1 :
考える名無しさん:
この板来てびっくりしたんですが、随分賛否両論ある人みたいですね。
まともな批判(というか評価)を見たことがないので、立ててみました。
2 :
考える名無しさん:2006/05/07(日) 15:37:19
デリダを論破したそうですね
メコスジ青嗣を性的に批判するスレ
5 :
考える名無しさん:2006/05/07(日) 22:23:12
竹田評価する者は基本として、まず次の問いにきちんと答えなければいけない。
フッサール現象学を誤読してるのか?
竹田現象学とフッサール現象学はどう違うのか?
フランスのポスト構造主義の思想(おもにデリダ)批判は正当か?
>1
お前のように平気で重複スレ立てていくような信者が多いから
それ相応の評価なんじゃないか。
8 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 17:50:27
48 人中、20人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
こうして殺されていくのか?, 2002/10/15
レビュアー: 涜書家 - レビューをすべて見る
永井氏のものとこの本を読み比べてみればわかることだが、この本を読んで見えてくるニーチェは、
通俗道徳とさえ共犯関係に立てるものだし、人生読本として読むに耐えうる思想家である。しかし、
そうであればあるほど「ニーチェなんぞ要らない」という一言で切って捨てたくなってしまう。これは、
思想家と哲学者などという区別の問題ではなく、単に読んでいてくだらないのだ。この本のニーチェ
は死んでいる。竹田氏は、同じシリーズのプラトンの入門書で、プラトンを蘇生させたのだが、ニー
チェも同じように活かそうとして失敗している。プラトンは、儀礼的な批判の反復にさらされている。
だが、ニーチェに関しては、そうではない。
あと、現代思想に興味がない人間にとっては、ドゥルーズがニーチェについて何を書いていようがいまいが
どうでもいい。
ニーチェの本のなかで学問的意義を完全に失っているものがあっても、それもどうでもいい。
解説書なら、腐るほどあるはずだ。そして、この本は腐るほどあるなかの一冊に過ぎない、ただそれだけだ。
9 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 17:53:36
どう考えても哲学ベースの作家。
独学だけど、えらいね。
10 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 19:55:02
竹田が研究しているハイデガー、ヘーゲルにしても人間を世界の真の主体とみなすことへ否定的だ。対する竹田は全共闘時代への自己否定の徹底ゆえか、人間に対する超越項をいかなる意味でも認めない、との立場を強く打ち出している。よって竹田の社会論は→
11 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 19:58:51
→その課題を、いかにして開かれた社会を実現しうるか、におく。つまり社会自体を否定はせず、どこまで改良できるのか、におく。その辺はハイデガーと随分違う。いかなる社会であれ、共存在の領域で頽落は不可避、というのがハイデガーだからだ。竹田の立場を→
12 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 20:04:50
→社会改良主義とよぶことは可能だろう。その性質ゆえ、ハイデガー『哲学への寄与』などにあからさまである現代社会への過激な否定性は免れている。しかし同時に竹田の社会観に生温さも感じさせる要因にもなっている。根本的な見方が→
13 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 20:10:03
→欠如していると映るのだ。なぜそうなるかといえば、先に挙げた、超越項への否定がそうさせざるを得なくする訳だろうが。加えていえば吉本親鸞論への異和観も同様で、人間存在が相対化される思考があり、そこが竹田からは否定される。→
14 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 20:16:04
→その辺りが竹田の立場を最もよく表わす分岐線になると思う。そこがハイデガーなどに比べて根本的眼差しが欠けているように見える要因でもある。竹田自身は自分の長所だと思っているかもしれないが。たがら一言でいえば竹田の思想とは《ヒューマニズムを越えない》笑
とりあえず→
→PC買えよ→
→貧乏人(笑)
19 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 00:54:33
竹田青嗣は吉本隆明における批判の根拠を吉本の唱えていた〈大衆の原像〉にみる。これを社会批判の根拠として措定していたから吉本の批判は硬直化や自閉を免れていた、と。この言い方の背後に、また、かような吉本による方法を正統に、むしろ吉本自身よりも→
→PC欲しいけど金が無い→
→でも〈大衆の原像〉っていかにも「硬直化や自閉」化しそうなコンセプトだよね→
→「大衆」「大衆」って自分はいったい何様のつもりなのか、その点が→
23 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 01:00:10
→正統に継承している、かつ方法化しているのが他ならぬ自分なのだ、という自負もみえる。
しかしこのように吉本を纏めあげる竹田は吉本の思想を実は矮小化している。吉本の思想では竹田のような〈大衆の原像〉のオール・マイティ化は避けられている。→
→そういう俺は単なる吉本信者なわけで、→
25 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 01:21:53
→たしかに〈大衆の原像〉は吉本の批判の根拠だがそれを包括する観点も様々に介在している。親鸞を援用しながら、新しい善悪を作れるか否かを自問する姿もそれだ。オウム批判で〈大衆の原像〉は変わらず使われてはいる、そこから見ればオウムは肯定のしようはない→
26 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 01:26:59
→と吉本は発言している。しかし、だからといって竹田青嗣のようにオウムに対して〈大衆の原像〉による批判に留まるということはない。そのような思考停止からは吉本は免れている。これまた竹田にすれば市民社会の原理に拘る自分こそが卓越していると見なされている→
→重複スレに携帯で細々とレスを書き込んでいる人間のウザさも肯定のしようはないし→
→まとめると竹田は神でありいわゆるGOD→
29 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 01:33:33
→かもしれないが。フランス現代思想についても竹田は発言しており、“吉本の方が強度では勝っている”とそこでは吉本を持ち上げている。しかし竹田に何と批判されようと“フランス現代思想”がヒューマニズムを越えた場所への移動を試みていた点で竹田よりは深い。
31 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 02:04:29
なるほどねー、だけど【竹田青嗣を語るpart11】には気になる議論がなかったのでね。俺を笑わしてくれる中傷もいないと寂しいし笑
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓