1 :
考える名無しさん:
おまいらが汗水垂らし一生懸命働いて
世の中のためになるものを現実に残してゆくのは立派なことだとは
思うが、そういうおまいが死んでゴミ芥となんら変わらない腐れる肉塊になり、
霊も魂もあるいは永遠なる何かもない。まだ生きている人々にはその労働が
役に立っているにしても自分はもはや存在しないので、それを見ることも感じることもない
と主張するとする。
だが、それは矛盾しているのではないか?
この現実において「役立つことをして一生を終えたい」と思うのは
心の片隅にでも、「永遠なる何かがある」程度のことでも思っていなければ
そう行為することの経験が求める自然な感情の要求に不自然に無理に意地を
張って心を頑なにして「永遠な何かなどはない。何故ならそんなものは示されたことがないから」
と自分に言い聞かせているだけではないのか?
勿論、「それを示してみろ」と言われれば示せないが、
ここで問題なのは、「何故真っ先にそうムキになって、それを示してみろ」と言うかである。
それは自分の自然の心のおだやかな流れにとって実は「不整脈」のように
荒立てているのではないだろうか?
もう新スレ応援するよ
頑張って少しは哲学板らしくしとくれ
永遠なる何か?
それは発明だよ君。
産業を創出する偉大な発明をすれば、永遠なる道具を作りだせるのだよ。
4 :
1:2006/02/05(日) 22:28:31
>>3 つまり、言いたいのはこういうことでしょうか?
未来において(それが遠い未来か近い未来かは知らないので、近いかもしれない未来、自分がまだ生きている近未来を素朴に想定することは
許される)不老不死の技術、もしくは死体を生き返らせれる科学技術が発明されるかもしれない。
それであれば、自分が頑張って未来に役立つ労働をして、自分も不老不死になれるかもしれず、あるいは
生き返してもらえる可能性がある。(金銭的には無理の人でも本能的なことを言っているので、それはここでは関係ない)
それなしに素朴に「永遠な何か」など自然に思い浮かば去ってくる筈はないと?
誰もが、科学者もそうでない人も、仕事で頑張っている最中にふと「俺っていずれは死ぬのにこんなことしてて無意味ではないんじゃないだろうか?」
と思い浮かばさってくることはないだろうか?
そう思い浮かばさってくることは、自然にはありえず何か異常な人格にしか現れないんだろうか?
これが全ての人に起こり得るのだとすると、「常に、その発明のことだけを思い続けているわけではない」ことになるのではないだろうか?
とすると、その発明のことを思うということは恒常的な感情とか、もしくは恒常的に「思えてくること」ではないということに
なるのではないだろうか?とすると、恒常的な感情とか、「思えてくること」は別のことなのではないだろうか?
それは判明に「こう思う」というようなことではなく、その「こう思う」という以前の気分のようなものかも
しれないですが。そう判明としないにせよ、(自分のためか人のためかはlっきりしないにしても)何かそれだけで、納得させ、心を落ち着かせ
愛情を抱かせるだけの何かがあるのではないだろうか?そこでは無根拠に(あるいは不条理にも)「永遠なる何か」を心に抱いてしまっているのではないだろうか?
ただし、そう頑張っている最中に思い浮かんできたとしても、そこには別の原因があるという主張もあるかもしれないという上でですが。
はいはいわろすわろす
6 :
考える名無しさん:2006/02/06(月) 08:31:32
今のところ哲学者は全員死んでる
7 :
1:2006/02/06(月) 09:30:43
自分が死んでしまえば、もう生まれてくることもない。
この人生だけが自分の人生である。と考えた場合、
「これくらいの生き方で自分は本当に良かったのだろうか?」という思いは
「死んでも、まだ何かがある」と考える場合に比べてより切実に思うはずである。
それが重ければ重い程「辛い」とか「悲しい」という気持ちが必然的に生じる。
(「生じる」とは言ったが、これはその「差」が累積して露見しただけである。)
これは作業する上で、また単に生きる上でも「快活な感じ」を減退させる方向に働く。
(奮起にはなるが、逆の面の悲愴が目立ってくるということでもある)
これが大きいと「作業効率が下がる」か「鬱病」的になってくる。(そうならずとも
その方向へ向かうということには変わりはない。)
そこで、これでは駄目だということで、そういう「憂い」を「あまりそういうことは考えない」ということで
、つまり「無思慮を用いて」霧散、吹き飛ばそうとする。(ただし、奮起の面はそのまま残る)
だから、「あまり、そういうことを考えない方が良い」というのは一つの真理である。
だが、それを考えること、つまり「この人生が終われば自分はまったく存在しない」と考えると
ある深刻さ→憂いの多少のものが生じるというのも真理であると認めたようなものである。
それはその段階で生じた深刻さ→憂い以前の意識状態の方がまだマシだということを意味する。
それに対して「否」を投げかけることは自分の意識の基礎に対して「否」と投げかけ、
その結果、それに対して盲目となり、「この人生が終われば自分はまったく存在しない」という
ことを第一の基礎として建てるということになるのが有り触れているのではないだろうか?
それは、言わば基礎もしくは基礎の不在の発見ではなく単に空回りではないだろうか?
別に死後がどうであれセックスは気持ちいい
9 :
凡人:2006/02/25(土) 13:47:28
人にとって究極の人間愛は未来を思い、愛する事のできる(未来に役立つものを残す)心と考えます。
その為に無が常で有り、常に無にて終わる一度限りの人生を如何に未来に繋ぐか、が人間として生まれ持った命の使い方人の使命で有ると思います。
未来に己の存在が無くても人間にとって真に役立つものを残した時に、それが己の存在の証と成って残れば良いのではと思いますね。
>>1よ、その理由はシンプルだ。
大多数の人間は現実を生きる代わりに物語を生きているのだよ。
11 :
考える名無しさん:2006/03/27(月) 22:48:51
12 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 01:46:37
age
13 :
考える名無しさん:2006/05/11(木) 04:35:40
未来に役立つものを残す理由が不明だな
14 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 15:13:46
たとえばジョン・ローのことをネットで調べようとすると
この名前に似た映画俳優の情報が山ほどひっかかってきて
検索の邪魔になる。
ネットでは、アホバカキチガイのせいで
まともな人間の知的活動の邪魔になっている。
ネット上の99パーセントの情報は、アホバカキチガイの情報である。
なんとかしなければいけない
「役立つことをして一生を終えたい」と思うのは
心の片隅にでも、「永遠なる何かがある」
16 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 16:14:48
>>1 自分の知らないところで誰かの役に立つ、と考えることも
無意味ってことだな。
逆も言える。
自分の死後の世界のために何かをするのは、自分が知らないところで
誰かの役に立つことをするのと同程度(0かもしれんが)の合理性を持っている。
永遠はあるにょ〜をなんの宗教かは隠蔽しつつ述べ
それに対して子孫を残す派が登場し
消えた
18 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 22:54:08
>>1 人間の心の平静を乱す原因は煎じ詰めれば、「現実と欲求の齟齬」にあるんではないでしょうか?
19 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 23:04:54
>>18 広い意味では欲求でいいんだろうけど、願望とか期待とか予定とか
細かく言っていくと単純じゃなくなる。
20 :
考える名無しさん:2006/08/13(日) 23:16:52
>>19 「原因(現実と齟齬がある)と結果(心の平静が乱れる)の関係」という問題において、
それらのそれぞれにおいて、何か違いがあるのでしょうか?
21 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 13:10:38
どういうことですか?
22 :
考える名無しさん:2006/08/16(水) 13:20:16
俺が死ねば世界は完結する。
俺のいない世界はありえない。
後世のためになるようなことをするのは俺が生きてる間の世界を
ハッピーエンドにするためだ。
映画のラストシーンと同じだ。終わってないが終わってる。わかる?
bakadesuka?
24 :
考える名無しさん:2007/02/10(土) 18:14:48
test
日本史2000年スケールを読むと、こうなってる。
民主
軍閥
武士
貴族
豪族
シャーマン
狩猟
ポスト現代は科学者がシャーマンの役割をして、工学者が豪
族の代わりをして政治家が貴族の代わりをするだろうね。じゃ
あ、次の2000年スケールはこうだろうね。
アンドロイド
モビルスーツ
ニュータイプ
政治者
工学者
科学者
民主
26 :
考える名無しさん:
age