>>599 おそらく、
最高位の言いたい『ここにいる何か』は、
2500年というスパンの中でも仏教が想定していない部分なのです。
或いは、考察不要と等閑に付してきた部分かもしれません。
玉葱の皮を剥くように一枚一枚剥いでゆき、最後【ニ枚】のところで手を止める。
(最後一枚は【そこにあること】。手前一枚は【現に活動しつつあるもの】。
といったイメージだろうか・・。
この二枚の、もう一つ上の一枚を「我」というラベルとして採用し、
能動性受動性を持つ【主体としての】最小単位とするような・・。
(勿論、日常の自己ではない。それよりは深層のものとして。)
それもまた、縁によって生じ、縁によって滅すのは言うまでもないが・・・。)
おそらくデカルトも、
最高位の言いたい『ここにいる何か』まで深くはないと思われます。
また、クオリアという概念(私はあまり好きではありませんがw)を関わらせるならば、
余計に古人の思想と直結はできないでしょう。
何度も言いますが、最高位の言いたい『ここにいる何か』が表層に浮き上がったり
(彼が頻繁に「誰が思考してるんだい?」「誰が見做しているんだい?」とすぐに日常レベルへ移行するように)、
或いは、万能の絶対者として振舞うようであれば、私はいつでも剣を取る。