ふう、暇だから逐行お付き合いってなことをしてみるか。あ、スレの皆様、初めまして。
哲学に限らず、分析者にとっては「誰がどのような状況下において、いかような物言いをしたのか?」
ってなことも大切らしいので、初発言から固定ハンドルにて登場という暴挙、皆様には目障りかもしれませんが、ご容赦ください。
なお、改行はこちらで都合のいいように決めてしまいました。
>>「ことわりを悟ることで産まれる本物の知恵」で解決されてしまうような浅薄な問いではない。
>物事の理を悟れば物事の理非・善悪を明確に弁別することができます。
真っ向から対立してますねぇ。135さんの「れば」以前の物言いが理解できるのであれば、
どちらの言い分がよりわかりやすいか判断できるかもしれません。
135さんの「物事の理を悟る」とは、じゃあ、一体どういうものなのか?
>つまり、人が長年連れ添ってきた力を崇拝し理に反する蒙昧から抜けだして物事を明確に見定めることができるのです。
これは「れば」以前を獲得できた場合の効用ですね。
>蒙昧に捕らえられ自己陶酔に陥入り、物事を曖昧な判断でしか捕らえることのできたかった人の心を利用して創られた全ての宗教は
>人々が、その陶酔から目覚めれば自然消滅する以外に逃れる術は有りません。
ええっと、宗教集団は集団としての利益を守りたいために「蒙昧」を守りたい、ということのようですね。
ここまでで前半部終了。
「物事の理を悟る」ということについては、直接説明してない。
>>運命と功績の不一致の根拠に関する問いは人間の生そのものから湧き出てくるものなので、
>この>人間の生そのもの、とは自己陶酔が産みだす数々の自我や思い込みのことを指していると思われますが
>「ことわりを悟ることで産まれる本物の知恵」は自我を産みだす要素も生じませんのでご心配には及びません。
(続く)