1 :
考える名無しさん:
2 :
考える名無しさん:2006/04/24(月) 23:05:00
西條剛央の「構造構成主義とは何か」での竹田評価が一番的確だと思う。
彼は、竹田の哲学をベタほめなんだけど、フッサール現象学解釈としてではなくて、
竹田現象学の完成度をほめている。
フッサールと竹田の現象学は違う、ときちんと書いてるしね。
>>2 ほう。
西條氏は、ちゃんと判ってるんですね。
4 :
考える名無しさん:2006/04/25(火) 23:15:20
>>3 西條の主題や目的は、竹田と驚くほど重なっており、彼の本は竹田現象学の解題といえるほど。
竹田の趣旨を誤解してる人は西條から入ったほうがいいのではないか、といえるほど。
私は、存在論=本質=実在への憧憬を残して煮え切らなかったフッサール現象学よりも
そういう面を捨象し、欲望関係論に特化した竹田現象学のほうが理論としての完成度は高いと思います。
正直、コジェーヴのマネ。以上。
だがしかし、コジェーヴって(知ってる人は知ってるんだけど、しかしそれでも)
あんまり注目されてないやん。
7 :
考える名無しさん:2006/04/26(水) 02:17:44
竹田も知ってる人は知ってるが注目されてないような。
まぁ哲学そのものが斜陽だからなぁ。
非哲学である(らしい)現代思想ってのも、斜陽ぽいし
ひとつ疑問なんだが、なんで哲学は斜陽なんだろ?
日教組?心理学の台頭?現代思想による批判から?
>>7 まず、「経済の論理」が社会のありとあらゆる所に(家庭にまで)浸透してきている
が、哲学・思想は、この経済活動に直接的に役に立つわけではない、ってことがある
だろうな。
あと、「人間の悩み」に明確に答えてくれるわけでもない、ってこともあると思う。
だから、イデオロギーや細木数子に負けてしまうんだわな。
経済というよりプラグマティズムがな。
カリクレスが言っているように、もともと普通の人への影響なんてなかった。
一部の変わり者がギリシャ時代から細々と続けていただけ
>>10 いや、岩波文庫や岩波新書を読破する、なんてことが行なわれていたころには、
哲学もそれなりに読まれていたのではないかな?
12 :
考える名無しさん:2006/04/27(木) 13:15:05
>>8 デイトレの本のが売れるんだろうね(´・ω・`)
しかし細木数子よりは竹田のがマシなこと言ってる気がするが
援交とかはアレだが・・・
宗教とか占いとかトランパーソナル心理学みたいな
超常的な力があると思わせるものじゃないと大衆には受けない。
哲学はなまじ学問であるだけにそれがない
14 :
考える名無しさん:2006/04/28(金) 00:02:17
そうかもなぁ…。
哲学にも宗教みたいのあるけど。フィヒテとか・・
ヘーゲルとマルクスもある意味
15 :
考える名無しさん:2006/04/28(金) 00:27:31
もうダメだ
ダメ人間だオレ
所詮才能だけで生きてきたんだ俺は
最悪だ、もう何もかも思い通りに行かない、コントロールがきかない
16 :
考える名無しさん:2006/04/28(金) 00:37:24
>>15 つ「自分を生きるための思想入門」 by竹田青嗣
17 :
現象学という恣意性:2006/04/30(日) 19:22:59
「ほんとう」の竹田と「絶対」竹田。
どっちが真の竹田なのかというのが、僕の青年期からの疑問であった。W
18 :
考える名無しさん:2006/04/30(日) 23:07:23
ロマン派はマロンがお好き。
19 :
考える名無しさん:2006/04/30(日) 23:13:15
思想家なら本名で書けばよい。
20 :
考える名無しさん:2006/05/01(月) 17:00:45
ぴかぁ〜は嘲笑が趣味なのかい?
姜正秀
22 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 21:33:06
竹田青嗣の成分解析結果 :
竹田青嗣の90%は純金で出来ています。
竹田青嗣の8%は呪詛で出来ています。
竹田青嗣の2%は鍛錬で出来ています。
竹田青嗣の100%は怨恨で出来ています。
24 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:18:03
アカデミズム学者にならなかった竹田は賢かった。
思想・哲学を純粋に実践したいなら、文献の訓詁学的研究やっても、多くは無駄だから。
もちろん訓詁学に価値を感じているなら、環境・設備・先生のよい学校で研究するべきだが、これはこれで見極めが大変だけど。
どっちつかずでは、人生を無駄にする。
学徒は、自分の目的をきちんと見定めておいたほうがいい。
竹田は、一つの方向における、いいお手本だ。
25 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:23:00
つーか竹田の性格的に「できなかった」という側面が強いでしょ
26 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:30:30
mixiに竹田現象学のコミュニティーとかある?
27 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:39:16
>>25 たしかに、その通りかな。
竹田の興味価値からすれば、文献哲学なんてどうでもいいみたいだし、
語学サボってたくらいだから、文献解読専門業なんて退屈すぎてできなかっただろから。
28 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:42:07
韓国語・英語しかできんだろ
29 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:50:16
ドイツ語もできるよ
30 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:51:33
デリダを論破したんだからフランス語もできるだろ
31 :
考える名無しさん:2006/05/02(火) 23:53:39
団塊だからそれハッタリだと俺はふんでる
32 :
考える名無しさん:2006/05/03(水) 00:05:45
誤解が多いけど、
文献研究や語学力で竹田を論ずるのは的外れ。
竹田現象学とか思想内容について批判しないと意味がない。
哲学者と文献哲学者は区別しないといけない。
哲学者を文献哲学者的基準で評価するのは、サッカーのルールを野球に適用するようなものだ。
33 :
考える名無しさん:2006/05/03(水) 00:51:32
文献学者って日本では歴史家とかねてるけど
それほど日本では発達してないよ。
ドイツならそういえる。
個々の哲学者について純粋に文献学的にしらべるだけの人ってマジでいるからね。ドイツ。
そういうのはより専門的な研究書なんかで名前をみれるから図書館で見てみ。
ファンサイトとかないよね、なぜか。
35 :
考える名無しさん:2006/05/03(水) 11:32:00
竹田氏の『ニーチェ入門』を読んだよ。
分かりやすかったです。
のセラに似の゜゛゛゛瀬ぜにになんかんすかすつたたろろひそひねねるそさ
39 :
考える名無しさん:2006/05/07(日) 15:19:49
蛇足って何。?
40 :
考える名無しさん:2006/05/07(日) 19:24:37
竹田現象学をきちんと理解できてる学者や学徒は意外と少ないようだ。
竹田はフッサール現象学を誤読している、なんて批判は、たぶん正当ではあろうが、竹田批判としてはあまり意味がない。
私の大学院では、そもそもピントこずに相手にしないか、単に分かりやすい本を書く人にすぎない、というような的外れな矮小化をする人が多いようだ。
きちんと理解したうえでの真正面からの批判が望まれる。
竹田はむしろ哲学外の専門家や知識人の間で評判がいいようだ。
この人はモダニズム全般の理解が通俗的でしかなくて、本質的に西洋近代を理解してるとは思えないよ。
だから全体的に歪んだ理解になってる。
42 :
考える名無しさん:2006/05/07(日) 22:59:23
>>41 >この人はモダニズム全般の理解が通俗的でしかなくて、
例えばどんなところが?
43 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 03:46:52
>>41 俺も聞きたい。詳しく。
>>38の蛇足ってもしかして、ニーチェ持ち上げてるポスモダ陣営への
批判なのかな
まぁ。。そもそもポスモダってリオタール以外に誰なんだって話もあるが。
ポスト構造主義か。
44 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 17:47:12
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
金 泰明
1952年大阪市に生まれる。
大阪市立大学商学部卒業。在日韓国人政治犯を救援する家族・僑胞の会事務局長(1976~1990)、
在日韓国民主人権協議会共同代表(1990~1995)を経た後、
明治学院大学大学院で近代哲学と現象学を学ぶ。
45 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 19:33:01
>>43 フーコーも系譜学を取り上げているだろう。
47 :
考える名無しさん:2006/05/08(月) 20:49:07
正直お前にぜんぜん惹かれない
48 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 00:37:19
>私は、存在論=本質=実在への憧憬を残して煮え切らなかったフッサール現象学
フッサールちゃんと読まれましたか。或いは「存在論=本質=実在」が何故駄目なのですか。
文脈如何によっては正しいかもよ。まずは何故どういうコンテクストからフッサールが本質論を重視しているのか考えてみようよ。
>そういう面を捨象し、欲望関係論に特化した竹田現象学のほうが理論としての完成度は高いと思います。
なるほど。現象学や哲学を「理論」と思っているから平気でコンテクスト無視するわけだな。
アカデミーの哲学研究者を単なる文献学者だと批判する人は何にもわかってないな。
だいたい過去の哲学者の思想を自分勝手にアレンジするのって案外簡単なんだな。
竹田も歴史を無視するんだったら、現象学なんて持ち出さずに、全部自分の言葉で語ればいいのに。
中途半端だな。
49 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 01:56:57
分かった上で疑問を呈している(のであろう)なら、もうちょっと
踏み込んだことを書き込んでほしいな。
こういう文脈で読んだら正しいでしょ?とか例を出してくれれば
分かりやすいのに。
○○が××だと思ったら大間違い。
□□が△△だけだとでも思ってるの?
っていうような書き方は、「じゃ実際どーなの」って聞き返したくなる。
50 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 02:47:51
49さんのご意見も一理ありますね。まぁ少しずつ行きましょう。
そもそも本質論の何がまずいんですか?
現象学は理論ですか?理論とは何ですか。
理論というのが何らかの世界像だとすると、現象学は正しい世界像を提示することに専念すればよいのですか。
そうかなぁ。正しい世界の実相をしめしたいのなら、たしかに修正を重ねていずれは完成するかもしれない。
でもそれだと科学と何処が違うのか。現象学は科学のように正しい世界像を提示するんじゃなくて、そもそも「正しさ」とか「世界」ということでもって我々がいかように理解しているのか、そこでどんなことが暗黙に前提されているのかを「問うこと」かと思ってます。
哲学史ってニュートン物理学がアインシュタインによって乗り越えられるような形で動いているとは思いません。
「批判的乗り越え」の先にある答を知ればことが済むようなもんじゃないとおもうよ、哲学は。プラトンの時代から何一つ進歩なんかしてないな。
その時代の要求や言語に応じて、おなじようなパターンを反復しているだけかもしれない。
で、それの何が悪いわけ?オリジナリティーなんて拘るほどのもんではないと思う。
モーツァルトだって、なんども繰り返し演奏されてきたし。それでも演奏者によって微妙に違うわけでしょ。
哲学研究も一緒だよ。
噂だと竹田は学会には行かないようだけど、もっと研究者と交流すべきだと思う。
一応大学教授なんだから。
51 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 06:44:29
>>50 徐々にいこう。
まず、本質論の何がまずいのか。
ここ(
>>4)でいう本質=実在っていうのはようするに、
カントのいう「物自体」のことでしょ?違う?
そこからいくべ
52 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 08:34:26
フッサールは本質を実在だなんて言ってませんよ。むしろ対立概念とすらいえる。
本質はイデアール、実在はレアール。
本質は時間的に個別化されない、つまり「実在」はしないけど、時間的に遍在するという意味では時間的に存在する。
しかも本質は意識対象だから、不可知でもなんでもない。
53 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 17:45:49
ほほぉ。
>>4はどういういみで存在論=本質=実在としたの?
54 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 17:56:30
ちなみに「本質論」て何?
実在論、観念論、唯物論、唯心論は分かるが本質論とは。
本質=実在と書いてあったのを読んで、つい実在論と読み替えて
レスしちゃったけど。。
55 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 18:03:56
56 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 22:03:27
まあ竹田崇拝の在日朝鮮人は死ねってことだw
その時代の要求や言語に応じて、おなじようなパターンを反復しているだけかもしれない。
で、それの何が悪いわけ?オリジナリティーなんて拘るほどのもんではないと思う。
↑まあそもそも学問じゃないってんならそれでもいいけどね。
58 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 23:29:00
>>48 理論ではない哲学というものがあるかどうか、ということからして大問題。
僕は、そこには程度差しかないない、と思う。
どんな哲学も特定の志向・関心により構成されるしかないわけだから、ある意味でどれも理論といえる。
実在や本質を探求しようとするかぎり、現象以上のもの、物自体、イデアが、大なり小なり、出てきてしまう。
どうしても実体論になってしまう。
フッサール実体論を止揚しようとしたけど、憧憬に負けて、できなかった。
その意味では、竹田のほうが実体論を排除できており、関係論的である。
だから優れている。
極端に言うと、西洋哲学はほとんどすべてプラトン(実体論)の解題、アレンジ、ということもできてしまう。
これに唯一対立するのが、西洋では、ウィトゲシュタイン。
なんで実体論はだめなの?
60 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 23:40:06
形而上学=真理探究思想になるから。
現代物理学や社会科学と相性が悪いから。
61 :
考える名無しさん:2006/05/09(火) 23:45:58
現代最先端の哲学はいずれも形而上学ばかりですよ
つきつめていくとその対象の初期状態に戻っていってしまうというこの「温故知新」的な謎・・・。
すなわち現代哲学に特有な観念性を排していったものが、いつのまにか形而上学にもどっている。
ハイデガーはやはり正しかったのか・・・・。
真理の探求はしないわけね。
相対主義っちゅーやつですよ。
64 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 00:02:18
志向に応じた多様なものの見え方、観察者と対象との分離不可能性、という様相を適切に扱うには、
関係主義しかない。
65 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 00:06:26
58さんへ
現象学を関係論的な視座から捉えなおす作業ならとうの昔にロムバッハや広松渉がやっているよ。
竹田のオリジナルって他に無いのかい。
で、なんで本質論はだめなのですか。
実体論と混同してませんか。
>観察者と対象との分離不可能性、という様相
が成立することは何によって保証されるのですか?それとも保証されないのですか?
67 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 00:15:00
>>65 本質論は実体論の一部にすぎない。本質の背後に必ず実体が暗示されてしまうから。
広松は関係論に成功している。ロムバッハは結局、関係論を徹底できていない。
竹田のエロス論は、広松やロムバッハとは比較できない。
でも、僕は、竹田とフッサールの比較をしたいだけで、竹田が特に独創的といいたいわけではない。
実体論の弱点は、60、64に書いてある。
68 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 00:21:32
ウィトゲンシュタイン言語ゲーム論が、本質論や実体論を上手に退けている。
これは、単なる相対主義ではなく、
存在は、言語ゲームであり、特定の言語ゲームという形でのみあぶり出される、ということ。
69 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 00:26:29
前口がキモイ
70 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 00:43:31
ァ ∧_∧ ァ,、
,、'` ( ´∀`) ,、'`
'` ( ⊃ ⊂) '`
∧_∧ ミ ギャーッハッハッハッ!
o/⌒(. ;´∀`)つ
と_)__つノ ☆ バンバン
社会的有用性が問題なら哲学なんかしなければいいのに。
哲学なんて、どこまでも形而上学でいいんじゃないの。
72 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 02:05:50
>>60 なんで真理探究思想だとまずいの。
現代物理学や社会科学と相性が悪いっていうけど、これらの学問て真理探究しているんじゃないんですか。
71に賛成。
なんで
73 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 02:20:56
本質論てなんなの?(・`д・´)
ここでは真理追求の形而上学のことを指してるの?
実体論は=実在論でokなの?
74 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 09:34:47
>>67 エロスの現象学ならレヴィナスが半世紀も前にやっている。
ちなみに彼の現象学は形而上学の意義を新たに見直している。
そういう観点からフッサールを読み直すのが最近の専門家の間では主流みたいだよ。
関係論なんて古いねぇ。
75 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 19:26:52
レヴィナスはロゴス中心主義を忌避するあまり、「他者」の形而上学のかなたまで
イッちゃってるってイメージがあるが。
竹田とは全然重ならんなぁ。竹田と重なるのはハーバーマス。
76 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 19:32:17
>>72 真理追求思想だとまずいのは、人間には真理を得ることなど不可能だからでしょ。
カントも、キルケゴールも、ニーチェも、デリダも、竹田もそう言ってるよ。
77 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 21:37:49
>>71 数学と同じで、社会的有用性なんて哲学は視野に入れてないだろ。
たまたま発見した公理が、社会に役立つこともあるってのと似ている。
まぁ、役立てたいっていう動機をもって数学の公理なり哲学の理論なりを
発見しようとした人もいるかもしれんけどさ。
竹田は、過去の遺産を活かそうとしている感じだな
哲学がいつどこで役に立ったのw
79 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 22:27:13
>>76 だれもわかんない領域に真理を放逐してしまったら、真理という問題自体無意味になっちゃうし、わかる範囲内で真理を定義すればそれでいいじゃん。
少なくとも「より真」とか「より偽」っていう言い方ならそれなりに意味あるとおもうけど。
しかしこの「より・・・」と言えるからにはどこかで究極の真理を知っていないといけない。にもかかわらずそれを語ることができない。こうしたジレンマを丸ごと受け入れちゃえばいいんだと思うけど。
80 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 22:34:12
形而上学、真理言い当てゲームがいけないのは、不毛な信念対立以上になりえないから。
81 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 22:42:50
どういう立場の哲学を選ぶかは、プラグティズムか美的感覚か倫理感覚しかない。
つまり趣味によって選ぶということ。
実体論だろうが関係論だろうが、最後は趣味で決まる。
82 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 22:51:24
>>73 本質論は、抑制された実体論。
実在論は、関係論に還元されきらない実在をもとめる論。
83 :
考える名無しさん:2006/05/10(水) 23:48:37
>>80 じゃあ不毛な信念対立はどうすれば避けられますか。
>>82 専門用語に頼らずもう少しわかりやすく言って下さい。
「論」をはずして、本質、実体を君なりに定義していただけませんか。
とにかく竹田ファンの方は、竹田の現象学理解こそ「括弧に入れて」、フッサールの原書を先入見なく厳密に読むべきなのではないでしょうか。
85 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 00:16:54
>>83 不毛な信念対立については、西條剛央の、構造構成主義とは何か、を読んでください。
さらに、そこで竹田現象学の本質・意義をも理解できるでしょう。
まあ,関係論的には,関係論がいいと考えているものもいれば,そう思っていないものもいる,
ということでいいわけです.
だから関係論でも実体論でもたいして違いはないわけです.
ご理解いただけたでしょうか.
ようするに,実体ではなく関係がある,と主張する関係論者がいるという
たかだかそれだけが真実なのです.
88 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 01:55:08
>>84 なんで? 竹田はフッサールの影響受けてるんだし。全部自分の言葉で哲学すればいいのに中途半端にフッサールを持ち出して勝手に批判してるんだからさぁ。
>>85 俺は君の考えを聞きたいの。竹田ファンの多くは一方で歴史研究を否定して「自分なりの哲学」というものにこだわっていながら、他方で他人の議論を中途半端にもってきて、専門用語も沢山使うんだな。
研究者よりむしろタチ悪い。
他人の影響
89 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 01:58:35
竹田現象学って例えばどういうところで役に立ってんのか具体的に教えて。
90 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 01:59:39
なんか早稲田の教授になったら、叩きが収まってきたような。
結局柄谷辺りよりもアカデミズムに適応してしまった感じ。
叩く奴も、権威主義の卑怯者が多いよね。
きょうも2chのスレ消費に役立っていますよ
不毛な信念対立を解消するために,この本を読みなさい,
という時点で,その本は信念対立を解消することはできないでしょうね.
対立している相手と基盤を共有しようというものはすでに不毛な信念対立とは
関係がないのですから.
テロリストに世界人権宣言を読ませれば,世界は平和になると思っているようなものです.
本当に信念対立を解消させたければ,相手を説得しない,相手の主体性を期待しない
やり方でなければ無理ではないでしょうか.
93 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 02:32:19
>>88 >竹田ファンの多くは一方で歴史研究を否定して「自分なりの哲学」というものにこだわっていながら、
え…。竹田本人が、
たいらげなんとかって哲学の読書会開いてたり
フロイトを徹底的に読んでみたり
イデーンを訳してみたり
文献に当たっているのに、そのファンが歴史研究を否定するわけないじゃん。
竹田を持ち上げるときにむやみに歴史研究を否定してるのは、ぴかぁ〜だけだよ。
94 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 02:35:29
>不毛な信念対立を解消するために,この本を読みなさい,
竹田はそんなこと言ってないな。
前スレにも勝手に押し付けられてる気になってる人がいたが
なんでそう思うわけ?
95 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 07:51:46
>>92 >本当に信念対立を解消させたければ,相手を説得しない,相手の主体性を期待しない
>やり方でなければ無理ではないでしょうか.
これって、暴力くらいしかなくないか?
結局、信念対立の解消法としては戦争を選べってこと?92が言いたいのは。
まぁ、今現実にはそうなってるけどさ。
イスラムvsキリストが好例だけど。
違うと言うだろうから、それだったら別の方法を何か考えてくれ。
お互い、もしくは片方でも、自分の信念を内省してその根拠を取り出し
共通了解を目指す方法はダメ、暴力もダメ、じゃどうするの。
96 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 07:54:01
構成する人が全て悪人でも通用するような法や社会システムで縛る、
ってのはダメな。なぜなら同じ法や社会システムが通用する最大範囲は
「国」だから。
世界政府を実現できれば可能だろうが、そんなのはry
97 :
92:2006/05/11(木) 12:05:59
>>94,95,96さん
85さんに対して申しあげたことですが,何かお気に召さなかったのでしょうか?
98 :
92:2006/05/11(木) 12:09:06
ちなみに,
>>94,95,96さんの見当はずれの問いかけに答えておきますと,
わたしは信念対立などそのままほっておけばいいと思っています.
解消しようと思ったところで,対立を保存するだけのことですから.
99 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 14:03:29
>>80 形而上学、真理言い当てゲームがいけないのは、不毛な信念対立以上になりえないから。
>>98 わたしは信念対立などそのままほっておけばいいと思っています.
ってことは形而上学でもいいってわけだ。竹田現象学の意義はどうなるの。
100 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 16:44:24
>>98 はー…。ただ諦めてるだけか。
信念対立の結果が戦争に結びつこうが、どーでもいいや勝手にやってろって
感じ?別にいいけどさ。
解消しようと思ったら対立を保存するとか、もう意味がわからん。
ちなみに竹田現象学は解消しようとしてるんじゃなくて、解消が可能かどうか、
可能ならその原理はどのようなものか、を問うてるんだよ。
>>99 >ってことは形而上学でもいいってわけだ。
なんで?(´Д`)
101 :
92:2006/05/11(木) 18:09:19
いえ,ただ諦めているのとは違いますよ.
戦争は信念対立の結果ではなく,信念対立を解消しようとすることそのものではないですか.
だから対立は対立のまま,ほっておけばいいでしょう,と言っているのです.
102 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 23:00:49
>>100 80さんは形而上学がダメな理由として不毛な信念対立を引き起こすことを挙げてますよね。
しかし竹田現象学もそれに対する処方がないなら形而上学のままでも別にいいじゃんてこと。
単なる諦めではないというのはわかりますけどね。
103 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 23:05:41
>>93 え…。竹田本人が、
たいらげなんとかって哲学の読書会開いてたり
フロイトを徹底的に読んでみたり
イデーンを訳してみたり
失礼ながら彼程度の勉強ではアマチュアの域だな。
104 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 23:09:09
>>92 むしろ竹田の理論こそ、あなたのいうような信念対立問題を説明するのに適しているんですよ。
ただし、たんなる対立解消のための理論、という捉え方をされてしまえば、あなたのいうような問題があるようにみえてしまいます。
105 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 23:24:46
>>101 ちょっと煽り気味にレスしたのに真摯に対応してくれてるなぁ。
謝っておこう。スマン。
なるほど。なんとなく分かった気がするよ。
でも対立はお互い憎らしく思ってるから対立なんであって、
そのままほうっておけば自然と争いにならないか?
第三者から見れば、罵り合ってるだけで終わればいいな
って感じではあるけど…。
>>102 うーん、でも形而上学自体が、哲学史上のビッグネームから
のきなみ否定されまくってるような気がするんだけども。
ヴィトゲンシュタインとか。
いま「真理追究」を標榜してる哲学者って存在するの?
106 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 23:25:41
>>103 どのくらいやればいいの?ボーダーはどこ。フーコーぐらい?
107 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 23:29:27
>>103 たしかに、竹田はアカデミズム基準、文脈においては二流だろうが、
竹田批判においては、訓詁学のアマかプロかなんてどうでもいいはなし。
竹田理論の中味を批判すべきだ。
108 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 23:42:47
>>102 どのような哲学であれ、特定の文脈の中で有効性・必要性・真理性が決まるしかないので、
形而上学肯定の余地もあるわけですが、形而上学が無条件に絶対化されることだけは否定されねばならないでしょう。
109 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:02:09
>>92 哲学者内の信念対立と、対話に興味のない一般人の政治や文化における信念対立は、区別すべきだと思う。
一般人の政治や文化の対立は、ほかっておくしかないが、
哲学者内ならば、少しは理解しあおうという契機が生まれる可能性があるから。対話が生まれる余地があるから。
110 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:04:11
俺院生だけど、皆さんが思っているほど哲学研究者って訓詁学的ではありませんよ。
この世界に入らないとなかなか実感できないことかもしれませんが。
俺も大学の研究者なんて皆訓詁学者と思ってたけど、いざ教授と議論してみると、なかなか論駁できませんね。
皆さんも道場破りみたいにいろいろな大学の研究室を訪ねてみればお分かりいただけると思います。
竹田さんももう少し研究者に闘い挑んでみればいいのに。
111 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:06:05
>>110 柄谷こうじんと批判しあっているようだけど。
柄谷もまだ研究者に及ばないアマチュアレベルなの?
112 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:14:41
>>110 そりゃ訓詁学者でも哲学できる人はいる。全国探せばかなりいるだろう。
たがやはり、総合的に見て、多くは自立的思索ができてないのはたしか。
113 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:16:46
>>111 批評家と専門家の比較は基本的に無意味だ。
やってることが違うから。
114 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:29:40
竹田の本が売れるのは哲学を人生論にしちゃってるから。
実存主義ですらないだろう。
思想の側面からよりは個々の思想家の「生きざま」から
入り込んじゃうタイプ。こういうのは往々にしているから
あまり責められないんだけど
多分買ってるのもガキばっかでしょう。
115 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:32:30
>>112 何人か知っているような素振りだから聞くけど、そういう人が
出してる本とかはないの?
116 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:41:33
竹田が柄谷批判してるようだけど柄谷理論あたりを批判するために頁を費やす必要ないと思うけどね。柄谷の『探究』などは斜め読みしてもここには普遍性などないと解る内容だし、編集者が本を売るためにひねり出したスターみたいなものだ。あんなものほっとけばいい。
117 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 00:47:33
柄谷のいいたいことってマルクスの可能性のなんたらって本につきるし。
あれ読めばあとは全部一緒。
118 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 01:12:02
>>111 柄谷なんてアカデミストの内にはいんないよ。
>>112 厳密に言って自立的思索なんてできてるのは一世紀に数人。
或いは不勉強なその他大勢。
例えばフッサールを乗り越えたつもりで、もう少し読んでみたらやはりフッサールの掌に自分がいたことに気づく。
研究者はこのプロセスを何度も繰り返しているわけだ。
119 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 01:18:28
ぷっ
120 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 01:21:50
>>119 お前みたいな奴は最低のバカだ。
118の言っていること、俺はそのとおりだと思うよ。
121 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 01:22:40
竹田の本が売れるのは哲学を人生論にしちゃってるから。
実存主義ですらないだろう。
思想の側面からよりは個々の思想家の「生きざま」から
入り込んじゃうタイプ。こういうのは往々にしているから
あまり責められないんだけど
多分買ってるのもガキばっかでしょう。
122 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 01:37:12
>>120 残念ながらわしはその段階を超越し取るよ
123 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 01:44:25
>>107 訓詁学のアマかプロかなんてどうでもいいはなし。
竹田理論の中味を批判すべきだ。
一見もっともらしい言い分だが、訓詁学もまともにできない奴は哲学もダメなんだな。
訓詁学者って君らが思っているほどアホじゃないよ。
彼らからすると竹田の議論なんて古典哲学の議論パターンに簡単に回収されちゃうんだから。
自分の意見なんて入り込む余地なんかほとんど無いよ。
124 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 02:07:59
根拠もない断定が横行するのが哲学だということが
よくわかるな。
125 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 03:18:15
>>123 >彼らからすると竹田の議論なんて古典哲学の議論パターンに簡単に回収されちゃうんだから。
ほー。それほどありきたりな議論というなら、簡単に敷衍してみてくれる?
古典哲学のどれにあたるのかも教えてね。
126 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 03:19:29
竹田なんて問題にならないみたいな、はるか上から見下ろした意見は
だいぶ見飽きてるんよ。具体的に批判してくれないとなぁ
127 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 04:48:00
>>125 関係論ならそうね。代表的なところだとライプニッツかな。クザーヌスもいるし。
比較的最近のものであればフッサール自身がそうだし、構造主義も。
ただ構造主義だと主観と物の関係を物同士の関係と区別する根拠が上手く説明できない。
前スレで誰かがフッサールは実体論を抜け切ってないようなこと言ってたけど、フッサールはこうした関係論の欠陥をよく見抜いていた。
関係を語る視点が問題なんだな。「主客未分の関係そのもの」なんて発想は関係の外からの語りに過ぎない。
フィヒテやシェリング、ヘーゲルならきっとそう言うに違いないな。
あっそうそう。67のロムバッハ批判もう少し詳しく教えて。
128 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 06:44:59
>>127 ほうほう!ライプニッツとクザーヌス、フッサールか…
あと構造主義者かぁ。
しかし構造主義って一口に言っても、誰を指すのかがいまいち…
代表的なとこでラカン、バルトくらい?(´・ω・`)
>フィヒテやシェリング、ヘーゲル
この人らが共通の見解を持つというのは興味深い。
ヘーゲルはちと文章がアレなんで原著は敬遠してたんだけど
いっかい本腰入れて読んでみるかな…。
ロムバッハ批判を書いたのは俺じゃないんで、よく分からん。スマソ。。
129 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 08:00:34
2chでトウシロが議論できちゃうってあたりが
すでに学問じゃないわな
130 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 08:15:02
まぁ物理学とかだとありえんわね…。
131 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 20:22:02
>>127 それらの哲学者の議論に回収されるの?竹田は。
文脈から言うとライプニッツ、クザーヌス、フッサールの3者の
言ってることを焼き直しor劣化コピーしたのが竹田現象学っておとでOK?
132 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 21:25:37
在日朝鮮人の思想アイドル。
他にも哲学科の教授に在日っているはずなんだけどね。
133 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 22:04:46
>>123 そういう論法でいけば、ほとんどの哲学、ウィトゲンシュタインのでさえ、
古典で出尽くしている、といえてしまう。
ようするに、この論法を使うなら、すべてはプラトンで出尽くしている、といえてしまう。
ただ、こういう論法を過度に使うと、極度の独創性が設定されてしまうから、独創性という概念が無効化しかねないけどね。
>>121 中島義道のほうがよっぽど人生論(というか人間学)めいているけど。ただ哲学だけで思いついたような
人生論をやってるのではなく、モラリスト文学などへの造詣も深いから中途半端な代物にはなってない
のだが。
ペシミズムの理解もニーチェだけしか引っ張ってこれない竹田とは大違いだね。
135 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 22:35:56
127です。
128さんへ。2チャンには珍しく誠実な方で恐れ入りました。
訂正です。「ただ構造主義だと」→「ただ関係論だと」
133さんのおっしゃるとおりだと思います。
哲学の授業である先生がだいたい次のような感じのこといってました。
独創性といってもただ奇抜なことを言えば言いわけでもない。
その時代その地域において、どんな文脈でどんな論理構造に力点を置くか、これをつかむだけでも才能は問われる。
一見地味なようで個性なんて本来そんなものだ。
哲学研究者は音楽で言えば指揮者や演奏家に近い。
彼らが作曲しなくても別に目くじら立てる人はいないでしょう。
哲学研究者に対して勝手に過剰期待している方多すぎませんか。
音楽のきちんとした教育を受けてないヴァイオリニストが、クラシック音楽の世界で認められるわけもなく。
つまり解釈の斬新さも技術もない、あるのはファンだけというのが竹田。
>哲学研究者は音楽で言えば指揮者や演奏家に近い。
それでは、学問として大学に職を与えるに値しない。
138 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 23:14:24
>>136 市場価値を生み出せているだけでも十分すごいと思うよ。
多くの人間に読まれるだけでもすごいことなんだよ。社会的貢献度からいいってもね。
いまさら、古風な権威主義で竹田を矮小化しようとしても無駄。
竹田の思想の中味がゴミというわけでもないしね。
丸山、広松、橋爪、池田、西條などの有能な学者に高く評価されてるから。
まあ、訓詁学的観点からの批判は、専門家がきちんとやるべきだね。
こういうことこそ専門家の大事な仕事。
>丸山、広松、橋爪、池田、西條などの有能な学者に高く評価されてるから。
最初の2名はともかく,あとはカスだぞ・・・
で,竹田理論というものを知りたいのだが,何を読めばいい?
141 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 23:33:21
自分をまだ若いと思ってるバカな団塊世代と在日のガキ向けの読物を量産しています。
それが竹田です。
142 :
考える名無しさん:2006/05/12(金) 23:45:35
まあ哲学ですからいろんな人がでてきますよw
>>139がこのスレのシンボル。
著名な学者をカスなどと中傷する本人はどれだけの教養があり、
またどれだけ立派な仕事をしてきたのやらw
池田って池田晶子?西条ってだれ?
145 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 00:29:00
西条昇
池田晶子が竹田を評価しているなどというのは初耳だ
というか信じられん
なんで?
148 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 00:51:55
>>137 もののたとえというものがわからんやつだなぁ。
指揮者や演奏家といったって135さんの言うのはプロのことでしょ。
それにこれは作曲家との対比で言われているのでしょう。
149 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 00:56:57
>>148 いやだから、クラシック音楽の場合はとっくの昔に分業体制になってしまい
世間でも演奏専門でも認知されてるけど、
学問の世界はどうか?
他の学問では新しい知見を生み出さない者が、大学で研究なんぞとほざいてらるのか?
池田晶子が他人とくに他の日本人著作家を誉めているのを見たことがない
強いてあげれば佐藤亜紀くらいか
>丸山、広松、橋爪、池田、西條などの有能な学者に高く評価されてるから。
西条昇は竹田の門下生だろ・・
門下生に評価されているというのが評価基準になるのか?
ちなみにそれこそ池田晶子や西条昇は研究者ではないだろう
154 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 01:19:27
池田はともかく西条は変なことになっているしw
155 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 01:52:08
>>149 だからさぁ、解釈の斬新さだって新たな知見の一つなの。というよりアカデミックな学問とはそういうもの。
君も文献解釈とかやってごらん。そんで教授に論文見てもらったらどうですか。
はじめは多分鼻であしらわれる。奇抜なこと言うなんてたいして難しくない。
アイデアが新しくてもあほらしいものは沢山ある。
だいたい新しい創造的な知見をもった大学人なんてそんないないよ。
何人の数学研究者がオリジナルな公理発見したわけ?
哲学なんかましなほうだぞ。仏文、独文、英文なんか「文学」の解釈だ。彼らに小説書けって言うわけ?
哲学書の解釈の意義は?
いつまでも解釈し続けることができると思いますが
いつまで続けるんですか?
157 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 02:37:19
>>156 意義は何かといわれると難しいけどね。
自分なりの哲学を打ち立てる意義もよくわかんないね。
研究者にとって、研究者である限り、解釈は生きることそのものだよ。
俺はまだ院生だが「・・・研究」で終わっても構わないと思っている。
哲学研究者だって自分哲学くらいやるのでしょうし、それを授業の合間に学生に話す先生も多いですよ。
本では専門的なこと書いているけど、授業での説明は概してわかりやすく、竹田なんかよりはるかにわかりやすい先生もいる。
大衆向け哲学の入門書なら作家やエッセイストに任せとけばよい。
自分哲学なら個人個人で考えればよいだけのこと。
大学の研究者がどうしても書くべきことではないと思うな。
158 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 04:56:55
うーん…閉鎖的なところで好きな人だけがいろいろと試行錯誤し
民間には成果がまったく降りてこない学問。
哲学がそういうものなら、本当に無意味に思えてしまう。
自分で答えを見つけようとするのでもなく、解釈に始まり解釈に終わる。。。
それは学問ではなくて、思索・問答マニアの集まりだ。。
骨董品を集めてる人たちとあまり変わりがない。
人生論に堕して(?)いるとはいえ、それなら哲学を生きるための
処方箋に変えられる竹田のほうがまだましだと思える。
煽るつもりは全然なくて。もしそれが哲学の本家本道ならば
おそらく大抵の人が哲学に対してなんの魅力も感じなくなってしまうのでは
ないか。。。
159 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 05:07:39
たとえば、哲学者のひとりに数えられるマルクスなんかは、
唯物論から積極的に社会を変革しうる理論を構築しようとしたし、
ルソー、ホッブズ、ロックなんかは市民社会の礎を築いたし、
いくらでも自分なりの理論を模索し構築することで、社会に
影響を与えた哲学者はいると思うんだけどな。
ニューアカとかいって現代思想がブームになった時代だって
あれは哲学が社会に影響を与えた結果だと思うし…
ニューアカは別に全然いいとは思わないが。
160 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 05:23:03
ってスマン。
>>118 >厳密に言って自立的思索なんてできてるのは一世紀に数人。
自分の哲学を打ち立てちゃダメってわけじゃないか。
このほんの一握りには、自立的思索を著書にして発表し
世界に影響を与える資格があるわけだ(´・ω・`)
竹田がそれだというのはいかにも大仰な気はするが、
そうでないというなら、研究者の立場からひとつ、
竹田現象学の致命的な矛盾や破綻なんかを教えてほすぃ。
「竹田現象学みたいなことは、フッサール解釈を試みてる人は
皆一度はやってみる解釈のうちのひとつにすぎない」っていう
ニュアンスが読み取れるんで、それが当たってるなら
かなり明確に指摘できるんじゃないかと期待する。
だって、自分がかつて乗り越えたプロセスなんだから。
161 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 07:52:02
>>158 民間に下りてこない学問なんて沢山あるよ。
或いは竹田や哲学エッセイストたちは、研究者の訳した翻訳や研究書読まないとあれだけわかったようなことは書けませんよ。
>自分で答えを見つけようとするのでもなく、解釈に始まり解釈に終わる。。。」
解釈ってことが全くわかってないね。解釈って自分で答えを見つけようとする営みだよ。
>それは学問ではなくて、思索・問答マニアの集まりだ。。
>骨董品を集めてる人たちとあまり変わりがない。
いや、学問はそれでいいんだよ。貴方は過剰期待しすぎ。骨董品収集も立派な生き方の一つです。
とくに哲学のような学問は、何十年単位で歴史が動いていて、その真価が問われるのには時間がかかります。
哲学っていう遺産は、ごく少数の間でひそかにゆっくり受け継がれていくようです。
カントが当時の一般大衆に幅広く読まれていたとは思わない。カントならまだしもフィヒテなんて竹田よりも読者が少なかったりして。
しかし竹田はインテリ層ではほとんど読まれてないし、海外では皆無、哲学史に名を残すとも思えないな。
>>160 それやりだすと大変だから、君の方で竹田現象学を支えているいくつかの重要な論点をあげてみてくださいな。
>>159 おまえプラグマティズムって知らないだろう。
164 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 11:41:45
ん,しらない
なに?
165 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 11:59:32
>>161 うい、もう少し考えてからレスします。
>>163 や、知ってるけど、興味ないので詳しくは知らん。
多分この先読むことはないだろう。
いろいろ議論はあるだろうが、まあ良かれ悪しかれ、西条昇を生み出したことは、
竹田青嗣のひとつの功績といっていいかもしれないw
研究者というのは論文を書くひとのことです。それは文系でも理系でも同じ。
ことさら哲学研究者を馬鹿にするのは筋違い。
168 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 12:34:50
誰も馬鹿にはしてないと思うよ。
まぁ端から見て理解されにくいのはどの分野の研究者でも一緒かもね。
とおもた。
そう?結構、馬鹿にしている人多いでしょ、哲学研究者のこと。
170 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 14:02:42
僕は「時代」の、今日はたおれ〜た〜たび〜び〜とたち〜も、のところで必ず涙が出ます
竹田さん的に分析してください
171 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 22:39:06
誰だでたらめ言うやつはw
竹田を高く評価してるのは、
西條昇ではなくて西條剛央、池田晶子ではなくて池田清彦だよ。
172 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 23:19:04
哲学研究者は必ずしも哲学者(思索家)ではない。
哲学者は必ずしも哲学研究者ではない。
いうまでもなく哲学者かつ哲学研究者である人もたくさんいる。
竹田は、両方をほどほどにやってる哲学者といえる。
自立的で徹底的な思索と文献解読のさいの思索とは、区別せねばならない。
どちらも哲学的思索ではあるが、やはり徹底度が違う。
ただし、文献解読を一度もきちんとしたことのない者に自立的思索はできない。
哲学研究者と哲学者との違いは、経営学者と経営者との違いに対応する。
それぞれ別の基準で評価されるべきだ。
無条件に単一基準で批判するのは、傲慢・越権・歪曲だ。
どちらかを過小評価したり過大評価したりする信念対立・価値対立が多いので、
ここに自明の事実を書いておく。
173 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 23:32:56
竹田は問題外っていうことの理由について、専門的に研究していないから。
というバッサリ切り捨て型の批判?が多いから、専門に研究してたって
伝えられなきゃ意味ないんじゃないか?という疑問が出た訳。
誰も研究自体に意味がないとか、研究者を馬鹿にしてるわけじゃないよ。
研究が無限の未来に続くまでただの著書解読で終わるというなら、
意味がないなーとは思うけど。
174 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 23:34:05
>研究が無限の未来に続くまでただの著書解読で終わるというなら、
>意味がないなーとは思うけど。
この部分は「もちろんそうじゃないだろうけど」っていうのの反語…
になってないか。そんな感じ。
池田晶子>>>池田清彦>>>>・・・・・>>>西條昇≧西條剛央
176 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 23:35:42
哲学という者に興味を持った高校生の頃、
この人の本から入ってしまったことを後悔してる三十路間近のシャイガイだよ。
く〜、ちくま文庫と宝島ムックのばか。
当時それしか「分かる」って書いてなかったんだよな。
あの「分かる」本(ニューアカ墓荒し)は、最も「分からない」本だったのだと今でこそ思う。
分かってる人向けの「だよね」本だった。
今は、バランスの取れた鳥瞰図が充実してていい時代ですね。
池田清彦って学者か????作家だろ
178 :
考える名無しさん:2006/05/13(土) 23:45:26
>>176 なんで後悔してるんだろう。最初に失敗できたのなら
むしろよかったんじゃないの?遠回りして困る学問じゃないっしょ。
179 :
176:2006/05/14(日) 00:05:57
>>178 分かんないから経済学に転向し普通のリーマンになった。
その後、仕事の悩みを解消するためナレッジマネジメントや情報社会学の本を読んでいるうちに、
同じ問題が古くはポランニーやソクラテスまでさかのぼれることを知り、
素直にプラトン『メノン』あたりから齧っておけば良かったと後悔している。
内田樹さんの本とかリーマンの飲み会ネタ満載だし。哲学ってバリバリ実学だなと開眼いたしました。
180 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 00:12:54
おまえ絶対にリーマンじゃない(笑)
181 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 00:14:56
ところで竹田は、学究的な哲学が役に立たないと言っていると同時に
過去の哲学者たちは大したことを言おうとして哲学者が
もっと取りくむべきはずのことを避けてしまったというようなことも言っている。
逆にいえば、これは竹田自身が自分が書いていることは「大したこと」なんかじゃないと知っているということだと思うのだが、
どうしてそれをわざわざ「大したこと」の文脈に戻してして、
竹田の仕事は「大したこと」なんだから「評価」しろと(他ならない)彼のファンが言うのかがわからない。
この人が欲望論の素材としてことさら恋愛をとりあげるのも、岸田秀を評価するときに「機微」を問題にしていたことも、
きっとそういうことが背景にあると思うわけだが、なんでそのへんファンが汲んでやってないのか。
みょうな売り言葉に買い言葉は背伸びしてるのがバレバレで醜いだけなので、やめた方がいいと思うわけだけども。
まあまあ、とうしろが学問ごっこできるのも、
本職wの大半がそれに毛の生えた程度なのも、
哲学ならではですから
おさえておさえて
183 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 00:32:16
>>181 「竹田は大したこと言ってない」「竹田は大したこと言ってないのに研究者を馬鹿にしてる」
この一行に集約されることしか言ってないジャン。。。
評価できると思う、と言ってるファンはいても
評価しろ、なんて迫ってるファン見たことないし。
俺なら、もし本当にダメな哲学者が跋扈してるようなら
どこがどうだからダメなのかって具体的に論証しようとするけどなぁ。
184 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 00:36:36
damenatetugakusyatoiukangaekatagasomosomomachigatteimasu
imayatetugakujitaigadamenanodesukara
どこがどう、のあたりは前スレ前半過去ログでもおさらいすればいいと思うが、
もっと簡単に言ってしまうと、よするに竹田の著作は研究者に相手にされないという一点において大した代物じゃない。
納得できないかもしれないが、竹田自身は「そうだね」と言うと思う。
つまり言ったかったのはその一行に要約されることではなく、
その一行の内容をおそらく竹田自身が認めるだろうということだな。
186 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 01:19:20
とはいえ最近はどうも違いそうだと思える箇所もあって、だからまあ最近の竹田は駄目だと思うわけだが。
竹田がダメでもダメでなくても
ど う で も い い
>西條昇≧西條剛央
これは同意しかねるね。西條剛央≧西條昇だろう。
189 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 13:57:29
>>西條昇≧西條剛央
>
>これは同意しかねるね。西條剛央≧西條昇だろう。
「西条」昇だよ。他人の評価をするなら、名前くらいきちんと把握しておけ。
190 :
考える名無しさん:2006/05/14(日) 14:01:08
ちなみに西条はいまはあんなだが、基本的には竹田の流れをくんでいる。
191 :
考える名無しさん:2006/05/15(月) 23:17:12
竹田自身のあいまいな戦略がよくないな。
専門家批判するなら、ある面では確かに彼の批判は正当だけども、
永井とか池田のように自分の言葉で哲学をやり通したほうが説得力があるな。
専門家の儀式・ゲームに割り込むんじゃなくて、自分でもっと上質なゲーム・作法を開発し実演してみせることが大切だな。
そうすれば、誰も文句いわん。
最近、「研究者」の側からのフッサールを使った人生論的本も増えてないか?
青嗣テラエロスw
193はバタイユ大好きな青磁ですか、どうよ?
195 :
考える名無しさん:2006/05/15(月) 23:40:53
>192
哲学を専門家の言葉遊び以上のものにし、開放し活用しよう、広く読んでもらおう、とすれば、
学者も竹田化せざるをえないわな。
>>157 どうして世界、社会、人間とかの解釈じゃなくて、誰かの自分哲学の解釈なんですか?
自分哲学を解釈するのが哲学?
197 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 00:09:44
>>196 とりあえず賛成。
157は、哲学研究と哲学との区別を誤解してるというか、歪曲してるな。
本来、哲学自体が目的なら、どれほど他人の哲学を参考にするにせよ、最終的には自分哲学しかありえないんだけどな。
198 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 00:36:56
勝手に哲学を定義してもっともらしいこと言われてもなぁ。
それで済むなら苦労しないよ。
世界、社会、人間とかの解釈は思想或いは科学であって哲学ではない。
哲学は科学や思想の解釈、或いは哲学者によって生み出された言説を解釈するという仕方でしか機能し得ないような面もあると思う。
自分哲学?できるもんならやってごらんよ。たとえできたところで今度は歴史との対話が求められるんだから。
歴史と無関係な哲学なんてね。
>>198 >哲学は科学や思想の解釈、或いは哲学者によって生み出された言説を解釈するという仕方でしか機能し得ないような面もあると思う。
解釈の解釈ってこと?
別の面もある?
自分哲学はそれ自体が困難?
歴史との対話を求められるから自分哲学は困難だ、てこと?
201 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 00:58:20
自分哲学なんて皆それぞれ勝手にやってればいいじゃん。
少なくとも大学で研究したり教えたりする代物じゃないよ。
研究の意義を認めずに自分哲学とか言っている人達へお願いです。
中途半端に、哲学用語を使わないで下さい。混乱の元になりますから。
哲学研究者の書いた本、翻訳は一切読まないこと。
歴代の哲学者のことも原書をよんでから論じてください。軽はずみに名前を持ち出さないこと。
>>201 何の権利があってそんなことが言えるの?あなた。
>自分哲学なんて皆それぞれ勝手にやってればいいじゃん。
>哲学研究者の書いた本、翻訳は一切読まないこと。
自分哲学も哲学研究もそれぞれ自分勝手にやってればいいじゃん、ということですね。
それがあなたの、自分哲学、というわけですか。
まあ誰でも自分の領域を悪く言われたくはないから、仕方ないか。
いいよ、別に責めはしないから。
なぜか答えが返ってこない。
207 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 03:58:47
>>201 研究の無用性を偉そうに説く「権利」を主張できるための条件を思いつく限り述べたまでのことよ。
それほど間違ったこと言ってないと思うが。
>>203/204
ていうか、文献研究って自分哲学の優れたセンスをもちつつも、そのセンスを隠しながらやる大人の学問なんだけどね。
文献研究者と自分哲学で一度議論してみ。結構すげーぞ。
208 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 05:12:18
最近はじめて自分が哲学的な思想をしていることに気がついた。
なぜ人は生きるのか?
自分とは?他人とは?
人生とは?
自然とは?苦とは?
本能とは?理性とは?
子供の頃から考え続けていたなぁ。
その答えは、思考から生まれるのではなく、
一瞬のインスピレーションから悟るということ。
哲学なんていう単語に興味はない。
ニーチェだかカントだかよくわからん。
209 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 06:20:58
>>208 大変すばらしいことを考えられてますね。
で、なんか面白い独創的な結論はでましたか。是非教えてください。
ともかく、貴方の考えておられることは大変素晴らしいことではありますが、お気づきのように哲学ではないようですね。
多くの人はそれこそ哲学だと定義してますけど、一体どこでそんなこと教わってきたんでしょうか。それこそ現象学的還元しないと。
210 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 07:45:32
無いセンスを隠していると言ってしまうセンスの良さに驚嘆w
211 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 10:12:33
>>210 俺の大学の哲学教員、何人か議論してみたが、めちゃくちゃ切れる。
書いてる本は「・・哲学研究」みたいな硬いものだが、授業の雑談は面白いし、飲みにいって人生話とかしてもなかなか鋭い。
院生の人達も言ってたが、解釈の力がある人は、自分哲学を考える力もあるようですね。
君も是非先生とか研究室を訪ねてみるといいよ。
212 :
考える名無しさん:2006/05/16(火) 23:45:10
>>211 まさにそれは、主観的判断だ。
もしあなたの思考レベルが低ければ、高度の思索家なら凡庸と判断する人でも、高度に見えるかもしれない。
少なくとも私の知ってる教授たちは、いちおう一流だが、自立的で強靭な思索という点では凡庸にみえる。
これもまさに私の主観的判断。
このさいに基準にしているのは、一般的著名人で言えば、大森荘蔵や永井均。
永井は、マトモに文献研究ではない哲学ができているのは、全国で数十人くらいだろう、と見積もっている。
213 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 00:02:20
>>201 哲学専門研究の無用性・無力さなんて自明だよ。
それにしても、訓詁学してる暇のない他分野の読み手や一般読者を排除しようとしてるところをみると、
哲学はお宅のおもちゃでもいいということになるな。 まさに自分で哲学をおとしめている!?
社会を無視して、そうい偏狭な哲学ごっこを神聖化してると、哲学科廃止論に協力してることになるのになw
214 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 00:22:37
201は、研究者(の卵?)っぽいけど、
まともに多様な哲学潮流知ってれば、そういう偏狭な哲学観もたないよね。
意図的な歪曲それとも、単なる無知?
215 :
214:2006/05/17(水) 00:30:14
>201
もちろん、あんたの言うような、特定タイプの専門家の(にのみ意味のある)常識・基本作法は知った上であえて申し上げてるわけだが。
>>211 そんなにきれる人がなぜ哲学研究をしているのかを説明して欲しいのだが。
そんなにきれる人がなぜ国民の税金を食いつぶして平気なのかを説明して欲しいのだが。
その昔、某生命倫理系で有名な哲学科教授が医療関係者の研究会で講演して
人間サンドバッグ状態になっているのを目撃したことがある。かなりカワイソだった。
結局、やっぱり現場で仕事をしている人から見ると、レトリックで話をしている
としか見えないんだろうなと思った。
生とはこのようなものでと言ってる人と、さっさとバイタルはかれよと言ってる人とが議論できるはずもない。
220 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 02:06:17
>>212 誰と比べて一流だの何だの評価してんだか。
比べている貴方は一体どのレベルなんだか。
だいたい、大森だの永井だのは自立的に思索はしているが、そのことと一流かどうかは話が別。
彼らは海外ではほとんど知られてないよ。
>>213 排除なんかしてないよ。ただ一般人の視点から何も知らないで研究者が無能だの何だの言うんじゃないよといっているだけ。
物理学にしても数学にしても、一般に研究というのは閉鎖的だし、それでいいと思う。開かれるべきだなんて言っていないで勉強して自分の方から学問世界に開いていけばいい。そんな暇ないというならもっと謙虚にものごとを受け止めればどうかな。
>>214まともに多様な哲学潮流知ってれば、
例えばどういう潮流ですか。教えてください。
221 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 02:09:36
竹田ファンてアカデミーに対するルサンチマンもった人間の集まりだな。
こういう奴に限って哲学の「て」の字もしらない人間をバカにするんだな、これが。
222 :
ようじ:2006/05/17(水) 02:35:02
マルクス主義から逃避して現象学へ向かった竹田にとって、本来、柄谷行人のマルクス吟味こそ
本質的で自身が行うべきことだったと思う。柄谷の抽象力と竹田の現象学の双方が等価だとして
もだ。
柄谷が共同体を批判し、竹田がそれをくぐり抜けようとした時、柄谷の言説は批判の対象ではな
く、重要な先達として浮上するのではないか?柄谷の言う一般性と普遍性の区別が重要になるか
らだ(結局竹田は現象学の創設に問題をすり替えてしまう)。
一般性と普遍性、その区別がついていない竹田はあくまで戦後文学の一例にすぎないと感じられる。
223 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 03:40:44
ウーム、一度研究者の話を聞いてみたいものだ。
専門用語使われたら絶対ほとんど理解できないが。
メルクマールだのエラン・ヴィタールだの、文庫本の哲学史概説にも
出てくるような言葉しか知らんし。
自分はそれほど哲学本を読み込んだわけじゃないが、
読んだ中では竹田の言ってることが大方的を射ているように思う。
それは「何を言っているか」が容易に理解できただけではなく
「なるほど、だから○○なのか」と納得できるような、
本をいくらか読んだうえで持った疑問に、明快な回答を出していたから。
224 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 03:54:00
「真理」に対する回答や、人間がなぜある程度の共感、思考の普遍性を
持つのか、人間にとっての欲望の本質、恋愛における性欲と理想主義の
結晶作用、などなど。とても具体的で明快。
専門用語を使えばもっと難しく言い回せただろうに、そういう書き方をしてたら
また評価も違っていたんだろうな。
これ以上に的確な答えがあるならぜひ知りたいものだ。
(無いと思うけど、ではなくて、本当に)
>>192 具体的に書名を挙げてみて欲しい。読んでみたい
225 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 04:01:53
自分は専門用語バリバリの難解な文章を根気よく読みとく暇もなければ
ドイツ語フランス語を学ぶ時間もない。
まぁそういう奴は趣味程度に、大衆向けの哲学を覚えておけってのは
一応他の学問でも同じような事を言われそうではあるんだけども
それでも、物理学でも歴史学でも心理学でも、最新の研究結果が
分かりやすい解説付きで本になるのはままあることだと思う。
例えば超ひも理論に関する分かりやすい本、あれは「厳密に言えば
違うところも多々あるが、大筋正しい」という内容のはずだ。たぶん。
大衆はそういうのを読んで「へ〜、これが最新の研究結果なんだ」と
理解する。
哲学は、それがないのだろうか(いや192が言うようにあるのか?)。
興味があるところ。
226 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 07:26:25
それやっちゃうと無内容なのがモロバレだからw
>>220 >彼らは海外ではほとんど知られてないよ。
もちろん。じゃあ、誰が知られているのかな?知られているという日本人研究者の
具体的名前と論文のインパクトファクターを教えてよ。
物理学や数学の研究者と同等だというのなら、業績も数値で評価されて当然でしょう。
「ケケ田氏の〜が問題だ」みたいな、具体的な指摘がほとんど無いですね。
それはそもそも「ケケ田氏の〜」というものが存在しないからですよ。
231 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 11:08:59
>>227 俺は220ではないが、石黒とか新田とか。少なくとも大森、永井、竹田よりはな。
それで、Impact Factorは?
233 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 19:27:18
竹田はデリダを批判したというが、「エロスの現象学」?をフランス語訳して
送ったの?
234 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 21:53:54
>>232 俺は分野が違うのでよく知らないが、石黒氏はライプニッツの分析哲学的読解で、新田氏は「媒体の現象学」?で世界的に有名なことはたしか。
235 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 21:56:32
竹田のデリダ批判って簡単に言うとどういうものですか。
それに対してデリダはどう返してきたんですか。
>>234 そんな印象論では通用しないよ。世界的に有名って、何を根拠に言ってるの?
哲学も学問の端くれなら、客観的な基準を提示すべきでしょ。
さもなきゃ単なる思い込みじゃない。
だからその人たちの論文が掲載された雑誌のインパクトファクターを聞いているわけ。
いくつなの?
237 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 22:46:30
バリバリ訓詁学基準で論じてみよう!
フッサールは、ヘーゲルの精神現象学の序文だけ読んで、
ヘーゲルはダメと断定してるが、これかなりヤバくないか?
ホワイトヘッドは、ヘーゲル数学論読んだだけでヘーゲルはアカンと思い込み
英国のヘーゲル研究者の解説書だけ読んでたくせに、弁証法論じてるんだよね。
こういう方々も、訓詁学者からすれば、偽者ということになるな。
問題意識違いすぎなスレはここですか?
239 :
考える名無しさん:2006/05/17(水) 22:54:04
>>211 参考までに聞いてみたいんだけど、その教授たちに
「真理とは何か?」と聞いたらどう答える?
240 :
214:2006/05/17(水) 23:16:12
>>220 ほんとに、知らないの? (まさか、2ちゃんでいう釣りというやつではあるまいな)
訓詁学を目的ではなく補助的手段にすぎないとみなす哲学観をもってる潮流
論理実証主義や分析哲学ポスト構造主義のいくらかなど。さらに、個々の哲学観なら日本の専門家だけで数人はいるよ。
例えば、古代ギリシャ哲学の大物訓詁学者であり哲学者でもある藤沢令夫も、専門家のやっている仕の多くは哲学には無駄、といっていた(池田晶子との対談で)。
あんたは、ワザトとぼけているのでないなら、「他者の志向や思考」を知り、自分の哲学観を見つめなおす冷静さが必要だな。
だが、もちろん、俺は、あんたの哲学観もそれはそれで認めているよ。
ただ、あんたが特定の志向によるものの見方だけを正当化し、
他のものを見ようとしない不合理な偏狭さが鼻につくので、あえて厳しく申しあげたわけ。
真の哲学〜だ!、式の素朴な絶対主義的な判断パタンがちらつくから。
241 :
240:2006/05/17(水) 23:22:47
ミスった。訂正しとこう。
三行目、個々の哲学観なら、著名な専門家だけで数人は知ってる
四行目、哲学には専門家のやってる仕事の多くは無駄、
>>240 逆にいえば訓語学すらも出来ない哲学者なんて出来損ないだけどな。
243 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 00:06:49
竹田が古典をきちんと読めてないといいいたがる学徒さん多いみたいだけど、
竹田をきちんと読めてるヤツも少ないんだよね。
竹田の古典理解のいいかげんさを指摘する者も、竹田をイイカゲンに読んで批判するなら、
イイカゲンさはお互い様だよね。
訓詁学専門家を養成しろよ。
245 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 00:13:48
確かにヴィトゲンシュタインは、訓詁学は絶対やっていないな。
プラトンとかを読んでいたとしても。
246 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 00:14:38
>>242 条件付で賛成。
目的や問題意識に応じた柔軟な訓詁学、という条件をつけるほうがいいと思う。
誰もが発掘作業=訓詁学自体を目的にする必要はないから。
247 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 00:20:27
>>245 いくらかのウィト伝読むと、俺もそう判断せざるをえない。
ウィトは、少しは読んでいたものの、プラトンは時間の無駄、といってたそうな。
ショウペンハウアーは愛読していたらしいが。
こういうのは訓詁学とはいいにくいな。
248 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 00:23:08
やっぱ内容でしょ。内容批判しなきゃ意味なし。
訓詁学やってなくても、哲学史に名を刻んでる人はいるな。
フッサールの原文から引いてきて、竹田と言ってることが違うだとか
言ってくれれば、それがとっかかり部分だとしても、図書館で
簡単に調べられるんだし、やってくれればいいのに。
249 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 01:01:15
>>236 そんなの自分で調べたら如何ですか。そのほうが納得するんじゃないの。
多分彼らのインパクトファクターの高さに驚かれることと思いますよ。
>>240 訓詁学を目的ではなく補助的手段にすぎないとみなす哲学観をもってる潮流
論理実証主義や分析哲学ポスト構造主義のいくらかなど。
ぷっ。 こんな古臭い潮流を挙げて偉そうにしていてはダメポ。
現代思想をもっと勉強しましょう。
250 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 01:02:41
>>248 いちおう売れていてある程度インパクトのある竹田の本を
専門家が、一部の頑固者以外は別としても、読んでいないわけないからね。
251 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 01:03:18
>>248 そりゃそうだけどさ。竹田はフッサール研究をしたいの。それとも自分哲学がしたいの。
252 :
240:2006/05/18(木) 01:10:55
>>249 俺の論点にきちんと反論してくれんかな。
そんな雑な感情的決め付けでは通じないよ。
俺だって偉そうにいえるほど勉強家ではないが、今の答え見ると、あんたは現代思想について勉強不足または中途半端理解にみえる・・・
253 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 01:47:41
うちの大学の現象学の先生によると、最近の現象学では神だとか形而上学の議論が主流で、哲学史の見直しこそ現代の課題だそうだ。
249の言っていることもそういうことですか。
ぷっ
現代思想と甥でなすったよw
255 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 03:04:34
249だが253のおっしゃるとおり。マリオンやアンリとかの最新の議論を竹田はどこまで押さえてんのかな。
現象学専門でない俺でも何冊か読んだぞ。
古典哲学の意義をポジティヴに見ようとする動きの方が最近では強いと俺も思う。
252さんには失礼なこと言ってすまなかった。しかし現状はそうだと思う。
それにしても何処の大学でそんなこと教わったのですか。
256 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 03:12:28
主目的になってしまうか他の目的の補助と考えるか
と
ポジティヴに捉えるかネガティヴにとらえるか
は
まるで別問題ではないですかな
257 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 08:35:33
>>256 主目的になってしまうか他の目的の補助と考えるか
哲学史研究の意義はこうした二者択一じゃおさまらないんだな。
古典哲学の「解釈」ということは哲学することそのものなの。
「解釈」ってのは他人の考えをただ機械的にまとめることじゃないの。
これからバイトだ。あー眠い。
結局、哲学研究で有名とか優秀とかいわれているのは、
たかだか印象とか噂にすぎないのでしょう。
別にそれ自体は悪いことではないと思う。
例えば清原はすごい、才能がある、といまでも言われている。
しかしそれは野球ファン心理がつくりあげたフォークロアであって、
残念ながら数値を出されると、現実的には、現在は単なる3流選手であることは明白です。
もちろんファンには、数値ではない、記録よりも記憶に残る選手なのだ、
と正当化する権利は残っていますけれどね。
260 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 23:19:38
>>257 あなたの信じてる哲学はそういうものだということは十分分かったけど、
そういう強弁では、他の志向の哲学に対して排他的優位をいえる説得力はないのね。
ところで、古代ギリシャの哲学の始祖たちは訓詁学してないよね、定義上。だから、あるいみで自分哲学なわけだ。
目的と手段との区別、っていうことの意味分かってる、自分の文脈に引き寄せすぎてないか?
あなたの場合、哲学史研究=哲学が目的になっている、と言えばいいだけだよ。
で、別の哲学志向から見れば、そういうのは哲学とは呼ばない、というだけのこと。
自分の哲学志向だけを正当だとみなすなら、そんなものは自分哲学とかイデオロギーとよぶしかない。
要は、ここにあるのは、ナイーブな信念対立なわけだ。
竹田の現象学は、成功してるかどうかは別として、そういうものへの処方箋なんだな。
262 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 23:32:49
>>260 ぷっ。
現代思想をもっと勉強しましょう。
263 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 23:36:16
>>258 >>259 横槍入れます。そんなリンクじゃ哲学研究者ヒットするわけないじゃん。
それにそれらのリンク先は全てのデータをカバーしてないし。インパクトファクターなんて発想も元はといえば理科系研究者対象の尺度。
それに理系研究者と文系でしかも哲学研究者とでは欧文一本書く労力や価値も全然違うし。
私が持っている本、石黒「ライプニッツの哲学」、新田「媒体性の現象学」の巻末で両氏の業績が載っているけど、外国語論文は石黒氏は英・独・仏あわせて15本、新田氏は、英・独・チェコ?・中国あわせて10本論文を書いておられるようです。
いずれも専門外の私でもよく知っている有名雑誌に掲載されているし、有名な出版社から著書を出しておられます。
石黒氏は、英・米・仏の有名大学で教鞭をとっておられるし、新田氏は、国際的な学術叢書の代表編集者や有名国際誌の編集顧問などをしておられるようです。
なかなかできることではないと思いますよ。
>>263 ええ、確かにそうですね。いかに清原氏が3流の成績しか残していなくても、
野球選手ではない私でもよく知っている、日本で一番人気のある球団で番長をされていたわけで、
なかなかできることではありませんものね。
265 :
260:2006/05/18(木) 23:48:03
>>262 誰かの釣りかもしれんが、まじめに返答しとこう。
ところで、いつから、現代思想がどうのこうのってはなしになったの?
最先端がどうだろうと、あなたの哲学のみが正当だということにはならないよ。あたりまえだけどな。
ところで現代思想って、ふつう、二十世紀以降の新しい潮流のことなんだけど・・・
また、恣意的限定? 悪い癖だよw
マトモに議論できないのかな、哲学とにあるまじき態度だね。
俺は、おせっかいなくらいまじめに議論しようとしてるけど、もうそろそろ低次元の屁理屈にはあきてきたぞ。
俺は261ではないよ。念のため。
261は私です。性的な意味で。
267 :
考える名無しさん:2006/05/18(木) 23:52:32
>>261 あなたは引っ込んでいてください。
>>260 今は古代ギリシャと違うだろ。俺たちは既に歴史を背負っちゃってんだから。別に歴史無視して勝手に自分哲学とかやってもいいけどさ。
研究者の目からすると、ほとんどの場合、過去の繰り返しなんだな。それなのに自分はオリジナルと思っている人見るとお幸せに見えるわけ。
あとね。哲学者は同時代の一般大衆だけではなくて、過去の哲学者にも開かれてないとね。自分の意見を自分の言葉で語っただけじゃ、歴史的な対話にならない。だから過去の哲学者の言葉を使って自分の哲学を語っているわけよ。
他人を説得するときってさぁ、自分の考えを他人の土俵で表現したほうが効果的でしょ。自分の言葉だけで正しいこといってもただの押し付け、ドグマだとおもうけど。
>インパクトファクターなんて発想も元はといえば理科系研究者対象の尺度。
ちなみに事実としていっておけば、すでにインパクトファクターは広く人文科学系雑誌についても
算出されて、研究者の業績評価の基準になっています。
もちろん、レビュー誌が優位になるとか、雑誌内引用でポイントアップをはかるとか、
問題があることは事実ですが、少なくとも客観的な評価の一基準としては妥当なものです。
もし、哲学研究にはインパクトファクターは重要ではないというのなら、
その根拠はどこにあるのでしょうかね。
269 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 00:00:30
竹田氏とさしで議論してみたいなぁ。どこいけば会えるかな。
あと竹田現象学をきちんと読んでから批判してみたい。
「はじめての」と「入門」ならどっち読むべきですか。「入門」は昔読んだけど。
>>267 261でありますが、お断りだ!であります。
271 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 00:07:28
>>268 人文科学といっても広いからね。哲学雑誌についてはどうなのですか。
石黒・新田クラスの研究者がヒットしないようでは、少なくとも哲学関係のデータは相当不備だとしかいいようがない。
或いは哲学関係では例えばどんな人がインパクトファクター高いのかお伺いしたいです。
>>264 そういうくだらん屁理屈は自分がきちんとした業績をだしてから言ってくれよ。
全く不愉快な奴だな。
272 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 00:09:38
>>270 わかりました。でも一言批判みたいのはずるいよ。もう少しきちんと批判してね。
>>267 あなたの記述は、そのまま柄谷行人の言ってきたことですね。
柄谷は自分の言葉で体系を語るのではなく、カントやマルクスを分析することで、
自らの思想を構成するわけです。
でも、こういうやり方は、20世紀初頭から少しずつ現われて、一時的な
潮流にはなったけど、もう廃れつつある。
あなたの言っていることも、こういう潮流に毒されているんじゃないの。
>>263 理系と言っても、実験考察で量産できる分野じゃなけりゃ
むしろ哲学よりハードルきついぞ。
まあ欧米の東洋蔑視は哲学の方が厳しいんだろうけど。
275 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 00:22:36
>>273 あのさあ、そうした考え方は別にカラ谷の専売特許じゃないよ。だから彼が廃れたところで、別になんの問題も無い。
しかもだ。哲学研究の意義が重視され、自分哲学なんてダサいというのが最近の潮流だよ。上でだれかも言ってたけど。
276 :
260:2006/05/19(金) 00:24:08
>>267 異論はないが、別の視点を強調しておきたい。
発想がオリジナルかどうかだけではなく、表現、強調点、応用の仕方がオリジナルかどうかという問題もある。
たしかに共通ジャーゴンを使えばより一般性をもちうるが、方法はほかにもある。
厳密で論理的説得力があれば、単なる自分哲学を越える説得力を持つ。
大変難しいことではあるが。
ひとくちに哲学といっても、方法、目的、問題意識は多様であり、
悪しき自分哲学に堕さず、一般的損説得力をもち、有効である哲学は、複数あるということを強調しておきたい。
大森や永井はかなり成功していると思う。世界では無名だとしても。
竹田はタイプが別だが、説得力は微妙だと思う。
俺があなたと違うのは、歴史性よりも論理性を重んじていることだ。
それぞれ、文脈に応じて利点欠点があるから、どちらが正当だということは文脈に応じて決まる。
277 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 00:30:01
いち読者からすると、世界的に有名無名はどぉでもいいんだなあ。
ここでされてる議論て、要するに誰の「勢力が強いのか」みたいな
皮相な議論に思えるよ。
278 :
261:2006/05/19(金) 00:32:53
>>272 >>257>「解釈」ってのは他人の考えをただ機械的にまとめることじゃないの。
256からこの反対の意味を読み取るのはせっかちだなってこと。
2chのレスでこういう解釈の仕方してるなら、本業でもそうじゃないかなーと
俺が感じたってことであります。
上の方のやり取りも噛み合ってないのが多いからその印象もあったかもね。
皆、コテにした方がいいんじゃないの?
>>275 うまく伝わらなかったみたいですね。柄谷は一例としてあげたまでです。
ドイツ観念論までは存在そのものを対象としてたのに対して、
現象学以降は、そのようにして成立した言説そのものもまた思考の対象となってきます。
後期ハイデガーが限りなく文学的・詩的になり、また構造主義以降のフランスの作家が、
すべてはテクストであるという振る舞いをしたのも、こうした流れを反映しているものでしょう。
哲学研究の意義は認めますよ。でも、哲学研究そのものが哲学であるというのは、
いつか流行った表象論のようで、つまらない主張のように思います。
280 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 00:36:35
古典哲学の「解釈」ということは哲学することそのものなの
なんて実にあっさりと信じ込んでしまう態度がはたして哲学にむいているのだろうか?
281 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 01:12:34
>>280 そういう常識的な考えでは私のひねりがりかいできないでしょうな。
>>279 そんなことないって。自分哲学の方がよほど下らん流行だとおもうな。
>>278 あのさぁ。君が一番噛み合ってないと思うんだけど。
>>276 やっとあなたと議論が噛み合った。おっしゃることにおおむね賛成です。
歴史と論理の問題はなかなか決着つかないんだろうけどね。
ちなみに俺は竹田氏にはそれなりに敬意を持ってます。
ただ竹田のファンを自称するのであれば、むしろ竹田に追従せず己が道を歩むべきだと思う。
偏狭だのなんだの言われようが、俺はあくまで古典研究やるつもりだよ。
282 :
261:2006/05/19(金) 01:21:57
283 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 01:28:38
>>277 そりゃそうだよ。
もともと俺が言いたかったのは、日本の一般大衆にとって有名になること、世界的なプロの研究者として有名になることとは質的に違うものでそこに単純な優劣はつけられないということ。
竹田が通用するのは日本の一般大衆に限定される。海外では通用しにくいタイプだと言いたいだけ。
そこへ海外で有名なのはだれだとか、客観的データを出せとかいう要望がでたから答えたまで。
別に皮相な議論してもいいじゃん。
結局竹田自身の言説を直接吟味できないのは信者もアンチも同じなんだな。
議論のイニシアチブをとるというというのはスレの空気を押えることが重要な匿名掲示板のコミュニ
ケーションでは有効だけど、両者がぶつかりあってる状況だとスレの空気がこじれるだけだから、
とりあえず優位性の問題を論じる前に竹田の言説自体につっこんだほうがいいと思う。
285 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 14:48:57
286 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 17:33:24
>>284 信者側はおよそ妥当だと思ってるんだから、吟味する動機が薄いんじゃないの。
アンチは明確に竹田の気に食わないところがあるんだろうから、そこを
指摘すりゃいいのに、やらない。
そうだな。
具体的な難点を指摘してくれると、まともな議論になると思うな。
288 :
279:2006/05/19(金) 19:44:24
もちろん自分哲学はくだらないですよ。そんなことは、ことさらいう必要すらないと思います。
そしてあなたが誰になんと言われようと哲学研究をするのだ、というのであれば、
それは大変すばらしいことだと思います。
ただ、もしあなたが哲学研究と哲学とを同じ俎上にのせるとするなら、
それには同意できません。私がいいたいのはそれだけです。
289 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 22:15:31
>>288 ただ、もしあなたが哲学研究と哲学とを同じ俎上にのせるとするなら、
それには同意できません。
勿論両者は違いますよ。当たり前でしょ。それこそ言う必要すら感じない。
両者の区別を十分ふま得たうえでその不可分性を言っているわけですよ。
それに貴方だけでなくほとんどの方は哲学研究というのを全て訓詁学だと思ってませんか。
まぁそうした研究も無くはありませんが、おそらく皆さんがおもっておられるほど訓詁学的ではありませんよ。
もう少し研究書を実際読んでみて、それを良く理解し、自分も書いてみてから哲学研究を批判してください。
もしくは、こう言う事も可能です。
全く哲学書を読んだことの無い人からすれば、竹田さんもフッサール学者だということになりませんか。
すべて自分の言葉で語ればよいのになんでわざわざフッサールなんてもちだすのでしょうか。
中途半端と言われても仕方ないとは言えませんか。
290 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 22:35:57
自分哲学派
いい考えが浮かんだ。→フッサールを超えた。オリジナルだ。→研究者はバカだ。
研究者
いい考えが浮かんだ。→フッサールを超えたかも。→でもまてよ。自分が読めてないのかな。→再び読み直す。→やっぱフッサールもそのくらいは考えていたのか。→さっきのアイデアはフッサールの言葉でかたらなくちゃ。→また反論が思いついた。→これもダメか・・・。
この繰り返し。要するに研究者って謙虚なのですよ。
291 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 23:06:16
>>290 >→研究者はバカだ。
自分哲学派がすべからくこれに至っていると考えるのが
よくわからないなぁ。
自分哲学派への敵意が透けて見えるね。
逆に言うなら、研究者側からの、自分哲学派への
蔑視だってあるんじゃないの?
キチンと読めもしないのにいきがりやがって、とかいう。
292 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 23:08:36
>>289 >すべて自分の言葉で語ればよいのになんでわざわざフッサールなんてもちだすのでしょうか。
フッサールからヒントを得たわけだし、普通はフッサール読んでて
思いついたんだよって書くんじゃないの?(´・ω・`)
もちだしたってもちださなくったって良いじゃん。
咎めるところじゃないと思うけど。
竹田のフッサールの読み方が間違っているなら、指摘してみてくれない?
イデーンの何ページとかいう言い方でもいいよ。図書館で確認できるから。
293 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 23:12:25
俺はただのいち読者だし、もちろん研究者を批判する気はない。
竹田の言ってることは大方妥当だと思う。さほど疑問が残らないから。
んでも、2chのスレに来てみると、問題点を全く明らかにしないまま
竹田はダメだ、読み方がなってない、ただの大衆迎合、と
印象操作みたいな批判ばっかり書いてあるから、妙だなと思って
書き込んでいる訳(´・ω・`)
294 :
276:2006/05/19(金) 23:13:46
>>281 おれ、竹田ファンじゃないよ。ただ、ある程度いい仕事してると思うから、
恣意的に文脈制限してくず扱いする輩を非難したいだけ。
俺の論理志向の哲学の手本は、日本人で言えば、大森・永井・野矢。
歴史重視のひとでは、木田元や渡辺二郎や新田義弘は尊敬している。
前二人は啓蒙書も見事。
竹田は、論理と歴史の中間。中途半端と言えないことはないが。
論理も歴史も徹底できなず、哲学師研究=訓詁学=哲学がまともにできる学者が減っているようだから、
こちらの哲学において、あなたのような筋金入りの学者が増えるように祈る。
295 :
276:2006/05/19(金) 23:29:43
>>281
おれは、あんたの志向をも認めている、ということを強調しておきたい。
ハイデッガーのように、言葉は存在の現われ、という視点をとれば自ずと、
哲学史=哲学という境地があらわれてくるだろう。
フッサールはハイデッガーに比べると、哲学史志向が弱いような気がする。
訓詁学も中途半端にみえる。
フッサールも、竹田とは違うものの、論理志向と歴史志向のやや論理よりの中間とみなしたい。
間違っていたら訂正してほしい。
296 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 23:35:01
>竹田氏とさしで議論してみたいなぁ。どこいけば会えるかな。
早稲田大学のHPに竹田氏のメールアドレスが公開されているから,とりあえずメールを送ってみたらどう?
297 :
考える名無しさん:2006/05/19(金) 23:50:19
>>295 >フッサールはハイデッガーに比べると、哲学史志向が弱いような気がする。
>訓詁学も中途半端にみえる。
俺もそう思う。だから木田氏なんかも言ってるようにそれをハイデガーが哲学史の文脈できちんと語って見せた。
歴史抜きの自分哲学は盲目ですから。もちろん自分哲学なしの訓詁学は空虚ですが。
ここのスレでは前者の面が良くわかっていない人が多いと思ったので敢えて極端な主張をさせていただきました。
>フッサールも、竹田とは違うものの、論理志向と歴史志向のやや論理よりの中間とみなしたい。
>間違っていたら訂正してほしい。
「竹田とは違うものの」
そうそう問題はここなんだなぁ。
298 :
276:2006/05/20(土) 00:14:41
>>297
形而上学=存在論に対してどういう態度をとるか、がひとつの重要なポイントだと思う。
俺は論理志向だから、形而上学に低いステータスしか与えられないので、厳密・明晰・日常におりていける柔軟性をもってはいるが、
ヘーゲルやハイデッガーの形而上学のような豊かさは持てない。(もちろんヘーゲルの形而上学とハイデッガーのそれとは違うが)
竹田は、論理においては緻密さがやや足りず、形而上学を切断することにより、明快さを実現できたが、哲学史においては深さが足りないように見える。
フッサールは、竹田より緻密かつ深かった。ただ明快さが足りなかったかな。たぶん自分哲学において揺れていたからだろう。
噴飯w
300 :
279:2006/05/20(土) 14:46:06
>>289 おそらく他の方と混同されているように思います。
まず確認ですが、私は竹田氏のことについては、これまで一言もコメントしていません。
竹田氏の仕事については、いくつか著作を斜め読みしたことはありますが、
なんら興味を抱きませんでしたので、それ以上は読んでいません。
だから、竹田氏に関しての問いかけについては、お応えしかねます。
(もちろん、ここは竹田スレなのに、そんな態度は無責任だといわれれば、
その批判は甘んじて受けますが・・・)
それから、すでに書いたように、哲学研究そのものも批判してはいません。
私は訓詁学も含めて、哲学研究の学問的必要性を認めています。そして、
>もう少し研究書を実際読んでみて、それを良く理解し、自分も書いてみてから
これにつても、私はクリアしていると思います。
では、その上で、あなたの認識のどこが問題であると考えるのか。
301 :
279:2006/05/20(土) 14:46:36
>勿論両者は違いますよ。当たり前でしょ。それこそ言う必要すら感じない。
>両者の区別を十分ふま得たうえでその不可分性を言っているわけですよ。
いま、哲学的な思考の営為と、哲学研究的なそれとの不可分性を主張することに、
どれほどの意義があるのでしょうか。すでに述べたように、このような主張を繰り返してきたのが、
現象学以降の、20世紀的な思考ではないでしょうか。
そしてこのような流れに対する反動として、いわゆる自分哲学というものが出現したのではないかと考えます。
確かに自分哲学はくだらない反動です。くだらないものではありますが、
20世紀を支配してきた、哲学的思考とテクスト解釈を同一の地平に置くという
潮流が、現実にそぐわなくなってきたことの、ひとつの現われではないのでしょうか。
少なくとも、この潮流が死滅しない限りは、自分哲学に相当するものは、
名前を変えながら、生き延び続けるでしょう。
それに対して、いや、両者は違うが、やはり不可分だ、と主張したい気持ちは、
研究者としてはわからなくはありませんが、なんら生産的ではないと、私には思われます。
もっとも、2chで生産的な議論を云々いっても仕方ないのでしょうけどね。
302 :
考える名無しさん:2006/05/20(土) 22:47:02
279さんへ
「不可分」というのは両方とも認めているということです。
でも貴方は300では研究の意義を認めているのに、301では研究と自分哲学の不可分性を批判している。
非論理的でなんだかよくわかりませんね。
まぁいいや。おそらく自分哲学に力点を置きたいわけですよね。
現象学以降の潮流ということで例えば何をイメージされてますか。
まさかポスト構造主義とか言われてもねぇ。
教科書的にはそうかもしれません。
私はテクスト論や解釈学の話をしているわけではありません。
いろいろと読み漁ってみると、二十世紀後半は、形而上学や哲学史研究の重要性を唱える人も多い。
クラマー、ヘンリヒ、マリオン・・・・。
まぁ彼らは翻訳あまりないので、日本ではそれほど知られてませんが、欧米ではかなり影響力持った哲学者ですよ。
あっそうそう。議論が生産的かどうかを勝手に決めないで下さい。
貴方こそどうでもいい所でいつまでも噛み付いてないで、そろそろ竹田について生産的議論しませんか。
303 :
279:2006/05/21(日) 11:26:40
もう少し力のある方かと思っていましたが・・・。
まあ、2chでは仕方ないですね。
>ちなみにマリオンについていろいろと読み漁ってみると、二十世紀後半は、形而上学や哲学史研究の重要性を唱える人も多い。
>クラマー、ヘンリヒ、マリオン・・・・。
>まぁ彼らは翻訳あまりないので、日本ではそれほど知られてませんが、欧米ではかなり影響力持った哲学者ですよ。
もしこのあたりについてもっと知りたければ、お話しますよ。
おそらく、あなたよりちょっとは知っているのではないかと、
ひそかに自負していますw
もっとも、先に書いたように、竹田氏については何も知りませんので、
別スレに行ったほうがよさそうですね。
失礼しました。
304 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:35:19
>>303 私は302ではありませんが、279さんの発言は全然答えになってませんね。
・君は自分哲学と哲学史について結局どう考えてるの。
・クラマー、ヘンリヒ、マリオンについて簡単に教えてチョ。
・ちなみに君は研究者なのですか。原書とかも読めるんですか。2chをバカにしてるのですからそうなのかなあ。
305 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:40:40
んー。ここのやりとりなかなかおもしろいんでずっと傍観してたが、俺も279はハッタリ臭いとしか思えんな。
306 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:40:46
批判してる人は竹田の本を読んでいないであろう、という事態が
相変らずこの2chスレだなと思う。
こういう手合いには何かを期待するのが無駄だと思うけれど。
読まなくてもいいが、読まないなら放っておけば良いのに。
307 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:42:29
>>305 スレに変な連中が常駐してた時よりはまともになったから
俺も対話は続けてほしいけど、
議論になってないのは相変らずだと思う。
はっきり言って学問をやる人間としては恥ずかしい状況。
308 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:47:28
俺は竹田ファンだが、彼ら批判者は竹田本人というより、竹田に乗じて研究者を馬鹿にして自分哲学ばかりが優れていると考えている私たち竹田ファンを批判したいのだと思う。
これはこれで竹田哲学の中身と無関係に議論になると思うけど。ちがってたらスマン。
309 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:53:55
>>308 >自分哲学ばかりが優れていると考えている私たち竹田ファン
そこまで素朴な人は少数派だと思うんだけどね。
居るとは思うがそういう人は竹田本もちゃんと理解できてない。
310 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 14:04:05
>>306 >>307 じゃあ竹田批判者を上手く誘導して議論を組み立ててみていただけると有難いですね。
俺は竹田初心者だから無理だけど。
竹田批判者は何を批判したいんでしょうかね。それに対して貴方たちならどう答えるのか知りたいです。
「議論になってないとか」言うのは簡単だし、「竹田読んでない」というのも「フッサール読んでない」というのとたいして変わんないと思う。
311 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 14:06:37
309
そうかなぁ。このスレ見る限り明らかに多数派だとおもうな。
君だったら研究者の哲学史研究の意義をどう説明しますか。
312 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 14:07:52
>>310 過去に色んな人が何度も何度も誘導しようとしたけれど、
哲学の内容に関わる具体的批判はついぞ出なかった。
竹田の姿勢が政治的に危険とかいう実践的疑問が出ただけ。
空虚な内容の問いには答えようがないでしょう。
313 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 14:15:24
>>311 その質問と竹田氏の哲学とどういう関係があるのか素で分からん。
匿名掲示板で多数派云々を言ったのはこちらが良くなかったが。
「哲学史の意義」についての話から切り込むなら、
・竹田はこういう哲学史観を持っている(読んだことがないなら「持っている様に見える」でもいい)
・だが俺は彼のは違うと思う
・その理由は以下だ
というような問い方をしてくれなきゃ、話にならないだろう。
「問い」までこちらから作ってやらなきゃいけないのか?
多分竹田の本を、まともに読んだこともない人間に対して。
そんな異様な状況になっている時点で批判者は踵を返して考えるなり自省するなりすべきだろう。
315 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 16:04:54
>>313 308=311です。
もう一度308を読んでみてください。
自分哲学と哲学史研究の関係をどう考えるのかは竹田を読まなくても独立して議論できるということ。
竹田ファンの少なくともここにいる人の多くは哲学史研究を批判してたよね。でも313さんは309でそれを否定したんで、じゃあ309さん自身はどんな風に哲学史研究の意義を認めているのか知りたかったというわけです。ややこしくてスミマセン
316 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 20:51:58
>>314 それもそうだけどさ。じぁアンチ竹田は無視して、竹田ファンの間で竹田批判やってみないか。
317 :
313-314:2006/05/21(日) 21:05:25
>>315 俺は「少数派」と不用意に言ってしまったんだけど、もっと丁寧に俺が感じていたことを
伝えるべきだったと思う。
俺自身は哲学史研究の価値を「はなから」認めないような手合いは「竹田ファン」の風上にもおけない、
という気がしている。どういう意味かというと、哲学史研究やアカデミズムを批判すること自体が
目的になってしまってる人も一部いるってことだ。それは、少なくともいい読み手とは言えないと思う。
それでこの匿名掲示板のスレに何人そういうタイプが居るのかは分からない(そんなものは不可知だ)。
ただ正直言って、そんな連中は竹田を評価する人にとっても、しない人にとってもどうでもいい手合いであって、
そいつらが大勢居たところで、竹田氏の哲学には関係ないし、その評価を本質的にはどうこうするものではないってこと。
もちろんこれは竹田氏本人の責任も多少あるから、完全に無視していいというわけではないけど。
318 :
313-314:2006/05/21(日) 21:08:59
>>316 俺は一時期相当批判したんだけど、結果的に余り面白い議論にならなかった。
解釈論争になる傾向が強かったんで。
319 :
313-314:2006/05/21(日) 21:15:40
それで「哲学史研究」の話をしてもいいんだけど、
俺はここでやるのは相当気乗りがしない。理由はいくつもある。
一つは竹田ファンの「哲学史研究」観と竹田本人のそれが混乱したまま
正体不明の批判が始まる可能性が強い。批判はいいんだが、竹田ファンを批判しているのか
竹田自身を批判しているのか分からない議論は不毛だ。
さらに、このスレで哲学史研究の価値についての一般論を始めるということ自体が、
最初からある議論の流れを誘導してしまう可能性が高い。
320 :
考える名無しさん:2006/05/21(日) 23:17:08
>>303 302です。
279さんは俺の質問に何一つ答えて無いじゃん。
ヘンリヒならともかくクラマーやマリオンについて詳しいとなると研究者としか思えません。
その研究者様が「2chだから仕方ない」とか「竹田について何も知りません」と言ってるけど、一体ここに何しに来てんだろうか。
まぁ多分ハッタリだとは思うのですが・・・・・。
321 :
276:2006/05/21(日) 23:21:16
哲学史=哲学と、自分哲学=哲学とは、古代ギリシャ哲学という同じ母体から生まれてきたが
お互いの問題意識・目的・哲学像は、大きく異なっている。つまり文脈が違う。
どちらかに排他的正当性・優位性があると素朴に考えていると、不毛な信念対立が生じる。
そもそも両者は、同じ対象・問題について考えているわけではないのだから、問題意識がずれているわけだから、どちらが間違っているということではない。
文脈に応じた繊細な評価をすべきなのだ。
センスの悪い文脈盲の人が素朴な絶対主義に陥り、的外れな信念対立を引き起こす。
こういう堂々巡りにどれほどの意味があるのだろうか・・・
322 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 00:15:53
>>320 とりあえず、竹田と関係ない議論をするならスレ違いじゃないか?
323 :
276:2006/05/22(月) 00:18:36
今度は別の視角から論じててみたい。
哲学史研究の専門家といっても、古代からの全哲学を完全にこなせている人はいない。いうまでもなく。
厳密に専門的訓詁学研究ができるのは、多くても一人か二人だ。
実は、一人の全著作を極めている専門家さえひどく少ない。
多数の哲学潮流の本質をつかんでいる人は驚くほどすくない。(渡辺や新田はいい線いっていると思う。)
自分哲学の方はどうかと言えば、実際に裸一貫で一から考えていくことができる人は驚くほど少ない。(永井が一番いい線いっていると思う)
多くは、過去の哲学用語を、根本から解体的批判をすることなく、ちゃっかり利用しているに過ぎない。
ほとんどの学者は、どちらも中途半端になる場合が多い。
だから、ここに哲学史研究と自分哲学との不可分性が現われる。
324 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 00:23:50
解釈をし、自分で行った解釈をうち破り、また新しい解釈を見出す。
その結果、フッサールは本当はこう言いたかったのであって、
竹田の言ってることは的外れではないか。
と指摘するのは別にいい。
で、それと竹田現象学の思想としての出来とは全然関係ないだろう?
竹田はテクストを参考に、自分で考えただけだ。
>>314の言うとおりだと思う。
325 :
276:2006/05/22(月) 00:30:48
>>324 賛成.
そこが大切。竹田批判の正当な出発点となるところ。
ただし、哲学史が哲学と重なる思想もある、ということは強調しておきたいが。
326 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 00:43:27
昔いた頭のいい人が書いた本を読んだ。こうだと書いてある。
また別の読み方として、こうも読めるかもしれない。
だが本人が存命でないので、無限に解釈を続けていても仕方ない。
一番妥当そうな解釈を適当だとして、こう言っていると思おう。
さて、果たしてその考え方は妥当だろうか。自分で考えてみよう。
いや、やはり納得いかない部分がある。ここはこう考えるべきだ
(または、前提からして間違っている)。その理由はこうである。
やはり今に継がれる賢人だけあって優れた着眼点と思索だが、
ここをこう直したほうが、より沢山の人が納得できる良い思想となるだろう。
哲学というのは、こうやって発展してきたものだと思うが。
竹田はどちらかというと後段に傾倒しているだけであって、
前段の解釈に大半の情熱を注ぎ込む人とは方法論が違うだけだと
思うんだが。
解釈がどうのという部分で、竹田を批判するのはよくわからないな。
327 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 00:44:08
>>321 俺は哲学史研究の排他的優位性なんか唱えてないよ。
しかし哲学史研究と自分哲学は別物ではない。
見方は異なるが、問題対象は異ならないと思うよ。
ここで信念対立云々を持ち込むのはまだ早いとおもうな。
たとえば、他者とは何かについて自分で考えてみる。次にフッサールの他者論を検討してみる。
そこで対話が始まる。はじめ自分の考えはオリジナルと思っていたらフッサールも同じことを言っていた。でも反論が思いついた。
再びフッサールを読むとそこに答えが書かれていたことに気づく。表現が自分と違っていたので見逃していただけで、別の新しい問題意識で読むとまた違って読めてくる。
これを繰り返しているといつのまにか自分の言葉なんかなくなって、「フッサールによると・・・」の連発になってしまう。
研究者はこうして「自分の言葉」を失うわけだけど、しかし自分哲学してなけりや、フッサールの議論を深くは引き出せないとおもう。
276さんはマリオンとかに本当に詳しいなら多分研究者の人だよね。もしそうなら哲学史研究は自分哲学とは異なるからと「わりきって」やっておられるのでしょうか。
そして自分哲学のできる数少ない研究者のお一人なのですか。
322さんには申し訳ない。でも哲学史の取り組み方の問題は竹田問題と全く無関係じゃないとおもっているので。
328 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 00:53:31
いつまで続くんだろう…
329 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 00:55:21
>>327 すると竹田現象学のいまいちな点が具体的に導けそうだけど、、
そのへんはどうなの?
330 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 01:03:40
327です。いやいや。竹田のフッサール解釈が合っているとか間違っているとかそういうことはどうでもいいんだな。
そうじゃない。百歩譲って、竹田解釈が正しかったとしましょう。
問題はフッサールのあれだけの膨大なテキストから、どんなテーマを引き出してきて、なにを現象学の中心テーマとして引き出してきたかなんだと思う。
そこで哲学者としてのセンスが問われる。
しかし俺が批判したいのは竹田ファンのほうだ。
フッサール読むのなんて面倒くさいもんだからつい竹田読んでわかったつもりになってしまう。
フッサールの思想概要は理解できても、哲学したことにはならないよ。難しいテキストでも、いろいろと考えながら読み解く中で哲学センスが養われることだってあるとおもうよ。
竹田、というより一般に啓蒙家は読者に親切すぎて考える機会を与えない。
>>324 俺もそう思うよ。しかしそれなら現象学の解説なんて不要でしょ。自分の言葉だけで十分。どうしてもフッサールとかを持ち出したいのなら文句言われるリスクは当然つきものだし。
研究者は他人の哲学を引っ張るとき、それなりの覚悟と責任をもってやっているわけよ。
324さんの論理でいけば正直楽なんだけどね。
331 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 01:06:03
330氏は落ち着いていて大人だねぇ。
>竹田、というより一般に啓蒙家は読者に親切すぎて考える機会を与えない。
うーん、これに対して100%批判的になるのはちょっと難しいなぁ。
ただ竹田読んだだけでフッサールについて分かったような口をきくのは、確かに
問題だ。
332 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 01:06:06
>>328 そんじゃあんたがもっと有益な話題を提供して。
333 :
考える名無しさん:2006/05/22(月) 02:48:22
確かに竹田は、「フッサールが言いたかったのは、本当はこうなのだ」という
言い方をする。これは絶対反発を招くんだが、竹田はほかにも、他の
哲学者に対して批判的言説を取ることがある。
個人的には、あえてそうすることで批判大歓迎っていうスタイルなのかと思っていたが。
334 :
276:2006/05/22(月) 23:28:27
>>327 哲学史研究が思考訓練になるというのは大賛成。
哲学史研究と自分哲学とが重畳し融合してくる局面があるというのも文句なし。
でも、やっぱりそれでは狭すぎると思う。少なくとも俺にとっては。
俺がいってる自分哲学=哲学は、もっと自由というか現在進行形というか不定なものなんだな。
論理的厳密さを確保しているなら、問題は自由に発見していけばいい、と考える。
こういう姿勢で行くと、必ず少しだけは、自分でしか解決し得ない問題が発見されてくる。
過去の哲学出出てきた問題とゆるく同じ問題といえても、見る角度・目的・問題意識が違っていると、関連性がほとんどない問題に一変してしまう。
全く同じ問題になることなんてまれだな。全く違うのもまれだが。
思索を徹底すると、何が問題か、さえ深刻な問題となってくる。
俺は、哲学史研究もしてるけど、自分の哲学志向にとって二次的になっている。極度な誤解や矮小化を回避できる程度の解読作業でありさえすればいいと思っている。
文献研究は別と割り切っている。自分の問題の邪魔になるなら、やめてもいいと思ってる。
俺にとって、哲学とは永遠に閉じない未完のプロジェクト、問題発見と解消の無限のプロセス。
つねに哲学という営みすべての懐疑・解体の可能性さえ含んでいるから。
懐疑的過ぎて申し訳ない。
悪いな。根が懐疑性だから、こういう絶望的哲学観をもってしまうw
あなたとは思想の根本が違うと思う。
だから、理解しあうことは不可能だから、なんとか差異だけでも明確に切り出しておきたいんだが・・・
335 :
276:2006/05/23(火) 00:10:36
哲学史研究・解読・解釈にさえ、
自分哲学に応じた多角的アプローチがある、ということを強調しておきたい。
永井は、古典を自分流に読んで利用すればいい、とさえ言っている。
哲学的センスがない人が真似すると危ないが、そんなこと俺の知ったこっちゃない。
自分こそ正当(フッサール)だ、と暴走したときは、検閲官たる専門家が拳骨してやればいいだけw
ここにも、ある意味で、哲学史研究と自分哲学との不可分性が表れている。
336 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 00:39:35
276さんへ
ようやく君の考えがわかりかけてきたので嬉しく思います。
俺の印象ではそれ程我々は遠くないと思ってます。
以前もでてましたがやはり論理と歴史の問題ですかね。
俺はは勿論後者を重視してます。論理学をやるならまだしも、言葉を使う限りどうしても歴史は無視できないと思ってます。
単語レベルでもそうだけど、どのような論理のパターンを採択しているかという問題は、歴史と深く関わると思ってます。
勿論そうした問題意識を自覚的にもって哲学史研究やる人がどれくらいいるかわかりませんけど・・・。
自分哲学であれ、あるいはどんな哲学者を研究するのであれ、重要なのはなんらかの問やテーマをどのくらい深く掘り下げていったかということだと思います。
とにかくお互い頑張りましょう。
337 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 04:24:27
>>330 >問題はフッサールのあれだけの膨大なテキストから、どんなテーマを引き出してきて、なにを現象学の中心テーマとして引き出してきたかなんだと思う。
>そこで哲学者としてのセンスが問われる。
ここで竹田は間違えたの?間違ってないの?
間違っていたとすれば、具体的には?
こういう隔靴掻痒な議論が続くとさすがにいらついてくる。
339 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 12:31:10
>>338 だったらおまいが話題提供しろ。できないなら文句いうな。
340 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 17:44:04
竹田現象学を「ダメ」だとはっきり言っている人は
その「ダメ」だと判断した理由をここに書けばよい。
どうも訓詁学が出来ていなそうだ、なんていう推察が理由なら
ただの私怨か、と思うだけだが。
341 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 19:59:04
クラマー、ヘンリヒ、マリオンについて知ってるかどうかなんて
本人しか分かるわけがない。
ヴァン・デン・ベルク、ポール・リクール、オイゲン・フィンクとかいう名前は
2004年1月初版の「現象学は<思考の原理>である」にも出てくる。
ただし、「もうかなり古い名前」と言っているが。
一応、現象学者としてそれなりの名がある人は把握しているんじゃないの?
>>340 そりゃ批判に対応してそれを反駁する(というか難癖つける)という迎撃態勢じゃいつまで経っても
竹田の正当性を説くことには繋がらないわな。
結局竹田は信者といっしょに自分の殻に引きこもってるだけなんだね。
343 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 20:34:06
>>342 正当性を説くって、どういうこと?
信者だったら竹田の意見と自分の意見はほとんど同じだろ。
竹田の本に書いてあることをそのまま言ってどうするのよ。
批判する側が文句言わないと話は進まないだろ。
現実に、このスレで文句言ってる人が何人かいるが
なんで具体的に指摘しないわけ?
344 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 21:11:00
学者も含めてみんな竹田現象学の原理的批判ができないんだと思うよ。
欠点が見つからないから、もしくは見つけられないから。
でも、自分の解釈したフッサール現象学が正しい、他は俗流現象学で誤解だ、
という挑発的な断言はまずかったんじゃないのかな。
竹田の友人の社会学者の橋爪さえ疑問を呈しているよ。
でも橋爪は、原理としては、フッサール現象学より竹田現象学のほうがいい、と判断していた。
確かに、竹田理論は、社会学とは相性がいいからね。
>>343 批判が無いのだから言説は正当だと言いたげですな。
相手にされてないから批判の対象にもならないということを認めたくないだけのようにも見えるが。
>>344 そりゃ竹田独自の原理だと他の原理で議論してる研究者とはお互い議論が成り立たないだろうね。
346 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 22:37:02
>>345 や、だから具体的に指摘しないでそういうことだけ言うのはやめない?
>批判が無いのだから言説は正当だと言いたげですな。
誰もそんなことは言ってない。
○○とでも言いたげだな。
相手にもされてないだけだよ。
勝手に言いたいことをでっちあげて叩いて、満足?
一時期のゴーマニズム板と似てるな。
誰も小林の欠点を指摘しない。せいぜい、言い方が悪いだとか、著作権問題くらい。
具体的に言えと迫ると、「相手にもされてないだけ」これ一点張り。
誰も漫画家を完璧だと思っちゃいないし言ってもいないのに、
勝手に信者扱いして、盲信について叩くだけ。
348 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 22:53:11
弾丸が対象を射抜いてないし擦りもしてない。そんな“批判”なら放っとけばいいのですよ。その水準の批判なら盛り上がらせておけばよい。議論で誤解を正す、そんな前向きさをわざわざそれに贈る必要はありません。そんな暇があるならまともな読書にあてた方がまだいい。
349 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 22:53:49
中味や論点がないのに非難だけはしたくなるということは
竹田が売れてることに対する嫉妬なんだよw
ホントにどうでもいいと思ってたら無視できるし、
中味がくだらんと判断してるなら具体的に批判できるわけだからね。
>>347 言説の批判はおろか検討すらもしないんだったらそりゃ単なる信者だろう。
まあ「信者」必死なのはよくわかった。
351 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 00:15:59
ゴーマニズム(↑真上)
352 :
276:2006/05/24(水) 00:29:54
>>336 あなたの寛容さによって、とりあえず対話の土俵ができたみたいだ。感謝する。
ところで、聞いておきたいんだけど、どんな主題・問題について研究してるの?
別スレでも立てればもっと深く対話できそうだな。
353 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 00:41:36
今まで出てきた、多少なりとも具体的な批判を挙げてみる。
・関係論は、フッサール、ライプニッツ、クザーヌスに回収される程度である。
・「世界認識の統一という志向性」があるからだめ。
いまいち思想の内容まで踏み込まないな…
354 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 01:54:49
竹田青嗣ってつかこうへいでしょ。つかって経歴から何から嘘ばっかりついてるし
355 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 01:59:13
つかはストーカーだしつかの息子の金城一紀は盗作作家だし
356 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 02:02:51
こんな批判も挙がってたよ。
・関係論だと主観と物の関係を物同士の関係と区別する根拠が上手く説明できない。
・「主客未分の関係そのもの」なんて発想は関係の外からの語りに過ぎない。
357 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 02:09:08
>>356 興味があるので、もう少し噛み砕いて欲しいなぁ。
358 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 02:29:45
俺当人じゃないけど多分こうじゃないのかな。
関係が先にあって初めて関係項が分裂してくるとなると。主観と物の関係と物と物の関係の区別はどこで決定されるのかということ。
主客未分という言い方って一見バランスのよい説明だけど、第三者の視点から語っているようで、あまり現象学的とは思えん。
或いはその第三者はどこから分化してきたのか。そうすると第四、第五の視点と無限に続くことになりませんかね。
359 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 11:24:48
関係論はそれなりに説得力あると思う。
たとえば、歴史や社会などを考慮すると「関係」って無視できないんだな。
思考の核をなす言語とか、精神をつくる社会や文化、
こういうものが、現象学するにも、不可欠の前提でしょ。
そもそも言語使えなきゃ思考できないしね。
現象学が先か関係論が先かという問題は、親が先か卵が先か、というのに似てるね。
360 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 13:39:25
361 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 17:53:46
現象学を関係論として考えるという発想は広松渉の方が先だし、理論としてもしっかりしてる。
竹田はそれをわかりやすく表現しただけにしか思えんな。
362 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 18:08:56
現象学的人生論者、竹田。
どっちかっっつーと生涯学習むき。努力は認める。
あと「個人的な悩み」から哲学に入り込むと誰も竹田みたいになりがちであることだけは指摘しておく。
363 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 19:33:48
ハイデッガー哲学も、ある意味で人生論だよ。
364 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 19:49:53
あえてブス殺しの汚名なんか着るわけねえだろこいつが
365 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 19:58:53
現象学は、本質直観というものをどう解釈し位置付けるか、によって大きく変わってくる。
366 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 23:34:04
>>363 そんなこと言ったら、全ての本がそうだよ。書く側の意図ということで言えば、ハイデガーは人生論なんて論じたつもりないと思うけど。
>>365 で、竹田先生は本質直観をどう捉えているわけですか。
367 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 23:53:21
4によると本質論はダメだということですけど、竹田は本質直観を否定したのでつか。
368 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 23:54:32
人生論だったら竹田より武田鉄也の方がずっとためになる。
>>368 当然だろう?、常識だろう?
母に捧げるバラードの哲学はへたなポモ哲学者より真理をついている。
ニー○は氏ねと言っている。
370 :
考える名無しさん:2006/05/25(木) 00:35:38
武田鉄矢死なないねw
371 :
考える名無しさん:2006/05/25(木) 00:54:48
竹田さんの現象学的人生論てどんなの。どなたか簡単に説明してください。
372 :
考える名無しさん:2006/05/25(木) 13:33:58
竹田は、よく生きるためのスキルとして哲学を利用できる、と考えて、
あえて人生論を書いている。
堅い哲学者がよく言う、人生論と哲学との混同はいかん、ということは十分に自覚していると思われる。
373 :
考える名無しさん:2006/05/25(木) 13:55:24
『存在と時間』は、普通に解釈すれば
精緻な概念による論理構築と「人生論」が何時の間にか融合されていくから、
危険「すぎる」本になってしまったんじゃないの?
もちろんそこがまた人をひきつけるんだけどさ。
374 :
考える名無しさん:2006/05/25(木) 18:39:17
>>373 そりゃそうだけどさ、ハイデッガーには、
近代の人間の生き方・考え方を根本的に否定するという意図や目的もあったでしょ。
ということは、誤りに満ちた近代人への新たな人生の指針=人生論を目指していたとも言えるんでないの?
姜正秀
376 :
考える名無しさん:2006/05/25(木) 22:25:23
研究者が専門的なこと言うと叩くくせに自分は断片的な専門知識で語りたがる。
もっとちゃんと答えましょうよ。せっかく竹田批判が出てきたんだから。
急にみんなおとなしくなったなぁ。
377 :
考える名無しさん:2006/05/25(木) 23:24:50
>>367 フッサールの場合、本質直観は、
存在の本質(ある意味でイデア)に的中している直観というニュアンスがある。
竹田の本質直観は、このニュアンスが除去されている。
378 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 01:02:06
>>377 >フッサールの場合、本質直観は、
>存在の本質(ある意味でイデア)に的中している直観というニュアンスがある。
難しくて良くわかりません。例を挙げて具体的に語ってください。
>竹田の本質直観は、このニュアンスが除去されている。
除去されて・・・何が残るんですか。全くわかりません。
そんなん具体例に即して説明することでもないだろ。読んで字のごとくじゃん。
380 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 10:50:07
いやいや。全然わかんないよ。竹田は研究者と違って一般大衆にわかりやすいのがウリなんだろ。
頼むから説明してよ。
381 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 14:20:22
在日韓国人氏ね、キムチ臭いから氏ね、南京大虐殺で殺されていとおかし
在日韓国人氏ね、キムチ臭いから氏ね、南京大虐殺で殺されていとおかし
在日韓国人氏ね、キムチ臭いから氏ね、南京大虐殺で殺されていとおかし
在日韓国人氏ね、キムチ臭いから氏ね、南京大虐殺で殺されていとおかし
在日韓国人氏ね、キムチ臭いから氏ね、南京大虐殺で殺されていとおかし
在日韓国人氏ね、キムチ臭いから氏ね、南京大虐殺で殺されていとおかし
382 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 14:30:29
>>381 そういうこと書いて何が楽しいんだろうか。どんな育ち方をしたのだろうか。親の愛情をちゃんと受けて育ったのだろうか。
あるいは甘やかされてそだったんだろうか。ごはんちゃんと食べてるのかなぁ。野菜残してるんじゃないかな。うんちはもらしたりしていないだろうか。ああむかつくやろうだな。
>>380 自分から◎◎はたとえるなら××みたいなことなの?というふうに例をあげるならともかく、言ってる意味が
わからねえと開き直るんだもんな。最初から相手の話を聞く気がないんじゃん。
自分から極力議論をふっかけないで相手の手数を多くさせてそこからボロを突いたり、そうした重箱の隅を
つつくようなことを言うことで関係ない方向に議論を歪めていきたいという姑息さが見え見え。
まさに在日朝鮮人なみの卑劣さだといえる。
384 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 18:26:09
しょせんつかこうへいだし
385 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 22:41:44
>>383 380です。あんたむちゃくちゃだなぁ。377の言っていること本当にまるでわかんねぇぞ。
具体的に例も挙げられないなら本当はなにもわかっていないのではないかという論法は、竹田信者が研究者を批判する際に良く使う論法でしょ。
それに
>>367の質問に対してその説明じゃ何の答えにもなってないし。
つまり現象学を関係論とするには本質をどういうものとして考えればよいのですか。
>フッサールの場合、本質直観は、 存在の本質(ある意味でイデア)に的中している直観というニュアンスがある。
フッサールはどこでそんなこと言ってるんですか。それに答えられないならフッサールがどうのこうのと言わないほうがいいよ。格好悪いから。
あとね。差別的発言はやめましょうよ。そういうこと言っている時点で自分は無能だと言っているようなもんですよ。
386 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 22:55:56
>>380 あるものがリンゴとわかるとき、見えている個々の物は異なるのに、
そこに、無限の個物に当てはまる、リンゴという本質を見出す。
本質は、単に個物の側だけにあるわけでもないし、単に認識者の側だけにあるわけでもない。
識別があるところ常にこの直観がある。この直観がなければ識別はありえない。
これが竹田の本質直観。
387 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 23:28:09
>>385 まるで自分の方が知ってるみたいな口ぶりだな
そんなえらそうなこと言うなら、自分で訂正して説明すれば
ホントは分かってるんだろw
388 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 00:55:07
>>386 >あるものがリンゴとわかるとき、見えている個々の物は異なるのに、
>そこに、無限の個物に当てはまる、リンゴという本質を見出す。
「見えている個々の物」というのはリンゴのことですよね。つまりどのリンゴも色や形が違うのに、「およそリンゴたるもの」が直観できるということですよね。
それならわかります。で、こうした直観あってこそ個々のリンゴの識別もできるというのもわかりました。
>本質は、単に個物の側だけにあるわけでもないし、単に認識者の側だけにあるわけでもない。
なるほどそう考えれば関係論とうまく噛み合いますね。
「だけ」では「ない」とすると個物と認識者の両方に本質はまたがっているのでしょうか。あるいは両者の中間とは考えられませんか。
いずれにしてもそのようなことはどういう根拠から言えるのでしょうか。
竹田現象学の大発見てこういうことだったのですか。いずれにしても
>>356の問題は解けませんね。
まぁゆっくり議論しましょう。
>>387 哲学のわからん人だね。
ああそれは竹田のエロス論があらゆる認識は「感応」にその底板を置いているとする立場をとっているからだな。
竹田のエロス論においては、まず「客観」的な関係があって、解釈がそれに色づきをあたえるのではなく、
色づき、つまり「感応」が先にあって、そこに「人」が関係を見いだしていく。
「感応」は分析される「対象」ではなく、対象化を行なう認識の底板であってそれ以上分析されえない認識の底板をなしている。
したがって、竹田にとってあらゆる議論は、最終的にはそれの「共感」の可能性を求める仕方でしか行なわれず、
「共感」の可能性を見出す仕方でしか「人」は読むことができない。
あいまいな「共感」が通用しない外部では竹田の議論は通用しないとはよく言われる指摘だが、
「外部」に通用するとされるような理解も、結局のところその根幹はそうした「共感」でしかないと竹田は言う。
彼のエロス論はまあこんなところだな。
で、上で言われていたことだが、
このへん竹田の論が関係論としてライプニッツのパターンというのにはかなり抵抗があるわけだがどうだい。
このへんは「エロスの世界像」だな
どんな生きものでもそれが生きているというかぎりで、エロス原理(原始的には「快―不快」を
感じとる原理)を持っている。この原理は、古典的な生物学や生理学の考えに反して、もはや何も
のにもW還元Wできない分析の底板をなしている。その理由をひとことで言うことができる。
「エロス原理」は生きものが「世界」を分節する根源的根拠であって、何らかの分節の結果現わ
れたものではないからである。
人間は自分自身の「世界」について、さまざまな仕方でこれを分析し記述することができる。し
かし、人間が「世界」を分析できるのは、人間がまずある仕方で「世界」を分節しているからであ
る。たとえば、わたしたちは物質を「固いもの」と「柔らかいもの」という二つの契機に区分でき
る。だがそれが可能なのは、人間がすでに何らかの仕方で、「世界」を「固いもの」へと分節(秩
序化、構造化)しているからである。分析の可能性をささえているのは、分析の原理なのだ。
「エロス原理」は分節の根源、「世界」を秩序づけ、構造化する「当のもの」である。まさしく
このために、「エロス原理」はもはやそれ以上分析できないW底板Wなのである。
では「エロス原理」という言葉は、具体的には何を指しているのか。人間においてはそれは、認
識されたものとしての「世界」ではなく、味わわれているものとしての「世界」、つまり、「快苦」
「美醜」、そして「よし悪し」(善悪)といった価値的世界にほかならない。「世界」は生きもの
にとって、客観世界として存在するのではない。それはつねに何らかの意味でW味わわれるW「世
界」であり、この原理をわたしは「快苦」「美醜」といった価値の審級として表示する。このよう
な「価値として現われる世界」こそ、いっさいの世界分節の根源なのである。
「世界」はあらかじめ秩序と構造を持っているわけではない。世界を秩序化し、構造化するのは、
生きもの各自の「エロス原理」である。ニーチェが「力」の概念によって言おうとしたのは、まさ
しくそのような「世界の構造の原理」にほかならない。この原理によって、「世界が何であるか」
についての根本的な視線変更が可能になるのだろう。(P.18)
391 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 09:36:57
ヘーゲルは人間の世界体験を「意識」がたどる「知」的な体系だと考えた。この考え方は、近代
的な世界像の基本の視線だったと言える。わたしがこの論考で試みたいのは、この近代的な世界像
によって覆われてきた人間と世界とのエロス的関係の原理を明らかにすることである。
たとえばわたしたちは音楽というものを、その知覚的要素(リズム、音の高低のつながり=メロ
ディ、音色、音量等々)に還元し分析することができる。しかし、わたしたちはこれらの諸要素を
知覚し、それをつなぎ合わせることで一つの音楽を聴いているわけではない。リズム、メロディ、
ハーモニーといったものが「音楽」を構成するのではないし、そのようなW構造Wは「音楽」とい
う経験の本質とは無関係である。
リズム、メロディ、ハーモニーは、それ自体で存在する音響の要素ではない。それらは理性的分
析の結果取り出されたものである。それらは、人間が音をW味わうWという経験の結果として分析
された要素であり、したがって「認識」された対象というよりもむしろ、「価値評価」において取
り出されたものなのである。
音楽を聴くという体験の本質は、その響きが人に喚起する情動のゆらめきそれ自体のうちにある。
音楽体験の生きられた本質は、知覚、認識、理解といった概念の系列では決して捉えることができ
ない。つまり、それはロマン、センチメント、エロティシズム、美といった情緒の諸様式として体
験されるのであり、そのような「エロス原理」による概念を必要とする。(p.19)
392 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 11:54:10
>>389 ありがとう。なかなか面白くなってきました。
「感応」のところに「神」という言葉を代入して389を読んでみてください。
それなりに意味通じるし、信者の人なら多分そうした論理を展開するでしょう。
でもそうでない人なら「神」という言葉が出てきただけで悪しき形而上学と思うことでしょう。
論理としては同じなのに・・・・・・・・。
問題は「感応」というのがどのような内実をもって現象学的に語れるのか。
ここからが腕の見せ所ですな。
393 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 20:46:48
>>392 「神」は自分でそれについての経験をたどることが出来ないが、○○についての
「感応」なら自分でその経験をたどることが出来る。その違いはすごく大きいと思うけど、
なぜ神と置き換えて論理として同じになるの?
394 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 20:58:50
あと竹田現象学のオリジナルな発見って確か無いと思ったけどな。
竹田の本読んだ限りで言うと、フッサールの現象学+ニーチェの
「力への意志(欲望によって世界を分節していくこと)」が、竹田の
「エロスの現象学」になるんだと思った。
ハイデガーの「情状性」もかなりいい線いってた、みたいな
感じだった気がする。
395 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 21:31:20
なるほど。経験で辿ることができるんだ。
それだけでは分析はできないけど、経験とは繋がっているわけね。
じゃあ両者の繋ぎの部分なら何とか語れそうだね。
神の場合も、啓示体験を持つ人にとっては389の「感応」のところに「神」を代入しても文章の意味は通るけど、それはまぁいいや。
それより「感応」って感覚や感情とかとは違うの?
フッサールも似たようなこと言ってるとおもうけどなぁ。
396 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 22:06:20
まあ誰に一番似てるかと言ったらメルロ=ポンティだけどね。竹田はポンティ批判してるけど。
あれはきっと柄谷がドゥルーズ相手にやってた距離のとり方と似たようなもんなんだろうなと思う。
てか真似?
397 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 23:22:20
エロスの現象学って山口一郎氏の言う衝動志向性の議論に似てるな。
398 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 23:50:40
竹田が断固回避したかったことで、フッサールが求めていたことがある。
それは「存在論」だろう。
ただし、最終的にフッサールがハイデッガーを否定したことは注目に値する。
399 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 00:24:20
>>392 個人的感応や感覚と普遍的神とは区別必要にならざるをえない。
竹田は、基本的に、万人に妥当しているように見えることに対して、一般性で踏みとどまり普遍性を認めないから。
竹田は、万人の感応・感覚が一致している、ということを無条件にみとめているわけではない。
とりあえず一致しているという確信がもてるための条件、を見出しているにすぎない。
あくまでも、社会学的(超越性や普遍性なき関係論的)立場に踏みとどまっている。
だからこそ、現象学を、フッサールのように本質や存在の深みに接続しない。
形而上学を括弧に入れたい人なら賢明だというだろうし、形而上学をあからさまに語りたい人なら物足りないというだろう。
関係論と実体論との対立は、形而上学に対する考え方の対立でもある。
400 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 00:26:09
>>396-398 我々素人がそんな大雑把なところで議論していてもあまり意味ないよ。
竹田は存在論のどこを批判しているのですか。そこで言われる存在論てどんなものですか。
401 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 00:39:22
エロスや関係から出発すれば、存在論自体が括弧いれ対象になる。
ある意味で禁欲的存在論だった前期ハイデッガーが、
後期にはあからさまな存在論に転向してしまったこと、は興味深い。
竹田は前期ハイデッガー以上に禁欲的。
402 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 00:49:30
356で引用されてる言い方だと、
現象学に、正しい認識の根拠付けとか基礎付けを求めているようだが、
少なくとも竹田による現象学では、そういうのは、よくある誤解、だそうだ。
竹田のいう現象学は、そういうことを断固保留し「一般的確信の成立条件」探しに徹するもの、だから。
403 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 01:17:40
>>399 そういうことが問題なんじゃないんだな。まあこの話は良しとして
>>竹田は、基本的に、万人に妥当しているように見えることに対して、一般性で踏みとどまり普遍性を認めないから。
竹田が認めないのは勝手だけど、何故認めないのですか。それ言ってくんないと哲学になんないよ。
>>401 何言ってんだか全然わからん。
そういう評論めいたことはどうでもいいよ。
禁欲的とかあからさまとかいうことで何が言いたいのですか。
>>402 >竹田のいう現象学は、そういうことを断固保留し「一般的確信の成立条件」探しに徹するもの、だから。
「根拠づけ」と「条件探し」とどう違うのですか。
405 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 23:20:25
>>403 399や401がピントこないなら、
竹田のみならずウィトゲンシュタインなどの
反理念主義的哲学すべて理解できないだろうな。
ここでは説明できないから、勉強してくれとしかいえない、ごめん。
形而上学に禁欲的かどうかは恐ろしく重大なことだよ。
竹田のみならずフッサールが理解できるかどうかの分水嶺だよ。
例えば主著「イデーン」において、フッサールは、
お前のは形而上学だ、という誤解にたいして
自分は断じて形而上学をやってない、ということを強調してるよ。
でもこれでも広松などはダメだというんだけどね。
根拠付けは、絶対的な正しさ、の保証だけど、
条件探しは、一般的事実といえる場合、の確認にすぎない。
406 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 23:27:32
竹田青嗣をアメリカやヨーロッパのアマゾンで検索してご覧。
407 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 23:33:38
>>405 反理念主義だの形而上学批判だの言っている時点で勉強不足。
現象学語るんなら谷徹くらい読んだら?
>根拠付けは、絶対的な正しさ、の保証だけど、
>条件探しは、一般的事実といえる場合、の確認にすぎない。
これは誰の定義ですか。無根拠論なんてもう古いよ。
それにしても竹田ファンは自分哲学できない奴多いなぁ。学者批判する割には自分より知識のなさそうな人間を見つけると、断片的な専門用語を振りかざして知ったかぶりするから参っちゃうなぁ。
彼らの学者批判てやっぱ嫉妬だったんかな。
408 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 00:30:11
>>407 あほらし。だいたい何感情的になってるの、わけ分からん。コンプレックスに駆られた典型的2ちゃんねらーみたい。
ちゃんと哲学やる気あるの? なんかマトモに議論できないみたいだね。哲学のイロハも知らないのかな?
ところで君、マトモに哲学書読んだことあるの?
自分であげてた谷徹の入門書きちんと読んでみたら? あれはいい本だから。ついでに広松の入門書も読んでくれるといい。
何かと言うとすぐ竹田ファンっていうけど、それってだれのこと?僕は関係ないよ。妄想押し付けないでね。
学者批判だの嫉妬だの、自分のこと言ってるの? 僕は一度も言ってないけどな。
ところで、流行なんてどうでもいいけど、反理念主義(形而上学)は相変わらずそれなりにありますよ。一時よりはすたれたけど。
反形而上学をきちんと理解してから批判しようね。脊髄反射的反反理念主義(形而上学)では宗教とかわらないよ。
流行で哲学するなんてお粗末。
竹田信用してないなら、「イデーン」でもよんだら?
現象学は形而上学ではないということの弁明にかなりさいてるよ。
理解できないからといって感情的になってもしかたないよ。
哲学で、もうそれは古いとかいう言葉でごまかす人信用できないね。
現象学もしくは竹田現象学が理解できないからといって、そんな荒れるのはよくない。
君はもう少しマシな学徒に見えたんだけど
残念だよ。
409 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 00:39:22
410 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 00:58:19
>>408 感情的なのはどうやら君のほうみたいですな。
谷徹読んでて反形而上学だのなんだのと言ってたわけ?一体何読んでんだか。
『イデーン』読んだくらいでやたら偉そうですね。
『デカルト的省察』や『危機』も読んでみようね。ドイツ語で読むと尚良いです。
で、結局根拠論の何処が悪いわけ?
411 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 01:07:52
408 見苦しいからやめとけ 410にコンプレックスなんかねえぞ。 多分奴はお前より勉強しているようだ。院生だろ多分。
412 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 02:34:16
410だけど俺はたしかに院生だが現象学は専門ではない。408が竹田ファンかどうかはともかく、このスレを頭から読めばわかるように、研究者は自立的思考ができないが竹田は自分哲学ができてるとかなんとか言っている人が目立った。
じゃあということで、なるべく先行知識交えずに対話すすめてきたのに返ってくる答えといえばフッサールがどうだのハイデガーの存在論がどうだの、しかも印象批評ばかり。
私はせっかく専門用語なしに対話を進めても、あれ読めとか、これこれがわかってないから勉強せよとか。・・・と思いきや私よりも不勉強な人ばかり。
2ちゃんねるは、匿名で自分が何をどの程度勉強してる人で
論点をどこに置いているか最初に述べないでおいて、
相手が自分の事を正確に思ってくれてないと後から不満を言う
間抜けな場所
414 :
408:2006/05/29(月) 10:51:15
>>410 >>411 >>412 それで、何が言いたいの? (見苦しい、という言葉はそのまま君にお返しするよ。)
自分から議論放棄しといてね。君が専門用語に過剰反応してるのみえみえだったけど、最終的に専門家面したかったのかなw
臆病君みたいな後だしじゃんけんせず、自分から問題提起だけでなく立論したらどうかね?
ところで、フッサールが反形而上学って誰が言いましたか?
本質直観が竹田の大発見って誰が言いました?
今回もまた雑な読みだね。君の悪い癖。
僕は、フッサール現象学は形而上学ではない、と言っただけだよ。 これってだいぶ違うよね。
ラジカルな反理念主義に比べたらフッサールは理念主義=形而上学ともいえる、ということも分からないのかな。
君こそ谷徹から読んでみたら。谷も(狭、義の)形而上学ではないと強調してるよ。
君、哲学自体より、知識(が新しいかどうかとか)にこだわってるみたいだし、余計な知識プライドがちらついていたから、自信とプライドが調和してない院生なのは確かだろうけど、議論が雑だし(少なくとも)専門外は不勉強そうだね。
何が目的なのかはっきりしない感じ。
はっきりいって、(君の造語の?)自分哲学(=哲学?)は、低レベル。
専門研究でもそうでないこと祈ってるよ。
ところで、レッテルはりと権威的虚勢ばかりで、具体的中味が出てこないので、まってるよ。
そろそろ問題点列挙してくれないかな。
(それにしても自作自演ごくろうさまw)
くだらない君の与太話に付き合ってしまったけど、もう終わり。
きちんと議論できないなら、コンプレックス君の荒らしとみなすよ。
415 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 11:08:58
俺は竹田ファン側に近い人間だが、もう少し穏やかに
やりあってくれないかな。
>>401 は説明不足だよ。今の流れだと言いっぱなしの印象批評という
誤解をする気持ちも分かる(俺は
>>401の書き方で言いたいことは分かるが)
それに対し
>>403のように注意を喚起する書き込みはある程度正当。
>>405は穏やかに書けばすむ事を無駄に挑発してる。(言いたいことは同じくわかる)
それに対し
>>407もさらに強く挑発し返してる。
これじゃ
>>408以降の罵倒合戦になるのは当たり前だよ。
416 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 11:25:15
それでさ、例えばフッサール哲学は「形而上学」なのか、
またフッサール自身は形而上学者なのか、
ってのは
見も蓋もないけど面白い論点で、別に罵倒しながらじゃなくても
出来る話だと思うんだ。
ある思想家が「形而上学者」かどうかなんて、断定口調で議論できるような話題じゃあない。
特にフッサールとか近代以降の哲学者はそうでしょう。
と言うわけで面白い議論だと思うから、続けてくれよ。
417 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 12:44:58
>ところで、フッサールが反形而上学って誰が言いましたか?
>本質直観が竹田の大発見って誰が言いました?
で、竹田の大発見は何なの?
418 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 12:48:03
まぁデリダからすればフッサールの現象学は「現前の形而上学」ということになるのでしょうけど。
419 :
408:2006/05/29(月) 13:10:12
>>415 冷静な評論ありがとう。
フッサールは、本質直観によって見出される本質を、普遍的理念と直結させる。
つまり経験内に(ある意味で非形而上学的レベルで)普遍的理念を認める。
しかし、普遍的理念の存在をフッサールのようにあからさまに認めてよいのか、ということは、
ウィトゲンシュタインなどの反理念主義(反形而上学)の哲学にとって重大問題になる。
広松も、本質直観なんてあるのだろうか、と疑っている。
(それにしても、なぜ407は、無関係な話で議論を壊そうとするのか?反理念主義を(ろくに理解もせずに)古いといって誤魔化すのか?なぜ自分だけが院生だと誇示したがるのだろうか? 不純な意図・欲望を感じる。)
竹田の本質は、あえて単純化すれば、関心の一致による一般的本質、というような禁欲的本質になっている。
本質直観に映る普遍的理念は、フッサールが否定するのに反して、ある意味では形而上学的といえるし、
単純に経験を越えた実在を認めているわけではない、という面では非形而上学的である。
僕は、万人に共通の普遍的な理念を認めるかどうかは、最終的には信念の問題だと思う。
420 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 13:14:35
>>414 なんだか感情まるだしですねぇ。
まずね。俺は竹田信者の皆さんに問いかけをしているのであって君の個人攻撃をしているわけじゃないの。
それを勝手に自分への個人攻撃だと思ってませんか。君がコテハンでない以上そのような誤解はあって当然でしょ。
フッサールが最初は形而上学を批判してたことぐらい常識。しかし後に彼が神や形而上学の問題にとりくんでいることを俺は強調したかったわけ。
今更「狭義」だとか言われてもね。
それはおいといて反形而上学とフッサールが形而上学者かどうかはたしかに別問題。
しかしハイデガーのフッサール批判て要するにフッサールが形而上学者だってことでしょ。
形而上学をどう定義するかでも話は違ってくるけどね。
421 :
408:2006/05/29(月) 13:23:07
>>417 竹田の大発見はないと思う。それほどのラジカルさもない。
ただあえて言えば、現象学とエロス論の上手な統合、という功績かな。
明快で無難にまとまっていて完成度が高い、というところも魅力的。
哲学の一般的実用化・生かし方の一つの手本にもなる。これがいいか悪いかは別として。
422 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 13:24:18
根拠付けと条件探しの違い。
根拠付けの場合、万人にとって「論理」というものがもつ普遍性
というところに掛け金おかれている。
条件探しの場合、論理ではなく「感応」「欲望」の普遍性に
掛け金が置かれている。
どちらも絶対的(というかメタ的)には証明できないものを「想定」してる
という意味では一見同じに見える。理論的に言えばどちらも厳密に言えば
形而上学的な側面を持っていると言えなくもない。だから批判される。
423 :
408:2006/05/29(月) 13:31:21
>>420 不純な議論をするものに怒るのはあたりまえ。
君の態度は最初からいびつだよ。気がつかないのかね。
反理念主義のこと出すと感情的に誤魔化すのはどうしてかな?
古い、では思考停止と同じだよ。
ところで、なぜ最初からそう問題提起しなかったのかね。今さらおそいよ。
424 :
422:2006/05/29(月) 13:31:23
理論的に言えばどちらにも「想定」が入ってるという意味では
<根拠付け>も<条件探し>も同じ。
しかし理論的に見ても、<条件探し>は<根拠付け>より一段階周到な戦略と言える。
ロゴスの普遍性を否定することはパラドックスを用いれば可能だが、
欲望の普遍性を否定することはこれより一段困難となるから。
さらに、実践的な観点から見ると両者は正反対になる。こちらの方が重要かもしれない。
425 :
422:2006/05/29(月) 13:39:41
所謂ポストモダンを中心としたロゴス中心主義批判ってのは、
自己論駁的になる。
つまりロゴスをロゴスでもって否定するというお話になる。
こういう自己論駁が存在意義をもつとすれば、それは実践的問題でしかありえない。
(理論的には自己論駁か、せいぜい相対主義か、もっと悪しき場合にはポストモダン形而上学になる)
逆に言うと、ロゴス中心主義が実践的に持っていた弊害、問題をある程度軽減できれば、
これは一歩か半歩かはわからないが新しい展開と言える。
426 :
408:2006/05/29(月) 13:42:40
よかったよかった、やっとマトモな議論になってきた。
ではこの調子で。
427 :
422:2006/05/29(月) 13:49:03
そこで、ロゴスより基層的な視点として<欲望>を置いてはどうかという話になる。
これが竹田現象学だと思う。
こうするとロゴス中心主義が確かに持っていた弊害を軽減できる。
ロゴス中心主義の問題というのは、乱暴に言えば<論理>が広義の<権力>と結びつく点にある。
論理というのは、その機能から言って問題に対する解答を単一のものに収斂させる傾向をもつ。
(無矛盾であるということはそういうことだから)
さらに論理による産物が外化されて、人間がそれに一元的に束縛されてしまうという
問題も生まれてくる。
こうした問題を和らげることが出来れば、一歩か半歩前進なわけだ。
もちろん、どんな形であれ普遍性ということを言う以上「絶無」とは言えないけどね。
428 :
408:2006/05/29(月) 14:20:37
>>427 概ね同意できる。
ところで君が407でないなら聞きたいけど、
356の関係論批判や407の言い分をどう思うわけ?
「感応」のところに話の流れを戻してみる試み。
「神」などではなく「感応」であることが重要のは、経験から「辿る」ことができるから、
というよりもむしろ経験に「とどまる」ことができるからだと俺は思っている(というかそう読んだ)わけだ。
「内部」と「外部」の論争にもあったことだが、
竹田的なものの見方からは「外部」なるものは「内部」にとどまり続けることで見出されたものであって、
「人」にとって「外部」などはなく、見ることができず、あるのはどこまでも「内部」にすぎない。
「根拠論」ではなく「確信の条件探し」なのは、
そうした本当は内部にすぎない「外部」を持ち出すことでなりたつ「内部」の論を避けるため、ではないかな。
「外部」というのは「内部」のなかで見出された、あくまでも「内部」のなかで一定の意味を持つものである。
ということは、逆にそれをもって「外部」から「内部」を一定に意味づけようとする試みは
形而上学だろうとなんだろうと、背理であり、間違っているんだと。
430 :
考える名無しさん:2006/05/29(月) 23:39:28
>>429 なかなか面白い議論ですね。
しかしそうだとすると内部とか外部とかいう言い方自体が無意味になってしまいますね。
人はなんらかの超越をしたとたん、今までいたところを境界づけ、内、外について語る。しかしその外部も更なる次元では内部化される。
この繰り返し。しかしこの無限交替を先取りして全ては内部だと言ったとき、そこで言われる内部というのは超越のプロセスそのもののことで、外との対立での内ではないですよね。
むしろ、そうした超越のプロセスを終えた視点からしてはじめて、「内・外」の差異が有意味に語られうるとは言えないでしょうか。
356の二つ目の問題で言われる「外」というのも要するに超越のプロセスが完了した視点のことを差しているのではないでしょうか。
神の場合も啓示体験を持つ人、或いは困ったことに、そうした体験をしたと言い張る人がいたとすると、如何でしょうか。
インチキ宗教との区別をつけるためにも感応についてもう少しきちんと問い詰める必要があるとおもいます。
431 :
408:2006/05/30(火) 00:26:13
やはり、現象学のもくろみ、
個的経験から普遍的事実と普遍的場を見出し構成することは、形而上学的飛躍を必要とする。
つまり、普遍的基礎を求める現象学では、経験=内部に留まれない。
内部に留まる限りは、他者性・不定性・不可知性という絶対的闇が残り、普遍性はないものねだりでしかない。
一般事実と一般的場とで満足するしかない。
竹田現象学は、この意味では、よりよいアイデアであると思う。
再度強調。内部に留まる限り、根源的不定性・文脈決定不可能性がある。
関係論的観点からの素描。
要素とその関係とが不可分(な関係)であるということ、
内と外とが不可分(関係)である、ということ、明証と不明とが不可分であるということ、
超越された対象・世界と現象学的に還元された対象・世界とが不可分(関係)であるということ。
432 :
408:2006/05/30(火) 00:37:30
もし普遍的真理性をより安全に確保したいのなら、
内容=経験的真理ではなく、形式(関係)=言語的真理を求めるべきなのだ。
たとえ経験内に普遍的本質=理念が見出されるようにみえるとしても。
万人が同じ経験内容を持つとは言えないから。
個々の経験から抽象される普遍的部分(理念)は、この意味では、形而上学的存在である。
433 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 01:08:28
>>429-430 俺が神と感応を読み違えたら違ってくる、という理由に経験可能性の有無を言ったのは、
>>389の
>つまり「感応」が先にあって、そこに「人」が関係を見いだしていく。
>「感応」は分析される「対象」ではなく、対象化を行なう認識の底板であって
>それ以上分析されえない認識の底板をなしている。
この文章に「神」を当てはめたら、他の人にとっては「自分の認識の底辺をなすのが
神なのか?それは内省で確かめうる事柄なのか?」という疑問が浮かび、
それを払拭することは不可能になるから。
しかし「感応(事に触れて心が感じ動くこと)」なら誰もがしていることだから、
自分で内省によって確かめられる。
この違いを言ったわけで、ここがとても重要。
同じことで、外に今見えている事物は、「本当に存在」するのだろうか?
という問いに真に厳密に答えることはほぼ不可能だが、目の前の事物は
「どのように存在するように見えて」いるのか?なら答えることができる。
ここでは形而上学的要素は見当たらない。
主観と客観を神の視点から眺める、みたいなことを「超越」と言うみたいだけど
そもそも客観という概念が背理なのだから、「内部にとどまる」という表現も、
超越的自我の無限後退というパラドックスも、的を射ていないと思う。
なぜ客観という概念が背理なのか、ってのはフッサールがもっと厳密な形で
著書に示していると思う。竹田が原著からそのあたりを引いていたしね。
ちょっと今本が手元に無いから引用はできないが、特に問題はないと思う。。
神の啓示体験については、それはその人の「経験」だからなぁ。
「感応」とも言える。要するに、その場合は「神の啓示体験」は
他の人にとっては、その人にだけ過去あった「神の啓示体験」という
名の「感応」なのであって、形而上学的な意味での「神」ではなくなる気がするな。
その人と同じプロセスを踏んで神を感じられれば確信できるだろうけど、
麻薬とか使わないで神を感じられたと思った、事例を聞いたことがない。
じゃあ妄信だったのかな、となんとなく「確信」を得る…
436 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 02:05:17
>その人と同じプロセスを踏んで神を感じられれば確信できるだろうけど、
やっぱここが重要な論点かと思います。
437 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 03:08:26
http://www.nbvfcdrty789olkjnhbvcdrt6y78i9okjnhbvcxser5678ikjhbvcxsdert5678ikjhnbvcxdert5678ikjhbgvcxsert6y78ikjhnbvcxsdert678ikjhbvcxsdrty7u8ikjhbvcdtyuikjbgvfcdrt6y7u8ijhbvcxdert67u8ijhgvfcdert6789ikjhg 。 o 彡川出川出川ミ〜 プゥ〜ンカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテ
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出川‖∵∴゜。3∵゜ヽ〜< ネェネェ・・・・・・
。 川出∴゜∵∴)д(∴)〜゜ | 肉便器タン、カマッテヨ!!
。出川∵∴゜∵o〜・%〜。 \_____________________
o 川出‖o∴゜〜∵。/。 プゥ〜ンカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテ
川出川川∴∵∴‰U 〜プゥ〜ンカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテ
。U 〆∵゜‥。 ゜ o\。゜〜。プゥ〜ンカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテ
。。/∵\゜。∵@゜∴o| 。o゜。゜ プゥ〜ンカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテ
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(:::::::: (ξ: ・ ノ:::・/:| 。゜o 。。プゥ〜ンカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテ
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/:::\::::: \::: ∵゜ ヽ| 。゜。゜プゥ〜ンカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテカマッテ
/:::: \::::: \::: ヽ )∴ シコシコ シコシコ シコシコ シコシコ シコシコ シコシコ シコシコ シコシコ シコシコ シコシコ
(省略されました・・全てを読むにはここを押してください)
438 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 13:14:40
>>433 >>436 反理念主義より
懐疑の倍率を上げてみる。
同じ感応、同じ経験があるかどうか、なんて結局わからない。
「同じ」という判断は、すでに、内的経験を越えた超越だ。この際、言語=形式(構造)が「同じ」の本体である。
人々の経験内容の一致(内的一致)を仮定しなくても、
生活習慣の一致、振る舞いの一致、言語使用の一致があれば、コミュニケーションは矛盾なく行いうる。
同じものを見ている、という外観は成立する。
つまり、同じものが実際に見えていなくても、同じ物が見えている、と言えるわけで、同じ経験内容などよりも本質的なことなのだ。
というのが、ウィトゲンシュタインの画期的な洞察の一つだ。
ただし、主に知覚内容などのように、(ほどほどには)内的に一致している、とみなしたほうがいい問題もある。
ただしウィトゲンシュタインは、方法論的反理念主義であり、信仰的反理念主義ではない。
実際、彼は神を強く信じており、形而上学というものを肯定している。
形而上問題や神の問題は、哲学では語りえないもの、とみなしていただけだ。
語りえないが存在している、という位置付けが重要なところだ。
荒く言えば、カントの純粋理性批判の洗練形態だ。
彼がより長生きしていたとしても、実践理性批判(形而上学)にあたるものを書いたとは思えないが。
439 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 16:32:35
共同主観(社会的主観)をどう考えるかも重要なポイントだと思うよ。
>>430 正直なところその区別に具体的にどんなことが要求されるのか分からないが、
あくまでも竹田のやり方をつらぬくのならば、
インチキ宗教との区別となるとその点は弱い(と言っていいのかわからないが)のではないかと俺は思う。
例えば、広松渉との対談のなかで、他なる「人」の存在を信じているだけでは独我論を否定したことにならないのではないかと竹田は言われている。
なぜなら、竹田にとって他我の存在を確信をささえるのは、あくまでもその「明証性」でしかないから。この「明証性」は感応である。
主客の図式が立ちあらわれる根本的な機縁は他なる者との接触なわけだが、
その機縁がそもそも「感応」にささえられている、ということになる。「ほんとう」という感応。
厳密な論理などはそれに奉仕するもの、というよりも
>>391の例にならえば、
それは「ほんとう」の感応から「価値評価」において取り出されたもの、ということになるのではないか。
こう考えたうえで、「ほんとう」の感応をさきほどの内部、一般的な「論理」を外部としたとき、またその上で外部から内部を意味づけることを禁じたとき、
真実さにおいて、「インチキ宗教」のそれと区別は難しいというか、おそらくできないと思う。
じっさい「エロスの世界像」のなかで竹田は、「客観」的な「ほんとう」と、
恋愛の夢想などがもたらすロマン的な「ほんとう」さを、(エロス論的に)区別したがっていないように見える。
441 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 17:04:16
>>440 ホンモノとニセモノとの区別をせねばならない、ていうのは実用的理論的要請にすぎないでしょ。
哲学にそんなこと期待できるのかなあ。
442 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 17:10:53
というか、それでは哲学というよりも実用目的の理論になってしまうよ。
だったらもう現象学でなくてもいいでしょ。
443 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 17:36:21
竹田は、感応とか関心とか志向が認識のすべてを決める、といってるの?
ただこれが認識に相関してる、と言ってるだけなの?
どちであるかによって、えらく異なってくるね。
>>438 懐疑の倍率をもっと上げれば、ヒュームとかデカルトのコギトになっちゃうわね。
俺はそのあたりは、実は超越だとは思ってないんだ、というのは…
そういう場合の「同じ」という表現には、(…と自分が確信している)というコメントが
必ず隠されてる。逐一つけるのは面倒だからつけないだけでね。
このへんが厄介なところだよね。何を言っても(…と自分が確信しているだけだが)
を含意してしまうんだけど、といっても、他人(と、自分が確信している相手)に対して
合意を求めてる。
合意を得られたかどうかは、やっぱり言語で確認するしかないが、読む→理解→
言葉にする→といくつかプロセスを踏む限り、どこかで誤ってるかもしれないわけで、
どうしても厳密な、0か1かのやりとりが成されるわけにはいかない。0.001か、0.00000001か、
誤りを含んでるかもしれない。しかしそこまで疑っていては通常生きていけない。
いくばくかの揺らぎを含みつつ、最も妥当な「確信」をとりあえず疑うのをやめておこう、
くらいの意味で、真実だと思うだけで。
結局自分の判断、裁量でしかない(独我論的である)ことを認めつつ、しかし
他人との合意を求めずにいられないという、ちょっと論理的にだけ見ると
おかしな話にはなるんだけど、
竹田のこの辺の話は、俺の感覚で考えるとなんかフィットするものがあるんだけどなあ。
446 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 18:04:29
おもしろいね。
確かに、どういう哲学選ぶかも、結局、感応フィット感だもんね。
感応・関心が異なると対立するんだろうけど。
まさに竹田の説得力を示してるね。
感応とか関心を自覚的に見出すことで、ちょっとだけでも信念対立を緩和したり回避したりできるんだろうね。
確かにそうだね、生き方もそれぞれだから、フィットする哲学も
別にそれぞれでいいのかも知れない。
まあ竹田は商売でやってるだろうから、そういう立場には立てない
のかもしれないが。
>>441 そうなんだけど、それを「すぎない」と言ってはいけないと思うんだ。
ちょっと話がずれてしまうのかもしれないが。
真偽というのはただ真偽であるのではなく、真と偽とを分節する、それぞれのエロスがある。
つまり感応をともなった、味わわれるものである。
例えば宮台が「意味」なんかもう古い、「意味」を求めずエロスを享受することができる女子高生最強みたいなことを言ったとき、
それに対して竹田や西はエロスは「意味」と無縁なものではない、と言っている。
(実際「終わらない日常」に耐えられず女子高生は今ではメンヘル化!)
そういう意味で真偽を語ることは期待されるはずだし、
そのとき、それはちょうど
>>390と同じ理由で、「現象学」(というかエロス論)でなければならないのではないかな。
>>443 おれはそれが全てを決めると言っていると思っている。
だから竹田の哲学が信念対立を緩めるのに役だつというのは嘘だと思う。
最近の本でそうした有用性をもって自分はこの分野で新たな一歩を踏み出したとするようなことを彼は言っているが、
個人的にはむしろ後退だと思っている。
450 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 19:02:27
>>440 竹田現象学のよさは、
フッサール現象学者なら弱点とみなすところにむしろあると思う。
具体的に言えば、感応(内)からぬけだせないところ、というか普遍に手が届かず不完全なところに
あると思うよ。
451 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 19:19:47
>>449 その見解はおもしろいよ。
俺はむしろいいと信念対立改善の理論になったほうがいいと思ってしまったよ。
そうなると何がよくないんだろうか?
>>450 どんな哲学なら、普遍に手が届いて、より完全に近いの?
453 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 20:06:25
>>452 プラトニズムとかみたいな形而上学でないなら、
フッサールみたいに直観や経験に普遍を見出すとかすれば、
いちおう単なる経験から抜け出て、普遍性とつながって完全でしょ。
竹田だと、根拠付けまでいかないでしょ、
だから、感応に普遍性を強引に持ち込まない限り、
完全には根拠付けられてない相対的真理しか出てこない、と思うんだ。
いかえれば、真理未満の「確からしいと確信できること」で終わってると思うんだけどね。
>>453 単なる興味から聞くんだけども、ある個人が直観と経験から普遍が見出せたとして
なぜそれが「全ての人に普遍している」ことが分かるのかな?
このへんの理由づけをすっとばすのが、より「完全」な哲学なの?
ある個人が見出した普遍が、なぜだか分からないが、全ての人にいきなり
当てはまってしまうんだよね。それは形而上学になっちゃうね。
しかし俺の感覚からすると、あくまで個人個人が、それぞれの「普遍性」を
直観しているにすぎないのだ(と俺が確信しているにすぎないのだ)とするほうが
より、誰もが納得できる考え方に近いと思う。
455 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 22:08:10
みんなだーい好き
456 :
考える名無しさん:2006/05/30(火) 23:42:40
>>454 今の見解には全部納得できるんだ。そういうところが竹田のよさだと個人的には思うよ。
でも、フッサールとかは、そういうことにもう少し無頓着だし、逆に、それでは足りないと言うと思うよ。
上で話題になってたフッサールの本質直観にしてもそういうことがにおうでしょ。
この人は、むしろ、プラトニズとかにならずに普遍性をいかに見出すか、に執着してたみたいだね。
晩年なんか特にそうみたいだけど、
普遍的基盤とかをさらに深く求めたんでしょ。ある種の形而上学はいいんだ、って感じで。
感応と神を等値するという話があったけど、
竹田とか454さんの立場だと、そんなに安易に神の経験、存在を認められるの?
もし、独りよがりの神ではない普遍的神をみとめられるなら、普遍的真理も認められることになるよね。
普遍的神という概念はどう転んでも形而上的なものだから、無理しないと竹田現象学とつながらないんじゃないかなあ。
感応のところに神を持ち出してきた人は、あらかじめ普遍的何かとか神を肯定したいという欲望があったわけだから、
つじつまあわせ的に神の定義をあいまいにするとか、都合のよいものにするとか、するのかもしれないけど。
別に、新種の形而上学を目指すならそれはそれなりに価値があると思うんだけど
そうなると、信じない人には説得力が全然なくなってしまう危険があるとおもう。
457 :
考える名無しさん:2006/06/01(木) 00:27:28
>>454 >>456 非形而上学=哲学の意義は、「信じている者のみが納得できる飛躍(超越)」がない、ということだ。
つまり、「きちんと筋道立てて考えさえすれば誰でも納得できる議論」を確保できる、ということだ。
この種の哲学と対照することによって、形而上学=哲学の本質・意義が浮き彫りになる。
458 :
考える名無しさん:2006/06/01(木) 15:12:50
内田樹のブログに出てたよ
「2006年度大学受験出題頻出者ランキング」
今年度の大学受験で誰の文章がいくつの大学の入試問題に使われたのか、
そういうことも予備校はちゃんとリサーチされるのである。
一位は・上田紀行
二位・茂木健一郎
三位・鷲田清一
四位・山崎正和、夏目漱石
五位・正高信男、斎藤孝
そして同率六位が養老孟司、柏木博、河合隼雄、内田樹
竹田さんとか、入試にはならないのかな・・・
>>457 飛躍のある論理を正しいと思い込めるのは、宗教だよね。
宗教の有用性は認めるけど(アイデンティティの確保など)、
哲学=形而上学であることの意義が分からない。
「哲学は形而上学でいいじゃん」という意見もあった気がするが
それは飛躍を含む理論なわけで、よく考えると納得いかないって周りが
言ってるのに、本人だけ「これでいいんだ」って言い続けることになるし…
哲学は、本質的にすべからく非形而上学である必要があるのでは?
460 :
考える名無しさん:2006/06/01(木) 19:19:46
>>459 共感。
哲学にしかできないことを真に生かすためには、
非形而上学である限りでの基礎学、である必要があると思う。
フッサールはこのような志向を持っていたにもかかわらず、結局わずかに飛躍してしまったと思う。
哲学に別の大きな役割を持たせたかったからであろう。気持ちはわかる。
哲学は深くなくてもいいと思う。
しかしその代わり、信仰を超えた論理的に中立な言論を徹底的に求めていくべきだと思う。
姜さんと姜さんは似ているのだか、親類?
462 :
考える名無しさん:2006/06/02(金) 01:06:00
459
そうした君の意見自体が独断的形而上学とは考えられませんか。
君の言うとおりだとすると過去のほとんどの哲学者は哲学者じゃないことになるね。
あと、神学、宗教、形而上学はきちんと区別しないと。
>>462 過去の哲学者がどうってのは今あんまり関係がない。
1.論理に飛躍がある理論
2.論理に飛躍がなく、誰でも1から思索をたどっていける理論
1と2、どちらが哲学として適しているか、という話でしょう。
根本のルールがどうだという話は、それ以前にルールがないわけだから
そこはどうしても形而上学(?)になってしまう。
デカルトにしたって、神が明証性を保証するとか、そういうところは時代性の限界だな
と読み流すのが普通なんじゃないの?
しかし何を言ってもそれは形而上学だ、なんてことは言えてしまうと思うんだけど。
462にしても、それは君の独断的形而上学だね、なんて言えてしまう。
実に空虚な言い方だと感じられるんだけど、そうやって何もかもの言説を
相対化してしまいかねない言い方をするのには、何かわけがあるのかな?
デリダはそんな感じなんだっけ…。
465 :
考える名無しさん:2006/06/02(金) 02:30:25
まずは「形而上学」という言葉の定義を正確に調べてから批判しないと。
或いは自分がどう定義しているか明確に示しておかないと、多くの人は混乱しますよ。
自分の論理に飛躍がないとしても、そのことを説明するのは案外大変だとおもう。
自明さこそもっとも警戒するのが哲学なんでしょ。
神にしたってみなさんどう定義してから批判しているのですか。
神という言葉を使わないとしても、不可知なのに受け入れているものって沢山ありませんか。
虚数とか、ブラック・ホールとか、無限宇宙とか・・・・・
わかるわからないの問題とその存在を受け入れるか否かは別問題。
知らない知識よりも、なんだかわからないのにその存在を受け入れてしまって先行了解をもってしまっていることのほうがずっと不思議で哲学的。
「神がいない」というにしてもどんな意味での神がいないのか。「ない」とはどういう意味か。
いないと言えるには、神がどんなものかを知っているからこそ言えるんではないか。
授業の受け売りだけど。
姜尚Φと姜正禾乃似てる
姜氏と木寸田氏の朝ナマでの意地の張り合いについて。
468 :
考える名無しさん:2006/06/02(金) 23:16:20
>>462 >>463 おっしゃるとおり、定義の問題はたいへん重要ですね。
しかし、どんな定義であれ、形而上学というのは、必ずどこかに、仮説的(空想的)飛躍=超越を含んでいますね。(もちろん悪いという意味ではありませんよ。)
哲学する者は、この線引きには敏感になるべきかと思います。一線を越えるにせよ越えないにせよね。
察するに、あなたは、ある種の形而上学を擁護したいようですね。それはそれで一つの志向だから別にいいんですよ。
しかし、次のことは、どんな哲学志向であれ、守るべきだと思います。あたりまえのことかもしれませんが。
要は、どのような信念・目的によって、どのような役割・機能をもった言説を構成したいのか、を自覚し宣言すべきだ、ということです。
つまり、己を知り、他者に手の内を明かしておけ、ということです。
こうすることによって、自分の立場の限界・盲点に敏感になりますし、それぞれの立場の意義が馬鹿げた誤解によって踏みにじられずにすみますからね。
私は、459や460の立場の意義は理解できますよ。しかも重要だと思います。
ただし確かに、問い始めたら、形而上学にいくのが自然だとは思いますが。
469 :
468:2006/06/02(金) 23:20:08
間違えました。462さんへ、だけでした。
470 :
468:2006/06/02(金) 23:35:30
確かに、万人が納得できる形而上学は、まず不可能でしょうね。
ゆえに、信仰者や共感者の間でのみ通じる、(ある意味で恣意的な)議論になる可能性が高いですね。
しかし、それにもかかわらず問い続けてしまう気持ち、は分かります。
形而上学は、衰退することはあっても、絶対に死ぬことはありません。存在、問い問われる言葉、謎がある限り。
471 :
468:2006/06/02(金) 23:51:27
どの立場であれ、
最悪なのは、適用限界・文脈を無視して、自分の哲学が正当だとか普遍的だとか思い込むことですね。
>>465 >形而上学の定義
アリストテレスの言った第一哲学、と言っても遠くはないですが
ヴィトゲンシュタインが「語りえぬもの」と言ったもの、要するに原理的に
まったく経験不可能なものについて語ることを「形而上学」と一応しておきましょう。
ブラックホールと神とでは、現実に経験不可能なものと(だと思われる)いう点で
同じだが、ブラックホールは一応、原理的に経験不可能かどうかは微妙なところ。
(ノエシス・ノエマとか使わないで)大雑把に分けると、この世には4つのものしか
ないと思う。
自分、自分の目の前に広がる世界、自分の"内"から来る"気分(情状性、
力への意志)"、自分の心の中に描ける心象世界。
現象学的還元の後に残る超越論的意識とか、純粋意識とか、手垢の付いた
表現をするといろいろ語義で突っ込まれそうなんだけど…まぁ「自分」てのは
そんなもんだとして。
目の前に広がる世界と、"気分"のふたつは、この「自分」の自由にならない。
しかし「心象世界」だけは、「自分」の思いなし次第で(その思いなしが
真の意味で「自由」かどうかはおいといて)ものを消したり、出したりできる
空間。
ちょっと蛇足かもしれないけど、一応前置き。
手垢というと「自分」なんて単語のほうが手垢まみれか。
まあ手垢を気にしてると何も言えなくなる。
ひとつ、議論の前提として言いたいのは、竹田現象学を支持する限りは
どんなに「〜だ」と断定的口調で言ったとしても、あくまで自分ひとりの
「確信」に依拠しているという点で、完全に(それこそ形而上学的意味で)
「断言」には至っていない、ということ。
そもそも、そんな「断言」が人間に可能か、と言われれば怪しいですけどね。
474 :
考える名無しさん:2006/06/03(土) 14:53:16
物理学の世界像や宇宙観は、もっとも信用できる形而上学じゃないのかな。
475 :
考える名無しさん:2006/06/03(土) 15:01:08
>>473 経験不可能的でも、物理的概念は分けたほうがいいと思う。
なぜなら、新しいデータによって覆される可能性があるから。
絶対に覆されえない形而上学とは違う。
経験世界を超えた領域で、理性が、その能力を極限まで使用した結果
相反する命題が同時に定立されてしまう(カントの二律背反)に関して
俺は支持してる。その意味でも形而上学は哲学として成り立たないと思ってる。
(ちょうど、神についての命題も含まれているね)
で、神とは何かについて。
カミ、Godの意味は幅が広すぎるけど、
大体、どの神にも当てはまるところを言うなら、形而上学的であるということ。
経験世界を超えた性質を持っている(与えられている)ということ。
経験可能な世界を超えているのだから、そこには論理の飛躍は必ず存在する。
要するに、いちからよく考えれば誰にでも理解できる理論にはならない。
「神が存在するという前提になっていますが、その根拠は?」と聞かれたら
説明できない。それでは哲学にならないと思う。
粗削りだと思うから突っ込みどころ満載だろうけど、とりあえずこんなところです。
>>474 数学や物理学が信頼できて、世界中に広まっていくのは、同じ計算や実験をすると
誰でも同じ結果が得られるから。
これは、計算や実験という過程が必要にせよ「いちから考えれば誰でも理解でき納得がいく」という、
哲学の条件にぴたり一致している。数学、物理学はそういう意味で言うと優れた「哲学」だと思います。
しかしそれらが形而上学である必要はないと思いますよ(経験世界を超える必要はない)。
計算や実験は、自分で可能なんですから。厳密にいうと「経験世界」を超えて
「間接的に情報を得て築いた世界」になりますけど。
そこから決定論とかにまで話が飛んでしまうと、それは経験世界を大きく超えて
「形而上学」化する。それは誰にも分からないのだから。
しかし自分で計算も実験もしてないのに、大多数の人が信じているではないか。
それは、大多数の人が信じているから自分も信頼をおいてるに過ぎないと思います。
実際、自分を振り返ってみると、なぜ自分で実験も何もしていないのに、物理学に信頼を
おいているのか。考えてみれば、何人もの有名な教授が本を出し、色々な人が信頼している
から。それ以外の何か神がかった理由をお持ちなら別ですが。
478 :
考える名無しさん:2006/06/03(土) 17:29:39
ロマン主義観念論者バンザーイ!!
479 :
考える名無しさん:2006/06/03(土) 20:17:39
ぴかぁ〜はそろそろ物理学を神聖視するのをやめればいいのに。
480 :
考える名無しさん:2006/06/04(日) 18:49:15
>>477 自然科学にとくに説得力があるように見えるのは、
物質の改造技術として、我々の生活や身体を改造したりコントロールしたりできる実践知・技術として、
直接に力がありありとみえるから、だと思います。
この意味で、実用性と真理とは切り離せないと思います。
481 :
考える名無しさん:2006/06/04(日) 19:47:54
再現性がないと技術として役立てられないわけで、同じことでは?
483 :
考える名無しさん:2006/06/04(日) 20:18:01
>>483 は?なんで?いつやっても同じ結果が出なきゃ、技術として転用できないだろ。
485 :
考える名無しさん:2006/06/04(日) 21:11:59
再現性と技術化・応用は不可分であることは自明。
ただし、理論が乏しく実践技術だけが先行していることもある。
486 :
考える名無しさん:2006/06/05(月) 01:22:25
科学と技術を一緒くたにするようなガサツな奴に哲学は無理ぽ
結局、竹田現象学への批判はどうなったんだ
488 :
考える名無しさん:2006/06/05(月) 19:28:26
在日朝鮮人だろ?
在日現象学はもうおなかいっぱい。
竹田崇拝信者はさっさと死ね。
はぁ…?
490 :
考える名無しさん:2006/06/05(月) 22:32:06
>>486 ところで、どこの誰が一緒くたにしてるのかな?
このスレで原著を読めと言っている人は、チンポ太郎じゃないかと推察してみる。
いや、そうに違いない。
492 :
考える名無しさん:2006/06/05(月) 22:41:24
在日はだからいいって!
在日ってなんの話だ?
494 :
考える名無しさん:2006/06/05(月) 23:08:32
無内容な非難や罵倒が多いと言うことは、竹田も嫉妬されてるということだな。
哲学版にくるのはほとんど男だろうし、男は小さなことでも嫉妬する生き物だしな。
495 :
考える名無しさん:2006/06/06(火) 01:22:41
497 :
考える名無しさん:2006/06/06(火) 01:40:08
在日の日本人だろおまえら。
498 :
考える名無しさん:2006/06/06(火) 02:08:36
在日現象学医らね
>>494 無内容な賛辞も多いけどな。
ちょっと前まではいい流れだったんだが、なんでいきなり駄目になるかな?
無内容な賛辞より、中身のない批判とか非難・罵倒のほうが圧倒的に多いな。
>>433 遅レス。竹田の<内-外>は主客問題に限定されたものではないので、それに限定してしまう物言いは的をはずしている。
というかむしろ竹田の<内-外>の議論を支える最も根本的なレトリックとして主客問題があると考えた方がいい。
どちらかというと竹田や西のヘーゲルや柄谷や身体論にかかわる言葉だが、これらはエロスの現象学と無縁ではない。
身体論では<意識性-身体性>の二項に還元されているが。
無縁である、的を外している、〜と考えたほうがいい、というレスよりも
○○だから○○なんだよ、とちゃんと議論の叩き台になる提言をしてほしい。
503 :
考える名無しさん:2006/06/06(火) 22:28:39
>502
それは正論だ。
からこそ、自分がまずお手本として具体的に問題提言して見せるべきであろう。
問題を持っている人からがどんどん提言していくのが筋というものだ。
504 :
考える名無しさん:2006/06/07(水) 00:22:26
竹田に無内容な賛辞を送る。
どれほど非難されようとも、
たくさんの多分野の人に読まれてるというだけでも、すごいことだと思うよ。
少なくともここだけは俺の理想・お手本だ。
505 :
考える名無しさん:2006/06/07(水) 12:00:03
↑ 竹田在日を崇拝する朝鮮人は半島に帰れ。
思想が左翼寄りのぴかぁ〜に嫌韓厨のマネは無理。
>>503 また時間が出来たら色々書くよ。
けどお手本というけど、あんまりお手本にはならない気がする。
結局抽象的な竹田批判はいつまでも繰り広げられるし。
508 :
考える名無しさん:2006/06/07(水) 23:34:42
>>507 実はきちんと竹田哲学の本質をつかんでいる人は少ないようだから、
竹田哲学の要点や利点をきちんと説明できるだけでも貴重だと思う。
分かりやすいと言われてるのに、なぜか竹田哲学批判はほとんど誤解と的外れだから。
509 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 05:19:44
>>155 ふうん。哲学って随分なさけないものなんだね。
それはさておき、
新しい公理の発見以外は解釈にすぎないなんていう
斬新かつ珍妙な数学の捉え方をする人は初めて見たよ。
510 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 05:26:17
>何人の数学研究者がオリジナルな公理発見したわけ?
公理は発見するものではない。
しかもオリジナルであることに意味があるのではない。
過去の遺産をなるべく継承し、より豊穣な世界を演繹できるものでなくてはならない。
何人の、どころか、もう前世紀の中頃から
公理の取替えは本質的に起きていないわけだが。
>奇抜なこと言うなんてたいして難しくない。
もしそれが正しいというなら、それは哲学だから。
511 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 08:46:14
> 何人の、どころか、もう前世紀の中頃から
> 公理の取替えは本質的に起きていないわけだが。
どう見ても、事実に反しているようだが。
512 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 08:49:39
>>509 >>510 そんな揚げ足とりみたいなこといわれてもねぇ。
正しくははなんと表現すればよいのかよくわからんが、とにかく問題は数学者にとってののオリジナリティというのをどう考えるかだ。
で、
>しかもオリジナルであることに意味があるのではない。
>過去の遺産をなるべく継承し、より豊穣な世界を演繹できるものでなくてはならない。
>何人の、どころか、もう前世紀の中頃から
>公理の取替えは本質的に起きていないわけだが。
ということだが、哲学もそうだと俺は言いたかったわけ。
それを「情けない」と言うのなら、じぁあ数学者とか文学者はどうなわけ。
なにをすれば君は満足してくれるのさぁ。
>>512 本質的に起きてない、つまり前の焼き直しばかりってことね。哲学は。
竹田は以前も言ったようにフッサール+ニーチェという組み合わせなんだが、
そういう考え方してる人はほかに誰がいるの?
前期ハイデガーが近い?
一応前に出てた論点をもう一度
・関係論は、フッサール、ライプニッツ、クザーヌスに回収される程度である。
・「世界認識の統一という志向性」があるからだめ。
・関係論だと主観と物の関係を物同士の関係と区別する根拠が上手く説明できない。
・「主客未分の関係そのもの」なんて発想は関係の外からの語りに過ぎない。
下2つは、単なるレトリックの問題なような気がするが…
というか「関係論」て3文字の言葉は聞き慣れないんだが、これって
何を略した言葉なんだ?
>>511 公理の取替えの例を教えて!まじめに。
選択公理とか問題視する人がいるものもあるけど、結局却下されていないし、
それを捨てちゃったらそれこそ膨大な遺産を捨てることになるんじゃない?
スレ違いの悪寒。。
数学板にそのトピックがあるのでは?
517 :
515:2006/06/08(木) 09:19:09
すいませんです。なんかびっくりしちゃったもんで。
>前世紀
って20世紀ですよね?
竹田現象学の内訳
・フッサール → 真理批判から、普遍性への可能性の探求(・∀・)イイ
現象学的還元、本質観取による自己の信念の内省、共感の可能性。
人は世界をどう受け止めているか、ということの記述が内省によって可能ということ。
この理論について、誰でも内省して確かめられうるという点が哲学として素晴らしい。
#ただひとつ難点は、世界をどう受け止めているかの分析しかされていないこと。
人間は世界に対してそれほど受動的ではなくて、自らの欲望によって
「世界」を積極的に分節していくものなんじゃないだろうか。
(これは竹田自身が本質観取してみて思ったことだろう)
・ニーチェ → 力への意志というのは、世界を欲望によって解釈していくこと
いわく「事実なるものはない。ただ解釈のみがある」。
真理批判も強烈で納得できる。
#しかし、誰でも普通にしている共感や納得など、ある程度の普遍性に関する説明がなく
その点は残念。
・ヘーゲル → 社会とは、ルールの網の目の総体である、という考え方が素晴らしく秀逸。
社会の発展と、個人の成長を重ね合わせた考え方も納得がいく。
#ただ完全な知を最終地点とした「絶対精神」の考え方は×。
・プラトン → 今から振り返って読んでみると、イデアとは、実は真理≠普遍性の
考え方と結びついているのではないか。プラトンはそれを直感していたのではないか。
#後期において、パラドックスの罠にはまって抜け出せなくなったようだが、
それは時代性の限界と言える。
519 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 14:43:58
まあつまりは捏造現象学なんだろ。
竹田在日崇拝厨房は死ねよ。
レスはえぇ
521 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 15:35:54
でも、気持ちの悪い捏造と屁理屈の集積こそが哲学と呼ばれてきたそのものなんだろ?
オランウータンビーツって何?
523 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 16:39:05
池スレ名物プギャオの生み出した新しい音楽
通称ひょったら上京節のことじゃないかね
> ( ´,_ゝ`)必死だなぁw独り言で満足できちゃうひょったらくんw
> ひょったらおやおや上京しちゃうぅううネトレネトレw
524 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 19:23:25
>>514 関係論は、実体論に対立する言葉で、
どんなものも諸関係の項・結節点として成立しており、関係(項)でないもの・自立自存のもの・つまり実体は、存在しない、
と考える立場のことです。
広松渉によると、厳密な意味での関係論者は、現代以前では、マルクスだけだそうです。
525 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 19:44:31
続き
関係論は、むしろ東洋のほうが先です。
例えば、古代仏教思想の一部がそうです。
仏教思想における関係論の最高峰は、大乗仏教の中観派でしょう。
ナーガールジュナの中論がその結晶です。
広松の見方では、仏教思想では関係論の徹底が足りないみたいですが。
上記の意味で言えば、クザーヌスならあたらずとも遠からずですが、ライプニッツは全然関係論ではありません。
竹田は、エロスはやや実体的ですが、とりあえず関係論といっていいでしょう。
>>524 フムフム。参考になります。
>>525 実体てデカルト的実体だよね。
うーん…竹田現象学は、実体に関しては、それが実体であるかないかは
分からない(エポケー)というような立場な気がするけども。
どんなものも諸関係の項・結節点として成立している…かどうかも分からない
という立場のような気がするけどなあ。どうなのかなあ。
とあるものが実体である、とあるものが関係の中でしか存在しえない、
と頭の中で構造を作ってそれを世界に当てはめる、って少し構造主義みたいな
感じも受けるけど…
それが実体なのかそうでないかにかかわらず、自分の目の前に見えているものは
とりあえず見えているものとして把握する…というような立場な気がする。
一周まわって、自覚的な素朴実在論に行き着いてるような感じが。
いや、うまく言えんけど。
527 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 20:06:23
>>526 鋭い見解ですね。
竹田が厳密に関係論かどうか、実は私も自信ありませんw 欲望の扱いがあやしいとも感じます。
現代諸科学の基礎をも扱いうる大きな哲学をするには、関係論は不可避だとおもいます。
かつて実体論で大成功してきた物理学でさえ、今では関係論的世界観が優勢になってきてますので。
528 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 20:12:19
>>526 構造主義といえば、
池田清彦の構造主義科学論とか、西條剛央の構造構成主義などは、
竹田の親戚みたいなもんだと思いますよ。私も全部読破してるわけではありませんが。
ぜひ一読を。
>>527 物理学でも関係論が…。なんか難しそうだなぁ。
>>528 図書館で見つけたら読んでみもす。
哲学書高い…(ーдー;)
530 :
考える名無しさん:2006/06/08(木) 23:37:36
関係論で重要なのは、
関係はどのような意味においても実体になってはいない、ということ。
関係全体は結局語りえない、ということ。
絶対的主体の不在。
自分自身の立場(関係論)さえ、関係の結節点にすぎないという自己言及性。
例えば、不徹底な関係論のヘーゲル哲学は、自分自身(ヘーゲル哲学)に言及できない(を解釈できない)。自分の立場が常に絶対だから。
531 :
考える名無しさん:2006/06/09(金) 03:56:40
>>530 今度は関係自体が実体化されてませんか。
532 :
考える名無しさん:2006/06/09(金) 10:55:22
>>531 はい。それはもっともな疑念ですね。現にそういう関係主義もあります。
しかし、たとえば広松の場合は、現象学的で、
認識者と認識対象の不可分離性という意味での関係と、
現在あるものの過去(歴史)による規定=関係というだけであり、
外的関係や実体的関係は、注意深く回避されています。
関係論といっても、すべては認識者の関数としての状況の関数としての・・・として規定される、
というように、形而上学的関係は、入る余地がありません。
しかも、擬似的には実体(関係の省略としての実体)というありかたを認めてさえいます。
絶対的関係など出てこず、認識者の役割りと志向に相関的に決まる、どこまでも中吊りの関係でしかありません。
533 :
中西克徳:2006/06/09(金) 11:18:54
モナドには窓がない・・・・フッサール
534 :
考える名無しさん:2006/06/09(金) 22:38:46
518さんの整理はおもしろいです。
535 :
考える名無しさん:2006/06/10(土) 07:04:00
竹田在日崇拝厨房は死ねよ。
536 :
考える名無しさん:2006/06/10(土) 15:40:02
>>535 ねぇねぇ、君って在日の人になんか直接被害受けたの?
こんな匿名掲示板で悪口言ってて恥ずかしいと思わないのかな。
お前みたいな奴は日本人の恥だよホントに。
537 :
考える名無しさん:2006/06/10(土) 20:26:23
↑キンモー!!
おめえみたいな、在日チョンチョンを拝んでいる糞ったれはさっさと
死ねよ。本の読みすぎで頭でっかちなんだローっ プゲラッ!
538 :
考える名無しさん:2006/06/10(土) 21:12:48
「死ね」とか軽々しく言うお前の感性が理解できん。
悪ぶるにしてもセンスが無さ過ぎる。少しは本読むといいよ。
きっと頭よくなるから。少なくとも品はよくなる。
街頭インタビューとかで顔見せて在日批判してみたらどぅ。
実名載せて雑誌投稿でもいいよ。
お前にそんな勇気あるのかい。
それより何でそんなに在日差別するわけ?
いじめられたの?
パチンコで身ぐるみ剥がれたか(笑)
自制心持てよクズ
541 :
考える名無しさん:2006/06/11(日) 22:45:54
嫌韓なんてもう古いよw
次は嫌米かなあ・・・
いや、在日の問題は竹田の著述活動の大きな部分を占めていた。
だから、「〈在日〉という根拠」についての批判を
>>537さんにして欲しいな。
な〜んだ、嫌韓厨くん、何にも言えないの?
予想は出来てたけどw
544 :
考える名無しさん:2006/07/04(火) 13:52:37
さて、そろそろでり太くんの降臨でつね
545 :
考える名無しさん:2006/08/10(木) 22:54:52
まだ、竹田現象学に対する本質的な理解・吟味・批判は少ない。
まともに理解する人が増えてこれば、竹田の評価はより上がってくるだろう。
546 :
考える名無しさん:2006/08/17(木) 12:10:59
哲学者は竹田ひとりでいいよ
議論の成立できない思想はカルト宗教といいます。
548 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 11:58:56
>>545 竹田がアレルゲンになっちゃってる人が沢山いるからね〜…
もう免疫が反応しちゃうんだろう。意志にかかわらず。
まあ他スレで、なんの根拠も示さず 竹田は終わってるだの
カルトだの言ってるぶんにはいいけど
竹田スレでも似たようなことしか言わないのはね…
本当にただの私怨なんだろうなと思う。
「わかりやすい」言葉で書かれているはずなのに、「まともに理解する人」がいない。
この不思議な矛盾に「私怨」の入り込む余地はない。
550 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 16:08:12
どこのレスのどの文章が
>「まともに理解する人」がいない。
なんてことを言ってるんだ?
551 :
考える名無しさん:2006/08/20(日) 19:35:10
日本における専門家という生き物(の多く)は、
自分の専門領域だと思っているところで、外部のものに自分と違う流儀で振舞われると、
なわばりが荒らされてる、と感じるみたいだね。ひどい場合、外部の人が専門用語を使うだけで嫌悪する人いるくらい。
そして、それだけで思考停止!
2ちゃんでの脊髄反射的竹田けなしを見ていると、
専門家ではない人たちにも、そういう専門家的根性が芽生えちゃってる人けっこういるんだなあと思う。
まだ日本では、純粋に内容だけで論理的に批判するという精神が育っていないようだ。
>>551 妥当な論理は時を超えて生き残る。
心配しなくていい。
それは日常を賢明に生きている在野の人たちの血となり肉となり、語り嗣がれる。
日本は市民社会じゃないので弁証法は成り立ちません。
554 :
考える名無しさん:2006/09/22(金) 19:48:22
このスレも半分過ぎたし、
そろそろ竹田の話をしようか
うわっ。
死刑囚がいてる。なつかしす。
「現象学は思考のなんたら」、エラクわかりやすかったけどね。
これ文学研究とか心理学研究とかやってる「哲学」部外者が読んで利用すればいいのに
557 :
考える名無しさん:2006/10/03(火) 21:21:14
558 :
考える名無しさん:2006/10/04(水) 21:47:46
死刑囚がいたころに話したかったなあ。
参加するのがちょっと遅かったわ。
過去ログ見ると、ほとんど俺と同意見ぽいし。
559 :
はじめ:2006/10/05(木) 03:48:29
確かになつかしいね。彼はもうそろそろ竹田を正しく理解できたのかな。
http://snsi-j.jp/boards/bbs.cgi?room=sample1 やはり、あの1991年8月の「八月クーデター」失敗によるソビエト・ロシア(ソビエト共産主義)の崩壊という
ことがなければ、この仕事は完成させることはできなかったと思う。ソビエトの崩壊と冷戦構造の終焉によって、
それまで曇っていた自分の頭がすっきりした。「やっと分かったゾ」という気になったのはこの時期である。
自分もまた、ほとんどの日本知識人たちと同じく、頭の幾分かを、ずっと引きずるようにして、ソビエト型とは
違うのだが別種の社会主義=政治的理想主義に長く囚われていて、この呪縛から開放されなかった。
一九九四年から一九九五年にかけてやっと、この本を書きあげ完成させたときに、私は世界を一極的に
支配する世界覇権国となったアメリカ合衆国の諸思想がどうのようになってできているのかを知ったのである。
(中略)
このとき私は、アメリカの現代アメリカ政治思想の各派を、日本語でコンパクトにまとめて、全体的に
性格描写することで、自分が悩み苦しんできた二十年来の政治イデオロギー遍歴からも開放されたのである。
私は、今や、右(保守)でもなければ、左(リベラル)でもない。
私は、ただ、それらの全体像を大きく眺めつくすものである、ということになった。
私は左右の大きな価値対立に於いて、どちらにも組するものでは自分を発見した。
私は、ただそれらの思想の諸価値の対立点を記述する者である。
(中略)
私は日本知識人層の貧弱な土俵の上に「現代アメリカ政治政治思想の全体像」を植えつけるという大きな
仕事を先駆者としてなしとげた。今や日本知識人全てを足元に見下すほどの地位を、私は自力で
築いたのである。しかし、このことは、私が大秀才である、と自惚れているのではない。
私程度は、アメリカでは頭のいい大学院生程度だということである。ということは、日本の知識人の
大半の文科系の知識人の知能水準は、アメリカに持ち出せば、頭のいい高校生程度だ、ということである。
副島隆彦「日本の秘密」
561 :
考える名無しさん:2006/10/15(日) 23:08:18
とりあえずこの人のいう現象学をまとめてください
562 :
考える名無しさん:2006/11/03(金) 18:44:51
竹田の現象学は、世界認識の統一の志向性を持つ、
おそろしい哲学らしい。
前のスレにそう書いてあった。
563 :
考える名無しさん:2006/11/03(金) 19:12:03
『エロスの世界像』っておもしろい?
買ったけど、読むかどうか迷ってる。
564 :
考える名無しさん:2006/11/03(金) 19:14:42
竹田氏ってどんな人物?
566 :
考える名無しさん:2006/11/05(日) 22:15:27
>>562 どんな言説だっておのれの正当性を示そうとする以上
(ポスト構造主義にしたってそうだろう)、認識の統一を志向する
ものだと思うけどねえ。
「こう考えるのが正しいんじゃないか?」という問いかけ。
「どういう説だって「正しい」なんて言えないという結論が
正しいんじゃないか?」という問いかけにしたってそう。
正当性を示さないのなら、そもそも言語ゲームに自説を
投げ込む意味がまったくないし。
>>563 買ったなら読みなよ。。。w
>>560 リンク先は見てないが、見る気も起きないな…
なんだ、こいつ…
568 :
考える名無しさん:2006/11/24(金) 22:22:15
あげ
最近この人の本見ないな。
569 :
考える名無しさん:2006/11/24(金) 23:42:58
この人の本読むと、なにかドキドキしてくるんだよね。
これは大切なことだよ。
570 :
考える名無しさん:2006/11/25(土) 20:21:47
うむ。いまだにたまに読み返す。
原著とか読んでもにんともかんともだが、この人の本読むと
実際に考え方を前向きに変えられるのでよい
571 :
僕:2006/12/06(水) 16:03:56
僕は自分を生きるための思想入門を少し読みました。なんだか本当に死にたくなりました。
死が最後の上がりであるのならばそんなの早くやってしまう方がいいじゃないですか。
572 :
考える名無しさん:2006/12/06(水) 23:50:14
死にたくなったら死ねばいいのでは?(´・ω・`)
573 :
考える名無しさん:2006/12/06(水) 23:59:27
>>571俺はそんな風には取れなかったよ。死にたいなら死ねばいい
574 :
考える名無しさん:2006/12/10(日) 17:58:16
渡辺二郎が西研の「哲学的思考」にべた褒めの解説を書いた後あたりから、竹田、西への批判がめっきり少なくなったな。
それまでは、アマチュアの手遊びだろ、みたいな発言ばかりだったが。
哲学厨って、権威主義者ばっかりw
本物の思想は生き残るというだけのこと。
576 :
考える名無しさん:2006/12/16(土) 21:18:25
永井均でさえ、専門哲学研究論文から逸脱していたゆえに、最初はアカデミズムの学者に見下されていたが、
超大物学者(大森荘蔵?)が彼を高く評価していたおかげで、
今では、彼は大物扱いされつつある。
哲学やっていて権威主義に堕すなんて、まさにギャグとしか言い様がないw
577 :
考える名無しさん:2006/12/16(土) 22:01:08
84 名前:考える名無しさん :2006/12/16(土) 21:53:24
大森しょうぞうに東大教授の肩書きがなく市井の哲学好きおっさんだったら
流れとよどみがあれだけの評価を得ただろうか。
いくらなんでも永井を例にあげるのはやばい。
579 :
考える名無しさん:2006/12/16(土) 22:12:53
しかし、現実にはどこでも、
哲学(だけでなく学問一般かな?)
にその種の権威主義はつき物のようだね。
古代ギリシャから現在に至るまで。
580 :
考える名無しさん:2006/12/16(土) 22:21:04
陽水のなんとかが一番良かった。
581 :
考える名無しさん:2006/12/19(火) 21:45:57
http://www.ittsy.net/academy/instructor/seiji2_3.htm アメリカのイラク戦争を肯定していたという書き込みがずっと前に
あった気がするけど、あまり単純に肯定してはいないね。
評価については慎重に、また世界平和を実現する原理について
かなり的確なことを言っているように思う。
話は少し変わるけど
しかし思うのは、近代哲学が見出した「市民社会の原理」を
竹田は少し期待過剰に見ているのではないかと思ったりする。
現在そのとおりになっていないのは、近代哲学が見出した原理が
うまく機能できる条件が揃っていないからであって、決して原理自体が
間違っているからではない
という言い方を竹田はよくするが、その「うまく機能しない理由」について
深く考察したのを見たことがないように感じる。
連綿と受け継がれる歴史や習俗と、近代社会の原理とのせめぎ合いは
いつか終わって、原理によってのみ成る社会が生まれるか否か?
どうにも、そうでないように感じる。どうだろうか。
>>581 アメリカはどんな原理によって成り立っているのか?
また、原理の理想と現実はどうなのか?
理性は本能に及びません。
普通の学者が現実の政治や戦争を過剰に見てるのでは。
むしろ何があっても変わらないスタンスだから今じゃ一番まっとうな哲学者に思えるよ
そうやって環境倫理や生命倫理とかに口を出して微妙にズレたことを言ってる哲学者
なんて日本には多いのですが。
社会哲学的な言説に関して言えば、やっぱり海外経験もないような人間はダメだろ。
英国の大学にいたじゃん。
587 :
考える名無しさん:2007/01/17(水) 16:55:23
現象学を信憑構造の学だとして「信憑」という観点を強調するのは竹田のオリジナルな読みなの?
588 :
考える名無しさん:2007/01/17(水) 19:26:52
いや、むしろ、「信憑」を「確信」化したのがオリジナル。
そのことによって応用範囲が一般化し、かつ哲学的議論に慣れていない人にも
理解可能な話になった。もちろん、これは哲学的議論の通俗化だともいえる。
なぜなら、超越論的現象学が超越論的でなくなって、結局のところは、世界内
の人間という生き物(存在者)についての経験的事実の話になってしまったから。
現象学の哲学的精髄は失われたが、普通の人に理解できる社会生活の心構えに
さえ応用可能なお話になった。
589 :
587:2007/01/17(水) 19:39:47
なるほどね。
エポケーなしの還元って感じかな。
590 :
ゆうじ:2007/01/17(水) 19:48:21
./ ゙'''i;;;;! ゙';, ノ;,.;;l;ノ;,,ヾ,,,.ブ;;' ,,.r.:,==、-、. ヽ
/ j;;;! i;,,.;;;;;;;;;;人;;;;;:. l; ;: ,;l.:.:.{ * .} );, ヽ
/ l;;;;;! ,.;;-'ニニヾ;;、:;ヽ;; ヽ, ゙ヽ,:.:`--'.,..//゙ ゙、
.! ゙i;;;>'",..--、 ゙i;, l;;゙;::i:;) ヽ`'ヽ`゙"゙ヽ;::゙i, l,
| / /.:.{ * } ,./,. l;; :;《;. ゙、 :;:;;;;,. ヾ;;;゙i,. ゙i,
| i |::.:::.:`--'シノ,;'゙ :;l;;::,. ヽ ゙'';;;;;;,.. ゙i;;;:!. l
| l ;;:゙`-==' ,ィ" '゙ :;゙、;;;:;:,., ゙;,`ヽ ゙';;;;;;, l;;:゙i, ゙!
.! `゙゙''''i;;;;:::| :!;;:'゙;;:;,. ;: ,ゾ゙''';;;;;;,.じ'゙.;: |
| ゙i;;;::| ,;ri;;:,,,;;;;;;;:;:;:;:;;;/;;゙ ,.-、;;;; :;:;:;:;: .!
.!:,:,: ;;;;:;,.. i;;;::| .,/ ヾ:(⌒`-‐'" _,.-'",,._ ヽ,ヽ;:゙:. |
l;';';';:;;;;;;:;:.. |;;:l,. ,. ,. ,:;/ _,,,..--‐''"´ _,..,へ ヾ-〉;!:,:,:.:.!
゙!;;;;::;;;;;;;;;:;:;::;;:;:l;;;:!;;:;:;:;:;/ / ,,;____,,...-''i" l_,.-‐! ||;:;:;:;,'
゙、;;;;;; ;;;;;;;;;;;;;;;;:l;;:!;;;:::;/ / ,,;/`i l ゙!,..-'゙'iY゙i, ゙!;;;;;/ 還元ないねぇっ
゙、;;;,. ゙'';;;;;;;;,. ゙、;;゙!;: l ,' ;ノ、_ノー‐'^`''" ,..ィ' l`'l .!;;/
ヽ:,:,:,:;;;;;;;;;,. l;;;゙i |i_/∠i゙i'"゙i‐┬‐┬'''i"_,ノ"/ .//
ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;,,`'";ヽ`ヽ, `ヽlヽ〜-^ー'^,.-'" .//
\;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ, ゙''ー-‐''" //
゙ヽ、;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ、__,...-‐'",./
592 :
考える名無しさん:2007/01/20(土) 13:53:29
英国の大学にいたって、
本当に英語で英国の哲学者たちと議論していたのか?
(英国にいただけではないのか?)
593 :
考える名無しさん:2007/01/22(月) 20:56:23
>>588 ?
個々にとっての「真理」を「信憑構造」に読み替えた
のが"フッサールの現象学である"みたいな言い方をするけどな
竹田は。
フッサールの文章が難解なために、解釈次第で
いろんな読み方が出来るので そうとは言ってない
現象学者もいるというだけのことで…
>超越論的でなくなって、(略)経験的事実の話になってしまったから
この意味するところがよくわからないが。
フッサールって、徹頭徹尾経験的事実の話をしてるんじゃなかったのか?
経験世界を超えたたとえば「物自体」なんて想定していたか?
>現象学の哲学的精髄は失われたが
具体的に言って何が失われたの。
594 :
考える名無しさん:2007/01/22(月) 20:57:24
>>589 まぁ興味ないなら読まなくてもいいが。読んでないね?
竹田読んでればエポケーなんていくらでも出てくるんだが。
595 :
587:2007/01/22(月) 21:09:06
>>594 いや何冊か読んでから書き込んでるんだけど。
おれが「エポケーなしの還元」って呼んでるのは
>>588に書いてある、きみが理解できてない部分のことだから。
>>588が理解できてからまたレスしてね。
一応軽く説明しとくと、竹田においては(特に信念対立の解消とかの議論では)
エポケーは「信憑構造」っていうキータームを取り出す際に1度だけ使われるだけで、
あとはエポケーなしでも全く問題ないことにしか還元を用いてないってこと。
596 :
588:2007/01/23(火) 22:20:51
>>593 フッサールは経験的事実の話なんかしていない。超越論的経験の話をしているのだ。
もちろん「経験世界を超えたたとえば「物自体」なんて想定」してるわけがない。
超越論的経験とは世界そのものを初めて成立させる経験だ。それは決して経験諸
様態の内の一項目(たとえば確信成立とか)取り出すことができない。だからこ
そ、超越論的なのだ。それは実は、現に存在する世界そのものとしてしか取り出
せない。経験と世界は完璧にコンプリメンタルでその間に因果的な楔を打ち込め
ないのだ。これが超越論的現象学の哲学的精髄。ここにはいわく言いがたい精妙
な真理がある。現象学に(フッサールの)に魅力を感じる者はこの精妙さに参っ
てしまうのだ。竹田現象学では、超越論的主観の超越論的経験に対応するものが
我々自然的人間の経験的心理状態の一項目になるので、超越論的現象学のいわく
言いがたい精妙なところは非常に分かりやすい、誰でも理解できる話に変わる。
竹田さんは、哲学のいわく言いがたい精妙なところを分かりやすく、日常生活に
も応用できるようなお話に変換するのがとてもうまい。そういう特殊能力がある
のか、そのようにしか理解できないほど哲学的に無能なのかは、どちらでも同じ。
竹田青嗣と宮台真司が議論したら・どうなるだろ?
噛み合うだろうか?
福田と議論すればいい
竹田「実存主義サイコーですか???」
600 :
考える名無しさん:2007/02/01(木) 11:29:10
コードギアスは竹田の功績ではなく谷口監督の功績である。
竹田がやった事は2期のOPにジンを入れたことでギアス厨に反感を買った事だ。
601 :
考える名無しさん:2007/02/01(木) 13:36:12
>>598 種や死種について語るのか?
両沢千晶のおかげで糞シナリオになった事について謝罪して欲しい。
今年の福井ガンダムではその事を考慮して欲しい。
本当にアニオタって空気が読めないね。
603 :
考える名無しさん:2007/02/11(日) 18:18:22
信念対立なんて哲学で解消できないと最近思えてきた。
竹田は原理を明らかにはしたが、それに誰も乗っからないもんな。たぶん。
竹田ファンだったが、最近著作もぱっとしないし、
なんか冷めてきた。
原理論はもう煮詰まってる感があるから、
今後は各方面の影響力ある人と対談とかしてもっと実践的なことをしてほしい。
605 :
考える名無しさん:2007/03/03(土) 00:49:12
ぶっちゃけ、「対話学」みたいなものを学校で教えるべきかもなぁ
と思った。
人と人で対話するとは、どういうことなのかってことを。
声にしろ文にしろ、人生で人と関わる大半は「対話」じゃん。
これって義務教育に加えていいことなんじゃないかと思った。
竹田の信憑構造論はそのベースとして最適だろう。
まぁ、2chの過疎板で言っても仕方のないことだけど。
ぶっちゃけって何がぶっちゃけなのか分からんな。
まあいいやorz
607 :
考える名無しさん:2007/03/03(土) 01:20:53
竹田さんが現象学について
真理が存在するとされているのではなく、
「確信成立の契機」が問題になっている。
デリダは現象学について「真理をめがけている」
という批判を行ったが、これは間違いだ。
なぜなら現象学は確信の成立を問題にしているのだから!
・・・とおっしゃってましたが、現象学ってこんな理解でいいの?
あと、いつデリダがそんなこと言ったの?
竹田さんがデリダを論破したって書き込み見かけたんだけど
ホント?
(仮にホントだとして)どんな流れで起こった話?
609 :
考える名無しさん:2007/03/07(水) 20:36:46
>>608 オレもそういう書き込みあちこちで見たけど、詳しい話はないんだよな。
610 :
考える名無しさん:2007/03/07(水) 20:43:47
1
611 :
考える名無しさん:2007/03/07(水) 20:51:20
すみませんが、先生の話題はよく聞きます。哲学入門とか。
先生の書をまだ読んだことない学生なんですが、お勧め書があれば教えて下さい。
よろしく、お願いします。いきなりウィトゲンシュタインの論理哲学論考はつらかったです。
しかし太陽さえも仮説にいれる鋭い思考には完敗でした。
612 :
考える名無しさん:2007/03/07(水) 20:59:56
>>611 人類が誕生する前に太陽が存在したかどうかって話?
だろうね。
デリダが竹田さんを相手にするわけないしねw
614 :
考える名無しさん:2007/03/07(水) 21:13:23
>>612 太陽は明日も昇るだろうという一つの仮説である。すなわち、われわれは
太陽が昇るかどうか、知っているわけだはない。
615 :
考える名無しさん:2007/03/07(水) 22:35:48
>>614 伝統的な懐疑論で何度も言われてきたことじゃん、それ
世界三分前創生仮説とかね
なんかこの人は英米系の哲学は嫌ってるっぽいけど
論理学自体を軽視(というより知識がない)感じだが。
618 :
考える名無しさん:2007/03/08(木) 23:21:10
竹田さんて『論理学研究』読んだのかな?
619 :
考える名無しさん:2007/03/14(水) 15:21:52
竹田はフランスで論文を発表するべきだ
620 :
考える名無しさん:2007/03/14(水) 19:59:17
>>581 「よみがえれ、哲学」での対話相手西さんの発言がイラク戦争肯定論だ、
と捉えられたのでしょう。
確かにこの本の後半、小泉人気評価や、イラク戦争の論じ方には紙幅の都合も
あるのだろうが、安直(説明不足)過ぎないか? という気がする。
ポストモダンが絶対的否定、批判だとすれば、それをさらに批判する竹田、西氏の
言葉が、際限なき現状肯定へと転落していくのではないかという危惧を感じた文章だった。
>最近思ったことの一つ。私立中学や高校に子供をやるときには、その学校の理事長や学長(学園長)が>長期政権で、ずーと居座っているか、ちゃんと選挙で交替しているか、基準にするのは一手かも。
>永久居座り、あるいは長期政権の私立校は、とうぜんのことながら、体質が腐ってくることが多い。>ちょっと見聞したなかで、そういうことがよくあるという印象が残っている。
>組織が権力ゲーム体質になると、「よいこと」や「合理的なこと」が生き残れないので、
>これは組織の基本原理かもしれない。
井の中の蛙って実に暢気でいいよな。
こういう平和ボケがノウノウと論じた「戦争抑止の原理」なんて相手する人間がいるはずなかろう。
戦争ボケを相手にする人もいませんよ。
624 :
考える名無しさん:2007/04/04(水) 14:48:49
哲学最高人生最高!
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
>>621 竹田と言えば安直、安直と言えば竹田みたいな感じだからしょうがない
諦めろ
627 :
621:2007/04/05(木) 10:17:11
>>626 基本的には全く評価していないわけではありません。紙幅の関係だろう、というのも分かるのです。
ただ、言い方が気になるのです。
「小泉改革は、批判者が言うように確かに実際にはそんなに進捗していないかもしれない。
しかしそんなことはどうでもいい。批判する奴は批判のための批判をしているにすぎない。小泉人気は
一般意思を代表したものだ、そこを評価しなければならない」
「イラクでは大量破壊兵器が見つからなかった。しかしそんなことはどうでもいい。批判する奴は戦争絶対
反対から批判のための批判をしているにすぎない。テロや独裁を無くしていくというのが歴史の流れだ」
1、現状を批判する奴は「全員」批判のために批判する者である
2、だからそんな奴らは「どうでもいい」
3、それよりも俺達が近代哲学から見出した「原理」に還るべし
という図式的な理解に(紙幅の都合上)落とし込んでいるように、読者が誤解するのも無理はない様に思うのです。
「紙幅」ってさ、お前、ネット向けの書き下ろしなんだから、そんな言い訳が通用するかっての。
これが竹田の限界なんだよ。精一杯言ってそれだけなの。
なんちゃって哲学は、日本を変えられるか、
ってフレーズを思いついたことがあるよ。
今度精神現象学の口語訳するんだろ、
それでもって成仏、てな。
630 :
考える名無しさん:2007/04/22(日) 01:04:49
イデーンの超訳はどうなったんだろうか。
自分で引用してたからたぶん結構な分量、訳してるんだろうけど
叩かれるのを恐れてやめたんだろうか。
それとも 結局自分の現象学入門と同じこと 冗長に
何回も言ってるだけみたいな内容になったので
やめたんだろうか。
>>627 竹田は近代哲学の見出した原理を、万能だと思いすぎだね。
国には歴史というものがあり、近代哲学の原理とそれとは
うまく折り合っていく必要がある。
出自が在日ということもあって、歴史の重要性を否定する
方向にあるんだよな。いずれ近代哲学の原理によって
覆われてしまうものだと思ってる。
「一夜の無政府主義より、百年にわたる独裁のほうがましだ」
という中東の諺をどう思ってるんだろうか。
近代哲学の原理は、宗教・常識の違いや 国の歴史を
乗り越えるほどの力があるのか?
632 :
考える名無しさん:2007/04/22(日) 06:25:30
>>627 小泉の考え方は香田さん殺害事件に明確に表れていた。「テロをなくすために、テロ集団に抗うために、人命を無視しても構わない」
これが小泉の考え方だとはっきり分かったではないか。少なくともこの一事に限れば小泉を批判する絶対的権利はわれわれにあると俺はみなす。小泉のような考え方を擁護する余地はない。
また、よく言われるように、小泉がブッシュの飼い犬にしか見えなかったのも事実だ。あれは情けないにもほどがある。フランスなどの姿勢とは雲泥の差があった。
つまり、小泉を批判する声が「批判のための批判」とは言いきれない。批判される原因を小泉自身が作っていたのだ。
大量破壊兵器の件にしても同様に、批判される理由はアメリカ側にある。それに黙っているほうがよほど不自然だろう。
一般意志だということ即これに対する意見は「批判のための批判」という見方は粗雑に過ぎ、説得力をもたない。また、一般意志という概念をそのように使うべきではない。それをいうなら、一般意志を批判する声もまた一般意志だ、ということになる。
意志という考え方について言えば、あらゆる人々の意志の総体を考えてはじめて一般性を想定可能になるのではないか。つまり、批判は必至で、竹田のような一般性の使い方は、ときの権力への批判を押さえ付ける、そのために使う間違った使い方だろう。
竹田はおそらくかつての自分の政治遍歴への反省をしたがっているのだろう。しかし、一般意志のそのような使い方をみる限り、その反省もまた錯誤を生んでいるとしかみえない。
>>621にも
>際限なき現状肯定へと転落していくのではないかという危惧を感じた文章だった。
とあるから似たようなことは考えているのではないかな。
634 :
考える名無しさん:2007/04/22(日) 12:42:37
竹田や橋爪が書いている戦争論を読んだが、一様に不満。
大量破壊兵器をめぐるイザコザがアメリカを中心に起こっているが、根本的疑問として、アメリカが保有している大量破壊兵器はどうなねか、ということ。
アメリカは大量破壊兵器をただの一個も保有していないのか?持っていない、とアメリカが言い張るなら、それこそ国連の査察による証明をするべきではないか。
自分が保有している大量破壊兵器はそのままに他国の大量破壊兵器についてあーだこーだ言っているとすればそんな政府の言い草に説得力などあるわけがない。
もう一つ、アメリカの不自然さを感じるのが、自分と直接関係のナイと傍からはみえる他国の政治状況に、何の権利があってこれほど介入したがるのか、さっばり見えてこない。これについて橋爪も竹田も指摘していないように読める。
そこが二人ともおかしいと思う。
もう一つ、二人揃って、自民党はじめ、既存の保守政治家の言うこととさして代わり映えしないことを言いだしている。これが果たして最前線の知識人の言うことなのだろうか、という疑問。
シモーヌ・ヴェイユはあらゆる戦争に反対する理由として、単なる平和主義でなく、戦争状態とは国家と一般大衆の戦争状態を意味する、だからあらゆる戦争は否定されるべき、と言ったという。
せめてヴェイユに匹敵するくらいの考察を出すべきではないか。この人たちはいったい何を言いだしているのか、まったく不可解に感じる。
根本的疑問としてこの二人が「最前線の知識人」か?
>せめてヴェイユに匹敵するくらいの考察を出すべきではないか。
それはWeilに失礼というものでしょ
637 :
考える名無しさん:2007/04/23(月) 01:35:54
竹田青嗣が多用し、擁護する市民社会。これについて竹田は“これに代わる原理がない以上、今のところ最善の社会であると言わざるを得ない”といった物言いをしている。
曰く、“ルールに従う限り誰にも平等に権利が認められる”というように。
だが、そのような点をもってそこに孕まれる難問に言及しないで済ませるのは不自然にみえる。
ヘーゲルを基礎として発想する竹田はそこに拘りたいのだろうが、そこには難問が山積している。
ハイデガーが指摘する工作機構がある。《作ることの、そして作り物の、支配としての工作機構》それは有の忘却に繋がっている。
フーコーの指摘する主体化。《そうしますと、提起される問題は次のようになります。つまり主体自身による主体の構成に必要な他者の働き掛けとはどのようなものだろうかという問題です。》
マルクスの指摘する、労働における労働の疎外。《ここで明らかになるのは、労働そのものによって、富の客体的世界が、労働には疎遠な威力として労働に対立して、いかに累進的に拡大し、ますます広くかつ完全な存在をもつようになるか、ということであり、
またその結果、創造される価値と、或いは価値創造の実在的諸条件と比較して、生きた労働能力の窮乏した主体性が、ますますきわだった対照をなすにいたる、ということである。》
また、竹田の引用するヘーゲルも、その場しのぎの解決を極力嫌った論理を展開する。《人間は、全体として、悪しきものにも満足するもので、精神をもって現実にたいして証明をあたえたとなると、その現実に満足します。が、現実は欠点や未解決の面を数多く含んでいます。
学問は現実の世界の全体に和解をもたらすものです。》つまり、“世界全体の和解”がそこでは歴史の頂点として意識されといる。大国による世界支配のどこに世界全体の和解があるというのか。
途中まで同伴して、今は外野の批判だが、
竹田は袋小路にはいって、小阪修平のいう
トートロジーに陥ったとおもう。
表現者は破滅しかないというのが吉本の
ホンネだが、そこへ向かう竹田とそれを
みつめるファン、みたいに、ちょっと違うが
太宰みたいに眺めてる。
639 :
考える名無しさん:2007/04/26(木) 23:55:18
トートロジーの説明をもっとくわしく。
640 :
考える名無しさん:2007/04/27(金) 01:18:59
竹田的本質直観を説明してください。
641 :
考える名無しさん:2007/04/27(金) 14:01:48
竹田の良いところはテキストを一応丹念に読解するところだね。当たり前な話なんだけど柄谷行人など、これをやらないので2ch.にさえ馬鹿にされる有様を呈していた。
別スレにある池田晶子の書いていた文などと比べても、竹田の本は読み応えがある。ただ、竹田に全面的に同意などする気もないししていないが。
池田は『メタフィジカル・パンチ』のなかで竹田について相当こっぴどく批判しているが、池田のいうように、《古今の哲学者は哲学とは何か、などと考えていたわけではない》《自分で考えない輩ほど他人の考えを気にする》などとは思えない俺からすると、
他人の本を丁寧に読み解き、批評する竹田の書き方のほうが、自分の考えたことにばかりこだわって、その無意味さ、浅さや狭さに最後まで気が付かなかった池田などより他者の入る余地を広げているし好感がもてる。
柄谷や池田というのは自分の波長に合う本だとかなりな読解力を発揮するのに、そうでないととんでも読解になってお話にならない有様を呈していた。
それらに比べると竹田の本は割合安心して読める。読んでて仰天させられ呆れさせられる前者二名よりその点優秀だと思われる。もっとも、だからといって竹田がすべて正しいなどとも読んではいないが。
642 :
考える名無しさん:2007/04/27(金) 14:22:30
今竹田の講義受けてるよ
>>641 竹田の読解はそれこそハッタリを利かせているだけのような気がするが。
要点は確かに押さえられているが、逆に言えば概略だけでしかない。
644 :
考える名無しさん:2007/04/28(土) 11:05:50
柄谷とか池田とか、どうしてそんなくだらない連中との間でだけ比較するの?
この連中(もちろん竹田を含む)が、学術雑誌の査読を通る水準の論文を一篇も書けないことは明白だろう。
そもそも内外の研究水準を踏まえていないので、
自分の読みを客観的に位置づけるという最低限の手続きが踏まれていないし、踏む能力もない。
柄谷と竹田は二流大学の修士論文ならかろうじて通るという水準だろう(もちろん池田はそれ以下)。
たとえば、中島義道でさえ、その学術的著作(『カントの時間論』『カントの自我論』等々)の「読解」は、
この連中と比較にならない水準にあることは誰が見にも一目瞭然ではないか?
「学術雑誌」って具体的に何のこと?
「雑誌」というからにはジャーナリズムの範疇にあるのか?
「雑誌」に「査読」なんかあるのか? 初めて聞いたよ、そんなの。
アカデミズムの名の下に行われる「査読」に何らかの意味を見出しているようだが、
そんなもの内輪で評価を回しているだけ。何の意味も無い。
竹田の哲学風エッセイと同様にくだらない。
>>645 >アカデミズムの名の下に行われる「査読」に何らかの意味を見出しているようだが、
>そんなもの内輪で評価を回しているだけ。何の意味も無い。
何、哲学畑だとそうなの?
俺理系だから査読のない論文なんて考えられないんだが。
まあ日本国内の学術誌なんてどれも提灯だがな。
647 :
考える名無しさん:2007/04/28(土) 20:12:40
うーん。竹田の現象学ものというのは正直興味が湧かなかった。なので論じるほどは読んではいない。ただ、ここ数年の、『近代哲学再考』から『人間的自由の条件』にかけてはかなり面白くなってきた、という気はしている。
また、テキストの読みも、たとえば柄谷の『トランスクリティーク』読解とか、丁寧にやっているという気がしたが。アレを、あれほど丁寧に読んでる論者は初めてみたね。丁寧に読んで批評しているだろ。
柄谷にたいし必ずしも肯定的でないところもあるが、あそこまで読まれたら、たとえ竹田が全面肯定的でなくとも柄谷は認めると思うね。
それから学術雑誌に載せられるか否かはたいして重要ではないでしょ。ただ、立論するうえで、論者なりの、読み手を納得させるだけの論理や引用があるか否かだけが気になるね。あとは気にならないな、俺は。大学人でもないしさ(笑)
彼が生真面目に勉強し、ある地点まで来たこと、それは俺は認めるね。一文芸批評家がよくここまで来たな、と。柄谷にたいしてもそこは認める。
竹田について言えば、彼の今いる場所というのは、或る権力によって調停されうる相互性、竹田のいう〈自由の相互承認〉、それだけが普遍的な関係を孕み、未来性をもつ。そこが気になる。
竹田はかつての政治運動の時代を経た経験から、超越的倫理や論理への危惧をいだき、そこから先のような相対的な他者をのみもたらすいわゆる〈相互承認〉という場所まで辿り着いたのだろう。
市民社会論の背景とはおそらく竹田の思想遍歴の辛苦でありそこでの相対化なのだ。
そこが面白い、と同時に、しかし、そこでの人間像、社会像に、平板的な、または水平的なイメージしか感じ取れないつまらなさも感じる。
つまり、まさに前のレスに書いてあったトートロジーではないが、市民社会の普遍性を立てるだけ、というのならば、感覚的には今のわれわれの感覚と代り映えしないし、また、それが孕んでいる問題もハイデガーを筆頭に歴史的に現れてもいる。
つまり、竹田の論というのは結論ではなく出発点とすべきではないのか、という疑問を感じる。労作には違いないし竹田の努力も認めるのだが。
648 :
考える名無しさん:2007/04/28(土) 21:01:26
要は、竹田が、フッサール現象学の訓詁学・考古学というアカデミックなゲームをしているかどうかということ。
彼の「真の現象学とは〜」という書き方は、そういうゲームをしているように見せてしまうが、
きちんと彼の本を読めば、彼の主目的は、信念対立を克服し最低限の共通基盤を見出すための方法論・原理・思想を構築することだとわかる。
つまり、彼は、現象学のテキストの解読・精確な考えの発掘というゲームとは別のゲームをしている。
竹田がどういうゲームをしているのかをきちんと見極め、
それに対応した適切な基準で批判しないと意味がない。
おそらく竹田は、アカデミズム(学会の査読)で高得点をとることには大した興味は持っていないであろう。
649 :
考える名無しさん:2007/04/28(土) 23:28:17
まったくその通りだ。
しかしまた、もしやりたくても能力的にできない、というのもまた事実だろう。
650 :
考える名無しさん:2007/04/28(土) 23:35:58
むしろ、『近代哲学再考』や『人間的自由の条件』などで、ふつうのアカデミックな学者に近づいてしまって、近ごろちっとも面白くなくなってきたと思うが……
>>646 理系の査読よりも意味は薄いと考えて良いと思うよ。
そんなことより、いまだに「信念対立の解消」なんて与太を真に受けてる人間がいることに驚きました。
653 :
考える名無しさん:2007/04/29(日) 02:15:30
竹田がやっているのは、「信念対立が発生する仕組み」の解明と、
「反省すれば誰でも見出さざるをえない共通基盤」の解明。
まあ、竹田も、単なる理論だけで信念対立の解消が出来るとは考えてないと思うけどね。
654 :
考える名無しさん:2007/04/29(日) 02:45:11
>>646 残念ながらそうだ。
そもそも客観性が担保できるような学問ではない。
655 :
考える名無しさん:2007/04/29(日) 14:03:52
わかってないな。
だからこそ手続きの客観性が重要になってくるんじゃないの。
644もそう言ってるんだと思うけど…
だから、逆説的だけど、理系よりも査読の意味は大きいんだよ。
理系なら、査読によらない客観的真理というものがあるからね。
少なくとも文系で査読という手続きがあまり有効に働いてないことは明らか。
これだけは、Sokalの事件の結末から、
疑いようのないくらいの確実性をもって結論できる。
理系論文誌の査読がどのくらい厳格に行われてるか知らんでしょ。
「内外の研究水準を踏まえ、自分の読みを客観的に位置づけるという最低限の手続き」が特に重要だというのには同意。
657 :
考える名無しさん:2007/04/29(日) 20:36:52
「真の現象学とは〜」という言葉を使うつもりなら、
言い換えれば、現象学のアカデミックな研究に、内在的に一石を投じたいなら、当然、諸関連文献・論文に目を通すべきだが、
竹田の研究の主旨・主題からすれば、そういう瑣末な作業は不要。
ただし、「真の現象学とは〜」という言葉使いはやめるべきだが。
658 :
考える名無しさん:2007/04/29(日) 22:10:48
>>656 ぜんぜんわかってないな。
Sokalの事件の結末から疑う余地のない確実性をもって結論できるのは、
文系では査読という手続きがあまりにも有効に働いてしまっているということ。
だから、わざわざ「逆説的だけど」と言っているのに。
あたま悪すぎだよ。
まさにそれだからこそ、「内外の研究水準を踏まえ、自分の読みを客観的に位置づけるという最低限の手続き」
なんて全然つまらないことこそが最重要事項になってこざるをえない、
という「逆説」を語っているのに、話がちっとも通じないね。
だから竹田なんかが何を言っても「哲学」として認められる可能性は初めからありえないの。
…と言うとまた、そんなことは重要ではない、なんて言い出すんじゃないでしょうね?
659 :
考える名無しさん:2007/04/29(日) 22:14:04
竹田の書いているところとはあんまり関係ない議論だと思う。
フッサール現象学の意図したところをテキスト解読を通して浮かび上がらせる、そこに現代的意義を掴み出す、というのが竹田の書こうとしていたことで、それ以外のことは枝葉末節として却けているように見えたが。
それで、自分の著作を通して、少なくともそれらについてはかなり遣り遂げているのだから、竹田にとってはおそらくそれが重要なことで、あとは延々現象学に関わる気はなく、成果は踏まえながら様々な分野に考察を延ばそうとしているように見える。
アカデミズムはアカデミズムで何か基準があるんだろうが、竹田の仕事をそこに絡ませる必要はない。竹田の仕事をアカデミズムにのみ押し込めるのは惜しい。今のスタンスで一般読者を相手にして研究を発表していればいい。
>文系では査読という手続きがあまりにも有効に働いてしまっているということ。
なんで?
権威のある雑誌にでも、専門家からマトモに査読されなかった文章が
簡単に載り得ることの実証となっているとおもうけど。こういう例は他にもあるよ。
現実に文系の論文誌においてきちんとした査読が「必要」であることは言えるだろうけど、
今の世の中において実際にそうなっていることは結論できないと思うけど。
そもそもそれが可能であるのかすら疑わしい。
661 :
考える名無しさん:2007/04/30(月) 03:30:54
>>599 まさにそう、そうなんだよね。
竹田の主題と無関係な文脈に強引に押し込んで批判するとすれば、的外れ以外の何物でもない。
そういう的外れ批判の原因は、単なる文脈音痴・勘違いでないとすれば、意外とつまらない縄張り意識とか権威主義なのかもね。
それにしても、竹田現象学の批判以前の揚げ足取りはもううんざり。
もうこういう次元の話は終わったと思ってたのに、またもや不毛な繰り返しだよ。
内在的な批判以外が無効なのは、学問的・論理的には当たり前のことなのにねえ・・・
内容に対する批判はもうとっくに終わっているし、
その結果としてのこのスレの閑散ぶりなんだけど、
阿呆な人間はまだわかっていないようだね。
663 :
考える名無しさん:2007/04/30(月) 18:00:21
>>660 658が言ってるのは、文系における査読そのものが
最低限度の客観性すら保ちえていないということでは?
664 :
考える名無しさん:2007/04/30(月) 23:04:47
つまり「審判のいるゲーム」どころか「審判しかいないゲーム」というわけだな。
こんな竹田さんに対する最大の擁護論が提出されても、
意味がわからずに、関係ないとか、批判だとか思われてしまうとはね!
あれさ、竹田は蓮見が言うようにアマチュアだよ。
柄谷の啓蒙、例えばフロイトを読まないのは左翼じゃない、
なんてのは宮崎学や佐藤優に対しては名言。
で、竹田は、閉じてしまっている。
666 :
考える名無しさん:2007/05/01(火) 01:57:50
柄谷もアマチュア。いい意味での。
自由な横断性・機動性が売りのアマチュアが閉じてしまえば、存在意義がほとんどなくなる。
667 :
考える名無しさん:2007/05/01(火) 02:00:35
日本の哲学は既に死んだ。
おまえら、人に期待しすぎ。おまいらが理想とするような、
そんなすさまじく頭が良いヤツなんかこの世に滅多にいないわ。
669 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 19:13:31
「審判しかいない」とは、
背後に実験や論証が可能な客観的事実がないから、権威だけがすべて、
という意味か?
確かに、哲学にはそういう側面も確かにある。
しかし、だからこそ、(審判無視の)単なる人気商売という側面もあるのでは?
まさにそのことこそがここでは問題なのではないか?
670 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 19:37:38
アカデミズム自体が基本的に審判だよ。
671 :
考える名無しさん:2007/05/05(土) 19:52:46
竹田は盲信的な唯物論者としか
672 :
考える名無しさん:2007/05/08(火) 14:43:16
ちくま新書『現象学は思考の原理である』を後半まで読んだところだが、予想していた以上によく出来てる。よくここまで辿り着いたな、というのが正直な印象。
ポスト・モダニズムへの解釈も見事。フッサール現象学への読み方も見事。この本一冊によって片付いた難問もある。その意味で画期的な本だと思う。この本以前と以後で現代思想は分けられるかもしれない。それくらいの破壊力と構築力が秘められているとみた。
難をいえば、ハイデガー解釈として後期ハイデガーへの位置付けが厳しい。後期ハイデガーが存在を神格化することで行き止まりになっている、と竹田は言いたいのかもしれない。しかし、晩年の『放下』によって、ハイデガーは技術にたいしても見事な位置をとっている。
また、ハイデガーのいう存在とは、現象学的還元ののちに残る意識や情態の孕む歴史性をさしている。けっして神秘主義ではないし、他の学問との通路も実は付けてある。竹田の言うような“行き止まり”というのとは違うように俺は読んでいる。
そこでの竹田によるハイデガー解釈はそのまま、この本で竹田の掲げる重要な論点であるところの、世界の普遍性の抽出、意志疎通の方法、その難点にもつなかる。
竹田によれば、言語活動の基底には、さまざまな異なる主体による意味の企投がある。その背景には〈世界〉の信憑があり、異なる物語がある。それに対して、共通理解の可能性が探れるはずだ、というのが竹田の重要な論点である。
しかし、その点が些か楽天的なところであり、また、人間への理解として、水平化を生んでいるところではないか、という不満がある。人間という存在へ、ハイデガーは『哲学への寄与』で〈底無しの深淵〉というタームを多用している。
それは、人間には互いの共通理解を阻む何かがある、ということ、それだからこそ、だが人間は人間たる理由を孕むのではないか、ということだ。
私にはそこでのハイデガーの理解のほうに、よりリアリティを感じさせられるのだが。
673 :
考える名無しさん:2007/05/10(木) 01:45:14
『現象学は<思考の原理>である』には多様な論点が含まれているが、俺などが問題を感じるのは次のような点である。
竹田はフッサール現象学から<世界>の信憑構造を取り出す。そうして、この<世界>についての本質構造から、世界観の相互承認の原理が導きだせると考えている。
もし竹田の考えに口を挟むとすればここになる。(或いはほとんどの人がそこに問題を感じるかもしれない。)
竹田はこの本のなかでフッサールと同様にハイデガーを多用する。そのハイデガーの思想が何を主題にするかといえば、無論、存在(有)である。存在構造とは信憑なのだろうか。また、それが共通の本質を孕むことは、相互承認の原理を孕むのだろうか。
竹田は相互承認を個体にも共同体にも適用しているので個体に限定して考えてみたい。
ハイデガーの用語で『哲学への寄与』で用いられる<底無しの深淵>というのがある。
そもそも存在には不可解なものが孕まれている。だからこそハイデガーはそこで<底無しの深淵>といった語を使わざるをえなかった。ある人が「…がある」と言明するとき、そこに当人さえも理解しがたいものがしばしば現れる。
また、ハイデガーがいう<脱-存>とは、主体が内部性によって破裂する事態も含まれているはずだ。
そこで信憑構造から、自由の相互承認を考えるといった思考が、理知的な、理性的な原理であることが浮上してくる。
つまり、そのような原理というのが一体人間へのどのような理解に基づいていりのかがそこで問われるべきである。
理性的存在がそうなのではないか。人間を理性的存在だと規定する思考ではないか。
竹田は人間の思考は後戻りできない不可逆性をもつとこの本で語っている。竹田も自覚している、そこでの不可逆性とは近代性そのものである。
我々はそこを基点にするべきではないのではあるまいか。
リアリティというのは常にある一定の相として実存に現れ出る。
675 :
考える名無しさん:2007/05/11(金) 18:49:09 O
竹田の『現象学は<思考の原理>である』に盛られているハイデガー後期への評価への異論として、歴史性という概念を読めていないことがある。
同時にフッサールについての理解にもある。
竹田はこの本で、フッサール現象学から信念対立の克服という課題を見いだす自己の読み方について、それがフッサールに見いだせる課題だとしている。
しかし、これまた問題だと思う。『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』冒頭にフッサールは自分の研究の動機について書き記している。それによれば、学が人間についてのリアルな姿を喪失していることが一つ。
もう一つ、第一次大戦が同時代の人間に感じさせた問いとして、生に意味はあるか、という問いが生まれた、と書いている。
その二点については確かにフッサールは記している。つまり、信念対立の克服、という課題を自己の動機とする姿はそこには見いだせない。それは何を意味するかと言えば、信念対立の克服、という課題の竹田色を表している。
もちろんフッサールの作品から何を課題として取り出すかは読者に委ねられていると言う他ないし、それは後の世代の特権だとも言える。竹田が何を取り出すかは竹田の恣意に任される。
しかし、竹田がフッサールの課題としていることが竹田の読み方による、ということだけは押さえておきたい。つまり、ハイデガーは無論、フッサールの生前の動機だとは言えないということだ。竹田が書いているほどはそれについて考えてはいなかった。
とは言うものの、フッサールの『危機』に、理性による人間存在の自己理解という課題が含まれているのも確かなことだ。疑いもなく、そこには理性の復権という課題が浮上してきている。
そこでのフッサールの言い方を辿る限り、竹田があの本で力説することは全く筋違いではないこともみえてくる。何故なら、フッサールはそこに、学を通した人間全体の復興という主題を秘めているからだ。
竹田の言い方はこれを現代風に言い直したものだとも言える。
竹田の現象学理解は良い。そのように再建されたあと、問題はもはや竹田の問題というより、フッサール現象学そのものの孕む問題になる。竹田はこれを改めて浮上させた。
読ませてもらった。なかなか筋が良いな。
678 :
考える名無しさん:2007/05/14(月) 19:54:18 O
次に竹田や、或いは竹田と対論集を出している西研などが市民社会論の根拠としているヘーゲルについて考えてみたい。
竹田は『現象学は<思考の原理>である』の地点から更に<自由の相互承認>という原理を追究し、今や竹田の大きな主題となっている。
だが、彼らの唱えているその原理を読みにつけ、俺にはそれが、市民社会論が、市民社会の物神化を掲げているように見える。
彼らの本尊ヘーゲルは、彼らほどは市民社会や人倫について楽天的には考えてはいなかった。
何故かと言えば、ヘーゲルの中には、人倫を固定化させない、物神化させない原理もまたあったからだ。
例えばラッソン版『歴史哲学緒論』に次のような箇所がある。
《…一つの人倫的全体は一つの制限せられたものであるから、「その限りに於いて」更にその上に一つのより高い一般者を有つてゐる。その人倫的全体は此のより高い一般者に依つて自己の内部で打ち破られる。
一つの精神的形象が他の精神的形象に移つて行くといふことは、まさしく、その先行してゐる一般者がそれの思惟に依つて一つの特殊者として止揚せられるといふことに他ならない。》(ラッソン版『歴史哲学緒論』(三)世界史的個人)
紛れもなくヘーゲルは、ここで精神が己を絶えず更新してゆくダイナミズムを描いている。歴史の中で精神が、関係が更新されてゆくときに、どのような事態が起こるのか、ヘーゲルはよく知っていた。この意味ではあのマルクスでさえヘーゲルの息子だと云い得る。
それは一定のルールや社会を至上だとする見方とは全然違う。また、それを物神化する思考とは全然違う。ヘーゲルにあって竹田らにないのは、人倫の内容の可塑性である。そこが竹田らとヘーゲルの決定的差異ではなかろうか。
679 :
考える名無しさん:2007/05/28(月) 09:24:16 0
竹田青嗣先生の本はわかりやすくてファンです。
だから、「わからない哲学」があるといつも「竹田本」をみて理解してます。
とくに「自分を生きるための思想入門」など。
ところで、一番わかりにくい哲学は「モナド論(ライプニッツ)」と昔から思っていて、
「竹田本」に助けを借りたいのですが、「竹田本」にも書いてありません。
したがって、
「モナド論は竹田先生も匙を投げたのでは?」
と邪推しているのですが、どうなんでしょう。
モナド論を納得いくように説明できる人っているんでしょうか?
竹田は論理的に理解することしかできない。
だから、
ライプニッツとかスピノザは苦手なのでは。
681 :
考える名無しさん:2007/06/02(土) 18:07:50 0
竹田現象学の方がフッサール現象学より優れていると思う。
そこで、質問なんだけど、
竹田現象学を英語で紹介した仕事ってありますか?
たとえば「現象学(NHK出版)」の英語翻訳版など。
そういうのがあれば、竹田先生は直ちに「世界的哲学者」になれると思う。
682 :
考える名無しさん:2007/06/03(日) 05:15:55 0
ないんじゃないかな?
竹田のエピゴーネン達はそういうことはしないのかな。
欧米人てしっかり理論的に説明されれば受け入れるタイプの
人達だと思うから、俺も英語版があって広く読まれることがあれば
一躍哲学のスターダムに立てる可能性もあると思うよ。
683 :
考える名無しさん:2007/06/03(日) 05:29:28 0
>>679 竹田と西研が編集した「はじめての哲学史」だと
当然ライプニッツにも触れられてるけどね。
えー…スピノザの批判的乗り越え的な位置づけで書いてある
が。要するに実体が1つであるとしたスピノザに対して、
多様なこの世を構成しているものがただ1つの実体というのは
不自然なため、無数のそれ以上不可分な実体がこの世を
構成しているとした。これがモナド。
大きさがあっては無限に分割できてしまうので、最小単位に
なりえない。よってモナドに大きさはなく「通り抜けられる窓の
ようなものはない(モナドロジー)」とした。
これによって、モナドは実体でありながら大きさを持たず
じゃあ何かと言えば、「運動」のことであるとされる。
無数のモナドがそれぞれ相互依存したり影響しあったりしないで
この世を表象している。心の動きも体の動きもそれぞれが
独立したモナドが映し出す像。像がはっきりするほど上位のモナド
であり、最上位のモナドは神の「予定調和」である。例えば
心と体の動きが一致するのは、神の予定調和によるものであって
互いに干渉しているわけではない、とかかんとか
そんなようなことが読み取れますけど
なんか、実体っていう概念がもう背理である気がする。
竹田が言う、「客観という概念自体が背理である」と同じように。
はじめての哲学史は教科書的なことしか書いてないアレだろう。
>>681 同意。
竹田現象学とフッサール現象学の優劣ををいくら日本内で
議論してもラチが開かないと思う。
「何故世界で勝負しないのか?」不思議だ。
絶対、世界に通用して、受け入れられと思う。
今、欧米の研究者に「盗作」されたら、終わりだ。
竹田に近い人がいたら、至急に進言してもらいたい。
>>683 竹田ならそんな意味のわからん説明はしないと思う。
「はじめての哲学史」は竹田は編集だけで書いてない。
竹田はフッサールは解読できたけど、
ライプニッツはまだなんだよ。
(解読の価値があるかどうかもふくめて)
モナド論をわかるように説明した本があれば
爆発的に売れると思う。
>>686 そういえば、
「ライプニッツ術(佐々木能章)」を読んでも結局モナドがわからなっかた。
あとがきに、「著者もわからん」、と書いてあって
著者の正直さに感心した。
688 :
考える名無しさん:2007/06/03(日) 11:44:31 0
>>686 >竹田だけで書いてない
それは知ってるが、編者なら目を通して喧々諤々してるんじゃないの。
現象学研究会のメンバーで集ったみたいだし。
文章から察するにモナドを理解してるようだから
竹田になったつもりでここで説明してみては?
>>688 「喧々諤々した」が結論がでなかった。
と思う。
佐々木能章さんだけでなくヘーゲル、ラッセルもわからなかったのだから。
というか、
誰か大物哲学者が理解してれば、それを佐々木能章が知らないわけない。
自分はモナドを理解してないが、
モナドを理解してたとしても、ここで述べるようなヘマはしない。
理系なので、
>>685のような忠告をいつも聞かされているから。
ライプニッツやスピノザを理解したければ彼らの入門書や解説書を読めばいいのでは?
別に竹田が全哲学史に通じてる必要はないわけで。
個人的には竹田は彼らの形而上学には興味はないと思うな。
形而上学を必要とする人間の心性には興味はあっても。
横からだけど、この辺りの流れは
フッサールには「竹田」がいたから読めたけど、
ライプニッツやスピノザには「竹田」がいないので読めない。
ということなのでは。
デカルト、ロック、ヒューム、カント、ニーチェは「竹田」がいなくても読めるが。
プラトン、デカルト、ヒューム、カント、ヘーゲル、
ニーチェ、フッサール、ハイデガーあたりだと
「言いたいことの骨子」を竹田なりにつかんでると思うが
ライプニッツに関してはなあ。歴史的背景を考えても
何であんな意味の分からんことを言うのか分からんわな。
>>692 ヘーゲルの「絶対知」につては、竹田は強く否定すべきと思う。
曖昧な記述がされていると思う。
>>692 イイタイコトを掴んでいるだけで精確に読解してるというのも、哲学なんて大学受験の現代国語の
問題程度のものにすぎないといっているようなもんだが。
>>694 哲学ってのはさ、言葉を適当に拡大解釈したりする感性で
できるのかい。
>精確に読解してる
誰がこんなことを言った?
696 :
考える名無しさん:2007/06/06(水) 08:26:42 O
利害関係が異なる者や組織を、互いに自由を認めながら対話を続けることで調和を見出だす、という発想。自由の相互承認、という考え方は良いと思う。それこそが理性ではないか、という。
これが楽天的ではないか、という疑問は竹田自身が感じながらも、しかし、1960年代以降の思想状況に於ては上記の姿勢を固持することのほうがより発展的で展望もある、とする立場ですね。
何故なら1960年代以降の現代思想は理性の孕む問題、逆説にばかりスポットライトを当ててきた。そこで思想は身動きとれなくなるしかない。現に今はそうではないか、と。
竹田のここ数年の思想構築における根本立場はその辺りにある。
これは面白い考え方で、閉塞を破りたい、という姿勢がよく伺える。ヘーゲルに戻ろう、とする姿勢も面白いです。
ただ、僕は1960年代以降の思想状況というのを竹田ほど逆説やアイロニーのみで捉えることはしませんね。例えばフーコーの遺した仕事にしても、理性の孕む物神性について、あれを無視することは難しい。
もしもそれを打ち破れるものがあるとして、それは対話的理性とは違うのではないか。対話を無視する必要はないし、勿論あった方がいい。
ただ、あれらの発見というのはそう簡単に、無いことには出来ない。むしろあれらの発見を踏まえることは必至ではないかと思います。
必至だからこそ、それは偉大なわけで、つまりそれを避けて近代という時代は語れないと思えるわけです。それくらいの発見だと思います。
それはマルクス主義への解毒作用に留まるものではない。フーコーの射程は近代そのものでしょう。
フーコーにしても、日本の広松渉などにしても、ヘーゲルを読んでないとは僕は思わないわけです。また、対話的理性について、無視するわけでもないと思える。
問題は、対話的理性のレベルでは解決困難な難問を探り当てた、という点にある。
つまり、理性が共同化されてゆく過程で物神性を孕んで行く必然に気付いた。吉本隆明の共同幻想論、国家論にもその問題はあるでしょう。
人間が理性を振り払うことはあり得ない。しかし、そこに暗部を認めることを、現代思想はやってきた。竹田や西はそこに触れずして振り出しに戻そうとしているようで、そこは彼らの発想の問題だと思います。
発想の「問題」というより「限界」じゃないだろうか。
彼らはいわゆるポストモダニズムで提示された問題を理解していない、というか、理解できなかった。
698 :
考える名無しさん:2007/06/06(水) 12:12:05 0
こんど栗本が雑誌出すってよ『流砂』
しらねえだろ遅れどもが
>>698 何ですかそれ?つまらないこと自慢して、バカでつか?
>>685 >竹田現象学とフッサール現象学の優劣ををいくら日本内で議論してもラチが開かないと思う。
>「何故英語翻訳をだして、世界で勝負しないのか?」不思議だ。
>竹田に近い人がいたら、至急に進言してもらいたい。
竹田は向こうの社会学者が30年前から言ってる社会構成主義の亜種。
翻訳したら笑い者にされるだけ。
だから。翻訳をださないのだよ。
竹田だって馬鹿じゃないんだから、そんなことわかっているよ。
702 :
考える名無しさん:2007/06/06(水) 20:37:35 O
竹田や西はヘーゲルにおける人間的側面を重視して、その可能性を論じている。
しかし、ヘーゲルにおける神性、神の把握は実は竹田や西が論じているレベルよりも射程として深い。
というよりは、ヘーゲルの国家論から神性、精神による自己完結という側面を消して論ずるならば、そこに国家の物神性が現れることは避けられぬのでないかという疑問を感ずる。
何故ならば、ヘーゲルの国家論の焦眉であるところの、“特殊意思の全的追求がそのまま全体意思と統一されている”という命題自体、人為的にであれ、或いは歴史的にであれ、そうおいそれと実現されるとは思えない。
だからといってヘーゲルの問題意識が無駄な議論というのでなく、最高度な共同性として想定できるし、また、問題意識としても離せないといえる。
問題は竹田や西がこれを無媒介なまま政治の課題とする、国家の課題とすることで、現代思想の成果、理性や真理への問いを未来への展望なしとしている点にある。
彼らの本尊ヘーゲルは、人間の知を越えた存在にたいして敬虔で、そこが批判される余地にもなっているが、その分人間にたいして彼岸的要素の存在を対置しうることにもなる。ヘーゲルは歴史における彼岸性、「神の摂理」の把握こそ理性の役割だ、と言い切る。
つまりヘーゲルにおいては人間存在にどこまでもこだわるわけではなく、人間は超越的摂理からみれば相対的存在である。竹田たちはそこがヘーゲルが神学を引き摺る後進性にみえるのだろうが、そこに僕はヘーゲルがポストモダンの否定性と繋がりをもてる長所だとみる。
少なくとも未来の政治的展望がないとして現代思想のもたらした成果へ疑問を露にする竹田たちより本尊ヘーゲルへ可能性をみる。
元々ヘーゲルの国家論とは、共同性の最終段階ともいえる理想的な性格について書いているわけだから、それを現代に無媒介なまま適用しうると考えたら無理が生じて当然である。或いは、それが実現できる条件は何かを追求しなければならない、
などと竹田のように考える必要はない。勿論考えるのは勝手である。
しかし、現在の国家などに過剰な期待は僕はしない。少なくともヘーゲルの国家論を現在の国家に無媒介に適用することはリアルな分析を失う結果を生むと思う。
703 :
考える名無しさん:2007/06/06(水) 20:58:33 0
竹田のエラの張った顔自体がいけてない。
706 :
考える名無しさん:2007/06/07(木) 15:17:59 0
>>701 竹田はニーチェ+フッサール(+ヘーゲル)だってば。
この3つ合わせると社会構成主義になるか??
欧米での竹田の評価はドゥルーズ以上だとか聞いたけど。
これって本当かい?
冗談にしても、何でそういうことばかり言いたがるのだろうか?
日本でも全く誰にも相手にされてないと言うのに。
>>708 量子力学がなっかたらパソコンも生まれなっかただろう。
ドゥルーズの仕事がなっかたとしても、世の中で困ることなどない。
そういう意味では、
竹田もドゥルーズもドングリの背比べで、
特に称えるべき存在でない。
全く関係ないことを引き合いにして、竹田はともかく、
ドゥルーズまで貶めようとしている人間はどうしようもないバカであることは間違いない。
712 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 12:52:46 O
以前竹田は吉本隆明らとの憲法をめぐる座談会で、その最後の方で、吉本の国家論への感想を云っています。
そこで竹田が云っていたことというのは、共同幻想と個体幻想が逆立ちする、というあのテーゼへの感想です。
吉本の国家論の重要な要素としてあの<逆立ち>という概念があるわけですが、竹田はそこで、確か「共同幻想と個体幻想が必ずしも逆立ちしないのではないか。むしろ、どうしたら逆立ちしない関係が考えられるのか。そこを自分は考えてみたい」そう語っています。
その辺りが一体何を意味していたのか、それだけではよく解らなかったのだけど、どうもその時点で竹田は西研とのヘーゲル読解を進めていたのかもしれない。そうするとあの座談会での最後の発言も合点がゆくわけです。
先のレスにも書いたように、ヘーゲルの国家論には共同幻想が物神性を孕むという契機については考えられてない。また、個体と国家の関係についても、共同性と個体性との最終的段階でのこととして考えられている。
共同性が物神化されてゆくことへの分析はやはりマルクス以降の発見で、ヘーゲルではその部分はまあ楽天的に考えられている。竹田や西の思想の構築に欠陥があるとすれば、そこだと思います。
『よみがえれ哲学』は労作だと僕は思いますが、その部分が抜けている。ためにリアリティーが希薄な面がどうしても漂ってくる。そこに問題を感じますね。
713 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 15:22:58 O
その点、つまり共同性と個体性、その俎齬という位相について、広松渉などが『資本論を物象化論を視軸にして読む』のなかで「協働連関態勢」と云っている箇所があります。
人間が合理性を求めて或る態勢を作ると、その態勢の方が主体になり、主客が逆転する。広松はその辺のことをよく把握している。竹田や西もマルクスは論じてはいるが、協働連関態勢の物象化、というような側面については触れていない。
広松のそのような部分はそのまま共同性の物神化という問題に繋がる。1960年代以降の思想が発見した重要な問題だった。
しかし、竹田や西のヘーゲル読解からはそこの問題は抜けてしまう。何故ならば、ヘーゲル自体にそこの問題意識はない。
そこはだが、僕は飛ばしてはならない。少なくとも近代について考えるならば、外せるわけはないと思います。
714 :
考える名無しさん:2007/06/09(土) 15:26:17 0
715 :
考える名無しさん:2007/06/11(月) 00:01:45 O
近代がそれまでの社会にたいして人間にとっての自律性を実現した。また、機会の平等をもたらした。その歴史を竹田は強調します。近代という時代がもたらした功績としてそれらは数えられる。
しかし、それを強調することで、その後に研究されてきた近代への疑問符を竹田や西は看過してしまう。
例えば竹田は『現象学は<思考の原理>である』のなかで、フーコーによる理性批判の仕事について、「こういった言い方は論理相対主義に特有なもので、自分の動機を通すのに事態の一側面だけを強調するという論理の典型です。」(221頁)としりぞけていく。
しかし、竹田や西の言い方を借りるならば、人間は己の自律性を絶えず掘り下げて行かざるをえない存在なのであり、またそのために様々に研究も重ねられて行く。
ヘーゲルの国家論や社会観に足りないものや見えてないものがあるなら、補完するのが当たり前で、そのようにして知が深化されることには必然がある。
60年代以降の現代思想の遺した重要な要素として、人間の自由、自律性について、ヘーゲルの時代よりか、更なる深化を促した、という側面があると思います。それまでの社会思想や政治思想にあった強迫観念をそれは解体した。
竹田の考え方を読んでいて気付くのが、“みんなで良い社会を作って行きましょう”的な善意や良心への呼び掛けがなにげに匂ってくる。“社会的意識や政治的意識やを社会の総員で深めて行きましょう”的な呼び掛けです。
それは意識的な主体たれ、という呼び掛けなように僕には聞えてくる。自由であることは無償なわけではない、自由であることは長い時代をへて近代になり漸く実現されたのだ、これを守るためにみんなで努力しましょう。
優しく平易で良心的であるが、そのような呼び掛けに抑圧的な匂いを僕は嗅ぎ取る。
なぜそうなるかという理由も明らかで、国家や社会の孕む、または真理の孕む主体化、理性の問題を、彼らは故意に看過したがる。それだから言説の根本にそれらへの防御がなければならないのに取り付けられない。
ヘーゲルから何を受け取るのか、という場合に、批判的でなければならない点でそうではない。
『よみがえれ哲学』の最後の方で、竹田や西は、“侵略戦争でない、自由の敵である国家への戦争は肯定されるべきだ”と書いています。
716 :
考える名無しさん:2007/06/11(月) 00:26:28 O
実際に他国を暴力的に侵略する専制国家が現れた場合、戦争になる可能性は高い。しかし、竹田や西の言説で問題なのは、“戦争は必ずしも悪ではない”という考え方をしているところです。
そこのところが話されている『よみがえれ哲学』の部分は、この本の性格を露骨に示しているといえる。先にも書いたように、竹田や西は国家と個人とを一体化して考えたがっている。
そこにヘーゲルの国家論の最も深刻な問題は表れており、『法哲学』を翻訳解説している三浦和男なども、そこの部分には細心の注意を払っている。細心の注意が払われて当然な箇所なわけです。
一方、竹田や西はそこの部分には無頓着に見える。彼らのヘーゲル読解の要であるが、そこは誰が読んでも納得しがたい性質の読み方だと思えます。
理念と現実は違って当然で、ヘーゲルの国家論とは詰まるところ、理念としてしか読めない。共同性と個体性が止揚されるとはどういうことだ、と問う場合、一定の答えにはなる。しかし、現実の国家とは落差があり過ぎる。
彼らの国家論の限界をそこに見ます。
717 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 16:28:48 0
このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20)
【本日】酒屋ってどうよ4【13時から】 [鉄道模型]
「使える現象学」(エンブリー)を読んだ。
意味不明で、使えないし、最悪の本だ。
「どう読めばいいのか」誰かおしえて。
>>718 だから言ってるじゃん。
竹田現象学以外はすべて贋物って。
初心者の質問です。
フッサールの現象論的還元
と
カントのコペルニクス的転回
とは違うのですか?
722 :
621:2007/06/25(月) 13:26:12 0
近代哲学再考を読み返しているが、上でも指摘した「図式」がやはり気になる
事実上の批判が、竹田氏によって理念(竹田氏の言葉で言えば原理)への批判であると
受け取られ、「原理」を押さえていない批判であるからダメだと言う。
もし事実、あるいは政策上のレベルで国家批判、政府批判をした人間が、
「お前は国家や政府の必要性を理解していない」などと返され、反国家主義、
反政府主義者のレッテルを貼られるとしたら?
誇張すれば「左翼は反国家主義で日本など潰れてしまえばよいと思っている」という
ウヨの言葉みたいだ。少なくとも日本人にとって日本が必要なのは言うまでもなく、
この言葉が当たっているとしたら左翼言説など全部無効化できる。
この種の形式化された論法で○○批判はダメと言い募るのであるから、いったい「ソフィスト」なのはどちらか
と、嫌味のひとつも言いたくなってくる。
723 :
621:2007/07/05(木) 04:56:24 0
ルソーの一般意思を例にとる。「国家意思は常に一般意思を代表しているのでなければならない」
という「原理」から、個々の政策が一般意思に適ったものかを人々が評価しあう、というのは問題ない。
(というか、しなければならない)
このとき、個別具体的な政策を、これは一般意思であるとあらかじめ決定したり、逆に一般意思に反して
いるとあらかじめ排除することは「原理」的思考からすれば背理である。
「原理」についても同様のはずだ。あらかじめこの考え方しか原理を押さえていないと決定したり、逆に
この考え方は原理を押さえていないと排除することはできないはずだ。
もしできうるとするなら、それは「原理」の実体化であり、竹田氏自身が批判する、外部の超越的な基準でなくて
なんなのか。
724 :
621:2007/07/05(木) 05:09:36 0
竹田氏の考え方から竹田氏の表現を批判しているわけで、本質的な批判をしているわけではない。
それに、やはり紙幅の都合もあるだろう。慎重な書き方をしていたら、本が二倍三倍に分厚くなるし。
しかし、やはり表現上の工夫をしないと、「原理」が、外部の超越的な基準からの断言に等しいものとなる。
>>710 パソコンが生まれなくても困ることないだろw
アンケート 「タケダ・セイジ」って知ってますか?
日 本:知ってる…3% 知らない…97%
フランス:知ってる…0.001% 知らない…99.999%
知っていると答えた方に質問 「何をしてる人?」
日 本:学者・評論家・大学教授…45% TVプロデュ−サー…55%
フランス:学者・評論家・大学教授… 1% TVプロデュ−サー…99%
*ソース キングカワイソース(AAr
727 :
考える名無しさん:2007/08/10(金) 01:21:07 0
長文の携帯厨は吉本のスレにも書き込んでいる奴だね。
728 :
考える名無しさん:2007/08/10(金) 01:24:42 0
>>726 コードギアスによって、竹田せいじ(裏)の名は世界レベルになったな。
竹田青嗣の全著作はコードギアスの前にはゴミのようなもんだ
729 :
考える名無しさん:2007/08/11(土) 10:19:02 0
評論家の小阪修平さん死去
2007年08月11日
小阪 修平さん(こさか・しゅうへい=評論家)が
10日、心室細動で死去、60歳。葬儀は親族のみで行い、
後日、お別れの会を開く。喪主は妻文子(ふみこ)さん。
「思想としての全共闘世代」「非在の海――三島由紀夫と
戦後社会のニヒリズム」などの著作や評論活動のほか、
「イラスト西洋哲学史」など哲学、現代思想の入門書で知
られた。
http://book.asahi.com/news/TKY200708100397.html
730 :
考える名無しさん:2007/08/22(水) 03:21:59 0
『マイ哲学の冒険 −竹田青嗣○6歳:日常レベルの現象学−』
731 :
考える名無しさん:2007/08/22(水) 03:44:52 0
『マイ哲学の冒険 −西研:金魚の糞−』
>>730 『日常レベルの現象学』って本があったら読んでみたいな。
類書もあんまり見ないし、ある意味画期的じゃない?
734 :
考える名無しさん:2007/09/16(日) 15:12:47 0
はじめましてこんにちは。お話変えますが
だれか彼の言う『「美」がどのように成立するのか』って判る方いらっしゃいますか?
理解力がないため読んでもよくわかりませんでした。
もしよかったらどなたか教えてくださると嬉しいです。
昨日、河合塾の文化講演会に竹田さんが来てたので
受験生にも関わらず聞きに行ってきました
この人、もしかして大勢の人の前で話する下手ですか?
話が行ったり来たりして一貫性に欠けてたというか
よく途中で詰まったりもしてました
やっぱり本書く人は推敲してこそって事なんでしょうか
正直期待外れだったというのが本音です
や、もちろん僕自身、知識不足だった事も否めないです
何を言ってるかよくわからない所もありましたし
今度は大学生になって、直接会いに行きたいです
来るな
話の言ってる意味がよくわからないのが小阪修平の講義を予備校で受けたときも感じた。
というか竹田青嗣を読むのは大学一年までにしておいたほうがいい。
社会学部の学生が宮台真治や小室直樹の本を読むのは最初の頃にしておいたほうがよいように。
>>734 ある個人の欲望(感受性)が「美しい」と感じ、それが共同化
されたのが「美」かな。
結局リンゴ止まりのドン詰りでしょ、このエッセイストは。
742 :
考える名無しさん:2007/10/05(金) 06:48:09 0
「陽水の快楽(だったっけ?)」
のグラサンはめた写真はキモかった。
まあ、そういう人だったんだろうなあ
743 :
竹田とフッサール:2007/10/19(金) 19:48:23 0
たまには直球で語ってみてもいい。
竹田は訓詁学者じゃないにしろ、フッサール読解が売り。
フッサールを真に継承しているのは自分達だと断言していた。
で、竹田の説明だと現象学は目的論の否定なはずだ。
ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学はフッサールの晩年の主著だ。
文庫が出てるから確認してほしい。これから説明することは誰にもわかるから。
その3節で、ルネサンス時代にことよせながら、神や永遠などの目的論語っている。
全編で、目的論を実現するのは現象学だと主張しているのも確か。
竹田的には、物自体否定し、個別の一人一人違う視点からみてしか世界はない。だから誰にも妥当するような目的論が成立しない。
その中でどう折り合いつけるか掘り下げ=人生哲学が現象学だといっている。
しかし、フッサールは正反対だ。
個別的な視点の中から、人類の文化の普遍必然的な目的をつかむために現象学を使う。
小さな視点が全世界、全歴史、目的とつながる強烈な意志がある。
ライプニッツのモナドロジー的に個別的なものの中に全てを本質を映し出すことを考えている。
ヘーゲルやライプニッツの目的論と同レベル。
弟子や継承者だって丸々同じはありえないが、そういうレベルとは違う。180度正反対なのだから。
フッサールの意図とは竹田はまるっきり違う。
というか、物自体を否定する奴は単なるキチガイでしょう。
戦後の日本の思想家は広松でも吉本でも物自体をおぼろげなものにしちゃう傾向があるけど。
竹田もフッサールも「物自体」、中途半端に実在語る哲学罵倒することは一緒だ。
しかし、同じなのはそこまで。
フッサールは明らかに、主観に徹することで余計なものを除いて、本当の真の目的、理念を万人が共有する道を求めている。
その為にこそ現象学を使っている。
変に客観、使うガリレイ的な物理学、実証主義、心理学は否定するが、主観の奥底見ることで人類に立ち現れる真の目的を語るためにある。
物自体とは違うにしろ、真の実在探り当てるための方法論といってもいいんだよな。
フッサールの場合、現象学は。
科学や物理学向こうに回して、それらは人類に与えられた共通の使命をちゃんと聞かずに堕落しているから駄目とこきおろしている。
フッサールの場合、単に時代が反体制や反啓蒙的な立場を許さなかったって問題ではなく、本気で目的使命信じている。
竹田が何でこまで真逆なのに自分がフッサールを継承していると妄想できたのかは謎だ。
馬鹿だからか。
フッサールは良いのか悪いのか別にして、ライプニッツやヘーゲルなどよりよほど反動的、過激な目的論者なんだよな。
ライプニッツやへーゲルは時代から言っても目的、使命語らなければならなかったのに、フッサールは違うのだから。
それから見ると竹田は中途半端な人生講釈師で、寄生虫だ。
そもそもカントで完成したんだら、あとはゴミみたいなもん。
748 :
考える名無しさん:2007/10/23(火) 03:06:18 0
>>745 それ、竹田もフッサールも一緒じゃんw
どこが違うんだよ。具体的に説明よろ
「表現者」に出てる
>>748 上でこれだけ書いてわからないのは馬鹿だが、仕方がない。
詳しく書くので長文我慢するように。
竹田が相互理解や妥当書いてもそれはつばつけて聞いた方がいい。
世界は限定された見方しかできない。目的もわからない。
それをわかっている自分が偉いが竹田哲学。
フッサールは、意識に沈潜することでモナドロジーや弁証法のごとく使命を見つけられるとした。
考えてみれば、限定された人間の視点ごとに世界や意味が違うというのはごく当たり前。
関係主義的でも相対主義敵でも全体を総体をこそ語るべきだ。
上に出たきた吉本にしろ、広松にしろ、分析哲学のクワインにしろ、全体を語る。
意識の内省、視点の単一性には止まらない。共通の真理、目的、物語の枠組み語る。
竹田的見方では、意識の中しか現実は存在しない。各人に共通の実在、真理、物語はない。
従来の哲学は、意識の局所性捨てて、共通の真理は実在すると語ったから誤謬に陥った。
間違い悟った自分だけは正しく、人を導ける。そういう構図がある。
世界で何が起ころうが知ったこっちゃない。今、傘がないことが問題だ。
竹田的には違い、わかりあえないことが本質。部分的なことしか見ない、語れないという立場。
フッサールには「陽水の快楽」は書けない、書かない。
フッサールには上で書いたように、同一性=真理への確信がある。
意識、視点の局所性ではない全体語る。竹田とは真逆。
「陽水の快楽」と人類共通に使命語る「諸学の危機」は別な哲学。
以下、専門的に。
竹田の相互理解とか妥当は、そもそも、共通理解が本質的に得られないことを前提にしている。
現実突き放して上から語る。構造だけ形式的に記述して、これが関係の本質だと語る。
ホーリズム的関係主義にしろ、唯物論にしろ、それではとても済まない現実から出てくる。
どこからどこまで物事が行くのか突き詰めようという意志がある。
少なくとも、意識の局所性にとどまり、一つの視点、関係語ってどうにかなるものではない。
フッサールも唯物論と同じで上には立たない。内在で語ろうとする。
問題に真摯に向き合っている。
とりあえず、フッサールの意図と竹田の理論は正反対。
竹田現象学と竹田社会哲学の関係だって、つながりは他人には理解できない。
他の哲学者は誤っていて、自分は現象学で正しく導けるからと言い訳して社会哲学語っている。
竹田が社会哲学者として優秀なわけではないし、ただ流通している議論からパクって自分の好み語るだけ。
上から目線で外在的に議論しているだけ。
世界がどうなろうが、傘がないのは問題だという「陽水の快楽」と「諸学の危機」は世界一かけはなれた本だ。
陽水がレトリックで人を驚かせ、問題化し、人を引き込むのは正しい。
そこに勝手に哲学見て本気に語るのは痛い。
753 :
考える名無しさん:2007/10/25(木) 02:53:49 0
>>750 >>751 >>752 いろいろ語ってくれておつかれちゃん。
まあ、かなり同意できるところはあるね。
でも、ひとつだけ言えるのは、君、『陽水の快楽』、読んだことないだろ。
754 :
竹田とフッサール:2007/10/26(金) 19:38:38 0
>>753 ご名答!
傘がないのフレーズ書きたかったからで、読んでないで書いてた。その点は謝る。
込み入った議論がなされてはいるんだろうな。
しかし、認めてくれているように、議論の大枠は揺るがないで正しい。
・他者には物語否定して自分の物語押し付けるために現象学使っているのはどうよ。
・物語語ってもいいが、対話や視点の多様さ、唯物論的過剰性切り捨てて抜け殻じゃない?
・局所的、部分的な竹田と、全体志向のフッサールは正反対。
・他者の物語切り捨てて上から目線の排除的な竹田と内在的で他者との緊密な対話想定したフッサールは違う。
・竹田とフッサールは全然違う。
これらの点は否定しようがない。
755 :
竹田とフッサール:2007/10/26(金) 19:50:19 0
フッサールの思想を再現すると通念とは違うがこうなる。
万人が厳密な現象学理解をもつ事で、理念を誤りなく相互理解できると考えていた。
ギリシア以来の科学を読み取り、一人じゃできない部分はコミュニケートで完備させる。
それを万人に厳密な学(本人達は意識していないが)を遂行させことで妥当させる。
相互に緊密な理解もつ共同体の自己展開としての現象学。
それはそれで非現実きわまりないが。
フッサールには厳密な内省と厳密な対話は同じことで差異がなかったんだろう。
世界は厳密に読み取るものでしかなく、現象学はそれを徹底するもの。
万人は共通の理解に至る。そのための道具=現象学。
過去の書物読むのも、頭の中で必死に問題解くことも、教師に教わるのも、科学の同一な側面。
共同体の自己展開のひとつの側面にすぎない。
要するに、フッサールより竹田の方が上と言うことだな。
ジャック・デリダ『フッサール哲学における発生の問題』合田正人・荒金直人訳、
みすず書房、2007年11月21日頃刊行予定。
ISBN: 9784622073529 <
ttp://msz.co.jp/book/new/ >
デリダ修論の邦訳。
デリダ23才(!!)のときの作品。
竹田は今年もノーベル賞残念だったな。
759 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 13:11:01 O
この社会の中で立派な人間になりたいという欲望が、自己実現の欲望です。
注意したいのは、この欲望は一面で「ロマン的世界」の内面化ですが、もう一面で空想的な「ロマン的世界に」生き続けることの挫折を契機にしているということです
(自分を生きるための思想入門より抜粋)
空想的なロマン的世界って?
760 :
考える名無しさん:2007/10/31(水) 18:14:20 0
竹田ノーベル賞取ったら韓国で始めてのノーベル賞受賞者になるの?
「ノーベル賞」って数多くの入門書を書いた人間に贈られる賞なの?
ていうかノーベル哲学賞なんてあるんだ?(´・ω・`)
日本人は哲学に向いてないな。
竹田は韓国人ですよ。
でもメンタリティは日本人とのハーフだろうなぁ。と思う。
民族的な問題etcで悩んでいたっていう点が、哲学的思索に寄与した
っていう…自分の生活の場から立ち上げた哲学だから
根がしっかりしてるように感じるね( ´・ω・)
>>764 ポスコロに走らなかっただけでもこの人の知的誠実さがわかるよね
まあこれは、もう一人の有名な在日思想家に向けて言ってるんだがw
確かに。
悩みがない香具師では哲学はできないな。
>>765 ボソボソ喋るあの人かな
あの人も悩んでるんだろうけど方向はだいぶ違うな
768 :
考える名無しさん:2007/11/02(金) 12:42:24 0
>>764 哲学に民族的問題持ち出されてもウザイだけなんだけど・・・
本質的な問題じゃないよね
>>765 ポスコロってなに?
>>765 ぴかぁ〜のこと?
>>768 いや、民族的問題は哲学に持ち込んでるわけじゃないとおもうが
フッサールを理解する上で下地になったんだよ。
770 :
考える名無しさん:2007/11/02(金) 14:25:17 0
>>769 フッサール理解するのに民族問題なんて関係ないじゃん
そもそもフッサールを元から理解するために
自分の主観以外には、自分以外のほかの人間がいるかどうかも確実じゃないんだから
歴史問題とかしつこい、そんなんだからフッサールも歪んだ理解しかできないんじゃないの
つきつめれば、現象学の通俗理解の、主観しか存在しない、超越しない内面以外は確実ではなく、他者は不確実は誤り。
意識の中、内面は、一つの視点としてしか存在しないように見えるが、そうではないというのが現象学。
確かに個人的な投影としての要素があるが同時にそのたち現れる世界の中でその主観だけでは収まらないものも同じ権利で存在する。
間主観性、相互主観性、理念、目的。
世界の見え方、切り取り方で同じ側面から別な切り口捉え方ができて、それらは同じ権利で存在する。
座標の取り方が違うだけで、世界自体は同じ。超越しえない。その中で考えるしかない。
それは理屈に合っている。通常の唯物論や哲学の心身二元論よりよほど実感にあっている。
孤立した意識があり、物があり、さらに切り離された他者の意識があって勝手に動き回っているというのよりはフッサールの見方の方が理にかなっている。
そうではなく、物も意識も世界も切り離されずにここに存在していて、その中で一方では個人的な思惑もあるが、そうではない客観性や相互主観性、理念や目的も共存しているという方が実感に近い。
生活世界があって、そこから物理的世界像や力学も派生する。
まあ、この見方は見方で時間や死によるその限界画定の問題が出てくる。
その直観は無垢なのかというデリダの「声と現象」「精神について」「アポリア」のような批判は可能だが。
それはまた別の話だ。
竹田のすごいところは現象学の通俗理解によりかかり、無根拠な断言できること。
他者は理解できないが理解できないと理解している自分は人を導く資格ありと根拠なき自信持つために現象学と呼称している。
細木和子の霊能力のように役にはたっている。
哲学としては無価値でもエッセイストとして需要があるのはわかる。
社会学の観察材料として貴重。変に理論に縛られている学者より役に立つことも言っているのは事実。
学問としての価値はなくとも評論家としては優秀。
それを馬鹿にしてはいけない。
>>770 生活の場で契機があって哲学に触れる人も多かろうさ。
竹田の場合民族的な問題もその一つだった、というに過ぎない。
純理論として哲学を扱うのもまたひとつだろうけど、なんか
生活の実感のない言葉遊びになりがちなんじゃない。
775 :
考える名無しさん:2007/11/03(土) 05:13:09 0
>>771 >つきつめれば、現象学の通俗理解の、主観しか存在しない、超越しない内面以外は確実ではなく、他者は不確実は誤り。
ふーん。
他者の存在が不確実は誤り、ってことは、他者の存在は確実って事か。
俺には確実だなんてとても思えんなあ…ほぼ確実とは思うし、「確信」はあるけどさ。
100%の確実だなんて。君はどうやって分かったの、他者が100%確実に存在するなんて。
日光が当たって暖かいと感じるのは感覚。暗がりからそちらによって身体を温めるのも感覚でいい。
しかし、暮れる夕日見ながら、また、明日太陽が昇ると思ったりする知識は感覚を超えている。
冬になってもまた半年すぎれば夏が戻るとか、そういう知識は言葉や知識、論理の個人を超えた積み重ねが必要。
クレオパトラの鼻がもう少し低ければ歴史が変わっていたとかいう反実仮想も経験とは違いながら経験を超えでつつよりよく現実を変えようとする推論の一種。
三角形の内角の和が180度とか、経験で全ての三角形を図れないからそれは経験的知識とは別だ。
それを論ずるのが単純に言えば超越論哲学。
経験をただ受け入れるのではなく、それを超えてコギトエルゴスムとか、論じていく。
そして、そこには他者や言葉、膨大な歴史の積み重ねがある。
どうしたらより良くなるか。膨大な努力、推論、知識の積み重ねがあって、ここにこうしている。
パソコンの上で文字を使ってコミュニケーションしているのだって、自分ひとりしかおわず、論理、言葉を使わず感覚しかなかったら、ありえない。
言語、論理、科学、他者、文化。
その歴史の成果の膨大な理念、相互主観性、間主観性を受け継ぎ理念を実現していくのがフッサールの目指したこと。
他者や歴史や個人を超えた言葉や論理がないとして、パソコンのモニターの上の言葉はない。
何もない感覚しかない私が全てつむぎだしたというのはありえない。
少なくともフッサール的証明とはそういうことだ。
誰にとってもちょっと心の底を探れば出てきて自分を生かし規定している、他者や理念の意味を受け止め真剣に向き合うことが現象学。
在日で差別されているから理念や目的がうまく機能していないことは良く理解できるとかの自己憐憫はまったくもって
関係ない。
756 :考える名無しさん:2007/10/27(土) 07:20:17 0
要するに、フッサールより竹田の方が上と言うことだな。
769 :考える名無しさん:2007/11/02(金) 12:49:44 0
>>768 いや、民族的問題は哲学に持ち込んでるわけじゃないとおもうが
フッサールを理解する上で下地になったんだよ。
こういう妄想と現象学はまったく関係ないってことは繰り返し書いてきた。
厳密な学としての哲学はルサンチマンとかとは関係ない。
竹田がルサンチマンに凝り固まった同胞の意識を批判していい仕事しているのは知っている。
しかし、それはただ単に彼が良く勉強している評論家だということにすぎない。
哲学とは無縁に細木和子的に優秀というにすぎない。
竹田は現象学、超越論を一ミリも理解していない。困るのは信者どころか、竹田アンチの770さえ、同じ間違いしてしまうところ。
そういう誤解を防ぐためにフッサールは頑張った。
そこのところを無視してはいけない。余りにもフッサールやカントやデカルトがかわいそうすぎる。
竹田も770も774も775もマイ哲学やっているにすぎない。
板違いといえないのがマイ哲学に占領された現実で悲しいが。
竹田が優秀な評論家であることは認めるがそれは「厳密な学」とは何の関係もない。
それが哲学ではないことは自覚してほしい。
>>775 誤解ないように言っておくが、ここではわざとフッサール的立場を誇張して演じているだけだからな。
フッサールによる証明があなたに通じるかどうかは知ったこっちゃない。
しかし、あなたも他者を証明してしまえるw哲学という立場がありうることは勉強になったと思う、認めてもらえると思う。
私がフッサールと同じ立場か否かはどうでもいい。
そして、それ以上に竹田も竹田信者もアンチ竹田も哲学的にはどうでもいい。
それらは立場ですらないのだから。繰り返し言うが自分を認めてほしいと言っているだけなのだから。
民族的立場や疎外感と、万人に妥当する厳密な学としての現象学が浮き彫りにする他者性や理念、相互主観性は一ミリも関係ない。
その点では770は正しい。
妄想も何も、契機になっただけで哲学自体に盛り込んでるわけじゃない
と何度も言ってるジャマイカ…
発端は
>>768が 竹田が民族的問題をそのまんま哲学にぶち込んだみたく言って
見当違いの批判を始めたところからだろ。
なんでそれが前提みたくその後話が続いてるのか分からん。同じ人なのか?
>>778 >あなたも他者を証明してしまえるw哲学という立場がありうることは
立場はありうるのかもしらんが、「厳密」には無理、ってことは変わらないし…
べつにそういう立場があってもいいが…どうやって証明するのか聞いてみたいが。
「他者が確実に存在する」という証明を。
>>779 竹田の本読むとわかるけど直接は書いてないけど文章ににじみ出てるぞ
西欧の哲学者はそれほど批判しないのに、
日本人学者に対しては批判したり、日本人には珍しく〜とか、
俺は日本人よりも優れているんだっていう主張が隠し切れないんだよね
それでいてフッサールの理解が自分の思い込みで本人が言ってないことまで解説してて
フッサール自身が見たら自分の考えだと到底考えられないことまで断定しれるから
初心者が入門書として読んだら誤解するよ
民族とかにこだわらないで自分の主観に帰って省察すればいいのに
よい子のみなちゃん、いい子でいましたか?お勉強の時間ですよ。今日もたっぷり勉強して立派な大人のなりましょうね。
みなちゃんは小さかったころの記憶がありますよね。色んなもの食べていっぱい寝て大きくなってきたんだよね。
身体があって、感覚があって、それから知らなかった言葉を段々に覚えて大きくなったんだよね。
そうじゃないって人いないよね。
身の回りにある機械、言葉、全部小さな身体と感覚から全て一から作ったものなのかな。
とても無理でしょう。
覚えた言葉って全部皆自分の中でひねくりまわして考えたものかな。違うよね。
確かに他に誰もいなくて、すべては機械が与えてくれると考えることもできるけど、おかしいよね。
小さかったころの記憶だって嘘っぱちだって言い張れる。全てはお芝居だ。
何のためにするんだろうね。何の得にもならないよね。
全てはお芝居でそのお芝居作っているのは自分一人。変だよね。
一方は他者なんかいない。反対には他者はいる。
前提が違う二人はどちらも完璧には相手を納得させられないかもしれない。
でもそういう場合はより妥当な証拠持っている方が正しいわけだよね。
わざわざ間違った相手の理論を受け入れる必要がない。
普通の感覚、常識とは違う答え出している方が挙証責任があるよね。
絶対的な結論は出ないにしても、相対的により厳密な議論をしている方を尊重しなければならない。
認めないといけない。
そうでないと立派な大人になれないもんね。
せっかく778でディベートの前提が変わっていること説明してあげたのにわからなかった人がいるね。
厳密さの基準が変わっていること説明したのによくわからなかったんだね。恥ずかしいね。
みなさんはよく勉強してね。780さんみたいな大人になっちゃいけないよ。
よい子のみなちゃん。人の話はよくきかないといけません。
せっかくコテハンつけているのに、768と私を一緒にしている人がいます。
竹田さんを批判していないのに、アンチと間違えられて心外です。
せめてコテハンで書かれている部分くらい最近のレスばかりだから読みましょうね。
大人になりましょうね。誤字脱字が多いのは申し訳ありませんが。
私は竹田さんをほめています。評論家としては優秀です。
ただ哲学ではありません。そこには価値判断はありません。何ひとつ貶めていません。
キリンは人間ではないと言ったからって差別にはなりまんよね。よい子のみなさん。
先生一生懸命何論じているかというと、二つあります。
現象学は中途半端な物語ではなく、誰にとっても客観的な厳密な学であること。
更に通俗的な現象学誤読と違い、「厳密な学」としての現象学=哲学は他者や理念を実在とみなします。
緊密な関係、理解結ぶます。目指します。
竹田さんのように他者は把握しきれない、世界の中に理念はないといった考え方とは違います。
在日だとかユダヤ人とかは厳密な学とはまったく関係ありません。フッサールはそういう考え忌み嫌いました。
マイノリティだから苦労した、他者の苦しみを理解できるという物語ぐらい現象学とほどとおいものはありません。
それはキリンを人間だというぐらいおかしなことです。
779にとってはキリンは人間です。
もういい加減そういう人を馬鹿にした議論はやめましょう。
竹田さんが現象学じゃない。いい加減認めようじゃありませんか。
それがまずいのは、現象学の誤読による癒しの自己満足が侵されると感じる了見の狭い人間だけです。
そういう大人になってはいけませんよ。きみたち。
竹田が哲学的でないというのは同意。
竹田って、デビューは「マジメな呉智英」って感じだったよね。
マルクス主義的な世界観が完全に説得力を失った後、
それにかわる世界観が求められている時、
呉智英が「封建主義」を提示したように、竹田は「現象学」を提示した。
ただ、呉智英はごずるいので(もちろん誉め言葉)、「封建主義」なんて言いっぱなしだったのに対して、
竹田は本気でマルクス主義に対抗できるような世界観を作り上げようとして、
ヘーゲルまで持ち出しちゃった。
こんな感じでまとめていいんじゃないか。
結論出しちゃってすいませんね。
一段落か。
前に議論した人は納得したのに読んでいないやつが参入してうざかったけど、落ち着いたし。
竹田が哲学ではないことは、一点の曇りなく証明したからね。大人は理解できる。
次スレからは文学板で。
哲学でも社会科学でも取り上げる価値はなく、筋違いだから。
社会分析も並でしかない。
多様な視点確保しようという現代哲学の潮流からも取り上げる価値はない。
何よりフッサール名乗っているけど、全く違うのは否定しようがない。
フッサールの客観志向とは全然違う。著作読めば否定しようがない。
大口たたいてまるきり違うのはいかがなものかと。
786 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 12:27:45 0
竹田は「わたしが現象学だ」と思っていそうだな
問題はそれを誰が認めてつきあってあげるかだけど.
哲学では相手にされなくても、読者はいるからいいんじゃないか。
竹田による癒しがあるから、それを必要とするものがいるから、すれが11まで続いているわけだろう。
それは小説家としては偉い。
大局的にはフーコーの批判した人道主義的精神医学みたいなもの。
否定されるべきでもあるが、竹田と同じレベルの安易な癒しははきすてるほどあるから。
ことさらあげつらう必要はない。
788 :
考える名無しさん:2007/11/10(土) 14:25:56 0
思索の出発点から怠ってるからなぁ
竹田の本読んだけど役に立たなかった
入門書なら新田義弘さんの「現象学とは何か」がわかりやすくてよかった
とりあえず「真逆」の多用は恥ずかしいからやめてくれ
それは「まぎゃく」じゃなくて「まさか」って読むんだぜ?
フッサールの誤読とか言う前に自分の語彙を問い直してくれ
竹田は哲学を越えたな
一連の議論見てて思うんですけど、結局「竹田とフッサール」って
コテハンの人は、フッサール現象学の心酔者または哲学マニアなのですか?
あと哲学者と評論家では、哲学者の方がレベルが上と思っているのでしょうか?
「竹田とフッサール」さんは、現象学という学問を厳密に理解している
のでしょうか?
厳密に理解しているとすれば、誰がそれを厳密に判定するのでしょうか?
原文の正しさは、今は亡きフッサールが判定するしかないのではないでしょうか。
>>791 竹田とフッサールが突っ込む前に一言。
>原文の正しさは、今は亡きフッサールが判定するしかないのではないでしょうか。
この一文で、君が竹田のデリダ批判すら、(それが妥当なのかは措いといて)
さっぱり理解していないことの証拠になるよ。
気をつけましょう。
793 :
考える名無しさん:2007/11/16(金) 05:46:36 0
都合の良いところだけをつまみ食い
竹田の人気は鰻登りだな。
新刊予告ktkr
>789
悔しい?悔しい?
顔真っ赤。
プ。
悔しい?
ゲラ
よい子のみなさん。お元気でしたか。
目を閉じ、耳を塞いで理解を拒むものには、正しい理論だって認めさせることはできません。
他者なんか実在しない。そうかたくなに言い張られればどうにもなりません。
だからといって相手にこちらがレベルを落とさないといけないわけではありません。
どちらがより皆の常識にかない納得させる議論ができるか。それを認めないと大人ではありません。
どうでもいいことに突っかかってきて、789は頭がおかしいいです。
これほど明瞭なフッサールの現象学と竹田の議論の違いを理解できない789は
頭がおかしいです。
頭がおかしいです。
頭がおかしいです。
ぷ
よい子のみなさん、わかりやすい現象学の理解の仕方を教えるね。
試験に出るからノートとっておくように。
内面=意識=主観=不安定=内在
外面=他者、実在=客観=安定=超越
超越論的現象学とフッサールはいいました。
内面と外面=内在と超越切り離してそれを都合よく処理することを拒否しました。
それは意識の現場から超越してしまうから駄目なのです。
彼は外面一元論の実証主義、物理主義、分析哲学には批判的でした。
内面を殺してしまうからです。
一方、外面と内面の相互関係を説く、弁証法や物象化論も認めません。
それは彼からすれば、内面と外面を上から目線で裁いてしまうからです。
これには異論があるでしょう。融合させるというフッサールの方が詐欺師かもしれません。
さらに、内面一元論の心理学主義も否定します。それは自分に都合よく客観処理する偽者だからです。
超越論的現象学とは切り離し=超越せずにいかに他者を取り込むか、意識に踏みとどまりつつ。
そういう学問です。
超越論とは内面外面切り離さずに意識の中で他者と向き合う、そういう学問です。
竹田さんでまずいのは、内面一元論でそこから超越して客観を語ってしまい、都合のよい物語の押しつけでしかないところです。
私が独我論の否定にこだわったのもその為です。
フッサールの哲学、超越を嫌って、同じ土俵で戦おうという意志を大事にするならば、そこは基本なわけです。
それを無視して単なる心理学を現象学と誤解する過ちは恥ずかしいです。
心理学や物語の押しつけであるならば、超越論的現象学ではありません。
ただ色々言っても789や791のような馬鹿には理解できないでしょう。
これだけ簡単にかんでふくめるように言っても理解する気がなければ理解できません。
目を閉じ、耳を塞いで理解を拒むものにはどうすることもできません。
ただ他者がいないというものと同じで正気かと冷ややかな目でいうしかありません。
独我論論争した人はちゃんとそこらへんの事情がわかってくれたのですが。
そこで納得してもらったのに、更にレベルの低いのが出てくるのは笑うしかありません。
791へ
>コテハンの人は、フッサール現象学の心酔者または哲学マニアなのですか?
私はフッサールには批判的です。しかし、取るべきところは取るべきです。
上に書いたような初歩的なまとめからも間違いとわかるフッサール解釈はまず正されるべきです。
>あと哲学者と評論家では、哲学者の方がレベルが上と思っているのでしょうか?
哲学としては間違った解釈を哲学の名で展開したりそれを支持する竹田さんや791が哲学を過大評価し、評論を貶めています。
また、評論は読者に阿るものではなく、むしろ傷つけその中で考えさせるものです。
竹田さんや791のように読者を甘やかすだけの評論としてもまずいものだから問題なのです。
哲学と評論どちらが上かではなく、よい哲学がありよい評論があり、一方791さんのしがみつく悪い哲学があり悪い評論があるのです。
>厳密に理解しているとすれば、誰がそれを厳密に判定するのでしょうか?
>原文の正しさは、今は亡きフッサールが判定するしかないのではないでしょうか。
今までわかりあえないながらも少しでもわかりやすく通じるように書いてきました。
目を閉じ、耳を塞いで理解を拒むものにはどうすることもできません。
ただ791さんに理解を求めるのは酷というものです。
今書いていることもまったく理解できないでしょうから。
ただ、789や791のような困ったちゃんを読者に持てる度量の広さは竹田さんは凄いです。
こんなそばにいたら困るような人も取り込みながら批評しているのだから偉いです。
世の中をよく変えているとも思えませんが。
798や799の議論は普遍性がありますので、ここでの文脈はなれて活用してください。
なぜ、フッサールが一方では主観的に見えながら他方、あれほど客観にこだわったかということも単純に理解できます。
「リンゴ」止まりの糞思想をいくら語っても、つまるところ「リンゴ」にしか行き着かないんだよ。
朝鮮人の思考は「〜は誤り」とするとき、実は自らも「〜」の立場にあるという
ダブルスタンダードが基本。そもそも竹田を哲学者だとは(ふつう)思わないが、
竹田を理解しようとするなら、この朝鮮人独特の思考スタイルに留意すべし。
現実に向き合えないひよっこが、引きこもってオナニーするには竹田はいいオカズになっちゃってるねw
この長文バカとかw
もういい加減竹田さんを貶めるアンチの工作はやめてほしい。
もうこれ以上竹田さんの著作を読んでいないアンチはスレから出て行ってください。
791とか804とか馬鹿は消えてください。
フッサールは主観=経験と客観=経験を超えた超越を切り離さないで論じるために現象学を作りました。
超越論的現象学とはそういうことです。
論理学研究とか、ヨーロッパ諸学の危機とか超越=客観を詳細に語っています。客観志向が強烈です。
世界という背理とか言い世界は理解できないと、主観と客観切り離して上から目線で語る竹田さんは心理学でしかありません。
超越論というものを全く誤解しています。
竹田さんがフッサールの現象学はこうだ。とかたくさんの入門書書いています。
それは全部間違いです。よくあることです。
哲学の著作では一冊に10や20の間違いはつきものです。恥じることはありません。
竹田さんが現象学や現象学にもとづく社会分析で8割の著作に価値がない。それは客観的事実です。
間違いは認めて正しい部分で語ればいいのです。それで語る価値がないなどとは竹田さんを侮辱することです。
2割の著作について哲学板以外で、心と宗教や人生相談、文学板で思う存分語ればいいのです。
一番いけないのは、間違いを無理やり竹田さんに押し付けることです。
竹田さんの著作を読んでいない791とか804とかが一番たちが悪いです。
竹田さんが超越論=客観志向を理解していない、それは単なる事実です。
今までこのスレでも否定されませんでした。著作を比較すれば明らかですから。
私は竹田青嗣を愛しています。
間違いを押し付けて竹田さんを貶めるアンチの工作はいい加減やめてほしいです。
竹田さんとフッサールの著作にあたってもみずに、超越論も理解できずに、書き込みしないでください。
竹田さんに間違い押し付け価値を下げるのはやめてください。
本当に客観性求める論理学研究と、竹田さんの入門書が同じものを目指していると思っているのですか。
違うに決まっているじゃないですか。
並べてみれば一目瞭然です。主観的な物語を語っているだけです。
間違い押しつけずに2割の著作で思う存分論じてください。この板以外で。
それができないと思うなんて竹田青嗣への侮辱です。
竹田さんと哲学結びつけるなんていやらしいいやがらせはやめてください。
哲学とは切り離してその価値を好きなだけ語ってください。
それができないのは竹田さんを貶めることです。
死刑囚。のようなアンチは出てってください。
死刑囚。て馬鹿だね。頭おかしいね。氏んでね。
死刑囚。て馬鹿だね。頭おかしいね。氏んでね。
死刑囚。て馬鹿だね。頭おかしいね。氏んでね。
807 :
考える名無しさん:2007/11/20(火) 00:37:01 0
フッサールの世界の捉え方は、超越は意識の指向性、
意識の意識対象によってのみその存在に妥当性をあたえるということだからな
竹田のスレが哲学板にあるのが問題なんじゃないか
ネットwatch板あたりが妥当だろう
808 :
考える名無しさん:2007/11/20(火) 11:02:26 0
>>796 >>797 「真逆」の誤用を指摘されただけでファビョっちゃうのも憐れだなあ
内容以前の話をしただけで内容批判と受け取るのはどこぞの朝鮮人みたいだ
>>789のテキストの何処にも内容批判はないのにそう受け取っちゃうのは投影なんだよねえ、結局
「ねえ君、お尻にウンコついてるよ?」
と指摘されて
「俺は東大法学部卒だぞ!」
と逆切れしてる構図に泣ける
>>808 お前もてないな。ご愁傷さま。
何冊も著作を出されている竹田大先生が間違いと証明されるときにどうでもいいじゃん。
出る幕ないよ、あんた。
寂しいやつ。
ここで数ある語彙の中から「もてない」という言葉を選んだことに、
「もてない」が
>>809のコンプレックスになっていることがわかる。
ここで学歴コンプの人は低学歴とかを罵倒語として選択するのよね。
あ、ちなみにコンプレックス=劣等感じゃないからね。
んで、こーゆー無意識の読み解き、つまり「言葉を発した本人の無自覚な部分」
竹田はこの部分を指してフッサールの意図とイコールで繋げているわけで、
そりゃフッサール本人も、本人の意図を読み取る文献学者・研究者も口を揃えて
「竹田はフッサールを誤読している」と言うだろうさw
竹田は本人が批判的というか、手法に問題ありとする精神分析的な文脈で、
「実はフッサールが無意識的に目指していたのはこういうことだ」
と言っているんだな。ちゃんと著作読んでりゃ明言してるよ、竹田が自分で。
「フッサール自身は自覚していなかったけれど」ってね。
このスレに限った話じゃないが、誰かを論じる時は最低限主要文献に目を通そうな。
つまり上で妄想垂れ流してる「真逆」を「まぎゃく」と読んじゃう輩は竹田読めてないってことw
「竹田はフッサールの誤読してる」とか言ってる奴が竹田読めてないという話なw
竹田擁護派でない俺に論破されてどーすんだwww
晒 し a g e
この流れで「じゃあBGMお聞きになりますか?」「まさか!」を思い出した俺は
何コンプレックス?
813 :
考える名無しさん:2007/11/21(水) 18:32:50 0
>>812 コンプレックス云々以前に、受け狙って皆の前で寒いこと言って場の空気凍らすタイプ
おまいらストレスたまる生活してるな
ギスギスすんなや
論破された時は、名無しで調停するふりするよりも、完全に沈黙する方がいいお
貴乃花は大関時代、
舞の海から受けた力水を土俵に吐き出すわ、
その舞の海に負けて全く礼をせずに土俵を降りるわ、
濱の嶋に負けて降りた直後に土俵を蹴っ飛ばすわ、
尻の穴をほじくった手でツッパリして相手をひるませるわ、
負けたのに次の力士に力水を付けようとするわ、
大関どころか力士としてしてはいけない所作を
次々とやらかしていた。
土俵態度は何一つ褒められない失格力士だったんだよ
当たり前すぎることなので、誰も言わない
ということもある。
>>818 朝っぱらから負け惜しみご苦労さん
己の誤読と妄想を受け入れられない人は辛いですね
820 :
考える名無しさん:2007/11/23(金) 10:48:52 0
真坂!
>808,810
おいおい、そんな通俗的フロイトで現象学を語るなよ。解釈者の独りよがりの恣意じゃないか。
馬鹿。そんな浅読み現象学じゃなくて最低レベルの漫談じゃないか。
そもそもフッサールである意味がない。お馬鹿ちゃんだね。子供は出直してきてね。
竹田が哲学じゃないこと、自分で証明してくれて私の議論補強してくれてありがたいが。
よい子の皆さん注意しましようね。
意識の内面に足入れながら他方で超越語る。それが超越論的現象学。
意識の閉じた部分に依拠するといいつつ都合のよい物語、無意識まで動員して解釈者の好きなように語る。
好き勝手に超越や解釈許していたら哲学じゃないよ。上から目線で。文学や評論ならかまわないが。
多視点、多様性語るでも方法論問えよ。何勘違いしているんだ。
散々上で唯物論や分析とか比較して水準に達していないと批判しているだろう。レスぐらい読め。馬鹿。
本当にご苦労さまでした。
意識という枠の中にとらわれて現実は理解できないと言って、一人一人を解釈の場に囲い込んで、
その狭い枠から現実を解釈する。これだってかなり危ないが、更にその解釈者が竹田でそれに従属すれば世界を理解できる。
そんな議論で解釈者の竹田が正しいという根拠はどこにあるの。
上の議論が示すとおり、こんな欲望があるなんて議論、恣意的でどうにでもなる。通俗心理学なんだよ。
意識という狭い枠に閉じ込めた後、上から目線で超越するな。その権利がどこにある。
解釈者だけ上に立って、被験者が従属する。そんなモデルがよいものではない。
解釈者の都合のよい物語押し付けるのは否定されないといけない。恣意的で根拠がない。
フッサールの議論はそうではなく、ちゃんと意識に基づいていながら、そこで上から目線でなく他者や実在や理念を語る内在論だと議論していたのに。
意識で語ることに意味があり、しかも人々を閉じ込めず建設的に目的や使命を問えて、共通の道を模索できる。
上から目線の目的の押し付けを否定すること。
恣意性、無根拠性を避けて、誰にも理解できる同じ土俵で語る試みだった。
そういう議論していたはずなんだが。何で一からやり直しに戻るのかなあ。数十レスが無意味になる。
完全解読ヘーゲル『精神現象学』
いよいよ発売されるね
他者、理念、目的、使命抜きに現象学を語るのは無意味。超越を積極的に語るためにこそ現象学はある。
関数としての志向性、意識作用と意識対象の実在性を目的論的につなげること。
実体はなくとも、関数の関係自体は不変性あるいは普遍性持つと語るからには、根拠が必要。
物象化論のように全体の関係性の中で考えているのでもなく、現象学はあくまで意識にとどまる。
フッサール解釈で合成の誤謬を犯して、あくまで主観の中から世界を物語ってしまう間違いも多い。
社会は個々人の心理に還元できないという初歩もわからず確信形成がああたらこうたらを心理学で説明してしまうのは論外。
局所的な立場から全体を語っても見当外れにしかならない。
視点で限定された見方は単純に悪ではない。例、ニーチェ。千差万別で立場がある。
フッサールはどちらとも違う。唯物論とか関係主義とかホーリズムとかの全体の関係の総体でしか決定しえないでもない。
個=局所的な立場から非局所的な全体を裁断するのでもない。
点=今でなく、未来に向けた目的として、幅のある連なりとして、時間や記号を科学を構成する。
超越を、全体や未来の目的論的つながり前提に語る。関係は正しいと実在化する。
全体を関係にするだけでなく、関係性はこういう目的有効性があるという立場だ。
意識対象と構成する意識作用は未来に向けた世界への倫理的な関係性から繋がっている。
それが前提。関数つけが正当性を持つことで合成の誤謬の独りよがりを避ける。それがフッサールの議論。
フッサールは地平とか未来把持とか潜在性を重視する。他者とは何か。
デカルト的省察では、他者を私と同じ肉体、心を持ちながらそれを感覚的に知りえないだが期待される存在というねじ曲がったまわりくどい説明する。
他者は実在しないとは語らない。他者は私と同じような感覚、肉体、思考能力を持つ理解可能な存在と定義しつつ、同時に、直接には感覚できないと一端切り離すかにみえる。
しかし、それが言いたいことではない。感覚できないにもかかわらず、未来に向けて互いに啓発され、協力しあい、自分にないものをもたらしてくれる可能性として認める。
独我論問題で論じた感覚、意識を超えた超越でありながら、同時に把握可能な存在と捉える。
超越と把握可能それを両方とも決して手放さないところに現象学の本質がある。
(ハイデガーだと決して手放さないものは死の可能性に向けた先駆的決意と変更されナチにつながる。フッサールの目的志向への批判もあるが。)
感覚、意識の内在の中で同じ地平の中の理解できるかもしれないし、理解できないかもしれない可能性として捉える。そして理解可能性は決して手放さない。
他者ばかりでなく、数学、理念、歴史、使命、超越一般がそういうものだ。他者の見方でも可能性はすべてきわめつくされる。
可能性や未来、不発の可能性含めて、すべてをきわめつくし、目的=使命として何故そのノエシス・ノエマ関係を本質として維持しないといけないのかへの理由=目的を定めること。
恣意的だと批判されないためにも。
他者、理念、目的、使命抜きに現象学を語るのは無意味。超越を積極的に語るためにこそ現象学はある。
個人の意識というミクロから、ありとあらゆる他者、社会、世界の歴史、使命というマクロの両方足を突っ込み両方手放さないのがフッサール現象学。
限定された視野だからといって理解できないと嘆くのではなく、差異があるから喜ばしい、進化があるとか色々な見方ができる。
様々な立場がありえることは理解してほしい。そして、上から目線の恣意的な物語に身をゆだねるのは哲学ではないことも。
科学でも他者でも数学でも、歴史でも理念でも目的でも、それは確信や信念が成り立つか否かのあやふやなものとしては語っていない。
論理学研究の数学、デカルト的省察の他者、ブリタニカ草稿の最後の節の全面的目的論の展開、ヨーロッパ諸学の危機や幾何学の起源。
一面的に限られた視点の個人が集まって信念対立はどうやったら避けられるかのネガティブな話ではない。
フッサールの議論はあくまで意識という当たり前の場にとどまりながら、同時に世界全体や使命を把握するかを考えて現象学を作った。
何故、意識の場から飛躍するかが難解でいまいち理解されていないので以上、解説。
で要するに結論は?
自我は間主観性とか超越してるものを認識できるの?
829 :
考える名無しさん:2007/12/01(土) 02:19:48 0
すぐ罵倒に走って 議論が罵り合いに堕落するので
批判しにくいんだがなー
>>826 >感覚できないにもかかわらず、未来に向けて互いに啓発され、協力しあい、自分にないものをもたらしてくれる可能性として認める。
>独我論問題で論じた感覚、意識を超えた超越でありながら、同時に把握可能な存在と捉える。
これは竹田現象学と同じなんだが
なんか、竹田現象学が自我しか認めない独我論みたいに言ってる
ように見えるんだが、違うのか?
830 :
考える名無しさん:2007/12/01(土) 02:32:11 0
コギト以外は疑おうと思えば疑ってしまえる(本気で疑うのは
バカのすることだが)って前提をまるで理解できない人が
竹田スレにはいつも1人くらいいるが
他者も世界も存在してるに決まってるじゃん、バカじゃないの?
っていうような、生活感覚から来る「常識」を後生大事に抱えてる
ように見えて仕方がない。
竹田も、誰も、存在しないなどと言ってないのにね。
独我論ぽく見える理論のように思えたら、それだけでもう独我論認定、
あとはバカにするだけ。って、いつまでたっても脳味噌に皺増えんよ。
それぞれの主観の’意味として’存在するって事だね。
832 :
考える名無しさん:2007/12/01(土) 02:48:17 0
ハァ意識の志向対象としてのみ他我を認識できるとしたら
間主観性も蓋然的なものとしてしか認識できないじゃん
今までの学問をエポケーして全ての学問を基礎つけようとしてるのに
結局客観的な学問と一緒で蓋然的なものとしてしか認識できないんだから
現象学失敗してるよね
833 :
考える名無しさん:2007/12/01(土) 10:54:14 0
竹田青じってよく批判されてるけど、具体的に何がダメなの?
この人の入門書とかわかりやすくてよく読んでたんだけど、
つまり嘘が書いてあるわけ?単に哲学書としてつまらなくて
底が浅いというだけなのか、著者が哲学者の思想を誤読していて
デタラメが書いてあるのか。後者だとしたら読まない方がいいということになる。
>>833 まぁ、デタラメかどうかは誰も決めることが出来ないんだけどね。
例えば、誰かが竹田をデタラメと認定したとして、じゃぁ認定した
奴は普遍的・客観的な立場で正当な評価をしているとは言えない。
超越的な立場に立てる人間なんて居ないのでね。
つまり、君が竹田の本を読んで納得するかどうかなのだよ結局は。
>829,830
頭のおかしなやつに言いがかりつけられるから、おどかさざるをえなかっただけで怖がることはないよ。
竹田を独我論と言ったことはないよ。現象学を独我論と言ったのは770とかのアンチ竹田であって。
他者を視野が狭いと押さえこんで自分の鋳型にはめる手つきが稚拙さといっただけだよ。
ちゃんと哲学わかってくれば理解できるからがんばってください。
ただ、竹田がフッサールに基づいているといいながら誤解しているのは事実だから、早く卒業した方がいいよ。
>833,834
哲学ではないのに、哲学だとするのは結局相手を馬鹿にすることだよ。同時にエッセイストとしては馬鹿にはできない。
全てを切り捨てるのも問題あるよ。勿体ないよ。
レスではちゃんと理解できる議論しているのだし、本を手に取ればわかるのだから、思考放棄は駄目だよ。
ブリタニカ草稿の15・16節読めば竹田とフッサールは全然違うことはわかるから、実際に手にとって考えてみてください。
>828,832
竹田の議論のように全てが信念や信憑の問題なら、フッサールの数学にしろ、歴史や目的論めぐる議論にしろ成立しない。
蓋然的なら、あやふやで馬鹿馬鹿しくてやってられない。そのことだけからも竹田の議論の勘違いはわかる。
フッサールの議論はそうではない。蓋然性ではなく客観的だ。
フッサールは数学でも他者でも客観的に把握できるとした。感覚を超えても逆に感覚からは普遍的なものとして逆説的に把握できる。
それが本質直観。数学にしろ、理念にしろ客観的に実在し把握できる。
ただし、他者や歴史は、未来に向けて未決定の幅があるが、その分含めて関数として把握すればいい。
それは当たり前だね。
関数や式は実在し、十分客観的。意識の中で把握できる。構成できる。
意識の中に客観も実在も与えられて、把握できるし、全てが意識の中にしかない、それ以上の背後を求めてはいけない。
地平の中で他者も未来も全て含みこんで、逃げかくれもできずにそこにある。究極の内在論。
それが現象学の凄さでもあり、怖さでもある。
こういう議論だから。
レスの性質良くて頭良いんだろう。まるっきり議論にならなくて辟易していたところでうれしいよ。
だから理解できると思う。フッサールの本に当たって、よく理解してみてください。
>>836 >数学にしろ、理念にしろ客観的に実在し把握できる。
そもそも数学って理念でしょう。
君の言う「実在」の定義は?
それぞれの人間の欲望にとって存在するに過ぎないでしょう。
少なくとも人間以外の動物や微生物にとっては数学は存在しない。
竹田とフッサールという人は、事物や理念などの客観存在を信じてる人?
数理哲学の入門書なんか読むと「数学の実在性」という言葉が出て来るね
素数なんかそうだけど誰が考えても同じにしかならない。
だからある程度知的な宇宙人がいたらそいつらが発明した数学は
人間が作った数学とそれほど違ったものにはならない、という考え方はそれほど珍しくないらしい。
微生物は能力が足りないからあるものに気付かないだけってことですな
>>836 >全てが意識の中にしかない、それ以上の背後を求めてはいけない。
現象学って独我論だったんだ、勉強になるなぁ
哲学はすべて独我論なんだよ
今、 大学で竹田先生の講義受けてる俺が来ましたよ
>837,838
839が言ってくれてるけど、フッサール幾何学の起源から。文庫の496頁。
幾何学の存在は、心理的なものではない。つまり、個人的な意識領域における個人的なものの存在ではなく、
「万人」にとって客観的に現存しているものの存在である。(中略)
あらゆる時代の現実的および可能的な数学者に近づくことのできる独自の超時間的な現存であり、(略)
私自身はイデアリズムとっていないからフッサールには反対だ。あくまでここで書いているのはフッサールの意見ね。
数学や理念を、それどころか他者や歴史に実在性をフッサールが見ていたことは疑いようがない。
いくらでも証拠が挙げられる。
>840
意識の中に、他者や歴史を、あらゆるアプリオリな関係を切り離さないでみているから独我論ではない。
そういうことは、798とかでゲップがでるほど書いていることだけど、確かに私の表現が未熟ですね。申し訳ない。
それほど言語能力の高い、840なら、デカルト的省察や幾何学の起源などフッサールの本を手にとってより高いレベルで議論できると思います。
お待ちしています。そんな低レベルなレスで痴性の高さをアピールしなくても大丈夫ですから是非がんばってください。
現象学は心理学ではない。経験や感覚よりも、経験や感覚からは出てこないアプリオリなものこそ、目指す分析対象だ。
アプリオリなものと意識、現象の関係を厳密に記述すること。それが厳密な学。
以前に論じら太陽を毎日昇ってくると思い季節の進行を予測することさえ、個人を超えた独我論を超えた知識の集積がいるという意識を超えたものへの畏敬の念が前提だ。
ただし、ここからが難しいが、ただ単に超経験的、理念的だからといって評価するわけではない。
理念は同時に、他者と言葉を交わし、そこにこめた未来への意味、思いを託し託される、そういう、深い目的に根ざした形でないとだめだ、死んでいるという目的論の立場をとる。825や826で論じたように。
幾何学をただ機械的に証明したり、振り回すのではなく、それを作るために古代に土地の測量や何かをやりながら来るべき幾何学を予感してうちふるえたものからのバトンを受け継がない限りだめだ。それがフッサール。
ここからは難しいのでわからないなら無理にわかろうとしない方がいい。
わからないやつには永遠にわからないから怒って書き込むなよ。フッサールの言っていることを書き写しているだけだから。
専門的に言えば、数学的対象は無限の極限として出てくるもので、生活世界の有限の方が要請したものにすぎない。
しかし、同時にその無限の理念を通じて永続的な価値を人間が打ち立てていかなければならない。
それは理念自体の抽象性からではなく過去から続く目的の連鎖としての永遠になる。
意識の有限から無限の永遠的対象への連鎖、それも他者との共同体の伝達の連鎖として。
「ヨーロッパ諸学の危機」の文庫
503頁
ここで、なお考慮に入れておかねばならないことがあるが、それは、ある人のもとで本源的に算出されたものが、
それを本源的に追産出する他人にこのように現実に引き渡されるということだけでは、
理念的形成体の客観性は完全に構成されない、ということである。(中略)
「理念的諸対象」が幾時代を通じてもつ永続的存在が欠けている。
527頁
現在とその現在のうちに含蓄されているすべての歴史的時間が、歴史的に統一されてゆき、一つのものとなってゆく人類(中略)
普遍的な<地平としての知>潜在的ではあるが、その本質構造に則して体系的に顕在化されうる
<地平としての知>が告知されているのではなかろうか。(中略)
もしそれが意味を持つべきだとしたら、歴史的アプリオリを前提にしている、と言うだけで十分なのである。
予備知識なしにいきなり読んだら理解は難しいがこのスレで私の書いてきたことを元に読めばごく普通のことを言っている。
歴史を含めてアプリオリなものを探求することが目的だが、理念的でも分析哲学などとは違う。
生活世界からの他者との共同性の中での有限から永遠へ連続する目的の体系の厳密な記述として現象学はある。
847 :
考える名無しさん:2007/12/09(日) 00:54:39 O
>>842 国際教養(笑)
留学受け入れ先は三流以下の無名校ばかり(笑)
中・韓・日訛りの国際的なWasEnglish(笑)
848 :
考える名無しさん:2007/12/09(日) 13:37:12 0
>>845 フッサールの言うアプリオリなものというのは
デカルトも「哲学原理」で書いてたと思うけど山という概念には必ず谷も含まれている
谷なくして山を捉えることができないというのはいつの時代でも変わらないということ?
「厳密な学としての哲学」とか「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」でいってたのは
デカルトが「精神指導の規則」でいっていた
『示された対象について、他人の考えたところ或いはわれわれみずから憶測するところを、
求むべきではなく、われわれが明晰かつ明白に直観しまたは確実に演繹しうることを、求むべきである。
何となれば他の途によっては、知識は獲得されないからである。』
というようなことかな?
849 :
考える名無しさん:2007/12/09(日) 13:41:12 0
>>845 竹田が哲学者かどうかということは
デカルトが「精神指導の規則」で書いてたけど
『例えば、他人のなしたすべての証明を記憶に留めていても、われわれの精神が
実際あらゆる問題を解きうるのでなければ、我らは決して数学者とはならないし、
またプラトンやアリストテレスの議論をすべて読んだとて、示された事物について
しっかりした判断を下しえなければ、
我らは決して哲学者とはならないのだからである。
事実そういう風では学問でなく物語り(historia)を学んだと見えるであろう。』
というようなことかな?
人間はいかにして生きるかというのは哲学の重要な問題だとおもうけど
デカルトが「情念論」で書いていたような道徳的なことは、
現象学ではあまり取り扱われてないような気がして物足りない感じもするな
道徳的なものに行き着く前の自分の存在とはなにか他者をなぜ認識できるか
というところがまだ解決できなくて倫理的なとこまで語れるところまでいってないのかな?
フッサールにしてみれば、情念とか個人的なものも、人間はいかにして生きるかもそれは、意識の主観的問題を追及することにあった。
有限としての意識、内面に基づくことが第一だ。
そして変に道徳的なことをこねくり回すことこそ、ひとりよがりで道徳を殺すものだと思っていた。
それは一度よく考えたほうがいい。
例えばモニターの上の言葉。これだって感覚、意識、内面だけには還元されえない。
アプリオリな構造があるから、可変的主観的な感覚とは違い、一般的客観的たりうる。
関数としてある範囲でこういう意味を持つという個人の内面には感覚には還元できないもの、
超感覚としてのアプリオリ、一般性、客観性がある。
だから日本語で「ライオン」という単語はライオンという動物を指し示す。
感覚=生活世界に起源を持ちながらもそれを有効に使い未来を切り開くためには、無限なもの、客観的なものを大事に扱わなければいけない。
だが、客観だけで魂をとられたら「ヨーロッパ諸学」の危機になる。
この綱渡りこそ、倫理であり、情念である。
有限なものと無限なものの間を支える他者との倫理の問題、深淵。
個人的なことにかまけて独りよがりな文芸評論していても仕方がない。
陽水とか在日とか。それは小説ではあっても哲学ではない。
それがフッサールの立場。そこでの闘争は道徳的なものがないどころではすまない。
ナチスやハイデガーや時代に渦巻く暴力に対抗するために哲学やっていたフッサールは気を悪くすると思うよ。
>527頁
>現在とその現在のうちに含蓄されているすべての歴史的時間が、歴史的に統一されてゆき、一つのものとなってゆく人類(中略)
>普遍的な<地平としての知>潜在的ではあるが、その本質構造に則して体系的に顕在化されうる
><地平としての知>が告知されているのではなかろうか。(中略)
>もしそれが意味を持つべきだとしたら、歴史的アプリオリを前提にしている、と言うだけで十分なのである。
意識的なものと普遍的一般的なアプリオリなものをなぜ、区別するか。
それはどちらか一方から裁断するためではない。主観にも客観を差別しないこと。
フッサールの意図、コギトとかいった実体を避けて関係で把握する。
主体、主観、実体が前面にでると、個が出っ張って、独りよがりの物語や小説を押し付けるだけにしかならない。それは避ける。
しかし、同時にそれは相対論や懐疑主義、ニヒリズムには行き着かない。他者との目的性を厳密に把握するために現象学を作った。
緊密なコミュニケーションの共同体と目的の連鎖。
究極の関係主義的、内在論でありながら、究極の目的論。恣意的じゃなくきちんとした目的の連鎖を把握する。
現象学を作ったわけ、内在と超越、超越論の関係はそう理解しないと意味不明だ。
ただ、フッサール自身、直接の弟子のハイデガーにきちんと説明できなくてハイデガーは民族や先駆的決意性の小説に走った。
フッサールの理念性の分析が大事だと「幾何学の起源」の翻訳紹介したデリダもいまいちわかっていない。
何よりフッサールが自分の意図をきちんと構造化して把握していないからひたすら書きなぐるみたいになった。しかし構造分析してみれば明らかだ。
ただこういう構造分析は難しくて、このスレでも、どういう意図、つながりで説明しているのか文脈読まないで、それは違うと文句言われ続けだから、仕方がない。
それは批判になっていないだろうとか思うが割りと単純なこの構図を読みとれないようだからスレが荒れるのもフッサールが書きなぐったのも仕方がない。
807の言うとおりネットウオッチぐらいが適当なんだよな。
なんちゃって哲学なんだから。竹田は。まともに哲学として論じる対象じゃない。
3年ぶりぐらいにこのスレ来た。まだつづいてるんだね。
樹が陣営33号(08年2月刊行予定) 予価 1000円
*以下のラインナップは変更がある場合もあります。予めご了承ください。
【特集 精神科医・中井久夫の仕事】
(参加予定者)滝川一廣/熊木哲夫/伊藤研一/内海新祐/栗田篤志/佐藤幹夫
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【本を読む】
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・山内修(佐藤通雅著『賢治短歌へ』・洋々社・)
・宗近真一郎(河津聖恵著『ルリアンス 他者と共にある詩』・思潮社・)
・佐藤幹夫(小澤勲著『自閉症とは何か』・洋泉社・)
・由紀草一(佐藤幹夫・山本譲司共編著『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』洋泉社新書y)
・添田馨(北川透詩集『溶ける、目覚まし時計』・思潮社・)
・栗田篤志(村瀬学『初期心的現象の世界』・洋泉社MC・)
【連載】
・勢古浩爾・・・石原吉郎(10)
・浦上真二・・・古書会読(15)
・添田馨・・・クロニクル吉本隆明(最終回)
・近藤洋太・ ・ ・戦後思想私記(4)
・倉田良成・ ・ ・日本近世の絵師たち(新連載)
・中村武光(文)/くろいわひさお(写真)・・・ふらふら東京散歩(2)
【匿名コラム】
LinkURL:
http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/33sippitusha.htm
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竹田 青嗣/西 研著
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>>852 なんちゃって哲学ではない哲学者って日本では誰?
「目的」なんて無いんだよ。
「竹田とフッサール」とかいうマスかき野郎は白痴に違いない。
フッサールは「カントの言ったこと」を繰り返しただけだよ。
間違ったことでも断定的に書いていいなら
誰でもわかりやすそうな感じの本は書ける、
ただ、まともな学者はそんなことするとむしろ害が大きいからしないだけ
巷にあふれる自己啓発本とかわらない。
文庫なら同じ値段でデカルトやフッサール、
古代ギリシア・ローマの哲学者達の叡智を学ぶことができるのに
わざわざ、金や自己満足のためだけに書かれたクズ本を読む必要があるだろうか?
バカは薄めたものしか好まないらしいね
竹田は天才
哲学自体がバカ好みの薄めたもの。
考えても見ろ、どこのバカ学問が未だに2000年前の「古代ギリシア・ローマ時代」
のカビの生えた哲学者の言ったことをテーマに駄文を量産しまくってるんだ。
駄目な思想は退場するのみ
866 :
考える名無しさん:2008/02/04(月) 17:15:42 0
ウィトゲンシュタインについて竹田青嗣がまとまった文章を書いてる本ないですか?
867 :
考える名無しさん:2008/03/10(月) 00:27:57 0
愚か者の哲学を読んだんだが、この人は極端な無神論者だと思った。
でもヨーロッパのアテイズムの系譜とは違うと思う。
だからフーコーの「人間の死」も何か誤解してる感じがする。
哲学板らしくどこがどう違うと思ったのか論理的に説明してくれると有難い。
どの本の何ページのどの部分がどうおかしいのか。批判する人はこれお願いね。
>どの本の何ページのどの部分がどうおかしいのか。
竹田自身がそうやって真正面から何かを批判しているのを見たことがないんだが。
870 :
考える名無しさん:2008/03/27(木) 11:19:10 0
竹田が一番まともなこと言ってる希ガス。
>>868 久々のループ(1年ぶり)だな。
〜〜ページがおかしい→それは些細なこと!
以下ループ
873 :
考える名無しさん:2008/04/23(水) 01:02:54 0
竹田最高!
874 :
考える名無しさん:2008/05/04(日) 01:19:41 0
竹田最高
875 :
考える名無しさん:2008/06/19(木) 02:29:35 0
竹田青嗣さんは半島に帰って、半島人の役に立つ事を
した方が良いと思います。
876 :
考える名無しさん:2008/06/19(木) 03:29:36 0
哲学なんて何の役にも立たない
条件付きの明証性から、その明証の可能条件を除いた場合を考えるというのは、何を今更というような古いテーマ。
『存在と時間』に『全体性と無限』を加えるのは蛇足だし、『論理学研究』に『存在と時間』を加えるのも蛇足。竹田なんてお呼びじゃない。
人の哲学をパクって何が「竹田現象学」だ。くたばれ。
879 :
考える名無しさん:2008/06/24(火) 02:14:11 0
ま・た・入・門・書・か・よ!
881 :
考える名無しさん:2008/06/25(水) 13:32:33 0
『知識ゼロからの哲学入門』…w
自分より勉強してる人間からの批判はハナから受け付けないと。そういうことですか。
竹田の大衆性はいかがなものかとは思うが
それを批判する日本の哲学界もしょせんは蛸壺で
大したことがない者を、大したことがない者どもが批判しても
「何だかなー」という感じ。
なお、私が「大した者である」ということではないので、お間違えの無いように。
883 :
考える名無しさん:2008/06/25(水) 18:10:27 0
竹田はあくまでフサールによって、強引にポストモダンを切り崩そうとしている。
しかし、少し無理があるようだね。「言語的思考へ・・・脱構築と現象学」
>なお、私が「大した者である」ということではないので、お間違えの無いように。
バ〜カ
>>882 いやー批判すらされてないじゃないか。
鼻であしらわれているだけで、竹田本人もそうした哲学アカデミズムに喧嘩を
売る度胸もないじゃないかよ。
うーん、哲学アカデミズムも、無条件に尊敬できるかというと
そうでもないんだよなー。
次著のタイトルはもう決まってるらしいね。
『知能ゼロからの哲学入門』
竹田先生印税で八ヶ岳に別荘を買う予定だって。
早く出ないかなあ、『語学力ゼロからの哲学入門』
890 :
死刑囚。:2008/06/29(日) 14:42:22 0
>>885 喧嘩を売るつもりはないだろうけど、自分たちの現象学理解こそが本質的なんだとは
ことあるごとにいってるように思うが。
そしてそれがなかなか受け入れられないということも竹田さんは十分わかっているでしょう。
他の現象学をやっている人も別に喧嘩したいわけじゃないし。
ただ竹田さんや西さんの活動はこれからもますます広まっていくと思う。
オレに言わせればすでに彼らの論理には一片の死角もない。
『語彙ゼロからの哲学入門』の脱稿はまだですか?
>>890 お前も成長しねえなあ。
「オレに言わせればすでに彼らの論理には一片の死角もない」とか恥ずかしい大見得を切るところとかさ〜。
こんな戯言、お前のイタイイタイ「信仰告白」以外に何の意味があるんだよ。
「一片の死角もない」「論理」っつ〜観念が存在することが恥ずかして見るに堪えない。
「ますます広まっていく」って実際どうなんだ?
どこに何が広がっていくんだ?
一時的な知恵熱に冒された選択眼を持たない入門書の読者にか?
このスレの閑散ぶりを見ろよ。
とても「これからもますます広まっていく」ものには見えないんだけど。
だってみつからないんだもん。死角。
オツムの造りが単純な奴ってうらやましいよ。ウソだけど。
>>888 面白いね。それ。
古歩道みたいな人もいるしなー。
『フッサールゼロからの哲学入門』で竹田現象学の必然性を示していただきたい
897 :
考える名無しさん:2008/06/30(月) 11:01:37 0
どうして、「純粋自我」がデカルトの「我」=認識する主体と
違うのか。この辺のところがいま一つ形而上学を脱せない点であること
に、竹田さんは解ってないよね。
「言語論的思考へ」で、デリダを批判できない点は、ここだよね。
そして、客観的なものを現象学的に現象として批判している点は評価されるが
認識を「了解」として、その共通了解=正当性へと強引に持ち込むこと、
これはフッサール現象学の限界であるのだが、で外部を否定した後に今度は
信じられる絶対的なものを現象(内部)=意味の絶対了解=確信を持ち出し
新たな形而上学を築いたことがどう言う事か解っていないんだよ。
>>892 >このスレの閑散ぶりを見ろよ。 とても「これからもますます広まっていく」ものには見えないんだけど。
スゲー笑える。
2ちゃんの世界が全てと思ってる真性ニート。
竹田を批判してる奴は哲学者あるいは評論家になって同じ土俵で勝負しなさい。
観客席で吠えてても誰にも相手にされないよ?
>>898-899 何でたかだか入門書製造機にケチつけんのにわざわざ「哲学者あるいは評論家」にならなきゃいけないのか全く理解できないね。
バカか? お前は。
日本で最も自由で活発な議論が行われている場で何の言及もされない入門書製造機っておかしくね?
「入門書」なんだから最も門戸の広い著作であるはずなのにこの反応の薄さ。
で、お前の出版産業への信頼感も凄く古臭いね〜。
死刑臭いや加齢臭が伝わってくるよ。
今、論壇なんかどこにあるんだ?
偏向入門書にしたたか酔わされたお前のやわらかオツムの中の安っぽい知のヒエラルキーの最上階以外に。
>>900 だから偉そうに言うなら、こんなチンケな所で管を巻いて
ないで、お前が画期的な入門書の一冊や二冊書いてみろ。
その勢いなら竹田より画期的な哲学の入門書の1冊や2冊書けるだろ?
まぁ文体見る限り、その辺の高卒お笑い芸人よりも駄目っぽいが。
>>900 偏向入門書ってのが理解不能。
客観的&絶対的な書物があると信じてるガキ?
お前は過去に酔わされた本は読んだこと無いのか?
あるなら、それを偏向と思ってる人から見たら偏向書だ。
あっ、そうそう。
俺も竹田が同じような入門書ばかり書くのにはウンザリしてる。
竹田が哲学者とか、そんなことには全く興味ないし。
竹田はタイムリーな事件とか世相に関して対談本を出したり
事件や世相と絡めて欲望論を展開する本を出してくれればいい。
>>901 何で俺が「入門書」を書くんだよ(笑)、このオモシロ宇宙人が。
しかし竹田って奴はとんでもない層をターゲットにしてんだな。
『知能ゼロからの哲学入門』、出したらベストセラーになるんじゃないか?
いや、俺も竹田の商才だけは認めるよ。
二番煎じ、三番煎じ、いや、それ以上を恥ずかしげもなく提供する面の皮の厚さも評価しよう。
たいしたビジネスマンだと思うよ。一流だ。
自分より知識の無い者に顧客を絞って「教える」という優越感と、初心者という一番でかいおいしいパイを狙う、
一石二鳥的なビジネスモデルに執着する気持ちも理解できなくもない。
でもちょっとやり過ぎだろ? 欲の皮張り過ぎだろ? 端から見てると笑っちゃうよ。
竹田はもう社会に対して具体的に何ごとかを言う気は無いと思うよ。
楽だもん。入門書書いてる方が。
好きなんだよ、自分より「下位」の者を相手するのが。もちろん金もね。
下手に戦争なんかについて言及して叩かれるより、そっちの方が絶対いいし、実際そうしてるし。
もう現在の社会に対して有効な何ごとかを言える人間は「論壇」にはいないし、
もともとそれができない竹田にそれを願うのは酷だと思うよ。
>>905 社会に対して有効な何事かを言えた人間は過去に居たのか?
ぜひ名前を挙げてほしい。
まあ竹田は哲学ヲタだからな。
入門書で恋愛を語る暇があるなら、時代の論客との対談本出してほしい。
要するに、竹田は哲学本質がよくわかっているということだ。
哲学なんて、所詮「娯楽」だと言うことを、
909 :
考える名無しさん:2008/07/04(金) 18:18:55 0
竹田の纏める力を認めないわけにはいかないだろうね。
浅田が構造主義・ポスト構造主義を才能によって纏めたならば、
竹田はフッサール現象学・ヘーゲル・ニーチェ・ハイデガーについて
分かりやすく纏めている。ただし、ハイデガーについては今一歩切れがない。
それと同時に、フッサール現象学にあまりにも肩入れし過ぎていて、
これをもって、デリダを批判すると言う過ち(言語的思考へ)を犯しているのではないだろうか?
現象=個々人の絶対的な意味がある形而上学へと回帰する事を忘れている
のではないだろうかね。
竹田は私の恋愛略歴 みたいな本を書いてくれ
アキバ事件とか超ベタな事象をネタにした竹田のエッセイ本が読みたい。
信念は対立していなければいけない。
アプリオリな認識。また、明日は太陽が昇るだろうとか、今は暑いが、いつかは冬がくる。
そういう認識自体、自然や経験そのものからは出てこない。自然を経験を超出し、現実に働きかけ変化させるものだ。
それが各人において同じなどということはありえない。日の動きを見て暦を作り、天動説つくり、地動説つくる。信念は対立しまくって当たり前。
人が何かを認識するとは、そういう認識していない人間に対して、多かれ少なかれ、敵対的にふるまうこと、こちらの考え方の方が正しいから従えという部分必ず含む。
それはお互い様で、その対立敵対を通してより良いものを目指していく。それは当たり前だ。
カントのコペルニクス的転回とはそういうことだ。自然の原理に人間が一致するのではなく、人間がシステムからはみ出し、システムに働きかけて現実を変える。
個別的な主観、視点からは物の見え方は違う。視点、信念の対立を利用して社会を変える。
だけど、カントにしてもデカルトにしても、システムからの自由を前提にしたより良い社会への実践の関わりを目指すはずが失敗している。
目論見とは違い、読者を近代のシステムのより良い歯車にする方法論に転化する。中途半端に一般性を求め、信念対立を解消するシステムを導入してしまうから。
ニーチェやスピノザやマルクスやキェルケゴールはそういう一般性に抑圧される唯物論的なものでシステムに収まらない現実を問題にした。
ヘーゲルなどはカントの意図を踏みにじり、信念が対立していても、結局は主と奴の弁証法で社会のシステム内面化するものでしかない。
それを大真面目に復活させてるのが、竹田で論じるに値しない。屑である。
ヘーゲルも竹田も上から目線と下から目線の違いはあるが、システムから外れて、活発に信念対立起こし問題を追及すべきところで、
自発性消して現実への関わりを殺す眠りの哲学でしかない。
人が道具で物を作ったり、機械作ったりすること自体、自然とはかけ離れて、自然を改良し変えてしまう。
人間同士の思い込みも同じくらい、変化させ、互いに絡み合って互いに否定し変えていかなければどうしようもない。
視点が違うから信念対立して傷ついて可愛そうですねと、甘やかして商売する竹田は哲学でも何でもない。
意識とアプリオリ=超越論な学である必要がない、ただの講談でしかない。
論外だが、現象学自体が根深い問題がある。
フッサールもデカルトやカントの外部への意志、システムからの離脱の志向という大事な部分を消してしまう。
一方では個別の視点を強調するが、結局のところ、間主観性があって、各人に共通なもの、目的があって、
それを受け継いでいく目的論でしかない。後期の著作開けばそれしか書いていない。それは散々論じたし、単なる事実。
相互に感情移入して理解できる部分があるのは当然だが、わざわざ、フッサールに教えてもらわなくともいい。
一方では、違いを強調しつつ、他方では違いを消去して、そんなことで対立が消去できるなら、わざわざ、
システムに収まらない、個別性強調する意味など全くないことが証明されてしまっている。
相互に感情移入したり、理念的なもの形相分析したり、一般的、システム的なもので、済む部分ははじめからどうでもいい。
そういう共通で済む部分ではなく、今までの人や社会で通用している観念とは違うものが問題なのに現象学では原理的にはじめから歯が立たない。
現象学の価値とはそういう問題点浮き彫りにして失敗を示したところにある。偉大なる壮大な実験。
それ以外の現象学はただの解釈学でただの講談。そもそも、意識とかアプリオリなものを論じる意味がない。
世間一般の現象学とはそれ以外の何ものでもないが。
そういえば昔このスレに、でり太くんっていう知能最低の大バカがいたよなあ。
アホをひけらかしているのに自信満々、そのくせ名前が「竹田ファン」という、でも竹田哲学には
明らかに批判的な見解を持ってるのは誰が見ても明らかな人に、売らなくてもいい喧嘩売って、
ケチョンケチョンに論破され、「この竹田信者め」と捨て台詞を残して、亀のように首をすくめて
逃げ回っていたが、ほとぼりがさめたころに現れて、またアホをひけらかすというでり太くん。
論争になるとすぐに首をすくめて逃げ回るので、「亀吉」とも呼ばれてたっけ。
今頃どうしているのかなあ・・・
さて、竹田スレ専任サンドバッグのご登場だよ...。
>914
いたなあ、そういえば。現世に戻って大人になったんじゃない?
>915
まあ、そう突っかかるなよ。
まあ、反体制を気取ることが尊いわけでもなんでもない。信念対立を調停する。
そういう目論見があることはわかる。だが、その目論見の手段として現象学は有効か。
成立していないのではないか。
同じものを見ても、一つの視点からの知識は、別な視点、経験踏まえた知識とは違う。
そんなことは当たり前だ。問題はその先にある。
仕事のやり方変えなくちゃいけない。手順を変えなくちゃいけない。
それまで馴染んだやり方を否定する=相手のやり方を一度否定したうえで、
仕事をより能率的にしようとする。
こういった時、一々、表象の中、意識の中で各人の意味や妥当が違うなんて議論は有効じゃないどころか有害だ。
各人の身体、馴染んだもの、スキル、利害とか、意識の外部の現実との調整が意味を持つ。
飯に誘って不満を吐き出させるとか、後での昇進に力添えしてくれると思わせるとか。
各人、各人の意識、視点による違いを超えて普遍妥当な仕事へのアプローチを考えたなどと言ったら狂ってる。
竹田の現象学解釈はつまりはそういうことだ。
イスラム原理主義と宗教は超越だからと信念対立説得するより、職を与えたり、社会的対立を沈静化する方が有効だ。
観念で対立を統合する必要はなく、されていたら、イデオロギーが欺瞞が紛れ込んでいる。
それはマルクスで散々教えられたことだ。
観念論者が偉そうに言っていても、それは現実の諸関係の抽象化、合理化にすぎない。
結局、信念対立の解決とは、正にそのものめぐって、その現場でできる手段、利害を調整するしかない。
観念論の排除する外部性、身体、欲望、歴史、感覚、社会、経済、物質、経験、スキル。一歩引いた膜としての表象、意識で捉えては駄目。
ヘーゲルは腹をくくって近代のシステム押し付けるイデオロギーとしてしか哲学なないと断言した。今更大真面目に復興する竹田には頭が下がる。
確かに信念対立、それ自体は望ましいことではないかもしれない。
しかし、だからといって観念論者の提供するその調停が本来の対立より望ましいか否かなどわかってはいない。
一歩引いたところで出された解決案よりも、その対立の場で苦しみながら、出した答えの方が本質的だろう。
カントなり、竹田なり、ヘーゲルなりの立場で好ましい結論を押し付けているだけでしかない。
それらを本質化して抽象化して構造語れると思うこと自体が過ち。イデオロギー。
仕事だって、信念対立だって答えはなくて、だからこそ、社会は進歩の可能性を持つ。
現場に踏みとどまらないといけない。可能性をつきつめあう現場で観念論の出る幕はない。現場の思想=唯物論。
観念論者の解釈が、別な立場、視点から見て正しい根拠などない。観念論の批判は既に結論でている。竹田の哲学への無知ぶりは笑えない。
彼らが正しい答え出すなら、観念超えて、視点超えて、意識超えて、対立の現場で手段、利害、先の可能性見据えて答え出せるか否かだ。
観念論、意識の現象論自体はその正しさとは関係ない。
竹田の議論は哲学ではなく、漫談。人気があっても板違い。まあ、904とか907とか需要があるのはわかるが。
本来、別板で作るべきだ。どうせ馬鹿が次スレもここで立てるのだろうが。
板違いであること、叩かれることが避けられないことだけは自覚しといた方がいい。
現実のシステムに適合できない立場からでるのなら、あくまで適合できないことの意味をつきつめるべきだ。
信念は統合できない方がいいのかもしれない。なのにシステムに一般性に至れるなら始めの立場自体が偽者だ。
フッサールが今までのシステムへの違和として自然主義的態度を批判したことは理解できる。
しかし、そのもって行き方を間違えた。結局、それを万人に妥当するシステムにしてしまう。
それで話が済むなら、はじめの違和自体、システムを稼動させる言い訳にすぎない。
で、結局、フッサールの間主観性や目的は万人が内属し、従うしかないシステムでしかない。
しかし、それがあるとして、それは初発のシステムでは救われない現実という問題意識とは違う。
フッサールが道を間違えたにしても、その意図はわかる。が、その後の現象学者は180度正反対になった。
フッサールはよくもわるくも閉じた視点から出発しつつもシステムから人を救う普遍性を目指した。
他のやつは閉じた狭い視点から、だからこそ通常と違うことがいえて、それを言える自分は冴えていると格好づけるため。
現象学の志向とはまったく正反対。
整理すると、
フッサール
システムで苦しんでいる。→その苦しみのない一般性に到達する。
→到達できるような一般性、苦しみのない一般性の立場ではそもそも現場の苦しみに届かない。
間違った現象学者
狭い視点から一般と違う結論出す。→その違った視点の方が一般より偉いと権威づける。
そこから二つの分かれて、特権性を誇示するパターンと小ヘーゲルになるパターンに分かれる。
→その視点に一般を隷属させるイデオロギーとして振舞う。→システムの歯車としての哲学。
観念論の駄目なところを剥き出しにした功績はあり、その末席に竹田もいるわけだが。
仕事のプロジェクトが頓挫したなら、飯をおごってなごませたり、無理な計画見直して、
実行可能なものに絞ったり、悩みを聞いてあげたり、手を回して必要な資材調達したり。
直接的な関係の中で答えをみつけないと駄目。
一般的なものはなく、人は直接的な関係からは疎外されている。
但し、そのことを自覚した天才、私に従えば一般性を回復できるって、詐欺じゃないの。
人を貶めて、自分が偉い従えという最低なイデオロギーじゃないの。竹田って馬鹿なの?
一般性がないからって、問題を解決するには、各人の意識=表象に引っ込だって駄目。
プロジェクトを解決するには、「もの」=「現実」で食い違い苦しんだりしながら、
解決するしかない。竹田って頭おかしいの?
人と人との直接的な関係に向き合って答えを出すしかない。
それ以外は観念論の欺瞞にすぎない。竹田の一般性や直接性から人は疎外されている。
しかし、観念通してうまく位置づけるって議論は観念論の駄目さを凝縮したもの。
竹田信者って現実逃避で馬鹿になったの?こんな当たり前のこともわからないの?
何で板違いってわからないの。このスレの信者って字が読めないの?
竹田とフッサールさんへ
1)世の哲学者で尊敬する人は誰?
2)尊敬する理由は?
3)神あるいは霊魂は存在すると思いますか?
4)普遍的・客観的な「物自体lは在ると思いますか?
>920
逆に考えるんだ。普遍的・客観的なものは意味がないからカントにおいてどうでもよかったと。
普遍的客観的に至ろう物自体を一般性を捕らえようとしたフィヒテ、ヘーゲルら観念論は偽の問題に陥ったと。
神あるいは霊魂は、今のシステムへの批判であり、この世の不正を許さない要請から作られた。
しかし、それが再び、一般性押し付けシステムから抜け出すはずがシステム押し付ける装置になる。
意識の外は不確実なものしかないが、意識に与えられた「こと」だけは、普遍的・客観的だとは、
カントの物自体が普遍的・客観的で存在するのかたどり着けるのかといじくりますのと同じ偽の問題だということを。
現象学の求める、意識と実在、主観客観の普遍性、客観性の転倒もしょせん擬似問題だということを。
神や霊魂と同じでそこに本当の問題がないということを自覚しなければいけないことを。
世間のシステムへの外部への視座として神を考えることは必要だ。
しかし、それを万人に妥当する倫理、道徳、法則に転化するとき、それは単なる対抗権力にすぎなくなる。
>920
912から
>ニーチェやスピノザやマルクスやキェルケゴールはそういう一般性に抑圧される唯物論的なものでシステムに収まらない現実を問題にした。
後は843
>私自身はイデアリズムとっていないからフッサールには反対だ。あくまでここで書いているのはフッサールの意見ね。
ここでイメージしているのはウィトゲンシュタイン、クリプキ。
こんな事を書きつづっても神とか普遍性とか書き付けちゃう素直な920にはわかるわけないわな。
今までの人生で一度も可能性さえ想像できなかった思想でとても受け付けない。悪いことをしたな。
プラトンのイデアやカントの物自体が客観であって、意識や現象は客観的じゃなく客観目指せというのが幻想、形而上学だとしても、
意識や現象こそ客観であって、そこからあやふやな現実を把握するというのもまったく同じレベルの幻想、形而上学。
客観的、普遍的なものがあり、現実をそれに従属させればいいという形而上学=権力構造は一緒。
同じレベルの倒錯。そこで従属させれば済むならはじめからどうでもいい擬似問題。
それじゃ済まないから苦労している。観念超えた、身体、スキル、経験、歴史を問題にするなら、
意識、観念という眼鏡は邪魔。いらない。
プラトンをカントを批判するなら、竹田自身の理論も全否定されることは自明。
プラトンの読み方も、イデアは現実のシステムへ対抗する外部性の象徴として、
普遍、客観、一般から逸脱する別な生き方の可能性を読み込むべきで、そもそも師匠のソクラテスはそうだった。
カントに関しては、ドゥルーズの「カントの批判哲学」や「ニーチェと哲学」はそういう試み。
前に来た時はほいほい釣れたんだが今回なんでこんなに静かなんだ。
前回は馬鹿が何か言いたくなる概念の飛躍があった。
馬鹿じゃなければ、ごく当たり前の基本でも。だから馬鹿は釣れた。
今回、竹田信者は去勢されたの?
馬鹿でさえも全く否定できない基本的なことから完全に説明してしまった俺が悪いのか。寂しい。
馬鹿さえも、やっとごく当たり前の哲学の初歩がわかって竹田を卒業したのなら、めでたいけど。
別になあ。
主観に与えられたものは確実で、その外の現実を指導するって、そんな権利誰が竹田に与えたの?
自分が権力握りたい為に、主観と客観無理やり分けて差別しただけじゃないの?とか、
身体、スキル、経験、歴史、社会、経済の意識の外部の問題解決するためには、
直接意識の外部と向き合うべきで、意識なんて通して把握するべきじゃないんじゃないの?とか、
そういうごく当たり前の疑問に答えてくれるなら竹田信者になってもいいんだが。
信者はそういう技術も習おうとも覚えようともせずに思考放棄していられたんだな。馬鹿だったんだなあ。
デカルトはスコラ哲学や、宗教戦争のシステムからの離脱として、自由の国、オランダで思考実験を行う。
超越的に正しさを押し付ける従来の権威の遮断。カントの超越論も。しかし、自由の提唱は抑圧に転移する。
デカルトの蜜蝋は、感覚を疑ったうえで、疑えない一般性をでっちあげるため。におい、味、全て失った蜜蝋。
感覚はあてにならないが、捨象された空間、延長に広がる事物という事実は残る。
しかし、それは物理主義、機械論のシステム押し付けてるだけ。散々批判された。
カントはそのコギトや蜜蝋を宇宙大に広げる。世界をその中に閉じ込める。
デカルトのような外面ではなく、常に既にシステムの内部でしか思考できない限定されてるとエレガントに攻める。
空間はユークリッドだけじゃなく、有限な時間、空間は考えられ、次元の数だって、3や4に限定されない。
世界や思考のシステムが限定されていて、各人共通だから、一般性あるというカントの根本が既に間違い。
カントの想定した宇宙大の蜜蝋は存在しない。思考の限定は存在しない。
デカルトもカントもシステムからの自由の志向が、悪いシステム押し付けてるだけ。
彼らの方法的懐疑も権威の否定も本来の目的見失った失敗。
ヘーゲルは、その点勇ましい。視点によって限定された観念論の試みは間違いとの見方を
全否定する。とりもち除いた認識は意味がない。絶対者はそこにいて認識は正しさは保証される。
絶対者とはおどろおどろしいが、何のことはない。普遍性、一般性を保証もないのに、
押し付ける近代社会のシステムのこと。それを内面化する修行が哲学。
そもそも、システムに無理やずれがあり、限定された視点がシステムに一致できないから問題じゃないの?
そこは豪快に無視する。全てを成立させるその一点を嘘つくことで通す。
個別的な視点(私)、と学知的一般的な視点(われわれ)の上下関係、
個が共同主観的システムに隷属する構造は維持して、全体系を作る。
反照規定。言語的一般性の先行性。それが命。
共同主観のシステムの中でその網の目、観念の中にしか世界はない。
カントやデカルトが恐る恐る一般性求めシステム持ち出して普遍性でっちあげたのに、
ヘーゲルでは最初から個は一般的システムに隷属するものでしかない。
言語的、抽象的なものが先にあり、その逆ではない。
精神現象学の緒論や第一章はそれしか書いていない。
数学史の巨人、デカルトや、数学のように哲学を普遍化したかったカントとは
ヘーゲルは発想が違う。世界をいかにシステムの隷属させるかが哲学。
一般的=共同主観的なものが全てに先立ち従属することが哲学だという宣言。
今、それを受け継いでいる虚人が竹田青嗣。
個別的な視点(私)、と学知的一般的な視点(われわれ)の上下関係、
個が共同主観的システムに隷属する構造は維持して、全体系を作る。
但し、竹田の場合はヘーゲルほど露骨に学知的立場が正しいと言うのは避けて
何か知らないが、個別的な視点を維持しつつ良く考えれば、一般的な視点を
確保できる到達できるかに語るが元よりそんな保証はまったくなく、嘘である。
抽象的、雰囲気だけで、破綻している方法論には目をつぶりつつ、
形而上学的権力関係を維持して、個が共同主観的システムに隷属する関係を
維持して哲学を語る。
普遍的、一般的なものをあるいは同じことだが、我々を強いているシステムを語ろう、
向き合おうとすれば、意識の外部に出るしかなく、個の視点、一般的な視点の違いとかの
すっとこどっこいな議論は歯が立たないから仕方がない、やむをえない。
フッサールは、デカルト、カント的な蜜蝋やヘーゲル的な恣意的言語的一般性は相手にしていない。
どこまでも意識にでてくる表象などの個別的なものと、そこからは決して出てこない、アプリオリな一般性を問題にする。
何で個別的閉ざされた観念から、他者も納得して従う、規則がシステムが出てくるのか。
確かにそれは方法論としては正しいと言えば正しい。
他者にも通用する普遍的規則・一般性を観念論の立場から把握する方法論はこれしかないかもしれない。
相互に感情移入したり、理念的なもの形相分析したり、一般的、システム的なものを確かに把握したとはいえる。
しかし、そこには意味はない。
デリダが指摘するまでもなく、そういう理念的なものを生み出している、差異、差延、唯物論的現実を把握すべき。
一般的、システム的なものに先立つ、他者との食い違い、現実に向き合わなければいけない。
そして、それはフッサールの方法論的にありえない。
フッサールが取り出した一般性、普遍的なものはどうでもいい抜け殻でしかない。
更に、フッサールの一般性志向排除すれば、フッサールからは何も残らない。
ヒュームじゃあるまいし、アプリオリなものと向き合わずに、単なる意識や表象のおしゃべりしていても無意味。
超越論とか、アプリオリとか論ずるのは我々の単なる経験だけからは出てこない、システムとの戦いをその意味を問うこと。
他者との現実を支配する普遍性、一般的な規則を問題化すること。
しかし、フッサールもどこかで仕損じてしまっている。
>ヒュームじゃあるまいし、アプリオリなものと向き合わずに、単なる意識や表象のおしゃべりしていても無意味。
そして、これがいわゆる現象学として流通しているもの、全て(含むハイデガー)。
単なるおしゃべり、俺の視点の切り取り方は格好いいだろうの漫談。
現実のシステムとの戦いとは関係ない。
ああ、それにしてもオナニーは気持ちいい。
やっぱ駄目な奴は駄目だよな
議論がでない代わりに偽者が出るようになってしまった。
930みたいなチンカスは、何を希望に生きているんだろう。
何がしたいんだろう。氏んでね。
意識を超出するアプリオリって言っても、他者との規則、普遍性持つ絡み合いを問題にしている。
その際最悪なのは、アプリオリはわからないと意識に引っ込むこと。これは竹田。そこからは何も出てこない。
デカルト何かは、アプリオリを問題にしてシステムの恣意性を還元しようとした。
悪い霊なんかは、クリプキに先駆けてさえいる。クワスの問題に触れている。
だが、そこからはそれまでのシステム疑い感覚さえ疑うことが、単なる自分向きのシステムの押し付けの方便になる。
延長といった数学的物理学的システムは個々の経験超えて誰にとっても一般的だから従えと支配するため。
カントも要は同じ。
ヘーゲルなんかは、目の前の一枚の紙を語ってもそれは聞き手には一般的な一枚の紙としてしか捉えられないから、
普遍的一般的なものこそシステム化されているものこそ本質的だという。
そこで一枚の紙といってもとらえるものが違う、その多様な現実に立脚して一枚の紙でとりおとされるものこそが
本質的なわけだけど。システムからこぼれおちるものこそ。そこは無視して弁証法は成立する。
読んでいる奴はたくさんいるんだろう。前回も次から次へと変なのがわいてきた。
でも、全員ぼこってしまったからなあ。何もいえない、いう度胸がない。
結局、その程度の奴しかない。930を先頭に。
ちゃんと文句があるなら、成りすましなんかせずに議論すればいいのに。
前回の独我論をめぐる初歩的な誤解の話とかは間違いであっても啓蒙的だった。
役に立った。そういう事さえ今はできないわけで。
どちらにせよ竹田自体は哲学の話じゃないわけで。
次スレは立てないでね。
デカルト厨、カント厨、前回いたからきっちり論じてやったのに、
今回出てこないのはやっぱり馬鹿だったからか?
まともな議論はできないのに、よくわからないで権威におもねっていただけか。
まあ、前回もそうは感じられたが。
本当にデカルトカントわかっているなら、考えているなら何かしら意見が出てきていいはずだが。
自作自演は「竹田のイヌ」の専売特許だからな。
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
このレスをみたあなたは・・・3日から7日に
ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり
成績や順位が上ったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに
5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて
ほしくないことが起きてしまうでしょう。
コピペするかしないかはあなた次第...
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
ああ、それにしてもオナニーは気持ちいい。
樹が陣営33号(08年刊行) 1000円
【特集 精神科医・中井久夫の仕事】
(参加予定者)滝川一廣/熊木哲夫/伊藤研一/内海新祐/栗田篤志/佐藤幹夫
【特別掲載】
・西尾幹二・・・三島由紀夫の死と私(第2回)
【シリーズ・人間学アカデミー】
・池田清彦・・・人間という生物の自由と不自由(1)
・佐伯啓思・・・人間と貨幣(1)− 貨幣・ユダヤ人・神経症
・菅野覚明・・・日本人にとって宗教心とは何か(1)
【本を読む】
・水島英己(神山睦美著『夏目漱石は思想家である』・思潮社・)
・山内修(佐藤通雅著『賢治短歌へ』・洋々社・)
・宗近真一郎(河津聖恵著『ルリアンス 他者と共にある詩』・思潮社・)
・佐藤幹夫(小澤勲著『自閉症とは何か』・洋泉社・)
・由紀草一(佐藤幹夫・山本譲司共編著『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』洋泉社新書y)
・添田馨(北川透詩集『溶ける、目覚まし時計』・思潮社・)
・栗田篤志(村瀬学『初期心的現象の世界』・洋泉社MC・)
【連載】
・勢古浩爾・・・石原吉郎(10)
・浦上真二・・・古書会読(15)
・添田馨・・・クロニクル吉本隆明(最終回)
・近藤洋太・ ・ ・戦後思想私記(4)
・倉田良成・ ・ ・日本近世の絵師たち(新連載)
・中村武光(文)/くろいわひさお(写真)・・・ふらふら東京散歩(2)
【匿名コラム】
LinkURL:
http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/33sippitusha.htm
人間学アカデミー第8期講義内容・要項
第8期テーマ 近現代を問い直す
定員
◎各回50〜60名程度
◎シンポジウム100名程度
日程 日程は各講義のご紹介をご参照ください
時間
◎各講義15:00〜17:30
◎シンポジウム14:00〜18:00(予定)
会場
PHP研究所・東京本部6Fホール
東京都千代田区三番町3-10
◎地下鉄半蔵門線半蔵門駅下車 5番出口より徒歩5分
【各講義】
◎<日本語で考える>とはどういうことか
井崎正敏 批評家・思考論
2008年9月20日(土)/10月4日(土)/10月18日(土)
◎正気と狂気の間
春日武彦 東京未来大学教授・精神科医
2008年11月15日(土)/12月6日(土)/12月20日(土)
◎現代社会批判を批判する
山形浩生 評論家・経済思想
2009年1月24日(土)/1月31日(土)/2月14日(土)
◎ポスト・ニヒリズム社会の展望
佐伯啓思 京都大学教授・社会思想史
2009年2月28日(土)/3月14日(土)/3月28日(土)
◎福沢諭吉思想の現代的意義
小浜逸郎 批評家
2009年5月16日(土)/5月30日(土)/6月13日(土)
◎シンポジウム
2009年7月4日(土)
http://d.hatena.ne.jp/NEAT/20080920
941 :
考える名無しさん:2008/08/23(土) 21:59:13 0
上げてみる
ああ、それにしてもオナニーは気持ちいい。
944 :
考える名無しさん:2008/09/29(月) 22:26:42 0
大澤真幸の修士論文が読解できません
竹田読者ってアホなの?
竹田信者って馬鹿なの?
耳をすませば駄目な思想が退場していく足音が聞こえる
竹田自体が哲学板の対象じゃない。
「竹田とフッサール」ってコテハン君は、自分だけはフッサールの
現象学のテクストを誤読せずに理解してると思ってる御目出度い人?
西研の「哲学的思考」が好きで竹田青嗣へは彼から入ったんだが、西も竹田も、
「現実や意味を語ることは、こういうやり方でしかありえない」と言っている者だよな。
「意識のおしゃべり以外の選択肢はない」と考えてるわけで
その洞察に全く言及することなく、
意識のおしゃべりなんて後ろ向きだと言っても彼らへの批判にはならないだろう。
批判する者さえ絶えたダメ思想の末路ってこんなもんだよね。
残ったのはクズのような入門書の山。
廃品回収さえ引き取らない。
意識の洞察として語られ読まれることと、
それが読者に理解されることは、
竹田の立場からすれば哲学的実践と言えるものだろう。
竹田の「入門書」の記述としてそれは一貫した意図としてあると思う。
>>951 一般人とか関係ないような、言葉のパズル遊びを決め込んで
ニート的自閉の世界に閉じこもってる、哲(学者)よりは
100倍マシだよw
>>948 すげー笑える。
2ちゃんの哲学板なんて哲学とは程遠いだろ。
「どこが哲学者?」って思えるような奴のスレとかあるし。
そもそも日本に哲学者なんて居ないだろ。
哲学板に栗本慎一郎スレが存在してることに感動した!
悔しいのう。悔しいのう。
>>953 哲「学者」より「哲学」者?(笑)
わからないあなたに私がわかりやすく噛み砕いてあげましょう(笑)
体のいい知的コンプレックス解消業でしょ。
わかったつもりになるだけっていう。
>>957 「哲学」者より哲「学者」?(笑)
社会不適応のニートに私が難解に装って知的功名心を満足させてあげましょう(笑)
体のいい対人コンプレックス解消業でしょ。
わかったつもりになるだけっていう。
日本には哲学者は加藤諦三と中谷彰宏しかいない
竹田信者って屑ですね。
本当の意味での哲学者は中島義道だけ。
949 954
何顔真っ赤にしているんだ。恥ずかしい奴。
誰も吉本隆明を超えられないのか
964 :
考える名無しさん:2008/11/12(水) 03:56:00 0
もれはちょうばかな小卒だ
せいじ ってじがへんかんできなくて
このいたにたどりつけなかたんだ
いまやっとコピペ技術をマスターして
この板の存在をしった
死刑囚も死刑が執行されたな。
電波だからな。
竹田さんよお、おれ『現代思想の冒険』読んだけど、あれじゃあ。
つまりあんたの言ってる事って「この世に真理なんてものはないし、
社会は何をやっても良くはならないし、快楽の追求はどこかで必ず挫折する。
人は真善美いずれにも辿り着けない。あるのはただ絶望だけ。
まあそれはそうとして頑張りましょうネ」っつうことでしょ?
現象学だとか普遍性だとか相互了解の信だとか、展望を示してるように見えて、
結局ニヒリズムを克服できてないじゃないか。
竹田終わっている。
>>966 本人としては知的弱者のルサンチマンを程よく慰撫して金が稼げればそれでOKなんじゃないの?
そんなものに「ニヒリズムの克服」を求めるのは無いものねだり。
悔しかったらビジネスモデル見つけろって教訓だろ。
現象学が厳密なわけないよ。
>>968 オツムの程度が知れる解釈がスゲー笑える
>>970 まあ、いきり立つなって、知的弱者くん。
君の知的ルサンチマンは快く慰撫されたのだし、竹田は金を稼いだ。
メデタシメデタシじゃないか。
何か問題があるか?
>>971 ルサンチマンとかいう言葉使うなよ恥ずかしい・・・。
つか竹田にパッション持ちすぎだアンタ。
「知的弱者」に「ルサンチマン」ね。
そろそろ自分がそうだって事に早く気付いた方がいい。
社会的地位も年収も知能も完敗の兵が竹田に嫉妬するスレ
人間的自由の条件はオモシロイ
>>966 答えが欲しいなら、日本最大の哲学家である中谷彰宏さんの著書を読め
>>972 これだから知的弱者は嫌なんだ。普通に話が通じない。
俺は竹田が「知的弱者のルサンチマンを程よく慰撫して金が稼」いでいるという事実を指摘しているだけで、
そこに何で竹田への「パッション」が生じるんだよ? そもそも「パッション」って何なんだよ(笑)?
支離滅裂で意味わかんねえよ、知的弱者の言うことは。
竹田の著作が「知的弱者のルサンチマンを程よく慰撫」するものでなけりゃ何なの?
>>976 知的弱者がルサンチマンを持ってるって前提自体が君の妄想だ。
自分がルサンチマン持ってるからって他人に投影するなって。
つか悔しかったら君も本書いて金儲けすりゃいいさ。
ところで知的弱者ではないと思われる君の愛読書とかある?
恥ずかしくて言えない?(言えたら凄い度胸だ)。
>>968 ↑
966みたいな低レベルな奴にレスしてる時点で終わってるw
自演かな。
竹田もやっちゃってくれたよな。
せっかく哲学が高尚なモノで一般人には入ってこれない領域に
仕立て上げたのに、実は大した事がない単なる言葉のパズル
って事がバレちゃった。
小難しい言葉で防衛しても実際に人々と討論したらボロが出る。
まぁ、大学というレジャーランドで、馬鹿相手にツマらない
ルーティンワーク講義するという場面があるから救われてるが。
日本の自称哲学者の胡散臭さを露呈させてしまったのは竹田。
「完全解読 ヘーゲル精神現象学」読んだ人いる?
「どうせ死んでしまうのだから、何をしても虚しい!」「人生はすべて偶然に左右される!」「何が正しいのかわからない!」
「生きる理由がわからない!」と呟いているきみへ。きみの呟きは恐ろしく正しい。人類が地上に出現して以来、われわれはこう
問い続けてきたし、しかも誰も最終的な答えを見いだせなかった。きみが二十代の若者であるとしよう。よく知っているだろう?世の大人たちは、
一致団結してきみからこの問いを奪おうと企んでいる。「そんなこと考えたって仕方ないじゃないか」「もっと前向きのことをしろよ」
というように。あるいは、「よく考えてごらん、生きる理由はあるはずだよ。きみはよく考えないから、そんなことを言っているんだ」「どうせ死んで
しまうからこそ、一瞬一瞬を大事に生きるべきではないかなあ」というように。あるいは「その前に、おまえいったい努力したのか」「ずいぶん結構な身分だよなあ。
誰がおまえを養っているんだ?」というように、あるいは・・・。なぜ、大人たちはこうもこういう「正しい」問いを嫌うのであろうか。躍起になって
潰そうとするのであろうか。