952 :
8:2008/11/05(水) 23:14:04 0
>>949 キルケゴールはある意味「余計なこと」に気づいてしまった
かわいそうな面もあって、多くの西欧における「愛」の行為が自己
犠牲という形を取って最終的には相手を犠牲にしてしまうということ
に気づいてしまったから、レギーネ・オルセンとの一方的な婚約解消
という態度に出たということも言えます。これは必ずしもキルケゴール
のコンプレックスのみで来るものではなく、レギーネは本当にキルケ
ゴールを愛してた様で多くの記録が残ってるし、その内容をキルケゴ
ールに伝えている。
されど勝手な言い草なのは私も同意見で、「超越者」たろうとする
彼の思想には理解を示せないのです。私なぞ、愛している女性が
一人なぞというのはどう考えてもおかしいのですが、キルケゴール
はそこを宗教的に考えすぎてしまった、そこが失敗なわけです。
>>952 そうですね。
そういう意味ではキルケゴールってのは「男の代表」みたいなところが
ありますよねえ。
「男の逆やせ我慢」といいかすか、それって「相手の女性」不在の一人
相撲なんですけろどね。
わかっちゃいるけどやめられないと(笑)。
954 :
8:2008/11/05(水) 23:23:18 0
キルケゴールは、自らが哲学書を書いているという意識は無かった。
本人は宗教に関する見解を書いていると思っていた様で、哲学者なら
ここを愛という行為の解剖学を行うところだろうが、キルケゴールに
その視点はない。しかし、多くの人が彼を哲学者と考えるのかは、
その思考が哲学的思考に至る程深いからに他ならず思考の深さが
哲学をさせてしまった。
しかもレギーネもキルケゴールも相互に愛していたのに、別れた
のは何とも……。彼は知りたくて知ったわけではないけれど、神の
前からこの矛盾から逃げるわけにはいかなかったと考えられる。
いずれにしても不幸な話で、今の人間なら「馬鹿な話」一笑に付す
であろうが、彼は真剣であったし、その頃の人々の神に対する信仰
は現代の考えとまるで違うということを相対化して考える必要がある
でしょう。
955 :
考える名無しさん:2008/11/05(水) 23:26:13 0
結局、ナルシスト論に移行する訳ですね。
それから後はファッションセンス論になってしまい、
拡散しすぎるような気もしますが・・・
そうなんですよね、まったく。
欧米思想ってやっぱり「唯一絶対神」にいきつくんですよね。
そういう意味では、日本人は幸せですよ。
「神様」との付き合い方をみんな知っているから(笑)。
よく日本人は「無神論者」って言われるじゃないですか、それ違うと思う
んですよね。
むしろ「緩やかな有多神論者」なんですよね。
哲学書を読むときも、いつもそういう問題にぶつかりますから。
957 :
8:2008/11/05(水) 23:36:49 0
>>953 よく考えるとキルケゴールと「北斗の拳」のラオウって愛に対する
考え方が良く似ていると思いませんかw? どうでもいいですねw
まず、「愛」という行為の人類の普遍性など、私は広くの女性を敵に回し
ても「否定」サイドです。これは、フーコーと考え方は一緒でそのコトバの
考古学的分析を加えて、そのコトバが無かった頃にそれは意識には登場
していなかったのだと考えます。それは遺伝子レベルで書き込まれた
動物的自己犠牲の行為を多くはそう読んでいるのです。だから私は、
テレビドラマの多くは嫌いです。されど、ドラマの制作サイドの優秀な人間
はそのことを知っているから、なおさらたちが悪い。
958 :
考える名無しさん:2008/11/05(水) 23:39:34 0
つまり、無駄と分かりきっていても憤懣するしかない訳で、
そこが悲しいですよね。
自分は浮気者の癖に、一本柱を望む。
そんなの現実に具現化したら戦時中やヒトラー位しか思いつかないんですがw
まあ、構造としては、原生生物アメーバが危機の際に一つに固まるのと同じですよね。
別の良い言い方に変えればスイミーですけど・・・
これって差別的な例ですかね?メンドクセーナwニンゲンッテw
>>957 ええ、似てると思いますよ(笑)。
しかも古いタイプの「愛」ですよね。
自分自身が「異性を愛する」って、やってみると結構大変ですし。
もう「愛」の多様化で、それぞれが作り上げていくようなものでもありますから、
クリエイティヴな人でないと、中々良い「恋愛」も「人性」も構築できないです
よねえ。
そういう意味で、ランガージュ(象徴化能力)って大切なんですね。
みんなランガージュを鍛えなければならないんです。
960 :
8:2008/11/05(水) 23:50:52 0
>>956 日本人のこの考え方というのはI・イリイチの言う
「コンヴィヴィアル」(共生(感覚))に近いと思ってる。
(でも現代では欧米の文明のせいで相当歪んでるとは考えてるけど)
これは古来から神話的思考が奇跡的に残っているからで、この理由
の一つは、日本語の特殊な言語性にある様で、前に書き込んだ
と思うので参考にして下さい。(参考:柄谷行人「日本精神分析」)
961 :
考える名無しさん:2008/11/05(水) 23:51:04 0
>よく日本人は「無神論者」って言われるじゃないですか、それ違うと思う
>んですよね。
>むしろ「緩やかな有多神論者」なんですよね。
>哲学書を読むときも、いつもそういう問題にぶつかりますから。
日本人(他人)を論ずるのは難しいね。
私は無神論者が多いと思うが。しかし、無宗教ではない。
形骸化していようが一時的(祭り、盆)宗教だろうが、それに携わっている
なら宗教はもっている。しかし、それイコール有神論者だとは言えないと思う。
いやいや、あくまでも「緩やかな」ですよ。
神を一応信じていなければ、お参りなんかもしないでしょうし、お地蔵さん
なんかにだって、小便をかけれるのではないですか。
それをしない、出来ないのは、「緩やかな仏教」だからこそだと思いますよ。
密教のように修行も厳しいものから、日蓮、親鸞のようにかなり緩いものまで。
宗派が違ったって、一般の人には関係ないですから。
ぼんやりと、我々の「生」を包み込んでくれる存在が「緩やかな仏教」なんだと
思います。
963 :
考える名無しさん:2008/11/06(木) 00:04:55 0
>知識の詰め込みが何ゆえ面白くないのかは、実践する機会を多くの学校
>が子供から奪っているからで、学ぶこと、覚えることは本来的には楽しい
>のだが、それを人生から実践の機会を奪っているから面白くないのだ。
実践が面白いというのは同感ですね。
ただ、学ぶこと覚えることは本来的には楽しい、というのは私とは意見が違います。
学習と生徒個人の精神環境が全く噛み合ってない限り、いくら生徒に学ばせようと
しても生徒は少しも楽しくない。
全く噛み合ってない、とは、物理覚えても役に立たないと信じていたり、
ある生徒が文を読み理解するペースが1単語/1分なのに、1単語/5秒のペース
で学ばせようとしていたり、など。
生徒のペースや心理,信念をうまくつかみ、誘導して、学習に興味や目的意識を抱かせる
という概念が欠如していることがつめこみ教育の本質的問題だと思います。
学校教育というものは、本質的に「型にはめる」作業ですからね。
社会の鋳型にはめて、大量生産し、品質を一定に保つシステムのことです。
私も学校の授業が面白いと思ったことはほとんどありませんでした。
しかし人間と言う動物の困った性質を考えると、そういう均質化と家庭内の
ある種虐待とも言えなくも無い「躾」は必要なものともいえます。
そういうことが、結果として精神の病の原因になったりもするのですが、
人間なんかほったらかしたまんまだと、殺し合い(男がほとんどでしょうが)
にしかならないでしょう。…そうあと略奪、レイプ。
965 :
8:2008/11/06(木) 07:03:30 0
>生徒のペースや心理,信念をうまくつかみ、誘導して、学習に興味や目的意識を抱かせる
>という概念が欠如していることがつめこみ教育の本質的問題だと思います。
問題の中心はそこですね。そもそも学校教育は、社会の規範にずれた存在を
「排除」することに終始しているし、今のままならまあ無理でしょう。
本田和子の「異文化としての子ども」という著書がありますが、日本において
は近代以後に誕生した存在であることを物語っています。かつては、労働力
として、家内の仕事を手伝っていた「子ども」が、義務教育の導入で強制的に
家庭の仕事から分離していったことがこの問題を浮き彫りにしているのではな
いかといわれています。「児童」の誕生、これまた言語の問題なんですね。
教育は否定できない。躾は必要。寧ろそれを全て学校に丸投げしている
昨今の親御は責任の希薄さにあきれ返るばかりだけれどねw
されど資本主義社会における均質生産的な、教育システムの功罪というの
はもう少し慎重に考えることは必要ではないだろうか。
確かに楽しい部分もある学ぶこと、覚えること、されどそのスピードが問題
であるし、各個人の学ぶ目的意識によっては、嫌悪されるのは当然だと思う。
教育システム
966 :
8:2008/11/06(木) 07:11:27 0
近代化が促される為に必要条件として
(もしかしたら必要十分条件かもしれないが)文字言語の普及がある。
網野善彦氏によってようやく指摘されたことではあるが、日本における文字言語
の普及率は中世においても異常なほど高く、かつては(今でもそうなのかは知ら
ないけど)ある階級の人が都合で記述したので、文字を知らない人は多かったと
言われていたが、彼の綿密なる調査でそれは間違いといわれています。
「読み、書き、そろばん」と言われた江戸時代での教育は結構中世の頃より
存在しており、農家で結構古くからの帳簿が発見されたりすることで、海上交易
が行われていたことが指摘されたり、どんどん歴史的発見は出てきている。
967 :
8:2008/11/06(木) 07:18:14 0
江戸時代において、農家が自ら海上交易を行っていたのは、加賀や
紀州、瀬戸内海や九州などが有名ですがそうすると、農家が弱者という
今までの「水戸黄門」的な構図はまっかな嘘ということは言える。
ただし、「水戸黄門」がこれだけ長く愛されているのは、それだけ、この
構造が日本の精神的無意識に深く根ざしているからであって、むしろ
このことを考えると面白い。
日本は東洋でも近代化の取り入れが異常に早かったのは、文字言語
の普及が土台にあったことは間違いなくあった。
これが相対化ということで、今まで言われていたことを徹底的に覆して
考えていくことで、偏見を捨てていくこと。これが肝要。
968 :
8:2008/11/06(木) 12:35:25 0
過去日本における識字率は7割強とも言われており、これは同時代の中世の
東洋の諸国から見ても抜き出て高かった。つまり識字率の高さとはコミニュケ
ーション能力の高さと、情報ネットワークの高さが伺える。これは非常に重要な
ことで、あまり指摘が無いのが不思議なくらいであるけれど、つまる所言語能力
の問題に突き当たるので、深いところで<言語>という面で繋がってるです。
このスレタイで次スレ立てんなよ。
ソシュールあるいは構造主義を期待してスレを見ると、
全然違うことが書いてある、
っていうのはこのスレだけにしとけよ、カスども。
あ〜あ、また怒られちゃった
971 :
8:2008/11/09(日) 09:18:21 0
最初から読んでほしいですね。まあそれは内容がどんどん拡大や紆余曲折して
るから「下の方」だけ見たらそうだろう。
ここらあたりで「まとめ」に入ろうと思う。
972 :
8:2008/11/09(日) 09:31:15 0
まず、ソシュールは、弟子による「講義」の出版によって、現代思想の
潮流に、特にフランスの思想界に非常に多くの影響を与えた。これは、
やがて日本における80年代の影響を考えたら決して小さくはないはずだ。
「ソシュール」も「構造主義」もそもそもあまりに誤解が多かったこ
と、それこそその影響そのものが、ソシュールの記号学における、
「記号は差異しかない」という理論をいい意味でも悪い意味でも裏付ける
結果となった。
ソシュールも弟子による理論の解釈の間違いや語彙の分類のミスなど
が多くきちんと伝わっていたとはいい難く、逆にそれゆえに思想の不十分
に伝わらなかったことが、思想界に大きな影響を与えたともいえる。
「構造主義」にしても、それを標榜していたのはレヴィ=ストロース
ただ一人であって、フランスの思想界ではそれとは無関係に影響を受け、
与えつつ、世界に拡散していった。
特に西欧と日本において、ソシュールの思想の影響は計り知れなく、
現在のポスト構造主義以降にしても(この言葉はどうかと思うけれど便宜上
使用する)、現在にしても少なからず影響がある。ここまで、大筋は納得
いただけるはず
973 :
8:2008/11/09(日) 09:41:54 0
しかし、ソシュールそのもの、構造主義とはなんだったのかということ
も重要であるが、実際「真実」は何だったのか、その「根拠」について
はどうだったのか、ということをきちんと考えていく必要があったので
はないだろうか。日本においては丸山圭三郎がソシュールの思想から、
自らの理論を構築していった。日本においては、自前の思想を持ちえる
人が一部を除いて大変少ない。日本においては、それこそ、流行という
かファッションの様にさっさとポスト構造主義にうつり、さらに目新しい
思想にと飛び移っている昨今であるが、もう現代は、思想が世界規模に
多大な影響を与えるという「物語」は終わったと考えたい。それは、IT
の発展によって、個別情報発信型の社会に転換され、「情報」という名の
貨幣が流通する、情報経済が世界に影響を与えている。情報そのものが
「魔力」を持つかの様に流通し、さらに「情報」そのものを無料で再分配
を図るオープンソース型の情報提供は、「情報」に価格を付ける市場社会
原理に変換を迫っている。
>さらに「情報」そのものを無料で再分配
>を図るオープンソース型の情報提供
相変わらずこういう誤解が酷いな
975 :
吉田メロウ:2008/11/09(日) 09:54:37 O
言語の分析を、社会を語ることのメタファーとして扱う。これ
はアイディアに違いない。仮に文化相対主義を日常の中で説い
たところでその言説はなんの力も発揮しないというのは俺たち
がよく知るところだ。世界がスタテックな構造の器の中で、差
違や交換という状況を描き出すものだという認識に留まること
は、実に面白くない。俺たちは主体者でありたいと常に思って
いる。例えばカフカは「夢/不条理」を入れ物として持ち込ん
だ構造主体者ではなかったのか?モデルの設定はハード(構造)
の書き換えを訴求するソフトウェアなの
だよ。
(´-`)yー゜
976 :
8:2008/11/09(日) 09:58:08 0
テーマを逸脱していた部分は否定できないけれど、現代の抱えている問題の
多くは「言語というシステム」そのものが土台で、その「情報」がどの様な
テクノロジーで経済流通するかというところから考えていかないと多くは見
えてこないし、そういう意味ではインターネットにおける情報分析において
はソシュールの記号学というのは、とても有効なツールになりえるし、その
ツールをきちんと活用出来なかったがゆえに、80年代の「記号論」はブーム
で終わってしまった。
私はソシュールの思想というのは、古くても新しい問題に対して、いや現代
の状況だから有効ではないかとも考えている。私の知るところでは、
コンピュータのプログラムのソースコードは、ある意味論理学であり、記号学
である。そもそもGoogle等の検索エンジンは品詞をクラスター化するという、
分類、整理する仕組みや、最適化、アルゴリズムについては、あまり知られて
ないけれど、記号学と論理学と数学の複合的なプログラムである。
977 :
8:2008/11/09(日) 10:04:17 0
>>974 確かに正確じゃない、価格が数値化されていないという意味に捉えて
欲しい。そもそも市場社会の貨幣による一元化の構造そのものは、かなり
揺らいできている。オープンソースにしたって、寄付を伴っているケース
の方が多いことぐらいは知っている。寧ろ「贈与」されたものに対して
「返礼」を伴うというモース流に解釈する方が正しいでしょう。逆に
この経済ではより原始社会的に贈与、返礼というスタイルに置き換えた
方がいいくらいと思っている。
>>977 ええっと、そういう意味で使いたいのであれば
フリーソフトウェア(運動)とオープンソースの違いについて
きちんと理解した上で発言した方が良いと思います。
979 :
8:2008/11/09(日) 10:14:59 0
>>975 なかなかいい指摘である。
>俺たちは主体者でありたいと常に思っている。
というのは、私個人は不可能な願いとは思っている。
それこそ西欧の生んだ「物語」という気がする。
主体であろうとすることは、丸裸のまま現実という実在に飛び込む位に
危険を伴う。さらに日本の文化の歴史の深い所ではそんなものは動いて
おらず、「関係性」の中で自己が形成されている。<世間>とは日本独特の
「構造」を持っており、公共性とも個人性とも付かぬ概念で、<世間体>
という表層的な自己は戦後、諸外国の影響から始めて浮き彫りにされた
けれど、日本人は明確な「自己」というものを持っておらず、河合隼雄は
ユングの心理学を取り入れるにあたって、そのことを述べている。
980 :
8:2008/11/09(日) 10:26:34 0
>>978 まあ確かにそうです。それは注意します。
人間は情報発信という行為を止める
ことは無理だと思ってる。
何ゆえ人間はコミュニケーションを取るのか、それがなぜ<言語>で
なければいけなかったのか、言語はなぜ生まれたのか、それが、人間
を縛るのはなぜか、モノにしても「情報」にしても贈与、交換、分配
、返礼をする「必要」が生じるのは何ゆえか。疑問は増えるばかり…
981 :
吉田メロウ:2008/11/09(日) 10:30:04 O
>>977 ローカル経済の問題だね。国家が発行する貨幣の他に、価値
交換を媒介する「ローカル貨幣」がある。クーポン券や金
券、ポイントカードなどもその性格を有する。「貨幣」の
価値交換を可能にする前提には「信用」がある。信用の醸
成には何らかの秩序やコミュニティの存在が必要だ。〈税
金→権力→還元〉俺たちは国民国家を問い直すべき時代に
差し掛かっている。これは自由資本主義経済と“今のとこ
ろ”セットだ。人が幸福であることと、この先に豊かな未
来があるという“福音”は、心の底では誰もが聴きたがっ
ている。
982 :
8:2008/11/09(日) 10:42:12 0
>>981 K・ポランニーを持ち出すまでもなく、「贈与−返礼」という<経済>行為
の方がより人間の心理には普遍性に「近い」ということで、インターネット
上では寧ろこの経済の方が全世界に有効性を持ちえていることを裏付けて
いる気がする。
>人が幸福であることと、この先に豊かな未
>来があるという“福音”は、心の底では誰もが聴きたがっ
>ている。
確かにそうでしょう。ただ、人類学から見出される「神話」にはそれと
同じ量の「滅亡」の話も多い。これは人間はどこかで変化していくには
ある秩序を「破壊」することは避けようが無いとする考えも同時に持って
いることを意味する。どうなるのかなどというのは、預言者でもない凡人
の私にはわからない。
983 :
吉田メロウ:2008/11/09(日) 10:55:16 O
>>979 現在の日本に覆う世間の発生が、西欧との接触から生まれた
ってのは面白い。江戸時代の長屋では近隣のセックスの声も
筒抜けだったらしい。今とは別の世間がそこにはあったんで
しょう。武家と町人。身分が変わればまたそこに別の世間が
あるんでしょう。しかし今でも田舎に行けば、全くプライバ
シーのないような所は幾らでもある。「自己」って概念が、
他人と切り離され、他人との違いや優劣を強調することで、
自己意識というのが磨かれる。自意識ってやつですね。この
「自己」ってのは確かにシステム的ですね。共同体が力を持
つ為には、能力の高い個が寄り集まる必要がある。共同体が
競争にさらされた時、それを構成する個も競争にさらされる
。ここに自己が「システム」として描きこまれていくわけだ。
(´-`;)yー~
984 :
8:2008/11/09(日) 11:12:33 0
>>983 日本の共同体を西欧のロジックで説明するってことは過去いくら
でも著書があるけれど、「すごい」と思った著書はほとんどない。
つまり、コトバで言われても、「それはちょっと違うでしょ」と多くの人
は考えた本は多いけれど。つまり、言われてみれば思いあたる節があるが
差異も同時に感じざるを得なかった。それを明確に述べるコトバが無かっ
たからだ。これは、逆に日本人による日本そのものを定義せざるを得なか
ったことが言える。明治から大正にかけて欧米の哲学が技術とともに
輸入され、かなり高度な所で日本文化と接合する論文も生まれている。
だから欧米のコトバの無いところに「認識」はあり得ないという考えがこのソシュ
ールや人類学的分析方法である「相対的認識論」です。
現在携帯電話が普及してますが、携帯電話が無かった頃、「どうやって
約束時間と場所を連絡してたの?」とある高校生から聞かれた時には、
正直唖然としつつも、文化やコトバが人間の想像力にも影響を与えている
って思いつつも「ぞっと」させられた。
985 :
吉田メロウ:2008/11/09(日) 11:16:55 O
>>982 大変、話がよく分かります。
人間の心理に近い経済ってのも、経済そのものの定義を、書
き換えていく様な話にもなってきそうな気がしますね。
ギフト経済ってアメリカ先住民の概念もある。
アヤシイ話なってきますが、要は人間の本来的な活動を阻害
する様なシステムならすぐに見直しべきできですよ。このへ
んの話になるとマルクスの亡霊が見えるんですが。><
神話などに出てくる破壊の語りのパターンも、現代に移し
かえると、これも非常に穏やかでない。みんな、このへん
で立ち止まるんでし
ょうね。世間から頭が変だって思わ
れない為にね。
本気の(誠実な)思想家が求められてる時代ですよ。
あたしに言わせやりゃね。(*^-^*)
986 :
8:2008/11/09(日) 11:21:29 0
だが、それが人間であり、山に登って澄んだ夜の星空を子供に見せても、
「プラネタリウム見たい」と答えた子供がいたそうだ。これはコトバに
よって、記号は差異を認識するのだから当然と思うけれど、80年代当時
にこのことに愕然とする人々が多かったそうだ。
つまり、それほど技術と環境が恐るべき速度で進歩した時代は無かった
からで、パソコンの使える人と使えない人ではテレビを見る、見ないと
分化したといわれているが、世代や環境によってこれほど多様化した状況
も、技術と情報が複雑化しているからで、すべての情報を「教養」として
一元管理することも出来なくなってきている。多くの大学から「教養学部」
が無くなって来ている状況はこのことを裏付けている。
987 :
8:2008/11/09(日) 11:32:03 0
>>985 マルクスの亡霊になる気はさらさら無いですけど。
ただ、彼の思想には根本的に欠陥があるからそのまま持ち出すことは
無理でしょう。
出来ることは、たった一つ。出来るだけ慎ましく生活するってことを
考えて実践していくこと。「広告宣伝」や企業の「煽り」に負けずに衝
動で物品を購入することを止め、それに負けないだけの多くの知識と
知性でもって武装すること。それを強制することに対して抵抗を続ける
こと、拒絶すること。知識を知性を身につけなければ、結局安易な考え
で妥協してしまうからで、その意味では「哲学」を捨ててはいけない。
988 :
8:2008/11/09(日) 11:39:06 0
ひきこもりを続けたって、援助者が途絶えれば、結局現代の市場経済に
取り込まれるのがほとんどなわけで、「貨幣」から自由になるためには
あまりに安易すぎる。
だから新たなるコミュニティ経済を考えたければ、そこを徹底的に、
貨幣媒介することを止めること。その意味では古来の経済の様に非常に
贈与と返礼しか残らないかもしれないが、寧ろその様が自主性が促される
とは思う。
989 :
吉田メロウ:2008/11/09(日) 11:40:57 O
>>984 コトバのないところに認識はない。これですね。日本では
以心伝心でコトバにしなくても「おっ、わかってんな」っ
て事がある。逆にそこに言葉が入ることで誤解や語弊を生み
、関係を悪くすることがある。これは不思議な現象です。
言葉と行為の間にあるズレですね。言葉はコミュニケーシ
ョンのツールとして完全ではないのです。これは話し手の
能力へ、全面的に還元できる話じゃない。確かに歯に何か
詰まった様な感じを、パッと言葉にされるとすっきりする
事がある。これは何と何が結び付いた為でしょうか。つま
り言葉による認識とは、個別的で可変的で且つ互換性を持
ったものだという事。言葉が完全なツールでない「理由」
は、ネットワーク的であること、このコンテストの流動性
(融通性)に基づくものですね。
(*^-^*)b
990 :
8:2008/11/09(日) 11:50:37 0
>>989 コトバというのは、コミュニケーションツールとしては、非常に
特殊なもので、文字にしても、記録を取らなくては混乱が生じたが故に
発生したと考えられている。文明は文字が無くとも存在したということ
は数多くの資料から実証されているが、無文字文明の方が長く続いてい
たということからも、関係が悪化する要因にならなかったからこそ、
生み出す必要すらなかったからなわけです。
しかし、日本においては、結構古くから文字が普及していた様で、
これは日本が単一民族国家では無かったと最近では言われており、
むしろ大陸やポリネシアや北方から民族が移り住んで国々(村落共同体)
が乱立していた様です。遠いところでは7世紀前後にはペルシア人すら
日本に来ていたくらいで単一民族というのは何の根拠もない「神話」だ。
当初は混乱が著しかった様で、天皇制という「象徴システム」が発生するまでは
多国籍の集合する島々であった。
991 :
8:2008/11/09(日) 11:58:34 0
992 :
吉田メロウ:2008/11/09(日) 12:33:13 O
>>990 民族という概念そのものが新しいものですよね。定義の仕方
も曖昧な部分がある。(民族の同定は主に言語の違いによる
ものでしょうか)しかしことさら民族をカテゴライズする
意味(歴史的経緯も含め)がなぜあるのか。学問として洗
練させる為に、民族を問うことの意義をはっきりさせた方
がいい。学問というのはフィクションであり、まず魅力的
な公理を前提としなきゃならない。民族に纏わる自他の違
い、仲間とそうでないないものの漠然とした選別意識。ひ
ょっとしたら日本と中国の関係性は家族とその親戚くらい
の、アナロジーで考えると面白い視点の発見があるかもし
れない、だとか。
二点くらい、非常に興味深いの指摘がありますね。つまり
コトバはコミュニケーションツールとしては特殊だという
事。一般もしくは普遍ではないと言い切ってしまう辺りで
すね。もう一点は、共同体の混乱が文字文化を生んだとい
う点。混乱を整理する為に記録が必要であるというのはす
ぐピンとくる発想ですね。記録の保管者は権力者であった
ことは想像にかたくない。昔、中国のビジネスマンに訊い
たことがあります。お前の国の政情は大丈夫か?と。彼
は56の民族は漢字で繋がっているから大丈夫だと言い
ました。しかし、記録することを生んだ文字は、世界をさ
らに複雑にしたという側面もある。他民族との間の不通
と疑心暗鬼がそれで、記録することの発明はコミュニケ
ーションを複雑にしたということは間違いない。(´-`)
「原資料w」以前のソシュールから展開した思想を顧みない奴って、
最後には、ソシュールとは無縁のトンデモ思想に行き着くということが、
このスレでよくわかる。
丸山の縮小再生産w
丸山圭三郎の功罪を改めて考えさせられるスレだなあ。
言語学の特定のフィールドを持たずに
ソシュールを人生思想として使ってしまう不幸。
995 :
8:2008/11/09(日) 12:43:25 0
>>992 そのとおりと思います。
コトバはコミュニケーションツールとしては普遍性を持っているとは言い難い
のは、人類学がまだ黎明期の頃は、全然言語を交わさず家族生活を送るブッシ
ュマンの記録がある。しかし現在は多くの学者がフィールドワークと称した、
コミュニケーションを繰り返すことで、多くのコトバが必要となったという様
ことを述べた論文があった。つまり欧米諸国もナマのままの「原始生活」とやら
を変質させてしまったそうだ。共同体の外部とコミュニケーションにおいて、
交換行為は「沈黙交易」がほとんどで言語を解したコミュニケーションが当初
は多かった。
世界的に見ても優秀なソシュール研究者の弟子を生んでいるし意味はあっただろ
まともなアカデミズムが育たない日本
言語学や情報科学方面で今更ソシュールから得るアイディアなんて何もないよ。
999 :
8:2008/11/09(日) 12:48:55 0
続き 発話行為についても、ある共同体内でそれを皆で同じものを<指示>
するからそれが「コトバ」となりえる。ある共同体で、一般言語とは別に
俗語(スラング)が発生するのは、その共同体での共通認識に至って、
コミュニケーションするに都合が良かったからに過ぎず、あまり深い根拠
無く「恣意性」によっていったもの勝ちというところがある
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8:2008/11/09(日) 12:49:39 0
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。