから、僭越ながら失敗したのだ。
だから、駄目なんですよ。
ドイツ語の勉強が辛い;;
536 :
考える名無しさん:2010/05/21(金) 19:15:27 0
537 :
考える名無しさん:2010/05/24(月) 12:44:33 0
個人の性行や性的嗜好と、そいつの学的レベルとは無関係じゃぞ。
しかし、懲戒解雇とは痛い。
>>537 いや〜、そんなに簡単に話でもないでしょ。
539 :
絶対者のゆくえ:2010/05/24(月) 19:37:25 0
このセクハラ問題を弁証法的に考えるとどうなりますか?
540 :
考える名無しさん:2010/05/26(水) 17:44:26 0
ヘーゲルは屁ーゲル。
541 :
横レス:2010/05/28(金) 00:02:02 0
>>539 >セクハラ問題を弁証法的に
正 反 合
被告 原告 判決
大学 問題 健全化
女性 被害 自立
542 :
考える名無しさん:2010/06/06(日) 16:17:25 0
>>539 即自; 欲求のままに
対自; 拒否と、解雇
即且つ対自; 焦慮 ??
ヘーゲルファンは頭いいね
おまいら最高だぜ
544 :
考える名無しさん:2010/06/21(月) 17:42:54 0
>>543 つか、ヘーゲルを乗り越えるだけのアタマがありゃ、
ファンなんぞにならねーだろ。
ヘーゲルの著書ではないのですがヘーゲルに肩入れしていると思われる人の
弁証法的logicと数理logicについて書いている本を読んだのですが
あまりの内容の酷さに驚きました。
最初の2段落から見事なまでのトートロジーで始めてくれるのですが
まず客体的論理学を数理論理学を「おおむね同じ」であるとしながらも
続けて即座にそれらを同一視した上で数理論理学を認識主観を捨象して
客観的対象を扱うものとしますが、数理論理学(著者は記号論理学という意味で使っているようです)
はそんな主張はしません。
伝統的論理学では扱いづらい数学的命題を扱えるようにするために
日常言語の曖昧さや多義性を捨象して論理の型だけを取り出して
記号操作しやすくしたものが記号論理学であって
個々の命題の意味論的分析や認識論的身分や存在論的身分についての探求は
それぞれ言語哲学や認識論や存在論、つまり哲学の議論に譲るのです。
その他、この本は命題について無意味と偽の区別も明確にされていず、論証とは呼べない主張の飛躍、
論点先取り、誤解や混乱、無意味な接続語の使用等のオンパレードです。
主張の内容をみても哲学的に稚拙です。
mはwを好む、という命題のmとw両方に人格的主観性を持つものが代入されれば
その命題は有意味になるだと主張されるのですが、
wに無生物(例えば車や人形)が入ったとしらそれは無意味になるでしょうか?
mに動物が入った命題は?
mとwに無生物が入ったものは文学的に有意味とされるそうですが
文学的有意味な命題と文学的に無意味な命題はどのように区別されるのでしょうか?
私が観察するところによるとこのようないい加減としか思われない本を書かれる方が
特にヘーゲリアンに非常に多い気がします。
ヘーゲリアン!自浄能力を持ってくれ!
546 :
age:2010/06/23(水) 00:02:52 0
結局、ボルツァーノのヘーゲル批判でヘーゲル論理学の破綻は言い尽くされている。
ただ、論理学的誤謬はヘーゲルの限界ではない。
ヘーゲルの言説は歴史や生命や無限や倫理に関する仮説だから対抗する仮説が
なければヘーゲルは生き延びるし現に生き延びている(これは日本で官僚制が生き
延びていることに似ている)。
ヘーゲルの言説を生かした上でひっくり返した読みをするしかないのだが、
論理学的破綻だけを指摘する人はそこまで考えが及ばない。
>>441を見る限りヘーゲルの方がカッコいいな。
下のは運動を静止を使って述べているだけでレベルが同じ。
549 :
考える名無しさん:2010/06/24(木) 18:47:36 0
>>546 「ひっくり返した読み」のこと、マルクスが何処かでいってなかった?
550 :
考える名無しさん:2010/06/25(金) 15:17:22 0
唯物弁証法、逆説弁証法、否定弁証法ではない、弁証法のひっくり返しした読み。
資本論や弁証論理の展開について、マルクスも、レーニンも何かいっていたような。
551 :
545:2010/06/25(金) 19:25:03 0
>>546 私のレスに対する意見でしょうか?
そうだとしたらまったく的外れです。(そうでなかったら聞き流して下さい。)
よく読んでください。私がどこでヘーゲルを批判していますか?
ヘーゲルに肩入れしているある著者の数理論理学理解にひどい誤解、
(というかほとんど勝手なレッテル貼りですね。)があること。
内容的にもかなり混乱があり、まったく哲学の議論レベルに達していないこと。
ヘーゲリアンにそのような著作が多いように見受けられることを指摘してるのです。
正直、よく知らないことを知ったかで書いているとしか思えないこのような書き物は
私のようにヘーゲルに多少とも興味を持つ人々を誤解に導き、レベルを落とし、
ヘーゲルの言わんとしていることを骨抜きにしてしまうと言いたいのです。
だから自浄能力を持てと。
論点を外したレスをしないように読解力を磨いてくださいね。
552 :
545:2010/06/25(金) 20:01:55 0
>>547 >>548 カッコいいなの一言で判断するのが哲学なのですか?
ボルツァーノとヘーゲルは基本的に違うことを主張していると思います。
ヘーゲルは時間的幅を持たない瞬間といった概念から議論を組み立てていますが、
ボルツァーノは一定の幅を持つ時間経過を前提とした議論をしています。
ヘーゲルは「質点が同じ瞬間に同じ場所にある」としただけでは
飛ぶ矢のパラドクスのように静止画のコマ送りのように運動が捉えられてしまい
実質的に運動が生まれないという感覚があったと思います。
ですが「ある」ということに「止まっている」ということは含意されないですし、
さらに時間的幅の無い瞬間に質点が空間的位置を占めていても「止まっている」とは「言えない」。
静止を語るには異なる2つの時点間において質点が同位置に留まっている場合のみ「言える」わけです。
以上のことから瞬間においては質点は動いているということも止まっているということも意味をなさず
運動を語るには時間経過を前提する必要があるということがわかります。
この解釈が正しければ、時間的幅の無い瞬間という場面では運動は定義できず、
この運動の議論はやはりボルツァーノに分があると思います。
553 :
545:2010/06/25(金) 20:29:56 0
しかし、運動の定義ということから離れると
動いているとも止まっているとも言えない瞬間における質点の存在論的身分はどうなる?
という疑問がわいて来ました。
あるのか無いのか?あるとも無いとも言えないのか?あり、そして無いなのか?
どれを選んでも乗り越えがたい難問にぶつかりそうです。
554 :
考える名無しさん:2010/06/27(日) 09:47:04 0
ヘーゲルねぇ……。
555 :
考える名無しさん:2010/07/08(木) 07:46:04 0
初学者です。哲学史について学びたいのですが、
ヘーゲルの『哲学史講義』は優れた哲学史の本でしょうか。
哲学史の本がいろいろ出版されているので迷っています。
556 :
考える名無しさん:2010/07/08(木) 08:29:19 0
カントとヘーゲルの思想は辞書の語義にも度々用いられる二人ですが、私が思うには
二重構造に組まれている人の心を理解しているのはヘーゲルだと思われます。
無限判断って何ですか?
カントとの違いを誰かてるみい
>>555 何をもって「優れた」と形容するかによるんじゃないか思いますよ。
哲学史について書かれた書物が新しければ新しいほど
新たに発見された新資料などに基づいて書かれている可能性は高いわけですから
史実的な記述は正確になっていくでしょうし
一方、歴史記述、特に哲学のそれは執筆者の解釈を免れないわけですから
解釈の妥当性という点からの評価も出来ます。
ヘーゲルはその哲学、考え方を背景に哲学史を解釈していますから
ヘーゲルの哲学に説得力を感じるならば選んでも良いですが
より客観性の高い哲学史を学びたいのならば
新資料にあかるい最新の哲学史の書物を求めるべきでしょうね。
ヘーゲルの哲学史解釈が優れているかどうかはなんともいえません。
鋭いと思う部分もあれば的を外していると思う部分もあります。
史実的に正確な解釈を求めるならば概説的な哲学史ではなく
それぞれの分野の専門書にあたるしかないですし。