関係性の哲学

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502wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU
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>>500

要するに(とまとめていいかどうかは、続きを待つ必要がありそうですが)、私と他者、及びその関係性を媒介する世界との関係性とは、相互にその実在性を「仮設」し合う、謂わば、「相互神秘性」としての関係のことになりますね。
その神秘性で仮設された関係性の中で、唯一、私が認識していると想定される「私」、
即ち、唯一、可知的なものであると想定されるところの、「私が認識している世界=実在する世界=実在している独我論者である私の世界」の寂しさは、
この仮設された「認識以前の物も実在する(と想定される)」世界の存在によって癒される、と。
即ち、「既に」認識されている私の世界と、「まだ」私には認識されていないが、やがては認識される可能性もあると仮設される世界(可能世界)とは、ともに、同等に実在する。
なぜなら、この両者の関係性は、既に認識されている私の世界(実在するものと想定される世界)と、「思考/夢想により架橋される対象であるところの、無内容ではあるが、いつかは実在する私の思考により、その無内容が埋められる世界」との間を、
私の思考/夢想という架橋剤により、その関係性が保証されているから、と。
さて、これらの、双方(あるいは三方)ともに仮設された存在間の架橋とは、どのようにして可能になるでしょうか?
「無内容ではあるが実在するものであると仮設される、私の思考/夢想する世界=私にとって、まだ無内容で、認識以前の宇宙」、の中で、
ぽっかりと「寂しさに包まれながら浮遊する可知的であり、実在するものと想定される私の世界」。
この両者の関係性は、私が絶えず思考すること/夢想することにより担保される、と。
ここで、何が可知的なものであるのか、何が実在しえているものなのかが危うくなってきます。
即ち、私(たち)が一元論、二元論、多元論等という思考をするための「規則」一般としての「定点」の置き所が見えなくなりますね。
それさえも、必要無い(あるいは、コギトエルゴスムスに時制を持ち込み、その過去の連鎖をも、なんらかの沁みであり、そもそも実体としては、存在しえない)ということであれば、別段、それはそれでも構わないのですが。