以下、某所から拝借したもの
●バーナデットロバーツの体験の諸相●
●自己について●
○自己の存在を知るには、心がそれ自身を対象として見るという自意識は必要ではなく、
それがなくとも、思考や感情が起きてそのまま意識される、と思っていたのは間違いだった。
○自省の機能は意識されない場合でも無意識の層で働いているが、
いったんこの自省の機能が失われれば、自意識がなくなるばかりでなく、無意識面でのその働きもなくなる。
つまり、意識の主体を見ることが出来なければ、その主体があるという意識もない。
内省が不可能な時には、物事に価値や意味や目的を付与することが不可能である。
○人が生まれて自己が発達する段階で、すでに無自己は予定されているように思われる。
つまり、人の前半生では自己保存が優勢であるが、後半生では、自己放棄が優勢になる。
○自己と『それ』の結合に執着するのは、一種の不信であると言ってもよい。
この旅は、自己意識から宇宙意識への移行ではなく、また全体と自己との同一視の道でもない。
○客体化なしでも、自分を主体として知ると主張する人もいるかもしれないが、
それがあり得ないことは、私が経験した事で明白だった。
自己を客体として見られなくなってしまうときには、主体も意識できなくなる。
意識にとっては、その主体は無に等しい。
だが、もしも何かを意識したとすれば、それは客体となってしまっている。
○既知の自己がなくても意識があれば、その主体があると論理的には言えるかもしれない。
だが、単なる知的な要請として考えられた「自己」が、
現実に知られも感ぜられもせず、働いてもいないとしたら、そんな自己に何の意味があるだろうか。
○自己を意識することは、「自分が生きていることの活力の感覚」に支えられなければ、
空想と同じように無意味である。
自己とは単なる意識の対象でなく、自分の活力、意志、衝動の根源的な感覚であり、
それが知の働きと結び付いて「これが私だ」という主観的な確かさになるのである。
○生の活力は「これが私だ」と意識する以前には、単なる肉体の活力と区別できない。
内省の機能により、自意識が発生して始めて、その活力を自分のものと思うようになる。
そして、情意の働きの本質は「自分が生きている」という感覚にある。
○自己とは、人間の思考を遂行しているものというよりも、その根底にある生の活力の意識にほかならないのである。
したがって、認識や感情の働きを抑えたり変化させても、自己を超えるわけにはいかないのは明らかである。
内省の機能が働いているかぎりは、姿を変えた自己が現れるだけで、この機能を自分で止めることは出来ない。
○現在は、人間が生まれてから死ぬまで、あるいは、死後でさえも、自己が常に不可欠のものとしてい扱われている。
こういう固定観念に囚われているかぎりは、自己を超えた次元に目を開くことは出来ないだろう。
○自己を保存しようとする力と、自己を絶滅させようとする力の二つのシーソーの力の中で、
人間の根本的な自己との葛藤が起きる。
○自己というものは、個別性のために必要なものではなく、自己を失った後でも、その者の個性は残るのである。