621 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 18:30:15 0
622 :
考える名無しさん:2010/02/28(日) 20:11:48 0
イカした時代だったろう。お前ら忘れやすすぎだぞ?
ウィトゲンシュタインの「ブラウンブック」は1934年だから、
ドイツ国会議事堂放火事件でミュンツェンベルクがブラウン
ブックを出版したのと同じ頃だな。
移住計画を立ててソ連に旅行に出かけたのが、その翌年1935年だもんな。
その辺の事情は分かりやすい。
625 :
考える名無しさん:2010/03/16(火) 22:18:52 0
KAWAII
うるせえ、俺は今、ミュンツェンベルクからヒトラーの話を聴いておるのだ。
「宣伝」の意味するところが、共産党の「教化」に対して、
ヒトラーの「煽動」という違いの指摘などは実に明快だな。
ナチスとまともにやりあって勝ち点を挙げた人物の直接の
証言は読み応えがある。
相争う両者の目標は、相手方こそドイツ国会議事堂放火の犯人であると立証する
ことであった。世界は恍惚としてこの情景に見入った。だが、幼い子供に複雑なス
リラー映画が分からないように、この裁判の本当の意味は皆にはほとんど分かって
なかった。世界はまだ全体主義者たちの宣伝の舞台効果には慣れていなかったし、
言語に絶する彼らの陰謀瞞着の技法をまだ知らなかったのである。しかもこの場合
ショーのプロデューサーは、後のモスクワ裁判の時とは違って、一人ではなく、二人と
きている。集まった部族の者たちの面前で二人のまじない師が弁を競うように、両者は
策略の限りを尽くして、相手を論破しようとしたのである。
この二人のまじない師は、ドクトル・ヨーゼフ・ゲッベルスとヴィリー・ミュンツェンベルク
であった、だが、後者の存在を知る人は、当時も、また今日も、あまりいない。
ケストラー『目に見えぬ文字』1954
私がパリに着いたのは、国会議事堂放火事件の裁判が全ヨーロッパの
注目を集めて進行している最中のことだった。着いた翌日、初めてヴィリー・
ミュンツェンベルクに会った。コミンテルンの西欧情宣部長である。同日、彼の
本部で業務を開始し、ベルリン、モスクワ間の大宣伝戦に、端役とはいえ参加
することになる。この戦いはナチス側の完敗に終わった。戦前の七年間に、
我々がナチスを破ったのはこの時だけである。
引用同、
>>628の前にある文章
630 :
考える名無しさん:2010/03/18(木) 00:41:42 0
ハンナ・アレントはヴェイユについては何も語ってないの?
もしあれば読みたい。
ケストラーの『スペインの遺書』についてのヴェーユの文章ならあるな。
同時代的に出版された『スペインの遺書』は、カミュの『異邦人』にも
影を落としているはず。
吉本の「蘇るヴェイユ」を読んだ。
どの箇所も吉本らしい考察なんだが、「重力」についての考察は腑に落ちた。
633 :
考える名無しさん:2010/03/19(金) 18:38:39 0
反動家ル・ボンからヒトラーが学んだことは、物事の本質的な部分は何も
変えず、名称やレッテル、色、形を変えるだけで幻想を作り出すことができ
るということだった。・・・
ル・ボンのこの主張にヒトラー宣伝は熱心に従った。ドイツの企業家(その
権力と利益は増大する一方である)は、もはや企業家ではなしに「従業員の
指導者」であり、無産労働者は、労働者でもプロレタリアートでもなく従業員
メンバーであって、工場も工場とはいわずに従業員の指導者と従業員層を
守るという共通の利益を持つ城だ(労働戦線の指導者ライによる)。搾取は
「ドイツ社会主義」、奴隷状態は「自由」、独裁は「より高次の民主主義」、
戦争準備は「平和の確保」、嘘は「真実」、いまや称している。
『武器としての宣伝』1937
634 :
考える名無しさん:2010/03/19(金) 18:50:44 0
バタイユの「空の青み」に出てくるシモーヌ(をモデルにした人物)は非道ス
。
「よく通りがけにテーブルをひっくり返しそうになるのだ」はいかにも彼女らしいが。
醜く
それと解るほど薄汚かった
しみのついている黒い衣服をまとっていた
その短く切った、硬くてよく櫛の通ってない髪は顔の両側に垂れ下がり、カラスの翼然としていた
この両翼の間から、黄色い肉の、痩せこけたユダヤ鼻が、鋼鉄製の眼鏡の下に突き出ている
636 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 21:11:45 0
バタイユ 聖性の探究者 (単行本)
酒井 健 (著)
出版社: 人文書院 (2001/07)
生の不安、死の気配、神の不在、「無」の存在論、極めて不明瞭で捉えどころのない、
理性の力では解き明かせないめくるめく神秘的体験、そして聖なるものへの熱く苦しい
渇望―バタイユの思索を中世ロマネスク美術や北方ルネサンス、ゴシック建築の大聖
堂などを背景に、ニーチェ、ヴェイユ、岡本太郎その他、バタイユと深く関わった作家、
思想家を通して論ずる意欲の論集。
637 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 21:14:43 0
神秘主義に傾倒する前は共産主義を伝統的な(制度的)至高性souverainete'に最も対抗できる
運動として称揚し、1931年から後のフランス共産党の創設者の一人ボリス・スヴァーリヌ率いる
「民主共産主義サークル」のメンバーになるなど革命的知識人の側面があった。この団体が解
散された1934年でも新たにトロツキスト団体に加入したが、バタイユはこの頃に「内的体験」や
「瞑想の方法」に目覚めたとされる。
また、ナチスのニーチェ濫用を早い段階から非難し、著作で「(主体的な)至高性が足りない」
「ドイツの教授先生」と批判したハイデガーから、「フランス最高の頭脳」という賛辞を呈せられた
ことは有名。ジャック・デリダ(『エクリチュールと差異』にバタイユ論がある)やミシェル・フーコー
(「侵犯の思考」というバタイユ論がある)への影響も見逃せない。しかし、フーコーとドゥルーズは
のちにバタイユを批判した。
638 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 21:20:57 0
>>635 Le Bleu du ciel, 1957 (Written 1935-36) (Blue of Noon)
ヴェーユは終戦前に死んだ。出版したのは戦後、かなりの
時間を経てらしい。迷ったんじゃないか?
639 :
考える名無しさん:2010/03/25(木) 21:39:06 0
641 :
考える名無しさん:2010/03/26(金) 20:29:19 0
ヴェーユはニーチェについては「生理的な嫌悪」があるとかで、
嫌っていた。ニーチェ好きの女性って、余り聞かないけどな。
俺は最近ヴェーユが原始仏教と出会っていたらどうなったかという妄想をよくする。
苦しみぬいたヴェーユには苦しみからの開放という発想は
一切見当たらなくて四諦のうちの苦諦について考え抜いたけど、
その先には恩寵による自己の消滅と神の喜びだけがある道しかない。
彼女の"扉"という詩を読むと色界禅定の初段階である空無辺処まで
いったことがあるように思える。
阿弥陀仏の名号を唱える方法は神へとまっすぐに通じる道だと評価していたし、
やはりあまりにも若くして亡くなってしまった。
もっと生きていて欲しかったが、あの生き方しかなかったんだろうな。
世界はまさに汝を欲している
643 :
考える名無しさん:2010/03/30(火) 17:23:55 0
扉を開くと虚空が広がるって詩ね。
>>627 社会主義においては、宣伝とは教育を意味し、
ヒトラー主義においては、教育とは宣伝を意味する。
ということだな。『根をもつこと』でもヒトラー主義への
哲学的反論をやってるね。後半かな。
644 :
考える名無しさん:2010/04/09(金) 21:59:12 0
ここは「聖性」という言葉から最も遠い世界だ。
俺の神秘体験(照明体験)は、どこか仏教的なところはあったな。
実生活において、キリスト教との関わりがほとんどなかったせい
だとは思うんだが。
ただ内なる光に圧倒された。ブッディ(叡智)の目覚めと表現しても
構わないだろう。
「神の臨在」とかの類の言葉は何も連想されなかったからな。
ただ体験そのものは尋常ではないので異次元の扉が開けて
しまったという実感は強く残った。
俺は「広き門」をくぐりたくて、結局、出来ないまま、
諦めた。それに背を向けると、目の前に「狭き門」
を見つけた。
そういう全くアイロニカルな印象を受けた。
ある意味、「普通の」日本人だ。教会には近寄ったこともない。
651 :
614:2010/04/10(土) 18:08:58 0
多分、俺はただの影なんだろう。影は死ねば消える。
652 :
614:2010/04/10(土) 19:14:43 0
>>652 だって「よみがえるヴェイユ」そう書いてあったんだもん。
俺の勤務先では毎日神様とお話ししている人や、魔女に追っかけれてる人がいるよ。
654 :
614:2010/04/10(土) 21:32:49 0
俺もわんさか悪霊に取り憑かれて難儀しとるよ。
ジジィには聖と俗の区別が曖昧だからじゃねえの?
また、規制かけやがって。政治論議で負かされるとこうだ。
655 :
614:2010/04/10(土) 21:36:03 0
右翼ナショナリズム、帝国主義、カネと権力の亡者、
この世は悪霊ばっかし。
ヴェイユたんはニーチェやD.H.ロレンスのアポカリプス論は読んだのかな?
聖と俗、永遠と時間。
垂直に交錯するもの。
影のない正午。
十字架とは永遠と時間の交差する「瞬間」だ。
これはニーチェではなくキルケゴールだな。
>>648 俺はただの地方労働者だ。体制順応がどうにも出来なかった。
世の中に合わせてバカになろうとして、出来なかった。
仕方なしに一人で生きて一人で死ぬことに決めた。
そうしたらアタマが爆発的に冴え始めた。
小泉のバナナ革命を食い止めるためにインターネットを始めたが、
もともとこういう安易な真似はしたくなかった。
最後の敵はアメリカだけどな。
俺の苦悩の原因は日本人であることの無意味さだったかも知らない。
あるいは、移民の国を中心に形成された、
薄っぺらい合理主義の、根無し草の世界。
666 :
考える名無しさん:2010/05/23(日) 23:59:04 0
ホームレスのボランティアやってるんだけど、人に役立ちたいとか可哀想で
とかが理由でない。自分の罪滅ぼしでやってるって感じ。
普通の家庭に生まれ育った。しかし世の中にはどぶさらいのゴミみたいな人生
しか送ることができない人たちもいる。それに比べなんて自分は幸福なんだろ。
でもその幸福は自分で勝ち取ったものではない。ただそういう環境にあった
だけだ。自分より下の生活しかできない人たちの罪滅ぼしをしなければならない。
そんな気持ちになっている。
ヴェイユがスペイン戦争に参加したり、工場労働をしたりしたのも、そういった
罪の意識から来たものじゃないだろうかと思う。
生まれによって作られた罪は、もはや原罪といっていいだろう。
667 :
考える名無しさん:2010/05/24(月) 00:02:09 0
>>666 大女優がボランティアをやりたがる心理も近いだろうね。
ただ、藤原紀香は全然、その域に達していないから、まず女優業が先決だと思うw
小泉はもともと自民党の傍流で、相手にしてくれるメディアも二軍ばかり
だったんで、そっちから攻めたらしい。だから顔ぶれが見事に二軍の
集まりだったと。某誌の受け売りだけどw
シモーヌ・ヴェイユといえば、漫画家の山田花子と通じるものがありますね。