新しくスレを立てて,いきなり私ばかり書き込むのはよくないかもしれないが,前スレでの
書き込みが途中で止まってしまったので,一応,改めて最初から書いておこうと思う。
前スレでの経緯を知らない方には申し訳ない。
>前スレ565
それほど意味のある作業ではないと思われるが,一応現時点でできそうなこととして,
永井が今まで,ウィトゲンシュタインの「私的言語」につきどういうことを言っていたか,
そして,『私・今・そして神』(新刊)で論じられている永井の「私的言語」は,ウィト
ゲンシュタインのものと同じなのか違うのか,というような点を,いくつか書いてみる。
他にカオル氏と483氏の個別のレスもあったが,とりあえず,それらに対する応答では
なく,私が今まとめた範囲のことを書いてみる。
まず,新刊で出てくる「私的言語」について,「「しくい」型私的言語」と,「「くすぐら
れたのになぜか痛い」型私的言語」(略して「「痛い」型私的言語」)を区別してみる。
区別するのは,この2つで内容や根拠等が異なると思われるため(言葉の意味の逆転とか
絵日記の話が出てくると,さらに別の段階のようだが(214頁以下),そこまで頭が回らない)。
「しくい」型私的言語は,公共的な言葉では表せない,私だけが感じる感覚等を指す言葉で,
言語として成り立つ根拠として,私が「しくい」と思う確信以外に,私的感覚相互の連関が
あれば,それによる正当化ができるなどとされている。
「痛い」型私的言語は,(1)誰が何と言おうと,また私的連関に反してでも,私が「痛い」
と思うなら痛いのである,という点と,(2)「しくい」のように公共的でない言葉ではなく,
普通の言葉が使われているのが特徴と思われる。このような「痛い」という言葉が言語と
して成り立つのかどうかという点については,新刊205〜206頁あたりの議論が関係して
いると思われるが,現時点でよくわからない。
ついでに疑問点を書くと,「しくい」型私的言語では,私的連関が根拠として挙げられて
いるが,一方で「痛い」型私的言語は,私的連関に反しても痛いということは正しいと
されている。すると,この2つの「私的言語」に関する議論は矛盾しているのではないか
(あるいは,「痛い」型私的言語は,言語として成り立たないのではないか),という
疑問があり得ると思われる。しかし,それはとりあえず置いておく。
次に,永井は,以前の本では,ウィトゲンシュタインの私的言語について,すでに共同体の
一員として認められている主体の内的体験に関する私的性格(個人的私秘性)と,まだ
共同体の一員として認められていない,あるいは決して認められることのない主体の内的
体験に関する私的性格(超越的私秘性)との区別が曖昧であるとしている。そして,個人的
私秘性についての私的言語は,「ある特定の感覚が繰り返し起こることについて日記をつける」
という状況描写が有意味である限り,可能であるようなことを書いている。一方で,超越的
私秘性については,(1)ウィトゲンシュタインが問題にしようとしていたのは,普通の痛みで
はなく,公共的な脈絡で痛みを感じることはないため,自分の感じるもの(<痛み>)を語る
ために「痛み」という言葉を使うことができないような子どもの<痛み>である,よって,
実は,ウィトゲンシュタインの状況描写は公共言語でなされておらず,有意味ではない,
(2)ウィトゲンシュタインが,すでに共同体の一員として認められた人格主体の持つ感覚から
外的諸基準を除去するだけで超越的私秘性に達することができると考えたのは,間違いである,
などとしている(『<私>のメタフィジックス』44〜47頁,『<魂>に対する態度』85〜88頁)。
新刊197頁にも,だいたい同旨のことが書いてある。(微妙に違うのは,超越的私秘性に関する
私的言語を使う主体が「初めてしかも独力で意味付与を行う独我論的な主体」であるか(『<私>
のメタフィジックス』45頁),「私的言語の力によってはじめておのれを持続的主体として
客観的世界の内部に位置づけようとする主体」であるか(新刊197頁)という点か。特に,
「独力で意味付与」であるかどうかが,意味があるのではないかという気がする。)
このような,ウィトゲンシュタインの「私的言語」に関する永井の指摘と,永井自身の新刊の
「私的言語」を対比すると,まず,「しくい」型私的言語は,個人的私秘性に関する私的言語と
だいたい同じと思われる。永井は,「しくい」型私的言語については,昔から可能であると
主張していたが,新刊では私的感覚相互の連関という根拠を新たに示し,さらに客観性成立
という議論とつなげたところが新しい,ということになるかと思われる。
この点については,永井はウィトゲンシュタインに反論していることになり,あとは,その
反論が妥当かどうか,ということになるだろう。
次に,超越的私秘性に関しては,「しくい」型私的言語が超越的私秘性の問題と区別されて
いることは,以前の本の論旨全体からして間違いないと思われるが,では「痛い」型私的言語
が超越的私秘性に対応あるいは関係しているかというと,疑問がある。
超越的私秘性に関して出てくる<痛み>(そもそも「痛み」という言葉が使えないはずのもの)
と,「痛い」型私的言語が指している痛みとは,内容的には同じものだろうかという気もするし,
公共言語によって意味が与えられないはずという点も共通しているように思われる。しかし,
相違点も大きいと思われる。
(続き)
まず,前者は,そもそも全く言葉で意味を与えられないはずであるが,後者については,一応
「痛み」という言葉が使われている。また,前者は,共同体の一員では全くない者についての
ものであるとされているのに対し,後者については,共同体の一員でないとまでは言われて
いない。ここで>前スレ541の独り相撲に引きつけてみると,前者は,『哲学探求』261節の議論で,
意味を与えられないはずのことを言おうとしても,言語ゲームとか共同体の中でどうしても
意味を与えられてしまうという理由により,否定されると思われるが,後者は,意味を与えら
れないはずということは当てはまらず(私にとっては,むしろ「痛み」の意味が分かっている
ことが前提と思われる),言語ゲームや共同体の中であるからといって直ちに否定されるもの
であるということもないと思われる。
問題は,逆に,「痛い」などという普通の言葉が,なぜ「私的言語」と呼ばれるのか,という
方向だろうか。この点に関して思いついたことを書いてみると,「誰が何と言おうと,これは
私が「痛み」と呼んできたものだ」「くすぐられたのに,なぜか痛く感じる」などという言葉
は,実は私にしか理解できず,また私の意味での「痛み」でしかない,という点では,「私的
言語」と呼べる,ということだろうか。永井の議論で「痛み」などに関して誤りえないことが
強調されているのは,他人たちの違い(さらには過去の絵日記との違い?)を強調することで,
他人に理解されないことや,「私の意味で」という点を示すためだろうかと思われる。もちろん,
それだけだと雑すぎるので,もっと別の議論をすべきとは思うが(特に,他人から「「痛み」とは
地球の衛星の名前なのだから,君が痛みを感じるはずはない」などと言われることを想定すると,
他人に理解されないという意味では,立派に「私的」と言える気もする。)。
(続き)
「痛い」型私的言語が,なぜ「私的言語」と言われるのかに関して,もう一つ思ったことを
書いてみると,新刊184頁には,「我思うゆえに我あり」がこの私を指せるかについて,
「指せるためには,私自身が私自身の思いの中で「ゆえに,存在する」とされたその「私」を,
現に存在する私自身と現に結合させている必要がある。そんなことが可能だろうか。それが
「私の言語」という問題である。」とある。
このことと,「私的言語」とがつながっているとすると(文脈からするとつながっていると
思われるが,しかし,それならなぜ「私的言語」ではなく「私の言語」と書いてあるのだろう),
「痛い」という言葉について,現に私が感じているこの痛みと結合させることができるなら,
「私」という言葉についても,現に存在するこの私と結合させることができる,というような
ことなのだろうか。しかし,「私」(<私>)については,いくらこの<私>を指そうとしても
他人に読み替えられてしまう,と,永井は今まで何度も論じてきたはずなので,今になって
それが可能だと論じるというのも変な気がする。
このあたりは,私には現時点では不明だと言うしかない。
無意味に長くなってしまったが,まとめると,(1)「しくい」型私的言語については,永井は
ウィトゲンシュタインに反論しており,あとはその議論の妥当性が問題だ,(2)「痛い」型
私的言語については,ウィトゲンシュタインの「私的言語」と対応するかどうかわからず,
相違点も多くあるので,もっと検討が必要ではないか,ということ。結局,新しいことを
書いていない気がする。
やはり,本来は,新刊の「私的言語」がどういう意味を持つのかをもっと積極的に論じないと,
生産的な議論にならないと思われるが,今の時点でできる範囲ということで,一応書いてみた。
これを手がかりに進められる点があったら,また書いてみる。
…と,ここまで全スレで書く予定だった。
>>7 最終行
全スレ→前スレ
前スレに新スレの告知の書き込みをすることもできないし,いろんな面で
他の方々に申し訳ないが,一応ここまで書かせてもらった。
9 :
考える名無しさん:2006/07/18(火) 00:35:46
575 名前:483[] 投稿日:2006/07/01(土) 17:05:25
455氏からレスが無いので自分から議論を起こすことにするが、もっと問題を明確にする為に
「私的言語」というよりも「私的」ということにフォーカスを当てたい。「私的」とはどういうことか。
それは端的に言えば「感覚」について言われる事があるが、しかしウィトゲンシュタインも言うように
痛みでのたうちまわっている人を見れば、その人の「痛み」は明白でありこれを「私的」とは呼べない。
また痛みについて誰にも言わない為にそれが「私的」と呼ばれるわけでもない。
当然その人が「痛み」を感じている事が外部の人間に分ってもよいのだ。その上でなお、
「この痛みは私にしか分らない!」と言われるのだがこれはどういうことか。
我々は「この痛みは私にしか分らない!」をどう理解するべきか。これは実は或ることを伝えるように見えて
実は単なる痛みの叫びではないか。
この場合の「分らない」というのは実は「分る」の反対語では“ない”のではないか。
当然個人の痛みは「分らない」ことが前提されている以上、ここでは普通我々が使う「分る」、「分らない」
の用法とは全く違う現れ方をしているのではないか。
>前スレ483さん
>我々は「この痛みは私にしか分らない!」をどう理解するべきか。
>〜この場合の「分らない」というのは実は「分る」の反対語では“ない”のではないか。
ある刺激の神経伝達による身体反応と、それを痛みとして分かることとの差異が
可能であるためには、身体反応を内的現象として指示する(表象させる)はたらき
──まとまりのない身体反応の断片を統合して、ある感覚として生起させるための
(言語以前の)はたらき──が必要です。このはたらきを言語の指示作用によって
あらためて内的に対象化したものが「私」ではないでしょうか。
「私にしか分からない!」と言うためには、身体反応が「私」の内的現象にならない
かぎりは不可能なのです。身体反応は「私」がそれを志向したからこそ、痛みとして
表象したのです。そもそも「私」がいなかったら、ある身体反応とのあいだで「分かる
/分からない」は成立しないでしょう。この痛みは、この「私」にしか起こりようがない、
ということです。
「私は痛みを感じている」と「私は痛みを感じていることが分かっている」とのあいだ
に論理的な差異をみとめることは可能です。けれども「私は痛みを感じていることが
分からない」という言明が有意味でありうるためには「私は痛みを感じているけれど、
私は痛みを感じていることが分からない」というような「私」についての用法が可能な
場合だけです。
でも実際は、感じることと、それが分かることとは、この「私」においては切り離せない
ことなのですから、「私は痛みを感じていることが分からない」というのは、「私は痛み
を感じていない」ということなのです。「この痛みは私にしか分らない!」と言えるのは、
言語ゲームが、だから文法的/論理的ということが、可能であるための条件としての
原初の事実なのですから、この私的さを言語によって指示することはできないのです。
483さんは「知る/知らない」を「分かる/分からない」の議論に変更されています。
しかも「私にしか分からない」の「分からない」は「分かる」の反対語では‘ない’と。
>この私的さそのものを言語によって指示することはできないのです。
>>10 「私的さ」は「知る」モノではないけれど「分かる」コトなら可能ということでしょうか。
私が「私は痛みを感じている」と言うとき、その痛みを感じる人を指したりしないのは、
私は‘ある意味で’誰がそれを感じているのかまったく‘知らない’からである。
『探究』404節を引用(『〈私〉のメタフィジックス』108n)して、永井は次のように言います。
ウィトゲンシュタインは通常の「知」が成立しうる(「知る−知らない」が語りうる)
関係の外で、しかもその外であるということを、「知らない」という言葉で表現している。
もし「ある意味で……知らない」という‘言いかた’が認められるならば、そのような
哲学的見解に反対する者が「ある意味で……知っている」という‘言いかた’をすることも
認めなければなるまい。
…………
そうだとすれば、「私は自分が痛みを感じていることを知っている」と‘言えない’理由は
もはやない。
…………
私は、『人』が痛みを感じているときには、‘ある意味で’彼は自分が痛みを感じている
ことを‘知っている’はずだ、と思う。
…………
『人』は自分自身に生起する心理現象を、ある特殊な意味で、知っているのでなければ
ならない。なぜならば、そのことが『私』を(したがってまた『人』を)成立させる根本条件を
なしているからである。
「特殊な意味で知っている」とは、「いまここにある」コトとしての「私」を、
「いまここにある」モノのとしての「私」として、把握(意識)しているという、
位相(存在論)的差異における差異としての「私」のあり方のことでしょう。
この特殊な意味での「知」は、意味の生成をともなうような対象の認識
ではなく、意味の生成(存在者の存在)を可能にする条件としての「私」
(実存)の成立のことでしょう。
この「私」の成立(連続創造)が、「言語の使用」において、いつも「意味
の原点」であるために、
私の言語が「じつは」どんなに変化していようと、それが変化していない
ことこそが変化を把握する出発点であり──『私・今・そして神』(220n)
と言われるように、「私の言語」の不変性の内部にある「私の意味で」が、
「すべての言語に付加される」(一体となって貼り付いている)ことになる
わけです。
このように言語が可能であるための「私の意味で」が超越論的に要請されて
しまうことから、同書187nにおいて、
言語が可能である以上、私的言語もまた実は可能であったのでなければ
ならない。
と、されているのでしょう。
この「実は」は、「私の意味で」のことであり、言語の使用を可能する条件として、
超越論的に要請されたのだから、〈それ自身〉は言語の対象としての「それ自身」
(A=A)というあり方はできない。「それ自身でない」ことで、すべての「それ自身」を
可能にするようにはたらくために、いつもつねに言語の背景へと退いてしまうという
あり方しかできない。
この「私の意味で」は、言語が照らし出すモノ(存在者)の存在を可能にしている
条件としての光、すなわち照らし出すコトとしての超越論的な〈私〉のことでしょう。
照らし出す〈私〉は、照らし出される「私」(の世界)の否定として〈ある〉のですから、
このような断絶の連続反復(創造)を引き受ける死への生こそが、この私の実存、
ということなのでしょう。
だから、「私の意味で」は、いつもつねに「可能であった」という痕跡としてのあり方
しかできない「不在の実体」とされているのでしょう。その痕跡としてのあり方こそが
「わたしたちの言語」、すなわち「公的言語」のあり方なのではないでしょうか。
すべての言語がその時の意味付与と直結している音声言語だったら、
すべての言語は時間上の私的言語である今的言語になってしまう
…………
たしかに言語は、私‘と同格の’他者の存在を認めなければ機能しないのと同じく、
現在‘と同格の’過去の存在を認めなければ機能しない、と考えられるからである。
──『私・今・そして神』(218-219n)
永井が言いたいのは、「ずれの運動」(独在性の〈私〉 → 単独性「私」への
読み替え)のことです。
「私の世界」は、個体としての生命が天に向かって独り立ち「いまここにある」
ことによって創造されます。それを可能にしている身体という媒体を「この」と
指し示したとき、すなわち言語の指示機能によって「志向性」が「私」と名付け
られ、行為の主体と見定められたとき、はじめて主客分離の自覚(メタレベル
の視点の獲得)が起こって、意味(存在者)で満たされた「わたしたち」の世界、
「言語ゲーム」の世界に、参加する資格を得ることになるのでしょう。
たしかに、〈ある〉ことの自覚、すなわち「実存」は、完了形で知ることではなく、
現在進行形で、いつもつねに「分かっている」ことです。実存する(「私」)とは、
光でありながら、その光に照らし出されるものでもあるという原初のコト分け
(分節)なのでしょう。だからこそ、それは極めて私的なのであり、私的でしか
ありえないのです。
「いまここにある」コトの超越において、自身がそれであるところの存在者で
あることに気づくということは、自分自身という言い方が可能であるということ、
すなわち、「私」の両義性(差異化しうる)というそのことが、実存を可能にして
いるということなのです。
だから「私」の差異化しうるという自己性(私的さ)のあり方が「ずれの運動」
の根拠なのだとしたら、この根拠は「私」の本質として内在的なのですから、
他人に理解される(読み替えられる)ことはあっても、他人が「分かる」ことは
ないのでしょう。
なぜなら、他人が原初のコト分け──世界の開闢と開闢された世界との
存在論的差異、すなわち「差異自身」としての「私」(実存)の成立──に
かかわることは原理的にありえないことだからです。
推敲しながら書き替えていったら、なんだか文意がつながらなくなった。
でもそのままです。わからないところがあったら質問してください。
483さんは居ないみたいだし、455さんに返す言葉はないし、
またわたしがひとりでポツポツと書いて行くのかな?
なぜわたしはこの私なのか?
わたしには当り前じゃない問い。
主語のわたしが消えてしまうことだってあるし、
この私が他のだれかになることなんてめずらしくないこと。
16 :
B:2006/08/21(月) 00:11:00
>16
>永井 均 (千葉大学教授・哲学)
>講義タイトル 『言語はどうして可能なのか』
何だ,どんな講義をするんだ?
「この言語は実は私的言語なので,あなたがたが理解するのは不可能です」とか言うのか?w
>>17 いきなりそれはないでしょ・・
公共言語→論理形式(写像)→文法→言語ゲーム→公共言語
の筋でヴィトとかクリプキを織り交ぜつつ私的言語→(゚∀゚)
この辺りのコースではなかろうかと勝手に妄想してみるぉ
19 :
B:2006/08/23(水) 00:15:12
>>18(あるいは
>>17)
永井均はきっと、「不可能です」に似たようなことを言うんじゃないかなぁ。
すでに成立している「この言語」の可能性を問うなんていうのはかなり倒錯的だし。
具体的には、(公共)言語以前の世界を問題にするんじゃないかなぁとおもう。
西田に今、取り組んでいるのも(ほんとに取り組んでいるのか?)そういう動機が働いていそう。
ひょっとして私的言語=言語以前なんていうかもしれない。
まぁ、祭りの前が一番わくわくして楽しいのと同じで、今はいろいろ妄想できるのが
いい時期だから、あれが正しいとかこれが間違っているとか言うのは無粋だろうなあ。
じゃあ、これも勝手な妄想ということにしよう。
>>19 Bさん
>具体的には、(公共)言語以前の世界を問題にするんじゃないかなぁとおもう。
永井には、あくまで「言語」にこだわってほしいです。
そうでなければ、どうして〈私〉という表記にこだわるのか、
どうして「私の意味で」なのか、‘私の’‘意味で’なのか、それこそ意味不明だからです。
西田の「絶対無」、ハイデガーの「存在×」、ニーチェの「力への意志」、デリダの「不在の実体」……は、
どれも永井で言うところの「ずれの運動」、「私はこの私である」という差異そのものとしての実存の成立を
指し示しています。これらの議論に回収されてしまうのであれば、それはわたしの議論がつまらないように
つまらないものになってしまうように思います。もちろん、永井の意味で、ですが。
>ひょっとして私的言語=言語以前なんていうかもしれない。
私的言語=公的言語以前、というより、
私的言語=公的言語、でしょうか。…… 双方が双方の原理としてはたらいている。
「=」は、文字通りに「区別がつかない」ことと、双方が双方の「絶対否定」として〈ある〉ことの
存在論的差異を示していて、この差異そのものが言語存在者としての自己同一性を可能に
している、というような。
はじめに言ありき。
「神さまの言葉は私的言語であり、あらゆるすべてに通じるそれは公的言語である」
と、永井が言うなら大いに納得できます。もちろん、〈神さま〉=〈私〉です。
また怒られてしまいますか?
21 :
B:2006/08/28(月) 01:12:50
>>20 >カオル
後半はなかなか鋭いところを突いているんじゃないかと思う。
でも私的言語=公的言語というのは少し先走りすぎじゃないかなぁ。
あと、〈神さま〉=〈私〉というのは論外として、
「はじめに言ありき。」っていうのはかなりいいセンいっているように思う。
だからこそ、個人的に(公的)言語以前が「私的言語」になるんじゃないかとにらんでる。
ちなみに他はともかく、ニーチェの「力への意志」は<私>とは関係がないと思うなぁ。
22 :
B:2006/08/29(火) 23:25:13
>個人的に(公的)言語以前が「私的言語」になるんじゃないかとにらんでる。
「個人的に」じゃなくて永井均がそう言っているというのが正しい。
宇宙に果てがあるのか無いのか知らないけれど、言語には果てがない。
>>22 Bさん
>「個人的に」じゃなくて永井均がそう言っているというのが正しい。
説明してもらえますか?
本当に永井が時間的前後関係を示唆する「以前」という位置に
「私的言語」を持ってきているのなら、まちがっていると思うので。
永井の新刊まだ〜?
新刊は西田哲学と絡めた本だって?
25 :
B:2006/08/30(水) 15:02:09
>>23 なんとしても永井均の間違いを見つけようという態度はやめたほうがいいと思う。
それはそうと、むしろ、単純な言語以前は存在しないといっていたとおもうなぁ。
幼児期の言語「使用」以前を言語以前と見る向きがあるけれど、完全に言語の外にいるなら
いくら親が言葉を教えても理解できるはずが無い。「痛い」という言葉の習得に関して
『私・今・そして神』でそんな議論を展開していたはず。
(公的)言語以前に私的言語が来るのは私秘的という言葉では表せられないほどの
私秘的なものが――つまり<私>が、公的なもの――「世界」とでも言えばいいのか――以前にくるのと同じ要領。
>>25 Bさん
>「痛い」という言葉の習得に関して『私・今・そして神』でそんな議論を展開していたはず。
他者の存在とは無関係に──(生活の形式の外で)──「痛い」という言葉を習得するのは
不可能ですが、それが「私の言語」──(‘私が’「痛い」と呼んできたもの)──であるなら、
じつは「痛い」という言葉の習得、つまり「私の言語」を可能にしたのは、「痛い」を、
「私の(理解する)意味で」「痛い」と、この「私」が(理解する唯一の言語として)「思う」という、
──〈私〉と「私」の存在論的差異における差異そのものとしての実存の成立、自己の二重
構造における自己言及(自己同一化)という──「前提」があってのことなのです。
……『私・今・そして神』197〜199n
けれども「私の(理解する)意味で」は「他者の存在とは無関係に」ということなのであって、
言語の使用を可能にする「起源」としての「言語以前」に位置づけてしまうと誤解されやすい
と思います。たとえば、永井はデリダのフッサール批判をひいて、言語は「私と同格の他者」
「現在と同格の過去」の存在を承認しなければ機能しないと考えられる、と述べています。
つまり、こちらの方のフッサールの「起源」への哲学にたいするデリダの批判が有効になって
しまうのです。(永井の意に反して有効だと思いますが)……『私・今・そして神』218〜219n
「世界に同格の他者が存在しない」からこそ「私の言語」は「私の意味で」「私的言語」である、
しかし言語は、たとえ私的言語であってもそれが可能であるかぎり、どこまでも同格の他者の
存在(対称性)を要件としているのだから、私的言語が可能であるとは「世界に同格の他者が
存在する」という対称性がどこまでも満たされてしまうことで‘も’ある、すなわち私的言語が
可能であるかぎりは、いつもつねに「私の言語」は「私たちの意味で」「公的言語」で‘も’ある、
という永井の議論なのですから、そこには「以前」「起源」という想定はないと思います。永井は
言語が可能であるなら「私の意味で」は「超越論的」に要請さればければならない、と言いたい
のではないでしょうか。「超越論的」と「起源」や「以前」とは相容れない概念だと思うのですが。
……『私・今・そして神』221〜223n
以上は、ちなみに「私の言語」と「私的言語」は同じものなのか、という455さんの疑問について、
わたしなりの回答でもあります。「私の言語」は、〈私〉の言語であり、かつ「私」の言語でもある、
というようなあり方しかできない、という「私の言語」の両義性のために、つまり「私の言語」の
使用においての「ずれの運動」──私が、この私であること──についての問題であるために、
「私の」を「私的」と短絡させることができないのです。だから、わたしが「私的言語=公的言語」
と書いたのも、それは「私の言語」ことでした。一応、稚拙でもわたしなりに考えて書いています。
>>27 >それは「私の言語」ことでした。
訂正 それは「私の言語」のことでした。
30 :
B:2006/08/31(木) 00:28:21
>カオル
そうだなぁ。言語「以前」という言葉を安易に用いたのはまずかったなとわれながら思う。
ただ、
>〈私〉の言語であり、かつ「私」の言語でもある
なぜそういえるのかもピンとこないけれど、この両義性がどういう意味を持つのかよくわからない。
いずれにせよ言語とは「私の言語」でも「私的言語」でもありえないんじゃないのかな?
それでも、この言語が成立するためには本来的には語りえない「私的言語」が必要なはずだ、
という筋立てなら論旨はわかるけれど、その「語りえないもの」がさらに細かく分類されるべきだ、
という話はなにか違和感を覚える。
「語りえないもの」をそうやって細かく分類するというのは、「詳しく語ることができる」という
暗黙の下敷きをすけているようにも思えるから。
もちろんカオルの言っていることをよく理解できていないのに、全面的に否定するつもりはない。
ただ、先走りすぎているんじゃないのかなって思う。
今までのスレの流れでは、「私的言語はあるとも無いともいえない」と言えてるに過ぎないと思う。
その中で私なんかは、<私>は語りえないのにあることを知ってしまっているということと
私的言語の問題を類比的に考えて私的言語はあると、擁護してきた。
でも自分でもこの擁護はいまいち根拠薄弱だと思う。
だから、もう少し「私的言語は本当にあるのか」という問題に焦点を当てるべきじゃないかと思うんだ。
私的言語とはこういうものだ!なんて話はまだ少し早いんじゃないかなぁ。
>一応、稚拙でもわたしなりに考えて書いています。
私に言っていることじゃないかもしれないけれど、それはよくわかってるし、みんなにも伝わっていると思うよ。
31 :
B:2006/08/31(木) 00:46:09
>>30 あ〜、前スレ455さんが私的言語を「しくい」型と「いたい」型に分けていたことに
対応しているのか。
どちらかが可能でどちらかは不可能という話なら、かなりすっきりするけれど
果たしてそううまくいくかはわからないなぁ。
いずれにせよ、私はこれから忙しくなるからそう書き込めないけれど
面白そうな話ではある。
>>30 Bさん、お忙しいところレスありがとうございます。
>今までのスレの流れでは、「私的言語はあるとも無いともいえない」と言えてるに過ぎないと思う。
それなりの正しい到達点だと思っています。〈私〉の、ある/ない、ということが
同じ一つのことなら、世界の側からの物言いの限界はそのようになってしまうからです。
>もう少し「私的言語は本当にあるのか」という問題に焦点を当てるべきじゃないかと思うんだ。
前スレ483さんの問い(
>>9)が、そのことについて考察することになると思います。
>>21 >あと、〈神さま〉=〈私〉というのは論外として、
>〜ちなみに他はともかく、ニーチェの「力への意志」は<私>とは関係がないと思うなぁ。
論外で、関係ないのは、たぶんわたしがわたし自身の問題にしてしまっているからです。
生成に存在の性格を刻印すること、これが力への意志の極致である。
──ハイデガー『ニーチェU』
〈私〉に(現に存在するという)この「私」の性格を刻印すること、これが神さまの意志でした。
けれども、〈私〉は、神さまの知性(あらゆる存在の可能性)でもあったのではないでしょうか。
なぜなら、〈私〉は、時も場所も人物も選ばないはずなのだから、カオルがクレオパトラでも
よかったのだから。それでも、神さまが「現に存在させた」のは、この「私」、カオルなのです。
この〈私〉と「私」の同一性が必然なのだとしたら、それは〈私〉が〈神さま〉だからではないのか?
なぜなら、そうでなければ、開闢の〈私〉が、開闢した世界に、自己(この「私」)を位置づけること
なんてできないからです。みずからをみずから開いた世界に位置づけるなんて〈神さま〉にしか
できないからです。
私たちのうち、たった一人しかいないかのように、神は私たち皆を愛す。
──アウグスティヌス『告白』
>>21 Bさん(
>>26の補足説明)
>個人的に(公的)言語以前が「私的言語」になるんじゃないかとにらんでる。
言語の使用を可能にする条件としての私的言語については書いてきたつもりです。
永井はウィトゲンシュタインが言語ゲームを可能にしている確実性の岩盤として
指し示した「生活形式」を否定しているわけではなく、もうひとつの岩盤として、
「私の言語」の不変性の内部にある「私の意味で」を超越論的に要請しています。
ですから、それを主として、他を従として、あたかも主従の関係があるかのごとくに
想定してしまったのでは──私1は、なぜこの私2なのか?──の問いの重要性が、
損なわれてしまうように思うのです。なぜなら「この私2」の内容はどのようであっても
よかったはずなのに、なぜ「私1は、この私2なのか」、という問いのはずだからです。
「我思うゆえに我あり」が抱える驚異も同じだ。もしそれが正しいなら、
それは現に存在している‘この’私を、それだけが現に存在している‘この’私を、
指せないのではないか。デカルト自身が、それは誰にでも妥当する一般的言明だと
言っているのだから。指せるためには、私自身が私自身の思いの中で「ゆえに存在する」
とされたその「私」を、現に存在する私自身と‘現に’結合させている必要がある。
そんなことが可能だろうか。それが「私の言語」という問題である。
──『私・今・そして神』「第3章 私的言語の必然性と不可能性」(184n)
「ゆえに存在する」とされた「私1」と、現に存在する「この私2」とが‘現に’結合して
いるからこその問いが、──私1は、なぜこの私2なのか?──ではなかったのでしょうか?
もちろん、わたしの言う「私1」「私2」は、それぞれ永井では「私2」「私1」のように逆転しています。
なぜなら、永井の強調する‘この’とは‘比類なき’ということだから。でも、この逆転は〈私〉から
「私」への「ずれの運動」の反転なのです。このような逆転が可能でないなら、すなわち双方が
双方の原理(相即の原理)でないのなら、〈私〉は「私」の「起源」「以前」に位置づけられてしまい、
フッサールの轍を踏むことになってしまうでしょう。
── 私的言語について再論考、
>>9の問いを素材として ──
ウィトゲンシュタインの『探究』258節の「ある感覚」「E」について、
それには「二義性」が込められていた、という永井の推測についてですが、
かりに「個人的に私秘的な感覚」と「超越的に私秘的な感覚」との両義性を
みとめるにしても(この想定はその通りだと思う)、そのことからそれぞれを
「個人的に私秘的な言語」と「超越的に私秘的な言語」とに短絡させてしまう
ことはできないと思います。
なぜなら、ある「感覚」と、その感覚の「記号(言語)化」とは、それぞれ別の
位相に属する事柄だからです。だから「しくい」型私的言語にたいしての批判は、
その点──ある感覚(は)→ 生活形式(にしたがって)→ 言語化(使用される)、
という構成のされ方と、その構成のされ方によって可能になっているのが、時制、
人称、様相という言語システムである──についてのものでした。
ウィトゲンシュタインは、「私秘的な感覚」も、「E」という私的言語の「可能性」も、
否定していません。それらは公的言語の否定(言語ゲームを可能にする条件)として
あるのだから、そうであるなら、それらが言語ゲームには属さないことを示すことで、
それらを否定されえない「超越的」なものとして、あるいは言語ゲームを成立させて
いる条件としての「超越論的」なものとして残したのです。
たとえば、「しくい」は「気分」という「人間の生の形式」を通して理解されています。
他の気分との区別によって、その気分に「しくい」という命名をしますが、この「区別する」
という作業、── @ある判断とその結果の記憶 → Aある感覚 → @とAとの照合
( → B基準(ある判断とその結果という因果関係の了解))→ C判断 → D結果 → @
──つまり、事柄の時間的前後関係から、ある特定の因果関係を抽出するという行為が、
そもそも「人間の生の形式」なのです。この「基準に照らして区別する」という生の形式を
「私的」に構成することはできないでしょう。
しくい気分になるのは、ろましい感情を味わった後だというのは、時間的前後関係であり、
その際こじむいワインが飲みたくなるというのは因果関係かもしれない。これらの関係は
私的出来事を相互に関係づけるのだから私的出来事に対してメタレベルに立つとはいえ、
それ自体はやはり依然として私的である。だから、「〜の後で」や「〜の際に」も、
その意味ではなお私的言語である。……『私・今・そして神』194〜195n
どのような感覚(「しくい」)であっても、それは「私」にのみ立ち現われるのであって、
他人に立ち現われることはないのだから、ほんとうに知りうるのは私自身だけであり、
ゆえに、直接経験について語られるとき、使用される言語は本質的に私的言語である、
と言いたくなるけれども、そうではないのです。
a「〜私的である」まではいいとしても、b「だから〜私的言語である」とはいえないのです。
たしかに、aとbとの「あいだ」での記号化という作業は、
この関係を独立の視点から同じように理解し把握する他者の存在は、ここではまだ想定
されていない。それにもかかわらず、メタレベルに立って相互に関係づけることが、
ただそれだけで、客観性の源泉となるのだ。……同書195nの同じ段落のつづき。
ともいえる、というかその通りですが、事柄の時間的前後関係から、ある特定の因果関係を
導き出すという、公的言語「以前」の
どこまでも「『後で』のように思われ」、「『際に』のように感じられる」だけである。
という「思われ」「感じられ」のメタレベルに立って──相互に関係づける──「私」は、
脳からはみ出した「私」なのかもしれないけれど、その「思われ」「感じられ」は
「いまだ言語ではない!」です。
私の直接経験の私秘性について、その事態が他人には起こらない以上、それを知ることはできない、
ということが問題なのではなくて、たとえばある感覚が別の感覚と区別されているということ、すなわち、
そのように区別しているという、そのことが、生(活)の形式にしたがっている(公的)ということなのです。
そのことによって言語が成り立つひとつの条件としての差異が可能になるからこそ、ある感覚について、
口述したり、記述したり、することができるのです。
私的言語の問題は『哲学探究』の243〜271節のおいて取り上げられ、冒頭の243節で、
私的言語とは、「自分の内的現象(感覚、感情、気分……)を自分だけの用途のために
記述/口述できる言語のことであり、それは自分だけが知りうる直接経験(感覚、感情、
気分……)を指示するがゆえに、他人にはけっして理解されない言語」と定義されます。
その後、さまざまな議論の結果、私的言語は不可能であるか(公的言語に回収される)、
あるいは無意味(nonsense)であるとされます。
もちろん、ここでいう「自分だけ」というのは、「ある人にとっての自分」のことだけれども、
「ある人」と「ある人にとっての自分」とは、言語ゲーム上の同一の主体ではないのです。
「ある人」は、客体として指示される「誤りうる」主体だけれど、「ある人にとっての自分」は、
客体として指示されうる主体、すなわち「誤りうる」対象ではなく、「ある人がその人である」
という「誤りえない」事実なのだから、そのことが言語ゲームに登場することはないのです。
たとえば、「私は歯が痛い」という経験命題は有意味に否定されうるものなのでしょうか。
「私は歯が痛い」は「ある人」に起こった事態ではなく、「ある人がその人である」ところに
起こった事態なのであって、このような直接経験の私秘性は、言語ゲームをはじめるに
あたっての必要な条件なのですから、疑ったり否定したりすることは端的に無意味です。
たとえば私は、外部からそれとわかる脈絡や表出(転んで顔をしかめるとか)と
いっさい無関係に、自分に向かってこう断言できる、「私がいま感じているのは、
私がずっと『痛み』と呼んできたものである」と。
「痛み」というだれもが知っている語が使われていても、これは私的言語である。
なぜなら、他のだれがどう言おうと、これは‘私が’「痛み」と呼んできたものだと
言っているのだから。──『私・今・そして神』(197〜198n)
‘私が’は、「ある人がその人である」という同一性──私は、この私である──のことで‘も’
あるでしょう。毎日、目覚めると起こる「思われ」、毎日じつはちがうことが起こっているのかも
しれないのに「ゆえに、存在する」とされる「私」は、あたかも持続しているかのようなあり方で
現われます。この開闢を「通り越して短絡させる」ことはできるでしょうか。この「私」は、言語
ゲームに登場することはできるのでしょうか。「私は歯が痛い」は、経験命題ではないのです。
たとえば、「私は歯が痛い」について「他人はこの痛みを感じることはできない」という主張は、
「ある人がその人である」ことについて、何か意味のあることを言ったことにはならないのです。
なぜなら、もしもその主張に意味があるとしたなら、「ある人がその人」でない場合があるとき、
すなわち、言語ゲームの中での様々な用いられ方の記述が可能である場合だけだからです。
だから「歯が痛い」を「私は歯が痛い」と強調したとしても、その「私」は「まわせはしても、他の
ものが連動しない歯車」の‘それ’なのです。
「私だけ」の孤立した言語空間の想定は、それを理解する「ある人にとっての自分」に置き換え
られて(言語ゲームに回収されて)しまうか、あるいは「ある人がその人である」という事実は、
その人にのみ立ち現われる事態なのであって、他人が指示しうる対象にはなりえないのだから
想定そのものが成り立たない(無意味)か、のどちらかになってしまうのです。
この「他人が指示しうる対象にはなりえない」というのは、「私は歯が痛い」との言表を行なう
当人にとってもそうなのであって、たとえばアウグスティヌスが時間について「時間とは何か?
誰も私にそれを問わないなら、私はそれが何かを知っているけれども、問われていざ説明しよう
とすると、私にはそれが何かがわからなくなってしまう」──『告白』第11巻,19章,14節──と、
言っているのと同じことでしょう。特殊な意味で知っていたそれは説明によって消失します。
>>12
>Bさん
また、怒られてしまうでしょうか?(シンパイ)
どうしても永井の論で納得できない部分について、
このように解釈するなら理解できる、ということを書きました。
ただ自分の私的言語論を書きなぐっているだけかもしれませんが。
厳密さにおいて、どうも永井のアバウトさについていけないところが
あります。わたしがまちがっているのなら、どうしても知りたいです。
よろしくお願いします。m(__)m
>>30 Bさん
>だから、もう少し「私的言語は本当にあるのか」という問題に焦点を当てるべきじゃないかと思うんだ。
>私的言語とはこういうものだ!なんて話はまだ少し早いんじゃないかなぁ。
今日の議論は、この指摘を受けて書いたものです。
散々してきた議論のくりかえしなので、議論が後退しています。
ですから、今回の議論の後に、
>>10-14をもう一度みてもらえると
わたしの永井の議論の肯定の仕方がわかってもらえると思います。
>いずれにせよ言語とは「私の言語」でも「私的言語」でもありえないんじゃないのかな?
「言語とは」の「言語」とは公的言語のことですか? 意味がつかめないです。
永井の「私の言語」という表現は、「私の言語」が「私的言語」ではありえないこと
──言語ゲームに回収されてしまうこと──と、「私的言語」でしかありえないこと
──世界に同格の他者を想定しない言語、ゆえに無意味であること──の両義性を
示したものだと思っています。
>それでも、この言語が成立するためには本来的には語りえない「私的言語」が必要なはずだ、
なぜ、言語でなければならないのでしょうか?
42 :
B:2006/09/04(月) 01:57:04
永井均の土俵でオリジナリティを主張するカオル、というこの構図が
<独在性>を巡る問題系の多くの部分を暗に映し出しているのかもしれないなぁ。
さて、カオルの議論を精緻に追うのが困難なのは、カオルにとって常に<独在性>の問題が
死んで表れるからだ。生きていない。いつも、どこからか解答をつれてこようとする。
<独在性>の問題がとうの昔に解決された問題として捉えられているからかもしれない。
ただ、カオルが自身の<独在性>のオリジナリティに固執していることだけは、ひしひしと伝わってくる。
>厳密さにおいて、どうも永井のアバウトさについていけないところが
>あります。わたしがまちがっているのなら、どうしても知りたいです。
>よろしくお願いします。
永井均が先の三部作で新しい境地に達したのは私が指摘するまでも無いことだけど、
その新しい境地にずっと以前から住んでいましたという風な口をきく人物とは
どのような人物なのか、と正直思う。
まず、永井均に必要最低限の敬意を払うべきじゃないだろうか。
見下している相手が何を言っても間違っている気がすることはよくあることで、
往々にして痛い目を見てから、自分の間違いに気づく。
43 :
B:2006/09/04(月) 02:00:50
最後に
>>41 >いずれにせよ言語とは「私の言語」でも「私的言語」でもありえないんじゃないのかな?
この発言はあらゆる私的な言語を否定しているのだから、結果的にここで言われる言語とは
公共言語ということになる。
>それでも、この言語が成立するためには本来的には語りえない「私的言語」が必要なはずだ
言語には外部がない。
>>36に書いてあるような「言語以前」の場に私的言語が来るべきであると私は思っている。
そしてそれを
>>19で書いた。
いわゆる「言語以前」が単純な「言語以前」だと言語は習得できないし、使用不可能だろう。
なぜなら、「黒板消し」を指して「こ・く・ば・ん・け・し」と教えてやっても
その指が「黒板消し」なのか、そこにある黒板消しひとつだけが「黒板消し」なのか
指し示された状態が「黒板消し」なのか理解できないからだ。
少なくとも何らかの意味で「言語以前」は言語的でなければならない。
(この類の話を永井均もしていたはずだ)
余談だが、
>>42の最後の2行は自分にも当てはまりそうな気がしてきた。注意しよう。
>>42 Bさん
>永井均の土俵でオリジナリティを主張するカオル、というこの構図が
><独在性>を巡る問題系の多くの部分を暗に映し出しているのかもしれないなぁ。
そうやってわたしを見下すことのどこに価値があるのかわかりませんが、
そのように思いたいならば、そのようにしたいなら、そうすればいいです。
ところで、Bさんは永井を被害者あつかいしてないでしょうか?
永井はアカデミーの構成員であり、カオルのように「だれでも知識人」の世の中にあって、
その実質はともかく、真正の知識人として、哲学ではその頂点近くに立つ権力者です。
本人にその気があってもなくても、そのような立場にある人間の言説の力は大きく、
事実、日本の著名なアカデミーの哲学者で、永井を意識していない者はいないと思います。
むしろ、さわらぬ神に祟りなし、ではありませんが、まるで腫れ物にさわるようにして
永井を大事にあつかっているのが日本のアカデミアの風景です。永井はガキ大将なんです。
永井に毒されて、わたしにたいする感受性まで、永井の思う通りのようで、さみしいです。
>さて、カオルの議論を精緻に追うのが困難なのは、カオルにとって常に<独在性>の問題が
>死んで表れるからだ。生きていない。いつも、どこからか解答をつれてこようとする。
わたしの議論を精緻に追うことと、わたしの議論があなたにどのようにうつるかとは
別の問題です。たんに「カオルとは議論する気にならない」というだけなのでしょ?
>その新しい境地にずっと以前から住んでいましたという風な口をきく人物とは
>どのような人物なのか、と正直思う。
新しい境地がどのようなものなのか、わたしにはわからないから、
もしかしたらその人物は、わたしではないかもしれませんよ。
>まず、永井均に必要最低限の敬意を払うべきじゃないだろうか。
永井のどこに敬意を払えば良いのでしょうか?
永井の他の哲学者にたいしての人格批判、ダメ哲学者の烙印、イヤミ、皮肉、揶揄……等々、
その薄汚い行為をやめたら考えてみます。
けれど、大切なのは議論の内容だと思います。
永井は恥ずかしくて言えないのだろうけど──どうして私は、この私なのか──は、
言いかえると、私が生まれてきたことの、存在していることの、意味とはなにか?
と、問うているのでしょうから、その少年のような素直さはかわいい、と思いますよ。
>見下している相手が何を言っても間違っている気がすることはよくあることで、
>往々にして痛い目を見てから、自分の間違いに気づく。
いえいえ、ほとんどまちがっていない、と思っています。
わたしのなかで、もっともっと美しい理論にしたいだけです。
とは言っても「行儀のいい奴は基本的な存在じゃない」みたいなことを
ラッセルが言ってたような……〈私〉も行儀が悪いけど、私たちの世界も
不条理、二律背反、逆説に満ちていて行儀が悪い、サルトルの『嘔吐』に
出てくるマロニエの木のように気味の悪い姿が世界の真実かもしれませんね。
昨年はサルトル生誕100年記念で再版が目白押しでした。今なら読み放題です!
『嘔吐』は小説としてもおススメです!(もしよかったら)
>>43 Bさん
>この発言はあらゆる私的な言語を否定しているのだから、結果的にここで言われる言語とは
>公共言語ということになる。
はい。デカルトが「我思う、ゆえに我あり」を「それは誰にでも妥当する一般的言明」だと言う
その意味では、その通りであり、ちがう意味では、そうではない、ということが、「私の言語」の
問題である、と永井先生はおっしゃっていますが、わたしもその通りだと思います。
>「言語以前」の場に私的言語が来るべきであると私は思っている。
わたしは、認識論的には「以前」というニュアンスで書いてきましたし、
存在論的には「相即」というニュアンスで、前スレから書いてきたつもりです。
たとえば、
>>36に書いてあるようなのは、生物学的知見に基づいた認識論的なものとして、
もっと厳密に議論できるのですが、それでもいわゆる自然科学ではどうしても説明のできない
ところが、かならず「思われ」「感じられ」について、つまり「論理」と「感情」の誕生に
かかわる条件についての所で出てきます。
そこからが哲学の領分であり、この「思われ」「感じられ」という「現象」について、
それはどこで如何に起こったのか、というところから「私」が要請されることになる、
という具合です。そうやって、デカルトのコギトから、カントの超越論哲学、フッサールの
現象学……が誕生しました。永井やBさんにとってはどうでもよいことなのでしょうけれど、
わたしにはかれらは同志だし、かれらの哲学を敬愛しています。たとえかれらの(永井の)
哲学をどれほど批判しようとも、この気持ちは変わらないと思います。
>いわゆる「言語以前」が単純な「言語以前」だと言語は習得できないし、使用不可能だろう。
>なぜなら、「黒板消し」を指して「こ・く・ば・ん・け・し」と教えてやっても
>その指が「黒板消し」なのか、そこにある黒板消しひとつだけが「黒板消し」なのか
>指し示された状態が「黒板消し」なのか理解できないからだ。
>少なくとも何らかの意味で「言語以前」は言語的でなければならない。
>(この類の話を永井均もしていたはずだ)
ここで為されている説明が指し示しているのが、まさに「生活形式」と呼ばれているものです。
「教えられたから理解した」のではなく、「教えられたから理解した」かのように振る舞ったので、
つまり、理解したかのように言葉が通じたり、理解しているかのように言葉を使用したりするのは、
私たちが「生活形式」を共有(位相同型)しているから、というのがウィトゲンシュタインの『探究』
における議論でした。
それにたいして永井は、かりに「教えられたから理解した」のであっても(というか事実そうでしか
ありえないと言っています)、「私の言語」の不変性の内部にある「私の(理解する)意味で」
「教えられたから」、「私の言語」の不変性の内部にある「私の(理解する)意味で」「理解した」の
であって、この「私の(理解する)意味で」を「私の理解する唯一の言語」で他人に向かって語る
ことはパラドキシカルである、と言っています。……『私・今・そして神』 198〜199n
前者も後者もともに「言語の使用が可能になる条件」として「超越論的」に要請されています。
この「超越論的」を「発生論的」に「以前/起源」へと溯ることは価値のある考察だと思います。
>Bさん
あなたはわたしの論に反対なのだから、そうなってしまうところの
あなたの論を聞きたいです。そうしてそれについて議論したいです。
もちろん、わたしの論について具体的に批判をしてくださるのなら
それが一番嬉しいですが。
睡眠時間もほとんど取らずに一生懸命に考えて書いています。
応えてほしいです。わたしのレベルが低くてどうしようもないなら
そのことを厳しく具体的に、わたしの論のどこがどうまちがって
いるのかを教えてください。よろしくお願いします。m(__)m
49 :
B:2006/09/05(火) 23:33:08
>カオル
私の態度が悪いというのはおそらく間違いないことだろうから、それは素直に謝るよ。
でも、カオルも自分のレスを一度読み返してくれ。
「私はこういう哲学的知識を知っています」っていうのが前面に押し出されすぎていないかなぁ。
それでいて<独在性>について何を言わんとしているか、驚くほどぼやけてる。
それに私の理解する永井均と全く違うところから彼を見ようという、
カオルの姿勢についていくのは大変な労力がいるということを理解してほしい。
とりあえず、最近サルトルの『嘔吐』を読み返したのかもしれないけれど、
存在の耐え切れない軽さや存在に対する嘔吐なんかとは正反対のことを
永井均は問題にしているのだから、こじつけてしまったらわかるものもわからなくなると思うよ。
どちらかといえば、無くたっていいのに現にこうして在ることの不思議、この私という特別な存在に対する驚愕が
問題になっているのだからもう少しポジティブ(非ネガティブというべきか)な渇いた問いだと思うよ。
ま、今は時間が無いからこういう概論めいた事しかいえないけど、
カオルがもう少し人にうまく伝える努力をしたら自分自身も問題を整理しやすくなると思うけどなぁ。
50 :
B:2006/09/05(火) 23:34:05
それと睡眠はたっぷり取ったほうがいいと思う。
わたしたちのだれひとりとして、〈私〉を理解することはできない。
なぜなら、この世にはけっして存在しない〈魂〉のことだからです。
一切の現象の否定として〈ある〉のだから、〈ない〉ものなのです。
〈ない〉ものを表現しようとすることを、この世では背理と言います。
このようなまちがったこと、無意味なこと、理屈に合わないことを
するのが哲学における存在論であり形而上学なのだと思います。
この世にはけっして存在しない〈魂〉は、一切の言表を拒否します。
それ以前に想像されることさえ許しません。存在しないのだから。
それ 何か ある 〈私〉 超越 無 絶対…どんな記述であっても
それが言語であるなら、すでにそこにほんとうの姿はないのです。
ですから、この問題を‘だれか’が言表すること(‘だれか’が言表
しているとしかとらえられないこと)そのことがすでに比類なき〈私〉
から果てしなく遠いのです。なぜなら、だれの問題でもなく、永井
たった独りの‘だれか’ではない〈私〉の問題なのだから。
だから、永井の著作を読みそこから示唆を得たり、刺激を受けたり、
啓発されたり…ということが永井の言説にたいして向けられている
かぎり、あるいはテクストを引用して「公」の問題として批判している
かぎり、そのこと自体がすでに独在性の問題について何もわかって
いないことの証明でもあるのです。( → Bさんのカオル批判 )
けれど、はじめから批判を許さないような想定が、この「公」の場で
許されても良いのでしょうか? たしかにこの問題が自分の問題に
なったのなら、自分と永井の論を比較検討することは無意味です。
なぜなら、比べることのできない問題だからです。
どんなに批判されようと、批判されえない神は、しかし人間によって
その批判する人間を断罪する。わたしは地獄ゆきでかまわないです。
哲学徒としてその覚悟はあります。(でもわたしはあなたに謝ります)
>>50 お言葉に甘えて……でも眠れるかな? おやすみなさい。
>>49 >「私はこういう哲学的知識を知っています」っていうのが前面に押し出されすぎていないかなぁ。
Bさんは知らないのかもしれないけど、わたしはそういう人のそういう哲学をだれよりもこの哲板で
公に批判してきたという経緯があります。気持ちで思うだけではなくてだれよりも発言してきました。
あなたにそのように見えてしまうのをどうにかすることはこれまで「そうじゃない」と言ってきたのに
こうなのだからどうすることもできません。わたしへの評価としてはもっともかけ離れているとしか
言えません。でもわたしはそういう人のそういう哲学「学問としての哲学」を否定したりはしません。
というか、わたしはもともと一生懸命に勉強する人が好きです。哲学学者(哲学研究者)の論文も
すごいな〜マネできないな〜と感心しながら読む方なので。事実わたしがこの哲板を覗きに来た
頃(5〜6年前)には、学問としての哲学の専門家が何人も書き込みをしてくれていました。とても
勉強になったし、実際かれらは現在大学教授をしていたりする人たちなのでその知識もホンモノ
でしたし、専門的な白熱した議論の内容を理解しようとするだけでもかなりの勉強になりました。
そんな格式のあった哲板を現在のようなボロボロの有様にしたのはわたしをはじめとする多数の
デムパたちでした。AAで会話をしたり、詩を謳ったり、人生相談をしたり、妄想を哲学だと主張し、
MY哲学こそがホンモノの哲学だと……わたしは、これ以上の痴態を晒す必要があるでしょうか?
54 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/09/07(木) 01:23:53
>それでいて<独在性>について何を言わんとしているか、驚くほどぼやけてる。
永井とちがうからそうなんですかね?
わたしの中でそうでしかないことを言葉にしてるだけなんですけどね。
説明が下手ということではなくてボケてるんですよね?
わたしの魂のように霞がかかったように曇っているということですね。
覚醒を志している人や霊能者によく言われました。
でもオーラは眩しくて直視できないくらいにスゴイらしく、
その意味は現世でこの世で力を発揮する人ということらしいです。
一応、あわれな魂に同情して慰めに褒めてくれるみたいです。(笑)
>それに私の理解する永井均と全く違うところから彼を見ようという、
>カオルの姿勢についていくのは大変な労力がいるということを理解してほしい。
わたしには、Bさんの言っていることがよく理解できるし、わたしが理解する永井と
Bさんのそれとのちがいがほとんどみつけられません。
>とりあえず、最近サルトルの『嘔吐』を読み返したのかもしれないけれど、
独在性の議論と結びつけるつもりは全然なくて、なんとなくノリで書いただけでした。
わたしが生きていて存在していることの不快感をよく表現しているんです、アレは。
>もう少しポジティブ(非ネガティブというべきか)な渇いた問いだと思うよ。
ニーチェやウィトゲンシュタインにハマルひとがそんなはずはないです。
ただそういうことは言わないことにしておこう、と決めているだけで。
どこかで本人がそのようなことを言っていたのを読んだことがありますよ。
もちろん〈子ども〉の哲学において、もっとも純粋であったはずの問いだと
思っているから、つまり人生の諸問題とは関係ないということなのでしょうけど、
でも人生の諸問題とは関係なくても本質的には人生の意味を問うているのだと
わたしには感じられますけど。あーそうか、ここがBさんの理解する永井と
ちがうところかもしれませんね。わたしの関心はけっきょくは人生哲学に
向いているから、そのような哲学としてとらえてしまうのかもしれませんね。
昨日と同じ時間か。おやすみなさい。
56 :
考える名無しさん:2006/09/07(木) 02:26:11
永井均は哲学ではない
57 :
B:2006/09/07(木) 22:41:34
>カオル
自分は悪くないと言いたい時、一歩踏みとどまって
本当にそうかと問うことは大事だと思う。
>>54 >なんとなくノリで書いただけでした。
本当にノリで書いただけだとしたら、無関係なことを
書き込んでしまったと謝るべきかもしれないよ。
私にはカオルが本気で書いているのか、ノリで書いているのかを
判別するのはとても難しいんだ。
それに
>わたしの関心はけっきょくは人生哲学に 向いているから、
>そのような哲学としてとらえてしまうのかもしれませんね。
という結びの言葉を見ると、カオルが『嘔吐』と<独在性>を結び付けて考えているんじゃないか
という忠告があながち外れているとは思いづらいんだけど。
もちろんこれは忠告であって、告発のような類のものではないのだから
別にカオルを責めているわけではないんだけど。
議論ならともかく,なれ合いはいらん。その上,ふざけて書いてるのか?
いくら何でも,節度というもんがないのか。
59 :
.:2006/09/08(金) 07:39:15
60 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/09/09(土) 00:14:50
>>57 Bさん
>自分は悪くないと言いたい時、一歩踏みとどまって
>本当にそうかと問うことは大事だと思う。
自分の何かがきっと悪いのでしょう、だから人格批判されるのでしょう。
それが哲学とは関係のないことは承知で友情から指摘してくれているのでしょう。
わたしはあなたを信頼しているから、だから自分がまちがっていると思ってしまう。
でも何が悪いのかわからないから、だから自分の思ったことを書いてみるのです。
そうすると、また人格も論の内容もまとめてダメだと言われてしまう。
でもやっぱり何が悪いのかまちがっているのかぜんぜんわからないのです。
哲学のいいところは具体的な議論によって何が悪いのかまちがっているのか
自分の力で確かめられることです。もちろん教えてくれるのは議論相手です。
わたしが自分や人間や世界を信じられなくなっても、そのようなことは哲学の
前提であって、そこからはじめることがちっとも障害にならないことの感激は
今でもこれからも忘れないでしょう。だから生きることと哲学は同義なのです。
わたしの願いは、Bさんがわたしの論にたいして、この部分の説明をもう少し、
ここの意味がわからないな、これは赫々云々なのでまちがっているよ……と、
具体的に指摘してもらい、それについて考えてみる、つまり議論がしたいです。
忙しいですよね。だから、週に一回くらいのゆっくりペースでどうでしょうか?
アリストテレスがいうには、「人生の目的は幸福だから幸福をもとめるけれど、
人の幸福とは余暇にあるのだから、余暇のある生活において真理の探究を
すること(観想的生活)こそが、もっとも幸福な人生である」…なんてムリ(笑)
シマッタ! あげちゃった。
>本当にノリで書いただけだとしたら、無関係なことを
>書き込んでしまったと謝るべきかもしれないよ。
すでにお叱りも受けてしまいましたが、わたしなりの馴れ合い「気分を軽くするため」
のノリでした。だから、独在性とは関連づけて書いてはいません。美しい行儀のよい
娘の姿は借り物の姿で、ほんとうの姿はおどろおどろしい妖怪だった……みたいな。
もし結びつけるのなら〈私〉に嘔吐する「この私」になるのでしょうか。(そんなムチャな!)
路傍の石の存在充実に嘔吐するはずが、ひるがえって「この私」の‘この’にむかつき、
死のうとしたらこの体この心への愛しさに気づき、この存在者たちには罪がないことに
愕然とする。何のことはない、この体この心を恰も存在させ、裏であやつっていたのは
「おまえだったのか!」と指差そうとしたら、あれれ? どこにもいなくなっちゃった……。
何のことはない……そう、そうやってある特殊な意味で知っていた‘それ’は、じつは
「何のこと」ではなかった、というお話しはどこかおかしい。だってパルメニデスがいう
ように「在るものは在り、無いものは無い」のだとしたら、この体もこの心も、たしかに
在ることになるのだから。
あれれ? でもヘンだよね? だって、‘だれ’が、在ることを、知っているわけ?
もしも知っている人がいなかったとしたら、このお話しはいったいどうなってしまうの?
それに知っている人は、はじめから知っていたの? それともだれかに教えてもらったの?
もしかしたら、はじめから知っている人と、教えてもらって知っている人は、べつの人なの?
……………ああでもないこうでもない…………ああでもないこうでもない……………
というような感じの思考の痕跡を、わたしなりに「まとめた」のが一連の書き込みでした。
62 :
B:2006/09/09(土) 11:35:59
>カオル
>>61 >というような感じの思考の痕跡を、わたしなりに「まとめた」のが一連の書き込みでした。
なら、やっぱり<独在性>と『嘔吐』を結び付けているんじゃないのかなぁ。
だって、はっきりとそう言っている訳だから。
>>60 >でもやっぱり何が悪いのかまちがっているのかぜんぜんわからないのです。
何でそう思えるのか、よくわからないなぁ。
これ以下は蛇足だから特に気にする必要はないとあらかじめ断っておくよ。
>>53でもわかるようにカオルの権威に対する執着はとても強い。
カオルのレスを読めばわかるが、哲学的知識をとても重要視している。
一方で、そういう哲学的知識が豊富な人を批判してきたという過去を持つ。
引き裂かれているように見えるこの態度は、私に対しても適用されていて
私の意見をすぐに取り込みながら、一方で私に反対してくる。
私が権威と呼ぶにふさわしくない人間なのは言うまでもないことだけど、
こういう態度の人と何を議論したらいいのか、何の議論ができるのかはよくわからない。
もう少し肩の力を抜いて、無理やり反対したり、無理やり賛成したり、
無理やり哲学的知識を織り交ぜたりしないで(もちろん自然にならいいんだけど)、
どうしてそうなるのか、ならないのかを考えることができると思うんだけどなぁ。
>>62 Bさん
>>というような感じの思考の痕跡を、わたしなりに「まとめた」のが一連の書き込みでした。
>なら、やっぱり<独在性>と『嘔吐』を結び付けているんじゃないのかなぁ。
>だって、はっきりとそう言っている訳だから。
「もし結びつけるのなら〜べつの人なの?」までは即興で表現したものです。
いつもこんな感じで「ああでもないこうでもない」って考えてます、ってことの実演!
で、おなじようにして「私的および私的言語」について考えたことを「まとめた」のが
一連のわたしの議論(前スレ含む)ということなのです。
>>でもやっぱり何が悪いのかまちがっているのかぜんぜんわからないのです。
>何でそう思えるのか、よくわからないなぁ。
わたしは自分が考えたことについて「論を書き込む」、それをきっとだれかが読んで
くれていて、好機に出会えれば「その論」について具体的な意見なり指摘がもらえる。
それによってわたしはさらに考えることができ、まちがっていればそれに気づくことも
できる。そうやって哲学することができるのです。そのために哲板に書き込むのです。
だから、このような具体的な議論とは関係のない書き込みで、肝心のレスが流れて
しまうことが、とっても残念で悔しいです。でも、あなたの気持ちも大切です。
あなたの立場(永井の独我論を理解してしまうあなたの独我論を理解してしまう立場)
になってみた気になって議論してもいいです。永井の考え方には反するのでしょうけど、
永井の超肯定的な信者として。でも、その議論を有意義にするための条件があります。
Bさんに永井哲学の否定論者になってもらうことです。そうでなければ、わたしの論の
どこが永井哲学を否定しているのかがわからないからです。Bさんを納得させられたら
少なくともわたしが‘無理やり’に永井の論を否定しているのではないことがわかって
もらえると思うからです。どうでしょうか?
>カオルの権威に対する執着はとても強い。
才能や努力によって身についた権威、だからこその相応しい態度や姿勢にたいして
わたしは素直です。相応しくない態度や姿勢にたいしては、わたしは反発します。
>カオルのレスを読めばわかるが、哲学的知識をとても重要視している。
才能や努力によって身についた知識、だからこそ言える意見について、わたしは素直です。
>一方で、そういう哲学的知識が豊富な人を批判してきたという過去を持つ。
そうではなくて、博覧を誇る人(そうでない人をいやしめ見下す人)や、博覧でなければ
哲学ができないように言う人…を批判してきました。碩学たちはそのようにはなりません。
でもだからといって、浅学非才なのに勉強もしないでプライドだけ高くて素直でない人は
もっと嫌いです。
ロムるだけで、ちっとも書き込めなかったわたしの記念初カキコは「哲学は暗記です。」
というスレでした。もちろん、わたしのことだから、
知識は真理に至るための手段でしかなく、しかも知識は真理を希求する精神にとっては、
かならずしも合理的な手段とはかぎらず、たとえそれが論理にかなったもので、客観的
に正当であるにしても、それはあくまで学問的知識であって、哲学のもとめる知恵では
ないのです。真理を希求する精神とっては、この命もこの体も手段のひとつでしかなく、
日々の生活、家庭人/社会人としての経験、すべてが真理に至るための手段なのです。
みたいなことを書いていたはず、です。このような意見であることは今でも変わってません。
>こういう態度の人と何を議論したらいいのか、何の議論ができるのかはよくわからない。
まだ具体的に何一つ議論してないのですから、してみてから考えてみてはどうでしょうか?
>もう少し肩の力を抜いて、無理やり反対したり、無理やり賛成したり、
そうではなくて(これが無理に反対?)、たとえばAさんがaという立場からa’
という意見をいう、するとわたしはbという立場からb’「そうではない」と反論する。
かりにAさんが、わたしのbという立場からの意見b’に納得したとすると、わたしは
今度は、aという立場から、あるいはc、dという立場から、b’の意見(自分の論)に
たいして再反論する。もしかりにbの立場になったAさんが、さらに強力なb’の意見で
対抗してきて、そこでわたしが反論できなければ、とりあえずはその強力な意見b’を
正しいものとして暫定的に受け入れます。つまり、a’とb’の意見を相互に関係づける、
というメタレベルの視点、あるいは原理を手に入れたいわけです。(たとえばのお話し)
体よくいえば、いわゆるヘーゲル弁証法といわれる方法論です。ちなみに西田はこれを
批判して、絶対矛盾における自己の同一……〈私〉は、この「私」である……という
永井で言う「ずれの運動」こそが、真の弁証法(絶対否定即$竭ホ肯定)だととらえて
いました。
予定されている新刊「西田幾多郎」─絶対無とは何か─に‘無理やり?’あてはめると、
絶対無〈私〉の自己限定「私」という相互に相互の原理であるという原理「相即の原理」、
永井の表現なら「開闢が開闢された世界に位置づけられる」「私的言語が可能である
ことがそのまま即℃的言語を不可能にする」という「ずれの運動」のことになります。
>無理やり哲学的知識を織り交ぜたりしないで(もちろん自然にならいいんだけど)、
もちろん自然です。そう言ってもらえて、なんだかとっても嬉しい。ありがとう。(^.^)
66 :
B:2006/09/10(日) 00:21:38
>だから、このような具体的な議論とは関係のない書き込みで、肝心のレスが流れて
>しまうことが、とっても残念で悔しいです。
それもそうだろうなぁ。じゃあ、邪魔しないからどうぞ。
でも、友人としておせっかいをやくなら、しっかり自分の足元を明らかにして議論することと
テーマを明確にすることは大切だと思う。そうじゃないとレスをする人は大変だと思うよ。
それとあえて苦言を呈するなら、
永井均の私的言語論においては、公共言語を成立させるための私的言語という箇所が、
世界内存在としての「私」が、世界を開くものとしての<私>と捉えなおされることと
大いに関係しているのだから、公共言語を成立させるものとして私的言語を簡単に認めてしまうと
問題はほとんど問い終わってしまう。(
>>34の3段落目など)
またそういう類比関係を見逃したまま、「生活形式」だとか「コト分け」だとかを
論じても得るものは少ないと言わざるをえないだろう。
また、カオルはよく、「ズレの運動」として<私>が「私」に変わると言うけれど(
>>14)
それは明らかに間違い。<私>は<<私>>に転落する。「私」というのは
たまたまこの私が持っている属性であって、<独在性>は(本来)そんなものとは無関係。
世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私が、いないはずの同格の者たちの中に
取り込まれることを<私>が転落すると表現する。そして転落した先は<<単独性>>。
<<単独性>>に転落することによって、同格のものたちの中で、単独の存在としての
オリジナリティを許される、ここにズレの運動の問題がある。
カオルはここをよくわかっていないから、人生哲学として永井均を読み解く余地があると勘違いしている。
「ああ、そうですね、私が間違っていました」と言ってごらん。
そしたらきっとほかの人もカオルの言ってることを聞いてくれると思うから。
だって、いつも私は悪くない、私は間違っていない、何で私の書いていることを読んでくれないの
って言ってくるでしょ。カオルはそういう人と議論が出来ると思うかい?
67 :
B:2006/09/10(日) 00:38:06
>>65 どうしてカオルのやり方がヘーゲルの弁証法なのか全く理解できないのだけど、
とりあえず、「教えてあげる」的な物言いは鼻につくのでやめて欲しい。
少なくとも永井均に関係する限りの哲学的知識なら私自身それなりに持っているから。
(ゼミでライプニッツをやったし、石黒ひでの論文とやらを少しなら読んだよ
ところでこういう告白って何か気持ち悪くないかい?)
カオルの永井均理解はそんなにすばらしいものではないけれど、そんなにマズイものでもない
のは確かだ。議論する態度さえきちっとすれば、
このスレにもきっとカオルの相手をしてくれる人は多少なりともいるんじゃないかなぁ。
それじゃあ、がんばれ!
68 :
いち哲学徒:2006/09/11(月) 00:11:51
>カオルさん
ざっと読みましたが、Bさんの言われることは分かるような気がしました。
カオルさんの書き込みには、
永井さんに対する敵意(や嫉妬?)や、一流以下学者(やその卵)にありがちなオリジナリティに対するコンプレックスが感じられます。
永井の議論と直接関係のない知識が流用されすぎです。
余計な感情が、議論を込み入らせているのでしょう。
そうではないと言われますが、自覚してなくても行動に表れてしまうことありますよね。
とは言うものの、カオルさんの哲学的才能とその議論の品質は評価できますが。
ちなみに、永井さんの問いは、Bさんの言われるように、人生の意味とやらとはほぼ無縁でしょうね。ここはウィトゲンシュタインとは違いますよ。
あと、〈神〉=〈私〉というのは、正しいと思います。
ただし、どういう神を念頭においているかによりますが。それが一神教的一者なら誤解でしょう。
69 :
考える名無しさん:2006/09/11(月) 01:36:31
めんどくさいから個別に示さないけどBって人が論点ずらしたり、言い逃れしてるように見えるんだが
70 :
考える名無しさん:2006/09/12(火) 00:15:58
>>69 確かにB氏にも問題あるけど、カオル氏の言葉や文章は不明瞭だよね。
もう少し説明力や表現力を磨かないといけないな。 永井をあと一歩のところで捉え損ねている感じ。
彼は、永井を内在的に批判しようとしているのか、永井をネタにしてマイ哲学をしようとしているのか、
過去の哲学の議論に回収しようとしているのか・・・どれも中途半端なのかな
まあ、2ちゃんでそこまで誠実になる必要ないと言われたらどうしょうもないけどw
>>66 Bさん
>公共言語を成立させるものとして私的言語を簡単に認めてしまうと
>問題はほとんど問い終わってしまう。(
>>34の3段落目など)
ウィトゲンシュタインは『探究』において、もう独我論を語らなかった、それは『論考』
とともに、あとは読者のあなたにまかせます、ということなのだとわたしは思いました。
ウィトゲンシュタインが『探究』で指し示したのは、わたしたち言語存在者にとっての
岩盤、『論考』で指し示したそれとはべつの、もうひとつの生活形式という岩盤でした。
永井は、あくまで『論考』よりの独我論の立場から、〈私〉によって『探究』を包摂しようと
しているかのようにみえます。『論考』の指し示した「私」を超えた〈私〉、実在論と純粋に
重なり合う‘それ’を、『探究』や『青色本』の言語分析の記述の中で、まさに姿なき歴史
の暴力によってかき消されてしまおうとしている‘それ’を、藁にもすがるような思いで探し
求めているかのようにみえます。わたしは永井の著作においてその哀しき行為に触れる
たびに深く深くそれに共感し、わたしと同じ問いを抱えて生きていることを錯覚してしまう。
いえ、そうではなくて、わたしの死の予感を、ほんとうの他者の影をみてしまうのでしょう。
ウィトゲンシュタインが『探究』において指し示したのは、超越論的なものとしては生活形式
のみであり、あとは一切語らなかった、もちろん独我論についても。私的言語を否定したのも、
私的言語を、ふつうに理解される意味での私的言語に読み替えられないようにするためです。
ウィトゲンシュタインのこのようなやり方は一貫していて、たとえば『論考』において倫理学、
形而上学、美学、宗教……における諸命題を「イミないじゃんみたいな」(nonsensical)もの
としたのも、論理学、数学、プログラミング、自然科学……の言語から、倫理学、形而上学、
美学、宗教……の言語を峻別することによって、後者の言語の前者の言語への読み替え
──たとえば「私」の物理主義的、心理主義的な還元や、「私の理解する唯一の言語」以外
への翻訳など──からの擁護だったのです。「イミないじゃんみたいな」ものこそが、「意味
ある」ものなのだ、だから両者を混同してはならない、というのが彼の格率だったからです。
>また、カオルはよく、「ズレの運動」として<私>が「私」に変わると言うけれど(
>>14)
‘とりあえず’でも、「存在者として存在」するためには、〈私〉でも‘それ’でも、とにかく
読み替えられなければならない。そうでないなら、何かしらの言表をするのでないなら、
そこには沈黙の空白しか残らない?からです。たとえそれこそが真実なのだとしても、
哲学は禅の修行じゃないのです。瞑想によって悟ることにくらべたら、それは漸近線を
描くような営みであって、けっして真実そのものには到達しないのかもしれないけれど、
哲学徒は、そのようにしかできないし、したくないのだから、仕方ないのです。(笑)
「私」は存在者であり、〈私〉はその存在者の否定として〈ある〉のだから、あたかも
〈私〉という存在者がいて、それが「私」に変化する、なんてことは夢にも想いません。
〈私〉と「私」との結びつきに論理的な必然性がまったくないことを明らかにした永井は、
にもかかわらず、どうして「私は、この私なのか?」と問うているのではないでしょうか。
>「私」というのはたまたまこの私が持っている属性であって、<独在性>は(本来)
>そんなものとは無関係。
「本来」というのは、どの本来なのか? それは可能なのか? と、思ってしまいます。
純粋に独在性の〈私〉そのものになるというようなことが、かりに可能であったとして、
それが実現してはじめて、「本来」といえるはずだからです。無謀な話しをしていると
思われるでしょうけど、やはり「この私」がそれを知っているのでなかったなら、どうして
──私は、どうしてこの私なのか──という問いが可能になったのか、と思うのです。
もちろん、わたしの想定は実現することはなく、なぜなら独在性の〈私〉は、「実現」の
否定として〈ある〉からです、というような運動が、すなわち「ずれの運動」だからです。
>世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私が、いないはずの同格の者たちの中に
>取り込まれることを<私>が転落すると表現する。そして転落した先は<<単独性>>。
><<単独性>>に転落することによって、同格のものたちの中で、単独の存在としての
>オリジナリティを許される、ここにズレの運動の問題がある。
言いかえるなら、「独在性は、どうしてこの単独性なのか?」ということです。
(つづく)
「この私」は、
@「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてる」(独在性の比類なき〈私〉)のに、
なぜか「この私」は、
A「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてる」(単独性のかけがえのない「私」)である。
どうしてこのような「ずれの運動」がまかり通ってしまうのか?
それは「この私」の‘この’がもつ「両義性」のためでしょう。
「世界に唯一ほかの人と全く違うあり方をしてるこの私」と、この私が言うときのその感覚は、
「個人的に私秘的な感覚」と「超越的に私秘的な感覚」との両義性をもちます。(
>>34参照)
「超越的に私秘的な感覚」は、‘それ’として自覚された途端に「個人的に私秘的な感覚」に
転落します。しかし‘それ’は、そもそも感覚だったのでしょうか?
──「ぼくはなぜ存在するのか」という子ども時代のぼくの問題
小学二年ぐらいまで、ぼくはひどくぼんやりと生きていた。
世の中がぼくに何を求めているのか、まったくわからなかった。
──小学三年のころ──意味が──急にはっきりしてきた。
──その中にひたりきって生きていたために、かえってはっきりつかむことのできなかったある問題を、
その外に出てはじめてはっきりとつかんだようだ。──ぼくはたくさん居る人間のうちの一人なんだ、
といことが実感できた、ということである。
それまで、たぶんぼくは──ぼくというものはまったく特別のもので──それにたいしてすべてが
存在している原点ようなもの──というふうに感じていた。
──あるとき、そういう蒙昧状態がぷつんとおわって──この無自覚的独我論から脱すると同時に、
ぼくは一つの自覚的な「問題」をかかえこんでしまった。……『〈子ども〉のための哲学』 30〜32n
ここにすべて書かれてあります。いつ読んでも、すばらしい表現力だと思います。(^.^)
>カオルはここをよくわかっていないから、人生哲学として永井均を読み解く余地があると勘違いしている。
ものすごいところを責めてきますね。くらべられないことをくらべるのはどうかしてる。
たしかにそうかもしれない、わたしの哲学と永井の哲学をくらべることは不毛かもしれない。
>「ああ、そうですね、私が間違っていました」と言ってごらん。
>そしたらきっとほかの人もカオルの言ってることを聞いてくれると思うから。
こんなに一生懸命になってわたしを叱ってくれるのだから、信頼するあなたがしてくれる
ことなのだから、わたしがまちがっていることは確定しているのですが、「わたしの意見の
ここがこのようにまちがっていました」と、わたしが説明できないのです。それだけです。
>だって、いつも私は悪くない、私は間違っていない、何で私の書いていることを
>読んでくれないのって言ってくるでしょ。カオルはそういう人と議論が出来ると思うかい?
はい。基本的にそういう人としか議論しないし、そういう人しか信頼することができません。
カントもウィトゲンシュタインもまちがいをみとめない人でした。かれらがそれをみとめたとき、
それは哲学史上の決定的に重大な転換期になりました。そういう次元ではまったくないけれども、
わたし個人の次元ではそういうことにしたいと心から願っています。
76 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/09/12(火) 02:43:40
>>67 Bさん
>とりあえず、「教えてあげる」的な物言いは鼻につくのでやめて欲しい。
今回はそんなつもりはありませんでした。ごめんなさい。
でも、わたしがよく「教えてあげる」って言うのは、本当のことです。(^_^;)
(わたしにとって教えてもらえることはとても嬉しいことだから)
>少なくとも永井均に関係する限りの哲学的知識なら私自身それなりに持っているから。
はい、わかっています。というか、今やそれは前提なので。
>(ゼミでライプニッツをやったし、石黒ひでの論文とやらを少しなら読んだよ
>ところでこういう告白って何か気持ち悪くないかい?)
とっても興味があります。もちろん、ここでの問題群を読み解く道具として
どのように利用するのか、という点にですが。キモイ→キショイ→キモチワルイ、
最上級の嫌悪なんてとんでもないです。そうですねー、キモイくらいでしょうか、
なんてウソで、ぜひ聞いてみたいです。ホントに素直にそう思います。
どうしてわたしがそういうことをキモチワルイと思うと思うのでしょうか?
たしかにわたしは大学のそういうゼミとか経験したことがないし、その世界での
論文についてもよく知らないです。たとえば、永井がどのような論文を書いて
教授までのぼりつめたのか興味はあっても、がっかりしそうなので知りたいとは
思わないです。その意味でのそういうお話しに精力的な人には○○○ですけどね。
石黒ひで先生には「ライプニッツの哲学―論理と言語を中心に―」という素晴らしい
著作がありますね。わたしは女性のものはあんまり読まないようにしてるのですが。
ハンナ・アーレント、ジュリア・クリステヴァ、シモーヌ・ヴェイユ、池田昌子……嫉妬してしまうからです。
日本初の女性哲学者として知られる西田幾多郎の姪「高橋ふみ」のこともほんとうは
研究してみたかったりします。とにかく、いろいろたくさん知りたい!と思っているのは
たしかなことです。
77 :
カオル ◆BBBRv/ousU :2006/09/12(火) 02:49:55
>>68 いち哲学徒さん
>カオルさんの書き込みには、永井さんに対する敵意(や嫉妬?)や、
まちがっている、とわたしが思うことについて、まちがっている、と言っています。
まちがっていると言っていることのその内容がまちがっているとあなたが思うのなら、
そこからがあなたとわたしの議論のはじまりではないでしょうか。議論大歓迎です!
>一流以下学者(やその卵)にありがちなオリジナリティに対するコンプレックスが感じられます。
私的言語がありえない、と言うときのその意味で、本質的にオリジナルは神以外存在しない、
と思っています。
またたとえば、量子力学がニュートン力学を否定するものであると考えるとき、そこに断絶が
生まれて、ニュートン力学にたいして量子力学はオリジナルな原理になるというのは、はたして
本当でしょうか。ニュートン力学が否定(客観性の否定)されると、カント哲学は否定されてしまう
のでしょうか。わたしの見ていない十五夜の満月は、存在しないことになってしまうのでしょうか。
そんなことはなくて、ニュートン力学の否定は量子力学みずからの否定になってしまうのです。
なぜなら、わたしたちの連綿たる歴史の否定はみずからの誕生の否定に他ならないからです。
>永井の議論と直接関係のない知識が流用されすぎです。
関係がないと思うのは、あなたであってわたしではないです。
たしかに今しているこのようなお話しは永井の議論とは関係ないし、
ましてや哲学ではありませんから、厳しいことを言うなら板ちがいです。
わたしの論にたいしての具体的な批判がなされないためにこうなってしまう。
だから、あなたがわたしの論で永井の議論と直接関係がありそうだ、と思う
ところについて批判してくれたらとてもうれしいです。よろしくお願いします。
>余計な感情が、議論を込み入らせているのでしょう。
>そうではないと言われますが、自覚してなくても行動に表れてしまうことありますよね。
そうではない、と言ってもそのように受け取られてしまうことにたいして
いくら言い訳しても、それは言い訳なのだから、正当性はそちらにあるのです。
だからこそ、具体的な議論をもとめるのです。そうでなければ、そう思うのは
そちらの勝手なのですものね。でも、永井の人格批判はできるだけやめようと
思います。(永井にも余計な皮肉や揶揄や誘導や差別はやめてほしいですね)
でも、それとわたしの議論の内容とは一切関係ありません。哲学の議論において
そんな致命的な過ちはおかしません。
>とは言うものの、カオルさんの哲学的才能とその議論の品質は評価できますが。
才能は天与のもの、それを評価してもらっても仕方がないです。
議論の品質は努力によるもの、評価してもらえてうれしいです。
けれども、わたしは自分に才能があるとは思っていないですし、
議論の品質が高いと思うこともないので、すべてはけっきょく
だれか様のお陰と思って感謝するしかないようです。そしてあなたにありがとう。
>ちなみに、永井さんの問いは、Bさんの言われるように、人生の意味とやらとはほぼ無縁でしょうね。
>ここはウィトゲンシュタインとは違いますよ。
もちろん上っ面は100%そうですし、哲学は人生の意味を問うものではないとも思っています。
人生の諸問題を解決するための有効な処世術を身につけるためにするのではありませんから。
でもだからこそ、けっして水面に浮き上がってくることのないそれそのものが哲学なのかも
しれない。哲学がこれほどまでに純粋に何の役にも立たない(水面に浮かぶことがない)のは
そういうことなのではないか、とも思っています。唯一、生きていること、そのこと以外は。
>あと、〈神〉=〈私〉というのは、正しいと思います。
>ただし、どういう神を念頭においているかによりますが。それが一神教的一者なら誤解でしょう。
祈れる神さまは隣人だから、神さまじゃないです。
>>69 わたしの味方をしてくれて、ありがとう。
でも、Bさんは和気あいあいでもそうでなくても本質的に変わらない人なんです。
わたしを、カオルをみとめたからには、カオルの存在をずっとみとめてくれるんです。
そのことだけは変わらない人、だから信頼しているんです。誠実で裏切らない人です。
それでもわたしもときどき疑うことがあります。(Bさん、ごめんなさい)
永井の思考パターン、あるいは永井のそういう誘導にのって、そのフィルターを
とおしてわたしを批判しているのかもしれないと……それは誠実とはいえないから。
永井がニーチェやウィトゲンシュタインが好きなのは、おそらくかれらの神さまに
たいする誠実さをかいまみたからに他ならない、とわたしは思っています。
ほんとうの自分に誠実になるということは、だから他人に誠実になるということは、
そういうことだと思うからです。
永井の哲学は、あるいは余計な物言いも、この世的な倫理や道徳からは逸脱している
と思います。けれども、最終的なその誠実さにおいては適っているのだと思います。
わたしは、この世的な倫理や道徳を斥けないので、大切なものとしているから、
そこら辺のところが、どうも噛み合わないのかもしれないですね。
議論をするにあたっての前提、わたしの人格からくる態度や姿勢をみるにつけ
議論しようとする気持ちが失せてしまうのは、仕方ないような気がします。
わたしは自分も相手も傷つく議論をしてきたし、そういうことを知っているから。
でもそういうところを覚悟した議論でないなら哲学における議論とは言えない、
とも思っているのです。よかったら議論に参加してみませんか。わたしの論への
質問でも批判でもいいし、新たな問題提起でも、永井をあまり知らないなら素朴な
質問でも結構ですので。よろしくお願いします。(^.^)
80 :
B:2006/09/12(火) 22:55:42
>カオル
まぁまぁ、せっかく新たな人たちのレスがついたのにそんなに膨大に書き込んだら
どこから手をつけていいのか、わからないんじゃないの?
もう少しテーマを限定的にしぼってみたら?
>それでもわたしもときどき疑うことがあります。
大いに疑ってくれていいよ。でも、私は永井均の軍門に下ったわけだから
永井均の思考に沿って考えることは私にとって全く誠実なことなんだ。
たとえば坂本竜馬は勝海舟を殺しに行ったのに、殺さないで弟子になった。
それは竜馬にとって不誠実な行為というより、実に自然で誠実な行為だったろうと思う。
もちろん私を竜馬と比べるのは不遜だが、気持ちはわかるような気がするなぁ。
でも、誤解しないでほしいのは私は今も勝海舟の命を狙っているということ。
それをまた勝海舟も望んでいるのだし、そういう緊張と信頼の関係の中でしか
この問題が輪郭を現すことはないと思っている。
81 :
B:2006/09/12(火) 23:16:16
それと、石黒ひでの件だけど、思い出す限りでは、基体理論と束理論の話でライプニッツを
基体理論支持者だとみなすという論文だったと思う。日本語でなかったような気がする。
普通ライプニッツは完足固体概念があるから、束理論支持者だと考えられがちだけど、
そうじゃなくてむしろ基体理論支持者だと言うところがその論文のテーマだったはず。
彼女はライプニッツが特殊な基体理論をとっていると主張するわけだけど、
私は――無理やり色分けするなら――永井均も特殊な基体理論支持者だと思っている。
(代表的な基体論者にはフッサールなんかがいたはず)
私の理解だと、この私が属性の束であるという立場が束理論であり、そうでなく属性を
所属させる何らかの基となるものがあるという立場が基体理論だと思っている。
永井均の場合、基体にあたる部分をすべての人に無条件で認めるわけではない。
多くの人の中で全く特別なこの私――つまり<私>――が基体になる。
だから、カオルが<私>が「私」に変質するというとき、基体理論から束理論に足場を移してしまっている
わけだけど、あくまで基体理論の内部で、この私の特別さが単独性に転落してしまう、というのが私の理解。
なお、<私>をある種の基体と捉えた場合、<私>とはこの私そのものでありながら、全くの無内容であり(!)、
仮にほかの<私>を認めた場合は、<私>の交換などをしても何の変化も起こらないし、本人もそれに気づくことはない。
これは三部作で永井均が論じていた内容とよく合致すると思う。
82 :
B:2006/09/12(火) 23:21:40
ここまでいろいろと書いてきて何なのだけど、私もおそらく永井均も、こういう色分けに意味があるとは
思っていない。あえて言うなら、むしろ永井均は対立するこの二つの理論に架橋しようと
しているともいえるし、また、こういう理論であらゆるものをはっきりと色分けできると考えていない。
簡単に言えば、根元が違う。だってわれわれの問題は語りえない領域にあるのだから、
はっきりと色分けできると言う立場とは結局、相容れない。
それに本当に問題なのは、基体理論や束理論などの専門的?知識を持っているだけで、
専門的だから正しそうといった印象を与えてしまうことだ。裏返せば、何かの知識を知らないだけで
間違っていると判定されたり、してしまうことこそが最大の問題だといえる。
そうなると哲学は一気にクイズ化するからだ。強迫的教養主義が成立する。
少なくとも私はそんなものに興味はない。
ただ、私は私の問題を問うし、それにかかわる限りの知識を少しずつ集めるだけだろう。
(ちなみにここに書いてある知識はほとんどうろ覚えだからあまり信用しないほうがいいと思うよ)
83 :
B:2006/09/12(火) 23:29:31
ああ、忙しいときほど2ちゃんをやってしまうのは悪い癖だ。
よーし、もう書き込まないぞ。
どうぞ皆さん、大いに書き込んでください。
84 :
考える名無しさん:2006/09/12(火) 23:49:54
>カオルさん
永井さんは「子供のための哲学」で(手元にないので引用できませんが)、
それぞれの〈私〉がそれぞれに自分の〈神〉をもっていて、というようなことを書いていたはずです。
そうなると、カオルさんの言われるような(神〉とは、かなりイメージやニュアンスが異なっているといわざるを得ません。
また、独在性の独我論のほうばかりをみていると、永井さんの想定する「無限の隔たりをもつ隣人=他者」がおろそかになってしまいます。
でも実は、永井さんは、別の文脈では、「〈他者〉=〈別の私〉においての独在性」をも想定しているわけで、
この面のみで言えば、その基本イメージは、まさにライプニッツのモナドロジー的です。「モナドには窓がない」(それぞれの魂は直接関係しあうことがない実体)
カオルさんは、強引に永井さんの問いを人生の意味への問いに解釈しようとしますが、永井さんの問いの意味は分かるわけがないのです。
分かるといえるようなことが成立しているように見えるなら、それは偶然なのです。
なぜなら、無限の隔たりをもつ隣人だから、つまり覗き見合える窓がないから!
85 :
いち哲学徒:2006/09/13(水) 00:38:30
>カオルさん
84の補足
永井さんの神についてのお考えは、あえていえば、一神論ではなく、多神論でしょう。
なぜなら、神が一つだけなら、たくさんの私から〈私〉を識別できないから。あるいは、〈他者〉がいないことにるから。
86 :
いち哲学徒:2006/09/13(水) 00:56:27
85の補足
永井さんは、この〈私〉を識別できない神=一者・一神教的神を、オーダーが低い神、と表現されていたはずです。
別の〈私〉=〈他者〉を認めるなら、この〈私〉の〈神〉とは〈別の神〉を認めていることになります。
そうでないなら〈他者〉がいないことになります。
そして、開闢=〈神〉は、一者=神に転落します。
87 :
考える名無しさん:2006/09/13(水) 00:59:48
日本でいまさら神さま引っ張り出してどうしようっての?
88 :
考える名無しさん:2006/09/14(木) 00:21:34
天才は教わらずに自力できる能力・人、という天才の定義があるけど、
これでいくと、永井は、独在性ということをほぼ自力だけで問題化できたという点で、天才だと思うよ。
しかも、世俗的にも意外と器用なんだよね。アカではついて論文に深入りせずに独自色で成功できたし、マイ哲学の伝道師にして教祖にもなり、名声と権力手に入れたからね。
あと、すごい武勇伝がある。彼がある倫理学会の司会をした際に、今までの倫理学は全部ダメ、とラジカルなこといって、
幾人かの学者を怒らせて退席させたそうだ。いやらしい人みたい。
でも、一方で聞いた話では、威張り屋とか、アカハラ学者とか、自分の権威の有効範囲を錯覚してる学者とか、とは無縁の、謙虚で誠実で爽やかな人、という話もある。
俺は、永井を尊敬すべきかどうか迷ってるんだよね。
永井の講義受けとけばよかったなあ・・・
89 :
考える名無しさん:2006/09/14(木) 23:44:39
宮台真司も、実は誰に対しても気を使いすごく話が分かる人らしいけど、文章はイヤミな毒舌だらけだね。
90 :
考える名無しさん:2006/09/14(木) 23:53:19
不誠実で小心者ってことね
>>80 Bさん
>もう少しテーマを限定的にしぼってみたら?
わたしは独在性にしか興味がないから、同じことの別の表現しかしてないつもり。
>そういう緊張と信頼の関係の中でしかこの問題が輪郭を現すことはないと思っている。
男の友情ですか? 男のエエカッコシイで弱いものが犠牲になるのは確かなことですが。
>私は――無理やり色分けするなら――永井均も特殊な基体理論支持者だと思っている。
私(主観)が基体になったのは、たかだかデカルト、カント以降の近代のことでしかないです。
デカルトとカントにおける哲学の差異そのものが「私がこの私である」ところの私なのでしょう。
>カオルが<私>が「私」に変質するというとき、基体理論から束理論に足場を移してしまっている
ライプニッツ原理とカント原理は、双方が双方の原理として〈ある〉、そして双方の〈ある〉における
存在論的差異そのものが、「私がこの私である」ところの私なのでしょう。……オウム返しか!(^_^;)
>あくまで基体理論の内部で、この私の特別さが単独性に転落してしまう、というのが私の理解。
しかしその特別さは、特別でない‘はず’の、この私のかけがえのなさに、徹底的に依存している。
>>81 >こういう理論であらゆるものをはっきりと色分けできると考えていない。
神さまは何色でしょうか? 在るのに無いのでは区別できない、それだけのことです。
かなり品質が低いとりあえずレスです。時間があるときにジックリやりましょう!
>>84 いち哲学徒さん
>それぞれの〈私〉がそれぞれに自分の〈神〉をもっていて、というようなことを書いていたはずです。
〈私〉は比類なき存在なのだから、たとえ存在していても存在者にはなれない比類なき存在です。
比類なき存在と〈無〉を見分けることはできないから、それぞれの〈無〉がそれぞれに自分の〈無〉、
つまり、比類なき〈神〉を‘もつ’とは、いったいどのようなことを指すのでしょうか。ここに存在して
いるのは「自分の」の自分、すなわちこの「私」だけでしょう。この「私」が〈神〉をもつということは、
言いかえるなら──この「私」は、どうして〈私〉なのだろうか──という問いにならないでしょうか。
問題は、この「私」がもったと思った〈神〉は、すぐさま「神」に読み替えられてしまうことでしょうが、
にもかかわらず、この「私」は−ある特殊な意味で−〈神〉を知っているのです。だからこその偽り
であり、誤りの「神」の存在なのですから。わたしが、「この私」の‘この’に両義性をみとめるのは
このような事態をまさに生きて、存在しているからであって、〈私〉からこの「私」を見るのではなく、
この「私」から〈私〉を見るのも、素朴にどうして開闢された世界の特別でないはずのこの「私」が、
かくも特別な比類なき〈私〉を知っているのか、ということが不思議だからです。そしてそのことが
この「私」を特別にするのではないか、と思うからです。
>カオルさんは、強引に永井さんの問いを人生の意味への問いに解釈しようとしますが、
たまたまの個人的な意見です。無視してくれて構わないです。それで議論に支障はありません。
>永井さんの問いの意味は分かるわけがないのです。
わたしは個人的にこう思う、とは言っても、その本質においては一貫して「わかるわけはない」と
前スレから発言してきています。独在性の問題は自分の問題になった瞬間から、比類なき〈私〉
の問題なのですから、永井の〈私〉の問題につながることは不可能です。また、独我論に賛成も
反対もできないのは論理的必然です。
93 :
いち哲学徒:2006/09/15(金) 23:51:44
>>92 永井さんの神についての見解に関しては、手元に十分に本がなく説得的論述ができませんので、調べられる機会ができるまで保留にしておきます。
永井さんの他者論について書いておきます。(神の問題にも関わってきますし。)
永井さんは、〈私〉の独在性を解明してからのみ〈他者〉について語ることができると言います。
〈他者〉を、別の起点であるところの〈私〉としています。これを「隣人をもたないものの隣人」と表現しています。
要するに、〈私〉の世界と絶対に異なる比較できない別の世界(の起点)が〈他者〉(=別の〈私〉)だというわけです。
〈私〉と〈他者〉とは、同一の世界に共存しておらず、世界を共有できないわけです。
ここでは、〈私〉の独在性とその語り得なさ、についての論述とは、文脈・次元が異なる論述に移行しています。
(永井さんは、これを、第二段階と書いていたと思います。〉
(私の解釈の真偽を確かめるためにも「〈私〉の比類なさ」をご参照ください。)
文章が読みにくかったらごめんなさい。
誤読だったら申し訳ありません。
なお、カオルさんの永井解釈にはどれほど賛成できるかまだ分かりませんが、
カオルさんのご見解自体には、基本的に共感いたします。
あなたは真に哲学する者のようですね。ホンモノの香りがします。
94 :
B:2006/09/16(土) 00:31:38
>カオル
>>91 ちょっと・・・
こんなでたらめなレスを返して、
相手に失礼と思わないのかなぁ。
ほとんど何を言っているか、わからない。いや、わからせる気がない。
ただそれでも、反論していることだけは伝わってくる。
…正直、私とカオルは今、議論できる状態にないと思う。
何を言っても絶対に、そして微塵も承服する気がないということは先のレスでわかった。
少なくとも、もうしばらくは書き込みを控えておくべきだったようだ。
95 :
B:2006/09/16(土) 00:38:25
うわっ、水をさして悪かったね。
いや、私のほうにも問題が在るんだ、きっとね。
いち哲学徒さんとカオルは問題意識も近いようだし、
たぶんうまくいくんじゃないかなぁ。
スレ汚し、すみません。
96 :
,:2006/09/16(土) 04:20:06
「日本独我論者協会(Japan Solipsist Association ; JSA)」
の設立が強く求められている。
JSAの目的としては、下記のものが考えられる;
1.会員同士の親睦を深める
2.独我論の普及につとめる
3.特に小学生段階からの独我論教育の普及につとめる
5.欧米諸国(特に北欧諸国)の先進事例に学ぶ
>>93 いち哲学徒さん
わたしから誘っておいて何も書けなくてごめんなさい。
わたしは、一神教の一者でもかまわないのですが、〈私〉=神さま、と思っています。
だからこそ、神さまでもないのに〈他者〉をあたりまえのように想定できるのであって、
もしそうでないなら、想定すらできないはずです。なぜなら、何を想定していいのか
わからないのですから。わたしが、神さまに祈れない、と言うのはそういうことです。
開闢された世界に位置づけられたこの「私」にとって〈私〉が絶対の否定であるように
〈他者〉もまたそうなのだと思います。そのように「ある特殊な意味で知っている」ので
ないなら──〈私〉は、どうしてこの「私」なのか──と問うことはできないはずだから。
当然──どうしてこの「私」は、〈私〉でないのか──と問うことだってありうることです。
〈私〉が神さまであるなら、すべての〈他者〉もまた神さまなのです。神さまつながりで
この「私」がべつの「私」でもいいわけです。この「私」がだれであっても、〈私〉は一者
なのですから。だから、わたしは永井の議論は、この「私」を殺す議論だと思いました。
神さま〈無〉が、あまりの静寂に耐えかねて、すなわち神さま〈ある〉が、どうして‘この’
〈ある〉なのか、と問うことを可能にした瞬間が神自身(自己言及、実存)の誕生でした。
という、このオカルト話をわたしが信じているときは哲学徒としてお話しできないのかも。
〈私〉が、と、神さまになってしまえば、‘だれでも’比類なき存在になってしまうのです。
>Bさん
ごめんなさい。(何を謝っていいのかわからないのだけど)
Bさんがアッチのスレを閉鎖して、もう書き込まないかもと心配して
コチラに書き込んでくれて、わたしの言い分を受け入れてくれて
チャンスをくれて、こんなに親切に気を遣ってもらったのに
それなのに怒らせてばかりでごめんなさい。
いち哲学徒さんへのレスを見たらわかると思うけど
わたしはニセモノで哲学するには相応しくないとつくづく思います。
生きることが哲学することではなくなって、生きるために哲学をしているようです。
だから死んでいると言われたのだと思います。
もうわたしはお邪魔はしないので、どうかBさんが有意義な議論を展開してくれるように
お願いします。
わたしは、人生哲学についてお話しできるスレをさがしてそこで活躍します!(^.^)
99 :
勝手批評:2006/09/22(金) 15:59:33
永井氏がたびたび批判している哲学探究293節の甲虫の例えの解釈は
はっきり間違ってると思うんだけど。
「<私>の存在の比類なさ」13p4行目
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
これが永井氏の端的な批判の骨子だと思うのだが、そもそもこれは矛盾していないだろうか。
だって「実は痒みを感じている」のなら(その人が他人を欺こうとしている特別な場合、
或いは哲学者が考えるような異国の民族のように痒い時には我々にとっての「痛み」
のジェスチュアをするように躾られている場合を除いて)
痒そうに振る舞い、「痒い」と言うのではないか。だから「実は」なんて言い方はおかしいのだ。
「それを決定するのは感覚を持つ当人である」んだから彼が「痛い!」と叫んだのなら彼は痛いのだ。
永井氏は無意識にか(或いは意識的にか)言葉に出来ない感覚としての<痛み>を
公的言語、即ち言語ゲームとして通用している「痛み」とを混同している。
これは凄く微妙な哲学的問題だから間違っても仕方の無いところだけど、僕の見るところでは
どうも自分に都合に良いようにこの混同を行っているように見えるなあ。
だって独我論の話では本当の意味での独我論が、それを言葉にすると誰もが理解できる(!)「独我論」
になってしまうことをちゃんと理解しているんだから。それともこの甲虫の話が独我論と同じ形式を
有している事に気付かないでいるのか。
100 :
考える名無しさん:2006/09/22(金) 18:08:36
「痛みを感じるべき場面」て表現が分からない
何によって「べき」と要請されているのか?
外部からの要請を前提とした上で
それと内部での事実とのジレンマがあり得ると言ってるわけですか?
101 :
勝手批評:2006/09/22(金) 22:10:44
>>100 「痛みを感じるべき場面」は永井氏の文章なので自分に言われても困るが、全く普通に考えて
かなりの強さで顔や体をどこかにぶつけた時とかだろう。麻酔をかけられている場合を除いて
はそれが「痛みを感じるべき場面」の一つの例。
何を誤解してるのかよく分らないのだが、これはもちろん要請なんかじゃない。
「痛み」を要請されるなんてことは役者以外にはあり得ないしね。
これは、トマトや郵便ポストを見てこれは「赤い」と言いながら、実は
「青」を見ている、という話と、同じなのですか違うのですか。
103 :
考える名無しさん:2006/09/22(金) 22:18:49
すみません
例えば葬式なら悲しむべきといった意味での他者と共有される感情表現のルールを想定したもの
と解釈してしまったようです
自然な表現としての「痛みを感じるべき場面」ならば
おっしゃるように「実は痒みを感じてる」というのはおかしいですね
104 :
考える名無しさん:2006/09/22(金) 22:57:14
105 :
分裂勘違い君:2006/09/23(土) 10:32:35
比較的単純なコンピュータプログラム(デジカメで外部の世界を記録し続け、
認識し続け、一定のルールで加工し、モデリングし、出力をしつづける)
で話を展開しても、永井氏の著作のロジックは、成立してしまいませんか?
そのプログラムから見た世界というのは、そのプログラムを中心に開けている。
そのプログラムのメモリ空間には、端的に外界を認識できる<私>という
概念モデルがデータとして存在する。
<私>は、そのプログラムのいかなるメモリ状態ともアルゴリズムとも関係ない、
という定義になっています。
そのプログラムは、<私>は、となりに設置されているLinux-PCで実行されている
プログラムでもいいはずなのに、なぜ、端的に私は、このWindowsマシンで
実行されているのか?という計算処理をします。
つまり、永井氏の議論というのは、メモリを持ち、外界をモデリングしながら
実行されるすべての情報処理システムに共通の話です。
プログラムが複雑でも単純でも、同じはなしです。
でも、<私>というものは、たんに実在するその情報処理システム自身
へのポインタにすぎず、プロセスへのポインタやlocalhostのようなものじゃないですか?
<私>という概念は、たんなる情報処理の都合上の概念ツールにすぎず、
個々の情報処理システムと独立に<私>が存在するわけじゃない。
個別の実在とは切り離せない<私>を切り離しうるものとして、議論を
するから、無限ループに落ち込んでいるだけじゃないのですか?
106 :
考える名無しさん:2006/09/24(日) 00:04:50
倫理でも知識論でも実践論でも価値論でもない哲学は要らない
107 :
痛み:2006/09/24(日) 00:54:16
>>99 「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
このときの「感じるべき」の「べき」は、
脈絡や表出といった公的な分節化の仕方から源泉を得た、
定義的に与えられた「べし」でしょう。
そして、この議論のポイントは、痛みがこの定義からは
尽くされない概念的なもので、ある感覚を指示せざるを得ないということ。
それを永井さんは、「痛み」という言葉と、脈絡・表出との結びつきの偶然性
といった感じで表現していたような気がします。
あるいは公共的用法と(私秘的)指示の二側面を持たざるを得ないといった表現。
99さんが、どこに疑問を抱いているかイマイチまだわかりませんが、
この二側面性そのものが「痛み」に適用できることがおかしいということ?
(もちろん、『私・今・そして神』の議論はおいて置いて)
108 :
考える名無しさん:2006/09/24(日) 01:07:44
実は快感を感じてる
なら分かりやすいんだけどね
109 :
考える名無しさん:2006/09/24(日) 02:14:30
永井さんの感覚に対する批判は、そもそも「痛み」が
「痛みを感じる状況における感覚」という内包的定義に基づく概念ではなく
「Aにとっての○でありかつBにとっての△でありかつ・・・」という外延であるべきだ
という点じゃないの?
111 :
痛み:2006/09/24(日) 14:50:31
>>110 「痛みを感じる状況における感覚」といったときに、
「痛み」とか言ってよいの?痛みの定義なのに。
それから、「状況」とかいったら外延的定義がすでに混じっているのでは?
外延的定義に尽きることがないのであって、内包的なものを含まざるを得ない
ことは永井さんはやはり主張しているように思えるのだが。
(『比類なさ』の段階では)
>>111 そかすまん。前件は指摘通りなので訂正。
考えられる痛みという感覚の定義は
「感覚器PがX〜Yの刺激を受けとる際の感覚」
とひとまず置く。Pは痛覚細胞でもそれを介する神経でも処理する脳でも、またそれら系でも構わない。
X〜Yは測定値。任意の基準で与える刺激や伝わる刺激を数値化するものと考える。
通常なら上記から痛みを感じるべき状況の外延は平均値から類推できる。
(ただしYnは閾値が存在するといわれるので、個人でも最小値は特定できそうだけど、
Xnに関しては痒みとの漸次的変化を判別できないため、個人レベルでは最大値を特定できないと思われる)
上記をおよそ一般的な痛みの内包的定義と考えた場合
>痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
> ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。
の永井さんの主張はXn〜Ynが個人によるという話じゃないってことですな。
ただ「当人によってのみ決定される感覚」という程度の内包では
「AにとってのXa〜yaでありかつBにとってのXb〜Ybでありかつ・・・」
という一般の外延に読み替えられるのは当然で、
「Aにとっての○a〜○aでありかつBにとっての△b〜△bでありかつ・・・」
というところが本来いわんとしてるところじゃないのかな。
113 :
勝手批評:2006/09/24(日) 18:37:31
>>107 僕の議論はごく単純。自分が<痛い>と感じたのならもうこの時点で明らかなように「痛い」という語が
用いられざるを得ない、ということ。(これがウィトゲンシュタインの言うところの
「箱と箱の中身は短絡させられる」ということ)
だから繰り返しになるがその人が嘘をつく場合を除いて(または異なった習慣を持つ異民族)
或る人が「痛い!」と叫んだのなら、またその様に振る舞っているのなら、彼が「実は痒みを感じている」
などということはあり得ない。痛みの振る舞いをしながら「実は痒みを感じている」場合は明らかに
彼が他人を(どういう理由でか)欺こうとしている場合以外あり得ない。(そうでなければ「実は」なんて言ったりしない)
だから
>公共的用法と(私秘的)指示の二側面を持たざるを得ない
というのは「哲学的」誤解だ。そもそもこの二つは分離不可能だから。
>>113 二側面を持たないというのは賛成。
ただ公共的用法は事実言明じゃないのかもしれない。
>或る人が「痛い!」と叫んだのなら、またその様に振る舞っているのなら、
>彼が「実は痒みを感じている」などということはあり得ない。
とは断定できないと思われる。これは明らかに或る人の感覚に関する事実言明にあたる。
感覚は当人以外には感じることができないのであるのなら
少なくともすべての感覚に対する言明は懐疑のそしりを免れない。
>>114 いや、断定出来るさ。断定できない場合というのはその人が嘘をついている可能性
がある、という表現でしかない。でも彼に嘘をつかなければならない理由が無い
場合は断定できる。そうじゃなきゃ他人の感覚に関する報告はどれも疑わしいって
ことになってしまう。でもそんな疑わしい場合というのは明らかに限られている。
>少なくともすべての感覚に対する言明は懐疑のそしりを免れない。
と言うけど疑えるものは何でも疑わしいわけじゃない。確かに疑える場合があるのは
事実だけど当然普通に痛みを感じている場合があるのは確かだろう。(これは感覚
の存在そのものを疑っている議論じゃないんだから)
>>115 いんや。やっぱり無理だと思う。
公共言語はある感覚を引き起こす状況を指示するだけにしか留まらない。
当のところ何を感じているか、を指示できる正当な根拠に行き着けないんじゃないかな。
だからといって事実言明以外の感覚に関する文が無意味になる訳じゃないし。
>>115 じゃあ自分の場合は?この場合に
>公共言語はある感覚を引き起こす状況を指示するだけ留まる。
なんて言うだろうか。
(115「…指示するだけにしか留まらない」は日本語としてちょっとおかしいので勝手に訂正。)
>>117 たとえば「痛い!」って言うとき「どこが?」と訊かれる。
「お腹が!」って言うと「なんで?何食った?」と訊かれる。
「期限切れの牛乳を飲んだ!」なら「じゃあこの薬飲め」と返ってくる。
感覚そのものにタッチすることなく感覚のやり取りは終わる。
これが甲虫の箱の短絡のからくり。
けれども自分ではおそらく感覚そのものがブラックボックスになってるんだと思う。
多分それが永井さんのいう「決定するのは感覚を持つ当人である。」なんじゃないかな。
要はどんな対応づけも可能にできるからブラックボックスに「痛み」を置こうが
何を置こうが公共言語の指示を逸脱している。
そもそも公共言語には箱なんか必要ない。
だから感覚そのものに関する公共言語の事実言明は無意味なものだと思う。
念のため
感覚に関する公共言語は事実言明以外は有意味
感覚そのものに関する永井さんの見解には保留
で考えてるけど。
119 :
考える名無しさん:2006/09/24(日) 20:56:21
言語とその指示内容が分離するなら「私」とは何かなんて問いに意味あるの?
あ、>公共言語はある感覚を引き起こす状況を指示するだけ「に」留まる。だった。訂正。
>>118 >たとえば「痛い!」って言うとき「どこが?」と訊かれる。
>「お腹が!」って言うと「なんで?何食った?」と訊かれる。
のような他人達とのやり取りは重要じゃないと思う。そういう機能主義的な考えは
ちょっと的を外している。118さんの批判は大森荘蔵には当てはまるかも知れないけど。
>感覚そのものがブラックボックスになってるんだと思う。
というのは「<感覚>そのものは言葉に出来ない」ということでしかない。
でもこれは或る意味で当たり前だ。それなら文字通り
「語りえぬ事柄には沈黙しなければならない」のではないか。
>そもそも公共言語には箱なんか必要ない。
と言ったってこれが無かったら人々の一致が無くなってしまう。いや逆か。
人々の一致があるからこんな哲学的議論が出来るんだから。(だから箱は必要ではない
どころか最初から前提されているんだ。)
>>119 その疑問は全くその通りで永井氏は当然<私>ということを公共言語としての「私」を
利用して語っているし、言語とその指示内容が分離したりしない事は前提に
なっているんだ。
永井氏は私的言語の方にシフトしているかのような発言を多々しているけど
(「しくい」「えもい」の議論を通して)こういうやり方はあまり誠実じゃないな。
>>119 それは早計。完全に分離とは書いてないです。
でも仰ることはよくわかります。
感覚に関する記述は公共言語に於いて意味を持つと思います。
ただそれが客観的に真偽を問える事実ではないと考えます。
理由は「感覚は他者には知り得ない」から。
だとすると感覚そのものを表象することは無意味かという疑問がわきます。その場合
1:公共言語を用いて私秘性の限界を示す。
2:私秘的な言語を統制する。あるいは公共言語を拡張する。
3:感覚そのものには沈黙する。
4:公共言語に用いられる感覚はそのものを指示しうる。
色んなやり方が考えられます。
したがって私とは何かという問いも、簡単には退けられないと思います。
123 :
考える名無しさん:2006/09/24(日) 21:46:16
>>120 ちょいと確認。
感覚の定義はプラクティスに還元される
したがって公共言語で或る人の感覚そのものを指示することは可能
というのが勝手さんの主張でいいのかな?
その場合、感覚の定義はどんな風に表現しますか?
>>124 >感覚の定義はプラクティスに還元される
というのがまずいやり方だと思う。感覚は定義されたりしない。ついでに「還元」という言葉も良くない。
感覚は「痛い」「痒い」と言われる(或いは叫ばれる)ものだ。これをもう一度哲学的に掘り返してきて
客観化しようとするといかにも感覚そのものがブラックボックスででもあるかのような
外見を呈するんだ。
117で「じゃあ自分の場合は?」と書いたけど、この場合には感覚がブラックボックスだなんて
考えが起こることはあり得ない。「痛い!」じゃなくても「あっ!」とか「うっ!」でも
いいけどこれは感覚と同化してしまっているんだ。人はこのことを「感覚」と呼んで
またも痛みの状況を客観化するわけだけど。
ウィトゲンシュタインの甲虫の例えも明らかにこの構造の事を語ってるのに
これを永井氏は何度も何度も批判している。自分だって同じことしてるのになあ。
126 :
考える名無しさん:2006/09/24(日) 22:40:17
永井教授は「あっ!」を「しくい」、「うっ!」を「こじむい」と言っています。
>>113 >自分が<痛い>と感じたのならもうこの時点で明らかなように「痛い」という語が
>用いられざるを得ない、ということ。(これがウィトゲンシュタインの言うところの
>「箱と箱の中身は短絡させられる」ということ)
これは勝手批評氏の解釈?293節自体には直接こういうことは書いていないように見えるし,
少なくとも永井はこういう取り上げ方をしていない。永井の取り上げ方は,ここのウィト
ゲンシュタインの考え方を「「感覚」の本質はその感覚が生起するときに当人が直接的に
持つ体験そのものにあるのではなく,むしろ状況(前後関係)や表出(振る舞い)や機能
などにある,と考えることによって,他人には窺い知れない直接的で私秘的な体験実質を
感覚の本質から排除してしまおうとする」考え方であるとした上で,そのような考え方
には無理があるのではないか,と論じるというもの。
128 :
127:2006/09/24(日) 23:59:01
勝手批評氏の疑問・批判のポイントがどのへんなのか,自分にははっきりしない。
とりあえず,はっきりしていそうなところとして,
>>113 >その人が嘘をつく場合を除いて(または異なった習慣を持つ異民族)
>或る人が「痛い!」と叫んだのなら、またその様に振る舞っているのなら、彼が「実は痒みを感じている」
>などということはあり得ない。痛みの振る舞いをしながら「実は痒みを感じている」場合は明らかに
>彼が他人を(どういう理由でか)欺こうとしている場合以外あり得ない。
があるのだが,永井は別にこのこと自体には異論がないのではないか(『転校生とブラック・
ジャック』40頁には,ほぼそのようなことが書いてある。)。
細かくいうと,
>>99で引用されているとおり,永井は「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞い
ながら、しかし実は痒みを感じている、 ということはつねに可能であり、それを決定するのは
感覚を持つ当人である。」と書いていて,これに対して勝手批評氏は「欺こうとしているのでも
ない限り,痛そうに振る舞いながらかゆみを感じていることはあり得ない」と書いているけど,
これは別に重要な対立ではないのでは。
永井が上の箇所で,まさに嘘をつこうとしている場合を想定していたのかもしれない(そう
考えて前後の文脈ととくに矛盾はないと思う)し,仮にそうでないとしても,例えば
「殴られたので思わず顔をしかめてその箇所を押さえてしまったけど,落ち着いて確認
したら別に痛みは感じていなくて,かゆみを感じただけだった」ということもありうる
かもしれない。 (まあ後者の例はともかく)
勝手批評氏がウィトゲンシュタインの考え方をどう解釈しているのかは現時点ではわからない
けど,永井の取り上げ方に関して重要なのは,痛み等の感覚について脈絡や表出が本質的
なのであって内面的に感じるものなどは重要でない(なくてもよい?)と考えるのか,それ
とも内面的に感じるものがやはり本質的であると考えるのか,という点だと思う。その点に
ついては,勝手批評氏の挙げている欺くという例は,まさに表出と内面的に感じるものが
ずれていて,内面的に感じるものの方が正しいという例なのだから,この点に関する永井の
考え方とは,むしろ一致するんじゃないかと思うんだけど。
>>125 痛いことが何なのかは、指示できないのではなく単に「あっ!」であって
なぜか社会では「あー『あっ!』ね」で通ってるものって了解でいいのかな?
そうするとやはり感覚そのものは、公共言語での正しい位置を持ちえないのでは。
結局痛みという名で何を感じてもよいのだから。
少なくとも公共言語から「痛み」を学習した私だけは、公共言語から逸脱せずに
唯一「痛み」を使用していると言えなくもない。だが他者に対して
使用される「痛み」は、私に感じられるものを投影した態度であって、比較対象がない。
そう考えると今度は私が学習したはずの「痛み」は、他者から投影されたものと
一致していないという可能性を否定できない。
この点において公共言語に、感じる痛みを指示した痕跡はなくなる。
誰に「痛み」を問いかけようが、「とにかく感じた『あっ!』だよ、『あっ!』」としか返ってこないだろう。
これは感覚事実の一致ではなくて態度の言明に関する一致ではなかろうか。
130 :
考える名無しさん:2006/09/25(月) 00:54:45
莫迦ども頑張れ
>>127>>128>>129 では端的に問う。言葉にもならず、ジェスチュアとしても表れない<感覚>とは何か?
いや、ここで何故それが<感覚>であると分るのか。
既に我々はここで公共言語の「感覚」を用いているではないか。永井氏考案の「しくい」も「えもい」も「感覚」として
語られているではないか。
>公共言語に、感じる痛みを指示した痕跡はなくなる。
多分ここに最大の誤解があると思う。「痛み」(或いは「痛い!」「うっ!」という叫び)は<痛み>を
指示しているのではない。もちろんそんなこと出来るはずが無い。
だってもうこれらの言葉(或いはジェスチュア)が<痛み>のことなんだから。
箱と箱の中身が短絡するというのは明らかに(永井氏の解釈のような素朴なものじゃなくて)こういうことだろう。
箱の中身が何であろうとそれは言語ゲームに取り入れられない。言葉もジェスチュアも言語ゲームとして
取り入れられてしまうから。(我々が語りたい)<それ>は延長を持たない極小の一点に収縮してしまう。
(ところが哲学者はまたしてもそれを言語ゲームとして記述しようとして、
それを実体があるものとして錯覚してしまう。)
132 :
127:2006/09/26(火) 00:17:15
>>131 >では端的に問う。言葉にもならず、ジェスチュアとしても表れない<感覚>とは何か?
>いや、ここで何故それが<感覚>であると分るのか。
他の人のことはともかく,何で僕にそういう反問が来るのか,よくわからない。
僕の理解だと,少なくとも
>>99で引用されているあたりでは,永井は通常の感覚に
ついてしか論じていないと思うから,そういう反問をされても答えようがない。
勝手批評氏がそのような<感覚>について論じようとしているのなら,僕の理解とは
だいぶずれた話になりそうなので,これ以上はやめておく。ただ,もし勝手批評氏に
暇と余裕があったら,
>>99の
>永井氏は無意識にか(或いは意識的にか)言葉に出来ない感覚としての<痛み>を
>公的言語、即ち言語ゲームとして通用している「痛み」とを混同している。
>これは凄く微妙な哲学的問題だから間違っても仕方の無いところだけど、僕の見るところでは
>どうも自分に都合に良いようにこの混同を行っているように見えるなあ。
について,具体的にどの箇所でどういう混同をしているのか示してもらえれば,
検討できるかもしれないし,僕のことは置くとしても議論を明確にしやすいと思う。
>>132 >他の人のことはともかく,何で僕にそういう反問が来るのか,よくわからない。
ここがウィトゲンシュタインの(前期・後期通しての)哲学の肝の部分なんだから「よくわからない」なんて
子供じみた事を言わないでよ。
言葉もジェスチュアもいわゆる「言語ゲーム」として現れてしまうからこそ、言葉に出来ない<この>感覚
はもう言葉にもジェスチュアにもならないというところが肝心なんだ。
ところが哲学者(永井氏を含む)は哲学によってまたそれを言語化する。でもこれは無駄な事だ。
何故なら彼らの著書を人が理解できる以上、(理解できなければ書物として成り立たないのだからこれは当然だが)
それも言語ゲームで<あらざるを得ない>んだ。この<言語化>の波には抜け道が無い。哲学者は
色々な新しい哲学用語を作って回避しようとするけど。
これはそのまま独我論が普遍的な独我論に読み替えられるということを言語活動の全てにわたって拡張した議論に
なっている。(そしてそれを永井氏が理解していないはずは無いと思うのだが、あくまで
何らかの方法があるかのように仄めかしているように見える。)
127さんの言う「僕の理解」がどういうものであろうと
これはまず第一に押さえなきゃならない所でこれを127さんが理解していないのなら
ウィトゲンシュタインの書いたものをどれだけ読んでもあまり意味は無いと思う。
134 :
127:2006/09/26(火) 23:48:06
>>133 僕が
>>132で「僕の理解」として書いたのは, 永 井 が
>>99に引用されている
ような箇所で論じているのは通常の感覚ではないか,という,永 井 の 議 論 の
理解の仕方であって,それに対して
>>133のようにウィトゲンシュタインの理解に
ついて指摘されるというのは,どういう趣旨?
まあ,僕がウィトゲンシュタインについてよく知らないのは事実なので,勝手批評氏が
突っ込んだウィトゲンシュタイン解釈をする意図なら,僕から追加することはない。
(あえていえば,
>>132にも書いたように,永井の議論の問題点を指摘するなら
できるだけ具体的にしてほしい,ということだけ。
>>133で言えば,永井が「何らかの
方法があるかのように仄めかしているように見える」というのは,具体的にどこでどう
書いていることを指しているのか,とか)
>>134 うーん、ウィトゲンシュタインについて「よく知らない」のは困るなあ。それじゃ永井氏の
ウィトゲンシュタインによる「甲虫の比喩」に対する批判もよく理解できないことになっちゃう。
(127さんは永井氏の意見だけ聞いて欠席裁判をやってることになる。)
じゃあ、永井氏の「独我論が普遍的な独我論に読み替えられてしまう」という議論は?
これさえ理解していれば「甲虫の比喩」や「規則に従う」ことについての一連の議論が
「独我論の読み替え」議論を、言語活動の全て(どころか全ての人間活動)に拡張したもの
である事が理解できる、或いは少なくともその重要なカギを理解した事になるんだけど。
そしてこの段階まで理解できれば『<私>の存在の比類なさ』や『私・今・そして神』等で
展開されている「甲虫の比喩」批判は誤解であることが自動的に理解されるはずなんだけど。
この段階まで127さんが理解していない以上、以下の指摘は全く理解出来ないだろうけど一応。
永井氏の誤解、というのはウィトゲンシュタインは最初から普通の、実体ある甲虫が、これまた実体のある
箱の中にある、というイメージで語っているのではない、ということを完全に見過ごしているということ。
(そういう風に読まれる危険性があるのは明らかだが、それだとウィトゲンシュタインが永井氏の解釈の
ように素朴で明らかに間違っていることを言っていることになってしまう。『哲学探究』のその他の
部分で様々な例を持ち出して繰り返し主張している事を見ればそうではない事は明らかだ。)
重要なヒントとしてウィトゲンシュタインの「言語は、言語以前の何かからの翻訳ではない」を挙げておきます。
136 :
129:2006/09/28(木) 02:06:19
>>勝手さん
なんかややこしくなってきたので、こっちで簡単に整理してみるよ。
・永井さんの唱える私秘性には理解を示している
・甲虫の箱の話(以下K)は表示対象の感覚ではなく、感覚の直接性を解いたものだ
・永井さんKへの批判(実は痒み云々)は「痒み」と<痒み>を混同している
・感覚においては私的な<痛み>は公的「痛み」と切り分けられない
こんな感じかな。間違ってたら指摘どうぞ。
あってたら批判を含め
>>129の続き書きますよ。
>>136 全然ややこしくなんかないんだけどな。(ややこしい、と感じられるのは言語化の波という現象が
余りにも普通の事なのでそれを意識的に感じる事が難しいからだろう)
永井氏の甲虫批判は明らかに実在の箱に実在の甲虫が入っているイメージから、
「箱の中身」はそれ自体、箱(の外見)とは別に言語ゲームに影響を与える、と考えている。
でもこんな風に考えたら当然「箱と箱の中身は短絡する」というのは明らかな間違いでしかない。
箱と箱の中身(甲虫)というのは最初から言語化の波を表す比喩なんだ。『箱』が意味するのは言語ゲーム
として通用する全て(言語・ジェスチュア)であり、『箱の中身』というのは実はその箱をどう使うかの用法なのだ。
何故なら<痒み>を感じたのなら「痒い」と言い、その部分を掻くだろうから。だからこれも言語ゲームの一手に過ぎない。
>・永井さんのKへの批判(実は痒み云々)は「痒み」と<痒み>を混同している
とあるが後者の<痒み>はもう既に言語だ。これはまさに感覚そのものとしての<痒み>でなければならないのに。
言語でない<痒み>を僕らは決して表現できない。でも哲学をする時にはどうしてもそれを言語にしなきゃならない。
そして実際にこれまでの僕らの議論の中ではそれを<痒み>と呼んで用いているわけだ。
(かくして箱と箱の中身は短絡<させられて>しまう、というわけ。)
138 :
考える名無しさん:2006/09/30(土) 21:18:12
ところで、永井均の『西田幾多郎 シリーズ・哲学のエッセンス』は
いったいいつになったら出版されるのですか
そのシリーズの別の本に付いてた帯によると、2006年11月刊行予定だそうな。
この予定、今まで2、3回変わってたと思うから、今回もどうなるか知らないけど。
127さんの応答がなくなったけど、結局永井氏の「独我論が普遍的な独我論に読み替えられてしまう」
という議論は理解していたのかどうかだけは知りたかったなあ。
136について
・永井さんの唱える私秘性には理解を示している
の<私秘性>ということがどうして言えるかが問題なのであって、それに「理解を示している」か
どうかなんて哲学的にはどうでもいい事だと思う。
<私秘性>はまさしく他人に計り知れないものとして言われているのにどうして哲学議論の
俎上に乗せられてしまうのか。
142 :
B:2006/10/06(金) 17:51:45
私が口をはさむことではないかもしれないけど、
勝手批評さんが永井均の何を批判しているのか、具体的なところが少しわかりにくい。
もし、永井均のウィトゲンシュタイン理解と違う理解をもってきて
「永井均はわかっていない」と攻撃しているとしたら、その裏返しとして
「あなたは永井均の捉えるウィトゲンシュタイン像をわかっていない」と言えると思うんだけど。
(それと、
>>135の最後に書かれている重要なヒントに永井均は沿って考えていると思う。
だからこそ、公共言語以前を私的言語として捉えているのではないだろうか。)
勝手批評さんの言語ゲーム優位論とでも形容すべき主張を永井均自身限定的に認めているんだけど、
たとえば、昨日まで叩かれたら痛かったけど、今日からは叩かれたら痒くなった場合、
箱こそが重要であるという勝手さんの立場は貫けるのかなぁ?
この場合「痛い」の箱の中に「痒い」が入っているんじゃないのかなぁ。
そしてこの場合、だれがなんと言おうと私にとっては箱の中身の「痒い」がすべてなんじゃないだろうか。
>>142 >この場合「痛い」の箱の中に「痒い」が入っているんじゃないのかなぁ。
>そしてこの場合、だれがなんと言おうと私にとっては箱の中身の「痒い」がすべてなんじゃないだろうか。
Bさん、これはおかしいだろう。それならこの人は「痒い」と言うはずだ。だとしたら今度は「痒い」という箱
の中身が問題になるだけだ。でもこの箱の中身を「痒い」とは呼べないだろう。だってこれも言語でしかないんだから。
Bさんはいつまでも言語の表面に留まり続けざるを得ない。と同時にしかし「痛い」という語(箱)の中身について
常に問い続けることが出来る。(ここの所の構造については独我論は常に普遍的な独我論に読み替えられるという
「<子ども>のための哲学」その他での議論が全く同型になっているので参照して下さい。)
甲虫の比喩はあくまで比喩だ。これは人が<痛い>時には「痛い!」(とか「うっ!」とかいううめき)
という語でしか表現出来ないという事、これは完全に表裏一体の事柄なんだ、ということ。
そしてこれを心の中で言ったところで私秘的になるわけではない事に注意して欲しい。
その心の中で言った<痛い>や<痒い>は再び言語ゲームとして用いられているだけだから。
また感覚は言語ではない、という意見があるかも知れない。全くその通りだけど
それならこの事について僕達は哲学的議論をすることが全く出来ない、ということを認めなければならない。
だって哲学をする時、僕らは言語を用いざるを得ないからね。
144 :
B:2006/10/06(金) 21:18:45
うん、確かに本人は「痒い」と訴えるだろうけど、外形的にはそれは「痛い」なんじゃないかなぁ。
本人にとっては箱が「痛い」から「痒い」に変わっただけだけど、周りから見れば「痛い」の中に
「痒い」が入っているんだと思う。
そしてそんな変化が起こるのは言語ゲームを<私的言語>が飲み込んでいるからじゃないんだろうか。
(箱の比ゆで言えば、箱の中身こそが箱を規定していると言えるんじゃないか)
145 :
B:2006/10/06(金) 23:40:48
ちょっと飛躍気味かな?
でもやっぱり、「痛い」の箱が「痒い」の箱に変わることは、公的な観点から見ると
「痛い」の箱に「痒い」が入っているということになるんじゃないだろうか。
もちろんここで言われている「痒い」は極々私秘的な感覚である<痒い>ではなく、
言語ゲーム上でやりとりされる限りの「痒い」なのだけど。
だとすれば、勝手批評さんが強調するように、箱の中身が箱と短絡させられるのは確かだろうけど、
一方で相手にされていない箱の中身が大事なのも確かなんじゃないかなぁ。
>>145 もちろん箱の中身は大事なものだ。でもその<大事さ>がどうしても言えない、という点が
重要なんだ。Bさんも127さんもこの点をはっきり掴んでいないように感じる。
ウィトゲンシュタインの身を捩るようなこの断念の意味を理解しないと論理実証主義や日常言語学派
みたいになってしまう。彼らは言わば「普遍的な、形骸化した独我論」みたいなもので
形骸化することで或る意味では人々の役に立つけどそれは哲学的には抜け殻でしかない。
大事な中身がある、ということはまだ哲学的なステップに到達していない。それを僕らは
どうしても言葉に出来ない、というのが哲学的(ウィトゲンシュタインのそれ、だが)ステップ
なんだ。
僕が永井氏に批判的と見えるとすれば、永井氏はちゃんとこの哲学的ステップを踏んでいるにも関わらず
(それは彼のウィトゲンシュタイン理解を読めば分る)甲虫の比喩を誤解して批判してみたりするのは奇妙だ、という事。
うがった見方をすればウィトゲンシュタインのように「箱の中身」を語ることを断念すると
もう哲学者に残された仕事は(或る意味では)無くなってしまうから、著書を成り立たせるために
哲学を延命する為にわざと批判をしているのではないか、と思ってしまう。(或いは単純に永井氏は
誤解してるだけかもしれないけど、Bさんや127さんと違ってそこを間違えたりしないと思うんだけどなあ。)
148 :
B:2006/10/07(土) 10:27:02
確かに私は何か勘違いしているかもしれません。
それについてはよく吟味せねばなりません。
勝手批評さんと私の見解が違うのは、勝手批評さんが「箱の中の甲虫」を
この私の特別さが語りえないことの例えとして捉えているのに、
私は、開闢が開闢された世界の中に位置づけられてしまうことの例えとして捉えている
からではないだろうか。
149 :
B:2006/10/07(土) 11:17:36
>>142と
>>144-145で示したように、他の人から見ると「痛い」の箱の中に
「痒い」が入っているということはありうるんじゃないだろうか。
(だからこそ「絵日記ほど恐ろしいものはない」のだろう)
だとしたら、箱の中身は問題にならないといい続けている勝手批評さんは
このズレをどう考えるのか答えてほしい気もする。
だって箱の中身が本当に問題にならないとしたらこんなズレ自体起こらないんじゃないかなぁ
と思うから。
みなさんのお話の前提にわからない部分があるのですが、
「人間」という同じ自然種の場合、「痛み」と通常呼ばれている感覚を感じた
ときに自然に(演技でなく)する身体的反応や、「痒み」と通常呼ばれている
感覚を感じたときに自然に(演技でなく)する身体的反応は、誰でもほぼ一定である。
(「痛い」と感じたときに体を掻いたり、「痒い」と感じたときに泣き叫んだり
することは、有り得ない。)
ということが、前提されているのでしょうか。
たとえばナイフで切られたときに通常「痒い」と呼ばれる感じを持ち、
蚊に刺されたときに通常「痛い」と呼ばれる感じを持つ人がもしもいたら、
その人はナイフで切られたときには体を掻き、
蚊に刺されたときには泣き叫ぶはずであって、そうでないことは有り得ない、
もし逆の反応をしたら、それは演技である、ということですが。
的外れな質問でしたら、申し訳ありません。
>>149 しかし「痛い」の箱の中に入っているその「痒い」って何だい?これは誰が言うのか。
私が「痛い!」と言いながら痒さを感じている、というのは自分自身に正直になったのなら
「痒い!」と言うはずで、113で書いた様にBさんが想定しているような事態というのは
その人が自分の感覚を偽る場合か、「痛い!」と普通言うような場面で「痒い!」と言うように
躾られた人以外にはあり得ない。そうじゃなきゃ「本当は<痒さ>を感じている」なんて言えないはずだ。
Bさんの言う箱の中に入っている「痒い」は言語に出来ない。「痒い」もまた言語(ゲーム)だから
これは新たな箱に過ぎない。マトリョーシカというロシアの民芸品があるがあんな風に
いつまででも「箱」が出てきてしまう。確かに箱の中身はある。ところがそれを引っ張り出した途端、
即ちそれを言語化した途端、またしてもそれは中に箱を持つ箱として現れる。
箱の中身が問題にならない、とウィトゲンシュタインは言っているんじゃない。
箱の中身を問題にすることがどうしても出来ない、ということが言いたいんだ。
ウィトゲンシュタインは自分の事を仮想の論敵に「あなたは仮面を被った行動主義者ではないか」
と言わせているがこの論敵には彼が断念しているものが分っていない。だから結論にだけ飛びついて
誤解してしまう。
>>150 150さんの見解はそれほど的外れじゃないと思う。そういう人間の自然な反応ということ
はベースになっている。でもウィトゲンシュタインは単にそういう事実から自分の結論
を導き出したわけではなく(そこがこの人の哲学者たるゆえんだけど)しばしば異民族
の例を持ち出して150さんの言う奇妙な反応をする人々についても考察している。
150さんの出した奇妙な人々はもちろん或る意味では存在し得る。こういう根本的に違う
人々(ナイフで刺されるとその部分を掻く、蚊に刺されると泣き叫びのた打ち回る)は
言わば「ライオンが喋ったとしたら我々には全く理解できないだろう」というのと同じで
そもそも同じ言語を喋っているとは見なせない。或る程度以上同じ生活形式を共有して
いないとその人を理解出来ない。
言語が通じるのは言語の一致というより生活形式の一致、とはこのことだろう。翻ってBさん
の想定は「<本当は>痒みを感じている」ということは痒みというのは蚊に刺されたらその部分を
手で掻くだろう、ということであってその部分を押さえてうめくようなことではないはずだ。
だから「本当は」というのはここでは空回りしている。特別な場合を除いて痒みを「本当に」感じたのなら
その部分を掻くのである。それが僕らの生活形式だから。
153 :
考える名無しさん:2006/10/07(土) 16:11:37
ライオンだって腹がへったら飯をくうし、飯をくうために獲物を狩るし、
眠くなったら寝るし、セックスして子どもを産み、育てるし、
われわれと生活形式を共有しているだろう。
なんでライオンが言葉を喋ってもわれわれには理解できないと決め付けるのかね?
そもそもオラウータンで手話をはなすものがいたはずだが、あれはどうなるのかね?
ウィト信者はもっと現実にのっとった考察をしてほしい。
154 :
B:2006/10/07(土) 16:22:54
>>151 言語ゲームに外部がないことは知っている。
でも本当に箱の中身が問題にできないのかと私は問うているわけで。
あなたこそわれわれが裸足でアザミを踏みつける情熱を持って
自らの問題を問うこと――言葉にできないものを言葉にしようとすること
――を誤解しているんじゃないの?
あなたが私的言語は語りえないと主張したとき、語りえないとは語りえるのかと
問いただしたのは私じゃないか。
言語ゲームに外部がないことは重々知っている。でもわれわれの問題はその外部にあるのだ。
それを理解していないのなら、論理実証主義者と同じ誤解をあなたは犯していることになるのではないか。
(しかしすぐに、誤解しているとか、間違っていると結論付けるのは全く哲学的でないと思う)
>>153 トマス・ネーゲルの「コウモリであるとはどういうことか」の議論を知っているだろうか。
暗闇の中で逆さまになって、自ら音波を発して外界を認識する。これを人間が
想像するというのは言わばコウモリの中に小さな自分が乗り込んで操縦する想像なのだ。
だって人間はコウモリじゃないからね。
翻ってライオンはどうだろう。ライオンは獲物の草食動物を見つけ、捕まえるとその鋭い
牙で噛み付き、生のまま肉を食べてしまう。人間が草食動物を噛み殺し、生のまま食ってしまう
ということを想像できるだろうか。それはどんな想像だろうか。<ライオンである>とは
どういうことだろうか。
単なる机上の空想なら出来なくも無いけど本当の意味ではどうだろうか。
153さんは動物園でライオンを見たことが無いだろうか。テレビでもいいけど
ライオンが吠え掛かってくるのを見て我々人間と生活形式を共有していると本当に思えるだろうか。
153さんの出したオランウータン(とかの類人猿)の例はそもそも人間に良く似た動物だから
この意味では反例として持ち出すのは的外れだと思う。
それから僕はその「ウィト信者」とやらではないから勘弁して欲しいな。何かの信者になれる位なら
哲学みたいな不安の塊、懐疑の塊みたいな事をやらずに済むしね。
>>154 >でもわれわれの問題はその外部にあるのだ。
でもその<外部>ってどこなの?自分“だけ”は外部に立てるということだろうか。
その外部は立ってしまった瞬間<内部>に変わらざるを得ないのに。
その時には自分“だけ”はその外部に立てる、或いは見ることが出来るということは
断念せざるを得ないはずだ。
独我論を自分だけが主張できる、と考えるのと全く類比的で、これは余りにも楽観的過ぎる。
実際自分以外の人も独我論を主張できてしまうんだから。
僕の事を単なるレッテル貼りだと思わないで、この問題を哲学的に考える事だけに集中して欲しい。
これは127さんにも何度も尋ねたんだけど永井氏の「独我論が普遍的な独我論に読み替えられる」
という議論はBさんはもちろん理解してるよね?それならどうしてそれが言えないかが分るはず
なんだけど。これまた何度も言うようにこれはそのまま甲虫の比喩と全く同型の議論なのだから
独我論の話が理解できれば甲虫の話も同じように理解すれば誤解のしようがないはずなんだ。
157 :
考える名無しさん:2006/10/07(土) 18:38:57
>自ら音波を発して外界を認識する。これを人間が想像するというのは
>言わばコウモリの中に小さな自分が乗り込んで操縦する想像なのだ。
コウモリ論文で問題にしていたのは、コウモリ体験−コウモリとして
いきるという内的体験がいかなるものであるのか-いうならばコウモリ的
クオリアなものとはいかなるものかという問題であってコミュニケーションの
問題ではない。
ライオン的内的感覚がいかなるものであろうとも、あるいはそういった
内的感覚がないようなロボットであっても、人とコミュニケーション可能な
領域があるならばすくなくともその領域において言語的なやり取りが可能だ
と考えることがきる。
ライオンも人間と同様に腹をすかせばものをたべ、のどがかわけば水を飲むの
だから、もしライオンが「のどが乾いたなあ」といって水を述べば、
当然そのさいの「のどが乾いたなあ」という言葉の意味はわれわれが
使用しているような意味の言葉であると理解するべきである。
同じ言葉をしゃべっても生活形式がことなれば理解できないとは、
逆にいえば、生活形式が一致する程度において理解可能ともいえるのであって
問題になっているのは内的感覚ではなく外見上の生活形式であることに
注意。
オラウータンと人間が似ているという点もあれば似ていないという点も
ある。同様にライオンと人間、ライオンとオラウータンそれぞれに関して
類似点と相違点があげられるだろろうから、結局のところ生活形式が
似ているかどうかは観点による相対的なものにすぎないだろう。
結局のところライオンもオラウータンも人間も進化論上同一の祖先から枝分かれた
した生物種であって類似点など腐るほどある。
人間がライオンの生態を理解できるという(別のいいかたをすれば
人間はライオンの行為を予測することができる)点にすでにライオンと
人間とのコミュニケーション可能であることがしめされているともいえるの
である。
>>157 うーん、クオリアとはちょっと違うと思う。コウモリの生を(その内側から)生きるということは
コウモリの生態を外部から描写するのとは違うというのがポイントだ。
157さんはライオンと生活形式を共有している、というがそれは僕らの言葉で彼らの生活を描写しているだけだ。
だから僕ら人間達の間で
>ライオンだって腹がへったら飯をくうし、飯をくうために獲物を狩るし、
>眠くなったら寝るし、セックスして子どもを産み、育てるし
等というライオンの生活の描写を共有できるということなんだ。これについては
僕は157さんに賛成だ。僕だって動物学者としてライオンを観察していたら157さん
のようにライオンの生活を描写するはずだ。
でも<実際に>ライオン的生を生きるということはどういうことなんだろう。
野生のけもののように生きるとはどういうことなんだろう。僕らの先祖がそうしていた
と言った所で僕らはもう人間的生を生きているんだから。(150さんが出した奇妙な人々
も別の反応をする人々、別の生活形式を生きている人々なのだ。だから僕達が彼らがナイフを
刺された場所に包帯を巻くとしたらこの人々はそれを意味の分らない行為と見なすだろう。
僕らはその無理解をやはり意味の分らないものと見なすだけだけど。)
159 :
B:2006/10/08(日) 10:05:58
>永井氏の「独我論が普遍的な独我論に読み替えられる」
>という議論はBさんはもちろん理解してるよね?
私は自分だけは外部に立てるなんて一言も言ってない。
勝手に未熟な見解を持っているもののように扱われる、これはレッテル貼りではないのだろうか。
ただ外部に立てないとしても外部が問題なのだから、語りえないものを語るといっているだけだ。
永井均は「独我論が普遍的な独我論に読み替えられる」とは言っているけれど、
それ以上は語ってはならないと言っていない。
むしろ、哲学を「語りえぬものを語る」倒錯的な試みだと位置づけている。
<私>という言葉を使用しているのもそういう裏づけがあるからだろう。
勝手批評さんは永井均を内在的に批判しようとしているのか、モザイク模様に切り裂いて
勝手に批評するのに都合のいい部部だけを選んで批判しようとしているのか、
どちらなのか少し不安になってくる。
>>159 >ただ外部に立てないとしても外部が問題なのだから、語りえないものを語るといっているだけだ。
哲学的にはまさしくここが重要なポイントであって、カントやウィトゲンシュタインはこの限界の外
を語ろうとする事によって理性は誤謬を招くと考える。また実際人々は形而上学について好きな事を
言ってきたが、これはただ自由放埓に物事を語ってきただけで誰も確かめようの無いものだった。
(カントの例で言えば魂の不死だとか)
>永井均は「独我論が普遍的な独我論に読み替えられる」とは言っているけれど、
>それ以上は語ってはならないと言っていない。
これも純情素朴すぎる解釈だと言わざるを得ない。語ってはならない、なんてもちろん永井氏は言わない。
むしろ幾らでも語れるから「語れない」んだ。(「ウィトゲンシュタイン入門」結部216p-217p)
「後期ウィトゲンシュタインについて語りながら、このことを感知しない人があまりにも多い」
にBさんは含まれるのではないか。
「語りえないものを語る」ということをBさんは真剣に検討した事があるのか。
(この前部「語り得ない」はポーズに過ぎないのか)では実際に何を語るのか?
Bさんには悪いけどこのあたりの苦悶が一番重要なのに特に理由も無く楽観的に
「語りえぬものを語る」と言うのは永井氏の態度とは違うと思う。これを未熟と言われても仕方ない。
(僕の永井氏批判は永井氏がこの苦悶を理解した上でなお、どんな議論ができるのか
ということに尽きる。批判とは悪口を言うことだとBさんは誤解しているがカント的な意味で
批判という語は使われるべきだ。僕は永井氏の「甲虫の比喩」批判は誤解だと思ったから指摘しただけだ。)
161 :
B:2006/10/08(日) 16:11:04
>「語りえないものを語る」ということをBさんは真剣に検討した事があるのか。
>(この前部「語り得ない」はポーズに過ぎないのか)では実際に何を語るのか?
私自身は、<私>を語るということが「語りえないものを語るということ」だと思っている。
だから永井均は哲学をすることを神に祈ることにたとえる。祈りとはある面では無意味なことだから。
「<子ども>ための哲学」がなぜ、<子ども>のためなのか。
「<子ども>の問いはもうそれ以上問えませんよ」と永井均は言っていない。
むしろそういう問いこそ問われるべきじゃないかといっている。
はじめから「語りえぬものを語る」とことを貫いてさえいる。
また、ウィトゲンシュタイン入門で永井均が後期ウィトゲンシュタインを「感知しない人」と
言ったのは――私の解釈では――語りえないものを語りえないとも語らなくなった
ウィトゲンシュタインのことを、「独我論を放棄した」と解釈している人たちに向けられたものだ。
それと「誤解している」と批判するのは時期尚早ではないか。
まず、はじめに「誤解しているかもしれない」と問うべきではないか。
「甲虫の比ゆ」は「開闢されたものが開闢された世界の中に位置づけられる」という
『私・今・そして神』のテーマに関連して展開されているのだから。
>>161 時期尚早ってどういうことなんだろう。ウィトゲンシュタインは「甲虫の比喩」を
感覚というものがどうしても言語(ゲーム)化されてしまうことの(やや誤解を招く)例として
出したのだと思うしそれ以外には考えられない。
『私・今・そして神』での永井氏の解釈は永井氏自身が言っているように、そのままでは
幼稚で単なる間違いだ。でもその解釈は間違っているんだから当の批判も当たっていない、と僕は
指摘したんだ。
箱の中身は絶えず変化しているかも知れない、或いは空っぽでも構わない、というウィトゲンシュタイン
の言い方に反発を感じるのかもしれない。まるで中身は重要ではないのだ、というように聞こえる。
でもウィトゲンシュタインがその中身を否定するわけない。
この言い方はむしろその中身が重要なものだからこそ言えない、ということの逆の表現なんだ。
それは(或る意味では)軽薄な言語に常に置き換えられてしまうから。
だからそれ以上「語りえぬものを語る」などといってまたしても言語を持ってくるのは
愚の骨頂だろう。(何度も言うがBさんはウィトゲンシュタインのこの徹底的な断念に鈍感すぎる。)
もう一度問いたいが、「語りえぬものを語る」とはどういうことだろう。
「語り得ぬ」なんて言っておいて抜け抜けと語っているではないか。それなら
「語り得ぬ」なんていかにも神秘めいたことを言わずにただ単に「語る」とだけ
言えばいいんじゃないのか。
163 :
B:2006/10/08(日) 23:20:51
うーん、どうしても私が鈍感で幼稚で誤解していると言わねばならないのでしょうか。
>>161の『ウィトゲンシュタイン入門』の解釈をよく読んでください。
ウィトゲンシュタインは後期において、語りえないと語ることもしなくなったことで
独我論が本来言わんとしたことを守ろうとした。しかし、それは多くの「感知しない人」によって
独我論の内実を放棄したと解釈される。私はこのように解釈しています。
さて、私の解釈ではウィトゲンシュタインは守ろうとしたものを守れていません。
(ここが勝手批評さんと大きく違うところだろう)
だって徹底的な断念はまさしく短絡させられて、放棄されたことになってしまうのだから。
(現にそうでしょ)
もし永井均がウィトゲンシュタインより一歩進んだとしたら「語りえないものを語る」という
姿勢においてだと思う。
勝手批評さんの言うように、語りえぬものを語るという言葉が単なるパフォーマンスに
転落してしまうとしても、問題がそこにあることを示すのは意味があることだと私は思う。
逆に勝手批評さんに聞きたい。勝手批評さんは永井均の<私>論に
ある程度理解を示しているみたいだけど、その<私>論を徹底的に断念したとき
<私>論は<私>を認めない人たちから守れるのですか?
一面的には誤っているとしても別の面から見たときは肯定できるという事柄は
世の中に五万とあると思いませんか。
だから「語りえないものを語る」とはウィトゲンシュタインの徹底的な断念を
反故にするのではなく、むしろ受け継ごうとするものだと私は思っています。
164 :
いち哲学徒:2006/10/08(日) 23:29:35
>>勝手批評さん、Bさん
私はBさんの考え方(全部とはいえませんが)に賛成します。
永井さんは、語りえないもの、例えば独在性をいかに語るか、というパラドキシカルな問題に対して、以下のような戦略をとっています。(それは「魂に対する態度」に書かれています)
それは、〈私〉を、つねに生じる単独者や近代的(一般的)私への読み替え・誤解・ズレを無限に訂正し続ける運動、終わりなき訂正運動として語る、という戦略です。
「独在性」ばかりでなく一般的文脈でも次のようなことが言えます。「ある対象=問題は語りえない」ということを語るには、その前提として、その問題=対象の何らかの「形式」が把握されていなければなりません。
つまり、「ある対象=問題語りえなさの形式」は語りうるのです。
さもなければ、「語りえない」ということさえ語りえないことになりますから。
165 :
いち哲学徒:2006/10/08(日) 23:44:14
164の5行目ミスリーディングですね。
「〈私〉を、終わりなき、誤解・読み替えに対する訂正運動という言語ゲームによって語る(示す)」、という戦略
と訂正します。
166 :
B:2006/10/08(日) 23:53:49
>『私・今・そして神』での永井氏の解釈は永井氏自身が言っているように、そのままでは
>幼稚で単なる間違いだ。でもその解釈は間違っているんだから当の批判も当たっていない、と僕は
>指摘したんだ。
あそこで永井均が「甲虫の比ゆ」を幼稚な哲学説としたのは、「俺の箱には黒いのが入っているぞ」とか
「足が8本だ」とか、「ぬめぬめしてる」などのように箱の中身を報告しあえば
各々の甲虫が違うのか一致しているのかが、かなりの程度わかるからじゃないでしょうか。
もしそういう報告ができないと仮定したとき、箱の中身と箱の関係を問うことができると
永井均は言っていると思うのです。
167 :
いち哲学徒:2006/10/09(月) 00:22:31
>>166 >もしそういう報告ができないと仮定したとき、箱の中身と箱の関係を問うことができる
これは、164の下から2行目の「ある対象=問題の語り得なさ形式」は語りうる、というのと同じことを言っておられるのだと思います。
168 :
B:2006/10/09(月) 00:24:27
>ウィトゲンシュタインは「甲虫の比喩」を
>感覚というものがどうしても言語(ゲーム)化されてしまうことの(やや誤解を招く)例として
>出したのだと思うしそれ以外には考えられない。
勝手批評さんの解釈は永井均の解釈と重なっていると思います。
でも違うのは永井均は、その言語ゲームを<私的言語>が呑み込んでいるんじゃないか
と疑っているところでしょう。
>>144では舌足らずだったけど、叩かれたときに痒く感じるようになった人は
叩かれたとき、「痒い」という。もちろんこれは「痛い」の箱が「痒い」に変わっただけだ。
だからこの「痒い」という言葉も言語ゲームの一手だ。
でも箱が大事で箱の中身は問題にできないというのなら、このような変化をどう説明するのだろう。
叩かれたという外枠からすればここで感じているものが何であれそれは「痛い」の箱に入った
「痛い」でしかなく、箱の中身である私秘的感覚の<痛い>は問題にできない
と勝手批評さんは言ってたわけだから。
もし、叩かれたという外枠があるのにここで感じているものが「痒み」であれば
私秘的な感覚である箱の中身が変わったことで、外側の箱の「痛い」が「痒い」に変わったと
考えられるのではないだろうか。
>>144あたりで言いたかったことはこういうことだったんだけど。
169 :
127:2006/10/09(月) 00:39:44
話が僕にとってはよくわからない方向に行ったので,レスするのをやめていたけど,少しだけ。
1つには,永井のウィトゲンシュタイン解釈は,(僕はそれ自体にはあまり興味はないけど,
もし問題にするのであれば)いろいろぶれている点があるようにも見えるので,より細かく
検討しないといけないのではないかと思われる。
例えば,私的言語については,『ウィトゲンシュタイン入門』p179では,私的規則の問題と
本質的に同じであるようなことが書いてあるけど,『事典哲学の木』p467では,私的言語の
問題を私的規則の問題と同じであるとする解釈があるが,そうではなく,私的言語の問題は
私的規則一般の問題よりはるかに限定された問題である,と書いてある。また,『事典』の
p320の言語ゲームという項では,私に見えているという直接経験の意識事実は絶対に確実で
あるという確実性の源泉は,「私に〜が見えている」という表現を使う言語ゲームにある,と
書いてあって,言語ゲームがあって初めて私に見えているということの確実性があるとされて
いるが,『私・今・そして神』では,私的言語と言語ゲームに優先順位をつけることはできない
(p206)とか,私の言葉の理解に関する(?)確実性が言語ゲームの規則を初めて可能にする
(p203)とか書かれている。
このあたりは,一見すると整合しないように見える。それが,何か理由があって書き分け
られている(例えばそれぞれの本の性格を考慮したとか)のか,それとも以前より考えが
進んだりして解釈に変化が生じたのか,あるいは一見すると整合しないが実は細かく見ると
そんなことはないのか(実際,用語やニュアンスは少しずつ違っていると思われる),よく
わからない。しかし何にしても,ぶれがある以上は,「永井のウィトゲンシュタイン
解釈はこういうものだ」と一つに決めて,それと合わない解釈を別のところで示している
からといって批判するのは,うまくいかないおそれがあるんじゃないか。(まあ「あち
こち矛盾したことを書いてるようじゃ全体的にだめだ」という批判はあるかも
しれないけど)
170 :
B:2006/10/09(月) 00:49:19
>いち哲学徒さん
私に助太刀してくれてありがとう。
でも、私なんかには少し距離をとってくれたほうがいいと思います。
だって実は、私は勝手批評さんの批判が、限定的には、的をはずしているわけでもないと思うんです。
永井均は、問題の意味を理解しないものに向かって部屋の鍵を閉めたつもりなのかもしれないけれど、
誰が見ても「語りえないものを語る」という背理について、淡白すぎる説明しかしていない。
しかも、「<魂>に対する態度」で表明している戦略は、<私>の語りえなさが
重層的に折り重なる前の戦略だから、少し今と状況が違うかもしれません。
でも、ここら辺の話をするとかなり長くなるので今日はできませんが。
敵に塩を送るつもりも、傷口に塩を塗るつもりもないですが
また、改めて言うまでもないことですが勝手批評さんの批判は理解できる部分もあります。
貴重な意見なのは間違いないでしょう。
171 :
127:2006/10/09(月) 01:21:46
それから,特に独我論が普遍的な独我論に読み替えられるという問題に関しては,確かに
議論の出発点としてはウィトゲンシュタインの独我論が引用されているけど,新しいほうの
本ではそれを直接は使わない議論が多くて,特に『転校生とブラック・ジャック』と
『私・今・そして神』では,可能世界と現実世界,存在と概念といったような用語で議論が
行われている。このあたりの議論は,もはやウィトゲンシュタインの独我論を直接参考に
して理解できるようなものではないのでは。(もし勝手批評氏が,可能世界と現実世界と
いったような議論を,ウィトゲンシュタインの独我論から説明することができ,しかも
それが甲虫や規則に従うという議論とも共通の問題であるというのなら,ぜひ説明して
みてほしいところ。)
172 :
127:2006/10/09(月) 01:22:41
ついでに,独我論が普遍的な独我論に読み替えられるという点に関しては,個人的には
素朴な疑問がある。「私だけが特別だ」というようなことを単に言ったら,他人が
それを読み替えて「いや,私にとっては私が特別だ」とか「それは誰にでも共通の特別さを
言っているに過ぎない」とか反応することが考えられるけど,「現に127である私だけが
特別だ」とか「この世界は現に127である私からのみ開けている」と,固有名詞を含めて
表現したら,少なくともそれが読み替えられることはなくなるんじゃないか。
もちろん,誰にとっても同じ種類のことが成り立つ(らしい)ので,実は私の特別さなど
というものはないのではないか,という問題は残ると思うけど,「読み替え」というのは,
少なくとも問題を表す表現としては不適切なんじゃないだろうか。他人(例えばA)が
「いや,この世界はAからのみ開けている」と言ったとしても,その発言は単に間違って
いるだけだ。なぜならこの世界は現に127からのみ開けているから。Aから開けている世界を
想定すれば,Aの発言は正しいことになる(逆に127である私の発言は間違い)けど,
それはあくまで可能世界の話であって,127から開けているこの現実世界では,127である
私の発言のみが正しい。このように考えて,まずいことがあるんだろうか。
まとめて言うと,他人と私が共通にいる世界というものを何となく想定して,そこで何となく
「私」という言葉を使うと,読み替えというものが起こるように思われるけど,特定の人物
からのみ開けている世界という考え方を使った上,現に127である私からのみ開けている世界
の中で私の特別さを言えば,少なくとも,その世界の中で私の発言が読み替えられるという
ことは防げるんじゃないか。
まあ,そんなことが防げたからといって特に意味があるのか,と聞かれたら,
現時点ではっきり言うことはできないけど。
一挙にレスが沢山ついてどうしたものか。まずは
>>163 >ウィトゲンシュタインは守ろうとしたものを守れていません。
これは正しい。もちろん気持ちとしては他の人が入って来れないようにしたかったはずだけど
この部屋にはそもそも鍵が付けられないから。それから永井氏がウィトゲンシュタインより
一歩進んでいるというのは間違いだ。哲学は(いわゆる思想と違って)進歩ということが無い。
哲学は如何に進まないかを競っているようなところがあるから。こういう進歩史観ほど哲学にそぐわないもの
はないと思う。(これはBさんが口を滑らせただけだろう)
>>166 これは何度も何度も書いているが実在の箱に実在の中身がある、というイメージがそもそもの間違い。
もしこれが本当なら永井氏、Bさんの見解は非の打ち所無く正しい。
でも「箱」は目に見える文字としての言語、音声としての言語、或いはジェスチュアであり
「箱の中身」は言葉に出来ない(この文脈では)<感覚>の“比喩”なんだ。そう読まないと
「哲学探究」全体の主旨から外れてしまう。この例が誤解を招きやすいのはその通りだけどこれが
ウィトゲンシュタインが言いたい事の結論としての“比喩”である、ということは理解するべきだろう。
>>168 これは言語化の波という話よりも、より根源的な議論で既に150さん(と153・157さん)の意見に応えた
152,155,158で展開している生活形式の一致の問題だろう。
127さんの永井氏の見解がそれぞれの著作で(或いはその著作の中でも)ブレているというのはその通り。
でもこれは或る意味で仕方が無い。とにかく微妙で自己矛盾みたいなことをやっているのが哲学だから。
171,172の意見についても色々議論できそうだけど長くなったのでここまで。
やっぱりもう一言だけ。
>>172 >他人(例えばA)が
>「いや,この世界はAからのみ開けている」と言ったとしても,その発言は単に間違って
>いるだけだ。なぜならこの世界は現に127からのみ開けているから。
もちろんこの発言は単に間違っているだけだ。何故ならこの世界は現に勝手批評からのみ開けているから。
(もちろんこれはちょっと意地悪をしただけ。127さんはこうなった場合に僕が単に間違っているだけ、と言える
かどうか。簡単に無視する事は難しいと思う。これが哲学のいやらしい所だが。)
175 :
いち哲学徒:2006/10/10(火) 00:25:06
>>170 >>173 〈私〉が感覚している〈青色〉が、〈他者〉においては〈赤色〉であっても、
全体として整合的に異なっておりさえすれば、異なっていないことと同じです。
言い換えれば、色覚の場合は、識別できる色の数が同じなら、可知的差異=言語上は同じであり、問題になりません。
これは「〈感覚〉の語り得なさ」の例示になるでしょう。
(ただし色盲の場合は、識別できる色の数が少ないので、差異が外的に現われ、公的言語で表現可能なわけです。)
それ対して、例えば〈丸い〉と〈四角い〉の知覚の場合には、重大な「外=言語=可知的差異」が生じてきます。
〈私〉の〈丸い〉と〈四角い〉の〈感覚〉が、「丸い、四角い」という言語表現だけは変わらずに、いつの間にか入れ替わっていたとします。(〈私〉と〈他者〉の二者の間のズレという想定でもいいです。)
そうなると、〈感覚〉変化以前には出来ていた事が出来なくなる場合が生じてきます。
例えば、転がすことができた(転がすと言えた)物が転がせなくなる(転がすと言えなくなる)とか、簡単に固定できた物が転がってしまうなどのように、生活や動作に支障が出てきてしまいます。
というわけで、〈私的感覚〉には、言語で指示可能なものと不可能なものの二種類があるのではないでしょうか?
176 :
127:2006/10/10(火) 02:02:34
>>174 >127さんはこうなった場合に僕が単に間違っているだけ、と言える
>かどうか。簡単に無視する事は難しいと思う。
みんなが同じ世界に同じようにいるというのではなく,特定の人物から開けている
世界という形で考えた上,現に127から開けている世界にこだわって,それ以外の
人から開けている世界は可能世界にすぎないという考え方を貫くなら,無視する
というか間違いと言い切ることは別に難しくない。なぜなら,現にこの世界が
127からのみ開けていることは,明らかだから。
難しいのは,間違いと言い切ること自体ではなく,その前提となる上に書いた
ような考え方を貫くことのほうだろう。何しろ,その考え方を徹底すると,
永井の一連の著作ですら,世界が永井から開けていることを前提にしている
限りでは,全て間違いだという帰結になる(これは笑える帰結だが,しかし,
その考え方を本当に貫くと,やはりこのような帰結になるんじゃないか)。
逆に考えると,現に127から開けている世界にこだわるという考え方には限度が
あって,やはりみんなが住んでいる共通世界みたいなものも考えなければならない,
ということになるのか。しかし,そう考えるとしても,特定の人物から開けて
いる世界と共通世界みたいなものとは,どういう関係にあるのか。それとも,
「いや,この世界は127ではなく,この私から開けている」という種類の発言は,
他の世界(可能世界)の中心となっている人物が言った場合だけでなく,127から
開けている世界の中にいる他人に過ぎない人物が言った場合にも,何らかの理由で
正しい発言だということができるのか。
まあこの辺は全く個人的な疑問に過ぎないんだけど,
>>171>>172あたりで言いた
かったのは,独我論の読み替えという問題については,永井はウィトゲンシュタ
インの用語とはだいぶ離れたところで議論をしていて,個人的には疑問も残って
いるし,他の問題にそのまま応用できるかどうかも不明ではないか,ということ。
勝手批評氏がそのあたりについてウィトゲンシュタイン解釈により説明する
ことができるというのなら,僕がウィトゲンシュタインの議論をよく知らないのは
前に書いたとおりなので,別に反対するつもりはない。
>>175 >〈私〉が感覚している〈青色〉が、〈他者〉においては〈赤色〉であっても
こういう神的視点を取っちゃっている時点で問題は通り越してるんじゃない?
「〈他者〉においての〈赤色〉」なんて最初から〈私〉の視野の外なんだし。
逆転スペクトルの懐疑が“可能”なのはここで問題にされてる<感覚>が言語以前だから
それは何ででもあり得るだけ、つまり〈青色〉でも〈赤色〉でも他の何色でも。まさしく
これまで議論されてきた甲虫の比喩がこれに当たる。(そしてこの〈青色〉とか
〈赤色〉というのはもう既に言語なので、この問題を僕らが話す際には言語上の、即ち言語の使用上の差異
(即ち赤と青)が存在するので「逆転スペクトルの懐疑」という<哲学的>外見が生まれるというわけ。)
>みんなが同じ世界に同じようにいるというのではなく,特定の人物から開けている
>世界という形で考えた上,現に127から開けている世界にこだわって,それ以外の
>人から開けている世界は可能世界にすぎないという考え方を貫くなら,無視する
>というか間違いと言い切ることは別に難しくない。なぜなら,現にこの世界が
>127からのみ開けていることは,明らかだから。
これについてもまたしてもその見解を無視する というか間違いと言い切ることは
別に難しくない。なぜなら,現にこの世界が 勝手批評からのみ開けていることは明らかだから、
と言いたい。それからもう一つ、
「127から 開けている世界の中にいる他人に過ぎない人物」とは僕の事?
いやこれは間違いだ。127さんの方こそ「勝手批評から開けている世界の中にいる他人に過ぎない人物」
なんだから。
<独在性>ということは語る事が出来る類いのものじゃない。それを無理に語ろうとすると
<単独性>(と言うかつまんない意味での個人)にならざるを得ない。
そしてこういう<単独性>は僕の127さんに対する揚げ足取りみたいに別の<単独性>が
しゃしゃり出てしまう。
179 :
いち哲学徒:2006/10/11(水) 00:15:21
>>177 おっしゃるとおり、それは神的視点ですね。
しかし、<感覚>と「言語(ゲーム)」との関係を炙り出すための思考実験だったので問題ないと思うのですが。
また、永井さんの思考においても、ところどころに神的視点はあると思います。
ところで、具体的に、どういうことが可能(不可能)なら、<感覚>は語りうる(語りえない)、と判定できるのでしょうか?
まず判定条件が確定されていない限り、混乱した議論や無意味な思弁になってしまうと思います。
いちおう私が考えているのは、次のようなものです。思考実験なので理想的条件で考えます。
例えば、誰もが同じ<感覚>を持っていると仮定した場合、
誰の<青>も同じ<青>であり、「青」という言葉がそのまま<青>を指示しているとみなせます。
これが、<感覚>は語りうる、と明確に言える場合の極端な典型例だと考えます。
そして、これと対照規定することによってこそ、
<感覚>は語りえない、ということの本質(言明可能条件)が分かり、
そして、何(のどういう次元)が語りえる(えない)のかが、厳密に解明できるのではないでしょうか?
「<感覚>は語りえないのか否か」ではなくて、「<感覚>は語りえない、とは、どういう次元の真理なのか?」という視点=問いが重要だと思います。
>>179 どういうことが可能なら、って“全て”が可能だろう。精確に言うと言葉(特に僕らがやってる哲学に於いては)
に出来る全て、ということだろう。だから<感覚>なんていう哲学的表現が可能になるんだから。
だから(普通の)「感覚」も(哲学用語としての)<感覚>も当然語り得る。
“だから”語り得るものによっては語り得ないものには全く近づけない。Bさんが語っている事は
彼が本当に語りたい事には決して近づけない、という所がポイントで哲学はこの事をはっきりさせる
ことしか出来ないのだが、Bさんはこの事を言葉の上では理解していると言いながら
どうしても受け入れられないでいるんだろう。むしろ語っていけば「語りえないもの」
に少しづつ近づけるという哲学的進歩史観(と呼べるようなもの)さえ持っているように見える。
その様なことが原理的に不可能だ、というのが重要なのに。
(もっと精確に言うと“哲学的進歩史観”も言語の限界内で営まれている事柄に過ぎない
というのが重要なポイントだろう。この意味では幾らでも“進歩”できる。
ウィトゲンシュタインが語っているのは本当に際の際なんだけどこの場合の「限界」
というのは目に見える限界ではない。だからBさんも「いち哲学徒」さんも「限界」の意味を
誤解してしまう。まあこの誤解は或る意味では必然的だけど。
だって幾らでも「語れる」んだから。)
>>179 ><感覚>は語りえない、ということの本質(言明可能条件)が分かり、
> そして、何(のどういう次元)が語りえる(えない)のかが、厳密に解明できるのではないでしょうか?
厳密にはならないと思う。
むしろスライドして同じ困難に直面するのがこの問題の醍醐味なんじゃないかな。
感覚に対して「感覚」や<感覚>という「」や<>といった記号で差異を設けることが
無意味であることを永井さんは既に述べている。
そういった記号を使いたがるのはただ一つの感覚を私にだけ向けたいとする意図からなのだろうが、
言語にはそのような力はない。むしろ万人に向いてしまう。
また、「そうじゃない<ただ一つの感覚を私にだけ向けたい>という語りが可能足らしめるのではないか」
というメタ的な物言いが考えられるが、これもまた万人に向いてしまう。そしてこの語りもまた・・
<感覚>は語り得ないとは、ある種の皮肉な修辞表現に過ぎないと思う。
>>172 >その世界の中で私の発言が読み替えられるということは防げるんじゃないか。
おそらく、読み替えられては困るという思いだけが、
何故か起こってしまうことがこの問題を成立させるんじゃないかな。
>「この世界は現に127である私からのみ開けている」と,固有名詞を含めて
>表現したら,少なくともそれが読み替えられることはなくなるんじゃないか。
それは無いと思う。
永井さんの本を読んだのならわかると思うけど、
固有名詞の存在は箱に過ぎない。どれだけ<私>の特別さを言い張っても
今日眠りについた<私>が明日(私)に変わっていたことに誰が気づこうか。
その時点で独我論の「発言」は唯一性を失ってしまうんだから。
言語内に現れる<私>はどこにも特別さが無いんじゃないかな。
誰にも気づかれる可能性が無いという事実だけが、言語に現れない独我を秘匿し、
我の消滅に恐れを感じさせるんじゃないかな。
183 :
127:2006/10/12(木) 01:05:28
>>178 勝手批評氏からこのような返答が来ること(だけ)によって揚げ足が取られるとは,
僕は思わない。誤解があるかもしれないので言っておくと,
>>172>>176に書いたような
考え方を使えば127である私の特別さを明確に語ることができる,などと言いたいわけ
ではなく,ただ,「読み替え」というのは結局何のことなのか,「読み替え」が起こる
から独在性について語り得ないという理由は何なのか,「読み替え」に関する議論は
新しいほうの本に出てくる「特定の人物から開けている世界」などといった議論と
どうつながるのか,といったあたりに個人的には疑問があったので,それを書こうと
思っただけ。
疑問点を言い直すと,1つには,「現に127である私からのみ開けている世界」という
表現は,つまり,世界が127である私からのみ開けているということを表す表現であって,
勝手批評氏,永井,その他の他人にも直接当てはまるようなことを表している表現では
ないのではないか。そうすると,この表現で言えていないこととは何なのか。というのが,
単純な疑問としてよくわからない。
もちろん,誰でも同じような表現を使うことはできて,実際に勝手批評氏や永井(!)は
同じような表現を使っている。そうである以上,127である私の言いたいことは表現できて
いないのだろうか,という疑問は湧く。しかし,実際に同じような表現を使う他人がいる
からといって,現に世界が127である私からのみ開けているという現実が変わるわけはないし,
「現に127である私からのみ開けている世界」という表現の意味が急に変化するということ
もないのではないか。そうすると,言いたいことが言えていないらしいとしても,具体的に
どういう理由で言えていないことになるのか。多分『転校生とブラック・ジャック』p140で
論じられているところかと思うんだけど,よくはわからない。
184 :
127:2006/10/12(木) 01:09:11
2つめには,「読み替え」が起こっているとして,「特定の人物から開けている世界」
などといった議論を前提にした場合,どこの世界の誰との間で読み替えが起こっている
ことになるのか。ここで便宜上,例えば127から開けている世界で127が「永井の議論は
わかりにくい」と発言したという状況を,
127世界【127「永井の議論はわかりにくい」】
などと表現することにして,
>>172>>174のような状況を表現してみると,考えられるのは,
以下の4種類の状況だと思われる。
(1)127世界【127「現に世界は127である私からのみ開けている」】
(2)127世界【勝手批評「いや,現に世界は勝手批評である私からのみ開けている」】
(3)勝手批評世界【127「現に世界は127である私からのみ開けている」】
(4)勝手批評世界【勝手批評「いや,現に世界は勝手批評である私からのみ開けている」】
すると,「特定の人物から開けている世界」という考え方を取る限りは,(1)が正しくて
(2)が間違いであることは明らかと思われる。(念のため言っておくと,(4)が正しくて
(3)が間違いであることも明らか。同様のことは以下略)
では,これを前提にすると,「読み替え」というのは何なのか。
まず,(1)の127の発言が,127世界の中で(2)のように読み替えられたとしても,それは
ただの間違いではないのか。(2)が間違いではないとする理由が何かあるのか。
また,(1)の127の発言が,(4)のように読み替えられたとすると,(4)の発言自体は正しい。
しかし,(1)の発言は,127世界の中でなされているのに,それが(4)の勝手批評世界という
別の世界で読み替えられるというのは,どういうことなのか。現実世界と可能世界との間で
コミュニケーションが行われ,読み替えが起こったということなのか?(何のことか
よくわからないけど)
これも,『転校生とブラック・ジャック』p26あたりで論じられているかとは思うけど,
よくわからない。
185 :
127:2006/10/12(木) 01:19:24
>>182には気付かずに書いてしまったけど,疑問の趣旨は上2つのとおり。
>>184 >しかし,実際に同じような表現を使う他人がいる からといって,
>現に世界が127である私からのみ開けているという現実が変わるわけはないし,
>「現に127である私からのみ開けている世界」という表現の意味が急に変化するということ
>もないのではないか。
もう耳タコかもしれないが、これに対してしかし,実際に同じような表現を使う他人がいる
からといって,現に世界が勝手批評である私からのみ開けているという現実が変わるわけはないし,
「現に勝手批評である私からのみ開けている世界」という表現の意味が急に変化するということ
もないのではないか。
「特定の人物から開けている世界」というのは肉体的・性格的な特徴を持った普通の個人
のことを言っている限りではまさしく正しい表現で確かにこの世界はこの私から開けている。
でも哲学者はもちろんこんなつまらない意味で最初の表現を使ったんじゃない。
独在性というのはこれ“以上”のことを言おうとしている。でもそれは常に失敗する。
これは個人的な推測だが可能世界の話は最初から独在性の問題感覚を破壊するものだと思う。
184の4つの可能世界などというものは“無い”。上で書いたように単なる個人として考えれば
127も永井も勝手批評もそれぞれ自分の好きな事を主張できるということでしかない。
(このつまらなさ・平凡さが哲学者には耐えられない。といって独在性のような言語の限界を超えた事を
言おうとしても空回りしてしまう。)
>>184 (3)と(4)は表現が間違ってるよ。
(3)127世界『勝手批評世界【127「現に世界は127である私からのみ開けている」】』
(4)127世界『勝手批評世界【勝手批評「いや,現に世界は勝手批評である私からのみ開けている」】 』
したがって(3)は正しく(4)は間違い。
127さんが発言する限り、勝手批評世界を想定する127さんが潜んでおり、
勝手批評世界を127世界に読み替えることでしか、184の(3)(4)の形で述べることはできない。
読み替えが完了して初めて(3)は間違いで(4)が正しくなる。
184は読み替えを論点先取りした上で読み替えを疑問視する疑似問題に過ぎないと思う。
そもそも127さんが勝手批評世界に存在しているという表現に疑問を感じなかった?
188 :
127:2006/10/14(土) 00:47:53
>>186 繰り返しだけど,今のところの僕の目的は,「読み替え」というのが何であるか,
また「読み替え」が起こったとして,それによって独在性が語り得なくなるなど
という理由はあるのか,というようなことを考え直してみたいというもの。
それに対し,勝手批評氏の応答は,今のところの僕には,「読み替え」が起こって
いる(らしい)という事実と独在性が語り得ないという結論とを,ただ繰り返し
指摘しているだけにしか読み取れない。それだと,これ以上は何とも返答できない。
189 :
いち哲学徒:2006/10/14(土) 01:49:13
>>188 私も、その問題は重要だと思います。
勝手批評さんは間違っているとは思いませんが、何かが足りない、一面的すぎる、と思います。
誤解や読み替えが起こる、と言えるという事は、「読み替えられてはいけない何か」を何らかの次元で知っていなければなりません。
「<・・・>は語りえない」と言うことによって、「何か」は語りえているわけです。
私は、「それ」は何なのか?どんな次元の事柄なのか?について語ることは、ある次元では可能だと考えます。
勝手批評さんが強調されるとおり、正面攻撃は無理でも、側面攻撃で炙り出すことは可能だと考えます。
「学哲」、しかも「まじめな学哲」って自称してる時点でもう馬鹿丸出しだね。
そういう野暮ったい人間に苛立たせ、ル・サンチマン(=知的ルサンチマン)を刻み付けるだけのパワーを、
ポストモダニズムが備えていたことは確実だろう。
それだけでも価値があると思うよ。
191 :
考える名無しさん:2006/10/14(土) 02:12:00
何も答えられない事を美徳とする蒙昧哲学徒の穴をなめまくるのがポモなのだよ?
>>188 何が読み替えられてはいけないかがわからないのかな。
187で書いてる意味が分からない?
127さんは自分の葬式を見ることができるだろうか。
127さんはそれを想定することはできる。
だがそこに葬られている127は127さんでないことは明らかだ。
可能世界というものが独在論を普遍的なものに解体してしまうとはそういうこと。
世界の限界である127さんが勝手批評世界などという別の限界を語ることなど、
187で書いている読み替えなしには不可能だよ。
視点の根源が不動である(世界と切り離せない)という事実が
「Aの世界は特別だ」という視点の不在や可変(読み替え)を拒否する。
193 :
127:2006/10/14(土) 12:23:42
>>187 >127さんが発言する限り、勝手批評世界を想定する127さんが潜んでおり、
この部分の指摘の趣旨はそのとおりだと思うけど,全体的には誤解あるいは食い違いが
あるように思う。
まず,指摘の趣旨を活かして,現に世界を開いているのは127であることを強調する
ため,左端は<127世界>という表現にする。そして,そこから想定されている
世界を『 』,その世界の中での出来事を【 】としてみる。例文は,別の人から開けて
いる世界を想定しない場合には
<127世界>【127「永井の議論はわかりにくい」】
<127世界>【別の人「永井の議論はわかりにくい」】
などで,想定する場合には
<127世界>『別の人世界』【127「永井の議論はわかりにくい」】
<127世界>『別の人世界』【別の人「永井の議論はわかりにくい」】
など。そこで,(勝手批評氏に対する応答ではなくなったので,いっそのこと永井の
名前を使わせてもらうことにして)
>>174と同様の状況を表現してみようとすると,
(1) <127世界>【127「現に世界は127である私からのみ開けている」】
(2) <127世界>【永井「いや,現に世界は永井均である私からのみ開けている」】
(3) <127世界>『永井世界』【127「現に世界は127である私からのみ開けている」】
(4) <127世界>『永井世界』【永井「いや,現に世界は永井均である私からのみ開けている」】
になるのではないか,というのが,指摘の趣旨と思われる。
そして,(1)が正しくて(2)が間違いなのは,特に変わらないと思われる。
194 :
127:2006/10/14(土) 12:26:25
そこまではいいとして,(3)(4)についてはどうか。
まず,(これ自体は大した問題ではないと思うけど)(4)が正しくて(3)が間違っていることは,
別に変わらないと思う。なぜなら,確かに現に世界は127から開けてはいるのだが,しかし
(3)(4)で想定しているのは,永井からのみ開けている世界だ。現実はともかく,想定の
中では,私は永井均であって世界は永井均である私からのみ開けている,となっている。
そうすると,(4)は,永井(想定の中では世界の中心)が,世界は永井から開けていると
言っているのだから,正しいのではないか。そして(3)は,127(想定の中では永井にとって
他人に過ぎず,世界の中心ではない)が,世界は127から開けていると言っているのだから,
間違いではないか。
現実には世界が127からのみ開けているからといって,他人から開けている世界を想定する
以上は,その想定された世界の中で,発言の正しさを判断するんだと思うんだけど。
しかし,それは大した問題ではないと思うので,より重要だと思うのは,(3)(4)をこの
ように書き直したからといって,「読み替え」とは何なのかという疑問は,解決された
わけでも何でもないと思われる,ということ。
>>184がうまく書けていなかったこと
自体はそのとおりだと思うので,もう一度言い直してみる。
まず,出発点としては,現に世界は127である私からのみ開けているのに,それ以外の
人から開けていることを前提とするような
>>174のような返答や,もっと言うと永井の
一連の著作が,実際に存在している。これは,どのように説明されるのか。
195 :
127:2006/10/14(土) 12:31:11
まず,これをそのまま捉えると,
(1) <127世界>【127「現に世界は127である私からのみ開けている」】
というような発言が,
(2) <127世界>【永井「いや,現に世界は永井均である私からのみ開けている」】
のように読み替えられた,ということだと思われる。しかし,永井のこの発言は,127から
のみ開けている世界でなされているのだから(そして,永井から開けている世界を想定
しているわけでもないのだから),間違いだと言うしかないと思われる。
だがしかし,間違いだと言うしかないような発言がなされるというのは,おかしいので
(まして永井は,(言うまでもないけど)「独在性」とか「特定の人物から開けている
世界」とかについて,127よりもずっと詳しく論じているんだから),(2)のような発言も
何らかの正しい発言として理解する必要があると思われる。
とは言え,しかし,世界が127からのみ開けているという考え方のもとで,(2)のような
発言が,一体どういう理由で正しいと言うことができるのか。この考え方にこだわる
以上は,127から開けている世界において他人に過ぎない永井の発言は,やはり,間違い
と言うしかないことにならないか。
196 :
127:2006/10/14(土) 12:33:01
そこで考えられるのが,永井の発言は,永井から開けている世界においてなされた,と
いうこと。そうすると,その世界では,その発言が正しいということになる。それを
表現しようとすると,とりあえず,
(1) <127世界>【127「現に世界は127である私からのみ開けている」】
というような発言が,
(4) <127世界>『永井世界』【永井「いや,現に世界は永井均である私からのみ開けている」】
のように読み替えられた,ということになりそうに見える。しかし,ここで問題なのは,
『永井世界』は可能世界に過ぎず,その世界の中で永井が発言したからといって,
それは架空の発言(とでも言えばいいのかな?)であって,現に127から開けている世界の
中で,別の人から開けていることを前提にした発言等がなされたということ(
>>194の下半分
に書いた出発点)とは違うのではないか。と言うか,そもそも,127から開けている世界
(現実世界)の中で行われた発言が,別の世界,しかも可能世界に過ぎない『永井世界』
で読み替えられる,というのは,どういう意味なのか。
すると,(4)のような形で「読み替え」を説明するのは,可能世界での読み替え(??)を
前提にしているという点で,何のことだかよくわからない。
197 :
127:2006/10/14(土) 12:55:19
そこで,可能世界での読み替えというのは変なので,永井はあくまで現実世界で読み替えを
行っているのだ,と考えようとすると,あえて表現すれば,
(5) <永井世界>【127「現に世界は127である私からのみ開けている」】
(6) <永井世界>【永井「いや,現に世界は永井均である私からのみ開けている」】
のような表現が考えられる(あるいは,(1)から(6)への読み替え)。
しかし,現に世界は127である私からのみ開けている以上,<永井世界>のような表現は,
(4)に輪をかけて意味不明だというしかないのではないか。
(そんなことはないか?現実には存在しない可能世界での読み替え(??)よりは
ましと言えるのかもしれない。しかし,現に127から開けている世界とは全く別の世界
が出てきて,そことの関係で読み替えが行われるという点では,やはり意味不明ではないか。)
というわけで,今のところの結論としては,どう考えてみても「読み替え」というのは
うまく説明できない,あるいは少なくとも,「特定の人物から開けている世界」という
考え方とセットにした場合には,何のことだかよくわからない,ということになるの
ではないかと思われる。
すると残った疑問は,
>>194の下半分で書いた出発点は,どう説明されるのか,ということ。
今まで書いたように,「読み替え」という説明はうまく行かなさそうに思われるので,
何らかの別の説明をするか,あるいは(2)のように間違いだと言い切ってしまうことになるのか。
(ちなみに念のため付け加えておくと,どうしても説明が付かなければ,気分的には,間違い
だと言い切ってもよいのではないかと思われる。何しろ,世界は現に127からのみ開けているの
だから。しかし,やはり,説明としては,それでは不十分だといわざるを得ないと思われる。)
198 :
127:2006/10/14(土) 12:57:57
>>192 これも念のため付け加えておくと,僕は,「読み替え」というのは何なのか,「読み替え」
が起こっているとしたら,それはどういうことなのか,ということを,どちらかと言うと
「読み替え」が起こることに疑問を持って考え直してみた。そして,実際に,「読み替え」は
実はうまく説明できないのではないか,という結論になった。
なので,何で
>>192のような指摘を受けたのかは,自分としてはよくわからない。
「読み替え」が起こることを前提にして議論を進めていったように見えたのかもしれない
けど,自分としてはそういうつもりはなかった。まあ,
>>184の書き方が悪かったという
ことだろうか。
>>188 僕はもちろんただ単に127さんの揚げ足取りだけで一連のレスをつけたんじゃない。
127さんが言う「世界は現に127である私からのみ開けている」という主張は
僕、勝手批評から言わせてもらえば「単なる間違い」で「世界は現に勝手批評である私からのみ開けている」
と主張せざるを得ない。
この事を決して127さんは納得できないし、同様に僕も127さんの主張を認める事は出来ない。
だとしたら127さんが僕の意見を無視して「何しろ、世界は現に127からのみ開けているのだから」なんて言ったって
その主張は127さん本人しか納得出来ない事になる。それでいいのなら話は別だが
その主張を“この”僕が受け入れられるわけも無いのは明らかだろう。
独在性はどこまでも他の独在性と両立してしまう。127さんの独在性の主張は127さんの
中だけで正しい、と言うのなら僕の独在性も僕の中だけで正しいと言えるだけだろう。
(しかも127さんは独在性について単に127さん個人の話として語っているわけではないはず。
127さんの<痛み>についてはこれは127さんが「これは私の痛みだ」とは言えるが、世界については
同じようには言えない。これは127さんの内側に留まっている事柄じゃないから。)
127さんは「読み替え」についてうまく説明できないではないか、と言うがそれは当たり前だ。
「読み替え」はいつも・既に起こっている事だからそれを眼で確認できるわけがない。
それが共通の言語(ゲーム)を使っているということなんだから。
僕の見解としては「特定の人物から開けている世界」というのは単に個人のことを述べている
と考えれば完全に正しい表現だ。その意味で「各可能世界」(127さん、永井氏、勝手批評)という言い方
は理解できる。これは「個々人」を哲学的に、大袈裟に表現したものだろう。
可能世界って言葉の使い方、なんかおかしくね?
>>201 なにも問題ないよ。
>>194の中で
>現実はともかく,想定の中では,私は永井均であって世界は永井均である私からのみ開けている
という内容は、127さんが永井さんの人生を送ったとしたらという十分到達可能な
想定であってその中での発言・信念の真偽や正当化はおかしくない。
>>199 さらに上という表現は適切なのだろうか。
「独在性の意味(二)」論文の注釈10で永井さん自身
「入不二さんは「私3」の意味で、私は「私4」の意味で結局は「私3+4」を語っていたことになる」
と述べている。
203 :
127:2006/10/15(日) 11:54:40
>>200 >127さんが言う「世界は現に127である私からのみ開けている」という主張は
>僕、勝手批評から言わせてもらえば「単なる間違い」で「世界は現に勝手批評である私からのみ開けている」
>と主張せざるを得ない。
このこと自体に反対するつもりはない。(議論の趣旨が,まだ誤解されているんだろうか?)
>>183に書いたように,127である僕の特別さを明確に語れるとか言いたいわけではないし,
>>194>>197に書いたように,勝手批評氏,永井,その他の人たちが僕と同様のことを
言っているのはどういうことなのか,という疑問は残ったままだ。疑問は残ることを
前提にして,「読み替え」をどう理解することができるのか,「読み替え」と「特定の
人物から開けている世界」とのつながりはどうなるのか,という点を書いただけ。
この点については,僕からはもう繰り返さないことにする。
204 :
127:2006/10/15(日) 11:57:53
>127さんの<痛み>についてはこれは127さんが「これは私の痛みだ」とは言えるが、世界については
>同じようには言えない。これは127さんの内側に留まっている事柄じゃないから。)
「最初に考えられていたのは〔中略〕Bあっての物種であるような世界,もっと単純にいえば,
Bが物種であるような世界,だった〔中略〕。ところが今や,AもCもDも,みんな<ぼく>
であり,自分が物種であるような世界の主人公だったのだから,それを忠実に描くとすれば,
複数の世界が存在すると考えるほかはない。同じ一つの世界の物種が複数あることはできず,
物種がちがう世界は,端的にちがう世界であるといえるからだ。」(『<子ども>のための哲学』p90)
このように,世界を開く人が違えばそれは別の世界であることを,永井は明言している。
『転校生とブラック・ジャック』の,特にp161以下には,さらに詳しく書いてある。
これらを文字通りに取れば,永井は,内側とか感覚とか主観的認識とかだけでなく,
「世界」についても,人が違うごとに別々に考えていることが明らかだろう。
勝手批評氏は,このあたりをどう理解しているのか?あるいは,「世界」についてのこの
ような考え方を認めないということなのか。(それならそれでも構わないけど,そうすると,
最近の永井の議論はほぼ全て認めないということになってしまうのではないか。)
>僕の見解としては「特定の人物から開けている世界」というのは単に個人のことを述べている
>と考えれば完全に正しい表現だ。その意味で「各可能世界」(127さん、永井氏、勝手批評)という言い方
>は理解できる。これは「個々人」を哲学的に、大袈裟に表現したものだろう。
このあたりについても同様。永井が明言しているにもかかわらず,「これは「個々人」を哲学的に、
大袈裟に表現したものだろう。」というのは,どういう趣旨あるいは根拠によるのか?
いや,こういう考え方は,少なくとも自明でないのは明らかだと思うので,勝手批評氏が
賛成しないというのであれば,それは別に構わないけど。
205 :
127:2006/10/15(日) 12:21:53
>「読み替え」はいつも・既に起こっている事だからそれを眼で確認できるわけがない。
>それが共通の言語(ゲーム)を使っているということなんだから。
「E君が言っていることが,ひとに理解されるどころか,E君が言っている
そのときすでに「同じ種類のこと」でしかないんだ。」
(『転校生とブラック・ジャック』p144)
というような議論があって,上で引用した勝手批評氏の指摘は,このあたりの
議論に関わると思われる。もしこのように言えるとすれば,確かに独在性は
言えてないことになると思われるが,しかし,このように言えるとする理由は
今のところよくわからない。
あと,これは細かいことだけど,上のように言えるとすると,つまり僕が
独在性について何か言うとき,すでに同じ種類のことしか言っていないこと
になる。すると,逆に言うと,実際に他人に読み替えられるとか,他人が同じ
種類のことを言い出すとかいうことは関係なく(せいぜい,きっかけにすぎず),
僕と言葉との関係(?)だけでもって,独在性について言おうとしても失敗
するということになる。すると,やはり,「読み替え」の説明にはならない
んじゃないか。(この点はあまり自信はないけど)
>>203 「このこと自体に反対するつもりはない。」というのはこれまで「何しろ、世界は現に127
からのみ開けているのだから」と主張し続けた事と齟齬をきたすことになる。
だから127さんは当然「この事自体に反対しなければならない」即ち「世界は現に勝手批評
である私からのみ開けている」ということに反対しなければならない。
>>204 永井氏の場合(『論考』のウィトゲンシュタインも)「世界が違う」ということは比較を絶して違う、という事。
だから可能世界の考え方を持ってきたとしてもうまくいくわけがない。結局は複数世界を等置してしまう
ことになるんだから。
永井氏の“言おうとしていること”(独在性)は完全に正しい。でもそれを実際に“語ること”は
永井氏自身が語るように完全に間違っている。だから永井氏の哲学議論は全て間違ってると思う。
(大急ぎで付け加えるがそれは仕方の無いことだ。その<仕方無さ>を延々と語るのが哲学だろう。
これがウィトゲンシュタインの前期・後期・晩年に至る全思索を貫いている。)
>>205 「独在性」という言葉によって他人にも理解出来る表現として現れる時、既にして「独在性」
ということで“言おうとしていたこと”は違ったものになっている。127さんはその事に気付かずに
「独在性」という(永井氏の作った)語を使っているが、“この時点”でおかしいではないか。
議論の始まりからこの変質が起こっているということが本質的だ、ということに気付いていないから
「読み替え」の意味が分かっていない。この「読み替え」は、議論の始まりには既に終了しているのだ。
207 :
127:2006/10/16(月) 01:08:24
>>206 >「独在性」という言葉によって他人にも理解出来る表現として現れる時、既にして「独在性」
>ということで“言おうとしていたこと”は違ったものになっている。127さんはその事に気付かずに
>「独在性」という(永井氏の作った)語を使っているが、“この時点”でおかしいではないか。
「独在性」という一般的な表現は,確かに他人にも理解できると思われる。
しかし,「現に世界は127である私からのみ開けている」という表現はどうなのか?
この表現は,そのまま取る限り,現に世界が127からのみ開けていることを指す表現
であって,他の人に同じことがそのまま当てはまったりはしない。それなのに,
「変質」だとか「読み替え」だとかが起こる理由は何なのか?
とりあえず思いつくのは,同種のことを他人も言うことができるから,という
理由だ。しかし,この表現を使った時点ですでに「変質」なり「読み替え」なりが
起こっているというのなら,他人が何を言い出そうが「変質」「読み替え」が
起こることには変わりはないはずだから,他人が同種のことを言えるということは
理由にならない。そうすると,理由は何なのか?
『転校生とブラック・ジャック』で言うと,C君がしつこく「同じ種類のことで
しかない」「特別のものなど存在しない」と主張しているけど,しかし,結局,
その十分な理由を示せていないのではないか。少なくとも僕にはよくわからない。
>>207 >しかし,「現に世界は127である私からのみ開けている」という表現はどうなのか?
>この表現は,そのまま取る限り,現に世界が127からのみ開けていることを指す表現
>であって,他の人に同じことがそのまま当てはまったりはしない。
これについては現に世界が127から“のみ”開けていたりはしない、というのが答えだ。だって少なくとも
ここに、この<僕>がいるんだから、127さんの主張なんて嘘っぱちだ。
「世界が特定の視点から開けている」という言い方が既にしてこの独在的表現の一般的な形式
として理解されてしまうんだから、そこに「127」という固有名詞を入れたからといって
それが特別な表現になったりはしない。(この表現に「永井均」を入れようと「勝手批評」
を入れようとその表現は個人の特別さを言い表すことが出来るだけだが、もちろん独在性
とはこういうことではなかった。)
>『転校生とブラック・ジャック』で言うと,C君がしつこく「同じ種類のことで
>しかない」「特別のものなど存在しない」と主張しているけど,しかし,結局,
>その十分な理由を示せていないのではないか。
それでは独在性ということの「十分な理由」というのは何なのか?それはこれまでやってきたように
「何しろ、世界は現に127からのみ開けているのだから」と(相手に何を言われようと)言い続けるということか。
それなら僕だって「何しろ、世界は現に勝手批評からのみ開けているのだから」と(127さんに何を言われようと)
言い続けるだけだ。(でもこれが「十分な理由」になるとは到底思えない。これじゃ単なる根気比べだ。)
209 :
127:2006/10/17(火) 02:01:22
>>208 細かい疑問点はいくつか思いつくのだが,細かいことよりもまず言いたいことがあるので,
そちらの方を書く。
>それでは独在性ということの「十分な理由」というのは何なのか?それはこれまでやってきたように
>「何しろ、世界は現に127からのみ開けているのだから」と(相手に何を言われようと)言い続けるということか。
「世界は現に127からのみ開けているのだから」と相手に何を言われようと言い続ける,
というのは,いったい何を指して言っているのか?僕がいつそんなことをしたというのか?
>>203で繰り返さないと書いたが,もう一度だけ書く。僕は,127の特別さが明確に語りうる
などと言ったことはない。「読み替え」とは実際のところ何であるのか,「特定の人物から
開けている世界」という考え方との関係がどうなっているのか,「読み替え」によって独在
性が語り得なくなるといわれているが,詳しい理由は何なのか,といったあたりに疑問を
持ったので,それに関して考えられる疑問点などを書いていたのだ。
確かに,「世界は現に127からのみ開けている」という表現を何度も使ってはいる。しかし,
>>176では,「特定の人物から開けている 世界という形で考えた上,現に127から開けている
世界にこだわって,それ以外の 人から開けている世界は可能世界にすぎないという考え方を
貫くなら」と留保をつけて,そのような考え方を貫くことには問題があると書いているし,
>>197では,
>>194の下半分で書いたことをどう説明するかという疑問は残っており,その説明が
できなければ,気分としてはいいとしても,説明として不十分といわざるを得ないという趣旨で
書いている。直近の
>>207は,「世界は現に127からのみ開けている」という 表 現 の意味
などを問題にしたのであって,世界が127から開けているという 主 張 をしたわけではない。
はっきり言って,今までの僕の議論にまともに返答しようとしているのなら,こんなことが
書かれるとは思えない。議論の内容を批判されるのならともかく,何でこんなことが書かれる
のか,と言いたい。
>>209 分った。まずは「読み替え」という表現が誤解を招いているらしい。これは単に「言語」と呼ぶ事にしよう。
(これを「言語ゲーム」と呼んでもいいが現状では更なる誤解を招くだけだろう)
僕らの言語は何の為に用いるのか。当然の事ながら自分が言いたいことを相手に理解させる、或いは
相手が言いたいことを理解する為に用いる。
逆に言うとこうしたコミュニケーションを想定しない言語というのは自己矛盾をきたしている。
「自分は誰とも話したくない」という主張を誰かに話し掛けるようなものだ。
「独在性」ということの主張は基本的にコミュニケーションを拒絶している。他人の「独在性」を
認めるわけにはいかないから。だからこれは言語では表現出来ない。
しかし一方で僕らは言語を介してのみ(この板では文字を通して)理解し得る。
だから「独在性」も言語を通してのみ理解される、というかそれ以外にはあり得ない。
(テレパシーなんてのは駄目だ。それが可能であったとしても哲学ではそれを言語で
表現する必要があるんだから結局は同じだ。)
つまり僕らの議論はもし互いにコミュニケーション可能ならそれは言語であらざるを得ない。
これが散々言ってきた「言語化」とか「読み替え」の意味だ。
僕らの議論がコミュニケーション可能なら、それは僕らが共通に使うツールでなくてはならない。
「独在性」は(その真の意味は)共通性を拒絶している。
質問の「「世界は現に127からのみ開けている」という 表 現 の意味」だが
これも186、200で書いたようにこの表現の意味は単なる(127という)「個人」ということになる。
何故ならこれだけが理解可能な言語だから。そしてこれを他人には理解できない意味(独在性)で使うのなら
それを他人に向かって言っても、僕のようにどこまでも誤解し反対されるだけだろう。
127さんはご立腹のようだが127さんの<独在性>を真っ向から否定する事こそ、この議論を
よく理解できていることになるはずだ。<独在性>は決して同調者を受け入れないから。
211 :
127:2006/10/20(金) 00:22:38
>>210 そのように順を追って書いてもらえれば,だいたいの趣旨は理解できるが,細かいところは
やはりよくわからない。(というか,言わせてもらえば,
>>210に書かれている範囲のことに
限って言えば,僕がそのくらいのことを全く考慮せずに議論をしているのだと思われていた
のなら,心外だ。例えば,「僕が書いているような議論そのものが他人に理解されてしまう,
というところに問題があることは,承知している」といったことを,もっと早くに明示して
おけばよかったかもしれない)
しかし,細かい疑問点ばかり書くのも煩雑だし,細かいところそのものよりは,気分とか
基本的姿勢の違いが問題なのかもしれないので,それに関することを書いてみる。
まず,気分の問題として,というか,「読み替え」とか何とかの問題をとりあえず置いて
おくとした場合には,以下のような文章は,そのとおりだなあ,と思わないだろうか。
(全くそのように思わない人なら,そもそもこういう議論に全く関わらないはずだとは
思うけど,念のため)
「まったく虚心坦懐に,事態をあるがままに捉えることができるならば,独我論ないしはそれに
類する世界の捉えかたは,端的な事実そのものの素直な受容であって,哲学者の作り出した
屁理屈でも深遠な形而上学でもない。なぜなら,私とは他に同じ種類のものが存在しない
まったく独自な存在者であり,全ての他のものはただその私に立ち現れるにすぎない〔中略〕
からである。」(『<私>の存在の比類なさ』p65)
次に,もし,このような文章が,事実として私にしか当てはまらないことが判明したとしたら,
(びっくりするだろうが,それは置くとして)なんだ,素直な捉え方はそのまま事実として
正しかったのか,ということになるのではないか。また,このような文章が,もし,他人には
当てはまらず私にしか当てはまらないと言えたとしたら,それは,素直な捉え方をそのまま
言葉で表現できたのであって,それはそれでいい,ということになるのではないか。
212 :
127:2006/10/20(金) 00:28:24
そして,そこまで同意してもらえたとしたら,私と他人とは異なっていること,それを言語で
言い表すことができることの方が本来のことであって,私と他人とに同じ(種類の)ことが
当てはまることとか,私と他人の違いを言語で言い表すことができないということの方が,
本来のことではなく,説明を要することになるのではないか。
僕は,そのような姿勢で,「読み替え」という議論には問題があるのではないか,私の特別さ
を言語で表現できないというのは本当なのか,という観点から,いろいろ書いてみたつもりだ。
仮に,結論的には私の特別さを言語で表現できないのだとしても,その理由は,永井の議論
では,まだはっきりしていないのではないか(僕が理解していないだけかもしれないが),
という方向で議論をしている。
だから,勝手批評氏が,結論はもはやはっきりしており,その上,その理由も(理解できる
人にとっては)十分に明らかだ,という方向で議論しているのであれば(その前に,そもそも,
その手前の気分等に同意してもらえないのなら),多分,いくら議論してみても無駄だろう。
そうだとすると,僕のレスは,少なくとも勝手批評氏に対する応答という形では,特に
事情がない限りこれで中止することにする。
213 :
127:2006/10/20(金) 01:13:32
と思ったのだが,細かい疑問点も一つだけ書くことにした。適切かどうかは不明なので,
別に応答してもらわなくても構わないが,おかしな点をわかりやすく示してもらえるの
なら,答えてほしい。(基本的態度が違うとすると,多分,僕の方で理解できないと
いうことになるだろうけど)
一言で言うと,「他人に理解される(ような言語表現)」,「他人に同意される(ような
言語表現)」,「他人にも同じ(同種の)ことが当てはまる(ような言語表現)」は,
イコールではないのでは,ということ。そのこと自体は当たり前だと言われると思うが,
独在性とか独我論についての議論だと,どうもよくわからない。
(
>>193-197と実質的に同じようなことを書いているつもりだが,あえて極端な
例・表現を書いてみることにする)
まず,勝手批評氏が,「私にだけ心があって,127やその他の他人は,心のある振る舞いを
しているだけのロボットだ」と言ったとする。もちろん僕(127)はそれに同意しないし,
他の誰も同意しないだろうが,だからといって,勝手批評氏の発言自体が他人に理解され
ないとかいうことが,あるだろうか。同意はされないが理解はされる,と考えて,おかしな
ことはあるんだろうか。そして,理解のされ方については,例えば「いや,127にだけ心が
ある」などと理解されるのではなく,文字通りに勝手批評氏のみ心があるという(奇妙な)
発言だと理解されて,何かおかしな点があるだろうか。
214 :
127:2006/10/20(金) 01:14:24
次に,そうだとして,勝手批評氏がいろいろ調べてみたところ,実は,僕(127)を含めて
他人たちは,本当にロボットであったことが判明したとする。(例えば127なんかは,実は,
「独在性」とかの単語を適当にキーボードで打ち出すような操作しかできない,そのへんの
工場で作れるようなロボットに過ぎなかったのだ。)さて,そうなった場合,その状況や,
勝手批評氏の最初の発言内容に,なにか問題はあるだろうか。勝手批評氏の発言は,実は,
勝手批評氏にしか当てはまっていなかったことになるが,だからといって,その発言が
無意味であったりということが,あるだろうか。
このように考えてみると,独在性に関しても,「他人にも同じ(種類の)ことが当てはまる」
とか「他人も『僕なら,僕の方が特別だという意味に理解せざるを得ない』と主張する」とか
が反論として出てくるが,それらがどういう意味で反論になっているのか,決して自明では
ないのではないか。
>>211 127さんが挙げた永井氏の記述前半部は全くその通りだと思う。(もっとも何故「全くその通り」
と言えるのかはこれまたややこしい哲学議論が必要だが)
ところが「なぜなら」以降の後半部についてはそれが「端的な事実そのものの素直な受容」とは
到底言えない。少なくとも永井氏のこの記述を素直に受け取る事は出来ない。それ故
「素直な捉え方をそのまま 言葉で表現できたのであって,それはそれでいい」とは決してならない。
だってここに正真正銘の<私>がいるんだから永井氏(や127さん)の言う<私>なんて
この正真正銘の<私>の中の単なる「立ち現れ」に過ぎないんだから。
永井氏は独我論の二つの賛成の仕方について書いているが、これの正しい応答の仕方は
「いや、世界にただ一つあるのはこの<私>なのだからあなたは端的に間違っている」
というものにならざるを得ない。127さんは当然永井氏の議論を否定しなければならない。
127さんは永井氏の記述を何の疑問も持たずに「自分の事」として「読み替え」て平然としているが
僕にはこんな事不可能だ。(212の記述から見て未だ127さんは「読み替え」の意味を理解していない。
もう既に127さんは永井氏の独在性を127さんの独在性に読み替えてしまっている。僕が言う「読み替え」
は人間が意識的に行う事などではないのだ。)
>>212 >私と他人の違いを言語で言い表すことができないということの方が,
>本来のことではなく,説明を要することになるのではないか。
哲学的にはそうだ。でもこの説明が是非とも必要なわけではない。言語というのは物事を
等し並に扱うからこそ、その用を為すのだから。これに説明など必要無い。「私」とか「あれ」という語で
人々の見解を一致させる事が出来ないのなら言語なんて何の役にも立たない。当然ここでの議論も最初から不可能となる。
(127さんの書き方だと誤解を受けるので付け加えるが、「私と他人」の違いは簡単に表現できる。
だがこれは“哲学的な”意味での「私と他人」の違いを表現出来ない。ここがポイントだ。これは言語には出来ない。)
>>213 >>214 >「私にだけ心があって,127やその他の他人は,心のある振る舞いを
>しているだけのロボットだ」と言ったとする……
この議論の最大の問題点は何が「心」なのか、ということだ。人間をどんなに解剖してみても
どこにも「心」などというものは見つからない。自分自身の体を解剖してみても同じだ。
(脳の動きを外から確認してそれを「心」と呼ぶのか。仮にそうだとしてもこれは見たり、聴いたり、感じたり
ということをする際の脳の動きに過ぎないだろう。)
とすればこの意味では最初から他の人間を心の無いロボットと見なしても問題無いことになる。
とすると「実は他人達は本当にロボットであった」ということが判明するとはどういうことなのか。
判明などしようがないのだ。
これは独在性と平行している問題だから結局議論は元に戻ってくる。<本当に>心がある、とは
どういうことか。それは探求して見つかるものではない。何せ自分の体を解剖しても
見つからないのだから。(永井氏は『<子ども>のための哲学』の中でヒュームの「自分自身の中のどこを
探しても「私」などというものは見つからない」という表現を笑い飛ばしているけど、僕はそれこそ
虚心坦懐にヒュームは表現しただけじゃないかと思う。やり方はまずいかもしれないけど。)
>>213 取りとめも無くもうひとつ。
「僕、勝手批評にだけ心があって、他の人は心の無いロボットみたいな存在だ」という僕の発言を
他人が理解する、というのは実際何を理解した事になるのか。127さんが言うように
僕が奇妙な発言をしただけ、と理解する事はもちろん出来る。でも127さんはこれが間違いだということ
を知っている。だとすると127さんがもし心優しい、真に哲学的な人だとしたら「それは間違いだ。少なくとも
この私には心がある」と指摘してあげるだろう。「言っている事は理解出来る」なんて127さんが言うとしたら
127さんははっきり嘘をついている事になる。僕の冒頭の主張がそんな薄っぺらい同情を得ることなどではなく
本気で言っているのだとしたら、127さんは本気で反論せざるを得ない。
僕は哲学議論を非常に本気で受け取っている。「言っている事は理解出来る」などという大人の対応は
哲学には不向きだと思う。独在性は理解など出来てはいけないのだ。もし僕が最初の発言を本気で言っているのなら
僕は127さんの世界を脅かす事になる。(もちろん独在性の真の意味は、その様な脅かしは不可能であるということ
でもあるのだけど。)
218 :
127:2006/10/20(金) 23:56:32
>>215 >127さんは永井氏の記述を何の疑問も持たずに「自分の事」として「読み替え」て平然としているが
>僕にはこんな事不可能だ。
だから,
>>211には,「気分の問題として,というか,「読み替え」とか何とかの
問題をとりあえず置いておくとした場合には」などと注記しておいたんだが…。
>>217 何で,「同情」だとか「本気」だとか「大人の対応」だとかいう話が出てくるのか?
>>213-214の「同意はしないが理解できる」に,そんな態度みたいな話は全然関係
ないと思うんだが。
何にしても,現状だと,いろんな点で食い違いが多すぎるらしく,何と言ったら
いいのかもわからない。
(あえて勝手な感想のみ言わせてもらうと,勝手批評氏は,「言語というのは
物事を等し並に扱うからこそ、その用を為す」とか「“哲学的な”意味での
「私と他人」の違いを表現出来ない」いったあたりの結論を固定してしまって,
それに反するような議論については,否定しにかかっているようにしか見えない)
なので,やはり,もともと思っていたとおり,僕の方からはこのへんで中止
させてもらうことにする。
>>218 何を感情的になっているのかよく分らない。永井氏の記述の前半部は全くその通り、と書いたはず。
でもそれを永井氏(或いは127さん)が言う、ということに賛同できない、ということだ。
という事はこの議論全体は何かが間違っている、ということだ。多分それは永井氏の表現のまずさ
ということに尽きると思う。もちろんそれは或る意味で仕方ない。
議論を中止するのは全然構わないけど、一つだけ問いたい。127さんが取り上げた永井氏の文章を
127さんはどうして受け入れられるのか?独在性を127さんが、そして127さんだけが言うのなら分る
がこれは永井氏の文章だ。どうして永井という127さんの世界の中の立ち現れに過ぎない人の意見を取り上げるのか。
それをおかしいと思わないのは著しい哲学的センスの欠如だと思う。
「同情」だとか「本気」だとか「大人の対応」という言葉が癇に障ったらしいが、
永井氏の議論に対する「気分」を求めたのは127さんだ。当然、永井氏の議論をきっちり追ったら
「気分」や「同情」や「本気」や「大人の対応」という事はまるで関係無く独在性の議論を
否定せざるを得ない。それが独在性ということを極限まで問い詰めていった結論だ。
(127さんの嫌いな「本気」という語を使えば、ここまで批判的になれるのは僕の本気さの故であり
永井氏の文章に「気分的」同意を求める127さんには本気さが足りない。)
はっきり言って言語ゲームやらの議論以前に永井氏の独在性の議論すら127さんは理解していないのでは
ないかと疑わざるを得ない。これが最後でいいから永井氏の独在性の議論を何故受け入れられるのかの問い
だけは答えて欲しい。(「気分」と答えてしまう前の論理を)
だって「虚心坦懐」に言って“永井氏の”独在性の主張は間違っているではないですか??
220 :
127:2006/10/23(月) 00:52:43
>>219 >127さんが取り上げた永井氏の文章を
>127さんはどうして受け入れられるのか?独在性を127さんが、そして127さんだけが言うのなら分る
>がこれは永井氏の文章だ。どうして永井という127さんの世界の中の立ち現れに過ぎない人の意見を取り上げるのか。
この点にだけ答えると,現に世界が127から開けていることにつき,どう考えるかに
ついて,永井の議論が役に立つからだ。もちろん,そのためには,永井の議論を,
現に世界が永井から開けているということについてではなく,127から開けていることに
ついての議論として読む必要がある。そこで「読み替え」が起こっているのは承知して
いるが,しかし,それだからといって,現に世界が127から開けていることが変わったりは
しない。そのような種類のことを(最初に?)言い出したのが永井だからといって,
現に世界が127から開けているという現実が,消えてなくなったり,あるいは世界が
永井から開けていることになったり,さらに全ての人から平等に開けたり(?)する
わけでもない。むしろ,僕から見れば,永井も,127から開けている世界にいる他人の
一人に過ぎない,と言わざるを得ない。
このように,現に世界が127から開けている,ということがあくまで出発点になる
のだから,そこから,そのことは語り得ないとか,同じ種類のことが誰にでも当て
はまるとかいう点について,さらに疑問点を挙げることはできないか,という方向で
考えてみたのだが,勝手批評氏とは前提が全然違っているらしく,噛み合った議論が
できそうにない,と思ったので,中止させてもらうことにした。多分,勝手批評氏は,
このような方向で考えること自体をしないのだろう。
>>220 そいつはおかしい。だって永井氏の議論には127さんの話なんてどこにも書いてないんだから。
どうしてそれが127さんのために役立つ事が分ったのか?
「現に世界が127から開けている,ということがあくまで出発点になるのだから」
などということをこの“僕”が認めるはずは無いんだから「前提が全然違う」ことになるのは
当たり前だろう。これを認める人は誰も居ないし、もし居たとしたらそれは恐ろしく奇妙な人物だろう。
まさか127さんは「その通り、世界はまさしくあなたからのみ開けています」と僕が言うと思っているのか?
127さんの言う事を認めたら僕は127さんの世界の中の単なる「立ち現れ」にされちゃう。
127さんが見たり聞いたりすることは127さんだけが見たり聞いたりするのだ、という事は間違いなく正しい。
そしてこれだけが127さんが言えることなのだ。だって世界には少なくともこの“僕”が居て
世界というやつは127さんだけがその所有権を持っているわけじゃあないんだから。
127さんはあくまで127さんの視界を出ていない。「どうしても出る事が出来ない」ということを
<独在性>と呼ぶのならそれは理解出来る。でも127さんの主張はこういう哲学的なものじゃなくて
素朴な独我論的主張に留まってると思う。それで言いっ放しで勝手に議論を中止しようとするわけだ。
この主張はとにかく他人がその人の独我論に文句を言わなくなれば勝手に勝利宣言出来るんだから。
でもこんなやり方に納得する哲学者なんて居るわけない。
127さんは<独在性>の主張を肯定する人は絶対に居ないので“なければならない”ということ
を理解しているのだろうか?
それを理解しているのなら僕が127さんに反対し続けるというのは正しい態度であるということが
理解できるはずなんだが。(これに対して127さんがたびたび怒り出すというのは全く理解し難い。)
222 :
B:2006/10/24(火) 23:43:32
忙殺されていてあまり議論の過程を読み込めていないのだけど、
個人的には127さんの疑問はもっともだと思う。
ちょっとおかしな表現だけど、僕ら(!)は誰にでも当てはまってしまう普遍的独我論
(たとえば認識論的独我論)をばかばかしいと退けて、思考の駒を<独在性>にまで
進めた。大勢の中のこの私の特別性を問題にしたのだ。
なのに結局、<独在性>も誰にでも当てはまる普遍的なものであったらしく、
再び僕ら(!)は深い森の中に迷い出てしまうことになった。
<独在性>を語ることは、この深い森から抜け出そうとすることに等しいと思う。
ある種の人たちはこの深い森から抜け出られないということが非常に大事と思うらしい。
けれども本当に大事なのは、この森の向こうに、えもいわれぬ奇跡の大地が広がっていることを
僕ら(!)がすでに知ってしまっていることだろう。
だから、<独在性>を語るということが、深い森からの
無限の逸脱運動でなければならないのだ。
くだけた表現を使えば、<独在性>が深い森の中からでられないとしても「だからどうした」
という自信がなければ、<独在性>が深い森の中で消えうせてしまう。
深い森以上に深い確信がなければ、語りえぬものを語ることなぞできないのだ、と私は思う。
223 :
B:2006/10/24(火) 23:58:26
ところで127さんは私の賛同が常軌を逸したものだと思わないでしょうか。
というのも127さんの<独在性>への確信なぞといったものに
私は一ミリたりとも近づけないはずなのに、そういう確信は確かにあるし、
それこそが大事だなどと持ち上げているのですから。
勝手批評さんが徹底的に反対することよって明らかにしようとした<独在性>の
語りえなさが、私と127さんの癒着関係の中にもはっきりと表れていないでしょうか。
私は賛同しようとしているものを賛同することができない。
そして、私は、私が賛同できるようなものに、反対するだろう。
「だからどうした」という自信と「どうしてもだめだ」という絶望が
お互いを支えあっているそういう不思議な光景が見えてこないでしょうか。
>>222-223 Bさん
すばらしい文章です。
泣いてしまいました。
ある種の人たちのうちのわたしが‘その’深い森から抜け出られない
ということを非常に大事と思うらしい、というのはほんとうのことです。
そこにこそ倫理をもとめてしまう、そこに収監されたこの心の習慣で。
‘この’心の………‘この’わたしの………
225 :
B:2006/10/25(水) 23:06:31
ほめてくれてありがとう。
カオルの言いたいことはかなり深いようなのでよくつかめているかわからない。
でももしかしたら、言語ゲームという名の深い森を抜けたところにあるものこそが、
問題なのだから、深い森のなかでの決まり(表現方法など)とかは
そんなに重要ではないんじゃないか、って言いたいのだろうか。
確かにそういう態度もあっていいと思うけど、同時にそういう態度の人と議論することは
かなり困難なんじゃないかとも思うなぁ。
226 :
B:2006/10/25(水) 23:43:59
>>222-223 誰かに読み替えられようが、他の人に語りえなかろうが、この私のこの特別さは
揺るいだりしないという127さんの確信が、<独在性>を語るための足場だと思います。
短くまとめるとこうなるのかな。
227 :
B:2006/10/25(水) 23:52:30
>カオル
>>225は無かったことにしてくれ。
改めてレスするなら、「ほめてくれてありがとう。」
>>226 補足
誰かに読み替えられることでかえって<わたし>の存在に驚く、ということも
ありえるんじゃないかなぁ。127さんの立場なら。
228 :
127:2006/10/26(木) 00:48:55
>>223 >ところで127さんは私の賛同が常軌を逸したものだと思わないでしょうか。
全体の論旨に必ずしも答えているわけではないけど,結論的に言うと,別に常軌を
逸していると思わない。なぜなら,まず,B氏が「127の言うとおりで,世界は
127からのみ開けている」などと主張したら,それは確かに奇妙だけど,B氏は
別に直接そのような主張をしているわけではないと思われる。そして,独在性に
ついての議論(本当に語り得ないのか,語り得ないとしたらどういう理由なのか,
など)自体が全く他人に理解されないなどという理由は,今のところ見当たら
ないと思われる。(もしその理由があったとすると,永井の議論は一言一句全てが
ナンセンスということになると思われる)そうすると,「世界が127から開けて
いる」などという主張ではなく,独在性についての議論自体に賛同者が現れるのは,
別におかしなことではないと思われるので。
独在性の議論についてまず確かに世界はこの<私>から見られるより他は無い、という点で
賛成できる。だから<他人>がこのことについて何を言おうと関係が無い、と言える。
ところがこのことを<他人>に向かって言う、ということは明らかに無意味な事だ。
そもそもこれは「<他人>には関係が無い」ことであったのだから。
だから「独在性についての議論自体に賛同者が現れるのは, 別におかしなことではない」
というのは独在性の議論をそもそも誤解している。
本当に独在性に賛同している人は決して<他人>の独在性の議論を受け入れてはならないのだ。
「何故この人はこの<私>の独在性について明らかな嘘をつくのか」ということでなければならない。
「独在性」と「独在性の議論」を別個に考えることなど出来はしない。そもそも後者は前者から
引き出されたのだから。そして前者に賛同する事は(この<私>以外)他の誰にも出来ない以上、
後者にも賛同する事は出来ないはず。
Bさんにしても127さんにしても最終的には相手の<独在性>“そのもの”については
否定せざるを得ないはず。その様な事は全く不可能である、というのが独在性の本質なんだから。
だとしたらうわべだけの「独在性の議論」の賛同なんて何の意味があるのか。
この“本質的に決して賛同できない”方の<独在性>こそ重要だと言われてきたのだから。
「独在性の議論に賛同する人」というのは単に同じ言語(ゲーム)を使っているだけだ。
そして“本質的に決して賛同できない”<独在性>は言語を超えているはず。
(もし言語を超えていないならまたしても独在性は言語で語れる“本質的でない”独在性
として哲学の中に取り込まれるだけだろう。)
230 :
B:2006/10/26(木) 21:57:14
>127さん
>>228 >独在性についての議論自体に賛同者が現れるのは,別におかしなことではないと思われるので。
??そういう普遍的な<独在性>を簡単に認めるわけにはいかないのではないでしょうか。
>永井の議論は一言一句全てが ナンセンスということになると思われる
私はある意味では永井均の本は一言一句ナンセンスになってしまうと思います。
ここにひとつの驚愕が潜んでいるのではないでしょうか。
<独在性>の語りも、その語りに対する自信もやはりある意味ではナンセンスなのだと思います。
そしてここにも、やはりひとつの驚愕が潜んでいるのではないでしょうか。
231 :
B:2006/10/26(木) 22:16:31
127さんはBから開けている世界を認める。
ということは127さんから開けているその世界は、このBから開けている世界と
同列に位置づけられていいのだろうか。
127さんが同列に位置づけていないと言っても、Bから開けている世界も同じく
同列に位置づけられてはならないものなのだから、やっぱり同列に位置づけられるんじゃないだろうか。
脇からレスすいません。一つ疑問を書かせていただきます。
私はこの「独在性」の問題も、「独在性の問題は語り得ない」ということも、
正直よく理解できないのですが、
例えば誰かが「日本の首都はモスクワだ。」と言ったとします。それを聞いた人は、
「何を間違ったことを言っているんだ? 日本の首都は東京だ!」
と考えるでしょう。
で、誰か(例えば永井均)が「世界は現に永井均を中心に開けている。」と
言ったとします。それを聞いた人(例えばBさん)は、
1.「何を間違ったことを言っているんだ? 世界は現にBを中心に開けているんだ!」
と考えるでしょうか? Bさんにしろ誰にしろ、普通の人なら
2.「そりゃあんたにとってはそうだろうが、俺にとっては違うよ。」
と考えるのでは ないでしょうか。
で、私の疑問は、2.のように考える人は、本当は独在性について理解していない、
というか、独在性について本気で考えていない、と言うべきで、独在性について
理解していて、それについて本気で考えている人なら、即座に(反射的に)1.のように
考えるはずだし、考えなければならない、と言えるのかどうか? ということです。
私の印象では、皆さんはそう言えるというか、そう言わなければならないと
論じられているように思えるのですが、しかし、現実に1.のように考える人が
いるとは思えないのです(無理やり考えようとする、のならわかりますが)。
永井氏だろうとウィトゲンシュタインだろうと、やはり2.のようにしか
考えないと思うのですが、違うのでしょうか?
幼稚な疑問ですいません。見当違いでしたらスルーしてください
上の続きですが、
仮に永井均が「世界は現に永井均を中心に開けている。」と言ったときに、
それを聞いたBさんが(あたかも誰かが「日本の首都は東京だ」と声高に主張した
ときのように)、
「何を当たり前のことを言っているんだ? 世界は永井均を中心に開けているに
決まっているじゃないか!」と答えたら、永井均はどう考えるでしょうか。
1.彼(Bさん)は正しい知識を持ったまともな人だ。
2.彼は気が狂っているか、嘘をついて自分をからかっているか、どちらかだ。
私は、永井氏はどう見ても2.のように考えるとしか思えないのですが、
しかし、そう考えるなら、永井氏は独在性について理解していないか、あるいは
独在性について本気で考えていない、ということになるのでしょうか。
>>232 恐らく独在性の議論を全く知らない人は「世界は現に永井均を中心に開けている。」
という永井氏の議論を全く意味の分らないものと見なすと思う。
次に独在性の議論を中途半端に理解した普通の人の反応は2の「そりゃあんたにとってはそうだろうが、
俺にとっては違うよ。」 ということになる。
次に独在性の議論を良く理解した人の最初の反応は1の「何を間違ったことを言っているんだ?
世界は現に勝手批評を中心に開けているんだ!」 となるだろう。
そして独在性の議論を良く理解した人が自分の先ほどの発言を反省した結果、
「その様な事は<他人>に向かって言うことは意味が無い」と言うことになるだろう。
何故なら最初から独在性にとって<他人>は独在性の中の現れに過ぎないから。
つまり独在性の「主張」は自分に向かって言う独り言の類いだから。
>>233 独我論にしろ独在性にしろ、他人は決して賛成できない“のでなければならない”から
2のような反応になるのは独我論および独在性の議論の本質的な部分と言える。
だから「永井氏は独在性について理解していないか、あるいは
独在性について本気で考えていない」ことにはならない。相手の意見ではなく自分の
独在性から発した他人からの賛同の拒絶だから。
議論を理解してるとか本気で考えてるとか、そういう評価的な態度おかしくね?
分かってるなら問題の所在とか焦点を明確にすればいいのに
いつまで「分かってる」とか「分かってない」とかやってんの?
236 :
考える名無しさん:2006/10/28(土) 17:56:07
>>232 私はこの問題は白黒つけることができない問題なのではないかと思っています。
だから月並みな答えですが、232の例で言えば「1」も正しく、「2」も正しいと
思うのです。
この現にこの私がこの私であるという奇跡に注目するならば、誰がなんと言おうと
「1」は正しい。言語の働きを云々言おうとも、この奇跡は揺るぎません。
でも一方でそれを言葉で表したとき「2」のような形を取ってしまうことは
避けられようもないと思うのです。
237 :
B:2006/10/28(土) 17:58:05
>>236 あげてしまいました。
続きはまた書きます。
238 :
232:2006/10/29(日) 11:42:51
皆さんレスありがとうございます。
>>234 それだと、矛盾したことにならないでしょうか。
つまり、他人(たとえば永井均)が
1.「世界は現に永井均を中心に開けている」と言ったときは「間違いだ」と
考えなければならず(
>>232)
2.「世界は現に永井均を中心には開けていない」と言ったときも、また
「間違いだ」と考えなければならない(
>>233)ことになるような気がするのですが。
論理的には1.と2.はどちらかが真でなければならないように思えるのですが、
それが両方間違いだ考えるというのは、矛盾ではないのでしょうか。
あるいは「他人が独在性について語った言葉(世界は〜を中心に開けている、
又は開けていない)は、〜に何が入ろうとすべて間違いである」ということでしょうか。
あるいは「他人が独在性について語った言葉(世界は〜を中心に開けている、
又は開けていない)は、〜に何が入ろうとすべて無意味である」ということでしょうか。
無意味だから、理解できてはならないし、真偽の判定もできてはならない、と。
「独在性については語り得ない」ということは、つまり「独在性については
聞き得ない」ということでもあるのでしょうか。しかし、自分が語る語らないは
自由になっても、他人が語る語らないは他人次第です。他人が語ったら、否応なく
聞かざるを得ません。たとえそれが「独り言」であっても、聞こえてしまえば、
それについて何らかの判断を下さざるを得ません。現に、このスレでも皆さん
自由に語って(聞かされて)、それに対して応答しています。相手の発語を
「無意味だ」と考えているようには思えません。そもそも、同じ「独在性」
「世界は〜を中心に」という言葉なのに、自分が発語したときだけ意味がわかり、
他人が発語すると意味がわからなくなる、というのは、どういうことだか
よくわからないのです。
>>236 そうすると、やはりこの問題は(発語主体が自分であるか他人であるかにかかわらず)
「形式論理や言語によっては表現することができない」ということなのでしょうか。
>>238 >2.「世界は現に永井均を中心には開けていない」
という表現がおかしいと思う。あくまで“自分の”独在性を主張することが独在性の
重要なポイントで“他人の”独在性の否定はそのおまけみたいなものだから。
そもそも「“他人の”独在性」などというものは独在性の主張を自ら否定している。
>しかし、自分が語る語らないは
>自由になっても、他人が語る語らないは他人次第です。他人が語ったら、否応なく
>聞かざるを得ません。たとえそれが「独り言」であっても、聞こえてしまえば、
>それについて何らかの判断を下さざるを得ません。現に、このスレでも皆さん
>自由に語って(聞かされて)、それに対して応答しています。相手の発語を
>「無意味だ」と考えているようには思えません。
それはこれ(232さんの記述による僕らの応答の応酬)が言語(ゲーム)だから、ということに尽きる。
独在性についての議論を僕らが「無意味だ」と考えているように見えないのはそれが言語だから、
僕らみんなに通じるものとして使っているから、というのが端的な答え。
ところが独在性の真の“主張”は並び立つものが無い<私>の主張だから決して言語では
表現出来ないことになる、というわけ。またそれが表現できてしまったらその真の主張
からは外れている事になる。これは矛盾と言うよりか最初から独在性の主張に無理が
あったのだ。これはコーヒーの香りを言葉で記述する(哲学探究)のと同じで言語の限界を
超えた仕事を言語に与えようとしている。
Bさんや127さんは言語の仕事を楽観的に多く見積もっているように見える。
と言って彼らの主張に意味があるようにする為には彼らが言いたいような事柄(独在性)
は僕ら他人達が理解できるようなものに収まらなければならない。
(哲学的に重要なのはむしろ「どうしても収まってしまう」ことにあるだろうけど)
240 :
127:2006/10/30(月) 01:05:28
>>230-231 どうも,何が指摘されているのかよくわからない。
>>228で書いたことを多少詳しく言い直すと,独在性について語り得ないとされる
理由として,独在性についていろいろ議論してみると,なぜか,いつでも誰にでも
当てはまる議論にしかならなかったり,この私だけの特別さを語ったつもりが
多くの他人に賛同されることになってしまったり,ということが挙げられている。
(それが本当に理由になっているのかどうかについて,個人的な疑問があったので
今まで書いてきたのだけど,それは置いておく。)
ということは,すなわち,独在性についての議論が,ある意味では誰にでも
理解される議論になっている,ということではないか。「独在性はこれこれこう
いうものだ」「いや,それでは不適切で,これこれこういうものと捉えるべきだ」
「独在性はこれこれこういう理由で語り得ない」「そのような理由は不十分では
ないか」というような議論を,することができる,ということではないか。
>>228は,単に,そのことを指摘しただけのつもりだった。
もし,(B氏の意図自体とは離れると思うけど)「現に世界が127から開けている」
といったことを主張することだけでなく,独在性についての議論自体が他人に理解
されたり賛同されたりすることがないとしたら,独在性は語り得ないということの
主要な理由がなくなってしまうのではないか?「独在性はこれこれこういう理由で
語り得ない」といった議論までが,他人に理解されないのだとしたら,果たして
独在性はどういう理由で語り得ないということになるのか?
そのように考えてみると,少なくとも今のところ,独在性についての議論までが
他人に理解されないと考える理由は思い当たらないのだけど。
241 :
127:2006/10/30(月) 01:17:08
あと,これはB氏の指摘自体とは全然関係なくなってしまうけど,「独在性についての
議論が全く他人に理解されないなどという理由があったとすると,永井の議論は一言
一句全てがナンセンスと思われる」というのは撤回する。他人には理解されないが,
ナンセンスではなく意味がある,という可能性(つまり私的言語の可能性,ということ
になるか?)があるかもしれないので。
127さんには無視されているようだが勝手に書く。
>>240 もちろん独在性の議論は幾らでも「語り得る」のだ。だから他人達にも幾らでも理解されるのだ。
“だから”独在性は「語り得ない」のだ。他人達に幾らでも語れることは独在性の唯一性を語れていないから。
独在性の議論に賛同できるかどうかなどということは独在性とは全く無縁だ。
独在性の議論に賛同できたところで相手の“独在性そのもの”に賛同できるわけではないから。
(127さん、これは認めざるを得ないんじゃないですか?そしてこの賛同されない
“独在性そのもの”の方が重要だとしてこれまで議論してきたのではないですか?)
他者の独在性に賛同すればするほど、賛同できないことのアポリアにぶつかります。
そこにこそ、ほんとうの賛同が、他者にたいする祈りがあるのだと、わたしは思います。
祈れないものへの祈りは、神への祈りなのです。その態度が倫理ではないでしょうか。
存在しえない祈り、絶望への祈りが、絶望という最後の希望が、独在性の議論なのです。
それは〈魂〉に対する態度であり、その希望がかなえられたとき、それは消滅するのです。
244 :
B:2006/11/01(水) 14:38:53
>>238 ええ、そうなるんじゃないでしょうか。
>>240 >127さん
私は<独在性>は開かれていないと思います。
<独在性>は、各々が各々に持っている唯一さとは一線を画すものです。
他の多くの人たちも話せるようなもの、あるいは他の多くの人たちも賛同できるようなものは
各々が各々に持っている唯一さに過ぎません。
しかしわれわれの問題にしている(こういう表現すらすでに矛盾しているが)
<独在性>は各々の持つ唯一さを越えたこの私の、この特別さです。
各々が持つ唯一さとは、この場合転落した<独在性>であり、<<単独性>>と呼ばれて
本来の決して語りえない<独在性>とは違うものであるということを
押さえておかねば混乱してしまうと思います。
>>222-223の「私は賛同しようとしているものを賛同することができない。
そして、私は、私が賛同できるようなものに、反対するだろう。 」という部分は
<独在性>が<<単独性>>に転落するこの構造を念頭においています。
245 :
127:2006/11/04(土) 10:11:03
>>242 何と応答すべきかいろいろ考えてみて,結局,うまくいかなさそうに思われるけど,
多少書いてみる。まず,おおまかな目的として(繰り返しになるが),僕は,独在性は
本当に語り得ないのか,語り得ないとしてその理由は何なのか,他人に理解されるとか
読み替えられるといったことは本当に十分な理由になるのか,といったことに疑問を
持ったので,それを議論しようとしていた。だから,勝手批評氏がそのような疑問を
持たない,あるいは,今まで勝手批評氏が書いてきたようなことで十分な説明がなさ
れている,と考えているのであれば,議論を噛み合わせようがないと思われる。
それから,多少細かい点としては,僕の疑問は,「特定の人物から開けている世界」
という考え方を使った永井の議論についてのものという部分が大きい。これに対して,
勝手批評氏は,
>>200,
>>206,
>>221あたりをみると,そのような考え方自体を否定
しているか,そうでないとしても,僕とは全然違う理解の仕方をしていると思われる。
そうすると,おおまかな目的だけでなく細かい考え方としても,今のところ噛み合わ
せる方法が見当たらない。
246 :
127:2006/11/04(土) 10:53:39
「特定の人物から開けている世界」 という考え方に関連して,
>>193-197,
>>204 あたりで書いたことに付け加えると,この考え方を持ち出す前の永井の議論と,
その後の永井の議論は,けっこう内容が変わってきているのではないか,という
疑問がある。(極端に言うと,(それほど明確に根拠を示せるまでにはなって
いないけど)古い論文に出てくる「読み替え」とか「独在性と単独性」とかは,
過渡期の議論というようなもので,「特定の人物から開けている世界」という
考え方が出てきた以降は,あまり意味がなくなったり,そのままでは使えなく
なってしまっているのではないか,という疑問が個人的にはある。)
この点について多少書いてみると,以前の議論では,「客観的世界が一つあり,そこに
多数の人間がいて,それぞれ意識を持っており,中には独我論的なことを言い出す人
もいる,その中で私の特別さをどう言えばよいか」というような議論をしているように
見える。つまり,世界は一つであること,同種の人間が多数いることを前提にして,
その中で私という特別なものについて語る,という議論に見える(永井が必ずしもそう
明言しているわけではないと思われるけど,そう見える。)
このような前提だと,独我論とか独在性とかを言う人に対して,他の人が「それは誰に
でも当てはまることに過ぎない」とか,「いや,それが当てはまるのは私の方だ」とか
反論することも,当然だと思われる。
247 :
127:2006/11/04(土) 10:59:18
これに対して,「特定の人物から開けている世界」という考え方によると,そもそも,
客観的な世界が一つある,ということにはならない。それ以上に,例えばAから開けて
いる世界では,Aはその世界を開いているという特別さを持っていることになり,その
点で,その世界にいる他人(B,C,D…)と同種であることを前提にすることには
ならない。もちろん,Bから開けている世界では,Bがその世界を開いているという
特別さを持っており,A,C,D…と同種であることを前提にすることにはならない,
というような形では,同種のことが誰にでも当てはまることになってくるのだが,それは
別の世界の話になるのであって,一つの世界の中では,その世界を開いている人のみ
が特別さを持っていることになる。
このように考えることが成り立つのだとすれば,Aから開けている世界において,Aが
「世界が私から開けているという点で,私は特別だ」と言った場合,Bが「それは誰に
でも当てはまることに過ぎない」と反論することは,当然成り立つとは言えない。また,
Bが「いや,私が…」と反論しようとすれば,それはBから開けている別の世界で成り
立つことだ,という話になってくる。
これは,以前の議論とは,大きな違いになってくるのではないか。客観的な一つの世界の
中で,同種の人間同士が互いに独我論合戦(?)をやっている場合の解決方法と同様の
方法によっては,解決できない問題になってくるのではないか。
248 :
127:2006/11/04(土) 11:25:16
そうすると,「特定の人物から開けている世界」という考え方を取った上で,独在性が
語り得ないとされる理由は,少なくとも僕にとっては,明らかではないと思われる。
また,永井も,「現実」(『転校生とブラック・ジャック』)とか「開闢」(『私・
今・そして神』)などという新たな議論をしているのではないかと思われる。
これに対して,勝手批評氏は,特に
>>221の3,4段落あたりからして,以前の議論(客観的
世界が一つあり,同種の人間が多数いることを前提とした議論)への対応にとどまっている
ように思われる。
僕と勝手批評氏の議論が噛み合わないのは,このような理由によるのではないかと思って
いる。そうだとすると,前提とする考え方の違いがかなり大きいので,労多くして功少なし
という結果にしかならないのではないか。
一言でまとめると,僕も,独在性についての議論が他人との間で成り立つ(らしい)こと
からして,独在性は結論的には語り得ないのだろうか,と思ってはいる。しかし,「特定の
人物から開けている世界」,その他の永井の最近の議論を踏まえると,その結論に至るまで
には,まだいろいろ議論がありうるのではないか,ということ。もし,勝手批評氏が,独在性
が語り得ないことについてさらなる議論など必要ない,と考えており,かつ,永井の最近の
議論を特に参照しないのだとすると,僕から応答することにはあまり意味がないと思われる。
249 :
127:2006/11/04(土) 11:49:07
>>244 どうも,B氏との間でも,何か齟齬があるように思われるけど,今のところどのような
点に齟齬があるのかよくわからない。B氏の論旨自体と噛み合うかどうかはわからない
けど,独在性と単独性といった議論が,永井の最近の議論にそのまま使えるのかという
疑問は,
>>246-247に書いてみた。
>>247 >Aから開けている世界において,Aが
>「世界が私から開けているという点で,私は特別だ」と言った場合,Bが「それは誰に
>でも当てはまることに過ぎない」と反論することは,当然成り立つとは言えない。また,
>Bが「いや,私が…」と反論しようとすれば,それはBから開けている別の世界で成り
>立つことだ,という話になってくる。
これ、単独性の話でしょう。単独性についてはまさしく議論不可能な、しかしあまりにも当然の
話に過ぎないと思う。しかしこの場合にも「世界が私から開けているという点で,私は特別だ」
と言う時の<特別さ>は「私から開けている世界」に閉じ込められてしまって他人に主張する事は不可能だ。
127さんの言う<特別さ>は賛成も反対も出来ない。(というのが
>>247での127さん自身の主旨だから)
>>248 永井氏の最近の議論がどのようなものであれ、独在性については初期の段階から永井氏の見解は
変っていないと思う。即ち独在性は普通の意味では語る事が出来ない、という議論を毎回行っている
と見なければならない。
127さんは結局、単独性の話をしているんだと思う。でもこれは独在性の議論をするということがどういうこと
なのかについてのメタ議論であって、この時点で「客観的な一つの世界」は前提されている。
しかしもし127さんの言うようにAさん、Bさん、Cさん……がそれぞれ別の世界ということにしても
それらはただ単に世界A、世界B、世界C……となるだけに過ぎない。それぞれが完全に別個で
不干渉なら確かにその通りということになる。ところが127さんに対して僕のように干渉してくる人物(世界)
について「別の世界の事柄だから」と無視を決め込むことが出来るだろうか。
別の世界は頻繁に私の世界に干渉してくるのだから。それなら「個人」を「世界」という
大袈裟な表現に変えたところで何の意味があるのか。
「別の世界」ということが文字通りであるとしたら僕は127さんの世界(の特別さ)については
まさしく別の世界の事柄とならざるを得ない。当然賛成も反対も意味を為すまい。
(だから議論が噛み合うも噛み合わないも無いのだ)
251 :
127:2006/11/05(日) 23:23:37
>>200-206あたりにも似たような話が出て来たが,永井が最近議論している「世界」が,
「個人」を大げさな表現に変えたに過ぎないなどと解釈されているのなら,もはや
こちらとしてはどうしようもない。永井の議論のどこがそう読めるのか,僕には見当も
つかない,と言うしかない。
別に感情的になっているつもりもないし勝手批評氏に対して悪意があるわけでもなく,
正直に言って,勝手批評氏が永井の議論を(独在性が語り得ないという結論と,それに
近いごく一部を除いて)どう理解しているのかも,何を論じようとしているのかも,
僕には全然分からないとしか言いようがない。なので,前に書いたとおり,特に事情が
ない限り,僕からは打ち切らせてもらう。
スレ内の他の人との関係では,生産的でないやりとりを長く続ける結果になってしまった
ことを,申し訳なく思っている。
>>251 いや、勝手に打ち切られては困る。ならその『永井が最近議論している「世界」』という
やつを説明してもらわなければ。(「<私><今>そして神」からの議論か)
それから127さんが言っているのは単独性ということでいいのか。否定しないのなら
そう受け取ることにするし、これまでの発言だとそういうことなんだろう。
もう一つ、127さんは自分では独在性についてどういうスタンスを取っているのかちっとも
はっきりしない。独在性について語り得ると思っているのか、語り得ないと思っているのか。
これまでの議論ではどうやら語り得ない方になんとなく賛成しているように見えるが
「読み替え」の議論は否定しておいて、自分では説得力のある説を何ら出していない。
「だって世界はこの私から開けている」の一点張りだ。その“この私”が誰なのかを言えないっていうのに。
127さんには“この私”が誰なのかを言えるのか。しかしそれはもはや「127」という個人では
あり得ないはずなのだ。それを指し示す事が出来ないんだから。
253 :
127:2006/11/07(火) 00:17:30
>>252 >『永井が最近議論している「世界」』という
>やつを説明してもらわなければ。(「<私><今>そして神」からの議論か)
>>204で引用,指摘したとおりだ。付け加えるなら,『転校生とブラック・ジャック』
や『私・今・そして神』では全体的に出てきていると思われるが,一か所引用すると,
(同じ世界が連続して存在しているといえるための条件と同じ私が連続して存在して
いるといえるための条件が一体をなしているとした上)「一体をなしているから,
「我思うゆえに我あり」という原理だけから客観的世界の存在が証明できる。なぜ
なら,意識に与えられたまとまりのない多様なものが,私の側が与える条件に
従ってまとめられることが,すなわち客観的世界を構成する(=客観的世界が
成立する)ことだからである。だから,意識の一定のまとまりだけで(そして
それだけが)客観的世界を成立させることができる。」(『私・今・そして神』p109)
あたりに,特徴が明確に現れていると思われる。少なくとも「個人を大げさに表現」など
という解釈に対する限度では,これ以上説明が必要とは思われないし,僕が説明など
するよりは永井の文章自体を検討すべきだろう。
>127さんは自分では独在性についてどういうスタンスを取っているのかちっとも
>はっきりしない。独在性について語り得ると思っているのか、語り得ないと思っているのか。
僕が今まで議論してきた目的は,
>>245,
>>248に書いたとおりだ。現状で付け加える
ことは特にない。
254 :
127:2006/11/07(火) 00:36:43
>>252の他の部分については,またしても「「だって世界はこの私から開けている」の一点
張りだ。」などと書いてあるところからして(
>>209),僕が何をどう疑問に思って議論を
しているのかが,勝手批評氏には全然理解されていないと思うしかない。
だから,今後,僕の疑問をより説得力を持ってまとめることができた場合には,また書く
かもしれないが,現状で勝手批評氏に対する応答を続けるつもりはない。
>>204には「世界を開く人が違えばそれは別の世界である」とある。
しかしこれでは何も言ったことにならない。「別の世界」とはどういうことか?
次から次へ疑問が湧いてくる。それでは今まで127さんは「127の世界」の事を語ってきた
わけなのか。さてそれはこの「勝手批評の世界」と何の関係があるのか?一体他の世界に働きかけ
ができるのか?全く働きかけが出来ないとしたらやはり他の世界にその事が伝わるはずも無い。
そして働きかけが出来るとしたら一つの客観的世界の中での個人同士が互いに働きかけ出来るのと
どんな違いがあるのか?127さんは『「世界」というのは「個人」ということの大袈裟な表現」』という
見解に反対しているのだからこれに明確に答えなければならない。
256 :
情報:2006/11/14(火) 23:10:11
永井は、千葉大学をやめて、来年4月から、日本大学(文理学部)に移籍します。
一般的に大学教員が他大学に移る場合、その先生が指導・担当している
大学院生はどうなるの?
見捨てられてしまうわけ?
258 :
B:2006/11/17(金) 23:58:42
>>256 へぇ、そうなんですか。
でも何でなんだろう。
前言撤回、カオル復帰します。
(とは言っても、書き込む時間がないので書けないけど)
>Bさん
いまさらですけど、どうしてBさんは勝手批評さんと議論しないのでしょうか。
不満です。
勝手批評さんが、永井のまちがいを指摘している部分について
「見解の相違」というのは、哲学徒として、どうなのかなと思います。
まちがいがまちがいであってはいけないのでしょうか。
そんなことで永井の議論の価値は落ちたりしません。
>>99の勝手批評さんの指摘は、永井の私的言語論の根幹にかかわる
問題点です。まちがいじゃないのなら、説得的な意見が聞きたいです。
永井の話しは、人格化および身体化させた魂の想定によらないかぎり
無理があると思います。逆に、そういうものの前提を疑ってしまいます。
>勝手批評さん
あなたの問題提起は、いつも考えるきっかけをくれます。ありがとう。
あなたの意見を批判したり反論することが、お礼になるのだと思うけど
それができなくて、貰うだけで申し訳ないと思っています。
また、何か問題提起してもらえることを期待しています。
260 :
B:2006/11/25(土) 14:57:17
>カオル
すごく正直に言えば勝手批評さんがしていることは
永井均を批判するためだけの批判だと思っている。
だから「勝手」批評なのだろうけど。
ほとんどのことにはきちんと反論しているはず。
もう一度読んでみてくれ。
261 :
B:2006/11/25(土) 15:17:32
>>260 僕の議論はあくまで素朴な哲学的疑問から生じてる。「だっておかしいじゃないか」という。
僕の批判はカントの言う意味での批判である、とどこかで書いたと思う。
「批判するためだけの批判」というならBさんのそれは「擁護するためだけの擁護」ではないのか。
その言われようだと批判する事自体が間違っているかのようだけど、僕の疑問、批判は
非常に素朴なものに過ぎない。(ほじくり返すようだが僕の疑問は永井氏の『甲虫の比喩』の解釈
が間違っているのではないか、という所にある。永井氏の解釈が正しいのなら永井氏の
『甲虫の比喩』に対する批判は完全に正しい。だがそもそも解釈がポイントを外れているのなら
批判は(カント的に)有効ではないということになる。)
127さんが255での僕の問いから逃げ出してしまった為(もっともこれは或る意味で仕方ないこと、
そもそも独在性の議論はこのようにならざるを得ない)新たな疑問を呈する事にする。
「私・今そして神」132p-133pに 過去 ━ 現在 ━ 未来 のそれぞれの下にもうひとつ
同じ図式があり、またそれぞれにまた同じ図式がある、というものがある。
でも<今>の議論はこの様な図式がそもそも不可能である、ということなのでなければならないのではないか?
これを語ってしまう、ということはまたしても<独在性>と同じ事になってしまうのではないか。
263 :
考える名無しさん:2006/11/25(土) 17:57:03
>
>>99の勝手批評さんの指摘は、永井の私的言語論の根幹にかかわる
問題点です。
根幹にかかわるどころが、
どう見ても100%まとはずれ。単に(ウィトゲンシュタイン的に)素朴なだけで。
そのうえ、甲虫の問題は独我論の「同じ形式を有して」いないんですよ。そこがポイント。
なぜなら「甲虫問題」は、カント的vsウィトゲンシュタイン的、の対立の問題で、
ライプニッツ原理が関与しない問題だから。だから最初から「誰もが理解できる」問題。
その(対立の仕方の)区別こそがあの議論の本質じゃないですか。
>これを語ってしまう、ということはまたしても<独在性>と同じ事になってしまうのではないか。
なってしまうどころか、こちらは最初からただただ<独在性>の議論そのものじゃないですか。
「同じ事」どころか。独在性問題は主題とは無関係なんですよ。
なんだこのスレッド なんだここ
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( ) ( )
(-◎-◎ー .\彡| |ミ/ ー◎-◎-)
( (_ _) 9) (6 (_ _) )
ヽε ヽ∴ | |/ ∴ ノ 3 ノ
\____/、` ̄ ̄ヽ /\_______ノ,,
/ __ ヽノ Y ̄) | ( (/ ヽノ_ |
(___) Y_ノ ヽ/ (___ノ
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| / ) ) ( ( ヽ |
∪ ( \ / ) ∪
\_) (_/
「独在性の問題は語り得ない」という話がありますが、意味がわかりません。
「自分で考えることはできるが、他者には語り得ない」というのは、
矛盾しているように思えます。
「考える」というのは、つまり「言葉を使って自分自身に語りかける」という
ことではないのでしょうか。「語り得ない」というのが「言葉にはできない」
という意味なら、そもそも「考える」ことができないはずです。
また、もし言葉にできるなら、語りかける対象が自分自身であろうと他者であろうと、
違いはないと思います。というより、語りかける対象である限り、自分自身であっても
「他者」です。独在性の問題を考えながら、思考内容を紙に(テープでも)記録して、
後から読む(聞く)場合を考えれば、わかります。永井さんでもウィトゲンシュタイン
でも、自分の本を読み返すでしょう。自分で自分の書き込みを読むのでも同じです。
これはつまり、過去の自分が現在の自分という「他者」に語りかけている、または
現在の自分が過去の自分という「他者」の語りを聞いている、ということです。
これも不可能だ、というのなら、要するに考えることが不可能だ、という意味だとしか
思えません。(永井さんは絵日記が恐ろしい、とか言っていました。意味がよく
わからないのですが、このことと関係があるのでしょうか。)
このように、独在性の問題(であれ何であれ)は「考えることができない」か
「語ることもできる」か、どちらかだと思うのですが、違うのでしょうか。
>>263 ちょっと何を言っているのか分らない。「てにをは」がめちゃくちゃ。「なぜなら」
「だから」という文の繋がりがよく見えない。ポイントを一つに絞って欲しい。
(「100%的外れ」とされているのは99の議論の事か?それすらよく分らない。)
>>264 まず独在性に関する永井氏の議論を読んでそれを「理解」するとはどういうことか、
ということについて自分でよく考えてみないことには始まらない。あなたの文章
から察するにそもそも独在性についてよく分っていないように思える。
267 :
考える名無しさん:2006/11/25(土) 20:55:31
>>265 「独在性の問題は語り得ない」などといっている人は誰もいません。
「語り得ない」のは現に存在するこの独在性そのものだけです(ほら、今、語りえていないでしょ?)
というふうに語りえてしまう。(というふうに「独在性の問題」は、どこまでも語り得てしまうのです)。
自分自身に語りかけるときも基本は同じ。このような仕方で、どこまでも語り得て「しまう」のです。
それが問題のイロハです。ここから長く複雑な問題がスタートしますが、それはまた別の機会に。
ウィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」の問題は、この独在性の問題とはまた別ですが、
こちらのほうは、最初から「思考可能性」の問題と、明示的かつ本質的に絡んでいます。
そして、もちろん、その語り得ぬことについては、彼もまた語っていないし、もちろん
考えてもいません。だって不可能なのですから、あたりまえのことでしょ?
268 :
263:2006/11/25(土) 21:31:29
>>266 「100%的外れ」とされているのは99の議論の事です。
「なぜなら」「だから」という文の繋がりは自分で考えてください。考えれば、わかる
と思います。ポイントは、私的言語問題の位置づけは、カント原理vsウィトゲンシュタイン
原理という対立にある、ということです。だから、ライプニッツ原理とは独立の問題なので、
独在性の問題と絡んでこないのです。ここで考えるべきは、カント的構成の射程の問題に尽
きます(つまり「甲虫」は感性論の時間空間の内部にあるのか、といった・・・)
>>264とあるのは
>>263の誤りと思われるので、簡単に答えます。
独在性は、<私>にも<今>にも成り立つ。もちろん<現実>にも。
そして<現実>と関係する限りでの<神>にも!
>過去━現在━未来のそれぞれの下にもうひとつ同じ図式があり・・・、
という議論は、独在性の議論そのものなのです。
だから、時制にも人称にも同様に妥当することは自明です。
どちらにしても、もちろん、最上列だけがライプニッツ原理で決まる。
「最上」という性質は相対化されないから。それがすなわち独在性です。
以上、簡潔にしか書けないので、わかりにくいかもしれないが、あとは
自分で考えて補ってください。
>>267 >「独在性の問題は語り得ない」などといっている人は誰もいません。
永井さんはそういっているとしか思えませんが、違うのでしょうか。
「現に存在するこの独在性そのもの」でも何でも、意味があるのなら
語り得るはずで、語り得ないのならそれは無意味なので、
何の問題もないとしか思えないのですが。
>このような仕方で、どこまでも語り得て「しまう」のです。
>それが問題のイロハです。ここから長く複雑な問題がスタートしますが、
>それはまた別の機会に。
「しまう」というのは「本来は語り得ないはずなのに」という意味を
含んでいると思いますが、上記の通り、「現に存在するこの独在性そのもの」
でも何でも、なぜ「本来語り得ないはず」なのか、なぜ語り得て「しまう」
などと表現されなければならないのか、どうもさっぱりわかりません。
なぜそれを基点に「長く複雑な問題」など提起しなければならないのか、
理解できません。これは、永井さんだけがこだわっている問題なのか、
哲学史上有名な問題なのか、どちらなのでしょうか。
270 :
考える名無しさん:2006/11/25(土) 22:57:31
>>269 よい子は、悪いおじさんやお兄さんたちがやっている悪い話に首を突っ込まないで、
おしっこをして早く寝なさい!
ああ、264のアンカー
>>264は
>>265の誤り。
>>269 独在性が語り得ない、と言われるのは<独在性>の実質を語る事が出来ない、という意味で
単に字面の上では「独在性」は幾らでも語れるけど、言葉が伝えるものの中にはこの「独在性」
の実質だけは無い。独在性の「<私>だけが本当に存在する」という表現は他人には
他人にとっての「私」と読み替えられざるを得ないから。でもそれは<独在性>が言おうとしていることではない。
それ故「<独在性>(の実質)は語り得ない」と言われるわけ。
>>268 カント原理とかライプニッツ原理とかいうのは永井氏の「私・今そして神」の議論からか。
しかし「ウィトゲンシュタイン原理」なんて初耳だ。263さんの頭の中でだけ理解されてる用語
みたいだけど。「後は自分で考えて補って」と言われても途方に暮れるだけだなあ。
独在性は語りうるが、独在的存在者を特定することは出来ないって誰か書いてたな
273 :
263:2006/11/26(日) 10:52:17
「自分で考える」ことができないようなので、少しだけ敷衍して終わりにします。
「甲虫」はカント的な意味で時空的な「物」でありうるか否か、これが第一のポイント。
もし物だとしたら、その物性を付与するのは「統覚」なのか「ゲーム」なのか、これが第二で、
カント原理vsウィトゲンシュタイン原理です。永井は私的言語問題を統覚の観点から論じた。
そうするともちろん私的言語は可能(どころ必然)になる。それは自明です。そうしておいて、
ライプニッツ原理の観点からの不可能性との対比を演出して見せたわけです。それがわざとで
あることは当人が前書きで明言している。だからここで重要なことは、カント原理といういわ
ば中間的な原理の意味をしっかり理解することにあります。そうでないと、勝手批評氏のよう
に、次々と的外れな批評を紡ぎ出してしまうことになる。あとはさすがに自分で考えて下さい。
>永井さんだけがこだわっている問題なのか、哲学史上有名な問題なのか、どちらなのでしょうか。
そこでもやはり、永井さんによれば哲学史上有名な問題だ、といえるだけです。
タレスが「万物の根源は水」と言ったとき、「この現実世界は水で出来ている」と(いわば諸可能
世界に向けて)語ったのなら、それは最初から現実世界の私的言語で、論理空間全体を通じて「語
り得る」ことではない。「ここ」が「現実」世界であることには、ライプニッツ原理が働いてしま
っているからです。そう考えれば、すべての哲学(存在論的)問題に、この問題が絡んできます。
>>273 まず99の議論が「全く的外れ」というのがよく分らない。カント原理やらウィトゲンシュタイン原理
やらという哲学用語を使わずに99で議論しているのでまずそういう専門用語無しで
以下の議論を理解してもらいたい。
「<私>の存在の比類なさ」13p4行目
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
についてこの人物が「実は痒みを感じている」ということを一体誰が判定するのか。
当然他人は痛みの振る舞いをする人について「彼は痛みを感じている」と見なすし、
それ以外には考えられない。
次にその当人についてだが「それを決定するのは感覚を持つ当人である」と言われ、
「実は痒みを感じている」と仮定されているとすればこの時仮定されているのは
普通の場合の痒みであり、人は体が痒い時にはその部分を掻くということである。
にもかかわらず永井氏の仮定に於いてはこの奇妙な人物は痛みの振る舞いをするのだという。
だが、だとすればどうして「普通の場合の痒み」をこの人物が持っていると仮定できるのか。
体を掻きむしりたがらない「痒み」というのは一体意義を持つだろうか。自分の中でだけ感じる
「痒み」とはどういうことか。
自然な痒みの振る舞いが無いと、そもそも永井氏の思考実験も意義を持つことが出来ない。
そして自然な痒みや痛みの振る舞いに永井氏のような思考実験は割り込む事が出来ない。
(しかも永井氏の想定だとこの人物は痛みの偽装をしているわけではないらしい。
これでは<実は>痒みを持っているという想定はどうやっても証明する事が出来ない。)
275 :
考える名無しさん:2006/11/26(日) 14:28:35
>カント原理やらウィトゲンシュタイン原理
>やらという哲学用語を使わずに99で議論しているのでまずそういう専門用語無しで
「カント原理」や「ライプニッツ原理」は哲学用語というより『私・今・そして神』
の中で永井が便宜的につけた用語だね。
「ウィトゲンシュタイン原理」というのは聞いたことがない。
何の本にでてくるんだろうか。
自分の言葉で説明出来ないやつはほっとけばいい
277 :
263:2006/11/26(日) 17:29:12
>体を掻きむしりたがらない「痒み」というのは一体意義を持つだろうか。
これは私的言語というより、むしろ「クオリアの逆転」という問題で、その後、
「心の哲学」でさかんに議論された問題です。参照:D.チャーマーズ『意識する心』等。
チャ−マーズはこの想定が可能であることをくわしく論しています。もちろん反論もあります。
(参照:S.Somaker,Identity Cause and Mind,CambridgeUP.等)しかし、ここではクオリアを
自然な振る舞いから切断する思考実験をしているのは永井ではなくむしろウィトゲンシュタイン。
永井はその想定に仮に乗って逆の結論を出して見せただけでしょう。
>自然な痒みの振る舞いが無いと、そもそも永井氏の思考実験も意義を持つことが出来ない。
それがつまりウィトゲンシュタイン原理で、カント原理はまさにそれを否定する。クオリアは
ゲームから離れて独立に意味を持ち、そのことが言語ゲームの可能性の基盤を形成するのです。
何が自然な振る舞いで、何が自然でないかも、逆に、そちらから規定されます。
>>277 >これは私的言語というより、むしろ「クオリアの逆転」という問題で
と書かれているがクオリアは「“この私”だけが感じる“この”感覚」という議論で
私的言語はウィトゲンシュタインによって自分の特別な感覚に名前を付けるという形で
導入されたのだから別々の問題ではない。(当然独在性も「世界に唯一存在するこの<私>」
、それ故この<私>が感じたものこそ本当の感覚である、という議論なのだからこれらは
本質的に同じ問題の別の表現である事が見て取れる。)
>それがつまりウィトゲンシュタイン原理で
つまり「ウィトゲンシュタイン原理」なるものは「人間(や動物)の自然な振る舞い」(が根源的である)の事と
理解したがそういうことだろうか。しかしこれがカント原理なるものによって否定される、とは
どういうことか。
カントは人間の認識法に感性と悟性という形式が先験的に付与されているというが、
それにも関わらず「純粋理性批判」の中で「我々の認識が全て経験をもって始まると
いうことは全く疑いが無い」(緒言)とも述べている。
人間の自然な振る舞いはこの根源的な経験のレベルだろう。カントだって僕の99の議論
を完全に受け入れると思うな。だって痒いと感じたらその部分を掻くんだから。これは全く条件反射だ。
(哲学の議論をしている時にはこれに懐疑的な哲学者だって自分も普段は蚊に刺されたら痒くなってその部分を
掻きむしるのだ。このことを認めない哲学者は自分に正直ではないな。)
同じ「クオリアの逆転」なのに、色のケース(赤と緑の逆転)と、
感覚のケース(痛みと痒みの逆転)で、何が違うのだ。
「赤のクオリア」と「赤いという言葉」の関係や
「痛みのクオリア」と「痛いという言葉」の関係は、要するに指示対象と
記号の関係なので、その結びつきは偶然的で任意だが、
「痛みのクオリア」と「叫んだり手を引っ込めたりという反応」の関係や
「痒みのクオリア」と「掻き毟るという反応」の関係は、
自然的な因果関係だから、必然的で任意ではない、というだけのことか。
だから、前者は逆転していてもわからないが、後者は逆転していれば
他人にもわかるはずだ、ということか。(色にもそういう自然的な因果関係が
あれば、逆転が他人にもわかるはずだ、ということになるのか。)
それなら、あまり大した問題ではないと思うが。
それとも、これが「言語ゲーム」と「言語外の自然(生活関係?)」の対立なのか。
280 :
263:2006/11/26(日) 21:49:06
>別々の問題ではない。
もちろんです。現代哲学ではクオリア反転問題として論じられているという意味で、
最低限の参考文献を挙げておきました。もし読んでないならぜひ読んでください。
別々の問題ではないからこそ、これらを踏まえていないと議論にならないのです。
>独在性も「世界に唯一存在するこの<私>」、それ故この<私>が感じたものこそ本当の感覚である、
>という議論なのだからこれらは本質的に同じ問題の別の表現である・・・
とんでもない! クオリアは個人としての資格のおける誰もが持つものです。“この私”だけが感じるの
ではありません。独在性の問題はクオリアの問題とは独立なのです。これはきわめて重要な点で、それがわ
からないと、カント原理とライプニッツ原理の最も重要な対立が掴めないことになります。
>人間の自然な振る舞いはこの根源的な経験のレベルだろう。
とんでもない! 「根源的な経験」は感覚の多様に、ここでの言い方ではクオリアにあたります。
カント的な「経験」に外的な「振る舞い」を含めてしまったら、後期ウィトゲンシュタインが何を
がんばらねばならなかったのか、さっぱりわからなくなりますよ。
>哲学の議論をしている時にはこれに懐疑的な哲学者だって自分も普段は蚊に刺されたら痒くなって
今は哲学の議論をしていて、しかも懐疑的な想定が「可能」かどうかを問題にしているのですから、
普段の行動を持ち出すのは的外れです。また、そうである以上、ここで素朴に「痒くなって」という
語を使ってしまうわけにはいかないのです。逆に、蚊に刺されたら掻く、このことを我々は文法上「痒み」
と呼んでいる、のように語るべきです。そのようにして初めて、箱の中の甲虫を無関与なものとして、刺激
と振る舞いを「短絡」させることができるのです。ここがウィトゲンシュタインの議論のポイントで、ウィ
トゲンシュタイン原理の根幹をなす考え方です。
>>280 >クオリアは個人としての資格のおける誰もが持つものです。“この私”だけが感じるの
>ではありません。
これこそ「とんでもない!」だ。だって「他人のクオリア」なんて最初から問題になるわけない。
なるほど確かに他人の感覚は他人が感じるものだ。だがクオリアは実際に感じる“この”赤色
の感覚、痛みの感覚のことなんだから、それは当然“この”<私>が感じるものなのだ。
クオリアは確かに誰もが持てるようなものかもしれないけど他人のクオリアは全然クオリア
ではない。“この”<私>のクオリアが他人のそれと違うかもしれない、という想定は
ここから来ているのだからそもそも263さんはクオリアの議論を最初から理解していない事になる。
>今は哲学の議論をしていて、しかも懐疑的な想定が「可能」かどうかを問題にしているのですから、
>普段の行動を持ち出すのは的外れです。
いや、そうじゃない。僕は常識を持ち出して哲学を否定しているんじゃない。
「普段の行動」どころの話じゃない。人間の自然な振る舞いというのは
究極的には全く理由の無いもの。もちろん普通「痒いと感じたからその部分を掻いた」
という理由を語る事ができるけど「何故、痒いと感じたからその部分を掻いたのか?」
という更なる問いにはもはや答えが無い。その答えは「とにかく痒いから掻いたのだ」
という理由にならない理由を述べるのがせいぜいだろう。
だから「人間の自然な振る舞い」というのは究極的には理由が無い、という意味で根源的なのだ。
これはそもそも議論そのものが不可能なレベルだ。これを理解しないで「なんたら原理」とやら
の哲学用語めかした言葉を多用して分かったつもりになるなんて「とんでもない!」
282 :
275 :2006/11/26(日) 23:22:15
一般的に使用されているわけではない「なんとか原理」のような用語を使
うばあいは、きちんと定義して使わないと議論を混乱させるだけだと
思う。
それはともかく、勝手批評さんのこだわっているところがいまひとつ
わからない。
永井の
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
を批判しているけれど、
たとえば、これが、
「痛みを感じるべき場面(例えば歯医者に麻酔なしで歯を削られる)に遭遇しながら、
しかし実は軽い痒みを感じている、 ということはつねに可能であり、
それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
という言明なら受け入れられるわけ?
つまり痛がっているリアクションをともないながら、実は痛み以外の
感覚を感じているということはみとめられないけれど、
通常痛みを感じる脈絡で痛みのリアクションをともなわず(痛み以外のリアクションも
なく)、実はかゆみを感じるということは有りうると考えていいわけ?
283 :
考える名無しさん:2006/11/26(日) 23:29:13
そもそも
痛みを感じる「べき」場面
て表現がおかしい
それでも学者かと
284 :
263:2006/11/27(月) 00:14:32
>クオリアは確かに誰もが持てるようなものかもしれないけど他人のクオリアは全然クオリアではない。
>“この”<私>のクオリアが他人のそれと違うかもしれない、という想定はここから来ている・・・
第一文は、前半と後半が矛盾していますよ。第二文で「他人のそれと違うかもしれない」と言う以上、
他人もクオリアを持っていなければならないでしょう? 「全然クオリアではない」なら「他人のそれ」
って何ですか? 自家撞着に陥ってしまっていますよ。
さて、クオリアの逆転という想定は“この”<私>の問題とは関係ないのです。任意の人間Xと人間Yの間に
成立する問題です。ちなみに前述のチャ−マーズは、<私>の問題に当たる方は「指標性」の問題として区
別しています。もう一度言いますが、読んでいなければぜひ読んでください。
>「人間の自然な振る舞い」というのは究極的には理由が無い、という意味で根源的なのだ。・・・
もちろんそうですよ。そんなことは自明ではないですか? しかし、その自然な「振る舞い」を記述するとき、
すでに「痒いと感じたから」を使ってしまったら、クオリアの問題は最初から飛び越されてしまいますよ。
「痒い」は蚊に刺されたこと(刺激)とも掻くこと(振る舞い)とも別に、なぜ「あのような感じ」がするのか、
これがクオリア問題です。「あのような感じ」(=甲虫)をゲームに無関与なものとしてゲームから放逐する
かどうか、これが論点です。自然な振る舞いの根源性は、自明な前提であって、問題と関係ありません。
ところで、「自然な振る舞い」をカントの根源的な経験のレベルとみなすという主張は、反論がないところを
見ると、撤回したとみなしてよろしいですね?
>>282 >通常痛みを感じる脈絡で痛みのリアクションをともなわず(痛み以外のリアクションも
>なく)、実はかゆみを感じるということは有りうると考えていいわけ?
何でこんな結論を出すのかさっぱり理解出来ない。275さんは最初から「痛みの振る舞い=『外形』」
と「痛み(痒み)そのもの=『感覚そのもの』」を分けて考えているが、人間の自然なリアクション
はこのふたつが不可分である、ということだ。だからその人が「痒い」と感じたのなら
「痒みの振る舞い」を全く理由無く行うということ。(だから再三再四述べているように「痛みの振る舞いを
しているが<実は>彼は痒みを感じている」という言い方は、その人が何らかの理由によって痒みを痛みに
偽装している以外にはあり得ない。偽装以外に<実は>などという言い方に意味を持たせることは出来ないから。
もしその人が偽装などしておらず、痒みを感じているのならその部分を反射的に掻くだろう。)
>>284 やはり263さんはそもそもクオリアの意味が分かっていない。というかその最も重要な意味を理解していない
と言える。クオリアとは「感覚質」と訳されるようにそのリアルな質のことだ。即ち、赤色のクオリアとは
他ならぬ“この”私に見える“この”赤い色のことなのだ。
そしてクオリアは他の人も持っていてよいし、また持っているだろう。だが他人に見られた赤色を
僕が見るわけにはいかない。だからこの意味で「他人のクオリア」なんて意味が無い、と書いたのだ。
>ところで、「自然な振る舞い」をカントの根源的な経験のレベルとみなすという主張は、反論がないところを
>見ると、撤回したとみなしてよろしいですね?
カントの書いていることにウィトゲンシュタインの問題を無理やり接木するのは難しいかも
しれない。でもカントがとにかくも最初は経験が必要だ、と述べている事と、根底的であるところの「人々の振る舞い」
は同じものだと結論してもいいと思う。どちらももはやそれ自体は理由の無いものでそれが始まりだから。
(カントの哲学の構想からはズレているからカント自身はそもそもこういう議論を理解しないかも知れないが。)
286 :
考える名無しさん:2006/11/27(月) 03:33:50
実は快感を感じている
なら問題なく成立するんだけどな
287 :
263:2006/11/27(月) 08:43:38
>だが他人に見られた赤色を僕が見るわけにはいかない。
といいたい気持ちはよくわかりますが、その「僕」は一般化されるのですよ。これは永井がしつこく論
じている問題ではないですか。 他人に見られたその赤色は別の他人もまた見られないでしょ? そして、
前者の問題は後者の問題に「読み替え」られる運命にあるのです。だって、あなたの言う「僕」は私には
他人ですから。だからこそ、独在性は語り得ない! そして、読み替えられてもなお、クオリア問題その
ものは残ります。他人Xが見る赤を他人Yが見る赤との異動という問題として。それがすなわち、クオリア
反転の問題。ここには<私>は関与しません。いや、できない! この違いに鋭敏でないと、永井的問題
は把握できない。
>カント自身はそもそもこういう議論を理解しないかも知れないが。
理解はしても、強く否定するでしょう。「振る舞い」は外から見られなければならないが、カントの議
論は主体が一人しかいなくても成立するところがポイントですから。この違いはきわめて大きいのです。
ですから、カント的構成理論には「偽装」なんて概念が入り込む余地がそもそもない。そして、永井の
私的言語論は、そのカント的構成の理論を(後でライプニッツ原理と対比するために)「ことさらに」
適用して見せています。勝手批評氏の振る舞い自然主義が(間違っているのではなく)「まとはずれ」
であるゆえんです。
288 :
263:2006/11/27(月) 08:54:05
誤記訂正:
誤:他人Xが見る赤を他人Yが見る赤との異動
正:他人Xが見る赤と他人Yが見る赤との異動
しかし、永井は「哲学的ゾンビ」がいても何も不思議はないというんだろ。
つまり、普通にしゃべったり泣いたり笑ったり痛がったり体を掻いたりして
暮らしていても、実は意識もなければどんなクオリアも感じていない奴がいても
不思議ではない、と。
だったら、痛そうにふるまっていても実は痒みを感じている奴がいても、
いけない理由は何もないだろ。それどころか、「色」や「匂い」のクオリアを
感じると痛そうにふるまう奴だって、いるかもしれん。
290 :
B:2006/11/27(月) 18:33:00
>263さん
なんだか毛並みの違う人ですね。
>>273とか、永井均スレを見て久々に
そうか!と思わずひざを叩きました(いや、初めてかも)。
注文している『西田幾多郎』を読み終わったら
>>273を頼りにまた『私・今・そして神』を
読んでみようかと思います。
>>287で263さんが書いている「読み替え」の件は既にこのスレで127さんに対して
幾度となく僕が繰り返した事に過ぎない。でも263さんは肝心なところを誤解している。
>読み替えられてもなお、クオリア問題その ものは残ります。
>他人Xが見る赤を他人Yが見る赤との異動という問題として。
がその誤解を端的に表している。「他人Xが見る赤」も「他人Yが見る赤」も全然リアルに見ることが
できないんだから。そんな風に一般化されてしまう(即ち「読み替え」)からクオリアにしても<独在性>にしても
語る事が出来ない、というのが肝心なポイントだって言うのに。
「他人のクオリア」という言い方に何の疑問も抱かない時点で263さんは永井均の議論を
何一つ理解していないと言わざるを得ないな。どうやって263さんは「クオリア」を理解
したのか理解に苦しむ。
>「振る舞い」は外から見られなければならないが
というのも誤解している。蚊に刺された際の反応は「外から見られなければならない」なんてことない。
それは他人の場合であって自分の場合はそうじゃない。その部分が痒くなって自然な反応として
掻くのだから。認識論じゃ“遅すぎる”。根源的な「反応」のことを言っているんだ。
>>289 >普通にしゃべったり泣いたり笑ったり痛がったり体を掻いたりして
>暮らしていても、実は意識もなければどんなクオリアも感じていない奴がいても
>不思議ではない、と。
これまた何度も何度も繰り返すが「<実は>意識もなければどんなクオリアも感じていない」
とはどういうことか?この<実は>にどんな意義があるのか、と自分自身に問わなければならない。
他人については痛みの振る舞いをしている人に関して特別の場合を除いてその人は痛みを
感じていると結論付けるより他無い。
また自分自身について言えば当然「意識もなければどんなクオリアも感じていない」などと
誰も言うまい。(また誰かがその様な事を言ったとしたらどうやってもそのことは確かめられない
以上、その人は冗談を言っているか、頭のおかしい人だと言わざるを得ない。)
>>290 あきれた!263さんは一番肝心な部分で永井均を理解していないっていうのに!
292 :
275 :2006/11/27(月) 22:20:24
>何でこんな結論を出すのかさっぱり理解出来ない。
いや結論ということではなくて、勝手批評さんが永井の主張のどこに異論を
もっているのかをより明確にしたいとおもって質問したのです。
>275さんは最初から「痛みの振る舞い=『外形』」
>と「痛み(痒み)そのもの=『感覚そのもの』」を分けて考えているが、人間の自然なリアクション
>はこのふたつが不可分である、ということだ。だからその人が「痒い」と感じたのなら
>「痒みの振る舞い」を全く理由無く行うということ。(だから再三再四述べているように「痛みの振る舞いを
>しているが<実は>彼は痒みを感じている」という言い方は、その人が何らかの理由によって痒みを痛みに
>偽装している以外にはあり得ない。偽装以外に<実は>などという言い方に意味を持たせることは出来ないから。
>もしその人が偽装などしておらず、痒みを感じているのならその部分を反射的に掻くだろう。)
ここはとても微妙な点だと思う。
まず”痛みの感覚実質と痛みの表出”とが人間の自然なリアクションにおいて不可分である
というのは、痛みの概念を習得過程の人間にとってだけだというのが永井の主張。
痛みの概念を習得した後には、痛みの感覚実質と痛みの表出を分離することが概念的にも経験的にも
可能だと永井は主張するわけです。
激痛や激痒?といったものではない、かるい痛みやかすかな痒みといった感覚を感じたときに
人が自然にとるリアクションというのがどういうものかは自明ではないでしょう。
激痛や激痒のさいには、人は自然にある種の表出行為を伴うことを認めたとしても、
表出をともなわない痛みや痒みは存在しないとはいえないでしょう。
永井の言葉を借りるなら、
「ある種の哲学的偏見を取り去ってみれば、われわれが日常生活で痛みを感じるとき、それを
表出しないほうがむしろ普通だといえるのではあるまいか。(この問題を論ずる人の多くが
めったに起こらないような激痛ばかりを念頭においているようにみえるのは私の偏見ではあろうか)」
293 :
275 :2006/11/27(月) 22:24:31
勝手批評さんが問題にしている永井の文章
>「<私>の存在の比類なさ」13p4行目
>「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
>ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
の直前には
「たしかに、当初「痛み」とは特定の公的脈絡において特定の表出とともに感じられる
ものと定義されていた。しかし、いったんそのようにして定義されてしまえば、「痛み」
と脈絡および表出との結合は必然的なものではなくなる。」
という文章があるわけですが、ここでのべられている、断絶、
つまり、感覚の概念の習得過程と習得後とでおこる、感覚実質と感覚の脈絡&表出との関係
の変質を、勝手批評さんは捕らえそこなっているのではないでしょうか。
感覚の概念習得過程では、脈絡と表出が、概念の中核的役割を果たすにもかかわらず
習得後には、それらは周辺的役割をもつにすぎず、概念の中核を担うのは感覚実質となる
そのことによって、感覚の概念的意味を損なうことなく、感覚実質と、脈絡や表出を切り離す
こと(つまり、感覚実質と脈絡との分離、感覚実質と表出との分離)が可能になるという
永井の主張を説明してみます。
294 :
275 :2006/11/27(月) 22:37:23
まず第一段階
第一段階は、「感覚」とその感覚を感じる脈絡や表出との結合を習得していない段階。
例えば赤ちゃん。
この段階では、
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
とは全く言えない。
例えば、ある赤ちゃんが誰かに頭をなぐられて泣き喚いているという場面。
このとき、赤ちゃんが実はかゆみを感じているという可能性に意味をあたえることが
できるだろうか。
この赤ちゃんは、痛みの感覚と痛みを感じる脈絡および表出との結合
を習得していないので、つまり「痛み」の概念を習得していないので、
自分が今感じている感覚がなんであるかを自分で判断することはできない。
よって「それを決定するのは感覚を持つ当人である」とはいえない。
295 :
275 :2006/11/27(月) 22:39:16
では、赤ちゃんは自分で判断できないけれども、本当は痛みではなく、かゆみ
を感じているという可能性は
ないのだろうか。
この赤ちゃんが感じている感覚をとりだしてかゆみの感覚と同じかどうか
比較することができないのでこの赤ちゃんが感じている感覚が実はかゆみだったということもできない。
「同じか違うか、似ているか似ていないかを語ることは
比較可能なものについてのみ有意味だからである。」(永井)
この場合、その脈絡(頭を殴られた)と表出(泣き喚く)によって定義により
この赤ちゃんが感じている感覚は「痛み」になる。
赤ちゃんの場合は、痛みの脈絡とその表出と感覚実質を切り離して考えることができない。
痛みを感じるべき脈絡でつねになんの表出もしない赤ちゃんは、そこのことによって
痛みをかんじない人とされるほかなはい。
ここには、痛みの概念において、この赤ちゃんが感じている感覚実質そのものが果たす役割はない。
296 :
275 :2006/11/27(月) 23:21:38
第二段階目
「感覚」とその感覚を感じるべき脈絡や表出との結合を習得した後
例えば普通の大人
痛みを感じるべき脈絡と表出とそのとき感じる感覚実質を
痛みという概念して結合させ、痛みの自然な表出(泣く、うめくなど)を
痛みの言語的表明(痛いです!)に置き換えることを学んだ人間は、
痛みを感じる脈絡と表出の際に、自分が感じている感覚実質を、「痛み」として他の
感覚実質と分類し記憶することができる。
そのことによって、自分が感じる感覚実質がなんであるかを、自分の記憶を参照するかたちで比較同定することが
可能となる。
そのようになった段階では、感覚実質こそが痛みの概念を構成する主役となり
脈絡と表出は周辺的なものとなる。
この段階ではじめて
「脈絡と感覚実質の分離」
なんの脈絡もなく痛みを感じる
「表出と感覚実質の分離」
痛みを感じる場面で痛みを感じたのだが、なぜかそれにふさわしい表出が
とれなくなってしまう人(あるいはそういう病気)
といった想定が痛みの概念を損なうことなく想定可能となる
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
という想定は、この感覚の概念習得後においてはじめて意味をもつ想定という
ことになるわけです。
297 :
127:2006/11/28(火) 00:18:53
>>291 >
>>287で263さんが書いている「読み替え」の件は既にこのスレで127さんに対して
>幾度となく僕が繰り返した事に過ぎない。でも263さんは肝心なところを誤解している。
変なことを書くのはやめてくれ。
>>287で263氏が指摘しているのは,<私>に関する問題が,
一般論としての他人の感覚の問題と誤解されてしまう,ということだ。僕は,他人の感覚の
問題などを,(一番最初に勝手批評氏の問題提起に応じる形で少しだけ書いたのを除き)
全然書いていない。その理由は,まさに263氏が指摘しているとおり,<私>や独在性の
問題と,他人の感覚とかクオリアの逆転とかの問題とは,全然違う問題だからだ。少なく
とも,永井がそのように議論していることは,『<子ども>のための哲学』p40前後,
その他多くの永井の記述から,明らかだ。他のことはともかく,永井について論じる上で
そんな初歩的なことを,僕が混同しているなんて,冗談じゃない。
勝手批評氏が,クオリアの逆転等の問題と独在性の問題を結びつけている(僕との議論でも
それを前提として「読み替え」の議論をしていた)というのなら,それは,勝手批評氏が,
永井の議論も僕の議論もよく読んでいないということを示しているだけだ。僕の議論のことは
まあ置いておくが,永井の議論をよく読まずに,一体どうやって永井の批判をしようというのか。
現に勝手批評氏と議論をしている人たちに対しては変な言い方になってしまうが,僕は,勝手
批評氏との議論を打ち切ったことが全く正しい判断だったことを確信した。そもそも永井の
議論をよく読まず,その上このスレの議論相手の応答もよく読まないような人を相手に,
永井に関する議論など,できるわけがない。
>>292 >痛みの概念を習得した後には、痛みの感覚実質と痛みの表出を分離することが概念的にも経験的にも
>可能だと永井は主張するわけです。
これはただ単に痛みを偽装する、或いは痛みを隠すという言語ゲームを習得した大人が
「痛みの感覚実質と痛みの表出を分離する」ことができるというだけのことだと思うんだけど。
>激痛や激痒?といったものではない、かるい痛みやかすかな痒みといった感覚を感じたときに
>人が自然にとるリアクションというのがどういうものかは自明ではないでしょう。
これはその通りだけど永井氏が出している例では痛みの振る舞いをしているが実は痒みを感じている
事は可能だ、という話だから論点が違う。軽い痛みの場合でも、誰かが「私は今頭に軽い痛みを覚えている」
と言えば(その人が嘘をつく場合を除いて)彼は軽い痛みを頭に感じていると解する以外にはあり得ない。
(それでも彼の言葉を信じないで彼は実は痒みを感じているのだ、とどうして言えるのか。)
もちろん彼が自分の痛みについて何も言わなければ他の人は全く気付かないだろう。
そして他ならぬ自分の頭に軽い痛みを感じているのならこれは自分自身に対して嘘のつきようが無い。
全く素朴な疑問としてはどうしてその人は「実は痒みを感じている」のに痛そうに振る舞っているのか、
という点に尽きる。275さんの指摘によれば別にそれを表出する必要は無いのだから。
この「実は痒みを感じているのに痛みの振る舞いをしている」人は哲学的意図のもとに
出されたかなりわざとらしい人物だ。それにこの場合、この永井氏の例を読む人は
「痒みを感じている」ということを日常の用法(痒い部分をぽりぽり掻く)で読んでいるのだし、
永井氏もそれを想定しているはず。ところがこの哲学的例に於いてはこの普通の意味での
「痒い」と判定不可能なはずなのに「それは<実は>痒いのだ」などと言われている。
これは明らかな哲学的トリックじゃなかろうか。
>>297 まるで見当違いの怒りだ。僕、勝手批評が127さんに向かって散々言った「読み替え」の話
の事を書いたのであって127さんが書いた内容については何も書いてない。
「127さんが「読み替え」について語った」みたいなことは何一つ書いていない。被害妄想もいいところだ。
>まさに263氏が指摘しているとおり,<私>や独在性の
>問題と,他人の感覚とかクオリアの逆転とかの問題とは,全然違う問題だからだ。
そんな馬鹿な。これは127さんがずっとこだわっていた点なのに。だって独在性は「この<私>だけが
本当にただ一つ存在している」というリアリティーであり、クオリアはまさしくこの<私>
だけが感じる(例えば赤色の)質感のリアリティーのことなんだから。そしてどちらもそれを言葉で表現しようと
すると最初に言おうとしていた事とは違う「普遍的な、誰にでも当てはまる」独在性やクオリア
になってしまうんだから。このことをこれまで127さんに何度も何度も語ったことなのに。
ところで255で書いた問いに答えてもらえませんか?
「世界を開く人が違えばそれは別の世界である」ってどういうことかなあ。「別の世界」と言えば
「だからおまえの批判は別の世界の事だ」と言って逃げられる、ということかなあ。
>>291 >これまた何度も何度も繰り返すが「<実は>意識もなければどんなクオリアも感じていない」
>とはどういうことか?この<実は>にどんな意義があるのか、と自分自身に問わなければならない。
>他人については痛みの振る舞いをしている人に関して特別の場合を除いてその人は痛みを
>感じていると結論付けるより他無い。
意味がわからないな。他人が「実は」こんなクオリアを感じている、という命題に
独立の意味がないなら、どうして「特別の場合を除いて」なのだ。
特別の場合というのは、つまり演技のことだろう?
他人が自分のクオリア(痛みなど)について「嘘をついている、演技をしている、
痛そうなふりをしている」という命題に意味がある、ということは、
他人の「痛みの振舞い」と「痛みのクオリア」は全く別個の問題で、後者に
関する命題の真偽は前者に関するそれとは独立に定まる、と認めているということ
だろう。それを認めないのなら、他人が痛みに関して嘘をついているとか
演技をしているとか痛そうなふりをしている、などという記述は無意味だから
真偽も有り得ない、と言わねばなるまい。
クオリアはこの私だけが感じるものではなくて
はじめから誰にでもあることが想定されたもの。
だから、どちらかといえば<独在性>よりも<<単独性>>と相関関係のあるもの。
申し訳ないが、勝手批評さんは狭隘な原理原則論を盾に
みんなを勝手に批評してしまうことを目的にしているように見えてしかたない。
しかし、原理原則論を盾にみんなを勝手に批評しようとする姿勢は
結局、自ら原理原則論を踏み越えてしまっているんじゃないのかなぁ。
わかってもらえるかなぁ。
>>300 まず
>>289=
>>300を前提で書く。(違うかもしれないが)
あなたは確か289で「哲学的ゾンビ」ということを書いたはずだ。
>普通にしゃべったり泣いたり笑ったり痛がったり体を掻いたりして
>暮らしていても、実は意識もなければどんなクオリアも感じていない人
ところで他の人がこの様な「哲学的ゾンビ」であるということをあなたはどうやって判定するのか。
この仮定では「哲学的ゾンビ」は外見上「普通にしゃべったり泣いたり笑ったり痛がったり体を掻いたりして
暮らして」いるのだからこの人が「実は意識もなければどんなクオリアも感じていない」
という事は外見からは決して分らないはずだ。(そしてこれは「哲学的ゾンビ」の規定から導かれることだ)
このことを踏まえた上で、或る人が「哲学的ゾンビ」である事を見破る方法を考えて欲しい。
哲学的に、本気で。テレパシーとか神になって人間の内側を見通す、みたいなズルをやらないで。
その方法があるなら是非教えて欲しい。
>>301 >クオリアはこの私だけが感じるものではなくて
>はじめから誰にでもあることが想定されたもの。
もちろん人が「クオリア」について議論する際には、それは誰もが持っているものとして
語られている。ところが最初の「クオリア」の規定を思い出して欲しい。
これは色や音をリアルに感じるその「リアルさ」だったはずである。
このようなリアルさはこの<私>だけが感じるもののはずである。誰もが持っている、と言われる
クオリアはもう既に頽落してしまっている。これは独我論や独在性が、それを他人に語ろうと
する際に必然的に起こる「普遍的な独我論、独在性」への頽落と全く同じものだ。
301さんが主張しているのは、既にこの「普遍化されたクオリア」なのだが、この<私>にだけ
見えるリアルな赤色のクオリアは決して普遍化などされない。
誤解の無いように付け加えるが当然クオリアは誰もが持っていてよいものである。だが「他人のクオリア」
は最初のクオリアの規定が表そうとしていた「リアルさ」を失っている。
この頽落、普遍化、「読み替え」(なんと呼ぼうと構わないが)が例えば典型的には<独在性>について
言葉を使って他人達に話そうとする際に常に、そして既に、必然的に起こってしまう、
というのが永井氏の議論の常に変らない骨格だと思う。
(これを最低限押さえておかないとしょうがないと思うのだが、何でこれを理解しない
人がたくさんいるんだろう。一番簡単なところでは「子どものための哲学」に書かれてる
基本的な議論なんだが。)
常に「なんだかんだで理解度が足りない」と結論付ける反論スタイルでは
とにもかくにも他人を自分より下に位置づけようとしていると
邪推されるかもしれません。私にはあまりうまい反論方法とは思えません。
これでは何がカント的な意味での批判なのかもいまいちピンと来ない。
自分の批判はカント的な意味での批判なのでスゴイと言っている様にさえ見えかねません。
さて、勝手批評さん自身に対する個人的な意見はここまでにしておいて、
>>303でいわれている普遍化されないクオリアとは何だろう。
言葉になっている「普遍化されないクオリア」とは結局普遍化を免れない。
でも以前、勝手批評さんはウィトゲンシュタインの徹底した断念に無頓着すぎると言って
言葉にできないものを言葉で論じることそのものを批判していませんでしたか。
結局のところ、勝手批評さんは狭隘な原理原則論を持ち出しながら
その原理原則を自ら破っているのではないですか。
(原理原則論は他人ではなく自らに厳しく適用すべきではないですか)
それに誰にでもあっていい<<単独性>>と他の誰にもあってはならない<独在性>
の区別をないがしろにする
>>303のような姿勢こそ
永井均の議論を追っていくためには無用な混乱を引き起こすため問題があると思います。
305 :
275:2006/11/28(火) 21:48:45
>全く素朴な疑問としてはどうしてその人は「実は痒みを感じている」のに痛そうに振る舞っているのか、
>という点に尽きる。275さんの指摘によれば別にそれを表出する必要は無いのだから。
いや、別に永井は、
「痛みを感じるべき場面でなんのリアクションもとらず、しかし実は痒みを感じている
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚をもつ当人である。」
とかいてもよかったと思いますよ。
ただ、感覚実質と表出の乖離という点を強調するために
「痛そうに振舞いながら」という文をいれたのだと思います。
まあ、それはともかく今回の
>>298の勝手批評さんのレスで
勝手批評さんがこだわっている点(わたしから見ると永井の文章を
誤解している点)がよくわかったような気がします。
要点は、問題になっている永井の文章
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
の「痛そうに振る舞いながら」の部分は、
なぜそのように振舞っているのかという問いも
なぜそう振舞う必要があるのかという問いも
なりたたない水準、勝手批評さんの言葉をつかえば「根源的」な振る舞いの
水準なのだというところにあります。
問題点をはっきりさせるために、感覚たとえば痛みを感じるべき脈絡に付随する
反応行動を便宜的に3つに区分けしてみましょう。
306 :
275:2006/11/28(火) 21:54:58
1つは「表出」。
表出は、
自然な振る舞いであり、意図的にあえてなされる振る舞いとは異なって
もはやそういう反応・ふるまいをすることに理由を問うことが意味をなさない
水準にある人間の反応行動のことです。
殴られたときに、うめき声をあげる、顔をしかめる
といった反応のことです。
この水準においては、なぜそのような反応をとったのかという問いが意味を
もたない、勝手批評さんの言葉をつかえば「根源的」ということになります。
2つ目は「表明」。
表出が根源的な、自然的(非規約的)反応なのに対して、
「表明」は表出的反応を言語的・規約的な反応におきかえたものになります。
誰かに殴られときにうめき声をあげるのが表出だとすれば
誰かに殴られたときに「痛い」と叫ぶのが表明ということになります。
表明が可能になるためには、感覚言語の文法をある程度マスターしていなければ
いけません。
したがって赤ちゃんは表出をおこなうことはできても表明をおこなうことはできません。
表明は、自然で非規約的的反応を言語的・規約的反応に意図的に置き換えるという点では
あえてするふるまいの一種ともいえますが、その置き換えが自然な振る舞いになるほど
なじんだのちには、表出と同じ水準の反応とみなすこともできるでしょう。
たとえば、誰かに殴られたときにおもわず「痛い」とさけんだとすれば、
この際の「おもわず」を厳密に受け取るならば、このときの「痛い」と叫ぶという
反応は、あえてするふるまいではなく、なぜかわからないがそうしてしまう根源的な
自然な振る舞いの一種とみなせるでしょう。
よって表明は表出でもありうる。
307 :
275:2006/11/28(火) 21:58:54
それに対して、全く根源的ではない水準、あえてするふるまいの水準を3つめの
区分としてここでは便宜的に「報告」と名づけましょう。
「報告」は意図的、意識的判断が介在した反応のことです。
誰かに殴られて、「僕はAさんに殴られてひどく頭が痛く吐きけを覚えます」と発言した
場合その発話行為が報告にあたる。
さてこの便宜的区分をしたうえで、
問題になっている永井の文章
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
をどう理解するかが重要になります。
つまり、「痛そうに振る舞いながら」の部分を表明をふくむ表出的振る舞いとして
理解するのか、報告的振る舞いとして理解するのかということです。
言いかえれば、自然な根源的振る舞いなのか、あえてする意図的振舞いなのかという
ことです。
これを報告的振る舞いと受け取るとたしかに、この文章を整合的に理解するのは
難しいと思います。
308 :
275:2006/11/28(火) 22:02:52
「痛そうに振舞いながら」が報告的水準だとすると、
そこには意識的判断が介在しているのだから、当然「感覚を持つ当人による決定」
が含まれていることになります。
すると
「痛みを感じるべき場面で当人は自分が感じている感覚が痛みであると判断し
それにふさわしい振る舞いをおこなったのだが、しかし実は痒みを感じている
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
となって整合的に理解するのは難しい。
あえて解釈しようとすれば報告の当人による事後的訂正可能性の問題となるでしょうか。
つまりある時点t1で痛みを感じたとおもったが、あとになってt1で感じた感覚が
痒みであることに気がつくことは可能かといった問題になるでしょう。
しかし、永井があの文章の個所で問題にしていたのはこういう問題ではありません。
なので、報告的解釈で理解するべきではないのです。
「痛そうに振舞いながら」を表出的水準の意味として理解した上で
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
を考えなければいけません。
すると、ここでは、痒みを感じていながら、なぜ痛そうに振舞っているのかという
問いが意味をなさなくなるわけです。
この人は、痛みを感じるべき脈絡でなぜか痒みを感じてしまう人であり、
同時に、痒みを感じるときに、なぜかわからず自然な根源的な反応として痛そうな振る舞い(表出)
をしてしまう人なのです。
しかしそういった想定が可能になるためには、その人が、感覚言語の文法をマスターする過程では、
われわれと同じ振る舞い、つまり痛みを感じるべき脈絡でわれわれがするような表出をする
正常な反応をしていた時期がなければならないのです。
309 :
127:2006/11/29(水) 01:00:51
>>299 >>まさに263氏が指摘しているとおり,<私>や独在性の
>>問題と,他人の感覚とかクオリアの逆転とかの問題とは,全然違う問題だからだ。
>そんな馬鹿な。これは127さんがずっとこだわっていた点なのに。
いやあ,ここまで来ると,逆に笑うしかないねえ。
あとは,例えば『<子ども>のための哲学』p41では,「ロボットの疑惑」を紹介した上で,
「他人の心の存在に関する懐疑論や,そこから出てくるロボットの疑惑というのは,問題
感覚の誤解から生じたにせの問題なのだと思う。」とある。このような記述を踏まえて,
独在性の問題とクオリアの逆転等の問題が一体どう結びつくのか,永井の記述に即して
整合的に議論することができるというのなら,やってみてほしいと言うしかないねえ。
>ところで255で書いた問いに答えてもらえませんか?
この際だから言うが,
>>255の質問は,あまりにふざけているとしか思えなかったから,
答える気をなくしたのだ。
>>255には,
>さてそれはこの「勝手批評の世界」と何の関係があるのか?一体他の世界に働きかけ
>ができるのか?全く働きかけが出来ないとしたらやはり他の世界にその事が伝わるはずも無い。
とあるが,僕はそのずっと前に
>>184,
>>196-197で,他の世界(特に現実ではない可能世界)との間の
コミュニケーションとか読み替えとは何なのか,そのような読み替えが起こるというのはおかしいの
ではないか,と疑問点を挙げている。何で,僕自身が永井の議論の疑問点として挙げたことを,僕が
説明すべきとされなければならないんだ?本当に,僕の議論を全然読んでいないとしか思いようがない。
もうこれが最後だ。これほど永井の議論も議論相手の議論もよく読まず,そのくせ相手に対しては
「誤解」だの「逃げる」だのと悪口を並べ立てるような人に対して,もう何と言われようとも,
何も答えるつもりはない。こんな書き込みを続けるのは他の人に迷惑でもあるし。
>>304 >でも以前、勝手批評さんはウィトゲンシュタインの徹底した断念に無頓着すぎると言って
>言葉にできないものを言葉で論じることそのものを批判していませんでしたか。
その通り。でもこれは言葉に出来ないものの実感が最初にあって初めて意味を持つ議論だ。
<独在性>ということを最初に言い出した当初の感覚があってこそ、それが「語り得ない」
という議論に深化するわけだから、ここに矛盾は無い。
虚心坦懐に、後のややこしい哲学議論など想定していない時点での<独在性>には
「全くその通りだ」という素朴な同意が最初に無ければ永井氏の書物は全く読めないはずだ。
>>309 127さん、とりあえずこれまでのわだかまりを捨てて303の議論だけを読んで下さい。
永井氏がどう言っているかも全く脇に置いて303の議論だけについて。
これが僕の出来る限りの明晰な考えの筋道を示したものですから。
クオリアは色や音のリアルな質感のことです。これは<私>だけが感じるものです。
だからクオリアはそのまま<独在性>の問題と直結します。これは全く明白な関係だと
僕には思われます。
追記
「クオリアの逆転」というのはもう既に「普遍化」されたクオリアについて「このクオリア」と
「あのクオリア」は違い得る、と言っているに過ぎない。ところがクオリアの最初の全く
虚心坦懐な捉え方は、この<私>に現れる赤色の質感のことであったのだから
この「クオリアの逆転」というのはもうこの<私>の実感する赤色からは離れてしまっている。
他の人のクオリアがどのようなものであろうとそこに本質的な問題は無い。そういう意味で
「他人の心の存在に関する懐疑論や,そこから出てくるロボットの疑惑というのは,問題
感覚の誤解から生じたにせの問題なのだと思う。」という永井氏の言葉を僕は理解する。
>>308 >この人は、痛みを感じるべき脈絡でなぜか痒みを感じてしまう人であり、
>同時に、痒みを感じるときに、なぜかわからず自然な根源的な反応として
>痛そうな振る舞い(表出)をしてしまう人なのです。
275さん、既に302で述べた「哲学的ゾンビ」の判定法を今度はこの人物に当てはめて
考えてもらいたい。この様な人物を我々はどうやって判定し得るのか、と。
便宜的にこの人物を「痛み・痒み逆転人間」と呼ぶ。
この「痛み・痒み逆転人間」はその定義上、外見からは痛みを感じていると判定する以外には
あり得ない。この時この人物の内部でだけ感じられているという「痒み」は宙に浮いてしまう。
何故ならこの人物に「痛いのか?」と訊けば「もちろん痛い」と答えるはずである。
それに対して「いや、あなたは実は痒みを感じている」とこの本当の「痛み・痒み逆転人間」
に言ったとしても、彼は「まさか!私は痛みを感じているのだ」というはずである。
(何故ならそれがこの「痛み・痒み逆転人間」の定義であったのだから)
この時、それでもその人物が「痛み・痒み逆転人間」である、と確信できるようなどんな証拠が
あるだろうか。これは実は自分がこの「痛み・痒み逆転人間」であったとしても変らない。
何故なら「痛み・痒み逆転人間」である私が机に足をぶつけて「痛み」を感じる。そこで自分の
感覚に反省を加える。その答えは「やはり痛い」ということだ。
最初の定義により、私の振る舞いも言葉もそして反省すらも「痛み」そのものにならざるを得ない。
だとすれば自分自身が本当に「痛み・痒み逆転人間」であったとしても私自身それが見分けられないのだ。
>>302 ちょっと目についたから書き込んだだけで、このスレの流れもよく知らないし、
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
という永井の言葉の真意も、それがここでどんな文脈で問題にされているのかも
よくわからないのだが、あなたの言うことはどうも理解できない。
>ところで他の人がこの様な「哲学的ゾンビ」であるということをあなたはどうやって判定するのか。
(略)
>このことを踏まえた上で、或る人が「哲学的ゾンビ」である事を見破る方法を考えて欲しい。
判定したり見破ったりできるかどうかなど、問題ではない。そもそも、
「他人の心は知り得ない」というのは自明のこと、というかそれが他人の定義だ、
みたいなことを永井もどこかで言っていた覚えがある。
問題は、「哲学的ゾンビ」という概念に意味があるか、「ある人が哲学的ゾンビである」
という命題は、真偽が定まっている(判定できる、ではない)命題なのか、だ。
「ある人が哲学的ゾンビであるという命題は、意味がない。」と
「ある人が哲学的ゾンビであるという命題は、真偽の判定不能だ。」では、
全く意味が違う。
「意味はあるが、真偽の最終的な判定は不可能だ」という問題は、世間に
いくらでもある。例えば、「クレオパトラや徳川家康は本当はどんな顔をしていたのか」
「明智光秀が本能寺の変を起こした本当の動機は何だったのか」などは、
判定したり見破ったりする方法はない。ないからといって、クレオパトラに顔が
なかったことにはならないし、明智光秀に動機がなかったことにもならない。事実は確かに
定まっているが、それは永久にわからない、というのが、常識的な理解だ。
だからこそ、いろいろな間接的証拠によってああだこうだと議論することにも
意味があると思われている。
「他人の心」を巡る問題も、通常はそれと同じだ。他人の心など、神様か超能力者で
なければわからないのは自明だが、しかし、それは「事実としては定まっている」と
考える人が多いから、現実に重大な論点になることも多い。恋人や家族に向かって
「あなたは本当に私を愛しているのか?」とか、刑事事件で「被告が人を刺したのは
故意か過失か」「反省しているのかしていないのか」等々、いろいろな間接的証拠
によって、「真偽を見極める(推定する)」ことは、普通に行われている。
つまり、「他人の心」は、「意味はあり、真偽は定まっているが、真偽の最終的な
判定は不可能な」問題として扱われている。
あなた自身が「嘘をついたり演技をしていない限り」等々と述べているので、
「他人の心」は事実として意味がある問題だ、と考えているとしか思えない。
それを指摘しているだけなのだが。
「哲学的ゾンビ」は「他人の心」問題を極端にしただけなので、「他人の心」に意味が
あるなら、意味があるはずだ。それと同じように「痛みと痒みの逆転」も「色の逆転」や
「味の逆転」と同じように、意味はあるはずだ。単に判定したり見破ったりする方法が
ないだけだ。
永井はそういう問題には意味がないとか偽の問題だとか言っているようだが、
それなら「他人の心」という概念自体に意味がない、心は定義によって自分の心なので
あって、他人にあるのは振舞いだけであり、他人に心があったりなかったりすることは
有り得ない、と言い切らないと、筋が通るまい。
314 :
考える名無しさん:2006/11/29(水) 11:32:26
「開闢」、読んでみようかな。「子供の」や「メタフィジック」から永井が自身の問題をどれだけ進めてるか気になる。
今月こそ新刊出たのか?
316 :
ゾンビ:2006/11/29(水) 18:59:42
>313
その「極端」なことがいかなることかを説明しないと、ゾンビの想定に届か
ないのではないの?313さんが説明しているのは、ゾンビの想定ではなくて、
313さん自身が説明している他人の心の話にとどまっているのでは?
ゾンビという想定が立てられる以上、他人の心の話とは概念的に区別された
上で、その話の理解可能性を吟味しないといけないのではないの?
>>312 >ちょっと目についたから書き込んだだけで……(中略)永井の言葉の真意も、
>それがここでどんな文脈で問題にされているのかも よくわからない
というのは哲学的にかなり問題のある態度だと思うけど一応。
>判定したり見破ったりできるかどうかなど、問題ではない。
という論点についてだが、289=300さんは「哲学的ゾンビ」はあり得る、という
議論をしているのだから、どうしたらあり得るのか、ということまで明らかに
しなければならない。
「哲学的ゾンビはあり得る」と言って言いっ放しにするのなら誰にだって出来る。
判定法はどうしたらあり得る(あり得ない)と言えるのかについての一つの試み。
僕の場合は否定的な結論が出たけど、289=300さんが肯定的な結論を出す
試みをするのならその方法をちゃんと記述して欲しい。
その際、311の僕の「痛み・痒み逆転人間」の議論も参照してもらいたい。
次に289=300さんの挙げた例の不当性について。
>例えば、「クレオパトラや徳川家康は本当はどんな顔をしていたのか」
>「明智光秀が本能寺の変を起こした本当の動機は何だったのか」などは、
>判定したり見破ったりする方法はない。
クレオパトラや徳川家康はもう既に大昔に死んでいる人間で顔写真が残っていない。
だから本当はどんな顔をしていたのか判定できないのはその通り。
でも「哲学的ゾンビ」の場合は死んでる人間は問題外だ。死んでる人間が
「意識も無ければクオリアもない」のは当たり前すぎる話だ。もちろん生きている人間に
ついて「意識も無ければクオリアもない」と言えるかどうかが問題なのだ。だからこの例は
的外れとしか言いようが無い。
明智光秀について言えば僕らはその事実(外見)として明智光秀が兵を挙げて織田信長を
本能寺にて殺害した、ということが分るのみだ。「明智光秀に動機がなかったことにもならない。」
というが「明智光秀に動機があったことにもならない。」とも同じように言える事を忘れている。
この論法だと宗教家の「神はいないとは断言できない。だから神は存在するとも言える」と言って
自分の都合の良いように神が存在する方へウエイトをかけるようなものだ。
318 :
B:2006/11/29(水) 20:24:35
この私のもつクオリアという唯一性は、
もともとクオリアが誰にでもあることをはじめから想定しているものなのだから、
各々の中で唯一の場所をしめるに過ぎない。
これは他のだれにもあるはずのない<独在性>と対比されるみんなに認められたそれぞれの唯一性、
つまり<<単独性>>と類比関係にある。
だから他のだれにもあるはずのない<独在性>とクオリアを類比的に考えるのは
無用な混乱を招くだけで百害あって一利もない。
いろいろ忙しいし、これ以上言うべきこともないので私はこの辺で切り上げさせてもらいます。
319 :
275:2006/11/29(水) 20:44:06
>この「痛み・痒み逆転人間」はその定義上、外見からは痛みを感じていると判定する以外には
>あり得ない。この時この人物の内部でだけ感じられているという「痒み」は宙に浮いてしまう。
>何故ならこの人物に「痛いのか?」と訊けば「もちろん痛い」と答えるはずである。
>それに対して「いや、あなたは実は痒みを感じている」とこの本当の「痛み・痒み逆転人間」
>に言ったとしても、彼は「まさか!私は痛みを感じているのだ」というはずである。
>(何故ならそれがこの「痛み・痒み逆転人間」の定義であったのだから)
いやいや、ここが勝手批評さんの誤解している点なのです。
「痛いのか」と聞かれたらこの人物は「痒い」と答えるのです。
「痛いのか」と聞かれてそれに答えるという場合、それはもはや「表出」の水準
つまり、自然的根源的反応の水準ではないのです。
永井が「痛みを感じるべき場面で痛そうに振る舞いながら」と書くとき
そこでの「痛そうに振る舞いながら」の振る舞いの種類は、
自然的根源的反応(表出)の水準に限定されると理解するべきなのです。
「痛いのか」と聞かれて「痛い」と答える場合は、便宜的に分類した「報告」
の水準になるのです。それは意識的判断をともなった、あえてする振る舞いなのです。
永井の文章の「痛そうに振る舞いながら」の部分に「報告」的振る舞いまでふくめてしまうと
整合的に解釈するのが難しくなることはすでにわたしも認めています。
>>308
320 :
275:2006/11/29(水) 20:45:57
永井の文章
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
の
「実は痒みを感じているということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ
当人である」
という個所をきちんと受け取らないといけません。
つまり、永井の想定において、この人物は、自分は痒みを感じていると判断しているのです。
ですから、「痛いのか」と問われれば当然「私は痒い」といった回答をするのです。
(もちろん、きかれなくても自分から自分の感じている感覚が痒みであると報告することも
可能)
この人は、痒みを感じたときに、例えばおもわず顔をしかめながらその個所を
手でおさえる(通常その個所に痛みを感じたときにとる表出行為の一例)をなぜかしてしまう
人であり、なぜそのような振る舞いをしているのかと問われれば、「痒いから」と答える
そういう人なのです。
永井は
痛みを感じるべき脈絡において、
感覚を感じている当人の判断(自分は痒みを感じている)と当人の表出
(痛そうな振る舞いをする)が乖離する
という想定が可能であると言っているのです。
そして乖離した場合に、その人が痛みを感じているのか、痒みを感じているのか
その決定権をもつのは、感覚を感じている当人の判断だと言っているのです。
321 :
275:2006/11/29(水) 20:47:30
痛みの文法において、痛みを感じるべき場面で痛そうな自然的根源的反応(表出)をとることは
痛みの基準を構成している。よって、痛みを感じるべき場面で痛そうな振る舞いをする人は
痛みを感じている人になるわけです。
感覚の概念、例えば痛みの概念を学習過程の人間は、この痛みの文法による痛みの公的基準にさからうことができません。
痛みの概念を学習過程の人間が、自分の感じている感覚を内省によって判断するという想定に
意味をあたえることができないからです。
感覚の概念をきちんと学習し感覚の文法をつかえる人になるためには、
痛みや痒みなどを感じるべき脈絡でその脈絡にふさわしい表出をする正常な反応をとっていた時期が
なければならないわけです。
しかし、感覚概念の文法を学習したと認められる人には、自分の感じている感覚を内省によって
判断するという想定に意味を与えることができるのです。
そうなったときに、感覚の脈絡と表出という公的基準と、感覚を感じている当人の判断の乖離という想定が
可能になるということです。
永井の文の該当個所の「痛そうに振る舞いながら」の部分はあくまで感覚の脈絡に付随する
自然的根源的振る舞いに限定されているという理解のもと永井の文章を読めば永井の言っていること
に同意されるのではないでしょうか。
「たしかに、当初「痛み」とは特定の公的脈絡において特定の表出とともに感じられる
ものと定義されていた。しかし、いったんそのようにして定義されてしまえば、「痛み」
と脈絡および表出との結合は必然的なものではなくなる。
痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
>>318 >この私のもつクオリアという唯一性は、
>もともとクオリアが誰にでもあることをはじめから想定しているものなのだから
ここがおかしい。「はじめから想定」されてはいなかったはず。クオリアということを言い出した
初めの時点ではこれは全く素朴な色や音のリアルな質感を表現するものだったはずだからだ。
そしてこのクオリアは常に<私>が感じる(以外にあるわけないが)という点で<独在性>と
直結せざるを得ない。
<独在性>だって「誰もが主張し得る」という意味での、即ち頽落した形の独我論というのは
本当の独我論ではない、というところから始まっているのだから。(これが「語り得ない」
ことについての哲学議論はその後から始まる)このことをBさんが認めないのはこれまで
の主張からはおかしい事になると思う。
まず素朴な理解の元での「クオリア」がまずあってこそ初めてクオリア議論は可能になるのであって
既に誰にでもあるとされた「普遍的なクオリア」から始めることは出来ない。
そしてこの<私>だけがリアルに感じられる色や音の質感、クオリアの話を他人達に話すと
それは「他の人も理解出来る」普遍的なクオリアにならざるを得ない、という点は<独在性>
と全く同じだ。この明らかな議論の同型性をして何故「無用な混乱を招くだけで百害あって一利もない。」
などということになるのか分からない。
275さんの見解を認めたとしてこれには二つの解釈があると思う。一つはトリビアルな解釈。
もう一つは深刻な事態を包含した解釈。275さんがどちらを指しているのか。(恐らく後者ではないかと思う。)
まずトリビアルな方から。
この人は例えば棒で強く殴られて痛そうに振る舞うが「痒い、痒い」というわけだろうか。
これはこの人が特別なしつけを幼少時からされていて普通「痛い」というところで「痒い」
という語を使うようになったというだけではないだろうか。
もしこの人が単に風変わりなしつけを受けただけとすればこの「痒い」は「痛い」の代理を
しているだけであって、「実は痒みを感じている」ということにはならないはず。
さてしかし第二の解釈。この人の痛覚に関する脳のどこかの部位が普通の人と違った構造をしている
と仮定してみよう。彼は確かに棒で殴られた時「痒み」を感じているのである。ところが
これは我々の痒みを感じる場面と違うし普通の痒みの反応とも違う。この人の存在によって
普通の意味での「痒み」の意味が全く崩壊してしまう。
もちろんこの人物は特別な痛覚の持ち主で大多数の普通の人々が普通の「痒み」の場面で通常の
「痒み」の反応をしていれば問題は無い。だがこの奇妙な(哲学的)人物が大体人口の半々くらいに
増えたとしたら「痛い」とか「痒い」ということが有意味に言えるか非常に怪しくなってくる。
普通の「痛み」や「痒み」が成り立っているからこそ、この様な哲学的人物の想定が可能になるのではないだろうか。
だとしたらこの様な人物があり得る、ということが重要なのではなく、ごく普通の人々の反応が
大多数(というかほぼ全て)であるということの方が哲学的には重要なのではないだろうか。
これはただ単に常識を重んじるといった保守的な態度から生じたのではなくて、哲学的な考察を
経て至った結論だと思う。(だから永井氏のような哲学者が哲学的な事を言い出せる可能性
そのものを成り立たせているものを探求するのが哲学なんじゃなかろうか。)
>>318 Bさん
>この私のもつクオリアという唯一性は、もともとクオリアが誰にでもあることを、
>はじめから想定しているものなのだから、
>これは他のだれにもあるはずのない<独在性>と対比される〜
>〜だから他のだれにもあるはずのない<独在性>とクオリアを
>類比的に考えるのは、無用な混乱を招くだけで百害あって一利もない。
勝手批評さんは、はじめから直接経験における「私」秘的なクオリアについてではなく、
〈私〉秘的なクオリアについて話しています。
クオリアを、「私」秘的なものでしか‘ありえない’、と規定(定義)してしまっているのは、
Bさんです。
たとえば、ウィトゲンシュタインの『探究』(258節)の「ある感覚(eine gewisse Empfindung)」
について、その「感覚」には、はじめから二義性が込められていた、と永井は解釈しています。
すなわち、@ 個人的に私秘的な「感覚」 と A 超越的に私秘的な〈感覚〉、についてですが、
Aについては、公共言語を使って(言語ゲームによって)は、けっして描き出すことはできない、
と、永井は論じています。( 『〈魂〉に対する態度』 85〜87n ) = 「勝手批評さんの主張」です。
超越的に私秘的な感覚を、〈私〉のクオリアと想定することは、、まったく妥当な解釈であり、
永井の議論を検討するにあたって、混乱を招くようなものではありません。
ちょうど良い参考書があります。
…… 『 西田幾多郎 ― 〈絶対無〉とは何か 』 永井 均 (NHK出版)
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325 :
300:2006/11/30(木) 11:23:11
>>317 >判定法はどうしたらあり得る(あり得ない)と言えるのか
どうも論点がよくわからないのでまとめると、私が言っているのは
1.ある命題について真偽が定まっている(意味がある)かどうかと、真偽の
判定法がある(あり得る)かどうかは、別の問題である。
2.他人の心についての命題は、真偽は定まっているが、判定法がない命題である。
3.他人の心についての命題の真偽と、他人の行動や言葉や自然的根源的反応(表出)
に関する命題の真偽とは、別個独立の問題だ。
ということだ。ウィトゲンシュタインなら3.は否定するのかもしれない
(よく知らないが)。
クレオパトラの顔とか明智光秀の動機とかは、「真偽は定まっているが、判定法がない」
問題の例として出しただけで、あなたの反論は反論にも何にもなっていない。
明智光秀についてわかるのはその行動の外見だけで、何が動機だったのか判定法がない。
私が言っているのは「判定法がないからといって、それに関する命題について真偽が
定まっていないわけではない」ということであって、命題の内容が問題ではないのだ。
もちろん「何の動機もなかった」が真でも構わない。もっとも、動機もなしに
あんな行動をとったとすると、明智光秀は哲学的ゾンビだった、という可能性が
出て来てしまうが(笑)。
326 :
300:2006/11/30(木) 11:25:18
ちなみに、
>>311の内容については、何の異論もない。ただ一点
>この時この人物の内部でだけ感じられているという「痒み」は宙に浮いてしまう。
とあるが、宙に浮いた(当人も含めて誰もそれを痒みだと判定できない)
からといって、それが痒みでなくなるわけではない、というのが私の考えだ。
あなたと私に違いがあるとすれば、たぶんそこだけではないのか。
どうも、「<私>の存在の比類なさ」の13p4行目 にあるという
>「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
>ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
という文章の意味を誤解していたらしい。
私は「当人も痛いと認識し痛いと言いながら」という意味に理解していたのだが、
275さんによれば「当人は痒いと認識し痒いと言いながら」という意味らしい。
それなら、考えられる例としては、
「脈絡においてもクオリアにおいても自然的根源的表出においても通常通り
の人間が、痛みや痒みという言葉の意味を習得した後で、なぜか痛みと痒みの
クオリアだけが逆転してしまう」というケースだ。「なぜだか知らないが、
急に殴られると痒くて、蚊に刺されると痛くなってしまったんだ。それで、
痒いと飛び上がって泣きたくなるし、痛いと掻いてしまうんだ。どうしよう!?」
というわけだ。(あるいは、生まれ付きクオリアだけが逆転していた人間が、
突然通常通りになったケースでも、同じ反応をするだろう。どちらも、
決して嘘を言っているわけではない。)
327 :
300:2006/11/30(木) 11:33:58
一応断っておくが、こんなことは神経生理学的常識から見れば非常に考えにくい
ことに間違いない。永井が言っているのは「哲学的に可能だ」という意味だろう。
永井なら、この程度の思考実験は朝飯前だ(笑)。確か「一人の人間のクオリアが
ある日を境に逆転する」とか「他は何も変わらずに言葉の意味だけが逆転する」
とかいうような話もどこかに書いていたような気がする。
これは要するに上の3.の問題に関わる文章だと思うのだが、違うのだろうか。
そこから私的言語とか何とかいう問題につながるのだろう。
哲学的ゾンビの例でも同じことで、普通の人が一定期間だけ哲学的ゾンビに
なって、元に戻った、というケースなら、少なくとも当人はそう認識するだろう。
現実に、頭を打ったり非常なショックを受けた人間が、通常通り行動して
いながら全く意識がない、というケースは少なくない。サールという哲学者は
スキー場で頭を打った時の体験を書いていたし、病院で癌を宣告されて、
電車に乗って家に帰ったはずなのだが全く何も覚えていない、という例など
よく聞く。そういう人は、その期間は哲学的ゾンビだった、と言えなくもない。
もちろん、神経生理学的には「記憶が残っていないだけで意識がなかったわけで
はない」とか「意識が潜在化しただけで、全く心がなかったわけではない」という
結論になるのだろう。(そういう命題の真偽をどうやって判定するのか知らないが。)
しかし、「なぜだか一定期間だけ哲学的ゾンビになる」とか「生まれ付き
哲学的ゾンビとして暮らしてきた人がある日突然心を持つ」という命題は、
少なくとも当人には真偽の判定が現実の意味を持つ命題なのである。
>>325 >クレオパトラの顔とか明智光秀の動機とかは、「真偽は定まっているが、判定法がない」
>問題の例として出しただけで
300さんは「クレオパトラや徳川家康は本当はどんな顔をしていたのか」 という問いを立てた。
しかしこの場合、何が「真」ということかもう一度考えて欲しい。それはクレオパトラの顔が「どんな」顔を
していたかが分る事である。例えばクレオパトラの顔を石膏で型取ったデスマスクが発見されれば
(そしてそれが確かにクレオパトラのデスマスクである事が確証できれば)これがこの場合の「真」
ということになろう。
ところが300さんは「クレオパトラがどんな顔をしていたかは分らない」がしかし、「クレオパトラに顔が
なかったことにはならない」などと全くどうでもいい結論を導き出している。この場合「顔があった」
なんて事が問題になっているのではなく「どんな」顔だったかが問題になっているのだから。
これでもまだクレオパトラがどんな顔をしていたかについて「真偽がはっきりしている」などと言うだろうか。
(この場合まさしくクレオパトラの顔が「どのような」ものだったかが失われているというのに)
それから327で挙げている例も不適切だ。「哲学的ゾンビ」の想定の肝は外見は全く
普通に見える(笑ったり、他人と会話したり、映画を見たり、詩を朗読したり)という点にあるのであって
スキー場で頭を打ったとか、病院でガンを宣告されたとかいう時は心神喪失状態というべきで
そのとき彼らはぼんやりしている状態だ。「哲学的ゾンビ」の場合完全にはっきりした意識を持っている
ように見えて(またその様に行動していて)「実は意識もクオリアも無い」と言われるのだ。
329 :
B:2006/11/30(木) 23:29:25
>>322 それじゃあ、無用な混乱を避けるために<クオリア>としたらどうですか。
でも、もしクオリアが<独在性>と関係しているとしたら
この私のこの感覚という比類なき実体が、
だれにでもあるクオリアとして普遍化される「転落」の軌跡が、
<独在性>が<<単独性>>へと転落していく過程と重なるからだろう。
その観点から見たときのみ、クオリアを論じながら
その背後に<独在性>を意識するという芸当が可能になる。
ただし、この場合のクオリア(つまり<クオリア>)とは全くの「語りえぬもの」である。
ならば、「語りえぬもの」を語るということはまったく無意味であり、
ウィトゲンシュタインが何と格闘したかを全然理解していない証拠であると
批判を展開してきた人物がそのようなものを論じるには
それなりの弁解が必要になるだろう。
そのときの弁解が先の批判に対するわれわれの回答とどう違うのか、
それは改めて考えられなくてはならない。
たとえば
>>310の冒頭で私に反論しているがその反論はわれわれが同じ立場のときに
散々行ってきた反論であり、なぜそれがわれわれには認められなかったか、
そして勝手批評さんにのみ認められるのかということは検討に値するだろう。
330 :
B:2006/11/30(木) 23:48:11
>カオル
すまないけれど、以上のような理由もあって勝手批評さんに全面的に賛同する
カオルには永井均の議論が理解できているとは思えない。
こういう評価的態度が今のこのスレの一番の問題なのかもしれないけれど。
誰かを非永井均的だと批判したりするには、当然永井均をしっかりと理解しておかねばならないし
それができていないのならばそういう批判はすべきではない。
これは評価云々の前の問題だろうか。
蛇足になるが、うがった見方かもしれないけれど、
どうも私には、カオルが勝手批評さんと私の双方をけしかけている様に見えるんだけど。
331 :
B:2006/11/30(木) 23:55:33
>>329は一番初めの行を脳内削除してくれると
少しは読みやすくなるかもしれません。
>>329 >ならば、「語りえぬもの」を語るということはまったく無意味であり、
>ウィトゲンシュタインが何と格闘したかを全然理解していない証拠であると
>批判を展開してきた
恐らくここで言われている『無意味』という語が大きな感情的反発を生む原因になっている
んだろう。Bさんや127さんが怒り出したのはこれに尽きる。
これはウィトゲンシュタインと論理実証主義者との間で生じた亀裂と同じだと思う。
『無意味』というのは何か支離滅裂で訳の判らないたわ言、という意味では決してない。
そうではなくて、(例えば<独在性>の主張は)全く正しいのだが、その故に普通の言語
ではその意義を表現することが出来ない、という意味で『無意味(無意義)』なのだ、ということ。
そして独我論(そのコアとしての<独在性>)はまさしくこの意味に於いて『無意味』
なのだ。
多分「あなたの議論は『無意味』だ」と言われると何か人格そのものを否定されたかのような
意味に取られてしまうかも知れない。おまえは全く愚かな事を言っている、と。普通の場合はそうかも知れない。
(論理実証主義者達は文字通りこの意味で例えばハイデガーとかをこき下ろしたんだろう)
でもウィトゲンシュタインはそんな意味で言ったんじゃない。僕もそんな風に『無意味(無意義)』
という語を使わない。独我論は正しい、だがその「正しさ」は言えない。
独我論は頽落している、それ故に<独在性>に至った永井氏の議論はしかし何故か
この段階まで掘り下げても他人達によく理解されてしまった。「理解出来ないのでなければならない」
はずなのに。だからもう本当は最初から掘り下げる事など出来なかったのだ。(この結論に至る
為にはこの無駄な遠回りがどうしても必要なわけだけど)
『無意義』なこと、即ち普通の言語では表現出来ないことを何か新しい特別な言語の発明によって
表現できるわけではない、というのが僕の理解したウィトゲンシュタインの「私的言語批判」だ。
この「私的言語」が可能だ、と言っている人はそれがどのような意味であれ、言語によって表現
出来ないことの重要性を(即ち『無意義』なこと)根本的には理解できていないと思う。
333 :
300:2006/12/01(金) 10:24:18
>>328 勝手批評さんにお願いしたいが、反論のための反論はやめていただけないだろうか。
私とあなたでどう意見が違うのか、ポイントがどうもよくわからない。
1.ある命題について真偽が定まっている(意味がある)かどうかと、真偽の
判定法がある(あり得る)かどうかは、別の問題である。
あなたはこれに賛成なのか反対なのか、どっちなのだろうか。クレオパトラの顔の
話はこの原則の例とした出しただけなのだが。
クレオパトラに顔があったのなら、それは「どのような顔」だったのかも、
はっきり決まっている事実なのだ(どのような顔でもない顔など有り得ないから)。
だから、それに関する命題、例えば「クレオパトラは長さが十五センチの鷲鼻だった」
は、真か偽かどちらかである。つまり、この命題は意味のある命題である。
ただし、その真偽を判定する方法はない。私が言っているのはこれだけのことで、
あなたも賛成しているとしか思えないのだが。
>「真偽がはっきりしている」などと言うだろうか。
とあるが、はっきりしているというのは定まっている、という意味で、わかっている、
などという意味ではもちろんないから、言うに決まっているではないか。
こんな例を出したのは、1.の原則は「他人の心」についても当てはまる、と
言いたかったからだ。昨日の私の書き込みで肝心な部分は
>>325の1〜3の原則と、
>>326の「一人の人の痛みと痒みのクオリアがある時点で逆転する」話なのだが、
それについてはどうだろうか。あなたの考えをお聞かせいただきたい。
(私は永井ほどではないにしろ、自分の考えに愛着もこだわりも持っていないので、
納得の行く反論ならいくらでも聞く。他人の揚足を取ったり他人を評価するために
書いているのでもない。)
334 :
300:2006/12/01(金) 10:28:05
哲学的ゾンビの話もそれ自体はどうでもいいのだが、一応サールの話というのは
確かスキー場で頭を打ってから何時間かの記憶が全くなく、その間普通に滑ったり
人と話したりもしていて、相手は彼の異常に全く気が付かなかった、というような
話だった(と思う)。実際そういう例はあるらしい。だから、あなたの言う
哲学的ゾンビの定義に一応は合っている。
断るまでもないと思うが、私は哲学的ゾンビが現実に存在するとかしないとか、
そんな話をしたいわけではない。
「ある人が哲学的ゾンビである」という命題は、真偽が定まっている、つまり
意味のある命題だ、と言っているだけだ。ただし、真偽の判定方法はもちろんない。
実際、上のスキー場の例で、「その間彼は哲学的ゾンビだった」という命題の
真偽を判定しようとしても、たぶん不可能だろう。その間彼に心があったのか
なかったのかは、彼自身にもわからないのだから。現実には「そんなことは
考えられないから偽です。」で終わりだろう。
問題は命題が真か偽かではなく、真偽が判定し得るかどうかでもなく、
真であるか偽であるかどちらかだ、つまりその命題は意味がある、と言えるかどうか、
ということなのだ。
もう一度お断りしておくが、「哲学的ゾンビが可能だ」というのは、
現実に可能だという意味ではなく、論理的に可能だ、ということだ。
「黄金の山」とか「100メートルのミミズ」は現実には存在しないだろうが、
論理的には可能なので、哲学的には存在しても全く不思議ではないし、
存在することが「可能」なのだ。で、哲学的ゾンビが可能なくらいならば、
「痛みを感じるべき場面で嘘でも演技でもなく痛そうに振舞いながら、
しかし実は痒みを感じている人」が可能であって何の不思議があろうか。
永井風の<私>がそうなる可能性だって、否定はできない。
私が言いたいのはそれだけなのだが。
335 :
B:2006/12/01(金) 22:14:31
>>332 だから、あなたが今言うようなことは以前は認めなかったはずなのに
今回自分のときだけは認めようというのですか?
あなたはいつも狭隘な原理原則を押し付けてくる。
しかしそれがすでに狭隘な原理原則を犯しているということには気づかない。
スレが荒れる前に手を引くことにします。
それでは。
336 :
B:2006/12/01(金) 22:21:03
自分はウィトゲンシュタインで私や127さんは論理実証主義者。
そして最後にはお決まりの「理解ができていない」。
勝手批評さんの名前には、偽りはないと思います。
今度こそ。それでは。
>>333 300さんはかなり素朴に実在論を受け入れているようなのでそもそも哲学的懐疑論が
何故普通に実在を(例えばクレオパトラがどんな顔だったか)認めようとしないで
曲がりくねった技巧的な受け入れ方をするのかそもそも理解出来ないのではないか。
(例えばカントの「私は経験的には実在論者だが絶対的、超越論的には観念論者である」
などという言い方も訳が分らないのではないか。)300さんのような哲学をする必要の無い
穏当で常識的な健全な人が哲学をする必要は無いと思うが。
>例えば「クレオパトラは長さが十五センチの鷲鼻だった」は、真か偽かどちらかである。
というのは今僕らが手にしている証拠からは真も偽も同じだけの割合でしか言えない。
それ故、「真偽が<定まっている>」などとは決して言えない。純粋な論理学の二値性が成り立つ世界なら
そう言えるかも知れないけど。しかしこの現実の世界で二値性が成り立っているということを
証明しようとするのはかなり無理がある。
ここで問題になっているのは<WHAT>ではなく<HOW>なのだ。クレオパトラは
もしのっぺらぼうでなければ顔があったろう。だが僕らが知りたいのは「どのような」顔だったか
なのだ。それを記述することがこの場合の「真」であったのだから。この<HOW>を
記述しないで何故「クレオパトラは実際はどのような顔をしていたか」という問いに
「真」を与えられるのか。それ故、
1.ある命題について真偽が定まっている(意味がある)かどうかと、真偽の
判定法がある(あり得る)かどうかは、別の問題である。
については、「真偽が定まる」という事と、「真偽の判定法がある」ということは<同時的>
なのだ、と言いたい。「真偽」ということが既にしてそれの判定法を前提しているのだから。
と、一応哲学的懐疑論を経た議論を述べてみたが、健全な常識人にはどうでもいいことだろう。
>>336 >自分はウィトゲンシュタインで私や127さんは論理実証主義者。
ああ、何という被害妄想的誤解!!そうではなくて 僕が『無意味(無意義)』と言ったのは
悪口などではない、ということ。論理実証主義者は『ナンセンス』というのを相手を攻撃する
為に用いたのだがウィトゲンシュタインは、むしろ重要で本質的だからこそ普通の言語では語れない、
故にその様な議論をして『無意味(無意義)』と呼んだのだ。
127さんもBさんも重要で本質的なことを語ろうとしている。だが、それは言語の限界を超えている。
だから『無意味(無意義)』なのだ、と僕は言い続けているのだ。
どうやったら理解してもらえるんだろうなあ、『語りえないものは沈黙しなければならない』の
えも言われぬ本当の意味を。(きっとこれも言語の限界を超えた事柄に違いない。)
永井もウィトゲンシュタインも良く知らないが
君の言うことにはなんとなく共感出来る
340 :
300:2006/12/02(土) 12:33:56
>>337 >哲学的懐疑論が
>何故普通に実在を(例えばクレオパトラがどんな顔だったか)認めようとしないで
>曲がりくねった技巧的な受け入れ方をするのかそもそも理解出来ないのではないか。
だから、「クレオパトラの顔」(はまあどうでもいい)や「他人の心」は最終的に
「実在」として受け入れられるのかられないのか、それについて、どういう
「曲がりくねった技巧」を使うのか使わないのか、それに興味があるわけですよ。
私もいろんな技巧があることを全く知らないわけではない(余り詳しくはないが・笑)。
ただし、一応お断りすると、何々主義とか何々論とか、ある議論がある哲学者の
考えを正確にトレースしているとかしていないとか、そういういうことには
私は興味がないので、一応お断り。(知識として勉強になるので教えてくださるなら
ありがたく聞くが。)
>1.ある命題について真偽が定まっている(意味がある)かどうかと、真偽の
>判定法がある(あり得る)かどうかは、別の問題である。
>については、「真偽が定まる」という事と、「真偽の判定法がある」ということは<同時的>
>なのだ、と言いたい。「真偽」ということが既にしてそれの判定法を前提しているのだから。
だとすると、「他人の心」については真偽の判定法がないので、他人の心に関する
命題は、真偽が定まらない、ということになる。つまり
「ある人は哲学的ゾンビである」「ある人は哲学的ゾンビではない」
「ある人は痛みを感じている」「ある人は痛みを感じてるようなふりをしているが、
本当は痛みを感じていない」
「ある人は赤い色を見ている」「ある人は赤い色を見ていると言い、そう思っているが、
実は青い色を見ている」等々は、すべて真でも偽でもない、ということになる。
341 :
300:2006/12/02(土) 12:36:24
それなら、「哲学的ゾンビなどいるはずがない」という言明も、真でも偽でもないこと
になり、哲学的ゾンビはいるともいないとも言えないし、他人に心があるともないとも
言えないと思うのだが、どうだろうか。
「<私>の存在の比類なさ」13p4行目
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
これも、真でも偽でもない、ということになる。
あなたは、この永井の言葉を「間違いだ」と主張しているのかと思っていたが、
そうではないのか。それなら、別に何も言うことはないのだが。
ついでに、もうひとつ「哲学的(笑)」疑問を書いてみるが、もしも本当に
「真偽が定まる」ということと「真偽の判定法がある」ということが<同時的>だと
すると、実は「自分の心」(永井風<私>の心)に関する命題についても、
そのほとんどは真偽が定まらない、ということになる。
「私の心」に関する命題の真偽が他人に判定できないのは言うまでもないが、
「過去の私の心」に関する命題については、私自身にも真偽はわからないのだ。
「私はあのとき悲しかったと現在思っている(思い出している)」のは
直接的に真であっても、「私はあのとき本当に悲しかった」が真かどうかは、
わからない。原理的に、真偽を判定する方法がないのだから。
342 :
300:2006/12/02(土) 12:53:07
こうして、真偽が定まるのは「今現在この瞬間の私の心」に関する命題だけである。
しかし、実は「今現在確かに私はこう思っている。こう感じている。」と
思ったり感じたり考えたりしている間にも時間は流れ、刻々と過去になっていく
ので、実際的な「私の心」に関する命題は、ほとんど真偽が定まらない
ことにならざるを得ない。というより、過去の「私の心」については、
存在していたともいないとも、真偽が定まらない、ということになるわけだ。
こうして、確かに存在すると言えるのは「今現在この瞬間の私の心」だけで、
別の瞬間の「何か」と「私の心」とは同一であるともないとも言えない。つまり、
「<私>が確かに存在すると言えるのは、今現在この瞬間だけである」という
ことになる。「<私>は現在永井均である」は真であっても、
「<私>は過去に永井均だった」は真でも偽でもない。
だから、永井がよく例に出す
「<私>が二つに分裂して、全く同じ人間が2人できたら、どちらが<私>か」
というような疑問を、現在の<私>が問うのは、全く意味がない。
<私>は現在しか存在しないのだから、異なる時点の二つの
<私>が同一だ(同一でない)という命題には意味がない、というしかない。
単に「<私>は過去に永井均だった、と現在思っている人間」が2人できる、
というだけのことであって、そのどちらが<私>か、などという問いは、
無意味な問いでしかないのだ。というより、<私>には時間というものがないので、
「変化」もない。だからそもそも「分裂」したりすることはできない、という
べきかもしれない。
恐らく、この問題についても様々な「曲がりくねった技巧」があるのだろう。
私はその考えのプロセスに興味があるのであって、結論はどうでもいいのだ。
>>340 >どういう「曲がりくねった技巧」を使うのか使わないのか、それに興味がある
この(哲学的)技巧に重要性が無いことは明らかだと思う。この技巧は普通の人の普通の理解に辿り着く為のものでしかない。
普通の人が外側から哲学の営みを見ているとこれが何か深遠な事柄に見えてしまうのだが。
哲学は素朴に実在論を信じ込めなかった人が自ら行う活動であって、普通の人が「学ぶ」ものではないと確信している。
(もちろん哲学的実在論ということはある。でも300さんの場合は違う。)
>>340 上は蛇足。こちらが本題。
>だとすると、「他人の心」については真偽の判定法がないので、他人の心に関する
>命題は、真偽が定まらない、ということになる。
300さんの言う「真偽」(300さん自身気付いているかどうか知らないが)はカントの言うところの
『絶対的、超越論的』な「真偽」なのだが、僕らにはこの意味での「真偽」は決定のしようがない。
即ち、他人の心に関する命題は『絶対的、超越論的』には真でも偽でもない。
真とか偽という形式を用いることが出来ない、という意味で。
ところが、ここからは哲学的にややこしいのでよく理解して欲しいのだが、
>「ある人は痛みを感じている」「ある人は痛みを感じてるようなふりをしているが、
>本当は痛みを感じていない」「ある人は赤い色を見ている」
といった「他人の心」に関する表現が一旦言語化されると、その意味がみんなに理解される
普遍的なものになるが故にそれに対して「真偽」ということも簡単に言えることになる。
しかし気を付けて欲しいのはこれは「真偽」がそれ自体で“定まる”ということではなく、
「真偽」を“言う”ことが出来るということなのだ。即ち、言語が成り立つと同時に(当然)言語としての
「真偽」も言語として成り立つわけだ。それ故、
>それなら、「哲学的ゾンビなどいるはずがない」という言明も、真でも偽でもないこと
>になり、哲学的ゾンビはいるともいないとも言えないし、他人に心があるともないとも
>言えないと思うのだが、どうだろうか。
について言えば、普通の人が普通の場合に「他人」と言う時にはその他人は意識を持ちクオリアをさえ持っている
ことを認めている。これが普通の言語(ゲーム)で通用している意味だから。だから「哲学的ゾンビ」は
この意味で「いない」と言い得る。(「他人の痛みは知ることが出来ない」と
>>345最後の文の続き。(途中で切れた。無駄にスレッド消費で申し訳なし)
(「他人の痛みは知ることが出来ない」というのは他人という概念の定義である、というのは
このことである)
>実は「自分の心」(永井風<私>の心)に関する命題についても、
>そのほとんどは真偽が定まらない、ということになる。
について言えば<私>や<私>の心、というものは他人達とは違った意味で「真偽」を
語ることが出来ない。これは根源的な事柄だから、「真」とすら言えない。
私が机に足をぶつけて「痛み」を感じるということは「真」(ましてや「偽」)ではない。
これは端的な事実である、という意味で「真偽」の形式で語れるものではない。
だからこれについて「真偽が定まらない」などということは全くどうでもいいことなのだ。
347 :
300:2006/12/03(日) 11:25:11
>>345 >300さんの言う「真偽」(300さん自身気付いているかどうか知らないが)はカントの言うところの
>『絶対的、超越論的』な「真偽」なのだが、僕らにはこの意味での「真偽」は決定のしようがない。
これもよく意味がわからない。超越論的というのは、経験自体を可能にする
条件にかかわるような、という意味ではないのか。他人の心やクレオパトラの顔
に関する命題の真偽は、どう考えても超越論的でもアプリオリでもなくて、
単なる経験的な問題だと思うが。ただ、それを直接経験できる人間が限られている、
というだけで。クレオパトラの顔なら本人はじめ同時代に生きて直接見たことの
ある人々で、他人の心なら、ご本人ただ一人だ。それで何の不都合があるのだろうか。
>「他人の心」に関する表現が一旦言語化されると、その意味がみんなに理解される
>普遍的なものになるが故にそれに対して「真偽」ということも簡単に言えることになる。
言語化されなければ真偽を言うことができないのも、言語化されれば言うことが
できるのも、あまりに自明のことだ。言語化されればどんな問題についても真偽を
「言う」ことなどできるに決まっている。問題は真偽の「判定法」があるかどうかだ。
「ある人は痛みを感じている」「ある人は痛みを感じてるようなふりをしているが、
本当は痛みを感じていない」「ある人は赤い色を見ている」
等々の命題について、真偽の 「判定法」は、あるのだろうか。言語ゲーム的判定法
でも何でもいい。それをお聞きしているのだが。
もしも「ない」のなら、つまり他人の心に関する命題は、真偽が定まらない(でも言う
ことはできる)ということなので、何を言っても真でも偽でもない、ということになる。
それなら、
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
この永井の言葉も真でも偽でもない、ということになるから、あなたが反対する
理由もないと思うが。
348 :
300:2006/12/03(日) 11:28:22
>>346 >私が机に足をぶつけて「痛み」を感じるということは「真」(ましてや「偽」)ではない。
>これは端的な事実である、という意味で「真偽」の形式で語れるものではない。
これまた意味がわからない。端的な事実が、どうして「真偽」の形式で語れない
のだろうか。「私の心」に関して私がある命題を語って、その真偽が問題になる
ことなど、いくらでもある。いつも腹痛のふりをして人をからかっている男が
本当に腹痛になって、いくら他人に訴えても誰にも分かってもらえない、
というケースなら、あきらかに「私は今腹が痛いのだ!」という命題は、真では
あるが他人には(真偽の判定法がないから)それが真だとわからない、ということだ。
それで何の不都合があるのだろうか。
ついでに、「私の過去の心」については、根源的な事柄でもなければ端的な
事実でもない。「私は昨日確かに腹が痛かったのだ!」という命題については、
他人はもとより当人にすらその真偽の判定法はない。(そう信じている、という
命題なら、当人にはその真偽は明白だが。) 真偽の判定法がないなら
真偽は定まっていない、というのが本当なら、私の過去の心についての命題は、
いかなるものであれ真でも偽でもない、というしかあるまい。
349 :
考える名無しさん:2006/12/03(日) 14:30:45
『西田幾多郎』でいえば、永井が「感覚という場所」が成立した後の問題として論
じていることを、勝手批評はいちいち「無の場所」に引き戻しているということだ。
つまり、内観的主体としての個人(『西田』で言う「彼」)の次元を認めないとい
うわけだ。そう考えるのは自由だけど、なんか単純で、深みのない考え方だなあ。
>>347 >カントの言うところの 『絶対的、超越論的』
ああ、これは『絶対的、超越的』とするべきだった。余計な混乱を巻き起こした。
クレオパトラが今生きている人なら「クレオパトラはどんな顔をしているか」は
経験的、と呼べるけどクレオパトラははるか以前に死んでいて写真も残ってない。
クレオパトラを知っていた人も当然はるか前に死んでいる。これを経験的、と呼ぶ
ことは到底不可能だろう。だって経験的、というのは経験できるということ、即ち
見たり、聞いたりを直接出来る、ということなんだから。
やはりと言うか何と言うか「ここからは哲学的にややこしいのでよく理解して欲しいのだが」
と注意を促した点をやはり誤解、というか一足飛びに飛び越えられてしまったらしい。
>言語化されなければ真偽を言うことができないのも、言語化されれば言うことが
>できるのも、あまりに自明のことだ。
哲学者はまさしくこの「自明なこと」に辿り着く為に悪戦苦闘しているのだが。
もう一度繰り返したいが、言語が成り立つ(ア・プリオリに)時、「真偽」という
言語も(当然だが)<同時的に>成り立つ。そしてやはりそれと<同時に>
>「ある人は痛みを感じている」「ある人は赤い色を見ている」
等の言語表現も成り立つ。だからこれらの命題には簡単に「真偽」を付けられるようになる
というわけだ。ところがこれらの命題と「真偽」は<同時的>だから最初から「真偽」が定まっている
ようにはできない。
300さんはまず対象を素朴な実在論的に捉えて、命題は「真偽」が絶対的に定まる、と考える。
普通の人ならこの考え方で十分であり、話はこれで終わる。でも哲学者は違う。
>問題は真偽の「判定法」があるかどうかだ。
という問いには残念ながら実につまらない答えしかありえない。それは真偽の「判定法」
がある時には『真偽の「判定法」はある』し、真偽の「判定法」が無い時には『真偽の「判定法」は無い』
というものでしかない。言える時には言えるし、言えない時には言えない。これが<同時的>ということだ。
(これはアリストテレスの真偽観によく似ているが、より言語の根源的な考察から導かれたものだ。)
>>348 >これまた意味がわからない。端的な事実が、どうして「真偽」の形式で語れない
>のだろうか。
自分自身の「痛み」については「真偽」ではなく、「痛い!」ということだから。
もちろん「他人の痛み」について言えばこれまで何度となく言われたように、その人が
痛いフリをしている場合があり得るからこれについて「真偽」という形式を用いることは可能だ。
(ところが「哲学的ゾンビ」の場合は何が真で何が偽なのかを決定することが出来ない)
>>349 >つまり、内観的主体としての個人(『西田』で言う「彼」)の次元を認めないとい
>うわけだ。
まさか!!言語が成り立つ以上、「内観的主体としての個人」というものが普通に成り立っている以上、
これを認め“ざるを得ない”のは明らかではないか。僕が個人としてそれを認める、認めない
などということは最初から問題外だろう。
352 :
349:2006/12/03(日) 21:22:20
それならいちいち「無の場所」=<私>に持って行かずに、各人の私秘的クオリアを(も)認めるのが当然。
>>352 >各人の私秘的クオリアを(も)認めるのが当然。
これについてはそりゃそうだ、と言うしかない。言語が成り立てば「各人の私秘的クオリア」
ということが全く普通に言える以上、否定のしようが無い。(と345以下、300さんに説明してきたわけだが。)
>それならいちいち「無の場所」=<私>に持って行かずに
これについては「いちいち……持って行く」などということは出来ようが無い。
これが根源であって最初の出発点なのだから「持って行く」なんていうのは頓珍漢だろう。
354 :
考える名無しさん:2006/12/03(日) 23:46:15
「持って行く」というのは、もちろん議論を「持って行く」という意味だ。
そして、あなたは、いつもそうしている。クオリアに関して、それは余計だ。
355 :
300:2006/12/04(月) 12:26:04
>>350 >だって経験的、というのは経験できるということ、即ち
>見たり、聞いたりを直接出来る、ということなんだから。
これは相当問題含みではないか。そうすると、過去の事実に関する命題の
真偽はすべて経験的に判定できないことになる。もちろん超越論的にも
アプリオリにも真偽が判定できるわけではない。ということは、いわゆる歴史に
ついての命題はすべて真でも偽でもない、ということになってしまうと思うが
(本当は自分の過去の事実も含めてだが)。もっとも、永井は確かに歴史など
真面目に勉強する子供の気が知れない、とか言っていたが(笑)
>言語が成り立つ(ア・プリオリに)時、「真偽」という
>言語も(当然だが)<同時的に>成り立つ。
これも全く意味がわからない。アプリオリに成り立つ言語、とは、何のことだ。
そんなものは有り得ないと思うが。少なくとも「痛み」だの「赤い色」だのという
言語が、そういう経験抜きで成立することなど、考えられまい。
生まれ付き痛みを感じたことがない人でも、「痛い」という言葉を使うことはできる。
病院に勤めて、「ここが痛いと言っている(あるいはそれを示す外見をしている)
患者は、ここに案内しろ」とか「ここにこの注射をしろ」とかいう指示に従うことも
できる。(この事態を、「痛い」という言葉をめぐる言語ゲームに参加できる、とか
ゲームの規則を理解できる、とかいうのかどうかは知らないが。)
しかし、彼は「痛い」という言葉の本当の意味は知らないのだ。ある日突然
痛みを感じるようになったとしたら、彼は「痛いという言葉の意味が初めてわかった!」
と言うことだろう。また、すべての人間が痛みを感じないとしたら、そもそも
「痛い」などという言葉が成立するはずがない。
永井のいう私的言語ですら、まずある感覚(クオリア)の経験があって、それから
「しくい」とか何とかいう言語が成立するのであって、その逆であるはずがなかろう。
356 :
300:2006/12/04(月) 12:32:21
>>351 >もちろん「他人の痛み」について言えばこれまで何度となく言われたように、その人が
>痛いフリをしている場合があり得るからこれについて「真偽」という形式を用いることは可能だ。
申し訳ないが、真偽という「形式を用いることが可能」かどうかとか、真偽を「言う」
ことが可能かどうかとか尋ねているのではない。そんなことは、九官鳥でもテープ
レコーダーでも可能に決まっているのであって、哲学者が悪戦苦闘するには及ばない(笑)。
私が尋ねているのは、他人の心に関して、真偽という「形式を用いて」「意味を持って」
「言われた」命題が、「真であるか偽であるかの判定法」があるのかどうか、ということだ。
例えば、ある会社の社長が社員を集めて演説をぶった後で、社員が感想を話す。
社員A「やばいよ社長ものすごく怒ってたぞ。」
社員B「バカ怒ったふりをしていただけさ。いつもの手だろ。」
社員C「怒っているどころか、むしろ喜んでいたじゃないか。」
全員 「見方は人それぞれだな。しかし本当のところはどうなんだろ。重大問題だぞ。
社長に聞くわけにはいかないし、聞いたって本当のこと言うと限らないし、
どうしようかおい…」
この3人は「社長は怒りを感じていた」という命題について、「真偽」という形式を
用いて、真偽を「言う」ことができている。そして、自分たちが言った命題の真偽は、
自分たちの判断とは独立に定まっている、と思っているので、自分たちの命題が
「真なのか偽なのか」の判定法がないことに困っている。
357 :
300:2006/12/04(月) 12:34:48
ここで「真偽の判定法がないということは、真偽が定まっていないということだ
(だから、社長が本当に怒っていたとかいないとか言うことには意味がない)」と
言っているのがあなたで、
「真偽は定まっているが、それは社長本人しか知らないんだから(真偽の判定法は
他人にはないんだから)、考えたって仕方ないでしょ。」と言っているのが私だ。
私は現状ではこのように解釈しているのだが、それでよいのか。
一応お断りしておくが、社長が哲学的ゾンビである可能性は排除してもよい。
あなたの言葉を借りれば、問題はwhatではなくてhowなのだ。それとも、
「他人の心については、whatは定まるがhowは定まらない」というのが
あなたの考えなのだろうか。
(なお、「怒っていたとかいないとか、一口に言えない複雑な心境だった」というのが
正解かもしれないが、それは問題の本質と関係ないので念のため。)
まず300さんは一貫して素朴実在論的な意味で「真偽」を用いている。或る意味でこの時点で
問題は解決済みなので、いわゆる哲学議論は300さんに於いては訳の分らないものに
ならざるを得ない。(しかしそれでも訳が分るように見えてしまう、というのが「言語(ゲーム)」
の本質であり、ウィトゲンシュタイン哲学の真骨頂だが、これもやはり常識人には無駄以外の何者でもない。)
300さんの挙げる疑問はそれぞれが微妙で複雑な哲学議論が必要なことばかりで一朝一夕では
到底解決できないのだが(どうしてそんなことが必要なのかと300さんには思われるだろうけど)
以下何とか説明を試みる事にする。
まず「過去の事実についての真偽」については、例えば「西暦1600年関ヶ原で徳川家康率いる東軍と
石田三成率いる西軍が戦った」ということは我々に現在残された資料から「真偽」が言える事柄である。
だがこの時用いられる「真偽」というのは実はミスリーディングである。
というのもこの様な過去の事実については「真偽」という事は普通言わないからである。
こうした歴史を僕らはただ受け継いできただけなのだ。これがウィトゲンシュタイン
最晩年の「確実性の問題」で出された「(受け継がれてきた)世界像」ということ。
この世界像は疑うことが出来ない。これは「真偽」以前だから。
もちろん関ヶ原の合戦は実は無かった(これは色々な意味であり得るが)という資料が
発見されて、そしてその資料が確からしいということが学会や世間一般で定着すれば
これは「偽」と判定され得る。(実際これまで足利尊氏とされてきた肖像画が別の人物で
あったという事がほぼ明らかになり現在の教科書では訂正されている)
しかしこのようなことが歴史の事実とされる全てで起こることは無い。これが世界像だ。これは真偽以前だ。
>>355 次に
>しかし、彼は「痛い」という言葉の本当の意味は知らないのだ。ある日突然
>痛みを感じるようになったとしたら、彼は「痛いという言葉の意味が初めてわかった!」
>と言うことだろう。
についてだが300さん(や僕ら皆)は既に「痛み」とか「痛い」という言葉が成り立っている世界にいるので
それが成り立つ“以前”の世界をも見渡すわけにはいかない、ということを300さんは忘れている。
思い出して欲しいのだが「痛い!」という叫びや「痛み」という概念は自分で発明した言語・概念
ではない、ということ。これは大人達にそう教えられ、しつけられたのだということ。
(これがウィトゲンシュタインの「私的言語批判」で言われていることなのだ。)
>少なくとも「痛み」だの「赤い色」だのという
>言語が、そういう経験抜きで成立することなど、考えられまい。
これは確かにその通りなのだが、しかしこれも「痛み」や「赤い色」という言語が意味を持つ
世界の中に、既に、ア・プリオリに我々が存在しているので言える事なのだ。
根源的な<私>やクオリアがまず最初にあるはずなのだが、それを言語で言い表そうとすると
既に用意された言語を使わざるを得ない。言語があって初めて
「まずある感覚(クオリア)の経験があって」という表現が可能になるのだ。
(そして僕もこの言語の機能に乗ってそのようなことを書いたのだ。)
>>357 最後に300さんの「社長の本当のご機嫌」の例について。はっきり言ってこれは
よくない例だ。クレオパトラの顔の議論とは全然違う話になっている。
「社長の本当のご機嫌」は単純に社長本人に聞けば解決する問題でしかない。だから「真偽が定まって
いない」訳が無い。僕がこの様に言ったのははるか大昔に死んでいて写真も残っていない
クレオパトラの顔について言ったのであって、現に生きている社長について言ったのではない。
これはちょっと考えればすぐに分ると思うが。
哲学に於いては例の出し方が適切かどうかは重要な点だから細心の注意を払うべきだろう。
(と言ってもこれは哲学者に向かって言うべき事で、素朴実在論で充足している普通の人
に言うべきことではないのだが。僕は300さんが言いたい事は実にまっとうだと思う。
普通人としての僕なら全く異論は無い。
でも300さんは哲学者がどれほどひん曲がっているかを見くびっているね。)
361 :
考える名無しさん:2006/12/04(月) 19:40:00
勝手批評の哲学はそれとして成り立つと思うが、それを前提にして他人(永井を含めて)を批
判するのは(とりわけこのような短いスペースでは)無理ではないか? 例えば300さん
が主張するような実在論的な考え方もあって、その対立にはすでに長大な議論の蓄積がある
わけだし、永井のカント原理は実在論を可能にする原理なので結果的に実在論的なわけだ。
彼がこの原理を導入する理由を考えるなら面白いが、そういう文脈を無視して自分の反実在論
的直観を前提にして批判なんかしてもね。勝手批評さんには自分の哲学を独立に展開する独立
のスレッドを立ててもらうことにして、このスレッドでは、せっかく新著も出たのだから、話
をそっちに移したいな。たとえば72頁に出てくる×と<>の話って、みんな、知ってた?
>>361 300さんは「哲学的」実在論を述べているわけではないように見える。それにしては
議論のツメが甘いから。素朴な実在論を述べている人を哲学者とは呼べない。これは普通の人だ。
「反実在論的直観を前提」とは聞き捨てならない。「直観」などと言うとまるで議論無しに独断的に
反実在論を前提しているかのようではないか。僕はちゃんとした議論を提示しているんだから。
それから僕に「自分の哲学」なんて無い。僕が言っている事は永井氏や永井氏経由の
ウィトゲンシュタイン(と後はカント)の言っていることをそのまま切り貼りしているだけ。
このスレッドは永井氏の著作や考えに関する意見の交換が目指されているのだから
主旨に背いている訳ではないと思う。
例えば散々語ってきた<私>の言語化の話、即ちこれを「語り得ない」ことの構造の話は
『子どものための哲学』他で述べられている事そのもので、これに反発する人(127さん、Bさん)に対して
やはり一言言いたくなってしまう。永井氏の書いてる事をほぼそのまま持ってきただけ
なのに何故これに反対するのか。(永井氏の見解そのものに反対しているのなら理解できるが
Bさんなどは永井氏を崇め奉っていたりする。一体何を理解しているのかさっぱり分らない。)
363 :
300:2006/12/05(火) 12:19:29
>>358 歴史の問題については、スレのテーマと関係ない(一概にそうも言えないと思うが)
ので割愛する。不評のようだし(笑)。
>>359 >「痛い!」という叫びや「痛み」という概念は自分で発明した言語・概念
>ではない、ということ。これは大人達にそう教えられ、しつけられたのだということ。
だから、まさにそれこそ「アプリオリに成立する言語などなく、言語は経験に
よって習得するしかない」という意味ではないのか?
>300さん(や僕ら皆)は既に「痛み」とか「痛い」という言葉が成り立っている世界にいるので
>それが成り立つ“以前”の世界をも見渡すわけにはいかない、ということを300さんは忘れている。
それは単なる事実問題だ。新しい言葉や概念が社会的に成り立つのを経験することは
可能であって、別に不思議でも何でもなかろう。例えばある日突然それまで感じたこと
のない感覚を覚えて、他人に言うと「実は俺もだ」となって、どうもその感覚が
似たようなものらしい、ということになり、「痛い」という名前が付けられて…という
ことも有り得る。それが成り立つ以前の世界も以後の世界も見渡せて、何の不都合が
あるのだろうか。(といっても、原理的に過去は見渡せない、というのなら話は別だが)
この場合も、まず感覚があり、それから言葉が成立するのであって、
感覚は言葉とは独立に「素朴に・笑」実在するわけだ。
364 :
300:2006/12/05(火) 12:21:14
>>360 >「社長の本当のご機嫌」は単純に社長本人に聞けば解決する問題でしかない。だから
>「真偽が定まっていない」訳が無い
いまさらこんなことを言い出されても、非常に困り果てるのだが(笑)。
「ご機嫌」でなく「怒り」だが、「他人の怒り」は「他人の痛み」と全く同型の
「他人の心」の問題だ。それを「本人に聞けば真偽が判定できる」と言われても、
「本当のことを答えるかどうかわからないんだから、できないでしょ」と答える
しかないが。
そもそも、元々の論点は、私が
>>325で書いたの次の三つの原則なのだ。
1.ある命題について真偽が定まっている(意味がある)かどうかと、真偽の
判定法がある(あり得る)かどうかは、別の問題である。
2.他人の心についての命題は、真偽は定まっているが、判定法がない命題である。
3.他人の心についての命題の真偽と、他人の行動や言葉や自然的根源的反応(表出)
に関する命題の真偽とは、別個独立の問題だ。
2.の「他人の心についての命題の真偽」は、「本人に聞くこと」によって
判定できる、というのがあなたの考えなのか。それなら最初からそう言ってくれれば、
こんな面倒な議論などしないで済むのに。しかし、あなた自身が
「自分の痛みについて嘘をついたり演技したり偽装したりすることが有り得る」
と述べているので、明らかに矛盾してしまうが。
というか、そもそも他人の心についての命題の真偽は本人に聞くことによって
判定できるなら、
「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
という永井の言葉に、あなたが反対する理由がどこにあるのだろうか。
当人に「痛いのですか?」と聞いて「痒いのだ!」と答えられたら、「彼は痒みを
感じている」という命題が真なのだろう。何も問題ないではないか。
365 :
300:2006/12/05(火) 12:26:17
ついでに書くと、もしあの3人の社員が勇気を出して「社長はあのとき
怒っておられたのですか? それとも喜んでおられたのですか?」と聞いた場合に、
「怒っても喜んでもおらん。会社の業績の悪さに対する嘆き、無能な社員どもに対する
腹立ち、そんなやつらを雇ってしまったことに対する後悔、しかし彼らより自分は
はるかに優秀だという自覚、自分の顔色をうかがい自分の言葉に一喜一憂する連中を
叱咤するときの、何とも言えない快感、こいつらを存分にこき使ってこれから業績を
上げて見せるぞという決意、そういうものがないまぜになって一体化したとき、
わしにはいつも、何とも言えないある独特の『感じ』がこみ上げてくるのだ。最近は、
おまえらに向かって演説するたびに、その同じ『感じ』を味わうので、実は密かな
楽しみですらある。適当な言葉が何もないので、わしはそれを『しくい』と呼んでおる!」
と答えたとする。
これを聞いた3人は、「社長は怒っていたのでもなく、喜んでいたのでもなくて、
意味はよくわからないけど『しくかった』らしい」と思うほかあるまい。
他人の心に関する命題は当人に聞く以外に真偽の判定法がないのなら、なおさらだ。
そのうち、この『しくい』が社内で流行し、確かに意味も何となくわかるな、
出来の悪い部下を叱るときに感じるあの気分は『しくい』と呼ぶほかないな、と
感じる人が増えてくれば、『しくい』は私的言語から公的言語に格上げされることも
有り得るだろう。
この「しくい」と「痛い」の間にどういう本質的な違いがあるのか、
私にはよくわからないのだが。
>>363 >例えばある日突然それまで感じたことのない感覚を覚えて、他人に言うと
>「実は俺もだ」となって、どうもその感覚が似たようなものらしい、ということになり
まず第一に何故、他人に言うと「実は俺もだ」となるのか?そして何故、二人の有している感覚が
「どうも似たようなものらしい」と分るのか?
他人の感覚“そのもの”は分らないはずなのに。(それ故、『哲学的ゾンビ』というものが想定
できるとされたのだから。)
それはこの二人に(そして皆に)共通の言語があるからである。もちろんもっと限定的にこれを
「日本語」と呼んでもいい。そしてそれ故に
>まず感覚があり、それから言葉が成立するのであって、
>感覚は言葉とは独立に「素朴に」実在するわけだ。
というように言語成立後の世界と言語成立以前の世界を見渡した表現も可能になるわけだ。
「まず感覚があり、それから言語が成立する」というのは自然で素朴な、僕らの実感に沿った
表現だけど、これは言語無しにはあり得ない。(だから「まず感覚があり」というのは『語り得ない』)
>>364 まず整理しておくと、300さんが最初に「クレオパトラは本当はどんな顔をしていたか」
という問いを立て、これは「真偽が定まっている」と述べた。
これに対する反論としてクレオパトラがはるか昔に死んでいて彼女の顔写真やデスマスク
が現存していないことを挙げた。
これに対して300さんは現に生きている社長の怒りの例を挙げたがこれは「クレオパトラの顔」
の議論とは根本的に違うものである。(これに対して「歴史の問題については、スレのテーマと関係ない
(一概にそうも言えないと思うが)ので割愛する。不評のようだし(笑)」などという返しで誤魔化すの
は不誠実極まりない応答だと言わざるを得ない。素直に「クレオパトラの顔」の例は
不適切だった、と認めるべきだ。)
現に生きている人間の「怒り」や「喜び」や「痛み」はほとんど外見で分ることである。
例え外見で判断できなくてもその人に訊いてみればほとんど分る。その人が人を
欺こうとする特別な場合を除いて。(だから「あなた自身が 「自分の痛みについて嘘をついたり
演技したり偽装したりすることが有り得る」 と述べているので、明らかに矛盾してしまうが。」
というのは明らかな誤解。矛盾どころではなく外見を偽る事などよくあることだ。)
蛇足だが『(笑)』というのは止めて欲しい。不愉快極まりない。
>>364 >「痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
>ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。」
>という永井の言葉に、あなたが反対する理由がどこにあるのだろうか。
これについては過去レスで何度も言及したことで、簡単に繰り返せばその『<実は>痒みを
感じている』の<実は>とは何か、というところに尽きる。何故この人は本当は痒みを
感じているのに「痛そうに」振る舞うのか。「痒み」ということの普通に受容された意味を超えている
ではないか、と。これは275さんの指摘を受けて323で議論を展開しているのでそれを参照して下さい。
>>365 ここで言われているようなことはもちろんあり得る。しかしここで問題になるのは
どうやってこの「しくい」という語が<しくさ>の感覚と合致するのか、という点である。
感覚“そのもの”は言語ではないから。(これは「痛み」のような普通の感覚語でも同じ)
それは「しくい」という語が与えられて、なおかつその使用法が定着して初めて有意味と
なるのだ。そして「痛み」や「痒み」の場合はその使用法が定着しているが「しくい」の場合
はそうではない、という結論に至る。それ故
>この「しくい」と「痛い」の間にどういう本質的な違いがあるのか、
>私にはよくわからないのだが。
という300さんの問いはその語が現に流通しているか、していないかの違いである。
これは大きな違いであるし、またほんの僅かな違いである、とも言える。
>>263 >>
>>99の勝手批評さんの指摘は、永井の私的言語論の根幹にかかわる問題点です。
>根幹にかかわるどころが、どう見ても100%まとはずれ。
>単に(ウィトゲンシュタイン的に)素朴なだけで。
>そのうえ、甲虫の問題は独我論の「同じ形式を有して」いないんですよ。そこがポイント。
>なぜなら「甲虫問題」は、カント的vsウィトゲンシュタイン的、の対立の問題で、
>ライプニッツ原理が関与しない問題だから。だから最初から「誰もが理解できる」問題。
>その(対立の仕方の)区別こそがあの議論の本質じゃないですか。
永井の想定としては、「実は痒い」は、超越的に私秘的な〈感覚〉のことではないですか。
(もちろん、想定されえないものへの、だから指示しえないものへの指示として、ですが)
だとしたら、その「実は」こそが、ライプニッツ原理によって、まさに〈実は〉でしょう。
永井は、ウィトゲンシュタインが「あるものではない」として消し去った〈それ〉を
現に〈あるもの〉= 実は〈痒い〉として超越論的に要請したのではないでしょうか。
だから、痒いのか、痛いのか、はどうでもいいことで、実は〈……〉ということが、
〈私〉において〈ある〉ので‘なければならない’ということが言いたいのでしょう。
カントが、現象界(指示しうるものの世界)の根拠として、その外部に「物自体」の世界を
考えたのと同じで、ウィトゲンシュタインでいう「形而上学的主体」=「実在」の想定では
ないでしょうか。ですから、当然ウィトゲンシュタイン的「独我論の形式を有している」と
(少なくとも永井はとらえていたと)考えるべきではないでしょうか。
だからこそ永井にとっては「甲虫の消去」は、独我論的実体〈私〉の消去に他ならなかった。
永井は、ウィトゲンシュタインが断念した〈私〉について問うているのですから、かれを批判
しなければならないのです。(その批判は、勝手批評さんの再批判をかわすことはできて
いないけれど、今はまだ)
>>330 Bさん
>すまないけれど、以上のような理由もあって勝手批評さんに全面的に賛同する
>カオルには永井均の議論が理解できているとは思えない。
まず、わたしはだれかの議論に全面的に賛同する、というような姿勢で
哲学はしていません。ですから、そのような批判は撤回してください。
つぎに、わたしが永井の議論を理解していない可能性はあります。
けれど、それを「指摘するということ」は、今までのわたしの議論や
今回のわたしの指摘にたいして「きっちりと反論してみせる」ということで
なければならないと思います。それが批判することに伴う責任ではないですか。
今のままなら、たんなる悪口、たんなる批難にしかならないのではないですか。
>誰かを非永井均的だと批判したりするには、当然永井均をしっかりと理解しておかねばならないし
>それができていないのならばそういう批判はすべきではない。
>これは評価云々の前の問題だろうか。
すでに言いましたが、ここまでわたしを批判するのなら、きっちりと納得のできる
議論をしてください。それができないのに批判だけすることは無責任ではないですか。
>蛇足になるが、うがった見方かもしれないけれど、
>どうも私には、カオルが勝手批評さんと私の双方をけしかけている様に見えるんだけど。
勝手批評さんに正々堂々と向き合っていないように思えたからです。
復帰したのも、わたしの「有意義な議論をしてくれるように」という期待が
裏切られた、と思ったからです。もちろん、わたしが身勝手なのは承知です。
>Bさんへ
――――『探究』293節、「甲虫」の比喩について――――
永井は『〈私〉のメタフィジックス』では、ウィトゲンシュタインの「甲虫」の比喩を
他我問題における他者の心の問題についての文脈で持ち出しています。
人々は、心ある振舞いをする私の内面を覗いて心の存在を確認したうえで、
私に心があると認めたわけではない。だが、「心」とは定義によって内なる
ものである。したがって、私の諸々の心ある振舞いの背後に何があろうとも、
‘そこに’あるものがすなわち「心」なのである。(同書 21n)
これは「心の表現の文法」における‘あるもの’としての‘心’の用いられ方です。
わたしたちの日常は、心をそのようなものとして理解することで成り立っています。
また、そのような理解が共通理解であるかのようにして機能することを可能にして
いるのが「生活形式」、つまり「箱」です。
さらにまた、その生活形式において‘あるもの’とされている‘心’が「甲虫」です。
このようにとらえて『探究』293節を読むと、とてもわかりやすいかな、と思います。
わたしたちは、生活形式の一致(箱)において‘あるもの’
とされている‘心’(甲虫)と呼ばれるものを信じています。
他人の心は覗けないけれど、だれもが「自分の心を覗けば、
自分の心を知ることができる」と言うことでしょう。
けれども、心がそれぞれちがうことは当然ありうることでしょう。
また、それが絶えず変化していると想像することもできるでしょう。
さて、もし心という語に一定の用法があるとしたらどうでしょう。
それは、‘あるもの’を表示する用法ではないでしょう。
(ロボット問題を想起してください!)
心は、‘あるもの’として言語ゲームには属さないでしょう。
なぜなら、心は‘ない’のかもしれないからです。
だから、‘あるもの’としての‘心’は‘通り越して短絡させる’
ことが可能なのです。何であろうと、それは消去されるでしょう。
でも、心は心の表現の文法では‘あるもの’とされているのだから、
たとえロボットの心(プログラム)であっても、‘あるもの’の表現で
‘なければならない’というのが、永井の主張でしょうか。
>Bさんへ
『痛みを感じるべき場面で痛そうに振舞いながら、しかし実は痒みを感じている、
ということはつねに可能であり、それを決定するのは感覚を持つ当人である。』
について考えてみました。以下、
実は痒いという感覚実質(*1)があるとしても、言語ゲームからは抜け落ちます。
なぜなら、脈絡と表出の外部(*1)については、記述できないからです。
もし痛みの実質が、共同体における生活形式の一致の外部にあるものなら、
それが感覚であるとか、痛みの実質であるとか、言うことさえできません。
なぜなら、今までに経験してきた感覚実質(*2)の一切が、比べうる基準に
ならないということが、それ(実は痒い)が外部(*1)であるということだからです。
ですから、実は痒い、と言うことさえできないのです。もし言うことができるなら、
それは、実は痒いのではなく、たんに痒い(*2)のです。
この次元においてはじめて、たとえば神経生理学的に感覚実質と脈絡や表出が
乖離してしまうような人物の、たんに痒い、の想定が可能になるわけです。
*1 超越的に私秘的な〈感覚〉 *2 個人的(人格的)に私秘的な「感覚」
>Bさんへ
わたしたちは、感覚の表現の文法を「対象とその表記」という範型によっても
構成していると思いますが、当の対象は、考察から抜け落ちてしまうでしょう。
しかし「経験における感覚実質が、当の対象を規定する基準に用いられる」は、
それが、生活形式の一致における使用として、感覚の表現の文法に含まれる
のではないでしょうか。(「心」のように、あるかどうかに関与せずに、です)
それだから、当の対象は自己言及的かつ自己帰属的な主体「私」の自己知
の対象として、言語ゲームに関与している、というのが永井の主張でしょう。
だから、対象についての表明は自己知の対象としての‘あるもの’についての
表明である、と。(だからそれは、当の対象ではなく、自己知の対象でしょう)
たとえば、「私は痛い」と表明したときの自己知の対象は、当の対象を直接
経験という基準に照らして規定しうるとしたときの「痛み」のことになるでしょう。
痛み(自己知の対象)が、当の対象(感覚実質)であるかのように考えるのは、
感覚の表現の文法が、当の対象を規定しうるかのように錯覚させるからです。
当の対象が自己知の対象になりうるのなら、たとえば「私は痛いけど、それを
知らない」が「痛くないこと」とは「別のこと」として有意味でありうることでしょう。
しかし、私が痛いとき、私がそれを知らない(痛くない)ことはできないのです。
この意味で「痛い」は‘あるもの’としての自己知の対象にはなりえないのです。
>>374 >しかし「経験における感覚実質が、当の対象を規定する基準に用いられる」は、
>それが、生活形式の一致における使用として、感覚の表現の文法に含まれる
>のではないでしょうか。(「心」のように、あるかどうかに関与せずに、です)
しかし「直接経験における感覚実質の記憶が、当の対象を規定する基準に用いられる」は、
それが「生活形式の一致における感覚の表現の使用における形式」として、感覚の表現の
文法に含まれるのではないでしょうか。(心の表現の文法のように‘あるもの’として、です)
に訂正します。(^_^;)
『西田幾多郎』をざっと読んでみて思ったのが,今までの永井だったら,「このような
西田の言葉を私(永井)が理解できるのはどういうことか」とか,「この本の内容を
読者が理解したとすれば,それはどういうことなのか」という問をさらに立てていたと
思うんだけど,今回はそれが見当たらない。『私・今・そして神』でも,似たような
ことを思った。こっちでは最後にちょっと書いてあったけど。
やはり,最近はテーマが少し変わってきたんだろうか。
>>376 >『西田幾多郎』をざっと読んでみて思ったのが,今までの永井だったら,
>「このような西田の言葉を私(永井)が理解できるのはどういうことか」とか,
>「この本の内容を読者が理解したとすれば,それはどういうことなのか」
>という問をさらに立てていたと思うんだけど,今回はそれが見当たらない。
「第三章―私と汝―私は殺されることによって生まれる」の議論が
それではないかと思います。
ですから逆に、殺されることによって生まれたこの「私」を殺そうとする
ことによって為そうとしている試みが、独在性の、〈私〉の、議論でしょう。
とはいえ、永井は「私は、本書で書いたような問題そのものに関心があり、
さらに別の角度から、それを研究していきたい」(あとがき)と書いています。
(小冊子だし、西田幾多郎の解説書なのですから、仕方ないですよね)
ところで、永井のいう「別の角度」からの研究とは、どういうものなのか?
おそらく、端的に理解するのでなければ理解されないような93nの図解の
一番下に書いてある「それが‘すなわち’言語」であることについての研究
ではないかと思います。
ですから、この辺りはもう西田哲学の解説の範疇を逸脱して、西田哲学を
利用した永井哲学になってしまっていますね。
まあ、「独立に哲学しているのだから〜本書の内容は、じつは西田幾多郎
とは関係ない」(はじめに)と書いていますから、徹頭徹尾そうなのでしょう。
(蛇足ですが、「無」を「今」に置き換えてみたら面白いかな、とも思いました)
378 :
考える名無しさん:2006/12/25(月) 09:28:21
>「この本の内容を読者が理解したとすれば,それはどういうことなのか」
>という問をさらに立てていたと思うんだけど,今回はそれが見当たらない。
まさにその関係が、西田と田辺の関係に置き換えられているんだよ。
そういう観点から、いろいろ議論があった西田と田辺の関係を解明してみた、
結局、それがこの本のすべてではないか?
>逆に、殺されることによって生まれたこの「私」を殺そうとする
>ことによって為そうとしている試みが、独在性の、〈私〉の、議論でしょう。
と同時に、西田では「自覚」。
ゆえに、必然的に「境地」的に「読み替え」られることになる。
つまり、「境地」は実はそういう言葉にすぎない、というわけ。
>おそらく、端的に理解するのでなければ理解されないような93nの図解の
>一番下に書いてある「それが‘すなわち’言語」であることについての研究
>ではないかと思います。
そうそう。だから、西田=永井哲学は言語哲学というわけだ。
田辺哲学や分析哲学のような言語に乗っかってそこから始まる哲学ではなくて、
言語の成立にいたるまでの哲学。
だからお互いに話が通じない・・・
明けましておめでとうございます。
昨年は、わたしのせいで不快な気持になってしまった人も
今年は、リセットしてもらって、ともに歩めたらと希望します。
真理を探究するすべての魂が、わたしの隣人、同志です。
思索が、それだけが幸であるような魂を、わたしは愛します。
このスレが、そのような幸を招くスレになるように祈ります。
それから今年も、どうかカオルをよろしくお願いします。(^.^)
380 :
考える名無しさん:2007/01/05(金) 19:25:14
哲学版は、内容劣化で活気なし。
真の哲学好きが集う良質のこのスレも、最近は活気なし。
カオルさん、盛り上げてくださいね。
381 :
考える名無しさん:2007/01/06(土) 20:47:24
『西田幾多郎』の最後の節は、ものすごく難しい。
だれか、解説してくれー。
永井の本はお子様ライス。
383 :
考える名無しさん:2007/01/07(日) 11:07:33
>やはり,最近はテーマが少し変わってきたんだろうか。
テーマが逆転しているきているのではないか?
「奇跡的」なのは、
<私>の存在の方ではなく(これはいわば自明な前提で)、
それを、他の人も使う「私」という語で表現可能にさせる
言語という仕組みがなぜか存在していることの方だ、と。
驚き方が逆になったというか・・・
<私>が形而上で自明化してヲタたちが大喜び。
>>378さん
>と同時に、西田では「自覚」。
>ゆえに、必然的に「境地」的に「読み替え」られることになる。
>つまり、「境地」は実はそういう言葉にすぎない、というわけ。
自覚「自己が自己に於いて自己を見る」が境地的なのは、自己の創出が、
あたかも純粋経験それ自身の自己触媒に依拠しているかのように見える
ことにあるのではないでしょうか。
言いかえるなら、純粋経験それ自身の自己言及が自己を限定し、
それに覚醒する(自覚)というような自己創出「自己が自己を生む」の
プロセスの排他性が、いかにも独在性の〈私〉への‘気づき’に似て境地的です。
これは、田辺の「場所は自発的に自己を限定するものではない」(85n)の
議論のことですが、ここから先が永井の本領発揮といったところでしょうか。
西田哲学の解説としては賛成しかねる議論ですが、面白い議論ではあります。
さらに、自覚のアンチテーゼ「自己が他者に於いて自己を見る」を考えてみると
そもそも独在性の〈私〉のような比類なき自己の於いてある場所が「自己に於いて」
である根拠あるいは必然性がいったいどこにあるのか、という疑問もあります。
自覚とは「自己が自己に於いて」となること、すなわち「自己」が於いてある場所
(究極的には)「絶対無の場所」そのものになることなのだから、かりに「自己に於いて」が
「他者に於いて」になってしまったら、そもそもの「自覚」という事態――独在性の〈私〉への
‘気づき’が類似的な事態でしょうか?――が契機しないのかもしれない、と思っています。
もしそのような事態がありうるのだとしたら、それはいったいどのような事態のことなのか、
などと考えています。
>だからお互いに話が通じない・・・
〈私〉は、なぜ「私」なのか? / 「私」は、なぜ〈私〉なのか?
一方を自己と規定した場合、もう一方が非自己となるのなら、このような問いが
生まれるのは、当然のことように思われます。かりにそうなら、〈私〉と「私」との
自己同一性も、意外に危うい均衡の上に成り立っているのかもしれませんね。
さて、田辺の絶対無の扱いが、それを非概念的なものという概念(意味あるもの)
として扱っていることになるのなら、たしかにそれは言葉にすぎないのでしょう。
しかし田辺にとって、それ(意味があるということ)は、「この私」を殺す思想として
私たちの世界に於いて力を持ちうる、ということでもあったのではないでしょうか。
最後の一般者によって諸段階の存在が超越的ノエシスに収摂せられると共に
非合理的現実も単なる影の存在となり、行為も観念的生産に化することを免れない。
かくして現われるものは一切にたいする諦観に外ならないのである。
――――田辺 元『西田先生の教を仰ぐ』より
西田を追い「境地」に赴いた田辺は、しかしそこが「この私」がタナトスの〈私〉に
出会う場所であり、そこで「この私」が無に帰する(殺される)場所でもあることを
垣間見たのかもしれません。
田辺哲学、というより田辺の西田批判が「通俗的な意味で倫理的」(79n)というなら、
それは田辺が「この私」の生という幻影(人間の生)をこそ肯定していたからでしょう。
西田にしても永井にしても、「自己が自己に於いて」となる「純粋経験」の描写は
とても穏やかなものです。でも、この「私」にとって、絶対無〈私〉は恐ろしいもの
でも‘なければならない’ように思うのです。
>この「私」にとって、絶対無〈私〉は恐ろしいもの
>でも‘なければならない’ように思うのです。
後期西田哲学において、〈私〉と「私」との相克についての議論は
あきらかに深まっています。その一例の一部を引用しておきます。
絶対矛盾的自己同一の世界においては、
主と客とは単に対立するのでもない、
また相互に媒介するのでもない、生か死かの戦である。
絶対矛盾的自己同一の世界において、
直観的に与えられるものは、
単に我々の存在を否定するのではない、
我々の魂をも否定するのでなければならない。
単に我々を外から否定するとか殺すとかいうのなら、
なお真に矛盾的自己同一的に与えられるものではない。
それは我々を生かしながら我々を奴隷化するのである、
我々の魂を殺すのである。
環境が自己否定的に自己自身を主体化するということは、
自己自身をメフィスト化することである。
直観的世界の底には、悪魔が潜んでいるのである。
── 西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」から
絶対矛盾的自己同一『わたし』――〈私〉と「私」との矛盾的自己――の自明性が、
いかに奇跡的なことなのかが示されていると思いますし、かつて『善の研究』では、
「実在は善」とされていたものも、あきらかにその様相を一変させています。
永井は、後期を無視しているので捉え方が一方的なように、わたしには思えます。
>>387 >永井は、後期を無視しているので捉え方が一方的なように、わたしには思えます。
まあ、現実にはあの小冊子では無理ですね。
でも、永井には絶対無の場所が、この「私」にとっては、絶対の他でもありうることが
まったく想定できていないので、たとえスペースがあったとしても内容は変わらない。
はじめに絶対無の〈私〉ありき!で考えていくことの盲点ですね。
>>380 >カオルさん、盛り上げてくださいね。
応援ありがとうございます。(^.^)
わたしの観点は、いつも皆さんとズレまくってしまうので
臆してしまって、今日のも、エイッ!って感じなんですよ。
時間も取れなくて見ての通りなかなか書き込めないけど
できるだけ頑張りたいと思います。
是非、あなたも参加してください。よろしくお願いします。
390 :
考える名無しさん:2007/01/12(金) 19:49:15
>>388 カオルさんの言う、この「私」、とはどういう意味ですか?
(私は、単独者としての私、と解したんですけど・・・)
絶対無の<私>と、この「私」と、の違いを分かりやすく説明してください。
絶対無の<私>からは盲点になり、この「私」からはみえる事(永井哲学の盲点?)とは、どんなことですか?
以上のこと詳しく説明お願いします。(読解力がなくてすみません。)
>わたしの観点は、いつも皆さんとズレまくってしまうので
「自分は変わってる」と言ってにやけるやつが世の中に一番多いかもな(w
特に永井信者と来たら(w
>>390 >(読解力がなくてすみません。)
「すまない」と謝るくらいなら、読解力を身につけましょう。
男の子でしょ、がんばれ!
>>391 >「自分は変わってる」と言ってにやけるやつが世の中に一番多いかもな(w
>特に永井信者と来たら(w
自分こそが変わり者だと自負する大衆の一人であるあなたが
まったくもって平凡なわたしに反感を覚えるのは当然ですね。
でもそのような匿名の他者と戯れたって仕方ないように思うよ。
心理的オバケとしての他者ではなくて、現に今ここの〈私〉の
話しをしようよ、というのが永井均の提案ではないですかね?
あまりに平凡で当り前すぎるから、個性的で変わったことが
好きなあなたの興味はひかないかもしれないけどね。(^.^)
393 :
考える名無しさん:2007/01/14(日) 14:27:09
西田幾多郎―「絶対無」とは何か
最新刊読んだ人だれかいませんか〜?
読んだ人がいないわけではない。ただ,難解で手がつけにくいんだろう。
少なくとも自分はそう。
>>392 うえ、永井の嫌らしい論運びそのままじゃん(ww
396 :
考える名無しさん:2007/01/14(日) 18:28:01
おお! カオルさんはあらしにもまじめに応答するんだ。
それでは、ぼくもちょっとだけまねして:
> <私>が形而上で自明化してヲタたちが大喜び。
わかってないな。全く逆なのに。
「ヲタたち」はすっかりつまらなくなって、離れているんだよ。
<私>の存在は奇跡でなくなって、言語の存在が奇跡になったんだから。
良く言えば非常に本格的な哲学になったし、悪く言えばただの普通の哲学的議論になった。
それゆえに、普通に難解にもなっている。
いいことじゃないですか?
>>396 荒らし?
出版社にゲタはかされてた永井の価値て今急激に化けの皮はがされて
暴落してるわけ。
言語論的転回に回帰したって、永井のことだから、
想定してる読者は相変わらず女子供と知恵遅れなわけでしょ?
だいたいあの天井天餓唯蛾独尊的な賤民特有の独裁志向は
変わるはずがないじゃん。血液レベルで既に卑しいの。
398 :
考える名無しさん:2007/01/14(日) 20:30:25
>>396 ちがうな。
どちらか一方が奇跡という関係ではなくなったんだと思うよ。
「普通」というなら、普通の超越論哲学になった、とはいえるかもしれない。
<私>と言語=世界のどちらを基盤にするかが決定不可能な、相補的関係だ。
カントの、超越論的観念論=経験的実在論、という関係と同型だと思う。
>>398 >「普通」というなら、普通の超越論哲学になった、とはいえるかもしれない。
>〜 カントの、超越論的観念論=経験的実在論、という関係と同型だと思う。
前著では、カント哲学を開闢された世界の原理として承認するという仕方で、
今著では、ドイツ観念論が「私」を対象化される以前の現場でとらえていること、
そのことを「画期的」と評価していますね。(今著 68〜69n)
しかし、その画期的なとらえかたのさらなる純化という一歩を踏み出したのが
西田の「場所」の概念であり、その究極における「絶対無に於いて」を、〈私〉と、
位置づけて解釈しているのだから、やはり「超越的独我論−超越論的独我論」
という対比が、忘れられているわけではないでしょう。
確かに「超越的独我論−超越論的独我論」が「超越論的独我論−経験的実在論」
に読み替えられてしまうその仕組みを、〈私〉に嵌入する〈他者〉という構造によって
示して(視覚化して)しまうこと(第三章三節の議論)が、その実相を取り逃がして
しまう、という意味では「普通の超越論哲学になった」と言えるのかもしれません。
しかしそれ以前に、そもそも、
西田哲学に対する誤解の原因は、西田自身が境地的自己理解から哲学的洞察を
〜 分離できなかったところにあるように思われる。(99n)
というような議論の閉じ方で、永井自身の議論だけは救い出せるものなのでしょうか。
なぜなら、永井の議論への評価も、その多くは「〈私〉の存在の比類なさ」という「体験」
の有無に還元されうるものだろうからです。
なるほど!という実感を持てない人に、一体どうやって‘それ’を理解してもらうのか。
そもそも‘それ’は理解されては‘ならないもの’だったのではないか。理解されては
ならないとは「〈私〉の存在の比類なさ」というものが‘実感’だからではなかったのか。
「別の角度から」(109n)というようなことで「誤解の原因」は取り除けないように思う。
>>399 >永井の議論への評価も、その多くは「〈私〉の存在の比類なさ」という「体験」
>の有無に還元されうるものだろうからです。
全然違うでしょう。。
むしろ「〈私〉の存在の比類なさ」なんて当たり前のことで、
《で、だからどうしたの?》っていう感じなんだよね。。。
401 :
考える名無しさん:2007/01/15(月) 15:58:10
>カオルさん
カオルはさんの文章は、相変わらず、何を言ってるのか分からない。
ホントに自分でもよく分かってるのかな。(Bさんの苛立ちがわかる気がする。)
哲学ではなくて、詩に向いているのでは?
ちなみに、大森荘蔵は、他人にきちんと説明できないことは自分でも分かっていない、と言っていた。
402 :
考える名無しさん:2007/01/15(月) 16:53:14
>>399 >「体験」の有無に還元される。
永井の「〈私〉の存在の比類なさ」の議論は、用意周到で丁寧なので、
内省・自己観察と思考がきちんと出来る人ならば、特別な体験というほどの体験がなくとも理解できる。
ただし、当たり前すぎて分かりにくい、ということは確かだろう。
また、別の面からみれば、どんな哲学であれ、日常を越えた特殊な体験(や直観や感覚)が必要とも言える。
基本的には、哲学は読者を選ぶ。
>>399 >前著では、カント哲学を開闢された世界の原理として承認するという仕方で、
>今著では、ドイツ観念論が「私」を対象化される以前の現場でとらえていること、
>そのことを「画期的」と評価していますね。(今著 68〜69n)
>しかし、その画期的なとらえかたのさらなる純化という一歩を踏み出したのが
>西田の「場所」の概念であり・・・
(こちらのスレも覗いてみました。こちらもたぶん話は通じていないと思うので
過去ログを読むのはやめておきましょう・・)
デカルトが「我」を実体化したのに対して、カントは「我」を〈はたらき(機能)〉と考え、
それによって、実体ではない「主観」が確立されたということは別のスレで書きましたが、
その近代的な主観・客観対立問題を考えることは(西田哲学に限らず)現代の哲学の
課題の一つであったわけで、西田哲学の場合は、それが「我は、我ならずして、我なり」
という(ヘーゲル的でもあり東洋的でもある)弁証法的な方法だったということでしょうね。
>>399 >しかしそれ以前に、そもそも、
> 西田哲学に対する誤解の原因は、西田自身が境地的自己理解から哲学的洞察を
> 〜 分離できなかったところにあるように思われる。(99n)
>というような議論の閉じ方で、永井自身の議論だけは救い出せるものなのでしょうか。
>なぜなら、永井の議論への評価も、その多くは「〈私〉の存在の比類なさ」という「体験」
>の有無に還元されうるものだろうからです。
>なるほど!という実感を持てない人に、一体どうやって‘それ’を理解してもらうのか。
〈実感した者にしかわからない〉という発想は、哲学を放棄することであり、
言葉を放棄することでしょう。
鈴木大拙なども体験が必要であることをよく言いますが、それは宗教的境地の「究境地」、
つまり最後の一歩のところについて言っているのであって、それを誤解して
〈実感した者にしかわからない〉ということを拡大解釈すると、オカルト的になってしまいます。
永井均が、西田哲学は高遠な思想ではなく、卑近な事実を述べているにすぎないと
言っているのはおそらく、西田哲学が神秘主義的なものではないことを言うための
誇張した言い方でしょう。
西田哲学は、卑近な事柄としても理解できるけれども、それは宗教的な「究境地」の事柄でもある。
「我は、我ならずして、我なり」という矛盾的自己同一は、卑近な事柄で言えば、たとえば
スポーツ選手が雑念を離れて無心になれたときに良い記録がでたとか、無名の陶芸作家の、
美への狙いなど何一つ持たない心によって陶芸の美が生まれると柳宗悦が言っているような
事柄として理解できる。
と同時に、「我は、我ならずして、我なり」の矛盾的自己同一を、本当の意味でわかることは、つまり
〈色即是空〉〈多即一〉を本当にわかることであり、それは宗教的な「究境地」の事柄でしょう。
しかしその「究境地」の寸前、一歩手前までは言葉と論理で説明できると考えるから、
鈴木大拙も西田幾多郎も書くことをやめなかったわけでしょう。
『西田幾多郎』の中で,とりあえず,「言語」の扱いについてよくわからない点を書いてみる。
(1)まず,第2章だと,「純粋経験それ自体が言語を可能ならしめる内部構造を内に宿している」とか,内側
からの叫びのような音声を自ずと分節化させる力と構造が,経験それ自体の内に宿っている」とかいうことに
よって,言語が可能であるとされているように読める(p47,65)。その内容として,ただ「こうである」と
しか言えないようなものが,似たようなものが寄り集まったり組織化されていくことにより,言語ができる,
といっているように見える。このような言語を,便宜的に,「分節化による言語」と呼んでみる。分節化に
よる言語は,既存の概念等によらない経験そのもの(?)をもともとの出発点にして,それがいろいろ区切ら
れたり概念的にまとめられたりすることによって,出来上がる言語のように思える(p63,64)。
(2)一方で,第3章では,「汝」が別の無の場所として登場してくるということが,すなわち言語の成立そのもの
である,などとしている(p91〜93)。これについては書いてある内容自体が難解だが(『私・今・そして神』で,
「ありえないはずの他の「私」の存在」などとされているような問題だと思われるが),これも便宜的に,
「汝の登場による言語」と呼んでみる。
(3)さて,「分節化による言語」と,「汝の登場による言語」とは,同じものなのか,違うものなのか。
すでに書いた内容からして全く同じとは思われないが,そうすると,どういう関係にあるのか,順序とか必然的な
つながりとかはあるのか。例えば,「分節化による言語」は成立しているが,「汝の登場による言語」は成立して
いない,とか,あるいはその逆とかいうことは,あり得るのか。そして,特に,「分節化による言語」は成立するが
「汝の登場による言語」は成立しないことがあり得るとしたら,その状態は,汝(他の私?)などというものはない
が,それ以外の点に関しては,きちんと分節化して言語を使うことができて,独我論的には万々歳である,という
ことにはならないのだろうか。ならないとしたら,その理由は何なのか。
我ながらまとまってなくて失礼。
>>400 >むしろ「〈私〉の存在の比類なさ」なんて当たり前のことで、
>《で、だからどうしたの?》っていう感じなんだよね。。。
わたしは「〈私〉の存在の比類なさ」なんて感じたことがないんですよ。
忘れてるだけかもしれないけど、記憶されることでもないのじゃない?
だったらどうしてそのようなことを当り前のことみたいに言えちゃうの?
わたしには当り前じゃないから《だからどうしたの?》ってならないの。
>>401 >カオルはさんの文章は、相変わらず、何を言ってるのか分からない。
>ホントに自分でもよく分かってるのかな。(Bさんの苛立ちがわかる気がする。)
よく分からないことについて考えているので、よく分からないのも当り前かと。
>>402 >永井の「〈私〉の存在の比類なさ」の議論は、用意周到で丁寧なので、
初めて永井の本『〈子供〉のための哲学』を読んだときにものすごく感じました。
わたしの経験にないこと「〈私〉の存在の比類なさ」について話されていたので
まったくわけがわからず、しかも議論そのものを批判しようとしても論理的には
まったくもって用意周到に丁寧に防御されていて手がつけられなかった悔しい
想い出があります。この人の専門はきっと分析哲学だとずっと思っていました。
そう言えば永井が高く評価する入不二の専門はたしか分析哲学だったような。
皆さんは、独在性の比類なき〈私〉のことを「当り前」のことのようにして捉えてる。
そのようにしてやすやすと永井の用意した土俵に上がれることは、きっと永井の
議論が理解できるというその意味において、永井哲学を肯定しているのでしょう。
置いてきぼりのわたしだけど、そのことがどうしてだかとても嬉しく感じられます。
>>405 >さて,「分節化による言語」と,「汝の登場による言語」とは,同じものなのか,違うものなのか。
その箇所を5ページぐらいずつ読んだ限りでは、その両者は別のものではないように思います。
前者は「真の個物」について、後者は「無の場所」から話し始めているので文脈が少し違うし、
後者のほうがより根源的なところから書いているんだと思いますが、根本的な違いはないでしょう。
ここで永井均は、「言語化」ということを「概念化」「本質化」に近い意味で使っているようで、
そしてそれは【限定】によって生じるという風に考えているように思います。
前者の「真の個物」は、「具体的一般者」であり、それは「有限の一般概念をもってしては規定されない」(p63)、
つまり言語を超えているのだけれど、それは【自己自身を限定】する力を持っている。
そのような限定によって概念化された「抽象的一般者とは、実は、具体的一般者がこのようにして
限定されたあり方なのである」(p64)。
後者の「無の場所」は、非概念的なものであるけれど、「別の無の場所(汝)」に出会うことにおいて、
それと同時に言語が成立している。なぜなら他者は「すでに概念化(本質化)された」ものであり、
【限定的】(p92)なものだからである。
前者は「場所の自己限定」(p64)で、後者はそのように自己限定した「他者」との出会い
によるさらなる「限定」といえるのではないかと思います。
なお永井均は、p64の注では、「『主体』の成立そのものがこのプロセスによって作られる」と書き、
p95の注では、「他者の成立と言語の成立は同時にしか指定できない」と書いているので、
「他者」と「主体」と「言語」は同時発生的であるということを言っているのだと思います。
ここの箇所を読む限りでは、「他者」と「主体」を「言語」から説明して、また反対に「言語」を
「他者」と「主体」から説明している感じがしないでもないので、ちょっと循環した書き方だと思います。
408 :
405:2007/01/17(水) 01:47:28
>>407 >前者は「場所の自己限定」(p64)で、後者はそのように自己限定した「他者」との出会い
>によるさらなる「限定」といえるのではないかと思います。
示唆が得られたように思われたので(ただし後述のとおり,結論に同意ではない),さらに考えてみた。
(1)まず,出発点は,田辺の「場所は自発的に自己を限定するものではない」という批判と思われる。
「無である場所が,どうして自ら自己限定などをすることができようか。〔中略〕われわれは第二章で
この問いにある程度は答えたつもりではあるが,あれではまだ不十分なのだ。〔中略〕
決定的なのは,他者(汝)の存在である。」(p85)
このへんの趣旨を,汝がなければ,実は場所の自己限定とか純粋経験の概念化といったことはありえない
(つまり,汝がなければ,「分節化による言語」はあり得ない)という趣旨だと解釈してみる。「汝と出会う
以前には,私はただの場所であるから,まだ何ものでもなく,何ものにもなりうるのである。」(p90)という
のも,同趣旨と思われる。
(2)では,汝と,概念化とか分節化などが,どう関係しているかというと,「汝は(ありえないはずの)
別の無の場所という資格で,この無の場所に登場してくる。〔中略〕無の場所そのものは,端的な生の事実
であるから,非概念的な実存である。しかし,別の無の場所は違う。それは,すでに概念化(本質化)された
実存概念(「実存」という本質)であり,生の場所であるという生でない理解であり,非概念的なものという
概念なのである。〔中略〕しかし,ひとたびそういうものが登場してしまうと,登場してしまった暁には
すでに,この対比(「端的に非概念的なもの」と「非概念的なものという概念」の対比)そのものが概念化
されてしまっている。言い換えれば,汝の側も言語においては私と全く同じことを(私を「汝」とし,汝を
私として)語れるわけである。」(p91,92)
つまり,本来は概念化されないはずの,「無の場所」とか「私」とか(「純粋経験」とか?)呼ばれるものが,
汝の登場により,概念化されてしまう(「非概念的なものという概念」などという形であれ)。いわば,汝の
登場による「無の場所」の概念化というのが,本来は概念化されないものが概念化される第一歩だ,という趣旨
と解釈してみる。
409 :
405:2007/01/17(水) 01:50:41
(3)そして,このような過程の後でさらに,「一人の人間(個人)」つまり「彼」が登場し,「私も汝も彼となる。」
その後に初めて,「分節化による言語」が登場してくる。「私と汝が彼である場所は,さらに第三者〔中略〕の場所
だが,その第三者はすでにして彼なのだから,ここに抽象的な客観的な場所が生まれる。西田現象学が西田論理学に
接続されるのは,それから後のことなのである。」
(4)まとめて言うと,@「無の場所」「私」「純粋経験」といったものは,放っておくと(?)概念化されない,
A「汝」が現れることによって,まず第一歩の概念化がなされる(「汝の登場による言語」ができる),Bいろ
いろな概念化がなされる(「分節化による言語」ができる)のは,その後である,という趣旨と思われる。
このように読むと,第2章の議論は実はあまり本質的なものではないように思われるし,また第2章と第3章とで
同じ「私」とか「場所」とかいう語を使っているのは不正確(第3章との違いを示すためには,「個物」とか「意識」
とかにする方が正確)ということになると思われる。逆に,このような不自然な点が出てくるのは,私(405)の
理解が正確でないことを示しているとも思われるが,とりあえずの読み方として書いてみた。
それより何より気になるのは,全てのきっかけともいうべき「汝」の登場というのは,一体なぜ起こるのか,という
点だが,永井も「もしそんなことが可能だとすれば」と表現していて,よくわからない(p91)。
というわけで,汝(他者)の登場の方が,その他の概念化よりも先であるという点で,
>>407と結論的には逆になって
しまったが,こちらとしては示唆を受けたのは確かなので,ご協力に勝手に感謝します。
>>408-409 >というわけで,汝(他者)の登場の方が,その他の概念化よりも先であるという点で,
>>407と結論的には逆になって
>しまったが,こちらとしては示唆を受けたのは確かなので,ご協力に勝手に感謝します。
405さんの読みと僕の読みは、それほど違っているとは思われないけれど、
違うところはたぶん、405さんが、「分節化による言語」として考えているものが、
僕が「概念化」「言語化」として考えているものよりも、概念化、分節化が進んだ
段階のものに限られているという点だろうと思います。
おそらく概念化・言語化にもさまざまな段階があって、「汝」の登場に際して、
(おぼろげな形であるとしても)既になんらかの概念化・言語化が始まっている
と永井均は考えていると思います。
(そのことを『「他者」と「主体」と「言語」は同時発生的』と僕は書いたのですが、
永井均の言葉でいえば「他者は神とは異なり、言語化された新しい種類の場所でのみ
働きうる」(p92)、「汝が可能なら言語が可能だし、言語が可能なら汝が可能である」(p93)など)
しかしひとたび汝が登場することによって、「汝」と「私」はどんどん「彼」化していき、
客観化していく。そしてそれとともに概念化・言語化がさらに進んでいくと思われます。
『「他者」との出会いによるさらなる「限定」』と僕が書いたのはそういう意味です。
>(4)まとめて言うと,@「無の場所」「私」「純粋経験」といったものは,放っておくと(?)概念化されない,
>A「汝」が現れることによって,まず第一歩の概念化がなされる(「汝の登場による言語」ができる)
>・・・
>それより何より気になるのは,全てのきっかけともいうべき「汝」の登場というのは,一体なぜ起こるのか,という
>点だが,永井も「もしそんなことが可能だとすれば」と表現していて,よくわからない(p91)。
言語と汝についての永井均のここでの説明では、汝と言語は同時発生的で、「どうしてそんなことができるのだろうか。
それは、先まわりしていえば、汝が言葉を語りうる存在だからである。」(p91)ということで、これは循環論証的
になるので、『「汝」の登場というのは,一体なぜ起こるのか』ということについては永井均は説明していない
(説明できていない)と思います。
永井均を離れて考えれば、思考の順番が逆なのではないかと思われます。
端的な「無の場所」を思考の出発点とすれば、そこからは何も生じてこないのではないか・・
むしろ逆に、「私」と「汝」という具体的存在者の根底のところを考えていくと、
そこには「私」と「汝」との共通の根である「無の場所」がある(はずだ)というのが
西田幾多郎の弁証法的な考え方ではないか・・と思います。
412 :
考える名無しさん:2007/01/18(木) 01:57:28
なにこのスレ?
東スレと同じようにコテハンたちが下痢を垂れ流すトイレ・スレだな。
413 :
考える名無しさん:2007/01/19(金) 22:16:33
>これは循環論証的になるので、『「汝」の登場というのは,一体なぜ起こるのか』
ということについては永井均は説明していない(説明できていない)と思います。
説明できてはならないという趣旨じゃないの?
だって、われわれはもうすでに言語をつかっちゃってんだから(だからこそもう「われわれ」)。
もし説明ができてしまったら、本来説明すべきでない(つまり説明がもともと可能な)ことが
説明されてしまうことになる、ってことでしょ。
同一律や矛盾律が説明不可能(ウィトゲンシュタイン的な意味で「説明されてはならない」)
のと同じことだよね。
414 :
405:2007/01/20(土) 17:31:38
>>410 >おそらく概念化・言語化にもさまざまな段階があって、「汝」の登場に際して、
>(おぼろげな形であるとしても)既になんらかの概念化・言語化が始まっている
>と永井均は考えていると思います。
>>408-409で書いたことは,今のところかなり根拠薄弱なので,反論というほどではないんだけど,
関連して思ったことをちょっと書いてみる。
汝が登場しなくても何らかの概念化・言語化が可能だとすると,つまり,汝(他者)がなくとも
私の経験を概念化・言語化していくことが可能なわけで,しかも概念化・言語化が可能なのは
「外部から「一定の言語ゲーム」があてがわれることによってではなく,分節化されていない音声を
自ずと分節化させていく力と構造が,経験それ自体の内に宿っていることによってなのである。」(p65)
だとすると,それはつまり私的言語(他者と関係なく自分だけで作り,使える言語)が可能である,
ということになるのではないか。(
>>405で少し書きかけたこと)
ところが,永井は今までの著作では,私的言語はある意味では不可能だという方向の議論を(も)して
いるので,それとの関係で,永井は他者と関係なく自分だけで作れる言語というものを想定していない
のでは,と思ってみた。まあ,これも大した根拠ではないです。
>>414 >汝が登場しなくても何らかの概念化・言語化が可能だとすると,つまり,汝(他者)がなくとも
>私の経験を概念化・言語化していくことが可能なわけで,・・・
たぶん永井均の考えでは、それは可能ではなく、汝の登場と概念化・言語化の始まりとは、
同時であると考えている感じがします。
そして汝の登場とともに、「無の場所」としての私も、同時に概念化・言語化される。
「汝」だけが存在するということはなく、「汝」は「私」に対して現れるから「汝」なのであって、
そして「汝」が現れることによって、「私」も、「汝」にとっての「汝」となる。
だから、「無の場所そのものは・・・非概念的な実存」(p92)だとしても、
「別の無の場所(汝)」が登場することによって、同時に私も、「端的な無そのもの」ではなく、
「汝」にとっての「別の無の場所」、つまり「すでに概念化(本質化)された実存概念」(p92)となる。
「『私(無の場所)』に汝が入り、『汝(別の無の場所)』に私が入るようになって、
このプロセスは完成する。(それがすなわち言語。)」(p93)という
p93の図は、そういうことを示そうとしていると思います。
〈「私」に「汝」が入る〉という側面だけを見れば「私」は「無の場所」であるけれど、
逆に「汝」が「無のさらなる無」の位置に来て、〈「汝」に「私」が入る〉と考えれば、
「私」は「汝」にとっての「汝」、つまり概念化された「別の無の場所」(→「個人としての私」)となり、
こうして、「場所である私と個人(自我)としての私を・・・一挙に同時に捉えることが可能」(p97)となる。
このように、永井均の書き方からは、「汝」の登場とともに「無の場所」の中で、一挙に(同時に)、
二つの「別の無の場所(つまり【私】と【汝】)」が成立し、それと同時に【言語】も成立する、
と読み取れます。
だから彼が、「私と汝をともに限定する同一の原理・・具体的には言語」(p88)というふうに、
同時成立的であると思われる言語を、「原理」として書いているのは不可解です。
(それが、前に僕が「循環論証的」と書いた部分)
「私と汝をともに限定する同一の原理」を言うとすれば、それは「言語」ではなく、
「無の場所」なのではないのか・・
416 :
考える名無しさん:2007/01/21(日) 22:34:20
だから、「無の場所」という言語なんだよ。
無の場所(そのもの)ではなくて。
でも、そう「言って」しまうと、もう言語になってしまう。
そして現に今、これだって「他者」に向かって語られてしまっている。
だから、この「言語」が有意味であることこそがまさに「他者」なるものを存在させる、
と同時にまた、「他者」が存在することこそが、この「言語」が有意味である根拠でもある。
417 :
考える名無しさん:2007/01/23(火) 22:26:08
「無の場所」という言語になるとは、
「無の場所」という名の個物になってしまう、とい意味か?
そうなることによって初めて、それは「語りうる」ものになる
(現にそうなっている)、というような。
だとすれば、よく理解できる話ではあるが・・・
418 :
考える名無しさん:2007/01/24(水) 18:51:34
永井均は2007年度、日大に移籍する。
永井均目当てで千葉大を受験してはいかんぞ。
419 :
考える名無しさん:2007/01/25(木) 18:41:42
了解
420 :
考える名無しさん:2007/01/25(木) 19:33:36
永井目当ての受験がしやすくなったてことか。
421 :
考える名無しさん:2007/01/25(木) 20:32:25
無駄に金かかるな
422 :
考える名無しさん:2007/01/26(金) 00:24:42
日大の院は成績優秀者はタダになるよ。
423 :
考える名無しさん:2007/01/27(土) 08:37:43
〈子ども〉の哲学にさ、〈ぼく〉の議論が他者に理解されるときには必ず、
「存在的偶然性が概念的必然性に変換される」って書いてあるんだけど、これどういう意味?
言語で語れる範囲でよろしく
424 :
考える名無しさん:2007/01/28(日) 13:45:59
>>423 唯一の〈ぼく〉を表現したくても、言葉にしてしまうと、誰もが使うことのできる
一般化された〈ぼく〉という意味になってしまう。
言語によっては、そのようにしか〈ぼく〉は理解されることはない、ということ。
425 :
405:2007/01/28(日) 18:17:58
また勝手に示唆を受けたので,書いてみる。(424氏その他特定の人に向けたものというつもりは
ないので,悪しからず)
>>424に書かれている内容は,
>>423で指摘された部分の説明としてはそのとおりだと思われるけれど,
気になるのは『<子ども>のための哲学』ころの議論と最近の議論とが,どう関係しているのかという点。
当時の議論を読むと,まずは唯一の<私>というものがあり(かつ,それについて考えたりすることが
一応可能であり),しかし,それについて「<私>」という言葉を使って議論し,他人に理解された場合
には,一般化された≪私≫として理解されてしまう。と読める。つまり,(明示的ではないが)<私>に
ついて自分で考えたりすること自体は一応可能(と見えるの)であり,ただしそれを他人に理解されるという
段階になって,≪私≫についての議論になってしまうという問題が生じる,という順序に見える。
しかし,最近の議論,特に『西田幾多郎』で出てきた,別の無の場所である汝が登場するということがすなわち
言語の成立であるという議論からすると,≪私≫が登場することと言語の成立が同時であり,それ以前に概念化・
言語化などというものはあり得ないと思われるので(
>>409),上に書いたような順序にはならないと思われる。
このあたりの関係は,どうなっているんだろうか。
『西田幾多郎』の議論の側から考えてみると,≪私≫の登場=言語の成立があって初めて概念化・言語化ができるの
だから,『<子ども>のための哲学』のような議論をいくらしてみても,実は,≪私≫と異なる唯一の<私>についての
議論はできていなかった,ということになるんだろうか。議論のつながりを考えると「まさにそのとおり」ということに
なりそうな気もするが,しかし,そもそも議論を始める出発点が唯一の<私>であったはずなのに,それに全然到達して
いなかったとすると,その出発点は何だったんだろうか,という気もする。このあたりの整合性,つながりはどうなのか。
426 :
考える名無しさん:2007/03/03(土) 19:49:45
それはつまり、行が一つずつずれるだけのことじゃないの?
427 :
考える名無しさん:2007/03/05(月) 09:14:37
出発点の<私>は、いつもすでに逸せられ、代理されて置き換えられている。
だから「到達」は不可能。それが「差延」ということだ。
しかし、取り逃がされたものとして現存するし、現存せざるをえない。
そもそも現存とは、現実存在とは、そういうことなのだ。
そのことが「言語」との関係で語られている。最初からそうだった。
ゆえに、「一つずつずれる」というのは、「ずつ」が間違っている。
常に一つしかずれない。が、一つは、必ず、ずれる。
「ずつ」の視点は、ありえない。
428 :
考える名無しさん:2007/03/06(火) 11:36:56
いや、だから結局、言語とはその「ずつ」の視点の別名なのだよ。
最初からそう言ってたし、現在の到達点でもある。
429 :
考える名無しさん:2007/03/07(水) 19:53:10
言語が登場すると「ずつ」になってしまうという意味なら正しい。
しかし真の問題は、出発点の<私>から一つ(一つだけ!)ずれるということ
これにつきるんだ。そこだけが問題なんだ。
最初から「ずつ」の視点に立ってしまえば、ただ一つ「ずつ」ずれるだけで、
そんなことなら、デリダでさえ言っている、言語に関する凡庸なお話だよ。
そうじゃないところが「肝」なのに。
430 :
考える名無しさん:2007/03/12(月) 19:06:32
人間科学アカデミーってなに?
431 :
考える名無しさん:2007/03/16(金) 18:50:23
自分で検索してみろや
ちょっと不思議だけど、
永井が千葉大からいなくなるのか・・寂しい・・
永井LOVEな私はKO寸前です
>>432 永井均がいなくなっても、柏端達也がいるじゃないか
435 :
考える名無しさん:2007/04/09(月) 00:33:19
『自己欺瞞と自己犠牲』…… 死ぬほどつまんねえぞ!
最後まで読んだの?
私は行為論のあたりでまったくついていけなくなって
ぶんなげました
437 :
考える名無しさん:2007/04/10(火) 22:54:01
一応最後まで眼は通したよ。でも、ぶんなげが正解だな。
これほど純粋に徒労でしかない読書をさせられた後では怒る気も起こらないけどね。
それにしても、この人、本当にこれが「哲学」だと思っているんだろうか?
そして「分析哲学」というのはこういう風にどこまでも細かく分析をするものなのだと?
……いやはや、恐ろしいことです。
438 :
考える名無しさん:2007/04/18(水) 13:16:12
なんとあのララビアータ先生が、
永井の後任として、
千葉大に行くそうですよ。
田島正樹氏ですか。
氏はアカデミズムとは無縁の方と聞いておりましたが、
やはり大学に職を得ないと苦しいのでしょうか。
440 :
考える名無しさん:2007/04/18(水) 20:01:57
今だって大学の先生だよ。
441 :
考える名無しさん:2007/04/21(土) 19:28:35
東北芸術工科大学教授
田島さんになってよかったね。
>>435-437 このスレ的に言うと柏端の今回の本の後半は永井の独在性の議論を掘り崩してるわけ。
でも十分細かくはないね。
合理性のジレンマ、トリレンマについても例をあげて説明してるから、
一般的な定式にはなっていないし、
共同行為の分析でも存在者に対する和や差積に関する議論が不十分かな、と。
443 :
考える名無しさん:2007/05/03(木) 13:09:44
このスレ的に言うと、
「柏端の今回の本の後半は永井の独在性の議論を掘り崩してる」
というところをちゃんと分かるように説明してくれないと。
444 :
考える名無しさん:2007/05/03(木) 17:06:54
千葉大にはもっとすごいお方がいらっしゃるではないか。
いず・・
445 :
考える名無しさん:2007/05/03(木) 17:59:28
掘り崩す、ってのはよくわからない表現だね。
「掘り下げる」なら肯定的だし、「崩す」なら否定的だよね。
446 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 18:52:26
どちらにしても、どちらでもなくね?
どう読んでも、ぜんぜん関係ないけどね…
447 :
考える名無しさん:2007/05/06(日) 21:35:58
どう読んでも、ぜんぜん関係ない。
442さーん、どこでどう掘り崩しているのか、ちゃんと説明してー
斎藤慶典『哲学がはじまるとき』(ちくま新書)に、執筆にあたって念頭にあった書物として、永井の本が4冊挙がっていたので、買ってみた。
ざっと見た感じで、永井の議論そのもの(従来のもの)とは違いそうだけど、『私・今・そして神』や『西田幾多郎』には関連してるのかもしれない。
449 :
考える名無しさん:2007/05/08(火) 14:33:10
何が、ですか?
斎藤慶典『哲学がはじまるとき』が?
柏端を含めた外在主義者が内包を野放しにした「垂れ流す哲学」(永井)を
「掘り崩す」のは当たり前、つーか、それ以外に何をしてると思ってんだよ?
久しぶりに大庭健の本(『善と悪』岩波新書)を読んでみたけど、
この人あいかわらず永井均にからんでいってるのね。
架空の人物を登場させて、その人をニーチェの大ファンなのでニーチェの
頭文字をとって「Nさん」と呼ぼうとかなんとかまわりくどいやり方してるけど。
結局のところ最初から「道徳的によく生きることが、その人がよく生きるため
の必要条件である」っていう結論があって、その結論にとって都合のいいよう
に理屈をこねくりまわしているとしか思えんかった。
452 :
考える名無しさん:2007/05/09(水) 20:48:33
>>450 外在主義者だって「内包」は認めるでしょ?
あと、「内包」を「野放し」にするとはどういう意味?
そして、それを「掘り崩す」とは?
453 :
考える名無しさん:2007/05/09(水) 21:35:12
てか、永井って内在主義者なの?
独在論が内在主義??
454 :
考える名無しさん:2007/05/09(水) 21:42:27
まあ、永井も結局のところ最初から「<わたし>の独在性」っていう結論が
あって、その結論にとって都合のいいよう
に理屈をこねくりまわしているだけなんだけどね。。
455 :
考える名無しさん:2007/05/09(水) 22:21:57
そんな大雑把な言い方をするなら、誰だってそういえちゃうよー。
永井はその大雑把・粗雑ぶりがおバカたちに受けたんだからしょうがない。
ようするに現代の日本で「麻原彰晃」を一般名詞化した場合に次のT文を真に
する二つの固有名があると思う:
「「xが「麻原彰晃」である」のはxがpであるときに限る」
p=松本智津夫あるいは永井均。
ここで「麻原彰晃」を「最終解脱者」にしても問題ないと思う。
457 :
考える名無しさん:2007/05/10(木) 17:34:51 0
普通に考えれば、独在論という問題は、
知識や意味についての議論ではないから、
内在主義ー外在主義の問題系とは無関係だろう。
しかし、ひょっとすると、何か関係させるルートがあるかもしれない。
「内」と「外」のそもそもの意味の問題だろうか?
458 :
考える名無しさん:2007/05/10(木) 18:12:57 0
>知識や意味についての議論ではないから、
>内在主義ー外在主義の問題系とは無関係だろう。
素人の発想だな。
459 :
考える名無しさん:2007/05/11(金) 00:16:31 0
>>457 「内」と「外」のそもそもの意味の問題とは?
マジレスお願いします。
460 :
考える名無しさん:2007/05/12(土) 18:52:15 0
>>448 図書館で借りて読んだけどクソつまらなかった。
客引きのために永井の本挙げたんじゃねえの?
461 :
考える名無しさん:2007/05/13(日) 09:14:20 0
<私>は「内」じゃないし、もちろん「内」に対する「外」であるはずもない。
<私>っていうのは世界の外の事実なんじゃないのかな、ってのが永井が問い続けている
ことなんじゃないのか。
462 :
考える名無しさん:2007/05/13(日) 20:03:18 0
それはもちろんそうでしょうけど、
461さんは457さんではないですよね?
だとすれば、
461さんが何を言いたいのか
が聞いてみたいのですが…
463 :
考える名無しさん:2007/05/15(火) 21:56:36 0
訂正
461さんが→457さんが
464 :
考える名無しさん:2007/05/24(木) 17:55:44 0
457ではないが、永井はむしろ外在主義者だ。
最初の著作から、独在性の主張が内在主義の主張と誤解されることの
(不可避性とともに)告発が主要な論点だったから。
近年に至っても、私的言語の問題にからめて同じことを言っている。
ところが最近に至っても、批判者は皆つねにまさにその誤解に基づいている。
つまり、いわば永井の注文にきれいにはまってしまっているわけだ。
465 :
ど素人:2007/06/14(木) 03:37:00 0
初めてちゃんと覗いたんですが、いや、すごいスレですね‥‥。感動しました。
>>461さんに賛成です。
あと、言語ゲームのイロハも知らないど素人の癖にすみませんが、<私>と、クオリアの議論について。
「私」が認識する普遍的クオリア、及び、<私>が認識する単独的「クオリア」、を語ることはできると思います。
しかし、独在的<クオリア>‥‥のようなものが存在すると仮定して‥‥それは語る以前に認識すらできないのではないでしょうか。
存在の有無を判断する主体を立てるのも不可能でしょう。
どんなに「リアル」に独在的<クオリア>の存在を「実感」できてしまう人でも、“それ”は、認識した瞬間に、その当人にとっても単独的「クオリア」になるのではないでしょうか。
他人にとっては言うまでもありません。
そのことは換言すれば、独在的<クオリア>は、単独的「クオリア」としてしかこの世界に現われない、ということではないでしょうか。
ということは、当人の「リアル」な「実感」は、錯覚もしくは「錯覚」と呼ぶべきものではないでしょうか。
勝手な用語まで作り、かつ、直観的な書き方で申し訳ありません。
何もわかっていませんでしたら、さらにすみません。
流れと関係なくて申し訳ないが,人間学アカデミーの講義に全部出た人います?
ttp://www.ittsy.net/academy/guidance/schedule.htm 初回が出られなかったんだけど,アリストテレスとカントのカテゴリーの話とか,
「『この世界は私の世界だ』と本気で信じている王様と,『そのとおりこの世界は
王様の世界だ』と本気で信じている国民たちの国があったとしたら,どうなるか」
という話とかをしていたと聞いたんだけど。
わりと分厚いメモを手元に置きながらの講義だったので,新しい本として出ないかな
と期待してはいるんだけど。(人間学アカデミーの講義内容は,後で本になることが
多いらしい)
保守ついでに人間学アカデミーで気になった発言
デリダについて
「デリダは,哲学業界に非常に詳しい人にだけ通じるような詩を書いているような
ものです。時々,本当にいいことを言うんですよねえ……それ以外ほとんどの部分は,
何を書いているのか全然わかりませんが」
入門書しか読んだことないけど,あれは詩だったのかw
D.ルイスについて
「残念ながらルイスの本の邦訳は出ていませんが,近々出るはずなので,興味の
ある方は読んでみると,とても面白いと思います。……まあ,面白いだけかも
しれませんが」
面白い「だけ」ってw
>>467 ワロタw
永井さんらしいな。レポGJ!
469 :
考える名無しさん:2007/07/16(月) 10:18:00 0
デリダって、ハイデガーの「存在論的差異」が「痕跡化」してしか現れないって言ったんですか?
デリダに詳しい方、教えてください!
470 :
考える名無しさん:2007/07/16(月) 10:26:17 0
「痕跡化」って何?
昔から、院生って永井のようなイメージだ。
471 :
考える名無しさん:2007/07/16(月) 20:26:34 0
>保守ついでに人間学アカデミーで気になった発言
こういうどうでもいいような発言が気になるような奴らが永井をもちあげている
んだろう。
472 :
考える名無しさん:2007/07/20(金) 01:13:24 0
「私・今・そして神」50p〜51p
「(神が)人間から心を奪ってロボット(のごときもの)にしてしまう」という想定で、
「ロボットに心が与えられるケースは他者に起こる変化であり、人間から心が奪われる
ケースは私に起こる変化であること、これが問題の本質なのである」
と書かれているがこれは端的な間違いではなかろうか。何故ならこの場合に心を奪われるのが
(独在性としての)<私>であるのならその様な変化は、もし本当に変化が起こったのなら決して
この<私>に認識されないのだから。(<私>そのものが無いのだからこれは当たり前であろう)
それにも関わらずこのような変化に意味がある、と(永井氏が)言うのは既にしてこのような変化を
神の視点から、それ故<私>の視点を超えた言わば公共的な観点から、例えばAさんBさんCさん・・・
永井さんを相等しく見た上でその内の「永井さん」から心が奪われた状況を描写しているからでは
なかろうか。他人達との対比でのみこのような「心が奪われる=死」が恐ろしいと感じるのではないか。
(だからこれは独在性の<私>ではなく、普通の「私」の話であるはずだ)
独在性の観点を透徹すると「在る」だけが在るのであって「無」ということは端的に無いことなのだから
「(心が奪われるという哲学的な想定の)死」を恐れるというのは永井氏の主張に反して
単に公共的な意味での死との混同・錯覚ではなかろうか。と言うかそれ以外ではあり得ないと思う。
>>473 「<私>の死というのはよくわからん,本当に意味があるんだろうか」という点(それと,
『私・今・そして神』の該当箇所がよくわからんという点)は同意。確かに,「<私>の死」
などというものは,もし起こったとしても誰にも(他人はもちろん<私>にも)認識できない
と思われる。(しかし,位階の高い神には認識できたりするんだろうか?まあそれは置くとして)
また別の面からは,<私>は<今>にしか存在しないとすると,やはり死ぬということは想定でき
なさそうな気がする。ある程度持続して生きているといえるものでないと,死ぬというのは変ではないか。
ただ,永井はそれを全然論じていないわけではなくて,『転校生とブラック・ジャック』の,特に
序章には,多少書いてある。「たとえば今晩寝て起きると,あるいは次の瞬間にも,私であるこの
人物が,物理的同一性と心理的継続性を維持したまま,私でなくなってしまう,ということが考え
られることになる。
考えられる,と私は思う。だが,それが起こったとき,それが起こったことを知る主体はもうどこにも
いない。〔中略〕
それがもう起こったのではないかと恐れることには何の意味もない。いや,それは起こらなかった
のである。いま,私は存在しているからである。〔中略〕
しかし,今晩これからそれが起こることを恐れることには意味がある,と私は感じる。私であるこの
人物が現在の私と物理的に同一で心理的に継続しただけの他人になってしまう(だから永井均は存在
するが私は存在しなくなる)という状況が矛盾なく成り立つように思われるのである。」(p4〜5)
だから,現在<私>が存在していることを前提に,未来に<私>が存在しなくなるということを想定
するという形では,<私>の死というものを想定できるのではないか。あるいは,そんなものは実は
想定できないんだろうか。そこの議論を詰める意味は,個人的にはありそうな気がする。
475 :
474:2007/07/25(水) 00:18:45 0
ただ,それはそれとして,
>>473 >このような変化を
>神の視点から、それ故<私>の視点を超えた言わば公共的な観点から、例えばAさんBさんCさん・・・
>永井さんを相等しく見た上でその内の「永井さん」から心が奪われた状況を描写しているからでは
>なかろうか。
ここはよくわからない。<私>の死,あるいは心が奪われることは,<私>に認識できない
(すでに<私>は存在しなくなっているので)のだから,まして公共的な観点などというもので
描写できるはずもないと思うのですけれど。公共的な観点からすれば,描写すること自体無理なのでは。
…と書いてみたけど,473氏はまさにその趣旨を指摘しているんですかね?
別の面からいうと,心を抜き取られるという想定について,「神が親切にも,笑うときにはこんな
ふうになり,ケーキを食べるときはこんなふうになり,……といったような個々のケースの
シミュレーションをやってくれて,それらすべてがいっぺんに起こるのだ,と説明してくれ」る
と描写されている(『私・今・そして神』p50)けど,これは,他人に起こったとすれば私には全く
識別できず無意味な描写だろうけど,未来の<私>に起こるとすれば,それなりに意味のある描写
なんじゃないですかね?(ただし「識別できる」と表現するのは,未来に起こることであり,かつ
未来には<私>が存在しなくなると想定する以上,確かに不正確かもしれないけど)
473氏は,未来の<私>に起こるとすれば,他人に起こるのとは別論で,それなりに意味のある描写で
あるということ自体を,全く否定する趣旨なんですかね?
476 :
473:2007/07/25(水) 03:13:44 0
>>474 >だから,現在<私>が存在していることを前提に,未来に<私>が存在しなくなるということを想定
>するという形では,<私>の死というものを想定できるのではないか。
との事だが、しかし独在性の<私>はもちろん<今>の<私>であって「未来の<私>」
などというものは最初から眼中にないはずだ。そもそも「未来の<私>」などいつまで経っても
この<今>に重ならないし、重なったのならそれはいつでも<今>だから(永井用語の<>を
使った)<未来>などという表現そのものがあり得ないだろう。そういう意味で未来の<私>なんて
存在しようが存在しまいがどうでもいいものに過ぎないと思う。
>>475 >ここはよくわからない。<私>の死,あるいは心が奪われることは,<私>に認識できない
>(すでに<私>は存在しなくなっているので)のだから,まして公共的な観点などというもので
>描写できるはずもないと思うのですけれど。
もちろんその通りで、それにも関わらず永井氏が「しかし,今晩これからそれが起こることを恐れること
には意味がある,と私は感じる。」と言うのは公共的な観点からのみ可能ではないか、というのが
僕の論点だ。恐れが可能なのは「私」が存在しないのに世界は存続するから心残りがあるということで
独在性の<私>の消失の場合それが全ての終わりなんだから心残りなどありようがない。
永井氏が「私であるこの人物が現在の私と物理的に同一で心理的に継続しただけの他人になってしまう」
と言う時のこの(心或いは魂を抜かれた)人物は<今>の<私>から見るしかないからこの人物は
(どんなに外見が似ていようが)単なる他人に過ぎない。そして本当に<私>から心が抜かれたのなら
このような「心が抜かれる」などという過程は見ようがない。(このような“過程”があり得るように
見せているのは哲学的トリックだと思う。)
477 :
考える名無しさん:2007/07/27(金) 01:13:40 0
>「しかし,今晩これからそれが起こることを恐れることには意味がある,と私は感じる。」
>と言うのは公共的な観点からのみ可能ではないか、というのが僕の論点だ。
公共的観点でなんの問題もないだろう。
>恐れが可能なのは「私」が存在しないのに世界は存続するから心残りがあるということで
>独在性の<私>の消失の場合それが全ての終わりなんだから心残りなどありようがない。
なぜ? 独在性の<私>の消失の場合それが全ての終わりだなんて、永井は言ってないよ。
独在論は独我論じゃないんだ。そのいちばん肝心なところを混同してる人が多いのはなぜだろう。
<私>が消失したら、<私>が存在しない、つまり中心化されていない現実世界になるだけ。
もちろん世界は存在するし、しかも、現実世界のまま、ちゃんと「持続」する。
(しかも<私>は、それ以前の時点において、そのことを知っているのでなければならない。)
478 :
473:2007/07/27(金) 14:10:09 0
>>475 >なぜ?独在性の<私>の消失の場合それが全ての終わりだなんて、永井は言ってないよ。
ええっ?冗談でしょう?それが本当なら独在性の議論は一体何だったんだろう?
それこそ
>独在論は独我論じゃないんだ。そのいちばん肝心なところを混同してる人が多いのはなぜだろう。
という言葉をそっくりそのまま477さんに返すしかない。もっともこんな初歩的な混同をしている
ようならそもそも永井氏の議論が(しかし独在性の主張は他人には“必ず”誤解される他はないという性質
からすればまさしく477さんの見解がそれを体現している)全く理解されていないということだ。
もちろん<私>が存在しなくなれば、その後に「中心化されていない現実世界」が残ろうが残るまいが
<私>にとっては関係無い。そもそも「中心化されていない現実世界」というのは<私>の単なる空想に過ぎない。
そしてその様な空想が出来るということはまだ<私>が存在しているからに他ならない。
だから<私>抜きの「中心化されていない現実世界」というのは“存在”しない。する事が出来ない。
そもそも“存在する”ということは<私>が存在する事だから。(命あっての物種)
・・・・という議論はしかし独在性ということを理解した人のみが理解し得る事であって
477さんにはちんぷんかんぷんという事になりそうだ。
ついでに言えば477さんの理解は別に<私>とか「中心化されていない現実世界」とかの
「哲学用語」無しで普通に理解されているような事柄なので、特に口をはさむべき所
はないのだが、しかしそれならどうして永井氏のスレッドにあたかも独在性を理解したか
の如くレスをつけてくるのかは全く理解不能だ。(少なくともこの人は<私>の意味、
即ち「<>」の意味を理解していない。何故わざわざ「<>」を付けるのか。)
479 :
考える名無しさん:2007/07/27(金) 15:31:25 0
>そもそも「中心化されていない現実世界」というのは<私>の単なる空想に過ぎない。
違う。ある意味では空想に過ぎないのだが、その空想の仕方の規則がまさしく「現実性」そのものを作り出す。
そして、それ以外に「現実」なんてないんだ。それがつまり超越論的構成。永井のいう「カント原理」だよ。
>そしてその様な空想が出来るということはまだ<私>が存在しているからに他ならない。
これはその通りだが自明のことにすぎない。そして、その存在自体はライプニッツ原理が働く。
>だから<私>抜きの「中心化されていない現実世界」というのは“存在”しない。する事が出来ない。
これは端的に間違い。というか、ただひたすら幼稚。永井以前どころか、カント以前的だ。
カントが馬鹿にしている意味でのデカルトやバークリーの水準の思考法そのものでしかない。
>そもそも“存在する”ということは<私>が存在する事だから。(命あっての物種)
永井はどこでもそんなことは言っていない。もちろん、<私>は全く特別の存在だ。
それにもかかわらず(そうだ、それにもかかわらず、なのだ!)自らを(構成された現実世界
の内部の)一存在者として位置づける能力を持つ! これがカントー永井の「観念論論駁」だ。
>ついでに言えば477さんの理解は別に<私>とか「中心化されていない現実世界」とかの
>「哲学用語」無しで普通に理解されているような事柄なので、特に口をはさむべき所
>はないのだが、しかしそれならどうして永井氏のスレッドにあたかも独在性を理解したか
>の如くレスをつけてくるのかは全く理解不能だ。(少なくともこの人は<私>の意味、
>即ち「<>」の意味を理解していない。何故わざわざ「<>」を付けるのか。)
<私>の意味を理解していないのは、認識論的独我論との区別がつかない、幼稚な人の方だ。
もういちど、「カント原理」をちゃんと勉強しなおして、そのうえで「ライプニッツ原理」
の意味を熟慮してもらいたい。それはいわゆる主観的観念論とは全く違うものなのだよ。
とりあえず、『私・今・そして神』第2章の熟読・再読・三読をおすすめする。
480 :
473:2007/07/27(金) 19:14:08 0
>>479 >だから<私>抜きの「中心化されていない現実世界」というのは“存在”しない。する事が出来ない。
に対して
>これは端的に間違い。というか、ただひたすら幼稚。永井以前どころか、カント以前的だ。
との事だが永井氏はライプニッツをひいて「神の知性と意志」という事を述べている。
神の知性によって用意されているものの内で現実となるものには神の意志が必要となる。
即ち<私>抜きの「中心化されていない現実世界」というのは神の知性において“可能”だが
神の意志によって“現実”になっていない以上、それは“存在”しないとする事が何故
>これは端的に間違い。というか、ただひたすら幼稚。
とされるのか。<私>の議論は(永井用語で言うところの)ライプニッツ原理を表現したもの
でカント原理はこれに対立している。というかどちらの原理も互いに互いを飲み込んでいる。
(と言っても永井氏自身はやはりと言うべきかライプニッツ原理の方に重点を置いているが)
カントー永井の「観念論論駁」云々というのを永井氏が重要であると主張している部分があったようには
思えない。該当個所を指摘してくれるとよいのだが。
しかし結局の所、独在性について言えばカントはまるでお呼びじゃないとしか言いようがない。
好意的に受け止めるとすると477の
><私>が消失したら、<私>が存在しない、つまり中心化されていない現実世界になるだけ。
>もちろん世界は存在するし、しかも、現実世界のまま、ちゃんと「持続」する。
の<私>は普通の「私」と間違えたのだろう。多分。何といっても神の意志が働かない以上、
即ち<私>が存在しない以上、全然“現実”ではないから。
481 :
考える名無しさん:2007/07/27(金) 21:40:45 0
>神の知性によって用意されているものの内で現実となるものには神の意志が必要となる。
これは正しい。
>即ち<私>抜きの「中心化されていない現実世界」というのは神の知性において“可能”だが
>神の意志によって“現実”になっていない以上、
再び完全な間違い。というより無知。中心化ー非中心化の対比と、現実ー可能の対比は独立なんだ。
これがキモ中のキモなのに。永井の独創は、中心化された可能世界に関してなお、ライプニッツの現
実ー可能の対比を適用したところにある。…なんて言っても473に理解する能力があるとも思えないが。
>(と言っても永井氏自身はやはりと言うべきかライプニッツ原理の方に重点を置いているが)
とんでもないことだ。カント原理なしにはライプニッツ原理なんて何の意味もない。
>該当個所を指摘してくれるとよいのだが。
だから前掲書の第2章。その4が中心だが、全体をちゃんと(本当に理解できるまで)読んでみろ。
>独在性について言えばカントはまるでお呼びじゃないとしか言いようがない。
本気でそう思うなら、ただの馬鹿というほかはない。カントのデカルト・バークリー批判、
(要するに473が信じているような認識論的独我論に対する批判)を経由して、そのすべてを
受け入れてなお、そのうえでさらにライプニッツ原理が働いて、なんとデカルト的発想を再び
より深い次元で甦らせることができる、というところに独在性の議論の本当の哲学的価値がある。
体が捩れるほど精妙な議論なのに、きみは何も(本当に何も!)理解していないのだよ。
ライプニッツ自身やカント自身もしっかり勉強して出直して欲しい。
>好意的に受け止めるとすると … の<私>は普通の「私」と間違えたのだろう。
これにはもう、つける薬もないので、これで終わりにすることにする。
482 :
473:2007/07/28(土) 04:07:40 0
ちょっと待って欲しい。無知で幼稚な僕のレベルにまで降りて説明してもらいたい。
まず477の
><私>が消失したら、<私>が存在しない、つまり中心化されていない現実世界になるだけ。
>もちろん世界は存在するし、しかも、現実世界のまま、ちゃんと「持続」する。
がおかしいという点。 「中心化されていない現実世界」とあるが、これは「中心化されていない世界」
の誤りだと思うがそうではないのか?何故なら神の知性に於いては「中心化されていない世界」があるが、
神の意志によってそれが現実化された時には「<私>に中心化された現実世界」となるはずであって
「(<私>抜きの)中心化されていない現実世界」などと言うものはあり得ない。
それとの関連で
>中心化ー非中心化の対比と、現実ー可能の対比は独立なんだ。
というのがこれまたさっぱり理解出来ない。世界が<私>に中心化される時、単なる可能性
に過ぎなかった世界が初めて「現実世界」になる(即ち神の意志によって世界が現実化される)
ということなのだから「中心化ー非中心化の対比と、現実ー可能の対比は独立」なわけがない。
そもそも<私>が消滅した世界なんてそんなものが持続しようがしまいがどうでもいいことじゃない。
<私>でなくなった「ただの人」の人生が持続しようがしまいがどうでもいいように。
8月10日
『翔太と猫のインサイトの夏休み』
がちくま学芸文庫からでるね。
484 :
考える名無しさん:2007/08/03(金) 00:48:17 0
なんで永井の本には猫が出てくるんですか
ちくま学芸文庫だと、新しく解説がついたりはしないんだっけ?
『翔太と猫のインサイトの夏休み』文庫版を入手。
本人の文庫版あとがきでは,「これほど面白い哲学入門書はほかにない」と自画自賛。
中島義道の解説は,永井をやたらほめていることはわかるが,本の内容の解説には
ほとんどなっていない。(なぜか,『子どものための哲学対話』が引用言及されている。)
これ,普通の人が見たら,引かないか?w
そういえば思い出したけど,人間学アカデミーの時,「なぜ哲学は今まで続いて来たのか」
というような質問が出て,それに関して,永井は「私が哲学をする理由ははっきりして
いて,自分の存在の不安というところです」と,インサイトみたいなことを言っていた。
>>487 >永井は「私が哲学をする理由ははっきりしていて,
>自分の存在の不安というところです」と,インサイトみたいなことを言っていた。
ふーん。でも、その発言って勘違いされませんか?
永井が『<子ども>のための哲学』で批判していた「青年の哲学」みたいに。
独在性(比類なさ)の実感って、どのようなものなんだろう。
比類なき存在の実感って、全き孤独の実感と同じだよね。
私が、世界や他人とはもちろん、この私(の心身)とも隔絶していること、
それを「存在の不安」って言っているのでしょう?
>>488 ボク個人の場合、不安なことは、むしろこの私が、超越論的主観というフレームを
通してしか存在し得ない不安、言い換えれば、孤独の「絶対的な不可能性」のほう
にありますね、。だからこそ、他人との確実な差異を求めて、永井の言う<私>という
独在性を求めてしまう。しかし、<私>とは本来、語りえないものだから、今度は<私>が
この私に内在する言わば「絶対他者の神」として、暗い孤独感を投げ返してくる、という
感じです。永井の本はあまり読んでないボク個人の無責任な印象ですが、永井は
<私>に固執するあまり、神秘主義に陥っていると思えます。@横レス失礼しました。
「神秘主義」って、具体的に永井のどの議論がどういう理由で神秘主義だというの?
もし何か根拠があるなら書いてほしいけど、もし本当に文字通り、あまり読んでいないのなら、
何でそんなことを言うのか、と言いたいよな。
《私》については、現にそいつの目から見え、そいつの体を動かせ、そいつが殴られると
痛みを感じ…という人が一人だけいるときに《私》と呼ぶ、と、具体的にわかりやすく定義
されていて、〈私〉についても、それを手掛りに、少なくとも変に抽象的なわかりにくい
ことを言ってるわけではないことは、すぐわかると思うんだけど、なんで未だに変に
特別なものを想定しているかのように言う人がいるのかなあ?
>>490 永井の<私>とは、文法的に表現不可能(伝達された途端に万人に妥当してしまう)で、
仮に《私》+αとでも呼ぶほかない、(文法に違反して)規則に私的に従う、言語を私的に
使用しうる主体=私的言語の使用者である、といったところでしょう。それは、ウィトのいう
「哲学的主体」そのものではありませんか。けれどもウィトは、このような<私>を語りえない
ものとして拒絶し、独我論的な欲望を断念するために言語ゲームを考案した。なぜでしょうか。
彼は、「独我論は実在論にぴたりと一致する」という言葉も吐いています。つまりウィトにとっては、
哲学的主体を言説的に認めることは、図らずも「私と世界が一致する」という神秘主義の方法を
たどってしまうことを意味していたからです。はたしてそれは、まっとうな哲学と言えるでしょうか?
私の知る限りにおいて、永井はこの「蝿取り壷」にはまったまま、いたずらに思索を重ねていると
しか思えません。私としては、永井の哲学的センスに敬意を持つからこその苦言のつもりです。
永井はそろそろ<私>というおもちゃを棄てて、言葉の世界へ回帰すべきです。
「ウィトゲンシュタインにとって、哲学的主体を認めることは、私と世界の一致という
神秘主義をとることになる」から、「永井の〈私〉は、まともな哲学ではない」??
そんな迂遠な議論じゃなくて、永井の議論自体が神秘主義的であることを示せないの?
いや、まあ、いいです。どうやら(ウィトゲンシュタインについてはともかく)永井の議論自体
には大した興味をお持ちでないようなので。
あえて言えば、「私と世界の一致」とはどういう意味で、それがなぜ神秘主義的なのか、
そして、それは永井の議論と本当に関係があるのか、という程度は明らかにしてほしいけどね。
ひょっとしたら何かの参考になるかもしれないので、最新刊の「特殊な境地のように解されて
しまうが、そうではなく、むしろ卑近すぎて注目されないほど卑近な事実」というあたりを
見てみたらどうでしょう。
>>492 既にモノや意味に満ちた世界に一気に実質を与える<私>というものは、
ボクの眼から見ると、言わば「唯物論の魂」のように思えてしまうのです。
この魂の唯物論的な装いが、世界に一気に実質を与えるという感覚は、
神秘主義の云うところの真の私が世界の基体(神)と合一する=独我論は
最終的に純粋な実在論に帰着する(一致する)という構図と重なって
見えるのです。つまり、細かい議論の問題ではなくて、永井の仕事そのものに
神秘主義の匂いがするという、あくまでもボク個人の印象なのです。
それは全然違うよ、というのでしたら、どうか笑ってください。もとよりボクは
プロパーではないですし、ウィトや永井の読み方もかなり自己流ですからね。
ググらずに尋ねるのもなんですが、「特殊な境地のように解されてしまうが、
そうではなく、むしろ卑近すぎて注目されないほど卑近な事実」というのは
書名なんですか? せっかくのお勧めですから、ひとつ探してみましょうか。
いかにも永井らしいっちゃ永井らしい … や、ま、そゆことで。逝くにょ。
永井の最新刊は『西田幾多郎ー絶対無とは何か』です。ちゃんと書いておけばよかった。
気に障ったところがあったら失礼。なんか、たまに、「ウィトゲンシュタインはこう言っている
(と、その人は解釈する)」ということのみから、永井の議論は全く間違いであると
決め付けるような、変な批判をする人がいるもんで。
一つの見方というくらいならともかく、決め付けられると(しかも大した根拠があるとも
思えないと)、さすがに文句を言いたくなるので。
こいつ、筑摩学芸文庫とかでまともな解説を書かないから嫌い。
猫のインサイト、中島の解説だけ立ち読みしてきた。
この人たち偏屈ぶってるけど普通の人じゃん。
単行本持ってるから買わなかった。
>>489さん
>永井は<私>に固執するあまり、神秘主義に陥っていると思えます。
著書名にも明らかなように、永井の興味は神秘『私、今、そして神』です。
なぜなら、彼は「神秘こそすべて」と思っているからです。
永井が、もし「愛こそすべて」とその著書において叫んでいるとしたら、
まちがいなく彼は、その超越性と絶対性において「愛こそすべて」と
確信していることでしょう。永井は、この意味では神秘主義者でしょう。
ですから、永井にとって「それがすべて」である神秘を手放してもなお、
哲学することを続けられるようにはとても思えません。
カントやウィトゲンシュタインにおいても、彼らが超越論的限界の向う側、
すなわち、神秘(超越性、絶対性)をまなざしていたことは明らかであり、
その志向性ゆえに為されたものが、彼らの哲学ではなかったでしょうか。
>>497 そうですね、概ねカオルさんの仰るとおりだと思います。
>>491 の
「永井はそろそろ<私>というおもちゃを棄てて、言葉の世界へ回帰すべきです」は、
>>490 さんに対する売り言葉に買い言葉というか、勢いで書いてしまった文です。
永井自身が抱き続けている彼の哲学上の問題を、ボクがとやかく言っても詮方ない
ことでした。反省して、桃色ガブリエルに…いや、ご返事くださり有難うございました。
寝るにょ。
>>498 こんな素敵な日に自ら命を絶つなんて、桃色ガブリエルが許しませんよ!
……で、よかったかしら?
ちなみにわたしは、こうだから神秘主義なんだ、の「こうだから」については
同意見です。ただ、わたしは形而上学をオカルトとは思っていないだけです。
500 :
考える名無しさん:2007/08/18(土) 21:58:00 0
永井は、哲学の世界で一般に「陥る」と言われているものに、自分はすべて陥っていると言っていた。
そして、どれも、すべて、最後までしっかり陥るのが本当は正しい、ということがわかった、と。
むしろ「陥る」という表現によって予め思考の方向に枠をはめようとしているものの正体を見破ることが重要らしい。
独我論、利己主義、ニヒリズム、神秘主義、相対主義 …… たしかに、なぜ陥っちゃいけないのかね?
それ以前に、なぜ「陥る」という否定的な言い方をするって始めから決まっているのかね?
(みな同じ理由があるらしいけど…)
>>500 僕は永井さんはあまり好きではないけど、それはすごいよくわかるなぁ。
たとえば、カントの「経験しうるものの限界」、ウィトゲンシュタインの「語りうるものの限界」を
しっかり見定めて、それでもそれを超えていこうとする試みが永井の哲学なのだと思います。
それは言ってみれば「超越論的なもの」と<超越的なもの>との区別を問う存在論です。
さて、何々主義に陥ることはその人の自由ですが、もし陥っていることに自覚的ならば、
かれは確信犯であり、りっぱに思想家です。
しかし、自覚的であっても、そこにおいて思考の堂々巡りは必然であり、
そのような思考停止状態で、哲学することは不可能ではないでしょうか。
でも本当は、最後までしっかり陥っていないから、そのものの正体がわからないのだ、
だから、そこから浮上することができないのだ、と永井は思っているのかもしれません。
永井も「陥る」という意の表現を否定的な意味で多用しますが、
永井哲学は、それにどこまでも抗いつづけることで成立するのですから当然です。
>>465 ど素人さん
>当人の「リアル」な「実感」は、錯覚もしくは「錯覚」と呼ぶべきものではないでしょうか。
私の存在の比類なさ(独在性)の実感は、はたして「経験」なのか?
永井は、たしかに独在性について「〜と感じていた」というような表現を使います。
言葉通りであれば、それはカント原理の内部に位置づけられることになりますね。
前思春期における自我体験については、最近やっと一部の心理学者によっても
研究され始めたようです。(永井で言えば、小学校三年生時の<私>体験のこと)
端的に表現するなら「天上天下唯我独在」体験とでも呼びたくなるものですが、
ある研究報告を信じるなら、そういう体験をする子どもは意外に多いらしいです。
体験の性質上、他人に理解されるようなものではないのでしょうけれども、
体験者本人にもその自覚があるらしく、ひとりで抱え込んでしまうことが多いようです。
そうしていつのまにか多くの人間たちのひとりとして振る舞ううちに忘れてしまうらしい。
参考図書 :
『<私>という謎――自我体験の心理学』(渡辺恒夫、高石恭子 編著 新曜社)
>>465 ど素人さん
独在性の実感が、クオリアに還元できうる、つまりクオリアの感受としてしか体験しえない
という仕組みならば、超越的<クオリア>などという実質は存在しないと言えてしまいます。
それでもなお、<私>という存在は経験しうるものなのか?、と問うならば、
もちろん、それは語りえないと同時に経験しえないけれど、永井は近著では、<私>は、
この「私」が、この「世界」で、語りうるための、経験しうるための条件として要請される、
というカント的手法によって、<私>の存在(の必然性)を導出しようとしているようです。
しかし、この手法によって導出された<私>に超越論的統覚(多様な経験が無ではなく
経験として現象しうるための多様を統一する働き。多を「一」にするための根源的な<一>)
以上のものを、すなわち<独在性>を付加することに成功しているかどうかは疑問ですが。
>>504 >永井は近著では、
最新刊ではなく、『私、今、そして神』((講談社現代新書)のことです。
今度、岩波が始めた〈哲学塾〉シリーズに永井均も
「意識は実在しない」というテーマで書くみたい。
>>506 関連しそうなものとして,こんなのがあった。
「意識の神秘は存在するか」(大阪大学?で講義したのを録音したものらしい)
ttp://www.let.osaka-u.ac.jp/philosophy/Radio/handaimetaphysica.html きちんとメモ取りながら聞いたわけじゃないけど,おおむね,(1)心身問題という
のが取り上げられている(チャルマーズ『意識する心』)けど,それは本当の
問題ではない。(2)本当は,物理的な物と,心とが問題なのではなくて,他人には
知ることのできない私秘的なものがあること,publicとprivateとが問題なのだ。
(3)しかし,publicとprivateも,実は本当の問題ではなくて,本当は私という
ものが問題なのだ。という流れだったと思う。
あまり関係ないけど,質疑応答の部分で(質問部分が全体的によく聞こえないけど)
「でも,レヴィナスのいう他者は,それとは違うと思うんですが…!」
「………」「………」「………」「………」「………」
「…まあ,レヴィナスの他者とは,違うかもしれませんけど…。それはちょっと
置いておきましょうか。」
というやり取りがあって,全然噛み合ってなさそうなのが,なんか笑える。
以前千葉大で『意識する心』をテキストにして心身問題を人称問題として解決する、みたいな講義やってたようですね。
保守ついでに新刊はいつ出るのかなあとつぶやいてみる。
例えば「意識なき自己意識が可能」(『西田幾太郎』)というのが、
何のことかいまいちわからなかったんだけど、さらに展開されるんだろうか。
予定では11月5日じゃない。
513 :
考える名無しさん:2007/10/08(月) 23:01:18 0
>「意識なき自己意識が可能」
ゾンビがそうだということでつながるはずです。
ゾンビか…単純に,「意識」がないなら「自己意識」だってあるわけないだろう,
という疑問があったもので。
適当な思いつきだけど,私の意識,あるいは世界そのものといえるような意識の
場合の「意識」と,ゾンビでも自己意識が可能といえるようなときの「意識」とは
別物だ,という議論になるんだろうか。
(こうやって書いたのがもし正しいとすると,ある意味当たり前のような気もする。
そうすると,当たり前のことがよくわからなかった自分がアホみたいなんだけど,
でも,永井の文章って,ときどきわかりにくいよなあw)
515 :
考える名無しさん:2007/10/10(水) 00:24:49 0
つまり、意識と自己意識の重なりは、ある一つの自我において与えられている端的な事実なのではなく、
私と汝の関係から(言語的な場所の成立とともに)不可避的に派生してくる一種の要請なのである。
(「要請」に強調の傍点あり)。
なぜ「つまり」なのかは、第三章の3「存在する私への死」を熟読のこと。
516 :
考える名無しさん:2007/10/11(木) 21:32:37 0
sage
518 :
考える名無しさん:2007/11/06(火) 21:27:34 O
新刊『なぜ意識は実在しないのか』発売記念age
とりあえず、「はじめに」に出てくる一節に笑った。まさか、今後しばらく
哲学から離れた挙句、今までと反対のことを主張することになるんじゃ
ないでしょうなw
>>518 どういうことですか?
近所に本屋がないので教えてもらえませんか・・・?
いや、つまんない冗談なので、真面目に気にされてもw
「本書において表現された思想が真理であることは侵しがたく決定的」
というセリフが出てくるだけです(『ウィトゲンシュタイン入門』など参照)
>>520 なるほどw苦笑まじりですねw
どうもでした。
522 :
考える名無しさん:2007/11/08(木) 20:38:36 0
今回が、今までと反対のことを主張しているのでは?
523 :
考える名無しさん:2007/11/08(木) 23:13:03 0
『なぜ意識は実在しないのか』買った。
すごい本だと思った。
個人的には、「言わんとすることは言えない」というあたりの話が、ようやく
イメージできるようになってきた(最近の2冊も合わせて)。
以前の本だと、何か、「私」という言葉の意味とか指示とかを議論している
ようにも見えて(もちろん自分の理解不足だったんだけど)、何が言えるとか
言えないとかいわれているのか、個人的にはいまいちイメージしにくかった。
今回の本みたいに、意識というところでの議論だと、その点はわかりやすい
と思う。そのかわり、あまり予備知識がないもんで、チャーマーズとか志向性の
話がやや読みづらかったので、全体的にはもっと読み込んでみないと。
525 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 12:41:33 0
今までと反対のことを主張してはいないようだ。
同じことをさらに拡張しているというか…
526 :
考える名無しさん:2007/11/11(日) 22:34:42 0
難しい、というか…
527 :
考える名無しさん:2007/11/13(火) 23:08:54 0
せっかく発売記念ageされたのだから、だれか何か論じてください!
それとも、だれも歯が立たないとか?
>>527 まあそういうあなたも論じてみてよ、反応ぐらいするからさ。
個人的に、まだ読みこみが足りないという気がしているので、
少し冷却期間を置いてから二周目に入るつもり。
せいぜいが大筋を辿ったぐらいで、まだ「はっきり分かった!」という気分にはなれない。
そういや、『はじめに』に講演の録音のURLがあったけど、みんな聴いた?
質疑応答が聴きとり辛かったね。
おっと、ほんとだ。
読み飛ばしてたみたい、すまん。
とりあえずは、今までの本だと、他人の意識などという問題は「本当の
問題ではない」扱いのように見えた(不正確)けど、今回は、意識を中心に
扱っているところが面白そうだ。
といっても、全く新しい議論というわけでもなさそうなので、むしろ
今までの本との関係などを考えてみようかと。
532 :
考える名無しさん:2007/11/14(水) 20:36:28 0
茂木健一郎がこの本を読んでどんな感想を持つかを知りたい。
533 :
527:2007/11/15(木) 09:21:22 0
>>528 論じられるくらいなら、はじめから論じてる。
たしかにすごい本だとは思うけど…
でも、これって本当なの???
としたら、現代哲学の「心の哲学」とか、近代哲学の「心身関係」論とか、
すべて全部、無意味だった、ということになるわけだが???
534 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 09:26:23 0
目立ちたがりが哲学でこれまで誰もやっていなかったことを
やってるつもりになりたがっているとき、
これまでの哲学をすべて否定するというのは、
一番安直な常套手段だよ。
そういうやつは、哲学板でもよくいるだろ?
俺は永井とそいつらの間にあるのは、
知識・教養の程度の差だけだと思う。
ま、そう言っちまえば、本物の哲学者だって
われわれと知識・教養の点で差があるだけか。
535 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 17:10:47 0
つまり、
デカルトやカントやウィトゲンシュタインやハイデガーや……、
も、みんな「われわれと知識・教養の点で差があるだけ」ってことか?
あまり興味深い意見とはいえないな。
>>533 むしろ、他の人たちがこの本のような問題を論じていない(らしい)のは、
なぜなんでしょうね。
このスレだから言うけどw、そっちのほうが不思議じゃないかと。
あと、これは思い付きだけど、別に、心の哲学とか何とかが無意味になる
わけではないのでは。
永井の議論が正しいとして、それによって私だけに意識があることに
なるわけではなく、むしろ、ある意味で意識は誰にでも一般的にあることになる。
他の人たちの議論は、そこから先(?)のことを論じていることになるんじゃないかと。
(しかし、「私だけに意識がある」とか何とかいうことにつき、
「永井の議論」を参照して、それを533氏という「他人に伝える」というのは、
一体どういうことなのか、あるいはどうして可能なのやら…蛇足失礼)
537 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 20:44:25 0
永井は「今秘性」はないと言っているが「今秘性」はあると思う。
「実際そう思った」ということと「今、かつてそう思った、と思ってる」ということは別だから。
「自分が過去のある時点でゾンビだったら、現在の自分がそのことを知ることが可能なのです」
(107頁)
私、これ間違ってると思う。
>>536 >永井の議論が正しいとして、それによって私だけに意識があることに
>なるわけではなく、むしろ、ある意味で意識は誰にでも一般的にあることになる。
そうなのかなあ。むしろ、意識を一般的に論じることができなくなるんじゃないだろうか。
539 :
考える名無しさん:2007/11/15(木) 22:02:56 0
>>537 >…ということは別だから。
でも、別でない、というのが永井の意見なのだから、
そんな単純な常識を持ち出して来られても…。
>>537 他人が「あのトマトは赤いなあ」と言っても、その赤さを私が見てみる
ことは不可能(私秘性)。これに対し、昨日の日記に「今日買ったトマトは
赤いなあ」と書いてあったら、その赤さを今日の私が思い出してみることは可能。
これは、とりあえず、そのとおりだと思われるけど。
その時の実際と今そう思うことが別というのは、より細かくはどういう意味だろう。
または、別だとして、それで今秘性があることになるんだろうか。
例えば、日記を見てトマトの赤さを思い出したけど、実際に昨日のトマトを見た
時点では青く見えていた(?)とか、あるいは昨日の私は実は色覚ゾンビであった(?)
ということ?そのようなことは可能なんだろうか?
また、それらが仮に可能だとしても、昨日のトマトの赤さを今日思い出してみることが
できる以上は、私秘性(他人の見ている赤さを私が見てみることは不可能)
と対比される今秘性は、ないことには変わりはないのでは?
「過去そのものと現在の記憶とは違う」ということは、また別の話になるんじゃないかと。
「私・今・そして神」では「今秘性」があるように語られていると思うが。
542 :
537:2007/11/16(金) 01:47:44 0
>>540 意識の私秘性ということは他人のクオリアを体験することが不可能ということではない。
自分の意識は端的に存在していて、他人の意識は言葉や身体の振る舞いによって
想像するしかないということを言っている。私は記憶や物的な証拠によって過去の自分の体験を想像する。
この意味において、過去の自分は普通の他者と同列の存在と感じられる。
543 :
考える名無しさん:2007/11/16(金) 09:46:10 0
では、過去の自分と普通の他者との「違い」はどこにある?
これが、そこで問題になっていることで、
この本では、主題がクオリアだから、その観点から答えられている。
俺はその限りで正しいと思うが、「今秘性」という用語が適切かどうかはまた別だ。
しかし、いずれにせよ、この本にとって中心的な問題ではないな。
544 :
540:2007/11/16(金) 13:31:08 O
>>541 どのへんに?パラパラめくってみたけど、(記憶に身体性を与えてみたら
どうなるか、という部分を除けば)見当たらないように思うけど。
>>542 「私秘性」をそのように定義するなら、少なくとも、永井がこの本で論じていることとは、
違うと思われるけど。
>>544 >どのへんに?
5分前世界創造説というのは、今秘性を前提にしている。
あとクオリアの逆転の話で、記憶が変化したという想定もそう。
546 :
540:2007/11/17(土) 00:53:09 O
>>545 私秘性と対比される今秘性は、あくまで、意識とかクオリアについての話で、
客観的な事実と記憶・証拠が食い違うということとは別なんじゃないの?
だから、少なくとも、5分前世界創造説の話は、今秘性とは別だと思うんだけど。
…と書きはしたけれど、新刊の第3日を改めて眺めてみて、ここをきちんと
読み込めた暁には、今まで書いたことが全てアホだったことが判明しそうな
悪寒がしてきた。
第1日・第2日が取っ付きやすそうだったので、ついそちらに注目していたけど、
第3日こそが進んだ議論をしている気がしてきた。その分ほんと頭に
入りにくいけど(少なくとも自分には)。
ところで、この本は、必然性を全ての可能世界で成り立つこととする
などという議論を前提にしているように思われるけど、哲学をきちんと
勉強している人はともかく、普通の(?)読者には難しくないですかね?
今までの本にも書いていないことはないけど。
というか予備知識の持ち合わせに限度がありますがなw
あと、『私・今・そして神』では、他人の心とか他人の「私」については
神の御業が論じられていたけど、今回はひたすら累進構造とされていて、
神の御業は出てきませんでしたなw
548 :
考える名無しさん:2007/11/19(月) 20:52:58 0
最上段が神の御業だ。
もちろんその「神」にも累進構造があるから、
最上段の神というものが考えられる。
その最上性は何が与えるのかといえばもちろん再び神だ。
だからこそ神なのだ。
他人は最上段ではないでしょ
『意識』の最上段は『神』の現実と対応していると思われるので(省略失礼)、
最上段が神の御業というのは、そうかなと思うけど。しかし、最上段というのは、
まずは私にだけ当てはまるはずのものではないかと。
そうすると、他人(ロボット)の心が云々というときに、識別できないが
理解はできる違いであって、理解できるのは神を信じているからだ、というのは、
一見イメージしやすそうに見えて、実はかなりややこしい段階の神の話だった
ということになるんですかね。
551 :
考える名無しさん:2007/11/21(水) 00:13:11 0
最上段は「神の御業」であって、そこに「信仰」は関与しない。
550の後半の話は、まさにその通り「神を信じているから」なのだ。
つまり、「神の御業」ではなく「神の信仰」だ。
ここ決定的な違いがある。
それを理解するれば、特ににややこしくはない。
552 :
考える名無しさん:2007/11/23(金) 15:22:52 0
対談 哲学の誤読
11020941
講師: 日本大教授 永井 均
青山学院大准教授
入不二基義
講座の内容: 永井著「解釈学・系譜学・考古学」が大学入試に出題され、 予備校等から出された解説や解答例には誤読が散見されました。 他の出題文章も交え、 哲学の文章の読解をめぐって語り合います。
期間・曜日・時間: 2/16
土 15:30〜17:30
受講料(税込み): 1回 会員 3,360円
一般 3,990円
肝腎のソースはー?
検索してみたけど見つかんないよ・・・
555 :
考える名無しさん:2007/11/23(金) 18:50:15 0
■[本]永井均『哲学塾 なぜ意識は存在しないのか』(岩波書店)
なぜ意識は実在しないのか (哲学塾)
作者: 永井均
出版社/メーカー: 岩波書店
発売日: 2007/11
メディア: 単行本
相変わらずの独走ぶりです先生。某mixiでも飛ばしておられますし。
今回はデイヴィッド・チャーマーズが生贄。
意識する心―脳と精神の根本理論を求めて
作者: デイヴィッド・J.チャーマーズ, David J. Chalmers, 林一
出版社/メーカー: 白揚社
発売日: 2001/12
メディア: 単行本
しかしこのシリーズって、永井さんのとか山内志朗さんのは違うけど、9年前の『新・哲学講義』の講義部分のリライトになってるやつが結構多くて、ちょっと興ざめ。
90年代以降、少なくとも人文社会系については、岩波の企画力ははっきりと落ちてますよね。これはもう個々の編集者の力量とか見識を超えた、企業レベルの問題でしょう。
稲葉振一郎先生ですね。
>>554 どもども。
やっぱり東京かー、行けないなあ。
>>555 確かに良し悪しは別にして独走していることは間違いないよな。
のっけから「心身問題なんて二元論だろうが、唯物論だろうが、
適当に好きなのを選べばいい」と言いきってるわけだから。
この一文だけでもほとんどの哲学者を敵に回すことになるんじゃないか。
559 :
考える名無しさん:2007/11/26(月) 10:10:57 0
あれは言い過ぎ。
なぜなら、
永井のあの立場からもさらにもう一度
二元論や唯物論が真に意味するところを位置づけ直すことができて、
それが伝統的にもあらゆる超越論哲学の課題だったのだから。
心身問題を否定すること自体は哲学的にはむしろ当たり前のことだ。
>永井のあの立場からもさらにもう一度
>二元論や唯物論が真に意味するところを位置づけ直すことができて、
そうは思わない。
そう思う理由くらい書いとけよ。
新著をぱらぱらとめくってみたが、どうもこれまでの焼き直しの印象で食指が伸びず。
替わりに未読だった今更ながらの『<私>のメタフィジックス』購入。
既に20年以上前の著作に突っ込んでもしょうがないのだが、気になったことを幾つか。
・・・・もちろん、「他人」に「心」があることは文法的真理とみなしうる。「他人」に「心」
があることは、「他人」という語、「心」という語の使用規則のうちに前提されており、それを
疑うことは「未亡人」の夫が死んでいることを疑うことと同様、言いかえれば一般に定義を疑う
ことと同様、無意味なことだと考えることもできる。だが、未亡人であると信じられている女性に
関して、夫の有無を調べる興信所員が文法違反を犯しているわけではないのと同様に、他人である
“と信じらている”(原文傍点)存在者(私以外のすべての人間)に心があるかどうかを問題に
することも、文法違反を犯しているわけではない。(同書10p)
とあるがこれはいけない。だって確かに未亡人と信じられている人の夫が実は死んでいなかった
のではということは疑い得るし、実際に調査できるけど、自分以外の人間に心があるかどうかはそれと
同じようには調査できないのだから、この類比はまやかしだ。著者の論点は文法違反かどうか
という点にあるとしてもこれは看過出来ないすりかえだと思う。(実際或る女性が未亡人かどうかを
疑うやり方は全然文法とは関係無く、経験的に検証されるべきことだ。)
『「他人」に「心」があることは文法的真理とみなしうる。』というこの部分で永井氏の批判する論点も
ごく常識的に言って普通、「他人」という語は「自分以外の人、親しくない人」の意味で使われる
だけであってそれに「心」があるとか無いなんていうことは定義の中に含まれていない、と言えば
済む話ではないか。(どうしても必要だと言われれば定義に後から「自分以外の人、親しくない人、
そのうちの心を持っている人」という風に付け加えてもいいけど、こんなことに意味があるわけではない。)
563 :
560:2007/11/27(火) 19:05:03 0
>>561 永井は心の哲学でいう2元論や唯物論に興味を持ってないから。
位置付けなおされると思うなら、あなたがそうすればよい。
>>562 >自分以外の人間に心があるかどうかはそれと
>同じようには調査できないのだから
調査できるかどうかを問題にしているんでしょ。
実際その箇所の少しあとで「他人に心がなかった」といえるような
状況を例示している。
>>562 その部分の「同様に」という表現が、やや厳密でなかったとして。
で、それが何なの?
その部分以後の議論が、ひたすら他人の心の存在を未亡人の夫の存在と同様に
検証できるなどと扱っていて、それで論旨が破綻している、とかいうのならともかく。
というか、他人の心についての永井の議論を検討したいなら、それこそ新刊を読めばいいじゃないの。
>>564 >「他人に心がなかった」といえるような状況を例示
『ある日突然、他人たちが自分達が自動機械であったと告白し、自分の身体を開いて
機械的な印象をもたせるような何か』(同書11p)を見せてくれる場合?
でもそのすぐ後に『(もちろんその場合でも、それでも彼らには心があるのではないか
という逆の疑いは反証されないが)』と続けているわけで、結局他人に心の有無の
調査は及ばないのは明白。ま、そりゃ当然だ。他人の心の存在を疑い得るというのが
前提で話が進んでるんだから。
>その部分の「同様に」という表現が、やや厳密でなかったとして。
>で、それが何なの?
ええと、「やや厳密ではない」というようなものではなく、明らかに間違った類比
なわけで、ミスリーディングを起こす可能性がある、と。多分これを永井氏に指摘すれば
取り消すと思うのだけど。まあ、揚げ足取りだけど、やっぱりこういう細かいところを
つっつかないのはよく考えて読んでない証拠になると思うし。
>その部分以後の議論が、ひたすら他人の心の存在を未亡人の夫の存在と同様に
>検証できるなどと扱っていて
というのも結局未亡人の例がまずいことを例証しているわけで。(つまり未亡人の夫
の存在のように他人の心を検証など出来ないことは明らかなのだから)
>>566 >結局他人に心の有無の調査は及ばないのは明白。
未亡人の場合もそう言えるんじゃないの?
568 :
考える名無しさん:2007/11/28(水) 10:49:48 0
未亡人と信じられている人の夫が実は死んでいないのでは、と疑い得るし、実際に調査できる。
のと同様、自分以外の人間に心があるかどうか、と疑い得るし、調査することもできる。
チューリングテストでもなんでもいい。とにかくそういうことができるというが問題なのだから。
その意味において、「未亡人」と「他人」の間に類比が成り立つのであって、
「調査が及ばない」ことは未亡人でも同じだという点は567の言うとおりだが、
それはそもそも論脈と関係ない(かりに「未亡人」は完全検証できるとしてもかまわない)。
文そのものは分析的真理であっても、適応事例が妥当かどうかを経験的に調査できる、
という事実を確認している論脈の議論にすぎないのだから。
「他人」という語はに「心」があるとか無いなんていうことは定義の中に含まれていないと言えば済む話
などでは全然ない。本当にそう思うなら、あなたは哲学の議論が何も分かっていない。
たとえ定義に含まれていても、事実は違うことがありうる、という論脈の議論だからだ。
哲学においては、結論がどうであるかではなく、いかなる論脈でなされた議論であるかを理解するこ
とが決定的に重要になるのだ。
「多分これを永井氏に指摘すれば取り消す」どころか、かなり馬鹿にされるだろう。
ええっと・・・562の主旨はあっさり理解されると思ったんだけど・・・・
もうちょっと段階を踏んで丁寧に説明すると、
(1)「未亡人」という概念は「夫を亡くした、現在独り身の女性」という意味で、人は
この<概念>を疑うことは出来ない。これを疑う人は「未亡人」という概念を理解していない。
即ち、文法違反。
(2)しかし或る女性がこの「未亡人」という概念に当てはまる人物かどうかは概念の問題
ではなく、実際に調べられなければならない。(それ故『未亡人と信じられている女性
に関して、夫の有無を調べる興信所員が文法違反を犯しているわけではない』(同書)
と言えるわけ。)
さて翻って他人の心の場合、まず永井氏は「他人」に「心」があるということは文法的真理
である、と仮定してみてこれを(1)の場合と類比してみせる。そしてここまでは正しい。
ところが次に「未亡人」という概念の経験的な検証の例(2)と類比して、
『他人である “と信じらている”(原文傍点)存在者(私以外のすべての人間)に心が
あるかどうかを問題にすることも、文法違反を犯しているわけではない。』と結論付けている。
ここが永井氏のうまいところだが、心があるかどうかを<検証>する、とは言わず、
「問題にする」と逃げている。でもちゃんとした類比が成り立つにはここは「問題にする」
ではなく、「検証する」としなければならない。「未亡人」の場合のステップ(1)、(2)
は正しいけど、この<正しさ>を利用してそれと類比の成り立たない「他人の心」の議論の
正当性を主張できはしない。まあ単純に言ってうっかりミスの類いだと思うけど・・・・
横から口出しすいませんが、永井氏が言っているのは
「ある命題の真偽を調査・検証できるかどうかと、その命題の真偽を問題に
することに意味があるかどうかは、別である」ということではないのですか。
たとえば、「ある人は未亡人である(またはない)」という命題は、どこまで
調査・検証が可能かどうかは場合により、全く検証不可能な場合も考えられますが、
しかし、その命題は真であるか偽であるかどちらかであって、それは客観的に
決まっている、だからその真偽を問題にすることは意味がある、つまり
その命題は意味がある、と考えるのが一般的だと思われます。
同じような意味で、「ある人には心がある(またはない)」という命題も、
これは未亡人の場合と違って原理的に調査・検証は難しいと思われますが、
しかしその命題は客観的には真か偽かどちらかであるのだから、その真偽を
問題にすることには意味がある、つまりその命題には意味がある、
というのが、永井氏の言いたいことではないのでしょうか。
もちろん、仮にそうだとして、それが正しいかどうかは別問題です。
というか、個人的に永井氏は上のような考えには否定的なのかと思っていたので、
ちょっと意外なのですが。
571 :
考える名無しさん:2007/11/28(水) 17:52:11 0
>>569 それを読むかぎり「問題にする」で何の問題もなように読めるが…
いったい何に難癖つけているの?
勝手批評氏が言いたいことは、「他人の心があることは検証できない」ということ
にすぎないと思う。
>>572 うーんとそうじゃなくて、永井氏の類比が間違っているではないか(というかトリック
に近いのではないかと思ってるけど)ということをくどくどと書いてきたんだけど・・・
みんなあっさりあの辺りは納得しちゃってるのかなあ。だって或る女性が「未亡人」か
どうかと他人に心があるかどうかの問題は明らかに同等ではないじゃない。前者は役所の
婚姻届と死亡届を見ればばわかるけど後者はそうじゃないんだし。
まあ、これは全体の論旨とは関係ないから難癖というのはその通りだけど、一応哲学的難癖だから。
574 :
572:2007/11/28(水) 21:20:53 0
勝手批評氏は意味の検証理論に毒されているだけだとおもわれ。
575 :
565:2007/11/29(木) 00:43:45 O
他のレス(特に
>>568氏、
>>572氏)と同じ趣旨と思うから、重ねて書かなくても
まあいいんだけど。
指摘の箇所での永井の議論は、その箇所に限定すれば、「概念・文法の問題と
事実の問題は違う」ということしか言っていない。だから、未亡人と信じられている人
(「未亡人」の概念ではなく)について事実調査ができることと、他人と信じられて
いる存在者の心というもの(「他人」「心」の概念ではなく)
について事実調査ができることを対比するのは、文法・概念と事実の関係という限りで、
何ら間違いではないといえる。
もっとも、他人の心についての事実などというものを問題にしても、検証できない
じゃないか、という疑問はあると思われる。しかし、それについても、該当箇所をわずか
数ページ読み進めれば、検証ではないにしても確からしさはかわるのではないか、とか、
他人が全て死んでしまったという事実などとは違う事実の問題であることに注意すべき
だとか、一定の説明が出てきてるじゃないか。
そのへんまで含めても論旨に矛盾・破綻が指摘できるというならともかく、そうでないなら、
該当箇所は、せいぜい数ページ進む間、「あれ、でも検証の問題はどうなるんだろう」
とい
576 :
565:2007/11/29(木) 00:45:31 O
他のレス(特に
>>568氏、
>>572氏)と同じ趣旨と思うから、重ねて書かなくても
まあいいんだけど。
指摘の箇所での永井の議論は、その箇所に限定すれば、「概念・文法の問題と
事実の問題は違う」ということしか言っていない。だから、未亡人と信じられている人
(「未亡人」の概念ではなく)について事実調査ができることと、他人と信じられて
いる存在者の心というもの(「他人」「心」の概念ではなく)
について事実調査ができることを対比するのは、文法・概念と事実の関係という限りで、
何ら間違いではないといえる。
もっとも、他人の心についての事実などというものを問題にしても、検証できない
じゃないか、という疑問はあると思われる。しかし、それについても、該当箇所をわずか
数ページ読み進めれば、検証ではないにしても確からしさはかわるのではないか、とか、
他人が全て死んでしまったという事実などとは違う事実の問題であることに注意すべき
だとか、一定の説明が出てきてるじゃないか。
577 :
続き:2007/11/29(木) 00:55:24 O
そのへんまで含めても論旨に矛盾・破綻が指摘できるというならともかく、そうでないなら、
該当箇所は、せいぜい数ページ進む間、「あれ、でも検証の問題はどうなるんだろう」
という疑問を抱かせる余地がある程度にしか問題は見つからない。
だから、「やや厳密でなかったとして、それが何なのか」と表現したんだ。(念のため
繰り返すけど、全体の論旨に疑問があるかどうかは別論だ。)
該当箇所がそんなにミスリーディングに見えるとしたら、それは、読者のほうが、
「他人の心といったら、何より、心の存在を検証できないということを指摘すべきだ」
とでもいう思い込みを持っているからじゃないか。
(正直、自分も最初は「あれっ?」と思ったけど、ほんの数ページも真面目に読めば、
何のことはない。)
全く、「よく考えずに読んでいる」って、誰のことを言ってるんだか。
それとも、文脈を無視して検証主義的?な考えを勝手に持ち込むことが「よく考える」
ことだと言うのかねえ。それが(文脈に従うことよりも)生産的な議論に結び付くと
でもいうなら、まあいいんだろうけど。
>しかし、それについても、該当箇所をわずか数ページ読み進めれば、検証ではないに
>しても確からしさはかわるのではないか
については既に566で取り上げているんだけど、確からしさがどれだけ増えたとしても
問題の解決にならないことは明白ではなかろうか。限り無く白(他人に心がある)か
限り無く黒(他人に心は無い)の間を行き来するだけで。結局はっきりと白黒が言える訳ではない。
もちろんこれは哲学的懐疑を持った場合にだけ起こることであって、重要なのは
何故こんな(ロボットの)懐疑が生じるのか、或いは通常は何故こういう懐疑が生じないのか
という点にあるのだろう。
心の検証理論がどうとか言ってるけど、そんなのは全然関係なくて永井氏の類比に
跳躍がある(非常にうまく隠されているが)という実に瑣末な、しかしもっともな
指摘をさらっと理解してもらいたかったのだが。569の説明以上にうまく説明
する自信が無いな。これは別に永井氏の全体の論旨とは関係無いと573でも
断っているんだが・・・