◆決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない53◆

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191考える名無しさん
おもろい流れだし、富士山絡みで再掲w


この『私』は、様々な条件の上に、今ここにいる。
この『私の思考(主観)』もまた、様々な条件の上にここにあるのだろう。
なぜここにいるのか?(=なぜこのような思考をしているのか?)という問いも、様々な条件によってそのように思考しているのだろう。
この身体になぜ私がいるのか?など、偶然以外の何があるというのか?
たまたま、この肉体の上に生じた意識が、そのように思考しているに過ぎないのではないか?
『まず「私」ありき』ではなく『まず「身体」ありき』ではないのか?
だとするなら、「私の存在性」(この言葉も曖昧模糊としているがw)など、かりそめにそこに顕現しているに過ぎないのではないか?

道端に小さな花が咲いている。
ふと立ち止まり、その花を見つめる。
この花は、様々な条件が重なって、今ここに咲いている。
遠くに富士山が見える。
あの富士山も、様々な条件が重なって、今あのようにあそこにある。
空を見上げると一筋の雲が流れている。
あの雲もまた、様々な条件が重なって、空を流れている。
ここに私がいる。
この私もまた、様々な条件が重なって、今ここにいる。
目の前の花と、遠く見える富士山と、頭上を流れてゆくあの雲と、
今ここにいる私との間に、一体何の違いがあろうか?
確かに、『この私』はかけがえのない唯一の存在であろう。それは誰しもが認めるところだ。
けれども、それを特別視する理由は何もない。