◆決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない65◆

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696考える名無しさん
>>688
>本質的に『ある』と言える性質を持ったもの、またはその性質を指す
これ↑と
『「今まさに、ここに在る(いる)」ということ』 と、どこが違うんだ?

>『そのものとして存在する』 と考える事ができる存在の『存在』という部分
これ↑と
『「今まさに、ここに在る(いる)」ということ』 と、どこが違うんだ?


これはまさしく普遍じゃないのかい?
個別性はどこから導かれるんだい?
唯一無二であることによって(同一のものがないことによって)
それは、普遍へと転化してしまうのだが、気づかなかったのか?
(ちなみに、「差別即平等」は、ここから来ている言質なのだがなw)
697哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2006/07/10(月) 10:02:53
>>696
>これはまさしく普遍じゃないのかい?
>個別性はどこから導かれるんだい?

はぁ??
国語の問題だろw
『自我』と言えば普遍性
『私』と言えば個別性 だろ普通
698考える名無しさん:2006/07/10(月) 10:07:16
私の存在性って…
ただ単に自己が自己を認識してるだけじゃん。
なんでそれが確かな存在性なんだか。
認識という行為に付随する性質ではあるが、それは認識主体が何である
のかを規定したりはしない。

「思う」ときに「思う」という作用が存在していることは確か。
でも、「思う」主体としての「私」があると考えるのは間違い。
少なくともそれは確かめることができない。
むしろ、「思う」という状態自体が純粋思惟としての「私」としてあると
考えることができる。
誰かが言っていたように、「思うゆえに在り」が正しいわけだ。

このような「思う」が固定的な実体ではなく、流動的なものだというのは、
わかるだろうか?
絶えず変化し続ける意識の流れはとどまることはできない。
むしろ、流れが止まったときからそれは意識ではない。

この意識の流れは、右目が右目を見ることができないのと同じ理屈で
絶対表象不可能。この表象不可能なものを表象せよという、
命令を受けたときに、観念世界にメタレベルの「私」が発生する。
この「私」は客体化されている時点で、純粋思惟ではない。
この「私」は固定的に見えるが、それはそもそも純粋思惟の主観性
そのものではない。
699考える名無しさん:2006/07/10(月) 10:11:52
>>686>>688
「存在性」についての文章ですが?
どこにも「自我・私」は出てきていませんが?

仮に、「私」の説明であったとして、
『個別性のある「私」』の説明が、『普遍である「存在性」』によって為されるのはおかしくないですか?
もう一つ、個別性を導き出す要素が必要になりませんか?

「存在性」という性質も、個別性をもつものなのですか?
そもそも、「性質」というのは、普遍性をより強く含む語ではないのですか?
700考える名無しさん:2006/07/10(月) 10:35:39
>>632
“自由意志(感)”から、あのように考えたわけではありません。意識・意志に
ついては>>567からも問われており、いま考えている最中です。
もともと実験不可能なことを云々しても無意味なのですが、一人の人間に同一
の物理条件を設定しても、そのつど同一の選択(判断・決断・実行)をするとは
限らないと、なんとなく思っています。それは自由意志があるからではなく、
人間の“心”が突如「妄想する」からです。極端な場合、この妄想が「発狂」を
招くこともありうるからです。
もし「物理条件(通俗的には環境)が決まれば妄想の内実も定まる」のなら“心”
は、どんなに精緻であれ、プログラムされているといえます。また、妄想の内
実がわかれば“狂いかた”が確定できるのなら、同じことがいえるでしょう。
物理条件→妄想→発狂にも『規則』は見出せないのではなかろうか。



701参考:2006/07/10(月) 10:42:45
>>3-4 >>186(→「私」の個別性は何に拠っているのか?という問題)
>>191 >>201 >>307 >>65