このスレ用にまとめてみれば、
・人は、そして『「私」という、意識される認識主体(たとえそれがデカルト的懐疑の終着点にある「私」というものであっても)』は、
種々の条件によってそこに現れている、顕われている。
・初めに【私】があるのでなく、ある【在り様】が【私】として顕われていると見る。
・その条件としては、肉体・環境・過去の経験等によって規定される。
・また、ミクロに見れば、上記の制限によって現れる脳内の電荷のパターンが、種々の思考であると。
ある一瞬の特定の物質(分子でも素粒子でも何でもいいが)が私なのでなく、
また一瞬を切り取った写真のような脳内のパターンが「私」なのではなく、
あるスパンにおいて(時間的な連続において)見られる【動的な「在り様」】が【私】である。
・具体的な脳内のパターンはどのようなものか?その対応関係はどのようなものか?は、
脳科学の専門家にお任せするしかないし、また、畢竟わからないかもしれない。
・具体的なパターンを示すことができないところは、このスレ的に不十分か・・。
・また、このような記述方法は、弾道を数式で表現するかのように、
愛情をお金やプレゼントの山で表現するかのように、本質を大きく外しているかもしれない。
その意味では、最高位の「記述できていない。」という指摘はもっともなものかもしれない。
・どのような解説書(どの分野のどのような記述方法)が最も的確か?という別の議論があってもいいかもしれない。
ただ、最高位が、なぜ各種解説書を認めないのか?それがわからない。
何冊あったっていいじゃないかw 勿論、ピンきりで、トンデモなものもあるだろう。
が、それは一つ一つに対してちゃんと吟味すればいいことではなかろうか。
そうして、場面場面で、その都度適切な解説書を使用すればよいのではなかろうか。
(また、設計図である必要はないw)
たとえば仏教では、五蘊(十二処十八界)が解説書の一つだ。
社会学や法律の世界にもそこで使用するのに最も適した解説書があろう。
医学の世界にもあろう。生物学の世界にもあろう。
さて、全てに援用できる、オールマイティな解説書が存在するかどうか・・・?