1 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :
自然とはこの世界そのものであり、未曾有の混沌であり、不確実性であり、決して到達できない「物
そのもの」であり、人にとってトラウマ的なものである。トラウマ的ある故に、人はこの自然に向かい
負債感のない純粋な暴力を行使する。だから「自然」は純粋略奪(暴力)可能な無垢(仮象)として回
帰しつづける。
この「自然」と人間の闘争を下部構造に考え、人は有史以来、そして将来にむけて、どのように「自
然」をみい出し闘争するのか。それが経済である。
社会形態/交換様式/闘争様式(純粋略奪の快楽)
自然崇拝の時代・・・未開社会/互酬/自然崇拝し、純粋贈与(ポトラッチ)する暴力
自然排除の時代・・・都市化、帝国/再配分/「動物」(奴隷、異教徒)を排他する暴力
自然征服の時代・・・国家、資本主義/交換/自然を数量化(科学技術)によって征服する暴力、
過剰消費する暴力
自然管理の時代・・・地球環境保護機構/交換、再配分(環境税)/自然を管理する暴力、
ネット(疑似自然)を開拓する暴力
闘争様式(純粋略奪の快楽)の系譜は、ポトラッチから、野蛮人(異教徒)との闘争をへて、科学によ
る自然征服へ至り、現在は自然を管理し、疑似自然としてのネットの開拓へむかっている。
現代は、自然征服から自然管理へ向かっている。環境問題、あるいは遺伝子操作の倫理なども含
め、様々な問題は地球規模で影響を与えるために、保護主義的傾向が強まるのは否めない。資本
主義システム、ネット上の情報交換などの創発的な動きと、それをコントロールする政治的な保護主
義の対立の中で、世界はバランスを取っていくだろう。
前スレ
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1151086281/ 過去ログ
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/
2 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 22:46:06
まだ言い足りないの?
3 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 22:52:10
■試論:自然主義的闘争論 その2
欲望の構図
>>
欲望の構図
@外部と内部の境界を引く。
A外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
B無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
C開拓という「正義」の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
<<
この欲望の構図において、外部と内部の境界の強度が重要となる。より境界が明確に、そしてより
純粋な外部であるほど、外部は無垢として生き生きと表れ、開拓は正当化され、負債感なく、より純
粋な暴力が行使される。このように純粋な外部の表れが「自然」である。
自然とはこの世界そのものであり、未曾有の混沌であり、不確実性であり、決して到達できない「物
そのもの」であり、人にとってトラウマ的なものである。だから自然は欲望を想起する純粋な外部とし
てあり、「自然」として回帰しつづける。経済とはこのような「自然」と人間の関係のことである。
この「自然」と人間の闘争を下部構造に考えるのが、自然主義的闘争論である。人は有史以来、そ
して将来にむけて、どのように「自然」をみい出し闘争するのかを考える。
4 :
純一:2006/08/04(金) 22:52:16
前スレのまとめ
ぴかぁ〜による、
パクリ(純粋略奪)プロセスの詳細
>893 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 14:11:34
>純粋略奪の快楽の作動
>@外部と内部の境界を引く
>A外部が無垢(いきいきした幻想)とされる
>B外部への(欲望)略奪衝動が掻き立てられる
>C快楽のもと開拓という名の負債なき暴力が行使される
パクリ(純粋略奪)の快楽の作動
@外部(他人のブログ)と内部(ぴかぁ〜のブログ)の境界を引く
A外部(他人のブログ)が無垢(いきいきした幻想)とされる
B外部(他人のブログ)への(欲望)略奪(パクリ)衝動が掻き立てられる
C快楽のもと開拓という名の負債なき暴力(盗作)が行使される
5 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 22:54:01
「なぜ山に登るのか」
たとえば「なぜ山に登るのか」で考えてみると、
>>
@外部と内部の境界を引く。
山は社会の外部である。
A外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
外部としての山は登頂が困難であるほど、無垢(未知)としていきいきと表れる。しかし山はいつもそこにあり、そこに無垢という価値はない。これは人間側の価値による、幻想である。
B無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
生き生きとした無垢に見せられ、登覇したくなる。
C開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
人類の快挙という正義の名のもとに、登覇される。
<<
たとえば未踏の山は霊山と言われ、神聖なものとされる。なぜ未踏の山を霊山として崇めるのか。
人間にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖だ。だからそこに蓋をしたい。それが
「神」である。
神とは本質的に「他者」である。他者とはコミュニケーション可能な者である。だから未知に「他者」を
おくことで、人は安心する。なにかあれば、「他者」へコミュニケートすれば良いからだ。祈り、贈与す
る。だから未知は「他者」だらけである。沼には河童、山には天狗、仙人、闇には幽霊、宇宙には宇
宙人・・・
そして贈与とは暴力である。未知であるものを「神聖なもの」と崇めるのと、それを略奪したいと思う
ことは同じことの裏返しである。たとえばかつての呪術でのポトラッチは自然への純粋贈与と呼ばれ
るが、これはまた純粋略奪でもあるのだ。
近代科学の闘争では、かつての「他者」を配置し贈与する暴力から、数量化による計測する暴力に
切り替わったのだ。
6 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 22:54:54
「なぜ女をものに(登頂)するのか」
これを、たとえば「なぜ女をものに(登頂)するのか」と比較すると、
>>
@外部と内部の境界を引く。
女は男の外部である。
A外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
外部としての女は「登頂」が困難であるほど、無垢(未知)としていきいきと表れる。
B無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
生き生きとした無垢は、「登覇」したくなる。
C開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
男性の快挙という正義の名のもとに、女は「登覇」される。
<<
山はより純粋な外部(「自然」)としてあるために、負債感なく暴力が行使されるが、相手が女の場
合、相手のことを考えない略奪は、暴力である。だからそこには負債感がともなう。
しかしかつて男尊女卑の時代、女への略奪(暴力)は負債感なく行われていた。女性、奴隷は「自
然」=動物であったのだ。たとえば現代でもある処女信仰とは、無垢を略奪したいという略奪(暴力)
の快楽である。
このように、人は有史以来、そして将来にむけて、どのように「自然」をみい出し闘争するのか。それ
が自然主義的闘争論である。
7 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 22:55:43
自然と闘争…ね
変なの
8 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 22:59:28
女をものにするか
高尚ぶっても品性の下劣さは隠せませんな
9 :
純一:2006/08/04(金) 23:02:28
前スレまとめ
「なぜ、ぴかぁ〜はパクリ(純粋略奪)をするのか」
たとえば「なぜ、ぴかぁ〜はパクるのか」で考えてみると、
>>
@外部と内部の境界を引く。
他人とぴかぁ〜自身との落差に気が付き、
A外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
他人の理論が良いものに見え、
B無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
それを自分のものにしたいという衝動が掻き立てられ、
C開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
他人からパクることに快楽を感じながら、盗作していると告白している。
<<
10 :
純一:2006/08/04(金) 23:03:30
前スレまとめ
なぜ未踏のタームを知ったかぶりし、知っているかのようなものとして崇めるのかは、
ぴかぁ〜にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖だからなのです。
とにかくそこに蓋をしたいのです。そして知ったかぶりとは蓋です。
知ったかぶりとは本質的に「ジャーゴン」です。ジャーゴンとはコミュニケーション可能な者です。
その意味は「ジャーゴン」をおくことで、ぴかぁ〜は安心します。
なにかあれば、「ジャーゴン」へコミュニケートすれば良いからです。
祈り、贈与し、コミュニケートするのです。
だから昔のぴかぁ〜は未知の理論には「知ったかぶり」だらけです。結論には無垢、批判には無視、
脱構築にはディスコントラクション、他人には転嫁、誤字には誤字。
最近の方法では、かつての「ジャーゴン」を配置し知ったかするパクリから、
無断転載による盗作する暴力に切り替わりました。
11 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 23:03:43
またーりいきませう♪
12 :
純一:2006/08/04(金) 23:05:23
前スレまとめ(
>>9修正)
「なぜ、ぴかぁ〜はパクリ(純粋略奪)をするのか」
たとえば「なぜ、ぴかぁ〜はパクるのか」で考えてみると、
>>
@外部と内部の境界を引く。
他人とぴかぁ〜自身との落差に気が付き、
A外部が無垢(いきいきした幻想)として表れる。(まなざしの快楽)
他人の理論が良いものに見え、
B無垢(外部)への欲望(略奪衝動)が掻き立てられる。
それを自分のものにしたいという衝動が掻き立てられ、
C開拓という正義の名のもとに、負債なき暴力(純粋略奪の快楽)が行使される。
他人からパクることに快楽を感じながら、盗作していると告白している。
<<
13 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 23:08:18
14 :
純一:2006/08/04(金) 23:08:38
15 :
純一:2006/08/04(金) 23:10:31
前スレまとめ(
>>10修正)
なぜ未踏のタームを知ったかぶりし、知っているかのようなものとして崇めるのかは、
ぴかぁ〜にとって、未知という底の見えない暗闇はトラウマ的恐怖だからなのです。
とにかくそこに蓋をしたいのです。そして知ったかぶりとは蓋です。
知ったかぶりとは本質的に「ジャーゴン」です。ジャーゴンとはコミュニケーション可能な者です。
その意味は「ジャーゴン」をおくことで、ぴかぁ〜は安心します。
なにかあれば、「ジャーゴン」へコミュニケートすれば良いからです。
媚び、諂い、コミュニケートするのです。
だから昔のぴかぁ〜は未知の理論には「知ったかぶり」だらけです。結論には無垢、批判には無視、
脱構築にはディスコントラクション、他人には転嫁、誤字にはまた誤字。
最近の方法では、かつての「ジャーゴン」を配置し知ったかするパクリから、
無断転載による盗作する暴力に切り替わりました。
16 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 23:13:26
17 :
純一:2006/08/04(金) 23:14:47
前スレまとめ
>608 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:11:27
>情報化過多の時代、このような形而上学的な転倒は困難になっています。
>瞬間瞬間で「脱構築」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
>他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
>見いだせない。
ぴかぁ〜が使っている専門用語を日常用語に変換すると、
>情報化過多の時代、このような絶対的な安定は困難になっています。
>瞬間瞬間で「不安」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
>他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
>見いだせない。
専門用語を使ったぴかぁ〜の文を、 変換文のようにすれば、誰でも意味が分かり、
尚且つ、ぴかぁ〜が単なる普通のことを専門用語で、 確信犯的に難しく言い換えていることが分かると思います。
即ち、ぴかぁ〜が大したことも無い感想を、 専門用語を使うことで、哲学っぽく見せているということが
お分かりいただけると思います。
18 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 23:17:22
わかっております。
19 :
純一:2006/08/04(金) 23:17:38
ぴかぁ〜が書き込まなくなるのは無理です。
単に、反論できない状態に追い込むことは、
ぴかぁ〜が理論的に弱いので、割と簡単にできる
ということです。
20 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/04(金) 23:33:10
>>998 >難しいかもしれないが、「下部構造」というからにはそこから歴史の
>起動因を説明付けられないと、意味のない空論になる。
>まだ不完全な理屈の域を出ていないと批判を受けても仕方ないものに
>なるよ
むしろ起動因を特定すること不可能性を知るべきですよ。
まさに自然主義の誤謬(歴史主義の誤謬)です。
21 :
考える名無しさん:2006/08/04(金) 23:36:46
>>20 歴史の起動因さえ「不可能性」に回収してしまう「史観」とは
いったい何なのか?そこをよく考えてほしい
22 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 00:09:38
23 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 00:27:03
>>22 「系譜学」は1つのモデルに定位した「史観」を解体することに
意味を持つ。系譜学で史観を打ち立てるのはすでに背立してるよ
24 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 00:45:52
>>23 何にしろ定位した「史観」から始めるしかないと思います。
それはマルクス主義的なものでも良いですが。
たとえばフーコ−の系譜学にも史観性?がありますね。
そういうことです。
なにか、「史観」とはなにか、の議論になっていますね。
これはまた別の議論だと思いますので、これはここまで。
25 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 01:07:33
なんだかなぁ、ぴか〜
自分の主張の不完全さを素直に認めればいいじゃんか
これから頑張って理論を築いていけよ
26 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 01:16:23
27 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 01:37:00
なにがなんでも負けず嫌いブッ
28 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 01:38:01
なにがなんでも負けず嫌いブッ
>>24 >なにか、「史観」とはなにか、の議論になっていますね。
>これはまた別の議論だと思いますので、これはここまで
何だかよく分からんけど、自然主義的闘争史観って自分から主張
してるんだから、「史観」についても逃げずに議論しなきゃ。
純一みたいのはスルーしてもいいけど、理論のレベルで指摘してくる
相手には真摯に受け止めて、矛盾点をつかれたんなら率直に自分の
思考に不備があることを認めるくらいの度量がなきゃ。
理論のレベルで指摘する相手は、少なくとも君の作った土俵を受け入れた
上で指摘してくるんだから、多少なりとも君の主張に興味を持ってる
相手なんだよ。大事にしないと。
30 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 10:52:35
日本人はまじめすぎる。公平へのヒステリックさ。
31 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 11:18:59
特にきみがね、
常に優位にたってないと気がすまない。
32 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 11:31:20
確蟹。性格悪い香具師は哲学なんて出来っこないよん。
33 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 11:42:18
ある意味ではネット時代の申し子。
気持ちよく波乗りしているようだけど、それだけではやがて陸に打ち上げられる。
そのとき再び沖まで漕いでいき波に乗る術があるのかな。
34 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 12:21:10
>33
その心配には及ばん。ネット海の藻屑と化すからだ。
>>30 >日本人はまじめすぎる。公平へのヒステリックさ。
いきなり日本人一般論に持っていく。君の主張に「真面目に」興味を持って
いる人も、多少なりともいるんだよ。みんな不真面目に対応したほうがいい
のかい?自分の思考不足を指摘されたくらいでヒステリックに反応してる
のは君のほうに見えるよ。些細なことじゃない。「そこはまだ考えてません、
理論化できてません」って言えば済む話でしょう。
どうも君には自分の非を認めたがらない、幼稚な万能感みたいなものがあるね。
引きこもりのネット中毒者に多い症状だよ。
君がそうだとまでは言わないけどさ。
36 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 13:08:10
(幼稚な万能感に基づく直感+本で得た咀嚼しきれていない借り物理論構造−考察)×ジャーゴン=ぴかぁ〜哲学
37 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 13:14:51
27歳の世代は光の世代だ。裏が光を抱えていたおかげで本当の話をしらずにきてしまいみんな苦労している。ぶちころすぞやろーども
38 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 13:15:54
内外の境界設定とは形而上学的二項対立です。
たとえば善悪。しかし現代は善悪の明確はできないですね。脱構築され境界はあいまいになっている。
この宙吊りはひとつのフラストレーションです。なぜならリビドーの解放、純粋暴力が行使されない。
たとえば亀田叩きなど祭りは外部の生成と暴力行使の快楽であり、フラストレーションの解放です。
このような形でしかリビドーの解放が行えないのが現代の閉塞です。
39 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 13:26:29
24―25世代は最後の言葉使いだ。本当は凛々しい世代になるのだが。困るのは23だな。いっておくが気をつけてみていないとやばいのがくる
40 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 13:34:36
このような宙吊りと共犯にあるのがシステムです。
価値不在のなかでシステムはマニュアル化された通路を提供します。
人々はそれに流されることで安心です。そしてその安心に流されていることを忘れてしまう。
そしてシステムから逸脱したときに行き場のなさに愕然とします。
その気ずかなさには情報化技術によるこのシステムの高度化があります。
41 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 13:40:49
42 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 13:48:13
>その気ずかなさには
変な日本語だね。
それに
気ずく
じゃなくて
気付くまたは気づく
だろうけど。
43 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 13:59:20
>>38 亀田なんか誰も叩いてないよ。問題の次元がてんで別だよ。w
44 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 14:07:41
たとえばグーグルがあこなおうとしていることぱ多様化しすぎたマニュアル=データーベースからユーザーかほしいものを選択、提供することです。
マニュアルが多様化しすぎてまた宙吊りになっているこの解消であり、マニュアルのマニュアル化です。
たとえば車が数百万で手に入るのは画期的なことだといわれます。
現代の車は現代科学の推移がつまっており、それをあれほど安価に提供できるのはフォーディズムからつながるマニュアルかされた品質管理技術のたまものです。
車は様々な機種そしてオプションがあり、どれを買うか迷いますが
しかし仮に自分オリジナルの車がほしいとするとする、簡素な車でも億単位かかります。
45 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 14:32:00
だからなんだっての。わかりきったことばかり。
そのまえに、誤字脱字減らせや。
料理は素材の味を引き立たせるので美味いんだ
自然なら混ぜりゃいいってもんなのか
このごった煮めが
47 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 14:44:35
たとえばボク達はひとりであっても勧誘などさまざまにコミュニケートされる。
しかしそれらは儀礼、マニュアルであり、その中では円滑であっても、そこから生の声に到達するのは限りなく遠いのだ。
グーグル、車の例が示すのは多様な価値とそれをさらにマニュアル化する便利なシステムはもはやボクたちのセカイそのものとして発達している。
認知限界をこえたシステムは、ボクたちに自由を提供しているのだ。
しかしそれはなぜか閉塞なのである。
48 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 14:58:16
すなわち外部の消失である。リビドーの解放、無垢を破壊したい衝動。そのためには外部が必要なのだ。
どこにもない車がほしいがほしいと、マニュアルから逸脱しようとしたとき
車は数百万という常識が限られた内部の秩序であったことをしり、数、数十億円にあとずたさりする。
それをめざすのは自由であるが囲われた壁の高さに気付くのだ。それでも苦労する意味があるだろうか。
豊かな地を離れ、荒野に迎う必然があるだろうか。それなら2ちゃんに亀田を叩いてフラストレーションを晴らすほうがよいだろう。
49 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 15:04:33
ほしいがほしい
あとずたさり
2ちゃんに
50 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 15:09:24
荒野に迎う必然
向かう だろうね。
2ちゃん で
だろうね。
51 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 15:15:33
選択できないほど多様な選択の自由
しかしそれは内部の自由でしかない。
自由とは外部への自由であり、内部の自由が多様化するほどに、内部は閉じ
外部への自由は閉塞する。
外部への自由とは負債なき暴力、純粋略奪の快楽であり、「自然」との闘争である。
何が現実でなければならないということをめぐる闘争
53 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 15:20:30
内部、法、規律
灰色、資本、アーキテクチャ
54 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 15:30:46
>選択できないほど多様な選択の自由
それは外部の自由でしょ。
内部の自由は予め与えられた選択肢とは符合するものではない。
>しかしそれは内部の自由でしかない。 自由とは外部への自由であり、内部の自由が多様化するほどに、内部は閉じ 外部への自由は閉塞する。
内部の自由が多様化することと、それがゆえに閉じることとの相関と必然が説明されていない。
ご都合主義とこじつけであって、とても理論などと呼べる代物ではない。
55 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 15:35:05
>>53 キーワードの下書きなんかテメエのタマの裏にでも書けよ。
56 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 17:34:28
■人はなぜ「不自由がある自由」を求めるのか。
境界の曖昧化と強引な境界生成
内部/外部の境界設定とは形而上学的二項対立です。たとえば善/悪。しかし現代は善/悪の境
界を明確化できないです。脱構築され、境界はあいまいになっている。この宙吊りはひとつのフラス
トレーションです。なぜならリビドーの解放、純粋暴力が行使できない。
たとえば亀田叩きなど「祭り」は善/悪の境界設定による外部の生成と、外部への暴力行使の快楽
であり、フラストレーションの解放です。このような形でしかリビドーの解放が行えないのが現代の閉
塞です。
57 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 17:36:12
「満足」と気付かないほどの満足を与えるクーグルと自動車産業
このような宙吊りと共犯にあるのが「システム」です。宙吊りの中で、マニュアル化された通路を提供
する「システム」が発達します。人々はシステムの提供する通路を流されることで宙づりから解放さ
れ、「満足」を得ます。
現代ではさらに、マニュアルが多様化しすぎて、また宙吊りになっています。たとえばグーグルが行
おうとしていることは、多様化しすぎたマニュアル(データーベース)からユーザーかほしいものを提
供するマニュアル化です。
高度に発達したシステムでは、もはや安心に流されていることさえ忘れてしまう。しかしグーグルが
行うのは、忘れるのでなく、気が付かないように「満足」を提供します。これは「環境管理権力」と呼
ばれます。
たとえば自動車は現代の科学の推移をつまっており、数百万円で手に入るのは画期的なことだとい
われます。自動車には様々な機種そしてオプションがあり、どれを買うか迷います。しかし仮に自分
だけのオリジナルの自動車がほしいとするとする、普通の自動車でも億単位のコストがかかります。
それがこんなに安価に手にはいるのは、フォーディズムからつながる高度にマニュアル化された品
質管理技術の賜物です。
グーグルや車のような、多様な価値とさらにマニュアル化する便利な「システム」は、もはやボクたち
のセカイそのものであり、ボクたちの認知限界を超えて、「満足」と気付かないほどの満足を与えて
います。
58 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 17:38:40
隠される「不自由」
しかしそれでもなぜか閉塞感があるのです。どこにもない自分だけの自動車がほしいと、マニュアル
から逸脱しようとしたとき、「車は数百万円である」という常識が限られた内部の秩序であったことを
知り、「自分だけの自動車を作るには数十億円かかる」という事実にあとずさりします。
自分だけの自動車をめざしてはいけないという拘束はありません。ボクたちの社会は「自由」であ
る。だれも止めないだろう。しかしそこには普段気が付かない高い壁が存在するのです。それでも満
足の地を離れ、苦難な荒野に向かうだろうか。それなら2ちゃんねるでに亀田を叩いてフラストレー
ションを晴らすほうがよいのではないでしょうか。
自由なんだから、もっと頑張ればよかった。あきらめたのは個人の責任であると言うでしょうか。レッ
シングは現代の4つの拘束をあげました。法、規律、資本、アーキテクチャである。ここにあるのは、
資本、アーキテクチャのような「透明な拘束」です。現実的にそこに「不自由」が存在するのです。し
かし「不自由」は隠されているのです。
59 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 17:44:49
ボクたちが求める自由とは「外部への自由」(不自由)である。
「自分だけの自動車がほしい」ということの意味は、ほしいものあり、それが内部にないのではありま
せん。そうではなくて、ボクたちは「内部にないもの」を求めるのです。それが、リビドーの解放、無垢
を破壊したい衝動がむかう「外部」を求めるのです。だからボクたちは満足の彼岸、「不自由」を求め
るのです。そしてシステムが隠すのはこの「不自由」なのです。ボクたちの閉塞とは「不自由」がない
「不自由」なのです。
選択できないほど多様な選択の自由な社会。しかしそれは「内部の自由」でしかないありません。
「内部の自由」が多様化するほどに、内部は閉じ、「不自由」は隠され、閉塞するのです。そしてボク
たちがもとめる自由とは、この「不自由」、「外部への自由」なのです。「外部への自由」は負債なき暴
力を行使でき、純粋略奪の快楽がうむ、「自然」との闘争なのです。
60 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 17:46:46
■人はなぜ「不自由」がなければ閉塞するのか
61 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 17:56:12
不自由はそこにある。それは隠されているが、あるとき気付く。
しかし内部が満足すぎるために人々は見なかったように内部へ退避する。
実質、ボクたちは不自由から退避することで、不自由を見失う。
内部の安易な不自由に群がる。それが亀田祭りである。
自由であるから自由すぎるから、不自由から退避し、不自由を見失い閉塞するのだ。
62 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 19:07:23
>このような形でしかリビドーの解放が行えないのが現代の閉 塞です。
おまえがこのスレに駄文を書き連ねるのもまさにそういうことだろうな
63 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 19:13:19
>内部の安易な不自由に群がる。それが亀田祭りである。
短絡の極み
プロセスを理論的に説明せよ。
64 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 19:17:47
あることから退避できる自由があるのなら、一体何に対して閉塞しているのか。
やっぱり回りにゴワゴワ盛り上げても、変になる人っているんだよ。
やっぱり本から直さなければならない、手術だよ。
手術したら、絶対男前になるって。
そんなかっこ悪いかざりをつけなくても。
「自然主義的闘争論」て、やっぱ疎外論的だよね、プラス栗本経済人類学って感じかな
カー二ヴァル=蕩尽だろ
こんな形でポモのルネサンス運動が興ると思ってなかった
しかも自然主義的闘争論を主張する本人がそれで
歴史を語れていないという…
68 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 21:44:26
>>66 >「自然主義的闘争論」て、やっぱ疎外論的だよね
なぜ?
>プラス栗本経済人類学って感じかな
栗本は読んだことはないですが、日本では経済人類学=栗本ですか?
なにかおすすめがあれば
>カー二ヴァル=蕩尽だろ
「祭り」と消尽の違いが説明できれば、ボクが言いたいことがかなり的確に
わかりますが・・・
>>68 「外部 vs 内部」と言う理論の建て方が疎外論的
栗本の「パンツをはいたサル」がお薦め、「パンツを脱ぐ快楽の故、人間はパンツをはくのだ」と言う
栗本の主張を思い出す
消尽と蕩尽の差異は無いと思うけど?
70 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 22:07:37
>「外部 vs 内部」と言う理論の建て方が疎外論的
それでは形而上学=疎外論になってしまいますよ。
>栗本の「パンツをはいたサル」がお薦め
日本人の欲望論は今ひとつな感じですね。
中沢新一、岸田秀、今村仁司・・・
良いのは竹田青嗣のエロス論
>消尽と蕩尽の差異は無いと思うけど?
「祭り」と消尽(蕩尽)の差異です。
疎外論=形而上学で間違いないよ、だから駄目って事とは違うけど
中沢、岸田、今村、竹田の名前を出すあたり、やっぱポモルネサンスだよね
もちろん、これも面白い、じっくり聞きたいよ
あと「祭り」って鈴木の言う「再魔術化」って事?蕩尽=消尽と、どう違うの?
72 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 22:24:39
「祭り」と消尽(蕩尽)の差異はなにか?
今夜、花火に行って来ました。
一晩で数千万円が飛んでいく。
夜に打ち上げてパッと咲いてそれまで。
花火は消尽的です。しかし消尽とはいえない。
なぜならそこに贈与、返礼への期待があるからです。
祭りは神への贈与ですが、それが消尽であるためには、
返礼への期待がないこと、すなわち純粋贈与であることが
必要です。
バタイユが消尽というときには、原始的な祭りにはそのような
神からの返礼への期待がない純粋贈与があったという。
これはかなり疑わしい。
返礼への期待が完全な消失は人間には不可能な領域だからです。
そのような意味で、花火は消尽ではないが、「消尽的」なのであり、
そこにある(疑似)純粋略奪性において、人々は快楽を感じるのです。
73 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 22:29:55
>疎外論=形而上学で間違いないよ
これではなんでも疎外論になるのでNG
>中沢、岸田、今村、竹田の名前を出すあたり、やっぱポモルネサンスだよね
ポモルネサンス?
みなたんに構造主義流れでしょ。
構造主義流れは「構造と力」でよいでしょ。
竹田は現象学だからおもしろい。
じゃあ言い方を変えよう「自然主義的闘争論」って形而上学の仮面を被った「否定神学」だろ
「外部」なんて無いし「内部」だって虚構としてあるに過ぎない、結局何もないつーポストモダニズムの変形だ
現象学=構造主義だと思うけど?
75 :
純一:2006/08/05(土) 22:40:09
ふんふんふん〜♪
76 :
純一:2006/08/05(土) 22:43:10
駄目ですよ、栗本云々をぴかぁ〜に教えてはね、
そういう単語を出すな、と
>>15であらかじめ指摘しておいた筈です。
>知ったかぶりとは本質的に「ジャーゴン」です。ジャーゴンとはコミュニケーション可能な者です。
>その意味は「ジャーゴン」をおくことで、ぴかぁ〜は安心します。
>なにかあれば、「ジャーゴン」へコミュニケートすれば良いからです。
>媚び、諂い、コミュニケートするのです。
77 :
純一:2006/08/05(土) 22:44:42
たぶん、ぴかぁ〜の穴だらけの理論に協力するということは、
向上委員会は、リーマンかむじんくんでしょうな。
78 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 22:45:29
>じゃあ言い方を変えよう「自然主義的闘争論」って形而上学の仮面を被った「否定神学」だろ
>「外部」なんて無いし「内部」だって虚構としてあるに過ぎない、結局何もないつーポストモダニズムの変形だ
疎外論=形而上学とか、チョコチョイおかしいですね。
「否定神学」です。だから内部/外部なのです。そして外部は虚像としてしかないのです。
外部とは「物そのもの」なのですから、当然です。
何度も言っていますよ。ホントに読んでますか。
>現象学=構造主義だと思うけど?
・・・
79 :
純一:2006/08/05(土) 22:47:48
>>78 チョコチョイってのは、存在する単語なのかい?
>>76 純一氏の「メタ戦術」には敬服の至りですが、このスレはぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw氏が
ガンガン自分の「思想」を書き込んだほうが良いように思われます
81 :
純一:2006/08/05(土) 22:49:17
>>78 >>現象学=構造主義だと思うけど?
>
>・・・
それじゃあ、現象学は何主義なんだい?
82 :
純一:2006/08/05(土) 22:52:18
>>80 >ガンガン自分の「思想」を書き込んだほうが良いように思われます
書くのは良いけど、根本的にぴかぁ〜は理解していないよ。
>>17にも書いてるけど、
>608 :ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/07/30(日) 21:11:27
>情報化過多の時代、このような形而上学的な転倒は困難になっています。
>瞬間瞬間で「脱構築」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
>他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
>見いだせない。
ぴかぁ〜が使っている専門用語を日常用語に変換すると、
>情報化過多の時代、このような絶対的な安定は困難になっています。
>瞬間瞬間で「不安」が作動する。たとえば「お、かわいいな」と思っても、
>他にもかわいい子は無数にいるわけで、彼女がその中でも特別という「きっかけ」が
>見いだせない。
現象学=構造主義ってのは数学的還元方法なんだけれども、、、
同じ事なんだけれどもね
84 :
純一:2006/08/05(土) 22:59:57
そうだったっけ、
普通、現象学って実存主義なんじゃないの?
85 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 23:03:09
>>83 みそも糞もくんを呼びましょう。
同じ色、同じ流動性なんだから・・・
問題はいつも差異ですよ。
>>84 ん〜、「」にくくる主体ってみれば実存主義的だけれども
ぴかぁ〜 ◇q5y3ccmqnw氏のような「否定神学者」だったら違うって言うかもね
88 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 23:14:39
89 :
純一:2006/08/05(土) 23:18:08
>>88 いやいや、仮に純一レベルがたいしたことが無いものだとするなら、
なぜ、
>>79と
>>81の質問に答えられないのかが疑問ですね。
純一レベルがたいしたことがないと言うのであれば、
きちんと、明確に答えてくださいね。
>>88 でも、前スレで純一氏の攻撃にタジタジだって印象だけれども、、、
91 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 23:23:23
>>90 あぼーんされてるのにタジタジもなにも・・・
長くレス内容を見ていませんが、
最近まともなこと言えるようになっているのかな?
92 :
純一:2006/08/05(土) 23:25:01
とりあえず、
>>83と
>>84で意見が分かれている上に、
>>78 >>現象学=構造主義だと思うけど?
>
>・・・
とぴかぁ〜がコメントし、
>>88 >それでは純一レベルですよ・・・
と言ってるのだから、現象学が、
構造主義でもなく、また純一レベルが言う実存主義でもない、
第三の答えがあるということでしょう。
93 :
純一:2006/08/05(土) 23:26:19
>>91 解ったよ、で?「自然主義的闘争論」は「否定神学」って認めるわけだ?
95 :
純一:2006/08/05(土) 23:28:54
>>91 >あぼーんされてるのにタジタジもなにも・・・
>長くレス内容を見ていませんが、
>最近まともなこと言えるようになっているのかな?
>>93で言ったように、私の意見を全てスルーしたからこそ、
コメントできないということですね。
では、改めて、
>>79と
>>81の質問を、そのスルーをせずに
読んでみてください。あくまで、
>>88 >それでは純一レベルですよ・・・
というのでしたら、コメントできないことはない筈ですから。
96 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 23:29:46
>>94 だから最初から言っています。
ぴかぁ〜 ◇q5y3ccmqnwスレ向上委員会さん、しばらくスルーさえてもらいますね。
97 :
純一:2006/08/05(土) 23:30:59
>>96 >しばらくスルーさえてもらいますね。
しかし、純一をスルーしている現状で、
もう1人をスルーすれば、レスする相手が居なくなるが。
99 :
考える名無しさん:2006/08/05(土) 23:38:26
そういうことなんです。
自分の意に添わないものはスルー
そうでなければ「ぴかぁ理論」は成り立たないから。
100 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/05(土) 23:48:32
■「祭り」はなぜ快楽なのか。
今夜、花火に行って来ました。一晩で数千万円が飛んでいく。夜に打ち上げてパッと咲いてそれま
で。花火は「消尽的」です。しかし消尽とはいえない。なぜならそこに広告的意味、すなわち贈与に
対する返礼への期待があるからです。
「祭り」は神への贈与ですが、それが消尽であるためには、返礼への期待がないこと、すなわち純粋
贈与であることが必要です。バタイユが消尽というときには、原始的な祭りにはそのような神からの
返礼への期待がない純粋贈与があったということです。
しかしこれはかなり疑わしい。返礼への期待が完全な消失は人間には不可能な領域だからです。そ
のような意味で、花火は消尽ではないが、「消尽的」なのです。
たしかにルミナリオは美しい。しかしその花火は二度と再現することはできません。それが無垢なの
であり、花火とは無垢(「自然」)なのです。自然への消尽性=(疑似)純粋略奪性において、人々は
快楽を感じるのです。
「祭り」つーても古代ローマの「パンとサーカス」だったら「苦痛」だよな
スル〜してくれ
102 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 00:00:27
花火そのものの再現不可能性を指摘しました。花火は祭りである以上、
コンテクストとして考える必要があります。祭りとは日常のコンテクストに非日常なものが、
進入するコンテクストです。
花火はこのような非日常なものであり、ハプニング(再現不可能性)がそれを補完します。
その意味ではルミナリエも非日常なものです。
現代の「祭り化」する社会は、日常に非日常が挿入されるハプニング(再現不可能性)な
仕掛けの氾濫です。
103 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 00:02:40
まさにオナーヌー杉る意味不明なレスだね。w
ま、たまに酔ってみたいのは分かるが・・・w
104 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 00:05:52
>>101 いえいえ 君の自己陶酔祭よりは苦痛ではないとオモ
スポーツ新聞とかダブロイド紙も毎日「花火」上げてるわけだし
スル〜してくれ
106 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 00:14:43
「祭り」つーてもレスピーギと北島三郎を一緒に聞くのは「苦痛」だよな
スル〜してくれ
107 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 00:14:45
格闘技ブームも同様なハプニング性(再現不可能性)の快楽があります。
しかしここに表れる無垢はどこまでも幻想です。
だが、この幻想は柄谷がいう超越論的仮象です。
すなわち現実(リアリティ)そのものを支える幻想です。
Wカップの日本代表、亀田、桜庭・・・
彼らの強さはそのような人々の欲望によって支えられています。
しかし彼らは無様な姿を見せる。
それこそが現実(リアル)であり、本当の自然です。
そして本当の自然はいつもトラウマ的なのです。
彼らの無様な姿、そしてそれをみるトラウマ性においてまさに、
格闘技は快楽なのでしょう。
108 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 00:19:38
Wカップの日本代表、亀田、桜庭は強い=神話的暴力=ゲーテル的脱構築(否定神学)?
無様な姿を見せる=神的暴力=デリダ的脱構築?
109 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 00:19:45
Wカップってあったんか?
Gまでだと思ってた。
勉強になるな、ここ。
110 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 00:41:53
現代の消費するとはハプニングの快楽です。すなわち多かれ少なかれ、「消尽的」です。
すなわち消費とは疑似「自然」の産出です。
消費するとは、商品を私有財産として、そして使い消耗することです。
消費が「消尽的」であるというとき、消耗するのはハプニング性です。
だから、豊かさとは「祭り」を日常化する快楽です。
それが資本を増殖さえ、私有財産を持つことの意味です。
それが現代の資本主義の本質であり、
ハプニング性(自然)を消費(略奪)するために資本を増殖させことが、
現代の自然主義的闘争様式の一つです。
111 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 00:48:13
さっきから、 せ を え と打っているようだが、ぴかぁ理論に基づいたものかね?
112 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 01:31:17
亀田は最強であってほしいという神話的暴力と、
神話を乗り越えて外部から到来する偶有的な現実(自然)という神的暴力
しかしたとえばプロレスのように筋書きがあり、亀田が負けることがなければ
それほど多くの人が見るだろうか。人々が求めているのは亀田が負けるかも知れない
可能性であり、外部から到来する偶有的な現実(自然)の到来である。
そしてトラウマ的に偶有的な現実(自然)は到来したのである。
しかし問題は、到来した偶有的な現実(自然)を神話へ回収したのではないか。
内部の論理(デキレース、八百長)であったのではないか、という疑惑である。
欲望した本物(偶有性)は実はフェイク(作られたもの)であったのではないか。
亀田が弱いという到来した現実(外部)へのトラウマ的衝撃
八百長がされたのではというトラウマ的衝撃
「八百長だ」という神話へ回収しようとする熱狂
113 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 01:42:47
誇大妄想狂よ
寝ろ
114 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 01:49:44
>豊かさとは「祭り」を日常化する快楽です。それが現代の資本主義の本質である。
と言うときの問題は、それがあまりに主体的であるということ、否定神学であるということ、
すなわち構造主義的なもの、シニフィアンとシニフィエの恣意性、
マルクス的商品と価値の恣意性の欠如です。
物質的に豊かになるとは、主体の強い欲動によって決定するわけではなく、
それは他の誰でもよく、たまたまそこにいただけという恣意性(偶有性)によるということです。
経済はそのような下部構造として構造化されている。
しかしボクが「豊かさとは「祭り」を日常化する快楽です」と言うとき、
このような静的な構造にダイナミズムを与える力動への言及である。
下部構造が流動する構造への言及である。
115 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 01:54:48
そんな偉そうな言い方でいうほどのことかね
116 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 07:36:37
格闘家の攻撃欲動は決して負債感情を伴いませんよね?それは純粋快楽とイコールじゃないですか?
ぴかぁ〜は社会学的分析なんていいから「歴史の起動因」を
自然主義的闘争史観から説明できるように、理論を精緻化せよ
これだとずっと不完全な主張のままだぞ。歴史も語れない下部構造
なんて誰も信用できない
118 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 08:42:24
119 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 08:51:52
まだ寝ないのか W
120 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 09:35:55
カラ谷も今後第二次大戦以上の世界戦争があるかもしれないって言ってるじゃあいですか。世界平和はその後訪れるんじゃないですか?理論的説明キボンヌ…。
121 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 10:08:24
カントとから来ていますが、簡単なことでしょう。外部の到来によってより強い内部を差異化される。
外部は「第二次大戦以上の世界戦争」でも良いし、「環境破壊」でも、「惑星衝突」でも、「宇宙人来襲」でもよい。
地球レベルの危機が、地球レベルの強い内部を形成する。
122 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 10:15:01
マルクスは貨幣を介した交換からどのように剰余価値が生まれるかを示した。しかしなぜ人は
剰余価値を求めるかは説明されない。人が物質的豊かを目指すことを当たり前だからである。
しかし何故当たり前あのだろうか。
123 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 10:17:35
しかし、取り止めがないというか、実に発散傾向にあるぴかぁ〜さんの思考パターン。笑うちゅうに
124 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 10:32:38
>>122 あんでだろうねー
おんとにあんであんだろう?
125 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 18:06:52
ラカンの「手紙は必ず届く」とは、贈与コミュニティについての言及である。
ポーの「盗まれた手紙」が例に上げられているが、それは典型例であって、
どの物語にも適応できる。すなわち物語が終わるときには、
「負債は必ず支払われる」のだ。
物語とは終わりがあるものであり、終わりとは犯した負債は清算される。
物語の神話性である。これは、社会の成員に働く無意識の力学である。
ただ「盗まれた手紙」の中の探偵ルパンだけがこの負債の輪から逃れられる。
なぜなら探偵は仕事として貨幣交換によって登場するからだ。
贈与コミュニティ(サイクル)の外部から、負債感なく交換によって到来する故に、
無意識の力学を逃れることができる。
たとえば町のお店と、コンビニの違いは、たとえば必要なものを購入するときに、
持ち金が5円足りなかったとき、町のお店ではまけてもらうように交渉できる。
すなわちお店は5円を贈与するのだ。
しかしコンビニでは5円足りなかったときに、まけてもらうように交渉できない。
たった5円ぐらいであるが、コンビニでは贈与関係を排除していることに
特徴がある。たとえばファーストフード、ファミレスなど、過剰に他者に干渉しない
他者回避空間として価値があるのだ。
そこは、負債感を生まない純粋に交換関係によって成り立っている。
それが、コンビニの売りであるのだ。
最近社会に規律、人間味がなくなったなどと言われるが、
それは贈与(負債を循環させる)社会から交換(負債を排除する)社会へ向かっている
ということだ。
126 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 18:08:07
贈与社会の起源は、自然的暴力の到来にある。自然からの一撃によって、
贈与関係は回り始める。それが恵みでも負債でも、その不確実性を回避するために、
多人数で分け合うことで、軽減することにある。
@自然的暴力の到来・・・純粋贈与(太陽のめぐみ)=純粋略奪(災害、干ばつ)
A贈与、負債循環の始まり・・・外部からの自然的暴力によって作動する
近代へ向けて、社会秩序によって内部は強固となり、不確実な自然的暴力は
排除され、様々なものが予測可能になる。多人数分け合う自然的暴力が
低減した時に、循環する負債も低減し、人は贈与関係から解放される。
そして贈与関係から交換関係へ向かったのだ。これは、自由と平等を意味する。
それぞれが自律し主体的であって、生きていける社会である。
127 :
純一:2006/08/06(日) 18:11:36
ふ〜、
128 :
純一:2006/08/06(日) 18:14:06
>>125 >最近社会に規律、人間味がなくなったなどと言われるが、
>それは贈与(負債を循環させる)社会から交換(負債を排除する)社会へ向かっている
>ということだ。
いつものことだけど、考察と結論を端折り過ぎだね。
だから、という点ではこの結論には結べない。
129 :
純一:2006/08/06(日) 18:15:58
>>126 >近代へ向けて、社会秩序によって内部は強固となり、不確実な自然的暴力は
>排除され、様々なものが予測可能になる。多人数分け合う自然的暴力が
>低減した時に、循環する負債も低減し、人は贈与関係から解放される。
>そして贈与関係から交換関係へ向かったのだ。これは、自由と平等を意味する。
>それぞれが自律し主体的であって、生きていける社会である。
つまり、進歩史観でしょ。
130 :
純一:2006/08/06(日) 18:17:40
>>122 >マルクスは貨幣を介した交換からどのように剰余価値が生まれるかを示した。しかしなぜ人は
>剰余価値を求めるかは説明されない。人が物質的豊かを目指すことを当たり前だからである。
>しかし何故当たり前あのだろうか。
剰余価値が間違ってるね。
ぴかぁ〜らしい。
131 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 18:18:30
>たとえばファーストフード、ファミレスなど、過剰に他者に干渉しない 他者回避空間として価値があるのだ。
であるなら
いらっしゃいませえこんにちは〜
は、やめてほしいわな。
132 :
純一:2006/08/06(日) 18:20:07
>>121 >外部は「第二次大戦以上の世界戦争」でも良いし、「環境破壊」でも、「惑星衝突」でも、「宇宙人来襲」でもよい。
>地球レベルの危機が、地球レベルの強い内部を形成する。
では、環境問題があるのに、
内部化されない剰余が残るのはなぜか?
それが他者だからだろう?
133 :
純一:2006/08/06(日) 18:22:46
>>114は怪しいね。
>>豊かさとは「祭り」を日常化する快楽です。それが現代の資本主義の本質である。
>
>と言うときの問題は、それがあまりに主体的であるということ、否定神学であるということ、
>すなわち構造主義的なもの、シニフィアンとシニフィエの恣意性、
>マルクス的商品と価値の恣意性の欠如です。
>
>物質的に豊かになるとは、主体の強い欲動によって決定するわけではなく、
>それは他の誰でもよく、たまたまそこにいただけという恣意性(偶有性)によるということです。
>経済はそのような下部構造として構造化されている。
>
>しかしボクが「豊かさとは「祭り」を日常化する快楽です」と言うとき、
>このような静的な構造にダイナミズムを与える力動への言及である。
>
>下部構造が流動する構造への言及である。
134 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 20:08:16
カントの世界大戦への期待、マルクスの恐慌到来への期待は間違いではない
そのような非日常、不確実な外部の到来は、その負債を分け合うことで、交換関係は破綻し、
贈与関係は生まれるのだ。カラ谷の世界共和国しかりである。
135 :
純一:2006/08/06(日) 21:25:01
>>134 両方到来しても、未だに交換関係は持続しているじゃないか。
136 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:40:56
■なぜ資本主義は暴走し、閉塞するのか
▼暴走する資本主義
@贈与という無意識の力学
ラカンの「手紙は必ず届く」とは、贈与関係についての言及である。ポーの「盗まれた手紙」が例に上
げられているが、それは典型例であって、どの物語にも適応できる。物語には必ず終わりがある。そ
して負債が清算されるときが物語の終わりである。それが物語のもつ神話性である。これは物語だ
けのことでなく、この神話性は社会の成員に働く無意識の力学である。
ただ「盗まれた手紙」の中の探偵ルパンだけがこの負債の輪から逃れられる。なぜなら探偵は仕事
として貨幣交換によって登場するからだ。贈与関係の「外部」から負債感なく交換によって到来する
故に無意識の力学を逃れることができる。
137 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:41:36
A「下町のお店」とコンビニの違い
たとえば「下町のお店」とコンビニの違いはなにか。商品を購入するときにたまたま持ち金が5円足
りなかったとき、下町のお店では事情を説明しまけてもらえないかと交渉できる。すなわちお店は客
に5円を贈与するである。
しかしコンビニでは5円足りなかったときに、まけてもらうように交渉することはできない。たった5円
であるが、金額の問題ではないのだ。
コンビニの存在価値の大きなものに、贈与関係の排除があるからだ。その他ファーストフード、ファミ
レスなどは、マニュアル化されたサービスを提供する。客がどのような人かは関係なく、どの客にも
同じマニュアル化された対応を行う。負債感を徹底的に排除した「他者回避」システムである。人々
はそのような関係を求めて、コンビニへ行くのだ。
最近、社会に規律、人情など繋がりが希薄になったと言われる。これもまさに贈与(負債循環)関係
から交換(負債排除)関係へ向かっているということだ。
138 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:42:22
B贈与関係から交換関係へ
贈与関係の起源は、自然的暴力の到来にあるだろう。自然的暴力とは、純粋贈与(太陽の恵み)=
純粋略奪(災害、干ばつ)である。不確実な自然からの一撃によって、贈与関係は回り始める。それ
が恵みでも負債でも、その不確実性を回避するために、多人数で分け合うことで、軽減することにある。
原始社会から近代へ向けて、社会はより高い秩序へ向かい、強固なシステムを求めるようになる。
不確実な自然的暴力は、管理され、予測可能性が高まる。それによって、自然的暴力の影響が低
下し、循環する負債も低減する。人は贈与関係から解放される方向へ向かうのだ。
また大きくなった社会では贈与の求心力は薄まらざる終えない。贈与関係は無意識の力学であり、
共有することが難しい。それに変わるのが交換関係である。負債感なく、数量化による客観性をもっ
た関係であり、伝達が容易である。これは自由と平等を意味する。それぞれが自律し主体的であっ
て、生きていける社会である。
139 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:42:54
C贈与社会と略奪社会
カントの世界大戦への期待、マルクスの恐慌への期待、柄谷の「世界共和国」しかり、非日常、不確
実な外部の到来は、その負債を分け合うことで、贈与関係が回帰する可能性への期待である。
しかしそれほど上手くいくだろうか。贈与関係は無意識の力学であり、共有することがむずかしいた
めに、求心力の問題がある。そのために求心力の及ぶ贈与のコミュニティが多数乱立する。そして
それぞれの贈与のコミュニティの間では排他しあうことがおこる可能性が高い。
実際贈与に支えられた未開社会の時代、それぞれのコミュニティ同士は略奪しあう関係であった。
世紀末的状況では、このような混乱が生まれるのではないだろうか。贈与社会とは略奪社会でもあ
るのだ。
たとえば最近のネットコミュニティの世界はみなが無償で「労働」し、情報を提供しあう贈与関係で支
えられている。だからまた略奪関係が横行しているのだ。
140 :
純一:2006/08/06(日) 22:43:07
なるほど?
141 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:43:37
D暴走する交換関係
まとめると以下のように構造が見えてくる。
>>
未開社会・・・自然的暴力の近接→純粋贈与(略奪)→贈与関係の作動(無意識の力学)/略奪関係
近代社会から現代へ・・・自然的暴力の隔離→純粋贈与(略奪)の隔離→贈与関係の希薄→交換関係へ
<<
現代の交換関係=資本主義の成功は、数量化による客観的で、伝達が容易な特性によるだろう。
そして地球規模へグローバル化している。しかし自然的暴力によって作動していた贈与関係が、自
然的暴力が隔絶され、交換関係への以降したとき、交換関係はなにによって作動しているのだろう。
ここで転倒が起こっている。交換関係は、隔絶された自然的暴力を求めることが作動要因なってい
るのだ。自然的暴力の近接によって、贈与関係が作動するとき、それは受動的なものではない。人
は能動的に自然的暴力を求めているのである。自然的暴力が人へ純粋贈与(略奪)を与えるとき、
人は自然へ純粋贈与(略奪)することに快楽を持つのだ。
自然的暴力が隔離されたあとも、自然へ純粋贈与(略奪)する快楽は残り続ける。人は失われた自
然を求めて、交換関係を続けるのだ。「自然」を内製しつつ、消費するという空転つづけ、終わりなく
暴走するのである。
自然とは不確実性であり、予測不可能性である。だから内製される「自然」とは、ハプニング性であ
り、予測できない「不自由」性である。
142 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:44:09
▼花火の快楽
E花火の快楽
今夜、花火に行って来ました。一晩で数千万円が飛んでいく。夜に打ち上げてパッと咲いてそれま
で。花火は「消尽的」です。しかし消尽とはいえない。なぜならそこに広告的意味、すなわち贈与に
対する返礼への期待があるからです。
「祭り」は神への贈与ですが、それが消尽であるためには、返礼への期待がないこと、すなわち純粋
贈与であることが必要です。バタイユが消尽というときには、原始的な祭りにはそのような神からの
返礼への期待がない純粋贈与があったということです。
しかしこれはかなり疑わしい。返礼への期待が完全な消失は人間には不可能な領域だからです。そ
のような意味で、花火は消尽ではないが、「消尽的」なのです。
たしかにルミナリオは美しい。しかしその花火は二度と再現することはできません。それが無垢なの
であり、花火とは無垢(「自然」)なのです。自然への消尽性=(疑似)純粋略奪性において、人々は
快楽を感じるのです。
143 :
純一:2006/08/06(日) 22:44:34
ちょっと思ったのだが、おそらくは、
びかぁ〜本人も言ってる意味がよく分かってないね。
144 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:47:28
F豊かさとは「祭り」を日常化する快楽
花火は祭りである以上、コンテクストとして考える必要があります。祭りとは日常のコンテクストに非
日常なものが、進入するコンテクストです。花火はこのような非日常なものであり、ハプニング(再現
不可能性)がそれを補完します。その意味ではルミナリエも非日常なものです。
現代の「祭り化」する社会は、日常に非日常が挿入されるハプニング(再現不可能性)な仕掛けの氾
濫です。現代の消費するとはハプニングの快楽です。すなわち多かれ少なかれ、「消尽的」です。す
なわち消費とは疑似「自然」の産出です。
消費するとは、商品を私有財産として、そして使い消耗することです。消費が「消尽的」であるという
とき、消耗するのはハプニング性です。だから、豊かさとは「祭り」を日常化する快楽です。それが資
本を増殖さえ、私有財産を持つことの意味です。それが現代の資本主義の本質です。ハプニング性
(自然)を消費(略奪)するために資本を増殖させことが、現代の自然主義的闘争様式の一つです。
145 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:48:55
▼「不自由」がない閉塞
G境界の曖昧化と強引な境界生成
内部/外部の境界設定とは形而上学的二項対立です。たとえば善/悪。しかし現代は善/悪の境
界を明確化できないです。脱構築され、境界はあいまいになっている。この宙吊りはひとつのフラス
トレーションです。なぜならリビドーの解放、純粋暴力が行使できない。
たとえば亀田叩きなど「祭り」は善/悪の境界設定による外部の生成と、外部への暴力行使の快楽
であり、フラストレーションの解放です。このような形でしかリビドーの解放が行えないのが現代の閉
塞です。
146 :
純一:2006/08/06(日) 22:49:10
たぶん、
>>17のような、
自然な文章に変換して喋るってことがもはや
ぴかぁ〜にはできなくなっているんだろうね。
147 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:49:28
H「満足」と気付かないほどの満足を与えるクーグルと自動車産業
このような宙吊りと共犯にあるのが「システム」です。宙吊りの中で、マニュアル化された通路を提供
する「システム」が発達します。人々はシステムの提供する通路を流されることで宙づりから解放さ
れ、「満足」を得ます。
現代ではさらに、マニュアルが多様化しすぎて、また宙吊りになっています。たとえばグーグルが行
おうとしていることは、多様化しすぎたマニュアル(データーベース)からユーザーかほしいものを提
供するマニュアル化です。
高度に発達したシステムでは、もはや安心に流されていることさえ忘れてしまう。しかしグーグルが
行うのは、忘れるのでなく、気が付かないように「満足」を提供します。これは「環境管理権力」と呼
ばれます。
たとえば自動車は現代の科学の推移をつまっており、数百万円で手に入るのは画期的なことだとい
われます。自動車には様々な機種そしてオプションがあり、どれを買うか迷います。しかし仮に自分
だけのオリジナルの自動車がほしいとするとする、普通の自動車でも億単位のコストがかかります。
それがこんなに安価に手にはいるのは、フォーディズムからつながる高度にマニュアル化された品
質管理技術の賜物です。
グーグルや車のような、多様な価値とさらにマニュアル化する便利な「システム」は、もはやボクたち
のセカイそのものであり、ボクたちの認知限界を超えて、「満足」と気付かないほどの満足を与えて
います。
148 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:50:01
I消失していく「不自由」
しかしそれでもなぜか閉塞感があるのです。どこにもない自分だけの自動車がほしいと、マニュアル
から逸脱しようとしたとき、「車は数百万円である」という常識が限られた内部の秩序であったことを
知り、「自分だけの自動車を作るには数十億円かかる」という事実にあとずさりします。
自分だけの自動車をめざしてはいけないという拘束はありません。ボクたちの社会は「自由」であ
る。だれも止めないだろう。しかしそこには普段気が付かない高い壁が存在するのです。それでも満
足の地を離れ、苦難な荒野に向かうだろうか。それなら2ちゃんねるでに亀田を叩いてフラストレー
ションを晴らすほうがよいのではないでしょうか。
自由なんだから、もっと頑張ればよかった。あきらめたのは個人の責任であると言うでしょうか。レッ
シングは現代の4つの拘束をあげました。法、規律、資本、アーキテクチャである。ここにあるのは、
資本、アーキテクチャのような「透明な拘束」です。現実的にそこに「不自由」が存在するのです。し
かし「不自由」は隠されているのです。
149 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 22:50:35
Jボクたちが求める自由とは「外部への自由」(不自由)である。
「自分だけの自動車がほしい」ということの意味は、ほしいものあり、それが内部にないのではありま
せん。そうではなくて、ボクたちは「内部にないもの」を求めるのです。それが、リビドーの解放、無垢
を破壊したい衝動がむかう「外部」を求めるのです。だからボクたちは満足の彼岸、「不自由」を求め
るのです。そしてシステムが隠すのはこの「不自由」なのです。ボクたちの閉塞とは「不自由」がない
「不自由」なのです。
選択できないほど多様な選択の自由な社会。しかしそれは「内部の自由」でしかないありません。
「内部の自由」が多様化するほどに、内部は閉じ、「不自由」は隠され、閉塞するのです。そしてボク
たちがもとめる自由とは、この「不自由」、「外部への自由」なのです。「外部への自由」は負債なき暴
力を行使でき、純粋略奪の快楽がうむ、「自然」との闘争なのです。
150 :
純一:2006/08/06(日) 22:50:38
>>145 >内部/外部の境界設定とは形而上学的二項対立です。
なぜ、昨日ぴかぁ〜自身が否定していた理論を、
今日になって、取り込むのかね?
151 :
純一:2006/08/06(日) 22:53:02
>>149 >「自分だけの自動車がほしい」ということの意味は、ほしいものあり、それが内部にないのではありま
>せん。そうではなくて、ボクたちは「内部にないもの」を求めるのです。それが、リビドーの解放、無垢
>を破壊したい衝動がむかう「外部」を求めるのです。
では、ぴかぁ〜は他人のブログに欲しいものがぴかぁ〜ブログにあるのではなく、
単に、ぴかぁ〜が知らない理論、新しい理論なら、なんでも取り込むということだね?
152 :
おっさんの愛弟子キボンヌ ◆Fmd2B6wtag :2006/08/06(日) 22:54:29
発散傾向が強すぎる。w
理解は出来そうだが、おっさんに傾倒しまつ。w
153 :
考える名無しさん:2006/08/06(日) 22:57:50
おっさんて誰?
154 :
純一:2006/08/06(日) 22:58:58
私ですよ。
155 :
純一:2006/08/06(日) 23:02:50
ぴかぁ〜と同年代の私ですから、
おっさんなのではないでしょうかね。
156 :
純一:2006/08/06(日) 23:05:46
ところで、しろうととぴかぁ〜を、
東浩紀が認知しているとか書いてありましたよ。
>161 :考える名無しさん :2006/08/06(日) 21:21:40
>院生とのトラブルを書いたり、AAのステッカーを見せたり、副所長ネタとか。
>明らかに野次馬を意識してるでしょ。
>
>ぴか、しろは知ってるみたい。
>二人を一緒くたにしてるっぽいけど。
157 :
純一:2006/08/06(日) 23:07:27
いいのかね〜、ぴかぁ〜は穴だらけですよ。
進んで取り込むと必ず何らかの問題を起こすでしょう。
ここで警告しておきましょう。
158 :
純一:2006/08/06(日) 23:08:18
区別しなければ大問題になることでしょう。
159 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/06(日) 23:11:23
今日、ゲド戦記を見てきましたが、なぜ評判が悪いのかわかりました。
1つの作品としてはそれなりにできていますが、
見た目、作風があまりに宮崎駿作品なのですね。
もっと違うものにすれば、それはその作品になったでしょう。
しかし今のように興行成績は見込めなかったでしょうが、
その意味で、プロデューサーの鈴木の仕掛けなのでしょうか。
逆にいえば、ゲド戦記に欠けているものが、宮崎駿なのでしょう。
そしてまさにそれが、人々をこんなに熱狂させるものです。
160 :
純一:2006/08/06(日) 23:14:08
>>159 >見た目、作風があまりに宮崎駿作品なのですね。
>もっと違うものにすれば、それはその作品になったでしょう。
しかし、それはアニメの感想ではあれ、
哲学ではないだろうと一応指摘しておくに止めるか。
161 :
純一:2006/08/06(日) 23:16:13
2CHにおける、ぴかぁ〜のような「評論家」は良く居ます。
彼等はその批評を完成させる為に、わざとポスモダ用語を連発するかも
しれません。しかし、それは他の板のスレに巣食う人々と同様、
生産せずに、ただひたすら評論する、そんな人種なのです。
162 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 11:50:28
なぜ人々は豊かさを求めるのか
ルネサンス、産業革命、グローバリズムの熱狂とはなにか?
163 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 12:24:03
それは決して到達しない自然を求める否定神学の熱狂である。
164 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 13:10:02
交換とは贈与の数量化である。借りは返す。的確に借りた相手に借りた数量だけ。
ある意味当たり前のことであるが、マルクスが指摘するようにここから資本がうまれる。
それはごまかしでなく等価交換は行われるのだが、貸し借りのタイムラグは剰余を生む可能性を開いた。そしてそこに競争と熱狂がうまれたのである。
資本家は資本を増やすことに熱狂し、熱狂的競争がうまれ、市場は熱狂的に豊かになり、人々は豊かな商品に熱狂する。
すべての熱狂の根源は交換関係が生む剰余の可能性である。
しかしそうだろうか。熱狂はその前のルネサンスに始まっていたのではないか。
165 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 13:55:32
■なぜ資本主義は暴走するのか
贈与という無意識の力学
ラカンの「手紙は必ず届く」とは、贈与関係についての言及である。ポーの「盗まれた手紙」が例に上
げられているが、それは典型例であって、どの物語にも適応できる。
物語には必ず終わりがある。そして物語の終わりとは負債が清算されるときである。それが物語の
もつ神話性である。このような物語の神話性の引力はある作家のみが持つ者でない。人生において
清算さえなければ物語は終わらない。これは社会の成員の誰もがもつ「無意識の力学」である。
「盗まれた手紙」の中で、探偵ルパンだけがこの負債関係から逃れられる。なぜなら探偵は仕事で
あり、貨幣交換によって清算されることで、贈与関係の引力の「内部から逃れているのである。
166 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 13:56:05
「下町のお店」とコンビニの違い
最近、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどチェーン店が爆発的に増加し、いわゆる「下町のお
店」は廃れる傾向がある。このようなコンビニと「下町のお店」の違いはなんだろうか。
たとえばある商品を購入するときにたまたま持ち金が5円足りなかったとき、「下町のお店」では事情
を説明して、5円ぐらいおまけしてもらえないかと交渉できる。すなわちお店は客に5円を贈与するで
ある。
しかしコンビニでは5円だろうが、おまけすることはできない。これは金額の問題ではない。贈与関係
の排除がコンビニの存在価値の大きな部分を占めているのだ。
コンビニでは、商品を購入する客がどのような人物かは関係なく、どの客にも同じマニュアル化され
た対応を行う。そして店内では必要以上にお客に干渉しない。贈与関係の引力が排除され、徹底的
に交換関係を追求する。これによって「他者回避」された場を提供する。そして人々は「他者回避」さ
れた場を求めてコンビニへ行くのだ。
最近、社会に規律、人情など繋がりが希薄になったと言われる。これはまさに人々の関係が贈与関
係から交換関係へ向かっているということを意味するだろう。
167 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 13:56:39
贈与関係の引力
未開社会では社会関係は贈与関係に支えられていたと言われる。その小さなコミュニティは贈与と
返礼の引力によって支えられていた。このような贈与関係では、自然からの影響(「自然的暴力」)を
考えなければならない。
かつて社会は自然に大きく依存して生きていた。「自然的暴力」は、純粋贈与(例えば太陽の恵み)
=純粋略奪(例えば日照り)であり、予測不可能で、不確実である。このようなリスクを回避するため
に、自然的暴力の影響をコミュニティ内で分けあい、軽減することが贈与関係の起源ではないだろうか。
このような未開社会から現代へ向けて、自然的暴力の影響を管理する試みが行われてきた。特に
農耕という自然的暴力の管理、さらに近代以降の技術開発によって、自然的暴力の不確実性は管
理され、その影響が低下した。
168 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 13:57:12
交換関係と啓蒙思想
特に現代の資本主義社会では物質的な豊かさを手に入れた。その豊かさは自然の恵みに頼ってい
るが、分業化された社会では人々からはみえない「資源」としてある。それにともない贈与関係の引
力も低下する。人は贈与関係から解放される。
また豊かさは爆発的に人口を増加をさせ、急激に成長する流動性の高い社会では「無意識の力学」
としての贈与関係の引力は薄まらざる終えない。それに変わるのが交換関係である。
相手が誰であるかとは関係がなく、数量化によって客観性をもち、伝達が容易である交換関係は、
国家などの社会秩序の支えさえあれば、運営される。そして産業革命とアメリカ独立、フランス革命
が同時に発生したように、この交換関係の広がりと、自律した主体の自由と平等という啓蒙思想の
広がりは相補関係にある。だから「レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体」(トーマ
ス フリードマン ASIN:4794209460)で示されたように「マクドナルドがチェーンを展開している国同士
は戦争をしない」のだ。
169 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 13:57:54
「剰余を生む可能性」への熱狂
このように現代において、交換関係は資本主義として、地球規模へグローバル化した。しかし自然
的暴力を基点に作動していた贈与関係に対して、自然を資源へと変え、社会から隔絶した交換関係
はなにによって作動しているのだろう。
交換とは贈与の数量化である。的確に借りた相手に借りた数量だけの借りを返す。そしてマルクス
が指摘するように、的確に等価交換は行われる故に貸し借りのタイムラグは剰余を生む可能性を開
くのだ。
そしてこの「剰余の可能性」に人々が群がり、競争と熱狂がうまれたのである。資本家は資本を増や
すことに熱狂し、熱狂的競争がうまれ、市場は熱狂的に豊かになり、人々は豊かな商品に熱狂す
る。それが産業革命以降の資本主義である。
170 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 13:58:29
自ら隔絶した自然を求めて空転する資本主義社会
しかしこの熱狂は物質的な豊かを増やすことで生まれるわけではない。ここで転倒が起こっている。
贈与関係社会は、不確実な自然的暴力のリスク回避として作動した。しかしこのような受動的な理
由とともに、人は能動的に自然的暴力を求めているのである。自然的暴力が人へ純粋贈与(略奪)
を与えるとき、人もまた自然へ闘争する(純粋贈与(略奪)する)ことで「生きているという」快楽を持つのだ。
自然的暴力が隔離されたあとの交換関係社会への移行後も、自然への闘争(純粋贈与(略奪))す
る快楽への欲望は残り続けている。だから「自然」を内製し、消費する。それが「剰余を生む可能性」
への熱狂である。だから物質的に豊かになっても満たされることがなく、空転しつづけ、暴走するの
である。
171 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/07(月) 18:11:27
生活感の排除としての「クール」
172 :
純一:2006/08/07(月) 20:24:45
さて、
173 :
純一:2006/08/07(月) 20:27:42
ぴかぁ〜は毎日、同じことを書き込んでいます。
>>171なんか、典型ですね。
174 :
純一:2006/08/07(月) 20:40:14
>>166 >最近、社会に規律、人情など繋がりが希薄になったと言われる。これはまさに人々の関係が贈与関
>係から交換関係へ向かっているということを意味するだろう。
考察と結論を短絡し過ぎですな。
175 :
考える名無しさん:2006/08/08(火) 04:53:41
物質的な豊かさは内面の豊かさになりますよね。逆にひきこもりの内面があれほど陰惨なのは自分自身に経済力がなく、本来は乗り越えるべき親に永遠に呪縛されることから来ませんか?
176 :
考える名無しさん:2006/08/08(火) 14:37:33
しかし、ネット社会の豊かさは彼らのようなある意味労働を開放された存在がなければ成立しえないわけだから、ひきこもりの問題はネット空間にウェブ進化論でも言っているような擬似経済空間の構築が有効ではないかと思う。
177 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 12:02:06
■なぜ「マクドナル化」した店を好むのか
最近、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどチェーン店が爆発的に増加し、いわゆる「下町のお
店」は廃れる傾向がある。このようなコンビニと「下町のお店」の違いはなんだろうか。
たとえばある商品を購入するときにたまたま持ち金が5円足りなかったとき、「下町のお店」では事情
を説明して、5円ぐらいおまけしてもらえないかと交渉できる。すなわちお店は客に5円を贈与するで
ある。しかしコンビニでは5円だろうが、おまけすることはできない。これは金額の問題ではない。贈
与関係の排除がコンビニの存在価値の大きな部分を占めているのだ。
コンビニでは、商品を購入する客がどのような人物かは関係なく、どの客にも同じマニュアル化され
た対応を行う。そして店内では必要以上にお客に干渉しない。贈与関係の引力が排除され、徹底的
に交換関係を追求する。これによって「他者回避」された場を提供する。
これは、「マクドナルド化(McDonaldization)」と言われ、効率最優先による人間性喪失ととらえられる
((マクドナルド化する社会 ジョージ リッツア(ASIN:4657994131)))が、むしろ人々が「マクドナルド化」
を求めていると考えるべきである。それは価格が安いということ以上に、人々は「下町のお店」よりも
むしろコンビニを求めているのだ。
流動性の増加した社会では、「下町のお店」の家庭的な雰囲気は、人間関係の構築を迫ってくる暗
黙の干渉として働き、疎外感を感じる。それに対して、「マクドナルド化」は贈与の引力が排除された
誰にでも開かれた「ホッとステイション」となりえる。
178 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 13:55:50
中世的封建主義 階級制度(王権神授説神)/神−人間−動物の階級
近代的啓蒙思想 自律した理性的な主体 /神は死んだ。人間の拡大(リベラリズム)
ポストモダン思想 理性批判。下部構造(無意識)に左右される/動物化
179 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 14:05:01
若年層のゲーム機離れ顕著に
ttp://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2292299/detail?rd 利用時間の減少分はネットとケータイへ
【ライブドア・ニュース 08月07日】− ゲームや雑誌からネット利用へ─。日経リサーチは7日、7月
にネット上で行った調査「インターネットユーザーのメディア消費動向」の結果を発表した。
同調査ではインターネット利用者を対象に、「テレビ」「新聞」「雑誌」「フリーペーパー」「ラジオ」「イ
ンターネット」「通話・メール以外の携帯電話利用」「ゲーム機」の8媒体について、利用時間の1年間
の増減を聞いた。
調査の結果、利用時間が「増えた」の回答が全体の20%を超えたのは「インターネット」の42.4%の
みで、「通話・メール以外の携帯電話利用」の19.5%が続いた。一方、「減った」が同20%を超えたの
は「ゲーム機」の42.6%がトップで、以下「雑誌」(31.8%)、「テレビ」(28.2%)「ラジオ」(22.6%)と続い
た。既存媒体の利用時間の減少分が、インターネットと携帯電話に流れた形だ。
世代別では、10−20歳代の「ゲーム機」と「テレビ」の減少が目立ち、「ゲーム機」は50.0%、「テレ
ビ」は36.4%と、特にゲーム機離れが顕著であることがわかった。雑誌は30歳代と50−60歳代で、
30%以上利用時間が減少している。
また、今後利用が増えると予想される媒体については、ネット放送を好きなときに視聴する「ポッド
キャスト」の49.1%を筆頭に、「インターネット」(37.7%)、iPodなどの「ポータブル デジタル オーディ
オ プレーヤー」(35.5%)、移動体向け地上デジタル放送の「ワンセグ」(30.3%)と続き、携帯型端末
を利用したサービスへの期待度が高い。
調査は7月13日から18日にかけて、16−69歳の同社インターネットモニターを対象に実施。1176人
から有効回答を得た。【了】
180 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 14:10:05
中世的封建主義 階級制度(王権神授説神)/神−人間−動物の階級
近代的啓蒙思想 自律した理性的な主体 /神は死んだ。人間の拡大(リベラリズム)、心身二元論
ポストモダン思想 理性批判。下部構造(無意識)に左右される/心身解離、動物化
FF(ファーストフューチャー)思想 下部構造を破る自律した力動的な主体(バックラッシュ)/心身解離、人間の回帰
181 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 14:16:58
未開社会 自然崇拝/神、動物、人間の未分化
中世的封建主義 階級制度(王権神授説神)/神−人間−動物の階級
近代的啓蒙思想 自律した理性的な主体 /神は死んだ。人間の拡大(リベラリズム)、心身二元論
ポストモダン思想 理性批判。下部構造(無意識)に左右される/心身解離、動物化
FF(ファーストフューチャー)思想 下部構造を破る自律した力動的な主体(バックラッシュ)/心身解離、人間の回帰
環境管理権力、マーケティングなどの高度化した消費が、心(人間)を置き去りに、身体(動物)へ訴えかける。
ネットの登場が心(人間)のバックラッシュ(反動)を起こしている。心(人間)は近代的な理性でなく、力動(欲動)である。
182 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/09(水) 14:21:21
未開社会 自然崇拝/神、動物、人間の未分化
中世的封建主義 階級制度(王権神授説神)/神−人間−動物の階級
近代的啓蒙思想 自律した理性的な主体 /神は死んだ。人間の拡大(リベラリズム)、心身二元論
生産型資本主義
ポストモダン思想 理性批判。下部構造(無意識)に左右される/心身解離、動物化
消費型資本主義/グローバリズム
FF(ファーストフューチャー)思想 下部構造を破る自律した力動的な主体(バックラッシュ)/心身解離、人間の回帰
コミュニケーション型資本主義
環境管理権力、マーケティングなどの高度化した消費が、心(人間)を置き去りに、身体(動物)へ
訴えかける。 ネットの登場が心(人間)のバックラッシュ(反動)を起こしている。心(人間)は近代的な理性でなく
、力動(欲動)である。消費社会で動物化する者たちに、他者とのコミュニケーションによって自立的な主体が
想起する。
183 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 11:11:57
■なぜ僕たちはi夢を持たなければならないのか
脱構築と「システム」
現代は善/悪の境界を明確化できなくなっています。このような形而上学的二項対立な構造物はさ
まざまな情報に晒されることで、「脱構築」され、境界は曖昧になっています。しかしこのような曖昧さ
は一種の宙吊り状態であり、人にはフラストレーションです。
このような宙吊りと共犯にあるのが「システム」です。宙吊りの中で、マニュアル化された通路を提供
する「システム」が発達しています。人々はシステムの提供する通路を流されることで宙づりから解
放され、「満足」を得ます。
184 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 11:12:53
なぜ「マクドナル化」した店を好むのか
最近、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどチェーン店が爆発的に増加し、いわゆる「下町のお
店」は廃れる傾向があります。これは、「マクドナルド化(McDonaldization)」と言われ、効率最優先に
よる人間性喪失ととらえられるますが、((マクドナルド化する社会 ジョージ リッツア
(ASIN:4657994131)))むしろ人々が「マクドナルド化」を求めていると考えるべきです。
それは価格が安いということ以上に、人々は「下町のお店」よりもむしろコンビニを求めているという
ことです。価値多様化し、流動化した社会では、「下町のお店」の家庭的な雰囲気は、人間関係の構
築を迫ってくる暗黙の干渉として働き、疎外感を感じます。
それに対して、「マクドナルド化」は、決められたマニュアルにしたがい選択し、回りに人間関係をき
にすることなく、「食事をするという行為」全体の「負荷」が大きく低下します。それ故に、誰にでも開
かれた「ホッとステイション」となりえています。
185 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 11:13:45
満足と気付かないほどの満足を与える「システム」
たとえば自動車は現代の科学の推移をつまっており、数百万円で手に入るのは画期的なことだとい
われます。自動車には様々な機種そしてオプションがあり、どれを買うか迷います。しかし仮に「自
分だけのオリジナルの自動車がほしい」とするとする、普通の自動車でも億単位のコストがかかりま
す。それがこんなに安価に手にはいるのは、高度にマニュアル化された品質管理技術の賜物です。
現代ではさらに、「システム」が複雑、多様化しすぎるために、宙吊りが起こってます。たとえばグー
グルが行おうとしていることは、このような複雑化しすぎたシステムを、データーベース化し、ユー
ザーかほしいものを提供するマニュアル化です。
このように高度に発達したシステムでは、ユーザーはグーグルなどの内部で行われていることをし
ることなく、気が付かないように「満足」を提供します。これは「環境管理権力」などと呼ばれます。
このように多様な価値とそれをマニュアル化する便利な「システム」は、ボクたちに満足と気付かな
いほどの満足を与え、もはやボクたちのセカイそのものになっています。
186 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 11:14:32
隠蔽される「不自由」
しかしどこにもない自分だけの自動車がほしいと、マニュアルから逸脱しようとしたとき、「車は数百
万円である」という常識が限られた内部の秩序であったことを知り、「自分だけの自動車を作るには
数十億円かかる」という事実に、「後ずさり」します。
自分だけの自動車をめざしてはいけないという拘束はありません。ボクたちの社会は「自由」です。
それでも満足の地を離れ、苦難な荒野に向かうでしょうか。「自由なんだから、もっと頑張れば。」、
「あきらめたのは個人の責任である」と言うことでしょうか。
そこには普段気が付かない高い壁が存在するのです。現実的にそこに「不自由」が存在するので
す。しかし「不自由」は透明化されているのです。それはシステムが隠すとともに、ぼく達が見えな
いこととしているのです。
187 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 11:15:31
多様な選択の自由と「ないもの」を求める自由
システムが与える多様な選択の自由は、「内部の自由」でしかないありません。「内部の自由」が多
様化するほどに、内部は閉じ、「不自由」は隠され、そして閉塞します。そしてボクたちがほんとうに
もとめる自由とは、「内部の自由」の外=不自由であり、「外部への自由」です。
だから「自分だけの自動車がほしい」という意味は、ほしいものあり、それが内部にないのではあり
ません。そうではなくて、ボクたちは「内部にないもの」を求めるのです。それがボクたちの自由です。
188 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 11:16:11
「夢を持て」というパラドキシカルな意味
ボクたちが「システム」を積極的に求める理由は、価値多様、複雑化した社会で、「ないもの」を求
める自由(「外部への自由」)を目指すために、その他のことへの負荷を低減するためです。たとえ
ばかつてハッカーは汚い服装で、粗末な食事で、パソコンに向かい続けたのは、服装や食事よりも
「重要なこと」をしているというアピールであったという話があります。
「重要なこと(不自由)」を目指すために、「不自由」を透明化するシステムを積極的に受け入れる。こ
れはかなりパラドキシカルな行為です。たとえば最近のフリーター、引きこもりなどの人々はこのよう
なパラドキシカルな状態にはまりこんでいます。
すなわち「重要なこと(不自由)」を目指すために、「不自由」を透明化するシステムを積極的に受け
入れるために、「重要なこと(不自由)」が見いだせない、ということです。だから現代では目指すべ
き「重要なもの(不自由)」が明確化されなければ、システム内部に閉じこめられ、「満足」によって閉
塞してしまいます。
「僕の「重要なこと(不自由)」とはなんだろうか」。たとえば「夢を持て」とはこのようなパラドキシカル
な意味です。
189 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 11:45:11
システムとは数量化された贈与関係、すなわち等価交換関係をもとにしている。
190 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 12:21:00
グーグルがメールをすべてサーチするときにプライベートへの配慮は
すべて機械がおこなうから問題ないというものだ
191 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 21:00:14
■[記事]ボクたちがマクドナルドへいくのは食事に時間を割くよりも「重要なこと」があるからだ。
なぜ人々は「マクドナル」へ行くのか
最近、コンビニ、ファーストフード、ファミレスなどチェーン店が爆発的に増加し、いわゆる「下町のお
店」は廃れる傾向があります。このような傾向は「マクドナルド化(McDonaldization)」と言われ、効率
最優先による人間性喪失ととらえられるますが、むしろ人々が望んで「下町のお店」よりも「マクド
ナルド」へ行くのではないでしょうか。
たとえばある商品を購入するときにたまたま持ち金が5円足りなかったとき、「下町のお店」では事情
を説明して、5円ぐらいおまけしてもらえないかと交渉できます。すなわちお店は客に5円を贈与する
のです。しかしコンビニでは5円だろうが、おまけすることはできません。これは金額の問題ではな
く、「贈与関係の排除」がコンビニの存在価値の大きな部分を占めているからです。
コンビニでは、商品を購入する客がどのような人物かに関係なく、どの客にも同じマニュアル化され
た対応を行います。そして店内では必要以上にお客に干渉しない。「贈与関係の引力」が排除され、
徹底的に(等価)交換関係が追求されます。これによって「他者回避」された場が実現しています。
192 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 21:02:15
流動性に対応する「マクドナルド化」
現代の消費型資本主義社会では物質的な豊かさを手に入れました。このような豊かさは人を「助け
合い」から解放します。「他者回避」し、「一人でも生きていける」社会と作り上げる。この「一人でも」
とは無人島のようなことではなく、強いコミュニティによる「助け合い」、すなわち贈与/返礼の関係
から抜け出て、「一人でも」生きていける「自由」な社会ということです。
さらに豊かさは爆発的に人口を増加をさせ、社会の流動性を急激に高めました。このような贈与関
係の引力はむしろ社会の流動性へ順応するには、拘束的、排他的なものとなります。流動性の向上
の中で、「マクドナルド化」のようなマニュアル化された「システム」は流動性に対応した「満足」をあた
えます。
満足と気付かないほどの満足を与える「システム」
たとえば自動車は現代の科学の推移をつまっており、数百万円で手に入るのは画期的なことだとい
われます。自動車には様々な機種そしてオプションがあり、どれを買うか迷います。しかし仮に「自
分だけのオリジナルの自動車がほしい」とするとする、普通の自動車でも億単位のコストがかかりま
す。それがこんなに安価に手にはいるのは、高度にマニュアル化された品質管理技術の賜物です。
現代ではさらに、「システム」が複雑、多様化しすぎるために、宙吊りが起こってます。たとえばグー
グルが行おうとしていることは、このような複雑化しすぎたシステムを、データーベース化し、ユー
ザーかほしいものを提供するマニュアル化です。
このように高度に発達したシステムでは、ユーザーはグーグルなどの内部で行われていることをし
ることなく、気が付かないように「満足」を提供します。これは「環境管理権力」などと呼ばれます。
このように多様な価値とそれをマニュアル化する便利な「システム」は、ボクたちに満足と気付かな
いほどの満足を与え、もはやボクたちのセカイそのものになっています。
193 :
純一:2006/08/10(木) 21:03:05
素晴らしい!
194 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 21:03:06
多様な選択の自由と「ないもの」を求める自由
しかしどこにもない自分だけの自動車がほしいと、マニュアルから逸脱しようとしたとき、「車は数百
万円である」という常識が限られた内部の秩序であったことを知り、「自分だけの自動車を作るには
数十億円かかる」という事実に、「後ずさり」します。
自分だけの自動車をめざしてはいけないという拘束はありません。ボクたちの社会は「自由」です。
それでも満足の地を離れ、苦難な荒野に向かうでしょうか。「自由なんだから、もっと頑張れば。」、
「あきらめたのは個人の責任である」と言うことでしょうか。そこには普段気が付かない高い壁が存
在するのです。現実的にそこに「不自由」が存在するのです。しかし「不自由」は透明化されているの
です。
システムが与える多様な選択の自由は、「内部の自由」でしかないありません。「内部の自由」が多
様化するほどに、内部は閉じ、「不自由」は隠され、そして閉塞します。そしてボクたちがほんとうに
もとめる自由とは、「内部の自由」の外=不自由であり、「外部への自由」です。
だから「自分だけの自動車がほしい」という意味は、ほしいものあり、それが内部にないのではあり
ません。そうではなくて、ボクたちは「内部にないもの」を求めるのです。それがボクたちの自由なの
です。
195 :
純一:2006/08/10(木) 21:03:49
素晴らしい功績だ!
196 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/10(木) 21:04:05
なにが「重要なこと」を示すためにマクドナルドへいく
だから「大きなシステム」が知らないうちに僕たちを取り囲んでいると単純に考えてはいけません。僕
たちが「マクドナルド」へいくのは、決められたマニュアルにしたがい選択し、回りに人間関係を気に
することなく、「食事をするという行為」全体の「負荷」が大きく低下することにあります。それによっ
て、「重要なこと(外部への自由)」による多くの労力を割くことができるようになるからです。
重要でない「不自由」はシステムに従うことで見えないこととしているのです。たとえばかつてハッ
カーは汚い服装で、粗末な食事で、パソコンに向かい続けたのは、服装や食事よりも「重要なこと」
をしているというアピールであったという話があります。
僕の「重要なこと」とはなんだろうか
しかしこれはパラドキシカルな状態ともいえます。「重要なこと(不自由)」を目指すために、「不自由」
を透明化するシステムを積極的に受け入れる。たとえば最近のフリーター、引きこもりなどの人々は
このようなパラドキシカルな状態にはまりこんでいるのではないでしょうか。
すなわち「重要なこと(不自由)」を目指すために「不自由」を透明化するシステムを積極的に受け入
れる。それによって「重要なこと(不自由)」を見いだすことがより強迫的になる。
現代では目指すべき「重要なもの(不自由)」が明確化されなければ、システム内部に閉じこめられ、
「満足」によって閉塞してしまいます。「僕の「重要なこと(不自由)」とはなんだろうか」。それは「夢を
持て」と同じ意味です。「システム」が満足を与えるほどに僕たちは閉塞する状況におかれます。
197 :
純一:2006/08/11(金) 18:03:41
今日はまだかね?
期待してるよ。
198 :
純一:2006/08/11(金) 18:34:12
そうそう
199 :
純一:2006/08/11(金) 20:00:50
君は心の友だから、
200 :
純一:2006/08/11(金) 20:11:56
ゲッチュ!
201 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/11(金) 20:12:57
マルクスがフランスに行かなかったら「資本論」は書けなかった、デカルトがオランダに行かなかったら・・、
という外部の「別のシステム」の中で震撼できる、古き良き時代にはあった思考のモチベーションは、
悪しき(マニュアル化が徹底化された)グローバリズムが浸透してしまった現代においては求めにくいですよね。
ルーチン化/マニュアル化していくことで、<「内部の自由」の外=不自由>の領域を狭めていくことも人間の本能ですね。
その結果、本当の自由(システムの外に向かう自由)の領域も、<パラドキシカル>なことに、狭まっていく。
しかし、狭まりはするが、無くなってはくれない。
システムの外に向かう自由への衝動も無くなってはくれない。
「不自由」に向かう衝動は、本源的に、人間は、(自由であることに呪われている)からでしょう。
そして、マニュアル化/グローバリズム化される量と、<「内部の自由」の外=不自由>に向かおうとする衝動の量とが、逆転してくれる時は、永遠にきてくれないでしょうね。
202 :
考える名無しさん:2006/08/11(金) 20:14:39
論客登場
203 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/11(金) 20:23:02
労働での生産手段の向上と、余暇時間における余暇サービス提供者のマニュアル化によるサービスの質の向上との狭間、
謂わば第三の選択「時間」としての「<「内部の自由」の外=不自由>に向かおうとする」ことに消費する時間が、
経済学ではまるで「埒外」になってますね。
そして、そこに、哲学の領域(隘路)があるのでしょう。
204 :
純一:2006/08/11(金) 20:26:15
>>202 >>203 ぴかぁ〜のいい加減に書いた理論を、
肯定的に消費する、あなたのような人が彼を長生きさせるのです。
205 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/11(金) 20:29:47
>204
純一さんも、ぴかぁ〜さんの理論を十分に「消費している」と思いますよ。
206 :
純一:2006/08/11(金) 20:30:12
ほーう?
それはどういった意味での消費なのですか?
207 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/11(金) 20:30:32
>205
肯定的に、ね。
208 :
純一:2006/08/11(金) 20:31:17
ぴかぁ〜の理論は根本的には、なんでも無垢であって、
それ以外は見知った知識のパッチワーク的羅列に過ぎませんよ。
209 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/11(金) 20:32:57
>206
前スレも含め、肯定/否定は問わず、ぴかぁ〜さんのレスの最も深い読み手は純一さんですよ。
210 :
純一:2006/08/11(金) 20:33:11
たとえば、これ↓が挙げられます。
575 名前:ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/11(金) 19:00:16
>ぴか。郵便本読め。東のラカン解釈。
ヒガシのラカン解釈は・・・
手ヅカンは相変わらずラカン理解に難アリと・・・
デリダのエクリチュールは、ラカンのシニフィアンの連鎖との関係で
考えないといけないと思うんだよ。これはかなり近い。
ラカンのシニフィアンの連鎖・・・文脈での意味の事後的決定
デリダのエクリチュール・・・文脈からの切断性
211 :
純一:2006/08/11(金) 20:35:31
>>209 でも、読み方は違うよね。
君達はぴかぁ〜が羅列した知識に反応しているわけで、
私はぴかぁ〜の誤用だらけの使用法に関して書いてるわけだから。
その結果、ぴかぁ〜が知っている知識の単語そのものは誤りでは
無い為に、ぴかぁ〜を延命されることに手を貸してしまっているよね。
212 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/11(金) 20:37:05
>208
プロでない限り、多かれ少なかれ、それはあるでしょう。
そして、「なんでも無垢」というのは、一種の才ですよ。
213 :
純一:2006/08/11(金) 20:37:32
>>210では、
ぴかぁ〜の哲学者解釈以外は誤用であると、
ぴかぁ〜自身が思っているわけだけど、本当は違う。
214 :
純一:2006/08/11(金) 20:40:14
>>212 >そして、「なんでも無垢」というのは、一種の才ですよ。
ならば、生産手段とかのタームから攻めるんじゃなくて、
そのなんでも無垢という彼の哲学そのものを攻めないと、
かえって延命させることになると思うけどね。
215 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/11(金) 20:44:44
>214
私は、ぴかぁ〜殺しを目的に書いているわけではなく、
ぴかぁ〜さんのレスから触発されたことを、自分の思考の整理のために書いております。
私は、ぴかぁ〜さんを「攻める」だけの器量は持ち合わせておりません。
216 :
純一:2006/08/11(金) 20:46:21
つまりわざと延命させているわけではないってことか。
217 :
純一:2006/08/11(金) 20:47:17
なるほど、分かりました。
218 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/08/11(金) 20:48:38
私を含め、自分の思考経路に合わせた思考を志向します。
思考領域も含めて。
たまたま、ぴかぁ〜さんのレスに、私の思考経路が触発される場合が多い、ということです。
219 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/11(金) 21:21:55
>>201-203 ボクたちは自由なのに、なぜ閉塞するのか、ということです。
自由なようで、実はマニュアル化によって拘束されているなと。
しかしビックブラザーが仕掛けているわけでなくて、
ボク自身がそれを望んでいる。
だって豊かな方がよいし、便利な方がよいから。
なぜなら自分のやりたいようにできるから。
自分のやりたいようにやるために、マニュアルに従う。
しかしやりたいようにやるとはマニュアルの外だから、
マニュアルに従うほど、マニュアルの外は遠のく。
そしてマニュアルの外を目指すことが形骸化する。
自由だけど、マニュアルの外にでることは難しくなっている。
成熟した資本主義社会ってそういうものかなと。
220 :
純一:2006/08/11(金) 21:23:26
都合の良いレスだけ抜粋するな、と言いたい。
221 :
純一:2006/08/11(金) 21:24:52
ちなみに、ぴかぁ〜のブログでも、
>なぜ人々は「マクドナル」へ行くのか
誤字があるが。
222 :
純一:2006/08/11(金) 21:26:44
レスの選択が、
>ただし内容は必要にあわせて編集しています。
というブログでの行動と符号するね。
ほとんど改竄だろうと誰もが思ってる筈だけど。
223 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/11(金) 21:33:24
しかし
>>179にコピペした記事はおもしろいなと、
若者がゲームからネット、ケータイへ向かっている。
ゲームはどんどん性能があがり、リアリティ、臨場感が増しているのに、
テキストベースの回帰するというのがおもしろい。
ここに、内部の自由と、「内部の自由」の外=不自由の関係があるように思うのです。
内部の自由=マニュアル化の選択の自由
「内部の自由」の外(不自由)=ネットコミュニケーションの不自由
ゲームの不確実性よりも、他者の不確実性の方がおもしろいと。
ここに後期資本主義社会から、ネット社会への移行が見られると思うのです。
224 :
純一:2006/08/11(金) 21:37:12
225 :
純一:2006/08/11(金) 21:38:03
>ここに後期資本主義社会から、ネット社会への移行が見られると思うのです。
それはないね。
226 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/11(金) 21:44:38
人はいまの資本主義的浪費が必然ではない。
ネット社会型の資本主義社会はあるのではないか。
ボクはグーグルの例をマニュアル化の最先端として上げました。
グーグルが目指すマニュアル化は、人がほしいものをより正確に広告することですね。
たとえばロングテールでは少量生産品でも採算がとれるということです。
人は多くにおいてグーグルを享受するでしょうが、
グーグルがどんなにほしいものを正確に広告しても、
その外=広告しないものを望むということですね。
さらにいえばこの「内部の自由」の外(不自由)は
商品でなく、他者とのわかりあえなさに求められるということです。
227 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/11(金) 21:45:24
ん〜・・・今ひとつまとまらない・・・
228 :
考える名無しさん:2006/08/11(金) 21:48:16
欲望など結局は管理不能だね、ふん。
229 :
純一:2006/08/11(金) 21:50:24
>グーグルがどんなにほしいものを正確に広告しても、
>その外=広告しないものを望むということですね。
まあ、つまり、ぴかぁ〜が欲しい知識を享受したとしても、
その外=新刊が出ればそっちの方に飛びつくってことだね。
230 :
考える名無しさん:2006/08/11(金) 21:51:04
まとまらないなら、たまには紙にペンで書いてみな。
231 :
純一:2006/08/11(金) 21:51:39
ウェブ進化論とか、流行ものにすぐに飛びつくよね。
ぴかぁ〜って基本的にミーハーなんだと思うけどね。
232 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 02:58:04
■なぜ「若者がゲームからネット、ケータイへ向かっている」のか
ボクたちは自由なのに、なぜ閉塞するのか、ということです。自由なようで、実はマニュアル化によっ
て拘束されているなと。しかしビックブラザーが仕掛けているわけでなくて、ボク自身がそれを望んで
いる。だって豊かな方がよいし、便利な方がよいから。なぜなら自分のやりたいようにできるから。
自分のやりたいようにやるために、マニュアルに従う。しかしやりたいようにやるとはマニュアルの外
だから、マニュアルに従うほど、マニュアルの外は遠のく。そしてマニュアルの外を目指すことが形
骸化する。自由だけど、マニュアルの外にでることは難しくなっている。成熟した資本主義社会って
そういうものかなと。
「若者がゲームからネット、ケータイへ向かっている。」という記事はおもしろいなと。ゲームはどんど
ん性能があがり、リアリティ、臨場感が増しているのに、テキストベースの回帰するというのがおもし
ろい。
>>
若年層のゲーム機離れ顕著に
ttp://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2292299/detail?rd 利用時間の減少分はネットとケータイへ
同調査ではインターネット利用者を対象に、「テレビ」「新聞」「雑誌」「フリーペーパー」「ラジオ」「イ
ンターネット」「通話・メール以外の携帯電話利用」「ゲーム機」の8媒体について、利用時間の1年間
の増減を聞いた。
調査の結果、利用時間が「増えた」の回答が全体の20%を超えたのは「インターネット」の42.4%の
みで、「通話・メール以外の携帯電話利用」の19.5%が続いた。一方、「減った」が同20%を超えたの
は「ゲーム機」の42.6%がトップで、以下「雑誌」(31.8%)、「テレビ」(28.2%)「ラジオ」(22.6%)と続い
た。既存媒体の利用時間の減少分が、インターネットと携帯電話に流れた形だ。
<<
233 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 02:58:45
ここに、内部の自由と、「内部の自由」の外=不自由の関係があるように思うのです。
内部の自由=マニュアル化の選択の自由
「内部の自由」の外(不自由)=ネットコミュニケーションの不自由
ゲームの不確実性よりも、他者の不確実性の方がおもしろいと。ここに後期資本主義社会から、
ネット社会への移行が見られると思うのです。人はいまの資本主義的浪費が必然ではない。ネット
社会型の資本主義社会はあるのではないか。
ボクはグーグルの例をマニュアル化の最先端として上げました。グーグルが目指すマニュアル化
は、人がほしいものをより正確に広告することですね。たとえばロングテールでは少量生産品でも採
算がとれるということです。人は多くにおいてグーグルを享受するでしょうが、グーグルがどんなにほ
しいものを正確に広告しても、その外=広告しないものを望むということですね。
さらにいえばこの「内部の自由」の外(不自由)は、商品でなく、他者とのわかりあえなさに求められ
るということです。
234 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 03:03:49
■若者がゲームからネットへ向かうのはゲームの不確実性よりも「他者」の不確実性の方がおもしろいからだ。
235 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 03:32:29
TVがすごいのが、こんなにおもしろいコンテンツをタダで見られるからだ。
しかし当然タダではなく、TV局は広告費を稼ぎ、その広告費は、
ボクたちが買う商品に含まれている。
すなわちボクは商品を通して、視聴料を払っているということだ。
グーグルのアフェリエイトなどは、この仕組みを誰もがブログなどで
行えるようにしている。ボクたちはタダでブログを見ているわけでなく、
商品を通して料金を払っているというわけだ。
グーグルが目指すところは、TVのように闇雲に広告を見せるのでなく、
見るものに必要な広告をみせようと検討することにある。
しかしTVの広告も娯楽性が高く、それはそれで楽しめるものになっている。
むしろグーグルの特徴は、ブログなどを無料で作るものに対して
有効であれば、お金が稼げるという、ネット住人に道を開いた点にある。
それなりに頑張れば、ブログだけで食っていけるのではないか・・・
ブロガーのやる気も違うというわけだ。
236 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 03:37:45
なぜブロガーがただで懸命にブログをつくるのかは、
他者との繋がりを望むことがある。
だからアクセス数の伸び、コメントの数などの反応が
励みになる。見られているだろうことで、楽しみが生まれる。
これは贈与の関係である。しかし無数の人が可能性があることから、
受け取る方の負債感は小さいだろう。
それでも、ネットは一つは小さいが多数の贈与の連鎖によって成り立っている。
それが漠然とであるがネットコミュニティを作り出す。
ブログをみることで、小銭がそのブロガーにはいるとき、それは交換関係に移行するだろうか。
直接お金を払っているわけではないので、先の贈与関係を変わらないだろう。
贈与関係を崩さずないところが、グーグルの考えられているところである。
それはまたブロガーのやる気の本質とは違うように思う。
ネットは贈与の関係であるから、作る方も、見る方も楽しいのである。
小銭稼ぎは、アクセス数の増加を同じ指標でしかない。
ほんとうに小銭を稼ぎたいなら、その他の仕事をした方が効率が良いだろう。
グーグルは広告仲買料をいってに引き受けるうまみのある仕事である。
また必要な人に必要な広告ということで、企業の広告効率も上がるかも知れない。
ネットに企業を参入させる上手い方法であるが、
ネットそのものは、贈与関係を動力に作動しつづけ、大きく変えることには成らないだろう。
237 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 04:53:11
■若者がゲームからネットへ向かうのはゲームの不確実性よりも「他者」の不確実性の方がおもしろいからだ。
自由だけどマニュアルの外へでることが難しくなっている
「ボクたちがマクドナルドへいくのは食事に時間を割くよりも「重要なこと」があるからだ。」*1で言った
のは、ボクたちは自由なのに、なぜ閉塞するのか、ということだ。自由なようで、実はマニュアル化に
よって拘束されていると。しかしそれは、ビックブラザーがボクたちに罠を仕掛けているということで
はなく、ボクたち自身がそれを望んでいる。だって豊かな方がよいし、便利な方がよいから。そうすれ
ば、自分のやりたい余裕ができるから。
自分のやりたいようにやるために、マニュアルに従う。しかしやりたいようにやるとはマニュアルの外
にあるのだから、マニュアルに従うほど、マニュアルの外は遠のいていく。そしてマニュアルの外を
目指すことが形骸化する。
自由だけど、マニュアルの外にでることは難しくなっている。成熟した資本主義社会ってそういうもの
ではないのかとということだ。ここでいう自由とはマニュアル化された「内部の自由」であり、本当の
自由とは、マニュアルの外にでる「不自由」であると言った。
238 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 04:55:13
若者がゲームからネット、ケータイへ向かっている
>>
若年層のゲーム機離れ顕著に 利用時間の減少分はネットとケータイへ
同調査ではインターネット利用者を対象に、「テレビ」「新聞」「雑誌」「フリーペーパー」「ラジオ」「イン
ターネット」「通話・メール以外の携帯電話利用」「ゲーム機」の8媒体について、利用時間の1年間
の増減を聞いた。
調査の結果、利用時間が「増えた」の回答が全体の20%を超えたのは「インターネット」の42.4%の
みで、「通話・メール以外の携帯電話利用」の19.5%が続いた。一方、「減った」が同20%を超えたの
は「ゲーム機」の42.6%がトップで、以下「雑誌」(31.8%)、「テレビ」(28.2%)「ラジオ」(22.6%)と続い
た。既存媒体の利用時間の減少分が、インターネットと携帯電話に流れた形だ。
ttp://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2292299/detail?rd <<
若者がゲームからネット、ケータイへ向かっている。というこの記事はおもしろい。ゲームはどんど
ん性能があがり、リアリティ、臨場感が増しているのに、それでも、テキストベースのコミュニケーショ
ンへ回帰するというのがおもしろい。ここに、内部の自由と、「内部の自由」の外=不自由の関係が
あるように思う。
「内部の自由」=マニュアル化されたゲーム操作選択の自由
「内部の自由」の外(不自由)=ネットコミュニケーションの不自由
ゲームの中の世界で起こる不確実性よりも、ネットで出会う他者の反応(コミュニケーション)の不確
実性の方がおもしろいということだろう。
239 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 04:56:15
なぜコンピューターグラフィックで「顔」がリアルに描けないのか
たとえばなぜコンピューターグラフィックでは「顔」がリアルに描けないのだろうか、という問題とも通
じるかも知れない。「他者」は「顔」と同じで決してマニュアル化されない特別な存在なのだ。
>>
およそ「顔」について、われわれはただ審美的に、あるいは比喩的に語るほかに、記述の手段を持
たない。「顔」を逐語記述や計測数値に還元することは、十分に可能であると同時に、まったく無意
味だ。「顔の」識別にさいして「パターン認識」ほどそぐわない手段はない。それはなぜだろうか。
「顔」の本質はその固有性にしかないのであって、「固有なもの」はパターンに照合できないのだ。
「顔」の機械的識別が原理的困難に突き当たるのは、つまるところ、コンピュータが「顔」をパターン
の組み合わせにしか還元できない、ということによる。
「文脈病」 斎藤環 (ASIN:4791758714)
<<
240 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 04:58:10
消費型資本主義からネット型資本主義社会へ?
ここにマニュアル化された消費を中心とした後期資本主義社会から、ネット社会への移行の可能性
が見られるように思う。人は必ずしもいまの浪費型の資本主義が必然ではなく、ネット社会は新たな
資本主義社会の形態を提示するのではないか。
ボクはグーグルの例をマニュアル化の最先端として上げた。グーグルが目指すマニュアル化は、人
がほしいものをより正確に提供(広告)することだ。ボクたちは多くにおいてグーグルを享受するだろ
うが、グーグルがどんなにほしいものを正確に提供(広告)しても、その外=提供(広告)しないもの
を望み続けるということだ。そしてそれは情報でもなく、「他者とのわかりあえなさ」に求められるとい
うこと。
ボクは消費における商品も一つの「顔(他者)」ではないかと考える。人は商品の向こうにその商品
を欲望している「顔(他者)」を見ているのだ。そしてコミュニケーションとして商品を購入する。しかし
ネット社会では「顔(他者)」は商品を介するような回り道をせずに、テキストにより語りかけてくる。
確かにそれはただのテキストであるが、「他者」のリアリティとは視覚的なリアリティとはまったく関係
せず、「わかりあえそうでわかりあえない」という不確実性によって表れるのだ。
241 :
考える名無しさん:2006/08/12(土) 16:25:19
哲学とは、この世に生きることがどのように感じられるかという主観的な経験です。
こういう経験はふつう漠然と意識されているにすぎませんが、それはそういったものにはほとんど名前がついていないためです。
私たちの経験がどんなに強烈でも、名前のついていないものを理性でつかまえることはむずかしものです。
従って、 普通の言葉によって伝えることはむずかしいものです。この主観的な経験を表現するものが哲学です。
242 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/12(土) 20:12:05
のちに歴史として振り返ったとき、いまは産業革命のようにネット革命の真っ只中として語られるだろう。
そして京都議定書など国際的環境問題のはじまり、すなわちグローバリズムの始まりとして語られるだろう。
243 :
考える名無しさん:2006/08/12(土) 21:11:32
何?「俺、歴史の証言者になりますよ」
ってやつ?
244 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 13:47:06
結局ぴかぁにしろ、哲学版の住人にしろ欠けているのは他者との関わりなんだよ。
関わりという言い方に問題があるとするのなら生身の人間とけんかしろと俺は言い
たい。ぴかぁに言うけどお前みたいなこというやつ町にいるとして、その意見に同意
しない他者と遭遇したらお前どうするんだ?おめえ気に入らねえなあって殴られてお終いじゃねのか?
ようは世界で起きている戦争てのはそういうもんだろ。気にいらなえことがあったらどこの国の
人間でも最後は暴力に訴えるだよ。それを純粋略奪だとか理論化して何か生産性はあるのかという
ことを俺は言いたいんだよ。
245 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/13(日) 13:59:37
>>244 このレスすることには生産性があると・・・
246 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 14:09:54
理性の統制的効果は確かにあると思うが。
247 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 14:14:42
だが暴力の理性的な考察は結局は暴力の肯定という結論にたどり着きはしないだろうか。ドルゥーズやニーチェの晦渋に満ちた論考はやっぱり、暴力を理論的に考える困難からもたらされるという気がするが。
248 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/13(日) 14:41:19
理性的な考察とは言語化ですね。言葉を発するということは、漠然とあるものとをカテゴライズする。
そして言葉を発することでそれはもともとそうであったような意味を持つ。
ベンヤミンの神話的暴力ですね。
デリダがなぜ病的な文章を書くのかは、それを逃れるためです。
249 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 15:07:44
君が病的なのは何故かね?
250 :
純一:2006/08/13(日) 15:52:44
それについては私が説明しましょう。
251 :
純一:2006/08/13(日) 15:53:58
別スレでも言ったのですが、引用しますね。
711 :純一 :2006/08/12(土) 23:59:07
>>453 >真面目な話しぴかぁって中国あたりからの留学生じゃね?
>日本語のてにはをレベルでの間違いってありえないだろ?
ぴかぁ〜は中国人ではないと思いますよ。てにをはが間違ってるのは、
22歳から28歳の現在のかけて、ネット社会にだけ住んでいたことが原因と思われます。
ちなみに東京出身の資産家の息子みたいですね。
252 :
純一:2006/08/13(日) 15:54:33
719 :純一 :2006/08/13(日) 00:14:12
詳しく言うと、2001年の時に22歳でしたから現在は27〜28ですね。
11月の話なので、現在はおよそ28歳ということになります。
253 :
純一:2006/08/13(日) 15:55:21
722 :純一 :2006/08/13(日) 00:35:45
20歳からインターネットを始めたそうですから、
2chには最初期から居たような感じですね。
ホストを見るとアッカ東京となっているので、
在住年数も考慮して出身と判断しました。
毎月の書籍の購入量、飲食費、その他の費用を計算すると、
1月に5万前後自由に使える状態にあるので、資産家と判断しました。
254 :
純一:2006/08/13(日) 15:58:24
>>253からすると、テレホーダイ時代から居たという感じです。
その時はぴかぁ〜は20歳くらいで、1998〜1999年くらいからに
なりますね。
255 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 15:59:11
一ヶ月五万で資産家かあ?
256 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 16:01:02
ところでピュアオーディオ板に短パンがいたけど、あの短パンか?
257 :
純一:2006/08/13(日) 16:02:44
当時、ぴかぁ〜の書き込みにはまだ人が登場したりするので、
この時点では、大学に行っていたかリアルに友人が居たと思われます。
しかし、22歳前後以降はその影が全然見えないので、おそらく卒業して
挫折し、引き篭もったか、20歳の時点で失敗し引き篭もったかのどちら
かと思われます。
258 :
純一:2006/08/13(日) 16:05:35
>>255 たぶん5〜10万くらいの誤差はあるかと。
普段の飲食費などと、娯楽費を考慮すると、
最低ラインで5万、実際にはもっと使ってると思いますがね。
259 :
純一:2006/08/13(日) 16:08:59
たとえば、ipodの安いモデルでも35000〜なので、
これが簡単に購入できるということは、5万前後は
自由に使えるということですが、ぴかぁ〜の場合なら、
下のグレードは買わないでしょう。ですから、実際は、
上のモデル、つまり、約47000がポンと出せる余裕があるってことですね。
260 :
純一:2006/08/13(日) 16:12:23
261 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 16:14:44
見栄をはってハッタリかましているとは考えられないかな?
262 :
純一:2006/08/13(日) 16:15:47
で、仮に22歳で挫折したと概算しても、
およそ6年間は1人でネット社会のみで話してきた
わけですから、自然と誤字・脱字が増えて、
リアルでのコミュニケーションとかけ離れてしまった
と考えられるわけです。
263 :
純一:2006/08/13(日) 16:17:43
>>261 娯楽費に関しては彼の性格を考慮すると、事実しか書いてないと思います。
むしろ、彼が資産家で無い場合に一番に考えられるのは、親に内緒で借金している
とかいうパターンです。これはかなり恐ろしいですね。
264 :
純一:2006/08/13(日) 16:21:22
しかし、東京という地理を考えれば、月5万を1人息子に
提供できるのが苦にならない程度の資産家は居るだろうと
考えた結果、そういう結論に達しました。
265 :
純一:2006/08/13(日) 16:23:33
で、
>>244もこれで説明がつきますね。
244 :考える名無しさん :2006/08/13(日) 13:47:06
結局ぴかぁにしろ、哲学版の住人にしろ欠けているのは他者との関わりなんだよ。
関わりという言い方に問題があるとするのなら生身の人間とけんかしろと俺は言い
たい。ぴかぁに言うけどお前みたいなこというやつ町にいるとして、その意見に同意
しない他者と遭遇したらお前どうするんだ?おめえ気に入らねえなあって殴られてお終いじゃねのか?
ようは世界で起きている戦争てのはそういうもんだろ。気にいらなえことがあったらどこの国の
人間でも最後は暴力に訴えるだよ。それを純粋略奪だとか理論化して何か生産性はあるのかという
ことを俺は言いたいんだよ。
266 :
純一:2006/08/13(日) 16:27:59
たぶん、
>>262が当たってるとすると、
>>244のような現象が起こり、
不都合なものは見なくて良い生活になってしまうのだと思います。
ですので、誤字・脱字を指摘されても決定的な失敗にはならず、
また、いい加減なタームの使用や反論の無視もネット生活で自然に身に付いた
ものであると考えられるわけです。
267 :
純一:2006/08/13(日) 16:35:19
ここまで来て思ったんですが、
ぴかぁ〜ってまさに、東の言う「動物」ですね。
268 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 16:39:03
おおかた純一のいうとおりだと思うが、
あのてにをはの誤用、文の構成や表現の稚拙さはそれでは説明できない。
例え、コミュニケーションがなくとも何年にも渡り書き込みを行っているならもう少し洗練されるはずだ。
ここらへんに、ただならぬアンバランスを感じる。
269 :
純一:2006/08/13(日) 16:42:36
たしかにそうかもしれませんな。
270 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/13(日) 23:57:01
■「手紙は必ず届くとは限らない」世界だからこそ「手紙は必ず届く」のだ。
「手紙は必ず届くとは限らない」世界だから「手紙は必ず届く」
ラカンの「手紙は必ず届く」とは、たとえばなにが罪を犯した。でも自分がやったことはばれない。とし
て、ひとはそれで安心できるか。罪の意識にさいなまれる。たとえば物凄いラッキーに見まわれる。
すると人はなにか、申し訳なくて、多少ともみんなに還元しないと落ちつかなくなる。社会の内部では
このような負債感の贈与、返礼の無意識の力学が働いているということ。
その一番特徴が、小説、ドラマなどの物語。犯人が捕まる。恋人が出会うなど、オチがつく。オチを
宙づりにする方法もあるが、見た人はあの後がどうなった!と、人々の中で話が進み、オチをつけ
る。それが無意識の力学。
デリダはこれを「手紙は必ず届くとは限らない」、郵便、幽霊といったけど、滑稽。ラカンは20年前ま
で生きていた人。郵便が届かないこと、生きていれば、負債がそのままで残ることなど、当たり前。
特に後期資本主義社会では、人々は貨幣による等価交換の世界を生きていると思っている。等価
交換では、その場で貸し借りはないわけで、負債が発生しないシステムの世界。
ラカンはこの後期資本主義システム、すなわち郵便的な世界で、実は、無意識の力学がいまも生き
ていることを指摘したわけ。いまでも人がドラマをみて感動するのは、無意識の力学が働いているから。
271 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/13(日) 23:57:40
ヒガシの人間/動物の解離二層論
しかしヒガシが動物化というときには、デリダを経由して先に示しているということも言える。オタクな
ど物語性ではなく、パーツパーツに「萌える」わけで、「無意識の力学」とは異なるものが作用している。
これが、機械化、工学化なわけで、マーケティングでとくに発達している。たとえば最近のハリウッド
映画などは、物語よりも、場面場面のスペクタクルで、生理的な快感にうったえている。見終わって
おもしろかったが、なにをみたかあとに残らないし。負債感を持ち越さない。
しかしそれもさらに進んでいる。最近、ゲーム離れが進み、ネットコミュニケーションへ時間を割いて
いる。これをヒガシは反射的にレスをする快感を言っているが、それを言ってしまうと、物語でも最後
は生理的な反応でしかないわけで、糞もミソもになってしまう。
ここは、人間性の回帰(バックラッシュ)が起こっていると考えるべき。その意味で、ヒガシは動物化
から人間/動物の解離二層論へ向かったのは正しい。
解離二層をマルクス主義的に転換したのがネグリの帝国。帝国=システムに対して、バックラッシュ
としての人間=マルチチュードが回帰する。ナショナリズムの台頭といい、なにか、時代はバックラッ
シュですね。
272 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/13(日) 23:59:46
柄谷は「第三次世界大戦」と望んでいる?
柄谷の世界共和国もある意味はバックラッシュで、一見、ネグリの帝国と似ているが、アソシエー
ションを根底とする、贈与の社会なんですね。ヒガシは柄谷も否定神学といったように、世界共和国
を超越論的仮象として、無意識の力学によって、人々が世界共和国へ向かうと言っている。すなわ
ち世界共和国は人類のハッピーエンドだということ、これは、マルクス主義的な最終目標、自然との
調和世界の実現ということで、ハッピーエンド=超越論的仮象なのだろうが、やはり無理がある。
「手紙は必ず届く」のは、「手紙は必ず届くとは限らない」という前提のもとなんですね。「手紙は必ず
届くとは限らない」とはなにかというと、自然なんです。この世界は誰にもなにがわからないという不
確実な世界=自然界です。なにが起こる変わらない世界だから、人々はコミュニティ内で負債を分
け合う、助け合う力学が働くということです。
だから世界共和国へ向かうにはそれ相当の不確実性が起こらないといけない。たとえば隕石が振っ
てくるとか、宇宙人が来襲するとか。だから柄谷は「第三次世界大戦」と望んでいる、カントが世界大
戦を、そしてマルクスが世界恐慌がおこることを望んだように、と噂される。近い危機では環境問題
がありますが、危機としては弱いですね。
それは、「手紙は必ず届く」という助け合いの関係、贈与関係は小さなコミュニティで働きやすい。そ
してその他のコミュニティを排他する傾向があります。最近のバックラッシュがナショナリズムなど、
その他を排除することで作動するのも特徴です。
273 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/14(月) 00:00:18
オタクは「動物化」によって「人間臭さ」
このように考えると、オタクは動物していると言われながら、バックラッシュな存在ですね。オタクは
「オタク」であることのとても誇りに思っている。「動物化」というのは「イエローモンキー」 のように、本
来蔑視後なのですが、それを他の人との差異化としてとらえています。「動物化」しているオタクは他
とは違う、というとらえ方です。「動物化」で差異化(他を排他)する「人間臭さ」はとてもパラドキシカ
ルです。
274 :
考える名無しさん:2006/08/14(月) 00:15:11
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw
275 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/15(火) 15:26:12
■なぜ革命は起こらないのか
なんだかんだいっても結局資本主義って、産業革命以後の産業形態に都合良いように、政治形態
化させたものでしょ。本当にブルジョア/プロレタリアートの搾取が続けば社会主義思想まで突き抜
くたんでしょうが、落ちつくところに落ちついたわけで、で、いまさら社会主義って、どのような下部構
造の「欲動」に求めるわけよ。いまさら革命でもないでしょうに。柄谷くんは、革命なきあとの革命を
考えてるわけだよね。だからカントなんて思弁を持ち出して。
でもやっぱり下部構造に、すなわち「革命」に戻るべきだと思うんだよ。頭の悪い輩が騒ぐ祭りとして
の「革命」という欲動に。それは、ネットと環境問題でしょ。これらだけが資本主義を妥当する可能性
をもつ。
やっぱ無理かな。革命って閉塞感、ロックの開放的な自然状態でなく、ホッブズ的な閉塞的な自然
状態に起こるからね。ネットって、いまは開拓、開拓で新大陸状態だから、かってにやらせろのリバタ
リアン傾向だからね。革命なんって暇なことしてる暇はないからね。これが無限に広がるとすれば、
もはや誰も閉塞感なんってないよね。
となると、環境問題なんだけど。こいつもまた個人に負荷がかからないから、革命までの情熱がわ
からないよね。残念だけど、まあ、100年はまたーり進むね。ここ100年でネット社会がどのように
向かうかだね。その先になんかが起こるかもね。
276 :
考える名無しさん:2006/08/15(火) 15:42:58
楽しい?
277 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/15(火) 17:51:41
いぇ〜〜〜す!おれは海賊王になる!
自殺するなよ
279 :
考える名無しさん:2006/08/15(火) 19:22:25
いや、かまわんよ。
現実逃避にも限界がある。
はしゃげばはしゃぐほど、痛々しい、
哀れなぴかぁ〜。
281 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 08:43:36
柄谷にしろ浅田にしろ、やつらが影響力がもてたのはあくまで80年代までだよ。
その時代は外国の最先端の理論をファッションとして商品する余裕がその当時の
日本にはあった。だがその時代向こうの人間が考えていたのは第一次大戦、第二次大戦
と続く、人間の理性に対する決定的な懐疑だったわけだよな?ポストモダンとは
そういうものだ。それで現代日本においてようやく彼らと共通の問題意識のなかで
ポストモダンを考える時代に来た、そういうことなんじゃないのか?
282 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/16(水) 09:13:44
■ポストモダン思想とは、
ポストモダン思想の基本は、フロイトの影響が大きいのでは、そして近代合理主義の終着点、ファシズ
ム、マルクス主義への批判としてあります。
そしてさらには、ポストモダン思想って後期資本主義、そして情報化社会の哲学なんですね。デリダの
差延にしろ、ドゥルーズのリゾームにしろ、構造とそのダイナミズムが、情報化社会に対応しています。
ボードリヤールではないが、マルクス主義的な静的な構造に還元できないことは、わかります。
否定神学的な構造はカントであり、ヘーゲルに見いだせても、このポストモダン社会のダイナミズムをい
かに見いだすかと、検討した思想といえます。そしてネット社会において、その描写は有効ですね。
構造主義・・・無意識=(静的な)下部構造としての言語→相対主義化
ソシュール=シニフィアン/シニフィエ、レヴィ=ストロース、ラカン=象徴界(言語)、
ポスト構造主義・・・構造にダイナミズムと、ダイナミズム(相対主義化)の中に逃れられない点を見いだ
そうとして否定神学へ
ダイナミズム・・・デリダ=差延、ドゥルーズ=リゾーム
否定神学・・・ラカン=現実界(死の欲動)、ドゥルーズ=器官なき身体、デリダ=脱構築とは正義
問題としてはこのような複雑化した社会において、哲学という古い体系で描写可能かということでは
ないでしょうか。そういう意味で残された領域は、倫理ということになるので、複雑化した社会におけ
る倫理を描写可能かといっても良いと思います。それは厳しい状況にあります。これはポストモダン
思想ということでなく、哲学そのものの
283 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 09:38:04
西洋哲学の限界といってもいいが、だからといって宗教に戻ってもイスラムのような原理主義
になるしかないし、いまさら仏教みたいな神秘主義に立ち戻っても何の解決策も見出せないし
という状況の気がする。やはり行き着く先は純粋略奪としての資本主義社会の徹底しかないのか。
284 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 09:56:31
みんな誤解してるよ。こんなに頭のいいやつがひきこもってるわけないだろ。こいつは絶対浅田彰だって笑。やつが若者
の振りして、みんなを教育してるんだよ。
285 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 10:11:25
ご愁傷様
286 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 18:43:22
柄谷が自分で世界でも哲学者が自分のほかに誰もいなくなったといっている
以上、じばらくは柄谷その可能性の中心として柄谷読解をやらざるをえないんじゃない?
トランスクリティークて方法論はそれなりに有効である面はあるのだから。
そんなことよりデリヘルについて語ろうよ馬鹿共
288 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 18:47:54
デリヘルってシステムとしても優れてると思うよ。てゆうより、ひきこもりの性の葛藤を解消するもっとも有効な手段でしょ。あんなシステムはまず日本以外では行えなし、本番はやらないといっている以上、
売春ではないし、あくまで性サービスってだけだからね。
289 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 19:10:18
死の欲動の意味がいまいちわからない。否定神学というのもわからん。どちらも日本に存在する哲学概念じゃないんだろ?結局は哲学の問題ってキリスト教の問題に回収されるんじゃない?
290 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/16(水) 20:31:36
キリスト教の問題といわれてもピンとこない
291 :
考える名無しさん:2006/08/17(木) 03:48:06
デリヘルでもなんでもいいが、とにかく顔面騎乗してほしいわけだよ。
真美にな。
292 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/17(木) 15:42:45
■ナショナリズムはグローバリズムによって生まれるのだ。
差異の体系としてのナショナリズム
人がナショナリズムに目覚めるのは帝国主義の時代であり、資本主義化と関係する。すなわち資本主
義はその成長のためにグローバル化を要求し、他国という差異の体系において、国家が成立しナショ
ナリズムが隆起するわけだ。これは明らかなシニフィアンとシニフィエの恣意性の転倒がある。すなわち
事後的にシニフィエ=愛国心という意味が転倒されたにも関わらず、その昔から愛国心のもとに人類が
育って来たよう捏造するものである。
このような資本主義の隆起の延長性として、インターネットというグローバリズムが、再び、差異の体系
が隆起し、事後的にシニフィエ=愛国心という意味が転倒されている。グローバリズムこそがリージョナ
リズム(ナショナリズム)の源泉である。
拡散する(グローバル化)するほどに、アイデンティティの獲得を欲望するという収束過程(バックラッ
シュ)は、一つの流れであることはいなめない。ただ何者でもなく発散することなど人には耐えられないのだ。
293 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/17(木) 15:44:46
ネット上の「想像のナショナリズム」
インターネットという新たなグローバリズムが軋轢をうみ、差異を強化ことは否めだろう。人々が怖れる
のは、かつての帝国主義の帰結としての全体主義化(自由の抑圧、人種差別)、そして凄惨な世界大
戦へのおそれである。
しかしかつての帝国主義とは資本主義増殖のための植民地獲得であった。インターネットはそのような
限定された領地を持たない。ネットで起こるのは、言語圏に閉じた文化圏の差異であり、コミュニケー
ションの断絶である。
ネット上のナショナリズムはどこかネタである。たとえば韓国人の悪口を書いても、それが韓国には届
かない、ここだけのノリであることが漠然とある。しかしそれはネタとしてのコンテクストから切り離され、
テクストのみが伝わっていくことで、ネタはマジへ転倒されていくのだ。
そしてマスコミがネット上のテクストをコンテクストから切り離し、ネット右翼化をいうことで、ネット上では
ネタがマジに転倒され回帰し、それにまたネットが乗っかり、膨らんでいくというバブリーなナショナリズ
ムである。
これがウソのナショナリズムということでなく、ナショナリズムとはこのようなものとしてのみあるというこ
とだろう。「想像の共同体」というが、ナショナリズムとは「想像のナショナリズム」である。だからネットで
よりナショナリズムが盛り上がるのは当然である。ネットとはとても想像的な世界だからである。匿名
で、テクストの交換で、コミュニケーション上多くの意味は欠落し、それを自ら補完することで、成り立つ
のである。独我論的世界なのである。
294 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/17(木) 15:45:26
資本主義への熱狂
このようなネットは二層構造で考えることができる。一つはアイデンティティを求めてバックラッシュ(収
束)する想像的な世界、リージョナリズムである。もう一つは、グーグルのように人の手を介さずに「機械
的に処理する」ことで利便性とともに高度な管理を行い、拡散するグローバルリズムな世界である。ネッ
ト上にナショナリズムは前者の収束過程に対応する。そしてこれはもうひとつの拡散過程との関係を無
視できないのである。
かつては、収束は帝国主義的ナショナリズムに、拡散は資本主義的植民地主義に表れていた。そして
これはルネサンス以降の資本主義の発展という下部構造を動力とした。たとえばドイツがナチズム化す
るのは第一次世界大戦の敗北からであり、そして第一次大戦の敗北は、産業革命で遅れをとった英国
への焦りからである。
だからナショナリズムは拡散過程に送るバックラッシュとしての収束ととらえる必要があり、それのみを
悪いことととることはできない。ルネッサンス移行の資本主義への移行に内在するものなのである。
資本主義の駆動はマルクス的には、交換関係の隙間に生まれる資本への人々の熱狂によるものであ
る。ただたまたま資本が生まれることに目覚め、単に豊かさを求めたのでなく、まさに資本に人々は熱
狂し、それによって生まれる過剰な消費に熱狂したのだ。だから「想像のナショナリズム」はこのような
熱狂の一部としてあったのだ。
295 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/17(木) 15:45:59
ネットへの熱狂
では、今のバックラッシュ(収束)としてのナショナリズムと、拡散のネットのグローバリズムにおける、動
力はなにだろうか。それが資本主義的な資本を求めた熱狂でなくことはわかるだろう。ネットにおいて
人々は多くにおいてタダで労働するのだから。
グーグルなどはネットで資本主義的な富を勝ち得ているが、それもネットの人々の欲動を補完する限り
である。かつて「資本への熱狂」が世界を開拓し、植民地化し、市場をグローバルにし、市民を平等、自
由への王政から共和政へ向かう革命を起こしたように、(だから社会主義化は行き過ぎだったのであ
る)、グーグルは「ネットの熱狂」を補完するために、ネットを開拓し、巧みに資本主義を導入し、人々に
新たな自由を提供しているのである。「資本への熱狂」、「ネットへの熱狂」を駆動するものが、純粋略奪
の快楽である。
296 :
考える名無しさん:2006/08/17(木) 22:23:44
同じようなことを捏ねくり回してくどくどと
飽きない?
しつこいっていわれないか?
たいしたことでもないのに、大仰に構えてるね君。
297 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/17(木) 22:54:28
そうかな・・・けっこういけてるジャン!
298 :
考える名無しさん:2006/08/17(木) 22:56:22
■急募■
職種 ちゃねらー
日給 30円
一日14時間以上できる方
299 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 03:16:51
1903 ライト兄弟初飛行
1905 アインシュタイン相対性理論
1909 フォードT型誕生
1914 第一次世界大戦勃発
1917 ロシア革命ソヴィエト政権樹立
1919 ヴェルサイユ条約
1929 世界大恐慌
1933 ヒトラー政権誕生
1939 第二次世界大戦勃発
1945 ポツダム宣言
広島長崎原爆投下
1950 朝鮮戦争
1965 ベトナム戦争
1968 パリ5月革命
1969 アポロ月面到着
1970 ジャンボジェット機登場
1978 試験管ベイビー誕生
1981 IBMパソコン発売
1987 モントリオール議定書
1989 ベルリンの壁崩壊
1991 湾岸戦争
ソ連崩壊
1995 Window95、インターネット拡大
1997 京都議定書
1999 2ちゃんねる開始
2001 アメリカ同時多発テロ
2003 イラク戦争
300 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 03:20:51
今後の予定ラインナップ
北朝鮮崩壊
中国バブル崩壊
高性能翻訳ブラウザによるネットのグローバル化
地球温暖化規制へのアメリカの参加
第二次アメリカ同時多発テロ
東京多発テロ
301 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 03:22:08
現在よりも強制力を持つ地球環境保護機構発足
クローンベイビー誕生
302 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 03:24:10
世界人口減少
火星の緑化計画
日本が中国経済圏へ
303 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 03:30:59
今後の予定ラインナップ
アジア
北朝鮮崩壊
中国バブル崩壊
日本が中国経済圏へ
技術開発
高性能翻訳ブラウザによるネットのグローバル化
クローンベイビー誕生
環境問題
世界人口減少
地球温暖化規制へのアメリカの参加
現在よりも強制力を持つ地球環境保護機構発足
火星の緑化計画
紛争
第二次アメリカ同時多発テロ
東京多発テロ
304 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 03:51:25
21世紀はなにはともあれ中国の世紀になります。
中国の技術力はまし、多くのものを中国からの輸入に頼ることになります。
日本は中国の経済圏の一部になります。
そうそうに高齢化社会を迎える日本の経済力は大幅に低下し、
成熟した国となり、失業率は増加します。
労働力を外国人に頼る必要が増し、治安は今よりは悪化します。
80年代から今までのような経済大国としての第一線から退くことになります。
特色としては、アジアのアミューズメント系の産業国家の色合いが強く、
観光客(特に中国人)を多く呼ぶ事になります。
地球規模では、現在よりも強制力を持つ地球環境保護機構発足し、
政治的な主導権争いが起こります。
地球環境そのものはじりじりを温暖化し、環境難民が現れますが、
それにあわせた人々の対応によって、逆に農作物などの生産性を向上します。
また地球人口増加から減少に転じることもあり、全体的に保守主義が強まります。
アメリカは慢性的なテロリズムとの戦いの中で停滞し、
中国、インド、ロシアなどの経済圏の向上と共に、
中国主導の世界秩序となります。
高性能翻訳機の登場で、言語圏からより広くコミュニケーションが進みます。
日本語圏に閉じた掲示板、ブログが開かれます。
世界的なより活発なコミュニケーションが行われますが、
ネットは資本主義社会と対立軸をもちつづけ、あらたな世論として、
不安定であるが、政治力を持ちます。
305 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 04:03:44
21世紀は自然環境管理、高齢化、人口減少による保守主義傾向が強まる停滞的な閉塞感を
持った時代になることが予想されます。
開放感の多くはネット上に求められます。ネット上の世界的なイベントに人々が娯楽、享楽を求める。
ネットを中心としたイベントの時代になります。さらにプラトニック、ユニセックスの時代ともなります。
頽廃感漂います。
次の躍動の世紀へ繋ぎます。そのための課題は、新エネルギーの開発、火星移住計画、そして・・・
306 :
考える名無しさん:2006/08/18(金) 04:04:02
そりゃ ようござんした。
307 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 04:07:15
>>306 オマエはほんと想像力貧困だな。
これではどこにでも書いてるSFだぞ。もちっと頭使え!
308 :
考える名無しさん:2006/08/18(金) 04:10:43
はあ〜〜〜?
309 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 04:53:51
資本主義が回り始めるのは18世紀の産業革命以降で、マルクスの生きた19世紀から
現代に本格的に成るわけだが、経済を下部構造と考えると、産業革命へいたるルネサンス、
宗教革命、共和政という啓蒙思想への熱狂はなんなだ、ということになる。資本主義の熱狂=経済は
その後と言うことだろう。
確かにルネサンス以降、人々は「近代化の熱狂」に取り付かれたのである。
そして近代化の精神を語るときに引き合いに出されるのが、デカルトの「方法序説」である。
まさにあの中、「近代化の熱狂」が芽生えているのである。
ギリシャ文明から回帰した、より合理的に世界を考えるという征服への欲望である。
人々は合理的な世界に、合理化による世界の征服に取り付かれたのです。
その大きな部分を担ったのが、数量化であり、反証可能性の力である。
それは知識を身につけ、法則化し、根本に迫るという征服であり、コミュニケーションである。
それが産業活動、資本主義に繋がるのはその後である。
310 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 05:05:22
たとえば柄谷は、資本−ネーション−国家の相補的な関係を上げたが、
このような数量化への熱狂は、どこにも属さないのだ。
合理化による世界の征服とは、すなわち自然の征服である。
未知、神的な世界を、数量化、合理化、科学で客観的に明るみに暴露する。
それがまさに近代的な自然主義的な闘争様式なのであり、
そして自然主義闘争様式とはいつも、外部(自然)と内部(社会)の境界に生まれる。
「資本−ネーション−国家」とは内部なのである。
交換という交通様式であり、資本主義はその結果としての現象でしかない。
現代ではこのような自然の征服は、科学として机上に移っている。
自然そのものは社会から離れている。そして科学技術も理系離れのように
欲望を動かすものでなくなっている。
しかし多くの人が情報技術に向かっているということは、
科学的な欲望の作動を意味する。自然は疑似科学化しているのだ。
だが自然とはいつも疑似的なものであり、虚像であるのだ。
だからネットは疑似自然である、ネット技術、社会の拡大は、まさに現代の
自然主義的闘争様式なのである。
では、近代以前、宗教の時代の自然主義的闘争様式とは如何なるものだったのだろうか。
311 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 10:21:52
■近代化の熱狂が資本主義の熱狂よりも先行するのは、それが自然主義的闘争様式だからだ。
近代化への熱狂
資本主義が回り始めるのは18世紀の産業革命以降で、マルクスの生きた19世紀から現代に本格
的に成るわけだが、経済を下部構造と考えると、産業革命へいたるルネサンス、宗教革命、共和政
という啓蒙思想への熱狂はなんなだ、ということになる。資本主義の熱狂=経済はその後と言うこと
だろう。
確かにルネサンス以降、人々は「近代化の熱狂」に取り付かれたのである。そして近代化の精神を
語るときに引き合いに出されるのが、デカルトの「方法序説」である。まさにあの中、「近代化の熱
狂」が芽生えているのである。ギリシャ文明から回帰した、より合理的に世界を考えるという征服へ
の欲望である。
人々は合理的な世界に、合理化による世界の征服に取り付かれたのです。その大きな部分を担っ
たのが、数量化であり、反証可能性の力である。それは知識を身につけ、法則化し、根本に迫ると
いう征服であり、コミュニケーションである。それが産業活動、資本主義に繋がるのはその後である。
312 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 10:28:26
合理化という自然の征服
たとえば柄谷は、「資本−ネーション−国家」の相補的な関係を上げたが、このような数量化への熱
狂は、どこにも属さないのだ。合理化による世界の征服とは、すなわち自然の征服である。未知、神
的な世界を、数量化、合理化、科学で客観的に明るみに暴露する。それがまさに近代的な自然主義
的な闘争様式なのであり、
そして自然主義闘争様式とはいつも、外部(自然)と内部(社会)の境界に生まれる。「資本−ネー
ション−国家」とは内部なのである。交換という交通様式であり、資本主義はその結果としての現象
でしかない。
だから合理化という自然主義闘争様式の先行によって、近代的な変化が起こったのである。資本は
資本主義、ネーションは想像の共同体、国家は国家形態。
ネットという疑似自然
現代ではこのような自然の征服は、科学として机上に移っている。自然そのものは社会から離れて
いる。そして科学技術も理系離れのように欲望を動かすものでなくなっている。しかし多くの人が情
報技術に向かっているということは、科学的な欲望の作動を意味する。自然は疑似科学化している
のだ。だが自然とはいつも疑似的なものであり、虚像であるのだ。
だからネットは疑似自然である、ネット技術、社会の拡大は、まさに現代の自然主義的闘争様式な
のである。そしてあたらな変化が起こるだろう。
313 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/18(金) 10:44:30
自然主義的闘争様式
近代…合理化(数量化)
原始…神聖化(自然崇拝)
中世…共生(農耕)?
現代…管理化?
314 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 00:24:44
ぴかぁは経済になるととたんに通俗的になるな。マルクスの経済理論がなぜ哲学に深く関わるか見ないんだな。
経済における世界恐慌を死の欲動と見る精神分析的見方は的外れだろうか。フロイトとマルクスをトランスクリティーク
するならその評論的見方は有効だよな。つまり、中国の経済破綻はそれ自体が地球環境の死の欲動という解釈は飛躍じゃないんじゃないのか。
その結果、地球環境にとって深刻な環境破壊が起こる。そこから人類史にとっての決定的な出来事が起こると俺は思うが。
315 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 01:07:37
>>314 通俗的というか現実的と言ってもらいたい。
>経済における世界恐慌を死の欲動と見る精神分析的見方は的外れだろうか。
これはまさにトンデモですね。この見方は柄谷でしかた。死の欲動は人間に事であって、
経済を擬人化するにはほどがある。
ボクが自然主義的闘争ということは、あくまで人間分析の言っているのであって、
社会という人間集団の現象への広がりとしての表れを語るわけです。
決して、経済を擬人化するものではありません。
>その結果、地球環境にとって深刻な環境破壊が起こる。そこから人類史にとっての決定的な出来事が起こると俺は思うが。
これはマルクス級?のオカルトでしょう。
316 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 01:56:50
人々はなぜキリスト教へ熱狂したのか。
317 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 02:01:03
熱狂の系譜学
人々はなぜ自然神へ熱狂したのか
人々はなぜキリスト教へ熱狂したのか
人々はなぜ戦争へ熱狂したのか
人々はなぜ合理化(平等、自由)へ熱狂したのか
318 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 02:46:29
人間にとって「平等」であることが自然なことだろうか。
人は他者へ転移する。他者が私であり、私が他者となる。
このような力学において、人はそこにある差異を平準化しようとする力が働く。
たとえばそれは自らが豊かであっても同じである。
この転移関係においては、負債感がともなう。
人が社会生活で、謙遜するのはためである。
そこにある負債感を隠す行為であり、その差異が全面にでると、
平等の力学が無意識に働いて働いてしまうことを抑制するためである。
謙虚であることは、社会生活において、意味があることである。
しかし歴史上も人が平等であることの方がめずらしい。
平等であることが積極に語られたのはほんの最近であるし、
男尊女卑、階級制、現在も貧富の差など、実質的には不平等である。
319 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 03:03:26
しかし問題は「平等」とはなにか、ということである。
思想としての「平等」は最近のものである。
近代の平等の本質は、基本的人権の自由であるとともに、
経済活動に参加する機会の平等という資本主義的平等の面が強い。
資本主義社会に平等に参集できることが、資本主義社会を促進する。
しかしボクが先にいった転移を元にした平等とは、負債感の消失を目指すものである。
ここには、交換関係の平等と、贈与関係の平等の差がある。
現代の資本主義的な平等とは、負債を生まない交換関係として平等である。
簡単にいえば、1万円は誰にとっても1万円であるということだ。
贈与関係の平等とは、単に貨幣価値にも、数量に還元されない。もっと主観的、質的なものである。
様々な他者との関係の中で、負債感の消失を目指す平等である。
たとえば階級制度は容認される。主奴の関係があり、互いの関係の中で、それぞれが認め合い
負債感を生まなければ、それは平等なのである。
これは平等というよりも「公平」といった方がよいだろう。
320 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 03:15:21
たとえば現代において、なんらかの小さなコミュニティができたときに、
ある種の順位付けができることは自然なことである。
それは単に階級というよりも、得意なもの、役割でわかれる。
ここで問題は平等ではない。公平であるということだ。
そこには必ず不平が生まれるが、それぞれが納得し、
互酬(贈与と返礼)によって、負債感を循環する関係であるか、ということだ。
負債感が溜まるようだと、このコミュニティは公平でなく、破綻する。
しかしコミュニティが大きくなりすぎると、負債感の循環が困難になる。
それは内部への帰属意識の低下を意味する。
「公平」はある意味で、コミュニティの規模に限界がある。
それは人間の認知限界によるのかもしれない。
そこでは「平等」が浮上せざる終えない。
たとえば小さな仲間内でのいざこざは話を良く聞き、なめらかな判断で
仲裁することができるが、
大きなコミュニティの問題は、それぞれの話を聞いていけはきりがなく、
杓子定規であっても、何らかの取り決めをしておいて、それに従うしかない。
これが、公平から平等へということだ。
321 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 03:41:50
たとえばかつての未開社会は小さなコミュニティの「贈与関係としての公平」によって
運営されていた。それは不平等を許容する。
かつての王を頂点とした階級制が容認されるのは、このような公平による。
王、帰属と平民は不平等であるが、そこには公平があった。
王は王で、役割があり、平民への負債がある。これはヘーゲルの主奴の弁証法に対応する。
さらには公平は小さな内部で作動し、その外部では公平は作動しない。
公然とした不公平としての略奪が行われる。
逆にいえば、内部が作動しているが外部からの圧力があるからだと言える。
転移関係、贈与関係、公平、ヘーゲルの主奴の弁証法において、
そこに外部からの略奪の脅威があることで、公平というバランスに向かうと言えるだろう。
大きなコミュニティでは、「交換関係としての平等」へ移行するが、
それは単に大きいというだけではなく、柄谷的に交換は共同体の間に起こるというだけでもなく、
外部からの略奪の脅威の低下が決定的に重要である。
それは社会の高度化による、自然の脅威からの解放である。
322 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 03:48:45
■人間にとって「平等」であることが必ずしも自然なことではない。
謙遜の意味
人は他者へ転移する。他者が私であり、私が他者となる。このような力学において、人はそこにある
差異を平準化しようとする力が働く。たとえばそれは自らが豊かであっても同じである。この転移関
係においては、負債感がともなう。人が社会生活で、謙遜するのはためである。
そこにある負債感を隠す行為であり、その差異が全面にでると、平等の力学が無意識に働いて働い
てしまうことを抑制するためである。謙虚であることは、社会生活において、意味があることである。
しかし歴史上も人が平等であることの方がめずらしい。平等であることが積極に語られたのはほん
の最近であるし、男尊女卑、階級制、現在も貧富の差など、実質的には不平等である。
323 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 03:49:18
平等と公平
問題は「平等」とはなにか、ということである。思想としての「平等」は最近のものである。近代の平等
の本質は、基本的人権の自由であるとともに、経済活動に参加する機会の平等という資本主義的
平等の面が強い。資本主義社会に平等に参集できることが、資本主義社会を促進する。
しかしボクが先にいった転移を元にした平等とは、負債感の消失を目指すものである。ここには、交
換関係の平等と、贈与関係の平等の差がある。現代の資本主義的な平等とは、負債を生まない交
換関係として平等である。簡単にいえば、1万円は誰にとっても1万円であるということだ。
贈与関係の平等とは、単に貨幣価値にも、数量に還元されない。もっと主観的、質的なものである。
様々な他者との関係の中で、負債感の消失を目指す平等である。たとえば階級制度は容認される。
主奴の関係があり、互いの関係の中で、それぞれが認め合い負債感を生まなければ、それは平等
なのである。これは平等というよりも「公平」といった方がよいだろう。
324 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 03:51:55
小さなコミュニティの公平、大きなコミュニティの平等
たとえば現代において、なんらかの小さなコミュニティができたときに、ある種の順位付けができるこ
とは自然なことである。それは単に階級というよりも、得意なもの、役割でわかれる。ここで問題は平
等ではない。公平であるということだ。
そこには必ず不平が生まれるが、それぞれが納得し、互酬(贈与と返礼)によって、負債感を循環す
る関係であるか、ということだ。負債感が溜まるようだと、このコミュニティは公平でなく、破綻する。し
かしコミュニティが大きくなりすぎると、負債感の循環が困難になる。それは内部への帰属意識の低
下を意味する。
「公平」はある意味で、コミュニティの規模に限界がある。それは人間の認知限界によるのかもしれ
ない。そこでは「平等」が浮上せざる終えない。
たとえば小さな仲間内でのいざこざは話を良く聞き、なめらかな判断で仲裁することができるが、大
きなコミュニティの問題は、それぞれの話を聞いていけはきりがなく、杓子定規であっても、何らかの
取り決めをしておいて、それに従うしかない。これが、公平から平等へということだ。
325 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 03:52:42
外部圧の低減が平等思想を生む
たとえばかつての未開社会は小さなコミュニティの「贈与関係としての公平」によって運営されてい
た。それは不平等を許容する。かつての王を頂点とした階級制が容認されるのは、このような公平
による。王、帰属と平民は不平等であるが、そこには公平があった。王は王で、役割があり、平民へ
の負債がある。これはヘーゲルの主奴の弁証法に対応する。
さらには公平は小さな内部で作動し、その外部では公平は作動しない。公然とした不公平としての
略奪が行われる。逆にいえば、内部が作動しているが外部からの圧力があるからだと言える。転移
関係、贈与関係、公平、ヘーゲルの主奴の弁証法において、そこに外部からの略奪の脅威があるこ
とで、公平というバランスに向かうと言えるだろう。
大きなコミュニティでは、「交換関係としての平等」へ移行するが、それは単に大きいというだけでは
なく、柄谷的に交換は共同体の間に起こるというだけでもなく、外部からの略奪の脅威の低下が決
定的に重要である。それは社会の高度化による、自然の脅威からの解放である。
326 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 04:01:52
人々がキリスト教へ熱狂した理由は誰にも開かれているということだ。
神の前で誰もが平等であるということだ。負債はただ神に送り返すという、
神と私の公平な関係であり、そして人間間では平等な関係となる。
このようなキリスト教の去勢の構造は、資本主義を先取りしているようである。
327 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 09:26:45
ぴかぁの理屈だとこのまま管理社会を徹底させれば人類的なアポリアはもうないってこと?
328 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 09:53:56
これはマルクス的な唯物史観ではないので、「人類的なアポリア」がなくなるとかないですね。
いわば、進化論的史観ですね。進化は進歩でなく、その時に環境に適応する変化です。
329 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 10:43:54
自然との対立とは本質的に予測可能性に集約されるだろう
330 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 12:40:58
そうとするならばイデオロギー闘争の時代は終焉し、戦争すら競争の一つの形態ってことになる?
331 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 12:50:12
そうすると、の意味がわかりません
332 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 12:54:44
わかった笑。じゃあ、戦争すら純粋略奪ってことかな?
>外部圧の低減が平等思想を生む
逆じゃないか?外部圧=グローバリゼーションの強い現代こそがコミュニタやリバタリアンを生産している
スル〜してもいいよw
334 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 20:51:21
ぴかぁの論理だとファシズムは純粋略奪と解釈できてしまうが…。
335 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 21:15:56
>戦争すら純粋略奪ってことかな?
>ぴかぁの論理だとファシズムは純粋略奪と解釈できてしまうが…。
とても良い質問ですね。
ポスモダはファシズムをいかに回避するかがメインテーマであると言っても良いからです。
336 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 21:18:50
ぴかぁは本当に頭がいいんだね。まるでムスカくんみたいだ。世界征服を企んでるのかね?
ポモはファシズムだよ、ニーチェ経由のマルクスだし、ドゥルーズなんか特にそうだ
フーコーなんかスターリン的だし、デリダ/ドマンのテクスト論もかなりきわどい議論だ
する〜してw
338 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 21:28:19
339 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 21:31:32
>ポモはファシズムだよ
ポスモダはファシズムを否定しえなかっただけでなく、否定することで、
暴力を生み出すことを示しましたが、ファシズムではないでしょう。
340 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 21:33:21
後発産業国家が全体主義に走るのは、それなりの必然がある。
中国が本格的に中華ファシズム思想にとり付かれるのは今後10年以内と
推断される。
341 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 21:36:28
ぴかぁ〜さんは、アパートの管理人か。
一日中のレス乙彼ちゃぁ〜ん。w
>>338 なんだ、スル〜するかと思ってたけど
>>292-295読んだけど、北田の影響強いね、「ファシズムのネタ性」てゆーか
ネットが、それを加速化してるってことだろ?
343 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 21:44:51
純粋略奪の快楽とは、人間は生まれながらに悪であるとは違います。
善悪とは内部の論理であり、内部を越えて外部へ行使するときに
純粋略奪は生まれます。だから善悪の彼岸です。
人間は本能的に戦争を望み、戦争は純粋略奪によって生み出される
ということではありません。
むしろ戦争は純粋略奪の快楽を生み出すと言えます。
内部の向こうを作動させる。
たとえばベトナム戦争などでは、アメリカ兵士が敵を殺すことが
できなくて困ったといいます。
いくら戦闘訓練を積んでも、いざ他者を殺すことになると、
ビビってしまう。なぜなら、敵も内部だからです。
内部の他者である以上、他者を殺すことは悪いことなのです。
人は悪いことをすることに負債感を持ちます。
人を殺すためには、他者を外部へ排除する。善悪の彼岸へ排除する必要が
あります。人間ではなく動物とする必要があります。
344 :
考える名無しさん:2006/08/19(土) 21:46:14
ポストモダニズムは儒教の天命思想によって克服され全人類的な儒教ヒューマニズムが
欧米的民主人権思想を乗り越える。
345 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 21:56:45
アガンベンがアウシュヴィッツで殺された人々はホモサケルと呼んでのは、このような意味です。
善悪の彼岸にいる動物であり、殺しても負債を生まない存在。
このような「例外状態」を生み出すのは、ナチズムに特有のものではなく、
たとえば未開社会の強い絆の小さな内部とその外の別の未開社会からの略奪から、
ホモサケルの起源の奴隷から、植民地時代の原住民虐殺から、
日本に原爆が落されたのは日本がキリスト教国外部だったからなど、あります。
ナチズムの特殊性は、ホモサケルを生みだしたことではなく、
第一次世界対戦が近代兵器の戦争となったことに意味があるのではないでしょうか。
技術向上が容易に大量に効率的に、ホモサケルを処理できた、ということ。
346 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 21:59:55
>戦争すら純粋略奪ってことかな?
>ぴかぁの論理だとファシズムは純粋略奪と解釈できてしまうが…。
戦争は純粋略奪の快楽を生み出す場としてあると思います。
またファシズムはそれを上手く利用した、ということでしょう。
そしてポスモダはそこからなんとか抜け出そうとして、抜け出せなかった
ということです。
>>345 ネットにおける技術向上がホモサケルを処理してるのだが?
これも「純粋略奪」なのか?
348 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:04:55
ん〜・・・夏バテ気味で今ひとつ頭が回らない・・・
しかし世界史って戦争の歴史ですね。
ほんと人は争いが好きですね。
戦争ってほんとうにそんなに悪いことでしょうか。
現代人の悲しさはもはや戦争できなくなったことにあるのではないでしょうか。
大量殺戮兵器と戦闘の分業化によって、戦争は純粋略奪の快楽を生まない。
349 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:05:54
>ネットにおける技術向上がホモサケルを処理してるのだが?
???
>>349 解らなけりゃスル〜していいよw
北田はむしろネットにおける技術向上の問題について逆のことを言ってる
略奪より贈与の快楽のほうが勝ってるのが問題なんだ
貴方も、何故、2ちゃんで書き続けるの?
楽しいからだろ?
351 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:21:57
人類の歴史において、原始社会のように自然という不確実性を近接し生活していた社会から、
都市化するなかで、自然という不確実性を排除し、強く閉じる内部を形成した。
内部へ閉塞することで、純粋略奪の快楽も内部で処理しなければならない。
それが戦争だったのではないだろうか。大きな内部内に、外部を生み出すことで、
略奪を行い、疑似的に純粋略奪を処理してきた。
自然と排除し、強く閉じる大きな内部を形成した時期は、キリスト教の広がりの
時期が対応するのではないだろうか。
それ以前の多神教であり、自然神を元にした宗教では、自然との関係が重視されるが、
都市化し、自然が隔離する中で、大きな内部として、キリスト教の「他者を愛せよ」が
意味をもつ。キリスト教は人間達の内部の宗教である。
352 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:26:02
353 :
殺し屋:2006/08/19(土) 22:26:03
では攻撃欲動と純粋快楽は無関係であると理論的に説明できますか。
354 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:27:35
>では攻撃欲動と純粋快楽は無関係であると理論的に説明できますか。
攻撃欲動とはなんでしょうか?
355 :
殺し屋:2006/08/19(土) 22:27:38
またファシズムと攻撃欲動が無関係であることも理論的に説明してください。なお否定神学という概念はキリスト教徒的なので、できればそのような語句は使わないで欲しいです。
356 :
あきら:2006/08/19(土) 22:43:41
キリスト教徒が日本人に原爆を落とせたのなら日本人なら日本人以外に原爆を落とせるというのはあなたの理屈ですか?
357 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:45:11
>ネットにおける技術向上がホモサケルを処理してるのだが?
ネット上のホモサケルとは、環境管理される身体です。
そして心が贈与関係を欲望する。
これは東的に心身二元論の解離構造ととらえられますが、
このような構造を作動させる、純粋略奪の快楽を考えなければいけません。
すなわちネットは日々開拓される「新大陸」なのです。
それが人々がネットへ向かう熱狂の根本です。
358 :
あきら:2006/08/19(土) 22:47:26
じゃあ、ネットじゃなくて、終戦記念日の日に靖国でお祭りのように楽しくしている人はなに?
それってさりげないファシズムじゃない?おれの中国人の友達まじびびってたよ。
359 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:48:06
>>356 >キリスト教徒が日本人に原爆を落とせたのなら日本人なら日本人以外に原爆を落とせるというのはあなたの理屈ですか?
かつてよりも資本主義内部(ネグリ的な「帝国」)となった今のは、もはや難しいでしょうね。
360 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:49:02
>>352 なるほどね、「はてな」読んだけど、現代社会においてネットに書き込む行為は
「純粋略奪」以外の何ものでもないって、「断絶」以外の何ものでもないって認識でいいのかな?
まあ、なんてゆーか、ニヒリズムに近いんじゃないのか?
362 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:52:54
363 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 22:55:46
>略奪より贈与の快楽のほうが勝ってるのが問題なんだ
略奪のも、贈与のみでなく、 「ボロメオの結び目」とし・・・
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw 氏、ありがとね、俺につきあってくれて
では、また
365 :
よしお:2006/08/19(土) 23:06:53
ぴかぁの希望的観測だと、ネットで暴力的な表現が行きかったとしても現実
社会では中国人と日本人はビジネスパートナーだし、外国にいるなら気心の知れた隣人程度
で決してファシズム的な戦争には至らないということだね?
366 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 23:37:01
■なぜ人類は戦争をしつづけるのか
人類の歴史は戦争の歴史
世界史って戦争の歴史ですね。ほんと人は争いが好きですね。戦争ってほんとうにそんなに悪いこ
とでしょうか。現代人の悲しさはもはや戦争ができなくなったことにあるのではないでしょうか。大量
殺戮兵器と戦闘の分業化によって、戦争は「純粋略奪の快楽」を生みにくくなっている。
人類の歴史において、原始社会のように自然という不確実性を近接し生活していた社会から、都市
化するなかで、自然という不確実性を排除し、強く閉じる内部を形成した。内部へ閉塞することで、
純粋略奪の快楽も内部で処理しなければならない。それが戦争だったのではないだろうか。大きな
内部内に、外部(例外状態)を生み出すことで、略奪を行い、疑似的に純粋略奪を処理してきた。
自然と排除し、強く閉じる大きな内部を形成した時期は、キリスト教の広がりの時期が対応するので
はないだろうか。それ以前の多神教であり、自然神を元にした宗教では、自然との関係が重視され
るが、都市化し、自然が隔離する中で、大きな内部として、キリスト教の「他者を愛せよ」が、意味を
もつ。キリスト教は人間達の内部の宗教である。
367 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/19(土) 23:37:59
もはや戦争は純粋略奪の快楽を生まない
たとえばベトナム戦争などでは、アメリカ兵士が敵を殺すことができなくて困ったといいます。いくら
戦闘訓練を積んでも、いざ他者を殺すことになると、ビビってしまう。なぜなら、敵も内部だからです。
内部の他者である以上、他者を殺すことは悪いことなのです。人は悪いことをすることに負債感を持
ちます。
人を殺すためには、他者を外部へ排除する。善悪の彼岸へ排除する必要があります。人間ではなく
動物とする必要があります。アガンベンがアウシュヴィッツで殺された人々はホモサケルと呼んでの
は、このような意味です。善悪の彼岸にいる動物であり、殺しても負債を生まない存在。
このような「例外状態」を生み出すのは、ナチズムに特有のものではなく、たとえば未開社会の強い
絆の小さな内部とその外の別の未開社会からの略奪から、ホモサケルの起源の奴隷から、十字軍
によるイスラム圏への攻撃、植民地時代の原住民虐殺から、日本に原爆が落されたのは日本がキ
リスト教国外部だったからなど、あります。
ナチズムの特殊性は、ホモサケルを生みだしたことではなく、第一次世界対戦が近代兵器の戦争と
なったことに意味があるのではないでしょうか。技術向上が容易に大量に効率的に、ホモサケルを
処理できた、ということ。
そして現代人の悲しさはもはや戦争ができなくなったことにあるのではないでしょうか。大量殺戮兵
器と戦闘の分業化によって、「例外状態」を生み出しにくく、戦争は内部のものであり、多くの負債を
抱え込むことになり、「純粋略奪の快楽」を生みさない。
直接暴力・復讐も法的に否定されているが、それは自然なことでもあるのだ。
景観が状況確認も不十分なまま八方するのもここから理解できるのである。
369 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 10:43:50
ではそのようなキリスト教的価値が全面化する現代ではイスラムやロシアなどは異物となるのでは?
370 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 10:45:17
さらにそのような異物の排除こそキリスト教の欲動という解釈はなりたつのでは?
371 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/20(日) 13:50:31
372 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 15:08:07
びかぁの言いたいことは現代では大規模な破壊と殺戮を伴う旧来型の戦争はもはや不可能ということだね。
コピペ繰り返すのは「奴隷労働」だよ、そこに純粋略奪の快楽はないだろ?
それでも繰り返すのは「贈与」の快楽があるからだし、「贈与」と「略奪」って、やっぱ違うよ
374 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/20(日) 20:37:43
「贈与」の快楽=まなざしの快楽
「略奪」の快楽=純粋略奪の快楽
これらはどちらだでなく、相補的な関係にあるわけです。
375 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/20(日) 20:40:53
コピペ繰り返すの
「略奪」の快楽=純粋略奪の快楽・・・場の破壊
「贈与」の快楽=まなざしの快楽・・・場があることの共有
>>374-375 隠れブランショ?隠れバタイユ? そんな印象だけども?
いやいや、ここで貴方を叩くつもりはないけど、本音を聞きたいだけ
ぴか〜氏は「演技過剰」だから、これも「カーニヴァル」なんだろ?
377 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/20(日) 20:57:02
「これ」とは???
378 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/20(日) 21:06:07
1903 ライト兄弟初飛行
1905 アインシュタイン相対性理論
1909 フォードT型誕生
1914 第一次世界大戦勃発
1917 ロシア革命ソヴィエト政権樹立
1919 ヴェルサイユ条約
1929 世界大恐慌
1933 ヒトラー政権誕生
1939 第二次世界大戦勃発
1945 ポツダム宣言
広島長崎原爆投下
1950 朝鮮戦争
1965 ベトナム戦争
1968 パリ5月革命
1969 アポロ月面到着
1970 ジャンボジェット機登場
1978 試験管ベイビー誕生
1981 IBMパソコン発売
1987 モントリオール議定書
1989 ベルリンの壁崩壊
1991 湾岸戦争
ソ連崩壊
1995 Window95、インターネット拡大
1997 京都議定書
1999 2ちゃんねる開始
2001 アメリカ同時多発テロ
2003 イラク戦争
また、コピペw
380 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 22:24:08
じゃあ、アメリカが北朝鮮に核兵器打ち込むのは何年ごろになるの?中国も打ち込む機会うかがってるでしょ。
日本もそろそろ本格的に核兵器の開発に取り組むんじゃん?ソニーとか三菱とかの技術はやっぱり軍事においても
相当な技術となるでしょ。アメリカは本気で中国に核兵器を落としたいんじゃない?
381 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 22:28:47
俺はぴか〜氏を尊敬するよ
馬鹿なポモ廚、馬鹿なネットウヨ、馬鹿なネットサヨ
一手に引き受けてるんだもんな
382 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 22:31:16
おまえもあまいな。ぴかぁさんなんてとっくに公安のリストに乗ってるだろ。
383 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/20(日) 22:32:52
なにによって正しい判断は行われるべきか。
384 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 22:35:18
今俺のまわりの右翼はぴかぁの話題で持ちきりだよ。みんな日本にこんなやつがいるんだ
って騒いでるよ。
じゃあ、アメリカが北朝鮮に核兵器打ち込むのは何年ごろになるの?中国も打ち込む機会うかがっ
てるでしょ。日本もそろそろ本格的に核兵器の開発に取り組むんじゃん?ソニーとか三菱とかの技
術はやっぱり軍事においても相当な技術となるでしょ。アメリカは本気で中国に核兵器を落としたい
んじゃない?俺はぴか〜氏を尊敬するよ。馬鹿なポモ廚、馬鹿なネットウヨ、馬鹿なネットサヨ。一手
に引き受けてるんだもんな。おまえもあまいな。ぴかぁさんなんてとっくに公安のリストに乗ってるだ
ろ。今俺のまわりの右翼はぴかぁの話題で持ちきりだよ。みんな日本にこんなやつがいるんだって
騒いでるよ。
386 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 22:40:14
ぴかぁさんに会いてえな。ファンクラブでも作ろうかな。
387 :
ぴかぁ〜 ◇q5y3ccmqnwスレ向上委員会:2006/08/20(日) 22:44:31
ぴか〜氏に、俺は本気に同情するよ
こんな馬鹿に囲まれて「純粋略奪の快楽」もないだろ?
ここが2ちゃんなんだよ
それでも「贈与のまなざし」から受ける快楽ってあるのか?ないだろ?
388 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/20(日) 22:46:08
ジャーナリズム、ロックミュージックって基本がサヨなんですよね。
ネットがウヨ化するのはある種の反動でもあるのでしょう。
しかしウヨといっても、ヘタレウヨであって、ウヨではない。
389 :
考える名無しさん:2006/08/21(月) 04:54:14
でも評論も哲学も左翼なんだから、基本はロックでしょ。柄谷のいかがわしさもロックぽいし。
最初のころの柄谷は甲斐バンドのおっさんに見えたよw
390 :
考える名無しさん:2006/08/21(月) 05:42:01
それだと所詮哲学なんてそのへんの音楽と一緒といってるようなもんでしょ。それを
真剣にやる意味はあるの?金にもならないし。
391 :
考える名無しさん:2006/08/21(月) 07:42:54
だから今後の哲学は頭のいい、金持ちのボランティアがやるものになるんだよ。
ぴかぁさんだって、働かなくていいくらいの金持ちだからこういうことがやれるんだよ。
392 :
考える名無しさん:2006/08/21(月) 07:54:05
おまえ、ほんとにアホだな。やつは中国から国費でネットの運営している
本物のハッカーなんだよ。
393 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/21(月) 13:24:18
人は自然を失い閉塞している。なら自然にかえればいいのか。
自然とは絶対的対立を生むものである。
394 :
考える名無しさん:2006/08/21(月) 13:38:09
僕は、募集に来ました。
とても素晴らしい掲示板の、
メンバー(常連さん)の募集です!
この掲示板で放談や議論をしていると
必然的に国語力が身につきます。
意味のあるフリートーク。自分が尊重され、自分について考えられる場所。ネット上にそうはありません。
是非、未来のチャンピオンサイトの常連さんになりませんか?
発展されるのはあなたです。
そう。あなたに今以上の手腕が養われる。
変哲な勧誘ではありません。僕の今の、熱き思いを伝えました!
↓アドレスです↓
http://www3.ezbbs.net/28/sinsisou/
395 :
考える名無しさん:2006/08/21(月) 14:15:40
ここに建設的な書き込みしてる人はみんな同士だよ
396 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/21(月) 14:28:38
伊東俊太郎:文明論
@人類革命・・・人類が類人猿からヒトへ、約500万年前のアフリカ
A農業革命・・・農耕の開始、西アジア(メソポタミア)、東南アジア、南中国(長江)、メソアメリカ(メキシコ)、
西アフリカ(ニジェール)、1万年前から前5000年のあいだ
B都市革命・・・都市の形成、食物の生産に直接従事しない都市民の誕生、メソポタミア、前3500年、エジプト、
前3000年、黄河、前1500年
C精神革命
第1段階:高度な宗教や哲学の成立、前8世紀から前4世紀、旧約の預言、ギリシア哲学、六師、ブッダの思想、
諸子百家の思想
第2段階(4世紀から7世紀):中国仏教の成立、西欧のキリスト教化、イスラムの勃興
D科学革命
第1段階:近代科学、17世紀西欧、デカルト、世界史における「近代」の始まり
第2段階:産業革命、18世紀後半
第3段階:情報革命、20世紀後半
E環境革命・・・地球環境問題(京都議定書)、グローバリゼーション
397 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/21(月) 15:04:40
自然主義的闘争論
社会形態/交換様式/闘争様式(純粋略奪の快楽)
@自然崇拝の時代・・・(人類革命〜農業革命)
未開社会/互酬/自然崇拝し、純粋贈与(ポトラッチ)する暴力
A自然排除の時代・・・(農業革命〜精神革命)
都市化、帝国/再配分/「動物」(奴隷、異教徒)を排他する暴力
B自然征服の時代・・・(科学革命 第1段階:近代革命、第2段階産業革命)
国家、資本主義/交換/自然を数量化(科学技術)によって征服する暴力、
過剰消費する暴力
C自然管理の時代・・・(科学革命 第3段階:情報革命、環境革命)
地球環境保護機構/交換、再配分(環境税)/自然を管理する暴力、
ネット(疑似自然)を開拓する暴力
参考 伊東俊太郎:文明論
@人類革命・・・人類が類人猿からヒトへ、約500万年前のアフリカ
A農業革命・・・農耕の開始、西アジア(メソポタミア)、東南アジア、南中国(長江)、
メソアメリカ(メキシコ)、西アフリカ(ニジェール)、1万年前から前5000年のあいだ
B都市革命・・・都市の形成、食物の生産に直接従事しない都市民の誕生、メソポタミア、
前3500年、エジプト、前3000年、黄河、前1500年
C精神革命
第1段階:高度な宗教や哲学の成立、前8世紀から前4世紀、旧約の預言、ギリシア哲学、六師、
ブッダの思想、諸子百家の思想
第2段階(4世紀から7世紀):中国仏教の成立、西欧のキリスト教化、イスラムの勃興
D科学革命
第1段階:近代科学、17世紀西欧、デカルト、世界史における「近代」の始まり
第2段階:産業革命、18世紀後半
第3段階:情報革命、20世紀後半
E環境革命・・・地球環境問題(京都議定書)、グローバリゼーション
398 :
考える名無しさん:2006/08/21(月) 15:39:27
頭の悪そうな男だね。
399 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/21(月) 17:34:04
たとえばパンドラの箱は人間創世の神話であるが、人間というものを的確に表している。アダムとイ
ブのりんごも同じ構造をもつ。開けてはいけない箱といけない故に開けてしまう人間。
開けてはいけない禁止とは掟であり、なぜ開けてはいけないかに関係なく掟を守ることが「内部」を
維持している。そして人はそれをやりたいのでなく、禁止されるからやぶりたくなる。それが欲動であ
り、そして欲動を想起するもの仮象が「無垢」である。
ここには二つの力学が働いている。ひとつは無垢を破壊したいという「純粋略奪の快楽」であり、もう
ひとつは禁止を破ることでそこに内部があることを実感する「まなざしの快楽」である。
自然主義的闘争論は、これらの力学を下部構造にした文明論である。なぜ「自然」であるのかは究
極的な「外部」とは自然であり、「無垢」は「外部」を投影した「自然」の仮象として表れるからだ。そし
てそこにより「純粋な略奪の快楽」は生まれる。
その時代、パンドラの箱はどこにみいだされ、いかように開けられたか、それが経済活動である。
>>399 ずいぶん哲学の海を漂ってますね。漂流しないようにしていないと、カゼひきますよ。
401 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/21(月) 17:55:11
すなわちこれはメタ神話学である。
>>401 主張に付随する根拠や因果が本人だけの満足であって、
この主張に吸い寄せられる他人は信仰や宗教にも係わっている
かも知れません。教祖になって、宗教法人を設立しみてはいかが?
403 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/21(月) 21:42:58
自然主義的闘争論
社会形態/交換様式/闘争様式(純粋略奪の快楽)
@人類革命〜農業革命
自然崇拝の時代・・・未開社会/互酬/自然崇拝し、純粋贈与(ポトラッチ)する暴力
自然を神(他者)として名付け、そして贈与することで征服する。
A農業革命〜都市革命〜精神革命
自然排除の時代・・・都市化、帝国/再配分/「動物」(奴隷、異教徒)を排他する暴力
自然を管理可能なものとして排除することで、人間社会の内部を強化する。それによって、
自然は内部に見いだされなければならない。異教徒、奴隷のように他者と敵対する、あるいは
愛するという関係を構築する。それは形而上学、宗教の時代、そして人間間の闘争の時代である。
B科学革命 第1段階:近代革命、第2段階産業革命
自然征服の時代・・・ 国家、資本主義/交換/自然を数量化(科学技術)によって征服する暴力、
過剰消費する暴力
人間内部から外部への向かう方法論して数量化、科学技術の発見。自然を征服する時代。
世界大戦とは資源(人的も含めて)の奪い合いである。
C科学革命 第3段階:情報革命、環境革命〜
自然管理の時代・・・地球環境保護機構/交換、再配分(環境税)/自然を管理する暴力、
ネット(疑似自然)を開拓する暴力
身の回りの自然の枯渇、自然(外部)からの逆襲(環境破壊)のための、再度内部へ向かう。
形而上学、宗教の時代に対して、疑似自然としてのネット開拓の時代である。
またコピペw
405 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 12:01:01
人間とは熱狂する動物である。
406 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 13:51:13
熱狂の歴史
>>406 誰も相手してくれないときって寂しいですね。いやでも孤独を感じるときです。
408 :
考える名無しさん:2006/08/22(火) 16:36:11
どうかな?
ぴかぁは根拠無しポジティブだから
409 :
考える名無しさん:2006/08/22(火) 16:38:35
遥かノスタルジ
410 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 17:48:14
『純性快楽批判論。』
『自然を略奪する事が快楽を生むのである。』
残念ながら、この説明は全く持って的外れな解釈であり現代思想学に置け偶発的に展開する事は未熟で浅はかな浅い海を濁している事に他ならない。
この事は聞く耳を持つものには不快の内に響くだろうが、誠、私は認識に置ける感覚にますます誠実さを持って批判せねばなるまい。
第壱反論
『シュレーティンガーの理論を提示した“暴圧自然論ストア主義のパラドックスと倫理の崩壊。』
更に奥行をその理論に与え突き詰めると次の様な憶測を算定せざるを得ない。
それは自然を我々は有りの儘に観測する事はもはや自然的資質に対し開示された意識としての“思惟”そのものは、シュピスに対した場合、全くの差異であると認識する事でしか、不自然さを純性的な自然現象論としては観測を理論的には確立出来ない。
簡単に説明するとこうである。
『我々が自然を認識し、観測を成し得る何らかの意志を持った場合、すでにその意識自体が一種の不自然的な要素としてしか、その実像を厳密に捕らえる事は実象としての立証を確立する可能性の確立極めて低い。』
411 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 17:51:39
厳密な説明を欲するならば最小の世界について詳しく学ぶが良い。
つまり我々が覚知して認識を共有出来るマクロの世界での一切の作用はミクロの現象世界で存在を決定する確立の一端でしかない、と言えよう。
更に厳密に解釈を求めてもらいたい。
ルクス(光)純性快楽論を一つの方式として作用を、思想学的な物理方程式に例えるなら、
自然現象=善悪の彼岸√≠快楽(クリオア)の実感=二乗の『良い』結果。
まぁ是は例え話の範囲を想定してもらい、更にこの図式一切により我々の現象世界に置ける作用の大部分を支配しているとは、到底理解しにくい。
よって彼のこの言葉の説得力にも頷ける程の概念感に置ける同種的な実像の可能性が感覚的に正当な評価だと私の感性と理性を欺こうと思えるのだ。
『認識批判がありとあらゆる認識の種類や形式にあてはまる認識の本質を解明する学問だとするならば、それはいかなる自然的学問も利用することができない。』
クスッ、フッ!猿ー!!ねアンタ。
412 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 17:56:01
第三反論
壱
『フュリードリッヒ、ツァラトゥストラ、ディオニッソッス・・・亜細亜に置ける創造と踊りの破壊神。』
批判の象徴物としての評価の指針として以下のテキストの共有を許して貰いたい。
人を殺すためには、他者を外部へ排除する。善悪の彼岸へ排除する必要があります。人間ではなく
動物とする必要があります。アガンベンがアウシュヴィッツで殺された人々はホモサケルと呼んでの
は、このような意味です。
『※1善悪の彼岸にいる動物であり』殺しても負債を生まない存在。
『※2このような「例外状態」を生み出すのは、ナチズムに特有のものではなく』たとえば未開社会の強い
絆の小さな内部とその外の別の未開社会からの略奪から、ホモサケルの起源の奴隷から、十字軍
によるイスラム圏への攻撃、植民地時代の原住民虐殺から、日本に原爆が落されたのは日本がキ
リスト教国外部だったからなど、あります。
ナチズムの特殊性は、ホモサケルを生みだしたことではなく、第一次世界対戦が近代兵器の戦争と
なったことに意味があるのではないでしょうか。技術向上が容易に大量に効率的に、ホモサケルを
処理できた、ということ。
そして現代人の悲しさはもはや戦争ができなくなったことにあるのではないでしょうか。大量殺戮兵
器と戦闘の分業化によって、「例外状態」を生み出しにくく、戦争は内部のものであり、多くの負債を
抱え込むことになり、「純粋略奪の快楽」を生みさない。
『※1善悪の彼岸にいる動物であり』此処に批判の焦点を絞りたい。
テクストとその周りを実、賑やかに飄々と上下する。
脈々を打診すると反証を象徴するその記号の内約は自己観点に反転するとこうである。
413 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 18:00:11
人殺しを実行するには人である事を自己ではない意志と断定し。
更に外部(この辺の形容的な概念が不確定で曖昧だが。)まぁ解釈を与えると内部(自己観念に置ける善悪の価値基準)に当て込み、
この基準に該当しないものを外部である『善悪の彼岸』(思想世界と実証世界を二分割し精神的な観念と物理的な善悪説を無と判断する)へ送り出し。対象物の人物を殺すことで実行の意志を成し遂げる。
即ち対象物はもはや善悪の判断が不要で在り。
つまりは動物的な原則に支配された意志により攻撃を与える。
つまりその人物の価値は動物と等価であり、その等価に値する損失を保障する事を約束し認める。
『対象物は動物だ、そして私に危害を与え損害を加える。私はその損失と等価と思える程の苦しみを与える。
権利の一切は私の『善悪』の価値判断が保障を認めている。
これは罰だ、私の損失を賠償する代わりに等価と等しい程の苦しみを味わい私に快楽を与えるが良い。
その概念気質に表れる倫理的な語源の起源を立ち上げ引き上げると、およそ推測は思惟を立ち上げる。
『はたして是はフュリードリッヒ的な善悪の彼岸として彼が示した内約か?』
正解は『馬鹿かおめぇー!そりゃ無理解的、善悪の無念ってもんだ!馬鹿!』
もう少し『良い』事を考えろカスッ!!まぁでも実際フュリードリッヒは君の様な弱者に誤解されたがって居る。』
能動的な善悪の彼岸への没落を教えよう。
ルクス『善悪とは内部的に作用するものだから通称的に使用されるキリスト教的善悪説は意味が無い。』
要は善悪とは独断的な状況により俺が決め付けるもんだ!!だから俺は善い人だから何やっても悪くは無いのよー!と言うのが彼の理屈の大部分である。
414 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 18:02:29
もはや、笑いたくなる私と私の心底に横たわる悪意は!!声を上げて笑っている私の悪意は、そしてからかいたくなる、この軽視すべき解釈を!!
だが、一つ秀でた洞察を私は見つけた。
それは『内部の善悪』への意識である。
弍
《グート・ベーゼ》=《グート・シュレヒト》
力への意志が何故にこの一つ危険な橋《善悪の彼岸》渡に至ったかその後ろ姿と面影を思い描き今ここに復元しよう。
力への意志とは支配しようと意欲し更に一切の作用を引き起こす一切の背後関係だ!!
その意志はその意志する限りを支配しその対象を統治しようとし、それに飽き足らず。その障害となるあらゆる困難を『克服』し、その功利と勝利の快楽を貪る!
そしてその意志の記憶に、より一つの判断基準をその実証の価値判断を刻むのである。
詳しい詳細はニーチェ・午に印した〔ハーバード・スペンサーの反対説〕を読むが良い!!
415 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 18:03:51
惨
『地獄の苦しみと送り与えられる独、地上に於いても地獄は存在する。』
つまり、その意志は過去に実証済みな意志の反証のもたらす功利を《グート》(良い)事として意志の記憶に残すので或る。
その能動性を効果的な作用に生かす意志はこう言う。
『その事物は作用の意志を与えても《良い》何故なら既に一度支配し克服しているのだから、
それからあの宅配官能遊廓から作用を与える女を呼ぶのは《悪い》何故なら過去に一度、支配しようと企んだが豚でも無い目に合い。
実、功利の結果の期待は素晴らしく低い嗚呼!!アレこそ地獄と呼ぶに相応しい!!
この地上に於いても又、地獄は来た!!私が喚んだのはまさしくデリ・ヘル(宅配地獄の九十分)であった!!
あれぞまさしく交換無用の地獄の九十分間、真情けない話だが私の意志の避雷針は稲妻を伴い天に返り我を魂が捨て去る事と思いはてた!!
世の勇気在る男性よ!!
いよいよ持って警戒するが良い!!
416 :
考える名無しさん:2006/08/22(火) 18:11:25
もっと、もっと!
あっぷ、あっぷ!
417 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 18:22:03
あの一言も“否”の意志を見事に無に吸い込む。あの野蛮を装備し、脅迫的な迄の重圧感で持って男の闘争本能の開花を全身が告げる!!
贅沢を攻撃的にまで進化させ、力への意志を微塵も模様さない圧倒的な身体能力差を、惜し気もなく軽装で全くの悪気も無くたたずみ。
動く要塞か意志する悪意かと錯覚する肉体の我城!!
真この審理を裁きにやって来たこの女はこう言いのた打ち回るのだ!!
『あーあー・・・楽して金が欲しいなぁ!!誰か私に貢いで繰れる《良い》男何処かに居ないかなぁー。
はぁー、アッ!でもアンタは十万でもお断わりだわ。』
諸君この豚は真、私に向ってこう言ったのだ!!私がこう思ったのは創造に容易い事だと言い切ろう!!
『私にもっと力があれば、直ぐ様、切り刻み。肩ロースと豚バラに創り変えて皆を喜ばせるて挙げるのに!!』
ルクス君、君は『善悪の彼岸』を何か特別な尺度を計る物だと誤認している感が私には否めない、それは一つの基準でも無く、一つの価値でも無く、まして一つの秩序でも無い。
それは一つの『意志する所』である。と私は忠告しよう・・・・・。
『愛から済される事は常に“善悪の彼岸”から起こる。』フュリードリッヒ・ニーチェ。
418 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 18:45:12
長文ごくそうさまです。ゆるり読ませていただきます。
419 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 19:00:41
>要は善悪とは独断的な状況により俺が決め付けるもんだ!!だから俺は善い人だから何やっても
>悪くは無いのよー!と言うのが彼の理屈の大部分である。
小難しくて期待したが、あんたニーチェどまりでフロイト以後がないがな・・・
420 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 19:19:10
>ルクス君、君は『善悪の彼岸』を何か特別な尺度を計る物だと誤認している感が私には否めない、
>それは一つの基準でも無く、一つの価値でも無く、まして一つの秩序でも無い。それは一つの
>『意志する所』である。と私は忠告しよう・・・・・。
『善悪の彼岸』とはけして到達し得ない「物そのもの」であり、トラウマ的な<自然>であり、
ボクたちは(幻想の)「自然」に惑い、熱狂する。なぜなら(幻想の)「自然」とはボクたちの
現実そのものだから。だから「力への意志」とは不可能なものの名です。
421 :
考える名無しさん:2006/08/22(火) 19:22:39
だれかポストモダンを超えるプレーヤーを呼んで来い。
思想的野望を持つ猛者の集結を求む。かなりの狂気を必要とするが。
422 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 19:26:46
ポスモダというか無意識の構造でしょ。
マルクスにもあるし、ハイデガーにもある、当然フロイト以降にある。
ニーチェにはなかったかな?
423 :
よしお:2006/08/22(火) 19:33:16
俺の俗流ニーチェ論だけど。
超人とは環境に適応した、進化した人間と捉えていいのかな。
たとえば人は劣悪な環境で仕事をしてうつ病になることがある。うつ病とはある種の価値観の破壊だから、
病気で休職した人間は一度社会的には死ぬ。だがそこから社会に戻った人間はある種の内面における価値観の変換が
おこる。それがつまりあたらしい環境に適応するための価値観であるわけだ。それはいわば内面における進化である。
そこで精神分析的解釈を加えるのなら、うつ病の発病は精神分析的にはかぎりない死の欲動と考えるわけだ。実際自殺
を考えるほど、個人を追い詰めるわけだから。そこからの立ち直りはある種の生の欲動であるといえる。つまりそこで
その人間は死を克服し、彼岸を越える経験をする。
うつ病から立ち直った人間は同じ環境においてももはやうつ病になることはなく、内面における進化を果たしたことになる。
つまり超人とは新しい環境に適応した人間であるということができる。
ニーチェのいう超人とはそのような解釈でいいじゃない?
424 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 19:37:30
まぁまぁ別に良いんちゃう?もし形而上学的に観測しその場所を確認し、暖かな認識の下、目指したならば行き着く先はニーチェだろがフロイトだろうがアリストテレスだろうが、その行き着いた場所はきっと一緒だろう?
私から言わせて貰えば“乗り物”が違うと言うだけだったんだ!!
425 :
考える名無しさん:2006/08/22(火) 19:39:51
426 :
よしお:2006/08/22(火) 19:41:03
まぁ、君が哲学をやる動機がなんであれ、人間に対し、深い洞察がある
ことはわかるよ。その知性を建設的な仕事に向けるほうがいいじゃない?
427 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 19:55:31
時は空間を駆け抜けた距離への評価、私達の未来さえ“過去”での評価としてでしか何らか価値を与えれない!! 永遠回帰の秘密をあげる!我々の一切が万象に再び、送り与える所、私達の一切の“瞬間”はこの神羅に祝福される。
“万象同期”行き着く先には全てが再び駆け巡る!!
428 :
純性快楽批判論。:2006/08/22(火) 20:00:03
全ては“喜び”に感謝を犠牲に捧げる・・・・。 愛が全てだった。だと?
馬鹿言うな!!
もはや私はこう言うまい!
『愛に至る迄が全てだった』と・・・・。 私は“孤独”と人間の懸け橋で或る。
あなたは知る者か?その昔神も又一人の“孤独”だった事実を・・・・。
ニヴェラリストはこう言った。
429 :
考える名無しさん:2006/08/22(火) 20:02:47
かなりいってるね。統合失調症のニーチェっぽいね。
この展開マジ凄いね、これぞ哲板!
ぴか〜革命なるか?
431 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 21:56:08
>つまり超人とは新しい環境に適応した人間であるということができる。
フロイトの「生の欲動」と、ニーチェの「力への意志」の違いは、物凄く近いところにあります。
ともにダーウィンの進化論の影響下にあることです。
しかしダーウィン萌えもフロイトの生の欲動が、進化論的、動物的な本能を断絶し、
ダーウィンに対抗意識のあったニーチェの力への意志が、進化論的、動物的な本能に近似するのは皮肉です。
ニーチェの超人とは「環境」を超越する者、善悪の彼岸を生きる者であり、人間社会を超越し動物の本能に
生きる者です。フロイトにとって人間社会秩序=無意識を超越することは不可能です。このような不可能な力が
欲動です。
432 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 21:58:04
>つまり超人とは新しい環境に適応した人間であるということができる。
フロイトの「生の欲動」と、ニーチェの「力への意志」は、物凄く近いところにあります。
ともにダーウィンの進化論の影響下にあるということです。
しかしダーウィン萌えのフロイトの「生の欲動」が、進化論的、動物的な本能から断絶し、
ダーウィンに対抗意識のあったニーチェの「力への意志」が、進化論的、動物的な本能に近似するのは皮肉です。
ニーチェの超人とは「環境」を超越する者、善悪の彼岸を生きる者であり、人間社会を超越し動物の本能に
生きる者です。
フロイトにとって人間社会秩序=善悪=無意識を超越することは不可能です。このような不可能な力が
欲動です。
433 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/22(火) 22:05:10
これでボクが
>>419で指摘した意味が分かると思います
>要は善悪とは独断的な状況により俺が決め付けるもんだ!!だから俺は善い人だから何やっても
>悪くは無いのよー!と言うのが彼の理屈の大部分である。
ニーチェ萌えさんは、ニーチェ的に善悪が容易に乗り越え可能なものと考えているのであり、
ボクはフロイト的に善悪は決して乗り越えられない故に、幻想の「自然」へ欲動(純粋略奪の快楽)する
と言っているわけですね。
434 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 00:40:24
比較文明論
このような単純な文明論はさまざまな多様な文化を枠組みにはめ込む還元主義的である。しかした
とえば古代(ギリシア・ローマ帝国)→中世→近代(ルネサンス以降)という従来の西欧中心主義で
は、突然ルネサンスが登場するような断絶が見られるのに対して、「比較文明」 伊東俊太郎
(ASIN:4130020439) の「V 地中海世界 イスラムとヨーロッパ」では、地中海世界の北側<ギリシ
ア→ローマ→ビザンツ→ヨーロッパ>というインド・ヨーロッパ系の文化だけでなく、南側<エジプト→
フェニキア→シリア→アラビア>というハム・セム系のは二つの系統の文化が相互に影響しあい発
展的姿をしめすことで、イタリア・ルネサンスがギリシア文化がアラビア圏で育ちそれが、十二世紀
ルネサンスなどを経て、伝来する姿によって描かれる。すなわちこのような比較文明論はある種の
還元主義的であるとともに、文明が影響しあう世界システム論的なものを目指すのである。
>>
私はそうした人類史の転回点となったと思われる大きな文化史的革命として、人類革命、農業革
命、都市革命、哲学革命、科学革命の五つを考えるのであるが、これはまた同時に従来の西欧中
心に定位した世界史像から解放されて、より広く地球上のあらゆる文明を比較史的な観点からグ
ローバルに見直す、一つの新しい歴史的視圏を拓こうとする試みでもある。
ヘーゲルの<ギリシア→ローマ→キリスト教的ゲルマン諸国家>という世界史の図式も、ランケの
<オリエント→ギリシア→ローマ→ローマ的・ゲルマン的諸民族>という図式も、さらには<アジア
的生産様式→古代奴隷様式→中世封建制→近代資本主義>というマルクスの図式すらも、それぞ
れ立場やイデオロギー的前提を異にしながらも、等しく世界史の一部分にもに焦点を合わせた西欧
中心の一面的世界史観である。
われわれは今や西欧中心的世界史を越え出て、新にグロバールな世界の世界史「再建」しようとす
る場合、その時代区分の指標としては単に西欧的文脈においてではなく、全世界史的な意味をもつ
歴史的事件をとりあげてゆかなければならないのである。
「比較文明」 伊東俊太郎 (ASIN:4130020439)
<<
435 :
純正快楽批判論・第二完。:2006/08/23(水) 00:40:30
『純性快楽批判論・第二部』
ツァラトゥストラ的悲劇劇場。
ニヴェラリストはこう言った。
第一幕・『悲劇の誕生と喜劇の心臓』
『善悪の彼岸』とはけして到達し得ない「物そのもの」であり、トラウマ的な<自然>であり、
ボクたちは(幻想の)「自然」に惑い、熱狂する。なぜなら(幻想の)「自然」とはボクたちの
現実そのものだから。だから「力への意志」とは不可能なものの名です。
ルクス君、今一度君に問う我々は何を持って長い目を見開き、
その先を見とうさなければもはや何の“評価”にも
価値は輝かないであろう事か!!
『善悪の彼岸』とはけして到達し得ない「物そのもの」であり、トラウマ的な<自然>であり
それは物でもなければ、到達する場所ですら何の価値も評価も関係は“無”と対峙をなし因果も起源も持たない。
『善悪の彼岸』とは何であるか?危険をその傍らに、置く事を自らに許せる。
勇気或る耳はを立て暫し沈黙の深みを楽しむが良い。
まさに思想!!思想そのもので在り、その思想を意志を持って認識する事でしかその実在の面影は掴む事も噛み付く事も出来ない!!
我々は幻想の未来を透写する事でしかあの熱風は再び我が身を、あまりに早く死んだ時期を埋めた墓標に吹き付け。
墓石を叩き壊し、あの時代を熱望し埋葬と別れを告げ。
棺に横たわり眠る、あの感覚は再び取り戻す事など
“不可能”か?
436 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 00:41:05
自然主義的闘争論
しかしそこに時代のイデオロギー性がないわけではない。特にこれからむかう「環境革命」にそれが
見られるだろう。「従来の自然対人間、物質対精神の二元論的対立が究極的に止揚される」ことが
現代の環境への関心を示しているだけでなく、全体が止揚にむけての弁証法的な構造を持つことは
否めない。
たとえばそれはマルクス的な環境との調和史観であり、資本主義などに自然との不調和を還元し、
「太古において人類は自然と調和し生きてきた」というような言説に見られるのではないだろうか。
ボクが考えるのは、「人類革命」〜「農業革命」期においては、たしかに現代のように外部として「自
然」という概念はなくトーテミズム、あるいはアミニズム的に一体化していたと思われるが、それは調
和とは非なるものではないだろうか。たとえばボクたちは「動物は自然と調和している」というが、動
物は決して自分たちが自然と一体化しているなどと考えないだろう。彼らは生きるために「闘争」して
いるのである。ただあまりに巨大な自然に包まれているのである。
このような意味でおいて人間は太古から自然と闘争して来たのである。自然はトラウマ的であり続
けるのである。現代において環境を破壊しすぎているとしても、容易に止まらないのは、単に下部構
造としての資本主義経済機械が作動し、止めようがないだけでなく、人間は安易に「自然」との闘争
を止めることができないのではないか。現代の後期資本主義の「無駄」な消費社会を抑止してもボク
たちは生きていけるだろうが、トラウマ的な自然への闘争への強迫性を排除することはできないの
ではないだろうか、と考える。
だから環境革命とは、「従来の自然対人間、物質対精神の二元論的対立が究極的に止揚される」
自然と調和でなく、乱獲しすぎた自然からの逆襲をいかに管理するかの闘争ではないだろうか。
437 :
純正快楽批判論・第二完。:2006/08/23(水) 00:41:57
おお!!我が青春よ!!
真、荒々しい熱風を引き連れ、あのあまりに早く死んだ時を、今再び呼び戻し。
直ぐ様真、足早に駆け抜けるのか?
おお!!我が“生”よ!!真、そなたが欲情し愛したものはその対象物ではなくおまえの“欲望”そのものだった!!
良く聞きなさい。あなた方一切の“残酷な偶然”の断片達よ!!
『力への意志』とは不可能なものの名か?
我々の本能に或る“生”の暴君、それこそ『力への意志』是に他ならない!!
おお!!我が兄弟達よ!!信じるが良い!!
我々の生とは、あらゆるものを摂取し剥奪し略奪する事でしか、その活動に置ける生態形を維持し保てない!!
何の為の略奪か?何の為の闘争か?今だ私にこう問い掛ける者が在ろう者なら、
私から見ればキチガイざたか、狂気的な神の毒に犯されたとしか思えない!!
その暴圧の心中に響く声はこうだ!!
『私は自己を克服するものだ!!さらなる高みを踏み付け、よじ登る神聖なる踵なのだ!!』
自己を超越して没落するもの、即ち自己より力強く“強き意志”を輝かせ様と望むもの、それはこう呼ばれるので在る。
自己の意志の記憶を繋ぎ続けるもの、そして“生”を力の上に解放するもの即ち“人間”と。
ニヴェラリストはこう言った。
438 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 00:41:59
時期的な対比
「文明と自然」の区分と、ボクの自然主義的闘争論との時期的な対比をしめす。
>>
「自然主義的闘争論」
社会形態/交換様式/闘争様式(純粋略奪の快楽)
@人類革命〜農業革命
自然崇拝の時代・・・未開社会/互酬/自然崇拝し、純粋贈与(ポトラッチ)する暴力
A農業革命〜都市革命〜精神革命
自然排除の時代・・・都市化、帝国/再配分/「動物」(奴隷、異教徒)を排他する暴力
B科学革命 第1段階:近代革命、第2段階産業革命
自然征服の時代・・・ 国家、資本主義/交換/自然を数量化(科学技術)によって征服する暴力、過剰消費する暴力
C科学革命 第3段階:情報革命、環境革命〜
自然管理の時代・・・地球環境保護機構/交換、再配分(環境税)/自然を管理する暴力、ネット(疑似自然)を開拓する暴力
<<
439 :
純正快楽批判論・第二完。:2006/08/23(水) 00:43:21
第二幕『実在と陽炎。』
この様に私は、彼等の耳を長く延ばし聲を張り上げた
だが彼等は頻り顔を強ばらせ、視界に広がり折り重なり。黒と白が辺りの形を浮き上がらせた。
その黒曜石の求心力がその黒と言う災いをより吸収してより輝きに照らされる。
その日陰に表れた黒曜石を温和な光は弾きながら、その真直ぐに垂直な刃を陽炎が瞬く、幻想的な偶像の影を彫刻に刃が差し込まれる様に複雑な映像を映写で映し出す。。。
午後の日陰に巧みに隠れていた青年がニヴェラリストに歩みより、真、口早に荒っぽく言葉を並べた。
「あなたは本気で言っているのか?今日、文化は文明としての繁栄を助長しなくなり。」
「在る程度の忍耐を目に与えれば、詰まらぬ彼岸の不幸に一々、同情の為に悩む必要等、我々、多くを所有する者達に何の不安や危険が在ると言うのだ!!」
「真、深い沈黙の内に生きると言う事は何と幸福なので在ろうか!!是こそ我々が求める幸福だ!!是こそ我々が約束した幸福だ!!」
「それでもまだ、あなたは、力への意志を尚追い求める者なのか?危険!!」
「それは過ぎ去った深い沈黙の内に!!もはや、何の危険に怯える事が我々に不必要な事だろうか!!」
荒々しくも、けたたましく青年の口は動き回り。
ひとしきり呼吸が息継ぎを終えたと同時に、視線を投げ付け。
忙しく焦点を探した。
その顔に向けられた、視線の心中には、より一層深い憎しみがしっかりと報復の祝祭を告げていた。
440 :
純正快楽批判論・第二完。:2006/08/23(水) 00:44:32
『おお!!今だ孤独は人間にとっては巨大な怪物か、深渕の様にしか思われない。そして人間の目はいよいよ持って短くなり、遠くの危険をより近付けて見ることは一つの罪の様にその景色はあなた方に重なる。』
『そして私にはより、巨大な偶像としてそれは迫って来る!!その危険!!その克服の洋式美の装飾で包み込み愛すべき。敵の名は真、憎べき『退化』その者は自称する。』
もはや、我々は軽率な敵を向い入れることを笑い、このより自己と同等かそれ以上の価値を持つ者を良く憎むとは、何と理に叶う真理で在ろうことか!!
孤独を造り上げる者よ!!あなたの敵をより憎む敵を持つべきで在れ!!
その勝利と栄光の中に新しい『貴族』を産む者で在れ!!
あなた方、孤独に評価を与える者よ!!
ニヴェラリストはこう言った。
441 :
純正快楽批判論・第二完。:2006/08/23(水) 00:47:12
第三幕・『進化論と超越論、環境と叫喚の歌。』
私は前にあなた方へ『超人』を与えた。
だがあなた方はその姿と悟性でしか、既に評価を与えようとはしない!!
あれは何だったのだろうか?今だこう尋ねる者はその輝きを『超人』の作用で在ると信じるに至る。
作用が作用を引き起こす者是があの『超人』に置ける一切であり、又は一切の始まりだったのだ。
即ち『超人』とは何か!?それは“比喩”に他ならない、真、あの稲妻の轟音を鳴り響かせる“比喩”なのだ。
“その意志の思想を反映した。”
あの時代に置ける信仰とは思考停止(エポゲー)でしかなかった、告ぎ成る衝動に備える準備でしか無かった。
再びその思考が凪がれ出す時に驚き、亜喚き又、その反照としての感覚を真、生として喜びの中で楽しまんとする為にだ!!
だが、どうだろう!?
今までまでに、その思考を止めてた事に理解が追い付かない人達が瞬きをして、大地を蚤の様に飛び跳ねているではないか!!
彼等は口々に叫ぶ。
「生命とは“環境”に適応しながら進化するものだ、環境に添いながら進化を歩むのだ、生への欲動がそうさせるのだ!!つまりは「力への意志」是すら酷似した累計に過ぎない!!」
442 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 00:48:26
こら!ごちゃまぜるな!
443 :
純正快楽批判論・第二完。:2006/08/23(水) 00:49:02
『嗚呼!!私は虚しさで胸が詰まりそうになる!!
嗚呼!!あなた方がせめてあの鷲や蛇の様に賢さと勇気を持ってくれたら!!』
『私は前に教えた『超人』が一つの“比喩”だと言う事を!!だが、あなた方には理解出来ない!!
比喩とは“思想”でしかないのだ、あなた方は是でもまだ理解に苦しむ。』
『私はあなた方が不憫で我慢ならない!!どうせだったなら悩んだ事に付いて悩んだら良かったのに!!是が私の常に思うところである。』
『力への意志』とは一つの比喩で在る、進化論とは本能的、欲情衝動で在り。
『力への意志』とは全くの別物である事をあなた方はまだ理解しない。
良く聞きなさい!!
あなた方、細き長い橋を渡り行くあなた方よ!!
444 :
純正快楽批判論・第二完。:2006/08/23(水) 00:54:50
『力への意志』とは本能的欲求に基づく“思想”で在り、故に『意志を意識する力への意志』で在ると私は前にこう言った。
簡単に説明するとダーウィンの進化論は一般的には、生物全般でのお話。
ニーチェの力への意志は認識生物達。
つまり『意志を意志出来る』生物達即ち人類思想が可能な生物全般。
意志としての意識を紡ぎ出し繋ぎ行く、我々人類の“思想”に置ける解釈と地球上に存在してきたあらゆる動物達と方法論を単一的に動物学的な生の本能に置ける意志の欲求と人類学的な生の本能を意志する。
思想を同一に解釈するのは動物の体と人間の精神の進化を同じ場に乗せて議論してるのと略一緒。
つまりは馬鹿者かおおバカモノかマジ本物。
『超人』は環境を超越するだって?馬鹿馬鹿しい、
我々人類だって環境一つ破壊出来るではないか!!
超人は環境に評価を与える!!
あなた方に『評価』是の価値など理解し得る者は幾人も居た試しが無い!!
ニヴェラリストはこう言った。
445 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 01:00:17
馬鹿馬鹿しい
446 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 01:07:22
もあ、もあ!
ひっぷ、ひっぷ!
447 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 01:11:38
>それは物でもなければ、到達する場所ですら何の価値も評価も関係は“無”と対峙をなし因果も起源も持たない。
カントも知らないのか
>我々の本能に或る“生”の暴君、それこそ『力への意志』是に他ならない!!
>『力への意志』とは一つの比喩で在る、進化論とは本能的、欲情衝動で在り。
>『力への意志』とは全くの別物である事をあなた方はまだ理解しない。
ヘーゲルも知らないのか
まとめに書けば、読んでも良いが、ニーチェ萌えさん以後放置させていただきます。
エアーニーチェはよそでやってね。臭いよ。
448 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 01:12:16
比較文明論
このような単純な文明論はさまざまな多様な文化を枠組みにはめ込む還元主義的である。しかした
とえば古代(ギリシア・ローマ帝国)→中世→近代(ルネサンス以降)という従来の西欧中心主義で
は、突然ルネサンスが登場するような断絶が見られるのに対して、「比較文明」 伊東俊太郎
(ASIN:4130020439) の「V 地中海世界 イスラムとヨーロッパ」では、地中海世界の北側<ギリシ
ア→ローマ→ビザンツ→ヨーロッパ>というインド・ヨーロッパ系の文化だけでなく、南側<エジプト→
フェニキア→シリア→アラビア>というハム・セム系のは二つの系統の文化が相互に影響しあい発
展的姿をしめすことで、イタリア・ルネサンスがギリシア文化がアラビア圏で育ちそれが、十二世紀
ルネサンスなどを経て、伝来する姿によって描かれる。すなわちこのような比較文明論はある種の
還元主義的であるとともに、文明が影響しあう世界システム論的なものを目指すのである。
>>
私はそうした人類史の転回点となったと思われる大きな文化史的革命として、人類革命、農業革
命、都市革命、哲学革命、科学革命の五つを考えるのであるが、これはまた同時に従来の西欧中
心に定位した世界史像から解放されて、より広く地球上のあらゆる文明を比較史的な観点からグ
ローバルに見直す、一つの新しい歴史的視圏を拓こうとする試みでもある。
ヘーゲルの<ギリシア→ローマ→キリスト教的ゲルマン諸国家>という世界史の図式も、ランケの
<オリエント→ギリシア→ローマ→ローマ的・ゲルマン的諸民族>という図式も、さらには<アジア
的生産様式→古代奴隷様式→中世封建制→近代資本主義>というマルクスの図式すらも、それぞ
れ立場やイデオロギー的前提を異にしながらも、等しく世界史の一部分にもに焦点を合わせた西欧
中心の一面的世界史観である。
われわれは今や西欧中心的世界史を越え出て、新にグロバールな世界の世界史「再建」しようとす
る場合、その時代区分の指標としては単に西欧的文脈においてではなく、全世界史的な意味をもつ
歴史的事件をとりあげてゆかなければならないのである。
「比較文明」 伊東俊太郎 (ASIN:4130020439)
<<
449 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 01:12:51
自然主義的闘争論
しかしそこに時代のイデオロギー性がないわけではない。特にこれからむかう「環境革命」にそれが
見られるだろう。「従来の自然対人間、物質対精神の二元論的対立が究極的に止揚される」ことが
現代の環境への関心を示しているだけでなく、全体が止揚にむけての弁証法的な構造を持つことは
否めない。
たとえばそれはマルクス的な環境との調和史観であり、資本主義などに自然との不調和を還元し、
「太古において人類は自然と調和し生きてきた」というような言説に見られるのではないだろうか。
ボクが考えるのは、「人類革命」〜「農業革命」期においては、たしかに現代のように外部として「自
然」という概念はなくトーテミズム、あるいはアミニズム的に一体化していたと思われるが、それは調
和とは非なるものではないだろうか。たとえばボクたちは「動物は自然と調和している」というが、動
物は決して自分たちが自然と一体化しているなどと考えないだろう。彼らは生きるために「闘争」して
いるのである。ただあまりに巨大な自然に包まれているのである。
このような意味でおいて人間は太古から自然と闘争して来たのである。自然はトラウマ的であり続
けるのである。現代において環境を破壊しすぎているとしても、容易に止まらないのは、単に下部構
造としての資本主義経済機械が作動し、止めようがないだけでなく、人間は安易に「自然」との闘争
を止めることができないのではないか。現代の後期資本主義の「無駄」な消費社会を抑止してもボク
たちは生きていけるだろうが、トラウマ的な自然への闘争への強迫性を排除することはできないの
ではないだろうか、と考える。
だから環境革命とは、「従来の自然対人間、物質対精神の二元論的対立が究極的に止揚される」
自然と調和でなく、乱獲しすぎた自然からの逆襲をいかに管理するかの闘争ではないだろうか。
450 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 01:13:38
時期的な対比
「文明と自然」の区分と、ボクの自然主義的闘争論との時期的な対比をしめす。
>>
「自然主義的闘争論」
社会形態/交換様式/闘争様式(純粋略奪の快楽)
@人類革命〜農業革命
自然崇拝の時代・・・未開社会/互酬/自然崇拝し、純粋贈与(ポトラッチ)する暴力
A農業革命〜都市革命〜精神革命
自然排除の時代・・・都市化、帝国/再配分/「動物」(奴隷、異教徒)を排他する暴力
B科学革命 第1段階:近代革命、第2段階産業革命
自然征服の時代・・・ 国家、資本主義/交換/自然を数量化(科学技術)によって征服する暴力、過剰消費する暴力
C科学革命 第3段階:情報革命、環境革命〜
自然管理の時代・・・地球環境保護機構/交換、再配分(環境税)/自然を管理する暴力、ネット(疑似自然)を開拓する暴力
<<
451 :
よしお:2006/08/23(水) 04:56:56
俺の立脚はどうしても柄谷流のトランスクリティークであるから、柄谷っぽい精神分析的評論になってしまうところをかんべんしてほしい。
地球環境の管理ということを地球において人間が存在することと関連づけて論じるのなら、
地球に人間が存在することが地球にとってそもそも異物であるといえる。いうならば人間とは地球にとっては
人体における、ウィルスや癌細胞のようなものである。地球の環境を人体と捉えるのなら、地球環境の
破壊は人体におけるウィルスの進入であり癌細胞の増殖である。その比喩からいえば、環境破壊の反動として人間に襲い掛かっている
さまざま現象は地球自体の自己免疫反応と見ることが可能である。それは生命科学のレベルから工学などありとあらゆる
科学分野のレベルまで及んでいる。それらの原因は、地球にとって人間の数がそもそも多すぎることだし、
人間に備わっている、欲動プログラムがその原因であるとする見方もできる。
すなわち人間の存在自体が、地球が変化していく欲動そのものであり、環境の変化とはそれ自体が、地球と人間の共存である
と考えられるのである。
452 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 05:09:32
人類史的な認識のエポックといえば釈迦、孔子、イエス、ソクラテスなどが
あるが、それに比すべきエポックはまだ訪れてないね。
453 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 07:52:30
454 :
アキラ:2006/08/23(水) 08:05:24
評論が所詮、文学の域を出ないにしろ、思考の素材にはなるだろ?ぴかぁさん。ぴかぁの持論もっと進めてよ。
455 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 08:48:39
げっと、げっと!!
456 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 09:33:17
ポストモダンは文学を素材にしなければそもそも哲学として成立しえないんだから、哲学じたいが文学ですってカミングアウトする潮時なんじゃない?
457 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 10:39:44
マスコミは今度は早実祭りですね。ほんと懲りないですね。
すでに裏では叩きカード収集ガッセンにやっきなのでしょう
458 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 10:41:24
マスコミにおけるヒーロー消費のテクニークについて誰かまとめてみてください
459 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 10:51:28
自然崇拝の時代は自然との一体化、近接してある。これに対してとりうる対策は自然崇拝である。
崇拝とは擬人化である。自然を他者とすることでそこにコミュニケーションを成立させ、負債を分け合う贈与関係に引き込む。
たとえば自然災害による人間への負債は貸しである。だからその後自然のめぐみとして返済される。
呪術的祝祭は自然の他者とのコミュニケーションの場であり、ポトラッチは純粋贈与であり、自然他者へ最大の負債を追わせる行為である。
460 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 11:23:45
人間化とはこのような自然とに境界を引く行為である。
この境界は農耕革命により広がる。コントロール可能な自然の領域、すなわち内部(人間)と外部(自然)の間のグレーゾーンが広がる。
都市革命からの自然開拓の時代は農耕が効率化し貯蓄可能となり、その労働が生まれ、外部(自然)にたいする強固な「隔壁」が生まれる。
この時代、自然神的な呪術からも解放され、より内部(人間)の物語、すなわち神は明らかに人間たちの抗争の物語に移る。
そして自然の排他はキリスト教などの神、人間、自然という人間中心主義宗教、そして哲学などの形而上学につながる。それが精神革命である。
またこのような「隔壁」は人間内部を高度に成熟させるとともに閉塞を招く。
強い贈与関係のなかで内部抗争が頻発する。これは境界が内部で生まれることを意味する。
たとえば異民族、異教徒との間に境界をもうけ外部に排他し、神話化し暴力を行使する。
宗教と排他、戦争が切り離せないのはこのように一神教的宗教が都市化により人間が内部へ閉塞するなかでうまれ、
出口を内部内に見いださざるおえない、他者を外部に排他することに見いだすからである。
すなわち都市化における自然とは異民族、異教徒、あるいは奴隷などの野蛮な動物であり、
まさにここに形而上学が作動している。
461 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 11:38:57
それは哲学がよく主題にする人間の疎外とは異質な問題なのだろうか?
462 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 11:58:51
このような閉塞が中世であるが、そのときにもグレイゾーンの開拓は進む。ギリシア文化を継承し、
外部(自然)を客観視し、数量化する試みであり、これがルネサンス以降の科学革命につながる。
ルネサンスの技術主義、それにともなう大航海時代の自然開拓と重商主義、宗教革命のカトリック的拘束からの自立。
ここで先行する啓蒙主義とは神に頼らない人間中心主義である。
これを可能にするのがより高度な都市化と豊かさであり、自然の脅威の排除であり、
贈与関係ししばられない個人として自立することを可能にする。
内部が拡大する中で外部として新大陸(現住民含む)は征服され、そして科学的未発見として開拓され、グレイゾーンはさらに拡大するされていく。
そして境界は人間内部に侵入する。デカルトの心身二元論は内部の心と外部(自然、機械)の身体である。
そしてこの心身二元論の重要性を決定的にしたのが産業革命による資本主義社会化である。
身体が労働力、心が消費者となることで資本主義は反映した。
それに反して戦争は次第に外部を排出することが難しくなる。
帝国主義化、資本主義化により世界はグローバル化とともに国家として配分され大きな内部となることで
安易に異教徒、異民族を外部の野蛮な動物として排他できなくなる。 世界大戦の悲惨さは、化学兵器により大量殺人だけでなく、外部を見いだせない「人間」同士の内部内の
残忍、無残な殺しあいでしかないことだ。
463 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 12:18:42
啓蒙主義革命の先端はマルクスなど社会主義化である。そして現に世界対戦後、共産主義国家が多数成立する。
しかしこれらは失敗におわった。なぜ資本主義は成功し、その「先」の社会主義は失敗したのか。
ボクは社会主義には外部がないからだと思う。
社会主義が提供しえた外部は冷戦における戦うべき資本主義という外部のみである。
なぜなら社会主義とは外部への欲望を資本主義的悪とし排除する思想だからだ。
資本主義は産業革命当初、労働者の疎外を生んだが、その後生産から消費社会へ移る中で緩和されてくる。
なぜなら資本主義の本質は資本家のために資本を生むことよりも、消費者のために疑似的な外部(自然)
すなわち未知の新しい製品を提供しつづけることにあるからだ。
464 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 12:29:19
だからといって資本主義が問題を解決したわけでもなんでもない。
資本主義における搾取の問題はグローバル化しただけである。発展途上国など周辺で資源(人的も含めて)は略奪されている。
また先進国でも情報化社会における消費という疑似自然へ欲望の徒労感、あるいは価値多様化によるコミュニティの崩壊などフラストレーションは増大している。
人々はより純粋な外部(未知、無垢)をもとめて脅迫化している。
465 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 13:06:55
このような状況の現代で重要なのがネット革命である。
ネットは新大陸に語られるように新たな技術導入が疑似自然(外部)開拓のメタファーになり、人々の欲望を想起した。
またネットは当初グローバルビレッジなどサヨ的幻想で語られたが、爆発的な普及を支えたのは、
未開社会のようなコミュニティの閉塞性である。消費社会で失われた直接的なつがりの取り戻しとしてある。
最近のネットのウヨ化は閉塞性をあらわすが、これは新たな境界を意味する。
コミュニティのむこうには外部があるという近代以前のまだ戦争が快楽であった自然開拓時代への回帰がある。
このようなネットの重要性は消費社会の主役であり新たな商品を提供しつづけるマスメディアへの反動もある。
すなわち自然(資源)征服型から移行であり、環境問題につながる。
環境問題とは安易な環境との調和などではなく、グレイゾーンの管理と、新たな自然開拓方法の模索である。
よって世界が保守主義に傾くのは仕方がないだろうし、
グレイゾーンの管理は京都会議のように世界的なレベルが要求されし、オゾン層対策では成功を収めた。
外部(自然)閉塞の時代でもあるのだ。だからなおさらネットは重要になる。
ネット上では多くの騒乱、抗争、戦争がおこるだろうが、それは環境管理社会維持にはしかたがない。またテロよりも良いだろうということである。
だから今後人々の生活、文化、そしてリアリティはネット上移行する。まさにネットに本当の自分があり、ネット上に生きるのである。
466 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 13:26:24
環境問題、先進国の高齢化などの閉塞により、近代以降の科学技術も自然開拓、征服から管理へむかい、
快楽を生む行為でなくなっている。
たとえば遺伝子工学も未知(外部)を開拓すらものから人間にむかう現代、内部に近接し善悪を問われつつ、快楽することが抑圧されている。
ではその先は?自然そのものはこの世界そのものであり無限であり、火星移住など宇宙へ?、あるいは時間を超越するタイムトラベル?
あるいはヴァーチャルリアリティによりネットは物理的になり移住する?ネット上の精神世界を生きる?
467 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 13:53:52
熱狂の人類史
468 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 15:23:04
も いんじゃネ
469 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 16:09:52
■熱狂の人類史
@自然崇拝の時代 闘争様式:自然崇拝し贈与する暴力
>>
人類革命〜農業革命
人類革命・・・人類が類人猿からヒトへ、約500万年前のアフリカ
農業革命・・・農耕の開始、西アジア(メソポタミア)、東南アジア、南中国(長江)、メソアメリカ(メキシ
コ)、西アフリカ(ニジェール)、1万年前から前5000年のあいだ
<<
人類革命の時代は、人は狩猟・採集・漁によって自然の中に生きている。予測不可能で不確実な自
然との近接はなにが起こるかわからないとての恐ろしいことだ。この対応としてトーテミズムのような
自然崇拝がある。
崇拝とは擬人化である。自然を(超越的な)「他者」とすることで、そこにコミュニケーションを成立さ
る。コミュニケーションの成立とは、負債を分け合う贈与関係に引き込むことである。たとえば自然災
害は「自然」から人間への負債(貸し)である。だからそのお返しとして、自然のめぐみとして貸したも
のは返礼される。
呪術的祝祭は、このような自然の「他者」とのコミュニケーションの場であり、ポトラッチのような純粋
贈与は自然の「他者」へ最大の負債を追わせる行為(暴力)である。
人間化するとはこのように自然との間に境界を引く行為である。これは名付けるという言語化にも繋
がるだろう。さらに農耕革命においても自然の中で生きることは変わらず、自然を、そして特に大地
を「他者」として「供物を捧げ、豊饒を祈願するアニミズム」によってコミュニケーションが行われる。
しかし農耕では、「人間は自然の一部であるばかりでなく、自然を操作し改変するものとなり、人間と
自然の間には一定の距離、コントロール可能な自然の領域が生まれる。これをボクは、内部(人間)
と外部(自然)の間の「グレーゾーン」と呼ぶ。
470 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 16:11:38
A自然排除の時代 闘争様式:「動物」(奴隷、異教徒)を負の神話化によって排他する暴力
>>
農業革命〜精神革命
都市革命・・・都市の形成、食物の生産に直接従事しない都市民の誕生、メソポタミア、前3500年、
エジプト、前3000年、黄河、前1500年
精神革命
第1段階:高度な宗教や哲学の成立、前8世紀から前4世紀、旧約の預言、ギリシア哲学、六師、
ブッダの思想、諸子百家の思想
第2段階(4世紀から7世紀):中国仏教の成立、西欧のキリスト教化、イスラムの勃興
<<
都市革命によって、「大規模農耕を発達させ、非常に収穫率のよい農耕を作りあげていったことによ
り「社会的余剰」が生まる。」すなわちコントロール可能な領域、「グレーゾーン」が広がり、自然の不
確実性は強固な「隔壁」によって外部へ隔離され、都市内部において予測可能性が向上し、生活は
安定する。
またこのような「隔壁」は人間内部を高度に成熟させるとともに閉塞を招く。強い贈与関係のなかで
「社会的余剰の分配」などをめぐり内部抗争が頻発する。「そこに高度な統治体制が出現して階層
が分化する。」
これは自然を外部へ隔絶することで、内部(人間)内に疑似的外部との境界が生まれたことを意味
する。疑似的外部とは、異民族、異教徒、あるいは奴隷であり、彼らは野蛮な動物(疑似自然)であ
り、怪物、悪魔などに負の神話化し、外部に排他し、暴力を行使する。
471 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 16:12:15
自然神崇拝から、神話はより内部(人間)の抗争の物語、そしてたとえば神−王−司祭−平民−奴
隷(動物)のような「神話の体系が王権の支配を保障する」物語のための一神教が求められる。
宗教と排他、戦争が切り離せないのは、都市化により人間が内部へ閉塞するなかで、内部を強化
するために宗教はうまれ、そして閉塞の出口として、異民族、異教徒あるいは奴隷などの「野蛮な動
物」としての疑似自然が必要とされるためである。
またこの時期、精神革命として、労働から解放された上位層の中で、ギリシアの哲学者、ブッダ、孔
子などのように、隔絶して外部(自然)への「合理的統一的に思索し、その中における人間の位置を
自覚しようとする」精神革命が起こる。これは、人間中心主義とともに合理化という近代へつづく、自
然(未知)を合理的に征服する闘争様式である。
472 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 16:12:48
B自然征服の時代 闘争様式:自然を数量化(科学技術)によって征服する暴力、過剰消費する暴力
>>
科学革命(第1段階:近代革命、第2段階:産業革命)
科学革命
第1段階:近代科学、17世紀西欧、デカルト、世界史における「近代」の始まり
第2段階:産業革命、18世紀後半
<<
自然の脅威の排除を可能にした都市化がより高度に進み、宗教的秩序にもとにした社会的な贈与
関係からの個人として自立という啓蒙主義がすることを可能にする。
内部の安定が保障される中で、ギリシア的合理性は、中世においてアラブ圏で育まれ、ルネサンス
によって西欧に回帰する。中世のカトリック的閉塞からのプロテスタントによる自律、またルネサンス
の数量化革命、それにともなう大航海時代の自然開拓と重商主義によって、自然としての新大陸
(現住民含む)は征服され、そして科学的未発見として「グレーゾーン」の開拓に人々は熱狂する。
ここでは、「自然と人間とは独立な第三者としてこれを客観化し、外からのさまざまな操作が加え、分
析利用する。自然を道具視する支配的理性の発露である。」そしてデカルトの心身二元論は内部の
「心」と外部(自然、機械)の「身体」として、内外の境界を、人間内部に侵入させる。
そしてこの心身二元論の重要性を決定的にしたのが産業革命による資本主義化である。身体を労
働力とし、心を消費者とする心身二元論的人間の発生によって、資本主義は成功したのだ。
近代においても戦争は活発に行われる。大航海時代は新大陸の征服という、かつてと同様に外部
(異教徒、異民族、奴隷)を生み出すための「快楽の戦争」であったが、帝国主義化、資本主義化に
より世界はグローバル化し、国家間の配分競争という「大きな内部」内の闘争となった。すなわち世
界大戦の悲惨さは、科学兵器により大量殺人が行われただけでなく、もはや外部を見いだせない
「人間」同士の善悪を持ち込んだ内部内の残忍で、無残な殺し合い出しかなくなったということだ。
473 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 16:14:17
共産主義の失敗と後期資本主義の閉塞
近代の啓蒙主義革命の革新性は、絶対主義→資本主義→マルクス主義など社会主義化である。そ
して世界対戦後、共産主義国家が多数成立した。しかしこれらは失敗におわった。なぜ資本主義は
成功し、その「先」の社会主義は失敗したのか。
ボクは社会主義には「外部」がないからだと思う。社会主義が提供しえた「外部」は冷戦における戦
うべき資本主義という神話のみである。なぜなら社会主義とは人々の「外部」への熱狂(自然主義的
闘争)を資本主義的悪として、外部を解消することを目指す思想だからだ。
資本主義は産業革命当初、労働者の「身体」を機械として組み込み、「心(人間性)」を疎外した。し
かしその後、生産中心から消費中心へ移る中で、このような搾取は緩和されてくる。なぜなら資本主
義の本質はマルクスがいうように資本家のために資本を生むことよりも、消費者のために疑似的な
外部(自然)、すなわち未知の新しい製品を提供しつづけることにあるからだ。これに対して、共産主
義はこのような資本主義の疑似的な外部(自然)の消費を排除した。
だからといって資本主義が問題を解決したわけでもなんでもない。資本主義における搾取の問題は
グローバル化しただけである。先進国の人々から隔離された発展途上国など周辺で自然は資源
(人的も含めて)として略奪されている。
また先進国では情報化社会に向かう中で、消費という疑似自然へ欲望の徒労感が生まれている。
また豊かになり、価値多様化する中で、自然の不確実性は低下し、人々は「自由」になることで、地
域コミュニティが崩壊している。このような自由の中で、人々はより純粋な外部(未知、無垢)、すな
わち「不自由」を求めるというパラドクスの中で閉塞している。
474 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 16:14:57
C自然管理の時代 自然を管理する暴力、ネット(疑似自然)を開拓する暴力
>>
科学革命(第3段階:情報革命、環境革命)
科学革命
第3段階:情報革命、20世紀後半
環境革命・・・地球環境問題(京都議定書)、グローバリゼーション
<<
このような状況の現代で重要なのが、ネット革命ではないだろうか。ネットは新大陸に語られるよう
に新たな技術導入が疑似自然(外部)開拓のメタファーになり、人々の欲望を想起している。
またネットは当初グローバルビレッジなどサヨ的幻想で語られたが、爆発的な普及を支えたのは、原
始社会に回帰したような部族的な小さなコミュニティへの閉塞性である。そこでは、疑似的ではある
が、消費社会で失われた直接的な他者との繋がりの取り戻しが行われている。
最近のネットのウヨ化など、コミにティへの閉塞性をあらわすは、「自然排除の時代」の外部(異教
徒、異民族、奴隷)を生み出すための「快楽の戦争」への回帰である。たとえば嫌韓ではネット上で
韓国人は負の神話化され、外部に排他し、ヘイトスピーチの暴力が行使される。
475 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 16:15:53
環境の閉塞とネットの熱狂
ネットへの熱狂は、消費社会の主役であり新たな商品を提供しつづけ、それを補助するマスメディア
への反動でもある。「自然征服型」から移行であり、環境問題へもつながる。
環境問題とは「地球にやさいく」というような安易な環境との調和などではなく、「グレイゾーン」の管
理する、再征服しなおすことである。このような問題は世界レベルでの解決が求められ、世界が保
守主義に傾くのは仕方がないだろうし、現に京都会議のように世界的なレベルが要求され、オゾン
層対策では成功を収めた。
しかし環境問題、先進国の高齢化などの閉塞により、近代以降の科学技術も自然開拓、征服から
管理へむかい、快楽を生む行為でなくなっている。たとえば遺伝子工学も未知(外部)を開拓すらも
のから人間にむかう現代、内部に近接し善悪を問われつつ、快楽することが抑圧されている。すな
わち「自然管理の時代」とは、外部(自然)閉塞の時代でもあるのだ。
だからなおさらネットは重要になるだろう。ネット上は、「快楽の戦争」へと回帰し、多くの騒乱、抗
争、戦争がおこるだろう。しかしそれは環境管理社会維持にはしかたがなく、テロよりも良いだろうと
いうことである。だから今後人々の生活、文化、そして「リアリティ」はネット上移行する。まさにネット
に「本当の自分」があり、ネット上に生きるのである。
ではその閉塞の先は?自然そのものはこの世界そのものであり無限である。火星移住など宇宙
へ?あるいは時間を超越するタイムトラベル?あるいはヴァーチャルリアリティによりネットは物理
的になり移住する?ネット上の精神世界を生きる?
『純正快楽批判論・第三部。』
第一幕・《原理的な快楽と損失による利益への賠償とその失った利益との等価と価値。》
我々がこの日常に於いて、《道徳》此れ程までに
語られて来る事など専門的な立場や教育者でない限りは、真昼を覗く限りでは、
その精神自体の一つの小さな《理性》と差し支えない。
2・道徳の起源、道徳の彼岸。
《傷口を晒け出し、更に伴の仲間と協力して痛みを認識し弱さを克服する所。》
およそこの基本概念の出発が人類道徳の産声を上げた
それは調度こう告げた!!。
《イエスは彼等のユダヤ人に言った!!立法それは、奴隷の為のものであった!!神の子であるがごどく、神の子と神を愛せ!!
道徳それが我々に何の関係が在ろう!!》
3・支配道徳と奴隷道徳。
およそ、フュリュードリッヒ、彼の著書を隈無く開いた事が在るならば、理解は容易で在ろう。
取り分け、興味をそそられたのは、あの不倶戴天の
戦い即ちローマ対ユダヤ・ユダヤ対ローマと記載されている、言わば民族と民族との骨肉の争いなのである。
ユダヤ民族がその内部から浮き出た道徳の系譜は
《奴隷》つまりは服従の
為の道徳であり、
その逆が当時のローマ帝国であり、彼等が重んじるのは《支配》道徳であった。
その記述に関する記憶を
紐解くとフュリュードリッヒはこの様に洞察していたらしい。
あの戦いで勝利を治めたのは以外にも真《賤民》で有った!!
477 :
よしお:2006/08/23(水) 20:31:01
娯楽としての超人
私の世代(1976年生まれ)の人間は少年ジャンプから絶大な影響を受けている。
その影響は好きだったなどというレベルを超えている。ある意味価値観のすべてが少年ジャンプ的
といっても過言ではない。
少年ジャンプから多大な影響を受けた人間に特徴的な性格といえば、まず友情と努力を素直に信じるということである。
友情とは友愛とは違う。友情とは俺の友達にはこんなすげえやつがいるというようなポジディブな仲間意識である。
友達とは自分が持っていないものを無償で貸してくれる存在であり、困ったときには助けてくれる存在である。その関係にマイナスの
負債感情は存在しない。あるのは自分ひとりではなしえないことでも友達がいれば可能であるというような人間に対するポジティブな信頼である。
思い出してみても少年ジャンプの名作は友情と努力を過剰に強調してきた。キン肉マンもケンシロウも悟空も異常に努力する強い超人だが、とにかく仲間が多い。
われわれの世代はあの状態を素の状態と受け取る傾向が強い。いうならば超人と生の欲動をなんの疑問もなしに内面化している世代であるといえる。
中田英寿の純朴さとポジティブさはわれわれからすれば何の違和感もない。むしろ野茂のようなタイプの人間のほうが
よっぽど不可解である。イチローも物凄く共感できるキャラクターである。
世代論というものがどれほど有効であるかはわからないが、76年前後生まれの特徴を言えばそのようになるだろう。
当時フュリュードリッヒはその事実は大変な驚きと、憶測が確信へと連れ立つ音がが聞こえたらしい。
高貴が奴隷に敗北した。
是だけは事の概要と焦点が定まらないであろう!!
フュリュードリッヒの記述に寄れば当時のローマ帝国の民族はヨーロッパに置いては最高に優れた民族だったらしく。
それはまさしく暴虐と野蛮の上に花開く、胡蝶欄の花の様に優雅にそして豊に咲き誇っていた。
現代までに貴族の名を
名乗のる事を許されるのは、
戦いに参加し勝利した者だけで或る。
奴隷道徳とは如何に仕える事が道徳的な生き方であると言い成長し。
貴族道徳とは如何に支配が道徳な事に成り得るか?と
言うところをそれぞれの
起源を主流に膨れ上がって行った。
まぁ現代的に例えると、
ハゲでネチッコイ馬鹿部長VS万年イエス・マンそう私のナマエはイエス・平社員!!と余計に解釈の余地が収集出来ない事態だと思われた。
平が勝利したのである。
内容までは補握は出来てないがって言うか別にイラネ!!
まぁ後に晴れて役職貴族の仲間入りかと思われたが、ユダヤの民はそれに“否”を突き付けた!!
479 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 20:36:26
以上で私の自己紹介を終わります。
その時のフュリュードリッヒとの貴重な会話を再現した限りが以下の文だ。(自己的翻訳)。
『いやーアイツらやべぇは!!マジ、喧嘩やらせたらヨーロッパ制覇しちゃうよ!!』
『チーム・ユダヤ・マジアブねぇそれでも周りにちょっかい出さないからマブいよな!!やっぱ!!ユダヤかっけーな。
取り敢えず本書くとき教祖の名前ぱーくろっと!!。』
それはもうベタぼめで有った。
4・《グート・ベート=グート・シュレヒト・虚無から実在へ。》
いよいよ持って核心に触れたい『純正快楽論』としての批判の中枢をどうか見比べて貰いたい!!
純正快楽論では自然を略奪する事が快楽を生む、と主張するが私には直ぐに首を縦に振ることは、恐らくこの先も無いだろう。
我々の内には暗証とも言える隠された契約が、
多数、内在又は同時に
有効に機能していることをまずは、良く疑って貰いたい。
快楽を我々が楽しむのは、多くは『善悪の彼岸』であると宣言しよう。
では、どのように彼岸に渡り又、暗証じみた理論を、駆使して我々がいかにして快楽を良く貪って居る事か!!
その倫理は以下の様なものに他ならない。
5・『等価の道徳・損失と賠償残るは保障。』
我々に他者により、快楽的な感覚を有する事に値すると言う事を認められるのは
損失と賠償であり、どの様にして判断が与えられると言うのかと聞かれると、
この様な返答が大体、同じケースには含まれて居ると確信してまず間違い無い。
あなたが与えた利益への損失により、私の所有物の一切の権利を賠償して欲しい。
だが、それと全く遜色の無い物や金銭的な不具合に
より、困難である事は重々承知ですから、
その利益の損失を賠償するものと等価と思われる程、苦しんで下さい。
賠償と返済の権利を債務者に与えた上で加害者の利益の損失と等価と思われる
程の苦しみを与える事を認められ罰せられる加害者の上に悪を解き放たれ。
苦しむ姿をみては優越感に襲われ。
快楽を損失分の等価と見なされる程まで与えられる
一切の権利を認められる
規約を等価を計り罰を与えると言う時には既に認めなくてはならない。
是が等価と賠償に置ける
倫理論。
つまり道徳であるとは何とも主軸のずれた話な事か。
債務者の損失分と等価程の苦しみを味わらせ、
更にその姿の苦しそうな
場面を潜り抜け
快楽を得るのである。
『賠償の保障と等価と等しい程、苦しませる権利と
等価の快楽は約束される。所謂、賠償に置ける等価と価値に置ける道徳である。』
6・《加害者と被害者に置ける債務者として加害者へ賠償しうる損失と“等価”を保障する賠償の倫理。》
規定・1原則の起源としてまず第一に利害に対する
損失の賠償と同じだけの価値の苦痛を与える権利を持つ事を認めその保障を約束する事。
是が最も古い“等価”を賠償についての原理的な倫理である。
2
先に記した『等価』に置け極めて狡猾の内に、根付き等価に置ける『復讐』の
見事な“化粧”はよもや、偽称や欺きの念すら、すでによりしめやかにその倫理からなる、
道徳の偽善へ忘却の内に
治められ。
すでにこの時代には健却のあの清々しさまで残す程、健康に発展したのである。
おお!!だが、此処にこそ人類がその頭脳の大半を、流し込み真、熱心な研究の如く、我々が取り込んだ。
この全く持って我々に苦痛を与える、この一つの
“病”(この病こそ!あのソクラテスでさえその病の最後に復讐の念を持って
自決した事実を諸君は悩めるであろうか?)
又あの潔さとその決意の傍らにはすでに、あの復讐の頭脳はゆっくりと仮面を
被り。
憎しみと苦しみの算定を
為しより、少量の健やかな快楽を残忍さをより含み、より強い苦痛を試みる事を密かに楽しむ!!
《我々は如何にしてより
良く彼らを苦しませれるか?!》
是こそ、あの残忍差の祝杯をより高く掲げ、その精神により強く刻んだ。
その苦痛と恕縛の烙印を 《因果と報復》への道徳やら立法の証人として・・・
即ち我々は如何にして
罪と罰を最もらしい装飾で
飾り立て偽装していたかを・・・・。そして、今日、今一度、その深渕を覗き込みたいと願う冒険者は居るであろうか!!
そして、どの様にしてこの“復讐”にの賠償を支払らせ、その利害と“等価”と思える程の“苦しみ”を与え。
その苦しむ姿を横目に捕らえ支配の優越感の中、その上に悠々と悪を広げたかを。
如何にして“快楽”を浴びる事へあらゆる手を偽装し又、それにどれだけの勤勉さを持って勤しんで来たのかを!!
そのほんの少しの恐れを
危惧した者なら、忽ちに
“あの彼岸の対岸”を、より遠くを眺めるが良い!!
其処で彼はこう言うはずなのだ!!
『小煩い神様なんか、まっぴら後免!!法律なら尚更まっぴら後免だ!!道徳などに服従して何が在るんだ?』と。
『自分の不道徳を恥じる事これはその終わりには自分の道徳心を恥じる第一歩で在る。』
フュリードリッヒ・ニーチェ。
6・《嗚呼!!ローマ・・・・何を救いませ!!》
宜しい諸君!!諸君らの認識の目が、ますます遠くを眺める事から。
より近い端から遥か彼方の端に保たれ架かるあの地平線までを広く長く
見渡す明るい目を、長い月日を惜しまずに洗練するがよい!!
諸君らはそれだけで、ますます知る事に成ろう!!
あの、強く高貴で有った、人類史でも稀に見る最も優れたローマの街を!!
又、其処に生きる民衆達のもはや幸福すら欲しない
健全で高貴な精神を!!
あの幸福と自信と確信に満ちた史上最も高貴なローマの貴族達を!!
その良く訓練された認識の目を良く凝らし見れば良い!!
さすれば直ぐに次の疑問は瞬く間に飛び散ろう!!
おお!!真、この街に
いったって言えば、
よもや“賤民”の類でさえその精神は貴族なのである。
つまりは高貴な奴隷なのである。
『あらゆる人類史に治められる貴族的な人種は全て、あの本能の衝動を克服した者達である・・・・。』
《即ち、荒々しい野蛮の固い土地の上に全ての高潔と高貴な花は初めて咲き誇るのだ!!》
7・《良いと悪い》《善と悪》高貴な花はその勇気に咲く“善悪の非難”。
高貴な人間はそれだけで、善悪の彼岸を渡る確立が、より、意志する者よりも可能性はより高い。
さぁどうか諸君、あなた方は、その岸を越え行く者か!?はたまた、道徳と秩序に繋がれ無能を示し。
実、それ自体を見渡し
自らの有能性だと思い込み。
すでに創造者としての失格を受け入れるつもりか?!
宜しい!!つまり、私が言いたい事は是とそっくり同じ事だ!!
『君は自由だ!!選びたまえ、つまり創りたまえ!!』ジャン・ポール・サルトル。
8・新しい“価値”を“創造”し産む者への評価。
それでは、此処でようやく核心を創り挙げたいと思う。
秩序や規則は絶対な支配のルールなのか?!
『善くて義しい人』は創造出来ない。
私は前にも是を教えた。
彼らは価値を与える事が、出来ない!!
この『善くて義しい人』に偽善者は直ぐに欺き。
引き込んでは自らの正当性の疑問を振り子に投げ付ける。
私は実にあなた方へ口を開き、こう尋ねる。
『規則やルールそして秩序は、何の為にあなたを必要とし支配している?』
486 :
よしお:2006/08/23(水) 20:59:35
生の欲動と死の欲動は対のものである。一般にエロスとタナトスといわれたりもする。また一般的な
エントロピーなどといわれている内面におけるエネルギーは負債感情とも言い換えられる。
死の欲動とは何なのか。俺からすればこれほど分かりやすい精神分析概念はない。
たとえば学校でいじめられている少年。彼はこの状態を心地よいと思うだろうか。まさかそんな
年齢で統合失調症になるとは考えにくい。では死にたいと思っているだろうか。まれにそのような弱い人間もいる。
だが大部分の人間は「このやろう、いつか覚えていろよ。絶対におまえを殺してやるからな」という感情を持つだろう。
生の欲動とはそのような感情に根ざす力と考えればいい。ではその少年が成人に達したときどのような内面を持つ人間となるだろうか。
おそらく力の弱いものや、女性には限りなくやさしいに違いない。だが正義に反し、己の利益のみを考える人間に対してはどうだろうか。
限りない殺意を抱いているに違いない。もはやそのような人間に対しては人間に対する寛容さは持ち合わせてはいないだろう。
そう彼はその人間に対してはホモサケルを行えるに違いない。残酷なまでに慈悲深い、超人とはそんな人間のことを言う。
どうなんだ、ぴか〜さん、ワグナーの「神々の黄昏」のように、あるいは
三島の「豊穣の海」のように退屈な「永劫回帰」つ〜か、長文書き込みの無限ループ
が続いてるけど?
これも、貴方がコピペループを始めた結果じゃないのか?どこで切断するのだ!
ニーチェを語るなら、やるべきだ
488 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 21:11:49
馬鹿ばかり・・・
489 :
ゆきと:2006/08/23(水) 21:15:39
いや、精神病といってくれ。ぴかぁさんの文章読んでると頭が変になる人間続出するでしょ。
子供には読ませたらだめだよ。
490 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 21:24:16
■熱狂の人類史
@自然崇拝の時代
A自然排除の時代
B自然征服の時代
共産主義の失敗と後期資本主義の閉塞
C自然管理の時代
環境の閉塞とネットの熱狂
>>469-475 参照
振り出しに戻るとw
492 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 21:52:41
>>489 誰も読んでないんだけど、おまえはもしかして読んじゃったの?
あたま大丈夫だった?
493 :
続・純正快楽批判論。:2006/08/23(水) 21:52:55
良く聞きなさい!!
破壊を試みる者達よ!!
あなた方が創造的で在る事が理解出来ないのではないか?!
おお!!私は又教えよう!否!繰り返し語り次ごう!!
破壊を試みる者よ!!
良く恐れずに聞きなさい!
あなた方が古い価値を打ち砕く時、あなた方は
真、その古い価値の石の
板を“良く捕らえ”
“良く認識”しなければ
何を破壊すると言うのだろう!!
その後で掲げなさい新しい石の板をあなた自身の手によって!!
何故あなたがその板を欲したかと言うと、その訳はこうだ。
人間が維持の必要上その事柄に初めて価値を投げ入れたのである――――だから彼はこう呼ばれるので在る。『評価する者』即ち人間と―――。
おお!!
規則やらルールとは護る
ものでも、まして破られる為に在るものでも全く持って
その本質には置かれず、我々の評価は常に平行で
有りそれが間違いで有った!!!
『ルールや規則とは何の為に身を掲げているか?』
『規則やルールを“克服”する為だ!!何故なら規制とは支配への“意志”この断片に他ならない!!』
494 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 22:00:54
ぴかぁの文章は暗号のようなもので、ある程度の知識と知能指数がないと
理解できないようになってるんだよ。だがら完全に理解できない程度の頭なら
おかしくなることもないが、中途半端に頭がいいとほんとに精神病になる文章だよ。
495 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 22:05:01
>>494 言ってる事が意味不明だ。さすがに、あたまがおかしくなっている人は違うと感じる。
う〜ん、香ばしい♪
おお、ぴか〜さん自演か?それともほめ殺しか?
497 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:02:32
■熱狂の人類史 自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。
@自然崇拝の時代
>>
人類革命〜農業革命
人類革命・・・人類が類人猿からヒトへ、約500万年前のアフリカ
農業革命・・・農耕の開始、西アジア(メソポタミア)、東南アジア、南中国(長江)、メソアメリカ(メキシ
コ)、西アフリカ(ニジェール)、1万年前から前5000年のあいだ
<<
「人類革命の時代」とは人類が類人猿からヒトへ進化した時代である。この時代、人は狩猟・採集・
漁によって自然の中に生きている。予測不可能で不確実な自然との近接はなにが起こるかわから
ないとても恐ろしいことだ。この対応としてトーテミズムのような自然崇拝がある。
崇拝とは擬人化である。自然を(超越的な)「他者」とすることで、そこにコミュニケーションを成立さ
る。コミュニケーションの成立とは、負債を分け合う贈与関係に引き込むことである。たとえば自然災
害は「自然」から人間への負債(貸し)である。だからそのお返しとして、自然のめぐみとして貸したも
のは返礼される。
498 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:03:28
呪術的祝祭は、自然の「他者」とのコミュニケーションの場であり、ポトラッチのような純粋贈与は自
然の「他者」へ最大の負債を追わせる行為(暴力)であり、熱狂である。
人間化するとはこのように自然との間に境界を引く行為である。これは名付けるという言語化にも繋
がるだろう。さらに「農耕革命」においても自然の中で生きることは変わらず、自然を、そして特に大
地を「他者」として「供物を捧げ、豊饒を祈願するアニミズム」によってコミュニケーションが行われる。
しかし農耕では、人間は自然の一部であるばかりでなく、自然を操作し改変するものとなり、人間と
自然の間には一定の距離、コントロール可能な自然の領域が生まれる。これをボクは、内部(人間)
と外部(自然)の間の「グレーゾーン」と呼ぶ。
499 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:04:01
A自然排除の時代
>>
農業革命〜精神革命
都市革命・・・都市の形成、食物の生産に直接従事しない都市民の誕生、メソポタミア、前3500年、
エジプト、前3000年、黄河、前1500年
精神革命
第1段階:高度な宗教や哲学の成立、前8世紀から前4世紀、旧約の預言、ギリシア哲学、六師、
ブッダの思想、諸子百家の思想
第2段階:中国仏教の成立、西欧のキリスト教化、イスラムの勃興、4世紀から7世紀
<<
「都市革命」によって、「大規模農耕を発達させ、非常に収穫率のよい農耕を作りあげていったことに
より「社会的余剰」が生まる。」すなわちコントロール可能な領域、「グレーゾーン」が広がり、自然の
不確実性は強固な「隔壁」によって外部へ隔離され、都市内部において予測可能性が向上し、生活
は安定する。
またこのような「隔壁」は人間内部を高度に成熟させるとともに閉塞を招く。強い贈与関係のなかで
「社会的余剰の分配」などをめぐり内部抗争が頻発する。「そこに高度な統治体制が出現して階層
が分化する。」
これは自然を外部へ隔絶することで、内部(人間)内に疑似的外部との境界が生まれたことを意味
する。疑似的外部とは、異民族、異教徒、あるいは奴隷であり、彼らは野蛮な動物(疑似自然)であ
り、怪物、悪魔などに負の神話化し、外部に排他し、暴力を行使する。
500 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:04:47
自然神崇拝から、神話は内部(人間)の抗争の物語、そしてたとえば神−王−司祭−平民−奴隷
(動物)のような「神話の体系が王権の支配を保障する」物語のための一神教が求められる。
宗教と戦争が切り離せないのは、都市化により人間が内部へ閉塞するなかで、内部を強化するた
めに宗教はうまれ、そして閉塞の出口として、異民族、異教徒あるいは奴隷などの「野蛮な動物」と
しての疑似自然が必要とされるためである。
またこの時期、労働から解放された上位層の中で、ギリシアの哲学者、ブッダ、孔子などのように、
隔絶して外部(自然)への「合理的統一的に思索し、その中における人間の位置を自覚しようとす
る」「精神革命」が起こる。これは、人間中心主義とともに合理化という近代へつづく、自然(未知)を
合理的に征服する闘争様式の芽生えである。
501 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:05:25
B自然征服の時代
>>
科学革命(第1段階:近代革命、第2段階:産業革命)
第1段階:近代科学・・・17世紀西欧、デカルト、世界史における「近代」の始まり
第2段階:産業革命・・・18世紀後半
<<
自然の脅威の排除を可能にした都市化が高度に進み、宗教的秩序をもとにした社会的な贈与関係
からの個人として自律という啓蒙主義が広がる。すなわち「精神革命」の広がりである。
内部の安定が保障される中で、ギリシア的合理性は、中世においてアラブ圏で育まれ、ルネサンス
によって西欧に回帰する。中世のカトリック的閉塞からのプロテスタントによる自律、またルネサンス
の数量化革命、それにともなう大航海時代の自然開拓と重商主義によって、自然としての新大陸
(現住民含む)そして科学的未発見は、「グレーゾーン」の開拓として人々は熱狂する。
ここでは、「自然と人間とは独立な第三者としてこれを客観化し、外からのさまざまな操作が加え、分
析利用する。自然を道具視する支配的理性の発露である。」そしてデカルトの心身二元論は内部の
「心」と外部(自然、機械)の「身体」として、内外の境界を、人間内部に侵入させる。
そしてこの心身二元論の重要性を決定的にしたのが産業革命による資本主義化である。身体を労
働力とし、心を消費者とする心身二元論的人間の発生によって、資本主義は成功したのだ。
近代においても戦争は活発に行われる。大航海時代は新大陸の征服という、かつてと同様に外部
(異教徒、異民族、奴隷)を生み出すための「快楽の戦争」であったが、帝国主義化、資本主義化に
より世界はグローバル化し、国家間の配分競争という「大きな内部」内の闘争となった。すなわち世
界大戦の悲惨さは、科学兵器により大量殺人が行われただけでなく、もはや外部を見いだせない
「人間」同士の善悪を持ち込んだ内部内の残忍で、無残な殺し合い出しかなくなったということだ。
502 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:06:09
共産主義の失敗と後期資本主義の閉塞
近代の啓蒙主義革命の革新性は、絶対主義→資本主義→マルクス主義など社会主義化である。そ
して世界大戦後、共産主義国家が多数成立した。しかしこれらは失敗におわった。
なぜ資本主義は成功し、その「先」の社会主義は失敗したのか。ボクは社会主義には「外部」がない
からだと思う。社会主義が提供しえた「外部」は冷戦における戦うべき資本主義という神話のみであ
る。なぜなら社会主義とは人々の「外部」への熱狂(自然主義的闘争)を資本主義的悪として、外部
を解消することを目指す思想だからだ。
資本主義は産業革命当初、労働者の「身体」を機械として組み込み、「心(人間性)」を疎外した。し
かしその後、生産中心から消費中心へ移る中で、このような搾取は緩和されてくる。なぜなら資本主
義の本質はマルクスがいうように資本家のために資本を生むことよりも、消費者のために疑似的な
外部(自然)、すなわち未知の新しい製品を提供しつづけることにあるからだ。これに対して、共産主
義はこのような資本主義の疑似的な外部(自然)の消費を排除した。
だからといって資本主義が問題を解決したわけでもなんでもない。資本主義における搾取の問題は
グローバル化しただけである。先進国の人々から隔離された発展途上国など周辺で自然は(人的も
含めて)資源として略奪されている。
また先進国では情報化社会に向かう中で、消費という疑似自然へ欲望の徒労感が生まれている。
また豊かになり、価値多様化する中で、自然の不確実性は低下し、人々は「自由」になることで、地
域コミュニティが崩壊している。このような自由の中で、人々はより純粋な外部(未知、無垢)、すな
わち「不自由」を求めるというパラドクスの中で閉塞している。
503 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:06:43
C自然管理の時代
>>
科学革命(第3段階:情報革命、環境革命)
科学革命 第3段階:情報革命、20世紀後半
環境革命・・・地球環境問題(京都議定書)、グローバリゼーション
<<
このような状況の現代で重要なのが、ネット革命ではないだろうか。ネットは新大陸に語られるよう
に新たな技術導入が疑似自然(外部)開拓のメタファーになり、人々の欲望を想起している。
またネットは当初グローバルビレッジなど左翼的幻想で語られたが、爆発的な普及を支えたのは、
原始社会に回帰したような部族的な小さなコミュニティへの閉塞性である。そこでは、疑似的ではあ
るが、消費社会で失われた直接的な他者との繋がりの取り戻しが行われている。
最近のネットの右翼化など、コミにティへの閉塞性をあらわすは、「自然排除の時代」の外部(異教
徒、異民族、奴隷)を生み出すための「快楽の戦争」への回帰である。たとえば嫌韓ではネット上で
韓国人は負の神話化され、外部に排他し、ヘイトスピーチの暴力が行使される。
504 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:08:31
環境問題の閉塞とネットの熱狂
ネットへの熱狂は、消費社会の主役であり新たな商品を提供しつづけ、それを補助するマスメディア
への反動でもある。「自然征服型」の過剰消費の熱狂から、資源消費に頼らない熱狂への移行であ
り、環境問題へもつながっている。
環境問題とは「地球にやさいく」というような安易な環境との調和などではなく、「グレイゾーン」の管
理する、再征服しなおすことである。このような問題は世界レベルでの解決が求められ、世界が保
守主義に傾くのは仕方がないだろうし、現に京都会議のように世界的なレベルが要求され、オゾン
層対策では成功を収めた。
環境問題、先進国の高齢化などの閉塞により、近代以降の科学技術も自然開拓、征服から管理へ
むかい、快楽を生む行為でなくなっている。たとえば遺伝子工学も未知(外部)を開拓すらものから
人間にむかう現代、内部に近接し善悪を問われつつ、快楽することが抑圧されている。すなわち「自
然管理の時代」とは、外部(自然)閉塞の時代でもあるのだ。
だからなおさらネットは重要になるだろう。ネット上は、「快楽の戦争」へと回帰し、多くの騒乱、抗
争、戦争がおこるだろう。しかしそれは環境管理社会維持にはしかたがなく、テロよりも良いだろうと
いうことである。だから今後人々の生活、文化、そして「リアリティ」はネット上移行する。まさにネット
に「本当の自分」があり、ネット上に生きるのである。
環境問題の世界的は保守主義化とネットの熱狂という自由主義の二重性が「自然管理の時代」の
あり方であり、現在のネオリベラル傾向はこのような二重性によって支えられ、この傾向はさらに進
むのではないだろうか。
ではその閉塞の時代の先は?自然そのものはこの世界そのものであり無限である。火星移住など
宇宙へ?あるいは時間を超越するタイムトラベル?あるいはヴァーチャルリアリティによりネットは
物理的になり移住する?ネット上の精神世界を生きる?
505 :
独我論@201:2006/08/23(水) 23:10:22
ぴかぁ〜 氏が20代の件において。
506 :
考える名無しさん:2006/08/23(水) 23:12:09
今いいところなんだから邪魔すんなよー
妥協しないね、永劫回帰ループを続けるとは
スタイル変えたほうがいいよ、もっと断章的に、その方が2ちゃん的だよ
508 :
『終・純正快楽批判論』:2006/08/23(水) 23:28:35
LAST
私はもはや、言わなければなるまい否!!告げなければ成るまい。『力への意志』此処にも、一つの彼岸が在ることを!!!
この記述は一つの危険で在り『善悪の彼岸』であり。だが決して《良い》と《悪い》の彼岸ではない事を 記しておこう。
こんな文面だったと、あの著書が刻んだ表象の上に、複写された言葉は今でも、意識すれば、中々どうして結構思い出せるものだ。
前にも記した事と記憶するが、この《無意識》と忘却の意識に書き込まれた。
我々、智理を獲得した動物である人間の一つの
“判断基準”の割合を
かなりの確立で締め。
その実行を有無の決断を 決定しているのは。
恐らく理性的な制御でも 無く、秩序による絶対的な統治でもなく、
道徳による習慣の作用などではまず無い事を言い切るし断言する!!。
短絡的に極めてシンプルに良いか?or悪いのか?
恐らく此処でフリュードリッヒ・・・彼は実在主義としての原理的発端に絡まってしまったのだろう。とは
勝手な憶測であり、
又それでも、かなりの高い確立で私の憶測は恐らく的中しているだろう。
つまり是も一つの《良い》と言う結果で在るとは
あまり言いずらい限りだが。。
509 :
『終・純正快楽批判論』:2006/08/23(水) 23:30:58
2・高貴と《良い》克服と征服。
まずこの《良い》と言う
概念感は何処から発生し、その本来、属する。
概念は《高貴》なと言う
意味合いの言語で。
この《良い》とは此処に歎を発したと言う事らしい。
更に厳密な詳細はニーチェ彼自身の著書・道徳の系譜第三論文『高貴』とは何か?を調べるが良い。
《良い》と言う発生起源は過去に幾度か試み、その成功の功利性の確立の高さ。
つまり《良い》と認識されたならば過去に成功している事の証明であり、つまりは支配を及ぼした証であると。
つまり《良い》と判断された行動の結果はその事柄、自体を支配する事を
その行為の目的に、
この《良い》と言う意志は結果としての反証を実在の証として。
その“感覚”そのものを握り締め意志へ記憶する。
(この良いと言う言語の概念が高貴の概念を出発点とし発達すると言う限り。)
つまりだ意志が対象を選び判断する場合その行動がまず《良い》事か選別し。
その意志はさも支配者の
如くその事物を扱う様に
振る舞うだろうし。
更に規則やルールの場合などにはまずその相対する、
範囲内で《良い》か《悪い》で判断し、次からはあまりその規則自体は気に掛けなくなるだろう。(恐らくその意志はこう言いながら!!『今現在の私にあの規則が何の功利を示すものか!!私には、まるで関係の無い事ではないか!!』)
510 :
『終・純正快楽批判論』:2006/08/23(水) 23:34:02
そしてその意志は次々と、あらゆる自己にとって
《悪い》とされる事柄に、あたかも戦士の如く襲い掛かるで在ろう!!
この“克服”しようとする意志は!!あらゆる戦いに赴き、あらゆる敵を捜し出し、あらゆる賭けに自らをこの意志は賭け戦うのだ、自らを克服する為に!!
真の戦士の魂をその意志に宿し!!
無頓着に嘲弄的に暴虐的に――かく智慧は我らを求める。智慧は女だ、智慧はただ戦士のみを愛する。
ツァラトゥストラはかく語りき。
3・これからも哲学者で在り、これからの哲学者達で在る為に・・・。
諸君、私は改めて問おう!あなた方がもはや哲学的で有ろうと試み一切の思想を持って意志するならば!!
もはや、真理だとか真実の為にだとは決して信じないでくれ!!とは、
あなた方の心境に心地良くは通り抜けない響きだとは思う所であるが、どうか私に誠実な限りの言葉であるとして、受けとめて貰いたい。
では何の為か?と尋ねる者程愚直さを投げ掛ける事を我々は決して
“間違い”であるだとか、
それ自体が無意味であるだとか否定すると言う事は
もはや、生として何の楽しみも味わえない、突き詰めると“生”自体そのものを否定する事、その他ならない!!
511 :
『終・純正快楽批判論』:2006/08/23(水) 23:35:33
真理や真実の為にではなくもはや我々は何の為の哲学に何らかの価値を見いだせると言うのか?!
この様に小煩く真理の為だとか何か特別なものの為だとかに固執する輩には十分な警戒を距離に取るが良い。
彼らも結局は道徳の奴隷でしか今だ意志出来ない!!
更に一度彼らの前で損失を生む失態を犯し曝したなら彼らは決して、あなたを許そうとはしないだろう!!
次の言葉を口々に呟きながら!!
「一切には価値が有りそれは自己に有る限り又、一切は保障され往く!!何故なら全ての価値は等価を持ち得る!!」
「私は与えねば成るまい、失われた価値と等価の代償を、是は復讐ではないルールであり秩序だ!!罰で有り、報いだ!!」
「そしてそれこそ私の意志なのだ!!一切は報われる!!私は苦しみを与えなければならない!!何故ならそれは私の苦しみだからだ!!」
諸君、この『善くて義しい者』には気を付けたまえ!
私の見た限りでは彼らが快く許しを与えるのは自らを演じてるその虚栄心の卑しさのみだからだ!!
何の為に?その問いには もはや私はこう言うまい
『私の意志を克服する為に・・・・』だと。
512 :
『終・純正快楽批判論』:2006/08/23(水) 23:37:38
4・力故の意志・反動の彼岸。強者は自由に弱者になれる。
『作用として現れた結果の背後関係には因果関係などは一切何もなく、その作用、その作用が一切の作用である。』
『気高き山々より――降下――。』
あなた方はまだ知らない、その意志が何者であろうと
あなた方は憶測が思考そのものに追い付かない、
その後にどんな綺麗な花が咲こうとも。
その無尽蔵な力をその身に輝かせる程に保つものは、それだけで幸福だろう。
何故ならその有り余る力を傾け黄金を振り巻き没落を望むだろうから・・・・。
純正快楽論?自然から奪う事が快楽を産んでいるのか?
否!!逆だ、その逆に真が在ろうと、疑う事すら意志出来ぬのか!!
513 :
『終・純正快楽批判論』:2006/08/23(水) 23:39:28
おお!!黄金の心臓を輝かせるこの大地よ!!
おお!!冷たい冬が吹きぶさむ真冷たきオリブの山々よ!!
おお!!私の喜びはこの生よ!!
おお!!私の真の喜びとはこの神羅の海を駆け上がる事!!
おお!!私の喜びとはあの最も豊なものに憧れ、この生を燃え上がらせる事
太陽が沈み往く時、この海は黄金をばらまき柔和な富を分け与える!!
嗚呼!!私も贈り与える者でありたい!!
嗚呼!!私も最も豊に没落を目指す者でありたい!!
私はあの沈む往く太陽の限り無い豊かさを眺め、
その没落する姿に、
私はもはや涙が止まるすべすら忘れ泣いた・・・・・・。
おお!!歌わせてくれ!!我が生よ!!
おお!!もはやどちらが
歌う事を教えたかは
私の知る限りの事では無い!!
ただ感謝するこの生に!!真、感謝するこの瞬間に!!
514 :
『終・純正快楽批判論』:2006/08/23(水) 23:42:17
私が快楽と呼べる喜びは、この大地と海と空との
懐の中で力の限りに
生を燃やす事であった!!
ニヴェラニストは泣きながらいつのまにか眠りに
落ちていた。
その彼の体を魂が優しく包み込み・・・ただ彼は眠っていた。
彼が感謝したのか?
それとも?魂が感謝をしたのかは解らない。
ただ彼は感謝を与えてた、ただ感謝を与えられていた。
『あなたは私に知らないと言った・・・。』
『私は知らない。だが私が意志する限り、私が知らないどんな事も私は“克服”出来ると言う事を』
『私は何よりも“知っている”』
それだけじゃ足りないかい?
『あなた方は私が“まだ”悩んでいる事を悩んだ事とはまだ知ることはでき無い。』
515 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/23(水) 23:53:42
■ナショナリズムはグローバリズムによって生まれるのだ。
差異の体系としてのナショナリズム
人がナショナリズムに目覚めるのは帝国主義の時代であり、資本主義化と関係する。すなわち資本
主義はその成長のためにグローバル化を要求し、他国という差異の体系において、国家が成立し
ナショナリズムが隆起するわけだ。これは明らかなシニフィアンとシニフィエの恣意性の転倒があ
る。すなわち事後的にシニフィエ=愛国心という意味が転倒されたにも関わらず、その昔から愛国
心のもとに人類が育って来たよう捏造するものである。
このような資本主義の隆起の延長性として、インターネットというグローバリズムが、再び、差異の体
系が隆起し、事後的にシニフィエ=愛国心という意味が転倒されている。グローバリズムこそがリー
ジョナリズム(ナショナリズム)の源泉である。
拡散する(グローバル化)するほどに、アイデンティティの獲得を欲望するという収束過程(バックラッ
シュ)は、一つの流れであることはいなめない。ただ何者でもなく発散することなど人には耐えられな
いのだ。
516 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 00:10:23
ネット上の「想像のナショナリズム」
インターネットという新たなグローバリズムが軋轢をうみ、差異を強化ことは否めだろう。人々が怖れ
るのは、かつての帝国主義の帰結としての全体主義化(自由の抑圧、人種差別)、そして凄惨な世
界大戦へのおそれである。
しかしかつての帝国主義とは資本主義増殖のための植民地獲得であった。インターネットはそのよ
うな限定された領地を持たない。ネットで起こるのは、言語圏に閉じた文化圏の差異であり、コミュニ
ケーションの断絶である。
ネット上のナショナリズムはどこかネタである。たとえば韓国人の悪口を書いても、それが韓国には
届かない、ここだけのノリであることが漠然とある。しかしそれはネタとしてのコンテクストから切り離
され、テクストのみが伝わっていくことで、ネタはマジへ転倒されていくのだ。
そしてマスコミがネット上のテクストをコンテクストから切り離し、ネット右翼化をいうことで、ネット上で
はネタがマジに転倒され回帰し、それにまたネットが乗っかり、膨らんでいくというバブリーなナショ
ナリズムである。
これがウソのナショナリズムということでなく、ナショナリズムとはこのようなものとしてのみあるという
ことだろう。「想像の共同体」というが、ナショナリズムとは「想像のナショナリズム」である。だから
ネットでよりナショナリズムが盛り上がるのは当然である。ネットとはとても想像的な世界だからであ
る。匿名で、テクストの交換で、コミュニケーション上多くの意味は欠落し、それを自ら補完すること
で、成り立つのである。独我論的世界なのである。
517 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 00:11:00
資本主義への熱狂
このようなネットは二層構造で考えることができる。一つはアイデンティティを求めてバックラッシュ
(収束)する想像的な世界、リージョナリズムである。もう一つは、グーグルのように人の手を介さず
に「機械的に処理する」ことで利便性とともに高度な管理を行い、拡散するグローバルリズムな世界
である。ネット上にナショナリズムは前者の収束過程に対応する。そしてこれはもうひとつの拡散過
程との関係を無視できないのである。
かつては、収束は帝国主義的ナショナリズムに、拡散は資本主義的植民地主義に表れていた。そし
てこれはルネサンス以降の資本主義の発展という下部構造を動力とした。たとえばドイツがナチズ
ム化するのは第一次世界大戦の敗北からであり、そして第一次大戦の敗北は、産業革命で遅れを
とった英国への焦りからである。
だからナショナリズムは拡散過程に送るバックラッシュとしての収束ととらえる必要があり、それのみ
を悪いことととることはできない。ルネッサンス移行の資本主義への移行に内在するものなのである。
資本主義の駆動はマルクス的には、交換関係の隙間に生まれる資本への人々の熱狂によるもので
ある。ただたまたま資本が生まれることに目覚め、単に豊かさを求めたのでなく、まさに資本に人々
は熱狂し、それによって生まれる過剰な消費に熱狂したのだ。だから「想像のナショナリズム」はこ
のような熱狂の一部としてあったのだ。
518 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 00:12:54
ネットへの熱狂
では、今のバックラッシュ(収束)としてのナショナリズムと、拡散のネットのグローバリズムにおけ
る、動力はなにだろうか。それが資本主義的な資本を求めた熱狂でなくことはわかるだろう。ネットに
おいて人々は多くにおいてタダで労働するのだから。
グーグルなどはネットで資本主義的な富を勝ち得ているが、それもネットの人々の欲動を補完する
限りである。かつて「資本への熱狂」が世界を開拓し、植民地化し、市場をグローバルにし、市民を
平等、自由への王政から共和政へ向かう革命を起こしたように、(だから社会主義化は行き過ぎ
だったのである)、グーグルは「ネットの熱狂」を補完するために、ネットを開拓し、巧みに資本主義を
導入し、人々に新たな自由を提供しているのである。「資本への熱狂」、「ネットへの熱狂」を駆動す
るものが、純粋略奪の快楽である。
519 :
考える名無しさん:2006/08/24(木) 00:28:27
歴史自体が一つの主体から構成されたお話に過ぎないことは
すでにレヴィ=ストロースがサルトルを歴史主義者として葬り
去ったときに明確になっています。
「歴史主義」は一つの進化論であり、それは漸進する前提に
基づいていますが、その漸進とは前提すなわち暗黙のうちに
進化論という一つのイデオロギーをうちに含んでいます。
「最後の審判」の視点から遡及的に歴史は語られる訳ですね。
この「最後の審判」、大文字の他者を想定してそこから遡及的に
構成されるものこそ歴史です。
その野蛮さについては、アドルノ/ホルクハイマーによって
「啓蒙の弁証法」(野蛮なヤツラは文明国である我々が矯正して
いいのだという暴力)と言う形で否定されていましたが、
レヴィ=ストロースに至っては、ある社会はそれ自体で閉じており、
ある文化と他の文化の優劣性は論じる意味がない、と宣言されました。
構造主義の後、歴史主義はもう存在しない。
だからぴかぁさんが「歴史」について語るとき、それは主体の
欲望する対象aとしての「歴史」であり、因果関係の物語であると
理解して良いのですね?
520 :
考える名無しさん:2006/08/24(木) 00:29:13
とかいいつつ、全然読めていないので遡って読んできますよ。。。
521 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 01:00:42
>>519 やっとまともなレスですね。
歴史還元主義については
>>448-450に少し書きました。
>「歴史主義」は一つの進化論であり、それは漸進する前提に
>基づいていますが、その漸進とは前提すなわち暗黙のうちに
>進化論という一つのイデオロギーをうちに含んでいます。
進化論でなく、進歩史観ですね。進化論そのものは歴史主義でなく、
進化論をどのように理解するか、多くにおいて進歩史観で理解することが、
歴史主義です。
>構造主義の後、歴史主義はもう存在しない。
>だからぴかぁさんが「歴史」について語るとき、それは主体の
>欲望する対象aとしての「歴史」であり、因果関係の物語であると
>理解して良いのですね?
構造主義というよりも、歴史主義批判を語るなら、ニーチェの系譜学ですね。
歴史がいかに語られたかを考えるわけです。
それでも、ラカン的にえば、「歴史」について語るとき、なにものも「歴史主義」から逃れられない。
だから「主体の欲望する対象aとしての「歴史」であり、因果関係の物語である」ことを
怖れるなかれ、というところでしょうか。
個人が脱構築することに強迫的になることはないのです。
なぜなら
>>519さんがいまやってきました。嫌がおうにも他者に開かれる。
それが情報化社会です。
522 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 01:15:06
>とかいいつつ、全然読めていないので遡って読んできますよ。。。
スレが荒れていますが、とりあえず、以下を読んでいただければ、だいたいがわかるかと・・・
内容も手頃です。
■熱狂の人類史
@自然崇拝の時代
A自然排除の時代
B自然征服の時代
共産主義の失敗と後期資本主義の閉塞
C自然管理の時代
環境の閉塞とネットの熱狂
>>497-504 参照
あるいは、
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/ 熱狂の人類史 自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。
[お勉強]文明と自然 伊東俊太郎(2002)
523 :
519:2006/08/24(木) 01:29:45
>>521 >> 歴史還元主義については
>>448-450に少し書きました。
基本的には、「弁証法的止揚」とは事後的に遡及して述べられる説明
であって、対立関係は形を変えただけ、ということでしょうか
(ちょっと難しかったです)
>> 進化論でなく、進歩史観ですね。進化論そのものは歴史主義でなく、
>> 進化論をどのように理解するか、多くにおいて進歩史観で理解することが、
>> 歴史主義です。
了解です。進化論ではなく「進化論的」であるということですね。
いずれにしろ、「父」なる大文字の他者を想定せざるをえない。
>> 構造主義というよりも、歴史主義批判を語るなら、ニーチェの系譜学ですね。
>> 歴史がいかに語られたかを考えるわけです。
歴史が「今・ここ・私」に向けて流れているという思考が歴史主義ですね。
そうではなく、その時代の人々の感じ方そのものに入り込んで歴史を理解するのが
系譜学ですね。
構造主義は、ある文明と他の文明の間の差異を総体的なものとして捉え、絶対的な
尺度を排した点でそれ以前の歴史主義への痛烈な批判であると理解しています。
524 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 01:30:22
さらにいえば、これは進歩史観ではありません。
各時代背景の中で、ヒトはいかに外部(自然)を見いだし、熱狂したか。ということです。
だからどこにも止揚しません。むしろ、進歩史観の脱構築、系譜学的でさえあります。
それでも、「歴史主義」から逃れることはできませんが。
525 :
519:2006/08/24(木) 01:30:46
つづき
>> それでも、ラカン的にえば、「歴史」について語るとき、なにものも「歴史主義」から逃れられない。
>> だから「主体の欲望する対象aとしての「歴史」であり、因果関係の物語である」ことを
>> 怖れるなかれ、というところでしょうか。
了解です。ではその限界とはどこにあり、その限界を踏まえることは可能なのでしょうか?
語られれば一人歩きするのがエクリチュールであり、全てのエクリチュールが「物語」としての
限界を理解した人々に届くわけではないからです。
>> 個人が脱構築することに強迫的になることはないのです。
この意味がよくわからなかったです。
>> なぜなら
>>519さんがいまやってきました。嫌がおうにも他者に開かれる。
>> それが情報化社会です。
日本に於いては、ですよね。
時々思うのは、日本における情報化社会を歴史的に読み解こうと言うとき、選ばれる歴史的区分が
かなり限定的であるということ、この限定的であることに十分意識的である人もまた、日本に於いて
語られる歴史に過ぎないことを忘れているのではないか、ということです。
たとえばアフリカで「子ども兵」が盛んに使われる地域に於いて「情報化社会」とは、どの地域に兵士と
して狩りやすい学校や集落があるか、それぞれの子どもがどういった情報を持っているか、という
ものになります。全く開かれているどころか、一方的な収奪の道具になっているのです。
「情報化社会」を系譜学的に語る取り組みはぴかぁ〜さんもされていますしこれまでも積極的に
なされていますが、かつてのオリエントのように、無意識的に排除されている要素があまりにも
多いのではないかという気がします。
その点についてはどのようにお考えでしょうか?
526 :
519:2006/08/24(木) 01:32:15
>>522 ありがとうございます。
>>524 >> それでも、「歴史主義」から逃れることはできませんが。
語る、ということが因果関係を構成することにならざるを得ないから、
ということですね。
527 :
考える名無しさん:2006/08/24(木) 01:36:29
このスレ機械的唯物論者のパクリでないのか?
528 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 01:39:26
>基本的には、「弁証法的止揚」とは事後的に遡及して述べられる説明
>であって、対立関係は形を変えただけ、ということでしょうか
>(ちょっと難しかったです)
西洋中心主義的歴史史観の脱構築ととしての、比較文明論(伊東)の脱構築としての
ボクの闘争論があるということです。
再度言えば、だから「歴史主義」から逃れているとは言いません。
脱構築って、終わりなき解体と構築でしょ。
>構造主義は、ある文明と他の文明の間の差異を総体的なものとして捉え、絶対的な
>尺度を排した点でそれ以前の歴史主義への痛烈な批判であると理解しています。
歴史主義批判として構造主義、あるいはレヴィ=ストロースがあまり適切でないと
ボクが思うのは、構造主義はポスト構造主義によって、同様な神話性を否定されたからです。
レヴィ=ストロースの近親相姦の構造も、その静的さを叩かれましたね。
529 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 01:40:37
>このスレ機械的唯物論者のパクリでないのか?
どのあたりが?
最近しばらく機械論スレに行っていませんが、最近歴史について語っているのですか?
530 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 01:50:23
>了解です。ではその限界とはどこにあり、その限界を踏まえることは可能なのでしょうか?
>語られれば一人歩きするのがエクリチュールであり、全てのエクリチュールが「物語」としての
>限界を理解した人々に届くわけではないからです。
書く人一人が、こう書くと形而上学的だから、こう脱構築しよう、いやそれでも形而上学的
だから、こう脱構築しようと、考え続けるのが、強迫神経症的であり、
デリダみたいに、「ボクはデリダであるが、デリダでない」みたいな意味不明な文章になります。
どこかで「形而上学的ですがなにか?」と開き直れば良いのです。心配しなくても
誰かがつっこみます。あるいは忘れられていきます。それが情報化社会というものであり、
それこそが本当の脱構築ではないでしょうか。
531 :
519:2006/08/24(木) 01:54:21
>>528 >>脱構築って、終わりなき解体と構築でしょ。
いわゆる「宙づり」という状態ですね。
>歴史主義批判として構造主義、あるいはレヴィ=ストロースがあまり適切でないと
>ボクが思うのは、構造主義はポスト構造主義によって、同様な神話性を否定されたからです。
>レヴィ=ストロースの近親相姦の構造も、その静的さを叩かれましたね。
ポスト構造主義者の構造主義批判は勉強不足なので、レヴィ=ストロースの論理を
批判されると応える力がありません……
しかし、現時点での現代思想の理論的到達が「ポスト」構造主義、つまり構造主義を
立脚点にしている以上は、令嗣主義批判としては妥当ではないかと思うのです、それ
以上の拡張した分野に応用可能かどうかはともかくとして。
532 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 01:58:04
>「情報化社会」を系譜学的に語る取り組みはぴかぁ〜さんもされていますしこれまでも積極的に
>なされていますが、かつてのオリエントのように、無意識的に排除されている要素があまりにも
>多いのではないかという気がします。
>その点についてはどのようにお考えでしょうか?
一部の人しか公的な言葉を持たない時代、さらには一部の人しか語ることが許されない時代も
あったのですね。
ボクは、かつて2ちゃんねるは脱構築装置だ。 と言いました。ネットウヨなど神話を生む面も
あっても。
「無意識的に排除されている要素」があると思えば、それについて大いにみな語りましょう。
それが、それこそがポストモダンであり、本当の脱構築ではないでしょうか。
>>530 なんかすげえ了解です!
「存在論的 郵便的」で東センセがバチン、と後期デリダを叩いて
いたスッキリさを感じます。
その、「手紙が宛先に届かないのではないか」と不安がる症候自体が
脱構築されるべき対象なのですね。
しかしながら、それもまた現在の日本のある一定以上の学力水準を
持った人々のインフラクチャを前提としており、手紙を解読できない
人々はこれから増えていき、手紙は呪術めいたものになっていく気が
します。
原因と結果の因果関係が、一つの構築物に過ぎず常に仮定に過ぎない
という相対主義的な立場をとるためのインフラクチャとして、「物語る力」が
やはり重要ではないかと思うのです。
お久しぶりです。
534 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 02:07:07
>>531 簡単にいえば、構造主義は無意識の言語の差異の体系ですね。
主観的に発言しているつもりでも、無意識に社会の言葉を発しているだけだ。
それに対して、ポスト構造主義は、そのような静的な構造態があるように
言う事への批判です。構造は動的に変化している。
まあ、明確な区分はないのですが。
535 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 02:12:05
>>533 お久しぶりです。
>しかしながら、それもまた現在の日本のある一定以上の学力水準を
>持った人々のインフラクチャを前提としており、手紙を解読できない
>人々はこれから増えていき、手紙は呪術めいたものになっていく気が
>します。
「動物化」に近い議論でしょうか。
ボクはあまり「動物化」は心配していないのですね。
人はやはり溜まらなく「物語る」ことが好きな動物だと思うのです。
だからこそ、みながネットに集まるのではないでしょうか。
しかし、人類史というだけあって射程が広いですねぇ……
基本的には、人間は欲望を外部に見いだし、それを征服しようとする
傾向を一貫して持ち、各時代は、その内部と外部、欲望の形式の変化
である、とまとめられるのでしょうか?
>501
>そしてデカルトの心身二元論は内部の
>「心」と外部(自然、機械)の「身体」として、内外の境界を、人間内部に侵入させる。
>そしてこの心身二元論の重要性を決定的にしたのが産業革命による資本主義化である。身体を労
>働力とし、心を消費者とする心身二元論的人間の発生によって、資本主義は成功したのだ。
この点は極めて重要です。心身二元論が、欲望の対象を外部に向け、内部にwhyと問うことを止め、
外部の改造をhowと問うことによって資本主義を発展させてきた。一度この「我」が発生してしまうと、
自己としては二重に引き裂かれ、社会的存在としても二重に引き裂かれながら、資本主義という
欲望の薪で回る機械から離れることが出来ない。
>>534 ありがとうございます。あまり差異の意味が感じられないけれど、今はこれで
十分ですね。
>>535 「動物化」については、「乖離化」というキーワードがセットになっていますね。
まぁ、この問題意識については現時点でのぴかぁ〜さんの論点とはずれてしまい
そうなので、置いておきます。この「語る力」は私はしばらく言い続けるつもりなので(笑
ただ、やはりかなり一部の変化を対象にしていることは間違いないように思えるんですよね……
538 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 02:26:45
>基本的には、人間は欲望を外部に見いだし、それを征服しようとする
>傾向を一貫して持ち、各時代は、その内部と外部、欲望の形式の変化
>である、とまとめられるのでしょうか?
さすが理解が早いですね。そしてその強迫性の源泉は、太古からの自然のもつ「無限の
不確実性」へのトラウマであるということです。
人類は約500万年前に生まれて、農業化するのでも1万年前ですから、
99%以上が野性サバイバル生活なのですね。
少しぐらい豊かになったからといってこの強迫性からは逃れられない。
539 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 02:35:05
「動物化」については東が多く語っていますし、最近ではポストモダンの心身二元論的解離構造に
ついても語っています。これは環境管理権力に繋がりますが、いろいろな人に語られています。
それもあり、逆に?ボクは、「人間」であり続けることに注目します。
>>538にも書いたように、「少しぐらい豊かになったからといってこの強迫性からは逃れられない。」
逆に、動物化させる環境は、より反動としての、強迫的な人間化が起こるということです。
これは先ほどに繋がります。
>どこかで「形而上学的ですがなにか?」と開き直れば良いのです。心配しなくても
>誰かがつっこみます。あるいは忘れられていきます。それが情報化社会というものであり、
>それこそが本当の脱構築ではないでしょうか。
動物化させる環境、情報化によってどのような言説も脱構築される情報化では、
むしろ、「形而上学的ですがなにか?」と開き直るぐらいがよい。ということです。
540 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 02:39:11
ひさしぶりなまともな質問の519の正体は、リーマンさんだってということですね。
そしてぴかぁ〜さんの述べられている自然史は、
結局のところ
>C自然管理の時代
つまり現代おける内部と外部、無垢との関係がどのように
変化していくか、その点を述べるために積み重ねられてきた
ものと考えて良いのでしょうか?
以前のエントリ
>なぜWeb2.0の本質はいかに抑圧するかなのか
では、
>このような自由度の抑圧が悪いと言うことでなく、創発力を活性化ために、
>いかに抑圧するかが、Web2.0という枠組み設計の本質ではないかということです。
と述べられています。
これ以前にウェブ進化論について述べられたエントリで、機械が全てを管理するという
欲望自体が「機械論の欲望」に過ぎず、人間の欲望を後追いするに過ぎないもので
あることが論証されています。
私自身はWeb2.0の本質は「機械論の欲望」をどれだけ徹底させるか、という点に
あると思います。(だから、人間によってその領域を阻まれ機械の手を介させようと
しないSNSなどは本質的な意味でWeb2.0では無いと考えています)
だからあらたな外部として、インフラの整った「ネット」が情報をこれまでにない速度で
やりとりし、その機械論的な成長は現時点では留まるところを知らないとしても、その
推進力は人間の欲望が根底にあり、その構造はこれまでの歴史と何ら変わらない、
ということになりますね。
>>540 すみません、様子見ましたヘタレなんで orz
最近のスレの流れに全然ついて行けていなかったので、
少し噛み合うかな、というところで鎌を掛けてみました(笑
>>538 この強迫性が概念的なものとして、日常的に再現される
ものではない環境にいる人間は、世界的に見れば少ないです。
第三世界では、現在でも自然および先進国の作り出した負の
遺産の解消のために、殺し合い、奪い合い、生き延びることが
全てであるという人生を送っている人はいくらでもいて、そういう
人たちは常に「外部」と闘っていることになります。
話が若干逸れますが、その点でも、子どもの頃から紛争を経験して
戦争以外の状況を知らない人間が社会を営むということは極めて
難しい現実があり、トラウマは現在でも再生産され続けていると
感じます。
このような直接的な外部からの攻撃および闘争とは別に、「迫害感」
「飢餓感」などといった感覚から行動を起こし、「征服感」「全能感」で
自身のアイデンティティを見いだすという、極めて程度の低い「人間的な」
行動は、十分に衣食住が足りている先進国では容易にみられることですね。
544 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 02:59:16
>>542 めずらしく的確な質問をする人がいるなと思いましたが、やはりそうでしたか。
今日は遅いので、あとは明日返答させていただきます。
>>544 こちらこそありがとうございました。
>C自然管理の時代
この部分がこれまでぴかぁ〜さんが様々な形で
分析されてきた部分であり、今後の核心であると
思うのですが、的確なレスがいまは思いつきません
でしたので、後日レスさせていただきます。
546 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 12:07:59
>>541 「創発力を活性化ために、いかに抑圧する」は盆栽のようだなとふと思いました。成長させるために
重要なことは、いかに余計な枝葉を切り取るか、ということです。それによって、「機械論の欲望」を
活性化するか、ということでしょうか。
>>543 「強迫性の源泉は、太古からの自然のもつ「無限の不確実性」へのトラウマである」といったのは、生
存するために生きるという動物的だったかもしれませんが、ボクは、第三世界だから人は生存する
ためにのみに生きるという、「マズローの欲求段階説」のような欲望が段階的に達成されるようには
考えていません。
彼らも人間である以上、どんなに貧しくても、生き残るためのみに生きるのでなく、たとえば遊びも楽
しみ生きる、欲望的に生きるのだと思います。外部が差し迫るとともに、自ら外部を見いだそうともす
るのです。
だから貧しいからボクたちよりも動物的というのは、先進国中心主義な形而上学的ではないでしょう
か。このような意味からも、「人間の欲望が根底にあり、その構造はこれまでの歴史と何ら変わらな
い」と考えたのです。
>>545 さすがわかっていただいていますね。過去を内挿することで、その延長線として未来へ外挿するとい
うことです。これはまさに歴史主義的であり、未来は過去からの外挿を裏切るのですが。「C自然管
理の時代」について語るのは、まだまだこれからだと思います。
547 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 13:20:20
>>525に戻ると、
>時々思うのは、日本における情報化社会を歴史的に読み解こうと言うとき、選ばれる歴史的区分が
>かなり限定的であるということ、この限定的であることに十分意識的である人もまた、日本に於いて
>語られる歴史に過ぎないことを忘れているのではないか、ということです。
>たとえばアフリカで「子ども兵」が盛んに使われる地域に於いて「情報化社会」とは、どの地域に兵士と
>して狩りやすい学校や集落があるか、それぞれの子どもがどういった情報を持っているか、という
>ものになります。全く開かれているどころか、一方的な収奪の道具になっているのです。
>「情報化社会」を系譜学的に語る取り組みはぴかぁ〜さんもされていますしこれまでも積極的に
>なされていますが、かつてのオリエントのように、無意識的に排除されている要素があまりにも
>多いのではないかという気がします。
>その点についてはどのようにお考えでしょうか?
これは、ポストコロニアルやスピヴァグの「サバルタン」の問題でしょうか。先に書いたように、
比較文明論はイスラム圏の歴史と比較するなど、西洋中心主義な歴史史観を脱構築する目的があります。
ただ脱構築するためには、理性的な言葉が必要になりますから、「サバルタン」(みずから語り得ない
従属的な諸階級・民衆)をいかに救うかという問題は残ります。またたとえばネット環境から排除された
人々はどうするのか、などですね。
548 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 13:31:29
言葉を持たないサバルタンは、哲学者いうようにただ従順な動物などではない。
人間であり、欲望する。だから言葉なく欲望する。たとえばテロリズムなどの暴力で。
ボクが動物化よりも、人間(欲望)が問題だ、というのは、このような意味です。
549 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 19:48:33
550 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 19:50:01
スレが荒れていますが、とりあえず、以下を読んでいただければ、だいたいがわかるかと・・・
内容も手頃です。
■熱狂の人類史
@自然崇拝の時代
A自然排除の時代
B自然征服の時代
共産主義の失敗と後期資本主義の閉塞
C自然管理の時代
環境の閉塞とネットの熱狂
>>497-504 参照
あるいは、
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/ 熱狂の人類史 自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。
[お勉強]文明と自然 伊東俊太郎(2002)
551 :
考える名無しさん:2006/08/24(木) 20:45:28
∧_∧ 以上で自己紹介を終わります!!
<,, ‘∀‘>
(.l )
TTTTTTTT|TTTTT
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
ぴか〜氏ってやっぱ宮台ー鈴木系の周辺人物だね、構造主義的的ーシステム論的社会学で
全てを、人類の歴史までを捉えようとする
構造ーシステム論者にとって「歴史」は存在しない、「時間の数直線上の差異」に還元される「事前/事後」とか
時間を数直線的ではなく立体的に見れば「内部/外部」とか(これこそ自然主義的闘争論の基礎認識)
ベルグソン以前だし、通俗的なカルテジアンでしかない
歴史主義者からすれば「歴史=記録=記憶」ってのはアクシデント=例外の集積であって
構造ーシステムでは捉えられないものなんだよ
サルトル以前つーか、「実存」と「構造」の「差異」って昔の話を思い出した
時代は全然変わってないね
全てを説明できる「理論」は疑わしい、それは何も説明してないのと同じ事
カントの批判哲学以前でしかない
構造ーシステムで「人類の歴史」を語るのは疑わしい、コピペざっと読んだ感想を書き込んでおく
553 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 22:19:29
>>552 めずらしく、まともなことを言っていますね。
しかし「構造主義的的ーシステム論的社会学」という的的がよくわかりませんが・・・
すでにリーマンさんと議論していますので、
>>549参照。
>>553 無理してレスしなくてもいいよ、ここは貴方のスレだからスル〜したってかまわない
俺は外部=アクシデントだからさ
アクシデントを愛する例外的社会学者に宮台が存在するけれども
彼の言う「アジア主義」とか「天皇」とかって「歴史」参照にしなければ解らないと思うよ
単なる「純粋略奪」による「熱狂」にすぎないのならオタクもファシズムも変わらなくなる
構造ーシステム論の陥穽って、ここにある
まあ、リーマンさんとの議論を続けてください、彼は「歴史」や「物語る意志」について興味あるみたいだから
555 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 22:36:48
>単なる「純粋略奪」による「熱狂」にすぎないのならオタクもファシズムも変わらなくなる
>構造ーシステム論の陥穽って、ここにある
今日はさえているじゃないですか。
ボクは、オタクもファシズムも変わらないと言っているのです。
ファシズムは悪魔(人間を超越したもの)ではなく、
まさにボクたちと同じ人間であるということです。
556 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 22:46:06
>歴史主義者からすれば「歴史=記録=記憶」ってのはアクシデント=例外の集積であって
>構造ーシステムでは捉えられないものなんだよ
リーマンさんとの議論でもいったように歴史主義的であることは否定できませんが、
「アクシデント=例外」と排除しているわけではなく、
人間は「アクシデント=例外」を内部へ回収する動物だ、と言っているわけです。
歴史の偶発性を還元しているのではなく、ボクが還元しているのは、
「人間は変わらない(いつも自然との闘争に熱狂する)」ということです。
そのように語るのは、多くの歴史が「熱狂」を排除しているように思うからです。
557 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 23:06:15
スレが荒れていますが、とりあえず、以下を読んでいただければ、だいたいがわかるかと・・・
内容も手頃です。
■熱狂の人類史
@自然崇拝の時代
A自然排除の時代
B自然征服の時代
共産主義の失敗と後期資本主義の閉塞
C自然管理の時代
環境の閉塞とネットの熱狂
>>497-504 参照
あるいは、
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/ 熱狂の人類史 自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。
参考 [お勉強]文明と自然 伊東俊太郎(2002)
[議論]「熱狂の人類史」と歴史主義と脱構築とサンバルタン
558 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 23:36:49
■人間にとって平等であることが必ずしも「自然」なことではない。
謙遜の意味
人は他者へ転移する。他者が私であり、私が他者となる。このような力学において、人はそこにある
差異を平準化しようとする力が働く。たとえばそれは自らが豊かであっても同じである。この転移関
係においては、負債感がともなう。人が社会生活で、謙遜するのはためである。
そこにある負債感を隠す行為であり、その差異が全面にでると、平等の力学が無意識に働いて
しまうことを抑制するためである。謙虚であることは、社会生活において、意味がある。
しかし歴史上、人が平等であることの方がめずらしい。平等であることが積極に語られたのはほん
の最近であるし、男尊女卑、階級制、現在も貧富の差など、実質的には不平等である。
559 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 23:41:45
「等価交換関係として平等」と「贈与関係の平等」
平等とはなにか。思想としての「平等」は最近のものである。近代の平等の本質は、基本的人権の
自由であるとともに、経済活動に参加する機会の平等という資本主義的平等の面が強い。資本主
義社会に平等に参加できることが、資本主義社会を促進する。
資本主義的な平等とは、負債を生まない「等価交換関係として平等」である。簡単にいえば、1万円
は誰にとっても1万円であるということだ。しかしボクが先にいった転移を元にした平等とは、負債感
の消失を目指すもの、「贈与関係の平等」である。
「贈与関係の平等」とは、単に貨幣価値にも、数量に還元されない。もっと主観的、質的なものであ
る。様々な他者との関係の中で、負債感の消失を目指す平等である。だから階級制は容認される。
主奴の関係があり、互いの関係の中で、それぞれが認め合い負債感を生まなければ、それは平等
なのである。すなわち「贈与関係の平等」は「公平」といった方がよいだろう。
560 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/24(木) 23:50:21
小さなコミュニティの公平、大きなコミュニティの平等
たとえば現代においても、なんらかの小さなコミュニティに参加した場合、ある種の順位付けができ
ることは自然なことである。そしてそこにあるのは「贈与関係の平等」であり、重要なのは平等ではな
く、公平であるということだ。
互酬(贈与と返礼)によって、負債感を循環する関係であり、負債感が溜まるようだと、このコミュニ
ティは公平でなく、破綻する。しかしコミュニティが大きくなりすぎると、負債感の循環が困難になる。
それは内部への帰属意識の低下を意味する。
たとえば小さな仲間内でのいざこざは話を良く聞き、なめらかな判断で仲裁することができるが、大
きなコミュニティの問題は、それぞれの話を聞いていけはきりがなく、杓子定規であっても、何らかの
取り決めをしておいて、それに従うしかない。公平は抑圧され、じょ制度的な階級制であり、制度的
な平等が必要になる。
561 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 00:26:46
これは、「小さなコミュニティ」ではロックが言うような自然状態の公平な秩序が可能であるが、
「大きなコミュニティ」においてはホッブスがいうように強制的な力が必要であるということである。
たとえば「小さなコミュニティ」の乱立は、コミュニティ間の闘争が生まれるだろう。
これはヒュームの「人間本性論」に対応している。
より人間にとって自然な状態とは「公平」であるということです。この主観的なものを
大きなコミュニティで実現するために、制度が必要とされるということです。
政治とは、公平を目指した制度作りです。主観的な公平と制度が達成しようとする公平は
必ずずれます。それは封建社会的階級制による公平であっても、資本主義社会的、
社会主義的な平等による公平であってもです。
ではヘーゲル的、フクヤマ的な「歴史の終わり」、すなわち資本主義によって公平への制度の
試行錯誤は終結するということは何を意味をするのでしょうか。
562 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 00:46:43
ロールズのリベラリズム「正義論」は「善に対する正義の優位性」に基づきますが、この善がボクが言う「公平」であり、
「正義」が「平等」に対応するでしょう。
ロールズの正義とは、「公正としての正義」です。「自由で平等な人々が完全に「自発的な意志」のもとで、
合意する取り決め」です。
「善に対する正義の優位性」をボクの考えで説明すると、人々は善(公平)を求める。しかしこれは
小さなコミュニティの主観的な価値であり、コミュニティ間で調整することはむずかしい。
よって、大きなコミュニティにおいては、より客観的な制度による正義(平等)を目指す。
しかし人々は善を求めるのであって、このズレは決して埋まらない故に、
終わりなく、正義(平等と自由)への「取り決め」を試行錯誤し続ける(「内省的均衡」)ということになります。
ボクの考えでは、制度が「公正としての正義」(自由と平等)であるのは、資本主義社会を
支えることを前提としてリベラリズムであるためであり、時代のイデオロギーを持つとうことになります。
すなわちヘーゲル的、フクヤマ的な「歴史の終わり」、すなわち資本主義によって公平への制度の
試行錯誤は終結するということには根拠がありません。
環境が変われば、当然、公平に近似する制度に変化が求められるでしょう。
563 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 00:57:36
すなわち重要なことは、公平(内部)と環境(外部)ということであり、バランスの中で「制度」は決定する。
たとえば現代、資本主義的リベラリズム、すなわち(平等と自由)が勝利したのは、環境(自然)を
征服し、人々に豊かさを提供することで、公平を満足させることに成功したからです。
しかしこれも一時的です。たとえば資本主義は産業革命からの短期において、環境破壊を起こしました。
このままでの維持は難しいとも言われています。また豊かさの公平は先進国などの一部の人々であり、
それに対する反動が起こっています。
だから今後も環境が変化することは否めません。そして環境が変化すれば、公平を満たす制度への
試行錯誤は終わらないでしょう。
564 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 02:48:58
■人間にとって平等であることが「自然」なことではない。
謙遜の意味
人は他者へ転移する。他者が私であり、私が他者を指向する。このような力学において、人はそこ
にある差異を平準化しようとする力が働く。たとえば自分だけが幸せになるとあまりそれを全面に出
すことははばかれる。この転移関係において、他者よりも幸せであることは負債感がともなう。
人が社会生活で謙遜するのは、転移の力学が無意識に働いてしまうことを抑制するためである。転
移の力学は他者に嫉妬を生み、また自らの中に後ろめたさを生み、幸せへの純粋は努力を無意識
に抑制する。このように謙虚であることは、社会生活において重要な意味がある。
「等価交換関係として平等」と「贈与関係の公平」
このような転移の力学による「平準化」は、「平等」とは異なる。平等とは、近代的な思想である。歴
史上、人が平等であったことの方がめずらしい。男尊女卑、階級制、現在も貧富の差など、実質的
には不平等である。
近代の平等の本質は、基本的人権の自由であるとともに、経済活動に参加する機会の平等という
資本主義的リベラリズムによる面が強い。資本主義社会に平等に参加できることが、資本主義社会
を促進する。
資本主義的な平等とは、負債を生まない「等価交換関係として平等」である。簡単にいえば、1万円
は誰にとっても1万円であるということだ。しかしボクが先にいった転移を元にした「平準化」とは、負
債感の消失を目指すものであり、「贈与関係の公平」である。
「贈与関係の公平」とは、単に貨幣価値にも、数量に還元されない。もっと主観的、質的なものであ
る。様々な他者との関係の中で、負債感の消失を目指す平等である。だからたとえば封建的な階級
制は平等でなくても、公平ではありえる。互いの関係の中で、それぞれが負債感を生まなければ、
それは公平なのである。
565 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 02:49:43
小さなコミュニティの公平、大きなコミュニティの平等
たとえば現代においても、なんらかの「小さなコミュニティ」に参加した場合、ある種の力関係(順位
付け)ができることは自然なことである。たとえば職人の師弟関係、仲間の尊敬の関係、恋人、家族
の愛情の関係などなど。これらは「贈与関係の公平」であり、そこに負債感がうまれなければ、それ
は一つの安定状態である。それでもこのような力関係に大きな負債感が溜まるようだと、公平の安
定状態は破綻する。
このような公平状態に、逆に「みな平等」だと強制するのは、逆に不安定な状態を生む。しかしコミュ
ニティが大きくなりすぎると、コミュニティへの帰属意識は低下し、力関係によって安定を保つことが
困難になる。
たとえば小さな仲間内でのいざこざは話を良く聞き、なめらかな判断で仲裁することができるが、大
きなコミュニティの問題は、それぞれの話を聞いていけはきりがなく、杓子定規であっても、何らかの
取り決めをしておいて、それに従うしかない。公平による安定状態が限界に達した時に安定状態を
生むために、「みな平等」だと強制する取り決めが必要になる。
566 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 02:50:23
「自然状態」とは公平を求める状態である
これは、「自然状態」の議論に繋げられるだろう。「小さなコミュニティ」ではロックが言うような自然状
態、公平な秩序が可能であるが、「小さなコミュニティ」の乱立は、コミュニティ間の闘争が生まれ、
「大きなコミュニティ」においてはホッブスがいうように強制的な力が必要であるということだ。これは
ヒュームの「人間本性論」に近い。
人間にとって「自然状態」とは「公平」を求める状態ということだ。そして公平とは主観的なものであ
り、大きなコミュニティの秩序を実現するために、国家などによる強制的な取り決めが必要とされる。
だから政治とは、公平を目指した制度作りである。主観的な公平と制度が達成しようとする公平に
は必ず差異がうまれる。
567 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 02:51:09
ロールズの「善に対する正義の優位性」
ロールズのリベラリズム「正義論」において、正義とは、「公正としての正義」、「自由で平等な人々が
完全に「自発的な意志」のもとで、合意する取り決め」である。だからロールズが「善に対する正義の
優位性」というとき、「善」がボクが言う主観的な「公平」であり、「正義」が取り決めによる「平等」に対
応するだろう。
ロールズの正義論の核心である「善に対する正義の優位性」をボクの考えで説明すると、人々は公
平(善)を求める。しかしこれは小さなコミュニティの主観的な価値であり、コミュニティ間で調整する
ことはむずかしい。よって、大きなコミュニティにおいては、より客観的な取り決めによる平等(正義)
を目指される。しかし人々は公平(善)を求めているので、取り決め(正義)との差異が生まれ続ける
故に、終わりなく、取り決め(正義)を試行錯誤(内省的均衡)し続ける、ということになるだろう。
しかし取り決めがロールズのいう「公正としての正義」すなわち自由と平等である必然性はない。す
なわち正義が封建社会的階級制、あるいは宗教的な原理主義的平等、社会主義的平等、修正的
資本主義的平等によって目指されてはならない前提はない。ロールズの正義がリベラリズムである
のは、あくまで現代の資本主義社会を支えることを前提としたイデオロギーであるからだ。
568 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 02:51:42
「歴史は終わらない」
だからヘーゲル、フクヤマ的な「歴史の終わり」、すなわち資本主義的リベラリズムによって公平へ
の試行錯誤の方法は終結するということには根拠がない。「環境」が変われば、当然、公平を目指
す方法論も変化が求めるだろう。
重要なことは、公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)は決定
する。たとえば現代、資本主義的リベラリズム、すなわち「平等と自由」が勝利したのは、環境(自
然)を征服し、人々に豊かさを提供することで、人々の公平を満足させることに成功したからだ。
しかしこれも一時的である。資本主義は産業革命からの短期において、環境問題をうみ、このまま
維持することは難しく、何らかの修正を求められるだろう。環境問題に対応するための「正義」(公平
を目指す取り決め)は、国際協調の必要があるが、社会主義的なものが求められるのではないだろ
うか。
また資本主義的な豊かさは先進国などの一部の人々であり、それに対する後進国からの不公平で
あるとの反動が起こっている。資本主義リベラリズムが生んだ不公平に対して、異なる「正義」(公平
を目指す取り決め)が求められるのは当然でもある。国家社会主義が破綻した今、宗教的な原理主
義による正義が台頭しているのである。
今後も環境が変化することは否めない。そして環境が変化しつづけることで、公平への「正義」の試
行錯誤は終わらないだろう。
569 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 02:55:03
スレが荒れていますが、とりあえず、以下を読んでいただければ、だいたいがわかるかと・・・
内容も手頃です。
■熱狂の人類史
@自然崇拝の時代、A自然排除の時代、B自然征服の時代、
共産主義の失敗と後期資本主義の閉塞、C自然管理の時代、環境の閉塞とネットの熱狂
>>497-504 参照
あるいは、
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/ 熱狂の人類史 自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。
参考 [お勉強]文明と自然 伊東俊太郎(2002)
[議論]「熱狂の人類史」と歴史主義と脱構築とサンバルタン
■ 人間にとって平等であることが「自然」なことではない。
>>564-568
570 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 04:58:45
たとえば北朝鮮の問題は、国民に公平感があるか、ということである。
まず2つめ目線で見る必要がある。
一つは、ボクたちのような資本主義社会からの目線である。これによると、
独裁的な北朝鮮は不公平は社会である。
二つ目は、北朝鮮国民の目線である。それでも彼らが金日成を崇拝し、
尊敬し、公平であると考えていれば、それは一つの安定状態である。
これは、ボクたち外部からはわからないところである。
ただもう一つ考えなければならないのは、ボクたちは北朝鮮にとっての
環境であるということだ。
北朝鮮ないの強力なイデオロギーによって、北朝鮮国民はそれが公平であるように
信じ込まされている、ということがある。階級制が当たり前であった時代は、日本にもあった。
そしてボクたちの豊かな生活を横目でみて、北朝鮮内部の公平感は変化するかもしれない。
すなわちこれらはイデオロギー闘争であり、ソ連崩壊もラジオからの資本主義社会の情報の
影響が大きかったと言われるように、資本主義は豊かさを武器に、世界中に拡散しやすい
特性を持つ。それが、世界を席巻しつつある、資本主義システムの強さである。
資本主義は必ずしも正しいわけではないが、「強い」ということだ。その強さの秘密が、
効率的に豊かさを達成することによって、人々を熱狂させるのだ。
そしてこの熱狂がグローバリズムとして世界へ伝染しつづけているのだ。
571 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 05:27:09
重要なことは、公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)は決定
する。ラカンの想像界、象徴界、現実界のボロメオの輪に対応させて、転移の力学による「公平」、
公平を目指す取り決めとしての「正義」、「環境」の相補的な関係を上げることができる。柄谷的に
いえば、「環境=公平(ネーション)=正義(国家)」ということでしょう。
現代、資本主義的リベラリズム、すなわち「平等」の「正義」が勝利しえたのは、「環境(自
然)」を征服し、人々に豊かさを提供することで、人々の「公平」を満足させることに成功したからだ。
そこには緩やかでも資本主義的グローバルなネーションが芽生えている。
そしてこの資本主義的「正義」の成功は、人類史の中で経てきた過程、精神革命、科学革命、産業革命
などなどの結果としてある。
北朝鮮の「正義」よりも、資本主義リベラルの「正義」が正しいということでなく、いまは「強い」ということだ。
産業革命前の資本主義的リベラリズムがまだ確立する前なら、北朝鮮的な「正義」は公平を満たすことが
できたかもしれないが、現在そこに上手く乗らないと、国が貧しくなり、不公平感を増してしまうのだ。
その意味で、資本主義的な「正義」が正しいということはないが、「強い」のである。
たとえばイラク戦争などアメリカの戦略である世界の資本主義化も同様な「強さ」に基づき、
かつ資本主義は拡大によって、潤うことができることにも繋がっている。
572 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 12:40:56
ネットの暴力が浮上している。
国家の権力、マスメディアの権力につづく、第三の権力の登場である。
いや、大衆は力を持ってきた。近代以降の数々の革命は大衆の登場、
大衆の権力の台頭であった。マスメディアの権力はそれを代表するために
発生したはずであったが、解離してしまった。
ネットの権力は大衆の権力の回帰である。
573 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 13:52:38
人間組織は、「環境×公平×正義」の上に成り立っている。
環境・・・外部圧
公平・・・善。人間関係に生まれる他者のようになりたいという主観的な転移の力学
正義・・・公平感を満たすための制度
外部からのある環境におかれた人々の公平感を満たすために、制度の正義が試行錯誤される。
これら三位はそれぞれに相補的に働き、バランスが取られるところに、内部の秩序が生まれる
しかし環境は絶えず変化し、公平感が完全に満たされることはないために、終わりなき調整である。
たとえば未開社会では、自然からの環境圧が強く働く。強いリーダーと家族的な関係によって、
人々は公平感をえるが、家族的組織であり、柔軟性を高いために、制度は曖昧である。
封建社会では自然からの環境圧が低下するが、多組織との闘争という外部圧が働く。
ここでも強いリーダーが求められるとともに、封建的な役割分担(階級制)によって、
公平感は保たれる。階級制によって公平感が保たれるのが、民主主義社会に生きるボクたちには
わかりにくいが、搾取の関係というよりも、社会的な分担であり、またヘーゲルの主奴の関係の
ように社会の一体感と公平感は保たれていた。
たとえばいまの企業でも組織発展のために象徴的で、有能なリーダーを人々が強く求めることは、
とても自然なことである。
資本主義社会では、自然の環境圧、多組織との闘争という外部圧は低下し、大きな内部として、
外部そのものが曖昧になる。この中で組織への帰属意識は低下し、公平感は個人そのものに
根ざすようになる。そして経済発展は個人の自由とともに向上することになり、民主主義的平等な
正義が目指される。
574 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 14:10:11
外部としての環境と内部(公平×正義)の関係は、純粋略奪(贈与)の関係になる。
そして内部内の公平と正義の関係が、マルクス的な交通様式である。
未開社会では近接する自然という外部を崇拝するという純粋略奪(贈与)に対して、
内部は互酬の正義によって、公平感は保たれる。
封建社会では自然を排除し、他組織という外部との闘争(純粋略奪)に対して、
再配分の正義によって、公平感は保たれる。
資本社会では自然を数量化によって純粋略奪に対して、
交換の正義によって、公平感は保たれる。
ここでいう外部(環境)と内部(公平×正義)の交通が「自然主義的闘争様式」である。
すなわち「自然」との関係が、内部の(経済的な)交通様式としての正義を決定する
下部構造であるということだ。
ただ三位はそれぞれに相補的に働き、バランスが取られる「ボロメオの輪」である。
575 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 14:39:42
@自然崇拝の時代
近接する自然という外部を崇拝するという純粋略奪(贈与)
互酬の正義によって、内部の公平感は保たれる。
A自然排除の時代
自然を排除し、他組織という外部との闘争(純粋略奪)
再配分の正義によって、内部の公平感は保たれる。
B自然征服の時代
自然を数量化によって開拓する純粋略奪
交換の正義によって、公平感は保たれる。
C自然管理の時代
自然を管理し、ネットという疑似自然の開拓する純粋略奪
ネット上の互酬という正義、
環境問題という再配分(環境税)という正義
資本主義的交換の正義によって
公平感は保たれる。
柄谷が言うように、正義は、互酬、再配分、交換などが並列する形で、
目指される。しかしこれからの「自然管理の時代」とはより並列性が
増すことになる。
もはや資本主義的正義のみでは、社会を保つことはできない。
これは煮詰まった状況でなく、より複雑なバランスを保つための正義の
あり方である。これをトライアングラリズムtrianglaismと呼ぶ。
576 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 14:41:12
>>
リバタリアニズムでは足りないとリベラリズムが主張され、リベラリズムでは足りないと
コミュニタリアニズムが主張される。でもコミュニタリアニズムで足りないとリベラルな
追加措置が提案され、一部リバタリアニズムが再評価される。こうした三者の円環が、
政治思想の煮詰まった今日的状況だ。
リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズムの円環 宮台真司
<<
577 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 14:55:45
■なぜ三重の思想(トライアングライズム)が必要なのか
自然主義的闘争様式×マルクス的交通様式
人間組織は、「環境×公平×正義」の上に成り立っている。
>>
環境・・・外部圧
公平・・・善。人間関係に生まれる他者のようになりたいという主観的な転移の力学
正義・・・公平感を満たすための制度
<<
外部からのある環境におかれた人々の公平感を満たすために、制度の正義が試行錯誤される。こ
れら三位はそれぞれに相補的に働き、バランスが取られるところに、内部の秩序が生まれる。しかし
環境は絶えず変化し、公平感が完全に満たされることはないために、終わりなき調整である。
外部としての環境と内部(公平×正義)の関係は、純粋略奪(贈与)の関係になる。そして内部内の
公平と正義の関係が、マルクス的な交通様式である。たとえば未開社会では近接する自然という外
部を崇拝するという純粋略奪(贈与)に対して、内部は互酬という交通様式の正義によって、公平感
は保たれる。封建社会では自然を排除し、他組織という外部との闘争(純粋略奪)に対して、再配分
という交通様式の正義によって、公平感は保たれる。
資本社会では自然を数量化によって純粋略奪に対して、交換という交通様式の正義によって、公平
感は保たれる。ここでいう外部(環境)と内部(公平×正義)の関係が「自然主義的闘争様式」であ
る。すなわち「自然」との関係が、内部の(経済的な)交通様式としての正義を決定する下部構造で
あるということだ。ただ三位はそれぞれに相補的に働き、バランスが取られる「ボロメオの輪」である。
578 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 14:56:28
トライアングライズム
@自然崇拝の時代
外部:近接する自然という外部を崇拝するという純粋略奪(贈与)
内部:互酬の正義によって、公平感は保たれる。
A自然排除の時代
外部:自然を排除し、他組織という外部との闘争(純粋略奪)
内部:再配分の正義によって、公平感は保たれる。
B自然征服の時代
外部:自然を数量化によって開拓する純粋略奪
内部:交換の正義によって、公平感は保たれる。
C自然管理の時代
外部:自然を管理し、ネットという疑似自然の開拓する純粋略奪。
内部:ネット上の互酬という正義、環境問題という再配分(環境税)という正義、資本主義的交換の
正義によって公平感は保たれる。
柄谷が言うように、正義は、互酬、再配分、交換などが並列する形で、目指される。しかしこれから
の「自然管理の時代」とはより並列性が増すことになる。もはや資本主義的正義のみでは、社会を
保つことはできない。これは煮詰まった状況でなく、より複雑なバランスを保つための正義のあり方
である。これをトライアングライズムtrianglaismと呼ぼう。
>>
リバタリアニズムでは足りないとリベラリズムが主張され、リベラリズムでは足りないとコミュニタリア
ニズムが主張される。でもコミュニタリアニズムで足りないとリベラルな追加措置が提案され、一部リ
バタリアニズムが再評価される。こうした三者の円環が、政治思想の煮詰まった今日的状況だ。
リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズムの円環 宮台真司
<<
579 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 15:11:45
リバタリアニズムとは、環境重視。自由な個人の交換を重視する。
リベラリズム・・・正義重視。自由な個人の交換ととともに保守的な再配分を整備する。
コミュニタリアニズム・・・公平感重視。共同体内の関係(互酬)を重視する。
580 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 15:22:59
しかしトライアングライズムは臨機応変であるとともに、八方美人、ご都合主義に成りかねない。
すなわちネオリベラル、ネオコンサバティブ的でもあるともいえる。
581 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 15:54:02
ネット上の互酬という正義・・・コミュニタリズム(共同体主義)
環境問題という再配分(環境税)という正義・・・リベラリズム(保守主義)
資本主義的交換の正義・・・リバタリアニズム(自由競争)
しかしトライアングライズムは臨機応変であるとともに、八方美人、ご都合主義に成りかねない。
すなわちネオリベラル、ネオコンサバティブ的でもあるともいえる。
たとえばアメリカのイラク戦争において正義はどのように理解されるのか。
アメリカの論理では、資本主義的リベラル(平等)の正義の布教であり、
(リベラル的な)世界の不自由、不平等が911のようなテロリズムを生み、
世界の平和を脅かす悪の枢軸であるから、世界の警察的な行為であるということだ。
すなわちイラクはイラクというイスラム圏としての正義があるという共同体の価値を
重視するのでなく、環境問題のように、世界が保守すべき問題であるということだ。
これがネオリベラルが自由と保守を都合良く使い分けていると言われる所以だろう。
これを同じように、都合のよい「正義」の使い分けが行われ可能性が、
トライアングライズムは避けられない。
582 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 16:45:53
宮台的分類
@自然的な自明性を生きる共同体
欧州、モダン 保守主義=再帰的伝統主義→伝統的公平重視
ポストモダン →公平の消失
A人為的な非自明性に合意する結社
米国 ルールによる踏み絵主義、トックビル主義(結社主義、連邦制)→平等の正義の重視
個人主義的なリバタリアニズムと親和的
「ルールを踏まえぬ者には断固たる措置を取れ」という主張を内政で展開すればネオリベラリズム
外交で展開すれば転向保守主義者としてのネオコン
B人為的な自明性を生きる共同体
「第三の道」→より公平に近似する正義の設計
イメージ的には共同体主義と結社主義の中間。コミュニタリアンリベラル
従来存在しなかった自明性をアーキテクチャの戦略的設計によってもたらす。
583 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 16:57:08
宮台的分類では、アメリカのイラク戦争の正当化は、
もはや伝統的な公平は消失した。だから公平感とは差異があることは仕方がなく、
平等の正義を断固と行使する必要がある。
イラクというイスラム圏としての正義は、世界平和のための抑圧されなければならない。
これに対して宮台の目指す、「第三の道」では、共同体、伝統に根ざした公平に近似する
平等の正義を設計しようというものになるだろう。
584 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 20:44:11
585 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 21:04:02
■なぜ三輪の思想(ボロメオイズム)が必要なのか
自然主義的闘争様式×マルクス的交通様式
人間組織は、「環境×公平×正義」の上に成り立っているといった。
>>
重要なことは、公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)は決定
する。ラカンの想像界、象徴界、現実界のボロメオの輪に対応させて、転移の力学による「公平」、
公平を目指す取り決めとしての「正義」、「環境」の相補的な関係を上げることができる。柄谷的にい
えば、「環境×公平(ネーション)×正義(国家)」ということでしょう。
環境・・・自然、外部圧
公平・・・善。人間関係に生まれる他者のようになりたいという主観的な転移の力学
正義・・・公平感を満たすための制度
<<
外部からのある環境におかれた人々の公平感を満たすために、制度の正義が試行錯誤される。こ
れら三位はそれぞれに相補的に働き、バランスが取られるところに、内部の秩序が生まれる。しかし
環境は絶えず変化し、公平感が完全に満たされることはないために、終わりなき調整である。
外部(環境)と内部(公平×正義)の関係は、純粋略奪(贈与)の関係、すなわち「自然主義的闘争様
式」である。そして内部内の公平と正義の関係が、マルクス的な交通様式である。
586 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 21:07:05
たとえば未開社会では近接する自然という外部を崇拝するという純粋略奪(贈与)に対して、内部は
互酬という交通様式の正義によって、公平感は保たれる。封建社会では自然を排除し、他組織とい
う外部との闘争(純粋略奪)に対して、再配分という交通様式の正義によって、公平感は保たれる。
資本社会では自然を数量化によって純粋略奪に対して、交換という交通様式の正義によって、公平
感は保たれる。
すなわち「自然」との関係が、内部の(経済的な)交通様式としての正義を決定する下部構造である
ということだ。ただ三位はそれぞれに相補的に働き、バランスが取られる「ボロメオの輪」である。
587 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 21:15:54
ボロメオイズム
>>
@自然崇拝の時代
闘争様式:近接する自然という外部を崇拝するという純粋略奪(贈与)
交通様式:互酬の正義によって、公平感は保たれる。
A自然排除の時代
闘争様式:自然を排除し、他組織という外部との闘争(純粋略奪)
交通様式:再配分の正義によって、公平感は保たれる。
B自然征服の時代
闘争様式:自然を数量化によって開拓する純粋略奪
交換様式:交換の正義によって、公平感は保たれる。
C自然管理の時代
闘争様式:自然を管理し、ネットという疑似自然の開拓する純粋略奪。
交換様式:ネット上の互酬という正義、環境問題という再配分(環境税)という正義、資本主義的交
換の正義によって公平感は保たれる。
参照:熱狂の人類史 自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060823 <<
柄谷が言うように、正義は、互酬、再配分、交換などが並列する形で、目指される。しかしこれから
の「自然管理の時代」とはより並列性が増すことになる。もはや資本主義的正義のみでは、社会を
保つことはできない。これは煮詰まった状況でなく、より複雑なバランスを保つための正義のあり方
である。これを「ボロメオイズム」と呼ぼう。
588 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 21:17:23
リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズム
>>
リバタリアニズムでは足りないとリベラリズムが主張され、リベラリズムでは足りないとコミュニタリア
ニズムが主張される。でもコミュニタリアニズムで足りないとリベラルな追加措置が提案され、一部リ
バタリアニズムが再評価される。こうした三者の円環が、政治思想の煮詰まった今日的状況だ。
リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズムの円環 宮台真司
ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=28 <<
リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムはそれぞれが多様性があり、明確な分類が困
難になっているが、概略すると、以下のような三位に対応するだろう。
>>
リバタリアニズム・・・環境重視。自由な個人の交換を重視する。
リベラリズム・・・正義重視。自由な個人の交換ととともに保守的な再配分を整備する。
コミュニタリアニズム・・・公平感重視。共同体内の関係(互酬)を重視する。
<<
589 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 21:21:08
ボロメオイズムの多面性
しかしボロメオイズムのような立場は、臨機応変であるとともに、八方美人、ご都合主義に成りかね
ない。たとえばアメリカのイラク戦争において正義はどのように理解されるのか。アメリカの論理で
は、資本主義的リベラル(平等)の正義の布教であり、(リベラル的な)世界の不自由、不平等が
911のようなテロリズムを生み、世界の平和を脅かす悪の枢軸であるから、世界の警察的な行為で
あるということだ。
すなわちイラクというイスラム圏としての正義があるという共同体の価値を重視するのでなく、環境
問題のように、世界が保守すべき問題であるということだ。これがネオリベラルが自由と保守を都合
良く使い分けていると言われる所以だろう。
これを同じように、都合のよい「正義」の使い分けが行われ可能性が、ボロメオイズムは避けられな
い。しかし逆には、もはや多様化した問題には、多面的に考えなければならないということだろう。
590 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 21:33:04
リバタリアニズム×コミュニタリアニズム×リベラリズム=ボロメオイズム
>>
リバタリアニズムでは足りないとリベラリズムが主張され、リベラリズムでは足りないとコミュニタリア
ニズムが主張される。でもコミュニタリアニズムで足りないとリベラルな追加措置が提案され、一部リ
バタリアニズムが再評価される。こうした三者の円環が、政治思想の煮詰まった今日的状況だ。
リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズムの円環 宮台真司
ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=28 <<
リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムはそれぞれが多様性があり、明確な分類が困
難になっているが、概略すると、以下のような三位に対応するだろう。
>>
リバタリアニズム・・・環境重視。自由な個人の交換を重視する。
リベラリズム・・・正義重視。自由な個人の交換ととともに保守的な再配分を整備する。
コミュニタリアニズム・・・公平感重視。共同体内の関係(互酬)を重視する。
<<
たとえば、これらかの社会では、資本主義の交換関係による市場では、リバタリアニズム(自由至上
主義)の正義が求められ、環境問題などの国際問題ではリベラリズムのように国際的統一機構によ
る徴収−再配分の正義が求められ、ネット上ではコミュニティリズムのような互酬(贈与と互酬)の正
義が求められるように。
591 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 21:35:27
592 :
独我論:2006/08/25(金) 21:50:52
おまいは哲学やる前に、ヘンテコリンな横文字を入れずに
正しい日本語だけで語れ。
すまんな、長文書き込み解読するのには時間がかかるのだよ
よく咀嚼し消化してから、ぼちぼち感想を書き込みたいと思う
では、その時まで
594 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 23:00:21
■なぜ「ボロメオリベラルズム」なのか 環境×公平×正義その3
自然主義的闘争様式×マルクス的交通様式
>>
重要なことは、公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)は決定
する。ラカンの想像界、象徴界、現実界のボロメオの輪に対応させて、転移の力学による「公平」、
公平を目指す取り決めとしての「正義」、「環境」の相補的な関係を上げることができる。柄谷的にい
えば、「環境×公平(ネーション)×正義(国家)」ということでしょう。
環境・・・自然、外部圧
公平・・・善。人間関係に生まれる他者のようになりたいという主観的な転移の力学
正義・・・公平感を満たすための制度
<<
人間組織は、「環境×公平×正義」の上に成り立っているといった。外部からのある環境におかれ
た人々の公平感を満たすために、制度の正義が試行錯誤される。これら三位はそれぞれに相補的
に働き、バランスが取られるところに、内部の秩序が生まれる。しかし環境は絶えず変化し、公平感
が完全に満たされることはないために、終わりなき調整である。
外部(環境)と内部(公平×正義)の関係は、純粋略奪(贈与)の関係、すなわち「自然主義的闘争様
式」である。そして内部内の公平と正義の関係が、マルクス的な交通様式である。環境との関係(自
然主義的闘争様式)が、内部の(経済的な)交通様式としての正義を決定する下部構造としてある。
595 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 23:01:20
三位の解離による正義の宙づり
たとえば未開社会では互酬が中心であったが、再配分であり、交換も同時に進行していた。柄谷を
これを「資本×ネーション×国家」(交換×互酬×再配分)というボロメオの輪として示した。
未開社会の内部とは小さなコミュニティであった。封建社会、資本主義社会へと内部は拡大し、精神
革命を経て精神内部へも広がっている。それにあわせて、外部(自然)との闘争様式は変化し、正義
を支える「資本×ネーション×国家」(交換×互酬×再配分)も、広がり、多様化している。
未開社会では、コミュニティによる互酬による正義が中心であり、それは公平そのものであった。コ
ミュニティが大きくなることで、互酬だけでなく、共同体(国家)による再配分による正義が並列する。
また資本主義によって社会がグローバル化することで、市場による交換の正義が並列する。
これからの「自然管理の時代」では、さらにこれらの三位は解離をもたらす傾向にあるだろう。市場
による交換の正義とともに、環境問題などのように国連などの世界統一機能レベルでの再配分によ
る正義が求められとともに、身近なコミュニティはネット上へ移行し人々が繋がりをもとめ殺到してい
る。ここではネットコミュニティによる互酬の正義が求められている。
これらの正義は、相補的であるとともに対立もしている。環境問題対応は市場の活性化を抑止する
傾向があり、またネット上の交換をともなわない互酬による正義は、著作権の問題などで市場の正
義と反発している。そしてボクたちは資本主義社会の豊かさを享受しながら、ネット上では罪の意識
なく、無断で複写するなどネット住人として生きる。そして環境問題を気にしたりしりするという、矛盾
した立場におかれている。
596 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 23:01:51
>>
@自然崇拝の時代 未開社会等
闘争様式:近接する自然という外部を崇拝するという純粋略奪(贈与)
交通様式:コミュニティによる互酬の正義によって、公平感は保たれる。
A自然排除の時代 封建社会等
闘争様式:自然を排除し、他組織という外部との闘争(純粋略奪)
交通様式:国家による再配分の正義によって、公平感は保たれる。
B自然征服の時代 資本主義社会等
闘争様式:自然を数量化によって開拓する純粋略奪
交換様式:市場による交換の正義によって、公平感は保たれる。
C自然管理の時代
闘争様式:自然を管理し、ネットという疑似自然の開拓する純粋略奪。
交換様式:ネット上の互酬という正義、環境問題という再配分(環境税)という正義、資本主義的交
換の正義によって公平感は保たれる。(三位の解離)
参照:熱狂の人類史 自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060823 <<
597 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 23:02:22
リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズムの円環
>>
リバタリアニズムでは足りないとリベラリズムが主張され、リベラリズムでは足りないとコミュニタリア
ニズムが主張される。でもコミュニタリアニズムで足りないとリベラルな追加措置が提案され、一部リ
バタリアニズムが再評価される。こうした三者の円環が、政治思想の煮詰まった今日的状況だ。
リバタリアニズム・リベラリズム・コミュニタリアニズムの円環 宮台真司
ttp://www.miyadai.com/index.php?itemid=28 <<
リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムはそれぞれが多様性があり、明確な分類が困
難になっているが、概略すると、以下のような三位に対応するだろう。
>>
リバタリアニズム・・・自由な個人の交換の正義を重視する。
リベラリズム・・・自由な個人の交換ととともに保守的な再配分の正義を重視する。
コミュニタリアニズム・・・共同体内の互酬の正義を重視する。
<<
598 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 23:03:24
ボロメオリベラリズム
このような三位の解離した正義に、ご都合主義に成りかねない。たとえばアメリカのイラク戦争にお
いて正義はどのように理解されるのか。アメリカの論理では、資本主義的リベラル(平等)の正義の
布教であり、(リベラル的な)世界の不自由、不平等が911のようなテロリズムを生み、世界の平和
を脅かす悪の枢軸であるから、世界の警察的な行為であるということだ。
すなわちイラクというイスラム圏としての正義があるという共同体の価値を重視するのでなく、環境
問題のように、世界が保守すべき問題であるということだ。これがネオリベラル、ネオコンサバティブ
が自由と保守を都合良く使い分けていると言われる所以だろう。
しかし逆には、もはや多様化した問題には、多面的に考えなければならないということだろう。これ
は「煮詰まった状況」でなく、より積極的に複雑なバランスを保つための正義のあり方を模索必要がある。
現代における正義では、自由な個人の交換の正義(リバタリアン)、保守的な再配分の正義(リベラ
ル)、共同体内の互酬の正義(コミュニタリズム)が相補的に働くことに再帰的(自覚的)であることを
「ボロメオリベラル」と呼ぼう。
599 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/25(金) 23:09:59
600 :
考える名無しさん:2006/08/26(土) 09:09:41
こういうのは三流大学のマニアックなゼミでやれよ笑笑笑笑笑笑
601 :
考える名無しさん:2006/08/26(土) 12:19:22
そんでぴかぁ先生はどこで教えてるんですか?
ぴかぁ〜が先生?
引き篭もりじゃなかったっけ?
603 :
考える名無しさん:2006/08/26(土) 13:50:47
申し訳ないのですが、初めから講義してもらえますか?
今度はもっと丁寧にお願いします。
604 :
考える名無しさん:2006/08/26(土) 14:06:23
>>598 正義は、金銭力に物を言わせるのが世の常ってことで、おk。
あとは屁理屈でなりたってる。完全無欠な正義なんぞないがな。
605 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/27(日) 01:59:48
ぴかぁ〜先生に力作を書いていただいたのですが、なかなか難しい内容なので、
(私も含めて)皆さんがよみこむまでの幕間としてちょっとぬるめの話を書いてみます。
「なぜ必死になって子猫殺しを否定するのか?」
日経に載った坂東眞砂子氏の「子猫殺し」に関するエッセイに大変な反響が来ているそうですね。
その大半が、「けしからん」という論調のようで、日経新聞に対しても批判の手紙やら電話やらが
随分と来ているようで。
私は「子猫を殺す」ことに嫌悪感を覚える人間ですが、まず、こんなことを一言言わなければ
ならないと話せないほどにこの問題が極めてイデオロギー的になっていることに興味を覚えます。
そして、坂東眞砂子氏のエッセイの内容の是非はともかく、何故この問題にこれだけ反応があり、
もっと言えばその多くが必死になって坂東眞砂子氏を糾弾したのでしょうか?
一応このスレでこの内容を振るってことは、結論は見えているんですが(笑 、要するにみんな
不安になったわけですね。何故坂東眞砂子氏が日経にこのようなエッセイを、「批判を受けるかも
知れないが」と前書きして書く必要があったのか、その理由がどこにも書いていないんですよ。
みんなが知りたいのはその点なのに、そこがぽっかりと空白になっている。その不安を打ち消す
ために、多くの人がその空白を埋めなければならない欲望に駆られたのだと思います。ある人は
「猫にも生きる権利がある」と憤り、ある人は「人非人!」と罵倒を投げかけ、その空白を埋めて、
欲望を満足させました。けれども、繰り返し問わざるを得ないのは、「何故こんなことを書いた
のか?」がどうしてもわからないから。
606 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/27(日) 02:00:18
ちょうど、「ユダヤ人」にヨーロッパ人が抱く感情と一緒ですね。ユダヤ教の神は不可侵の存在であり、
問うてはならない存在です。空白がそこにぽっかりと口を開けている。このような存在であるユダヤ教を
教えとして持つユダヤ人は、「何を欲しているのか」わからない存在であり、ヨーロッパ人はそこに
自身の欲望を投影します。なぜなら、現実の社会が統合不可能であり、空白しか無く、むしろその空白を
覆い隠すために様々な幻想で主体を形成しているヨーロッパ人にとって、ユダヤ教の「空白」は、
その幻想を打ち破り「現実界」を赤裸々に見せつけられる存在だからです。幻想を打ち砕く空白は排除
されなければならない。イデオロギーはむしろ、一定の社会集団を繋ぐ幻想として機能しており、主体の
中心そのものなのですね。そして皮肉なことに、ヨーロッパ人の描く幻想は、「ユダヤ人さえいなければ
社会統合は図られるのに」というユダヤ人の存在をその欠かせない要素としてはじめから持っているの
ですね。むしろ「排除すべきユダヤ人」が幻想の中心になっている。
供物として捧げられる象徴的な「ユダヤ人」を幻想として持つことでヨーロッパ人の社会統合は
図られているわけです。
今回のエッセイは、だから「こういう非人間さえいなければ社会はもっとよくなるのに!」という
社会統合への幻想を刺激したんだと思います。だから書けば書くほどさらに書きたくなる。不安と安堵の
間で、幻想を紡ぐ喜びを感じながら。
607 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/27(日) 02:02:00
ところで、坂東眞砂子氏なんでこんなこと書いたのでしょ?こうなるのは目に見えていたのに。
理由は多分無いのでしょうね。そして多分、この空白に多くの人々がおびえることをわかっていて
書いたのかも知れない。「エッセイの内容ではなく、『汝の主体を形成している空白を見よ』と」。
その意味では、確かにホラー作家ですね、坂東眞砂子氏は(笑
ホラーとは主体の空白を「空白」として赤裸々に描き出すことで読者を不安に陥れますから。
このエッセイは、そういう意味では一編のホラー小説なのかも知れない。
繰り返しますが、私は猫殺しは忌まわしい行為だと思いますし、エッセイを肯定も否定もして
いませんよ。そこら辺を誤解されないように(笑
なるほど…ふと思ったのですが、なぜこんなに哲学が叩かれるのかもその考え方で見ることができるんじゃないでしょうか。
ソクラテス裁判の件とか…
といってもそんなに深く考えて書いてる訳ではないので詳しく話せと言われたら困るんですが(汗)
あ、あと、こんなにも叩かれるのになぜ哲学をやる人が絶えないのかも
610 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 03:15:43
問題は社会の公平感はいかに保たれてきたのかということです。
コミュニティにおいて大きく公平感が失われたときに、コミュニティは破綻するからです。
そしてこの公平感を維持するシステムが「正義」です。
「正義」というコミュニティ内のシステムが公平感を維持するのです。
たとえば封建社会は階級制の社会ですが、今から考えるとなぜにこのような不公平な
社会システムが長期に渡って維持されてきたのかと、思ってしまいます。
権力者は以下に封建社会システムを維持したのか。
たとえば特権層が軍隊などの暴力によって、強制的に下層を抑圧してきたという
考えがありますが、実際そのような暴力が行使されたのは、奴隷などの最下層の
人々であり、ある意味彼らは社会の外におかれた人々です。
農民などの平民層は、自ら封建社会を受け入れて、すなわち彼らは公平感を
持っていたということです。
まずコミュニティへの帰属意識でしょう。生まれながら移動することがない彼らは、
強いコミュニティへの助け合いの場の中で生きていた。これは封建社会だけでなく、
未開社会から続く、贈与の力学、贈与による正義システムです。
611 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 03:18:36
封建社会の特徴は、税の徴収です。そしてその見返るとして、特権階級に
公共整備であり、秩序維持の運営を任せます。
さらに大きなものが頻発するコミュニティ間の戦争です。
内部の公平感を維持するシステムが「正義」であると言いましたが、
内部の状態に大きな影響を与えるが、環境(外部)です。
環境とは不確実に到来する外圧です。
たとえば自然です。農民にとってどのような自然環境が到来するからは
予測不可能な外圧です。
またあるコミュニティにとっては、別のコミュニティも環境です。
特に未開社会から都市化が進み、技術が進むと、自然環境は予測可能で、
計画的になります。そして自然から隔絶し安定した社会では、コミュニティ間の
戦争が問題になります。他のコミュニティへ干渉する余裕が出てくると
ともいえます。
そしてボクは、人は外部へ向かう快楽(純粋略奪の快楽)を望むものだと言いました。
大いなる外部としての自然から隔絶し、他のコミュニティという外部へ闘争は
向かうのが、人類史における、都市化から封建社会の時代です。
封建社会の農民達は、頻発する他コミュニティとの戦争の中で、
守ってもらうことで封建社会システムを受け入れた。
すなわち特権階級からの徴収と公共性の再配分という正義システムによって、
人々の公平感は保たれていたのです。
再度言えば、ここに社会秩序を維持する環境×公平×正義というボロメオの輪の
構造があります。
612 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 03:37:49
定式化すると以下のようになります。
>>
公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)は決定する。
ラカンの想像界、象徴界、現実界のボロメオの輪に対応させて、転移の力学による「公平」、
公平を目指す取り決めとしての「正義」、「環境」の相補的な関係を上げることができる。
「環境×公平(ネーション)×正義(国家)」ということでしょう。
環境・・・自然、外部圧
公平・・・善。人間関係に生まれる他者のようになりたいという主観的な転移の力学
正義・・・公平感を満たすための制度
<<
では資本主義社会では、どうでしょうか。
環境(外部)・・・新大陸、他国家との戦争
自然主義的闘争様式・・・数量化
より自然から隔絶され社会が安定した中で、個人の独立性が向上する。
たとえばルネサンスで非生産的な芸術家が台頭するのは、
社会がそのような余裕が出てきたことによる。
また科学の発達は自然(外部)の新たな効率的な略奪を可能にしました。
これとともに新たな正義概念として、啓蒙思想の正義、個人の
自由、平等が生まれます。
身近なコミュニティないの贈与、権力への再配分は継続されますが、
平等の正義は、交換とともに市場に繋がります。
交換が保障されるような自由と平等の正義システムによって公平感が
維持されます。
613 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 03:40:34
どのような外部環境にあり、それに対応したどのような正義システムによって、公平感は保たれているか。
614 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 04:20:20
>>606-607 この問題はあまり語りたいとは思わなかったのですが、では少し違う切り口で。
坂東眞砂子氏はなぜ「子猫を殺す」ことを書いたのか。おそらく罪悪感からではないでしょうか。懺悔
ですね。不思議なもとですが、トラウマ的なことはより多くの人に聞いてもらうことで解消されるという
ことがあります。たとえば最近のバラエティでたた起こっていることですが、数千万人が見ているTV
番組だから誰にも言えなかったようにな恥は語られます。最近、象徴的だったのが、あびる優事件で
すね。TV番組だから「ネタ」として許されるという緩さが、あるリミットを越えたということです。
「子猫殺し」をネタと呼ぶのはヒンシュクですが、同様な構造があったと思います。坂東眞砂子氏は
この問題を、生命倫理の問題に展開していますね。死はボクたちの身近にありますが、隠されてい
る。ボクたちが大好きな焼き肉は牛殺しの上に成り立ち、ペットブームは日々何万捨てられ、殺され
るペット殺しの上に成り立っている。
「子猫殺し」という個人的な問題を、社会の問題へ展開することで、罪悪感は緩和されます。良くある
のが個人的な問題を「世の中が悪いか」といって緩和することですね。ネタにする、社会の問題にす
ることは、問題をより俯瞰し、自分の距離をおくことで、緩和することです。
しかしボクたちにしてみれば、坂東眞砂子氏の排便を見せられたようでよい迷惑です。まあ坂東眞
砂子氏はここまで問題が大きくなるとは思わなかったのでしょうが。
たしかにボクたちの社会には死に関する「空白」があるでしょう。それから目を背けて暮らしている面
も多々あるでしょ。しかしつらいことがあった子供が「世の中が悪い」といったとして、たしかに世の中
にわることは多々あるから、子供に納得するでしょうか。
世の中に多くの問題があり、問題は簡単には解決しないし、その問題に地道に対応している人々が
います。坂東眞砂子氏にもそうあることを希望しますね。
615 :
リーマン ◆N.J4yHzilE :2006/08/27(日) 12:17:00
>>614 レスどうもです。あまり語りたくなかった問題持ち込んですみません……
しかし、坂東眞砂子氏の寄稿した理由が
>「子猫殺し」という個人的な問題を、社会の問題へ展開することで、罪悪感は緩和されます。良くある
>のが個人的な問題を「世の中が悪いか」といって緩和することですね。ネタにする、社会の問題にす
>ることは、問題をより俯瞰し、自分の距離をおくことで、緩和することです。
だとすると、坂東眞砂子氏は一人で受け止めきれない「罪悪感」を誰かに吐き出したかったのでしょう
かね。「トラウマ」を分析家に語ることでトラウマが形成されそれを解消することが出来るように。
だから「生命倫理」の問題こそ、坂東眞砂子氏にとっての「ネタ」であって、そんなことは逆に
「全て生かせ!」というニーチェやドゥルーズの主張などと社会的には併存し、一般的には結論の
出ない問題ですから。
>しかしボクたちにしてみれば、坂東眞砂子氏の排便を見せられたようでよい迷惑です。
という「ボクたち」が、坂東眞砂子氏の言説に何故これほど食いつくのか、そこに興味が
ありました。というのも、単なる排便、グロテスクものであれば、捨て置くのが通常の反応だからです。
何故わざわざそんな排便行為を自身の言説世界に躍起になって導入せざるを得ないのか。
そこに主体を誘発する欲望が生じたのではないかと思ったもので。
生命倫理の問題で坂東眞砂子氏の論理に反論するなら、倫理全般の話になって、それこそ
「昆虫なら殺して良いのか」「なぜ子猫は殺さずで仔牛や仔羊はいいんだ」とかそういう話に
なり、それはこれまでも様々な場所で議論され、生かすか殺すか、どちらかの立場をとるしかない。
また、坂東眞砂子氏個人の行為に対する非難なら、具体的に「子猫を引き取る」という行動に
誰一人出ようとしなかったことが、何故ヒステリックに個人を攻撃しなければならなかったのかを
如実に示していると思うのです。
616 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 12:45:40
簡単にいえば「煽り」ですね。煽りは注目を引きたいということですね。
だからネタにマジレスかっこわるい。
特になにか新しい問題でもないですから・・・
リーマンさんの考えでは、煽りに反応する方もさびしい、ということですかね。
617 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 12:48:38
■環境×公平×正義
社会の公平感はいかに保たれてきたのか
問題は社会の公平感はいかに保たれてきたのかということです。コミュニティにおいて大きく公平感
が失われたときに、コミュニティは破綻するからです。そしてこの公平感を維持するシステムが「正
義」です。「正義」というコミュニティ内のシステムが公平感を維持するのです。
たとえば封建社会は階級制の社会ですが、今から考えるとなぜにこのような不公平な社会システム
が長期に渡って維持されてきたのかと、思ってしまいます。権力者は以下に封建社会システムを維
持したのか。
たとえば特権層が軍隊などの暴力によって、強制的に下層を抑圧してきたという考えがありますが、
実際そのような暴力が行使されたのは、奴隷などの最下層の人々であり、ある意味彼らは社会の
外におかれた人々です。農民などの平民層は、自ら封建社会を受け入れて、すなわち彼らは公平
感を持っていたということです。
まずコミュニティへの帰属意識でしょう。生まれながら移動することがない彼らは、強いコミュニティ
への助け合いの場の中で生きていた。これは封建社会だけでなく、未開社会から続く、贈与の力
学、贈与による正義システムです。
封建社会の特徴は、税の徴収です。そしてその見返るとして、特権階級に公共整備であり、秩序維
持の運営を任せます。さらに大きなものが頻発するコミュニティ間の戦争です。
618 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 12:49:16
環境へ闘争
内部の公平感を維持するシステムが「正義」であると言いましたが、内部の状態に大きな影響を与
えるが、環境(外部)です。環境とは不確実に到来する外圧です。たとえば自然です。農民にとって
どのような自然環境が到来するからは予測不可能な外圧です。
またあるコミュニティにとっては、別のコミュニティも環境です。特に未開社会から都市化が進み、技
術が進むと、自然環境は予測可能で、計画的になります。そして自然から隔絶し安定した社会で
は、コミュニティ間の戦争が問題になります。他のコミュニティへ干渉する余裕が出てくるとともいえ
ます。
そしてボクは、人は外部へ向かう快楽(純粋略奪の快楽)を望むものだと言いました。大いなる外部
としての自然から隔絶し、他のコミュニティという外部へ闘争は向かうのが、人類史における、都市
化から封建社会の時代です。
封建社会の農民達は、頻発する他コミュニティとの戦争の中で、守ってもらうことで封建社会システ
ムを受け入れた。すなわち特権階級からの徴収と公共性の再配分という正義システムによって、
人々の公平感は保たれていたのです。
619 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 12:50:38
自由と平等の正義
定式化すると以下のようになります。
>>
公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)は決定する。ラカンの
想像界、象徴界、現実界のボロメオの輪に対応させて、転移の力学による「公平」、公平を目指す取
り決めとしての「正義」、「環境」の相補的な関係を上げることができる。「環境×公平(ネーション)×
正義(国家)」ということでしょう。
環境・・・自然、外部圧
公平・・・善。人間関係に生まれる他者のようになりたいという主観的な転移の力学
正義・・・公平感を満たすための制度
<<
では資本主義社会では、どうでしょうか。
環境(外部)・・・新大陸、他国家との戦争
自然主義的闘争様式・・・数量化
より自然から隔絶され社会が安定した中で、個人の独立性が向上する。たとえばルネサンスで非生
産的な芸術家が台頭するのは、社会がそのような余裕が出てきたことによる。また科学の発達は自
然(外部)の新たな効率的な略奪を可能にしました。
これとともに新たな正義概念として、啓蒙思想の正義、個人の自由、平等が生まれます。身近なコ
ミュニティないの贈与、権力への再配分は継続されますが、平等の正義は、交換とともに市場に繋
がります。交換が保障されるような自由と平等の正義システムによって公平感が維持されます。
どのような外部環境にあり、それに対応したどのような正義システムによって、公平感は保たれているか。
620 :
考える名無しさん:2006/08/27(日) 12:52:12
殺すぞ
621 :
考える名無しさん:2006/08/27(日) 13:41:36
>>620 溜まってるようだね〜。ところで、だれを?
622 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 14:37:58
>公平(内部)と環境(外部)のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)は決定する。
しかしフーコーの生政治、あるいは最近のネグリの帝国が示すのは、
公平感とは別の次元の正義のあり方である。
公平である不公平であるという人々の思いが及ばない領域、
すなわち環境そのものを操作することです。
科学技術の作動する領域は、管理できる環境という内部と外部の境界、グレイゾーンで
作動します。特に産業革命以降、このグレイゾーンが拡大しているのです。
たとえばボクたちは、グーグルの検索を公平な(「正義」の)システムであると考えています。
しかしそのプログラムの作動そのものを把握することは難しく、偏向があっても気づくことは
難しくなっています。
しかしこのプラグラムが善悪の内部、すなわちグーグル側にイデオロギーを広めようという策略が
あれば、それは検査することが可能かもしれません。
しかしグレイゾーンの本当の問題は、善悪の彼岸にあることです。
たとえばG-mailのようにメールをすべて検索し、広告を送る場合には、グーグルは操作は
人間を介さずに、機械が行うのだからプライバシーの侵害に成らず、とても便利なシステムであると
いいます。
「機械が行うのだから」とは、言い換えれば善悪の彼岸、グレイゾーンでの作動であり、
なんらイデオロギー的なものはない、だから公平だ、ということです。
これは、資本主義社会の(等価)交換の正義である「平等」に対応する倫理です。
機械の前では、全ての人はを「平等」であるということです。
しかしより古い正義、贈与の正義では問題になるのではないでしょうか。
贈与の正義とは、相手が誰であるのかということが重視される、自分が自分である、
あなたがあなたであることを認める正義だからです。
すなわち機械の前で、全て「平等」に扱われるのは、暴力です。
623 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 14:47:23
想像的正義・・・贈与の正義・・・コミュニタリアニズム
象徴的正義・・・再配分の正義・・・リベラル
グレイゾーンの(現実的)正義・・・平等の正義・・・リバタリアン
これら三位は解離しているのです。
機械の前ではみんなが平等という正義は、現実的な正義(リバタリアン)では公平であっても、
想像的な正義(コミュニタリアニズム)では不公平なのです。
624 :
考える名無しさん:2006/08/27(日) 15:10:49
ドキュン ドキュン
>>616 うーん、いまいちだったみたいですね(笑
結構、ジジェクが繰り返し行っている「ユダヤ人問題」という欲望の
問題と構造が似ているので、悪い話題ではないと思ったのですが。
ではこの話題はここまでにして、本題の方を読ませていただきます。
626 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 17:12:13
ホリエモン、亀田などなど・・・祭りネタは食傷ぎみで・・・(笑)
627 :
考える名無しさん:2006/08/27(日) 18:55:38
闘争しようよ。学生運動しようよ。
628 :
考える名無しさん:2006/08/27(日) 19:48:44
24時間テレビのようなヤラセ番組離れが進んでいます
629 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 21:56:49
公平感とは想像的なものですが、主観的に、曖昧なものです。
想像的正義・・・身近なコミュニティに根ざし、愛されていることで公平感をえる。コミュニタリズム。
象徴的正義・・・社会的な役割が認められるで公平感を与える。リベラル。
グレイゾーンの(現実的)正義・・・強い意味での拘束がなく、自由にできることで公平感を与える。リバタリアン。
これら三位は、近代以降、解離しているのです。
たとえばグーグルのような「機械の前ではみんなが平等」という正義は、現実的な正義(リバタリアン)では
公平であっても、想像的な正義(コミュニタリアニズム)では不公平なのです。
630 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 22:21:35
公平感とは想像的なものですが、主観的に、曖昧なものです。
想像的正義・・・身近なコミュニティに根ざし、愛されていることで公平感をえる。コミュニタリズム。
象徴的正義・・・社会的な役割が認められるで公平感を与える。リベラル。
グレイゾーンの正義・・・強い意味での拘束がなく、自由にできることで公平感を与える。リバタリアン
現実的正義・・・
封建社会の公平感はいかに保たれていたのか
キリスト教が与えたもの(公平感)はなにか
631 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 22:51:24
公平感はいかに得られるか
632 :
考える名無しさん:2006/08/27(日) 22:54:39
>>631 個人が感じるものとすれば、平等感はいかに得られるかの間違いでは?
633 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/27(日) 22:57:16
公平感と平等感は違います。平等感がなくても公平感は得られます。
634 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 00:05:45
公平感はある種の満足感です。主観的なものであり、愛に関係する。
平等とは客観的に目指されるシステムです。
635 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 00:18:26
格差とはなにか。
昔からあるのは先天的、経験的である。
先天的格差は仕方がないが、経験的な格差は解消しよう。
最近のリベラルでは、機会の格差と結果の格差である。
経験的な機会の格差は解消すべきだが、結果の格差は自己責任。
問題は偶然性と必然性の差で考えられる。
ロールズの無知のベールとは、偶然性を再現する装置である。
偶然性の格差を重視する。
先天的にどのように生まれるか、後天的にどのように経験するか、
どのような機会が与えられ、どのような結果になるか変わらない。
偶然性に関するものは救済する対象とすべきだ、ということだ。
636 :
考える名無しさん:2006/08/28(月) 00:48:41
ポトラッチ=恩着せがましい
ってことでおk?
637 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 00:58:15
バタイユはポトラッチを純粋贈与と考えました。これは見返りを求めない贈与です。
だから恩着せがましくを超越しています。
たとえば愛は与えるものと言いますね。愛を知るとわかりますが、無償で与えたくなります。
見返りを求めているわけではなく、とにかく与えたい。与えることが嬉しいのですね。
しかしもうらうほうにすると暴力です。無償に与えるとは見返りというようにも、
相手と同化したいう暴力的欲望です。
638 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 01:17:58
ボクたちはどれほど平等か。
格差問題は経済的な格差があることを意味する。
さらにはこの格差は固定されたものが、流動的なものか。
小泉首相は格差は必ずしも悪くはないといった。
差が生まれなければ、努力する意味がない。
勝つために人はがんばり、社会全体が向上する。
しかしそれに流動性がなければ、努力しても報われない。
しかしまた努力で越えられない格差は存在する。
社会的弱者は存在し、保護しなければならない。
個人の努力が反映されることを疎外するもの
先天的・・・身体障害など
経験的・・・階級制、保守的文化(生まれた環境)など
しかし最近の格差問題としてあるのは、
平等が、経済的な優位を求めて努力することを前提としていることだ。
いかに努力が実るか、社会が活性化されるかを前提としている。
資本主義的な価値の上に立っている。
最近の下層は、この価値の外にいることが問題である。
彼らは、「経済的な優位を求めて努力すること」を求めていない。
すなわち脱社会であるということだ。
経済的に優位でなくてもやりたいことをやるから、
経済的な優位を求めて努力しない。
生きられる程度に経済性があれば、非経済的な楽しみを求める。
639 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 01:31:29
たとえばこれはどのような公平感を持つかに関係するだろう。
「経済的な優位を求めて努力すること」ことができる環境を整えることで
人々が公平感をもつ。これは資本主義的な公平感である。
たとえば階級制、保守的文化(生まれた環境)などによって、
努力しても報われない社会であるのは、許されないことだ。
しかし最近の、ニート、フリーターが求める公平感は、
必ずしもここにはない。
資本主義的な公平感は、誰もが豊かになりたいという願望があった。
物質的な貧しさの中にあった社会であるが、現在の社会は、
ある程度の豊かさを達成したという環境の変化がある。
彼らが求めているのは、精神的な充実感であり、
より広い自由である。従来の社会的な規範を越えて、
やりたいことをやることことに公平感を求める。
しかしこの価値観が、豊かさのような一元的なものよりも、
より主観的に、曖昧である。それは彼ら自身でもそうだろう。
なにを求めているかわからないが、それが単なる豊かさでないことはわかる。
空虚感があり、それを満たすために様々なことを試みる。
それが多々、従来の社会規範から煙たがれることであるが、
それを従来の規範で抑圧されることは、不公平感をともなう。
640 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 01:51:27
現代の公平感は、従来の社会的な規範を押しつけられず、
価値観を自ら選ぶことができる状態をいう。
たとえば近代革命を起こした啓蒙思想では、
封建社会→宗教革命→市民革命(資本主義革命)→共産主義(プロレタリアート革命)という
自由の流れの中を望んできた。
これらの啓蒙思想革命は、物質的な貧しさからの解放、「経済的な優位を求めて努力する」環境
を求める運動、それが満たされる公平への運動であり、そこに正義があったと言える。
ニートとは、(Not in Education, Employment or Training)、
「教育機関に所属せず、雇用されておらず、職業訓練に参加していない者のこと」である。
ニート傾向は、すなわち脱社会傾向を否定的にとらえることはできない。
このような傾向は、近代的な啓蒙思想を超越した社会的な傾向である。
この「ニート革命」は、精神的な充実を求める機会の平等。
従来の規範を押しつけことからの解放。それは、従来の、教育観、労働観からの解放でもある。
しかしこれは革命か?、一時的な怠け者か?
■ニートは革命か、単なる怠け者か
641 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 02:16:29
これはバーリンの「消極的自由」論に繋がるが、
このような公平感はネットの関係も強いだろう。
ネットの特徴はリバタリアンにある。この自由の荒野では好きなようにさせろ。
それは暴力、性に関しても、社会的な道徳を容易に越えて、自分の趣向に自由な
空間を実現する。
ネットの特徴はそれでいて、未開社会のような排他的なコミュニティへのつよい帰属意識をもつ。
コミュニケーション空間としてのネットはむしろ、自分の好きなようにするというよりも、
自分が好きな繋がり、コミュニティへ帰属することが重要となる。
そこには排他的なコミュニティの社会性があり、それは実社会からすると、
脱社会的なのである。
ニート革命を積極的にとらえると、このような自分探しの充実感を目的とし、
充実感を得るために「消極的」に繋がる私的空間を楽しむ自由を求めることである。
これらは、豊かさの達成とネットという疑似自然の登場という環境変化と関係する。
そして疑似自然はネットの前には、50年代のアメリカの「若者の発明」からの
精神的娯楽文化領域の発見から、ロック、ハッカー、オタクなどから繋がり、
この精神的疑似自然フロンティアへの自然主義的な闘争(純粋略奪の快楽)としての、
現代の新たな精神革命、「私的空間革命」であると考えることができる。
642 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 02:32:08
人はたえず外的な自然と、内的な自然(精神)への開拓を並行して行うのである。
外部自然 道具、火→農耕→都市化→近代(科学技術による開拓)→環境問題
内部精神 自然神→初期哲学、1神教→近代(啓蒙主義)→「私的空間革命」
農耕、都市化は、外部自然と隔絶した人間精神内部へ向かう閉塞期である。
閉塞期は哲学、宗教などが開拓され、
その後、近代化で科学技術によって自然征服へ向かう。
世界大戦以降、地球が開拓され、外部自然が消失し、環境問題などで、
再び、人間精神内部へ向かう閉塞期へ向かいつつあるのかもしれない。
それが、個人的趣向や、ネットなどの「私的空間革命」かもしれない。
これらの中で、次に新たな外部自然が見いだされる手がかりが見いだされるのでは
ないだろうか。
643 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 02:54:19
たとえば中世などで重要視されたのは、宗教である。
宗教への信仰をめぐり、人々は迫害され、戦争を行った。
人々の公平感は、宗教を信じることになり、それが疎外されることが自由の疎外であった。
封建社会の階級制は容認されても、信仰に疎外は許されざることであった。
そしてその時代は、非経済的な社会とも考えられている。
暗黒時代と呼ばれるように、宗教が科学技術、そして経済性を抑圧した。
それは権力者によってというよりも、社会の公平感が宗教という精神的な充実に
求められたのだ。
それがルネサンス以降、近代で、精神的な充実よりも、経済性の公平へ転換していく。
その意味で、現代の科学技術、自然環境の閉塞は、公平感が経済性から精神的なものへ
回帰していると言えるかも知れない。それが「私的空間革命」なのかもしれない。
644 :
考える名無しさん:2006/08/28(月) 02:55:38
脱帽
645 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 10:57:09
■ニートは革命か、単なる怠け者か
格差問題
小泉首相は格差は必ずしも悪くはないといった。差が生まれなければ、努力する意味がない。勝つ
ために人はがんばり、社会全体が向上する。しかしそれに流動性がなければ、努力しても報われない。
しかしまた努力で越えられない格差は存在する。社会的弱者は存在し、保護しなければならない。
個人の努力が反映されることを疎外するものとして、先天的・・・身体障害など、経験的・・・階級制、
保守的文化(生まれた環境)など、が上げられるだろう。
しかし最近の格差問題としてあるのは、平等が、経済的な優位を求めて努力することを前提として
いることだ。いかに努力が実るか、社会が活性化されるかを前提としている。資本主義的な価値の
上に立っている。
646 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 10:57:53
脱社会者の公平感
最近の下層は、この価値の外にいることが問題である。彼らは、「経済的な優位を求めて努力する
こと」を求めていない。すなわち脱社会であるということだ。経済的に優位でなくてもやりたいことを
やるから、経済的な優位を求めて努力しない。生きられる程度に経済性があれば、非経済的な楽し
みを求める。
たとえばこれはどのような公平感を持つかに関係するだろう。「経済的な優位を求めて努力するこ
と」ことができる環境を整えることで、人々が公平感をもつ。これは資本主義的な公平感である。たと
えば階級制、保守的文化(生まれた環境)などによって、努力しても報われない社会であるのは、許
されないことだ。しかし最近の、ニート、フリーターが求める公平感は、必ずしもここにはない。
資本主義的な公平感は、誰もが豊かになりたいという願望があった。物質的な貧しさの中にあった
社会であるが、現在の社会は、ある程度の豊かさを達成したという環境の変化がある。彼らが求め
ているのは、精神的な充実感であり、より広い自由である。従来の社会的な規範を越えて、やりたい
ことをやることことに公平感を求める。
しかしこの価値観が、豊かさのような一元的なものよりも、より主観的に、曖昧である。それは彼ら自
身でもそうだろう。なにを求めているかわからないが、それが単なる豊かさでないことはわかる。空
虚感があり、それを満たすために様々なことを試みる。それが多々、従来の社会規範から煙たがれ
ることであるが、それを従来の規範で抑圧されることは、不公平感をともなう。
647 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 10:58:30
ニート傾向は精神的充実を求める
現代の公平感は、従来の社会的な規範を押しつけられず、価値観を自ら選ぶことができる状態をい
う。たとえば近代革命を起こした啓蒙思想では、封建社会→宗教革命→市民革命(資本主義革命)
→共産主義(プロレタリアート革命)という自由の流れの中を望んできた。これらの啓蒙思想革命
は、物質的な貧しさからの解放、「経済的な優位を求めて努力する」環境を求める運動、それが満た
される公平への運動であり、そこに正義があったと言える。
ニートとは、(NotinEducation,EmploymentorTraining)、「教育機関に所属せず、雇用されておらず、
職業訓練に参加していない者のこと」である。ニート傾向は、すなわち脱社会傾向を否定的にとらえ
ることはできない。このような傾向は、近代的な啓蒙思想を超越した社会的な傾向である。
この「ニート革命」は、精神的な充実を求める機会の平等。従来の規範を押しつけことからの解放。
それは、従来の、教育観、労働観からの解放でもある。しかしこれは革命か?、一時的な怠け者か?
648 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 10:59:05
「私的空間革命」
このような公平感はネットの関係も強いだろう。ネットの特徴はリバタリアンにある。この自由の荒野
では好きなようにさせろ。それは暴力、性に関しても、社会的な道徳を容易に越えて、自分の趣向に
自由な空間を実現する。これはバーリンの「消極的自由」に繋がる。
ネットの特徴はそれでいて、未開社会のような排他的なコミュニティへのつよい帰属意識をもつ。コ
ミュニケーション空間としてのネットはむしろ、自分の好きなようにするというよりも、自分が好きな繋
がり、コミュニティへ帰属することが重要となる。そこには排他的なコミュニティの社会性があり、それ
は実社会からすると、脱社会的なのである。
ニート革命を積極的にとらえると、このような自分探しの充実感を目的とし、充実感を得るために「私
的空間」を楽しむ自由を求めることである。これらは、豊かさの達成とネットという疑似自然の登場と
いう環境変化と関係する。そして疑似自然はネットの前には、50年代のアメリカの「若者の発明」か
らの精神的娯楽文化領域の発見から、ロック、ハッカー、オタクなどから繋がり、この精神的疑似自
然フロンティアへの自然主義的な闘争(純粋略奪の快楽)としての、現代の新たな精神革命、「私的
空間革命」であると考えることができる。
649 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 11:00:01
第二次精神革命か
人はたえず外的な自然と、内的な自然(精神)への開拓を並行して行うのである。
外部自然 道具、火→農耕→都市化→近代(科学技術による開拓)→環境問題
内部精神 自然神→初期哲学、1神教→近代(啓蒙主義)→「私的空間革命」
農耕、都市化は、外部自然と隔絶した人間精神内部へ向かう閉塞期である。閉塞期は哲学、宗教
などが開拓された。これは「精神革命」と呼ばれる。
たとえば中世などで重要視されたのは、精神革命で芽生えた「宗教」である。宗教への信仰をめぐ
り、人々は迫害され、戦争を行った。人々の公平感は、宗教を信じることになり、それが疎外される
ことが自由の疎外であった。封建社会の階級制は容認されても、信仰に疎外は許されざることで
あった。そしてその時代は、非経済的な社会とも考えられている。暗黒時代と呼ばれるように、宗教
が科学技術、そして経済性を抑圧した。それは権力者によってというよりも、社会の公平感が宗教と
いう精神的な充実に求められたのだ。
その後、近代化の啓蒙思想、科学革命は、精神革命での浸透したことによる。そして開花した科学
技術によって自然征服へ向かう。精神的な充実よりも、経済性の公平、物質的な豊かさへ転換して
いく。
世界大戦以降、地球が開拓され、外部自然が消失し、環境問題などで、再び、閉塞し、人間精神内
部へ向かう閉塞期へ向かいつつあるのかもしれない。それが、個人的趣向や、ネットなどの「私的空
間革命」かもしれない。
650 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 11:00:46
ニートはニュータイプ?
ただルネサンス前後の啓蒙思想は徐々に社会に浸透し、民主主義として確立するのに、紆余曲折
あり、数百年かかっている。それまでに様々な保守的、革新の駆け引きがあった。たとえば共産主
義、社会主義は改革的な傾向であるが、現在は行き過ぎという評価である。この意味で、ニートとい
う人々が将来的な姿であると短絡できない。人は労働しなければ生きていけない。あるいは労働が
容易に成るのだろうか。ただ社会の中で「私的空間革命」という潮流の一部の傾向としてあるだろう。
651 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 12:07:22
ネットが生産的でないといえようか
これほどの生産物を対価なく労働することの革命性
それはただ従来の資本主義システムとあわないだけでなく破壊してしまう意味で反経済的なのであり
その意味でグーグルのアフェリティブなどは画期的である。
ただ従来の資本社会に対立するのでなく労働に対価が支払われなければ経済はまわらずネットは閉塞する。
652 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 13:26:24
ニートはニュータイプ?
ただルネサンス前後の啓蒙思想は徐々に社会に浸透し、民主主義として確立するのに、紆余曲折
あり、数百年かかっている。それまでに様々な保守的、革新の駆け引きがあった。たとえば共産主
義、社会主義は改革的な傾向であるが、現在は行き過ぎという評価である。
この意味で、社会にニート傾向、「私的空間革命」という潮流があっても、ニートとい う人々が革命的
な姿であると短絡できない。問題は、「経済的な優位を求めて努力する」ような社会秩序の整備では
人々の公平感は満たすことはできなくなっているということだ。人々は「私的な充実感を得るために
努力する」ことで得られる公平感を満たすシステムを求めている。欲望される外部環境は、もはや社
会の外部でなく、精神内部にある。
従来のシステムでは、「私的な充実感を得るために努力する」ことは自己満足な非社会的、非生産
的な行為と見なされる。プチクリという発想は、従来の経済的な努力と、私的な充実感の努力をわ
けるという方法論である。
しかしたとえばネットで行われる生産物を対価なく労働することの革命性はただ従来の資本主義シ
ステムとあわないだけでなく破壊してしまう意味で、反経済的なのである。しかしこれをただ生産的
でないといえようか。その意味でグーグルのアフェリティブなどが画期的であるのは、、「私的な充実
感を得るために努力する」ことに対価が支払われることである。
環境が変容し、人々の欲望の向かう先に変容し、そこに経済が移行する。これらは相補的な関係で
あるが、経済は下部構造であっても、大きな潮流の中で流動してきた。「経済的な優位を求めて努
力する」システムから、、「私的な充実感を得るために努力する」システムへの変容へ現に起こっている。
653 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 13:34:57
労働がなくなる、楽しく労働できる、楽しんでいるうちに労働している、というのは
都合が良いのかも知れないが、生存することの敷居は低くなるのかもしれない。
プリクリのように労働を並行して、私的な楽しみをする余裕がますのかもしれない。
「私的な充実感を得るために努力する」ことために公平感を得られる正義システムに
向かっている。
啓蒙思想においては、モンテスキュー、ロックなど、さらには間接的にデカルトの
機械論などの象徴的な思想があった。
では、私的空間革命の象徴的な思想は誰だろうか。
654 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/28(月) 13:43:00
開拓先が環境問題などで外部が閉塞し、精神的内部へ回帰し、ネット上の疑似自然へむかっている。
しばらくネット以上の熱狂の地はあらわれないのではないだろうか
サイボーグは倫理的に閉塞しそうな気がする。宇宙はまだはやい。
655 :
よしお:2006/08/28(月) 19:42:38
理性の欲動
すべてを理性によって語ることが可能と思っている人間に多いが、その人間は
たいてい理性の欲動に忠実である。カントはスウェーデン・ボルクの視霊に
根本的な影響を受けてしまったが、現代哲学において理性によってすべてを語れると思っている
人間はたがたが21世紀における科学の進歩にもとづく思想を展開しているにすぎない。
まったくカントのレベルから進歩することがない。今の哲学者にできることはせいぜい
理性の欲動に忠実になる程度でしかなく、欲動による思考とは人間理性に課せられた制約のもとでの思考にすぎない
ことはカントが述べてとおりの事実である。
もう寝ちゃったのかな?
ところで、毎度がんばってるけど時給いくら?
657 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 10:31:03
産業革命以降乖離した社会的世界と経済的世界において
経済的世界は唯物論的に下部構造として強力に作用してきたが、
後期資本主義以降、社会性の取り返しが起こっている。
消費社会における消費とは強力な経済領域=市場の中で社会性を獲得する好意である。
アメリカが見せたあふれる商品による煌びやかな状況はこの先の繋がりを開示すること、
みなが欲望しているものを真っ先にあなたが手に入れることでみながあなたを欲望しつながるというまなざしの快楽である。
658 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 10:35:35
これに積極性を組み込んだものがサブカルチャーである。
みなが欲望するものを想像する。それは経済世界をイメージされる。
すなわちあくまで商品化され市場流通すること、消費社会の一部、まなざしの快楽の行為としてある。
オタクもその流れにある。
659 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 10:41:02
これがさらに展開するのがネットの展開である。なぜにネットは対価なく労働が行われるのか
消費社会であらわれた経済世界の揺り返しての社会世界の延長線の中で
より解放された創造性は経済的動機を必要としないことは産業革命以前への回帰であり、当たり前のことである。
多くの行為への動機は経済的でなく社会的である。
660 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 10:49:28
しかしここでいう社会性は家族、地域コミュニティにむかっていない。
なぜなら産業革命以後、社会は経済を下部構造とする上部構造とつくりなおされているからだ。
家庭であり、学校であり、職場でありに社会的な繋がりを求めるとき、
経済の優位、経済性をめざすことが正しいというイデオロギーが帰ってくる。
ベタにいえばよい成績、よい学校、大企業をめざすことは経済的な動機、市場において優位な立場にたつことを意味する。
本来の意味で社会性のとりもどしのためにネットにむかうのは必然でさえあるのだ。
661 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 10:57:07
ネット社会のコミュニティの贈与関係は驚くほど未開社会の共同社会に似ている面がある。
これは明らかに資本主義社会秩序から非秩序である
662 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 11:47:21
■なぜ人々はネットで繋がりをもとめるのか
消費社会における社会性の取り戻し
産業革命以降、経済性は唯物論的に下部構造として強力に作用することで、社会性と乖離した。そ
して社会性は経済性の上部構造として再構造化された。
それに対して、後期資本主義とは、社会性の取り戻しと見ることができる。消費社会における消費と
は強力な経済領域=市場の中で社会性を獲得する好意である。アメリカが見せたあふれる商品に
よる煌びやかな状況とは、商品の先にある繋がりを擬装(フェイク)すること、みなが欲望しているも
のを真っ先にあなたが手に入れることで、みながあなたと繋がろうと欲望するように見せる擬装(フェ
イク)という「まなざしの快楽」である。
このような社会性の取り戻しは、サブカルチャーを生み出す。サブカルチャーとはこのような「まなざ
しの快楽」がもはや商品選択だけでは収まらず、自ら創造したいという欲動を想起させたものです。
だからサブカルチャーはあくまでみなに受け入れられ「商品」を作成すること、商品化され市場流通
すること、将来商品を製作する側に回りたいという前提にある。オタクもその流れの一部である。
663 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 11:50:26
地域コミュニティよりもネットコミュニティへ
これがさらに展開するのがネット社会である。ネット上の創作活動は消費社会であらわれた経済性
に対する社会性の取り戻し、サブカルチャーの延長線上にあるが、もはや経済性への動機は形骸
化し、社会性に純化している。これは「つながりの社会性」と呼ばれている。
しかしここで、なぜ社会性の取り戻しは、家族や学校など地域コミュニティにむかわないのだろうか。
なぜなら産業革命以後、社会は経済を下部構造とする上部構造として再構築されているからだ。家
庭であり、学校であり、職場などで、よい成績、よい学校、大企業がめざすように作動するのは、経
済的な動機、市場において優位な立場に立つことを重視するためであり、下部構造としての経済性
に対する上部構造として再構造化された社会性であるからだ。
このような意味で、若者がサブカルチャーやネットに社会性を求めるのは、必然でさえあるのだ。サ
ブカルチャーコミュニティや、ネットなどで対価なく労働が行われることは、産業革命前の社会性と経
済性が解離する前の姿に近い面がある。
ネット社会は当初、グローバルビレッジ、世界市民などのイメージで登場した。これは、資本主義や
社会主義などの近代の経済性重視社会の延長線上で語られたイメージであるが、現在、これとは
別に局所的なコミュニティの繋がりを求める場として作動している。ここで展開する「小さなコミュニ
ティ」内の贈与関係は、驚くほど未開社会の共同社会に似ている面さえある。
664 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 11:51:14
「リアリティ」はネット上に移っていく
しかしボクたちが容易に資本主義社会構造を捨てられないことも事実である。最近ではグーグルの
アフェリティブなど、ネット上の無償の労働が対価にかわる画期的なシステムが開発されたりしてい
るが、本質的にネット社会を作動させているのは、経済性への反動としての社会性である。これは
今後も変わらないだろう。すなわち資本主義的な経済性とネット社会的な社会性の二重構造は変わ
らず進むだろう。
最近、セレブブームであるが、セレブの魅力はその経済的な裕福さそのものにではなく、セレブとい
う人種の貴重性にある。お金をどれだけ持っているかよりも、そのお金によってどれだけアイデン
ティティが支えられているかというタレント性に、ボクたちはあこがれとともに、その裸の王様的な
「空っぽさ」を嗤うのである。
ある程度の豊かさの中にいるボクたちは、資本主義的な経済性の追求そのものへの魅力は色あせ
ていくだろう。ネット上の様々な活発なテクノロジーの開発、それにともなう経済上のネットバブルな
どによって、新たな資本主義を活性化するものとしてとらえられてもいるが、これらは人々がネットに
社会性を求めて熱狂することに支えられている。そして今後、「リアリティ」の軸は、ネット上の社会性
で見いだされていくだろう。
665 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 12:39:01
人間は経済的存在でなく、社会的存在である、といったアリストテレスは正しかった。
人間の目的は、物質的財産の獲得という形で個人的利益を守ることにあるのではなく、
むしろ社会的名誉、社会的地位、社会的財産を確保することにあるのであろう。
財産はなによりもまず、このような目的を得る手段として評価されるのである。
人間のもつ誘因は「混合的」な性格のものであって、これには社会的承認を得ようとする努力が伴うものあるー
生産の努力はこの努力に付随するものにすぎないのである。
つまり、人間の経済は原則として社会関係のなかに埋没しているのである。
こうした社会から、逆に経済システムのなかに埋没している社会への変転というのは、まったく新奇な事態であったのである。
666 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 12:43:56
カール・ポランニー
経済の文明史
時代遅れの市場志向
667 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 13:22:32
しかし消費が、サブカルが、ネットが熱狂であったように
資本主義革命も熱狂であった。それは単にブルジョアの熱狂でなく、プロレタリアートにも熱狂であった。熱狂の遷移としての面をわすれてはいけない。
豊かになり、環境問題などの閉塞の中でサブカル革命はあらたなフロンティアの発掘であり、さらにネットは新天地である。
あらたな自然が見いだされ熱狂とともに人々が殺到し、秩序が生み出される。
資本主義革命は経済性を社会性か乖離し、社会性は再構築された。
家庭、学校などがつよい社会性として機能した時期はあったのだ。
消費、サブカル、ネットが革命なのはそこにあらたな自然が発見され、熱狂が生まれているからだ。
そして社会は変容していくのだ。
668 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:35:33
■なぜ人々はネットへ熱狂するのか
資本主義革命
>>
人間は経済的存在でなく、社会的存在である、といったアリストテレスは正しかった。人間の目的
は、物質的財産の獲得という形で個人的利益を守ることにあるのではなく、むしろ社会的名誉、社会
的地位、社会的財産を確保することにあるのであろう。財産はなによりもまず、このような目的を得
る手段として評価されるのである。人間のもつ誘因は「混合的」な性格のものであって、これには社
会的承認を得ようとする努力が伴うものである−−生産の努力はこの努力に付随するものにすぎな
いのである。
つまり、人間の経済は原則として社会関係のなかに埋没しているのである。こうした社会から、逆に
経済システムのなかに埋没している社会への変転というのは、まったく新奇な事態であったのである。
「経済の文明史」 カール・ポランニー (ASIN:4480087591) 時代遅れの市場志向
<<
ポランニーが指摘するように、産業革命以降、「経済システム」は唯物論的な下部構造として強力に
作動することで、「社会システム」から乖離した。社会的な関係が経済構造を規定していたのが、経
済システムが浮上し、社会的な関係を規定する革命が起こったのだ。そしてそれはたった200年弱
前に起こったことなのだ。
669 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:36:26
消費、サブカルチャー、ネットへの熱狂
しかし後期資本主義に至ると、このような「経済性の追求」重視によって規定された社会からの揺り
戻しがおこる。アメリカに現れたあふれる商品による煌びやかな消費社会とは、商品の先にある繋
がりを擬装(フェイク)しているのだ。みなが欲望しているものを真っ先にあなたが手に入れることで、
みながあなたと繋がろうとしている、ように見せる擬装(フェイク)であり、「まなざしの快楽」である。
消費社会における「消費への熱狂」とは、経済システム(市場)の中で新たな「社会性」を獲得しよう
とする反動としての面がある。
このような「社会性」の取り戻しは、サブカルチャーへの熱狂を生み出す。サブカルチャーとはこのよ
うな「まなざしの快楽」がもはや商品選択だけでは収まらず、自ら創造したいという欲動を想起させ
たものである。だからサブカルチャーはあくまでみなに受け入れられ「商品」を作成すること、商品化
され市場流通すること、将来商品を製作する側に回りたいという前提にある。オタクもその流れの一
部である。
さらに展開するのがネット社会である。ネット上の創作活動はサブカルチャーの延長線上、消費社
会であらわれた「社会性」の揺り戻しの延長線上にあると思われるが、しかしもはや経済性への動
機は形骸化し、新たな「社会性」の獲得に純化している。たとえばこれは「繋がりの社会性」と呼ばれ
ている。
670 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:37:01
地域コミュニティよりもネットコミュニティへ
なぜ社会性の取り戻しが、家族や学校など地域コミュニティにむかわないのだろうか。家庭や学校
など地域コミュニティが、よい成績、よい学校、大企業がめざすことを目的化するのは、経済性の追
求、市場において優位な立場に立つことを重視するためであり、下部構造としての経済システムに
対する上部構造として再構造化された「社会性」であるからだ。
サブカルチャーコミュニティや、ネットコミュニティなどで対価なく労働が行われるなど、若者が地域コ
ミュニティでなく、サブカルチャーやネットに社会性を求めるのは、従来の「経済性の重視」に根ざし
たシステムからの変容を表しているのだ。
ネット社会は当初、グローバルビレッジ、世界市民などのイメージで登場したが、これは資本主義や
社会主義などの近代の経済性重視社会の延長線上で語られたイメージである。現在、これとは別
に局所的なコミュニティの繋がりを求める場として作動している。ここで展開する「小さなコミュニティ」
内の贈与関係は、驚くほど未開社会の共同社会に似ている面がある。
671 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:37:56
熱狂の歴史
これらは、熱狂の遷移としての面を考えなければならない。消費社会が、サブカルチャーが、ネット
が熱狂であったように、資本主義革命も新たな「自然(フロンティア)」の発見とともに、そこに人々が
殺到した熱狂であった。それは単にブルジョアの資本追求の熱狂でなく、プロレタリアートにとっても
「豊かさ」への熱狂であった。
その熱狂が、経済システムを社会システムから浮上させ、下部構造として強力に作動を求める。そ
して社会性は家庭、学校、企業などの形態として、再構築された。いまでは陳腐化しつつあるこれら
の社会性(コミュニティ)が強力な繋がりとして作動した時期はあった。それはまさに、資本主義革命
の熱狂とともにあったのだ。
そして豊かになり、環境問題がおこり、「経済性の重視」という社会は閉塞する。消費、サブカル
チャーは、より精神的な「自然(フロンティア)」の発見であり、さらにネットはより空間的なメタファー、
疑似「自然(フロンティア)」の発見であり、人々は熱狂とともに殺到したのである。そして熱狂に続い
て、それにあわせた形態に社会秩序は新たに構造化されていくのだ。
その時代、人々はどこに新たな外部としての「自然(フロンティア)」を見いだし、熱狂し、社会秩序を
再構築していったかのか。ボクはこれを「自然主義的闘争」と呼んでいる。
672 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:38:38
「リアリティ」はネット上に移っていく
最近、セレブブームであり、TV番組などで紹介されている。セレブの魅力はその経済的な裕福さそ
のものにではなく、セレブという生活様式の貴重性にある。ボクたち庶民とは異なるだろうその生活
様式において彼らのアイデンティティは誇示される。それはまさに消費社会における「まなざしの快
楽」であり、その物質的な貴重さにボクたちのまなざしを奪われとともに、豊かさにアイデンティティを
求める「空っぽさ」を嗤うのである。
だからといって、ボクたちは容易に資本主義社会構造を捨てられない。最近ではグーグルのアフェリ
ティブなど、ネット上の無償の労働が対価にかわる画期的なシステムが開発されたりしているが、こ
れが現在の資本主義的経済システムにとってかわるほどのものではないことは容易にわかるだろ
う。だから資本主義的な経済性とネット社会的な社会性の二重構造は変わらず進むだろう。
これらの消費、サブカルチャーネットへの熱狂は、新たな「社会性」の取り戻しであるとともに、経済
システムをより活性化している。しかしネット上の様々な活発なテクノロジーの開発、それにともなう
経済上のネットバブルなどによって、新たな資本主義を活性化するものとしても、これらは人々が
ネットに社会性を求めて熱狂することに支えられている。
ある程度の豊かさの中にいるボクたちは、資本主義的な経済性の追求そのものへの魅力は色あせ
ていくだろう。そして今後、「リアリティ」は、ネット上の社会性に見いだされていくだろう。
673 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 17:01:00
消費社会へむかうことで経済システムは強化されてきた。マルクス的な問題を短期で乗り越え、
プロレタリアートを味方につけて、当初の学校、企業などの社会組織さえも解体し、増殖していると言える。
脱皮したのだ。ネグリの帝国とはこのような市場である。
自然環境を食い付くし、消費、サブカルチャーと精神世界をも侵食する。
たとえばボクたちの欲望は経済的に開拓され肥大しているのだ。
果たしてネットはどうだろうか
674 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 15:05:53
産業革命によって生まれた市場と資本主義システム
その後、
大量生産革命(フォーディズム)
大量消費革命
サブカルチャー革命(商品選択という消費のみならず、創造によって市場に参入する)
情報革命
金融(マネーゲーム)革命
グローバリズム
と次々に増殖、強力になり世界を呑み込み、「帝国」となりつつある。
ではインターネット革命はこの延長線上にあるのか、
それともポスト資本主義としてあるのか。
675 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 15:06:28
ネット社会は、たとえば著作権などで資本主義的な秩序を衝突している。
最近、ウェブ進化論が受けるぐらいに、資本主義秩序と相性が悪い。
市場を支える「貨幣による等価交換」が作動しにくい傾向がある。
ウェブ進化論でこちら側と、あちら側という分類があったが、
この相性の合わせ故に、従来ヤフーや、アマゾン、楽天などはこちら側に留まる。
すなわち従来の資本主義の「交換」が作動する領域に留まり続けている。
たとえばアマゾンが行っていることは基本的に従来の広告と変わらない。
ネットで広告し、従来通りアマゾン、楽天は商品を売っているのだ。
それに対してあちら側はネットの中のみで「交換」が展開される。
これは従来、難しいとされていた。情報に乗るものは容易にコピーされてしまうからだ。
グーグルは様々な商品をネット上に乗せている。地図、本、情報などを。
そしてこれを販売しもうけようというのではない。これらは無料で提供される。
そこにアクセスすることで、広告を展開するのである。
すなわちウェブ進化論が受けたのは、ネットと市場という対立を乗り越えられる。
悪名高き野蛮な地であるネットを、市場原理によって開拓する可能性を
グーグルの様々な例、アフェリティブ、あるいはロングテールなどで示したことである。
これによって、ネットは新たな市場となり得るということだ。
676 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 15:23:20
大量消費革命(マクドナルドイズム)
677 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 15:38:22
産業革命は19世紀であるが、ルネサンス16世紀のように、
宗教革命、科学革命、大航海時代など、人間主義、啓蒙思想の普及と共に
産業革命の爆発を見た。
産業革命後、経済システムを下部構造として社会システムは改良されたが、
近代化という潮流の結末として、産業革命が起こったのだ。
さらに言えば、このような人間主義、啓蒙思想は、ギリシア思想であり、
初期のキリスト教であり、紀元前の精神革命といわれるものが、
中世をイスラム圏で育まれ、到来したものである。
このような潮流の中の産業革命、そしてその後の資本主義の躍進を
考えるときに、その根底に人間主義的なものを見ることができるので
ないだろうか。
初期の産業革命によってつくられた、家庭、学校、企業などの資本主義型
社会システムさえも乗り越えたところで、流れる人間主義。
資本主義のマルクス的生産中心構造は、瞬く間に消費中心構造へ転換された。
むしろ資本主義とは消費社会のことを指すのだ。
そして消費社会とは、人々の欲望の熱狂であり、人間中心主義的な自由への熱狂である。
大量生産革命(フォーディズム) 、大量消費革命(マクドナルドイズム)、
サブカルチャー革命(商品選択という消費のみならず、創造によって市場に参入する)
情報革命、金融(マネーゲーム)革命、グローバリズム・・・
これらはまさに過剰さであることで繋がる。すなわち消尽(純粋略奪の快楽)である。
678 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 15:52:21
たとえば、広告はいかに熱狂(ムーブメント)を起こし、育てるかと言うことだ。
最近のWeb2.0も同様である。以下に熱狂(ムーブメント)を起こし、育てるか。
現代は様々な意味の熱狂(ムーブメント)に純化されている。
それは精神革命、啓蒙主義、大衆(消費・サブカルチャー)革命を経た帰結でも
あるのかもしれない。それは自由に関わるだろう。
より自由に、それが熱狂へ繋がるのは当然の帰結である。
むしろ問題はなぜいまだにボクたちの自我は分離しているのか、ということだ。
エヴァの最後ではないが、熱狂の超越は融合に向かうしかない。
それは未開社会の年に1度しか行われない祝祭の熱狂で目指されたものと
変わらないのだ。
毎日が祝祭。熱狂の日常化。それが人間が進歩した成果である。
679 :
考える名無しさん:2006/08/30(水) 15:59:03
夫馬の場合、それは「物」ではない。
物でなければもちろん人間でもない。
それはウィルスである。
だから「いじめ」の論理をそれに適用することは不可能である。
人ならば放って置けば自然に枯れうる。
しかし夫馬の場合は放置によって逆に増殖する
ただただ憎むべき殲滅の対象にしかならない。
この憎悪が後にインターネット中の災厄になる。
この点において稲葉の論理は微妙に現実を取りこぼしている
しかもそれは意図的な取りこぼしであろう。
680 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 17:13:24
■ネットは経済を促進するのか
経済とは熱狂である。
産業革命は19世紀であるが、ルネサンス16世紀のように、宗教革命、科学革命、大航海時代な
ど、人間主義、啓蒙思想の普及と共に産業革命の爆発を見た。産業革命後、経済システムを下部
構造として社会システムは改良されたが、近代化という潮流の結末として、産業革命が起こったの
だ。さらに言えば、このような人間主義、啓蒙思想は、ギリシア思想であり、初期のキリスト教であ
り、紀元前の精神革命といわれるものが、中世をイスラム圏で育まれ、到来したものである。
このような潮流の中の産業革命、そしてその後の資本主義の躍進を考えるときに、その根底に人間
主義的なものを見ることができるのでないだろうか。初期の産業革命によってつくられた、家庭、学
校、企業などの資本主義型社会システムさえも乗り越えたところで、流れる人間主義。
資本主義のマルクス的生産中心構造は、瞬く間に消費中心構造へ転換された。むしろ資本主義と
は消費社会のことを指すのだ。そして消費社会とは、人々の欲望の熱狂であり、人間中心主義的な
自由への熱狂である。
大量生産革命(フォーディズム)、大量消費革命(マクドナルドイズム)、サブカルチャー革命(商品選
択という消費のみならず、創造によって市場に参入する)情報革命、金融(マネーゲーム)革命、グ
ローバリズム・・・これらはまさに過剰さであることで繋がる。すなわち消尽(純粋略奪の快楽)である。
681 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 17:14:26
熱狂の日常化
たとえば、広告はいかに熱狂(ムーブメント)を起こし、育てるかと言うことだ。最近のWeb2.0も同様で
ある。以下に熱狂(ムーブメント)を起こし、育てるか。現代は様々な意味の熱狂(ムーブメント)に純
化されている。それは精神革命、啓蒙主義、大衆(消費・サブカルチャー)革命を経た帰結でもある
のかもしれない。それは自由に関わるだろう。より自由に、それが熱狂へ繋がるのは当然の帰結で
ある。それは未開社会の年に1度しか行われない祝祭の熱狂で目指されたものが、毎日になる。熱
狂の日常化。それが人間が進歩した成果である。
それは、熱狂が必ずしも経済に繋がる必要がないことを示している。経済を中心に熱狂が巻き起こ
るのは人類史数百万年のうちの産業革命以降のたかだか200年である。
682 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 17:15:16
ネットの熱狂は経済を促進するのか
ネット社会は、たとえば著作権などで資本主義的な秩序を衝突している。最近、ウェブ進化論が受け
るぐらいに、資本主義秩序と相性が悪い。市場を支える「貨幣による等価交換」が作動しにくい傾向
がある。
ウェブ進化論でこちら側と、あちら側という分類があったが、この相性の合わせ故に、従来ヤフー
や、アマゾン、楽天などはこちら側に留まる。すなわち従来の資本主義の「交換」が作動する領域に
留まり続けている。たとえばアマゾンが行っていることは基本的に従来の広告と変わらない。ネット
で広告し、従来通りアマゾン、楽天は商品を売っているのだ。
それに対してあちら側はネットの中のみで「交換」が展開される。これは従来、難しいとされていた。
情報に乗るものは容易にコピーされてしまうからだ。グーグルは様々な商品をネット上に乗せてい
る。地図、本、情報などを。そしてこれを販売しもうけようというのではない。これらは無料で提供され
る。そこにアクセスすることで、広告を展開するのである。
すなわちウェブ進化論が受けたのは、ネットと市場という対立を乗り越えられる。悪名高き野蛮な地
であるネットを、市場原理によって開拓する可能性をグーグルの様々な例、アフェリティブ、あるいは
ロングテールなどで示したことである。これによって、ネットは新たな市場となり得るということだ。
しかしそれは著者自身楽観的と呼び、多くの反論も呼んでいる。あくまでこちら側(資本主義側)の
論理でしかない。ネットは熱狂している。それはどこへ向かうのだろうか。
683 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 17:24:30
ネットのあちら側には、従来の経済原理がなければ、貨幣も流通していない。
市場経済から略奪された商品が、あるいは対価のない労働で製作された作品が、
タダで大量にばらまかれ、熱狂する野蛮で狂った世界である。
684 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 17:53:56
ナップスター、ユーチューブ、グーグルなどあちら側の企業は狂っている
685 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 20:48:31
■ネット革命は資本主義的な秩序を解体するか
自由への熱狂
産業革命は19世紀であるが、16世紀ルネサンスにはじまり、宗教革命、科学革命、大航海時代な
ど、人間主義、啓蒙思想の普及という近代化の潮流の帰結として起こった。さらに言えば、このよう
な人間主義、啓蒙思想は、ギリシア思想であり、初期のキリスト教であり、紀元前の精神革命といわ
れるものが、中世をイスラム圏で育まれ、到来したものである。
このような潮流の中の産業革命、そしてその後の資本主義の躍進を考えるときに、その根底に人間
中心主義的なものを流れている。資本主義のマルクス的生産中心構造は、瞬く間に消費中心構造
へ転換された。むしろ資本主義とは消費社会のことを指す。産業革命後、経済システムを下部構造
として社会は構造化され、家庭、学校、企業などがつくられたが、消費社会という欲望の熱狂の中
で、容易に書き換えられている。
大量生産革命(フォーディズム)、大量消費革命(マクドナルドイズム)、サブカルチャー革命(商品選
択という消費のみならず、創造によって市場に参入する)、情報革命、金融(マネーゲーム)革命、グ
ローバリズム・・・これらはまさに過剰さであることで繋がる。すなわち消尽性(純粋略奪の快楽)であ
り、人間中心主義的な「自由への熱狂」である。
686 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 20:49:05
「ウェブ進化論」
「ウェブ進化論」で「こちら側」と「あちら側」の分類ある。ネットの「こちら側」とは、「携帯電話、カーナ
ビ、コンビニのPOS端末、高機能ATM・・・。インターネットを私たち一人一人を結びつけるインター
フェース部分にイノベーションを求めるものだ。」「こちら側」があらたな市場として容易に開拓される
ことはわかる。
それに対して「あちら側」とは「インターネット内部のヴァーチャルな世界」である。そしてこの「あちら
側」は、「不特定多数無限大」への信頼がありか、なしか分類されている。「不特定多数無限大」と
は、「インターネットという人々と情報が「無限の世界」」の力である。
たとえばヤフー、楽天などネット企業は、「信頼ない」に分類される。信頼がないから、様々なセキュ
リティであり、管理、防御が施される。それに対して、「信頼あり」の例はウィキペディアである。ウィキ
ペディアにウソを書くことは容易であるが、「不特定多数無限大」によってある程度の価値が構築さ
れるだろうと信頼することでなりたっているのだ。
687 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 20:50:27
ネット革命は資本主義的な秩序を解体するか
しかしこれらの分類には、大前提がある。「ウェブ進化論」で示されているのは、従来の資本主義的
な価値、「経済的価値の構築が正しい」という前提である。2ちゃんねるは経済的に良いと言えない
ために、「ウェブ進化の方向」には含まれない。
市場経済から略奪された商品が、あるいは対価のない労働で製作された作品が、タダで大量にば
らまかれている。いまだ著作権などで資本主義的な秩序と衝突し、「貨幣による等価交換」は作動し
ていない。
現代は熱狂が純化されてきている。未開社会の間欠的にしか行われない祝祭の熱狂が毎日にな
る。熱狂の日常化。それが人間が進歩した成果である。これは、熱狂が必ずしも経済に繋がる必要
がないことを示している。
経済を中心に熱狂が巻き起こるのは人類史数百万年のうちの産業革命以降のたかだか200年で
ある。ネットが「経済性という価値」の彼岸での熱狂であることはおかしくはない。もし仮にそこに「自
由への熱狂の潮流」があるとすれば、ネット革命は、資本主義的な秩序さえも解体する力を持ち得
ている可能性さえあるだろう。
>ネット革命は、資本主義的な秩序さえも解体する力を持ち得ている可能性さえあるだろう。
本当なのか?下部構造(マルクス)を無視してないか?
サーバーの物理的維持、予算諸々のことを考えたら無理があると思うけれども?
689 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 22:07:15
サーバーの物理的維持、予算諸々が下部構造???
相変わらず・・・
まあ良いよw、金の計算出来ない奴が「純粋略奪」って、、、
SFだよな
691 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 22:39:31
たまにマシなこと言うんだけどな・・・
普通に考えてみて日本みたいな「第一世界」のように中国やインドやアフリカ諸国のような
「第三世界」でサーバーが回るはずがない
「純粋略奪」って「第一世界」限定の理論じゃないか?やっぱ「歴史」が消去されてる
ぴか〜さんは人類史にまで自己の理論を拡張したのが間違いだと思う
宮台みたいに日本のサブカルに限定しておけば「自然主義的闘争論」は的確だと思うけれども?
693 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 23:16:52
下部構造とはなにかという話で、
中国やインドやアフリカ諸国でサーバーが回るか回らないかは関係がない。
さらに自然主義的闘争論も関係がない。
キミが読んでいない、理解していないそれだけ。
それをわかって暇だからボクも絡んだだけ・・・
694 :
ぴかぁ〜 ◇q5y3ccmqnwスレ向上委員会:2006/08/30(水) 23:18:30
逃げたねw
勝利宣言!
695 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/30(水) 23:24:17
もう遊びはおわりです。ガラガラ閉店。
696 :
考える名無しさん:2006/08/30(水) 23:32:08
>キミが読んでいない、理解していないそれだけ。
得意の逃げ口上
ぴか〜さんは、東と同じだね、ちょっと叩かれるとすぐキレる
698 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 09:01:50
たとえば家族でのセカイで交換は働かない。助け合いの中にあり、どちらが損した得したということではない。
だからといって家族内に経済がないはけでなく、家族の関係性のなかに埋もれて
経済だけ切り離すことはできない。
産業革命前までは経済は社会の関係性に埋もれていたというのがポランニーに主張であり、
カラ谷の資本ー国家ーネーションの輪とは社会とは経済(資本)を単に下部構造にするものではないということだ。
マルクス的下部構造論は産業革命後のわずかな間、存在したか、したかに見えたものでしかない。
単に経済だけが社会をきていするのはありえない。
699 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 09:20:23
たとえば現在の消費社会は利潤の追求がうむ消費者には受動的なものだろうか。
700 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 11:16:36
しかし食糞系って、その立ち位置が微妙でございますよねー。
つまり、便器自身が、例えばスカトロ系ビデオレーベル「大塚サルトル」様製作の多くの作品のように「食いたい」のか、
それともマルクスのビデオのように情け容赦なく便器の地位まで落とされ、結果的に「食わされる」のか、でトラウマ的が違ってくるように思えてなりませぬ。
で、カラ谷のようなパターンだと、それは紛れもなくM的な純粋略奪なのでございますが、大塚サルトル作品群の中の、例えばラカンとかソシュールとか、絵的には自然闘争なんですけど、なーんか別の何かのような気がしてならないのでございます。
そしてそして、トイレット下部構造という言葉が似合うのは、やはりぴかぁ〜ではないかと思われますです。
でもですね、サルトルでもマルクスでも、結構ガツガツ食っているのが、小生のようなヘタレにはチト信じられないんですよねー。
701 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 12:09:13
熱狂の系譜
702 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 12:14:46
人は古来、快楽を抑圧してきた。だから人間にとって快楽とは快楽を抑圧することである。
このパラドクスこそが快楽をより増幅させ、人を熱狂する動物にしたのだ。
703 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 15:23:14
704 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 15:23:46
三位の女王様による正義の宙づり
たとえば未開社会では互酬が中心であったが、再配分であり、夫婦交換も同時に進行していた。柄谷を
これを「鞭×ディルドー×蝋燭」(交換×互酬×再配分)というボロメオの輪として示した。
未開社会の内部とは小さなSMクラブであった。封建社会、資本主義社会へと肛門は拡張し、精神
革命を経て精神内部へも広がっている。それにあわせて、外部(自然)との闘争様式は変化し、正義
を支える「鞭×ディルドー×蝋燭」(夫婦交換×互酬×再配分)も、広がり、多様化している。
未開社会では、コミュニティによる互酬による正義が中心であり、それは倒錯そのものであった。コ
ミュニティが大きくなることで、互酬だけでなく、共同体(乱交)による再配分による正義が並列する。
また資本主義によって社会がグローバル化することで、痴情による夫婦交換の正義が並列する。
これからの「自然排便の時代」では、さらにこれらの体位は解離をもたらす傾向にあるだろう。市場
による夫婦交換の正義とともに、環境問題などのようにカルトなどの世界統一教会レベルでの再配分によ
る正義が求められとともに、身近なコミュニティは騎上位へ移行し人々が繋がりをもとめ殺到してい
る。ここではネットコミュニティによるコギャルの性器が求められている。
これらの性器は、相補的であるとともに濡れている。環境問題対応は体液の活性化を抑止する
傾向があり、またパートナーの交換をともなわない手コキによる正義は、快感の問題などで市場の正
義と中だししている。そしてボクたちは乳房の豊かさを享受しながら、ベット上では罪の意識
なく、無断で接写するなどネット住人として生きる。そして環境問題を気にしたりしりするという、矛盾
した便器におかれている。
705 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 15:26:42
ネットに迎合しはじめたマスメディア
最近、ネットからネタを拾う、ネット受けしそうな記事を書くが、どうも鼻に付く
706 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 15:43:05
@自然排泄の時代 未開社会等
闘争様式:近接する脱肛という外部を崇拝するという純粋排泄(贈与)
排便様式:浣腸による互酬の正義によって、公平感は保たれる。
A自然排便の時代 封建社会等
排便様式:便器を排除し、脱肛組織という外部との闘争(肛門略奪)
排便様式:聖水浣腸による再配分の正義によって、公平感は保たれる。
B人間便器の時代 資本主義社会等
排泄様式:脱糞を数量化によって開拓する純粋排泄
交換様式:体液による交換の正義によって、公平感は保たれる。
C肛門管理の時代
闘争様式:肛門を管理し、ネットという疑似挿入の開拓する純粋素股。
夫婦交換様式:ネット上の互酬という正義、会場問題という再配分(参加費)という正義、資本主義的夫婦交
換の正義によって公平感は保たれる。(体位の解離)
参照:熱狂のスワッピング 自然(無垢)への熱狂が歴史を動かしてきたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20060823 <<
707 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 15:47:49
人間便器に熱中しはじめたマスかき男ぴかぁ〜
最近、床からネタを拾う、ミストレス受けしそうなマスを書くが、どうも異臭が鼻に付く
708 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 16:02:58
熱狂の時代
熱狂が日常化し、熱狂が純化され、熱狂が目的化する。熱狂が社会構造を主導する社会とはいかなる社会だろうか
709 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 16:12:46
サタデーナイトフィーバーという映画がある。昼間地味な仕事をし、夜の踊りに命をかける。
これは青年期でいずれ大人にならなければならないという教訓があるが
まさに熱狂の時代の在り方だ。これはいままさにフリーターの姿かもしれないが
彼らは多くにおいて成功を夢見ている。ただいま熱狂することに埋没することはむずかしい。
なぜならただ熱狂するのは正しくないからだ。それがいまの社会性であるが、
その正しさが変容しただ熱狂することが受け入れられる社会とはいかなるものか
710 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 16:25:56
(熱狂することは)「正しくない」。これがまさに問題である。
「正しくない」という抑圧のなかの反抗は、熱狂ではない。
熱狂とはまさにそれが社会的に正しいことが前提である。
祭りで騒ぐ熱狂は、日常で抑圧されていることが、その日だけは
(祭りだから)「正しい」ゆえに、熱狂なのだ。
熱狂の日常化、とはそのような意味であり、
熱狂が社会構造を主導する社会とはそのような社会である。
だから革命的なのだ。
711 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 16:30:31
■熱狂の時代
熱狂が日常化し、熱狂が純化され、熱狂が目的化する。熱狂が経済システムにかわって、社会構造
を主導する社会とはいかなる社会だろうか。
「サタデーナイトフィーバー」という映画がある。昼間地味な仕事をし、夜の踊りに命をかける。これ
は青年期でいずれ大人にならなければならないという教訓があるが、まさに熱狂の時代の在り方
だ。これはいままさにフリーターの姿かもしれないが、彼らは多くにおいて成功を夢見ている。ただい
ま熱狂することに埋没することはむずかしい。なぜならただ熱狂するのは正しくないからだ。それが
いまの社会性であるが、その正しさが変容しただ熱狂することが受け入れられる社会とはいかなる
ものか。
(熱狂することは)「正しくない」。これがまさに問題である。「正しくない」という抑圧のなかの反抗は、
熱狂ではない。熱狂とはまさにそれが社会的に正しいことが前提である。祭りで騒ぐ熱狂は、日常で
抑圧されていることが、その日だけは(祭りだから)「正しい」ゆえに、熱狂なのだ。
熱狂の日常化、とはそのような意味であり、熱狂が社会構造を主導する社会とはそのような社会で
ある。だから革命的なのだ。
712 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 16:34:42
脱糞した
713 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 16:42:27
たとえばボクたちは米をはじめさまざまな作物を食べている。
作物の生産は第一次産業といわれいまでは産業の主力からさがっている。
これは必要がなくなったわけでなく効率の向上とともに成熟したのだ。
第二次産業、第三次産業、情報産業と産業の主力は移っている。再度いえばそれらが必要なくなったわけではない。
なら産業そのものが乗り越えられることはないのだろうか。純化された熱狂そのものによって。
714 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 16:46:24
/ ノノ ノノノ ヾヽ、ヽ
/ ノj.-=・=-:',.:-=・= i |
i { ` , ,-,、´ i |
{ i )-―-'( i |
ヽ i ⌒ } |_,,,. -‐- 、
__)), ,ノ人 、_, ノ''"´ , \
/ ` ー--,. '´ . : :`( ゝ、
715 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 17:00:59
脱毛しる
716 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 17:03:55
熱狂はかならず疎外された対象を必要とする。熱狂はかならず何かに対しての熱狂である。
いくら純化されようと対象無き熱狂は存在しない。
ネットで熱狂を純化させやすいのは、ネットでは対象が容易に捏造されるからだ。
たとえば経済における熱狂はお金をめぐる、オタクの熱狂はセクシュアリティをめぐる。
しかしネットの熱狂にはそのような意味での固定された神話がない。そのときの熱狂にある対象があるだけである。
たとえばナショナリズムでさえたまたまの対象でしかない。
717 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 17:36:00
後輩と仕事の帰りに飲むことになった。
彼は大学を出てから1年の可愛い後輩。仕事でミスして凹んでいたので、飲みに誘ったら即OKだった。
彼女もいなくて寂しいらしい。仕事の相談を受けつつ、嫌な上司の対処法を伝授しつつ、軽く飲んでご飯を食べた。美味しい和食でした
どんな話から下ネタに進んだかわからないけれど暫く彼女がいないというので、セフレくらいはいるんでしょう?と聞いたら
「ぼく、ちょっと変わってるんで・・・」と彼は言う。
何が変わっているのかしつこく聞いてみたら、「ぼく、入れるより舐めるほうがすきなんです。。」そーいう人好きな子って結構いるよ?と言ったらあきさんは好きですか、と。
「私は好きよ。どーいうのがすきなの?どうしたいの?されたいの?」と散々質問攻めにしていじめてみた。彼が言うにはちんちんはあまり立たないらしいw
ただ、舐めるのがすきで、クンニだけなら2時間いけると。シャワーの匂いではなく、おしっことか、洗わない匂いで興奮するとの事
。話しながら高潮する顔は、イヤというより喜んで話しているように見えた。なんて好都合なんだろう。
718 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 17:37:35
/ ノノ ノノノ ヾヽ、ヽ
/ ノj.-=・=-:',.:-=・= i |
i { ` , ,-,、´ i |
{ i )-―-'( i |
ヽ i ⌒ } |_,,,. -‐- 、
__)), ,ノ人 、_, ノ''"´ , \
/ ` ー--,. '´ . : :`( ゝ、
719 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 17:39:20
なんとなくMっぽいので誘ったらビンゴ。いい勘してるわ、私w今までの彼女とはその趣味?が合わなくて別れたらしい。
可愛そうに。私になら喜んで飼うのに!!!ということで、「私のは、舐めたい?」ニコニコ顔で聞いてみた。
「はい。舐めさせてもらえるなら、あきさんの舐めたいです・・・」ちょっとキュンとした。なんて可愛いのだろう。
よかった。同じ部署の後輩でw飲みも早々に切り上げ、近くのホテルに入った。入るなり、後輩にベットに寝てと指示を出す。
素直にワイシャツ姿で仰向けに寝そべる後輩。私は服はそのまま。ストッキングだけは脱いで、その顔の上に跨ぐ感じで、「じゃぁ、よろしくね♪」
下着のまま、顔に腰を下ろした。後輩が深く息を吸い込むのが、判る。
「ああ・・・・すごいいいにおいです。。。」鼻を下着に擦り付けて後輩が言う。私はもう濡れている。この体勢、本当に興奮する。
720 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 17:42:53
まあそうじゃろ
721 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 17:48:41
熱狂は経済を乗り越える
たとえばボクたちは米をはじめさまざまな作物を食べている。作物の生産は第一次産業といわれい
までは産業の主力からさがっている。これは必要がなくなったわけでなく効率の向上とともに成熟し
たのだ。第二次産業、第三次産業、情報産業と産業の主力は移っている。再度いえばそれらが必
要なくなったわけではない。なら経済そのものが乗り越えられることはないのだろうか。純化された
熱狂そのものによって。
熱狂はかならず疎外された対象を必要とする。熱狂はかならず何かに対しての熱狂である。いくら
純化されようと対象無き熱狂は存在しない。ネットで熱狂を純化させやすいのは、ネットでは対象が
容易に捏造されるからだ。たとえば経済における熱狂はお金をめぐる、オタクの熱狂はセクシュアリ
ティをめぐる。しかしネットの熱狂にはそのような意味での固定された神話がない。そのときの熱狂
にある対象があるだけである。たとえばナショナリズムでさえたまたまの対象でしかない。
722 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 17:56:12
,r' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ
/ l
l,r――――――、 l
.l |=・=‐, 、-=・=-| l うおっppい1!i 発狂¥ウンコみれにして
l | ,,ノ(、_, )ヽ、,, | l ヘラヘラwwそれはどうかな?マnコ!・・・猛稽古w
l | `-=ニ=- ' .:::l_.,l まだやってるのかね? ∴.-=・=- -=・=-|かな?
''\ `ニニ´ .:::::;;/' プゲラウヒョー楽しいそうだね?うへhhhそいつはどうだい?
/::::|___/:::\ よしよぷっwwぷっププワプワプワラワぷっwwぷっww゚プワフ
//,',';; ノ´ ̄ ̄!, ',',;;::',',゙i ト‐=‐ァ' てろごろ∴.-=・=- -=・=-| るだろってろるだろに
./,',',';;" // \ ',',',;;,'i ワプワプぷっwwぷっまだやってワぷっwwぷっww゚プのかw
.i 、 / ヽ ',;::'、| ッツピックツクップッピパッピュカッ(●)(●)(●)してあげようかね?
.| 〈 ヽ'' { いっちょ発狂してww亡霊とヘラゲラ戦ってwwようかね
723 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 17:58:49
丁度クリに鼻をこするつける。私も声が出る。「あ、いい・・・きもちいい・・・」暫く擦って楽しんだあと、下着を脱いで直接跨いだ。
クチュっと卑猥な音が出る。振り返って、後輩の股間を見ると、立派に立っているではないか。。「立ってるね。本当に好きなんだね・・。可愛い」そういうと後輩が優しく舌をクリに這わせ始めた。うまい・・・
724 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 18:03:57
クリの先をゆっくり優しく舐める。。私が大好きな舐め方。「ああ・・・いい・・・すごい・・大きくなる。。クリ立っちゃう。。もっと・・」
あえぎならが顔に押し付けると必死で舐めてくれる。スカート中に顔があるから見えないのでスカートをたくしあげて、自分でおマンコをひらき、クリをむき出しにしてなめさせる。
「すごい。。。クリ大きくて・・美味しいです」そういいながら、口に含んだり舌先でつついたりする。そのたびに腰がひくつく。
725 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 19:27:19
イデア報道の影響か、会見場にボロメオリベラリズムが漂う中、協栄ジム金平桂一郎会長と 会見場に現れた興毅は、
「とりあえずアフェリティブだけは許せん。カントごときにああいう試合を したことに欲動していない。とりあえず次はつぶすよ」
と定立的ににリバタリアンを熱狂。
前回は正義の宙づりでのコギトが伝えられたが、
「一回インセストタブーやったから分かっている。今回は違うポトラッチで やるしな。
この前は漂流だったし、あれ以下はない。バタイユがうまくいったらあいつ死ぬな。 ベネズエラまで吹っ飛ぶよ」と自然崇拝。
まなざしこそ明かさなかったが、新たな遠近法で初防衛戦に 欲望することを明かした。
「オレはオレの純粋略奪をやるだけ。寝てても勝てるよあんな鏡像」
といつものリベラリズムも 飛び出したが、大文字の他者はうつむき加減で弁証法を組み、転移にも終始厳しいアガペーで答えていた。
ポスモダのルサンチマンにはファンに向けて、
「パロールは悪いことした。ラングも実存してないやろうけど、 オレが一番下部構造してないからな。内部は、みんなにスカッとしてもらうような無垢を見せるよ」
とシェーマLを送った興毅。
果たして、象徴界を脱構築す豪快なノマド閉塞を表象することが できるのか!?
世界中の人ひとりひとりに美人が行き渡るように闘っている人を知っているか
727 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 20:03:22
自称ぴかぁ〜の母でございます。
息子の鬱病は一層酷くなりまして昼夜逆転、4:00に寝て昼頃に起き出して
吉野家で一日分の食事を掻き込み、パソコンや携帯で遊ぶ毎日でございます。
皆様にはご迷惑をおかけしております。
どなたか息子を雇っていただける会社はありませんでしょうか。
728 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 20:08:52
おととしの忘年会で行った温泉街のソープのおばちゃん(推定55歳)は、かれこれ30年以上やってるって言ってた。
やはりオマンコは凄い事になってた。しかも上の歯が入れ歯だった。孫もいるんだってさ。
オマンコすっかすかで全然挿入感無いのにトレーシーローズばりの喘ぎ声で、「お兄さん固い!すごく固いよ!当たってるよ!はぁ〜!」
って叫ぶんだけど、全然6分勃ちなわけ。ティンコはどこにも触れてないような感覚。
そうだなぁ〜、例えると350mm缶をくり抜いたのに突っ込んでる感じかな?オマンコなんか全体的に飛び出してて、発情期のサルみたいなワケ。
そんでもって「おっぱい揉んで〜、はぁ〜」とか言ってんだけど、ほぼ棒読み。学芸会のレベル。
で、当然ながら口臭も結構凄いわけよ。ティンコもいい加減にゲンナリしちゃってね〜。
そんな事にはおばちゃんも慣れてるようでね、右手に唾液をたっぷり付けてさ、シゴクんけどさ。
これが逆手なんだ。逆手。シゴクというよりも刃物を突き刺す手つきなわけ。
少しすると唾が乾くでしょ?摩擦で。蒸発して臭いんだ、これが。緑亀の水槽の臭いに近い。
そんでおばちゃんの顔みると、次の唾を口の中で貯めてるわけだ。まだやるかって感じ。
そんな条件なのに、俺のティンコ、また勃ってきてさ。何だろね?自分でもビックリ。
そしたらおばちゃん、大量の唾をティンコにベッタリ塗りたくって。そしてやおらバックスタイルに構えてさ、こう言うわけ。
「お尻の方に入れていいよ〜、お兄ちゃんの、少し大きいけど、早く〜ぅん」言っとくけどココまで生だぜ?
で一瞬躊躇してると、おばちゃんテメェの肛門にも唾塗ってるわけ。
で、その指をもう一回自分の口に持ってって唾追加してんの。今度は指入れて中にも唾塗ってさ。
729 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 21:57:41
■ネット社会は資本主義的な秩序を乗り越えるのか
自由への熱狂
産業革命は19世紀であるが、16世紀ルネサンスにはじまり、宗教革命、科学革命、大航海時代な
ど、人間主義、啓蒙思想の普及という近代化の潮流の帰結として起こった。さらに言えば、このよう
な人間主義、啓蒙思想は、ギリシア思想であり、初期のキリスト教であり、紀元前の精神革命といわ
れるものが、中世をイスラム圏で育まれ、到来したものである。このような潮流の中の産業革命、そ
してその後の資本主義の躍進を考えるときに、その根底に「人間中心主義的なもの」が流れている。
資本主義のマルクス的生産中心構造は、瞬く間に消費中心構造へ転換された。むしろ資本主義と
は消費社会のことを指す。産業革命後、経済システムを下部構造として社会は構造化され、家庭、
学校、企業などがつくられたが、消費社会という欲望の熱狂の中で、容易に書き換えられている。
大量生産革命(フォーディズム)、大量消費革命(マクドナルドイズム)、サブカルチャー革命(商品選
択という消費のみならず、創造によって市場に参入する)、情報革命、金融(マネーゲーム)革命、グ
ローバリズム・・・これらはまさに過剰さであることで繋がる。ここに流れる「人間中心主義的なもの」
とは、「自由への熱狂」である。
730 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 21:58:55
「ネットでお金は儲かるか」
「ウェブ進化論」の中にキーワードに「不特定多数無限大」がある。「不特定多数無限大」とは、「イン
ターネットという人々と情報が「無限の世界」」の力である。そして「不特定多数無限大」への「信頼あ
り」か、「信頼なし」かで分類されている。
たとえばヤフー、楽天などネット企業は、「信頼ない」に分類される。信頼がないから、様々なセキュ
リティであり、管理、防御が施される。それに対して、「信頼あり」の例はウィキペディアである。ウィキ
ペディアにウソを書くことは容易であるが、「不特定多数無限大」によって「価値」が構築されるだろう
と信頼することでなりたっているのだ。
そしてこの「価値」とは資本主義的な価値、「経済的価値の構築が正しい」という前提がある。もっと
いえば、「ネットでお金は儲かるか」ということだ。たとえば2ちゃんねるは「不特定多数無限大」とい
う力が日々蠢く場であるが、「ウェブ進化論」の彼岸にしかないのだ。
731 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 21:59:45
経済的な秩序からの自由
著作権、肖像権などの資本主義的な秩序が無視され、市場経済から略奪された商品、あるいは対
価のない労働で製作された作品が、「貨幣による等価交換」なく、タダで大量にばらまかれている。
ネットは資本主義的な秩序と衝突しつづけている。
経済を中心に熱狂が巻き起こったのは、人類史数百万年のうちの産業革命以降のたかだか200年
である。ネットの熱狂が「自由への熱狂」の潮流にあるとき、ネット革命が、資本主義的な秩序さえも
解体する力を持ち得ている可能性があるのではないだろうか。
資本主義で解体された拘束は、互いに規定しあう社会的な関係からの自由であった。ネット社会で
解体される拘束は、経済的な秩序からの自由である。これは安易な「ニートバンザーイ!」ではな
い。社会に経済が消失することなどありえないが、経済システムが社会を主導してきた資本主義社
会から、ネット社会は変容される可能性があるのではないだろうか。
732 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 22:00:46
「熱狂」主導型社会
未開社会の間欠的にしか行われない祝祭の熱狂が日常化する。現に現在の消費社会はムーブメ
ント(熱狂)主導型となっている。そしてネット社会では熱狂はより純化されている。ネット社会を主導
するのは、より純化された「熱狂」そのものである。
この「不特定多数無限大」の力は、経済性への信頼があるか、ないかでなく、経済性という価値その
ものの彼岸にあるのだ。だから経済的価値が生まれないわけではないし、社会の秩序が崩壊する
わけではない。ただそれはいつも事後的でしかないだけだ。
熱狂の時代
熱狂が日常化し、熱狂が純化され、熱狂が目的化する。熱狂が経済システムにかわって、社会構造
を主導する社会とはいかなる社会だろうか。
たとえばボクたちは米をはじめさまざまな作物を食べている。作物の生産は第一次産業といわれい
までは産業の主力からさがっている。これは必要がなくなったわけでなく効率の向上とともに成熟し
たのだ。第二次産業、第三次産業、情報産業と産業の主力は移っている。再度いえばそれらが必
要なくなったわけではない。なら経済そのものが乗り越えられることはないのだろうか。純化された
熱狂そのものによって。
ぴか〜さん、これが2ちゃんの現実だ、もう、止めたら?
柄谷関係者に喧嘩売ったら、この結果
以降「向上委員会」として書き込んでおくけど、ぴか〜氏は自己の「思想体系」を2ちゃんで晒した
初めての人物であり、高く評価されるべき
異論があるならば「向上委員会」も参戦するから
734 :
考える名無しさん:2006/08/31(木) 22:38:54
ブログでやればいいだけじゃないか?
もしかして、そういう新技術についていけないだけでしょ。
735 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/31(木) 23:45:32
>>
バウマンも指摘するとおり、蓄積や一貫性を維持することが困難な後期近代においては、共同体へ
の感情は、アドホックな、個人的な選択の帰結から生じるもの以上ではあり得なくなる。彼を考える
のは、いわば「共同体」から「共同性」への転換だ。すなわち、ある種の構造を維持していくことでは
なく、共同性−−−<繋がりうること>の証左を見いだすこと−−−をフックにした、瞬発的な盛り
上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となっているのである。このような瞬発的な盛り上が
りこそが、ここでいう「カーニヴァル」にあたる。
「カーニヴァル化する社会」 鈴木謙介 (ASIN:406149788X)
<<
736 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:05:12
737 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:09:48
夫馬で〜す。
かれこれ10年も前のことか。そんときの生物の先生が
成蹊で安部ちゃんと同級生で、そんときにさ、ベガスか
どっかで発金娘を買ったんだと。ま、やることはやった
らしいが、ホテルの部屋にバラバラに隠しといた金が、
盗まれたってさあ。
題して「総裁線と売春夫」
738 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:10:58
フリーライダー達、元気だなw
740 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:12:40
早速、フマさんが訳分からないコメントw
>それを受け入れる読者側の構造というか、
>現実というか、インタレストというか、
>本当の問題はそういったところにあるん
>ですけど、その読者側の構造が自分には
>どうもよく見えない感じがしています。
投稿 夫馬 | 2006年8月30日 (水) 12時46分
>商売に対応するのは、読者ではなくて
>「消費者」と言うほうがより適切です。
>読者だと狭すぎますね。
投稿 夫馬 | 2006年8月30日 (水) 12時54分
741 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:18:42
742 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:22:07
名前:ふま。消えろこの粘着野郎。ごみ虫が。w 投稿 いなば[] 投稿日:2006/08/29(火) 23:55:12
名前:夫馬さま コメントを頂戴し、恐れ入ります。[] 投稿日:2006/07/13(木) 13:45:27
夫馬さんこのaa作るのに一体時間どのくらいかかったんだい?[] 投稿日:2005/11/30(水) 23:42:58
このAA作れる奴が基地害でなかったら一体他の何なんだ?w
,r' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ
/ l
l,r――――――、 l
.l |=・=‐, 、-=・=-| l うおっppい1!i 発狂¥ウンコみれにして
l | ,,ノ(、_, )ヽ、,, | l ヘラヘラwwそれはどうかな?マnコ!・・・猛稽古w
l | `-=ニ=- ' .:::l_.,l まだやってるのかね? ∴.-=・=- -=・=-|かな?
''\ `ニニ´ .:::::;;/' プゲラウヒョー楽しいそうだね?うへhhhそいつはどうだい?
/::::|___/:::\ よしよぷっwwぷっププワプワプワラワぷっwwぷっww゚プワフ
//,',';; ノ´ ̄ ̄!, ',',;;::',',゙i ト‐=‐ァ' てろごろ∴.-=・=- -=・=-| るだろってろるだろに
./,',',';;" // \ ',',',;;,'i ワプワプぷっwwぷっまだやってワぷっwwぷっww゚プのかw
.i 、 / ヽ ',;::'、| ッツピックツクップッピパッピュカッ(●)(●)(●)してあげようかね?
.| 〈 ヽ'' { いっちょ発狂してww亡霊とヘラゲラ戦ってwwようかね
743 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:25:14
744 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:26:26
あまりに濡れる私の愛液を美味しそうにすする彼。
口に含んでクリに吸い付いた瞬間「あーーっイクっ」あっけなくいってしまった。それでも彼はやめない。
本当に好きなんだなぁ。。と思いながら敏感になっているクリを擦り付けて舐めさせた。何度も何度も波が来て、ビクビクといってしまう。。
本当に気持ちいい。クリは真っ赤になり、肥大して上からでも見えるほどになっていた。
そこに舌があてがわれ、舐められる。自分の乳首を触りながら彼の頭を抑えて何度もいく。
さすがに膝が疲れたので、寝そべると彼はベットのしたに座ってそのまま私の足をひらき、M字にしてまた舐め始めた。「ああ・・・いく・・・いっちゃう・・」なんどもうわ言のように繰り返して私は何度も頂点に達した。潮もふいた。
745 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:28:23
潮もふいた。クンニだけで。今までで一番すごいかも。。。?
結局2時間近く舐められっぱなし。さすがに疲れてギブアップしたw
帰るときに彼は「いつでも好きなときに呼んで下さい。今度は会社のトイレでさせてください。。」そういった
。「またよろしくね♪」ほっぺにキスして自宅に帰った。
746 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:30:09
「\ .「\
〉 .> 〉 〉
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( 〈 . / /.
\ `\ |ヽ |
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ヽ `´ ノ
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/ ミヾ \
| リリ ::: |
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|-=・=-.:',.: .-=・=-;|川
| .,,ノ( _, )ヽ、,, .::::|リリ
. | `-=ニ=- ' .:::::::|(((
彡\ `ニニ´ .:::::/ミミ
\ ./ ´
ー‐‐'
747 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 00:30:31
■「カーニヴァル化する社会」
>>
バウマンも指摘するとおり、蓄積や一貫性を維持することが困難な後期近代においては、共同体へ
の感情は、アドホックな、個人的な選択の帰結から生じるもの以上ではあり得なくなる。彼を考える
のは、いわば「共同体」から「共同性」への転換だ。すなわち、ある種の構造を維持していくことでは
なく、共同性−−−<繋がりうること>の証左を見いだすこと−−−をフックにした、瞬発的な盛り
上がりこそが、人々の集団への帰属感の源泉となっているのである。このような瞬発的な盛り上が
りこそが、ここでいう「カーニヴァル」にあたる。
「カーニヴァル化する社会」 鈴木謙介 (ASIN:406149788X)
<<
ここで示される「カーニヴァル化」は熱狂の日常化、純化を表していると言えるだろう。失われつつあ
る社会性の取り戻し(バックラッシュ)である。そしてボクはこのような熱狂を先に示したように、後期
近代に限られたものしてではなく、熱狂の系譜としてみる。
「カーニヴァル化する社会」で見失われていることは、熱狂はただ「人々の集団への帰属感の源泉」
としてだけあるわけではない、ということだ。たとえば未開社会などの祝祭は、共同体の帰属感を高
める儀式であったのだろうが、自分たちではどうすることもできないほどの崇高な自然に対する圧倒
感に対する、自然への熱狂=信仰である。熱狂とはただ熱狂としてあり、ただ熱狂へ向かうのだ。
748 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 00:38:57
マンコ臭ランキング
1 完全な無臭 完璧な無臭。心地良い風があなたを包む
2 無臭 臭いではなく匂い。甘い香りがするという意見も。
3 微臭 仄かに匂いが感じられる 微笑ましい香り
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考える名無しさん:2006/09/01(金) 02:08:52
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蛙邊鍼憎魔璽夷羅子佐々屠嗣簾邊嗣
|:: ン -==-∴-==- < |
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751 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 03:28:31
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752 :
アトロボスよ!あなたを愛する・・ディオニッソス。:2006/09/01(金) 05:05:49
『喜劇の誕生歌』 《全ての官能的に生きるブルジー・ファル達へ。》
序奏・『これは私の私が抱いた、反感であり、あなた方への反応では無い。
寧ろそれはよけいに私のそれはこの私、この自らの感覚において、いよいよを持って意識し、又それを吐き出さねば私はこの世界の
一体何を知り又、何を認識しようと言った所でもはや誰が“理解”しようものか!!』
『今一度、改めて言う。これは私の反感で或る。』
悪魔を認識の最も古い友である事を理解する幾らかの友がいるとして、私は無理解を“知り”つつも“彼”の言葉を借りてまで、こう宣言する事をどうか、私に許して貰いたい。
『この世のあらゆる深い思想家は理解される事よりも寧ろ誤解される方を良く好む。』
そして、又この言葉の理解にすら反感を求める私は、もはやこれこそ真なる愚であろうか?それとも?――それとも?――。
序曲・ソクラテスとディオニッソッスの比喩による皮肉話。
『真理が女である。』とするならば、なるほど私達はすでに、この事について良く学び、又良く欺く事にも全く持って十分、無頓着にはしためて来た事にも頷ける事も許されよう。
さらに、深くこの世界を洞察してきた者なら、より確信を持って次なる事柄を言える事を羞恥心を捨て許されるであろう事か!!この様に!!
『この喜ばしい知識の前で、一切の装飾など、もはや何の意味があろう事か!!羞恥心ほど好めかしくない軽蔑など、もはや我は欲せずに値する!!』
753 :
アトロボスよ!あなたを愛する・・ディオニッソス。:2006/09/01(金) 05:07:37
諸君!!汝らが恋慕して、やまない“クンドリ”は、諸君らの認識の館からは逃げる事も無く、また自ら、物陰に潜む事もなく。
ただその眼下で踊る。
ただ眼下で踊るのだ!!
その姿と芳醇な香りを、
その稀有な艶めかしさの内にも荒々しく抱き締めながらその見慣れぬ感覚と差異に臆する事無く静観しよう試み震え立つ者!!
真、ただそれだけの者を
“彼女”は愛する!!!
然るにこの様な花言葉が、あの花に咲き誇り優雅に揺れる。
あの『彼岸』に置かれた事を諸君らは、ますますその肝に命ずる事とは、より結構な事ではないか!!
『真理は女だ、暴利は加えるべきでは無い。』
ブルジー・ファルが彼女を救い出そうとするならば、もしその術が既に取り憑き立ちはだかろうものなら!!
否!!どうであろう今日の哲学者、諸君!!
その魔術の名はあらゆる感覚に置ける『先入見』真、これこそ、その名では無かろう事か!!
754 :
アトロボスよ!あなたを愛する・・ディオニッソス。:2006/09/01(金) 05:10:06
第二楽譜
『彼は死んだ、自らのアイロニーにより死んだ。』
このヴァーグナーの歌劇を聞く事が許された“第三”の耳を持つ者達よ!!
いよいよ持って私達はあの悲劇を今一度、試みなければ、なるまい!!即ち、ダイモンの囁きの内にガイスト(酒成分)を飲み欲し、
狂神が粋狂し、踊る時代の終わりを道連れに伴に没落し。
あのに才知の天空に三度あの光明なる太陽神アポロンの到来を掲げた。
『智の復讐者』“ソクラテス”!!彼の悲劇を再び、再現しようと私の車輪は望むものなのか!!
あの哲人はその口から語るを真、知る者であった!!
またあの時代の民衆も聞く事に長け、少なくとも、この哲人の奇怪な言葉への
“無関心”さを埋めて見ても、その不安を許容出来る程に精神も十分な意志を所有する高貴さも備えていた!!
諦めの寝付けない精神を所有するものは『では?何故に彼は?』と今一度、問う事を己に許すが良い!!
あの時代の権威ある当時の官僚どもが、疑念の内を曝露し多数の内に狂気を伝染する不理解を制圧を企てるあの恐怖への道徳の進攻や
多くを所有する事を許された者達持つ者を嫉み恨み、
一切の真理性の匂いのするものは大多数により所有されなければ、全て偽装であり人を欺き、害を与える。
真に“悪”で在ろう!!と
訴えるに至る、尚鬼畜道徳の恩恵(これこそ神の慈悲と等価と呼べるものそのものだが!!)とその根底に在る倫理は、次のものに他ならない。
「だから我々は正せなばなるまい!!否!まさに是故に彼への同情として受け取って貰はなければならぬ!!」
755 :
アトロボスよ!あなたを愛する・・ディオニッソス。:2006/09/01(金) 05:11:32
その倫理はプラトン、彼の悪人は悪である事を知らないから、害を成すの者でありつまりは人そのものは善であるからして、悪人から悪を取りのぞけばその人は必然的に善人になり、悪人から悪を取り払い。
その更生後にはまた社会や国家に彼は進んで貢献するであろうと。
あの『奴隷道徳』精神の残り香で在るとする根拠。と
その善意に復讐の仮面を被る民衆の反感に、この真、悲劇的な智の復讐者はその十字架に架けられた。
とは私の理解を解釈する限りのする所では余り“感覚”の記憶の意志は何も此処には取りもでせない。
諸君、彼は自ら掲げたのだ!!自らの発見と発明の内に、又その感情を知らなかった。
その時代とその当時の民衆達が、その意志を克服する精神が、育だつ事が、まだ意識の内に無かった為に!!
その彼を自らで、発明した事に驚き、驚愕の内に歩を進ませその階段を上らせ後に自らが掲げたであろう。
十字架の名は、なんと奇怪にも『皮肉』であろうとは!!
その事実が十二分に語られる事と、その認識の口からは漏れてくる事はあれから十何世紀たった。
この現代に置いて見渡した限りに於き余りにも、人間的にそれ故に余りに人間的の内で皮肉的な“無意味な苦しみ”であろう事か!!。
またその事を現代の『智を愛する。』事を自称する者達が知る事もまた皮肉にも極稀である。
756 :
アトロボスよ!あなたを愛する・・ディオニッソス。:2006/09/01(金) 05:12:46
第三楽譜・『神は死んだ、真に“あなた方”への同情により死んだ。』
過去にあの言葉の真意に触れ、その言葉に至るまでに続く恐怖、悲しみ、絶望、
孤独その他もろもろの価値を評価する勇気を奮い立たせるに至るまでの深くに咲く悪の『華』をあなた方は
その思惑の強かな、嫌悪の中から上昇し、その先の最も高い位置から華開く事をほんの少しでも、創造しただろうか!?
“あのユダヤ人達の復讐の仮面に隠れそのより一層深い闇に咲く悪の愛の華を!!”
“ツァラトゥストラはかく語りき”この書物を飽く事を覚える程に彼のその言葉を丹念に拾い上げ読み更けた後に没落を見つめ続け。
その後に登る朝日を予見し感じた人は、あの書物を書き上げた人物に対し、その没落の後に移り往く、感覚は決して聖書に対する憎しみや僻み、怨みなどには決して偏らず。
寧ろ、それは其処までに至るまでに彼のその感性に強く与えた、憎悪や反感を育てた事に対する。
あの神へ対する敬愛、そして感謝にまで至る感情を私はひとえに強く感じる事を何よりも理解したいし、又それ故に自らへの高みを登らんとする、“あの”自己嫌悪からなる軽蔑も又、理解を真、誠実な感覚で持って認識しこの感性へ尚より強く、受け入れて貰いたい。。
757 :
アトロボスよ!あなたを愛する・・ディオニッソス。:2006/09/01(金) 05:16:00
第四楽譜・善悪説を説く者彼らはミュンヘンハウゼンを罰する事無く良く笑うが良い!!
私が意地悪をして不味い解釈技術を非難することを、止めなくても幼少な文献学者のする事として容赦せられたい。
かくして私は言うが、実在的に「与えられ」ているものは我々の欲望と情熱の
世界より他の何ものでもなく従ってわれわれはまさに
われわれの衝動の実在性より以外の他の「実在性」へ下降する事もできないとすれば――――どうだろう?
あの無意識の内に存在すると言う秩序的善悪説など、いかに我々の生との思惟そのものとの関連性に対し、
ますます持って何の実在性が在るのだろう!!とわれわれがその事に対し意識する限り。
われわれが、まだ“確定されていない動物”であると自らにこの意志は判断をこの下すことを欲していると言う事ではないか!!
諸君、我々はこの事に耳を良く傾けるべきである!!
そしてその試みに問うが良い!!そしてその返答はおよそ、全て此処へ口を開く!!
おお、ヴォルテールよ!おお、人間性よ!おお、愚鈍よ!「真理」とか真実の探求といえば、何かしら重要なことのようである。そしてその際、人間が全く余りに人間的にそれをやれば、
―――《ただ善を為すためにのみ真を求める》というわけになる。――私は賭けよう、彼は何も見いださないのだ!
善悪の彼岸・第二章・自由な精神より。
758 :
アトロボスよ!あなたを愛する・・ディオニッソス。:2006/09/01(金) 05:17:45
「我は感覚になぞけり、故にそなた其処に在りけり。」
おお!!認識のほこらに住むものよ!!
私は虱潰しにこの『自然主義的闘争論』なる
“説明の為の説明”と解釈出来るこの奇怪な一大叙事詩をその表象を被い隠す
言語を言語的語感に作用する、単一的な認識の感触からは私の頭脳が理解の反応と推測を確かな確信へと移り行く“瞬間”が全く持って、沸き上がらない・・・・。
つまりは私が日頃、自己の『良き趣味』と呼び多くの時間とその殆どが私の認識視野と“自発的仮称精神”との対を為し、常に討論を交わし互いに『楽しみ』合っている。この何とも余所から覗けば、悪趣味な会話に真、密やかに勤しみ慎んでいる。
その慎みの主体となり論争の引き金になりうる。
自己観点的な矛盾で有ったり、更にはその時、構想し悩んでる疑問の問いと返答だったりと様々だ。
その文庫化された『思想』に驚き、あの幼年時の遊戯に見いだした真剣さそのもので、その理解を得る為に文献を自分の感覚で追い掛け、その概念の形容を造り上げ、次の形体へ創り代える、あの“テンポ”を手探りで拾い出し。
その一連の言語化された、構想の一つ、一つの言葉を自己の感覚で一つ、一つ音を奏でる。
音階を示した“楽譜”と見立てる事が、私以外の人物達と密やかな音色を記述に乗せ、自己と他との世界を共有可能な認識とする。
その扉のスイング・ドアをふわっと通り過ぎ。
此処まで運ばれた“音色”は微かに五感と語感の表象の皮膚の上で踊る。
あの“感情”を沸き上がらせ。
私が彼等から持ち帰り、与えられた感覚は・・・・・。
その思想と恩地を後世へ繋げた彼等『哲学者』達のその著書を読み終えた後の感覚と感想はまさに『痛み』それその『物』とまさにそれのみであった。
759 :
アトロボスよ!あなたを愛する・・ディオニッソス。:2006/09/01(金) 05:18:27
私が、興味と関心を恨めしい程思い、憧れを抱き。
尊敬と自己への『軽蔑』を両立させる程までにその個人が見た『世界』に飛び込む。
この熱情の火の袂には自己が持つ感性の“感覚”が最も、自己と近いと“感じる”事が自己が置きその場に留まろう(その思想を主軸に構想を駈け巡る事を自己と他との認識の差異だと確認するならば。)と試みるならば。
思想的スタンスと知識的平行感覚と経験的平行感覚を保ち自身の感覚を立ち上げる感性に巧く共鳴(シンクロ)し。
その思想的身体を歩みの足を向わせ、目指す方向と指針を意志させ。
尚も突き詰めた、足取りを純潔と混在の中に進ませ。
その心中に自己の『真実性』を置く事を決意させる。
その『心中』に渦巻く観念又は、その間逆と思われる観念感を所有する事を共有させる記述が見せた。この意識が目覚める内の昼と光に削られた。
『無意識』と『無感覚』が連なり、時折、我々の習慣に深渕を覗かせる『昼の地下渓谷』に吹きぶさみ。
その認識の海の深さを“感覚”で持って知り得る一握りの人達に、この暗喩と隠喩の内に細やかな愛情を散りばめたアイロニーと供に折り込み。
その消印の“印し”として伴に語性と感受性に発送されたならば直ぐに理性の内に書き留められ、微かに香りを誰かに・・・・・引き止められます事を願いまし、この言葉に包まれます様に・・・・・
『この真昼に見える世界、この“真昼”の闇は・・・・・夜の闇にも“増して”真“深い”』。
760 :
よしお:2006/09/01(金) 05:45:32
格差社会は今後も進展していく。さらに階層化が明白になってくる。マクドナルドやユニクロ
などの下層階級御用達の企業もどんどん現れてくる。このことは何を意味するのだろうか。
現実社会はニート、ひきこもりの増大。さらにフリーターと正社員との格差拡大。そして一部の能力の
あるものに対する優遇処置。これらは今後ますます拡大し、日本社会は階層化が固定していくだろう。
つまり、日本は高級住宅街とスラムに分離され、そこでの人間の交流はなくなるということだ。
では彼らの接点は本当に無くなるのだろうか。そんなことはない。消費の現場では顔をみることはなくても、
下層労働者は高級住宅街に住む、一部勝ち組人間たちの奴隷となっているにすぎない。勝ち組人間が使う、トイレットペーパーと
下層労働者の一時間の労働が同等であるという時代がこれから到来しようとしているのだ。
だが搾取され、疎外される人間に闘争する手段はない。現実社会は強者により、徹底的に管理されているからだ。
物理的暴力を発動する機会など現代社会にはない。彼に残されているのは安い娯楽とネットのみだ。
彼らは自らの労働力を安売りし、安い消費に甘んずる、勝ち組の奴隷にすぎないのだ。こんな社会が未来の社会といえるのだろうか。
マルクスが資本論を書いた時代と何も変化していないではないか。
761 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 10:54:43
格差社会ネタで熱狂できるのはおじさんだけですね。
762 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 10:58:12
もはや「経済」は一番の関心ではない。
経済に熱狂するのは株ブームなどのマネーゲームだけ。これは経済でなく賭博、ゲームへの熱狂でしかない。
763 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 11:06:26
経済の終焉
消費社会において下部構造としての経済は終わりにむかった。
経済がまわるからボクたちは余計なものをかわされているなどナンセンスだ。
ボクたちが熱狂をもとめ、そこに資本が投入され経済は回るという相補的な関係にあった。
しかしもはや資本の投入は重要性を失い、ネットにおいては熱狂は純化された。
764 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 11:14:56
それがどうした?
うすらボケ 超暇人め
良い世の中ではないか、お前みたいのが排除されずに飼われているのだから。
765 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 11:28:17
>>764 本当だったらかなり重要な変化だと思うけれど。
766 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 12:03:41
もはや経済は形骸化している。退屈だから働くのだ。かりに経済的余裕があろうとこの終わりなき日常を何をして生きるというのか
だから懸命には働かない選択肢はおかしなことでないし、彼らは働いているのだ。それが好きなことだから対価がないだけだ。
好きなことをしてお金がもらえることが理想となる。しかしそれも正しくはない。ほんとに好きなことは経済から離れたところにしかない。
対価をもらうともはや楽しくないのだ。
767 :
ぴかぁ〜 ◇q5y3ccmqnwスレ向上委員会:2006/09/01(金) 12:23:14
鈴木謙介は著作でフリーター/ニート問題を若年労働者の失業問題として捉えてる
経済は重要だよ
768 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 12:26:42
二元論はやめな!だれも経済が重要でないなどいってない。もはや一番ではないといっているのだ。
769 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 12:31:08
定職についている、いないの問題ではない。この問題はむしろ定職についているものの方重要だ。
770 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 12:41:38
自由への熱狂は、自由というなにかがありめざすわけでなく、
不自由の産出ともにある。とにかく不自由がなければならない。
熱狂の純化とは不自由の産出そのものが目的化した状態をいう。
そして熱狂することが経済を含めた社会構造を再構築していく。
771 :
ぴか〜スレ向上委員会ぴかぁ〜 ◇q5y3ccmqnwスレ向上委員会:2006/09/01(金) 13:04:22
「熱狂」の一方で「しらけ」が問題だと思う、「しらけ」に伴うイロニーが「熱狂」を加速化する
北田が著作でネットにおける「しらけ」がネットをファシズム化してる(右傾化ではない!)といった
指摘は重要
ぴか〜氏も「しらけ」てるんでしょう?だから書き込み続ける
ファシズム待望論に見えてくる
772 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 14:07:00
熱狂重視の社会は狂気な社会のように感じる。受ければ許されるような。
社会に格差がないといっているわけではなく、格差さえ熱狂に消化されてしまうということ。
たとえば現代は人のつながりが希薄化し孤独死が増えているとしても経済重視社会は進むわけで。
いかにうけるか、不自由の発見に価値がある。たとえばオーマイニュースがはじまったが、
熱狂を妥当することでみごとに熱狂に解消されている。だから正義をめざす報道が無駄だ
というわけではない。
熱狂の純化と動物化は近いところがあるが熱狂はかならず集団を前提としている。
共有性の取り返しとしてある。オタクとはかならず集団である。
たとえばグーグルのアフェリテブなどの成功はネットの熱狂への適応であってかつてのように
グーグルが社会をひっぱり変容させることはない。あくまでネットの熱狂が社会構造を変容させるのだ。
773 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 14:21:18
■経済の終焉と熱狂の時代
経済至上の終焉
消費社会において下部構造としての経済は終わりにむかった。経済がまわるからボクたちは余計な
ものを買わされているなどナンセンスだ。ボクたちが熱狂をもとめ、そこに資本が投入され経済は回
るという相補的な関係にあった。
しかしもはやもはや「経済」は一番の関心ではない。これは、経済が重要でないなどいってない。も
はや一番ではないといっているのだ。経済に熱狂するのは株ブームなどのマネーゲームだけ。これ
は経済でなく賭博ゲームへの熱狂でしかない。
たとえばグーグルのアフェリテブなどの成功はネットの熱狂への適応であってかつてのようにグーグ
ルが社会をひっぱり変容させることはない。あくまでネットの熱狂が社会構造を変容させるのだ。
労働は退屈だから働くのだ。かりに経済的余裕があろうとこの終わりなき日常を何をして生きるとい
うのか。だから懸命には働かない選択肢はおかしなことでないし、彼らは働いているのだ。それが好
きなことだから対価がないだけだ。好きなことをしてお金がもらえることが理想となる。しかしそれも
正しくはない。ほんとに好きなことは経済から離れたところにしかない。対価をもらうともはや楽しくな
いのだ。これは、定職についている、いないの問題ではない。むしろ定職についているものにとって
重要だ。
774 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 14:21:52
「不自由の産出」の目的化
自由への熱狂は、自由というなにかがありめざすわけでなく、不自由の産出ともにある。とにかく不
自由がなければならない。熱狂の純化とは不自由の産出そのものが目的化した状態をいう。そして
熱狂することが経済を含めた社会構造を再構築していく。
熱狂重視の社会は狂気な社会のように感じる。受ければ許されるような。社会に格差がないといっ
ているわけではなく、格差さえ熱狂に消化されてしまうということ。たとえば現代は人のつながりが希
薄化し、孤独死が増えているとしても経済重視社会は進むわけで。
いかにうけるか、不自由の発見に価値がある。たとえばオーマイニュースがはじまったが、打倒2
ちゃんねる!によって、2ちゃんねると共犯して新たな熱狂を生んでいる。だから正義をめざす報道
が無駄だというわけではなく、それさえも熱狂に回収されていく。
熱狂の純化と動物化は近いところがあるが熱狂はかならず集団を前提としている。共有性の取り返
しとしてある。オタクとはかならず集団である。オタクは「セクシャリティ」という不自由への熱狂である。
775 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 14:22:35
何ひとりでアツクなってんだよ。
バッカみたい。
776 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 14:46:20
経済がもっとも熱狂を生み出す方法であったのだ。
しかしネットにおいては、もはや経済が一番の方法ではなくなってしまった。
777 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 16:12:52
ぴかぁよ。そういうことは実際に時給700円で生計立てる生活してみてからいえよ。おまえに奴隷の気持ちがわかるのか?
778 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 17:19:28
>ぴかぁよ。そういうことは実際に時給700円で生計立てる生活してみてからいえよ。おまえに奴隷の気持ちがわかるのか?
はぁ?なことしるか。ボケ
779 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 18:03:07
ひきこもり笑笑笑
780 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 18:19:46
しかしこの世界に仕事よりおもしろいものがあるのだろうか
セックスなんて飽きるし、ネットなんか虚しいし、
仕事によってえられる責任感、自分という社会的な意味の獲得、充実感
問題は仕事がこのような熱狂を提供できなくなっていることだ。
とくに日本では統計的に仕事が楽しくないリーマン比率が高い
高度成長がなければ仕事は閉塞する。だからといって国民が飢えるようなことはない
経済そのものが成熟するのだ
781 :
考える名無しさん:2006/09/01(金) 18:24:04
おまえ、長田寮入って根性叩き直してもらえよ。泣いてママに電話すんじゃねえぞ笑笑
782 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/01(金) 18:44:29
しかしこの世界に仕事よりおもしろいものがあるのだろうか。セックスなんて飽きるし、ネットなんか
虚しいし、仕事によってえられる責任感、自分という社会的な意味の獲得、充実感。これ以上の熱狂
があるだろうか。
問題は仕事がこのような熱狂を提供できなくなっていることだ。とくに日本では統計的に仕事が楽し
くないリーマン比率が高い。高度成長がなければ仕事は閉塞する。だからといって国民が飢えるよう
なことはない。経済そのものが成熟するのだ。
もはや人々は仕事を目的に生きてはいない。仕事から排除された熱狂が浮遊する。
783 :
考える名無しさん:2006/09/02(土) 00:50:52
>セックスなんて飽きるし、ネットなんか 虚しいし、
笑わせるな ウスラボケ
お前の用語では、センズリのことをセックスといい
楽しいことを虚しいというのか?
いい加減にしろ。
784 :
考える名無しさん:2006/09/02(土) 03:29:00
自分で シゴクのはもういい!
誰かにしごかれたい!
誰かにしごかせたい!
誰かに舐められたい!
誰かに舐めさせたい!
あー欲求不満のかたまりだなぁ(^^ゞ
誰か help me !!
785 :
よしお:2006/09/02(土) 04:46:58
みずからのコンプレックスを理性によって解消することはできない。
人間は必ず社会で存在しなければならないからだ。ひきこもっていたとしても
それは家族から庇護されているから可能であるにすぎない。
社会に存在する人間は実存から無縁でいられるわけではない。社会に存在するからこそ、人は
葛藤し、差別され、疎外されるからだ。それが哲学が生まれる欲動となる。
どうした、ぴか〜氏よ?
終わるつもりだったら潔く終了宣言を出せば良い、決して恥じゃないよ
2ちゃんってこういう所だからさ
思うに2ちゃんって「思想体系」を開陳する場じゃないんだよ
貴方の実践/実験の意義は認めるけどね
誰も突っ込まないんですか?
>>695 ガラガラ閉店じゃなくて、閉店ガラガラ
ますだおかだでしょ?違った?
788 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 15:34:05
豊かさによって余裕が生まれる。
この余裕に不安が進入する。
789 :
考える名無しさん:2006/09/03(日) 16:27:50
おまえは親の扶養で生きてるただの廃人。さようなら笑笑笑
790 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 17:29:02
どの時代にもいくらいていしても仕切れない核がある。
現代ならお金だろう。たとえば目の前に1億円おかれれば目が眩り、強烈な力を発する。
いくら否定的なことばをならべても意味がない。
このお金の圧倒的力はボクたちの社会をより深層でささえており、
ぼくたちの言説はその表層にしかないからだ。
791 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 17:43:45
主婦はファミレスで井戸端会議、おやじは立ちのみでくだをまき、
学生はマックにいつき、おねえさんはメールうちまくり、おにいさんは2ちゃんでだらける
792 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 18:30:45
近代以降、自然を提供するのはテクノロジーである。
世界は計量された。貨幣も計量である。
793 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 22:11:55
■豊かさによって余裕が生まれた。この余裕に「不安」が進入する。この不安は時間(量的)なもの
でなく、質的なものである。ハイデガー的な「不安」である。なぜ人は時間的な余裕を受け入れられ
ないのか。
■どの時代にもいくら否定しても仕切れない「核」がある。現代ならお金だろう。たとえば目の前に1
億円おかれれば目が眩り、強烈な力を発する。いくら否定的なことばをならべても意味がない。お金
など紙切れだから、そもそも根拠がないなどどいって、手持ちのお金を捨てられないだろう。このお
金の圧倒的力はボクたちの社会をより深層でささえており、ぼくたちの言説はその表層にしかない
からだ。しかしお金がこのような力をもったのは産業革命前後からである。それ以前の社会ではこの
「核」はなんだったのだろう。
■主婦はファミレスで井戸端会議、おやじは立ちのみでくだをまき、学生はマックにいつき、おねえさ
んはメールうちまくり、おにいさんは2ちゃんへむかう。
■近代以降、自然を提供するのはテクノロジーである。世界は計量された。貨幣も計量である。新た
なテクノロジーが開発されることで社会は再構造化される。近代の下部構造とはテクノロジーである。
明らかにスタイル変わったね
消費社会のシニシズムから実存主義への方向転換か
宮台の影響か?
795 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 22:57:34
深層 自然への闘争
下層 数量化(テクノロジー)
数量化(テクノロジー)は自然を開拓する。生権力
自然科学・・・物理世界の開拓
大航海・・・地球の土地の開拓(土地の商品化)
心身二元論、機械論・・・身体の開拓(労働の商品化)
(質的)価値の量化・・・交換、貨幣、市場の拡大
生産の機械化・・・分業、大量生産(フォーディズム)・・・産業革命、資本主義社会
消費(マクドナルド化)・・・情報化技術、マーケティング・・・心の開拓→ポップカルチャー(サブカルチャー)
ネット・・・情報操作の個別化=空間化(新大陸のメタファー)
*ネットとは、従来マスメディアに限られていた情報技術のコストがさがり、パーソナル化したことである。
796 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 23:03:53
どの時代にもいくら否定しても仕切れない「核」がある。現代ならお金だろう。たとえば目の前に1
億円おかれれば目が眩り、強烈な力を発する。いくら否定的なことばをならべても意味がない。お金
など紙切れだから、そもそも根拠がないなどどいって、手持ちのお金を捨てられないだろう。このお
金の圧倒的力はボクたちの社会をより深層でささえており、ぼくたちの言説はその表層にしかない
からだ。しかしお金がこのような力をもったのは産業革命前後からである。それ以前の社会ではこの
「核」はなんだったのだろう。
このような貨幣の強力さは、それが人間の欲望に密着しているからだ。人を殺す要員は、お金、権
力、痴情と言われきたのはそのためだ。これらの項目は人間の欲望に深く根ざし、これらの前には
表層の言葉は無力である。
797 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 23:12:56
人の深層にある「自然への闘争」においては、空間的なメタファーが重要である。
未開社会から現代への史観では、土地の歴史が問題になるだろう。
未開社会・・・無限の土地・・・神話による世界境界の設定。
都市化・・・都市間の戦争
国家・・・国家間の戦争、土地の数量化管理
798 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 23:32:10
現実界 自然(外部)への闘争
グレイゾーン 数量化(テクノロジー)
象徴界 社会秩序(国家)、正義
想像界 共同体、公平
新たな自然の開拓されることで、秩序、共同体形態は変容する。
たとえば政治とは、公平と外部のバランスの中で「正義」(公平を目指す取り決め)を決定することである。
*「ネットではなぜただで労働が行われるのか」
まるで知り合いのように贈与が行われる。
逆になぜ社会では知り合いのように贈与が行われないのか。
儀礼的無関心。あえて無関心であることが儀礼である。
799 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 23:40:16
逆にいえば、むしろ「儀礼的無関心」の方が不自然である。
他者へ関心を当然であるが、それをあえて抑圧する。
これが儀礼であるのは、「無関心でいてあげる」という貸し(贈与)である。
なぜ無関心を装う必要があるのだろうか。
他者との迫る狭い空間では関心は暴力となる。
情報化社会では、人の認知力に限界がある。
余計なことに患わされないために、無関心でありあう。
800 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/03(日) 23:53:29
ネットでは匿名であり、場からの参入離脱が容易である。
関心をコントロールすることができる。
この話題に首をつっこみ、飽きれば離れる。
「関心」のコンロトールの容易性がネットのコミュニケーションを支えている。
社会的な関心とは拘束でもある。
たとえば知り合いよりも知らない人の方が気を遣わずに、気楽である。
さらに儀礼的無関心は、マクドナルド化として商売にも展開される。
誰に対しても、世界中どこでもおなじ必要以上に干渉しないサービス。
すなわち流動性の低い社会では、地域コミュニティで生活するために、
関心しあう関係(知り合いの関係)は繋がりであり、利便的である。
しかし流動性が高まると、大量のあたらな関心の中におかわる。
そこでは関心は抑圧的に感じ、無関心であることが、安心し、利便的である。
801 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 00:07:27
また人は他者と深く関わらずに社会生活をおこることができる。
そのために重要なことは、貨幣である。
貨幣によって商人と通すことで、様々なことは可能になる。
「お金ですべてが買える」というメタファーはここからくる。
面倒なことを貨幣によって購入することで、認知に余裕ができ、
「好きなこと」ができる余裕が生まれる。
逆にいては、商人は面倒なことを引き受けることで、いままで
等価交換に乗らなかったようなこと、他者との協力関係で
まかなわれていたような些細なこと、全てのことが商品となる。
「好きなこと」のために、貨幣が必要であるわけだ。
>>794 単にジジェクっぽい書き方を止めただけでしょ
803 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 00:39:27
■ネットではなぜただで労働が行われるのか
流動性の高い社会では他者は拘束的であり、儀礼的無関心が求められる。
まるで知り合いのように贈与が行われる。逆になぜ社会では知り合いのように贈与が行われないの
か。儀礼的無関心。あえて無関心であることが儀礼である。逆にいえば、むしろ「儀礼的無関心」の
方が不自然である。他者へ関心を当然であるが、それをあえて抑圧する。これが儀礼であるのは、
「無関心でいてあげる」という貸し(贈与)である。なぜ無関心を装う必要があるのだろうか。
流動性の低い社会では、地域コミュニティで生活するために、関心しあう関係(知り合いの関係)は
繋がりであり、利便的である。しかし流動性が高まると、大量のあたらな関心の中におかわる。そこ
では関心は抑圧的に感じ、無関心であることが、安心し、利便的である。社会的な関心とは拘束で
もある。たとえば知り合いよりも知らない人の方が気を遣わずに、気楽である。
804 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 00:41:26
貨幣は人を他者の拘束から解放する
情報化社会では、人の認知力に限界がある。余計なことに患わされないために、無関心でありあ
う。マクドナルド化として商売にも展開される。誰に対しても、世界中どこでもおなじ必要以上に干渉
しないサービス。
これは、人は貨幣によって、他者と深く関わらずに社会生活をおこることができることを示している。
これは現代の貨幣が重要である一つである。お金ですべてが買える」というメタファーはここからく
る。貨幣によって商人と通すことで、様々なことは可能になる。「面倒なことを貨幣によって購入する
ことで、認知に余裕ができ、「好きなこと」ができる余裕が生まれる。
逆にいては、商人は面倒なことを引き受けることで、いままで等価交換に乗らなかったようなこと、他
者との協力関係でまかなわれていたような些細なこと、全てのことが商品となる。「好きなこと」のた
めに、貨幣が必要であるわけだ。
805 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 00:41:57
ネットでは他者との関係がコントロールできる
他者から解放され、自分のやりたいことをやるために貨幣は必要とされる。しかしネットでは匿名で
あり、場からの参入離脱が容易である。関心をコントロールすることができる。この話題に首をつっこ
み、飽きれば離れる。「関心」のコンロトールの容易性がネットのコミュニケーションを支えている。
ネットでは他者との関係は参入離脱の容易性から調整され、商人(貨幣)を介することが必要でなく
なる。むしろこのように他者回避される社会の反動として、他者との繋がりを求める場となる。それ
は他者との関係を調整することが容易であるからだ。
気に入れば関わり、嫌なら離れある。社会では空間的(物理的)な制約から、出会いは身近な人に
制約されるが、ネットでは自ら能動的に、自分と関心があう人間と関わることもできる。
806 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 00:49:16
ネットでは他者との関係がコントロールできるために他者の関わりが求められる
807 :
考える名無しさん:2006/09/04(月) 08:20:01
その理屈と、おまえ自身の実存はどう関わるのか。そんだけの頭があるなら、
どこでも働けるだろ。何かそうできない事情でもあるのか?
808 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 11:35:35
好きなことをするために面倒なことは貨幣で買う。しかし好きなこととはなにか
たとえば風俗嬢のジレンマ。好きでもない男の性器をしゃぶるなど苦痛であるがお金のためには仕方がない。
お金があれば好きなことができる。しかし風俗嬢はホストにお金を貢いでしまう。
彼女の好きなことがホストに貢ぐことではないが、お金を稼ぐこと、使うことが目的化するのだ。
そしてここで求められているのは貨幣により排除したはずの他者とのつながりである。
貨幣は不必要な他者を排除し、必要な他者を買う。すなわち消費社会である。
809 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 11:52:21
ここに貨幣の不思議な力がある。すなわち社会的な関係性を再構築する力である。
たとえばボードリヤールはこれをソシュール的言語構造、差異の体系と対比させている。
いままでの地域コミュニティなどのつながりから、流動性の高い社会では市場=貨幣システムに主体性を委ねることが求められる。
さらにものによって規定される主体を描いている。
なにを買い、なにをもっているかによってアイデンティティは支えられる。そしてそれほど主体的な行為だろうか。
広告はここに狙い撃ちする。これを買えばあなたのアイデンティティは満たされる。これが広告の究極的な意味である。
主体を販売する以上にもうかる商売はない。
810 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 11:56:23
たとえば貧しい国が資本主義に見せられるのは、このような自由である。
地域コミュニティの慣習に拘束されている彼らは資本主義の豊かさの中に、主体の自由をみるのだ。
主体を自由に選ぶことができる。
811 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:15:12
■自由とはなにか。
<近代の豊かさの中で「自由」思想が生まれ広がった>
自由とは内部拘束の強度をあらわす。だから外部拘束が強いとき内部拘束が求められる。自由はう
まれない。外部拘束が弱く内部拘束が強いとき自由=拘束を緩めることがもとめられる。このような
バランスの源泉は公平感にある。公平感がみたされないとき公平なシステムがもとめられる。
近代以前にも自由=拘束の緩和は求められただろうが、これは「自由」とは呼ばれない。実際には
「自由」という言葉はリベラルと関係する。自由はシステムの一部である。基本は近代的なものである。
なぜ近代に自由が求められたのかは、外部環境から解放されたことが大きいだろう。経済的な豊か
さの意味が大きい。より豊かで多数で流動性の高い社会での公平感を満たすためには、個体の自
立により経済の自由と平等が求められた。内部環境が拘束的になり、つよく個人の自律が求められ
た。自由は平等と対の近代的価値である。たとえば自由はリベラルと保守主義の関係で語られる。
そしてリベラルは資本主義の自由競争を意味するといってよいだろう。これはまさに消費社会に対
応した公平感であり、正義のありかたである。
812 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:16:40
<流動性の高い社会では他者は拘束的であり、儀礼的無関心が求められる。>
後期資本主義においてさらに豊かになりさらに自由が求められる。たとえばバーリンの「積極的自
由」とは行為の主体であること、「消極的自由」とは他者の干渉がないことでわけているが、後期資
本主義では自由は「消極的自由」まで広められている。
ネットではまるで知り合いのように贈与が行われる。逆になぜ社会では知り合いのように贈与が行
われないのか。儀礼的無関心。あえて無関心であることが儀礼である。逆にいえば、むしろ「儀礼的
無関心」の方が不自然である。他者へ関心を当然であるが、それをあえて抑圧する。これが儀礼で
あるのは、「無関心でいてあげる」という貸し(贈与)である。なぜ無関心を装う必要があるのだろうか。
流動性の低い社会では、地域コミュニティで生活するために、関心しあう関係(知り合いの関係)は
繋がりであり、利便的である。しかし流動性が高まると、大量のあたらな関心の中におかわる。そこ
では関心は抑圧的に感じ、無関心であることが、安心し、利便的である。社会的な関心とは拘束で
もある。たとえば知り合いよりも知らない人の方が気を遣わずに、気楽である。
813 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:17:14
<貨幣は人を他者の拘束から解放する>
情報化社会では、人の認知力に限界がある。余計なことに患わされないために、無関心でありあ
う。マクドナルド化として商売にも展開される。誰に対しても、世界中どこでもおなじ必要以上に干渉
しない(他者回避)サービス。
これは、人は貨幣によって、他者と深く関わらずに社会生活をおこることができることを示している。
これは現代の貨幣が重要である一つである。お金ですべてが買える」というメタファーはここからく
る。貨幣によって商人と通すことで、様々なことは可能になる。「面倒なことを貨幣によって購入する
ことで、認知に余裕ができ、「好きなこと」ができる余裕が生まれる。
逆にいては、商人は面倒なことを引き受けることで、いままで等価交換に乗らなかったようなこと、他
者との協力関係でまかなわれていたような些細なこと、全てのことが商品となる。「好きなこと」のた
めに、貨幣が必要であるわけだ。
814 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:17:47
<貨幣は不必要な他者を排除し、必要な他者を買う。>
好きなことをするために面倒なことは貨幣で買う。しかし好きなこととはなにか。たとえば風俗嬢のジ
レンマ。好きでもない男の性器をしゃぶるなど苦痛であるがお金のためには仕方がない。お金があ
れば好きなことができる。しかし風俗嬢はホストにお金を貢いでしまう。彼女の好きなことがホストに
貢ぐことではないが、お金を稼ぐこと、使うことが目的化するのだ。そしてここで求められているのは
貨幣により排除したはずの他者とのつながりである。貨幣は不必要な他者を排除し、必要な他者を買う。
ここに貨幣の不思議な力がある。すなわち社会的な関係性を再構築する力である。たとえばボード
リヤールはこれをソシュール的言語構造、差異の体系と対比させている。いままでの地域コミュニ
ティなどのつながりから、流動性の高い社会では市場=貨幣システムに主体性を委ねることが求め
られる。さらにものによって規定される主体を描いている。
なにを買い、なにをもっているかによってアイデンティティは支えられる。そしてそれほど主体的な行
為だろうか。広告はここに狙い撃ちする。これを買えばあなたのアイデンティティは満たされる。これ
が広告の究極的な意味である。主体を販売する以上にもうかる商売はない。すなわち消費社会である。
815 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:18:24
<ネットでは他者との関係がコントロールできるために他者の関わりが求められる>
他者から解放され、自分のやりたいことをやるために貨幣は必要とされる。しかしネットでは匿名で
あり、場からの参入離脱が容易である。関心をコントロールすることができる。この話題に首をつっこ
み、飽きれば離れる。「関心」のコンロトールの容易性がネットのコミュニケーションを支えている。
ネットでは他者との関係は参入離脱の容易性から調整され、商人(貨幣)を介することが必要でなく
なる。むしろこのように他者回避される社会の反動として、他者との繋がりを求める場となる。それ
は他者との関係を調整することが容易であるからだ。気に入れば関わり、嫌なら離れある。社会で
は空間的(物理的)な制約から、出会いは身近な人に制約されるが、ネットでは自ら能動的に、自分
と関心があう人間と関わることもできる。
ネットがリバタリアンにむかうのは、外部拘束と内部拘束の関係=外部拘束が弱く、内部拘束が強
いとき自由=拘束を緩めることに関係する。その意味で、ネットではバーリンの「消極的自由」、他者
の干渉からの自由よりもさらに広い自由が求められている。ネットにおいける公平感は、資本主義
的な拘束、貨幣交換の秩序からの解放も求めている。
816 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:19:06
<自由と不自由のらせん状態、ネット上の資本主義秩序との衝突、生権力化(グレイゾーン化)>
ここで問題は三つある。ひとつは自由が拡大されすぎた不安、そして消費社会に見られるように、自
由の揺り戻し、むしろ不自由を求めることがおこっていること。自由と不自由のらせん状態の中で終
わりない消費への過剰が起こっている。これはネットにも見られる。他者回避と他者を求めることの
らせん状態。二つ目は、ネットに見られたようなさらなる自由の拡大が、資本主義的な秩序と衝突し
ていること。
三つ目は、拘束が「グレイゾーン化」していること、生権力。もう一つは自由の揺り戻し、不自由を求
めることがおこっていることである。「グレイゾーン化」は身体管理であり、リベラル(自由)とは相補
的な関係にある。デカルトの機械論にみられる。
817 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:19:40
<リベラルと生権力は相補的な関係で秩序を維持する>
近代的な自由が、封建社会、宗教的な内部拘束からの解放を意味するとき、それを可能にしたのは
経済的な豊かさであるといった。豊かは外部拘束(自然環境)から解放を意味です。社会は自然を
開拓し、コントロールし、社会(内部)と自然(外部)との間の管理された自然(グレイゾーン)を広げた
ことを意味する。それは数量化であり、科学技術の発展による。
そしてデカルトの心身二元論、機械論はこの潮流の中になる。労働力がグレイゾーン化されていく。
すなわち自由になる心と、機械化され管理される身体の分離である。現に産業革命を支えたのはこ
のような大量生産機械とそれに組み込まれる機械的身体である。これは単に人間の機械化だけで
なく、心は賃金(貨幣)によって自由になっていくのである。
このような身体の拘束は従来の「自由」とは異なる次元にある。社会秩序からの解放されているの
だから、リベラル(自由)化であるが、拘束として働くのは、「外部拘束」である。このような拘束をフー
コーは生権力と呼んだ。そしてこれは心の同意を得ている、主体の自立的な行為であるために、従
来の意味で拘束と言えない。
これは、自由が拡大すれば、身体を管理するという、リベラルと相補的な関係あり、近代以降の秩
序を維持する主流となっている。そしてネットでの自由の拡大でも有効な方法である。これが最近で
は東の「環境管理権力」などの問題意識繋がっている。
818 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 16:46:09
<近代の自然主義的闘争様式=数量化がリベラル(心の自由)と生(身体)管理を指向する>
このような生権力を理解するために、ボクは数量化(テクノロジー)は、自然を開拓するための近代
における自然主義的な闘争様式であり、下部構造としてあることを考えたい。近代以降は都市から
隔離されていた自然に対して、人は新たな自然主義的な闘争様式である数量化(テクノロジー)を成
熟させていくのである。それによって以下のようなことは一気に進むのだ。これは、未知の自然を管
理でいる自然=グレイゾーンとして開拓することであり、自然への闘争様式である。
自然科学・・・物理世界の開拓
大航海・・・地球の土地の開拓(土地の商品化)
心身二元論、機械論・・・身体の開拓(労働の商品化)
(質的)価値の量化・・・交換、貨幣、市場の拡大
生産の機械化・・・分業、大量生産(フォーディズム)・・・産業革命、資本主義社会
消費(マクドナルド化)・・・情報化技術、マーケティング・・・心の開拓→ポップカルチャー(サブカルチャー)
ネット・・・情報操作の個別化=空間化(新大陸のメタファー) 、資本主義秩序の無視
そしてこれらの傾向は、封建的、絶対主義的な社会秩序を解体し、自律して主体の平等と自由を目
指す方向をもつ。それは、主体が自由を目指して、これらが起こったのでなく、数量化(テクノロジー)
という自然主義的な闘争様式の中で、人々の公平感を満たす正義システムとして、リベラル(自由と
平等)が目指されたのだ。この動きはいまも続いている。現代における、あるいはネットにおける公
平感とはなにか。さらに新たな正義システムが検討されているのだ。そしてこのようなリベラルな流
れはそのはじめから、心身二元論、身体の機械化(生権力)によって成り立っている。その意味では
今後も自由は、生権力を志向し、その反面で心の自由が求められる傾向にあるだろう。
819 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 17:28:34
消費社会という貨幣システムによって他者回避と他者を求めることの無限らせんは、
ネットの参入離脱可能なコミュニケーションシステムが代替する傾向にある。
このような流れでは、ネットは豊かさそのものをさせることはできないので、資本主義的システムは
作動し続けるだろうが、成熟し、過剰な消費はネットによって、形骸化する可能性がある。
人々の欲望は消費からネット上へ向かい、繋がり(共同性)が求められる。
現在の、著作権の問題でなどで対立する資本主義秩序とネット秩序はいかように
落ちつくだろうか。資本主義的な強硬は軋轢を生むだろうから、
セキュリティシステムが求められるだろう。現在の生権力傾向は加速する。
これは、第一次産業から二次産業、三次産業、情報産業への波が移ったよりも
大きなパラダイムシフトを起こすかもしれない。産業そのものの形骸化である。
産業活動、貨幣への欲望は成熟し、ネット上のコミュニケーションの繋がりが
重視される。
820 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 17:29:10
貨幣以前のリアリティ(アイデンティティ)は宗教が支えていた。なによりも宗教的な繋がり、
それは地域コミュニティの繋がりと同じであるが、が支えていた。
それが貨幣への欲望が繋がりを代替した。お金を持つことが、アイデンティティを支える。
ネットコミュニケーションはそれまでのアイデンティティを与えることが可能だろうか。
ネットの特徴は参入離脱の容易性である。それが流動化する社会に対応する。
流動化する社会においても、お金への欲望は揺るぎがない。お金に支えられることで、
社会の流動性は可能になっているとも言える。お金さえあれば一人になろうが、
コミュニティに疎外されようが、問題ではない。
ネット住人の参入離脱の容易性も、お金に支えられているのではないだろうか。
しかし豊かさの成熟の安定の中であって、必ずしもお金が支えているわけではない。
むしろ宗教、貨幣と強烈なリアリティ自身が、消費社会以降、揺らいでいるのかも知れない。
もはやリアリティをささえる強い点は必要とされないのかもしれない。
そのような点が、流動し、移り変わり、熱狂することで、リアリティは支えられているのかも
しれない。熱狂の純化
821 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 17:39:19
純化されt熱狂によってアイデンティティ(リアリティ)が支えられるというのは、
狂気であるかもしれないが、それを可能にするのは、成熟した資本主義社会の
豊かさあり、アクセスするだけでいつでも「繋がる」、どこかしかへ帰属できることの基盤である。
理想的に語れば、長い未来には労働時間は短縮され、ネットへの接続の時間が増し、
そこで好みのコミュニティへの帰属し、社会生活が営まれている。
ネット上ではとくにセキュリティに絡む、様々な社会問題が起こっている。
資本主義的なシステムは成熟し、環境への配慮からも、抑制されているということだ。
終わり。
822 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 21:37:35
ギリシアのアテナでは市民5万人、奴隷15万人
ギリシアには「自由」という言葉はない。あえて言えば、
ポリスへ市民と帰属することが「自由」である。
アリストテレス「ニコマコス倫理学」では主人と奴隷は「自然」の区分とされた。
すなわち市民と奴隷は先天的な境界、人間/動物の境界があり、
自由は人間であることを意味する。
近代において、人間/動物の境界は溶解し、人間の内部
心身二元論として現れる。身体=機械=動物の充足に対して、
心=人間が自由の領域である。
823 :
きんぴら:2006/09/04(月) 21:52:45
で?
>>822 関曠野の「プラトンと資本主義」を読まれたし
古代ギリシャでも人間/動物の二分法が崩れ始めてたのが解るから
やっぱ「歴史」が欠落してるね、「自然主義的〜」って現代の先進諸国の理論だよ
それに限定したらば解る
825 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 22:16:54
>>824 巡回乙!
「プラトンと資本主義」おもしろそうだな。でもその前の読む本がたくさんあるよ。
チミは「自然主義的〜」を理解していないから。
というかまだできていないし。
例えばイスラム諸国やアフリカ諸国は「遅れて」るんじゃなくて
「純粋略奪」の「享楽」を断念したからこその「現代」であって
じゃなければ彼らも「資本主義」化しなければならないのか?
だったらポスコロ以前だな
827 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 22:26:02
>>826 なんどもなんどもこれは史観ではないといってるのにのー
放置する方が良いのかのー
>>827 俺は放置でいいいんだよ!なんど書けば良いんだ?
ここは2ちゃんの貴方のスレだし貴方の思ったように進めれば良い
「向上委員会」なんてどうでも良いよw
829 :
考える名無しさん:2006/09/04(月) 22:35:09
堀江はリバウンド的自然主義
830 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 23:16:34
ホリエモンにはがんばってほしいね。
831 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/04(月) 23:33:59
832 :
ヤハウェ:2006/09/04(月) 23:45:28
ぴかぁ〜さんのエッセイスレッドはここですか?
834 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 09:23:46
マルクスには外部がない
マルクスは社会は自然と人間、人間と人間の関係において、考えなければならないという。
ここで自然は一見、外部のようであるが、外部ではない。マルクスは自然と人間を、共同所有と
私的所有で分析する。すなわちマルクスがいう自然とは人間に開拓された自然であり、内部
(社会)の一部となった自然である。
このようにマルクスに外部がないのは、ヘーゲルに外部がないを継承している。
ヘーゲルの弁証法とダーウィンの進化論の比較で明らかである。
これら二つは一見、同じもののように考えられることが大きいが、決定的に異なる。
弁証法は、ある対象に対して否定的な契機が対峙し、それが止揚される。
ここである対象を自然物とおくと、人間はそれに否定的な契機(加工する)ことで、
あたらな生産物が止揚される。すなわち進歩する。このように弁用法的な歴史は
進歩史観である。
これに対して、進化論は進歩しない。
ある生物に対して、自然淘汰圧がかかることで、ある生物はそれに対応することを強いられる。
これはその生物が進歩したように考えられるが、ここで考えなければならないのは、
自然とはなにかである。進化論における自然は、マルクスのように人間に管理された自然ではない。
人間の認識を越え、コントロールなどできない偶然的に突然発生する生物に対して圧倒的な力である。
だから生物はただ自然の従うしかない。そして自然は偶然的である。
今日は自然圧に対して有用な特性は、明日には最悪の特性である可能性がある。
このための生物は止揚することなどできない。ただその場、その場で変化を強いられるだけである。
外部とはこのような認識不可能な自然である、カントのいう「ものそのもの」である。
835 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 09:24:19
このような意味でマルクスには外部がない。そしてこの外部のなさはマルクス主義に全体に渉り、
分析をあやまらせている。マルクスの止揚された社会を社会主義(アソシエーショニズム)におくのだが、
そのイメージは自然との調和である。人間に管理されることができる自然であり、外部の自然が消失している。
マルクスが言うように、経済は自然との関係で構築されるが、自然が外部であり、災害、恵みとして
人間のコントロールの外にある。このような到来する自然に対応するように人間は社会形態を
再構造化するのであり、自然の共同所有と私的所有もあくまでその一部として変容する。
生物の進化論とともに、そして人間の歴史においても、圧倒的な外部自然へ
の対応をもとに変化している。容易に、自然と人間が止揚されることはない。
836 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 10:19:40
人間の歴史とは外部自然にいかに対応するかである。
未開社会は外部自然に直にさらされリスクの高い社会である。未開社会が集団を中心に助け合いの社会で
あるのはリスクを分散しあうためである。一人ではとてもじゃないが生きていけない。
農耕によりリスクは緩和される。外部自然との間に開拓され、収穫という予測可能な自然の緩衝部(グレイゾーン)がうまれる。
その中で蓄財がうまれ、所有と所有者の概念が生まれる。
所有は共同材であり管理者としての権力と権力闘争がうまれ、階級が発生する。
しかし外部自然からのリスク型は高く、緩衝部の構築と内部の共同性とそして内部の闘争の構図である。
このような内部成熟のなかでギリシア哲学、一神教など人間内面の開拓が行われる。
そしてリスクが下がる中で個人感、私有感が浮上してくる。これを爆発させたのは数量化革命である。
外部自然を征服し緩衝部を開拓する。
豊かさとリスク管理と啓蒙主義はソウホ的に進む。ここで自然とは管理可能なものとされる。
そして産業革命、資本主義社会である。この短期の爆発を可能にしたのは先の成熟であり、
流動性が高まった社会において貨幣による交換が適応した。これが価値の数量化であることは重要である。
837 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:39:20
■なぜマルクスには外部がないのか
ヘーゲルの弁証法とダーウィンの進化論の差異
マルクスは社会は自然と人間、人間と人間の関係において、考えなければならないという。ここで自
然は一見、外部のようであるが、外部ではない。マルクスは自然と人間を、共同所有と私的所有で
分析する。すなわちマルクスがいう自然とは人間に開拓された自然であり、内部(社会)の一部と
なった自然である。
このようなマルクスの考えは、へーゲルの弁証法を継承している。ヘーゲルの弁証法とダーウィンの
進化論の比較で明らかである。これら二つは一見、同じもののように考えられることが大きいが、決
定的に異なる。弁証法は、ある対象に対して否定的な契機が対峙し、それが止揚される。ここである
対象を自然物とおくと、人間はそれに否定的な契機(加工する)ことで、あたらな生産物が止揚され
る。すなわち進歩する。このように弁用法的な歴史は進歩史観である。
これに対して、進化論は進歩しない。ある生物に対して、自然淘汰圧がかかることで、ある生物はそ
れに対応することを強いられる。これはその生物が進歩したように考えられるが、ここで考えなけれ
ばならないのは、自然とはなにかである。進化論における自然は、マルクスのように人間に管理さ
れた自然ではない。人間の認識を越え、コントロールなどできない不確実で突然発生する生物に対
して圧倒的な力である。だから生物はただ自然の従うしかない。そして自然は偶然的である。
今日は自然圧に対して有用な特性は、明日には最悪の特性である可能性がある。このための生物
は止揚することなどできない。ただその場、その場で変化を強いられるだけである。外部とはこのよ
うな認識不可能な自然である、カントのいう「ものそのもの」である。
838 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:40:07
自然主義的闘争史観
これは人間の歴史がそのまま進化論に対応することではない。生物進化と人間の歴史の混同は自
然主義的誤謬をまねく。重要なことは、マルクスが言うように、経済は自然との関係で構築される
が、人間の歴史においても、自然は外部自然は不確実で圧倒的な力としてあるということである。災
害、恵みとして人間のコントロールの外にある。このような到来する自然に対応するように人間は社
会形態を再構造化するのであり、自然の共同所有と私的所有もあくまでその一部として変容する。
たとえばこのような外部自然と人間の歴史(ボクはこれを「自然主義的闘争」とよぶ)を考えると、未
開社会は、不確実な外部自然に直にさらされリスクの高い社会である。未開社会が集団を中心とし
て助け合いの社会(贈与互酬社会)であるのは、このような不確実性なリスクを分散しあうためであ
る。一人ではとてもじゃないが生きていけない。
その後、農耕発明によって、自然からのリスクは緩和される。外部自然との間の開拓された自然=
緩衝部(グレイゾーン)によって、収穫という予測可能性が高まる。外部自然からのリスク型はまだま
だ高く、緩衝部を障壁にした強い内部が形成される。その中で蓄財もうまれる。所有と所有者の概
念が生まれる。所有は共同材であり管理者としての権力と権力闘争がうまれ、階級が発生する。
このような内部成熟のなかでギリシア哲学、宗教など人間内面の開拓(精神革命)が行われる。こ
のような共同体内部、そして人間内部の成熟は、イデオロギー化し、共同体の闘争を生む。
839 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:40:51
数量化という自然主義的闘争様式
緩衝部(グレイゾーン)の発展と、内部の成熟によって、自然との関係を決定的に変容させるのが、
の数量化革命である。この革命性は外部自然の不確実性を予測可能性なものへと変換し、緩衝部
(グレイゾーン)を拡大される。科学とは外部自然の数量化であり、大航海とは地球の数量化であ
り、そして啓蒙思想とは共同体の「数量化」であり、個人、私有の浮上である。これらと豊かさは相補
的に近代社会を構築する。
それが社会を決定的に変容させたのが、産業革命である。産業革命が生んだものが資本主義社会
である。産業革命が数十年という短期に爆発し得たのは先に「数量化」革命によって下地ができて
いたためである。機械化という外部自然の数量化、大航海という数量化された資源開発、啓蒙思想
による均質化(数量化)した労働力。これらは貨幣という価値の数量化によって紡がれる。
840 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:41:54
ヘーゲルの「歴史の終わり」と回帰する疑似自然と熱狂
後期資本主義社会において、緩衝部(グレイゾーン)はさらに拡大し、外部自然の不確実性の脅威
はもはやなくなってように感じてしまう。このような状態はヘーゲルの「歴史の終わり」である。
しかしそう簡単に終わらず、外部自然はさまざまに回帰している。一つは環境問題である。さらには
資本主義社会によって搾取されて外部、たとえばイスラム原理主義など、あるいは資本主義秩序に
従わないネット住人たち、これらを外部(自然)と呼ぶのは、必ずしも適当ではないだろう。内部闘争
であり、緩衝部(グレイゾーン)に位置する。しかし外部自然と人間の関係の軋轢として生まれた疑
似自然なものたちである。そしてこれらの自然にあわせてボクたちは社会構造を再構築する、適応
することが求められている。
ここに、たとえば柄谷のいうように、人間と自然との調和を理想とするマルクスの止揚された社会主
義(アソシエーショニズム)の可能性が再び生まれるのかもしれない。しかし消費社会の過剰性は自
然との闘争に勝利した人間が力をもてあまし、闘争するための疑似自然を自ら生みだしている、自
らリスクをつくりだしていると考えることもできる。
外部自然とははたして、そこにある実在的なものだろうか。外部が実りであるか、脅威であるかは、
人の認識側にしかない。そして人は外部自然への闘争を求めている面があるのである。たとえば未
開社会では自然と過剰崇拝(ボトラッチ)し、封建社会では疑似自然としての野蛮人(異教徒、異民
族)へと闘争し、資本主義では自然環境を資源として闘争し、消費社会では人間内部を闘争し、ネッ
ト社会では疑似的空間を開拓する。自然主義的闘争の本質は熱狂であり、人々は熱狂を求めている。
841 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 11:50:02
人間の歴史とは、不確実な外部自然との闘争であるとともに、その闘争に生まれる熱狂を欲望し、
自ら不確実な外部自然を作り出す歴史でもある。
842 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 12:48:01
これは自然を克服する進歩史観である。しかし自然の克服とは物質的な豊かさの史観、すなわち資本主義的価値から事後的な史観でしかない。
このような外部自然は人間の認識論的対象である。たとえばマルクスのいう商品の物神性と未開社会の自然神は同等の次元にあり、外部を神的に転倒したものである。
外部とは決して止揚されず必ず神性を帯びて回帰するものである。
現代に回帰している神話は環境問題、ネット、原理主義などである。そして歴史はこのような神話的外部への闘争としてあらわれる。
変化でしかない。
843 :
考える名無しさん:2006/09/05(火) 14:54:34
おまえ頭おかしいんじゃね。
便所紙を大量生産してどーすんの?
あ?便所紙をよー。
パラノイアだろ、ぴかぁ〜とやら。
844 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 15:15:50
■自由とはなにか。
外部拘束(環境)と内部拘束(社会秩序)と自由
まず人への拘束として、外部拘束と内部拘束を考えてみる。外部拘束とは、人は空を飛べない、冷
夏が作物が育たないなどの人を越えたところの制約である。それに対して内部拘束とは後天的拘
束、社会的な拘束である。社会の秩序、規則、道徳によって制約される拘束である。これらは明確な
境界があるわけではないが、このような分類を想定する。
自由と考えるときには、外部拘束と内部拘束との関係を考える必要があるだろう。たとえば外部拘
束が強いときには、内部拘束は外部から内部(社会)を守る障壁となり、人のためのものとなり、逆
に外部拘束が弱いときに、内部拘束が強いときには、それは抑圧的に感じる。
たとえば封建社会などの階級制は、外部拘束が強く働く中で、社会を守る内部拘束として働いての
ではないだろうか。現代、階級制が人々の自由を抑圧するものとして考えられるのは、豊かな社会
となって外部拘束の働くが弱いために、内部拘束は弱いものが望まれるためである。
たとえばこれは現代のリベラルズムにおける自由と保護の関係にも言えるだろう。たとえば景気が
良いとき、外部拘束が弱いとき、内部拘束は弱く、より自由な社会が求められ、景気が悪いとき、外
部拘束が強いときには、内部拘束が強く、保護的な政策が求められる。
このような拘束の強度に対するバランスの源泉は「公平感」にある。人々の主観的な「公平感」がみ
たされるように内部拘束は調整される。このような内部拘束の調整システムが「正義」である。すな
わちある環境(外部拘束)においていかに人々の公平感が満たされるのかの調整が機構が「正義」
(内部拘束)である。
845 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 15:16:50
「積極的自由」と「消極的自由」と儀礼的無関心
「自由」という言葉が積極的に語られるのは、近代以降である。近代以降に、都市としてのシステム
が整備され、経済的に豊かになる中で、公平感を満たすためには、いままでの内部拘束、封建的な
階級制度は抑圧的になり、啓蒙主義的な個体の自立による自由と平等が求められた。このときにリ
ベラリズム(自由)というという積極的なイデオロギーが生まれた。
たとえばバーリンは自由を「積極的自由」と「消極的自由」を区別した。「積極的自由」とは自由な社
会に向けて、積極的に内部秩序を構築することである。しかしある程度、自由が達成された社会、た
とえば後期資本主義社会で重要になるのは「消極的自由」である。「消極的自由」とは内部秩序の
強度を弱めることを意味する。もはや「積極的自由」という内部拘束でさえ、抑圧的に感じるために、
内部秩序の強度を弱めることを意味する。
ここまで内部拘束を希薄にすると、それぞれの主観的な「公平感」を剥き出しになり、対立が生まれ
る。たとえば現在、ボクたちは他者へ関心に対してあえて無関心であるという「儀礼的無関心」を
守っている。これはさまに「消極的な自由」の社会の状態である。
流動性の低い社会では、地域コミュニティで生活するために、関心しあう関係(知り合いの関係)は
繋がりであり、利便的である。しかし流動性が高まると、大量のあたらな関心の中におかわる。そこ
では関心は抑圧的に感じ、無関心であることが、安心し、利便的である。社会的な関心とは拘束で
もある。たとえば知り合いよりも知らない人の方が気を遣わずに、気楽である。ボクたちは、これほど
に外部抑圧から解放され、内部抑圧が希薄化することを望んでいるのだ。
現代では「消極的な自由」は、「積極的自由」というイデオロギーの対立以上に、他者の関心からの
自由という生理的なレベルにまで達している。これはまさに公的なもの=政治への無関心、私的趣
味への高い関心に繋がるだろう。
846 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 15:33:49
「消極的な自由」と貨幣システムの奇妙な相補性
このような「消極的な自由」と貨幣システムは奇妙に相性がよい。人は貨幣によって、儀礼的無関
心、他者回避のように他者と深く関わらずに社会生活をおこることができる。「お金ですべてが買え
る」というメタファーは、貨幣によって商人と通すことで、様々なことは可能になる。「面倒なことを貨
幣によって購入することで、他者を回避でき、私的な「好きなこと」を時間を傾けることができる。
逆にいえば、商人は面倒なことを引き受けることで、いままで等価交換に乗らなかったようなこと、他
者との協力関係でまかなわれていたような些細なこと、全てのことが商品となる。情報化社会では、
人の認知力に限界がある。余計なことに患わされず、「好きなこと」のために、貨幣が必要であるわけだ。
たとえばこれを積極的に商売にして成功しているのが、マクドナルド化である。誰に対しても、世界
中どこでもおなじ必要以上に干渉しない(他者回避)サービスである。
847 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/05(火) 15:34:31
貨幣によって「公的な他者」を排除し「私的な他者」を手に入れる
「好きなこと」をするために面倒なことは貨幣で買う。しかし「好きなこと」とはなにか。たとえば風俗嬢
のジレンマ。好きでもない男の性器をしゃぶるなど苦痛であるがお金のためには仕方がない。お金
があれば好きなことができる。しかし風俗嬢はホストにお金を貢いでしまう。彼女の好きなことがホス
トに貢ぐことではないが、お金を稼ぐこと、使うことが目的化するのだ。
例えば現代の「夢を持とう」という考えはこの先にある。「さあ、他者回避し時間の余裕ができた。「好
きなことをしよう。」ということであり、現代はここに強迫性が生まれ、そしてお金を稼ぐこと、使うこと
が目的化する転倒が起こる。そして貨幣によって社会的な関係性を再構築するのである。
たとえばボードリヤールはこれをソシュール的言語構造、差異の体系と対比させている。いままでの
地域コミュニティなどのつながりから、流動性の高い社会では市場=貨幣システムに主体性を委ね
ることが求められ、「もの」によって規定される主体を描いている。
特にここで重要なものがマスメディアである。「これを買えばあなたのアイデンティティは満たされ
る。」これが広告の究極的な意味である。なにを買い、なにをもっているかによってアイデンティティ
は支えられる。それが消費社会である。そしてものをもつことによるアイデンティティとは、他者の承
認によってしか現れない。貨幣によって「公的な他者」を排除し、自らを承認してくれる「私的な他者」
を手に入れることができる。
848 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 11:24:43
■なぜ「リアリティ」は神話への熱狂によって生まれるのか
ヘーゲルの弁証法とダーウィンの進化論の差異
マルクスは社会は自然と人間、人間と人間の関係において、考えなければならないという。ここで自
然は一見、外部のようであるが、外部ではない。マルクスは自然と人間を、共同所有と私的所有で
分析する。すなわちマルクスがいう自然とは人間に開拓された自然であり、内部(社会)の一部と
なった自然である。
このようなマルクスの考えは、へーゲルの弁証法を継承している。ヘーゲルの弁証法とダーウィンの
進化論の比較で明らかである。これら二つは一見、同じもののように考えられることが大きいが、決
定的に異なる。弁証法は、ある対象に対して否定的な契機が対峙し、それが止揚される。ここである
対象を自然物とおくと、人間はそれに否定的な契機(加工する)ことで、あたらな生産物が止揚され
る。すなわち進歩する。このように弁用法的な歴史は進歩史観である。
これに対して、進化論は進歩しない。ある生物に対して、自然淘汰圧がかかることで、ある生物はそ
れに対応することを強いられる。これはその生物が進歩したように考えられるが、ここで考えなけれ
ばならないのは、自然とはなにかである。進化論における自然は、マルクスのように人間に管理さ
れた自然ではない。人間の認識を越え、コントロールなどできない不確実で突然発生する生物に
対して圧倒的な力である。だから生物はただ自然の従うしかない。そして自然は偶然的である。
今日は自然圧に対して有用な特性は、明日には最悪の特性である可能性がある。このための生物
は止揚することなどできない。ただその場、その場で変化を強いられるだけである。外部とはこのよ
うな認識不可能な自然である、カントのいう「ものそのもの」である。
849 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 11:25:29
外部自然は神話として回帰し続ける
これは人間の歴史がそのまま進化論に対応することではない。生物進化と人間の歴史の混同は自
然主義的誤謬をまねく。重要なことは、外部自然は不確実で圧倒的な力としてあるということである。
災害、恵みとして人間のコントロールの外にある。このような到来する自然に対応するように人間は
社会形態を再構造化するのであり、自然の共同所有と私的所有もあくまでその一部として変容する。
そして自然は外部自然は不確実で圧倒的な力としてあるということは、さらに重要なことを示してい
る。人は外部自然を語れないということである。外部自然とはカントのいう「物そのもの」であり、人が
認識する自然とはあくまで「仮象」でしかないということだ。すなわち外部自然は絶えず神話として語
られる、神話として回帰しつづけるということである。
850 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 11:33:40
熱狂によって「リアリティ」という神話は生まれる
そしてこのような神話が神話として成立すること、すなわちその時代の「リアリティ」を形成しえたこと
は、人々がその神話へ熱狂したことによる。神話への熱狂が社会の「リアリティ」を形成し、社会を再
構造化する。そしてそこにその時代の進歩史観は生まれる。
たとえば現代の神話のマルクスの指摘した貨幣、商品の物神性(フェティシズム)であり、ボクたちは
これらの熱狂し、そして「リアリティ」そのものである。そしてボクたちのもつ進歩史観は原始社会が
現代へ、技術の発達、社会の合理化がいかに進み、物質的な豊かさを手に入れたかと語らえる。そ
してこのような方向性は現代の肯定、現代の神話でしかない。
このような「神話への熱狂」は、その時代のリアリティを支えてきた。未開社会の自然神、封建社会
の階級制を支えた1神教、そして近代では科学という神話であり、資本主義は貨幣、商品の物神性
(フェティシズム)、さらに現代のマーケティング、マスメディアは熱狂をめざす神話製造装置であり、
ボードリヤールのシミュラークル論に繋がる。現代でも変わらない。環境問題でさえ神話である。ネッ
トではたとえば嫌韓など神話を大量生産している。そしてネット上で対価なく労働が行われるのが、
そこに「まなざしの他者(自分を承認してくれる神的他者)」が捏造される故である。
851 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 12:10:09
マルクスに外部がないのはすでに「負債なき共同体」という神話として回収されているからだ。
これはカラ谷がより具体化している世界共和国である。
カラ谷はこれを超越論的仮象とよぶ。すなわち熱狂される神話である。
ここでなにゆえに熱狂されるのか。現代の問題、格差、テロ、環境問題などの不安からである。
これはカントが世界大戦をマルクスが大恐慌を待っていたこととつながる。
破滅的状況が世界共和国への熱狂を生むというわけだ。
将来はわからないが、再度いえば熱狂は決して止揚しない。かりに外部環境の変化から世界共和国が生まれても、歴史はおわらない。
熱狂の神話はかならず回帰する。
852 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 12:12:17
なぜ神話への熱狂は必ず回帰するのか
853 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 12:22:02
現代の西洋とイスラムは神話の衝突としてみる必要があり、また熱狂が作動している。
アルカイダがアメリカが作ったとしても作動しているのは神話への熱狂であり、リアリティの衝突である。
イスラム圏は反アメリカに熱狂し、アメリカは資本主義的世界征服に熱狂する。
現実はこのような2項対立でないということは意味がない。2項対立の熱狂がリアリティを生んでいるのだから。
854 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 15:41:18
熱狂の日常化、多様化において、「リアリティ」の多様化、コミュニティの分散が起こっていると
とともの「リアリティ」そのものの希薄化が進む。貨幣へのフェティシズムも、一つの熱狂への
変容である。
そしてこのような熱狂が活性化する場として、サブカルチャーがあり、たとえば女子高生、
オタクなどがあり、それらはネットへ集約知れつつある。ネットは熱狂は場であり、
様々な「リアリティ」が生まれる場としてある。
レッシングは人間を規制・制御するものとして、「法、規範、市場、アーキテクチャ」の4つを
上げている。このうち、法、規範そして市場ははリアリティを反映し、再構築されるが、
アーキテクシャはリアリティの外部として作動する。
855 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 15:42:12
>>
具体的に踏み込もう。レッシグによると、社会統制には4つのやり方がある。
1.威嚇的命令、2.市場、3.規範、4.アーキテクチャー。
厳罰化すれば統制できる(=1)。市場価格の上げ下げでも統制できる(=2)。
学校教育でも統制できる(=3)。
問題は4だ。これはシステムの設計のことだが、設計次第で人々の行動を変えられる。
ネットを匿名性が確保されるように設計するか否かで人々の行動様式が激変するのは、
出会い系サイト絡みの事件を見ても分かる。だがこれはネットに限られない。
このタイプの支配は統治権力よりむしろ商業領域で膨大なノウハウの蓄積が進んでいる。
例えばコーヒーショップの椅子の堅さ。椅子の堅さ次第で客の回転率を操縦できる。
同様に駅前再開発をすると、空間の匿名性上昇を通じて、援助交際を増やせる。
威嚇的命令による支配には、被支配者の不自由感が伴うが、
2市場<3規範<4アーキテクチャーの順で不自由感は減る。
そのため、被支配者が自己決定しているつもりで、支配者から見ると意図通りの支配が実現する。
分かりやすく言えば、自ら喜んで支配に服する。これに抗するのは大変だ。自分は自由だと
思っているので、対抗する動機づけが存在しないからだ。(宮台)
<<
これは、人が認識できないような外部自然そのものを管理することを目指す。
管理される自然=グレイゾーンの拡大である。このような意味で、近代以降の「数量化」には、
特別性がある。そこに歴史が止揚する可能性が開かれる。
856 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 15:48:36
熱い熱狂/冷たいアーキテクチャの二重構造は、近代の数量化そのものがもつ構造である。
デカルトの心身二元論、機械論に見られる。東はこれをポストモダンの解離構造と呼んだ。
857 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 16:07:04
しかしこれはそれほど得意だろうか。再度、進化論的視点に戻ろう。外部自然は圧倒的な不確実性としてある。
そして、グレイゾーン(アーキテクチャ)の向こうからやってくる。
すなわち、東の「ポストモダンの解離構造」にも外部がないのである。
柄谷はカントの「物そのもの」の重要性を強調する。「物そのもの」とは他者であるという。
柄谷にとって、共同体の外の他者は最重要な概念である。たとえばヴィトゲンシュタインの
「教えるー学ぶ」、マルクスの交換、デカルトのコギト、そしてカントの「物そのもの」を見る。
このような「外部の他者」は、他者である以上、コミュニケーション可能であり、
「神話」へと回収された他者なのである。柄谷は、外部=「物そのもの」をすでに
回収してしまっている。
外部とはコミュニケーション不可能な、ベンヤミンがいう「神的暴力」である。
外部の到来の前には、ボクたちはただ立ちすくむしかない。
858 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/09/06(水) 16:12:59
しかし、熱い熱狂/冷たいアーキテクチャの二重構造が近代科学の発明として
語ってのはフーコーであるが、アガンベンはギリシアの市民/奴隷にみる。
人間/動物の形而上学である。
859 :
ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :
■熱い熱狂/冷たいアーキテクチャの二重構造
熱狂の日常化、多様化において、「リアリティ」の多様化、コミュニティの分散が起こっているとととも
の「リアリティ」そのものの希薄化が進む。貨幣へのフェティシズムも、一つの熱狂への変容である。
そしてこのような熱狂が活性化する場として、サブカルチャーがあり、たとえば女子高生、オタクなど
があり、それらはネットへ集約知れつつある。ネットは熱狂は場であり、様々な「リアリティ」が生まれ
る場としてある。
レッシングは人間を規制・制御するものとして、「法、規範、市場、アーキテクチャ」の4つを上げてい
る。このうち、法、規範そして市場ははリアリティを反映し、再構築されるが、アーキテクシャはリアリ
ティの外部として作動する。
人が認識できないような外部自然そのものを管理することを目指す。管理される自然=グレイゾー
ンの拡大である。このような意味で、近代以降の「数量化」には、特別性がある。そこに歴史が止揚
する可能性が開かれる。