12 :
1:2006/09/18(月) 21:30:48
そうだ、私の主張はこれです。
主立った哲学議論は、倫理に即して考えたいと言うことです。
二元論や独我論、また認識論、言語論や現象学、形而上学など哲学には
多彩な議論がありますが、倫理的な側面から行われた議論というのは
少ないのではないか。そういうことなのですよね。
極端な例で言うと、カントの『物自体』なる用語に対して倫理的な意味付けを
行うことは、もしかすると意味のないことなのかも知れないけれど
(私はあまりそうは思わないけど)、それなりに意味を意味を帯びてくるので
はないか。
あるいは哲学の思考そのものが倫理的な土台に依拠されているのではないか?
極端な二者択一的な疑問でかえって、碩学化の誹りを免れかねないのですが、
とりあえず。
13 :
1:2006/09/18(月) 21:46:18
>>11 どうやら私の根本的なところを焦点にしようしているみたいで、なんだか恐縮して
おります。
正直に言ってしまうと、今から三批判の倫理的側面を語れと言われても
おそらく出来かねると思います。まったく出来ないわけではないと思いますが、
それなりの準備が必要になると思います。
まあ言い訳なのですが。
いちおう、今思いついたことを申し上げます。
定言命法は倫理的側面は色濃く出ていますよね。
あと表題の一部だけを取り上げても「純粋理性」「判断力」「実践理性」と
倫理的側面がないとは言い切れません。表題だけ見れば、人生哲学に
ついて誤解を受けかねないが、しかしその内容は一般に受け入れられる
内容とはなっていないという若干の矛盾もあると思います。
まあ私のレベルはこれくらいだとご理解下さい。(あなたのご判断にお任せします)
あと私が取り残されるのを気になさるのはどうかご遠慮下さい。いつもここにいる
わけではないし(明日も来れるとは限りません、つか難しいかも)、私によって議論が
狭められてしまうのは本意ではないので。
あと、これがこのまま議論に発展するようであれば、コテハン(数コテOK)を
付けて頂けると助かります。意見の提出(問題提起)と議論は峻別したいなと
思っているので。
14 :
1:2006/09/18(月) 21:48:49
ちょっと目が疲れたので休憩しますよ。
15 :
1:2006/09/18(月) 23:05:22
どうも必要なことが語れていない。
>>4の問題提起は、これからの倫理の議論についての土台作りのため。
そこから入らないと、偏った議論になってしまうと思うので、広く浅くの方向性を
念頭に置いている。
いちおうそれがないと
>>8の私の言葉に対して誤解が混じらないとも限らない
だろうから、さらに意見を追加しておく。
<倫理的な思考に依拠している哲学者>
スピノザ、ベルクソン、ヘーゲル、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、
デモクリトス、デリダ、ウィトゲンシュタイン、ハイデッガー、トマス・アクィナス、
ライプニッツ、デカルト、パスカル、キルケゴール、ショーペンハウアー、etc...
とか、(思いつく限り)挙げられるかもしれない。むしろ彼らには倫理に対する確信も
伺える。しかし自分で羅列していくのは、何だか嫌味を残すような気がする。
あと
>>6=11さんは、
>>13の私の意見で満足したのだろうか?
それが少し気がかりだ。(いちおう煽っているつもりは毛頭ない)
16 :
1:2006/09/18(月) 23:57:29
思いっきり話が飛ぶけど、倫理的思考の側面がよく現れている小説を挙げよと
言われたら、私は高村薫氏の『マークスの山』を挙げたい。
主人公の刑事が、誰か(署長?)を恫喝した後の、それをひどく反省するシーンが
あるのだけど(悪いがうろ覚えで、ページ数が思い出せない)、その描写に黙り込ん
でしまった。この作者は、思惟する主人公の描写が本当に上手いと思うし、『人』の
部分が描かれていると思った。
それで、また飛ぶんだけど私の考えでは、倫理というのはこの『思惟』の部分に
掛かるのではと思っている。(どーも説明が上手くないな)
ちなみに『エチカ』を書いたスピノザは人間の本質を、思惟にあるとしている。
私はこの記述を非常に興味深いものとして捉えていて、ここに道徳との
根本的な違いがあると思っている。
えー、私が考えているのは道徳と倫理の峻別化なのですが、
>>6さんの記述にも若干見受けられるけど、どなたにも倫理と道徳の混同している
様子が見受けられるのです。道徳(律)と倫理の混同(未分別)があるとは否定しが
たいのではないか。(
>>6さん、あなたを言上げして申し訳ないが、誰もレスをくれない
ので……)
やっぱり、2ちゃんねるって、煽ったり煽られたり、多少本線からずれた議論をしない
と盛り上がらないのかな。いちおう真面目で堅実な議論をしたいだけなんだけど。
17 :
1:2006/09/19(火) 00:10:04
計四時間か。
まともに2ちゃんねるにのめりこむと、時間の無駄になるんだなあと思う一日だったな。
本当に時間があるときでないとできない。
ということで今日はこの辺で落ちるのであります。
18 :
6:2006/09/19(火) 00:11:50
>>15 俺は11じゃないよ。
>>8 >しかしながら、ここに何らかの(誰かの)解釈が入ったとき、
>何故かいつも倫理の部分がすっぽりと抜け落ちてしまうんですよね。
これは何を言ってるの? 「いつも〜抜け落ちてしまう」とあるけど、
『実理』の解釈で倫理がすっぽり抜け落ちるなんて想像できないんだが。
「いつも」というからには当然多数の文献を読んでそう感じたんだろうけど。
というか俺は実理を挙げたんだが、あえて三批判全部を取り上げる意味は何?
>>16 事のついでに聞くけど、1の言う「道徳と倫理の峻別」って何?
どこで誰がそういう峻別をしていて、それは倫理学の中で共通了解を得られてるの?
またその基準でいうと「カントの道徳律」は道徳であって倫理じゃないの?
はっきり言って1が何を言ってるのか全然分からん。
明日朝起き会あるもんね。
20 :
考える名無しさん:2006/09/19(火) 00:37:34
哲学者は倫理がないから倫理倫理とさわぐのだ。
この現象を「大道廃れて仁義あり」という。
所詮は老子の手のひらで遊ばれているのだ。
答えの出てるバカってのもラクでいいよね。
明日朝起き会があるから早く寝ようっと。
22 :
考える名無しさん:2006/09/20(水) 21:39:02
age
23 :
1:2006/09/21(木) 22:03:08
ちょっと間隔が開きましたが、なんとかやってきましたよ。
>>18=6さん
レスを間違えて申し訳なかったです。
まあ、早速私の方から意見を述べさせて頂きますね。
『実践理性批判』は『倫理』については書かれていないと思います。
開いている期間で、途中まで(約2/3)を読みましたが倫理に対して
直接触れている箇所はなかったと思います。
もちろん、こう言われてもあなたはまだ納得しないだろうとは思いますけど、
それについてはおいおい詰めていきたいと思っています。
いちおうその議論がメインの予定だったなので。
>>しかしながら、ここに何らかの(誰かの)解釈が入ったとき、
>>何故かいつも倫理の部分がすっぽりと抜け落ちてしまうんですよね。
>これは何を言ってるの? 「いつも〜抜け落ちてしまう」とあるけど、
>『実理』の解釈で倫理がすっぽり抜け落ちるなんて想像できないんだが。
解釈というのは学的な精神が介入されるという意味です。
主語は著書以外の他者(評論家)です。話が理論的になり、
倫理的な本質が抜け落ちるということです。
まあ、特に重要な文言じゃないでしょうね。
>というか俺は実理を挙げたんだが、あえて三批判全部を取り上げる意味は何?
さあどういう意味なんでしょう。というか実理のみを取り上げる必然性の方が
薄いんじゃないかなと思いました。なんにせよ特に深い意味はありませんよ。
それから私に深い知識はありませんので何かをあてにされているのなら無駄だと
先に申し上げておきます。とりあえず返答は以上です。
(話を、倫理と道徳の違いについてに移ります)
24 :
1:2006/09/21(木) 22:04:48
本当はこの話はする予定はなかったのですが、いちおう『実理』を読んだんで、
その話から入りたいと思います。というか感想でしょうか。そんなに深い話ではありません。
カントが倫理と道徳を切り分けたのは確かだと思います。その二つのうちの道徳について
語ったのだと私は解釈しました。むろん、倫理と道徳を別概念と呼ぶには、あまりに近似
した方向性を持っていることは言うまでもありません。
しかしながらそれらが示す世界観(観念)はあまりに違います。
まず広さが違いますよね。
道徳は社会的な意味を含みます。もちろん個人が社会に含まれるように個人も
含まれますが、それはその形式において含まれるだけで、社会から独立したところ
にある個人に対してその範囲が及ぶことはありません。
しかし倫理は、まず社会的な意味を持たないことから、まず違います。
そして独立した個人をその倫理の対象とします。
つまり道徳は倫理に対してより広い世界観を持っているということになります。
更に言えば、道徳は倫理に対して包合的でかつ、全体的なのです。
カントの言い方ならば道徳は、統合的な問題と言えるかもしれません。
そしてこれはただにその概念自体が示す意味の及ぼす範囲を述べただけに過ぎません。
25 :
1:2006/09/21(木) 22:15:48
いちおうその次は、何故そのような区分けができたのか、 それから、
その区分けがどのような意義を持つのかが問題の焦点になると思いますが、
それについてはまた後日語ろうと思いますので、まずは、この範囲についてを
確認して頂ければと思います。(いちおう他にもいろいろと言えていないことが
あります)
あとここからは本当に個人的な感想になるんですが、カントの道徳律は、
あまり役に立たないだろうなというのが率直な意見ですね。
もちろん、個人的な意味に限ってなので、おそらく社会的意味においては
有効、いやそうに違いないのでしょうけども。
例えば、『道徳律』が定言命法で語られなければならないという括りは、社会的
意味においては有効ですよね。「人を殺してはならない」、「困っている人には
親切にすべきだ」……、と定言命法で語られなければ社会的な用を為さない
ものばかりです。とすると『実践理性批判』は倫理学ではなく、むしろ法哲学の
分野において大きな貢献を果たしたのではないか、と考えるのが自然のよう
な気もします。
それから倫理を語る上では、『純粋理性批判』に触れておくことは重要だと
思いますね。私の考えでは『純理』には倫理的な側面が強いと考えます。
むろんカントが倫理に肯定的な考えを持っていたとするには、若干の否定が
入りますけどね。
いちおうスピノザ的というと分かっていただけるような気がします、全体を
通してスピノザを批判する形式をとっているのが『純理』だと私は位置づ
けています。
ちなみにスピノザは、『エチカ(倫理)』を書いた人です。
いちおうその著書の周辺のことを私は今後語ろうと考えているところです。
26 :
1:2006/09/21(木) 22:32:35
いちおう今日書く分は書けたと思う。
(もちろん全体からすればまだまだなんだけど)
質問があったら、ご遠慮なくお願いします。
でもなるべく初歩的な質問でお願いしたいかなw。
また私が提示した区分けに納得が行かないという人がもしいたら
その理由も一緒にして意見を頂きたく思います。
あと、この区分けは、私のオリジナルと言いたいところですが、そうではありません。
この哲学板にも同じような考え方をしている方を見つけてしまったのです。まあ今は
その心の用意がないのでどこで見つけたかは申し上げるつもりはありません。
ちょっと今気付いたんだけど、自分の議論の進め方が卑怯だなと思ってしまった。
>>4を、載せておきながら、検討ではなくいきなり批判を始めてしまったのは失敗でした。
明らかに痛い人になっていたようです。今後気を付けたいと思います。
で、同じことを繰り返してしまって申し訳ないんですが、
>>4をもう一度読み返して
頂ければと思います。(注:思いつく限りでなくて全然構いません)ので
よろしくお願いします。
27 :
6:2006/09/21(木) 23:31:44
>なんにせよ特に深い意味はありませんよ。
>それから私に深い知識はありませんので
深い意味のない言葉を深い知識なく語られてはたまらんな。
まじめに倫理の話をしようという態度とは思えない。
突っ込んでも「知識がないので」と逃げられてはどうしようもないし。
28 :
1:2006/09/21(木) 23:44:00
>>27 そういうことは、まずあなたがその知識を提示されてから言うべきだと思います。
29 :
6:2006/09/21(木) 23:53:09
と言われても、1の独自見解がキツすぎて提示しようがない。
何で1みたいな区分けをするのか、なぜその区分けに従わなければならないのか
(その区分けに従うことにどういう哲学的な意味があるのか)
も分からんから、1の言う「倫理の議論」の指す対象が分からない。
30 :
1:2006/09/22(金) 00:01:55
>>29 むしろ私はあなたが提示されたカントの倫理的側面の続きを語って頂きたいと思っているのですが。
いちおう
>>29の質問の返答は後日語ろうと思います。もう寝るので。
31 :
6:2006/09/22(金) 00:06:59
>>30 待て待て。もうちょっと寝るの待て。俺が何か語っても
「それは倫理じゃなく道徳です」とか言われるから困ってるんだよ。
しかもそれがどういう意味だかさっぱり分からんし。
だから先に1が倫理に対するその独自の見解をきちんと示してくれないと。
共通了解があるならそこから議論が出発する(かもしれない)けど、
そもそも倫理とは何かについてすら共通了解がないんじゃ困る。
32 :
考える名無しさん:2006/09/22(金) 01:33:08
寝ちゃったの?
33 :
1:2006/09/23(土) 19:15:16
>>31 ごめんなさい。寝てしまいましたね。
と言っても私、今後も長く滞在できないと思いますのでご了承下さいませ。
それじゃあ
>>29の返事ですが
>何で1みたいな区分けをするのか、なぜその区分けに従わなければならないのか
そもそも、日本人の多くは、倫理と道徳の区分けがまったく出来ていないと感じたからでした。
まず私がそうでした。道徳抜きで倫理を語れない自分が過去に存在していたのですが、
その違いに気付き、区分けを厳密にすればするほど、互いが相反するような性質を持って
いることに気付いたのです。
単純な対立図式ですが、倫理をとるか道徳をとるか、それが人間の自由の部分にあたると
思うのですよね。それが人間の本質ではないかとも考えられます。
そう言うと若干違いを感じられると思うのですが如何でしょうか?
つまり、私の目的はそれを指摘したいことにあります。日本人は倫理という言葉を
正しく使えていない。その私の主張に対して、まず皆さんに納得して頂くことが目的です。
その辺の土台作りを曖昧にすると、やはり今後にも支障を来すと思うのです。
それで、もし使えていないととすると、それはどうしてなのか?
それを解明することが、第二の目的にあたります。
結果から原因に遡って、それを解明する方法をとり、その結果、朧気ではない正しい倫理
という概念を獲得していきたいと考えております。
第三の目的は、倫理という言葉自体が持つ目的を明らかにすることです。
何故倫理が必要とされているのか?(これは私の主観ですが、決して、独りよがりな
感想ではないはずです) また、倫理という言葉が持つ意味の構造を明らかにしていくこと。
それはつまり、「倫理とは何か」と論ずることです。それは道徳という言葉との比較によっても
明らかになると私は考えておりますし、もちろん他にも多くのやり方があると考えております。
34 :
1:2006/09/23(土) 19:19:00
>(その区分けに従うことにどういう哲学的な意味があるのか)
あなたが捉えている哲学的意味が何を指しているのかは今の私には
不明なのですが、私は議論をしやすくすることと、概念の厳格化を想定しています。
>も分からんから、1の言う「倫理の議論」の指す対象が分からない。
そうですね。誤解を与えやすいタイトルだと思います。
でも、たとえば「法律を守るべきかどうか」という題目で行われる議論は
ここでは受け付けられないと思います。
しかしながら、その問題自体は倫理的問題であることから、問題にある
倫理的な部分を哲学的手法によりクローズアップして、考え得る限りの精密な
議論がここでは可能になるのではないかということと、また倫理的な部分に関して
具体的で意味のある何らかの貢献がこの議論で果たせるのではないかとも思って
おります。というより、そうであったらいいなと一方的に思っているだけですが。
35 :
1:2006/09/23(土) 19:20:55
>>31 >俺が何か語っても
>「それは倫理じゃなく道徳です」とか言われるから困ってるんだよ。
おそらく私の議論の仕方に対する批判なのでしょう、もちろん、私の独自の考えを
提出することは可能です。このスレを立ち上げる前にその内容を書き上げています。
しかし、文字数制限の規制や、それにただ提出して感想をもらうだけだけでは、
つまらないなと思い至りまして、思い切って時間を掛けてここで議論するという形式を
とらせて頂くことにしたのです。
>だから先に1が倫理に対するその独自の見解をきちんと示してくれないと。
>共通了解があるならそこから議論が出発する(かもしれない)けど、
>そもそも倫理とは何かについてすら共通了解がないんじゃ困る。
まずは普遍論争のようなものだと思って頂いて構いません。あなたの考えがあって、
私の考えがあり、それらはまったく様々です。私自身はその自分の解釈が的中して
いるという自負はあるのですが私は間違いの多い人間ですから憶見が混ざり混ざっ
てしまっているという恐れもあります。
そこで各々が意見を出し合い、各自で言語の普遍的意味の調整をしていく
という手筈をとれば、確実に議論が進められるのではないか、そう思ったわけです。
36 :
1:2006/09/23(土) 19:25:45
では議論の中身に移りたいと思います。
みなさんには辞書で道徳と倫理の二つの意味をご覧頂きたいのですが
(下はgoo辞書ですが、お手元にある辞書でも構いません)
> どうとく だう― 0 【道徳】
>
> (1)ある社会で、人々がそれによって善悪・正邪を判断し、正しく行為する
> ための規範の総体。法律と違い外的強制力としてではなく、個々人の
> 内面的原理として働くものをいい、また宗教と異なって超越者との関係
> ではなく人間相互の関係を規定するもの。
> (2)小・中学校において、道徳教育を行う教育課程。1958年(昭和33)から新設。
> (3)〔もっぱら道と徳とを説くことから〕老子の学。
> りんり 1 【倫理】
>
> (1)人として守るべき道。道徳。モラル。
> (2)「倫理学」の略。
上を読んで頂いたのち、それから二つを比べて考えて頂きたいのですが
道徳に対しては、ある程度の説明があるのに関わらず、倫理に対しては、
たった二行しか書かれておらず、辞書としての説明を果たしていないの
ではないかというのがみなさんの率直な感想だと思われますがみなさんは
如何でしょうか?
とりあえず私は一旦休憩して皆さんの意見を待ちたいと思います。
>>33 >日本人の多くは、倫理と道徳の区分けがまったく出来ていないと感じたからでした。
欧米人はちゃんと区別出来てるの?
欧米では倫理はギリシャ語由来で道徳はラテン語由来ってだけの話だよ
元々は違いはない(もちろん日本語の道徳と英語のモラルの違いのような
ものはあるけどね)
それが2つ言葉があるからそれぞれに少し異なった意味合いを持たせようとして
哲学者によって倫理/道徳の定義は異なってる
あるいは日常語でニュアンスが若干ことなるというだけの話じゃないの
それと君は倫理=個人的、道徳=社会的と定義してるようだけど
それ自体が恣意的な区分(勝手な妄想)じゃないの?
ニュアンスの面で言えば倫理の方がどちらかといえば社会的なものとして
使われる方が多いと思うけどね
38 :
1:2006/09/23(土) 21:20:55
なんだか誤字(余字)が多い。
>ではないかというのがみなさんの率直な感想だと思われますがみなさんは
>如何でしょうか?
は
>……ではないかというのがみなさんの率直な感想だと思われますが如何でしょうか?
として読んでください。
さておき、倫理とは何かについて更に言及してみたいと思います。
倫理という言葉はウィキペディアで倫理学として触れられているのですが、
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AB%E7%90%86%E5%AD%A6 (各自で参照してください)
これは先程よりも、何だか的を射てない印象を持ちます。
メタ倫理学とか規範倫理学、または道徳哲学や、応用倫理等の語が出ているのですが、
整理されていない印象を私は持ちました。倫理学は一体何がしたいのかを、ここで見つけ
るのは難しいのではないかと思われます。もちろん学問としての立場もあり私にはわかり
かねる部分もあるのでしょう。それでも、これでは倫理学は社会に対してどのような貢献を
しているのかと問われても、何も言い返せないに違いません。個人でやるならまだしも、
学問としてやるからにはそれなりの方向性は持つべきだと思います。これは少し言い過ぎ
かもしれませんが。
第二の感想は、倫理学は道徳についても考えているということです。であれば道徳学
という名称の学問を作って、独立した倫理学を作り上げてもよさそうなのではと思ったり
もします。それからどうして道徳と倫理がくっついてしまったのかそのあたりについても
興味を覚えますね。
39 :
1:2006/09/23(土) 21:39:07
>>37 いちおう
>>38を書き上げたあとにあなたのレスを確認してざっと読ませて頂きました。
私の意見がが恣意的というあなたの意見には、批判が不可能なので私の方では
触れるつもりはありませんが、
>欧米人はちゃんと区別出来てるの?
という意見には、少しばかり答えてみたいと思います。
まず、それは出来ていると答えたいと思います。
たとえば倫理的な問題に対して、それを道徳的問題だと言い換えるような自体はまず発生しないと思います。
少なくとも、ethicとmoralの違いは明確なのではないでしょうか。
混用されている箇所を私は見たことがありません。例えばカントの著書で、倫理と道徳が入り乱れている
箇所はまったくと言っていいほど見受けられませんでした。
また日本人に関して言うと、日本人には、そもそも倫理は理解できないというのが私の意見でもあります。
この部分に置いては特にみなさんの同意を頂ければ願ったりというところなのですが、倫理という言葉は
道徳に対して特別なニュアンスを発すると感じるのは私だけではないはずですし、またそれが何か分から
ない人は意外に多いのではないかと思うのです。つまり倫理をなんとなくしか理解していないのです。
そして、それは理解していないと解して問題ないと思いますが如何でしょうか?
>それと君は倫理=個人的、道徳=社会的と定義してるようだけど
>それ自体が恣意的な区分(勝手な妄想)じゃないの?
>ニュアンスの面で言えば倫理の方がどちらかといえば社会的なものとして
>使われる方が多いと思うけどね
これは問題構造(図式)の違いだと思いますよ。つまりあなたの想定されている道徳と倫理は
個人と社会が双方に向き合っていて、逆向きをしているのです。
例えば道徳は会的な規範を個人に当て嵌める構造を持ちますが、
倫理は個人や一部の善悪の考え方を社会に対して問い掛けるという構造を持っています。
まずその点に同意頂けるか、あなたの意見を待ちたいと思います。
もしかしてじゆんさん?
41 :
1:2006/09/23(土) 21:58:25
話を続けますが、
倫理的な面が強調される問題の一例として、延命治療の問題があると思います。
ここには明確な対立する図式があります。医療業務者からみると延命は善という
考え方であり、病苦に苦しむ患者にとっては、もしかすると助からないのが分かっ
ていて痛みの中で生きていくのであればすぐに死んでも構わないとする考え方を
持つでしょう。
これは間違いなく社会的な問題となった倫理的な問題です。問題の焦点を当て
ていく上で、どちらかを一方的に正しいことと確定することは出来ない。その問題
に対して判断を迫られた当事者に出来ることは、どちらかの立場に立つことだけで、
その彼らですら疑心暗鬼の中にいるのが本当のところだと思います。
一方的などちらかの主観的意見に立つことが出来ない。それが倫理的問題だと
私は認識します。もちろんその対象は善悪に対してです。
そしてその対立する者同士にとっては相手が悪となるケースもあり、
善悪の判断すらとまどうケースが殆どだったりします。
小説の殆どはこの倫理の構造に依拠しているのかもしれません。倫理的な視点を
基盤に作られる物語のことを人文というとなるほど分かりやすいかもしれません。
しかし道徳は違います。少数意見に対する留保も認められるのですが、その基盤は
大多数の普遍性に基づく意見によって、統一されます。そしてカントが最終的に目指した
のはこの道徳であると私は考えております。
42 :
1:2006/09/23(土) 22:03:40
あーこんなに早くばれてしまったかあ。(いちおう多少変化を付けて書いてばれないように
気を付けたつもりだったのだけど、どだい無理な話だったのかもしれないな)
もしかすると退場する日も案外近いかもしれない。いやこれはあなたのせいではないのですが。
私を嫌う人間がここには存外に多いので、注意しないといけないのだ。
とりあえず名前を名乗るつもりはないので、ご了承いただければと思います。
43 :
1:2006/09/23(土) 22:17:34
ちょっと脱線してしまったので、
>>41から意見を続けますが、上の延命治療の問題はウィキペディアに
よると応用倫理の中の生命倫理と呼ばれるそうです。これは倫理学を応用したものと捉えると良いのでしょうか?
もしかするとこれはコンピューターの構造に似ているのかもしれません。知らない方や案外忘れている
方も多いかと思いますが、アプリケーションソフトのことを応用ソフトと言ったりします。そしてWindowsや
MacやLinuxなどのOSのことを基本ソフトとも言ったりします。
とすると現在の日本では応用された倫理については、社会的にも目に触れやすいが、基本となる部分に
ついては皆目分からない。
ちょっと強引な解釈ですが、とりあえず私が思いつく意見は以上です。
>>39 欧米人はちゃんと区別出来てるの?
というのは一般人の事だよ。カント等の学者の場合はそれぞれの言葉に
特殊な意味を持たせている場合があるのだから2つの言葉をきちんと区別
してるのはある意味当然の事だ
>個人と社会が双方に向き合っていて、逆向きをしているのです
以下は意味不明です。
それから、ざっと読んでみたけど
もしかして君は倫理と倫理学を混同してるんじゃないの?
45 :
1:2006/09/23(土) 22:29:35
>>44 >欧米人はちゃんと区別出来てるの?
>というのは一般人の事だよ。
はいそれも出来ていると私は考えています。
もちろんその資格たるものは存在しますがね。
>以下は意味不明です。
そうですか。だとすると提出するのが早かったのかもしれませんね。
>もしかして君は倫理と倫理学を混同してるんじゃないの?
それは想定外の指摘でした。私自身は混同していないと考えているので、
あなたにどこがそうなのか示していただくことになるかと思います。
46 :
1:2006/09/23(土) 22:41:16
>>45の続き
その資格たるものについてですが、いかにも思わせぶりな言い方ので
更に申し上げます。まずキリスト教かユダヤ教信者がそれにあたるでしょうね。
別に宗教とは必ずしも必然的関係ではないのですが、神との関係を
見つめることは倫理的思考において重要な意味を持ちます。
ちなみにこの意味でカントは倫理的であり、その射程圏内にスピノザのエチカが
あることは言うまでもなく純理の根幹にあたる部分だったりします。
私はおそらくカントから哲学が倫理的視点から道徳的視点に方向転換したのだと
考えています。そしてヘーゲルやハイデッガーなどはその典型であり後継者であ
ると私は捉えていますよ。
47 :
1:2006/09/23(土) 23:24:31
さて、どうしようかな。正体もばれてしまったことだし、遅かれ早かれここが荒らされる
だろうから、しばらくは書き込みが出来ないかもしれないので報告をしときます。
いちおうここで言おうとしていた意見の半分も言えていないのだけど、あんまり盛り上
がらないし、とりあえずそろそろ退散しようとも考えています。それは今後の私の気分と、
みなさんのレスの状況次第だと思われます。それから私自身の都合はあるけどこれは
恣意的な部分だもんね。
いちおう2ちゃんねるに対しての感想は、本質的な部分は以前とあんまり変わらない
ということ。若干、変わったんじゃないかっていう期待もあったんだけど、良い意味でも
悪い意味でも以前のまんまだった。もし2ちゃんねる(=2ちゃんねる参加者&運営)
が今後発展させようと思っているのなら、それなりの改革は必要になるだろう(余計な
忠告)。まあその部分についてはいちおう静観しようとは思っている。
では落ちます。
>>45 例えば、
>>38 >さておき、倫理とは何かについて更に言及してみたいと思います。
>倫理という言葉はウィキペディアで倫理学として触れられているのですが、〜
などは倫理と倫理学を混同している事の一例では?
それから、欧米の一般人が倫理と道徳を区別出来てる事の根拠は何?
記念カキコ。
心に余裕があると人間は極めて倫理的な立ち回りを行うが、
余裕が無いと利己主義となり、一連の企業不祥事に繋がっていると考える。
よって、常に心に余裕を持ち、いちいち考えなくても自然と功利主義的な振る舞いが
出来るような人物になるように目指しています。が、難しいね、世の中。腹立つことばかりで。
50 :
1:2006/09/25(月) 23:44:08
ちょっと時間がないので、気に入った言葉があったから、今日はそれを
載っけるだけにする。
これはきっと読んでいる人も多いと思うけど。
「ビッグバン宇宙論」サイモン・シン著のある件の部分について。
サイモン・シンは「フェルマーの最終定理」と「暗号解読」を書いた
とても有名な方ですが(しかしそれらは未読)
いちおう今から提出する文だけじゃ理解しにくいと思ったので
その前に私の無粋で簡単な文脈の説明をします。
今から紹介する頁の付近で天動説と地動説の話をしていて中世は、
その二つの論が真っ向から対立していた時期だったわけ。ただ余
計な前置きをすると、決して天動説は謬見によるものではなかった。
整合性については、遙かに天動説の方が優れていて、地動説は
精密性に劣っていた事実があったということ。真正な科学的批判に
基づくものだったのだということが、この本を読んで気付いたことの
一つ。でその論証的対立に対して優れた一文があったのでそれを
ご紹介したい。
こういう手詰まりな状況を打開する唯一の方法は、競合する二つの
モデルの違いが明らかになるような予測をすることだ。その予測が
検証できれば、一つのモデルの正しさが立証され、他方のモデルは
退けられるだろう。よい科学とは検証可能な理論を生み出し、科学は
検証によって進歩するのである。
51 :
1:2006/09/25(月) 23:47:39
(上巻 p78)
どうです。既に知っている人がいたら恐れ入るんですが、
この考え方を知らない方は、感動しませんでしたか?
(ポパーの反証可能性の概念なのかと思いましたが、これはまったく
違いました。おそらくサイモン・シン氏独自の視点だと思います)
この考えは、今の道徳と倫理の違いを論ずるこの議論にも当て嵌まるも
のと思います。
そして、このときの地動説にあたるのが、この倫理という概念なのです。
もしかしたら余計分かりにくくした恐れはあるが。
でも、私は倫理の状況の混迷は、明らかにこの道徳との混同にあると
いうことを、もう、ほぼ確信的であると考えてる。
あと、最近の返答していないレスについては後日検討しますので、待たせて
しまって申し訳ないですがご了承下さい。まあ別に私のレスなんていらない
場合は、そんときはいちおう申告ください。
52 :
1:2006/09/30(土) 20:16:21
>>48 ご指摘の箇所を確認しました。
>などは倫理と倫理学を混同している事の一例では?
とおっしゃいますが、意味が分からず、逆に私はあなたの読解の仕方に、
疑問を感じてしまいました。
結論として申し上げますと、今後あなたと私のスタンスが一致しない
限りは返答は控えさせて頂きたいと思います。あなたと私ではおそらく理解
し合える関係は望めそうもありません。
そして、それについての指摘は既にこのスレで何度かしていると思いますので、
今回は理由は申し上げません(あなたがそれらの名無しの人たちと同一人物であるか
どうかに関わらず)
ご指摘に答えられず申し訳ありません。
53 :
1:2006/09/30(土) 20:17:49
>>49 記念カキコありがとうございます。(返答が遅れてすみませんでした)
梅津先生がどのような方なのかは存じ上げませんが、きっと
素晴らしい方なのだと思います。そしてあなたも優秀な生徒さん
だったのでしょうね。このようなスレに来て頂き光栄です。
あなたの意見で感じたことを言いますと、『心の余裕』とはつまり、自由に関わるの
だと思います。それは、人間の本質的な部分だと私は思っています。でも、それだけ
じゃ表現できないものもあなたのおっしゃる『心の余裕』という言葉にはあるようですね。
精神性のニュアンスも感じられます。
また『功利主義』という言葉も面白かったです。どうやら倫理学的な用語
の一つのようですが、自然、利に目が向けられるのは面白い現象だと
思いました。嫌味ではなく、それが道徳的な信条の根幹にあることぐらいは
わかりますので誤解なさらぬよう願います。
ここで倫理との差異に触れるならば、倫理はどうやら功利主義には
なりえないと言えるのではと私は思います。道徳は自然、社会的な利益に
目を向けられてしまいます。
なお今回の発言が多少議論的(攻撃的)であるのはご容赦ください。
>常に心に余裕を持ち、いちいち考えなくても自然と功利主義的な振る舞いが
>出来るような人物になるように目指しています。
>が、難しいね、世の中。腹立つことばかりで。
考えなきゃきっと功利主義的な振る舞いは出来ないと私は思います。
肝心なのは、考えていて、余裕がないのを悟られないことです。
あるいは誰かに自分の心を悟られることに自分自身が気持ちを
奪われないことです。まあ、あなたの言う通り、難しいんですが。
でも頑張ってください。応援してますよ。
54 :
考える名無しさん:2006/10/18(水) 23:22:53
※倫理の議論※
理に基づく、道徳の規範と成る対人関係ですね。
理を悟り倫理観を育て、人のあるべき道(道徳)を歩む、と言う一連の流れですね。
>おそらくサイモン・シン氏独自の視点だと思います
この考え方はcrucial experiment (決定実験、決定的実験などと
訳される)といって17世紀以来よく知られているものです。
ちなみにデュエムのテーゼのため、ここの引用文で言っているような
意味でのcrucial experimentは原理的に存在しない、というのが
現在の科学哲学の定説です(ポパーの反証主義にも同じ問題がある
のですが)。
56 :
54:2006/10/19(木) 23:52:15
>55
>おそらくサイモン・シン氏独自の視点だと思います
これは、どのスレに対しての話しですか?
>54では無いですよね。
私はサイモン・シン氏を知りませんので、
58 :
考える名無しさん:2007/01/06(土) 13:52:08
(´・ω・`)
悲しいスレだな。
60 :
考える名無しさん:2007/03/31(土) 20:35:02
皿仕上げ
61 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :