ニーチェ ゴ

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1伝説のあぼーん ◆AEROZYYyYM
2考える名無しさん:2006/01/15(日) 14:20:32
伝説のあぼーんさん乙
3ヤクルト ◆UdIOUhvJCE :2006/01/15(日) 14:25:57
>>1さん
乙。
4考える名無しさん:2006/01/15(日) 14:32:57
>>1
超人、乙
5ニワムシクイ ◆33Ki1lImTg :2006/01/15(日) 14:43:46
あなたのえさなら喜んで食べましょう。
あなたの言葉を私は結構真剣に読んでいます。
それに、行間を読もうと苦労をしています。
そして私は、今まで言ってきたことをまとめて、
本音であなたに訴えます。

一歩でいいから、自分を救ってあげてください。

これが私の最も奥の言葉です。真剣に受け止めてくれますか?
6考える名無しさん:2006/01/15(日) 14:57:48
>>5は真剣な女性ですか、どうよ?
7現代 荘子:2006/01/15(日) 15:35:33
私とあなたのこの空間は、妙な気持ちになってきます。
例えるなら、駅のホームで堂々とキスをするような感覚に似てます。

皆の視線がジロジロ感じます。そしてあなたは私をゾクゾクさせ、全てを
さらけ出そうとしてます。

私はどうやら変体かもしれません。どうぞお話ください。
8ニワムシクイ ◆33Ki1lImTg :2006/01/15(日) 15:39:28
遅くなってすみません。
わたしはあなたのように連続で書き込めないし、
打つのが遅いので、ご迷惑をかけてすみません。

あなたは想像も絶する場所にいるのでしょう。
とても痛みます。

あなたは女を馬鹿にしているみたいですが、お願いですから馬鹿にしないでください。
女は生に従順なだけです。そうすれば言っていることも理解していただけると思います。

私にはあることがわかります。
あなたがパソコンから離れて外に出るのはとても難しいことだということです。

私は顔も色白くなって、姿が変わってしまったことがありますが、
少しずつ外へ出るようになり、健康になっていき。
すべてを取り戻すまでになりました。
でも少しずつ一歩ずつやることが大切でした。

あなたは自分を殺してください。

自分がまったく取り返しのつかない地点にいると思うのは、
まったく神のせいでもなく、悪魔のせいでもありません。
ただただ自分の慰めのせいです。

私はまたもハッキリ言います。
私はあなたを殺したいです。
これが目的です。
9ニワムシクイ ◆33Ki1lImTg :2006/01/15(日) 15:49:34
私は顔作り変えることができました。
私は体を均整よくつくりかえることができました。
私は墓の土を生まれ変わった私の手で、力強く鷲づかみ、取り除き。
一切を捨て去って、他人の目を気にしないできました。

それと他にもいいたいことがあります。

もう一人の自分を作る事です。
そしてそのもう一人の自分が、新しい習慣を作り、今の自分を縛り付けるのです。
そして思うようにコントロールするのです。

これはどんなことよりも狂気的ことかもしれませんが、
新しい習慣というのはとんでもない集中力が必要なんです。

まずあなたに確実な第一歩を教えてあげます。
これはどんなことよりも今とっても大事なことです。
パソコンを電源を切ってください。
パソコンを破壊してください。
それか自分の手をキーボードにつかないようにしてください。

あなたの古い習慣を破壊してください!
あなたを古い習慣に押し付ける人間をも破壊してください!

私はもう去ります。今夜また伺うかもしれません。そのときが最後です。
また現実を語ります。あなたにとって電撃になりますように。
10ニワムシクイ ◆33Ki1lImTg :2006/01/15(日) 16:05:35
もしかしたら、あなたが救われるためには生身の人間が目の前に必要かもしれませんね。
やっぱり、私は去ります。

苦しみ、闘う人間の至高のモデルを示した、
ニコス・カザンザキス『キリスト最後のこころみ』
をあなたに紹介します。

さようなら。あなたはまちがいなく生き残ります。
11現代 荘子:2006/01/15(日) 16:28:24
確かに私は3年間、幽閉されてましたが。
誰の力も借りず、己の力で社会から隔離し情報から隔離し1人考えて世界を
真実の天秤にかけてきました。

その経験は人類が経験するような代物でもなく、運がいいのか悪いのかすら
分からない人生の始まりでした。

今は仕事を楽しくやってますが、すでに見えてしまったことは捨てることは
できなくなりました。

私はお金をため将来、黄山か白神山地か屋久島に住み。
もう一度、思慮の時間を取り戻し価値観崩壊へ歩みたいと思ってます。

もう、普通の人には戻れません。今はこの普通の生活も貴重な経験なので
楽しんでますが。

女性は素晴らしいですよ。社会という男性が腐らなければですが。
まぁ、ここは私の感じたことを言うとボリュームありすぎるので
省きますが。
12現代 荘子:2006/01/15(日) 16:28:54
私を殺すとは、その殺し方に興味があります。殺すならエクスタシーを
感じるように殺してほしいです。

生身の人間ですか!? 
私の生活に生身の人間がいたらその人すら狂いかねない。

距離をおいて友達としていたほうが、こちらもカワイイペットのように
楽しませ方を知ってる。

私はあまり先人の知恵は借りないのですが、すすめられた本には意味がある
ので、読みたくなります。あなたのその気持ちとその本には私にとって
何か意味があるのでしょう。

これは読まざるおえないですね。

さて、あなたの本音にはあなたの空間のレールが見える。
これを実践すれば、あなたの奥深く感じてることが私に感じれるでしょう。

私はあなたに少し興味があるので、どんな空間を言ってたのかを感じて
きます。

あなたの香りが気になる。

13ニーチェ様どころか、哲学の超初心者 ◆bVABhNY5w6 :2006/01/15(日) 17:46:59
>>現代 荘子様
はじめまして。
私ニーチェ様どころか哲学自体超ド素人です。
このあいだ、「世界の哲学・思想のすべて」(日本文芸社)という本を購入しましたが、まだ読み始めてもいません(>_<。)

でも、ヤル気はあります!!!!知能も高いです!!()たぶん)
あと、諸事情により今から私は外出する準備をしなくてはならないため一度落ちますが、
私のことは、ニワムシクイ様が良くご存じです。
人物確認の方は、ニワクイムシ様のほうによろしくお願い致しますm(__)m
私のようなものがこのようなスレッドに入りこんでしまって大変申し訳ないです。
殺されたいくらいです。
14考える名無しさん:2006/01/15(日) 18:21:56
前スレの終わりあたりからスレの雰囲気が変わったな。
ま、それはいいや。

普通の暮らしを送っていても落ち込んだり、嘆いたりすることがあるが、
そういう時にニーチェを読むと心にエネルギーが満ちてくる。

個人的には、哲学とそういう付き合い方をしている。
15考える名無しさん:2006/01/15(日) 18:27:50
ここがあまりに場違いなら、どこかにさらに誘導して頂けると有り難いです。
16考える名無しさん:2006/01/15(日) 19:51:24
恋愛ってゆーか、カップルって、
最終結論としては男は浮気してもいいが女はダメ
17考える名無しさん:2006/01/15(日) 19:54:06
なーんちゃって
ニーチェ様はそげなこと言ってたかなあ
18考える名無しさん:2006/01/15(日) 22:04:07
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062723123/
「キリスト教は邪教です!現代語訳『アンチクリスト』」 適菜収訳

これ、ものすごく面白かったんだけど、解説の松原隆一郎は「超訳」と言い、
レビューでも「訳者が勝手に自分の思想を吐露してるだけでニーチェはこんなこと言ってない」
と書いてる人もいて、ニーチェ初心者としては途方に暮れます。

他の訳も読んでみるつもりですが、この本の価値についてニーチェマニアの方の意見をお聞かせください。
19ツグミ ◆n3WiRrtxKM :2006/01/15(日) 22:45:04
>>12
私の力だけでは、あなたを殺すことはできません。
それに残念ながらエクスタシーはないでしょう。
もっとあっけないものです。

それと私を感じ取るのは難しいでしょう。
なぜなら私は潔癖症ですから。
実際にそうなんです。洗剤がないと生きていけません。
それに銀が必要です。銀には抗菌効果があります。

それに私を感じ取るには、
あなたのほうでクリアで広大なものを好きになってもらわなければ
到底無理なことです。
20現代 荘子:2006/01/15(日) 23:19:05
>>19 難しいですね。 頭も痛いので、今日は寝ます。
お暇でしたら、具体的に説明してもらえると嬉しいです。

では
21ツグミ ◆n3WiRrtxKM :2006/01/15(日) 23:19:09

「これは砂漠風だ、エホバの息だ。」

とヨハネはマリアの息子に寄りかかりながらささやいた。

「これは緑の葉をみな枯らし、泉をすべて干し、 俺たちの口を砂でいっぱいにする。
 くぼ地に修院長の聖なる遺体と形見を置いてくれば、砂の波がそれを完全に埋葬してくれ
る。」

前屈みになって熱砂の中に足を踏みしめながら一同は進んでいった。
衣の端を口や鼻に押し当ててはみたが、細かい砂粒は容赦なくのどや肺にまで進入した。
突然先頭を歩いていたハバクク師父が風に足をとられたと思うと、きりきり舞いをして倒れ
た。

もうもうたる砂煙で眼の見えない修士たちは彼の上を歩いていった。砂漠は吠え、石はなっ
た。老ハバククはしわがれ声を上げたが誰にも聞こえなかった
(引用文献:ニコス・カザンザキス著、児玉操訳、恒文社『キリスト最後のこころみ』より)

これを最後にプレゼントします。

あなたのことがよくわかりました。

あなたは
「出て行け!」「出て行け!」と叫ぶ、
あの有名な布団をたたくおばちゃんみたいなものですね?

私も独り言になってるみたいなので、無駄な努力でしょう。
22考える名無しさん:2006/01/15(日) 23:41:03
>>21は真剣な女性ですか、どうよ?
23考える名無しさん:2006/01/15(日) 23:52:30
>>18
ニーチェのキリスト教批判のポイントはすべて伝えているよ。
超訳を読んだら、全訳の「反キリスト者」(ちくま学芸文庫)を是非
読むべき。理解が容易になる。

全訳におけるニーチェのキリスト教批判は、さらに激烈で総合的。
彼の最晩年の作品で、彼の思想の集大成・到達点。彼自身もそう
言ってる。これ一冊で、ニーチェの全思想が理解できると言っても
過言ではない。
24ヴァルター・ラーテナウ ◆OTG4i2fFgU :2006/01/16(月) 00:00:55
>>22代わりに真剣な男性が語ろう!
あなたはどうせぬくぬくした環境にいるのだろう!
そして頭の中もぬくぬくしているのだ!

私はいつも厚い雪の中に足を差し入れている。
あなたはニュースも見ていないんだろうな。
今大変な大雪になっていることを知らないのかね?

一回雪の中を歩いてみたまえ。
それでから私と関わってくれ!
25考える名無しさん:2006/01/16(月) 00:19:54
>>21,>>24は上半身メス、下半身オスと判明しました。
26考える名無しさん:2006/01/16(月) 00:31:21
>>18
ていうかさ「ニーチェはこんなこと言ってない」っていう意見はどんなものであってもアテにしない方が良いと思うよ。
ニーチェって人は解釈次第で文字通りどうにでもなる人だから。
それに哲学するなら「考えられないでもないな」ということを常に頭におく方が良いと思う。
2718:2006/01/16(月) 00:39:47
>>23
>>26
ありがとうございます。
恥ずかしながら、まともな哲学書をきちんと読んだことがない者にとっては
こういう本は入門として非常にありがたい…次はちくまのやつに挑戦してみます。

しかしヤバい内容ですね〜これ。
ナチスにうまく利用されてしまった、という話も聞いたことがありますが、さもありなんというか…。
28考える名無しさん:2006/01/16(月) 00:47:18
『アンチクリスト』そんなにいいかなぁ・・・。
29考える名無しさん:2006/01/16(月) 02:19:12
ちくま全集でしか読めないんでしょ?
30考える名無しさん:2006/01/16(月) 04:35:56
>>18
今さらで悪いけど。
俺は全く読んだことが無いんだが、
タイトルに「キリストは邪教です!」なんて書く奴はどうだろう。
なんかとりあえず目につくことを、って感じで嫌だ。
ニーチェはもっとタイトルセンスいいよ。
いずれにせよ「超訳」なら「ニーチェ著」と書くべきではないだろう。
というか「現代語訳」の意味がわからない。

あと俺は白水社がいいって聞いたけど違うの?
もちろん個々で違いはあるだろうけど。
31考える名無しさん:2006/01/16(月) 05:02:30
>>30
「なんかとりあえず目に付くことを」ってのは悪いことじゃないと思うけどね。
ソフィーの世界でなんちゃって哲学好きが増えるよりは、哲学の門としては
ちゃんと機能してる。
学術的に読みたいなら全訳があるんだし、そっち読めばいいわけで。
32考える名無しさん:2006/01/16(月) 12:00:50
「キリスト教は邪教です!」はニーチェの冒涜
あんなのニーチェじゃない
33雨を降らせる女:2006/01/16(月) 19:32:25
私は今途方に暮れています。そして自分を憎んでいます。
私自身の知の限界を感じたからです。

だから、今雨が降っているのです。
34考える名無しさん:2006/01/16(月) 22:40:25
少し前から1人変な女が紛れ込んでるな
35現代 荘子:2006/01/16(月) 23:29:13
キリスト教は邪教です!で、盛り上がってたので買ってみましたが、頭痛いので
寝ます。
3630:2006/01/17(火) 00:42:49
>>31
まあそこは個人的感情なんで。
「なんかとりあえず目に付くことを」が悪いかどうかは知らない。
そういうものがあってももちろんん構わない。
まさしく、そうであったとしても、俺には関係ない。
だがそこにニーチェを関係させるのはどうなのかと。
忠実に、著者の文章との隔たりをできるかぎり無くす気が無いなら、「ニーチェ著」を書くな。
そういう形をとれば生ずるであろう誤解に対する配慮をもっと真剣に考えてほしい。
それが最低限のモラルw
多数に知られること(知られていること)に意味は無い。
ニーチェは自分の著作が同時代人に理解できるとは思っていなかった。
つまり自分の文章を改変してまで他人の理解を欲しなかった。
それが全てだろう。
『ツァラトゥストラはこう語った
    万人向けの、しかし何びとに向けられたのでもない書』
37考える名無しさん:2006/01/17(火) 01:29:23
「誰にでも読めて誰にも読めない書」みたいな感じに記憶してるが、訳によって違うな。
38考える名無しさん:2006/01/17(火) 03:13:01
とりあえずみんなが好きなニーチェ解説者教えろ。
ドゥルーズとかバタイユとかクロソウスキー、ハイデガー、永井均とかたくさんいるが。
39考える名無しさん:2006/01/17(火) 10:50:04
ヤスパース
40考える名無しさん:2006/01/17(火) 12:49:16
>>38
日本人の中では永井均
ゲージンのは読んだことない
41考える名無しさん:2006/01/17(火) 13:35:33
人間的な、あまりにも人間的な
をかなり読みたい
42考える名無しさん:2006/01/17(火) 16:09:48
だれも自分の考えを述べられないスレ。
ニーチェ関係の本をリストにしてすべて挙げたら。
そしたら、このスレ立てた奴の望みにかなうよ。

俺のニーチェ解釈をおまえらの飢えた腹に盛り込んでやるよ!
43考える名無しさん:2006/01/17(火) 16:16:10
もっとも理性のある人間は、性欲に左右されない人間である。
お前たちはバカだから、生きる意思と性欲をごっちゃにしてるだろう。

フロイトの研究結果は知ってるか?
最も理性のある女の人の心理を研究していたんだが、
彼女の夢の中ではいっさい性的なものは現れなかったのだ。
44考える名無しさん:2006/01/17(火) 16:44:38
>>43
お前心理学徒?
45考える名無しさん:2006/01/17(火) 17:22:53
>>44
この際だからてめーに叩き込んでやるよ。
食べることとトイレに行くことにしか存在価値がないお前。
一般人よりも脳が足りないみたいだな、人類がお前のために支障がなくて幸いだよ。
この哲学掲示板は成長がないんだよ!
まあ、ニーチェを厳密に理解してる奴にしかわからないだろうけど、
ニーチェを実践できる人間は、成長できる人間だけなんだよ!

だがこれも言っておく、おまえらは成長しなくても生きて行けるということだよ。
よかったな・・・世界にお前らのポジションがあって。

中途半端な位置にいないで凡人を極めたらどうだ?
一番極めやすいぞ!
もうなってたか!?ごめん。
46考える名無しさん:2006/01/17(火) 18:03:02
このキレ方は心理学ヲタだなw
キレ所が意味不明で下劣なのも一緒w
47考える名無しさん:2006/01/17(火) 18:04:20
>>45
下劣で汚い心理学徒が来たらスレ汚れるから来なくていいよwww
48考える名無しさん:2006/01/17(火) 18:47:19
心理学専攻か・・。哀れだな。女・子供の遊び。
49考える名無しさん:2006/01/17(火) 19:58:21
>>45
とてもニーチェを理解しているとは思えん。

決して中心点の定まらない諸衝動のせめぎあいの中で、
優位に立った衝動が理性をして道具として利用している。
50考える名無しさん:2006/01/17(火) 20:04:02
心理学ヲタは非常識のバカだから相手にしてもしょーがないw
51現代 荘子:2006/01/17(火) 20:32:04
我々は果たしてこのままでいいのか疑問に思う。

世の中の哲学研究者、哲学好きなどは現在を肯定した土台の上で全て
哲学をしいてならい。

それはただの趣味哲学ではないのか。

私はこの社会が許せなくて仕方ないデタラメばかりだからだ。
なぜ現在を裁こうとしないのか、それは未来へ繋がる。

なぜ現在から過去しか見ない哲学者しかいないのだ。
なぜ現在の土台で疑わずその道を進めれるんだ。

そのままレーシングして何を争ってるんだ。
どう考えても先は崖じゃないか。
見えないのか?
なぜなんだ
52現代 荘子:2006/01/17(火) 20:57:28
雑な世界を肯定する。
それは庶民の悪い癖。

それは何を生み出すか。

自分の心を世界として計る愚民への一歩。
自分の心とフィクスするかで周りを測る
狭い心同士の共感。

やさしい言葉、酷い言葉、雑な自分の心。
これすなわち愚民といわれる現代人。

そこには何が抜けてるか、真実がない。

どんなループにはまろうが、必ず不満、ストレスが溜まる。

何が足りないか知恵という思慮。

まったく深く真実を考えない考えたふりの庶民。

これは将来という世界を、カビのように果実を腐らす効果を持っている。

現代人はゆるぎないカビである。
53現代 荘子:2006/01/18(水) 23:50:57
我々は、あまりにも能天気に自分を愛しすぎ全てにおいて逃げすぎた。
その結果、普通といわれる普通は妥協の妥協の産物。

その普通は普通ではなく究極の弱者である。
弱者は自分を愛し、そしてそのために逃げる逃げる。

彼らの言葉を見れるか?逃げてない言葉が見当たらないほど
最下層を極めてる。

こんな状況での我々の状態では健康な人間を殺す作用がある。
そう、少数の賢人な人をだ。

二チェーは我々が殺した。
神も我々が殺した。

我 普通 それ すなわち病的。

現在最大の哲学 我にあり。

我を真実の測りにかけ裁くこと、
すなわち現代不純物の見極め。

人類は裁くに値してる。

何が足りないか何がいらないか、何に向かうか。
もうこの世は古い。
54現代 荘子:2006/01/19(木) 00:34:51
あなたも自分、自分もあなた、自分という共有化。

何がそうさせたか、
4次的配置にある愛を1次的配置に置き。
5次的配置にある平和を2次的配置に置き。
6次的配置にある欲求を3次的配置に置いた。

これは、自分達を1つにするには十分な興奮剤だった。
それはどんな自分の姿か。

この手に入れた自分は、持ってる観念といえば3つ4つ。
平和という痴呆症。
欲という麻薬中毒社会。
愛という自分一人で生きてしまってる矛盾。

重度の精神異常という自分を作るのに成功した。
私達は自分という姿の細胞の自分にすぎないのだ。

本来あるべき配置をずらし、それらを美しくさせてたのは
排除したあの3つだったとも知らずに。
55現代 荘子:2006/01/19(木) 00:36:06
あの3つが、愛、平和、欲求をバランスよくして意味をもたらせてた。

あの時の愛は、1人で生きてなかった。
あの時の欲求は、美味しい御飯を食べるようだった。
あの時の平和は、時が自然だった。

私たちを客観視できる第三者がいれば、
この自分は珊瑚を死滅させるオニヒトデといった状態だろう。

人は一人ではいきれないはずなのに、人類は1人で生きようとしてるではないか。

まさにこの共有化状態は効力すらないシンボル状態の[愛,平和,欲]を証明してる。

この精神異常者の束縛を支えているだけになった。

それを証明するかのような、表面だけの細胞達。
それを証明するかのような、表面だけの中身達。

普通という精神異常者。

馬鹿の1つ覚えみたいに、あれらの波長しか聞こえてこない。
あれらの波長の中の周波数しかない、この自分という世界。
56現代 荘子:2006/01/19(木) 01:30:09
お願いです。人間はいませんか? 私は人間を探してる。
57考える名無しさん:2006/01/19(木) 12:55:40
うぜえからどっか行け
58考える名無しさん:2006/01/19(木) 16:09:25
ニーチェの著作には、なんとなく興味をそそられます。
しかし、ニーチェに傾倒すればする程(研究とは別)いわゆる世の中で一般的
価値とされているもの、仮に「通俗価値」とします。
そうしたものに、だんだん意味を見出さなくなっていくと思うのです。
毒の強さによって、世の中の苦しみから一時的に逃れられるでしょうけれども。
また、いわゆる一般的な人生をまっとう出来ることもあるでしょうが、多くは
なんらかの破綻を来す人生になると思います。
その「なんらか」については、10ほど思い浮かびますが、語彙的にきわどい
言葉がほとんどなので、表記するのは控えさせていただきます。
ニーチェの著作は、間違っても「人生論」とは、ある意味反対のものでしょう。
59考える名無しさん:2006/01/19(木) 16:16:46
>>58
世に迎合して、矮小な人生を送るか
通俗価値を叩き壊して、狂った快活な人生を送るか

十分人生論じゃないかね
60考える名無しさん:2006/01/19(木) 16:18:37
ああ、まじれすしてしまった
61考える名無しさん:2006/01/19(木) 16:52:56
>>58
マルチすんな。死ね屑
62考える名無しさん:2006/01/19(木) 16:57:24
>>59
 成る程おっしゃいます様に、人生論と言えるかも知れません。
 59さんとは全く関係ありませんが、以下の自らの逸話を書きますので、その他
 の方も含めまして、もし宜しければご感想を戴ければ幸いです。
 私は会社が引けたある週末の夜、知合いと一緒にあるカラオケスナックに参り
 ました。30分位いした頃、私が曲のオーダー順を一つ間違え、或る方より先
 に唄い始めました処、その方がいきなり私の上唇辺りを殴られました。私は警
 察を呼び、弁護士と相談して保証も考えましたが、傷が浅かったこともあり、
 暫く通院し治癒致しました。その方は「自分は実存主義だから、自分の宿命通
 りに生きる(障害を持った人ならその様に、貧しい虐げられた人ならその様に
 生きる、それがまさしく自分自身である」と。そしてテーブルの上には、文庫
 の「善悪の彼岸」を置いておられました。再度申しますが59番さんのご意見と
 は関係ございません。しかし、この出来事を私はどう捉えたら宜しいのでしょ
 うか???
63考える名無しさん:2006/01/19(木) 17:47:50
>>58
>>62
 わいが感想ゆうたるわっ!
 てめえよお!真面目くさっとんじゃんねえぞっ!
 てめえ!金輪際このサイトに書込みしてくんなっ!
 ほかのスレで、それらしいもん見っけたら、殺いたるでなっ!
 ルートあるんじゃ!てめえみてえな、自殺してまえっ!
 交通事故で死んでまえっ! 川から落ちてまえっ!
 めん玉くり貫いたろかっ! 腎臓とったろかっ!
 まーいっぺんゆーたる。金輪際この全部のスレに書込みすんな!
 どーなるか、わかったなっ! ええか!
64考える名無しさん:2006/01/19(木) 19:10:16
なにその関西弁・・
「てめえみてぇな」って、江戸っ子でしょ
65現代 荘子:2006/01/19(木) 20:01:51
何だようやくレスがついたと思ったら動物の鳴き声でしたか。
66ゼットン ◆ix1o7T.QHE :2006/01/19(木) 20:38:40
             _
            / ヽ       _
      _ __/ _ /       / '、
       `ー - '´ノ└ 、 , - r '" ∠゙、ヽ__       ピロロロロロロロ
           ト、_ _,八/人し ィ´  `ー''"
              〉__ ィ 、 _ `7
          /r─‐:リn r ニ=、
          / ! ∩ 1i;;;;!/ ∩ 7         ゼ ッ ト ォ ン
          ! ! V |i;;;;;;! V /   (ゼットンはニーチェが大好きです♪)
         i  ヽ イi;;;;;;ハ__/
       _ ノ  ミ Y イ !;;j l_
    , -‐< ヽ ( ー、ヽ _Y/  ヘ
   j>   ヽ ヽ   ヽYノ /  `ー、_                 ピロロロロロロロ
  イ  _    ノ_ ハ 、___/   ,- - ニ、r⌒ヽ- - - ───、
 ./;;ヽ  ` ー'´ `r::ヽ ヽ     r::::、イ;;;;;;;;;;;;;;;;`ー - - -、  r - -、 ヽ、
  !;;;;;;;ヽ      ):::ヽヽ. / /:::::::';;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ヽ  ̄)--ヽノ
  ヽ;;;;;;;;;ヽ ( ̄て::::;;::ヽ V !::;;::::;;::ト- - - - - - '' "´ ̄ ̄
     i T`rニニニ):::::;;::::i ! i:::;;:::::;;::!
      ! i ! ::::;;;:::::::;;:::/ 人 、:;;::;;::ノ
     ', i ヽ.ヽ、;;;;;;// !ヽヽ;;;;;;ノ
      !冫 ヽ、_ _/ ヽノ`ヽ-イ



67現代 荘子:2006/01/19(木) 20:57:39
さて、私は謝らなくてはなりません。
私は頭痛と睡眠不足から、私の感情に一時的負けた部分がありました。

レスに対して一蹴してしまいましたが。
中には一蹴するものではない者もいました。

私が犯したミスそれは私の心の疲れと同じ現われだった。

アイムソーリヒゲソーリ。

疲れてるので寝ます。
68考える名無しさん:2006/01/19(木) 21:13:13
キモw
69現代 荘子:2006/01/19(木) 21:28:07
そのキモさが味噌なのです。

意外と快感ですよ。気取ってないでありのままです。

私もキモいかなと調度思ってました。

しかしキモいのは隔離されるものでもなく
実際はキモさとお友達なったほうが健康体なのです。

なぜなら自分で自分を抑えないからです。

このぐらいが調度いい。

70考える名無しさん:2006/01/19(木) 21:40:48
まあ、勝手にすればよいが、ニーチェスレだから
ニーチェと関係ないレスを迷惑がる住人もいると
いうこった。
71考える名無しさん:2006/01/19(木) 21:42:24
ゆっくり寝とくれ。ノシ
72現代 荘子:2006/01/19(木) 21:49:14
>>70 その通りですね。私は消えることにします。

>>71 ご指摘ありがとうございます。おかげで寝ることを思いだしました。

私は神を殺してなどいない。 この板を殺してしまった!

私はバカです。おバカでした。おーばかんーでした。

自分が男性か疑いたくなりました。しかし付いてました。

ここまですれば私は地に落ちる。

これでゆっくり消えれる

73考える名無しさん:2006/01/19(木) 22:16:46
苦労人、乙。


・・・さて、ニーチェスレは、ご希望通りオープンチャンネルとなりました。
思う存分、ニーチェして下さい。

早くやれ!!!
74考える名無しさん:2006/01/20(金) 09:31:06
>>58
>>62
 まず、本人62・63を特定したる(名前・住所)遣り方は有る
>>63
 ほして色んな嫌がらせをしたる
 勤め人やったら辞めさせる これも遣り方は有る
 商売人やったら、仕入もとを断ったるは
 金の入りを止めて困らせたる 離婚・家族崩壊もさせたる

 自殺や自己を装って、殺ったる
 俺に対する金の出処はちゃんとある
 男に二言はない。テレビと新聞見とれ
 
 
75考える名無しさん:2006/01/20(金) 09:51:38
>>58
>>62
 口だけや、冗談やと思っとんなよ
>>63
>>74
 斧で頭かち割ったれ
 歯も全部折ったれ(入れ歯やといかんが)

 それはそてとして、そのジンの一番の面子を潰したることや
 そしたらおのずと自殺するわ
 会社の役位か、町内の信用か、家族・親戚か、金か知らんが

 執念持って決着するまで遣ったるわ
7658・62番でございます:2006/01/20(金) 13:01:19
今後、御社2CHの総てのサイトに対しまして、一切書込みを行わない事を
お約束申し上げます。
また、当関係サイト以前の小生の書込みにつきまして、御社の規約とご判断
上、相応しくないとされた件につきましては、削除をされましても、全く異
存はございません。
なお、他のお方がお書きになられた文章にも、御社の規約上相応しくないと
ご判断されるものがございましたら、お消し下さいましたら幸甚に存じます。
蛇足ではございますが、只今より私のノートパソコン等の機器は、中古ハー
ドウエア業者様にお引取り頂く事に致しました。
更に携帯電話も解約致しました事も、併せましてご報告申し上げます。以上
77ヘイト ◆iyx/0deoUw :2006/01/20(金) 13:25:35
神でなくなったあるものは生きている

脳内乙
78考える名無しさん:2006/01/20(金) 22:36:46
>>77 ヘイトって捨て台詞しか言えないで有名ってほんと?
79 考える名無しさん:2006/01/21(土) 21:22:09
ホントに板、死んでるなw
80考える名無しさん:2006/01/21(土) 22:06:43
いかんいかん、ツアラがまだ読みかけだった。
あと残すところは第4部。
81考える名無しさん:2006/01/22(日) 06:36:01
『キリスト教は邪教です!』にケチつけてるやつってたいてい読んでないんだよね。
よんだけど超訳じゃなくて逐語訳だった。白水社のわけのわからん訳よりぜんぜんよいよ。
82考える名無しさん:2006/01/22(日) 08:01:49
まあ『アンチクリスト』なんて原典自体がそう重要なもんでもないしな。
(無論、あくまで俺の価値観からしたら、だけど)

ところでニーチェはカントについてどう思っていたのかなー。
『実践理性批判』はアレだけど、『純理』はどうだろ。
83珍米:2006/01/22(日) 09:31:55

    彡川珍米三ミ
   川出 ::::::⌒ ⌒ヽ プゥ〜ン
  出川::::::::ー◎-◎-)
 ..川(6|::::::::  ( 。。))  俺を見かけたらHAPPYになれるよ★
 出川;;;::∴ ノ  3  ノ  
   ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ      早く米国産牛肉が輸入再開になって
  ( *  ヽー--'ヽ )         安くて旨い牛丼が食べたいな!
  (∵ ;)  ゚ ノヽ  ゚ ):)
  (: ・ )--―'⌒ー--`,_)
  (___)ーニ三三ニ-)
  (∴ ー' ̄⌒ヽωニЭ
   `l ・  . /メ /
    ヽ ∵  /~- /.
    (__)))))_)))))
84考える名無しさん:2006/01/22(日) 12:43:15
>>82
「悦ばしき知識」第5書の357を参照されたし。

ここで、ライプニッツやカント、ヘーゲル及びショーペンハウアーについて
述べている。

これを読む限り、「因果性」の概念への疑問を投げかけたカントを
評価している。
85考える名無しさん:2006/01/22(日) 22:08:57
ニーチェは、カントのことを、「陰湿な神学者」だと言っている(アンチク
リスト)。
86ウルトラ星人 ◆FD4LOIv6EE :2006/01/24(火) 16:42:20
            (エー-':`ー-'エ ) このスレは
     ( エ'ー'´:`ーエ)     ヽ、 : / ウルトラマンスレと化しました。
      `ヽ  :  /´      ! : ヽ  
       ハ  : !       /! :  ハ.  
       _| l  : ハ.     トヽ : / r !
      トヽヽ : /,-l    {ミ、∨/三ヽ .
      {三ヽ∨彡}    ∧(⌒⌒)r‐‐}
     ∧ ̄!(⌒⌒)ハヽ. ∧l ヾ 〃l⌒ l
     /∨l l ヾ、〃ハ l ヽ.l | l  l lニニ!
    /从' |r-l、/ ̄ ̄ ̄ ̄/ l介介介|从|
  _(二ニ三/  ベガッサ./__|_l_l__|  |__
      \/____/      <| | | r'
87ウルトラ星人 ◆FD4LOIv6EE :2006/01/24(火) 16:43:47
     ::|.        /|
     ::|_   ノヽ / .|、、へ_ノ|
     ::|ヾ'''' ヽ ヽ ..| | _,,,/
     ::|\丿 ̄\丶|,|√.ノ( 
     ::|ヽヽノ ̄\...|o|/丶ゝ
     ::||ヾ |┌--、ヽ|/,-┐| |        
     ::|.|::: | ヽ--イ.|||ヽ-イ:|ソ       スパーク光線!!
     ::|.ヾ/.|..   .|||  ./   
     ::|  ';:ヽ┌===┐./     
     ::| _〉ヾ ヾ二ソ./      
     ::| .||:::::::::::`---´:|____
     ::|).||:::::::::::::::::::::::::||..○ ||`ヽ
     ::|○||:::::::::::_:::::::||..○ ||:::::::::ヽ
     ::|○.ヾ_ノ.。ヽ:::ソ ○ ||====,)
     ::|  ○..《8(●)8》,○ ||、 ◇....| 


     ::|.       
     ::|   ,,,,, _,__
     ::|_丿\ ̄ .|  /|_、
     ::|:::\  \ .| ./. ノ:: /
     ::|ヽ .|ノ ̄\ヽo//ヽノ
     ::|| .| |┌--、ヽ|/,-┐| |   ここまでは、ゼットンと
     ::|.|::| | ヽ--イ.|||ヽ-イ:|..|   ご覧のウルトラ戦士の提供で
     ::|.ヾ...|..   .|||  .//    お送りいたしました
     ::|  ';:ヽ┌===┐./ソ     
     ::| _〉ヾ ヾ二ソ./      
     ::| .||:::::::::::`---´:|____
     ::|].||:::::::::::::::::::::::::||..□ ||`ヽ
     ::|□||::::::::::::::::::::::||..□..||:::::::::ヽ
     ::|□||__,A__||..□..||====,)
     ::| ◇.□|8(●)8|□.◇||、□.[〈   
88現代 荘子:2006/01/26(木) 01:00:28
遊びにきました。

初めて哲学に関する本を読みました。
私はニーチェが好きになってしまいました。

私と同じことを言ってるからです。
千年の孤独に居た私は初めて人を見ました。

ニーチェは普通です。我々が愚か過ぎなだけです。
私はそばにニーチェを置き共に生きたいと思います。

やはり1人で生きていくのはキツイからです。
そして現代を見れないニーチェに代わり歩みます。

ニーチェに被れるつもりもありません。
ただそばに居ればいいのです。

後は私の思考でやっていける自信がついたのですから。
89ぽっくん:2006/01/26(木) 01:19:09
  |   _人
  | ( ・ε・ )にーちぇんねる
 / ̄ノ( ヘヘ
90考える名無しさん:2006/01/26(木) 04:19:39
うまいな、おい。
91考える名無しさん:2006/01/27(金) 14:31:59
超人とは透明人間のこと
92考える名無しさん:2006/01/29(日) 16:46:49
>>76
 何!! パソコンを売って、携帯を解約しただと!!
 車も・DVDも売っちまえ!!!
 糞野郎!!!!
 キサマ自殺せろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
93考える名無しさん:2006/01/29(日) 21:45:39
ツァラを読み終えた・・・
面白かった

次は善悪の彼岸を読もう
94考える名無しさん:2006/01/30(月) 19:52:10
善悪の彼岸は新潮のほうがいいと思う
岩波はヒドイと思う
95考える名無しさん:2006/02/02(木) 02:04:12
ニーチェは上品すぎる
だがそこがいい
96考える名無しさん:2006/02/02(木) 02:44:42
ニーチェがすごいのはわかりきってるから敢えて書く必要なし。

必要なのはニーチェ批判。
97考える名無しさん:2006/02/02(木) 02:57:47
98考える名無しさん:2006/02/06(月) 16:31:10
ニーチェは凄いというよりスゴすぎなので誰も批判できない
99考える名無しさん:2006/02/06(月) 23:57:00
誰と比べてスゴイとか、そういう次元の哲学なの?ニーチェって
ガッカリした
100考える名無しさん:2006/02/07(火) 01:17:02
ドゥルーズは哲学者ならば議論から逃げ出すだろう、みたいなこと言ってた。
そう考えると哲学は断言であって、ニーチェが凄かろうと凄くなかろうと
比較できないものと考えられる。
だがニーチェと同じ地平に立てればニーチェとどう違うかとか考えることは出来る。
今日はもう眠いから詳しく立ち入らんけどね。おやすみ。
101考える名無しさん:2006/02/10(金) 17:09:13
ニーチョお勧めの文句なんて本当にあるの
102考える名無しさん:2006/02/20(月) 02:13:20
103考える名無しさん:2006/02/20(月) 11:13:43
ニーチェの論文とはマニアックだな。
岩波から出てるようなのは論文じゃないと思うが。
文献学の論文だろうか?
104考える名無しさん:2006/02/20(月) 17:17:24
ニーチェはニーチェの様に生まれついてないと読めるわけないと思うんだけど
105考える名無しさん:2006/02/20(月) 17:42:40
読むだけなら勉強すれば読める。
だが必要ない人間にとってはありきたりな美学のようにしか読めないだろう。
それは生まれつきというより、人間の発想の問題だ。
106考える名無しさん:2006/02/27(月) 10:49:09
知識面を除けばニーチェを読むに必要なのは「勇気」ですよ
107考える名無しさん:2006/02/27(月) 11:59:44
書店でレジ店員に見せる勇気だー
108考える名無しさん:2006/02/27(月) 12:14:35
違う気もするがそれはそれで必要だなっ!
109考える名無しさん:2006/02/27(月) 13:13:21
ヒント:密林
110考える名無しさん:2006/02/27(月) 17:27:25
木を隠すには森ですかっ!?
111考える名無しさん:2006/02/27(月) 23:28:23
女の人の股間の密林がはっきり見える本と一緒に……
ゴメソ
112考える名無しさん:2006/02/27(月) 23:50:20
>>111
大丈夫。読書とは、高尚な自慰行為である。
113処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/02/28(火) 01:59:45
ううせえってw
114処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/02/28(火) 02:05:00
ああ、欝だっ。
115処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/02/28(火) 02:09:09
俺が映像の世紀持ち上げたらスピちゃんがあれを作った件について。
116考える名無しさん:2006/02/28(火) 02:15:44
ああ、あなたが依頼者ですか。
なんて、依頼したか伺ってもいいですか。
117考える名無しさん:2006/03/06(月) 14:02:20
反キリストって全集にしか載ってないの?
118考える名無しさん:2006/03/06(月) 19:37:47
>>117
岩波やちくまの文庫本にはないからないかも。
119考える名無しさん:2006/03/07(火) 00:18:03
ちくまの全集には反キリスト者あるよ
120考える名無しさん:2006/03/07(火) 15:56:04
岩波の道徳の系譜が頭に入ってこないほど難しい
121考える名無しさん:2006/03/07(火) 18:18:06
( ・д・)ニーチェ…
122考える名無しさん:2006/03/08(水) 00:09:23
岩波の善悪の彼岸と道徳の系譜はあんまりいい訳ではないと聞いているよ
123考える名無しさん:2006/03/08(水) 00:30:08
全部西尾幹二に訳して貰いたい
124考える名無しさん:2006/03/09(木) 13:26:02
ニーチェ読み始めようと思うんだけど、どこの出版社がお薦めですか?
125考える名無しさん:2006/03/09(木) 21:54:47
ツァラトゥストラなら岩波が評判良かったと思う。
アンチクリストならハードカバーだけど白水社イデー選書が良いらしい。
権力の意志ならちくま学芸文庫だと思う。
ところで、ドゥルーズの『ニーチェ』って評判凄く悪いけど、
今日立ち読みしてみた限りではそんなに悪い本に見えなかったけど?
確かに一般向けで、伝記の部分が多かったようには思われるけど、
ドゥルーズなりにドゥルーズ流のニーチェへの最短コースを示しているように見えたな。
なぜかというと、それは『スピノザ―実践の哲学』にも言えることだけど、概念別に書いてあるから。
そして、それら自体はかなり要点を得てかつ漏れがないように俺には見えた。
『エチカ』にたとえるなら、『ニーチェ』は最初の公理や定義のみを書いてある本って感じがしたわけ。
ニーチェ研究家の偉い人、どうなんですか?
126考える名無しさん:2006/03/10(金) 01:09:15
「ドゥルーズ流のニーチェ」だから叩かれるんだろう。
哲学なんて結局答えの無い問いなんだよ。だから問う人がブランドになるのに、
あれじゃあニーチェじゃない、となるわけ。
127考える名無しさん:2006/03/10(金) 11:02:24
なるほど
128考える名無しさん:2006/03/10(金) 19:41:45
けっきょくほんってかがみなんだよね
それがよおくわかったきがする
じぶんしだいなんだな
129考える名無しさん:2006/03/10(金) 21:23:34
本は行間を読めだって?? 目次をめって言いたい。
130自然葉:2006/03/11(土) 01:21:06
ニーチェに学ぶ、もっともすごいもの

ニーチェの思考の中でもっとも迫力をもって、人間の生そのものを考え抜いた議論は「永劫回帰」
の仮説ではないか。

「すべて歩むことができるものは,すでにこの道を歩んだことがあるのではないか。すべて起こり
うることは,すでに一度起こったことがあるのではないか,この道を通りすぎたことがあるのでは
ないか」「一切は行き,一切は帰る。存在の車輪は永遠にまわっている。一切は死んでゆく,一切
はふたたび花咲く。存在の年は永遠にめぐっている。」「一瞬一瞬に存在は始まる。」「わたしは,
永遠にくりかえして,同一のこの生に帰ってくるのだ。」「悦楽はあまりに富んでいるがゆえに,
苦痛を渇望する。地獄を,憎悪を,屈辱を,不具を,一口にいえば世界を渇望する。」「悦楽はすべ
てのことが永遠ならんことを欲するのだ,深い深い永遠を欲するのだ。」(ニーチェ「ツァラトゥス
トラはこう語った」手塚富雄訳 )

 まず、この仮説は虚構である。ニーチェはそれを百も承知していた。しかし、この「虚偽は人間が
それなしには生きてゆけないがゆえに、真理と呼ばれる虚偽である。」(ニーチェ)そしてキリスト
教の永遠の生命をもって生きる神の国思想を否定し、かつ、人間の生を根源的に無価値と化するニヒ
リズムを否定するために作り上げた、ニーチェ苦心の作品だった。
 そして、この永劫回帰を噛み締め、嚥下することで、ひとの生は瞬間が永遠につながるのだ。ひと
の生の一回性はそのために永遠に輝くことになる。一切が回帰するので、最初の一歩は賭なのだ。瞬
間に永遠は賭けられている。(ハイデッガー)
 これはものすごい考え方ではないか。きみの人生が仮に80年としよう。その一瞬一瞬が80年の人生
を決定してしまう。だから、後悔せぬよう全速力で疾走しなければならぬ。そして、「よし!もう一度!」
と叫ばねばならぬ。こんなにひとびとに勇気を与える考え方はない。
131考える名無しさん:2006/03/11(土) 01:47:22
勇気を与えてしまったら、台無しなんじゃないかな?
賭けってのはもっとヤバイものであるべきではないのか。
ニーチェ自身、最悪のニヒリズムにもなりうると言っていた気がするけど。
132考える名無しさん:2006/03/11(土) 20:51:35
>まず、この仮説は虚構である。ニーチェはそれを百も承知していた。
自分がそう思いたいからって、こういうこと無根拠に言うやつって居るよね。
「百も承知していた」ってw
133考える名無しさん:2006/03/12(日) 04:02:01
>>130
めちゃくちゃ竹田臭が・・・

でもま、竹田のは結構面白い解釈だとは思ったけどね
134考える名無しさん:2006/03/18(土) 21:01:16
若いころ訳されたやつよんで
ニーチェに非常に他人とは思えない
感情を抱いたこともあったなぁ
でも、ぜったい訳した人の色入ってるから
ドイツ人に産まれたかったと思ってたなぁ
135考える名無しさん:2006/03/21(火) 06:06:12
ニーチェは他人。
だって俺にはあんな発想は無理だと思う。
華やぐ知恵の五章とかすごすぎて泣ける。
136病弱名無しさん:2006/03/21(火) 17:01:44
「Die froehliche Wissenschaft」は色々な訳され方をしているね。
137考える名無しさん:2006/03/22(水) 01:07:17
>>136
「悦ばしい知識」が一番いいのでは?
138考える名無しさん:2006/03/22(水) 01:23:06
Le gai savoirでよかったっけ?
139考える名無しさん:2006/03/22(水) 22:59:06
ツァラトゥストラで一番良い訳は中公文庫?
140病弱名無しさん:2006/03/23(木) 00:30:39
正確な理解を期すなら中公がいいと思うけど、自分は岩波が熱くて好きだな。
141考える名無しさん:2006/03/25(土) 01:25:41
そういえばさ……ニーチェの信奉者だったムッソリーニは、
ファシズムの開祖なんだよな。
ひょっとして、ニーチェ主義で作られた国家こそが所謂ファシズム……
142考える名無しさん:2006/03/25(土) 02:55:04
何時使い古されたネタだろうか
143考える名無しさん:2006/03/29(水) 05:44:26
ニーチェってカント全否定?
144考える名無しさん:2006/03/29(水) 06:18:57
ニーチェって仏教っぽいな。
永劫回帰は輪廻転生。
「決死の跳躍」は因果を越えろって主張だとすると
仏教でも、より穏当な表現だが似たような事は言われてるし。

>>141
個人が全体を体現しても仕方ないわな。
145考える名無しさん:2006/03/29(水) 07:53:45
ブッダは輪廻転生を説いてないらしい
146考える名無しさん:2006/03/29(水) 13:02:38
輪廻転生と永劫回帰は全く別の思想だろ。むしろ正反対。
147考える名無しさん:2006/03/29(水) 13:43:46
>>146
概念としては似てるよな。

ニーチェは仏教について何か知ってたのかな。
148病弱名無しさん:2006/03/29(水) 14:35:21
ショーペンハウアー読んでたから仏教も知ってるでしょ。
仏教に関する記述も著書の中に幾度となく出てくるし。
149考える名無しさん:2006/03/30(木) 00:58:56
ナチスとかオウムとかあらゆる社会悪と絡めて
徹底的なニーチェバッシングしているサイト。
悪いことの根源はなんでもニーチェなんで
ホンマかいなと思ってしまった
http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Studio/8352/niitye.html
150考える名無しさん:2006/03/30(木) 14:21:04
ちょっと待て、なんだそのつづりは
151考える名無しさん:2006/03/31(金) 00:09:49
柄谷がニーチェは弱者だったって言ってるけど、どう見ても強者だと思う
152考える名無しさん:2006/03/31(金) 00:25:41
ニーチェは強者だが、その信奉者は弱者という意味なら頷ける
153考える名無しさん:2006/03/31(金) 23:24:50
反抗と厳密に否定することがニヒルである、と理解しているけど、
こういう人はニヒルですか?
154考える名無しさん:2006/03/32(土) 16:05:38
柄谷はニーチェは学者として失敗して梅毒持ちの弱者だったと言ってた
155考える名無しさん:2006/03/32(土) 16:12:03
柄谷は色白の二枚目だから強者だと思う
156考える名無しさん:2006/03/32(土) 17:43:20
柄谷はマルキストだから、ニーチェを悪く言うのは当たり前。

ニーチェの思想は、マルクス的観念論とは対極的。
157考える名無しさん:2006/03/32(土) 18:16:44
梅毒って仮説と思っていたけど、
学者間で共通認識があるんですか?
158考える名無しさん:2006/04/02(日) 04:15:00
>>157
学生時友人に誘われ商婦と夜遊びしたらしい。その時もらって帰ったとな。どっかの本に書いてあった。
159考える名無しさん:2006/04/02(日) 16:53:41
>>158
娼婦と夜遊びは一回だけじゃないでしょ?
160考える名無しさん:2006/04/02(日) 16:58:25
ニーチェは素人童貞だな
161考える名無しさん:2006/04/03(月) 01:49:01
マルクスの良い解説本って無い?
162考える名無しさん:2006/04/03(月) 06:58:00
輪廻転生は仏教以前からあったインドの思想だったと聞く。
昔何かの本に書いてあったことだけれど、間違ってたらすまん。
163考える名無しさん:2006/04/03(月) 12:57:26
>>161
バリバール『マルクスの哲学』
164考える名無しさん:2006/04/03(月) 14:38:05
ソフィーの世界にニーチェってでてくる??
165考える名無しさん:2006/04/03(月) 16:23:39
ニーチェ軽く出てくるぉ〜。ただハイデガーやポモの思想家は一切無視してる。
166考える名無しさん:2006/04/03(月) 16:34:06
まぁポストモダンは要らないでしょ
子どもにも子どものうちは読ませたくないし
167考える名無しさん:2006/04/03(月) 19:26:18
遠い昔にニーチェが好きという独文専修の子に会ったがかわいかった
しかしおれのことは嫌いだった
168考える名無しさん:2006/04/03(月) 20:41:01
>>167俺もおまいが嫌いw
169考える名無しさん:2006/04/04(火) 22:25:33
ニーチェの詩が好きで、いろんな人の訳が読みたいのだが、
なかなか無いね。
170考える名無しさん:2006/04/06(木) 01:12:45
>156
いやいや、柄谷は、自分がホントにやりたいのはニーチェだって言ってたぞ。
ニーチェのいう強者っていうのは、マッチョで健康で…っていう身体的な強者じゃないんだっていう文脈で、
もし身体のことだったらニーチェなんてモロに弱者だよね、って言ったんだよ。
171考える名無しさん:2006/04/06(木) 03:49:15
誰も肉体的な意味では捉えてないと思う
172考える名無しさん:2006/04/06(木) 09:20:38
ニーチェはカント嫌いだから柄谷とは全然違う
173考える名無しさん:2006/04/07(金) 12:41:58
身体ってのは比喩じゃないの?
いくらなんでも柄谷はそこまでバカじゃない。
174考える名無しさん:2006/04/07(金) 13:08:57
どうみても精神的のことです
175考える名無しさん:2006/04/07(金) 20:30:46
>>165ありがとう。ソフィーの世界よんだ。
本当にかる〜くしか出てきてなかったので、結局ニーチェはよくわかんなかった。
ニヒリストと自称していたらしいけど、
それでも現実を肯定的に捉えるようにススメてたの?
「善や悪やイデア(神)は存在せず、現実だけが回帰しながら永遠と存在するけど、
それはそれと認めてしまって、前向きに生きようぜぇイェーイ」
っていうのがニーチェ?だとしたらニヒリストじゃない気がするんだ。
どなたか無学な俺に教えてください。
176考える名無しさん:2006/04/07(金) 20:45:32
>>175
ニヒリストは自称してないだろ。
とりあえずニーチェの入門書を一冊読めばいいのに。
177考える名無しさん:2006/04/07(金) 22:53:29
>>175
ニヒリストって哲学的な意味と世俗的な意味が違うんだよ。
哲学的な意味におけるニヒリストは暗い、後ろ向きの人間ではない。
178考える名無しさん:2006/04/08(土) 11:25:18
179病弱名無しさん:2006/04/08(土) 12:55:41
>>178
画像を拡大してみればわかるけれど、
『ツァラトゥストラ』と『この人を見よ』のようですな。
180考える名無しさん:2006/04/08(土) 15:37:32
全て無から生まれ、無に還るんですよ.
181:2006/04/09(日) 14:53:27
ニーチェって、なぜ「永劫回帰」なんて思想を考えだす必要があったのか
俺にはよくわからんのだ、
この「永劫回帰」って思想は、およそ人間が考えつく最も薄気味の悪い最悪な
思想に思える。だってそうじゃん、すべての事物が永遠に、意味もなく、
同じことをぐるぐる繰り返しているなんて・・・。
考えただけで、生きる気力が萎えちゃうよ。

「これが人生か。ならばもう一度!」ってか?
ニーチェが、非常にはら立ってるのはよくわかるんだけど、
俺は、

  そこまで やせ我慢 しなくたっていいんじゃない?

って言いたくなる。

要は、ニーチェは売り言葉に買い言葉で、「永劫回帰」なんて極端なことを
言い出したように思えるんだけど。
誰か、その辺の事情を教えてください。
(当方、仕事で疲れきっていて、これ以上難しいことを考える気力がないんで、
申し訳ありませんが。)
182考える名無しさん:2006/04/09(日) 16:06:01
1.否定 肯定
2.これらの肯定 (俺はこの人生を望んでいた)
3.永劫回帰の肯定 (永遠回望む)

こういう段階をもつ最終段階の最高の肯定の方式?
繰り返すといっても何かが微妙に違うんじゃない?
しらないけど
183考える名無しさん:2006/04/09(日) 16:06:41
無がメインなのです.
人生が休憩期間なのです.
また、無に還るのです.
184考える名無しさん:2006/04/09(日) 20:22:23
何度生まれ変わっても同じ瞬間を行動せよ
185考える名無しさん:2006/04/10(月) 11:56:09
フロイトかフロイトの解説書だったらどっち読んだ方がいい?
186考える名無しさん:2006/04/10(月) 13:37:40
>>181
永劫回帰って一面的なものではない思うし、あくまで俺の解釈だけど。
「なぜ」という観点から思想を見るのはおかしい気もするが、「なぜ」と問うなら、
ニーチェは背後の世界を根絶したかったのではないか。
「生」を、たとえば「天国のため」などではなく、生そのものとして、享受することができる。
それは、「大地の人間」という概念と通ずるものがある。

また、永劫回帰は超人のための思想だとか言っていたと思うから、
俺や普通の人間には時に不気味と思えるのも当然なのかもしれない。
あるいは、俺みたいな人間が永劫回帰を恐れる理由は、たいてい「弱さ」にあるから、
それらの「超克」のために、ニーチェは永劫回帰を説いたのかもしれない。
187考える名無しさん:2006/04/11(火) 08:31:01
三島憲一氏の「ニーチェ」はいいな
188考える名無しさん:2006/04/11(火) 13:51:22
三島氏の解説は最高
永井はカス
189考える名無しさん:2006/04/11(火) 18:04:58
永井は童貞
190考える名無しさん:2006/04/11(火) 20:10:11
みんなニーチェを娯楽として読んでるのか?
191一言居士:2006/04/12(水) 08:55:10
ニーチェの哲学は、全部受け入れることはできないが、十分興味深い。人類のありかたについて、弱弱しいものも保護してたくさんいるけど、病的で、くだらないとか弱弱しい人類がよいか、
弱弱しいものは放っておいて没落させ、健康で高貴で幸福な人類がよいか、と疑問を投げかけてくるようだ。言ってみれば、人類は、質か量か、と言う疑問である。ニーチェは質だ、と考えて
いるようだ。
192考える名無しさん:2006/04/12(水) 08:57:36
永劫回帰は言葉で解説すると全て陳腐になる。
悪い意味じゃなく、これは宗教だと思う。
193考える名無しさん:2006/04/12(水) 14:08:44
高校の時にすごくハマった。当時人間嫌い厨でした。
人格形成時に読むと病むのでよくない。
研究対象とか娯楽として聞き流せるようになってからでないと
それこそ悪い宗教みたく、こっち方面の思想まっしぐらで人間不信になってしまう。

自分はまだむこう十年は読めない。
当時は心のモヤモヤを全部代弁してくれて救われたと思ったけど。
あと当時、彼が聡明な人の慣れの果てのように見えてたけど
今はむしろ弱い偏屈な人なんだろうなと思う。
劣等感の強さゆえに変な選民思想にとらわれたのかなと。

頭弱そうなレスでスマソ。もう内容すらうろ覚えなので最後トンチンカンな事言ってるかもしれない。
別にニーチェを専攻したとかじゃない素人感想です。
194考える名無しさん:2006/04/12(水) 15:14:19
>>187
僕も岩波新書の三島憲一の「ニーチェ」読んだけど、
このなかで認識っていう言葉をこの人はやたらと
多用していて、この本の中心かなという箇所に差し掛かっても
具体的に「認識」っていう言葉をどういう意味合いで使っているのかが
わからず、消化不良だった。

永井のは、そもそも理解できん。意味わかってる人いるのか?いるんだろうな。

西研の実存からの冒険と、竹田青じのニーチェ入門が素人の俺でも
わかる内容だった。
195考える名無しさん:2006/04/14(金) 08:16:41
>>189
マジだろ?
196考える名無しさん:2006/04/14(金) 20:02:58
仏陀とまったく逆のこと(輪廻転生の否定ではなく肯定。輪の中から敢えて脱出を試みない)をしようとして、
ニーチェは発狂してしまったのだろうか。
197考える名無しさん:2006/04/14(金) 23:34:37
ああ、そういう視点もあるね
198考える名無しさん:2006/04/15(土) 04:04:22
トリノの悲劇って言うのは、具体的に何が起こったのだろうか。
199考える名無しさん:2006/04/15(土) 09:44:10
>>196
それは興味深いけど、だったら何で輪廻を仮定するのかという疑問が……
200考える名無しさん:2006/04/15(土) 12:26:44
梅毒が頭に回ったとも聞くけど実際発狂したの?
201考える名無しさん:2006/04/15(土) 15:02:24
ツァラトゥストラは日本にやってきた。そこでは仏が信仰の対象であった。ツァラトゥストラはこう言った。「仏は死んだ」
日本人は「あたりまえやないか」と答えた。
202考える名無しさん:2006/04/16(日) 09:36:19
ニーチェの場合、「発狂したフリをして憐れむ連中を馬鹿にしてた」なんてこともありえそうだから困る。
203考える名無しさん:2006/04/17(月) 14:36:19
ニーチェは結婚した哲学者は偽者って言っておきながらルー・ザロメと結婚しようとしたのか
204考える名無しさん:2006/04/17(月) 18:42:09
>>203
妹のエリザベートに嫉妬されてたんだっけ?
って云うとなんとなく『妹萌え』だが、
実際にエリザベートの写真を見てみると……

女ニーチェ。
205考える名無しさん:2006/04/17(月) 19:28:29
>>203
確かそのころに「女について間違いを言うことは難しい」とか何とか言ってなかったか。
正直「女わかんね」ってことなんだろうな。
206病弱名無しさん:2006/04/17(月) 22:25:10
ニーチェは女についてかなり書いているね。
ショーペンハウアーの影響かもしれないけど、珍しくないか。
207考える名無しさん:2006/04/19(水) 00:05:22
ヒトラー最後の十二時間をみたら
ニーチェ思想たくさんでてた
実際は多面的なんだが
208考える名無しさん:2006/04/23(日) 15:36:10
そういえばさ、富野由悠季ってニーチェ的じゃないか……
209考える名無しさん:2006/04/23(日) 16:01:10
>>208
そんな大人の理屈!!修正してやるっ!!!
210考える名無しさん:2006/04/23(日) 16:19:09
誰にとってもいかなる時代でもどういうものにも
同じく来るのが「常に問題は山積みである」ということ
これはどうあがいたってみんなに共通です。
それにある方法論を出したのがニーチェの「超人」という
定義。私の解釈によると超人は常に山積みの問題を制御できる
存在だと思うというか自らが問題たちに取り組んでゆき自分なりに
常に山積みの問題を同時進行で攻略してゆける存在と捉えています
211考える名無しさん:2006/04/23(日) 22:43:45
それ以前に、問題が何なのかを理解していない人間が多すぎる。
人間が増えても、価値ある人間が増えるわけじゃないのな。
と、ニーチェに毒されすぎたかと思う今日この頃。
212りくーつ・こねりー:2006/04/24(月) 01:41:54
というか、ニーチェって極端な相対主義で価値を否定してるかと俺は思ってた
「価値ある人間」の価値というものじたいは無意味っつうことはないのかな?
(ニーチェ、読んだことないけど)
213考える名無しさん:2006/04/24(月) 13:27:05
光炎菩薩、御齢三十にしてその故郷を去り、故郷の湖邊を去りて、遠く山に入りたまへり。
山に住して禅定に入り、孤独寂莫を樂しみたまふこと、茲に十年なるに、未だ嘗て倦みたまふ
ことなかりき。十年の後、心機遂に一轉、某の朝、曙光を仰いで起ち、昇る大日輪を仰いで、
語つて曰く、「われ、星中の王たる汝に告ぐ。汝は照らすを以つて汝の生命とす。……されば
汝、わが盃を祝せ、盃はまさに溢れんとす、水は金色の波を湛へて、盃の外に溢れ出で、
八面玲瓏として、汝の快楽を映じ出だすを見よ。見よ盃の水はまさに虚しからんとす。而して
われ光炎は再び人とならんとす。

ttp://gutenberg.spiegel.de/nietzsch/zara/als2001.htm#vorrede
214211:2006/04/24(月) 16:35:18
>>212
ニーチェはあまりに多面的。というかいろんなこと言い過ぎ。
まずニーチェは「絶対的な価値」の存在など認めてはいない。
というよりそんなものが無いことは、ある種の不文律にはなりえないのか。
ただ「生きる」ということは「価値裁定」であって、
常に何かをひいきし、何かを無視することである。
そういう意味で、「生」とは過ちを犯し続けることであり、誤謬である。
その本質的な「誤謬性」を受け入れて、「真理」に始まる「ひとつの価値」に跪くのをやめて欲しいのだ。
とまあ、最後のは俺の希望だし、記憶に頼ってるのでニーチェの思想と一致していないところもあると思う。というか答えになってない・・・・・・?
やっぱニーチェの哲学は言葉にしづらい。
といってニーチェは言葉遊びが下手なわけではなく、読み物としても面白いので、ぜひニーチェを読んでみてください。
215考える名無しさん:2006/04/24(月) 20:00:33
結局のところ、書物だけではニーチェという人物は永遠に理解し得ない
その考えも然り
推測の道具としては現代人には過ぎたオモチャなのだろう
216りくーつ・こねりー:2006/04/25(火) 12:43:07
>>214
> ただ「生きる」ということは「価値裁定」であって、
> 常に何かをひいきし、何かを無視することである。
> そういう意味で、「生」とは過ちを犯し続けることであり、誤謬である。

だとすると、

>>211
> 価値ある人間

はありえないんじゃないかな、と私は思ったり
少なくとも、相対的な価値を認めないかぎりは無理なんじゃないかなあ、とか思ったのです
217考える名無しさん:2006/04/25(火) 14:53:43
>>216
俺は214ではないが、
だったらわざわざ(末人が言う意味での)価値ある人間になろうというのは不条理な気がする。
218211:2006/04/25(火) 18:23:03
>>216
ほとんどの意味で、あなたの反論はもっともであると思う。
しかし、俺の論理が矛盾していないという自負はある。
ただそれを完全に説明しようとすると長くなるし、うまい説明ができるとも思えない。
それにニーチェの哲学は言葉にすると矛盾をはらむ危険が高いと感じる。
まあ「完全な論理」、「完全な伝達」が不可能としてもね。
なので、ニーチェの著作を読むのが一番いいと思った。
と、断ったうえで、いちおう俺の考えを短く。
まず俺が>>214で言いたかったのは、「絶対的な価値」はありえないが、「価値裁定」は不可避ということ。
つまり価値は常に没落する運命にある。
絶えず価値は破壊され、価値は創造される。
なのでざっくりと言えば、「価値ある人間」とは「創造的な人間」かと。
219211:2006/04/25(火) 18:44:32
って思想が現時点ではニーチェの模倣でしかない俺が言えることじゃなかったかなw
220りくーつ・こねりー:2006/04/26(水) 02:34:09
>>218
> なので、ニーチェの著作を読むのが一番いいと思った。

おっしゃるとおりでございます
(おりをみて読んでみようかな、と思ってます)

> 「価値ある人間」とは「創造的な人間」

この辺りは学問にもいえるような気が私はします…
問題を解こうとするより、問題を発見するほうが、価値があるように思えたりします
問題が発見されてるからこそ、問題を解くという営みが発生してる、と思ったりするからです
221211:2006/04/26(水) 20:01:08
>>220
それなら最後に、『善悪の彼岸』をおすすめしておきます。
価値云々について詳しいし、著作自体も名作。
ニーチェの、言ってみれば「遠近法主義」は、単なる相対主義よりも一歩進んだものに思えるので、読んでみる「価値」は充分にあると考えます。
222りくーつ・こねりー:2006/04/27(木) 01:01:24
ご紹介ありがとうございます
是非、おりをみて、その著作を読んでみようと思います
223考える名無しさん:2006/04/27(木) 10:27:56
通りすがりに失礼。
ツァラツストラをざっと読んだくらいの初心者です。
議論の流れが読み取れてないかもしれませんが…

ニーチェは相対的な視点を持つことを重視しましたが、
「超人」には絶対的な価値を置いて、これを目標にせよと言ったのだと思っていましたが。
違うのでしょうか?
224考える名無しさん:2006/04/27(木) 14:48:29
極端な相対主義者という人は、間違い
225りくーつ・こねりー:2006/04/28(金) 07:44:51
>>223
ニーチェ、読んだことがない人の戯言だったと思ってください…

俺がいいたかったのは、
相対的な視点で全ての価値を徹底的に否定したあげくに、
超人というニーチェの概念を持ち出したのかな?
と俺が勝手に思ってただけだし

そういった価値を否定するなら、自分が仮定する価値(超人)もそんなんになっちゃうんじゃないかな?
と俺が勝手に思ってただけだし

相対主義が自己言及してパラドックスに陥るのとおんなじようなことにならないかな?
と俺が勝手に思ってただけだし
226考える名無しさん:2006/04/28(金) 13:34:53
>>223
ニーチェの言う価値は、「主観的」ではあるが「相対的」ではないと考える。
なぜなら「相対的価値」とは、
「彼らは悪い。だから我々はよい」というふざけた奴隷道徳をふくむであろうから。
「主観的」なものが「価値」になったとき、それは「創造的」と言える。
まあ全く別の話、広い視野は必要だろうけど。
そして、確かにニーチェは「超人には絶対的な価値を置いた」と言えるかもしれないが、
「超人」の定義が絶対的ではない。
だから俺は、「超人」の概念は、超人そのものよりも、
「目的を持つ」とか「超克のために」といったところの方が比重が高いのではないかと思ったりする。
あと、ツァラトゥストラは「宗教的パロディ」の意味合いも持つので、その影響もあるかもしれない。
ニーチェに興味を持ったなら、散文も読んでみてはどうだろうか。
227223:2006/04/28(金) 20:16:44
レスありがとう。

>>225
いや、私もどうなんだろうと混乱しながら読んでいます。
>そういった価値を否定するなら、自分が仮定する価値(超人)も
>そんなんになっちゃうんじゃないかな?
そんな類の矛盾を感じることもあります。哲学脳を持っていないこともあり、
ニーチェの文意を汲むのは私には難しいです。

>>226
「己の主観が正しいのかどうかはいろいろな立場に身を置いてよくよく吟味せよ、
でも高い目的のために妥協せずに精進せよ」みたいな感じでしょうか。
↑説教臭いというか、俗っぽい表現でちょっとあれですが。

「善悪の彼岸」は半分あたりでちょっと休憩中、あと「人間的な…」を拾い読みしたりしてます。
入門書や解説書がたくさん出ているのでつい頼ってしまうのですが、
あくまで自分のために読んでいるので、多少変でも自分なりのニーチェ解釈をしたいとは思っています。
228考える名無しさん:2006/04/29(土) 09:52:07
悲劇の誕生を読んでるのだが
アポロ的英知とソクラテス的知性の違いを詳しく説明してくれまいか・・・
229考える名無しさん:2006/04/29(土) 10:02:59
>>228
私も今読んでる。

読みにくいw
230考える名無しさん:2006/04/30(日) 02:28:13
ニーチェは、なんか教祖になろうとしていたフシがあるな。
それも、自分から作るわけではなく、自分の著した教典を理解できる後世のやつに……
231考える名無しさん:2006/04/30(日) 04:07:51
>>230
それは違うと思う。

病苦の中にあっても尚、目を見開き、
あれほどの物を書く精神力に感嘆する。

いつかニーチェを大笑いして読める日がくればよいな〜!
232考える名無しさん:2006/04/30(日) 19:50:02
教祖になるというより、ともに語り合うしかなかったのじゃないのですか。

超人にせよ永遠回帰にせよ、それらの概念を神の代わりに持ち出して押し付けるわけにはいかなかったと思います。
「ましな人間達」への同情を諦めるシーンで、

「わたしはいったい幸福を追い求めているのだろうか?
私の追い求めているのは、わたしの仕事だ!」

と言って。ニーチェは少なからず「幸福」のような価値観の中で語ることを躊躇わざるをえなかったはず。
結局他人に正しさを教えこむような同情は出来ないから、ニーチェの本は支離滅裂というか
伝統的な書体を維持できなかったんだと思うけれど。
233考える名無しさん:2006/05/01(月) 10:12:41
>>230
ツァラトゥストラだけ読んで勘違いしてない?
あれが教祖風なのは聖書のイエスをパロディしてるからだよ。
ゾロアスター教の開祖という人物名を持ってきて
わざと伝道士という役柄を与えてる。

よく『この人を見よ』も勘違いされてる。元々は
聖書の中でキリストの鞭打ちの後にローマ総督ピラトが言ったセリフなんだけど
日本じゃやっぱり聖書になじみがないから
パロディで皮肉ってる部分のニュアンスが伝わりづらいのかな。
234考える名無しさん:2006/05/01(月) 12:01:11
ニーチェの人間性ってどう思う?
235考える名無しさん:2006/05/01(月) 19:28:31
哲学書を読むのに必要な知識っテ何?
(マジレス)
236考える名無しさん:2006/05/01(月) 19:39:37
>>235
読むだけならその哲学書が記されている言語の文法。
237考える名無しさん:2006/05/01(月) 20:15:02
>>235
文字が読めること。
238考える名無しさん:2006/05/01(月) 20:25:59
読解力
239考える名無しさん:2006/05/01(月) 20:26:43
本をとにかく読む
240考える名無しさん:2006/05/01(月) 22:03:18
ニーチェが言う「ジェスイット」って何を意味してるんだろうな。
たびたび比喩に使われるけど。
一般的(といっても「現代」の「日本」には無関係だが)には「偽善者」の意らしいが。
やっぱ読む上では「同時代」「同郷」が最適か。
その上ニーチェの個人的意味合いまで読み取ろうとするとかなり大変。
241考える名無しさん:2006/05/02(火) 03:45:34
永井均の『ルサンチマンの哲学』(河出書房新社)を読んでいます。
読書ペースが遅いのか、ようやく半ばに差し掛かりましたがなかなか面白いです。
哲学的意味でのルサンチマンとニーチェの語るルサンチマンは若干意味が異なるのですね。
242考える名無しさん:2006/05/02(火) 03:59:35
ニーチェはマキャヴェッリをどう評価してるの?
243考える名無しさん:2006/05/02(火) 19:59:25
>>235
知識じゃないが資質として、ニーチェの言うところの「勇気」。

244:2006/05/02(火) 21:16:24
241>前に読んだことある。
  でも、その本で著者が「永劫回帰は回帰しないところに意味がある」
  てなことを言っていた気がする。
  それについて深く考えたわけじゃないけど、いまだに意味わからんまま。

  てゆーか、「永劫回帰」って実はみんなよくわかってないんじゃないか?

  誰か、「おれは極めた」って言う人、わかりやすく解説してくれませんか。
  あんな気味の悪い思想が何で頭にうかんだんだろう。
245考える名無しさん:2006/05/02(火) 21:27:35
永遠に、同じ人が同じ事してたら同じだろ。
246考える名無しさん:2006/05/03(水) 00:22:50
>>244
気味の悪い思想、という点に関して言えば、
単に千年王国というフィクションに対して永劫回帰というフィクションを突きつけたということじゃないか。
だけどそれをことさら重大に言うからには歴史の直線的性格を否定することを
重要視していたようにも思う。
247考える名無しさん:2006/05/03(水) 19:44:33
ニーチェはどうしても自分の(人間の)運命を許せなかったんだろうな。
だから、こんちくしょう、って感じで「永劫回帰」を言い出したんじゃないかな。
いわば、毒食わば皿までってやつ
248考える名無しさん:2006/05/04(木) 01:01:06
241です。永劫回帰についてですが、永井は肯定していないのですね。むしろカント思想を否定する
ものとして紹介していたように思います。
「過去―今―将来」の「今」という瞬間は、無限回繰り返す今の一部分を捉えたものでしかありません。
この世界のパラレルが空間的にも時間的にも存在しているのならば、それを認識する私という主体が
そのパラレルワールドにも同時に存在していることになる。
でも私という存在は今わたしが認識しているこの世界にほかなりません(我思うゆえに我あり)。
よってその他の世界はすべて否定されてしまう。
ここに永劫回帰の起点があるように思われます。
249考える名無しさん:2006/05/04(木) 01:02:30
哲学初心者なものでうまく説明できませんでしたが、賢人の智恵を拝借したく思います。
250考える名無しさん:2006/05/04(木) 01:09:46
君のような素直な思考態度の人にとって、永劫回帰から脱することは可能だよ
永劫回帰の解釈についてはそれで正しい
胸張って思考を進めたまえ
251考える名無しさん:2006/05/07(日) 03:40:04
こういう奴をニーチェは嘆かわしく思ったんだろうな
http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/news/1146894864/590
252考える名無しさん:2006/05/08(月) 21:58:59
いやニーチェならば一笑に付するわけで。
253ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 00:41:15
永らく私は虱潰しに悩んだ事を考え続けた。

やがて、一つの疑惑となる欲求への回帰による自己原因を安定させ、ある種の本能的に衝動を伴い認識の連鎖と苦悩を引き起こし、
やがては慣性的な秩序を保つ為にありとあらゆる知識と認識により思考を繰り返す

所謂、我々が何故に生きながらにして考える事を欲するのか?又は何故に我々は人類としての存在を我々は理解せねばなるまいか?

と言った一つの“記号”的な確信を創り出す為に過去に様々な原理的な要求を、様々な価値観を万物に例えた事を自らの“本質的な能力”の価値付ける秤の価値観を我々は嫌という程、

あまりによく視察の対象との関係性には成立を確定する事としては、認識を行なってはいないのである。
254ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 00:42:43
「万人が求めて止まぬ真理への探求心。」

我々はこんな理由を度々、知理への原理的な要求の、根源である等と何故に今更誰が正しい明るみを昇らせる原初成る朝日に掲げる《サウス・プリマ》だと言おう者が居よう事か?

万人が求めて止まぬのは、自己保存を確実に安定に繋ぎ止める為だけに、あらゆる認識と倫理に置ける中庸な距離を保つ為に他との比較となる概念との差異を、測る事で在ろう。

だが!!その中庸こそ凡庸と言った所で!!
255ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 00:43:48
【哲学的観点と民衆的観点の大いなる擦れ違い。】

近代的にすら躊躇せず、模範化する事を命題と言う、自己回答の模範を受け皿にしてしまう。

その、あまりに品欲をその身へ感性が喜ぶ事無き知性は、その“命題”と言う“皿”の上に置かれてた物を何でも噛み砕き良く食べる事を怠らない!!

難にでも噛み付き食する、奴らはそれでも自らを但の豚だとは微塵も許せない!!

何故なら彼等は“何でも”食べる“何でも”食する故に惜し気も無く、認識者としての失格を自らで吠える!!
『見よ!!私の精神はもはや循環器の一部に例えれるまでに十分に成熟した!!是こそ、その昔に精神が胃で在る事に例えられた揺るぎ無い実証だ!!』と。

そう言い彼等は知識を貪るように何でも噛み付き丸呑みにする。

それこそ、豚と同じ家畜と等しい認識の最足る本音だと彼等は理解すら丸呑みにする。

嗚呼、今日の哲学を貪る諸君達よ!!どうか君達が、今だ精神が胃である事を正しく認識する者で在るならば、君達が彼等に対する事に噛み付いた時に催す“あの”嘔吐、嘔吐、嘔吐感!
それこそ真の本物の本音を包む柔らかな軽蔑で有ってくれたまえ!!
256ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 00:45:14
【道徳的観念と道徳性観念と不道徳的観点。】

道徳的良心を中心に置き、我々は秩序的な模範の中によって我々と言う一つの社会を、尊重して築き上げて行く事が必然的な優先性を持つ事の権利を何よりも実証する事が今日の“平等への公正”としなければ成るまい。

よって今日までに我々が、悪徳で在るとする。

『禁止を為す者』達は秩序による裁きで在る事を理解出来ない低劣な無知で在ると、『我々は彼等の様な、低劣なる悪で在る無知を恥じなければ成るまい。』

『禁止』是は何によって何よりも価値が高められる事が在ろう!!

『禁止』された制約との利害関係を理解した上でその内約の規定に“従う”と言う事への同意、是が最も禁止が昇る高みを登らんとする没落への姿では無かろうか?

つまり、規定に従う事が続く限りに自己利益への安定を規定された内容に従い保障する事により。

私の提示する規定に従うと言う事にあなたが同意に従うと言う事が何よりも、互いの利益の損失の可能性を禁止すると言う一つの法則として何時までも続くよう試みる事の誓いに成るよう。

この小さな、法則を大いなる法律の役に立つよう試みると言う事を見つめ続ける事を誓い合いましょう!あるいは、これは失敗となるかも!!それでも、関係を他との中で成立させる事に従う事と一緒にいる事が何よりも、重大だと知って居ますから。

結婚を誓い合う事の試みと是は同じ事だと、見つめ続けたい。

なにより、同意と理解の参照が無い提示された一方的な禁止是は突き詰めると、それは無知を恥じる事と同じ位、醜い復讐心や破滅を二人に与える事を今まで幾度も、繰り返されて来た事を理解したいから。

道徳、是さえ一つの我々が創り上げた“記号”に過ぎない。

257ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 00:47:58
【定義化と倫理的価値観により、その本質となる決定機関、およそ個々への支配欲】

哲学的感性と人類学的感性の相互理論による臨床的なパラダイム(交換)的な構造の可能性の視察。

我々人類が哲学的で在る事に救いが在ると見入出す事が、何らかの可能性への、絶対的な何か?では無く、
何か絶対的なものへ自らが創り上げる不信感への疑いを晴らし続ける程の価値が在ると救われる事で信じる
と言うならば、我々は、あらゆる感覚に置ける計測を測る自逆性すら犠牲にする程までの見返りを。

もし、哲学的で在る事に回帰し続ける事で我々がすでにそうで有った事とするならば。

最も嫌悪すべき真に、堪え難い、あの『魔の重力』を克服してまで登り続ける事が自己原因との関連性により、存在と認識を我々の知性と知恵が“絶対的静止空間“と過程する物理的に不要な価値観への度外視を

見つめ続ける意志を“同時”に認識する事を我々が認める事を意志するならば、何故に我々、哲学的な資質を示す座標を記す事を意志する事に憧れと戯れを望むなら。
258ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 00:51:36
何故に我々が何を持って、偲惟を学ぶ事を一体誰が、人類道徳が歩んだ起源と同じ系譜を辿る事が、一体我々の何に成るのだと。

常日頃から退屈を埋める読書家のあまりにも窮屈な創造性への自らが望んだ感性の没落への移り行きの眺めから、信じれる事と疑うならば、確定的な認識に置ける“我“とその他との差異をこう言うしか無い。

モラリストで在る事を意志する善良な善い人はこう言う。

『生きると言う事を信じ続ける事で、その定義に置くならば我々は秩序により、救いを求めなければ成らない。』

私は是に否を意志した、嫌私は生きると言う事を信じ続けると言う事を、なによりもまず【疑う】事から始めなければ、およそ信じれる事を私は真実で在る事等に何の執着も無く持ち続けてしまうだろう。

私は学んだ、真実であると思われる一切は自らの手から離れ行く事が無ければ、一体、何の価値が在ろう事か!!真、知性の深渕を覗いた時に、それは告げた。
『真、自身により最な価値を創り上げたと信じる事が、出来たなら、その価値を自身だと呼び続ける事が可能か、まず疑え。』

一切が自身から離れ行かぬ価値に等虚無に執着する事と略同じ“価値”では無かろうか?
259ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 00:56:26
【価値保存と価値観保存】
私は一つの移り行きと没落を見て学んだ。

万物に於いての究極は永遠では無く、永遠に“移り行く”ものだと。

何が我々にとって最大の価値を振りまく程に無尽蔵の富を与える事が理解出来るのだろう?

私は私の思考すら疑った。
この自らの精神と魂は会話から在る事を私に囁いた。
『法律は死んだ、悪意への同情により死んだ。』と。
理解に繋げる事に、働かせる思考は現代社会に置ける善悪説への最も利益と成る
価値と最も損失を産む価値との価値観の極みを試みる事への疑いを晴らせなかった事と、現代社会に置ける
善くて善しさを認識する者達の無知を克服しようとはおよそ考えが及ばない知性が彼等に悪意への同情を、与えた。

『犯罪が無くならないのはこの社会が悪い、俺が悪いのではなく、この現代社会の歪みが悪い。だから、悪い事等なにも悪くは無い。』

善くて善い事を判断する、価値が有る事を疑った時に彼が裁く罪に与える罰は、
大いなる悪意による刑罰を振るう事が可能だと言える判断を下さなければ、罪は許される事を罰だとは、およそ、認める事は不可能。
260考える名無しさん:2006/05/09(火) 00:56:46
桜庭vs三沢光晴のカリスマ対決、小橋建太との異次元対決、丸藤正道との天才対決…。
想像でしかなかった夢対決が実現するかもしれない。
3日の「HERO'S」代々木大会にタイガーマスクをかぶり、突如現れた桜庭は翌4日に会見し、
正式に「HERO'S」参戦を表明。
「ミスターPRIDE」と呼ばれた桜庭のライバル団体への電撃移籍に誰もが驚いたが、
移籍会見で飛び出した発言がノア関係者をにさらに驚かした。

「ノアにも行こうと思っていたけど、難しいなって感じで」「目標はノアの百田(光雄)さん。まだまだ現役でいく」。
桜庭は日本プロレス界の雄、ノアを参戦候補のひとつとして挙げた。
一流のリップサービスという見方もあるが、桜庭がプロレスに対して強い興味を抱いているのは有名な話。
「HERO'S」を主催するK―1の谷川貞治イベントプロデューサーは、”ノアの頭脳”仲田龍渉外部長と太いパイプを持ち、
昨年行われたプロレスイベント「W―1」には三沢光晴、秋山準らが電撃参戦し、
曙、ボブ・サップらと激闘を繰り広げたことは記憶に新しい。
単なるリップサービスでは終らない可能性が大だ。
ノア側も桜庭の言葉に呼応する構え。

「興味を持っていただいたというならありがたいことだと思う」とは仲田部長。
続けて、「桜庭選手の参戦? 桜庭選手とやりたいという選手がいることとお客さんが見たいと思ってくれること、
この2つが聞こえてくるなら会社として動かないといけないでしょう」と、条件がクリアされれば獲得に動くことを明言した。
当面の目標として、桜庭は「HERO'S」8月大会に参戦する予定だが、その後は白紙状態。
年末にも桜庭が緑のマットに上がっているかもしれない。

【ソースは下記】
http://www.naigai-times.com/content.php?janre=fight&key=1001886
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【格闘技】桜庭和志、8・5 HERO'S参戦か? リング上に謎のマスクマンが登場[05/03]
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1146662103/
【かくとうぎ】桜庭和志のHERO’S参戦が正式決定
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1146724187/


261ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 00:58:20
私は全ての価値を疑った。
善い事を創り上げる者が、最も価値の有る時は自らで悪を与える事で在る。

とするならば、全ての価値の対極に置かれている、価値感とは相対的な動きの中で創られる価値を産む事も可能では無いのだろうか?
私の中でそれを最も近付ける事が、疑いから確信に移り行く事が出来ると思われる価値観を持つものは善悪でもなく秩序でも混沌でも愛でも狂気的を自称する、認識者では無く『最も孤独を知る人』では無かろうか?

孤独は闇では無くなった。すでに孤独と言う意志は、大地に足を残して自らの、孤独な空を飛ぶ事を学んだ。

孤独を自称する人間達が居る、彼等は孤独と人間達の懸け橋を飛び越え行く蝶人への蛹となる繭なのだ。

孤独へ迎う者その足が闇の中へ音を鳴らした時には、最も苦しみとなった孤独な絶望を見た人達さえ、闇の中に在る光に背を向ける事で、初めて過去で憎んでも殺せなかった苦悩を笑い殺す事を知る事が出来る事、と今は、私自身がそう在った事だと言う事実を欲する。

その、疑いをもたらした思想はこう言った。

孤独を知る事が出来るのはお前独りか?と全てを疑った上でそれでも、尚且つ孤独はお前独りを見離すのか?と。
262考える名無しさん:2006/05/09(火) 01:51:26
言葉のビョーキですか? 早くなおるとよいですね。
263考える名無しさん:2006/05/09(火) 02:47:29
上の階のセックスが始まった

それはいいけど
多分窓を閉め忘れてるので、近所に響いてるよ
おいおい
264続・ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 15:05:01
俺は笑いながら答える。

この地上で生きる全ての、一人が孤独だとは疑う事が、出来ないのかい?

『汝、隣人を愛せよ。』

孤独への同情により死んだ神と同情への孤独により神を殺した“彼”はこう言った。

あなた方には、やはり理解する事を疑う事が出来ない。
我々の最も近くに住む隣人を、あなた方は自己責任を押し付けて迫害し悪で在ると決め付け、すぐに逃げ出す。

孤独とは絶望か?私には絶対的に自らが望んだ景色の様にしか移り行かない。

『汝、孤独を愛しなさい。』

【神への愛と、自己への犠牲。】

私はあらゆる孤独を闇に沈ませた、其処では一つの月と一つの太陽が水平線を交互に繋ぎ移り行く。

月も又、太陽では無かろうか?闇に進んで自ら昇り、あの太陽の無尽蔵な至福をの金の音を鳴らす度に大気は喜びに震える!!

嗚呼どうだろう、その光が自ら進み駆け上がる。

あの温和な勇気を円熟した時に最も優しく孤独な憂欝を支える事を見て学んだ。
闇へ自ら足を運び、その月の光が虚栄心を振りまく淡い輝きは最も低劣なる孤独にさえ、闇と光を自ら高める事を愛する。

その時は最も孤独を憂た低劣な人間も孤独が憂を支えて最も優れた優しさを持つ事を自らに許される。
265続・ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 15:10:21
およそ、万物には全てに置いて対極が近づいて来る、瞬間が在る。

真逆に見える価値観を宿す概念は突き詰めた認識を通し見た時には、どちらかの移り行いた姿だと私は学んだ。

自己利益への限り無い、飽く無き徹底した追求。

果たして是を考えた人は、居るだろうとは理解が出来るか?!

その事を限り無く深い夜と昼に沈む事を実践した人間が何処かに居るのだろうか?

真に、家畜のごとき醜き豚共はすぐに、怯えだす。

耐え切れ無い事全てに我慢を着せて、やがて豚は恐れながら口を聞く。

嗚呼、どうか、おしまいの人間達が自己利益への飽く無き執着により今では最も悪いとされる象徴だと。

疑う事無く彼等は理解を意志する事と引き替えに、小さな家畜共を旨く飼い馴らす。

真、醜い存在で在る欲望の探求者で在る事に家畜共はまた、直ぐに抵抗もしない!!
266続・ニヒリズムの系譜。:2006/05/09(火) 15:11:46
その意志はこう言う、

中途半端に噛み付かずに、自己利益となる事をひどく貶した。お前見たいな、中途半端を知る事しか出来ない知性なら、いっそ何も解らぬ方が良かったのでは無かろうか?

自己利益の究極に於いて、その価値を考える事を優先してはあの空を丸るく、溶かした人達が自己利益を究極まで実践出来たならばものとすると、恐らく彼等は禁止された知性だったと言おう。

さもなくば、解るかね? 自己利益の最大計が我々の最善を行く人間へと移り行く事が可能だと。

空を溶かしたのはフロンガスだ、自己利益の究極に在る事を実践する理性なら、直ぐに解るオゾン・ホールが出来上がると放射線の宥癌率があがり自己利益とは到底考え付かぬ、何故なら私も死ぬからだ。。

私はこう呼ぶ、自らの孤独を済す者、そのものを呼び止める名を私は自ら、こう呼ぶ、孤独と寄り添い生きる人々達よ!【ニヴェラリスト】と。

一人の孤独の終わり、その繭から飛び立つ、その先、あの虹へ!!人類と蝶人の蛹への懸け橋となれ!!

※1『人間が事物に意味を、人間的な意味を初めて与えたのだ、だから、かれは「人間」と呼ばれるのである。
即ち「評価する者」と。

評価することが、創造することなのである。』

よく、聞きなさい、あなた方、創造を“試みる”ものよ!!よく、聞きなさい、あなた方、破壊を“試みる”ものよ!!

孤独回帰を迎える所、あなた方よ、あなたの“一切の”孤独が再び廻り戻る所。
その、恍惚の春に舞う蝶人となれ!!あなた方「創造者」達よ!!

おお!!さぁ来い!!ならば!!よし、もう一度!!おお!!ツァトゥストラ!!は、こう言った!!

※1ツァトゥストラはこう言った。上巻・千の目標と一つの目標より、一部抜粋。

267考える名無しさん:2006/05/09(火) 15:50:37
yomunomendokuse
268考える名無しさん:2006/05/09(火) 18:22:10
どっかからの転載か?
正直カンベンシテクレヨ……('A`)。
269考える名無しさん:2006/05/10(水) 08:11:13
「能動的ニヒリズム」に関するくだりが読みたくなったんだけど、
ニーチェはどの著書の中で触れてるかな?
270考える名無しさん:2006/05/10(水) 22:48:26
能動的ニヒリズムは
1887年の覚書で定義されてるもよう。

「権力意志」のヨーロッパのニヒリズムや、1887年のレンツァーハイデ草稿とかで
ニヒリズムについてはいろいろ書いてるんじゃないかな。自分、未読だからよく知らないけど。
271考える名無しさん:2006/05/18(木) 22:18:55
宅間さんの名言を読め!

フライデー 1月25日号

「キリスト教も仏教も、人間は生まれながらにして罪深い存在だというてるやないですか。
 なら、早めにその芽を取ってしまったほうがええ。ワシはその魂を救ってやったんや!

 世間では悪いと言われることでも、自分では正しいと思ってやる人がおるんや。
 あのビンラディンかて、テロが正しいと思ってやってるやろ。世間がどう評価するか、
 わかってやってるんや。

 ワシも、ビンラディンと おんなじや。分かるヤツには分かる話なんや!」



272考える名無しさん:2006/05/18(木) 22:21:02
>>271
こういう発言を読むと、まるで宅間はニーチェを読んだことがあるんじゃないかと思えてしまうのですが・・・
宅間には倫理学のセンスがあると思いませんか?
273考える名無しさん:2006/05/18(木) 22:26:05
能動的ニヒリズムはポルポトによって大規模に実行されますた。
274考える名無しさん:2006/05/18(木) 23:11:23
ニーチェは、自分が正しいといったら何やっても正しい!って言ったわけじゃないだろ
むしろ自分に厳しかったしエセ愛国主義者も批判したし
自分に厳しいとこをはしょって、弱者を殺してもいい!みたいに都合よく曲げるとファシズムとかにさ…
275考える名無しさん:2006/05/19(金) 07:58:53
ニーチェを理解して、ではなく誤読して、というならまだわかるが。
276考える名無しさん:2006/05/19(金) 09:14:13
宅間のはルサンチマンでしょ
277考える名無しさん:2006/05/19(金) 12:28:35
今が旬です ロナウニーチェ!
278考える名無しさん:2006/05/19(金) 17:42:49
西尾幹二の「ニーチェとの対話」・・・!
名著だねぇー。絶対読むべし・・・!
279考える名無しさん:2006/05/20(土) 05:22:31
ニーチェ ゴ=ヌルポ ガ
280考える名無しさん:2006/05/20(土) 07:38:14
>>278
あれは典型的な啓蒙書だよ。研究に必要な点すら落として書いている。
281考える名無しさん:2006/05/20(土) 12:23:11
典型的な啓蒙書・・・、そこが、ニーチェ的、あまりにもニーチェ的で
いいじゃんか・・・!
中途半端な研究ぐらい、非ニーチェ的なものはないよ・・・。
282考える名無しさん:2006/05/20(土) 12:48:05
いや、悪いとまでは言わない。
西尾氏の誤読を指摘する向きもあるが、ニーチェなので問題視はしない。
それが西尾氏のニーチェなんだろうし。
ただ西尾氏はニーチェ(の時代)中心であんまり哲学史を重要視してない。
哲学史を考えないとニーチェがどんな破壊力を持っていたか分からないと思う。
283考える名無しさん:2006/05/20(土) 20:20:59
西尾氏のことはあんまりしらないけどさ、(ニーチェに関しても彼の訳書を読んだことない)
政治に関する本も出してて、割と「道徳的に〜すべきだ」みたいなことも書いてるね。
ニーチェを通過して『あえて』そういうふうな書き方してるようにも見えないけど、どーなんだろ実際。
教えてすごくエロイ人。
284考える名無しさん:2006/05/20(土) 21:22:08
ニーチェ研究?幹二君がどうしたって?
その前に、自分でニーチェを読んでみてはどうかね?
幹二君はすごいかもしれないけど、「ニーチェ研究」と銘打ち、
「ニーチェとの対話」なる愚劣な本をだすくらいだからなぁ。
そこに矛盾が生じていて、一般的な「ニーチェの解釈」ではなくして、
「幹二のニーチェ解釈」なんだよな。
そもそも「解釈」や「認識」を万人に共通なものにすること自体、
「反ニーチェ的」だと「悦ばしい知識」を読んでみて思ったのであります。
285考える名無しさん:2006/05/20(土) 23:35:17
>>284
万人に共通な物でなければいけないとは思わないが、
「俺の解釈はこうだぜ!」っていう見せあいっこも駄目ならこのスレの存在意義って何よ?
286考える名無しさん:2006/05/21(日) 00:57:33
>>285
「俺の解釈はこうだぜ!」ってものがあれば良い方だ。
だたし、「幹二はかくのごとく語り。さしあたり私は幹二を尊敬し、そして信じる。」
なんて『小さなヨハネ』(キリスト教は邪教です! PART 4)よろしく、思考停止してしまうのは考えもの。
ああ、小さなヨハネは盲目的、妄信的にその教義を語るのではなく、
アウグスティヌスのように懐疑をはさんで考えても良いのではないかと思う。
287考える名無しさん:2006/05/21(日) 01:05:41
ここで「小さなヨハネ」が出てきているのに笑いました。
288考える名無しさん:2006/05/21(日) 06:48:34
「アンチクリスト」だが、永井は西尾幹二の訳を推薦していたね。
宮崎哲弥は『キリスト教は邪教です』を推薦していたが、読みやすさを考慮すると、こっちだろうね。
超訳と揶揄されているけど、けっこうきちんと翻訳されていると思う。
ちくま文庫は最悪の訳。
最初にどの訳にあたるかによって、ニーチェ理解も変わってくる気がする。
289考える名無しさん:2006/05/21(日) 12:16:49
西尾先生は哲学者なの・・・。
宗教家じゃあないんだから、尊敬はしても信仰するわけないでしょ!
「ニーチェとの対話」はニーチェを起爆剤にした現代に対する批判的分析なの。
むしろ思考停止しているのは、かってな思い込みと印象のみで人を決め付ける
あなたのあたまのほうなの・・・。
嗚呼、それも末人として生まれてきたあなたの運命なのか・・・!
290考える名無しさん:2006/05/21(日) 12:38:46
>>289
あなたって誰だ?
俺は280=282=285だが。みんな名無しだから誰が誰だか……
291考える名無しさん:2006/05/21(日) 12:44:21
>>284&>>286だよー。
292考える名無しさん:2006/05/21(日) 13:22:37
ニーチェ的に言えば、ここで西尾トークをやってはいけない理由は(究極的には)ないだろうけど、
治安維持のため誘導。ご協力お願いしまー

西尾幹二[ニーチェ研究家]
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/philo/1122546678/
293考える名無しさん:2006/05/21(日) 14:44:54
>>289
西尾幹二にずいぶん入れ込んでるな。
まあ、あんたもいつか幻滅するときがくる。
ニーチェがワーグナーとショウペンハウエルにそうしたように。
というか、これこそニーチェの考えの一つではないのか?
294290:2006/05/21(日) 15:40:36
>>293
そういう考え方もどうかと思う。
いつか幻滅する時が来る、というのは歴史的視点を導入して
西尾氏を不当に裁いているだけじゃないか。
まあ、西尾スレでやればいいんだが。
295考える名無しさん:2006/05/21(日) 19:12:33
>>289が西尾幹二を崇拝していることは確かである。

>>294
ツァラツストラは自身への「信仰」は望まない。
296290:2006/05/21(日) 20:15:28
>>295
悪いが話がかみ合ってない。

西尾幹二を尊敬はしても信仰はしない、というそこの289よ、
おまいの尊敬する西尾氏のニーチェ論のどこがいいのか言ってみれ。
そうしないとどうも議論が収束せん。
297考える名無しさん:2006/05/21(日) 21:00:50
もう言っているけど・・・。
<ニーチェを起爆剤にした現代社会への批判的分析・・・>って。
「ニーチェとの対話」はこれに尽きる。
あとは各々自分で読んで判断してくれ・・・。
話はそれからだ・・・!
298考える名無しさん:2006/05/21(日) 21:09:59
>>297
お前バカだろ。
それを承知で「どこがいいのか言ってみれ」と書いてるんだろ、>>290は。
何が「話はそれからだ・・・」だよ。
言い出しっぺのお前が最初に自論を開陳しないでどうしろってんだyo。
そんなんじゃ西尾崇拝者って言われても仕方ないな。
299290:2006/05/21(日) 21:11:50
いや、読んだことあるよ。
で、君はニーチェ論、ニーチェ研究として正しいと思うかい?
思わないなら西尾スレでやってくれ。思うならもうちょっと詳しく教えてくれ。
300考える名無しさん:2006/05/21(日) 21:33:57
>>298は馬鹿だから論外!

>>299
「ニーチェとの対話」は、まえがきにもはっきり書いているように
ニーチェ論でもないしツァラトゥストラ論でもない。
そうでないものを、ニーチェ論、ニーチェ研究として正しいと思うかと言われても
困るが、強いて言うなら思わない・・・。
301考える名無しさん:2006/05/22(月) 20:00:06
神は死んだ とんでもない愚かなニーチェ
302考える名無しさん:2006/05/22(月) 20:51:21
>>301
注:あまりにも顕著な「釣り」はせぬこと!
もっと慇懃無礼に行うべし!
303考える名無しさん:2006/05/22(月) 21:45:06
駱駝、獅子、子供・・・精神の三段変化
俺にとっては、超人や永遠回帰思想にも勝ってインパクトが強かった。
目から鱗が落ちた。
304考える名無しさん:2006/05/23(火) 00:00:47
読んだことの無い俺に誰か教えてくれ。
「ニーチェとの対話」はニーチェ論でもなくツァラトゥストラ論なければいったい何なんだ?
305考える名無しさん:2006/05/23(火) 00:01:50
ゴメン。「ツァラトゥストラ論でもなければ」、だ。
306290:2006/05/23(火) 00:11:49
>>304
俺もざっとしか読んでないが、297によると現代社会批判だそうだ。
もちろんそういう哲学も有りだが、西尾氏の現代社会批判なら西尾スレでやるべき、といったところ。
307考える名無しさん:2006/05/24(水) 22:22:38
永遠回帰って今の科学ではどのくらい重要視されてるの?科学的にみてありえるみたいだけど信じてる人ってどのくらいいるの?
308考える名無しさん:2006/05/25(木) 02:02:42
>科学的にみてありえるみたいだけど
詳しく。
あり得ないと思うんだけど。
309考える名無しさん:2006/05/25(木) 18:07:18
空間は有限で時間は無限ということを前提とする。
宇宙の中で作り出す現象はどんなに多くても有限だ。
しかも宇宙ではどんな原因がどんな結果を起こすかは厳密に決まっている。
出来事の起こり方は例外なしにたった一通りに決定するので、宇宙のどんな出来事がどんな順序で起こってゆくかはたった一通りしかありえない。
ところが時間は無限にある。だからいつか必ず現象の種類がすべて出尽くしてしまう時が来て、その次の瞬間、全宇宙の状態は、以前すでに一度あった状態のどれかと全く同じになるはずだ。
するとその後はすでに起こったのと同じ現象が全く同じ順序で起こり、その結果宇宙は同じ歴史を無限に繰り返すことになる。
この理論が科学的に正しことを証明するのは不可能に近いらしいが

310考える名無しさん:2006/05/25(木) 18:33:52
でもニーチェは科学的な因果性を否定してるから、科学的説明は無意味だと思うが。
論理的には「時間が無限であるならば、いつかは再びここに行き着く」というのは面白い。
ただ「面白い」のと「真理性」は別だよな。というより問題にならないというか。
つうか、定期的に「永遠回帰」だけが論議にあがるが、他になんか無いかな?
このスレでやれそうなニーチェ論議。
311官能的ニヒリズム、力からの意志VS《語るルサンチマン》。:2006/05/25(木) 19:20:59
さて諸君、久しくこの場を訪れる事はなかったが、何も変わらずに毎日を受け取っている事と推測しよう。
もう、一度この場をお借りして、“彼”そう、フリュード・リッヒ・ニーチェ。

彼が創造した現代哲学としての思想を記した“誰でも読めるが、誰にも読めない書物”是の極端に椅子を置き。

私が私の偶然の上で踊り見つけた、幾つかの疑いを強く結び付けざるをえない、在る意味、現代社会に於いては不快感にすら嘔吐を及ぼしながらも近づいてくる。
312官能的ニヒリズム、力からの意志VS《語るルサンチマン》。:2006/05/25(木) 19:22:39
『大いなる正午』の訪れが移り行く為の“大いなる証拠”として移り行く道の上を偶然を踏み付け踊っては駆け昇る足跡に残す事を回転させる為に破壊した”真理”と呼び止められる事を自らが欲する幾つかの意志の傷跡を描こう。

まずは、理解には些か柔軟な過酷さを要する形而上学的な能動的な意志と官能的な意識が段階の高みを昇る三つのプロセスを解釈から理解に広がる智理の欲求を輝かせ没落する瞬間が在る事を、あなた方を被う能動的な無知を支配する感性へ傾けようと思う。

現代哲学に置いて在る程度の認識を語る“彼ら”はこう呼び止める。

「わたしは、わたしの椅子を中ほどへ置いた。」するとどうだろう、「死に物狂いの傭兵からも満足が追い付かない豚からも、等距離に離れてる、其処で彼らは語ざるをえないではないか!!」と。
313官能的ニヒリズム、力からの意志VS《語るルサンチマン》。:2006/05/25(木) 19:24:49
この人物が呼び止めた、《ルサンチマン》(反感者)は彼らが「語らざるをえない」事を“彼”は知らなかった事と解釈から理解へ移り行き結論を結び付けた。
――彼らのしたり顔の笑いは私にこう語る。「死に物狂いの驢馬も満足した獅子からも等距離にはなれてる。」

だが、それこそ―――“凡庸“と言うものだ。中庸などと言ったところで。

【《ルサンチマン》(反逆者)の精神の三段変化。】
彼は語らざるをえない事を“知らな”かったのか?

厳密に彼を視察し理解した者はこう言うはずだ。

「嫌“忘れた”のだ。何故なら、もう一度“自ら”を語らざるをえない事を彼は“知っていた”のだから。」

さよう、さようと驢馬は頷き、その背にあらゆる苦痛と苦悩を“思考”を乗せ、精神に広がる砂漠を渡り行く。

彼は「語られる一切を聴かざるをえない」何故なら、彼は忍従の服従者であるから。

やがて、彼は自ら耳を傾け、思考に絡まる“言葉”に、強い憧れと喜びで、自ら叫び自ら沸き上がる意志により。

獅子の獰猛さと自由への強い執着心によって奪い取った確信的な勝利を、彼は新しい価値あるものだと。

彼は「語らざるをえない。」のだ、何故なら彼は一切の価値を支配する者により
鎖に繋がれた奴隷である人間が始めて力への意志により勝利を治める、英雄が其処に居た事を我々は語らざるをえないのだ。

だが、すぐにその勝利の価値が自由な意志で在る、獅子に苦痛と苦悩を刻み込む。
私は私の言葉を“実行”に移さねば成るまい。
314官能的ニヒリズム、力からの意志VS《語るルサンチマン》。:2006/05/25(木) 19:26:18
覚えてはいるだろうか?
ツァラトゥストラが語った『救済』としての試みを?
覚えてはいるだろうか?
ツァラトゥストラが語った『精神は命が命に刻み込む。』ようなものだと語った事を?

『《ルサンチマン》(反逆者)の“大いなる知恵”』
さて、精神の三段変化に置ける終わりと始まりを結び付ける最後の鍵は“実行”で在る。

獅子は、その意志が自由で在る故に“苦痛”と“苦悩”を“精神に刻み込んだ”。
獅子の力を持ってしても、新しい創造する価値を掲げる事は出来ない!!

苦痛と苦悩を“すでにそう在った事”から“私がそのように欲した”事と救済を自らが実行せねば成るまい。

嗚呼、私は偶然を踏み付け踊る幼子が戻って来る事を“忘れなければ”成るまい。
だが、どうして“一切”を忘れ行くものか?

だが、それでどうして“一切”の偶然を踏み付け踊る創造者になれようか?

私はすでに“知っている”ではないか!!

私は十分にこの身に染み込ませては、居るではないか!!

ならば、忘れる事を忘れない事にしよう、何故なら、私は自らが“知らぬ”事や“経験”してはいない事を決して『忘れる。』事は出来ないと言う事を私はすでに“知っている”のだから。

嗚呼!!偶然と破壊の音階と偶像と創造の調律の上で踊る為に終わりと始まりを結ぶ意志は・・こう言うのだ!!

私は自らで“私がこのように欲した”事として“忘れる”と言う事を“忘れぬ”為に私は私の“大いなる喜び”の為に歌おう、自らを歌おう、己の苦痛と痛みを喜びに移り変わり忘れる為に。
315官能的ニヒリズム、力からの意志VS《語るルサンチマン》。:2006/05/25(木) 19:31:25
この幼子が《カウス・プリマ》(第一原因)の車輪を回し偶像を踏み付け踊る、創造的な『精神』に必然的に結び付く明確な真理は、
彼は「歌わざるをえない。」何故なら、己自身が“知る事”が無い事や“経験”出来ない出来事を一切、忘れる事が誰に出来ようか?!

だがそれは“在る”私はそう言わざるをえない。彼女はこう言うのだ。

「まだ、正午にならんかのーまだ、私しゃ朝食も食べてなかったかのう?」

私はこう言う。

「ばあちゃん今日それ、七回目しかもさっき昼食べたばっか!!」

忘却と痴呆に確定的な差を付けているのは選択を欲するか否かの意志だけだ。

「あんたーワシの孫じゃない!!ワシの孫はあんたと、ちごうて反攻せず、もうちょっとましな顔しとる。あんたみたいな《ブサイクマン》違うわい!!カスッ!」

私に小さな同情が突き刺さった、そして、私の魂はこう言うのだ。

「いいえ、お婆さま、私はれっきとしたあなたの子供から生まれた孫ですよ・・きちんとあなたの遺伝子を受け継ぎ移り行く命ですよ・・・」

「真、悲しいかな!!実の祖母に誰?あんた扱いを受け挙げ句、不細工呼ばわりを実の祖母に宣告される苦しみは!!」
316官能的ニヒリズム、力からの意志VS《語るルサンチマン》。:2006/05/25(木) 19:33:41
《ルサンチマン》(反逆者)の行なわざるを得なかった問題は自らで『歌わざる事を命令しなければ成らなかった。』のよ、君達。

※1『死がこんなに安ぽっいものなら命も同じ“価値”だって言うのか!!』

※1.tomee.gan.the“ciash”by.joe.strmmr,

結局のところ、卑俗とは何であるか。――言葉は概念に対する音符である。

しかるに概念は、しばしば反復され連結して現われる諸感覚や感覚群に対する多少とも確定的な表現記号である。
互いに理解し合うためには、同じ言葉を用いるだけではなお十分でない。

善悪の彼岸・268第9章・高貴とは何か、より、冒頭一部抜粋、著フリュード・リッヒ・ニーチェ。

真、愚直な不正を響かせ配り歩く《ルサンチマン》(反逆者)達が奏でる全てのレベル・ミュージック(反逆的な音源)を全ての孤独を愛する※2ニヴェラリスト達へ哀を込めて・・・。
歌いなさい。

※2完全な造語、故に構う事は特に必筆する事にはたいし理解はあまりに不要。ぶっちゃけまぁ構いたければ構えば?程度で。

能動性を示すならば、ニヒリズム(能動的虚無主義)とリヴァイジョンニスト(能動的修正主義)の調度、端と端に椅子を置き自己を見つめる孤独修正主義者。
所謂、明るいネクラ、クスッ。
       ウルセーヨ!!パカ!!=反感者?《ウサンクサン》?
317官能的ニヒリズム、力からの意志VS《語るルサンチマン》。:2006/05/25(木) 19:42:21
真に、私はあなた方にこう言う。

歌おう!!苦痛や痛みを忘れる為に歌おう!!
糞ったれの世界の為に!!歌おう!!
全ての不細工に生きる人の為に!!

もしも君が“彼”と出会い話す事が出来たら、そんな時はどうか愛の意味を知って下さい。

愛じゃなくても、恋じゃなくても、君を守る本当の強さを身につけて下さい。

林だ・輪だ・輪だ・輪だ嗚呼!!輪だ・輪だ・林だ嗚呼ー嗚呼!!
            まぁこんな所かな?
318考える名無しさん:2006/05/25(木) 20:39:13
いい加減にしてね・・・!
甘ったれるんじゃあないわよー!
もっと婆ちゃん孝行してね。
典型的な現代人である末人さん・・・!
319考える名無しさん:2006/05/25(木) 21:00:15
なんだこれは外国語より大分わからんが。
320考える名無しさん:2006/05/26(金) 01:17:30
>>309,310
時間が無限というのも無しなのが最近の宇宙論。
321永遠回帰を自分なりに考えたんすけど自分が帰れなくなりそうでした。:2006/05/26(金) 02:51:29
嗚呼!!延々会期にさよう、さようと相槌を振り下ろした“瞬間”に飛び散る火花を認められぬ、あらゆる価値の転倒の試みから起き上がる事がおよそ不可能な知識人達よ!!

私は私の知り得る限りの知識を、この身から剥がし落とそう!!

良く聞きなさい、あなた方本能的な理性の麻痺を引き起こした「暇な人間達」よ。
良く疑いなさい、あなた方知識を多く持ち貪る者達よ!!
私は真にあなた方にこう言う。

知識を“身に着ける”事と知識を“引き剥がす”事を学びなさい。

私はあなた方、あなた方に問う。

この現象世界で変わるものが有ろうものか?

夕日が没落するのを見て学んだ。

あの無尽蔵な富をばらまき闇へ没落する時に、あの黄金色に輝いた温和な、安らぎにも似た祝福を。

全ての喜びを引き連れて最も偉大な価値が移り行く瞬間を堅く結ばせ再び駆け昇る瞬間を!!
322永遠回帰を自分なりに考えたんすけど自分が帰れなくなりそうでした。:2006/05/26(金) 02:53:19
あなた方、あなた方よ!!
その瞬間が最も価値の置ける偉大な現代社会では、嘔吐感すら引き起こす“真実”とも“真理”とも呼ばれる。

あの熟れた果実にも似た、成熟を結円な丸みの滑らかな恍惚を殻の中に隠した、あの胡桃の実を、あなた方は林檎のように手を伸ばし掴む事を“意志”出来るで在ろうか?!

そして、その実すら自身の手から離れ行き移り行く時が最も価値の在る瞬間だと。
あなた方はその中に精神の内に最も賢き“蛇”と最も果敢な“鷲”達の様な自身の動物達を宿らせる程の、“用心深さ”と“勇気”を示す意志が在るだろか?

万物は変化をとげる事など無く、対極に相対する価値へと没落し移り行くものだと。

『万物における究極は不変で在る事では無く永遠に移り行く事に在る・・・・・故に“不変”で在る。およそ、全ては此処に回帰する。』

もし、私が真実や真理と呼ばれる価値を手にする事が出来たなら、その価値自らが私から離れ行かず移り変わる事が無いのなら、それは“無”と略等しい程の素晴らしく憂欝な価値観では無かろうか?!
323考える名無しさん:2006/05/26(金) 02:53:40
カントも時間が有限だって言ってたよ
324永遠回帰を自分なりに考えたんすけど自分が帰れなくなりそうでした。:2006/05/26(金) 02:57:18
【彼の思想に反映された葡萄酒と踊りの狂信は“二度”生まれた。】

さて、ツァラトゥストラに描かれた(善悪の彼岸と道徳の系譜の内実性を含めた上での表現として。)

およそ、二つの没落と移り行きに架かる虹の先に見う受けられる。

彼の《シューンパディーア・マレヴオレーシス》(スピノザの言葉を借りると悪意を意志する同情。)により、この当時の民衆間に置ける光の閃きと瞬きの錯覚を浮き彫りにし、

より一層の深渕にその、あの苦悩への一つの試み(私は自己をもはや“愛”することを欲しない人々を送るために、地獄を案出しなければならなかった。)により大いなるその荒々しさに愛を隠し通す事により、

推測が憶測を貫き飛び越え行く一つの能動的な幻想の“可能性”を彼は創り上げた。

「超人」である。

厳密な詳細は、マジで面倒臭さいので直ちに却下するが、その性質上に理解を持ち出す事を許されるなら、私の自己的観点からの移り行きでは、プラトンとの中ほどに在る『※1キマイラ』では無かろうか?

英雄をめぐって一切は悲劇になり、半神をめぐって一切は牧神の喜劇になる。
それでは神をめぐって――一切はどうなるか。おそらくは――「世界」にか――。
善悪の彼岸。第4章・格言と間奏。より抜粋。
325永遠回帰を自分なりに考えたんすけど自分が帰れなくなりそうでした。:2006/05/26(金) 02:58:31
※1ギリシャ神話に描かれたおよそ、ニーチェ哲学に登場を果たした。
動物達が共演する悪夢のオールスターみたいで凄い危険かも?嫌々、待てまて良く考えて疑って見ても・・こりゃマジ居たらやっぱり危険!!信号押しっぱなしな架空の獣神。

胴が獅子で頭が獅子と、雌山羊で鷲の翼を広げて、ついでに尾には蛇が居座る言うとんでもない有り難迷惑過ぎる超人的な空想癖の持ち出し、始めて済せる技有りとも災い有りとも言える生物。

【永遠回帰に置ける永遠空虚を帰化する程の度外視。】

さて、此処からより一層の深渕を下り行く事を認めて貰いたい。

真、失礼な言い方かも知れないが、此処までを認識して解釈を促し理解するには、在る一定以上の水準を私は私を意地悪な悪戯を飛び越えて理解を提示してくれる者を求めよう。

そして、あらゆる知識を疑い私に理解示してくれた人々を私は小さな祝福と共に称賛しよう!!と言ってみる。

この長い道をもどれば、永遠にはてしがない。

また、あちらの長い道を出て行けば、そこにも別の永遠がある。かれらはたからいに矛盾する、――この二つの道は。

かれらは互いに反撥しあう。――そしてこの門のところこそ、かれらがまさにぶつかっている場所なのだ。門の名は上に掲げられている。――『瞬間』と。

ツァラトゥストラはこう言った。下巻・第3部・幻影と謎。
326永遠回帰を自分なりに考えたんすけど自分が帰れなくなりそうでした。:2006/05/26(金) 03:01:11
両極に果てがなく続く道、が伴に永遠であり空間で在る、とするならば。

空間は有限で有り時間は無限だと言う解釈は理論的な破綻をすぐに破裂させる。
と言うのも、空間と時間は相互的に伴に存在しなければ又はどちらかの必要性が欠落した時点で『時の凍り衝き現象。』が認められる。

解り易く説明するか、と言ってみる。

つまり、空間を移動する距離が時間と言う概念の測定を可能にしている。(相対的な物質運動を測る事に許づいての話だか。)

ぶっちゃけ、質量を保つ物質が宇宙空間に存在した時に在る一定のベクトル量を示した場合(つまり時間の流れ)その物質の質量により空間が素晴らしく極、僅かだが(その数値は物質の質量に比例する。)空間が
歪む、調度、透明なゴム板の上にボールを乗せたら、その重みで板が凹む様に、では何故それが時間と関係在るかと言うと、現代物理に置ける時の絶対的な測定基準が光の早さ、つまり光速を一つの指針として他との比較を必要としない時間の概念を捻出しているからで在り。

つまり、質量を伴う物質に光を進ませるとその物質の重力ポティンシャルにより空間に歪みを作り光が真っすぐに進めないので在る。
327永遠回帰を自分なりに考えたんすけど自分が帰れなくなりそうでした。:2006/05/26(金) 03:02:35
とするならば、過去と未来の臨界点なんてどっから何処までが過去であり、其処からあっちが未来なのか、およそ、どうでも良くする為には相対的の馬鹿デカイ解釈から視察する事に成っちゃった。

つまり、この全宇宙を考え選る限りに度外視しまくって超ミニマムサイズに当てはめたジオラマ見たいに捕らえましょう!! 

そうしましょう!!

その上で私はこう言います。
全ての万物は移り行く法則だと、するとまぁ仮に、この地上で生きた全ての、生命にこの法則を当てはめた時に、生は死に移り行き死は生に移り行く事が解りますね?

すると一つの輪が出来ます死・生・死・生と両極を結ぶ、循環の知恵の輪です。
で先程、視察した超ミニマムな小宇宙にそれをあてはめて現存する『瞬間』をスカラー量を示す座標の一点に絞ったら。

大分、感性のネジが壊れた方なら何となく解るかな?
全てのあらゆる没落と移り行き。

更にその“一切”が、その一点を通り過ぎ四方八方から、縦横無尽に交差する大いなる交差点のほんの僅かな、実在性の多少匂いの強い、光が理解に衝動的な刺激を叩き突ける音が何となく解りましたか?

まぁ全ての一切が“其処”に在るなら、どうやら皆さん顔見知りも良い所見たい、だって皆さん居る見たいだもん、どうやら。

孤立した系の全エネルギーは保存される(一定に保たれる。)

まぁ後、問題なのはマルチプロダクションと宇宙の《第一原因》どう繋がるか、良く解んない。
328永遠回帰を自分なりに考えたんすけど自分が帰れなくなりそうでした。:2006/05/26(金) 03:03:36
補足。量子力学の観点から推測する事が可能な過去と未来の憶測は波動と量子の二重性を統合し、厳密な自然法則に従った古典力学的な観点を確立の概念で置き換える事に端を発した。

現代科学では、一つの粒子の正確な位置と速度を知る事は不可能だとされているが、厳密に言えば理論上は可能で有る確立が高い。

よって、あらゆる過去と未来はすでに“存在”すると言う事を決定しているのかも知れない。

何も欲しない意志より、虚無を意志する方がまだ幾分ましだと言うものだ。

道徳の系譜。のどっか。
フリュード・リッヒ・ニーチェ。
結論から述べると光が届く距離が微妙にずれる、と言う事は空間と時間は器と箱見たいな関係性に在り伴に同じ概念にしちゃったのだ。
誰かって?ゾロアスター教の発端を走った民族生まれで、写真で何時も笑ってるあの陽気なベロおじさんが“時空”だと言い張りだしたらしい正直、面倒臭い。
(まぁ一般的には時間と空間は別項目に該当され考えられる。)だって、この地上にそんな質量を保つ物質なんて正直無い。

と言う事は時間と空間を取り敢えず混ぜちゃえ!!
(まぁ宇宙全体を一つの孤立した系だと仮定したら、その質量なんて解るか!!馬鹿!!ちくしょー!!)
330考える名無しさん:2006/05/26(金) 11:03:14
うん、まあな・・・!
永遠回帰は、ある意味ただしいだろーな!
この宇宙もいつかは消えて無くなってしまう・・・?
そして、またはじめから、ビックバンからはじまるのだよ。
これを無限に永遠に繰り返す、これが宇宙の真相・・・?
331考える名無しさん:2006/05/26(金) 12:30:32
光は最速じゃない
332考える名無しさん:2006/05/27(土) 09:57:21
>>330
対消滅・対生成がある以上要素は限定されていないので組み合わせは無限。
333考える名無しさん:2006/05/28(日) 11:21:28
永遠回帰が正しいものだとしたら、ならなお更のこと
その無意味な宇宙の輪廻から解脱しなきゃあなるまい。
やっぱ、ニーチェは越えられるべき哲学だな・・・。
仏陀の実践ヨーガである八正道しかないな、やっぱり・・・。
334考える名無しさん:2006/05/28(日) 11:50:21
ニーチェもトリノで生きながら解脱しちゃったんだろ
335考える名無しさん:2006/05/29(月) 12:44:59
宇宙の輪廻が無意味なんだから解脱も無意味でしょや
というより、有意味な外界、天国を作ろうとする運動こそ
この地上を否定するルサンチマン。最も無意味。

根本的に無意味なんだからもう諦めようぜwwww
336考える名無しさん:2006/05/30(火) 19:02:54
諦めて自殺するか

聞きたいんだが、君達の生を引き留めているものって何?
337考える名無しさん:2006/05/30(火) 19:12:10
死かな
338考える名無しさん:2006/05/31(水) 09:14:40
死んでも誰も得しないという事実。
339ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 17:13:54
《ラ・ベート・フイゾロフ》と《スペキエス・アナルキステイカ。》による赤い暴動。

《理性との彼岸》

序幕・第1章“理”と“動”としての確定的な認識の作用。

【あらゆる欲の無い所、其処に生きる位なら、まだ虚無を信じ生きる方がまだ良い。】

さて諸君、君達は今まさに一つの終わりと没落を目の当たりにしている事を、そろそろ認めなければなるまい!!

だが、同時に、私へ“囁く”あの悪魔は真、私にこう言うのだ。

『人間は又、同情により、救済への意志をものの見事に再び巡り殺した。』

『立法は“死んだ”。あの“悪意”への同情により、死んだ。』と・・・・。

私は、この法治国家としての権力は、もはや“我々”のように“恐るべき”危険を“自ら”で意志する、あの最も“危険”なる存在へは無気力的とも映らなくは無い。

即ち、私はこう言うのだ。
この地上で“生きる”と言う事が、何よりも我々を、更に遠くの人間として、素晴らしき“偉大”差の後に生きる事がおよそ、自らで許される。

新しき人類の偉大な間違いを見つける事が可能だと私が、洞察した、資質が隠された魂は・・・およそ、今まで生きた全人類に対し、最も誠実なる者、最も賢き蛇のような者と。

そして、又もや孤独の深渕から真に、こう告げるのだ。
この世の一体“誰が”、その様な“最も恐るべき危険”の中へ飛び込む事が自らに許されよう!!!

又、“その場所の”一切に有る“悪意”は笑っている事だった、全ての“重い”ものが、軽くなり舞踏者となり、あの空へ飛び立つのだ。

それが私のアルパであり、オメガで在った、真に、それが、私のアルパでありオメガだった。

《理性への“理性的”視察》(我々の“理性”は全てを見続けて来た!!)
340ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 17:19:09
支配的理性が一体我々の何処へ“支配”で持ち、制御し又、何故に彼らが“命令”を下されて“理解”せねばならぬか?

「理性を何よりも育て上げ、理性により理解しなければ為らない。何故なら“理性”を育て上げる事が我々の知恵であり、最も賢き、賢者を生むからだ。」


「よって、我々は“理性”による支配を、何よりも、“高貴”的な性質としましょう?本能を捨て切れぬ、野蛮人などには、偉大な人間の言葉など理解出来ぬのだから。」

『理性こそ、あらゆる智理を私たちに与えてくれるのだから!!』


此処に一つの間違いとも、およそ、最も我々、人類にとっての危険を我々は、あらゆる方法で、いとも簡単に「忘れる」と言う行為に結び付けようとしてきた。
およそ、これこそ失敗に大きく結び付けてしまった事を我々もはや説明の余地が無い事“こそ”忘れる事に
何よりも、偉大さの成す可能性が隠されている事を本能的に自らによって隠された「自分の居城や隠れ家」を求めて欲しい。

あらゆる選ばれた、人間は、“本能的”に自分の居城や隠れ家を求める。そこで彼は大衆、多衆、公衆から解放され、そこで彼は「例外者」として「人間」と言う一つの基準を“忘れる”事ができる。

――ただ一つの場合は例外で、その場合には彼は偉大な例外的な意味で認識者として、更に一層強い本能からまっしぐらに、この基準に向かって衝突する。

ニーチェ著、善悪の彼岸・第2章26目「自由な精神」より一部抜粋。

この記述を私の疑いの許で理解する限り、我々が知り得る限りの「偉大」さを知る事(又は、より仮象から実象的な事実の公定。)が
およそ、自らが信じるに値する、最もな価値を“置く”事に確定的な、事実としての模範として正しく認識するには、私には、

上の記述を知る限りでは、およそ二通りの方法論しか、今の所は何の疑いが掛けられる余地が無い者だとしか思えない。

自らの内から、発する言葉を認識して公定する程の

“価値”があるものと理解するか、―――もしくは他者の内から発する言葉により
それが自らの知る最もな“価値”が在ると言う事実の正しい公定だと信じるに値が在る“価値”ある認識として“理解”するか―――
あるいは―――理解そのものを動かすか―――。。
341ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 17:24:17
もっとも、この場合は、多くの哲学者達や宗教家達の言う「真理」やら「真実」と今日まで呼ばれるものが最も我々に取っての“価値”が在るとした限りの話だが、―――。

つまり、最も偉大さを説く人物の言葉を理解する為に信じるには、その人物の言葉を、全て「疑い」として
自己の知識と比較し検討する事か、それとも、その「人物」の言葉を全て「真実」だと自己の知識と比較し検討する余地も無いものと認識して理解するか?

およそ、二極に置かれた、極めて悪質な対極に在る彼岸を一歩、超えた。

極めて厳密な方法論を取る事でしか我々は、その認識を何か真実みの隠された疑い無き事だと理解した事には、とても及ばぬ、と私は常に知る所に在ると思うのだ。。。

《理性との彼岸》

序幕・第2章《表象と記号論》キーボードに印された印は何も教えちゃくれない。

【我々の理性はあらゆる認識を表層の上に張られた。“記号論”とでしか確認が取れない。】

さて、グラウゴンよ。

我々と言う一つの“理性”が何故に忘却を――つまりは忘れ去る事が何によって可能だろうか?時に、思うのだが――どう言った場合に限り、正しい“認識”として彼ら、否、余りに“忘れる”事に不器用で嫉み易い。

彼らの魂に不自由な歯軋りを欲し、又それらを与え。
苦痛と痛みと言う、一種の病にも似た恍惚なる快楽感を最も普遍なる人々の精神に“刻み込む”事を意欲が欲するのだろうか?

「“忘れる”と言う語感が引き起こされる感覚が、常に何かしらの“危険”や」
「又は、そのもの“忘れる事”自体が示す価値を失う事に、非常に敏感な反応を与え不安を抱く為では無いでしょうか?」

宜しい、つまり、彼らは、こう言うと言うのだね? 

「我々が忘れると言う事はとても危険な行為だ」と。
更にこう我々に言うのだね?グラウゴンよ?――――
『現に人類は幾度もの、醜い争いをあらゆる所で至る所で、人類史学上に於いて、大規模的な悲劇の一切を、最大級まで発展させて繰り返して来たのに愚かにも又、繰り返している――』
『だから、決して、その一切の事実を“忘れる”事は同じ過ちを辿り又、その危険を引き起こす事を容易に想像出来る―――是、即ち、“無知”を示し、最も危険なる低劣極まりない“人間”と―――。』
342ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 17:26:18
時にグラウゴン、我々は本当に重大な“事実”を、“忘れる”事で、その“事実”を無かった事として、認識しているのだろうか?

「認識としての感覚に置ける、所謂、認識視野の誤作動により働き引き起こる、一種の記憶障害では、なかろうでしょうか?」

つまり、君はこう言うのだね?――――。

記憶の内に理性が留めた、“正しい知識”としての、意義が、おびただしい時の
中で、あらゆる、感覚から置き去りにされる為、に。
我々の理性により、その事実自身の内容や、もっと言えば記憶自体を失う、とも言えると――――君は言うのだね?グラウゴン・・・・。

「そうでは無いのでしょうか?ですから、我々“理”(コトワリ)を持つ、賢き知性を有する者は今現在もこうして、煩悩や苦悩そして最も醜きもの“本能”
是すら“忘れる”為に理性による知恵を学ばなければ、愚劣な人種への道を辿らなければなりません。」

果たして、それが我々の“真理”に叶うものなのか、それとも、それとは別の作用が働いているのでは、無かろうか?私は疑いざるを得なかった。

と言うのは、在る一つの疑問が私には、およそ全ての忘却に疑問符を突き付けたからだ。

その「疑惑」は、この通りだ。

『私、自身、“経験”した事の無い事や又は知らない事、そして“体験”してない事を“忘れる”事は可能か?』

私の率直な意見はこうだ。
もし、私が知らぬ事実や、身に覚えの無い経験に許付き、確かな“体験”からなる衝動的な感情を、自らが対峙している、現実的な感覚を許に可能な限りに自らの内に秘められた。

他のどの事実的な認識よりも、より一層に己の感覚に強く、信じ込ませる。

単一的な“真実”としての実証を確信する事が可能なのは、私の経験上、それは一つの“錯覚”であり、又は忘却の名を借りた。

“無知”への道徳的な軽蔑により、より一層不確かな、感覚的に真実としての神聖性と、真理としての高次的な解釈論の許に同一視され、幾重にも、度重なる。
343ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 17:31:37
混乱を我々、人類としての道徳の模範として、自らの精神と認識の最も高い価値感だと、誤認を繰り返して
来た事を信じ込んでいたに過ぎない、と確信の過信を私は、この様に助長する。
私の知る限りの世界感に“真実”性のより高い仮象的な理論から、実像的な合理性を導き出す事が可能である。

と、私は自らで“欲した”知識と、感覚的に同一を促す程の説得力を有し。  
私が自らの“体験”を通し、信じられる、理論的に“真実”性の実証の確立が高い。

私の知り得る知識としての事実的な記録を、許に思考する限り。

最も信頼を置け、自身が持つ感性が実証の裏付けを手懐けた“あの”感覚により確証性の一際高い、成功の感覚を、私は“忘却”と言う、現代に於いては、余りに見捨てられ。

その本質まで、決して踏み込まず、近づかず、見極める事に、その一切に“信憑性”の持てる。視察を行なわずに現代人が普遍的な意識の感覚により、認識されている価値評価の寸評と言えば。

“忘却”の固定観念が成立し、又その能動性を認識した上で“我れ”と言う。一人の人間との間に成立を、確定する。

“自身”としての“人類学的”な知識を持ち見解し、考察する事で“自身”と“対峙”しては、繰り返しされるれて来た。     
過去から現在まで陸続きに連なり指摘され、悩みを生み又、尊重される。   
“人として善く生きる”と言う、ある種、人道的な命題の大義名分化の為だけに。
最もらしく、実現性が高く、多くの賛同を勝ち取る程。
倫理的な道徳性をより、一層強い認識に刻む事により。
人類史と人類学としての、史実を起源に遡る事が、唯一人類学的に立証が可能な人として現代人が持ち得た知識の発展とする。   
それに対する一種の課題として掲げ挙げられては、又我々“人類”が、現存的に発展してきた。     
方法論の中から沸き上がり肥大しては、数々の疑問を憎悪すべき“善悪”の美徳性を、最も価値の高い賛美歌の福音により。

場合に置き換えて“予測”出来た原因として確証性が極めて高い位置で成立し。
危険を回避する事が極めて精度の良い優れた存在能力を秘めていたとしても、もはや、其処には何も持ち得ない。
344ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 17:42:14
機能的役割と人類が克服すべき“本能的”な知性の欠陥と品性の損失は一切の、
精神を経由する理性により自己の智理を粗方、統治出来ると言い。

更には精神と喜怒哀楽が複雑に併用され創られる。 
感情と呼ばれる認識も制御が可能で容易いものだと。
“理性”を過信し過ぎる所に、間違いは在る。   
理性はおよそ“記号”を、置き換えて我々はその“表層”の上に多い被かる。 
“記号”としての内実性をその“記号”を押す事でまるでピアノが鳴らす音色を辿り。

一つの楽曲としての意識と精神に瞬く間に挟まれ。 
押された“記号”に纏わる記憶を取り出したり。  
又、不要な余計な感覚は全て一旦“理性”に突き刺しては忘却する。     
『忘却とは一種の救済措置で或る。』

【理性との彼岸。】

第2幕1章『最も善き疑い。』
忘却と放却との認識と精神との“在る”会話に置き代えた“正しい疑い”方。 
【第2幕・第一章。】

《パルティー・オントワーズ》×《ランキュース》÷《ヴィース・イネルティアエ》分の2=支配と命令の相互的作用により認識出来る【この世界の面積。】。
自己精神に置けるオィディプス三角形の認識論。。 
《プラトンとグラウゴンとソクラテスとの疑似家族に近寄り偏った。会話偏1》
【忘却と見捨てられた時間を繋ぐ会話。】

さて、グラウゴンよ。  
我々と言う一つの“理性”が何故に忘却を――つまりは忘れ去る事が何によって可能だろうか?時に、思うのだが――どう言った場合に限り、正しい“認識”として彼ら、否、余りに“忘れる”事に不器用で嫉み易い。

彼らの魂に不自由な歯軋りを欲し、又それらを与え。
苦痛と痛みと言う、一種の病にも似た恍惚なる快楽感を最も普遍なる人々の精神に“刻み込む”事を意欲が欲するのだろうか?
345ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 17:44:59
「“忘れる”と言う語感が引き起こされる感覚が、常に何かしらの“危険”や、又は、そのもの“忘れる事”自体が示す価値を失う事に、非常に敏感な反応を与え不安を抱く為では無いでしょうか?」

宜しい、つまり、彼らは、こう言うと言うのだね? 
「我々が忘れると言う事はとても危険な行為だ」と。
更にこう我々に言うのだね?グラウゴンよ?――――
『現に人類は幾度もの、醜い争いをあらゆる所で至る所で、人類史学上に於いて、大規模的な悲劇の一切を、最大級まで発展させて繰り返して来たのに愚かにも又、繰り返している――』
『だから、決して、その一切の事実を“忘れる”事は同じ過ちを辿り又、その危険を引き起こす事を容易に想像出来る―――是、即ち、“無知”を示し、最も危険なる低劣極まりない“人間”と―――。』

時にグラウゴン、我々は本当に重大な“事実”を、“忘れる”事で、その“事実”を無かった事として、認識しているのだろうか?

「認識としての感覚に置ける、所謂、認識視野の誤作動により働き引き起こる、一種の記憶障害では、なかろうでしょうか?」

つまり、君はこう言うのだね?――――。

記憶の内に理性が留めた、“正しい知識”としての、意義が、おびただしい時の中で、あらゆる、感覚から置き去りにされる為、に。
我々の理性により、その事実自身の内容や、もっと言えば記憶自体を失う、とも言えると――――君は言うのだね?グラウゴン・・・・。

「そうでは無いのでしょうか?ですから、我々“理”(コトワリ)を持つ、賢き知性を有する者は今現在もこうして、煩悩や苦悩そして最も醜きもの“本能”是すら“忘れる”為に理性による知恵を学ばなければ、愚劣な人種への道を辿らなければなりません。」
346ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 17:51:11
果たして、それが我々の“真理”に叶うものなのか、それとも、それとは別の作用が働いているのでは、無かろうか?私は疑いざるを得なかった。

と言うのは、在る一つの疑問が私には、およそ全ての忘却に疑問符を突き付けたからだ。

その「疑惑」は、この通りだ。

『私、自身、“経験”した事の無い事や又は知らない事、そして“体験”してない事を“忘れる”事は可能か?』

私の率直な意見はこうだ。
もし、私が知らぬ事実や、身に覚えの無い経験に許付き、確かな“体験”からなる衝動的な感情を、自らが対峙している、現実的な感覚を許に可能な限りに自らの内に秘められた。

他のどの事実的な認識よりも、より一層に己の感覚に強く、信じ込ませる。

単一的な“真実”としての実証を確信する事が可能なのは、私の経験上、それは一つの“錯覚”であり、又は忘却の名を借りた。

“無知”への道徳的な軽蔑により、より一層不確かな、感覚的に真実としての神聖性と、真理としての高次的な、解釈論の“”同一視され、幾重にも、度重なる混乱を我々、人類としての
道徳の模範として、自らの精神と認識の最も高い価値感だと、誤認を繰り返して来た事を信じ込んでいたに過ぎない、と確信の過信を私は、この様に助長する。
私の知る限りの世界感に“真実”性のより高い仮象的な理論から、実像的な合理性を導き出す事が可能である、と。
347ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 20:21:18
「それでは、最も賢き者よ!!あなたは“忘れる”事が、最も合理的な方法論であり。」

「又、我々人類が過去に繰り返されて来し残して来た。あらゆる時代の歴史的秩序と道徳的理念の理想が、創られる事とは無関係に引き起こされて来た。過去の様々な背徳の略殺と罪悪の略奪を主体になる大儀と道徳に秘め、対峙する。」

「両者により、どちらかが《結果》としての《原因》を選び取り、又はそのどちらかが《原因》としての、《結果》を結び付けられ、度々争われて来た、事実的な記録に基づく考えを、我々、人類は、度重なる、過ちの果てに辿り着いた一つの―――」

「我々が、知性を持つ生命としての“最も価値ある人類”が、行ない羨み尊ぶべき、思想の答えは――――」

『人間は欲望を“忘れ”去り、そして、欲を捨てなければならない。それには、理性的な構造性を理想とした、知能と知性の主体、又は要に置き。』

『それを、人道的な価値観の主軸とし。我々は“理”(コトワリ)(と呼ばれる偲念、又は“知恵”つまり、偉大を済す、英知の結晶見たいなモン。)を授かり理解せねば、ならない。』

『それが出来ない低能な愚か者のお陰で、我々、人類は、今だに“欲望”や“煩悩”を捨て去る事が出来ず今だ苦悩の内に有る。』
『我々、人類全てが豊さに飢えずに平和を築き上げるには、人間は“欲望”や“煩悩”を“忘れ”なければならない。』と。

「何よりも理性的な支配を、受け入れない。愚かな“人間”を我々は、もやは、悪として裁かねば、ならない時が迫って来た。」と、
「私は、こう言うでしょう、最も賢き知性の持ち主よ!!」
348ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 20:28:48
それでは、グラウゴンよ、何故に我々が“欲望”や“煩悩”と言った具合に表現される。
所謂、欲求としての意志を一種の禁欲としての対象により。         
果たして、その欲求が、持つとされる“欲望”や、その一切の欲望が姿を変え人の魂に宿り。      
その数が百八つをの数を数える“煩悩”が取り憑き。
それに取り憑かれた、人々の苦しみを分け与えると言う。          神が我々人類に与えた、大いなる試練を超え辿り着く場所に禁欲が産んだ世界が佇むのだ、と彼らは、口々にそう言い放つ。       
さて、グラウゴン・・・。
今現時点ではそうでは無かろうか?        
        
《思想学的同情軽視カルテット(四重奏)》       
【プラトン・スピノザ・ラ・ロシュフーコー・カントを挙げよう。・・】       
そのどれもに含まれる。       
隠された母性は《自己への同情。》で在る。       
グラウゴンとの会話に置けき変えて、推定知能の最低水準を大きく更新した人類に見受けられる。       
知恵の塊とも、理性的な智理への服従を従える。       
“理”(コトワリ)と呼ばれる認識的な“記号”とその内実性。
349ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 20:30:12
【理性との彼岸。】

《第2幕・『最も善き疑い』第3章。》

ユダヤ思想的な原理主義に起源を持ち、ゾロアスター教としての道徳と又、その際に置ける。

人類学的に見て“正しい”観点による視察と西暦初期文明から近代文明へと移り行く。

人類学的に検証を基に可能な限り。

緻密さと厳密的な思考論を人知を一歩超えた感覚を、解釈出来る程まで理解と知能の楔を一際深く差し込み“真理”的な要因に、最も強く引き込まれた。

自身の精神的な構造を自らにより発見し。

その精神性の構造と表現として、概念化された。
意識的な表象を客観視出来る程の冷徹差を差し於いて迄、非常に“価値”の在り方としての捉われ方や、その語感と言語として、正立する為だけに。

この“言葉“が残す、母音や余韻をその他、大勢の民衆や公民は終には“真実”と呼べる迄の全ての“瞬間”を伝える波動と言うか、概念から解き放たれた。

言葉の感情は“響き”渡り。
思考が倫理的に処理を行なえ得る事が、もはや、一切の有り難みを《理性》との在り方と実証性の高い。

記録に書き示された。

《良い》と言う事と《悪い》と言う認識を全く持って“理性”的な支配の下に記録に残された。

理性に判断を委ねられて、決定された《善悪》の価値観などは両極の性質を見比べて見ると全く認識としての道徳とは、遥か無関係な指針を、現代的な知性を纏う。
350ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 20:33:07
智理的、合理性を「自然に従って生きる。」迄に水準を、引き上げる事を。

グラウゴンよ・・。私は「ツァラトゥストラ」の口を通し語られた。

一切の深みに彷徨う言葉と情念の隙間無き結束の中から救い上げる事でしか、現代人が仮称する。

“欲望”やら“煩悩”が、自身に与えられた最もな、本質を飛び越えて、はばたき、あらゆる、悲しみと苦痛を飛び立たせる事が可能だ、と。

グラウゴン、今君が“忘れ”たい程の痛みの秘密と真理的な背景を描き示そう・・・・・。

良いかね・・・?

其処に突き刺さる誓いを、自らの精神により濃く、突き立てたまえ!!

それでは、宜しいかね?

グラウゴン君・・君は何を踏み付けてより高みなる、精神世界が一切の“苦しみ”や“苦悩”の一コマ、一コマを忘却のレーテへ流し去り。

その全ての“真実”を見届ける事を誓うと・・・・。グラウゴン・・君は何に誓いを突き立て刻み込むと、いうのだね?

「ええ、私が差し込む、精神への誓いは・・・・。」「今だ人類が、捨て切れない、彼方まで持ち続ける事が何よりも価値の保存が続くと言う。」

「本質的な思考の発育が極めて我々にとっての“間違いだった”と笑い転がりながら忘れ去る事により。」
「“単一的な原子論”(モナドなアトームにより確定された、霊的な粒子論の裏付け)が混沌の内に秩序を導く単一の原子がコヒーレント化する事を――――、」
「モナドに誓って・・、ソコカラデス。」

宜しい。
351ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 20:35:24
【理性との彼岸】

第3幕・第1章〈散逸構造。〉
『在る組織が外部に開かれた場合に、その組織(システム)は物質やエネルギーを外部と交換し、取り入れると略同時にその組織(システム)は均衡から不均衡へと変化し、やがて乱れとなり、それに伴い新たな秩序を再構造する。』   
『一つの幾重にも重復した倫理性を優先し、秩序的な均衡を不均衡に変化させる。』

『開かれた外部から物質やエネルギーを取り込み、その乱れが、新しい秩序を形成すると言う、一つのシステムから物質とエネルギーが散逸すると言う、自然科学の領域から、逸脱し思想学への転用も理論的に応用される、思想である。』 
《力への意志》=《支配と命令》=《適性的な合理性》=《能動的な本能性》=《力からの意志》への意欲的に取り込まれてる。  
具体性に主体を置かない事で予定調和的な物質とエネルギーを散逸させ、新しいく理論的な倫理の秩序を形成する。

道徳の構築、立法の脱構築化(ディスコントラクション)を計る、知能としての生存力と脱前例化から、取り入れるべき新しい観点からの概念。

良く虱潰しに考えた事を辿ると、一つの意識的に外部へと感性が開かれた場合に、その意識として、認識出来る物質やエネルギーと外部と内側に置ける概念により。
外部の物質とエネルギーを言葉に取り替えて、均衡的に言葉が、伝えたい感覚を的確に響かせた。    
あの“感覚”が更に不均衡な不安を暗示させる。  
“言葉”と言う一つの空白な容量を感性により埋めて行き。

感覚的な触覚と表象を比較した温度差を伝え切り。 
互いの理解を感覚的に感じ取り、大いな誤認を散逸させ。
その誤認を産んだ、機能的な形成よりも、その物質とエネルギーを言葉により、乱れた秩序を、新に形成するのではないかと思う所が
強ち間違いとも限らない事と、概念と言語化に置ける共通の遣り取りが確かに存在する事を認めずに、何を形成するものか?。
352ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 20:36:43
【理性との彼岸】第3幕2章・忘却を連れ添い《カウス・プリマ》へと幼子を走らせる旋律。

精神の三段変化への自己的解釈論。

この散文の第2幕2章に、書き留め置かれた。

“忘却”の功名性に付いて此処では再び取り上げたい。

『ツァラトゥストラはこう言った。』に記され語られた。

ツァラトゥストラの説教と言う名の題名としてツァラトゥストラを通して語られる。

創造者としての“精神”に置いて三段階に飛躍した後に駱駝の“忍耐強さ”への意欲的な行動と獅子と化して奪い取る。

“野性の力”を、その本能に併せ持ち、自由な意志を解放させる精神をやがて“野性の力”で持ってしても新たなる価値を創造する事が出来ない事だと。

獅子、自らの意志に“苦痛”と“痛み”を伴い。

やがて、その創造者としての意志と精神を併せ持ち過酷なる道を行く者は、幼子に戻り再び忘却の淵に立ち
又、再び創造者としての道を、歩み出す事に成ると言う。

以上の駱駝から、獅子そして幼子へ変化する過程が大まかな説明と大体の解釈へと繋がり膨らむ真理的な、忘却への“忘れ”形見を、私は拾い挙げようとも、見付け出そうとも。
353ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 20:41:02
【理性との彼岸】第3幕・第3章・忘却の“忘れ”形見。

精神の三段変化を解体した解釈は、まず自身の精神は自らが広げた。

砂漠を行く駱駝と化し、その精神には、あらゆる重み(苦痛又は苦悩)と言った全ての悲劇を駱駝としての精神は、余りに忍耐強く耐える事から、幕を開ける。
差し詰め“駱駝”は苦痛と苦悩の“服従者”と言った所であろうか。

そして、次に“獅子”と化す。
やがて、この苦痛と苦悩の“服従者”で在る“駱駝”は自らで自由を欲する。 
つまり、初めて意志の為す力を意志し、奪い取る。
ツァラトゥストラでは黄金色に輝く金色の竜として、あの「汝、為すべし。」を告げるあの巨竜はその当時に於いてのキリスト教的な“神”をモチーフを題材にした。

あらゆる、価値と価値観の支配者として“神”で在る存在は服従による制圧を求める。

“獅子”の精神が目覚めた頃に、この一切の“自由”な価値を、その体に張り付いた。

その鱗を黄金色に輝かせ、一切の存在価値は我れと伴に在り、我れは一切の創造者。故に一切の時は虚しく過ぎ去る。

と言った意識的な支配と制圧に対し、人が取れる行動の制限は、およそ二通りで在る。
《ルサンチマン》(反感)としての《レアクション》(反動)を模様すか《奴隷根性》を引きずり支配に従う《レアクション》を取るか?
つまり“駱駝”として、精神の砂漠に広がる虚無的な悲愴感を辛抱強く耐え。

やがて、全ての虚無的な価値感しか、もはや価値が無い、最後の敵を討ち取るに到るので在る。

“獅子”がその精神を呼び覚ましたのは、紛れも無い“本能”的な野性を我々が今だ持ち続ける一種の“野蛮”な精神だと言える。

およそ“獅子”は力と自由に繋がれた“奴隷”的な精神だと言えるのではなかろうか?
354ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/08(木) 20:46:31
【理性との彼岸】第3幕・第4章・忘却の“忘れ”形見・無意識的な《良い》と《悪い》との視察。

そして、この“獅子”自らが自由な精神で在るはずにも関わらず、新しい価値を創造出来ない事に“獅子”の意志は“苦痛”と“痛み”を覚え。

そして一切の忘却の後に、幼子に戻り、新たな価値を創造するのだと言う。

およそ、大半の感性は此処で、大きく道を削る。
思う所、幼子とは差し詰め自らの感性に“従順”で、更に自らの苦況に誠実な認識を持ちつつ自らの意志に“従う”事が何よりも難儀と成り得る。

感覚的に無垢な精神が自己に備わる、《カウス・プリマ》(第一原因)の回転を唯一可能に帰化する本能だと、私には今の所、思われてならない。

2・“忘れる”事の反対説ハーバード・スペンサー【1820ー1903、イギリスの哲学者。】によるある仮設と、ある賢人による視察。。

――この「忘れる」ということが一体どうして“可能”なのであるか。こうした行為の功利がいつかある時に熄んでしまったとでもいうのであろうか。

事実はその反対である。 すなわち、この功利はむしろ、いつも変わらぬ日常の経験であり、従って不断に新しく強調されてきているのだ。

してみると、それは意識から消失するかわりに、つまり忘れられるかわりに、ますますはっきりと意識に刻みつけられなくてはならなかった。

例えば、ハーバード・スペンサー〔1820ー1903イギリスの哲学者。〕によって代表せられるあの反対説の方が、どれほどより合理的であることか(だからといって、より真実だというのではないが――)。
355考える名無しさん:2006/06/08(木) 20:58:07
↑こいつ馬鹿・・・?
スペンサーによれば、「よい」という概念は「功利的」とか「合目的的」という概念と本質的には同一視

されるべきものであり、従って人間は、功利的・合目的的なものについての、および反功利的・反合目的的なものについての、彼らの“わすれられない”、また“忘れえない”経験を、「よい」および「わるい」という判断に統括し決裁した、というのである。

この説に従えば、「よい」とは以前にその功利性が証明されたものである。

だからそれは、「最高度に価値ある」とか「それ自体において価値ある」という意味に用いて差し支えないわけである。

前にも言ったように、この説明方もまた間違っている。しかし、少なくとも説明そのものは筋が通っており、また心理学的にも支持されうるのである。―――

フリュード・リッヒ・ニーチェ著 道徳の系譜・第一論文「善と悪」・「よいとわるい」より一部抜粋。

【理性との彼岸。】

第4幕・第1章・【知る事の無い出来事、又は経験に無い知識は忘れる事が出来ない。】

先に記した第一論文「善と悪」・「よいとわるい」に描き連なった考察による忘却の功利性についての能動性は日常の真昼の深渕を、ものの見事に浮き彫りにした事には何の抵抗もなく、自身の感性に巻き込まれ、粉々に解釈へと紛れ込んだ。

つまり、我々の精神、又は理性に属する記憶の一切はその行為に置ける功利性と反功利性が、より一層に明確な「よい」と「わるい」に統括され決定的な記憶を総縮した経験に従い基づき。

彼らの“忘却”すべき事と“忘却”せずに記憶に残す事を、つまりは、自身により必要な知識の摂捨を迫られているのである。

略式的に単明化すると、我々の精神の内に、刻まれた「記憶」としての経験から生まれた「よい」とされる「記憶」と「わるい」とに分けられ。

功利性と合理性・反功利性と反合理性との経験により実証済みな“記憶”を消失して“忘れ去る”事と引き替えに、より鮮やかに、更に鮮明に、その意識へと刷り込まれるので有る。
357ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:00:19
一つ一つ丁寧に拾い挙げると、我々の意識に刻まれた「よい」と「わるい」との間に置かれた判定の基準はその行為により意識と認識に自己へ持ち込まれた。

評価の対象としての評価基準は、その「記憶」に或る情報と、その情報の事実性を配慮した上で自己の経験により更に功利性の高いものとしての「記憶」か?
または、合目的な適性を適切に果たし満た上で。

更に別の行為に対して何らかの実証が容認済みな確証性の強い「記憶」なのか?
と言う具合で我々は「よい」と「わるい」の意識間に置ける固定観念と連動的な概念により、意識的な仮象よりも一段高い実象を伴った。

功利的な成功の合目的な、適性をより善い事への功利性と合理的な成功の確立が、より強い意識が経験し、その「よい」と「わるい」とに分別をされ。更に何かしらの実証の存在を断定され、成功の確立に割り振らた合理性の度合いの色の濃判断を見極められる。

より、自身の意識的な“真実”性を輝かせる為に、
我々の潜在意識に横たわる道徳的な秩序に置ける。

善悪が築き挙げた価値感は一切、無視された挙げ句。
この「わるい」と見なされ一つ次元の元にある意識が低い空間と位置付けられ。又、この実像世界を縦横無尽な無法空間として、点と点を線により繋ぎ合わせ。
線と線が掛け合わされ、 実相と虚相との感覚と感性が認識が肉体の精度を一つの水準とした。
358ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:04:10
あらゆる語感を刺激する、器官として表象を捉えられる実無世界のあらゆる確立を更に、意識的な表象を被う理性が感じ得る。

この三次に四次が流し込んだ。

虚空に実在を伴にする世界感と実像を虚無的な意識が伴に存在する姿、こそ功利性と合目的な経験による成功を与える確立は恐らく2万光年先に在る過去を暴く程の確立で在ろう!!

底辺を高さと伴に掛け合わせ、感性と感覚に在る。
虚無と実像する世界を二つに割る事で、この我々の三次元に四つ目の不確定要素がおよそ、移動した距離により。

三角形をの発端と終末を固く結び、更に直ぐに解けられ無い様に時と空間の相対性により編み込まれた、一切の時の糸は、その細い糸が流され移動する空間へ入り込んだ。

その“瞬間”に時を功利性と合目的な意識の中へ、緻密に密接しながら取り込み新たな秩序を形精する。

四つ目と三つ目の俊発的な誤認を掻い潜り、実相と虚相の功利的な能動により、意志され築かれた。
重力に愛された隙間と質量が伴に万有引力が引き付ける程の慣性に「否」を「然り」と言い張り。

空間と時の「善悪」から隔てられる。誠に真理的な功利の確実性とが踞る。

狭間と隙間の素敵な偶然の残酷差に旨く、影と光の深みが寄り添った。

縦×横÷面積の死角=実像性の確かな確立。

その姿の功利性と合目的必然性の盲点に息を潜めた。
今や、三次を構造する元と四次を隔てる元は伴に同一視されても差し支えないと言える所まで、追い付いた。
概念が不安定な儘はぎ取られた現象としての多目的観点は、不確定な確立と混沌に示された倫理学の究極に向かい走り出し、突き抜けた。
その闇の瞬きに潜む破滅と破綻の道理上、進まねば逆説的な理論を辿れない。
359ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:06:04
カルテット・パラドックスを最大限まで圧縮された。黒を吸収し。全ての質量を真ともに吸い込み入り口付近に近づくに連れて時に置ける功利性と必然性の欠落が没落し、穴と黒い意識の深渕に一番近づいた。

“瞬間”で時の糸は途切れる事で実在を反永久的な「時の固体化に伴い、石化の後を氷像化現象。」を引き連れて光は永久的に永遠を見失う事と逆向きに広がり永遠が駆け抜けた。
事を知ると略、同時刻に過去に或る未来を進む意識と未来の先から送られる過去として忘れ去った記憶が意識を媒体にして、流れ出し。
感覚と感性が意識的な神経を焼き付けた、過度にニューロンからシナプスを渡り送られた。

電流がその直後に走らせ対極の未来に或る過去との経験を刻み込む為に、開かれし頭上の遥か先の過去から未来的な意識を私の感性に微かに捉えられる程の感覚を概念化した意志を送り付ける。門に掲げられた。
題名と表札の字は「一瞬」で或った。

実在する虚無の空間に意志を分け与える。

破壊と破滅が折り重なり、極度な密度で結合される。真新しい破滅が喜びの声と伴に弾け飛ぶ。

滅亡と破綻、破壊と滅殺、虐殺と自虐、ありとあらゆるカタストロフィが、この再生工場の功利と合目的な成功の確立が判断を反目に傾ける。
360ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:08:22
反功利性と反合目的的な実証に隠され反目しあう。

 「ダート」と「シュレヒト」に秘められし、喜劇と悲劇を世界と七つの大罪から我々は「神」を創造しよう、。。

ディオニッソス神は“葡萄酒”(バッカス)と天の光を浴び逞しく育つ、アポロンの子供達に祝福された。穀物の豊作と一年の無事を祈願する。

豊作神として“葡萄酒”を常に流し込み、酔いどれた儘、踊り明かす狂乱的な踊りの神としても高名。

ムゥサの女神達により、ディオニッソス神に仕えた。
狂乱の乙女達マイナデスはその身体を引き裂かれた。
力への意志として出発する類似性の同一点より。

寧ろ、その神として崇められる迄に、凝縮された熟れて孰した、あの没落を目指す。
姿を何よりも、最もな友で有る。

ツァラトウストラ彼により語られ記された、自己の影を面影に宿した儘に移し。魂の赴く趣味の儘導かれ。
より高みと深みとの囁きを駈け走り進む、自身に纏わる逸話を甦らせ、記憶に刻み込めば、良い。

361ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:35:31
【理性との彼岸。】第5幕第一章・《ムゥサとディオニッソス神。》

『バッカスの酒を手に取り葡萄酒、その器から零れ出た。葡萄酒に溶け込んだ、血の色と狂喜的な熱気が大気に触れ熱と混ざり気化した直後、蒸発して雲に成った。』

『バッカスの酒と名打たれた。この酒の酒成分濃度は水分が6割、塩分が三割、残りの一割はおよそ悲劇からの“誕生”の喜びと温もりによる。』

『自らへの軽蔑を通し垣間見る自己観点の推測を立てる事が、何よりの自己満足の嘔吐感が下から上を目がけ一斉に走り出し。』

ザ・メイキング・オブ・ディオニッソス・ストーリー。
『絶望と恍惚に送り付けられ一度目は身籠った母の体内で目覚め。

二度目の生誕は、テーバインの建設者カドモスの娘セメラと大地の神ゼウスの間によって身籠もった。

だが、ゼウスの妻であるヘラによって憎まれ。

その復讐を遂げる策略によってセメラは殺害される。それを知った。

父ゼウスはディオニッソスを自らの太股を切り裂き、その中で育て身籠り。

やがて、月の光で傷口を賤し、やがて父の腿を引き裂き生まれた。

二十歳に成人した歳に葡萄の栽培方と葡萄酒の製造方を発見するがヘラはディオニッソスが、心から許される事をあきらめ切れず。

狂喜を送り込み酔狂させた。
362ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:38:49
やがて彼は小アジアを渡り歩き途中フリギィアで大地の女神メレに狂喜を癒された。

全アジアを渡り歩き、なんと彼はインドにまで足を延ばしている。

故郷テーバイに帰ったディオニッソスを出迎えたのは葡萄酒と熱狂と狂乱的な宴であり。

この国を治めてたテーバイの王ペンテウスはこの不道徳、極まりない不快な騒ぎと、行列とディオニッソスの信仰を中止すると、国中を通して伝達し、命令しました。

だか一向に納まらない騒ぎを尻目に王は自ら騒ぎの中心を牛耳り支配すれば、この不秩序な騒ぎは納まると考え。

宴の会場に辿り着き、その中心を覗くと、なんと其処には踊り狂い、発狂する。
王自身の母や伯母がディオニッソスの踊りと狂喜に、狂乱し王自身を切り裂き、殺したと伝わります。』
363ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:43:27
【理性との彼岸。】第5幕第2章・《ディオニッソス神とツァラトゥストラ》

さて、今更ながら何故、ツァラトゥストラに描かれた神を無すもの、その名をツァラトゥストラ!!と自ら自称し、ニヒリズムの没落と又自身を新しい破滅へ突き動かす。

“あの”衝動により掻き立てられその、意志の力へと集約し其処から再び散逸して外部から新しい秩序を形成する。

解釈の憶測と推測の通加点の必然性が求められた。

値と等しいエネルギーを、力への意志により変換可能なエネルギー源は他でも無い。。

生命としての本能に刻まれた生の烙印だ。

と言うのも私は最近に成って思うのだが、良く耳にする機会が多い一方的な考えの押しつけや強要は独裁的発想であり。

又、とても危険だと。

個人、個人の意志を尊重し押しつけや強要の要求に応じる事なく、それこそ、自由に判断したら良いのだ。
と声を高々と空に馴らし、あの最も悪臭の匂いが、より一層の極みに居る。

より完璧な虚無に仕上がったか、又もしくは、死に物狂いに悩み抜いた結果。

とても、どうでも良い事だと結論付けた、より深い馬鹿の深渕を覗く頭脳を強烈な衝動を加える程、頭を、こづ繰り回したいのだ。
364ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:47:38
奴らを見てると“あの”今々しくも嘆かわしい。  
滑らかな不快感で胸を騒ぎ立てるのだ!!     
“あの”密かに記憶の其処に沈めた耳にまで届く彼らは又こう言うのだ。   
「押しつけられた考えや、無理強いを強いられた、同意なんて必要無い、重要なのは個人の考えや賛同に加わる意志で在り、理性的な理論だ。」

又しても、私に込み上げて来た津波の様な不快感の波状攻撃は自己への軽蔑と同情が幾らか混じってた。 
嗚呼!嘔吐!!嘔吐!嘔吐!この嘔吐感すらもはや、恥部に溶け込む。。   
あなた方は自らの命と生の会話を、聞き取る事ができ、又その内実性の突拍子も無い理由をご存じか?  
どうやら、我々にある。 
命の命令の儘に生に向かって一切の“生きる命”としての考え方を一方的に脅迫しているのだ。

命はこう言う。

「全てを投げ出しても、是は捨て去るな!!」   
生は、こう反応する。  
「私は誰にも支配されずに生きて生きたいの!!」 
「だから、お願い、私に命の押し着けや安泰の無理強いをしないで頂戴。」  
命はこう叫ぶ。

「あなたは従わなければ、命令を実行する事は不可能だ。」

『およそ、地上に見渡す。限りの生物は命の生に対する荒々しい知恵による、独裁的な支配を受け。   その支配への反感に抵抗している。

もはや、命と生の本能的な駆け引きにより。

但、時と夕闇は通り過ぎて行く事に余念も過ぎ去る事には立ち合わない。』
365ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:51:59
【理性との彼岸。】   
第5幕・第3章『実像性の強い自己の趣味。』   
“理性”と“本能”私の趣味に反する事は良き趣味とは呼べまい?!

1論文目。

「嘘と悪、真実と善、壊れた知性の二重束縛。」  
よくよく虱潰しに、丹念に自己と、その間を埋める。
言葉との関係性を掘り下げて行くと、今までは気にも止めなかった。

詰まらない大いなる私の趣味に程良い疑問が浮き彫りにされその貧弱な骨格を曝け出す。。

それは、こんな疑惑だ。 
「果たして我々は本当に“嘘”を悪だと認識して、憎むべき憤怒の対象物として正確にその能動性を捕らえているのだろうか?」  
と言った具合で在る。  
恐らく多くの人達は首を傾げ、眉を潜めるかも知れない。

口々にこう吐き捨てて・・。
「当たり前で在り、今更、聞くことすら、些か馬鹿、馬鹿しい。」

「もし、仮に“嘘”を吐く事が悪い事ではないのなら、真実の価値が悪い事と同義に為りかね無い。よって“嘘”は悪!糸冬ー!!」
だが、ちょっと待ってくれその疑惑を引き連れ。  
遣って来た思考はこう呼び止めるのだ。

『真実的な実証性を知り得る事が出来て。又、尚且つ更に、それに纏わる一切の事実を知り得た、から、こそ、その事実に基づいた “嘘”を吐けるのでは無かろうか?!』
366ラ・ベート・フイゾロフとスペキエス・アナルキステイカによる暴動。:2006/06/09(金) 00:53:48
緻密に整理するとこう言った内約を掲げる事になる。
『真実を知る事が出来たからこそ、その逆向きに  “嘘”を置いてこれたのでは無いのだろうか?』と。
つまり我々は常に何らかの方法論により“嘘”を容認して居るのでは無いのだろうか?

さて諸君、君達は果たして本当に“嘘”を吐かれた時又は“嘘”を見つけた時に
その事実に対峙した場合に“悪”であるとはっきり認識して居るのであろうか?
私にはどうも、その様には信じる事が、もはや何の、立証性を成立させた所で、「否」を言わざるを得ない。
と言うのも我々は既に“嘘”に置ける功利性に付いてあらゆる実験を繰り返し行なって来たでは無かろうか?!!

私が思う所“嘘”や“偽り”と呼び止められる。  
何らかの認識間に置いて、誤作動を起こす可能性の高い情報を選別する《道具》(ツール)として“理”を使用する事が一つの対策として挙げられる。

それに“嘘”と呼ばれるものの中には余りに無垢で無邪気な無知が幾分流れ出る事も理解している。   
認識分野に限定する言い方をお借りすると“嘘”も、何かしらの“真実”から、零れ落ちる事を付け加えたい。

なんと、もはや我々は“嘘”を「悪い」事だとはすっかり“忘れて”しまっているので在る。

よくよく、注意して感情を選んでみるが良い。   
物の見事に“嘘”を認識に持ち込もうが、既に自己の持つ“記憶”により。  
その活字を列ねる意識の、残した微かな実在性と功利性を一目に見極めて、自身の《無意識的》な精神で「よい」と「わるい」と言う。
自己の経験と記憶に眠る、同一的な感覚を目覚めさせるのである。

更に詳しく述べると、我々が憤怒し憎悪を及ぼす程の“嘘”とは現在進行形で、
自己の時間と平行に“作業”を伴に行なう場合や、 
もっと良く言えば、我々が“嘘”に対し憎悪するのは
互いの“利益供与”に関して、何かトラブルが発生した場合に最も確認が容易だとは、もはや何の疑う余地が残されていよう事か!?
『我々は“嘘”は憎まないだが自己利益への軽減と、なる偽りの“嘘”なら、 もはや誰か信用に足りるかより「よい」判断が可能だと加えて置こう!!』
367考える名無しさん:2006/06/09(金) 03:49:14
柄谷のニーチェ解説が正しい
368考える名無しさん:2006/06/09(金) 09:31:16
>>366
嗚呼ー、このば〜か〜、ニーチェが草葉の陰で泣いているぞ・・・?
369動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》:2006/06/09(金) 13:32:42
《ラ・ベート・フイゾロフ》と《スペキエス・アナルキステイカ。》による赤い暴動.第2部。『反感の暴動。』

『箴言的戯言話と好況組曲。』

     1
一切のあらゆる“確立”と呼ばれる数字は思うに――“理性”の為に用意された故に“あの”映写機が一切の“確立”を回す。

     2
私は“理”(コトワリ)が授かる事が解った、―――即ち“理”(コトワリ)とは一切の記憶を残した“理性”ではなかろうか?  
     3
さて、W杯が近いな、四年前のW杯の練習試合で日本がまさかのブラジルに勝利した事は記憶に微かに残る。その試合のブラジル側のインタビューの事を少し話そう。

レポーター「お疲れ様です。どうでしたか日本の選手は?後、気になった選手がいたら教えて下さい。」 
カナリヤ「オーマンマミヤーヨシムネ!トノサマブッコロス!タカガリハズシヤガッテ!嫉妬!」    
通訳「えー名前は覚えて、居ませんが髪の長いホァードのあの選手が得に良かったね!驚いたよ!とても、日本人離れした動きだったよ!!アイツはとても、日本人だとは思えない動きだったよ!」

レーポター「えー日本選手とはとても思えない動きを見せるなんて一体誰だったんですかねー気になりますねー。」

カナリヤ「オーウ!ヒラメタ!!アイツノナマエ、タシカ、アレクサンドロ・呂ペ巣です。」

レーポター「そ・それは確かに日本離れした動き見せますね・・・ハハ・。」  
あのインタビューの後にあのカナリヤンはこうとも言った。

「アイツノカオはゼッタイ、ニホンジンジャナイ!!」
えー残念ながら彼は日本人国籍を保有する限り彼は、日本人です、まぁ気張れや。

     4
イエスは言った世界で罪なき人に罰を与えたのは失敗だった―――おお!!見よ生まれ行く子供達にさえ、既にその背に我々の罪悪が羽根を広げてる。
370動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》:2006/06/09(金) 13:34:57
     5
古代ギリシャを見届けた、国家に捧げた書物に記された、ハデスの国より舞い戻った英雄エルにより。  
言い伝えられる輪廻を司るモイライ三姉妹により。 魂だけとなった人々の最初の明暗を分けるのは・・・・三女ラケシスによる・・・・・・・・籤引きだ。 
ちなみに俺の来世は※1ミトコンドリア・トリコモナスに成りそうな気がする。
※1ミトコンドリア・トリコモナス・近年増加の一途を驀進する。余りに不名誉な戦争に出掛け爆死した。
感に程良く親しい病原菌の一つ、男性の場合は得に症状は余り表には出ないが女性の、場合ひどい時は患部が腫れ上がり、最悪の場合は子宮へ菌が感染し結構、危険かも知れない。   
余談だか男が浮気した時に良くこの病気が引き金になり病気持ちの上にひたすら、頭を下げる情けないを遥か頭上の空に見上げる男性が泌尿器科や産婦人科に 行くと極、稀に出くわす。
正直・・・気まずい。  
     6
人は暗闇の中にこそ希望の光を見つけると言う。  
だが彼らの意識には何も映ってはいないのだ―――光に背を向ける事――そして初めて暗闇の中が良く覗けるのだ。
     7
孤独をこよなく愛する迄は良い。だが孤独に“愛される”事は決して求めてはいけない。だが、何れその時は訪れよう!!どうか、それ迄の偶然を踊る足を大切にする事だ。
371動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》:2006/06/09(金) 13:38:53
     8
全ての言語が言葉を完成 させた時、あらゆる記述は既に完結していた、―――恐らくは“楽譜”すら・・是も又、然り・・・・。

     9
海の向うの星振る旗の下で楽器を手に取り叫び続ける《ルサンチマン》はこう叫ぶ。
※2「U.S.A.の頭文字の二つを残せば.U.S(我々)だって事を忘れるな!!」

残念ながら彼らは忘れたのではなく。捨て去った、と言える程等しく夜は育つ。
※2.Albam.ries.you'r.boies.All.ages.YAA-By.bad.religion(悪徳な信仰)


     10
神に従い忍従すると言う、最小の預言者は、こう神の箴言を教え込むのだ。

「嘘突きは“悪”です!!騙されないで下さい!! 聖人は絶対に嘘など突かないのです。」

「神の声が響くので突く必要が無くなるです。だから皆さんどうか嘘突きは“悪魔”ですから騙されないで下さい!!」

嘘を申さずとも口は災いの基に一番近い事を確認して欲しい――腹減った・・

『パンが無ければお菓子を食べれば良いんじゃねぇの?!』

さて!殺るか!!ハハッ!待てー!まじーアンカケ・セット、頂きます。
372動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》:2006/06/09(金) 13:42:09
     11
未来世界から産業廃棄物の不法投棄を企んでた。  
猫型アンドロイドの中で、もう何十年も昔から。  
ずっと興味を、そそられ続け、今現在でも、この土地に入る度に再び胸を熱く焦がし、夕日と伴に沈んだ。あの頃を思い出すんだ。 
だが、どうしても諦めに 踏ん切りが突かずに   どうしても気に成る存在が居るんだ。

野良エモン「延び過ぎ君、一体、何が一番君の関心事を買い占めて居るんだい。早く挫引きなよー」   
ボクァ・・一回だけで満足するんだ・・そう、たった一回だけで・・・野良エモン!!
僕の願いを聞いてくれるんだね!?

野良エモン「よし解った。買い物行きたいんだろうけど面倒臭くてどうでも良い?延び過ぎ君!!」   
嗚呼!!一回切りで良いからどうか私が生きてる。 間に「リアルでザマス言葉を 連呼してるリアル・骨川ザマスに遭遇したい!!」 
     12
移り行き―――それは何かを残す事で在ろう――――故に全ての幼子はやがて、少年へ移り行き。

そして少年から青年へと移り行く―――故に全ての男性には、子供が移り込み、
又それ故に全ての女性は子供を愛する事を自らの内に知る―――故に全ての男性は母親の愛を空虚に欲する―――故に全ての万物は“移り行く”運命を回してる。。

     13
より遠くを更に近付けた、者は後に、こう語る―――私自身が在った場所には、一つの印しが置かれてる、と――然るに人が奏でるのは自身が残した音符を鳴らす為であったか!!   
     14
「聖人は絶対に嘘を突かない。」―――思うに「聖人」とは規格外の馬鹿者か、はたまた既に全ての「聖人」はこの世を過ぎ去って行った者なのか―――。  
     15
なんだって!?泉ピ〇コのピは放送禁止用語だって!?
それから、暫らくエナリは失踪した。悪しからず。
373動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》:2006/06/09(金) 13:45:19
     16
もはや、私の幸福は善悪の彼岸へ傾き又、昇る。  彼岸の対岸で幸せは死合わせと成り祝福を受けた。 
――思うに現代人は幸せを持てないのでは無く―――幸せに慣れないのでは無かろうか?

     17
もはや此処まで不況の凄惨さは悲劇を極めたか!! 
思うに故に自らを正義の、救世主等とそれこそ訳の解らぬ儘に同情により、社会悪と向き合うと言う。  
あの少し足りない集団がのさばるのだ!!私の怒りは遥か地平へ吹き飛んだ!!
私が彼らを初めて見た時、余りの腑甲斐なさに嘆き、腹立たしく感じるのは、もはや必然では、無かろうか?!
敢えて名指しで告発しよう!!
そう奴の名は『パーマン2号!!』貴様はチンパンジーじゃねぇか!?おい!!
なぁ鳥男よ・・・せめて霊長類人科から始めようぜ・・・・人と動物の架け橋を逆走するとは!!素晴らしい程のどアホ!!

     18
『二人の権力者。』その世代に置ける認識を通し確認出来る役割は略、同じと等しいのに、その名前の印象から受ける価値観に恐ろしく開きが認められる。  
その二者により認められる能動的を示す評価の内は、一人は自己中の王様、そしてもう一人の独裁的な役割の人物の普遍的な認識評価は、
そのものズバリ『豚ゴリラ。』豚+ゴリラと聞けば、何やら、とてつも無く醜悪な、印象を受けるが奴は結構、良い奴だ、但それだけに悔しいのだ。
単なるあだ名が『豚ゴリラ』で在ると言う事実が!!あ・あ・余りにも悲惨過ぎねぇ?あだ名にしては? 
     三七
「どうですって?通俗的に言えば、それは、神に否定されるが、しかし悪魔には否定されない―――ということではありませんか。」
その反対なのだ!諸君、その反対なのだ!それで、諸君に、通俗的な言い方を強いる奴は悪魔にでもさらわれろ!!

フュード・リッヒ・ニーチェ著・善悪の彼岸・第4章「箴言と間奏」より抜粋。
     LAST
人類学上あらゆる意味での厳密性に通じる道筋を辿る事が可能なら、人類史に置ける、あらゆる全ての  
“革命的”な事実など何処にも見当たらぬ。

変わりにその事実を試みた意志が移り行く姿だけが、其処にはたたずみ或ると 言うだけだった・・・。
374動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》:2006/06/10(土) 01:48:07
動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》

【ニヴェラリズム・IN・OK?!】序幕・第1章。

幾つもの瓦礫を踏み付けた事だろう?又、どれ程の間違いが是から崩れ去るのだろう?――――「我々が“間違い”を捨て去る時に、又、生への全ての愛も――即ち一切の真実を投げ捨てる事と何も変わらない。」
さて、驚愕にたたずみ
但、不埒な知識を丸め込むあなた方、新しき哲学者 としての資質が経験に追い付かぬ、道徳の奴隷達よ!!

今一度、遡っては尋ねてはくれぬか?

ならば、否!!この一度!!あの精神を支え続け、突き進む先に潜む無知こそ我々、哲学者を哲学に引き止める程にもはや苦悩するのでは無く。

そう、無知すら楽しむ為に自らその無知なる未知を、告げる逆説的な道理を進むべきなのだ!!

我々、諸君よ、何故にその様な精神が見つけられよう、何故に我々は哲学的な認識者に引き付け又引き留められよう事か!!
375動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》:2006/06/10(土) 01:49:32
我々、諸君よ、何故にその様な精神が見つけられよう、何故に我々は哲学的な認識者に引き付け又引き留められよう事か!!

私の真、深みから精神と、又は意志としての集合体とも、置き換えて差し支えない、一つの明確にして曖昧な感覚により強く鳴り響き。
その概念から発っせられた意志の情念を自らにより、感性に染み渡り感覚の奥に深く吸収した。

その自己と異なる意志の余韻は、あの一つの“危険”を掲げ挙げた。

あの意志が纏う柔軟な屈託を見事に包み込んだ―――自己粋狂とも軽蔑が軽く飛び越えた。

究極の自己感覚の果てに 辿り着いたその姿からは。
もはや、言葉による誤認を与える、あの不透明さにすら―――私は感謝する事への拘りは、よもや一つの憧れが燃える場所だとは――
――何よりも思い描けない“野蛮”で“危険”な賭け事に既に自らの価値を賭けを望んだ事だったとは、―――今、はっきりと理解が認識に追い付き。

他のどれとも異なり混じ合う事で、私の“力”に置ける限りに今から、此処から直ぐにでも、意志を全ての意志する所へ連れ出す事を
私と私が燃やす憧れが、沈むまで果てしなく“試み”る事を、何よりも許して

貰おうとは誰よりも、この自身と一切の“孤独”が・・・・全てとの“孤独”を見付け出す迄に。。

――思うに私が最初に哲学へ照らした明かりは、―――憧れを燃やす事であった―――。
376動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》:2006/06/10(土) 01:52:13
《ルサンチ・ライオット》第2部・序幕・第2章。 
【胡桃割り人形の“理”の拘りとお断わり。】
力への意志とは、つまり、生きる事への衝動と情熱の燃えかすから小さな種火を絶やさず割り尽くす――。
あの過去と未来の所々を、摘み挙げ、叩き割る一つの玩具を扱う事と良く似た、感覚だったんだな―――

つまりは―――永遠の子供に連れられて―――気の赴く儘にあらゆる責めぎあいに巻き込まれ――――――縛り付けられた。

但それだけだった、真にそれだけの胡桃割り人形だった。

今までと、今までが擦れ違い、互いを見失う・・あの瞬間までは――――数少ない全てを差し出せる程の価値を自身により。。

『創造』出来るか?

『私の様に時に柔軟な無様さを容易に身に付け。
又の時に意識され直接に調節の行き届いた。
力を残す事を貯えれるだけの知識を広い集めたか?』と―――。

私はもはや、その問いに、何を告げようとも既に跡は無い。

嗚呼、良く解ったね・・・嗚呼、良く割ったね・・・
結局、知恵と呼ばれてたのは、ホラ・・あの胡桃の実が割れる姿と知恵の本質が着こなした服装に良く似合う。

あんまり意味無いよね? 
もう・・・それ・・と・・あれ・・は・・ホラ此処から・・・今一度もう一度。。
私は真にあなた方に、この様に告ぐと言う・・・・・さぁ――――直ぐにでも呼び起せ―――――又、その後に刻み込め、その一切の終演に流れる曲目を―――
――今此処から立ち上げれ――さぁ意志を傾けろ!!その場所へ・・・・・・・
I.Waeean.riot!!(自分で欲した暴動へ)

なぁ反感て何なんだろうな・・さぁ・・反応じゃないの?!何に対する?・・・気持ちを表現する感情に、対する、反応じゃないの?            さぁ?其処までは・・・。
考えて見てはどうであろうか?!と。

私はまことにあなた方に、こう言った。
377考える名無しさん:2006/06/10(土) 02:25:12
「権力への意志」って、
妹エリザベートとペーター・ガストの手が入っているという時点で
我々はそれがニーチェの意図とはほとんどかけ離れているのではないかと
疑わねばならん。

それはおいといて、
動物的哲学者と無政府主義者・第2部《ルサンチ・ライオット》!
いい加減にしろ!このパラノイア野郎が!!
378考える名無しさん:2006/06/11(日) 00:00:14
>>376
荒らすなバカ
379考える名無しさん:2006/06/11(日) 05:38:15
「古典ギリシアの精神」
「悲劇の誕生」
「哲学者の書」
「反時代的考察」
「人間的、あまりに人間的」
「曙光」
「悦ばしき知識」
「ツァラトゥストラ」
「善悪の彼岸」
「道徳の系譜」
「権力への意志」
「偶像の黄昏」
「アンチクリスト」
「この人を見よ」
「生成の無垢」

羅列してみました。他に有る?
380置き手紙と消印と花束の結婚式の招待状。尊くの系譜。:2006/06/15(木) 02:42:22
詩人の花と自身に咲く華をjenseits.von,gut.und.boes.18551866。

刻まれた墓標に飾られる花束の言葉と遺言の遺産を告げ繋ぐこの意志の系譜。。

手記一通目。

《カスパの挽歌。》

この墓標に私、自身から抜き落とし、突き刺さる。

逸脱者へ向けられその弦を集中して引き付け、放たれるネメシスの弓矢を。捧げ、又その古い石の板を、この頭上遥か彼方の空に架かる虹を、見続け。

掲げ上げられた自虐と自逆に掛けられ鳴り響く。
目覚まし時計の短針と長針が重なり。

短針が刻を生み続け、長針が時を受胎し産み落とされた彼岸の常に越えて引き起こる感覚に埋もれながら・・。

一仕切り淡い柔軟剤の程良く混ぜられた。語るに最も静かな夜の明るい沈黙の光に囁かれる儘に、透明な悲劇に汚された。響き渡る、背徳の行進曲と日陰に映され色濃く。

漆黒の夕闇を引き裂き空の底へ。善悪に置かれ過去に様々な音色を奏でた音符の調べを。《ダートとベーゼ》が辿り着いた悲願と祈願の墓前を巡り。

銀河を蒸気機関の、圧力で夜空を駈ける。

発車を見届けた後の余韻を追い掛けて。音響設備の状態が程良くひび割れて。その雑踏と騒音を見事に全てが、立ち並ぶ“善悪の鎮魂歌”をあの列車の汽笛と、春と修羅に架かる架け橋をこの新世界交響曲は燃え盛り、火柱を見上げ。
381置き手紙と消印と花束の結婚式の招待状。尊くの系譜。:2006/06/15(木) 02:44:25
半透明な色の宇宙〔天〕を背徳と懺悔の透明な迄に誤解を赤く染め上げ。

今まさに神々しくは黒々と悲劇と喜劇の舞台を涙で滲ませ刺激する。罪悪と刑罰の焼却された、あの煙は垂直に綺麗に、立ち上させる無音の儘に過ぎ去る。

そんなお馬鹿で下劣な奴に迄見え隠れする。小さな認識の楽園の麓の茂みの中に小さな誓いを試みる。あの彼岸の向こうに咲いた、睡蓮の華はもはや、誰にも愛される事を拒みはしない。

この街のごみ箱を鮮やかに飾る解毒の華と、その未来に待つのはもはや、全てのアンチクリストが十字架を前に拳握り締め高々と終演へ続く階段の上へ掲げ上げ。
口々にこう叫ぶ!!
神よ!法律を救いたまえ!!主導者達がモラリストの権利を横目を使い、世論を世界を最も良く知る。手段に活用に過去との比較に余念の無い程迄に、理屈を卑屈な直線に螺旋曲げ。

すでに道理の金筋は理屈の骨格と基礎的な倫理論としての起源は既に見失われた。

巨人属の王が業火の剣(レーバ・ティン)を振りかざし大地を剥ぎ取り。その業火は地上を七日間に渡り燃やし尽くすと言う。

主神は自らの右目と引き替えに古代文字の魔力を身に付け、より優秀な戦士の戦死した魂を使いの女神に、この神殿に集め、終局の聖戦に望むと言う。

青白く点滅する薄明かりの闇を光らせる。

幸いにも凶とも不仲に、私が置かれた空間と白い息をぶら下げた。カーテン・レールを滑る様に開かれた。この開示された儘に閉ざされた、有機物と物理学に取り上げられ壊された。
382置き手紙と消印と花束の結婚式の招待状。尊くの系譜。:2006/06/15(木) 02:52:40
一つの現象として与えられた、電流を磁場が吸い上げ引き寄せた、私は淡い幸福の内に咲き散る為の花弁など、既に美しさの不妊治療の、必要性をものの見事に、忘れ去りました。

※また、僕達二人きっりになったねぇ・・・・。  
どこまども、どこまでも一緒にいかう、僕はもう、あの蠍のやうに本当に、みんなの幸の為ならば僕のからだなんか百ぺん灼かれてもかまわない。      
※※私がそのみみもとの遠いところから聲をとってきて、そらや愛や林檎や風、
その全ての勢力の楽しい根源、満象同帰のそのいみじしい生物達の名をちからいっぱい、ちからいっぱい叫んだとき――――中略――――
そしてその淋しい林の中のいっぴきの鳥になっただろうか―――――。    
あるいは修羅の十億年に、潜む私は一人の修羅なのだ。
※宮沢憲治・銀河鉄道の夜より一部転載。
※※これも、同じく宮沢憲治・青森挽歌より一部転載。
嗚呼、私しは決して自分一人の幸福だけを祈り願ったりはしませんでした。  
詩人の花と自身に咲く華をjenseits.von,gut.und.boes.18551866この場所へ今贈ろう。。

刻まれた墓標に飾られる花束の言葉と遺言の遺産を告げ繋ぐこの意志の系譜。。
手記2通目

《ラ・ベート・フイゾロフ》(動物的哲学者)と《スペキエス・アナルキステイカ(無政府主義属)》  
あなた方は、この言語が言葉との間に成立し構成された、その認識の懐からは、もはや“危険”に程近く、破綻する。
この真昼の世界に横たわり征服され尽くした、知識と認知とに隔てられた。  
“二つ”の天により授かる才能は、“生む”か“産む”か?それとも、もはやそれすら“有無”の消印を叩き付け。

既に“未来”への手紙はもう既に配られたのだろうか?
感性と感受性は相反しては同時に愛し合い、又、直ぐに互いを見付け出す。

“テンポ”の違いにより、度重なる誤認を流産する為の危険性を想像性と、全くの根拠も起源すらに果てしなく、過酷を刻銘により刻む。
“その名”を読見違え、又、呼び掛け続けた。
383置き手紙と消印と花束の結婚式の招待状。尊くの系譜。:2006/06/15(木) 02:54:51
その後に振り返る過去迄をただ静かに過ぎ去る事に置き“忘れた”足跡だと日陰と日向に寄り添い合う。 
上流に流れ去った忘却には偽りにより誠実に、自己と現世を引き止める。

より鮮明な閃きと轟音の作用性の二重反動によもや、あなた達が首をやや虚ろに傾ける。
その姿のもはや“何処”にも、自身の命令と服従の反応により、形作られる影は見当たらない。

誘われる深みと高みへの試み予見と発見者としての正直な、知能の燻りは、既に私の中で「“燃えよ”我が知識!!」と叫び続け。
今だに燻りの柔らかな緊張が膨張し破裂する。

終局のターン・テーブルの針の上を踊り見事に砕ける程の深渕が精神の内に捉われる理性が示した。

“混沌”を称賛し又、無理矢理に迄、非道に道を閉じた。この門を見上げた儘に唄う者が実践的には他との決別を唄は、見事に造反する。

「狂気には常に幾分かの愛があり、又その愛には常に幾分かの理性がある。」 
少し、しなやかな本質的の着眼を見事に無色・透明着こなし跳ね上がり、飛び立つ。
一つの孤独をあんたと、その他に空回る。表象学的、現世科学等と言い張り。 
振り返り残された。

余興への誘いと優遇差との間に取り交わされた、その情け容赦の無い反動の上で初めて告げる。
自己“疑惑”と利己“疑惑”に連れ去られた彼等、実多くな余計な人々の中には、残念だが。もはや何も授からず、創造の組立図すら組立ず。
狂気的な程の狂おしい果実を熟れる事には常に僅かながら愛する事を熟知した証が、微かに漂う。
384置き手紙と消印と花束の結婚式の招待状。尊くの系譜。:2006/06/15(木) 03:02:42
だが、その背後を説くものにも、又、常に少数にして多大な理性がある。

直感的な鑑定、助言!! 
ならばいっそ、その理性を飛び越えろ!!

詩人の花と自身に咲く華をjenseits.von,gut.und.boes.18551866この場所へ今贈ろう。。

刻まれた墓標に飾られる花束の言葉と遺言の遺産を告げ繋ぐ、この意志の系譜。。
手記・最後の文末。

さぁ此処からを何処からに繋げようと、我々が我々と他の中で対峙する関係の中で成立の事実を確定する、
と言う、極めて万象の善悪を唯一、裁く事が可能で有ろうと認められる。   
秩序的な法則を、粉々にまで自己解釈と利己解釈の共通点を通過出来ず。

又、己も滅せずに知識に偏り語り掛ける智を愛する者だと、自称する輩が、何故にあなた方の様に背を屈めた知性が智を愛する事等出来ようものとしてみても、・・・・。

智を不妊により受胎出来ない事だろう。

更に厳密な意見の提示を、尊重される事が許されるならば、心置きなくあなた方をこう呼ぶだろう。

『何よりも他人の恥部を愛し、喜び合う。恥を愛する人達』と。

思うに純粋な“智”への愛等よもや、大胆過ぎる程に魅力的な誘惑で嘘と真実の統一的な間違いへの呪咀として魅了し又何よりも、低俗な知識人を自称し慣用な動きに最も良く意識を止める。

彼等の趣味に何よりも、合い。又、同時に上から下を眺める優越感に快楽を得て唯、自己により発せられる。あらゆる“概念の通説化”を最も良き、合理性に倫理的な有能な優れた知能だと、多くの鎮痛剤に病まされた。

不要な迄にもはや、何も欲しない事でしか愛せない彼等をそそるのである。
385置き手紙と消印と花束の結婚式の招待状。尊くの系譜。:2006/06/15(木) 03:10:24
私は、こう信じよう!! 智を愛するならば、又、智に愛される事も同義!!

私は、この様に説こう!!
『哲学者は何よりも“知る”と言う事と愛し合う。』
人間は皆、平等か?

実に認識の欠落と知性の欠如の芳しい愚劣な意識は、平等を不正に均等に配ろうとは、一切知る事の無い、知識の内実性の内側と外側との誤認を知る事を見る所で、有ろう。

人間は皆、平等か?

ふざけるな!!どんなに事実を螺旋曲げたって、どんなにか、それがこの世界に置ける真実の一切だろうと知る事が出来ようが、その時こそ、より高々と、より鮮明な記憶に刻み付け。

あえて言ってやる

人間は皆、平等などでは“無い”。

今日迄、我々人類が知性を宿した時からの宿命だと、いうならば、もはや、人間は皆平等だと平気で悠々と口に出す奴を見かけると本当に何も理解出来ない人間だと言う事が、およそ直接の会話を必要とせずとも

十二分な答えが的確であり精確な合理的にして、実在性の確立が極めて真実性の内に置かれた事を私に告ぐのだ、このデリカシーの品質と本質を大幅に欠如した、偉大を見上げる愚劣を極めし人間よ!!

我々は決して平等等では無い、まず此処から築き上げずに何を平等に価値を与える?

『不正こそ平等に配って、こそ更正である。』

私が知る限りの一切の中に或る最も“優れた人”とは自らの憂いを支えられる、人が何よりも優れた本能を極め細やかな認識力を同時に備える人だと、私は言わなければ成るまい。
       愛から為されることは、常に善悪の彼岸に起こる。             ニーチェ。

そこに置かれた手紙の消印には日付を示す記号には一切の数字と文字を表す判は押されてはいなかった・・・。
386考える名無しさん:2006/06/17(土) 09:46:17
読むに耐えぬ駄文を書き散らすな・・・!
ば〜か〜。
387一言居士:2006/06/17(土) 10:21:39
いったい長文ばかり書き込む人は、ニーチェの言から引用しているんですかね?
そこんところはっきりしてほしいですね。
388サメの口:2006/06/17(土) 10:30:47
ニーチェは難しいよ
389考える名無しさん:2006/06/17(土) 12:39:00
ニーチェは詩的だけど詩人の天分は無いな
390考える名無しさん:2006/06/17(土) 12:43:44
アドバイス:あえて言ってやる。「無駄な改行」をやめれば一つに収まるゾ!
391考える名無しさん:2006/06/17(土) 13:19:45
>>385
笑わせるな!!どんなに恥文をこねくりまわしたって、どんなに偏執病患者特有の駄文が彼の狭量な真実の一切なのだと分かっていたとしても、
その時こそ、我々はこうはなるまいと、狭い舞台でバタバタプリプリしているのこの畜群大根役者など意に介さず、また同情もせず、
より高所の畜群に汚されていない澄んだ空気を常に切望し、追い求めているのだ。
392 :2006/06/17(土) 18:07:03
ニーチェのメディア論教えて
393考える名無しさん:2006/06/18(日) 15:50:32
>>392 何、それ?
394考える名無しさん:2006/06/18(日) 22:36:21
いい。面白いからもっと書きな。
395考える名無しさん:2006/06/19(月) 01:04:33
ファッション哲学徒たちに崇められてニーチェかわいそす
396考える名無しさん:2006/06/19(月) 12:29:34
>>395
だとしたら、ショーペンハウアーを信奉したいたころのニーチェはまさにそれだといえるな。
397ニヴェラリスト(孤独修正主義者)は書く語れ行き。:2006/06/19(月) 12:41:00
ニヴェラリストはこう言った。
第一舞・ニヴェラリストの序奏―――始まりと終らない歌に送られた前書きの落書き。

《第一幕》――――「喋人」と「終極の人間」達――――。

“天才的賤民性”
    1
誰にでも踊れて、誰にも踊れない譜面に書かれた歌。。

人々の上に、既にあの黄金色の輝きを回す、車輪が十を三つ数え。成熟の雨季の訪れと供に、空転する遥か遠い過去を繋ぎ止め。

存分に悩み、耐え抜き その果ての時を中空と間隔に愛され、大いなる結婚の後に産まれた。

一切の上を逞しく支える程まで苦痛に精通した抜け道に続く、この穴を通り抜けた先の戦いと、その休憩の為に“平和”が或るよう静かに祈り留まる事を今暫し、私に許せ!!。

揺るぎ無い闘争を快くはばたかせ、有意義と思われた失敗をその軽い身から全て従え、自身その身から落ち行き。

悲劇が生んだ英雄と喜劇が産んだ、牧神が自らの苦悩を忘れ去り。淡い暴動の歌を真、柔かなに激しい狂気の内の心にも、響き感性を揺らし動かす、為に、この身を差出し高らかと自らの自由を宣言し!!

制圧に抵抗する唄を歌うんだ――――。

真、動向の面持ちの陰りに、苛立ち。癇癪を雄弁と地面に気紛れを叩き付け。

実に気儘な迄に気楽を手繰り寄せ。自由に気持ち良く生きて行こうではないか!
諸君!!と、確実な幸いを小さな災難にして配り歩く。
夜空に破ぜ銀色に飛び散る水銀の水玉が大気を透き通る程に迄、熱心に白銀の光沢を街頭の灯りに溶かした。
398ニヴェラリスト(孤独修正主義者)は書く語れ行き。:2006/06/19(月) 12:42:56
凍える冷気の熱さに興味を乗せられ。

フリュートの音色と願いに咲く花を。

静かに過ぎ行く静寂な夜の風に投げ出し。その冷たい日射病に、軽い眩暈に選り好みされた。

「嗚呼、皆は人々は均等だと何よりも信じて病まない!・・・・」

耳と心を体に誠実率直な声を傾け。この独りの人の間を担う。意志された男の意志を作用させる。

「どんなにあなた方の耳基へ不快に届こうと、どれだけ非難と批判により嘘突き呼ばわりされようと!!」  
《私はこう言わねば、もはや何が“真理”であろうものか!!》

良く理解しなさい!あなた方、終極の対極の彼岸を 見届けれぬ、あなた方よ、終極の人間達よ!!
だが、憎むべき事では無い否、それよりも軽蔑を分け与えて欲しい、とさえ。

私は知る事を誠実に率直を安直に突き立てた。

   良く聴けゴミ共と 汚物をごちゃ混ぜにした

恥じらいの終着駅の白線に立つあなた方人間達よ!!
―――良く知れ塵共―――――理解の挨拶と供に差し出された。その手に何が握られているか!!

「良く」知るがいい!!

生きる事とは良い事なのか?
だがあなた方は遠い空を 見上げるばかりで雲の速度が理解出来ていない!! 
嗚呼・・我が友よ、私の動物達が大地と海を渡り。 あの空が水平に落ちる所で三度又ここで引き合う事となる!!
399ニヴェラリスト(孤独修正主義者)は書く語れ行き。:2006/06/19(月) 12:44:53
     2
「又、孤独の内にも一切の理性が或り、その一切の理性の内に混沌が或る。」

「反芻する狂気を伴い。自己を満たした者は狂乱と錯乱と伴に、その魂は朽ち果てる!!。」

「彼らは孤独に見捨てられたのだ。もはや、・・・・肉体よりも早く魂が、終わりを意志し飛び行く!!。」
「時に人は孤独の後に死が、付け回すと言うが!!」どうだろう?もはや、孤独の最も暗い深渕の底にさえ。
“死の説教者”は言葉を持たない、それどころか、その言葉の精神を自己を覆う。闇の中へ幾つか、解き放つと何とよもや!!

きょう日、孤独と死は別れの決意に漲る、淋しさを噛み殺し。再開の別れと再び巡り合う為に、双方は別々の道に真っすぐ進んだ。

嗚呼!!我が友よ!!嗚呼!!我が兄弟よ!!

災いなるかな、孤独が死を道連れに出来ぬ。
400ニヴェラリスト(孤独修正主義者)は書く語れ行き。:2006/06/19(月) 12:47:54
過酷な没落を欲する程までに身に付け過ぎ、この身に多く実った。

芳醇な匂いを充満し必死に立ち上らせ。もはや、自分自身にとって、は不必要なものと化した。

この知恵を私の徳により贈り与える事として奪い去られたい!!、

だが、どうしてあなた方が奪えると言うのだろう? 
ますます、略奪され貧しく生きる他、彼らが平等の意志を実現させえる残された可能性の確立だとは。  
すでにこの平等を説く者は一切の力が何を動かす事も出来ない事を知る過ぎる位におよそ。
その要因の一切に素晴らしい程“無関心”な程しか興味を示せない。。

この人物は、きっとこう言うであろう事か!!   
『嗚呼、なんて愚かで、罪深き人間であろう・・・。平等の古い石の板は今まさに彼により粉々に又、破壊された!!』

『だが、それが一体どう言った事であろうと。もはや我々は幸福の真理の柔和な輝きを知る事が出来るではなかろうか?!』

《人間は皆、平等である》
『おお!!是こそ我々、人類に相応しい真理だ!! この言葉の前ではおよそ、全ての不平は平等差の権利を主張できる!!』   
打ち砕き破壊しなさい、我が友よ!!

およそ、その言葉が何より誠実にして率直に世界を、覗いた時に間違いだった事を悔やみ悲しみに打ち果てる事に比べたら・・・・。
叩き壊し踏み付けなさい!!新しい板をあなた方の上を静かに通り過ぎ没落する太陽が再び昇る真昼の頂点に三度、光を見いだしたなら。
掲げなさい、あなた自身の手で
まず何よりも、古い石の板を打ち砕き破壊して、その後にも、まだ憧れが燃える姿が見えると言うならば、
三度こう叫びなさい。。 
「これが生きると言う事であったか!!宜しい、もはやこの板はこの角度によって自らに照らされる!!」
ニヴェラリストはこう言った。
401考える名無しさん:2006/06/19(月) 13:57:25
たのむ。何が言いたいのかはっきりしてくれ。
まず日本語の文法。
それから、主語と述語。(なくても推測できるものはよい)
それからニーチェをちゃんと読むこと。
最後に、何が言いたいのかがまったく判らないのではっきりさせてほしい。
「独り言」なら一人でやれ。
対話しろ。
402考える名無しさん:2006/06/19(月) 14:41:11
思考(車輪)が空回りしているんだね...
>「どんなにあなた方の耳基へ不快に届こうと、どれだけ非難と批判により嘘突き呼ばわりされようと!!」  

非難を酷く恐れ、反論する力強さもない。・・・畜群
そんなもんだから「ゴミども」「塵ども」などの低俗な悪態仄めかす程度にしかつけない。
孤独に耐えられず、馬鹿だから言葉にできない言葉でそれをここにぶつけてみるのかな?

頭の良い人間なんて五万といる。ちっぽけな貴様の徳や知識なるものを誇大賛美し、
自己陶酔することを止めよ。
古い石の板(十戒)?確かにニーチェにはしばしば表れるが、誤認しないで欲しい。

それから、ニヴェラリストってなんだ?アホかほんま。


403ニヴェラリストはこう言った。ローマ対ユダヤ、ユダヤ対ローマ。:2006/06/20(火) 01:03:29
ニヴェラリストはこう言った。          
ふむ・・>>401>>402まぁあなた方を予見する限り。
少しはマシな人間が
居たものだと多少は安堵感を広げても、良いものとみなすとして認識しよう。
では、まず、あなた>>401の中に或る私へと、この祈願の向こう岸に今、私があなたに与え渡した贈り与える勇気を、そっと静かに送り帰そうとしようか?

401:考える名無しさん :2006/06/19(月) 13:57:25
たのむ。何が言いたいのかはっきりしてくれ。
まず日本語の文法。
それから、主語と述語。(なくても推測できるものはよい)

それからニーチェをちゃんと読むこと。
最後に、何が言いたいのかがまったく判らないのではっきりさせてほしい。
「独り言」なら一人でやれ。
対話しろ。 まず此処へおよそ観点と論点の座標の統一を計る事とし下る事を暫し許せ!!と言ってみる。

『たのむ。何が言いたいのかはっきりしてくれ。』
よかろう!!

それでは、頼まれた事とは関係は余り良い付き合いをしていい事かどうかは些か疑問だが、

この際!否!ぶっちゃけ!はっきりとさせようとし又いよいよを持ってして

“あの”大いなる証拠を告げる為にかなり前振りが長引き説明の足跡を追い越してしまったが、まぁ悪気は多少或るが好きに為すが宜しい。
404ニヴェラリストはこう言った。ローマ対ユダヤ、ユダヤ対ローマ。:2006/06/20(火) 01:08:31
『Q.何を伝えたいか?』

「A.それは私自身であり又私の知る所である」と言う
所だが言葉は伝同率の功利性が結構、貧弱だ――――――
まぁしゃあない、だが、私はこう言おう!!

良かったな私が超能力者では無くて、恐らく電波受信しまくりの放出しまくり、それこそ正しく、素晴らしい程のご迷惑により発射しまくり。

やがて、あの最も優れた暗殺者で或る、彼を呼び止めこう言わなくては成らない。
無恥過ぎる余り、言い切る勇気にまさる。迷惑の深みの底奥にまでに失礼極まり無い殺し屋は、余り居ない
進んだかどうだかも解らず侵略へ攻め込み自らを責める勇気、それは、死んでも殺されたりはしない。

なぜなら、言い切る勇気はこういうからだ。

「これが言い切ると言う事であったか!!よし!!
ならば、もう一度!!ゴメンナサイ!!」
405ニヴェラリストはこう言った。ローマ対ユダヤ、ユダヤ対ローマ。:2006/06/20(火) 01:10:48
まぁ、理解出来た所で何か一つの意識が移り行く事だと、私は何よりも俎板を研きながら学んだ、と言うか。
まぁなんだ、軽いアイロニーを偶然で踊る姿をたまには皆に見て感じて欲しくてね・・・・・つまりは、おちょくられてるのって実は俺?!

では、次の論点に焦点を意識する程の意味が、或るとはもう既にどうでも良いがまぁ聞いて置こう。

1『まず日本語の文法。 』
2『 それから、主語と述語。』

3『(なくても推測できるものはよい)』

4『 それからニーチェをちゃんと読むこと。 』
まぁペースが意気なりに呼吸を乱してしまいそうだが勘弁して貰いたい!!

少しばかり救済を待つ心持ちと略、等しく又、先へ進む事が何より、失礼するが
もう、結構前から面倒臭い
壱に書かれた表象を捲り上げるのは、否、今はよそうまぁ文体に関して言わせて貰うといたしましょう・・
私の手――それは落書きをしたがる阿呆の手だ。全ての机や壁は、わざわいだ!
阿呆のぬたくり装飾が、まだ利く、よちのある所は、わざわいだ!

私の頭――――それは、永遠の胡桃割り人形になぞられた――永遠の子供を、―――自らの中に育て上げなければ、頭は軽くは決して成らない。

2『 それから、主語と述語。』

弍への返答。

「なら、おめぇ教えれ。」
406ニヴェラリストはこう言った。ローマ対ユダヤ、ユダヤ対ローマ。:2006/06/20(火) 01:12:51
3『(なくても推測できるものはよい)』

参への返答。

「在るのに推測来ない物はの更に質が悪い。解ったらほら、はよ、寝ろ!!」 
4『 それからニーチェをちゃんと読むこと。 』
四への返答。

是に関して思考を働かせ、能動性に息を吹き掛けるかの如く『最も静かな時』に語り掛ける様に話を言葉迄続く。

移り行きの中へ、同省もなく没落をともにしたい。 
あなたは“彼”ニーチェをちゃんと読みなさいと命打つが果たして。

それが“善くて善しい”読み方一つの価値をあなたがきちんとた評価が出来てからだとは

他の何よりも“彼を読む”と言う事を擬いなりにも、自己観点により認識の表象にその効能性を示す。  
《ダートとシュレヒト》に私の創作価値基準を支配させ自らの意志により。  
書き綴る事で私が“彼”には決してばれないようにして贈った。

私に限り理解する唯一の、評価を私は何よりも自らへと贈り与えたい、ものだと
願わずには、もはや“生み”続くか?

それとも“産み”続く事でしか我々が存在すると言う
この“瞬間”には“有無”に置ける。

あの一切の虚しさが程良く全てに摂って意志する。 
生物が永遠を求める虚脱感を運んで来る。

それが“正しい”事だったり。それとも、間違いだったのかも!!知れないとした所で“彼”を読む事により、私にはおよそ“彼”への理解を別な尺度に与え、手に入れた。
407ニヴェラリストはこう言った。ローマ対ユダヤ、ユダヤ対ローマ。:2006/06/20(火) 01:15:11
理解の仮面は容易くも、身に付ける事も時には、皆と伴に人間として生きる限りは、不可欠であろう。

この文面の長引いた事に軽く、詫びて、又直ぐにでも書き続けよう、と言う事を何よりも“試み”て
又、素晴らしく楽しみたい。。
それからニーチェをちゃんと読む事を書くと言う事により、何よりも伝え   
その魂の内に響かせたかった事で在ろう

言葉は『勇気』を持つのでも無く『勇気』を与える事ですら無く。      
恐らく恐ろしく危険の内に或る『勇気』を示す事。 
だと、私は何よりも自身の解釈の真理性を信ずる。 
では、私から一つ理解の結び目を解く糸を提示しよう。
ゾロアスターとヨーロッバ更に解釈を掘り下げると、奴隷と高貴、支配と命令。
ローマ対ユダヤ・ユダヤ対ローマとの戦いで勝利を納めた彼らのその勢いは止まずに貴族対賤民・権力者対大衆とまでに飛び火した・・・。

まぁ後は自分で読み集めなさい偶然が踊る足の上で。
彼の著書の中でも一際、記憶が“よい”と“わるい”の功利性をその意識に刻み込んだ記述が在った。
408ニヴェラリストはこう言った。ローマ対ユダヤ、ユダヤ対ローマ。:2006/06/20(火) 01:17:44
うろ覚えだが『善悪の彼岸』に納められて居た言と記憶が思い出した――――

思うに知恵やら知識など、結局の所、こずるい言い訳に手を延ばす事と同じだと思われる。

何よりも勇気、人間的な勇気を知恵と呼び、最高に価値の或るものとしたい。

然るに我々、哲学者は、あらゆる敵と成りうる者を見付け出し。

戦わねば成るまい。そして危険に自らの価値を掛けて進む。

そのような勇気をこれからの哲学者は示して行く事に成るであろう。

最も分が悪い賭けに自ら挑みその価値を賭けた事を試みる。

女である知恵が愛するのはただ戦士の勇気のみで在る。。

まぁ然るに“彼”の没落する最後の姿は、自殺への意志では無く。

自らの価値を賭け、証明しようとしたのでは?っと!
これは、やや去き過ぎた、永遠回帰の道筋を引き返す最短距離の近道だったのかも?

だって、最も分が悪い事に自らを賭けようと試みちゃう人だから・・・・・。

あっ!悪い>>402君がにもキチンと返答を与えたかったのだが。

それでも、私に対して与えられた。どんなに善い事でも悪い事でも

私はキチンと復讐する事だけは約束しよう。
409考える名無しさん:2006/06/20(火) 01:33:24
>>403-408
3行にまとまるようなことを何故に回りくどく
訳のわからん、支離滅裂で稚拙な文章でたらたら書き連ねるかなぁ?

あと、「ニヴェラリスト」ってなんだ?「にら炒め」の仲間?
410私は見た君は恐らく本物か?:2006/06/20(火) 02:37:29
>>409君!君!?ちょっといいかい?えっ?何?何?はぁ?

ばぁ・か・か・ね?君は!心底そこそこのほら!

あそこよ!あれ?あ・あれは!い・い・泉!!ピンコ!!

踊ろうよフラメンコ、散り行く魚達よ!
おおーそれゃぁ縮緬雑魚!!幹事、可笑しくねぇ?
別に歯ブラシどうにでも、雨降らしには関係泣くねぇ・・。

でも本音を打ち撒けてやると。
私は本当ーに!!どうでも良いのよ。 ゴホン・・・私は一目見て理解した、君こそ類い稀なる。
極めて見る事を試みる最もな価値の或り。 

又、その才能を最大限にまでその価値と可能性を広げる事が、君なら直ぐに出来るさ・・ 君は馬鹿の中の驢馬に成れる。
信じるが良い!!それは、それは、実に素晴らしい屈辱だ。 409:考える名無しさん :2006/06/20(火) 01:33:24
>>403-408
『3行にまとまるようなことを何故に回りくどく
訳のわからん、支離滅裂で稚拙な文章でたらたら書き連ねるかなぁ? 』

あと、「ニヴェラリスト」ってなんだ?「にら炒め」の仲間?
さぁ、君達、どうか『』の中を覗いて貰いたい。

何故、彼にはその単純にして明確にして純粋な理論が
何故?
浮かび上がらぬものなか?
411私は見た君は恐らく本物か?:2006/06/20(火) 02:38:59
およそ、大体の賢きを知る知性は既に疑い始めて居るではないか!!

『Q.3行にまとまるようなことを何故に回りくどく 訳のわからん、支離滅裂で稚拙な文章でたらたら書き連ねるかなぁ? 』

私が私により適切にしてより的確な真理を導き出し、鮮明な浮き彫りにするとしよう!!

『A.暇なんだよ!なんか、悪いのか?』

真、この言葉こそ何よりもの真理を告げている事にはもはや、何も言うまい。

Q.2.あと、「ニヴェラリスト」ってなんだ?「にら炒め」の仲間?
素晴らしく、惜しい!!

正解はニヴェア・クリームを買い漁り。

業界にニヴェア・カタストロフィを引き起こし、化粧品売場を麻痺させ。

世の化粧品を変えて見ても中身が変わらない事には基本は常に友達だと言う為だけに。

化粧品界のあらゆる価値の転覆を試みる事を夢みる。
ニラ・レヴァ炒めを愛する為だけに世界各地から

あらゆる人を集結させた、大いなる暇人の塊の事なのだ!!

こんな事。今更聞くなよ、馬鹿!!

412考える名無しさん:2006/06/20(火) 02:54:15
>>411
おいらが小さなガキのころ、
ヘイホー、風と雨、
ばかをやっても大目に見られた、
雨は毎日降るものだ。

おいらが大人になったらば、
ヘイホー、風と雨、
わるいことすれば追い立てられた、
雨は毎日降るものだ。

おいらが、やれやれ、女房もらったら、
ヘイホー、風と雨、
大口たたいてもだめだった、
雨は毎日降るものだ。

おいらが終わりに近づいても、
ヘイホー、風と雨、
仲間と同様、いつもへべれけ、
雨は毎日降るものだ。

世界のはじまりは大むかし、
ヘイホー、風と雨、
でもかまやしない、芝居は終わった、
ぼくたち、毎日、みなさんのご機嫌伺いいたします。
413小さなヨハネ:2006/06/20(火) 03:20:39
ここは、馬鹿と吉外と豚の大合唱場ですか・・・?
嗚呼、魂をサタンに奪われた、哀れなる愚者たちよ・・・?
主よ、この者たちをあわれみたまえ・・・。
414考える名無しさん:2006/06/20(火) 03:22:31
>>413
シェークスピアをしらんのか、卑小なヨハネさんは。
415考える名無しさん:2006/06/20(火) 04:13:22
>>411
ヒマだからだと?
ここはテメエだけのスレじゃねえんだよボケが。
暇潰しならテメエのブログでやれって何度も言われてんだろうが。

勝手にスレを私物化しやがて、
100回氏んでこい、この腐れ穀潰しが!!!
416考える名無しさん:2006/06/21(水) 02:21:40
そんなことより、Amazonで調べた岩波文庫のツァラトゥストア(上)が定価が600ナンボになってた! うちにあるのは360エロなんだが…

改訳でもしたんだろか?

417考える名無しさん:2006/06/21(水) 20:02:54
哲学板、っていうかさ
長文より短い分の方が中身が詰まってる場合多いよね。
418考える名無しさん:2006/06/22(木) 13:30:31
>>411
荒らすなよ低脳
419考える名無しさん:2006/06/22(木) 13:32:21
ニーチェって何通りの文体で書けるの?
420考える名無しさん:2006/06/22(木) 14:01:10
すみません
「わたしはカモメ」はニーチェですか?
421考える名無しさん:2006/06/22(木) 19:32:43
久しぶりに来てみたら、わけわからんスレになってんだな
422考える名無しさん:2006/06/22(木) 23:07:17
>>420
それはトルストイです
423考える名無しさん:2006/06/23(金) 02:43:36
>>422
ありがとうございます☆
424考える名無しさん:2006/06/24(土) 11:40:28
>>419
三通り。
ニーチェらしい文体、ニーチェらしくない文体、エリーザベトっぽい文体。
425考える名無しさん:2006/06/24(土) 19:34:59
韻文と散文どっちも書けるっぽいけど、ドイツ語がわからない俺には判断のしようがない。
そしてドイツ語がわからない俺には散文ニーチェの方が圧倒的に評価が高くなる、と。
426考える名無しさん:2006/06/25(日) 20:34:10
>>424
ニーチェらしくない文体って書簡とか手紙のやつ?
エリーザベトっぽい文体って書き換えられたやつ?
427睡蓮の花言葉、mental.sketch.modiried.:2006/06/29(木) 23:30:25
mental.sketch.modiried.
狂喜に舞い桜の紅色は、土に振る雪の泪に染まりつくした・・・・・・。
嗚呼、群青に立ち尽くす。この紅を憂う、その時、私は一人の修羅だった。。

ZYPRESSEN.移り往くもの・・・世界に対し拳を垂直に突き付ける。

序奏・ZYPRESSEN.それは我と汝を突き抜け、より硬く

心象と現象が細切れにちぎられて、細々とこの世界に流され往く・・。

    弌

私と言うべき、この手垢に塗れ、皐月の朝を支配せんと、紅い水流の懐で愛子ながら。あの暁の月に見立てられ、紅の悲劇は英雄達を墓場に仕舞込むように

芳醇な眼差しを軽く、意識の表層に滑り込むように、鋭利な空切に見惚れながら。
悲しみの蓮華には、もはや蓮の葉は潤いを求めない。
痛みを隠した事に、敏感に反応し、滑らかに・・しっとりと、ゆるり一つ二つを数え、そうっと、数を積み重ね。いたぶる様な素振りで、ひとしきり撫でた・・。
(あの日陰の野原に咲く、睡蓮の花に雨を宿せば。)
もし、あの木が育った直ぐ近くと、そのほんの微かな微睡みの底網をしかりと握り締め引き寄せた。
428睡蓮の花言葉、mental.sketch.modiried.:2006/06/29(木) 23:33:49
     弍

意識の合間に、もし誰かが、泉を見付け石を硬く握り締め、その水面に力いっぱい、極力すべてに分け与えるように、・・・その手に硬く、握られた。    
たった一つの数に認められた、その石を、何事にも恐れを近付けずに・・真、粒さな音を残した儘、その水面を意識して、梳かさずに放り込み・・。

もし、それでも・・何か浮かび上がり

忽ちの合図を受け取り・・不覚と深くの真、深渕の奈落が供に同情を捧げ。  
その反証までに用意された憎しみは、もはや気薄な、
迄に嘘を見透かされた事へは、もはや何の恥じらいすらも、しかと好め過しく、万象に寄せる好意の中に飲み込まれて・・・。   
やがて、その一遍の決意にすら、幼子を包むかの如く抱き抱えては・・・   
沈み行く姿の容姿と表情が・・・・もし、仮に神と呼ばれる神羅達の言葉を真旨く
愛される事に教えを頂いていたならば・・・否、私にそれが許され認められた事により、
その一切の影に見事に連なり行く、既に為された事であった出来事を!!   
ただ一つ自身が欲し   何よりもその欲情が自らにより、

私が欲した出来事で逢ったと言う事だと造り変える無様な、芸術の粋にも、見つからずに・・・

それでも尚、この偽りの中にでも造り代える事が、もし・!!

出来る事がおよそ実現の 幻想にも記される事すら不可能な事だと、そしてその後には我を許し、    それでも幸福は、やがては永遠を伴に誓うなどと  
尚、私にあなたを信じろ等と、・・・・まだ生きろと命令するならば。    
私はこの木と此処に広がる泉に流れ着いた一切の魂を待ち侘び許しをくれてやろう、又、その後に砕こう!今はまだ彼の刻などでは、決してやっては来ないのだから!!
429睡蓮の花言葉、mental.sketch.modiried.:2006/06/29(木) 23:39:20
     惨

その時までに      この自らの意志を何より。            ZYPRESSEN.この木の曲線なる垂直に微笑ましくも無情に突き刺さる。          
あの意志とこの糸が互い違いに見つかった。    
遥か地平の何よりも近い、この場所に見初められた、稀に埋もれた。     
あの認識の木と泉の畔だと。
何よりか幾度に洗練された。俄か仕込みの真昼だと、信じようと胸を撫で下ろし。           たとえば、虚無だと言ってしまえるほど、微かに眺め観る事の出来る蜃気楼だとしても、否定の余地が辿り着ける程の足跡を消し去り。
新たな地平を見据える、私を幾千もの“孤独”がもはや忘れ去る時にさえ、頑なに拒み続けるよう耐えず歩かせよう!!      
私を欺いた事にさえ、およそ信じる事が、もはや確信を抱けぬ事が何よりも寧ろ私の心を、突き動かすのだ!!
            嗚呼、認識の木が聳える泉の近くには又、小さな楽園が或る。と言う事も・・・。
『神は今此処で三度、為された』         
『神は没落を共にした・・人間の持つ低劣ぶりを無様な迄の愚かさに憧れて』 
※まことのことばはここになく修羅のなみだはつちにふる。

※※みんな昔からの兄弟なのだから・・・・・・・・・・。  
決して一人を祈ってはいけない・・・・・・・・・・。    
嗚呼わたくしは、決して独りを祈ったりはしていませんでした・・・・・・・・・・。  
相対性の鏡に映り、又絶対的な青い蛍光灯に映り行く
全ての孤独は皆、決して独りを祈ってはいけない・・・・・・・・・・。          
嗚呼、何故に修羅の聲は土に降り積もる・・・・・・・・・・。
※宮沢憲治・春と修羅より一部転載。

※※同じく宮沢憲治・銀河鉄道の夜より一部転載。 
そしてどうか全ての勇気或る知性達よ、今一度問う事を祈る。          
『修羅の真の言葉は何処に降るかを・・・・・・・・・・。』             この暗喩の内に願いを響かせて・・・・・・・・・・。    
その悲劇がいづくき没落する地の果てより、今此処から祈りを願いに響かせて・・・・・・・・・・。

悪意を愛情で見守る為に 
“超えた円形の庭場に記す生母”より。
430考える名無しさん:2006/06/29(木) 23:54:38
http://music5.2ch.net/test/read.cgi/musicj/1141795641/l50

哲学板のやつらこいつをぼこってくださいお願いします。
431ここ自分の名前書かないものなんですか?:2006/06/30(金) 02:02:56
あんまり2ちゃんねる見ないんで余り流儀がわかりませんが、
ニーチェは随分前から好きです。とてもおそれ多くて
「わかった」なんて言えないけど。

あんまり詳しくは無いんですが、岡本太郎さんは、
非常にニーチェ的に人生を全うした人という印象があります。
瀬戸内寂朝の「かのこ遼爛」の中に引用された、太郎から
かのこに宛てられた手紙の文体が、あまりにもニーチェなのです。

ところで、最近はゆるゆるとプラトンの著作を読んでいるのですが
「ゴルギアス」の中でソクラテスと張り合う論敵の「カリクレス」の
内容が、ニーチェの奴隷道徳と貴族道徳の発想のもととなった、と
藤沢令夫の本で知りました。

実際、プラトンの本を読んでいるとソクラテスには
本当にじれったくなってしまいます。
でもやっぱり、「お前に言ってることが、正しいのかも」
と思えるときもあります。

ニーチェはもともとギリシャ時代の文献学者だったわけで、
ギリシャがらみで、何かニーチェに関する面白い情報
知っている人いませんか?
432考える名無しさん:2006/06/30(金) 02:33:20
>>431
岡本太郎はバタイユスレの専売特許だとばかり思っていたが、
変わったところで目にするものだなぁ(しみじみ
433考える名無しさん:2006/06/30(金) 05:00:20
434考える名無しさん:2006/06/30(金) 14:30:21
「永劫回帰」「永遠回帰」について、私の考えを書いてみたいと思います。
あらゆることが、寸分違わず永久回数繰り返されるのですから、善悪など
すべての価値は同価値となります。何故なら、どうしようと悪行、善行と
されるものなど、すべて繰り返されざるを得ないからです。
この先は少し恐ろしくて文章化できません。(例えば、毎日ほんとうに色
々なニュースがありますよね。そのニュースが毎日事実として、まったく
同じ内容が放送されると考えて下さい)
これはあくまで例えですから「永劫回帰」そのものではありません。
さて、以前に「二ーチェ」に関して、このスレッドに少々投稿したことが
ありましたが、『「ニーチェ」の著作を全部読んでから、ものを言え!」
などと、かなり罵倒されました。腹も立ちましたが、実際、原書を含め全
部読んでいないのは事実ですから「受け入れよう」と思いました。
但し、一応私も哲学科出身の50代なので、古本屋で手に入れた2社の全
集、数年前に手に入れた、全集ものの文庫版は、一応眼を通しました。
しかし、全部通読したかというと、そうではありません。
なお、30年以上前は、色々な文庫が「二ーチェ」を出していました。
それも持っていますが、今はほとんど絶版になっています。
最後に好みを言えば、はっきり言って、私は「ニーチェ」は嫌いです。
「ヒルティ」の方が好きです。
435考える名無しさん:2006/06/30(金) 14:42:42
ニーチェは永劫回帰を本気にしちゃいないがな
436考える名無しさん:2006/06/30(金) 14:54:56
同じものだと分かってしまったら、それは同じものではない

だから、「すべてが帰ってくる」という仮定は
起こった事象が帰ってきたものかどうかさえ分からない
という形でしか帰ってこない
437考える名無しさん:2006/06/30(金) 14:57:40
永劫回帰ってこういうことじゃないの
まず仏教的な輪廻とは違うと思う
1回的なものの繰り返し、と言ったらいいのかな。
私たちの生は不条理に満ちていて、この生は1回限りのものだけど
この不条理な生を全く同じように「もう1度生きよ」ということに
対して「大いなる肯定(ja)」で答えるというもの。
1回性の反復というかな。あと回帰というから円環的な時間性を
イメージしがちだけど、そうした円環性を断ち切って、1回限りの
生、線的に流れる時間が、その1瞬1瞬においては無限の可能性を
はらんでいるというイメージ。
永劫回帰というのは、大いなる肯定、力への意志、運命愛という
ニーチェの隠喩群と関連づけてとらえるべきだと思う。
438PK:2006/06/30(金) 15:20:31
たとえばボクたちが動物の世界を想像するときに、同じ事が繰り返し繰り返し行われているように感じます。
ライオンは生まれては死に生まれ、シマウマは生まれて襲われて死に生まれる。
しかし人間の世界も同じでしょうか。同じですが違います。なにが違うかというと人間の世界には「私」がいます。
「私」は生まれ、一度死ぬと、二度と生まれません。
「私」は反復されない。たった一度であるから、人間の命は大切であり、尊厳、倫理、善悪が生まれます。
これはハイデガーの現存在につながります。

永劫回帰とは、「私」という1回性の幻想が解体され、人間の世界が動物の世界になることです。
「私」はただの無数の人間の一人なのです。空気中に漂い一瞬で生まれ死ぬ無数のバクテリアの
1匹となるのです。

その強度に耐えられるか。そこで残るのはただ生命としての生きる力のみです。
バクテリアは「私はだれ」などと考えませんし、ただ生き死にますが、生きる力がみなぎっています。


439考える名無しさん:2006/06/30(金) 15:21:35
>>437 の方がたなど
皆さん方は、非常に良く読み込んでおられ、私以上の見識と存じます。
ただ、私は一宗教者でもありますので、実存主義(幅が広すぎますが)
に対しても言いたいことがあります。構造主義(広意味)に対しても。
私は、人生において、価値判断をして生きて行きたいと思っているか
らです。
440考える名無しさん:2006/06/30(金) 15:28:44
>>438
>「私」という1回性の幻想が解体され
ここが違うと思う。むしろ1回性が回帰されるんだと思う。
ニーチェ晩年の手紙には、自分はかつてキリストであり、ワーグナーで
あった…といった固有名が回帰してる記述がある。つまり固有名は
1回性に関わるわけで、やはり永劫回帰は1回性に固執してる思想
だと思う。

>「私」はただの無数の人間の一人なのです
これは正しいと思う。ただし「無数の人間」はやはりそれぞれ1回性
としての生、としてあるわけです。
441考える名無しさん:2006/06/30(金) 16:58:38
ドゥルーズの永遠回帰解釈をどなたか解説して下さいませんか?
442PK:2006/06/30(金) 17:14:41
>>440
>ニーチェ晩年の手紙には、自分はかつてキリストであり、ワーグナーで
>あった…といった固有名が回帰してる記述がある。

1回性とは固有名です。
「固有名が回帰している」の文脈はわかりませんが、
仮に固有名(1回性)が反復するとすると、1回性さえ反復する世界、
それはもはや1回性ではない、ということでは良いのではないでしょうか。
当たり前ですが、1回性は1回だけです。
t回数によってしか持ち得ない「私」という力でなく、
回数の次元を超越した生命の力が試されるのが、永遠回帰という
状況ということではないでしょうか。
443440:2006/06/30(金) 20:06:44
>>442
>「固有名が回帰している」の文脈はわかりませんが
つまり、それぞれの固有名は1回性なわけです。このことは、他の
1回性(固有名)と他の1回性(固有名)とは異なっている、という
ことです。キリストが生きた1回性とワーグナーが生きた1回性は、
異なっているわけです。そうした異なった1回性が回帰している、
様々な、複数の、それぞれに単独的な、1回性が回帰されるイメージ。その

>回数の次元を超越した
「1回性」というのは、まさに「1回」きりであるがゆえに、「回数」
という次元を超えているのだと思います。回数ということがあり得ない。
それが「回帰」している、とはどういうことか?1回性を生きる、という
状況は、まさに1回きりを生きるわけです。それが反復しているとは
「その都度」その1回性を生きる、ということだと思います。反復された
ものとしても、1回きりの生なわけです。
うまく説明できませんね。すみません。ところで「生命の力」という
ことを強調すると、「生の哲学」みたいなものに回収される危険性が
ありませんか。ちょっとそれを危惧します。
444PK:2006/06/30(金) 20:16:14
>>443
<「その都度」その1回性を生きる、ということだと思います。反復された
>ものとしても、1回きりの生なわけです。

では永久回帰の苦はどこにあるのでしょうか。


>ところで「生命の力」という
>ことを強調すると、「生の哲学」みたいなものに回収される危険性が
>ありませんか。ちょっとそれを危惧します。

初期の「悲劇の誕生」のディオニソス的/アポロン的ではその融合が
思考されていますが、その後の力への意志、超人思想へと、ニーチェは
危険な「生の哲学」に回収されていったのではないでしょうか。

445440:2006/06/30(金) 20:21:20
>>441
ドゥルーズはそんなに正確に読んでないので誤ってたら誰か指摘して
下さい。中世の哲学論争で、実体が先か、概念が先か、という論争が
あった。例えばこの犬、あの犬、という実体としての犬を見てから
「犬」という概念が創造されるのか、それとも「犬」という概念が
先にあって、そこからこの犬、あの犬を見ているのか。この論争に
対して、ドゥンス・スコトゥスという人が、「このもの性」という
ことを言い出した。眼前の犬は、まさに世界でたった1匹の、単独的
な犬である。他の犬とは取替えがきかない。そういう1つきりの
「このもの性」を言うことで、実体−概念という二項対立の枠組みを
はみ出したわけです。次いでスピノザが現われて、神即自然、という
考えで、世界を「このもの性」から成り立ったものとする世界観を
提示した。ニーチェはその次に現れて、永劫回帰を言うことによって
この世界観を動態化した、という解釈だったように思います。
446440:2006/06/30(金) 20:32:46
>>444
>では永久回帰の苦はどこにあるのでしょうか
人間の生は、偶然にさらされ、不条理なものである。そこから彼岸に
おける救済を求めて神にすがるキリスト教をニーチェは弱者の思想と
して批判しますね。彼の言う強者の立場とは、不条理な生をそのまま
肯定すること、積極的に自らが選んだ生として肯定することだと思い
ます。だから永劫回帰という思想は、積極的な肯定の思想で、苦と
いうものは無いのだと思います。私の読みが浅いのかもしれませんが。

>その後の力への意志、超人思想へと、ニーチェは 危険な「生の哲学」
に回収されていったのではないでしょうか
そうですね、そのように読めてしまうことには同感します。ただいわゆる
生の哲学、例えばベルグソンのようなものとは全然違うものだとは思います。
生の哲学と言ってしまうと、ナチズムのように都合よく解釈されてしまう
危険があるわけですね。でもニーチェの強者とは、本当にそのように
生きたとしたら、社会的にはむしろ弱者ですね。
447PK:2006/06/30(金) 20:58:22
>>446
永久回帰は、生を肯定する強者しか耐えられない苦である、ということですね。
ただ様々な固有名を生きるのはそれほど苦かなと、
固有名に意味がないことの方が苦かなと、思ったということです。

ボクは、それは都合欲でなく、ニーチェに内在する危険性だと思います。
ルサンチマンは良かったが、それに対比して、生の力を肯定しすぎた。
ニーチェの時代は、ダーウィンの時代ですが、
ニーチェは進化論を誤読した(時代に感染した?)のだろうと、
ボクは思っています。
448PK:2006/06/30(金) 21:02:59
進化論とは強者の思想ではなく、適応の思想ですね。
449440:2006/06/30(金) 21:11:07
>>447
そうですね。確かにニーチェに内在する危険性はあると私も思います。
彼独特のきわどい隠喩や散文スタイルは多様な解釈を許してしまいます
から、余計に厄介ですね。
ニーチェがダーウィン思想にどの程度関わったか、私は知らないのですが
ナチスはダーウィンの進化論を社会一般に適用して社会的ダーウィニズム
という優生学的な風潮を作り出し、ニーチェの生の肯定の哲学もその線で
読まれたのかもしれませんね。
450考える名無しさん:2006/06/30(金) 21:15:41
弱いくせに強がっちゃって。オトコって見栄っ張りで可愛いわ。
451PK:2006/06/30(金) 21:24:40
ダーウィンの進化論が発表される前から、ニーチェは生の思想を
展開していたようです。そのような時代だったのだと思います。

進化論はダーウィンの思いと違い、一つの思想として受け入れられました。
聖書と対立する進化論自体が大論争の時代ですから、
進化論を受け入れて人も、せめて?人間が進化の頂点であると
考えたわけですね。
だから人間の中でも進化が遅れたもの、進んだものがいるという
優生学に繋がります。

本来の進化論とは強者の思想ではなく、適応の思想です。
だから人間が頂点でなはないし、強者が適応するとは限らないのです。
ニーチェの生の肯定(強者の思想)は、進化論の誤読、
その時代の感染したものではないかと、ボクは考えています。
進化論の誤読は、ナチスに利用されましたし、人間は進化の頂点であるは、
いまだに誤読されていますね。
452PK:2006/06/30(金) 21:27:46
この当たりはあくまでボクの感想ですが・・・
453441:2006/06/30(金) 22:34:17
>>445
なるほど、ありがとうございます。
454考える名無しさん:2006/07/01(土) 06:37:27
ニーチェって現代じゃ評価低いみたいだな
455考える名無しさん:2006/07/01(土) 19:52:28
>>454
いや、むしろ現代でこそ評価上がってるだろ。
「ニーチェ=超人は人殺しでも何でもしていいとか言ってる危ないヤツ」みたいな誤解もなくなってきてるし(たぶん)。
456考える名無しさん:2006/07/02(日) 00:33:23
未だに、罪と罰引用してる奴いるのが、お笑いだな。

ニーチェも同じだろう。
457考える名無しさん:2006/07/02(日) 13:32:30
>>455
ほとんどシカトされてるんじゃないの
458考える名無しさん:2006/07/02(日) 16:14:25
ニーチェ解説書で良い本って、どんなのがありますかね?

このスレをぜんぶ読みましたが、三島憲一先生の『ニーチェ』(岩波新書)とかですか?
459考える名無しさん:2006/07/02(日) 17:07:44
ニーチェの何を知りたいかによる。
ニーチェ論は甲から乙までかなりの数があって、
徒に読むと理解が深まるどころか混乱する。

三島先生は訳行は尊敬できるけどニーチェをモダニズムに繋げようとしてらっしゃるのは
袋小路だとしか感じられない。最近の仕事はどうか解らないが。

ニーチェのどの著作に印象を受けて、
どんな事を知りたいの?
460考える名無しさん:2006/07/02(日) 17:47:22
>>459
どうもありがとうございます。

私の場合、まず、バタイユを読んでいるということがあって、ニーチェにも関心を
もちました。

で、ニーチェは現代フランス思想にも影響を与えているわけですが、私は、現代
フランス思想については、違和感を感じるんですよね。

そんなことがあって「どうしてなのかなぁ」と思いまして、ニーチェの思想が知り
たいと思ったわけです。

ニーチェ自身の著作も多少は読みましたが、やっぱり哲学入門みたいな本に書いて
ある要約・解説のほうがよく判るなぁと思いましたので、良い解説書を教えていた
だきたいと思ったわけです。

『力への意志』あたりをじっくり読んでみようかとも思っているんですが、やっぱり
難しいかな?
461考える名無しさん:2006/07/02(日) 18:41:09
『権力への意志』は捨象選択されていない遺稿集だから、
読むにはそれなりの技術が必要になるので勧められない。

ニーチェを理解すれば、受ける印象はバタイユとは全然違うと
感じることになると思う。

その上でニーチェをよく読んでいる筈のフランスの哲学者達に違和感を覚えるなら、
その違和感は入門書や解説書によっては解消されないね。














462考える名無しさん:2006/07/02(日) 19:40:42
この辺りは読んだけど全然面白くなかった。

清水真木「岐路に立つニーチェ」
西尾幹二「ニーチェ」
山崎庸輔「ニーチェ」
氷上英宏「ニーチェの顔」
永井均「これがニーチェだ」
デリダ「他者の耳」
ネハマス「文学表象としての生」
岡村民夫「旅するニーチェリゾートの哲学」
サンダー・L・ギルマン「ニーチェとパロディ」
463考える名無しさん:2006/07/02(日) 19:41:34
おもしろかった方を言えよw
464考える名無しさん:2006/07/02(日) 19:51:01
実は一冊もない。あったら教えて貰いたい。
465考える名無しさん:2006/07/02(日) 20:04:24
というか、ニーチェそのものは好きなんだよな。
ならもう解説はいらないのでは。
466考える名無しさん:2006/07/02(日) 20:15:38
ニーチェだけを読んでいる分には過不足なかった。
「これだ!」という感じがした。
理解を深めようと思って並み居る大哲学者のニーチェ論を読んだのが良くなかった。
彼らの言っている事を理解できないだけならいいけど、
おかげで自分が何を理解したのか理解できなくなって、
いつしかニーチェも面白くなくなった。

今では彼らの影響はつい最近克服できたが、その為に時間を掛けすぎた。
これからニーチェの研究者になろうと思う人は大変だ。

「種蒔く人、育てる人、収穫する人」――
この三者は全て違うとニーチェは言うけど、
前の世代は「収穫したものを食い散らかす人」だった。
次に必要なのは「食い散らかしの後かたづけをする人」だ。
これはあんまり、面白い仕事じゃない。
467考える名無しさん:2006/07/02(日) 20:16:59
なんかごたいそうだな。
468考える名無しさん:2006/07/02(日) 20:34:50
ドゥルーズにしろ、ハイデガーにしろ、
みんな納得して読んでいるとは、思えないんだけどね。
469考える名無しさん:2006/07/02(日) 22:27:47
>>460

解説書を読んでジワジワ蒙が啓かれる、
という読み方ができるとは
私にはどうしても思えないな。
そんな人がいたら話を聞いてみたい。

『ツァラトゥストラ』を手塚訳で読んで何も感じなければ、
多分まだニーチェを必要としていないんだろうと思う。

『権力への意志』は著作としては勧められないけど、
概念としてのそれについてよく知りたければ、
ドゥルーズを勧めたいけど、フランス哲学に違和感を覚えるなら
キルケゴールの『愛のわざ』を読むといいよ。
470考える名無しさん:2006/07/02(日) 22:43:07
なにがおもしろい、おもしろくないの基準がわからないですね。
哲学でも1、2を争うメジャーでしょ。
いろんな人に限りなく解説されて、好きずきではないの?
471考える名無しさん:2006/07/02(日) 23:13:07
誰が何のためにこういう本を必要としているのか、
よく解らないという事だね。

私にとっては必要のない書物だった。
『ツァラトゥストラ』に強い衝撃を受けた人で
そう感じるのは私だけではないと思うよ。
472考える名無しさん:2006/07/03(月) 00:49:13
『ツァラトゥストラ』に関してだけど、
あの本では理解するべき内容と
その内容を理解するための条件を交互に与える、
という事をニーチェは意図して試みているから
予備知識がなくても読めるようにできてるのね。

あれより簡単に読める本はそうない筈。
わざわざニーチェがそういう著作を残してくれたんだから、
その上で解説書とか初学者向けの本とかが出る意義が全然解らない。
そういう意味で余計だし、解説の中には明らかに間違っているものや
理解に混乱をもたらすとしか思えないようなものもあるよ。


473考える名無しさん:2006/07/03(月) 02:21:21
>>442

「私は歴史上のあらゆる名前だった」といういわゆるトリノの発狂は
その時の「私」がアリアドネと見立てたコージマに対して「お前を愛している」
という求愛のメッセージを発信するのと相関して起こっている点に注目しないと
片手落ちになる。『ツァラトゥストラ』の中で永遠回帰が結婚指輪で
象徴されている事から解るように、回帰は二人称で呼びうる他者との
対他的な関係の中でしか成立しない。「君」と関わる「私」の問題であって、
「私」のあり方だけの問題ではないんだね。

だからドゥルーズが明記したように、超人は神的な夫婦だという事になる。
にも関わらず彼も含めてフランス人達は固有名、固有名と言って
ニーチェがそれ以上に重視した二人称の意義には殆ど注目しなかった。
これは本来なら順序が逆である筈なんだが、今後のニーチェ研究の中で
強く言われなければならないだろう。

>>441

ドゥルーズの回帰思想が画期的と言われたのは、
回帰思想を排除と選別の原理としたこと、と言われている。
そういわれるとよく解らないかもしれないが、

これはイエスを神と見なす事でクリスチャンとして再生した人間が
クリスチャン以外の人間は救済されない、という事実を受け入れる事に
近いと考えればそんなに難しくはない。

ところで、クロソウスキーとかいう変態坊ちゃんの
どこが面白いのか誰か教えてくれ。こいつのどこがニーチェ的なんだ?
頭のいい奴、一人くらい見てるんだろ?
474考える名無しさん:2006/07/03(月) 11:31:12
クロソウスキーはよくわからんけど、悪循環だっけ?
久しぶりにニーチェは今日? でも読み直してみるか。
475考える名無しさん:2006/07/03(月) 12:55:33
>>474

カトリックの教会の中で背徳ごっこしていい気になってるような奴って、
普通に考えればニーチェよりワーグナー的じゃない?

『悪循環』は何言ってるのかさっぱり解らない。

『ニーチェは今日?』も、みな決定的なところで読みが足りないから
かえって混乱する。
476考える名無しさん:2006/07/03(月) 13:29:31
>>435
根拠は?
何かの解説書ですか?
ニーチェが書いたものを読む限り、「ニーチェは永劫回帰を本気にしていない」
なんてとても言えないと思いますけど。
477考える名無しさん:2006/07/03(月) 15:06:14
>>476

きにすんな。
478考える名無しさん:2006/07/03(月) 15:25:10
http://sports9.2ch.net/test/read.cgi/budou/1151487515/l50

さあアノミが板違いでニーチェで調子こいていますw 専門板の方 駆逐してやってください。


852 :アンティノミー ◆MiDylqCWJg :2006/07/03(月) 14:59:06 ID:wRz8x5cB0
>>851
あなたに質問していいですか?


853 :アンティノミー ◆MiDylqCWJg :2006/07/03(月) 15:01:45 ID:wRz8x5cB0
基本的にこのスレで哲学談義に異常な食いつきを見せる人
なんていうのは限られています。
哲学なんて読んでいる奴はそんなにいませんからね。

今までも私にしてやられてきた人だろうから興味がまるでわかない。
もう程度は分かってる。

がんばって対等に相手されるぐらいまでには上げよう。

479考える名無しさん:2006/07/03(月) 16:23:13
478>>

しらんがな
480474:2006/07/03(月) 18:08:57
>>475
読みが足りないって言うけど、何を重要視するかは読む人間の勝手なので、
具体的に何を重要視すべきか書かないでそういう主張をするのはどうかと思う。
ニーチェは今日? の発言者達から見れば
475の方が枝葉末節にこだわり過ぎているという反論もあるかもしれないし。
>カトリックの教会の中で背徳ごっこしていい気になってるような奴って、
>普通に考えればニーチェよりワーグナー的じゃない?
カトリック教会の中での背徳ごっこが、
カトリック以外にも活用できるような一般性を持ってるなら
それはニーチェ的だと思う。クロソウスキーがどうかは知らないが。
481474:2006/07/03(月) 18:10:26
上げちまった……すまそ。
482sage:2006/07/03(月) 20:39:37
>>474

感覚的なものであっても知的なものであっても、
自分がそうだと思う裏付けを欠いたまま何かを言う事と、
それがあっても言わない或いは言えない事とは別なんだろうね。

私はすでにニーチェにあっては二人称が重要だ、固有名の回帰の問題も
それと相関してしか出てこないと明記しているから、具体的な指摘はしている。


483考える名無しさん:2006/07/03(月) 20:48:32

なんで2chって頭悪い人多いの?

597 :('A`):2006/07/03(月) 20:37:15 0
>>1

明快な回答を与えよう
頭悪い人がくるのが2ちゃんだから


484考える名無しさん:2006/07/03(月) 23:53:08
>>483
お前が(ry
485474:2006/07/03(月) 23:59:08
>>482
別に480で書いたのは非難するつもりでは無いよ。
でもね、
>私はすでにニーチェにあっては二人称が重要だ、固有名の回帰の問題も
>それと相関してしか出てこないと明記しているから、具体的な指摘はしている。
名無しで書かれても俺はいちいちレスさかのぼって確認はしないので、
これはわからないよ。473=475ということだな。
486473:2006/07/04(火) 02:06:33
非難されたとは私も言っていない。

「ニーチェは今日?」を読み返したが――

ドゥルーズは206ページで『強度』は
シニフィエにもシニフィアンにも
差し向けられないと言っている。
とすれば、これが差し向けられるのは
二人称だと考えて、ほぼ間違いない――
のだが、この会議に出席している全員が
こんな単純な点を指摘できずにあれこれと
余計な言葉を重ねているのには深い感慨を覚える。

リオタールはP212で
固有名と固有の身体の差異を強調して
前者を買っているようだが、
ニーチェに関してはこれはやはり逆だろうな。
初期の言葉を使えば、前者が「アポロン」
後者が「ディオニュソス」という事になる。
487考える名無しさん:2006/07/04(火) 16:01:20
>458

三島憲一の『ニーチェ』は
調べる事調べて書きました、って感じ。
読んでニーチェの思想についての理解がクリアになるとは思えない。
488KA(431を書き込んだ者です):2006/07/04(火) 16:54:03
<ニーチェを理解するためには、どんな解説書を読んだらいいですか>
ということを巡って最近いろいろな意見が交わされているようですが、
どなたかも指摘されてましたが、「ツァラトゥストラ」を読むのが
一番良いと思います。解説書を読むのでなく。

それから、ニーチェを体系的に理解したい、という動機で「いざ!」と
考えている人も多いようなのですが、
そういう「お勉強」みたいな形で関わらない方が、
良いのではないかしら?

自分にとって、ぐっ、と来る幾つかの箴言があれば、
それで良いじゃあないですか。
その人その人にとってのニーチェがあれが、
良いじゃないですか。
あるいはいっそ、ニーチェなんか忘れた方が・・・、

なんて悪のりするのはやめて置いて。

一個の結び目の方が、より運命が引っかかる(引用、
ちゃんと確認してないです、失礼)って、言っているのだから、
余り欲張るのはやめましょうよ。

むちゃくちゃ難しい物を「俺は理解できたぜ!」と威張っているのは、
まさに権力への意志が感じられて辟易します。
(いや、理解できるのならば
、それは素晴らしいことですけれども)

私は、ツァラトゥストラ、氷上訳で読みました。新約聖書もあわせ読むと、
より味わい深くなります。私はそんな読み方をしました。
489考える名無しさん:2006/07/04(火) 19:00:52
ニーチェは稀に見る美文家だな
490473:2006/07/04(火) 20:18:31
>>474

『ニーチェは今日?』は
引き合いに出される例も的はずれなものが多く
やっぱり片手落ちだと感じるが、君はどうだ?

>>487

三島の『ニーチェ』を読み返したが――

三島はニーチェをモダニズムに
関係づけて理解しようとしているが、
やはりこれには無理がある。

同書にニーチェがボードレールを愛していた、
という記述があるが、ある時期の遺稿の中に引用が
あるのは確かだが、言及は批判的なものが殆どだから、
愛していたとはとても言えない。ニーチェにしてみれば、
むしろ両者の差異こそ指摘して欲しいところだろう。

>>488

よく解っていない人間がよく解っていないままに
よくも解らず解説書を薦めるような事をするべきではないだろうね。

私は『ツァラトゥストラ』は手塚訳が良いと思う。
翻訳者と作者の、こういう幸福な出会いはなかなかないのではないか。
491474:2006/07/05(水) 00:44:10
このタイミングで俺にレスがくるとは思わんかったよ。
>>490
簡潔明瞭に述べれば俺は、「ニーチェは今日?」に正しいニーチェ像を期待してない。
正しいニーチェ像はニーチェを語る上で重要だと思うけど、連中は現代思想を語る上で
ニーチェに触れている。
別に俺はフランス現代思想信者じゃないけど、そっちの文脈から入ったから。

単に著者はおらずテクストのみがある、という批評の考え方からすれば
正しいニーチェ像は不要どころか邪魔ですらありうる。
だけど現代はまだニーチェを必要としている。

だからこそ分かっていないと切り捨てずに徹底的に議論すべきじゃないか?
少なくとも俺には「二人称で呼びうる他者」との間にしか成立しないものが、
なぜ永遠と思えるのか納得行かん。なんか理由があるのかもしれないが。
492考える名無しさん:2006/07/05(水) 01:30:14
>>473
私は永劫回帰を「一人称の固有名」でずっと考えていて
二人称の話は始めて聞いたので面白いと思ったのですが
フランス現代思想の悪しき発想、と言われるのを百も承知で書きますと
「二人称」と聞いてすぐに思い浮かべたのがラカンの鏡像界のことでした
「私のアリアドネ」と呼ぶコージマを巡っての二人称なら、鏡像界の
私とあなた、にピッタリだな、と思いました
でもそうすると「相手の中に見る私」なので、一人称になっちゃいますね
相手も私、私も相手
これだと「トリスタンはイゾルデでイゾルデはトリスタン」
というワーグナーになっちゃいますね…やっぱ違うのでしょう
493473:2006/07/05(水) 03:10:31
>>491

私が永遠を二人称と結びつけて考える理由は
既にいくつか挙げている。

この上理由を挙げろと言われれば
多すぎて困る位だが、
議題が共有されていなければ議論は
成り立たないし、自分の考えやその根拠を
提示するのが一方だけであってもやはり
それは成り立たない。

君にはそれをする準備はできていますか?


494473:2006/07/05(水) 03:58:09
>>492

君の考えは語るに落ちているよ。

精神分析の言葉で言えば、
想像界には一人称が、象徴界には固有名が、
現実界には二人称がそれぞれ相当する――
という指摘をラカンの孫弟子のジュパンチッチがしていたから、
ラカンもそう考えていたのかと思っていたんだが、違うの?

>>491

レスがついたから理由になる証拠を一つあげる。
筑摩文庫版全集、「トリノの陶酔」以降の
八通の書簡を確認して欲しい。この中で
ニーチェが手紙を宛てた旧友達の内、ただ一人女性だった
コージマだけは実名で呼び掛けられていない。
「あらゆる名前」が全て男性の名前(「歴史上の」
というのはそもそもそういう意味だろう)である事と、
これは裏腹になっている。。フランス人達は男性の
永遠回帰だけを考えて女性のそれを考えなかった、
という風に言えるだろう。

同書に収められている有名な詩「アリアドネの嘆き」でも
アリアドネとディオニュソスの互いの名が明かされるのは詩の最後。
それまでは彼は「名付け得ぬ神」であって、「あなた」と二人称で
しか呼び掛けられていない。
495考える名無しさん:2006/07/05(水) 10:51:46
人が何かを書くのは、何かを隠すためだと、ニーチェさんは言いました。
496474:2006/07/05(水) 12:08:59
>>493
すでにいくつかあげている、というが、
それは473以前の事か?
以降を見て納得いかないと言っているのだが。
読み返すのでレス番よろ
提示の準備云々というが、今俺が永遠回帰について持論を提示したら
それこそ議論は収束しないと思うが。
>>494
語るに落ちているかはともかく、492の主張とはずれている気がする。
まあ492本人も正解を語っているつもりは無いだろうが。

あと、二人称については俺の疑問点と違うが、だいたいはわかった。
497考える名無しさん:2006/07/05(水) 18:09:36
>>494
ジュパンチッチなる人のことは知らないけど、その彼の整理はあまり
納得いかない。ラカンの理論を強引に人称で言ってしまえば、
現実界=非人称(自他未分の世界)
想像界=二人称=一人称(鏡の中の相手=私)
象徴界=三人称(他者の介入)
という風になると思う
問題は、想像界での二人称=一人称の関係
ニーチェが二人称の相手としているのが他ならぬコージマだということが
重要だと思う。他の女性ではないわけだ。愛の対象としての他者ならば
相手(鏡)に私を見ているわけだから、ニ人称は結局一人称に帰着する
と思う
498473:2006/07/05(水) 18:48:14
>>497

ジュパンチッチは女性だから彼女だね。
ラカンのひ孫弟子で未訳のニーチェ論の中に
指摘がある。これはなかなか面白かったでの勧めたい。
ページ数は面倒なので勘弁して欲しい。

君の整理がラカンの考えだとしたら、
間違っているのはラカンの方だね。
それとも君の整理が間違っているのか,
私には判断できないので、
裏付けを提示してくれると有り難い。

改めて言うが、ラカンがどう考えていようと
二人称が属するのは想像界ではなく現実界。
鏡像というのは他我であって、これは汝とは異なるね。
簡単に言えば鏡像は対話の相手ではないが、汝はなる。
499考える名無しさん:2006/07/05(水) 18:52:35
>改めて言うが、ラカンがどう考えていようと
>二人称が属するのは想像界ではなく現実界。


はぁ?・・・・テポドン並のトンデモだな・・・
500考える名無しさん:2006/07/05(水) 21:16:34
どいつもこいつも笑わせやがるぜ(`∀´)
501473:2006/07/06(木) 00:22:50
>>499

この点に関しては既に492が自問自答して殆ど正解を出している。

「君」はイメージ(想像界)ではないし、シンボル(象徴界)でもない、
という事は今こうしてやりとりをしていても解るね?

>>497

『ツァラトゥストラ』の中でニーチェは特定のイメージにも特定のシンボルにも
結びつかないこの二人称の機能を遺憾なく利用している。(第三部「後の舞踏の歌」
はその最も美しい達成だと私は感じる)この書は「万人のための書物、誰のためでも
ない書物」と扉に掲げられている通り、特定の誰かに捧げられたものではない。

にも関わらず、最後の手紙における「君が好きだ」というメッセージが特定の個人である
コージマに宛てられた事の意義は、その上で検討されなければならない。これは重要では
あっても、理解をややこしくする点だよ。

ニーチェは決して特定の誰かに結びつけてはならない愛を特定の誰かに伝えようとしていた、
という風にまずは考えられるが、そうすると、他に思い当たるのはキルケゴールが
彼の妻になる筈だったレギーネ・オルセンに伝えようとしていたものにこれは似ている。

だが、完全にそう考えていいかどうかは解らない。私たちは外から見ているから「君が好きだ」
という手紙を送信したのがニーチェであり受信したのがコージマだという事を知っているが、
先述した通り書いた本人にとってはそうではなかった。

しかし、こうしてやりとりをする事は、思ったより集中力を要する疲れる作業だ
という事が解った。今日はもう投稿を止めるが、誰でも反応を返してくれると有り難い。
502474:2006/07/06(木) 00:38:41
>>501
「君」はイメージだよ。
503473:2006/07/06(木) 00:56:35
>>502

私は君を見たことがないので、
想像する事はできないよ。
504考える名無しさん:2006/07/06(木) 01:04:26
>>501
ラカンの言う「想像界」というのは翻訳が悪いので「鏡像界」とでも
したほうがいいと思いますけど、いわゆる普通の意味での「想像」
「イメージ」とは意味が違います。母親という他者を見ることによって
自己の像を獲得する、という鏡像関係を指しているわけです。
つまり、自己はすでに他者の中に見出されている、というのがこの理論
の言わんとするところだと思います。これを人称の関係に置き換えて
考えると、想像界は二人称(私とあなた(母親))なのだけれども、
そのあなた(母親)の中に自己を見ているわけですので、結局、一人称
になると思います。従って想像界=二人称=一人称となるわけです。
505474:2006/07/06(木) 01:14:33
>>503
貧困な想像力だな。
俺は473が夜更かしして遅刻して先生に叱られてる所を想像できるぞ。
現実じゃない、と反論するかもしれないが、これは現実界じゃない。
>>504
勝手に訳を変えるのはどうかと思う。
まあ、想像界が直訳に近いのは認めるけどね。
506考える名無しさん:2006/07/06(木) 01:24:56
一つ聞きたいことがあるのですが、ニーチェの言葉で
「愛するとは命ずることだ」という言葉があると聞き、ググッてみたのですがヒットしません
出典や正式な言葉を知っている人がいたら教えてもらえるとありがたいです
507考える名無しさん:2006/07/06(木) 01:36:23
>そのあなた(母親)の中に自己を見ているわけですので、結局、一人称
>になると思います。従って想像界=二人称=一人称となるわけです。

それじゃ、単なる独我論だろ。ったく・・・w
508考える名無しさん:2006/07/06(木) 01:38:00
ラカンは科学なんだから独我論なわけねぇ、おまえに食わせるタンメンもねぇ!
509考える名無しさん:2006/07/06(木) 01:40:41
>そのあなた(母親)の中に自己を見ているわけですので、結局、一人称
>になると思います。従って想像界=二人称=一人称となるわけです。

(母親)の中に完全に自己が見えないから想像関係なんだよ。
みんな一人称になるってエヴァンゲリオンの見過ぎなんだよ。

バラバラかいてすまん。
510474:2006/07/06(木) 01:40:45
>>506
もうちょっとヒントをくれ
>>507
独我論なら母親(二人称)すら認めない気がするが。
だが言われてみれば504の主張は想像界ありき、という可能性もあるな。
511考える名無しさん:2006/07/06(木) 01:43:21
>>510
いや、それ以上のヒントが無い…

愛するとはよくよく考えると誰かに何かを命令している
子供のころは愛されることばかりだから命令されているばかりで、
大人になり誰かを愛することになると命じなければならない

とかいう解釈だったと思う
512473:2006/07/06(木) 02:57:09
>>504

ご教授ありがとう。

だが、母親を<見る>ことによって自己の像を獲得する
だけであれば、母親が二人称で呼ばれる必要は全くないね?

母親が「私」にとって「あなた」になるという事は、
母親をメッセージの受信者にしている、という事だから、
それは鏡像関係とは別に存在する他者との関わり方だね?

私が言っているのは
お母さんを<見て>「僕はお母さんが好きだ」と思う事と、
お母さんに対して「僕はあなたを愛しているんです」と言う事とは
全く別のことだろう、という単純なことなんだけどね。

二人称をイメージに対応させる考えは
私の貧しい知識の中でもむしろ珍しい。
それが本当にラカンの考えなのか。

ツェラン、レヴィナス、キルケゴール、ブーバー、ニーチェ

は、二人称をイメージと切り離された別個のものとして考えているし、
大分前に読んだからよく覚えていないが、デリダも
「アデュー、エマニュエル・レヴィナスへ」の中でアデューのデューを
表象不可能な神Deusと二人称親称のDuにかけた考察をしていた。

経験や文法に照らしても、こちらの
一群の考えの方が妥当なのではないかな。


513考える名無しさん:2006/07/06(木) 03:33:10
>>507
ラカンの理論では想像界は自己を獲得する過程になるので
独我論でもいいのですよ。というか自己の獲得過程なのだから

>>512
>母親が二人称で呼ばれる必要は全くないね?
そうなんだよね、見ているのは母親=鏡でも、それは自己の像
なわけだから、二人称が成立するかは微妙だね
514474:2006/07/06(木) 03:41:39
ラカンの考えかどうかはラカンスレいってやろうや。
俺的には497の分類で問題ない。少なくとも現実界については。

だが二人称を現実的という考え方があってもよい。
で、それでその考え方で永劫回帰をどう説明づけるのか。
少なくとも文法云々というのなら言語発明以降の事なので永劫っぽくないし。
515考える名無しさん:2006/07/06(木) 03:41:43
>>509
>みんな一人称になるってエヴァンゲリオンの見過ぎなんだよ
みんな一人称にはならないよ。
ラカンの鏡像段階理論は幼児の発達理論なのだから、人称に置き換えて
考えるには、人称の獲得過程にもなるわけだ。だから修正すれば
現実界=非人称の状態(自他未分)
想像界=一人称の獲得(ただし、鏡としての母親を自己の像と切り離して
考えるならニ人称もあり)
象徴界=三人称の獲得(想像界が一人称の獲得のみなら、二人称の獲得も
ここに入る)
516考える名無しさん:2006/07/06(木) 03:54:36
ニーチェに戻って考えると>>473の主張での「二人称の意義」が
問題になるわけだ
>「私は歴史上のあらゆる名前だった」といういわゆるトリノの発狂は
>その時の「私」がアリアドネと見立てたコージマに対して「お前を愛している」
>という求愛のメッセージを発信するのと相関して起こっている

>永遠回帰が結婚指輪で 象徴されている事から解るように、回帰は
>二人称で呼びうる他者との対他的な関係の中でしか成立しない

>ドゥルーズが明記したように、超人は神的な夫婦だという事になる

少なくとも、これらから読みとれるのは、二人称というけれども、
その相手、他者は普通の他者ではなくて、愛の対象としての相手な
わけだ
517似非フィロソファ:2006/07/06(木) 06:41:02
現実界 1+2=3
想像界 A+B=C
象徴界 AX+BY=CZ *(C+Y=Z)

数学でこの三つの次元をあらわすなら、
現実界は自然数。想像界は抽象代数。象徴界は象徴代数×変数
 つまり、三竦み以上の関係でなければ象徴界もろとも存在しないはず。
518473:2006/07/06(木) 07:23:33
>>513

鏡像というのは対自態であって、二人称はその奥に隠れている
解消不可能な対他性である、と考えるのが自然だろう。
私が上に挙げた人達は、それぞれの仕方でそういう主張をしていた。
ラカンはかなり異端的じゃない?
尤も固有名の問題はこれだけだと抜けてしまう。

>>514>>515

問題になっているのは、「いわゆる」現実界が世界の即自態なのか対他態なのか、
という事だが、現実界が「意志」に相当するものだと理解すれば、実は
ニーチェがショーペンハウアーの「意志」を「権力への意志」に
造り替えなければならなかった理由はここにあるので、無関係ではない。
即自的と捉えられる「意志」に「権力(への)」を付け加えたのは
それが対他的な関係の中でしか成立しないことをニーチェが見抜いたからだね。
だから、machtから「権力」という複数の勢力間で構成される関係の
ニュアンスを抜き取り、「力」にしてしまう翻訳は問題がある。
これでは脱自的な状態は表せても対他性や脱他性(?)を表現できないから。
これはハイデガーの影響が尾を引いているんだろう。

>>516

ツァラトゥストラにあっては、
二人称自体が愛の受取手(対象と言ってしまうとまずい)になっている。
第三部「七つの封印」の章で「私はお前を愛しているのだ、おお永遠よ」と、
高らかに歌い上げられる。この箇所はいつ読んでも美しいね。
519473:2006/07/06(木) 08:10:17
>>少なくとも文法云々というのなら言語発明以降の事なので永劫っぽくないし。

投稿をした後でこの指摘に答えていない事に気づいた。
忙しいので少し未整理だが……。

これがまさにニーチェの面白いところで、
結論から言えば、ニーチェの永遠回帰は言語生成以降にしか成り立たない。

ショーペンハウアーについてニーチェは、意志と表象としての世界も、
その間に一個の知的存在者がいなければ成り立たないだろうという指摘をしていて、
「権力への意志」の成立のもう一つの理由はこれ。

第二部「舞踏の歌」の中でツァラトゥストラは自分が生と知の二人の女性を愛しているが、
自分が本当に愛しているのは生であって、知はその手段として必要なのだ、
という話を生に対して語って彼女に笑われて気をうしなう。

その後物語はこの章と無関係に続くが、
第三部「後の舞踏の歌」で同じ主題が繰り返される。
時空を超えて繋がっている章は叙事詩全体の中の随所にあるが、
この章は『ツァラトゥストラ』全編の中でも最も美しく最も切ない。
彼が愛していた生と思いが通じ合うのは彼らが別れなければならない
時のその直前だから。つまりツァラトゥストラは生ではなくて知を選び、
彼女を愛する事になるんだね。
ちなみにこの章は後の「砂漠の乙女たちのもと」とも繋がっている。
同様の考えはキルケゴールの「倫理−宗教的伝達の弁証法」の中にある。
520考える名無しさん:2006/07/06(木) 09:48:35
>>515
>想像界=一人称の獲得(ただし、鏡としての母親を自己の像と切り離して
>考えるならニ人称もあり)
>象徴界=三人称の獲得(想像界が一人称の獲得のみなら、二人称の獲得も
>ここに入る)

意固地になるなよ。ネットは匿名なんだから。一言間違いでしたでいいじゃん。
想像界が一人称なんってありえない。まず他者があり、自分を獲得する。
動物だって自己がなくても他者はあるんだから。
想像界=二人称
象徴界=三人称
ふつじゃん。
521考える名無しさん:2006/07/06(木) 09:51:45
それに鏡像段階理論=想像界かい?
522考える名無しさん:2006/07/06(木) 12:58:59
>>520
いや、意固地になってるわけじゃなくて、想像界での自己の獲得は
他者を通じて獲得される、を正確に人称で表わそうと思ったら、
>>512で指摘されたように、他者としての母親(鏡)は結局その中に
自己を見ているわけだから、二人称が成立するのは微妙なわけよ。
強いて言えば一人称=二人称、つまり自己は他者に先取りされてる
ってことを正確に表わしたいわけ。

>>521
ニーチェの永劫回帰がニ人称ってことで話が進んできてるので、ラカンの
鏡像段階理論ではニ人称がどこで成立するかが問題として登ってきたわけ。
で、二人称成立は想像界か、または象徴界か、を議論してるわけ。

とはいえ、ニーチェスレだから、ラカンの話はラカンスレでやろう
523考える名無しさん:2006/07/06(木) 13:20:23
>>522
そういう言い方だと象徴界も1人称になるのわかるかな。
想像界=小文字の他者
象徴界=大文字の他者

そういう独我論的にとらえちゃだめなの。
これは現象学と精神分析の差異に関わる
精神分析の本質に関わるから。
だから意固地にならないw
524考える名無しさん:2006/07/06(木) 14:06:47
>>523
そっか、納得した
こういう言い方じゃダメかな
現実界=自他未分の世界
想像界=一人称、二人称の世界
象徴界=一人称、二人称、三人称の世界
525474:2006/07/06(木) 14:07:49
>>518
もちろん無関係だとは言ってないが、このスレの目的はラカン的に語ることではない。
ラカンの用語定義論争などやっても仕方ない。
>>519
言語発生以降の話であっても人間の意識にとっては永遠と思える、という考えも成り立ちうる。
だけど519の説ではやはり永劫回帰は永遠でも永劫でもない事になりそうだな。
まあ、些細な問題かもしれないが。
>>522
議論となっているのは「二人称は想像界か現実界か」だと思うぞ。
494から始まってる議論だし。
>>523
むしろ現象学的に語るべきだと思うが。
526473:2006/07/06(木) 14:20:04
522は513かな。

正直私は微妙だとも思わないんだよね。
はっきりイメージと二人称は別で、
後者はラカンの言葉で言えば「いわゆる」現実界に対応する。
――というのは私の考えが足りないかな?

上に上げた人達は大体そう考えているし、
デリダ以外は資料が手元にあるから言及もできる。

これは後者の人達が主客未分化の即自性と捉えられているものが、
実際には伝達者−受領者の関係の中でしか成立しない事を知っていたから。
これについては、既にニーチェを例に挙げて説明した。
この受領者に相当するのが二人称だね。

ただしこの中でニーチェとキルケゴールにあっては、
固有名も相当の地位を占めている。が、
それは彼らの名前ではないね。

>>520

鏡像が他者から受け取られた「イメージ」である事は誰も否定していない。
ただ、その時自己は他者の中に「私」を見ているのね。
それはその他者に対して「君」と呼び掛ける事とは違うだろうという話。
この二つをラカンが混同していたならやはり問題があるだろう。

ただ私ラカンについての知識はその点に関して不確かだから、
正確な知識を持っている人に確認がしたかった。が、
それはラカンに「ついての」知識を巡って争う為ではない。

どちらにせよ、二人称をイメージに対応させる考えは
ニーチェの立場からは批判の対象になるのは確かだ。
527考える名無しさん:2006/07/06(木) 14:34:46
>ただ私ラカンについての知識はその点に関して不確かだから、

ゼロに等しいよ。
だいたい想像界がそれのみで成り立つように考えているところが笑える。
「現実界が二人称」は問題外。
素直にごめんなさいしなさい。
528考える名無しさん:2006/07/06(木) 14:35:54
だいたいデリダって限りなくラカンなんだが(w
529考える名無しさん:2006/07/06(木) 14:43:03
ラカンスレより

552 名前: 考える名無しさん 投稿日: 2006/07/06(木) 01:17:07

人はいつも、想像界、象徴界、現実界にいます。
たとえば恋愛では、
想像界・・・相手への引かれる思い
象徴界・・・客観的に自分をみる
現実界・・・相手の考えていること(好きなふりとしているかも)は絶対にわからない
正確にはこのように分離できるものではないですが・・・
530考える名無しさん:2006/07/06(木) 15:10:01
>>526
現実界の認識が誤ってる気がする
ラカンの理論での「現実界」は現実の世界のことではなくて、
幼児の原初的状態、いまだ自他未分の状態のことを指す
だから>>527が言うように「現実界が二人称」は問題外。
「現実の世界」はラカンの文脈では象徴界が対応する
もちろん、それぞれが独立してあるわけじゃないけどね
現実界、想像界、象徴界の3界に常に人は属している
531考える名無しさん:2006/07/06(木) 15:16:57
>>526
>どちらにせよ、二人称をイメージに対応させる考えは
>ニーチェの立場からは批判の対象になるのは確かだ

ただし、あなたのお話では、二人称といっても、「私のアリアドネ」
とニーチェが呼ぶコージマが相手(受領者?)なわけですよね。
つまり、普通の他者ではないわけですね。普通の友人同士などでの
「オレとおまえ」ではなくて、愛がそこに介在しているわけですよね。
そうするとニ人称といっても、相手の中に自己を見出している相手、
という関係になってしまうんじゃないでしょうか。イメージというのは
そういうことです
532473:2006/07/06(木) 16:16:31
>>518

もうニーチェとショーペンハウアーの
概念を使っているから、ラカンの語彙は必要ないね。
でも反応をしてくれた人がいるのでもう少し。
永遠についてはまた後で。読んでてかなり疲れた。

>>530

518の私の発言を見て欲しい。私も現実界を主客未分化の状態の意味で
使っている。でもそれは対他的な関係の中ではじめて見いだされる
ものだろう、という事。この「他」は大文字の他者でも小文字の他者でもない。

ショーペンハウアーの意志をニーチェが権力への意志に造り替えた理由
の一つはそこ。で、現実界が意志界に相当する(違うの?)としたら
ラカンがどうであろうと、ショーペンハウアーに対するニーチェ
みたいな人がでて「それ」を二人称と結ぶだろうな、と思っていたら、
ジュパンチッチがよりにもよってニーチェ論の中でそんな事をいっていたから、
あ〜あ、やっぱりね、と思ったの。

>>531

いや、それが違う。501の発言を見て欲しい。二人称はそのままでは
誰にも結びつかない愛で、これは普通の愛ではない神的愛なのね。
特定の誰かとは、一旦切り離して考えて欲しい。

で、にも関わらずそれが特定の誰かに向けられているから
少し話がややこしくなるんだ。でもこれは彼らの間にツァラ
トゥストラが幼子として挟まっている事を考えれば理解できる。

「幼児」はニーチェにあっては主客未分化の状態である事より
それが夫婦の間に生まれる点が重要になる。
533考える名無しさん:2006/07/06(木) 17:07:30
永井均の「これがニーチェだ」は全然勘違いのニーチェ論。
まだ三島の「ニーチェ」のほうが勉強になる。
534考える名無しさん:2006/07/06(木) 17:07:56
しぶといな。一言ラカンについて一切しりません。それで良いんだよ。
535考える名無しさん:2006/07/06(木) 17:11:34
>私も現実界を主客未分化の状態の意味で
>使っている。でもそれは対他的な関係の中ではじめて見いだされる
>ものだろう、という事。この「他」は大文字の他者でも小文字の他者でもない。

未分化でなんで対他的関係が発生するのか????
536考える名無しさん:2006/07/06(木) 18:11:40
>>532
ニーチェのコージマへの関係がいわゆる愛の関係ではなくて、
「神的愛」を手紙によってコージマに伝える関係だということは
分かった。これってキルケゴールとレギーネの関係そのままだね。
で、特定の誰にも結びつかないニ人称の意義、それを巡る考察を
展開した系譜の思想家の考察を教えて頂きたい

>でもこれは彼らの間にツァラ トゥストラが幼子として挟まっている
>事を考えれば理解できる

>「幼児」はニーチェにあっては主客未分化の状態である事より
>それが夫婦の間に生まれる点が重要になる

ここら辺が今ひとつよく分からない…
537473:2006/07/06(木) 21:30:28
>>536

そう。だからやはりニーチェと対比的に考察されるべきは
マルクス、フロイトではなくキルケゴールだね。
彼ら程深く人間を愛していた男性を、私は他に知らないね。
例えば、彼の遺稿集の第五巻を開いて欲しい。
すると直ぐにこんな言葉に出会う事になる。

「親愛なる者よ!この献呈を受け取って貰いたい。
これはいわば闇雲に、しかしそれだからこそどんな顧慮にも乱される事なく、
正直に献じられている。あなたが誰であるか、私は知らない。
あなたがどこにいるか、私は知らない。あなたの名がどういう名か、
私は知らない。けれども、あなたは私の希望、私の喜び、私の誇り、
知られざるものながら私の名誉なのだ!」

彼がいかに特定の名前に結びつかない二人称の機能を
いかんなく発揮しているかこれだけでも解ると思う。

二人称のこうした使い方をした思想家については
私は上に上げた人達しか差し当たり思い浮かばないが、
他に思い当たったら教えて欲しい。
まあ、でも普通に考えたら著者が読者の名前なんか知らないのは
当たり前なんで、そうした条件を受け入れているだけだと言えるけど。
でも、それを受け入れられない人は多いんじゃないかな。

>>535>>536

それはもう説明している。主客未分化の状態である「幼児」は
互いを能動的に愛し合う夫婦の間に生まれる。
夫婦の関係は伝達者−受領者であって、これは主客の関係ではない。
この二つは違うんだっていうことを、レヴィナスなんかは
ずっと言い続けてきた。
538考える名無しさん:2006/07/06(木) 22:45:58
>>537
糞もミソも一緒ってやつだね。
ニーチェはニーチェ、フロイトはフロイト、キルケはキルケ、
レヴィナスはレヴィナス
なにを基準に何を比較しているのか。分裂病?
539考える名無しさん:2006/07/06(木) 23:39:27
分裂病の話なんか今まで一言も出てこないんだけど…?
ニーチェとキルケゴールが結びつく基準は
今まで散々話題になってきた事だよね?
あなたがレスした537でも挙げられているし。

それに糞も味噌も一緒っていうのは
美醜、優劣を区別をしない態度を言うんでしょ。
それだとあなたが挙げた思想家達に
明確な優劣の差異があるにもかかわらず、
それが区別がされずにまぜこぜにされている、
という意味の批判にしかならないんだけど…

今までだってそうだけど、
よく読みもしないで、
よくも解らない言葉を使うのはやめてよ。
540考える名無しさん:2006/07/06(木) 23:45:35
>>537
なんかの文学小説と勘違いしてるんじゃなかろうか。

哲学に二人称持ち出されても、あんましリアリティー感じないなぁ。
541考える名無しさん:2006/07/07(金) 00:09:46
>>539
糞もミソは美醜も優劣も関係ない。
一見似ているが関係がないものをごちゃまぜに語ること。
よく理解もしないで、
風呂敷広げのはやめてよ。

542474:2006/07/07(金) 00:30:17
>>541
gooで調べた限りでは539の方が正しい。
まあ慣用的に541の主張も有りなのかもしれないが。
543考える名無しさん:2006/07/07(金) 00:36:24
ニーチェの思想を突き詰めていくと、狂った後にこそ何かがあるように感じている。
狂う前の思想だけだと全てを語れないのではないか。もちろん狂った後の
ことは考えようがないわけだが。
544考える名無しさん:2006/07/07(金) 00:54:52
>>541
別にニーチェとキルケゴールの思想を対比するのなんて
珍しいことではないだろう。永劫回帰と反復を対比させる
こととか。それが生産的なことかどうかは分からないけど、
「一緒にしてる」のではなく「対比させてみる」のは自由
だし、ごちゃまぜに語ることではないよ。
545考える名無しさん:2006/07/07(金) 00:57:55
>>543
それはロマンチックな読解であって、狂気に何らかの意味を
認めてしまうことだよ。ニーチェは単に梅毒で死んだのだし、
トリノの発狂後の手紙も、狂気と結びつけずにどう解釈するかを
考えていくべきだと思う。
546考える名無しさん:2006/07/07(金) 01:15:55
ニーチェは超人に生成したんじゃないかな。
547473:2006/07/07(金) 01:29:55
無意味だとしか思えない一行レスって
無視した方がいいのかな?
見るだけですごく疲れる。

>>474

これは君だけじゃないけど、
質問をしたりレスを返してくれる人には
本当に感謝している。まだ何か答えていないことあったっけ?

>>543>>545>>546

その手紙の解釈から今までの議論は始まっている。
私はずっと473で通しているから、流れを確認して欲しい。
548474:2006/07/07(金) 02:11:46
だんだん473のニーチェ解釈が分かってきた。
が、むしろその解釈を採用した場合ニーチェの不誠実さというか、
女性差別的な思考に反感を覚える。
フェミ女なんぞ糞っくらえだが、それではまるで超人を産むためのものであるかのようじゃないか。

夫婦間には能動的に愛し合うという状態を考え得ない。
ツァラトゥストラと老婆の会話であったと思う(うろ覚え)が、女とは一切が謎である云々と、
愛する対象への想像力を放棄しているからだ。その謎のヒントが子供を産むこと。
そしてその子供こそが重要なのだとしたら、
(性としての女ではなく)女性として生まれ落ちた人間はどう価値づけられるのか?
549考える名無しさん:2006/07/07(金) 09:22:42
糞ミソくんはうまくごまかしたな。
はじめから、どこにでもあるニーチェとキルケの比較の話と
言えば良いものをラカンとか、レヴィナスとか
知りもしないのに糞ミソするから叩かれる。
550考える名無しさん:2006/07/07(金) 09:30:23
ニーチェがヒトラーを見たらなんと言ったかな。
彼こそ超人といったかな。
反ユダヤ主義のカスといったかな。
551考える名無しさん:2006/07/07(金) 09:56:09
どの思想家も

過去の分析、批判→それをもとに現状改革案

という流れになるが、天才的な分析を見せても改革は必ず失敗する。
ニーチェ、マルクス、ハイデガー、デリダ・・・しかり

だから、ぶっちゃければニーチェの超人はドキュソ。
552474:2006/07/07(金) 10:18:29
>>550
さすがにヒトラーのやり口が何の解決にもならないことは見抜いただろうと思う。
第二次大戦期、ソ連がまだ期待されていた時代に、
フランスの共産主義系の思想家達はソ連批判やってたわけ。
その対比で見ればヒトラーをたたえたりはしないと思う。
>>551
じゃあ、ドキュソである可能性も視野に入れて、前向きに議論しよう。
553考える名無しさん:2006/07/07(金) 12:24:41
ニーチェは別に改革を目指してはなかっただろ。つうか改革って言い回しはやめてくれ。
ニーチェのスタンスはもっと乾いてた。
今のところ、凡庸化がいきつくところまでいく、って方向に流れてるね。
554473:2006/07/07(金) 15:22:00
>>550

フランス人は固有名固有名とばかり言っていたから、
それでは片手落ちで二人称の方が大事だ、という事を言って
色々裏付けを出してきたわけね。
ニーチェとキルケゴールをこの点において繋げた研究ってあったっけ?
レーヴィットは彼らが万人に向けて書いた事に軽く触れてるけど
踏み込んだ理解はしてないし……。
でも、あるにしても、キルケゴールが自分の本名で出した宗教的著作だって
トムティーやディートンがわざわざ注意しなければならない位読まれていないし、
専門家の世界でならともかく、一般の人にはあまり知られていないよね?
日本ではさらに状況は貧しいんだから、それを考えれば
既に言われているしても繰り返し主張されるべきじゃない?

レヴィナスは女性的なものを二人称親称と結びつけて
「顔の奥に恥じらいつつ隠れるもの」と『全体性と無限』
の中で確か言ってなかったっけ――――?私の記憶違いかな?

因みにいえばヒトラーは俳優の一言で終わる、ッてことは
ニーチェを読めば誰でも解るよね?凡庸化ってなあに?
多分末人化の事なんだろうけど、ニーチェが主に
問題にしたのはそっちじゃなくて、高人――ましな人達の方だよね?
ドゥルーズは一応指摘したけど。これもあんまり言われてないね。

ラカンにしろレヴィナスにしろ私が解っていなくて、
あなたが解っているなら、人が解っていない事を指摘するだけではなくて、
正しい理解のための裏付けを提示してくれれば、それで済んだ話だよね?
でも、それをするのは私の役目ではないではないでしょ。

キルケゴールが言っているように、相対的劣位の人間が人を見下した態度をとって
相対的優位に立ったような気になるのはあさましい事だから誰にだって許されない事だよ。
そういう事さえしなければ、誰だって生産的になれるはずなんだけど。
555473:2006/07/07(金) 15:53:36
>>548

その後、その謎はただ一つの答えで説ける。それは懐妊である、
と続くよね。ニーチェはアンチ・フェミニスト。
これはキルケゴールもそうだけど。

神的夫婦に関しては能動的関係は成立する、
というのがドゥルーズの考え。
この夫婦は互いの固有名を
知らずに純粋な二人称存在として互いを愛し合った後、
はじめて互いの名を明かし会うような関係なんじゃない?
盲目の人間が互いの指先に触れてはじめて目がひらけるような。

ニーチェはその為に自分の人格まで崩壊させているんだから、
女性を利用したとはいえない。最後の手紙は
こんな事だと私は考えているの。

「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
ならない」

外から見ているからややこしくなるし、
ちょっと齟齬が生じるところがなくはないんだけど。
556考える名無しさん:2006/07/07(金) 15:55:21
>ラカンにしろレヴィナスにしろ私が解っていなくて、
>あなたが解っているなら、人が解っていない事を指摘するだけではなくて、
>正しい理解のための裏付けを提示してくれれば、それで済んだ話だよね?
>でも、それをするのは私の役目ではないではないでしょ。

逆ギレか。みんながその理解はおかしいよとやさしくいってるうちに
認めないから叩かれる。意固地になるヤツは叩かれるってごく2ちゃんねる的でしょ。


「二人称の方が大事だ」という意味はよくわからないが、
一つ言えば、現象学は他者がいないし、
フロイト、ラカンは精神分析なので他者はいるのだけど、
デカルトの構造をもつことは本人たちも認めている。

ヴィトも独我論を認めるように、デカルト依頼本質的に、
独我論的構造(認識論の呪縛)からのがれる容易なことではない。

「二人称の方が大事だ」はわかるが、どのように二人称であるのかが、
ないと、意味がないと思う。

557考える名無しさん:2006/07/07(金) 16:03:05
>「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
>二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
>あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
>ならない」

なるほどね。確かにラカンの現実界的た。
ラカン的にいえば、「二人称性において愛することは不可能である故に
現実界にある」ということだね。

自然主義だね。生物学的引き合う雄雌。
ラカン曰く「性関係は存在しない」=人間は生物学的雄雌を失った存在だ。
たしかにニーチェ、ドゥルーズは「二人称性において愛することは可能だ」
というのかな・・・
558473:2006/07/07(金) 16:11:43
私が言っているのは、「その」独我論をうち破るのが二人称親称のDuであって、
私が上にあげた人達はその可能性にかけた、って事。
レヴィナスは固有名を宗教的絶対他者に祭り上げた上で
その奥に二人称的他者もいる、っていう考えだから微妙だけど。

我っていうのは私よね?二人称「汝」っていうのは他我じゃないって事。
彼らはいわば他者のエスに届く人称として二人称を捉えているの。
他者の自我(他我)ではないのね。
そしてもう一つのポイントはこのDuが特定の誰かではない、という事。

渡辺哲夫が「知覚の呪縛」の中で分裂病者の自我を語るのに、
身体自我なる語を使っているけど、これはニーチェの最後の手紙の自我に近いね。
エスのあったところに自我をあらしめよ、っていう言葉があるでしょ?
いわば、最後の「私」は他者にとってのエスであるドゥの位置に移行した自我なんじゃない?
559考える名無しさん:2006/07/07(金) 16:27:45
キリスト教の汝は評判がよろしくない。汝を愛せの寛容は、汝という他者を作り出す排他でもあるといわれる。
むしろその前の自然神の方が自他分離があいまいだった。自然神の祭りの享楽など。ニーチェのディオニソス的?
分裂病はドゥルーズの得意だけど、ラカンも父の名の排除として現実界においてるが
分裂病を倫理的に積極的に評価する気になれないな。
560考える名無しさん:2006/07/07(金) 16:38:08
あとデリダはウィの思想とかで、たえず不可能な他者に開き(脱構築)続けるというが
これも他者は現実界にあるというラカンのパクリだね。

結局、ニーチェのおもしろいのはディオニソス的につきるとおもう。
他者への開かれをキリスト教的寛容でなく身体性においたこと。
これはラカンでは社会(規律)に禁止される現実界への享楽。
最近ではシステム論でも共に行為をするときに言語をこえて他者に開かれるというのがある。
561考える名無しさん:2006/07/07(金) 17:38:07
「エスであるドゥ(他者)の位置」というのは、ラカンの現実界であり不可能であるとともに、
享楽の位置なんだよね。享楽とは内部倫理からの抑圧を越えて他者と分かりあおうとする
こと。近親相姦。
自然神の祭りがトランス状態に入り、生け贄を殺すのは、享楽するからだね。

内部→人間(=言語=この私(単独性))、
外部→ニーチェのディオニソス的、ドゥルースの分裂病(器官なき身体)、
    集団的沸騰=祭りの位置。
    動物の群であり、弱肉強食の位置。
    倫理が溶解し、簡単に命が奪えあえる位置。

これが、レヴィナスや、デリダのように他者に開くという倫理的な位置として
いかように見いだすか。難しいね。
たとえば、他者に開くとは、他者を内部に包み込む、引き込むという
暴力になる可能性も高い。
562553:2006/07/07(金) 17:41:41
>>554
ちょっと待ってくれ。
んなことはわかってる。
確かに俺の書き方がわかりにくいが、
「世の中はニーチェの意に反して、凡庸化への道を歩んでいる」ということだ。
自然にニーチェが願っていた方向に世界が動くとは思えないし、そういう未来予測もあったと思うが。
「凡庸化」という表現も適切と考える。
それはすなわち同一化。同じ価値観を持つがゆえに、そこには安寧がある。
だが誰も愛することはできない。とかそんな感じの断想なかったっけ?
ドイツ語わかんないからどうとも言えないが、この場合対置する表現を使う必要は無いと思うんだが。
あとここはニーチェスレなんだから、他の誰かを引っ張ってきてニーチェを語るのもほどほどにした方がいいんじゃなかろうか。
563考える名無しさん:2006/07/07(金) 17:56:43
>>562
>あとここはニーチェスレなんだから、他の誰かを引っ張ってきてニーチェを語るのもほどほど
>にした方がいいんじゃなかろうか

気持ちは分かるが、特にニーチェのような思想家の場合、彼のテクストのみを単独に読解しても
多義的な解釈を巡って終始してしまう感があるし、他の思想家と対比させることによって逆に
ニーチェを照明させてみる作業もよしとしようよ
564473:2006/07/07(金) 18:25:48
ざっと見てレスつけるけど――。

単独者は「この私」ではないよ。
それならシュティルナーで済むんで、
それは違うんだ、って話をブーバーはしてたのね。
柄谷行人の影響なんだろうけど、
彼の読み全然間違ってるからね。
凡庸というのも蓮実重彦の影響かしら?
まあどっちでもいいけど。

今まで言ってきたように、
自己の内部に還元されない解消不可能な対他性が二人称なの。
で、これが享楽だとしても規律からの逸脱ではないってのが面白い。
これはあんまり話題にしていなかったけど。
というのは、その関係は超人の父であるツァラトゥストラによって
媒介されているから。社会的な父ではないけど、父はいるわけね。
この関係は近親相姦ではないよ。アリアドネとディオニュソスは
互いが自分の帰る場所をなくして無人島で出会う事になるわけ。
だから他者同士を繋ぐものなんだね。

世の中が凡庸になるのは
それに耐えられない人達が出てくることも含めて、
ニーチェの意図に反した事じゃない。
両方とも超人じゃないのね。
結局世の中がどうとかいうより、
自分が彼をどう受け止めるかなんじゃない?
キリスト教と一緒で。

『ツァラトゥストラ』はそれだけで読めるようにわざわざニーチェは
造っているんだけど、でもそれはキルケゴールとやっぱり同じなんだよね。
565考える名無しさん:2006/07/07(金) 19:06:55
超人って地球の意思であって、
星がめぐり、太陽が光を与える意義を体現した生物のことで
人間から生まれるんだよね。進化論的突然変異で。
と俺は思う。
566考える名無しさん:2006/07/07(金) 19:12:43
>>564
ほんと負けず嫌いだな。私生活でもうざがられるでしょ(w

近親相姦は一例でしかないよ。実は享楽は「人間」であることの条件なんだよな。
なぜコミュニケーションが行われるかは他者が決してわかり得ないから
なんです。ネットでもそうでしょ。わかりそうでわからないときが、
おもしろいでしょ。
ディオニソス的ってネットでいえば「祭り」だよね。
分かり合えないけど、群衆的な興奮の中で、分かり合えたように感じる。
もう一つ特徴が「生け贄」がいること。
たとえば嫌韓祭りは、韓国人を外部に排除して、「生け贄」にして繋がろうとする。
他者と分かり合えるためには、他者を排除する。

だから倫理的な二人称を考えるなら、いかようにか?ということ。
「互いが自分の帰る場所をなくして無人島で出会う事になる」だけでは、
いかんとも・・・
567473:2006/07/07(金) 19:59:21
>>566

あなたは561なの?同じ人のようには思えないんだけど――。
近親相姦の例を出したのは561で、
私はニーチェにあってはそうならないのが面白いが、
その点は今まであまり扱わなかったから
いい機会を提供してくれたと思って
それについて述べたので、買ったも負けたもないよね……?

でもそろそろハンドルネームとは言わないけど、
番号は明記して欲しいよ。私と474位だから、誰だか解るの。
負けず嫌いとかいうんならなおさら。
そもそもちゃんと読んでくれてる人もいるのかな、
ってのも不安に思うし。

二人称が倫理的(この言葉を私は全然使っていないから、
どういう意味か解らないけど、意図をくみ取って言えば)
になる理由はそれがツァラトゥストラという父の名に
よって媒介されているから、って述べているので、
無人島で出会う「だけ」じゃないよね?

それと生け贄の問題だけど、ドゥルーズが言っているように
ディオニュソスの生け贄は生け贄が誰だか解らなくなる「八つ裂き」であって、
ユダヤ人とか、韓国人とか特定の誰かを排斥して同質性を確保する事ではないのね。
「反ユダヤ主義の弱虫共が私によこす手紙を読むと堪忍袋の緒が切れそうになる」
って言葉がニーチェにあるよね?
でも、そんな事をする人間はニーチェとかいう以前に最低のクズだよ。
568考える名無しさん:2006/07/07(金) 20:50:14
>でも、そんな事をする人間はニーチェとかいう以前に最低のクズだよ。

享楽を本質をわかっていない。
生け贄はユダヤ人でも、韓国人でも、本質的になにものでもよい。
そこに「八つ裂き」可能な誰かであれば良い。

結局、ラカンの有効性はこの点にあるんだね。
「生け贄」を求めることが人間の条件であるということ。
あなたも最低のクズであることから始めなさい、ということですね。

だんだんなんの話がわからなくなってき・・・
569473:2006/07/07(金) 21:41:37
>>568

ねえ、あなたの間違いを訂正したのは「ディオニュソス的」という
ニーチェの言葉についてであって、ラカンの「享楽」についてではないよね?
それを何で「享楽」に言い換えるの?そういう事するから話が分からなくなるんじゃない?
いちいちこういう点を訂正しなきゃならないんだったら、議論なんて成立しないんだけど。
「享楽」についてはどうかしらないけど、あなたの「ディオニュソス的」についての理解は間違っているの。
ちゃんと言おうと思えば言えるけど、それはニーチェからの手紙の引用見ても解るでしょ。
と、いうか、普通に考えればそれ以前の問題なんで、そんな事の為に
引き合いに出されたらニーチェだってホントいい迷惑だよ。
570考える名無しさん:2006/07/07(金) 22:00:27
気持ち悪いしゃべりかただな。
論点のみでよし。それでなくても分裂病的なんだから。
「ディオニュソス的」と「享楽」は違いだろうってことだよ。
571473:2006/07/07(金) 23:10:18
>気持ち悪いしゃべりかただな。論点のみでよし。

不必要な言い換えの為に論が進みそうになると進まない事の
繰り返しだったから、これ以降おこらないようにとね。

>それでなくても分裂病的なんだから。

一人だけハンドルネーム(とは言えないかもしれないけど)
で、あとみんな匿名で誰が誰だかわからない状態で発言を重ねていると、
個人の資質の問題じゃなくてそうなるよ。不慣れなせいもあるけど。
ニーチェはそれのもっと非道い状態におかれる事を自分で選んだ、
って考えればそんなに間違っていない。
分裂病か否かっていうのは半分は本人の問題だとしても、
もう半分はそれに関わる人の問題だと思うよ。
少なくともニーチェに関しては。
だからノマド(遊牧)とかいうのは比喩としてはおかしい。
彼には期待していたパートナーがいたからね。

>>557

遅くなったけど、ドゥルーズはかなり正確にニーチェを理解していた、
にもかかわらず二人称の話は『ニーチェと哲学』の中には一切出てこない。
ドゥルーズを批判するとしたらその点だろうね。他の点での批判は難しいと思う。

>>548

それとアリアドネはただの女性じゃなくて夫に捨てられた女性であるという点も重要。
二人称への愛によって、固有名(テセウス)への愛を忘却させようとしたんだと思う。
572考える名無しさん:2006/07/07(金) 23:13:03
もっともらしく熱く語る奴や張り切って哲学勉強する奴は
たいてい哲学が苦手。
573考える名無しさん:2006/07/07(金) 23:14:59
わかったから「二人称」を観念的、形而上学的に語るのは止めて
論理的に語ってくれ。
574473:2006/07/07(金) 23:20:20
もうかなり語ってるんだけど、どこが不満かね。
575考える名無しさん:2006/07/07(金) 23:24:29
「悲劇の誕生」のディオニソス的で集合的生の力が、その後利己的な力への意志、超人という
エセ進化論的に湾曲されていくのがつまらない。
ドゥルーズも「器官なき身体」で当初個体的なイメージで生をとらえていたが、
その後ノマド、リゾームと集合的イメージへ向かう。
576考える名無しさん:2006/07/07(金) 23:28:16
>>574
「二人称への愛」とはロマン主義だな。
ニーチェの小説としての感想だな。
哲学的な論理性がないよ。
577473:2006/07/07(金) 23:37:39
>>576

じゃ、その批判はニーチェにして下さい。
キルケゴールにも同じ事言って下さい。
578考える名無しさん:2006/07/07(金) 23:45:16
ごめん
この意味をニーチェ的に解釈してください
579考える名無しさん:2006/07/08(土) 00:03:13
>>577
そこからいかに読みとるかが哲学だろう。
580473:2006/07/08(土) 00:12:26
>>575

レス読んで下さい。
力への意志って翻訳は間違っています。
「権力(への)意志」であって、これは利己的では必ずしもないの。
「あなた(への)愛」って事だと考えて欲しい。

>>578

これじゃ駄目?
581考える名無しさん:2006/07/08(土) 00:20:20
>>580
「そうだからそうなの。」って。
なんですぐに閉じちゃのかね。
「二人称」の欠けらもないw
582473:2006/07/08(土) 00:26:41
>>「二人称」の欠けらもないw

「あなた(への)愛」の最初の「あなた」って
二人称だと思うのは私の気のせいかな――。
君の言語解釈はなかなか面白い。と、いうのは半ば冗談だけど、
多分したい批判や質問は他にあるんだろうけど、
私にはそういう言い方じゃ解らないんだ。
583考える名無しさん:2006/07/08(土) 00:48:37
・・・なにをいっているんだ???
584考える名無しさん:2006/07/08(土) 00:56:54
「二人称」は不可能である。これは独我論的に解釈できる。
ここまではふつーの認識論だよな。

「二人称」の可能性は、いままで言及されたニーチェの小説としての
感想以上の、哲学的に議論できるようなものがあるのか。
ってことだよ。
585473:2006/07/08(土) 01:30:51
『ツァラトゥストラ』は叙事詩だよ。
小説で二人称は読者に届く人称としては普通機能しない。
ビュヒナーみたいなことをやるとだから実験といわれる。
ニーチェはだから小説をあまり評価しなかった。
君がいいたいのは詩だろう。それに牧師の説教とか。

>「二人称」は不可能である。これは独我論的に解釈できる。
ここまではふつーの認識論だよな。

認識論だとしたら既に哲学の一分野であって、「感想」ではないだろう。
それでもまだ君が納得できないなら、他に問題があるわけだ。

こんな言葉使いじゃ、何がいいたいのか解らなくても私の責任ではないよ。
投稿しながら明らかになった事もあるし、レスを返してくれるのはありがたいが、
言葉をしっかり選んで欲しい。

それでも納得できていないという事は解ったから、
手探りで答えるが――

二人称は存在論につながる。ニーチェとキルケゴールの存在解釈は、
「SはVである」ではなく「Sがある」でもなく「君がいる」が基本になる。
それと同じ事かもしれないが、時間論もこの点から新たに解釈しなおされる。

というような事では君の要求を満たせないかな?
586474:2006/07/08(土) 01:34:04
>>571
ノマドはニーチェ論でのみ出てくる用語じゃないと思うが。
また、ノマドは漂泊者ではなく、移動生活者な訳で、
ドゥルーズ本人も「遊牧民は旅などしない」と言ってる。
パートナーがいたから遊牧民じゃないというのは通らない。
ジルにはファニーが居たわけで。
>>584
>感想以上の、哲学的に議論できるようなものがあるのか。
議論できる可能性があり得るし、それをしていないのがこのスレの流れだろう。
独我論者であっても他者の存在は信じざるをえない。(確認不可能であっても)
だから二人称がなされるのは不可能ではない。(認識論を括弧でくくれば、の話)
こういう前提に立って二人称の効用を語ることは出来る。
それがニーチェを語る上で重要かは分からんが、重要だと主張する論者がいる以上、
それについて語るのを面倒くさがるのはよくない。
俺は語った結果、否定的な結果に終わると思うが、やる価値はあると思う。
587473:2006/07/08(土) 01:53:25
>>586

ノマドとは特定の居場所を持たない人の事であって
パートナーを求めない人のことではない、って事だね。なるほど。
ニーチェについてはあんまり上手だと思えないんだよね。
っていうか、ニーチェは結婚(マリッジ)の人だ、とでもいった方が
エンゲージ(契約)の人達との対比ではエレガントなんじゃない?

君の指摘はありがたいけど、「否定的な結果に終わると思う」なら、
その根拠を示して貰いたいね。私が既にいくつ例を挙げたと思っているんだい?

今まで「不可能なもの」とは何かはよく議論されてきたけど、それは固有名だったり、
主客未分化状態のものだったりとやっぱり二人称でしょ、って事ね。
これは既に不可能なものを巡る考察の進展だよね?
588考える名無しさん:2006/07/08(土) 01:56:09
君は眠らないんですか?
体が心配です。
589考える名無しさん:2006/07/08(土) 02:00:20
>>585
ご託多いな。
でもご託多いときは、答えられないときというのが
わかってきたよw

>二人称は存在論につながる。ニーチェとキルケゴールの存在解釈は、
>「君がいる」が基本になる。

他者の不可能性は、哲学の基本問題の一つでしょ。
これではいかんともしがたいね。

いろいろな試みがあるよね。
ある哲学者は、たしか愛の不可能性への近接は、射精のあとのつかの間に
あるって言ってたな。
先にあげたように自然主義的な解釈もあるし。
590473:2006/07/08(土) 03:22:40
>ご託多いな。
でもご託多いときは、答えられないときというのが
わかってきたよw

答えられないって最初から言っている。
と、いうのは、発言が内部で矛盾していて意味をなしていないから。
それを明確にして欲しいって言っているんだよ。


591553:2006/07/08(土) 10:40:11
>>563
その気持ちも分からなくはないが、他の人間を持ち出すのに重要な意味がない気がするんだが。
こういう所で議論するかぎり仕方ないんだが、「記号による省略化」の色がもっと深くなる気がして。
誰か特定の相手がそれを知っているとして、理解の助けとして使うにしても、度を越すのはよくないんじゃないか。
ここがニーチェスレであるかぎり、「ニーチェの全てを知っていること」を前提とするならともかく、それ以上は求められないでしょう。
知らない人には文章の全てが意味不明になるわけだし。
文章の目的を変えずに、一般的な言葉で自分自身の論理展開をされた方が有意義と思うのだが。

>>564
「高人」云々を持ち出したのはあなたです。私ではありません。
「超人」がニーチェの主要な問題であるにしても、ニーチェを語る時、全てが「超人」に向かう必要があるとは思いません。
ニーチェという思想家がそれほど浅はかであるとは思いません。
あなたはある種の独断論者であり、あなたがニーチェの繊細さを理解しているとも思えません。
あなたは何らかの反論を用意するでしょうが、私はあなたと話したくありません。
592473:2006/07/08(土) 14:58:35
>>553

誰が誰だか解らない状態では議論は難しいので、まだ論と言える状態ではないと感じています。
ですが、これは私だけではどうにもなりません。

ニーチェについての議論から外れて、その言葉の定義に足を取られて無駄な時間が費やされる、
という事にならなければ他の言葉を使うのも良いのですが。

高人=ましな人達は、凡庸化に耐えられない知識人達だと考えて下さい。
ツァラトゥストラ第四部は全てがこの問題にあてられています。
それに対して末人=凡庸は第一部の一つの章で語られるだけです。
ですから、これだけでも、ニーチェがどちらを重視したか解るでしょう。
どちらも超人ではありませんが、超人産出の条件とニーチェは考えています。
ニーチェの全てを知っているわけではありませんが、この点は明確です。

キルケゴールを参照するのは無駄とは思えません。ニーチェを読んで超人になるか否かは、
キルケゴールを読んでキリスト教徒になるかどうかという問題とよく似ているのですから。
それが必要であるか否かは各自の問題であって、まわりは問題とならないのだ、という事です。
度を超してはいませんね?
593考える名無しさん:2006/07/08(土) 16:14:01
>>591
>知らない人には文章の全てが意味不明になるわけだし。
>文章の目的を変えずに、一般的な言葉で自分自身の論理展開をされた
>方が有意義と思うのだが。
言いたいことはよく分かるし、半分は同感もするんだけど、今まで
「私にとってのニーチェ」というか、ニーチェのテクストは多様な
解釈を許してしまうから、それぞれの読解を述べてあれこれ言い合って
も、最終的にどうとでもとれてしまう、という風にしかならない気がする。
もちろん、そうしたやり方が無益なことだとは思わないけれども、
堂々巡りに終始する気がしてしまうんだよね。
だから、他の思想家の思想、例えばキルケゴールはかなり親近性があると
思うけど、そうした対比を通じてニーチェを逆照射してみる試みが
あってもいいと思うよ。知らない人は「もっと詳しく」とレスすれば
いいんだし。両方あっていいと思う。
594考える名無しさん:2006/07/08(土) 16:54:26
>>555
>「私はあなたをどの固有名にも結びつかない
>二人称性において愛した。今度はあなたの方が私にそれをする番だ。
>あなたの愛に相応しい存在になる為に、私は自分の固有名を捨てなければ
>ならない」

ニーチェ晩年の手紙(これがそもそも議論の始まりだった)
に書かれている「私はかつてキリストであり…ワーグナーであり…」云々という
のは、普通、「固有名の回帰」という風に解釈されて、「一回性の回帰」と
いう風に読まれてきた(ドゥルーズもそういうニュアンスがある)と思うけど、
あなたの解釈だと「固有名の解体」となるわけですね。
595594:2006/07/08(土) 17:00:29
固有名の解体というのは「一人称の解体」とは違いますよね
一人称に複数の固有名を負わせる、っていうことになりますね。
私はキリストであり、ワーグナーであり…と。順序としては
まず私という一人称に複数の固有名が負わされて、次に「あなた」
というニ人称に固有名の解体を迫る、ということでしょうか?
>今度はあなたの方が私にそれをする番だ

このニ人称は超越的なものとして表象してはダメですね。レヴィナスは
超越的な汝という感じがします。西田幾多郎も「私と汝」における「汝」
は「無の場所」なので、超越性として表象してますね。こうした思想とは
ニーチェのニ人称は違うということですね。
596考える名無しさん:2006/07/08(土) 17:08:57
>ニーチェのニ人称は違うということですね。

だからなにが違うのかってことでしょう。
僕は聞いてると、ニーチェ萌えさんたちは、
単に現在では、一般化しているデリダであり、ラカンの「不可能性の他者」の
思想をしらないだけではないかと。
597考える名無しさん:2006/07/08(土) 17:14:23
>>558
>渡辺哲夫が「知覚の呪縛」の中で分裂病者の自我を語るのに、
>身体自我なる語を使っているけど、これはニーチェの最後の手紙の
>自我に近いね。エスのあったところに自我をあらしめよ、っていう
>言葉があるでしょ?いわば、最後の「私」は他者にとってのエスで
>あるドゥの位置に移行した自我なんじゃない?

自分も昔はニーチェ晩年の手紙を分裂病と結びつけて考えてたけど、
最近、こういう結びつけは少し安直なような気がしてきてる。
渡辺某の著作は読んでないけど、統合失調症の症状には「させられ体験」
とか「思考伝播、思考奪取」という自他の境界が崩れる症状が確かに
あるけど、ニーチェに関しては、やはり病気を持ってこずに、どうにかして
これを哲学的言説として、論理的に考えたい気持ちが強い。難しいけど。
598考える名無しさん:2006/07/08(土) 17:18:48
>>596
>ラカンの「不可能性の他者」の思想をしらないだけではないかと

ラカン使っちゃうと、何でも説明できちゃうところがあって、
ラカン派精神分析の言説は敬遠したところで、ニーチェを考えたい
599考える名無しさん:2006/07/08(土) 17:18:54
では脳梅の痴呆症状と考えよう。
600473:2006/07/08(土) 18:27:04
>ラカンの「不可能性の他者」の思想を知らないんじゃないかと。

何千億回言い返せばいいのかね。知らない知らないっていうなら、
自分が知っている知識を提示すればそれで済む。それに多分君よりは知っているよ。
だが、私が問題にしたわけじゃないから言う必要はない。

>単に現在では、一般化しているデリダであり、

デリダはレヴィナスと同じで固有名についての考察からはじめて、
「アデュー、エマニュエル・レヴィナスへ」や「火、ここに無き灰」の
ような二人称の考察はその後だろう。これでは話がややこしいし、
ニーチェとキルケゴールを考察する際は、これは順番が逆だ。

私もまだ解らないところがあるが、精一杯やってるつもりだ。
そういう誠意が君にはまるで感じられない。投稿しながら明らかになっていくこともあって、
レスを返してくれた人には本当に感謝しているんだが。

>>597

論理学と哲学は直結しない。論理学には「時間」がないから。
特にニーチェの場合はこの点が重要になるので、
論理的に語れるかどうかは私には何とも言えないね。
ラカンのいうように、悲劇だって、真理が届く時間の差異で成立してるわけだ。
ニーチェを分裂病に結びつけても分裂病とは何かがよくわからなかったら袋小路だよな。
ニーチェは人を愛した後、愛の受け手が愛の贈り手になる事を要求している。
もしニーチェが分裂病的だとしたら、その分裂病的状態は、分析家に転移を起こさないのではなくて、
むしろ分析家が自分を愛することを要求している状態だろうね。
(これは共依存とか境界例とかの関係とは少し違う)

601473:2006/07/08(土) 18:28:50
>>594

まずフリードリッヒ・ニーチェ氏がいて、
氏がコージマ女史を愛せばそれでいいんだが、
どの名にも結びつかない二人称的な愛を彼女に捧げた。
そしてその後ニーチェ氏に宿っていた「私」はニーチェ氏の名を捨てた。
ニーチェ氏も「私=ディオニュソス」のつけた仮面に過ぎなかったわけだ。
今までこの神は無数の名前の奥に潜んできたけど、これからもそうなるだろう、という事。
無数の名は、背負わされたのではなくて、新たに一つ捨てられた事になるね。

レヴィナスは上にあげた理由でまずい。

西田は「我−汝」が一つになるような考え方をしているから駄目だね。
「我」との間に解消不可能な「二者性」を成立させるのが汝だから。
602考える名無しさん:2006/07/08(土) 18:41:46
>>598
>ラカン派精神分析の言説は敬遠したところで、ニーチェを考えたい

ラカンということでなく、「不可能な他者」は哲学の一つの臨界だから、
それを避けると意味がないと思うが・・・
603考える名無しさん:2006/07/08(土) 18:47:09
>>600
おまえはホントおもしろ馬鹿だな。

>私もまだ解らないところがあるが、精一杯やってるつもりだ。
>そういう誠意が君にはまるで感じられない。投稿しながら明らかになっていくこともあって、
>レスを返してくれた人には本当に感謝しているんだが。

自己中心を当たり前に語れる病的がおもしろすぎる。

じゃあ、いうよ。後とか前とか、オマエの都合は良いから、
オマエが精一杯されると困るから、どっかよそでやってくれ。
604考える名無しさん:2006/07/08(土) 18:58:41
>>600
>論理学と哲学は直結しない
いや、論理学に話を持っていきたいわけじゃなく、「論理的に」語り
たいだけ。別の言い方をすれば、病気というものに還元したくない、
ということ。

>むしろ分析家が自分を愛することを要求している状態だろうね。
フロイトは統合失調症患者をナルシシズム神経症と呼んでいて、これは
精神分析の臨界点なのね。分析家に転移してこないから、精神分析では
治療が成立しない。分析家に無関心、冷淡な患者として現われる。
605考える名無しさん:2006/07/08(土) 19:00:22
>>602
>ラカンということでなく、「不可能な他者」は哲学の一つの臨界だから、
>それを避けると意味がないと思うが・・・

不可能な他者を避けたい、ということではないよ。ただラカン派精神分析の
言説でニーチェを解読したくはないな、っていうこと。
606考える名無しさん:2006/07/08(土) 19:09:13
>>601
>そしてその後ニーチェ氏に宿っていた
>「私」はニーチェ氏の名を捨てた

キルケゴールにはこうした展開は起こってないね。キルケゴールは
婚約破棄という形で逆説的に、どこにも結びつかない「愛」を
レギーネに捧げた、という言い方が出来ると思うけど、キルケゴール
は別に固有名に固執してる、あるいはそれを巡る問題はあまり顕在化
しているようには見えない。そうすると、このニ人称の問題は、ニーチェ
とキルケゴールでは質的に違っているものなのかね。
607考える名無しさん:2006/07/08(土) 19:12:31
>>601
ニ人称の問題とは離れるけど、ニーチェには「主観が一つであると考える
必要はない、主観が多数あると想定して差し支えない」という言葉が
あるよね。主観の同一性、唯一性を疑っている思考がある。これを
晩年の手紙の多数の固有名の回帰と結びつける考え方もあるんだけど、
その辺はどう考えてるの?
608考える名無しさん:2006/07/08(土) 19:39:20
>不可能な他者を避けたい、ということではないよ。ただラカン派精神分析の
>言説でニーチェを解読したくはないな、っていうこと。

それでも良いんだけど、「不可能な他者」をいかに可能にするか
という論点が必要だと思う。

レヴィナスやデリダは開いていくことに求め、、
ポンティやドゥルーズでは身体性(器官なき身体)に求めた。
609473:2006/07/08(土) 20:07:14
二つにわける――。

>>604

>分析家に転移してこないから、精神分析では
治療が成立しない。分析家に無関心、冷淡な患者として現われる

無関係、無関心というより、分析家が要求するのとは別の関係を
彼らは求めているんじゃない?それが分析家の言説では見えない。
「自我−超自我−エス」っていうけど、臨床の場面では
Ich-Duの関係に入るでしょう?この臨床の場面では成立している
「二人称性」を理論の組立の中で「超自我(他我)」にすり替えてしまうから
おかしな事になるんじゃない?病気の話はしてて面白いけど、
私だって確かな知識があるわけじゃないし、行きがかり上だって事を忘れないで欲しい。

>>606

>キルケゴールにはこうした展開は起こってないね。
>キルケゴール は別に固有名に固執してる

外から見ているからそう言えるのであって、
それはニーチェと変わらないよ。前にも引用したけど
著作活動の中では誰かの名前はレギーネも含めて全く問題になっていない。
だが、彼はレギーネの名前を歴史に残そうとしている。これもやはりニーチェと同じだね。
でも、こういう事を彼らがする意義が、私にはよく解らないんだな――。
610473:2006/07/08(土) 20:21:17
606へのレスに補足だけど、

レギーネがもしクリスチャンとしてキルケゴールを愛することになったら
それは別にキルケゴール氏である必要はないわけね。
『愛のわざ』の中ではそういう問題を扱っていて、
これはニーチェで言えば『権力への意志』に相当する。

>>607

二人称から離れてしまうと私よりも上手に説明できる人がいるだろうけど――。

固有名の回帰っていうのはどういう意味かね。私は名前「だった」って言っているんだから、
もうこの私は特定の名前に結びついていない、って考えるのが普通じゃない?

複数の主観っていうのは、一つの対象をいくつもの視点から見るという事じゃなくて、
主人と奴隷だったら、主人が見る奴隷と、奴隷が見る主人の差異から両者の違いを考察していこうって事だよね。

ラカンに「君が私を見ている位置から、私が君を見ることはできない」っていう
言葉があるけど、それがある条件においてはできるとニーチェは考えたんじゃないかな。

って言うんじゃだめ?
611考える名無しさん:2006/07/08(土) 20:31:16
ここはおまえの勉強会じゃねぇ!
なんでいまさらここで認識論の基礎からやらなあかん?
612考える名無しさん:2006/07/08(土) 20:33:56
>>610
>主人と奴隷だったら、主人が見る奴隷と、奴隷が見る主人の差異から両者の
>違いを考察していこうって事だよね

いや、ニーチェのどの著作がこの言葉が言われていたか、もう忘れてしまった
けれど、主人と奴隷の比喩で語れるようなものではなくて、ニーチェは意識と
いうのは、既に統一され、整理され、秩序付けられてしまって人間に現われる、
主観というのはそういうものであって、本当は違うんだってことを言ってる。
多数の主観が1人の個人の中にあって、それらが専制政治をしていて、ある時は
この主観が優位に立ち、ある時は別の主観が優位に立つ、そういう力動的な、
ダイナミクスみたいなことを語ってる。
自分は昔、これをヒュームに結び付けて考えてたけどね。ヒュームは同一の自己
というのは仮象に過ぎない、自己は複数である、みたいに語った人だけど、
でも今ではヒュームのモデルではないな、ニーチェは、と思ってる。
613考える名無しさん:2006/07/08(土) 20:41:17
>>609
>臨床の場面ではIch-Duの関係に入るでしょう?
対象関係論とかではそうとも言えるけど、フロイト−ラカンの臨床
ではちょっと違う気がする。フロイトが使ったのは自由連想法だけど
むしろ分析家は何もしない。ただ患者に語らせる。ときどき指摘を
するけど、そのときの患者の抵抗や否認に注目するわけね。そこに
患者の無意識を見出そうとする。つまり単純なIch-Duではなくて、
患者の抵抗と否認においての無意識的領野を臨床の現場に出現させる
ことを目的とする関係だね。でももうこうした精神分析技法は古典だけど。
614考える名無しさん:2006/07/08(土) 20:51:29
>ラカンに「君が私を見ている位置から、私が君を見ることはできない」っていう
>言葉があるけど、それがある条件においてはできるとニーチェは考えたんじゃないかな。
>って言うんじゃだめ?

ふつうに「不可能な他者」だろ。
615考える名無しさん:2006/07/08(土) 20:56:40
結局、ニーチェは後生の思想家に多くの影響を与えたが、
それはインスピレーションであって、ニーチェ自体に厳密さを求めるのは
違うのではないかな、と思うんだよね。

ハイデガーは、ドルゥーズは、デリダは、ニーチェから
どのようなインスピレーションを受け、どのような思想を展開したかは
意味があるが、いまではニーチェ自体に厳密さを求めてもしかたがない。

「二人称」ということに「不可能の他者」を越えるものがあるというのは、
深読みしすぎて、その問題意識に前に詩的な言葉でしかない、
ということでは・・・というのは、結論かな。



616考える名無しさん:2006/07/08(土) 21:00:03
これ以上に展開は見えないので、僕は降ります。
473は作品を読み込み転移するのは良いが、
現代思想の流れとして、きちんと全体を理解した方がよいぞ。
617474:2006/07/08(土) 21:19:13
この板にしてはかなり速い流れだな。
>>615
ニーチェスレの存在意義が無くなるような気がする。
618473:2006/07/08(土) 22:13:57
>>612

>主人と奴隷の比喩で語れるようなものではなくて、

『道徳の系譜学』及び『ニーチェと哲学』をお読みになることお勧めいたします。
固有名が無数に云々の意義は重要だとは思うけど、いまのところ私にはわからない。
その上でのレスだったんで、混乱させたかもしれない。君が語れるなら聞いてみたいけどね。

>>613

>対象関係論とかではそうとも言えるけど

何もしないでただそこに「いる」分析家の「現前」に相当するのが二人称なんじゃない?
この二人称性は言説の内容とは別に「いる」。で、それを通じて抑圧されたモノも想起されるわけね。
この関係をキルケゴールやニーチェは著作を通じてしていた。そして、著者と読者の関係は分析のそれのように非対称ではない。
両方が両方に対してDu的な他者として機能する。ニーチェとフロイトを分けるとしたらこの点じゃない?
改めていうけど、分析の話は行きがかり上。
619473:2006/07/08(土) 22:14:49
>>614

>ふつうに「不可能な他者」だろ

君の言葉でそうなるならそれでいいじゃん。ていうか不可能な他者っていうのはニーチェ以外のジャーゴンなので、
使うなら行きがかり上にしてね。

>>615

>ハイデガーは、ドルゥーズは、デリダは、ニーチェから
どのようなインスピレーションを受け、どのような思想を展開したかは意味がある

それはそれぞれの哲学者のスレッドで。ここでは彼らの理解をニーチェの側から考察すべきでしょ。

>「二人称」ということに「不可能の他者」を越えるものがあるというのは

二人称が、ニーチェにあってもキルケゴールにあっても「いわゆる」不可能な他者なのね。
で、615との議論は他でやって下さい。で、二人称でしか呼び得ないものの位置に自らを捧げた固有名が
イエス=キリストであり、ツァラトゥストラなの。この話はあんまりしていないけど。
620473:2006/07/08(土) 22:16:04
>>616

>現代思想の流れとして、きちんと全体を理解した方がよいぞ。
>僕は降ります。

615へのレスを参照お願いいたします。大体現代思想云々いうんだったら、
キルケゴールなんかは倫理的単独者から信仰の騎士への移行を神を三人称で呼ぶことから
二人称で呼ぶ事への移行としてはっきり記述しているんで、『畏れと戦き』よんでれば直ぐピンとくる筈なんだけど。
流れを弁えていないのは自分じゃん。私はそういう事で馬鹿にする気はないけどさ。

二人称を中心に据えると、権力への意志、永遠回帰、ニヒリズム、超人の理解が容易になるって事。
ていうか、「僕は降ります」っていわれても誰だかわかんないんだから意味ないんだけど。
そういう事いうなら、どの人だったか明記したら?分析の言葉使っているから、
613かもしれないし、だったらレス返すの虚しくなるからさ。

>>617

レス返すスピード落とした方がいいのかな?レス返してくれる人にとっても。
621考える名無しさん:2006/07/08(土) 22:20:03
なんかへんなのに居座られちゃったな。
622考える名無しさん:2006/07/08(土) 22:24:22
>>621

ニーチェについての発言以外邪魔
623考える名無しさん:2006/07/08(土) 22:26:18
>>621
意味不明な長文を連投されるのに較べたらよほど健全。
624473:2006/07/09(日) 02:33:04
>>612

答えがまずかったかな。

>多数の主観が1人の個人の中にあって、それらが専制政治をしていて、ある時は
この主観が優位に立ち、ある時は別の主観が優位に立つ、そういう力動的な、
ダイナミクスみたいなことを語ってる。

専制政治ではなく、身体の仕組みは寡頭政治的だという発言だね。
善悪の彼岸以降の著作にある。
この複数の主観は互いの存在を自己の存在条件にしているから、
それがネックになって互いに身動きがとれなくなってしまう。
それを再び動けるようにするのがツァラトゥストラの役割なんだが、
でも固有名の問題はよく解らないな。

>でも今ではヒュームのモデルではないな、ニーチェは、と思ってる。

ヒュームじゃないとするとこれもやっぱりキルケゴールだね――。
でも何でヒュームじゃないの?

625考える名無しさん:2006/07/09(日) 02:34:09
>>618
>何もしないでただそこに「いる」分析家の「現前」に相当するのが二人称
>なんじゃない?この二人称性は言説の内容とは別に「いる」。で、それを
>通じて抑圧されたモノも想起されるわけね。この関係をキルケゴールや
>ニーチェは著作を通じてしていた。そして、著者と読者の関係は分析のそれ
>のように非対称ではない。両方が両方に対してDu的な他者として機能する

う〜ん、ごめんなさい。できるだけ今まで誠実にあなたのニ人称読解に
付き合ってレスしてたけど、さすがによく分からなくなってしまった…
精神分析に関しては「行きがかり」とあなたもお認めになってるので、
これからは精神分析は抜きにして、純粋に哲学的、理論的にニ人称の
読解を展開して下さるよう期待します(できれば分かり易くw)
自分に対応できるか自信ないけど、他の誰かが対応してくれるでしょう
>>623が言うように今までこのスレは変な書き込みが多かったので、
あなたの書き込みが何らかの示唆を与えてくれることを楽しみにしてます
626考える名無しさん:2006/07/09(日) 02:41:03
>>624
>でも何でヒュームじゃないの?
ヒュームの場合は、時間的継起による観念の連合という発想が
思考の根本にあって、時間的同一性によって明証的とされる自我の
同一性を疑う、という思考発想なのね。それとニーチェの言う
諸主観の専制政治、という形での統一的自我の明証性を疑う姿勢とは
根本的に違うものだろう、と最近は思ってる。ニーチェの多数主観説
には、どこか力動的、生成、ダイナミズムみたいなものが感じられる。
ヒュームは単に線的な時間、リニアな時間における自我の同一性を
疑っただけだと思うのね。そこに差異があると思う。
627考える名無しさん:2006/07/09(日) 03:02:04
>>624
少し余計なことを言うと柄谷行人が、ニーチェの多数主観説は
その後フロイトの無意識理論に受け継がれた、と主張してるのね。
自分はこれはかなりこじつけめいた、疑わしいものだと思うけど、
ただ主体の明証性を疑う思考として、フロイトのリビドー理論も
「力動的」に展開されてる、という意味では、強いてどちらかと
言えばヒュームよりフロイトの心的モデルの方がニーチェに近い、
とは言えるかもしれない。そういうダイナミズムみたいなものは
軽視するものではないと思うのね。ただ、最初に断ったように、
別にフロイトもニーチェ読んで無意識の発想したわけじゃないと
思うから、これはヒュームとの差異をはっきりさせるための蛇足に
過ぎないけど。
628考える名無しさん:2006/07/09(日) 03:25:10
>>618
>固有名が無数に云々の意義は重要だとは思うけど、
>いまのところ私にはわからない。
>その上でのレスだったんで、混乱させたかもしれない。
>君が語れるなら聞いてみたいけどね

ニーチェ晩年の手紙、あるいは「私は歴史上のあらゆる名前である」
という言葉があったと思うけど、固有名というのはドゥルーズ風に
言えば「存在の一義性」、端的にそのものの固有性、唯一性を名指す
一種の存在論になると思うのね。ドゥルーズはルクレティウス、
エピクロス、スピノザ、ニーチェといった思想家たちにそうした存在論
があると言っていて(ニーチェもスピノザを自分の先行者だ、と手紙で
言っている)、この存在論は、一言で言えば「肯定の思想」だと思うのね。
何に敵対してるかと言えば、否定性を持ち出す思考、例えばヘーゲルの
それ−とは異なる思考のあり方をしている、という解釈。それで、晩年の
手紙では固有名が回帰している、これはスピノザの神即自然という存在の
一義性としての世界観を動態化したもの、として捉えられることになる。
自分はそういう線でニーチェを考えてたけど、あなたの主張だとフランス
現代思想の面々は固有名に引きづられていて、ニ人称の意義を見失っている
ということになるわけだよね。だからそのニ人称の意義をもっとよく
ご教示頂きたい、という感じであります。
629553:2006/07/09(日) 12:16:37
>>592
すまん。たぶん>>591の俺は冷静さを欠いていた。
つまり俺は冷静でいられない理由があったわけで、それを正直に告白しておきます。
まず>>553の時点では俺は473に全く関係してなかった。
553は「ニーチェは改革とやらにそんな積極的だったか? もっと乾いてたように思うが。
凡庸化がいきつくところまでいくって未来予測もあったし、実際世界はそっちに流れてる」ってそれだけのつもりだった。
それを>>554で、473のものさしでさも間違っているかのように指摘されたのが不快だったわけで。
ただ今考えると、553とツァラトゥストラは無関係なんだが、553が>>551を受けてるもんだから、俺がツァラトゥストラを誤読してるって誤解されたと思うんだ。
しかしこの時の俺は「ニーチェを読む人間全てが超人のこととか、他の哲学者と比べてどうとか考えるわけじゃないし。
「ニーチェの現代分析面白えなあ」とか「おお、この未来予測あたってる」とかでもいいだろ。自由だろ」と考えた。
だから、>>562は落ち着きが無いながらも「ニーチェが超人を重要視してたことはわかってるがこんなことも言ってたはず」と主張したつもりだった。
さらにあなたの解釈を説明して欲しかったわけじゃなかった。
しかし>>564では俺の目的は理解されず、さらに講釈をたれられる(という印象を受ける)
「別に俺は超人目指してるわけじゃねえ! 世の中に一物あるわけでもねえ!」ってことで>>591
噛み合わない会話にいらつきながらも、俺がツァラトゥストラ読んだわけじゃないし、ニーチェがどうのって持ちかけたわけでもない、と示す。
つまるところ「全ての人間があなたに語りかけているわけではないのだから、あなたの視点から語りかけられても困る」と言いたかっただけなのです。
しかしまあ結局俺は俺の名誉を守りたかっただけで、誤解と思えばすっきりするのでそう思っておきます。(長々と)すみませんでした。
630473:2006/07/09(日) 16:12:26
>>626-628まで同じ人だと仮定するけど……

ニーチェも時間継起はあるよ。彼は「意志(と)表象」を「権力(への)意志」
に変えたけど、(と)が(への)になったのは時間のニュアンスを持たせたかったから。
でもこの継起が逆流する。AへのBがBへのAになる。それはヒュームにある?
フロイトは自分とニーチェの関係言われるの嫌がってたよね。ニーチェだって願い下げたと思うけど。

ニーチェが肯定の思想家だっていうのはそうなんだけど、
ドゥルーズの言っているように「獅子の否」を経た後の肯定であって、
なんでも肯定するのは四部に出てくるロバの立場でしょ。
この「獅子の否定」に相当するのが二人称Du。
無に対応する言葉は二人称だ、っていう詩を、ツェランは
作り続けて、ニーチェに匹敵する人はかつての文化英雄の中ではこの人だけだと思う。
本当に彼の詩は美しいから。言葉は少数の特権者の遊び道具ではないっていうことがよく解るよ。
スピノザが面白いのは、ルサンチマンから自由だからでしょ。でも著作の中ではそんなに誉められてないよね。

>>625>>629

私も、やっぱり無意味な横やりでしかなかったものからイエスノーで答えられるものから、
こっちも頭を使う質問まで全部に応えてきて、そういう中での考えの提示だったから、
纏めて言うのは難しかった。さて、どうしたものだろう……。

末人と高人については議論の余地はなく、自由ではないよ。
彼らの出現をニーチェは迷いはあっただろうけど、最終的に受け入れたのね。
読んでいないなら、ツァラトゥストラは全ての人に差し出された書物だから、
是非読んで下さい。私は手塚訳をお勧め致します。
631考える名無しさん:2006/07/09(日) 16:49:35
>>630
>AへのBがBへのAになる。それはヒュームにある?
自分の知る限り、そうした時間感覚?時間論はヒュームにはないね
フロイトはニーチェに限らず哲学者との対比を嫌ってたね

>ニーチェに匹敵する人はかつての文化英雄の中ではこの人だけだと思う
そう、ニーチェもそうだけどツェランも最も美しいドイツ語の書き手だと
思う。ただニ人称についてはアウシュビッツの死者たちという問題を
離れては論じられない気がするけど…ニーチェと対比させてしまうのは
どうかな…
632473:2006/07/09(日) 17:23:59
ニーチェはフロイトが金とってやる事を金払ってやってた。

「AへのBがBへのAになる」。ここが解ってないから
ハイデガーのニーチェ解釈は駄目で大事なところで誤読をするんだ。
おかしな影響を受けて日本でも「権力」と訳すべきところが「力」のままだし――。
さっさと研究家諸子に指摘して貰いたい。

ツェランは、「誰でもないもの」である「あなた」に向けて、僕らはあった、ある、あり続けるだろう
と歌い上げるんだから、これは完全に永遠回帰じゃない?指輪の象徴もあるし。
「僕ら」が複数なのが気になるけどね――。

ツェランはだから二人称の力に頼ってアウシュビッツの死者達の固有名を忘却しようとしていた。
レヴィナスは、死者達は代え難い存在であって、その代え難さは固有名に対応するから、彼らの固有名は記憶に残し続けなければならない
みたいな事をいうけど、でも愛していた人間が失われてその人の名前が忘れられないで苦しむ、っていうのは、
当為命題としてではなくてその中に投げ込まれてしまった状況としてある。深く愛していたならね。
だから、レヴィナスはそもそも死んだユダヤ人をあんまり愛していなかったんじゃないかと思うんだけど……。

そういう点で、ニーチェ、キルケゴールとツェランは同じだよ。彼らもかつて愛した人間の固有名を
自分で忘却し、人にも忘却させるのが課題の一つだったから。
633474:2006/07/09(日) 17:39:03
>>630
一つ聞きたいのだが、
>彼らの出現をニーチェは迷いはあっただろうけど、最終的に受け入れたのね。
最終的というのはいつの段階だろう?
ツァラトゥストラを書き始めた時か? 書き始めた時迷ってて最後に受け入れたのか?
それともツァラトゥストラでは迷ってて遺稿で受け入れたのか?
これが分からないと最終的に云々も議論できん。
>>629
固定使え。そうすれば余計な問題のいくつかは回避できる。
634考える名無しさん:2006/07/09(日) 18:26:53
>>632
>彼らもかつて愛した人間の固有名を自分で忘却し、
>人にも忘却させるのが課題の一つだったから

キルケゴールについてあなたは>>609において
>だが、彼はレギーネの名前を歴史に残そうとしている。
>これもやはりニーチェと同じだね
と述べている。これは固有名の忘却ではないと思えるけど…?
635473:2006/07/09(日) 19:24:52
>>633

『ツァラトゥストラ』は何も意図せず書き進めていったにも関わらず、
その都度その都度の結論が予め意図されていたかのように思える
不思議な書物だから、難しいね。これは回帰って事の実践だろうけど。

高人達に関しては第四部で集中的に扱われている。
まあ、これはワーグナーみたいな人は、かなり見込みがあるし
自分も愛していたから救ってあげたいけど、利用するだけ利用して
やっぱり見捨ててしまおう、そうなるのは彼の責任だから、という事だね。

>>634

最初から言っているように、そこが少しややこしい。
こういう事じゃないかな。

「私たちは互いの名を忘れて、それぞれが主に結びつこう。
キルケゴールはレギーネを忘れるし、レギーネもキルケゴールを忘れる。
そしてそうして互いに自由になって、さらにイエスによって再生してから、
その時に結婚しよう」

レギーネの名は、キルケゴールにそういう試みをさせた名前として歴史に残っているわけ。
女性の名前というのは歴史に登録される名前では普通ないし――。
それを歴史に残そうとする意義は男性の名前が残っている事の意義とは別というか逆だろうね。

これは超歴史的に永遠的に存在するものである筈の神が、イエスという名前をもって
ある一時点、一地点に出現したことと関係がある。

だから、キルケゴールはレギーネの事を考えて、
というより、後世の事を考えてこういう事をしたのかもしれないね。
636考える名無しさん:2006/07/09(日) 21:19:23
>>635
>超歴史的に永遠的に存在するものである筈の神が、イエスという名前を
>もってある一時点、一地点に出現したことと関係がある

キルケゴールという男は神がイエスという1人の人間として顕現したことに
ずっとこだわった人だよね。彼の哲学、というか信仰はこの出来事なしには
考えられない。

少し整理させて貰うと、あなたの考えでは、ニーチェはコージマに、キルケゴール
はレギーネに、固有名を忘却した上で「特定の誰にも結びつかない愛」を捧げた
ということになるね。ツェランはアウシュビッツの死者たちを誰にも結び付かない
ニ人称を使うことで、死者の固有名を忘却した、と。
この整理でよしとするならば、「誰にも結び付かない愛」というのはどういう
愛を指すのか?ニーチェの隠喩では「運命愛」という言葉があるけど、それとは
違うよね。人類愛?一般的なものへの愛?
637473:2006/07/09(日) 23:02:06
>>636

>キルケゴールという男は神がイエスという1人の人間として顕現したことに
ずっとこだわった人だよね。

ただし段階があって、歴史に現れない神との関わりを経なければ、
イエスへの愛は単なる偶像崇拝になってしまう。フロイトがそう見なしたようにね。
二人称への愛は歴史に現れない神への愛であり、ある人が伝達の受領者である限りでの、
という事はその人の外的条件に左右されない全ての人への愛という事になるね。

その歴史に現れないものが歴史に現れた。キルケゴールとニーチェにはこれがあっても、
ツェランにはないように思う。ユダヤ人だからかな。

レギーネ(そしてコージマ)の名を残そうとしたのはこの条件においてだろうね。

これはなくても話は進む事ではあるんだけど、
「出来事」という言葉を見て気づいたんだが、「歴史の中のあらゆる名前」の
「歴史」って、ゲシヒテとヒストーリエどっちかな。
『反時代的考察』の中ではニーチェはこの二つを分けているけど、ご存知の方いますか?
638473:2006/07/09(日) 23:03:44
「運命愛」っていうのも二人称が効いているかもしれない。
『ツァラトゥストラ』の組立を見るとね。
639考える名無しさん:2006/07/09(日) 23:27:03
最近ニーチェに興味でてきたのだけど、ニーチェ関連の本でこれは読んどけってのある?
640考える名無しさん:2006/07/09(日) 23:54:07
『ツァラトゥストラ』を手塚訳で。
641考える名無しさん:2006/07/10(月) 00:48:02
>>635
俺の疑問に答える義務はないかも知れないが、それは回答になってないな。
>『ツァラトゥストラ』は何も意図せず書き進めていったにも関わらず、
>その都度その都度の結論が予め意図されていたかのように思える
ここを読む限り「受け入れた」のは書いてる途中とも考えられるし、
書く前からとも考えられる。
確か最後に高人達はライオンに追っ払われたと記憶しているが、
>やっぱり見捨ててしまおう、そうなるのは彼の責任だから、という事だね。
ということか。
>>639
ニーチェに興味を持った理由にもよるが、ニーチェをニーチェとして知りたいのなら、
ニーチェについて書いた本を避けた方が良い。
現代思想との兼ね合いでニーチェを活用したいのなら、
ドゥルーズなりドゥルーズの、フーコーならフーコーのニーチェ論を平行して読めばよい。

642473:2006/07/10(月) 01:16:25
>>641

番号を振り忘れているよ。

>俺の疑問に答える義務はないかも知れないが、それは回答になってないな。

やはり第四部で、だろうね。問いとの関係は稀薄だが、
高人達は即自−対自−即且対自のヘーゲル的弁証法に従った生き方をしている。
ワーグナーが正規の音楽教育を受けていない在野の音楽家として出発し、
国外追放の憂き目にあったりしながら、最終的にバイロイトに凱旋するというように。
でもこうした過程で様々なものが切り捨てられてしまい、ツァラトゥストラは
その切り捨てられたものを生み出す為に彼らを利用するわけ。
テセウスがアテナイ王になる過程で切り捨てたアリアドネだね。
ニーチェ流の、ヘーゲルとは別の理性の狡知がある。

私は手塚訳を読んで四週間ほど一睡もしなかったし、
その後一月ほど誰とも喋らなくなった。強い印象を受けたなら『悦ばしき知識』
後は私の発言を見て判断して欲しい。
643考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:20:29
四週間ほど一睡もしないとまず間違いなく数回は死ぬ
644473:2006/07/10(月) 01:22:48
でも、嘘ではないんだな。起きている時間の質も少し変わった事は確かだけど。
ドゥルーズがフロイト的夢に対してカフカ的不眠で対抗、
というような事を言っているが、こういう事なのかな、と思ったよ。
私のような体験をした人は、少なくないはずだよ。
645考える名無しさん:2006/07/10(月) 01:30:53
キモイ
646474:2006/07/10(月) 02:37:34
レス番つけ忘れてるのには気が付いてたが、めんどくさいので訂正しなかった。474=641だ。
健康関係の板に行って短眠関係のスレッドを読むと、消化にいいものだけ食べると
睡眠時間削っても大丈夫になるらしい。
内蔵の休息と脳の休息の合計時間を減らす、ということらしい。
その四週間中はきっと消化にいいものしか食べなかったんだろう。
後、気づかないうちに一日数分は寝ていた、というのもあるかもなw
647考える名無しさん:2006/07/10(月) 03:38:52
>>637
>「歴史の中のあらゆる名前」の「歴史」って、
>ゲシヒテとヒストーリエどっちかな

dass im Grund jeder Name in der Geschichte ich bin
ゲシヒテだよ
英訳ではもちろんhistoricalになってしまうけど
that in fact I am every historical personage
648考える名無しさん:2006/07/10(月) 04:05:35
>>637
>その人の外的条件に左右されない全ての人への愛という事になるね
ということは、特定の誰にも結び付かない愛、とはあらゆる特定の人(物も
含む?)への愛、普遍的愛ということかな。

>その歴史に現れないものが歴史に現れた。
>キルケゴールとニーチェにはこれがあっても
キルケゴールの神=イエスの歴史上の出現に対するこだわりは、尋常ならざる
ものがあると思うけど、ニーチェにそうした固執はあるかな。ニーチェにとって
キリスト教は単に弱者のルサンチマンであって、この態度は終生変わってない
気がする。ましてやキリストの出現、神が人間として顕現することへのキルケ
ゴール的なこだわりは稀薄なように思えるけど…
649473:2006/07/10(月) 07:08:27
>>647

ご指摘感謝。う〜ん、それでもよく解らない。
でも、こんなに直ぐ出てくるって事は、研究者か、それを目指す人ですか?
私は余計な事を言っていない?
誰が言おうが同じ事なので、纏まった優れた研究があれば、
それが普及すればそっちの方が全然いいんだよね。
ホルガー・シュミットって、ちょっと気になるんだけど。

>>646

確かに電車の中でうつらうつらはしていたけど、
眠っていても意識があるような、不思議な眠りだったな。
四週間経ったらどっと疲れが出て元に戻ってしまったけど。

>>648

二人称存在であれば、これは衣服をはぎとられた裸の人間の事だと考えればいい。
ビオスではなくてゾーエーだね。イエスに相当するのはツァラトゥストラ。
御陰様で大体解ってきたよ。やっぱり二人称は重要だね。
650553:2006/07/10(月) 14:49:57
>>630
あっちゃー、すっきりしねえ。
そんなに俺の文章わかりにくいかな。
それとも、やはりあなたがある種の独断論者なのか?
まあ、俺が無視するか、あなたが俺を無視してくれればいいんだが、こうなったらとことんやりますか。

俺はツァラトゥストラを読んだことはあるが、このスレに「ツァラトゥストラを読みそれについて語りかけた俺」はいないと言っている。
そうであるのに、あなたにツァラトゥストラを持ち込まれて、それについて語られても困る、と言っているつもりです。
ただこの雑多なスレでは、そういう勘違いも生まれるだろうし、勘違いなら別に仕方ないと思った。
けどやっぱり>>630でもツァラトゥストラは持ち込まれるわけで……。
651553:2006/07/10(月) 14:51:27
そして、新しいこともひとつ、いいですか?
>末人と高人については議論の余地はなく、自由ではないよ。
これはやめてもらえませんか。
それは、あなたの「末人と高人」について文句があるわけではなく、もっと根本的に。
確かに、たとえば日本語の単語についていちいち議論しないように、議論の余地がないものはあるでしょう。
しかしそれは、俺や誰かが議論が無意味と考えるからであり、議論の余地がないわけでも、無意味であるわけでもない。
意味というものは全て、何かにとっての意味であり、絶対的な意味というものは存在しない。
(まあこのケースでは、言葉における意味と物事における意味を混同したレトリックになりますが)
ではこの場合、何にとってか? といえば、ニーチェにとって、となります。
しかし仮に、俺の思うところに関係なく、ニーチェの真意というものが在ったとして、俺がそれを理解できるとして、
それがあなたの言うところに近いもの、あるいは同じものであったとしても、俺がそれに従う理由はありません。
それがニーチェであるならば、気に食わないながらも折り合いをつけて受け入れるでしょう。
しかしあなたがニーチェを提示しないでください。
これがニーチェ以外の哲学者であれば、どうでもいいのです。
けどやっぱりニーチェは俺にとって特別だから、こだわってしまう。
この意味がわかりますか?
この感情は一見「末人と高人」の概念と無関係ですが、しかしこういった感情的意味が概念の中にざらに持ち込まれる。
そこに境界線は無いと思うのです。
俺は概念で遊ぶのは好きですが、明確に定まった概念なんて嫌いです。
ですから、その断定的な物言いは、許してもらえませんか。
「全ては許されている」
全ては許されているが、だからといって俺が全てを許すわけではない。
あなたにも許せないことはあるでしょう。
それだけのことで、そうであるからいつまでも終着点が見えない。
結局のところ、あなたにその前景を忘れないでほしいと、俺はそう願っているのでしょう。 
652473:2006/07/10(月) 17:22:22
>>651

いや、だから凡庸化が進み、それに耐えられない人達も出てきて、
彼らは超人ではないけど超人産出の条件として必要だ、っていうのは
私ではなくニーチェの考えなので、独断論も何も誰に聞いても同じだよ。
この点私でも即答できるから即答した。
ニーチェを引き合いに出して人種差別を正当化するような奴
とかにレス返しながらの反応だったから、不必要に言葉がきつかったのは認める。
でもそれはそういう事言い出す奴に怒りを向けるべきじゃない?

議論以前にこういうところで疲れてしまう。
正直、私一人の手に負いかねるから投稿したという事もあるし。
でも二人称が大事だっていうのは確かで、もう反論の余地はないと思う。
誰か上手く纏められる方か、ヒントを提示して下さる方いますか?
653474:2006/07/11(火) 00:30:10
473は独断論と批判されているけど、
それは「議論がいかにして泥沼へとはまっていくか」ということを
473が理解していないからだと思う。

高人と末人にしたって、ニーチェ解釈の歴史をひもとけば、
いろいろな解釈を許してしまってきた、ということが分かるはずだ。
473には西尾幹二の「ニーチェとの対話」を読むことをお勧めする。
マジメにニーチェを読んでる人間ならばまず思い至らない
独創的な高人、末人の解釈が提示されている。

あと、553のキレッぷりはつまらないので落ち着いて書け。
654考える名無しさん:2006/07/11(火) 00:35:03
>ということは、特定の誰にも結び付かない愛、とはあらゆる特定の人(物も
含む?)への愛、普遍的愛ということかな。

万人への愛であることは確かだが、普遍と言ってしまうと少しまずいね。
普遍という言葉は実存の倫理的段階における固有名を背負った自我と他我との
間主観的関係を意味するから。二人称は他者の名前も自我も突き抜けて
エスに届くからウンハイムリッヒなのね。
こうした愛し方で愛されるとみなに気味悪がられるけど、
それをするのはクリスチャンの義務だから覚悟をしておけ、
というような話が『愛のわざ』の中にある。
655473:2006/07/11(火) 00:44:09
>>653

>「議論がいかにして泥沼へとはまっていくか」ということを理解していない

ご指摘毎度ありがとう。どうやらそうらしい、という事は解るが、
どうしたらいいか解らないんだな。至らなさを恥じるものではありますが、
よろしければ、この上ご教授いただけますか?

>独創的な高人、末人の解釈が提示されている。

どんなものか聞いてもいい?しかし西尾先生には、
先生でなくてもできるような事に時間を費やさずに、
研究に打ち込んで頂きたいものだね。

ニーチェ全集の月報の編集なんかは、本当に面白くて小冊子として出版されたら
いいと思うくらいなんだけどさ。
656474:2006/07/11(火) 01:30:05
>>655
どうしたらよいか、確実な方法はないが、
とりあえず言葉の用法を皆が皆同じように理解していると信じるべきではない。
ニーチェが末人(と考えられる人々)を末人という言葉で呼ぶからには、
それはニーチェによる言葉の定義に近い。
ニーチェに解釈論争が起こるというとは、
末人の定義がニーチェ研究者の間で一致していない可能性がある。
ある程度方向性は定まってるかもしれないが。
>どんなものか聞いてもいい?
聞くのはかまわないが、答える気はない。引き合いに出しただけだからw
657473:2006/07/11(火) 02:00:47
少し前のレスだけど

>>626-628

>固有名というのはドゥルーズ風に言えば「存在の一義性」

これは逆だよな。一義性に相当するのが二人称(Du)で、
多様性というか多義性に相当するのが歴史の中のあらゆる一回的な名前でしょ。
そうした歴史に現れる多様な男性的名前の数々も、歴史に現れない
女性的な一つのもの(Du)に向けられている、と。

>フロイトのリビドー理論も「力動的」に展開されてる

キルケゴールが『イロニーの概念』の中でヘーゲルを批判して、
彼には生成があっても存在がない、ぐんぐん前に進んで行くけど
自分に戻ってこないっていうわけね。同じ批判は、
ニーチェの立場からフロイトの『力動性』についても言えるんじゃない?
ニーチェもキルケゴールも相互生成的なんだな。
658474:2006/07/11(火) 02:16:43
固有名を無数に持つ、というところがカギなのかもしれん。
バタイユのアセファルは頭のない人という意味だが、複数(無数)の頭を持つことによって、
一個の頭を否定して無頭人になるとしている。
まあ、バタイユがこの問題について言っていたのかは分からんが。
659考える名無しさん:2006/07/11(火) 02:40:29
現代思想っておもしろい?
しなやかで固いが、中身はスカスカってことない?
竹見たく・・・
660473:2006/07/11(火) 03:17:08
繰り返しになるが、その歴史上の無数の男性的固有名への分裂も
非歴史的な一つの女性的二人称(Du)への求愛と相関してしか起こらない。

ツェランの詩の中で「誰でもないもの」である「あなた」に向けて花咲く
一つの無であったし−あり−あり続けるだろう「僕ら」も、
死んだユダヤ人達の全ての名を背負っていると考えて良さそうだね。
「プサルム」の中では複数で、「僕らに差し出された」の中でも「僕らの名」になっているから。
でもそのかなり後の「白い祈りの紐に」の中では君と添え賦したのは
「とりかえる事の出来ない僕の名のベッドの中で」だったというフレーズがでてくる。
『誰でもないものの薔薇』周辺では一人称は複数で、後期になればなるほど単数が多くなるみたいだね。

ニーチェも、誰でもないものである(Du)に対して求愛し、
それと相関して彼の自我は無数の固有名に分裂したけど、
それも歴史上では自分の名においてしかできない。
これは見知らぬ裸の読者にメッセージを届けるために
自分が裸になって人前に立たされたようなものだから、耐えられない。
彼はこれを十字架にかかるという語で呼んでいた。イエスも裸で死んだわけだけど。
エッケ・ホモのホモも、アーレントのいうようにゾーエーの人って意味だしね。

でもニーチェも含むナポレオンとか英雄達の名前と殺されたユダヤ人達との名前とじゃ、
性質が違うよね。これにキルケゴールが絡むとどうなるのか……。

こういう事、もう言っている人いるかな?
661考える名無しさん:2006/07/11(火) 03:26:46
なるほど、ニーチェは結構ひょうきん者ってことね。
パウル・レー、ル・ザロメ、ニーチェで三位一体なんて
悪乗りして写真に写る・・・彼のはしゃぎようがめに浮かぶ。
662考える名無しさん:2006/07/11(火) 04:37:43
何がなるほどなんだ
663考える名無しさん:2006/07/11(火) 05:12:03
>>657
>ニーチェの立場からフロイトの『力動性』についても言えるんじゃない?
>ニーチェもキルケゴールも相互生成的なんだな

言わんとするところは分かるけど、そういう言い方をするんだったら
フロイトの精神分析も相互生成的と言えると思うよ。分析医は患者の
無意識を抵抗と否認を通じて相手にするけど、その過程で自分自身の
無意識も変容を蒙る。だから転移−逆転移という関係が成り立つわけで。
664考える名無しさん:2006/07/11(火) 05:23:55
>>660
ツェランは悲痛なところがあって、あまりニーチェとの対比で
語りたくはないけれど、ツェランにあっては、言葉の次元を無視
してはいけない。もちろんあなたは無視していないけど…もっと
悲痛というか、倫理的? ツェラン自身の言葉を載せてみるよ
「あなた」も出てくるものを…

「かずかずの損失のなかでただそれだけが――言葉だけが――届くもの、
身近なもの、失われていないものとして残りました。……しかし、その
言葉にしても、それ自身がそなえている答えのなさの中を、おそろしい
沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの暗闇の中を通ってこなければ
なりませんでした。そのようなものの中を通ってきて、しかも起こった
ことをいいあらわすただの一言も生みだしはしませんでした。……何か
にむかって進んでいます。何にむかって? 何か開かれているもの、
所有することのできるものにむかって、ひょっとして話しかけることが
できるかもしれない《あなた》にむかって、話しかけることのできる
実在にむかって」 
665考える名無しさん:2006/07/11(火) 13:10:23
>>652
やっぱり根本が伝わってなかった……。
俺が出した「凡庸化がいきつくところまでいきつく」というのは、確か遺稿集にあるもので、超人とは関係なく論じられていたと思う。
俺も記憶に頼ってるから自信ないんだけど、確かこの時は「これからの未来がどうなるか?」という自問に対する回答がふたつあって、その内のひとつだったと思う。
そのもうひとつを覚えてないからあれなんだけど、単純なニーチェらしい未来予測だったと思うし、ふたつあるということは、「その未来で何をするか」と語る気は無かったと思う。
で、これがなぜ超人に直結するのか? を、俺はずっと言ってるつもりで。
俺は、『「凡庸化」→「超人産出条件」』について、「超人産出条件」に対して文句を言ってるわけじゃない。
→に文句を言い続けてる。
確かにニーチェは「民主主義を利用すべきだ」とか色々言ってるし、あなたの言う「超人産出条件」にはそれほど文句は無い。
ただそれが「ニーチェの考え」だったとまでは断言できないが。
「凡庸化」と「超人産出の条件」は無関係ではない。が、直結はしていない。
だからつい関係させてしまって語ることはあるし、これが「勘違い」でそれなら仕方ないと思える。
しかしそれをなぜあなたは常に結びつけるのか? 結びつけ続けるのか?
ほぼそういう意味で「ある種の独断論者」という表現を使った。
あと、俺があなたに対して語ったことは、常にあなたが俺に対して語ったことに対して語ったつもりで、
他のことを関係させて語ったつもりは無い。あなたはどうか知らないが。
666ひとつ上も553:2006/07/11(火) 13:14:46
>>652
で、ここからは「新しいこと」についての文章なので、あまり上と結びつけられても困る。
あなたはなぜ断定的に語るのか?
何をもってしてそう語るのか?
これに対して、「断定的に語った事柄」のさらなる「説明」を求めてはいない。
というよりも、「解釈であって説明ではない」とはニーチェの物言い。
あなたにニーチェに対する考えが明確にあるのを責める気は無い。
議論するうえで明確に概念を定め、それについて語り、はっきりとした結論を出すことも責める理由は無い。
しかしその時に、他の誰かによって、それがさもニーチェであるかのように語られ、それ以外のニーチェはありえないかのように語られれば、
俺はニーチェが好きだから、どうしても怒りを抑えられない。
それくらいの心遣いも、考えてはもらえませんか?
あなたは自分の考えが真であることにこだわっているように俺には見える。
そういう意味でも、「ある種の独断論者」という表現を使ったかもしれない。
あなたの「反論の余地はない」は「これは真である」という風に聴こえてくる。
あなたはそれをどうやって証明するつもりなのか?
ただ、「このニーチェは真である」とだけは言って欲しくない。
667474:2006/07/11(火) 15:01:08
473に対してそんな心遣いを要求する権利があるのか?
473の持論に違和感を感じて不快に思うなら反論すればいい。
俺は473に反対だが、473が持論を述べるのを遠慮などさせるべきではない。
主張できる持論を持つ人間を黙らせておくとしたら、それほど意気消沈させる事はない。
668考える名無しさん:2006/07/11(火) 15:48:41
経験してきた通りの自分、実感してきた通りの自分とはなんだろう?
自分から自分を見ると、自己に対する概念というか、自分はこういう
人物なのだという、ある種の信じこみがある。
他人からの方がよく見えるのかなあ。
最大公約数の人が言うのが、自分なのかなあ。
669473:2006/07/11(火) 16:08:22
>>553

二つあって、一つは凡庸化、もう一つは超人化、どっちになるかはその人自身
、だと思うけどねえ。

>>663

>フロイトの精神分析も相互生成的と言えると思うよ。分析医は患者の
無意識を抵抗と否認を通じて相手にするけど、その過程で自分自身の
無意識も変容を蒙る。だから転移−逆転移という関係が成り立つわけで。

そうだよね。でも分析はこの関係を治療の為の過渡的条件として
最終的に克服すべきものと考える。だからお金のやりとりをするわけね。
これはちょっと卑怯な事じゃない?惚れさせておいて金も取るんだから。
普通逆だよね。キルケゴールやニーチェの場合は、いつまでも愛が残り続けるわけ。
その愛の受け手はもうキルケゴール氏やニーチェ氏ではなくて、
あらゆる人間(Du)だけど。「もし君が私の愛を受け入れるなら、
その愛はDuと呼びうる全ての人に向けて欲しい。それが私だから」
という事。分析が診療所という閉じた空間で、しかもお金持ち相手にする事を
キルケゴールは町中で貧乏人相手にやっていたんだね。
かなり迷惑がられたみたいだけど。

>>664

それは大月書店のツェラン詩集から?私も好きな言葉だけど、
今までの私の意見と矛盾しないで、むしろ裏付けるものじゃない?
670考える名無しさん:2006/07/11(火) 16:42:39
「これがニーチェだ」をさっき読んだんだけど、素晴らしいね
その前に似たタイトルの「これが現象学だ」を読んだんだけど、
それはクソだったんでちょっと不安だったんだよね
671考える名無しさん:2006/07/11(火) 16:54:09
素晴らしいって程のもんだったっけなあ……
672考える名無しさん:2006/07/11(火) 17:01:24
クソなんて言葉が出てくると
そういう言葉を使う人間に「素晴らしい」と評価される本の内容も
大いに疑わしく感じられてしまうのだけれどもねえ
673考える名無しさん:2006/07/11(火) 17:06:27
いやあ、余りにも谷徹の「これが現象学だ」って本がクソだったんだよね
その落差の大きさから素晴らしさが過大に感じられてるかもしれないね
674考える名無しさん:2006/07/11(火) 17:17:07
永井のニーチェ論は「復讐が行為にならず想像的になるときに奴隷道徳が現れる」
というニーチェが道徳の系譜学で指摘しながらドゥルーズが改めて
「ニーチェと哲学」で取り上げた考察を再び取り上げた。
しかしこれは、そうなるとルサンチマンのかけらもなかった筈の
主人の側も自由に行為ができずに奴隷的になってしまう、
というのが重要なんだけど、それは永井は言っていたっけ?

675考える名無しさん:2006/07/11(火) 17:17:16
>>473
解説書っておもしろい?
676473:2006/07/11(火) 17:29:57
殆どのものはニーチェの伝記的事実と思想の概要と過去の諸研究を紹介して、
自分の意見も少しは述べるのだが、それら書かれている事同士の繋がりが
見えずに雑漠とした印象で、初学者向けの解説書として流通しているものほど
見通しが悪く、資料としての価値はあるが逆に読み手のセンスが要求される
というちぐはぐな事になっている。

上に上げた三島はモダニズムとニーチェを結びつけようとしている点で
明確な意図があるけど完全に他の記述から浮いていて、これは最初から無理がある。

その点やはりハイデガーやドゥルーズは凄い、
のだが、これはいわゆる初学者向けの解説書とはいえないよね。

いいものがあれば私が聞きたい位だよ。
677473:2006/07/11(火) 22:31:06
>>664

>言葉の次元を無視 してはいけない。もちろんあなたは無視していないけど…もっと
悲痛というか、倫理的?

ニーチェもキルケゴールも最初は実在としての「あなた」が大切だというのだけど
最終的には一人の人間に「あなた」と呼び掛け、そして呼び掛けられた「あなた」が
別の「あなた」に伝える事の出来るような、そうした知=言葉の方が大切であって、
これのみが永遠のものなのだ、という風に主張するから、やはりそれほど違いはない。
二人ともこの知=言葉を一人のDuとして受け入れたものは同じ言葉を他のDuに対して
差し出す事が義務づけられるのだから、非常に倫理的だよ。
678考える名無しさん:2006/07/11(火) 22:35:53
詩的解釈好きって空想が膨らむからなんでもありだものな。
679473:2006/07/12(水) 00:31:34
各哲学者が著作の中ではっきり明記している事なので、
私の詩的解釈と見なして頂いて光栄だがそうではないよ。

>>664

>もちろんあなたは無視していないけど

このあなたって、私(473番)の事か。
抽象的に理解された二人称性だと思った。失礼。

悲痛だとか倫理的だというのは、伝達をしなければならない
止むに止まれぬ動機があるという事だと思う。
ノブレス・オブリージュや自負心でわざわざ伝達して(愛して)やっているというわけではないんだな。
私の今までの話だとそう思われてしまうかもしれないけど。
キルケゴールやニーチェは自分にもそれをする理由があったし、
レギーネやコージマにもそれを受け取る理由がある、と期待したんだろうね。
680考える名無しさん:2006/07/12(水) 00:50:02
>>679
そう、あなたって473さんのこと指してました
紛らわしくて失礼
ところで、473さんの考えでは、特定の誰にも結び付かないニ人称性が
唯一性、1回性を表わしていて、固有名というのは、晩年の手紙で
氾濫するように、むしろ多様性、多義性を表わしている、
つまり、普通は「固有名」が「存在の一義性」を示すものと考えられて
いるけれど、あなたの解釈では、不特定二人称のほうが一義性であり、
固有名は氾濫において多義性を表わす、という普通とは逆の考えを
してるように思われるけれど、この整理でオーケー?
681473:2006/07/12(水) 01:13:12
>>680

大体その通り。ただ、二人称に相当するのは初期ニーチェが使ったように
根元的一者性とでも言った方がいい。固有名の方が多様性だというのはそう。
この多様なものの一つ一つが掛け替えのないものだというのなら
それはそうだろうから、唯一性、一回性という言葉はそちらの為にとっておくべきだろうね。

尤も>「固有名」が「存在の一義性」を示すものと考えられている
のが「普通」なのかどうかはよく知らないけどね。

私の考えにおかしいところはある?

ツェランは小沢書店と思潮社だったね。

ホルガー・シュミットのニーチェ論を読んだ人がいたら、
感想を伺いたい。目次を見る限り、あまり期待できそうにないんだけど……。
682考える名無しさん:2006/07/12(水) 01:38:39
>>681
固有名が「存在の一義性」という意味は、473さんがいみじくも
書き込んでおられるように
>一つ一つが掛け替えのないものだ
>唯一性、一回性という言葉はそちらの為にとっておくべきだろうね
という意味です。これはドゥルーズの解釈で、中世のスコトゥスが
「このもの性」ということで唯名論と実在論の普遍論争を脱構築した
ものとして見出した、という意味のことを言っていて、端的にそれを
示すのが固有名になるのね。
ちなみに柄谷行人も「探究」で固有名を唯一性、1回性の意味で
使ってる
683473:2006/07/12(水) 02:01:20
じゃあ、私は語意を誤解していたわけだ。

ただ、ニーチェやキルケゴールが重視したのは
それぞれの一回性という意味でのそれぞれの固有名だとしても、
根元的一者性という意味での二人称がそれに先行する――
それが解っていないから、柄谷行人のキルケゴール理解は
おかしな事になるんだけど――という私の意見についてはどう?
すでにかなり証拠を見せた筈だけど。

684考える名無しさん:2006/07/12(水) 02:16:51
>>683
柄谷は弁護する気はないから、それは他の人に任せるとして−
473さんの考えから、いくつかの疑問が生じるので、論理展開
して貰えたら、と思います

1.まず、不特定ニ人称が「根元的一者性」とする場合、この根元的
一者性と固有名における「唯一性」との理論的差異は何なのか?
両者は同じ事を指しているのではないのか?
2.不特定ニ人称「あなた」は、特定の個人に結び付かないもので
ある以上、ある抽象性を帯びているものではないか?抽象的概念と
までは言わないけど、普遍性・一般性に関わるものではないか?
それが「一者性」であるとは、どういう事態なのか?
3.2とも関連するけど、「根元的一者性」と言ってしまった場合、
それはある種の形而上学の構図になってしまわないだろうか?つまり
根元的一者性は、ある超越性として表象されてしまわないだろうか?

ちなみにホルガー・シュミットは目次読んで読むのやめましたw
685473:2006/07/12(水) 03:28:43
>>684

柄谷については、なぜあんな誰にでも解る誤解が誰にも指摘されないまま
流通したのか不思議だ。彼の回りには教養のある人が沢山いるはずなのに。
彼にはもう一がんばりして欲しいが……。

683の問い関しては、正直私の方が答えを聞きたい。
投稿したのはそのつもりもあったので、
私より明確に答えの出せる人がいたら伺いたい。

提示された問いの中では1が難問であり、
ニーチェ、キルケゴールの肝だろうね。

1.根源的一者性は全ての人が共有している。唯一性は一人一人違う、
とまずは考えられる。しかしこの二つがニーチェとキルケゴールにあってはどうやら交叉する。
これはよく解らなかったし、すぐには答えが出ない。明らかになりそうは気配はあるのだが……。
考察のヒントになりそうなのは『畏れと戦き』。

2.超越性と言うより根源性、超自我ではなくてエスの一者性。
キルケゴールは後者の意味では「普遍」と区別して「万人」という語を
使っているので、彼に倣いたい。

3.レヴィナスの言っているような意味での形而上学性は帯びるだろうね。
つまり決して伝達の内容にならない伝達の受領者、という意味で。
それは抽象性ではないだろう。伝達の内容になりもするのだが、
その時は抽象性よりも具体性を帯びる。
つまりイエス=キリスト、ツァラトゥストラとして。
これは1の問いの答えのヒントとなる。
そしてやはり考察のヒントになるのは『畏れと戦き』かな。

シュミットは私が感想を聞かせる側に回るよ。
他に良い本があれば誰でも紹介して欲しい。
686考える名無しさん:2006/07/12(水) 07:53:09
>>685
丁寧にレスしてくれてありがとう。
自分もしばらく考えてみるよ。
柄谷に関しては、彼は思想家の言説を通じて自分の考えを述べている
というスタイルなので、ときとして強引な読解をしてしまうところがある
カントの「物自体」に他者が含まれている、なんて読解は殆ど強引だ
でもそこが彼の面白いところではあるけど
687473:2006/07/12(水) 18:02:09
>>686

「命がけの飛躍」とかいうのはマルクスの「アキレツ腱」を刺したと評価できる
かもしれないが、キルケゴールの「単独者」に関しては単に理解が浅いだけだよ。
歴史に登録された固有名は実存の倫理的段階に属するのだから。
それだけだった『あれか−これか』で済むので、
何のために彼がその後も猛烈な勢いで著作活動をしなければ
ならなかったのか解らない。

>>474

西尾先生の『ニーチェとの対話』を読了したが、
高人理解にも末人理解にも、特に独創的なところがあるとは思えなかった。
柄谷も西尾も、自分が著作家であって本の裏側にに読者がいるという事実を
上手く処理できていない。やはりこの点、キルケゴール、ニーチェから
みならうべきところが多いだろう。
688474:2006/07/12(水) 18:19:44
>>687
>>653
「マジメにニーチェを読んでる」人間ならばまず思い至らない

ニーチェとの対話の事はともかく、自分が著作家であって云々には前向きに興味があるな。
もうちょっと具体的によろしこ。

よく言われるのは「テクストがあって作者は存在しない」というやつだが、
それはこの場合全く関係ない。読む側の論理と書く側の論理、という違いがあるからだ。
当然だが書く側が「読者は存在しない」とは言えない。
しかし、読者は作者にとって未知の人間なわけで、その断絶は根深い。
その問題に取り組む常識的な方法はレトリックという学問となるのだろうが……
689473:2006/07/12(水) 21:09:12
>>688

>「マジメにニーチェを読んでる」人間ならばまず思い至らない

いや、普通にニーチェを読めば誰でも普通にそう受け取るような事しか
書かれていなかったよ。

>よく言われるのは「テクストがあって作者は存在しない」

これはニーチェとは無関係。キルケゴールとは尚更だね。
柄谷や西尾の場合、読み手が向こう側にいると思っていないんだな。
今までの二人称の話と関係があるが、
彼らは彼らの「私」の側に読み手を同一化させようとするけど、
あなたとしては扱ってくれないの。批評家とか論客というものは、
そういうものかもしれないけど。
690474:2006/07/12(水) 23:17:19
>>689
マジメ≠普通

>これはニーチェとは無関係。キルケゴールとは尚更だね。
そもそも688で無関係と書いた。
で、読み手が向こう側に居ると思っていない、というのは妥当な推測だと思う。
(ただしこれは推測でしかないが)
しかし彼らは、当然彼らの主張が間違っているとは思わない訳で、
彼らなりに読者を正しい思想を分かる人間にしよう、と働きかけている。
このような学者的な働きかけと473の言うあなたへの語りとの間の本質的差異は何か?
問題はこの点にあるんだよ。

関係ないが寺山のエッセイなんかは語りかけ調のやつがあった気がする。
691473:2006/07/13(木) 01:56:07
>>690

知識の伝達と実存伝達の差異だよ。
692474:2006/07/13(木) 10:04:59
ほう、実存伝達。ますます興味深い。
そもそも実存伝達という言葉を初めて聞いたのだが、
実存を伝達するというのはまずあり得ないので実存的に伝達するということだと思うが、
その場合にも何らかの知識を伝達しているのだろう。
単なる知識の伝達とどういう差があるのだろうね。興味深い。
693考える名無しさん:2006/07/13(木) 16:37:20
物語形式で実際に主人公=読者が物語りに沿って考えを変えていくということかな?
694473:2006/07/13(木) 18:35:55
>>692

>そもそも実存伝達という言葉を初めて聞いたのだが

それについてはキルケゴールが遺稿集八巻の中で
深く考察しているから読むといい。

柄谷については、心に決めた女性に婚約指輪を差し出して、
その上でその行為に重ねられたプロポーズの言葉が
「私は今あなたに婚約指輪を差し出しています!
あなたが私の求婚を受け入れてくれるかどうか解りません!
私はとても不安です!」だというようなちぐはぐさがある。

ニーチェやキルケゴールはそんな間抜けなことはしない。
この点、キルケゴールについては遺稿集七巻。

>>693

>物語形式で実際に主人公=読者が物語りに沿って考えを変えていくということかな

東京大学の博士論文で似たようなのをネットでみたが、それだけだとまずいね。
『ツァラトゥストラ』や『キリスト教的講話』の組立はもう少し錯綜している。
文学部でテクスト読解を学んだ人ならすっきりと説明できるかもしれないが、
私にはそう簡単には無理だ。
695474:2006/07/13(木) 19:26:58
>>694
キルケゴールの遺稿についてはよく知らんが編集次第で何巻か変わってしまうだろう。
まあ、これの事なんだろうが。
ttp://www.bk1.co.jp/product/176960

>柄谷については、心に決めた女性に婚約指輪を差し出して、
>その上でその行為に重ねられたプロポーズの言葉が
>「私は今あなたに婚約指輪を差し出しています!
>あなたが私の求婚を受け入れてくれるかどうか解りません!
>私はとても不安です!」だというようなちぐはぐさがある。
だとすると、柄谷は自分の知識伝達の働きかけを受け入れない
他者としての読者がいるという事実を強く認識して書いている、ということか。
なおさら実存伝達との差異が分からんな。
696473:2006/07/13(木) 19:34:44
遺稿集として流通しているのは新地書房版しかない。
それだけじゃないが、あまりに無考えな無駄な発言は控えて欲しい。

697473:2006/07/13(木) 22:06:03
>物語形式で実際に主人公=読者が物語りに沿って考えを変えていくということかな?

そうも言えなくはないのだけど……下手なりに説明すると、キルケゴールの講話の場合、
大抵まず彼が「決して帰ってこない使者に別れを告げて見送った」様とか
「森の中に人知れず咲く一輪の花を小鳥が啄んだのを見届けた」様とか、
もう商品は売り手の側を離れて買い手の側に届いている事を
表す文章がまず序言に掲げられる。柄谷はこれを受け入れられていないね。

そして、この「売り手−商品−買い手」の関係を再び「読み手−作品−書き手」
として裏返しに反復するのがキルケゴールの狙いらしい。

例として七巻に収められた「罪ある女」を取り上げる。この講話の中では罪ある女が、
パリサイ人の宴会に招かれていたイエスの元に罪の赦しを請いに行く。
宴会に不相応な来客なので周囲の眼差しが彼女に突き刺さり羞恥心の強い女性には辛い状況だが、
それでも自分を忘れてひたむきに赦しを請う彼女に、イエスは「この女の罪は赦されている」と告げる。

その瞬間、彼女は一つの永遠の彫像になる、とキルケゴールはいうわけ。
イエスがなぜ罪の赦しを告げるのに二人称ではなく三人称が使ったかと言えば
メッセージの受取手は他にいて、それはどうやら時空を越えて講話を読む
読者の事だと言いたいらしい。講話の商品性と作品性がここで錯綜している。
罪ある女が娼婦の事だと解すれば、なおさらね。
そうするとパリサイ人やイエスは誰なのか、これはおいておくとしても。

「罪ある女」はキルケゴールの講話の骨組みがかなりはっきり出た作品だけど、
私が『ツァラトゥストラ』を読んだときと一番よく似た印象を受けたのはこれだった。
698473:2006/07/13(木) 23:32:38
>>696
わからんものはわからん。
聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥というヤツだ。
>>697
商品と作品がどう錯綜するのか抽象的でよくは分からないが……
イエスが使った三人称をキルケゴールが説明するのなら、
「キルケゴールがイエスがなぜ三人称を使ったか?」という知識の伝達であって、
実存伝達はどう違うのかという疑問は解決されていない。
693氏へのレスなので俺の疑問を解決する意図でレスした訳じゃないだろうから、
まあ、いいんだが。

あと、序文で示された関係が反復するのが重要なのに、
序文だけ取り上げて柄谷は受け入れられていない、と指摘するのは無意味だろう?
699473:2006/07/14(金) 00:22:24
私の番号って、私以外でも使えるのか。

>「私は今あなたに婚約指輪を差し出しています!
あなたが私の求婚を受け入れてくれるかどうか解りません!
私はとても不安です!」

>柄谷は自分の知識伝達の働きかけを受け入れない
他者としての読者がいるという事実を強く認識して書いている、ということか

そういう風にも言えるが、指輪を差し出した以上、
その上言うべき言葉は他にあるのではなかろうか、
キルケゴールはそれをよく解っている、という事。

実存伝達についてはキルケゴールを。私より上手く説明してくれるよ。
キリスト教の場合は実存伝達は知識の伝達と共に行われる。
この点がソクラテスの産婆術とは違う。

シュミットの感想は先送りになりそうだ。
期待せずに読んだが、なかなか面白かった。
700474:2006/07/14(金) 00:36:56
すまん。打ち間違えた。698は474だ。本当にスマン。

キルケゴールについてはそのうち読むつもりだが、今この時間図書館も大手書店も開いてない。
701473:2006/07/14(金) 22:46:23
ホルガー・シュミット、他に読まれた方いませんか?

なかなか面白いと書いたが、研究書、解説書としてかなりの良書だった。
堅実かつ見通しも良く、資料を捌く手つきにもブレがない。
読み返せばジャン・グラニエの初等解説書よりもニーチェについての理解が深まると思う。
二人称の事以外での私の発言した内容もシュミットが私より上手に(当たり前だが)解説している。
シュミットがあれば、ハイデガーのニーチェ論は完全に必要なくなる。

読み手としてはこの水準に満たないものは本屋から消えてくれるとありがたいが、
言及されている日本語のサイトは本屋を除けば一つしか見つけられなかったし、
アルファベットで名前を打ち込んでも殆ど何も解らなかった。
平易に解説すると称して浅く濁らせてわけをわからなくさせる連中が、
深く透明にするこうした真っ当な研究を駆逐してしまうのかな。

サラ・コフマンの『ニーチェとメタファー』、読まれた方いますか?
感想を伺えるとありがたいのですが。
古本で定価より高いとなると購入できない。

702家氏 かかか:2006/07/15(土) 13:50:39
キリスト教的近代の成立と崩壊について、コペルニクス・ピューリタン革命・ニーチェを取り上げて論ぜよって問題が出たんだけど。。。分かる人いますか??
703考える名無しさん:2006/07/15(土) 14:20:38
コペルニクスは天動説を唱えた
Puritanで厳格な人、潔癖な人を指す(ウィキペディア
ニーチェは「神は死んだ」だろ

要するにキリスト教に厳格であろうとすればするほど
そのキリスト教的誠実さをもってキリスト教を否定せざるを得なくなる
みたいなことを書けばいいんじゃね
704考える名無しさん:2006/07/15(土) 14:22:22
カルヴァンは超誠実だけど否定してないよ
705考える名無しさん:2006/07/15(土) 17:22:29
>>702

予定説と回帰思想(実際この二つの比較した研究はいくつかあった筈)と
太陽中心主義は、変更も到達も不可能な他者の存在の容認という点で
結ばれる。思想的にはその線でいいと思う。
ただ、ピューリタン「革命」はそれだけでは語れないよね。

すごく良い問題じゃないかな。どこの大学ですか?
706考える名無しさん:2006/07/15(土) 17:48:43
ピューリタン革命は失敗し宗教改革も挫折したが
その現実への揺り戻しとプロテスタントの考え方はイギリス経験論や資本主義を育むことになる。
707473:2006/07/15(土) 21:20:01
>>702

予定説と回帰思想は、問題を自由意志から自由意志では
もうどうにもならない他者の意志を受け入れられるか否かに変化させた。
この点、地球中心主義から太陽中心主義への移行と共通点がある。
詳しい人がいたらもっと掘り下げて説明してくれる筈だけど。
でも、課題はやっぱり自分で調べてやった方がいいよ。

>>698

>序文で示された関係が反復するのが重要なのに、
序文だけ取り上げて柄谷は受け入れられていない、と指摘するのは無意味だろう?

これはもう答えていると思うが、柄谷は売れるか否かの話をしているが、
キルケゴールは既に売れた事を前提した話をしている、という事。
後者じゃないと読者としては話は合わない。

かつてドゥルーズがニーチェをマルクス−フロイトといった契約の思想家と対比させて、
契約からこぼれ落ちるノマドの思想家だと表現したが、
それでは不十分なので、契約(売買)を受け入れた上でその意味を変化させてしまう思想家だと言うべきだね。
契約というのはエンゲージだけど、ニーチェもキルケゴールも、エンゲージを反復するんだ。


708693:2006/07/15(土) 21:58:23
実存と文章について興味深いことは、
文章で実存(イマココ)を説明しようとすると「そのときその場所で」と説明せざるを得ないということだと思っています。
(これを理解せずに概念的に解された実存(一般的ないまここ=そのときその場所で)を論ずると思弁的になって躓く)
そして、実存伝達とはそれを避けるために三人称的な話し方をする、ということでしょうか。
文章内で一人称や二人称を使うと、実存についてのニュアンスが蒸発してしまう(実存と文章と対照性の関係)。
そこで、第三者が、第三者について語るということでしょうか?
ラカン的な去勢の図式(あんまり理解できてないけど)を私は念頭に置いているのですが。
読者―(同一化しようとする)→イエス(母あるいはシーニュ?)―(読者の見ていないものを表現する)→罪ある女(ファルス?)
>>707
内容の同一性にこだわる契約(≪同じ≫契約、通常の意味における契約)の思想家に対置して、
(あるいはクロノス、簡単に言うと「今は流れ行く」)
空虚な形式の同一性に賭ける契約(≪等しい≫契約?)の思想家という意味でしょうか?
(あるいはアイオーン、簡単に言うと「今だけが在る」)
だとすると、ノマドという言葉は後者を指しているはずですから、
それ(>>707)ドゥルーズの意見だといえると思うのですが。

ニーチェもドゥルーズもキルケゴールも学びかけ(ていうか独学だよチクショウ)なのでいいかげんなことを書いているかもしれません。
間違っていたら、お手数ですが訂正ください。
709473:2006/07/15(土) 22:33:26
>>708

私はそんなに難しい概念を分けも分からず振り回してはいないから、
途中参加なら473の発言を軽く見直せば大体解る筈だよ。

>内容の同一性にこだわる契約(≪同じ≫契約、通常の意味における契約)の思想家に対置して
空虚な形式の同一性に賭ける契約(≪等しい≫契約?)の思想家という意味でしょうか

男性から女性へのエンゲージ(契約)リングの差し出しは、
何を目指してなされているのだろうね。
比喩っていうのはこういう具合に、解りやすくなければならないと、
私なんかは思うんだけどねえ。

大体フロイトは契約するけど、その上で契約以前の世界を再演するのだから、
契約の思想家というのは不適切なんじゃないかな。これはマルクスも同じだけどさ。
ニーチェやキルケゴールは契約した上で、契約以降の世界が開けるの。

ドゥルーズはどっちかっていうと前者に近いんじゃないか。

***

ここって、哲学のアマチュア同士が喫茶店でする情報や考えの交換程度のレベルか
それ以上にはなると思ったけど、全然そうじゃないんだね。

でも、私よりはるかに深くニーチェを理解している人で見ているだけで投稿しないという人もいると思うけど、
そういう人で迷っている人がいるなら投稿して欲しい。
あんまり不毛なようだと、私だって虚しくなってくるし。
それに見ているだけで投稿しないと健康に悪いよ。
一銭の得にもならないのは確かなんだけど……。
710家氏 かかか:2006/07/15(土) 22:49:01
>>703-709さん、ありがとうございます(;;)明学なんですけど…キリスト教がどうも苦手で・・・本番で2000文字くらいで論じないとならないのですが
キリストとかニーチェとかさっぱりで(--;)
711693:2006/07/15(土) 23:25:24
とりあえず>>530前後まで読んだ。
これはジジェク的に見たらいい問題だろう。
つまり、
最初の非人称的な現実界と、
他にも象徴界が世界を分節した後に残った現実界があるということです。
後者をあなたは二人称と呼んでいたのですね?
とすると、図式は以下のようになるのでしょうか?
現実界(非人称、蠢く意思)↓
鏡像段階(一人称)↓
−その後、私であるはずの鏡像がファルスを見る−
想像界(二人称=一人称)象徴界(三人称)↓
現実界(他者(>>473的な二人称))
712693:2006/07/15(土) 23:26:28
いや、違うかな。
…ラカンの理論を考えると頭がこんがらがるからいやだ
713693:2006/07/15(土) 23:59:07
>>600位まで読んだ。
明らかに>>473より私のほうが知識も脳みそもすっからかんだと思うけど、
うん、なんとなくわかる気がするよ。
興味深いね。
詳しく教えていただきたい。

えーと、ドゥルーズが差異と反復の第五章の最後に書いていたことと、かなり近いように思うな。
読んだ?
要点を要約すると、
他者とはサルトルまでの様々な人の他者論のように
「私が主観のときは相手は客観」「相手が主観のときは私が客観」
ということで済まされるものではない。
そうではなくて、他者が可能的世界を表現しているということが重要なんだと。
可能的というのは、要するに他の見方(非人間的な見方含め)が在るということで、
表現というのは、私が見ている他者と、他者が表現しているものは違うということ。
恐怖におののく顔をまずドゥルーズは例に挙げる。
私は恐怖におののく顔を見る。
恐怖におののく顔は、それが体験している恐ろしいものを表現している。
しかし、おののく顔は、体験している恐ろしいものとは別のものだ。
次に、解剖されて断片にされた器官を例に挙げる。
それらはもう人間的な世界表象はもうしていない。
でも、やはり世界に対する何らかの応答を表現していると。
そこからドゥルーズは倫理を引き出す。
714693:2006/07/16(日) 00:05:53
あと、私が先にあげた内容と空虚な形式との話は、固有名と私とに関係していますね。
内容(固有名)の同一性を放棄し、
空虚な形式(私が仮面である固有名をジャグリングすること)に賭ける。
715693:2006/07/16(日) 00:42:24
全部読み終わった。
暇人だな俺も。

四週間眠らなかったという話ですが、
不眠状態と孤独状態は統合失調症とかなり親近性があるらしいので、
カフカ的不眠を連想したのはドゥルーズの思う壺ではないかと。
いや、それでいいと思うけど。

ニーチェ、あんまり読んでないから難しいなぁ。
…えーっと、ビオスとゾーエーってなんでしたっけ?
716473:2006/07/16(日) 01:07:01
>>711

この整理については、私の側からは何の文句もないしもっと早く為されていれば良かったと思う。
因みにジジェクの片腕ジュパンチッチも同様のことを言っている。注目しているのだが、動きがなくて残念に思っている。

『差異と反復』は読みはしたが、何の魅力も感じなかったし、
魅力を説明してくれる本にも出会えなかった。彼の言葉は正直あまりピンとこないよ。
彼の言っていることは、もっと簡単に語れるのではないかな、例えば、

>内容の同一性にこだわる契約(≪同じ≫契約、通常の意味における契約)の思想家に対置して
空虚な形式の同一性に賭ける契約(≪等しい≫契約?)の思想家という意味でしょうか

この問いへの答えは少しシニックになったけど、率直に言えば、ニーチェもキルケゴールも、
>>679の講話の概要から分かるとおり、商品を媒介した買い手−売り手の「契約」(エンゲージ)を
作品の中で反復する、「契約」(エンゲージ)が反復されるのだからこれは――「結婚」(マリッジ)になる。
彼らは「結婚」の思想家だとした方が「ノマド」とかいうよりはるかに正確だし
「契約」の思想家との対比としてもその違いが明確になる。

>「私が主観のときは相手は客観」「相手が主観のときは私が客観」

この考えも、既にマルティン・ブーバーが古い観念論の復活として一蹴している。
サルトルの捉え方は「我−それ」関係だが対他関係は「我−汝」である、と。私にはそれで済むね。
だが、ニーチェ、キルケゴールにあっては、この二つの関係が交叉する。
これはまだ上手く説明できていないけどね。『畏れと戦き』、そして上に挙げたシュミットのニーチェ論。
「汝」はキルケゴールのいうように、他者の「可能性」ではなくて「現実性」だね。

>内容(固有名)の同一性を放棄し、
空虚な形式(私が仮面である固有名をジャグリングすること)に賭ける。

空虚な形式は他者に通じる通路となっていて、それが
二人称なのだろうね。
717473:2006/07/16(日) 01:25:18
可能性の話は面白いがよく解らない。
差異と反復は読んでみるけど、きっとますます解らなくなるだろう。

ビオスは公共領域に固有名を登録した生。
ゾーエーはそうでないむき出しの生。
アガンベンのホモ・サケル参照。

アポロンとディオニュソスが装いも新たに復活した。
太陽の下に新しいもの無しというのは真理だね。

正確にはドゥルーズの考えは後から知って、
私の体験したことはこういう事なのかな、と思ったんだけど。
本当に素晴らしく健康な日々だったが、一度元に戻ってしまうと何やってたのか解らない。
まあ、ニーチェを読んで直ぐにくたばってれば良かったよ。
718693:2006/07/16(日) 01:30:27
>>716
そうなんだよね。
もっと簡単に説明してよってところがドゥルーズには凄く多い。
でもジジェク『身体なき器官』みたいな、
ラカニスム的ドゥルーズ理解は、
かなり万能な理解ツールであるとは思いますよ。

さて、空虚な形式は、
時間の第三の綜合におけるひび割れた自我として差異と反復では論じられています。
時間の第三の綜合とは、
デカルトが規定作用と未規定なものという二つの論理的価値で、
「私は思う、ゆえに私は存在する」
と言ったことに対しカントが、
「その規定作用を直接未規定なものに差し向けるのは無理だ」
として規定されうるものという第三の論理的価値を付け加えたことに関係している。
…らしいですが、このカントの批判、どういう意味ですか?
719693:2006/07/16(日) 01:35:39
>>717
第五章の最後は、つまり私が参照したところは、彼には珍しく分り易いですよ。

『糞をひらない身体』という本があった気がしますが、
この場合の糞のように社会から認知されていないものを、
つまり同時に公共的な意味付けから逸脱している身体、
言い換えるならクリステヴァの「おぞましいもの」が、
ゾーエーである、としていいですね?
720473:2006/07/16(日) 03:17:19
>>718

ドゥルーズその他については私の方が聞きたい側だし、>>718の問いも、
昔聞いてなるほどと思ったが、直ぐにはでてこないし調べるのも手間だ。
お役に立てなくて申し訳ないが、他の人か、あなたが説明してくれるのを楽しみにしている。
既に答えは出ているようにお見受けのできる問いの提示の仕方だと感じるけど、どうですか?
が、誰がそれを説明するにしても、ニーチェとの繋がりを忘れないようにして欲しい。

>>719

糞−ゾーエー−アブジェクト――で、良いと思うよ。
ただ、先達の言葉を後発の人間の言葉に言い換えて
齟齬が生じないなら、逆で済ますべきだろうね。

キルケゴール、ニーチェの場合はそれesの扱い方が問題になる。
ジジェクのように(疑似?)科学的言説の中でそれに回収されない
一点を囲い込むという形は取らないんだな。

>>708

の発言について「難しい概念を分けも分からず振り回してはいる」かのように
扱ったが訂正するよ。私の方が拒絶反応を起こしていた。
私の発言全てに目を通してくれたようだけど、その上で
708の発言は訂正の余地はありませんか?
だとしたらコメントをしたいのだけど。
721693:2006/07/16(日) 13:05:21
>>720
確かに私は>>718の問いがそのあとどう展開していくのかということはそれなりに分かっているつもりですけれども、
肝心の>>718の問いがのちの展開に繋がるようになる当の論証が分からないのです。
で、そののちの展開は…
ドゥルーズの反復論と存在論の核心である永遠回帰解釈へとつながるうえでの、最後の反復。
それが時間の第三の総合である時間の空虚な形式において姿を現す。
…と、なっています。

>>720
ですね。

>>720
実存伝達はいまだにどういうことかさっぱり分かりませんので、どうか>>708をご訂正ください。
722473:2006/07/16(日) 21:02:29
>>721

『差異と反復』は私は完全にパス。どうしてそうなるのか私も解らない。
『ニーチェと哲学』についてはそれなりにコメントできるが……。

>>708

についてコメントがしたかったのは実存伝達の理解についてではないが、
発言を見返すと私の説明が悪かったらしい。

まず西尾−柄谷とニーチェ−キルケゴールを分けるのは
実存伝達の有無だとしたのは私の誤り(実はそうだと言い切れないけど)。

実際は西尾−柄谷とニーチェ−キルケゴールを分けるのは、
著者の時間と読者の時間が一段ずれざるを得ない事を
彼らが受け入れているか否かであると言った方が良く、
講話「罪ある女」はその違いを示す例として挙げた。

実存伝達については『倫理的伝達の、また倫理−宗教的伝達の弁証法』
『結びとしての後書き』に詳しい。

自己(伝達者)のあり方を通じて、他者(受領者)のあり方に作用を及ぼすのが実存伝達。
ソクラテスの産婆術が一例だが、この伝達においては伝達者の実存と受領者の実存以外のもの、例えば
広汎な学識といったものは一切必要ない。

キリスト教徒が隣人に対してなすべき伝達もそれに近いのだが、伝達者と受領者の間にある知識が挟まる。
その知識を通じて自分自身のあり方をそれまでとは違ったものに変化させ、
自分の変化を通じて受領者のあり方も変化させる。
「罪ある女」はこちらの例だね。時間のずれは伝達者−知識−受領者の関係から生じるのだろう。

ニーチェのアフォリズム集は前者、『ツァラトゥストラ』は後者の機能を果たしているのではないかな。
どなたか訂正があれば宜しく。
723処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/07/16(日) 21:07:42
俺はニーチェよりはエマソンの方が読んでて面白いと思う。
ニーチェはエマソンのゲルマン民族主義的焼き直しみたいな
感じかな。
724考える名無しさん:2006/07/16(日) 21:11:27
>ニーチェのアフォリズム集は前者、『ツァラトゥストラ』は後者の機能を果たしているのではないかな。

意味がわからん・・・
せめて何故そう思うのかを書かないと・・・
725考える名無しさん:2006/07/16(日) 21:13:33
たしかにニーチェはエマソンの影響を受けたが、それはニーチェのごく一部にすぎないよ。
ニーチェの仏教的な部分への影響だろう。
726処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/07/16(日) 21:17:10
セーレン・オービエ・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard, 1813年5月5日 - 1855年11月11日)

チャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin, 男性, 1809年2月12日 - 1882年4月19日)
 『種の起源』を1859年11月24日出版した。 宗教界から激しい反対を受けたが、1877年ケンブリッジ大学は
 ダーウィンに名誉博士号を贈った。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)
727処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/07/16(日) 21:18:22
ニーチェって息苦しくってさ。
728処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/07/16(日) 21:32:17
ルナンが『イエス伝』を刊行したのは1863年、ニーチェが19の時。
 1871年にコレージュ=ド=フランスに復職,1883年には学長に選任
 され,その間1878年にアカデミー会員となる。

・・・ま、そういう変化の時代であったって話。

>>725
もちろん、ニーチェのショーペンハウエル譲りのインド哲学の
影響なども無視しないが。乱入失敬w
729693:2006/07/16(日) 22:19:12
>>722
私は『ニーチェと哲学』はまだ読んでいないんです。
ドゥルーズのニーチェ論は(あの悪名高き)『ニーチェ』しか読んでませんでして…。
(そんなに悪い本かなぁ?分かり易く、しかも要点を得ていると思うのだけど)
ところで質問ですが、今のところの私の読みだと、
ドゥルーズは永遠回帰をアイオーン論として解釈しているのではないかなと思うのです。
今だけがあるという、リニアな時間観に対立する、ヴァーティカルな時間観。
現に彼は、
「反復だけが達成された唯一の存在論だ」
「存在は一義的であるというスコトゥスの存在論しかなかった」
「永遠回帰は一義性の定義である」
などと『差異と反復』内で述べていたように思います。
そして、時間の第三の綜合というのはつまり、
ニーチェが区別した二種類の価値の形式と対応しているように思うのです。
二種類の価値の形式とはつまり、既存の価値と、創造される価値。
私の認識が正しいならその二種類の価値とはつまり、
内容においては「かつて○○は新しかったが今は古い」という言い方が可能ですが、
形式においては、既存のものは既存のものであり、新しいもの(反時代的なもの)は永遠に新しい。
(私が今まで言ってきた内容と形式とはこういう意味です。多少勝手な意味で使ってます)
>>722
うーん…とりあえず…
『倫理的伝達の、また倫理−宗教的伝達の弁証法』『結びとしての後書き』
を読まないと始まらないようですね…。
図書館に行かないと読めないかなぁ?
730一言居士:2006/07/16(日) 22:50:55
>>729
ニーチェと哲学なら、一通り読んだことがある。
超人とは、「違った考え方ができる」という意味だと言っていた。違ったかな?
731ヘヴィーメタル赤羽:2006/07/16(日) 22:54:48
                 rニYニヽ          
   |レ               //__ _j |        
   !!_           イ t` !_,` } |  金の無い奴ぁ     
   ゙- '´ ,、       /j ト ‐=' レj   俺んとこ来い♪    
      -''´   ,r'´ ̄`゙} |二二j l|rニ二ト、   
           〉─7-'´l|jト、`}-イl;|`--l一〈   
     __ii__    |   レ ルリ-ト、|州リ   |  .|  
     イi    j  j ,,  ヽヽ |/     |   
      `  , イ  ハ ヒ、 ト、 |     j   ',    
        ノ  }  / }、 ヽ} ヽヽ|    ノ ',  |   
      /   イ  } {ニ二ニニ}´7二ニニ}  ',  |
    //  / l  | ',ニ二ニニi |ニ二Y   ', |
.  //  /   l  } ヾニ二ニi |ニ二イ   ', ',
/ /    l    レミj   {ニ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄{    {三i
732処刑ライダー ◆.EDMOUBKE2 :2006/07/16(日) 23:14:07
エマーソンの『精神について』は読んでおけよ。
733473:2006/07/17(月) 00:09:11
>>729

永遠性はリニアな時間の流れに対する脱時間的なものとしてまずある。私の理解ではこれがアイオーン。
その永遠が時間の中に干渉するのがニーチェの「永遠回帰」でありキルケゴールの「反復」で、
ヴァーティカルと聞いてしっくりくるのは私にはこちらだね。時間の中で永遠性を宿しリニアな時間性に抗い続けるのがあなたの言葉だと
「内容」ではなく「形式」だという事になるよね。それは時間の流れに対しては流れを逆流させるような現れ方をする、
という事を私は「罪ある女」を例に挙げて下手なりに説明しようとしたし、『ツァラトゥストラ』も時間の向きを変えて過去に遡って意欲をする事が課題になる。

流れる時間の中に現れた永遠は、ニーチェの場合もキルケゴールの場合もツァラトゥストラやイエス(そして聖書に登場する寓意的人物達)、
という外在項としてあって、それと関わりながら著者は自分の実存も永遠なものに変革し、それを通じて読者の実存も永遠のものに変革する。
これがキリスト教的実存伝達だね。ソクラテスの産婆術も実存伝達ではあるんだが、この外在項がない。

ドゥルーズが『ニーチェと哲学』の中でツァラトゥストラと彼を幼子として共有する超人の夫婦の時間性を
分けて、前者を「他の瞬間に駆り立てられた瞬間の受動的総合」、後者を「過去−現在−未来としての瞬間の自分自身との
総合」と定義しているのだけど、前者は先の商品性と作品性の総合としての「罪ある女」、後者は
それを介して実存を変革した読者−罪ある女−著者との関係だと考えれば良い。
だから「今−ここ」にしてもそれは三つの単位が連関してしか成立しない。
wille zur machatというのも三つの単位の連関を表してもいるんだ。

ドゥルーズは文庫の方も悪くない。machtが<力>なのは何度も言うように誤訳だけど、これはドゥルーズだけの問題じゃないし。
でもあんな容量であれだけの内容詰め込んだら却って解りづらいし、それが初学者向きと銘うたれているからおかしな事になるんだろう。
何度も名前を挙げているけどホルガー・シュミットは丁寧で高度で、素晴らしい解説書だと思うから、こちらを勧めたい。
machtが「権力」でなければならない理由も解るよ。
734474:2006/07/17(月) 01:18:23
今の流れにはあんまり興味がないし、
まだキェルケゴール本が手に入らないので立ち入ったレスはしないが、
>>729
ドゥルーズのニーチェ論が悪名高いのはドゥルーズがまるっきり
自分の思想丸出しだからでしょう?
>今だけがあるという、リニアな時間観に対立する、ヴァーティカルな時間観。
ドゥルーズの時間論といえば生成変化を思い出すね。
ある意味アレは「今だけが無い」という時間観。
735考える名無しさん:2006/07/17(月) 01:25:08
>>733
最初の方に書かれている分では同じ意見ですが、
時間に逆向き云々
外在項云々
実存伝達云々
は、やはりまだ私は理解できません。
申し訳ない。
あとツァラトゥストラの時間綜合と超人夫婦の時間綜合は、そのまま『差異と反復』第二章に流用されていましたよ。
ホルガーシュミット、読んでおきますね、近いうちに。
736693(735も):2006/07/17(月) 01:31:16
>>734
自分丸だし、という批判は確かにもっともではありますね。
あと、ドゥルーズの永遠回帰が、ある意味「今だけがない」というのももっともです。
だからこその生成変化であり、スピノザの世界観をわざわざ動かした理由でもあるのでしょうね。
737474:2006/07/17(月) 01:52:52
>>736
一応いっとくと、俺はそんなの批判する方がおかしいと思うけどね。
ニーチェを語りながら自分の思想を述べたとしても何の問題もない。
そもそもゾロアスターがあんな事語るわけないんだし。

あと、実存伝達云々に関しては一番詳しいと思われる473の説明自体歯切れが悪い。
473の言うとおりキェルケゴール本を読んでから議論する方がよいかもしれない。
738473:2006/07/17(月) 02:58:35
>>ツァラトゥストラの時間綜合と超人夫婦の時間綜合は、そのまま『差異と反復』第二章に流用されていましたよ。

そうだったのか。読んでみようかな。でも私は随分時間を無駄にしたからな……。

「実存伝達」は情報の伝達ではなくて、伝達者のあり方を受領者に伝え模倣させるもの。立派な人と話をして、話の内容と関わりなく自然に背筋が伸びるようなのはこれ。
クリスチャンの生き方は社会的=人間的な尺度ではただの乞食、世の慰み者となるクズでしかないから、普通の人はそんな連中と関わりあいに
なるのも嫌だし、ましてや自分もそう生きたいとは思わない。そう生きる事の必要性を教えるのがイエス=キリストの実存。
この実存を知として伝えられるまでは、そういう生き方は誰にも想像すらできない。
知った後にはじめてそれまでのあり方(存在)を捨てて、クリスチャンに「なる」(生成する)わけ。
「なった」後にはイエスの実存を「なるであろう」人達に伝える側に回る、と。
キルケゴールに永遠の生成があるとしたらこうした仕方でだね。

逆に聞きたいんだけど、ドゥルーズは「差異と反復」で、こうした外在的一者の実存の問題をどう処理しているの?
>ドゥルーズの永遠回帰が、ある意味「今だけがない」これを読むとイエスやツァラトゥストラの実存も忘れてしまっていいように
取れてしまうのだけど。でもそうなると、ニーチェもキルケゴールも台無しで、これがあるからスピノザとは彼らは絶対に合わないと思うんだけど。

シュミットはまだしもキルケゴールの講話が全然流通していないのはおかしいよ。クロソウスキーの言っている事なんて、キルケゴールが百年以上前に
百倍以上上手に語っているのに、誰も気づかないんだからね。こんな状態で歴史の終わりだとか何とか騒いでいたのだから、何というか――。

時間の逆流は、どう説明しようかな。困った。ハイデガーのニーチェ解釈はこれが解っていないから駄目で、ドゥルーズは
解っていてた筈だから、ドゥルージアンなら私の下手な説明を補ってくれると思ったんだけど――。

ドゥルーズの読みはおかしなところは一つも見つからない。少々気障ったらしいのが鼻にはつくけど。
739考える名無しさん:2006/07/17(月) 03:18:06
あ〜あっ、ペダン人に汚されてるね。
勉強熱心なのは納得できるが、そこに自分なりの解釈がまったく無い。
ただの現代思想家信奉者であって、他人の解釈に身をゆだねる思考停止者。
ニーチェのテクストに、ある特定(他人)の意味や見解を取り出してくれば、
そのいずれもニーチェが批判するところとなるのに。
少なからずそういった関連を読んでるがみんな似たり寄ったりだ。

な〜んてな。あっ、自己批判になってる!ガックリ。
740考える名無しさん:2006/07/17(月) 03:47:45
ニーチェの著書を何回も読むことだね。
え?1、2回しか読んでないの!!
そんなんで語れるの?
だめだよ解説書、解釈書ばかりじゃ
741考える名無しさん:2006/07/17(月) 05:20:24
473さんがかなりいい加減なことを書いているようなのでちょっと横レスしておくね。
ニーチェの哲学と「Du」を結び付けようとしてブーバー、キルケゴール的読み方を
しようとしているのがまず非常に気になるが、とりあえずそれは置いておくとして…

といってもそれを置いておくと、473さんはニーチェ哲学の核心に触れるようなことを
ほとんど書いていないのだが…、machtについて少し書いてるね。(Machtなのだが…)

>>518
>即自的と捉えられる「意志」に「権力(への)」を付け加えたのは
>それが対他的な関係の中でしか成立しないことをニーチェが見抜いたからだね。
>だから、machtから「権力」という複数の勢力間で構成される関係の
>ニュアンスを抜き取り、「力」にしてしまう翻訳は問題がある。


Machtが「力」ではなく「権力」だとするのはニーチェを特定の視点から読みたい
という意志の現われに過ぎない。権力と訳してしまうとおかしな部分も多々ある。
たしかに力への意志は、ショーペンハウアーの「生への盲目的な意志」とか、解剖学者であった
ヴィルヘルム・ルーの『有機体における諸部分間の闘争』からの影響によって形成された側面も
あり、そういう部分では「権力」でもしっくりくるが、その他に力への意志の思想の形成に
大きな影響を与えたものとして知られるものに、マイヤーやフォークトなどの当時の自然科学者の
「力(Kraft)」概念が挙げられる。
ニーチェは当時の自然科学者の「力(Kraft)」概念を批判してたとえば次のように書いている。
「一つの力量子は、それを働かせる作用とそれが抵抗する作用とによって表される。・・・
この力意志の放射がないとすれば、アトムもないことになる。それゆえ私はこの力意志を
『力への意志』なる量子と呼ぶのである」(遺稿14[79])。
「一つの力量子、これは『存在』という性質をまったく持たないのであるから、生成である」
(遺稿11[73])。
このような「力(Kraft)」に対するMachtであるという存在論的側面を考えれば、Machtは「力」と
訳したほうが無難なのであるよ。

なお、Machtの単数の用法と複数の用法については、ミュラー・ラウターの『ニーチェ論攷』に
詳しい解説がある。
742考える名無しさん:2006/07/17(月) 05:42:43
>>741
ここ(このスレ)は哲学入門者に譲ろうや。

ニーチェってやってれば誰でも通過しなけりゃならんのだし・・・
今さら解釈もなにもないやろ?
743考える名無しさん:2006/07/17(月) 05:46:34

ここで新しい発想や発見が生まれている訳でもないしね。
744考える名無しさん:2006/07/17(月) 07:06:23
>>619
>二人称でしか呼び得ないものの位置に自らを捧げた固有名が
>イエス=キリストであり、ツァラトゥストラなの。

これもよく分からない。
ニーチェが『ツァラトゥストラ』の主人公としてゾロアスターを選んだ理由は『この人を見よ』で
次のように書かれている。
【ツァラトゥストラという名前が他の誰でもなく私の口から、最初のインモラリストである私の口から
出ている以上、その名前が何を意味するのか、誰か尋ねてくれる人がいてもよかったろうに、誰も私に
尋ねてはくれなかった。・・・ツァラトゥストラは道徳という、この最も後に重大な結果を招く
迷妄を創り出した者でもあったのだ。したがって、必然的に、彼は道徳が迷妄であることを認めた最初
の者でもある。・・・──私の言わんとする処はもうお分かりであろうか?…誠実さから発する道徳の
自己超克、道徳家が自分を超克してその反対のものに──私という存在に──なること、これが私の口
から出されている、ツァラトゥストラという名前が意味する処のものである。】

つまり、ニーチェが主人公の名前をゾロアスターから借用した理由は、道徳の没落を、
「自己超克」の論理を用いて描くためには、「道徳の創造者」であるゾロアスターが最適任者だった
から、ということですね。
なお、「誠実さから発する道徳の自己超克」は、『道徳の系譜』では次のように述べられている。
【かくして教義としてのキリスト教は、おのれ自身の道徳によって没落した。かくして今や道徳として
のキリスト教もまた没落せざるをえない。…キリスト教的誠実性は、一つ一つ結論を引き出していった
のち、最後にはその最強の結論を、すなわち自己自身に反対する結論を引き出すのだ。だが、これが起
こるのは、その誠実性が『あらゆる真理への意志は何を意味するか?』という問いを発するときである
。…真理への意志がこのように自己を意識するにいたるとき、爾後それによって…道徳は没落する】
(道徳の系譜三、27)。

>>620
>二人称を中心に据えると、権力への意志、永遠回帰、ニヒリズム、超人の理解が容易になるって事。

権力への意志、永遠回帰、ニヒリズム、超人の関係について、是非書いて欲しいものですね。
745考える名無しさん:2006/07/17(月) 07:32:52
ニーチェの思想は日蓮に行き着くって言われてますが↓
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/ni-che.htm
746考える名無しさん:2006/07/17(月) 07:52:41
私の考える位置づけだけを大雑把に示せば、
後期のニーチェの著作と遺稿を見れば分量的にも
デカダンス批判と結びついたキリスト教(道徳)批判(および従来の二世界論的形而上学への批判)
が中心になっており、また、上に述べたようにゾロアスターを選んだ理由が「道徳の自己超克」
を描くためであったことも考えれば、「ニヒリズムの自己超克」をニーチェ哲学の中心と考えると
ニーチェ哲学の全体が理解しやすくなると思う。
「ニヒリズムの自己超克」がいかにしてなされるのかといえば、「力への意志」による
「価値転換」によって。「永劫回帰」はそれ自体としては「最高の肯定定式」であるとともに
「最も怖るべき思想」でもあり、「最も怖るべき思想」としての永劫回帰は、
「ニヒリズムの最も極端な形」とも言われている。「ニヒリズムの最も極端な形」が
「最高の肯定定式」に変わるのが「価値転換」によって「ニヒリズムの自己超克」がなされ、
「生成の無垢」が再興される時である。

【一切の価値の価値転換、これが人類の最高の自省の行為を言い表す私の定式である。
・・私の運命は、・・私が自分を数千年にわたる虚偽に対する敵対者として自覚していることを
欲しているのだ。・・私が初めて真理を露呈した。初めて嘘を嘘として感じ取ったことによって】
(『この人を見よ』)。
747考える名無しさん:2006/07/17(月) 08:08:10
>>745
確かにニーチェは仏教を高く評価したが、それはあくまでもキリスト教と比べてということであって、
彼は結局のところ仏教も「デカダンス宗教」であるとしている。
ニーチェが仏教を高く評価した理由は、仏教がルサンチマンを克服しているという点であり、
道徳の虚偽をすでに看破して「善悪の彼岸」に立っているという点であると思う。
そしてニーチェが仏教も「デカダンス宗教」であるとしたのは、ニーチェが仏教の「涅槃」を
「無」と解釈し、仏教には「無への憧れ」があると解釈したからだと思う。

ニーチェは「私はヨーロッパの仏陀になれるかも知れない」と言い、永劫回帰を
「仏教のヨーロッパ的形態」とよんだ。
あくまでも【ヨーロッパの】仏陀であり、仏教の【ヨーロッパ的】形態なんだよね。
だからニーチェが行き着くのはインドの仏教ではないです。
748473:2006/07/17(月) 09:50:11
>>741

あなたは744,746,747の発言者と同一人物ですか?どの発言者であるにせよ、これから纏まった発言をし続けるつもりなら、
どの発言が自分のものであるか名前欄に番号を入れて解るようにして欲しい。私の発言に興味を持って下さって嬉しいが、誰だか解らないと返答に余計な労力がかかる事を解って欲しい。

>「力(Kraft)」に対するMachtであるという存在論的側面を考えれば、Machtは「力」と
訳したほうが無難

との事ですが、私はそもそもKraftを「力、あるいは勢力」とした場合それに対するMachtであるからこそ、
区別して「権力」と訳すべきだと最初に主張したつもりです。Machtを「力」と訳してしまうと、意志同士の相互作用(対他的な関係)のニュアンスが消えてしまう。

ですから、「一つの力量子は、それを働かせる作用とそれが抵抗する作用とによって表される。この力意志の放射がないとすれば、アトムもないことになる。それゆえ私はこの力意志を『力への意志』なる量子と呼ぶのである」
という最初の引用は、私の意見を裏付けこそすれ、批判するものにはなるとは思えない。「一つの力量子、これは『存在』という性質をまったく持たないのであるから、生成である」 というのも同じだが、しかしこの断片については
それ以前に「権力への意志は、存在でもなければ、生成でもなく、パトスであり――生成が、作用が、そこからはじめて生じてくる最も基本的な事実である」という有名な断片もあるので、私としては扱いに慎重にならざるをえない。
とは言え、日本語で力と権力両方の意味を担わす事の出来る語があれば、それが一番良いとは思う。

ミュラー・ラウターの名前ははじめて知りました。興味深い内容ですが、この値段では購入は見合わせです。 悪書が良書の流通を妨げるのは、何とかして欲しい。
749473:2006/07/17(月) 09:55:03
>>741への返答は少し読みづらくなって失礼。

>>744-747

ニーチェがツァラトゥストラを選んだ理由が「道徳の自己超克者」や「ニヒリズムの自己超克者」として
彼が相応しかったからだというのは理由の一つとしてよく挙げられるので多くの人と共に私も知っている。
しかしそれは神的な夫婦である超人産出の為の過渡的な作業である,というのもまた然り。
夫婦の女性の側が二人称と関係があるのは間違いがない。それを中心にしてあなたの勧めてくれるように

>権力への意志、永遠回帰、ニヒリズム、超人の関係について、

考察し直して、それが成功すれば今までのニーチェ論にないようなエレガントなものになる筈だが、
私の限界なのか、ぱっぱとやるというわけにはいかない。一人で問題を抱えていても行き詰まるので、
ひょっとしたら考察を勧める糸口くらいにはなるかなと思って、思い切ってここに投稿したのですが、
なかなか議論は進まないなあ、失敗だったかなあ、でも投稿しちゃったよ、というのが実感です。

>>693

「差異と反復」第二章を読んでいる。こんなに面白いとは思わなかったな。
でも、これを理解していれば、私の言っていることは理解できるというか、
もっと上手く語れると考えるのじゃないかしら。
750741,744,746,747:2006/07/17(月) 10:08:13
>>748
>Machtを「力」と訳してしまうと、意志同士の相互作用(対他的な関係)のニュアンスが消えてしまう。

「力」だと何故対他関係が消えるのか、さっぱり分かりません。
世界は「諸力の戯れ」であり、諸力の相互作用ですよ。

>ミュラー・ラウターの名前ははじめて知りました。

たしか『批判的全集』や『ニーチェシュトゥディエン』の編集にも携わっている
現代のニーチェ研究をリードする一人です。

>>749
相変わらずあまり内容があるレスとは思えず、レスしようがないですね。
751741,744,746,747:2006/07/17(月) 10:21:48
>とは言え、日本語で力と権力両方の意味を担わす事の出来る語があれば、それが一番良いとは思う。

辞書を引くまでもないと思うが、「権力」より「力」のほうが遥かに意味が広い。
(もちろん「力」は「権力」という意味も含んでいる)
「権力」と訳さずに「力」と訳す人が多いのは、「権力」では意味が限定されすぎるからです。
752考える名無しさん:2006/07/17(月) 10:32:08




  明日はハロワ池よ



753考える名無しさん:2006/07/17(月) 12:25:29
473は俗に言うキチガイってやつですか?
754考える名無しさん:2006/07/17(月) 13:12:48
ガイシュツだろうけど、ドイツ語版ウィキの Friedrich Nietzsche の記事のなかに
Werke und Ausgaben って項目があって、作品名が青字になってるとこを踏むと、
ドイツ語原文が up されたページに飛ぶんだな。

http://de.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Nietzsche#Werke_und_Ausgaben
755考える名無しさん:2006/07/17(月) 14:58:07
Machtは「力」と訳しても「権力」と訳しても不適当でそ。

そもそもドイツ語なんだからドイツ語で考えたら?

英語だとwill to powerだけど、これも勘違いの甚だしい訳。

なんてったって、übermenschがsupermanになる国だから。
756474:2006/07/17(月) 14:59:11
>>741
>Machtが「力」ではなく「権力」だとするのはニーチェを特定の視点から読みたい
>という意志の現われに過ぎない。権力と訳してしまうとおかしな部分も多々ある。
それ以前にフランス語ならばフォルスとピュイサンスで訳の問題は起きない。
日本語にピュイサンスに相当する単語がないから権力になってるだけのこと。
権力だとおかしい、力じゃなきゃ、っていうのには同意なんだけど、些細な問題だよ。
>>751
逆にフォルスではない力を表現しなきゃならないから権力と訳す向きが多いんだと思う。

普段から存在=エートル=ビーイングで、品詞すら全く違う単語を訳語に当ててるんだから、
力か権力かにこだわるべきではない。どっちも名詞なんだし。
なんならこのスレではこの先Macht=力と決めてしまえばよい。
757473:2006/07/17(月) 15:21:56
>>750

>相変わらずあまり内容があるレスとは思えず、レスしようがないですね。

今まで見ていただけの人にそう言われる筋合いはないが、
発言者が誰か解らない事もあって、実はよく読まずに返事をした。
私が見ても744-747のあなたの理解は殆ど文句のつけようがない。
出されてみるとその通りだが、すぐこれだけ整理した文章に纏める事ができるのは
私など問題にならない位ニーチェに通じていらっしゃるのだろうと思う。

その人が二人称についての私の発言が解らないというのは私の方が理解できない。
散発的な返事の中での発言ですから私も上手く説明できていないのは確かなのですが。
ニーチェにおける二人称の意義について、既に纏めた優れた研究は、もうあるのではありませんか?
758693:2006/07/17(月) 15:50:52
>>738
私はドゥルージアンたらんとはしていますが、
まだまだ下っ端も下っ端でして、
よくわかっていないのです。
すみません。
759474:2006/07/17(月) 16:18:03
「今だけが無い」と言い出したのは俺なのでちょっとレスすると、
473の感想はもっともだがドゥルーズの生成変化とは無関係。
むしろ生成変化と永劫回帰を同一視することが正しいか疑問だ。
生成変化の特徴は現在を回避し、過去と未来の区別をしない事だ。
760693:2006/07/17(月) 19:23:23
さて、>>473さんの考えていることはこういうことではないかということを書いてみたいと思います。
論証重視的ではなく、流れ重視で、私なりに、やみくもに。
まず、彼は「力の意思」ではなく「権力への意思」という記述に(なぜかは分からないが)こだわっている。
で、その権力意思の向かう先は「汝」である。
彼によると汝というのは「向かい合って私を見ているあなた」であって他我ではない。
それはジジェク的な≪汝≫やドゥルーズ的な≪他者≫と等しいと思われる。
さて、その≪他者≫というのは何かというと、私が見ている世界とは違う見え方の世界を表現するシーニュだった。
これはジジェク的には現実界に属し、それを埋めようとするとイデオロギーが出てくるとジジェクは考える。
ところで、権力の向かう先の汝とはどんな性格のものだったか。
それは、既成の価値体系とは相容れない反時代的なものだった。
ニーチェによれば、既成の価値体系でいくら名誉を得ても、それは奴隷的な強者でしかない。
何故かというと、規制の価値体系における名誉を喜ぶ為には、
喜ぶ当人は必然的にその価値体系の自己同一的な根拠の前に屈服していなければならないからである。
というわけで、権力意思は、処女開拓意思のようなものであるといえる。
ところでドゥルーズによると、
この反時代的な精神というものの場所である時間の空虚な形式こそが、永遠回帰における今なのだった。
空虚な形式とは、アイオーンであり、ヴァーティカル・タイムであり、
すなわち経験的な内容に対立する「過去−今−未来」の一組の系列である。

…混沌としてきた…。
…えーっと…。
761693:2006/07/17(月) 19:31:03
話を進める向きを変えよう。
ドゥルーズの思考法には、確信があるわけではないが私は、
世俗的な概念を、経験的内容から空虚な形式によるものへと改造する、
というものがあるように思われる。
『千のプラトー』を例にあげると、
「有名⇔無名」→「メジャー⇔マイナー」
「体制⇔反体制」→「国家装置⇔戦争機械」
「人間=男=存在」→「動物=女=生成変化」
というのがそれなのではないかなと思う。
で、やっと本題に戻る。
ドゥルーズ的な永遠回帰に>>473は共感的ではあるが、
それを支えるのが権力意思ではなく「力の意思」であるというのが彼には納得がいかない。

権力意思にはある「汝」の位置は力の意思にはないのではないか?
ないならば、それをどうにかするべきだろう。

これが>>473の目論見だと私は思っている。
762474:2006/07/17(月) 21:06:49
>>761
些細な指摘だが、有名無名とメジャーマイナーは対応しない。
マイナー文学という言葉はあるが、カフカが無名だとは思わないだろう?
763考える名無しさん:2006/07/17(月) 21:06:52
473はラカンそのままなんだからラカンを勉強しなさい
764693:2006/07/17(月) 21:11:16
>>762
カフカをマイナーと言い張るのがドゥルーズ=ガタリの破天荒さだと思うんだけど。
マイナーってのは「固定された定義を持たない」っていうような意味じゃない?
765474:2006/07/17(月) 21:33:38
>>764
無名と言い張ってはいないわな。
766693:2006/07/17(月) 21:35:15
>>765
あ!
しくじった!
そのとおりです。
勢いに乗って適当なことを書いてしまいました。
おわびします
767考える名無しさん:2006/07/18(火) 02:12:46
実存伝達ってキルケとレヴィナスの間の問題じゃないの
「おそれとおののき」読めばいいんじゃない?
実存哲学の圏域内の問題に過ぎないと言ってしまえると
思うけどな。ニーチェと関係させるのは…
768474:2006/07/18(火) 02:34:14
>>767
ニーチェと関係ある、と主張する人物が居るからには、
無い、と主張する方ももうちょっと詳しく根拠を述べて欲しいものだ。
確かにキェルケゴールの問題とは思うが。
769考える名無しさん:2006/07/18(火) 14:04:08
>>768
いや。
ニーチェが書いているのなら、そういうことを書いている箇所を
引用して明確に示すことができるはずだよ。
しかし書いていないことを示すのは、困難なことだよ。
荒唐無稽な話に対して反論することも困難。
473は自説を述べたいならもっと具体的なニーチェの言説を示すべき。
そうでないと反論もできない。
770考える名無しさん:2006/07/18(火) 14:07:44
ニーチェが実存主義者だと誤解されていたのは一昔前のことだよね。
今はニーチェと「実存」を結び付けて論じる人は少ないと思うけどな・・・
771474:2006/07/18(火) 15:55:17
>>768
それは分かるのだが、書いてないことを示すのではなく、
ニーチェの問題の本質・主眼が別の場所にあるのならそっちを主張して欲しい。
これは悪魔の証明ではない。473は参考意見程度の主張はしている。
772考える名無しさん:2006/07/18(火) 18:47:55
ニーチェはなんとでも読めるから勘違いが次々と・・・
773474:2006/07/18(火) 19:18:25
771でレス番間違えた。正しくは>>769
>>770
それは歴史をニーチェ解釈に不用意に持ち込んでいる事にならないか?
ニーチェがいわば「実存主義の時代」に出てきたことに意味を見いだすのは
不自然ではないし、おそらくその必然性もない。
774考える名無しさん:2006/07/19(水) 05:17:14
>ニーチェがいわば「実存主義の時代」に出てきたこと
それはよくある哲学史の教科書の誤解なんね
サルトルが実存主義を唱えてから、その先祖は誰やねん、ということで
キルケやニーチェ辺りじゃね?ということで、キルケ、ニーチェの時代が
「実存主義の時代」となってしもた
これこそ歴史をニーチェ解釈に持ち込んでるものやねん、ということで
ここんとこはニーチェ=実存主義で考える人は少なくなったんね
775考える名無しさん:2006/07/19(水) 09:07:27
マルクス、ニーチェ、フロイトってのは聖域視される3巨頭だった
のだけど、ニーチェというのは晩年に「真理を掴んだ男」として
彼が批判していたにも関わらず、彼自体が、一種の形而上学に
なっちゃったのね。まさに彼の言うとおり、怪物と戦う者は自身が
怪物とならないように注意しなければならない、と。
フランスでは、ラカン派を攻撃することでドゥルーズ=ガタリが
フロイトを撃って、デリダがニーチェ読解をズラさせてその形而上性を
脱却させようとした。うまくいったかどうかは定かじゃないが。
マルクスは現実の方が権威を失墜させてしまった
776474:2006/07/19(水) 09:26:57
>>774
別に俺は実存主義の時代に出てきたとは書いたけど、
ニーチェが実存主義だとは書いてないぞ。
重ねて、俗に言う実存主義者(キェルケゴール等)と関係を見いだしても
不思議ではない、と言えると思う。
(ついでに言うと俺はキェルケゴールに関しても実存主義と言うのに問題があると思う)
>これこそ歴史をニーチェ解釈に持ち込んでるものやねん、ということで
>ここんとこはニーチェ=実存主義で考える人は少なくなったんね
仮にニーチェ=実存主義の人がここに居たとして、
「正しい解釈をする人が少なくなったなぁ}と言ったとしたら、774はどう反論するのか。
ニーチェ≠実存主義の方が後世の学説だから正しいとでも言うつもりだろうか?
777693:2006/07/19(水) 17:15:32
キルケゴール:絶望することをやめ外部の神の前に跪く
ニーチェ:自分で作り、戯れる
実存主義者:自分で作って自分で自分に跪く
という分類が出来ると思いますが、どうでしょう?
778474:2006/07/19(水) 17:58:37
>>777
キェルケゴールは不得意分野だが……
死に至る病によると、神に近寄れば近寄るほどに絶望は深くなる。
つまりキェルケゴールの絶望からの救済は絶望の局地であるわけだ。
女性より男性の方が絶望は深く、絶望が深い方が自己を多く所有している。
人間は自己であり、自己は自己自身に関係するところの関係である。
絶望して自己自身であろうとしないのが女性的な絶望で、
その逆が男性的である。

もし、絶望をやめて女性的になるとすれば神から無限に遠ざかる事になるが、
キリスト狂信者のキェルケゴールがそんなことを言うものかね?
779693:2006/07/19(水) 18:50:55
>>778
それはキルケゴールが信仰をどう捉えているかを誤解しているがゆえの解釈だと思われます。
絶望とは、必然的に自己の置かれた状況を否認するということを示しています。
これは絶望して自己自身であろうとする絶望でも変わりはありません。
そもそも、絶望して自己自身であろうとする絶望というのにも幾つかの類型があります。
思いつく分だけでも挙げてみると…
一つ目が全ての絶望に共通した、自己の置かれたの状況を否認して、
理想の中の自己自身であろうと欲するという絶望。
二つ目は、自己の置かれた状況を受け入れる(信仰)すると楽になる事に気がついているが、
それは理想の中の自己を放棄することを示すので、
そうするくらいなら理想を抱いたまま現状を受け入れる(自己自身であろうとする)という絶望。
三つ目が、そのような状況に追い込んだ神を憎み、全てに反抗的になって、自己自身に閉じこもって暴れ狂う絶望。
(三つ目は正しい解釈か自信ない)
この二つ目の中に一瞬あらわれた「自己の状況を受け入れる」というのが信仰。
…のはず。
780474:2006/07/19(水) 19:13:09
>>779
死に至る病を素直に読めば
「絶望して自己自身であろうとする絶望」の果てにあるのが信仰なのだが、
そのような解釈になる根拠を聞きたいものだ。
>二つ目は、自己の置かれた状況を受け入れる(信仰)すると楽になる事に気がついているが、
この説明は絶望しつつ自己の置かれた状況を受けいれる、
「絶望して自己自身であろうとする絶望」を無視している。

ニーチェスレなのでニーチェについて言うと、これもニーチェが実存主義、
キェルケゴールの系譜に属する思想家だと誤解された理由だろう。
・肯定する駱駝から否定するライオンになり、肯定する子供になる。
・絶望の浅い女性的状態から絶望が深い男性的状態になり、信仰にいたる。
こういう逆説の論法が共通していることが、キェルケゴールと混同されることになった。
だけどキェルケゴールは到達し得ないものとして信仰をおいていると思う。
781考える名無しさん:2006/07/19(水) 19:25:06
>>780
絶望の上に絶望を重ねても信仰は出て来ませんよ。
信仰が可能になるのが、絶望を極める地点であるということです。
もう一度、二つ目の類型について論じますと、
「自己の置かれた状況を受け入れるすると楽になる事に気がついているが、しない」
この「しない」から「不真面目さ」を読み取るのが重要なポイントです。
絶望の上に絶望を重ねることで人がしているのは「空中楼閣を築く」事でしかない。
つまり、絶望とは本性上、空想の産物である、ということが重要なのです。
徹底的に絶望することで、人は自己を精神にし、そして、信仰する。
この信仰というのは、それまで築いてきた空想を全て破壊することですから、
信仰の結果は「楽」なのですが、そこにいたる跳躍は、それこそ自己破壊的な力を要するのです。
だから、人は信仰を「しない」。
782474:2006/07/19(水) 19:41:46
>>781
なんだかよくわからんが……
二つ目の類型が絶望の極限だと言いたいのか?
空想を破壊する、というのは完全に必然的に成るということか?
>徹底的に絶望することで、人は自己を精神にし、そして、信仰する。
定義上、絶望しなくても人間は自己であり精神なんだがな。
ホントにキェルケゴール読んでるの?
783693(781も):2006/07/19(水) 19:53:15
>>782
三つ目はもう手遅れ級ということです。
「完全に必然的に成る」…とは?
『死に至る病』はちゃんと通して読んでますよ。
784474:2006/07/19(水) 20:12:54
>>783
手遅れであっても、絶望を極めている事には変わりないじゃないか。
その状態の絶望者には信仰は不可能なのか?
もし、手遅れだったら信仰者を最上位に置くキェルケゴールの論理は
完全に破綻するだろうな。
(なぜなら絶望者から信仰者への「進化」が不可能になるから)

完全に必然的になる、とは可能性の余地がない状態を想定した。
あまり深い意味はない。
785693:2006/07/19(水) 20:27:04
>>784
実際に『死に至る病』第一部の最後に「もう無理だ」的な記述がある。
うろ覚えだけど…
全てが遅すぎたのだ。
もう神様や天使たちが以下に彼に手を差し伸べようと、
彼はそれを受け入れやしない。
彼は全世界に向かって荒れ狂いたいのだ。
彼は全世界から不当な扱いを受けたものになりたいのだ。
そうでなければ、彼は自身の行為を正当化できないではないか―。
…という記述があった。
786693:2006/07/19(水) 20:31:47
…でも「どんなに悪魔的な絶望の中にも、いくらかの弱さがある」とキルケゴールは書いていたし、
たぶん恋か何かをさせてやれば何とかなるんじゃないかな?
絶望のもうひとつの特徴は、世界に対して一歩遅れを取っているということだし、
そうである以上信仰のほうが当然、強い。
一歩遅れているというのは、つまり、何かの否定であり、何かへの反抗であるということ。
反動的であるということ。
対象のない反抗はないからね。

…ここまできて、ニーチェの話にやっと戻ることが出来る。
787474:2006/07/20(木) 00:59:51
>>786
絶望して自己自身たろうとする絶望における弱さとは、
弱い絶望を打ち負かして信仰へと進む、という弱さではない。
言うならば絶望者の弱さだ。
弱いがゆえに信仰に向かう事はない、と考える方が自然だ。

また、693氏の説く信仰の観点から絶望を論じるのは、
絶望者に対する反動に他ならない。絶望者も世界の一部だから。

780にも書いたが、キェルケゴールとニーチェに関連を見出すかは別として
両者はとてもよく似た論理構造を持っている。
ニーチェにも同様の問題は起こりうるが、
少なくともニーチェは解決していると思う。おそらくスピノザ的に。
788693:2006/07/20(木) 02:08:53
>>787
ええ、弱いから不真面目なのです。
ソドムとゴモラらから逃げる最中に落とした手鏡を拾うために後ろを向いて塩柱になるのです。
…と考えたら、弱いがゆえに信仰に向かう事はない、となるでしょう?
絶望の弱さとは、情熱の大きさではありません。
つまり私は、弱い絶望を打ち負かして信仰へと進む、という意味で書いたわけではないのです。
絶望とは世界に対する反抗ですから、世界に一歩遅れている。
未来に対する絶望であっても、絶望者は世界より一足遅れているのです。
『死に至る病』(ちくま学芸)から参照ページを提示しましょうか?

下については同意。
789474:2006/07/20(木) 03:02:49
終電やり過ごして漫画喫茶なのでページを示されてもわからんが一応示しておいてくれ。
>つまり私は、弱い絶望を打ち負かして信仰へと進む、という意味で書いたわけではないのです。
つまり、絶望する人間が世界の中で強者となって、信仰者は僻むことしかできない。
きわめてニーチェ的な状態がここから考えられるわけだ。
790474:2006/07/20(木) 08:00:22
で、帰ってきたわけだが。
問題を整理すると、ニーチェに見られた肯定-否定-肯定となる逆説的進化を
キェルケゴールの哲学に見いだすか否かが問題なわけだ。
自己の状況を受け入れるのが信仰者のありよう、というのには異論はない。
が、絶望の極限は779で言えば三段階目であり、二段階目を信仰への道とすると、
そこにニーチェ的逆説は無いことになる。

ニーチェにおいて、子供と駱駝は全く別の生き物であり、
この二つは逆説の形式によって隔たっている。
肯定するという点のみを見れば同じ、ということになりかねないが、別物になっている。
キェルケゴールにおいて、絶望をし得ないもの、あるいは軽度の絶望者と
信仰者の間は分かたれているか?
779を読む限り、信仰者は自己の現状を受け入れざるを得ないので、
可能性の欠如から来る絶望と違わないように思われる。
その点、どうか?
791考える名無しさん:2006/07/20(木) 09:59:25
キチガイさんこなくなったね。
やっぱり私が一番だわ。私ってすごい!って満足しちゃったのかな。
792693:2006/07/20(木) 17:17:21
とりあえず、まとめさせていただきます。

『死に至る病』(ちくま学芸)より
信仰=絶望が全く存在しない状態の公式:p94
…「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲するに当たって、
     自己は自己を措定した力のうちに透明に基礎付けられている」
→また、同ページに以下のような記述がある。
…「反抗というものが全然なければ、絶望は存在しない」
…「絶望の最高の反抗そのものも、何ほどかの弱さを伴わずには決して存在するものではない」
これを私は、神の世界を措定する力と、それに反抗する自己の想像力と捉えたのです。
この順序についての記述:p128
…「彼は他の人よりも少しばかり…」以下数ページを参照。
そしてそれは…「真剣さが欠けている」(p129)
(だから>>788の弱い絶望云々という記述は私の書き間違いです。お詫びします)
793693:2006/07/20(木) 17:21:39
つまり、絶望は人間の神に対する反抗ゆえ、
順序的にも人間は神の次にしか来ないし、
それゆえ世界を措定するのは神だからどう足掻いても、
絶望は悪あがきに過ぎないのであり、神と一体である信仰には勝てない。
また、この力を意識しているという点で、信仰者は無自覚な絶望者とは区別できる。
794474:2006/07/20(木) 17:47:07
>>792
788は言葉の用法が不明確すぎて何書いてあるのか全く分からなかったから詫びる必要はない。
これからキェルケゴールの文言を確認してみるが。
>>793
>絶望は悪あがきに過ぎないのであり、神と一体である信仰には勝てない。
これは2chにおける勝利宣言みたいな物で、
信仰(信仰者)が絶望者に対して勝利することにはならないのでは?
さすがのキェルケゴールでも「信仰の奇跡が絶望者を打ち負かす」とは考えないだろう。
(俺は絶望と絶望者、信仰と信仰者をあえて別けて使っている)
そもそも死に至る病とは自己に関する病であって、知っての通り自己とは精神であり、
自己自身に関係するところの関係である。この病が死に至るか、というと、
自分を焼き尽くしてしまえない、という事実に焼かれているような状態。
(つまり死ぬに死ねない事に死んでいる)
正確な文言は覚えていないが、
世界の帝王になったとしても死に至る病から救われていなければ何の意味もない、
という意味の文言もあったはず。(うろ覚え)
信仰が絶望に勝てる、というのは人間精神の中の事に過ぎないのだ。
世界に対する反動だから、絶望は世界に打ち負かされる、というのは誤読に過ぎない。
神が絶望者を勝利させたとして、信仰者は神を疑うことはない。
795693:2006/07/20(木) 18:01:43
確かに、信仰者や信仰が「絶望者に対して」勝利することはありません。
最後の三行を私なりに書き直すことで、対立点を明らかにしてみたいと思います。

信仰が絶望に勝てる、というのは人間精神の中では説明できないことである。
(信仰は神とセットだからである)
「世界に対する反動だから、絶望は世界に打ち負かされる」というのは誤読に過ぎない。
(絶望は反動であるが、焼き尽くされることはなく、打ち負かされない。反動であるというところに弱さがあるのだ)
神が絶望者を勝利させたとして、信仰者は神を疑うことはない。
(この最後の一行が良く分かりません)

つまり、私の中ではこんな構図。

   神    自己の想像力
   ↓       ↓
自己の状況⇔自己の理想

この縦の二つの系列は平行している。
そして神の方のみが現実的な措定力を持つ。
しかし、自己の方も神に焼き尽くされることはない。
796474:2006/07/21(金) 01:39:25
文庫本が見つからん……
>信仰が絶望に勝てる、というのは人間精神の中では説明できないことである。
>(信仰は神とセットだからである)
信仰者が神と関係する際、その関係するところの関係は信仰者の精神の問題。
人間の定義を思い出して欲しい。つまり信仰も絶望も精神の状態であることは変わりない。
>(絶望は反動であるが、焼き尽くされることはなく、打ち負かされない。反動であるというところに弱さがあるのだ)
ならば絶望することに何の問題があるのか? 弱いにもかかわらず質的に負ける弱さではない。
キェルケゴールがキリスト狂信者とはいえ無根拠な事は言うまいね。

キェルケゴールの言う信仰は、人間が絶望していない状態と言える。
なぜなら人間は絶望しうる。これは定義から自明。にもかかわらず絶望しないのは、
絶望を乗り越えた、絶望しうるのに絶望しない状態だ。
しかし693の説で「絶望をやめる」とは、絶望し得ない状態を指している。

ニヒリズムに陥る可能性があるにもかかわらず、陥らない。
人間は動物と超人の間に渡された一本の綱だ、とは言うが、
超人への自己超克のみが問題ならば動物に言及する必要はない。
ここでも論理の類似が見られる。
797473:2006/07/21(金) 05:43:58
741の返答を待っていたが、無いね。私の発言を程度が低いと言った以上、それ相応の発言があると思ったのだが……。
彼の纏めは非常に簡潔で要点を得ているから、初学者向きにだって役に立つよ。

私がMachtが力ではなく権力の方が良いと思った一番大きな理由はハイデガーのニーチェ解釈の
おかしさが感知されずにそのまま通ってしまうのはこの訳語のせいではないか、というものだった。
彼の解釈にはディオニュソスはあってもアリアドネがない。これは私の投稿のきっかけとなったリオタール、
日本では永井均とかにまで尾を引いている。が、それを訳語の不備に対応させたのは私の過剰反応だったかもしれない。

キルケゴールとニーチェにあっては先在的な他者が大きな役割を占め、実存主義者だとしても
サルトル流主体的自己確立のそれではない。「マリッジ」VS「エンゲージ」の差だ、というのは比喩として使える。
『死に至る病』の自己と関わる云々というのも夫と結婚した妻のあり方を下敷きに考えるとすっきりするよ。

474が言うように「ニヒリズムの克服」をもたらすツァラトゥストラと
「信仰」による救済をもたらすイエス=キリストは両者の哲学大系の中で殆ど同じ地位を占めている。
アンチ・クリマクス著の『死に至る病』を取り上げると、ニーチェが克服した問題を
キルケゴールは不可能ものとして提示するに留めていて一段劣る、という風に受け取り兼ねないが、
キルケゴールが自己の信仰の核心に触れた発言をしているのは、
『キリスト教的講話』『建徳的講話』のような本名の著作群だけなので、
『ツァラトゥストラ』と対比させるなら、こちらでないと話が合わない。
これらの著作があまり読まれない限り彼らの繋がりは本質的なところで見えないままだろうね。
798考える名無し:2006/07/21(金) 08:47:36
ニーチェの真価
ニーチェの真価はその独特の視座、パースペクティブである。
直感・臭覚といっても良いかもしれない。
「永劫回帰」「超人」「神は死んだ」の個々の概念に囚われるとその真価を捕らえることはできない。
ニーチェは残念ながら思想を構成する力に足りなかった。
ニーチェの真価は、その視座を受け継いだ後期ハイデカーの講義にて結実する。
「存在と時間」において一度は失敗にした試みを後期講義において結実させた。
ニーチェの思想はここに結実する。

これはなんであるか(哲学とは...)
799考える名無しさん:2006/07/21(金) 10:07:34
超人が子供のように遊ぶときにも、権力意地で動いてるんだから、
思うままに行かない場合、ルサンチマンができちまうんじゃない?
それとも、あきらめてほかの遊びに関心持っちゃうのかな。
800考える名無しさん:2006/07/21(金) 10:15:03
「権力意地」って何か斬新だな
801693:2006/07/21(金) 12:58:15
>>474さん
それとなく会話にソゴを感じません?
私はここしばらくそれを感じています。
うまく言っていることが伝わっていない気がする。
とりあえずこの話題には留保をつけませんか?
802474:2006/07/21(金) 14:37:48
>>801
じゃあ、留保してる間に693は「死に至る病」を読み返しておいてくれ。
693が人間の定義も忘れているならキェルケゴールについて議論しても生産的ではない。

確かバタイユに「キェルケゴールは人間を不条理の彼方へと連れて行く」
みたいな文言があったと思う。正確な文言は忘れたが。
知っての通り、バタイユはニーチェ主義者であり、アテオロジスト(無神学者)を自称している。
キェルケゴールが実存主義、キリスト教の中に留まっているのはいいとして、
これらの思想の中だけで完結しない思想家である証拠と言える。
803693:2006/07/21(金) 14:51:24
>>802
ひどいいいようだな。
君こそ参照点を読んどいてくれ。
804473:2006/07/21(金) 16:43:30
ニヒリズムも絶望も、その克服には父から子へと生成した新たな教えの告知者であるツァラやイエスを必要とするのね。
それを受けて読者は超人やクリスチャンに生成(再生)し救われる。過去、現在はこれでいいとして、
未来の生成がどこにあるかだけど、それは書外の他者の生成の中にだろう。

ツァラが選ばれた理由を741の整理に一つつけ加えると、
彼に「パーナ」という恋人の登場する稿が残されている事から(だけではないが)解るように、
ニーチェがヴァーグナーの『パルジファル』を『魔笛』に変えようと試みたという事が挙がる。
パーナは刊行された部には出てこないが、読者が読後関わるべき他者、
クリスチャンにとっての隣人のような存在として書外で機能し続ける。

永遠回帰も反復も、伝達者や伝達行為を内に含んで成立していて、
それを受け入れれば、読者も伝達行為の中に巻き込まれるわけね。

こうした点でニーチェとキルケゴールはやはり似ているので、
対比させると解りやすくなると思って引き合いに出したんだけどね。
805考える名無しさん:2006/07/22(土) 00:15:40
不特定二人称の愛って「愛してる」って歌詞の入ったCDを
誰かが特定の誰かにプレゼントするようなものかしら。
そのときプレゼントする側の自我が解体されてる
なんじゃそりゃ
806474:2006/07/22(土) 01:39:25
>>803
一番有名な一節だから「知ってるよ」とか反論あると思ったのに……ホントに忘れてんの?
参照点に関しては一応よんどくよ。俺が持ってるの岩波版だったから暇な時に図書館で読む。
>>805
ちょっと違うかもしれないが、権勢を追求して頂点に達すれば今度は逆に贈与するようになるという。
このとき贈られるのは贈与者自身であるという。バタイユの談だが。
まあ詩的解釈したい奴につきあってやるのも一興ではないか。
807473:2006/07/22(土) 03:03:09
>>805

>不特定二人称の愛って「愛してる」って歌詞の入ったCDを
誰かが特定の誰かにプレゼントするようなものかしら。

こういう比喩が出ると解りやすくなるけど、より正確には

誰かが「愛している」って歌詞の入ったCDを
不特定の「誰でもないもの(Du)」にプレゼントして
その中の特定の誰かが自分と同じ行為をする事を期待している。
その特定の誰かがかつての自分と同じように贈るであろう
プレゼントの受取手は「誰か」ではなく「誰でもないもの」
なのだから、これに同一化しようと思えば、自我は崩壊する。

CDのタイトルがツァラトゥストラ。
最後の手紙は、試みの種あかしのようなものだと思うよ。
808考える名無しさん:2006/07/22(土) 09:29:43
柄谷の他者だな
809考える名無しさん:2006/07/22(土) 10:06:58
>>807
CDの例え話は思いつきで書き込んだのだけど、私は473さんの
考えを勘違いしていたらしい…
私はこう思っていた。ニーチェは、特定の誰かに向けられた
ものではない、つまり不特定の二人称である相手への愛、を
手紙で特定の相手(コージマ)に送った。CDのたとえで言えば
昨今の作詞家は特定の誰かのことを思い浮かべて「愛してる」
という作詞はしないだろうから、不特定の相手に対して「愛してる」
という詩(手紙)を書き、そのCDを私が特定の誰かにプレゼント
する、っていう意味で書き込んだ。でも807だと、プレゼントの
受取手が不特定の二人称に相当するってことだね。勘違いしてたよ。
810考える名無しさん:2006/07/22(土) 12:28:41
>>804
>こうした点でニーチェとキルケゴールはやはり似ているので、
>対比させると解りやすくなると思って引き合いに出したんだけどね。

ぜんぜん解りやすくなってないねぇ
話を続けるなら、そろそろ本題(ニーチェ論)に入ってくれないか?
811考える名無しさん:2006/07/22(土) 13:28:27
ただしコージマとの関係の話は、やめていただきたいが・・
あれは発狂後の手紙なんだから。
発狂後の手紙を重視されても、ちと困る・・
812474:2006/07/22(土) 14:15:00
発狂というのがどういう性質の物か、分からないのでもしかしたら
あの中にニーチェ思想の本質があるかもしれない。
……とはいえ、疑わしい物をわざわざ証拠に数えるのは馬鹿らしいわな。
813473:2006/07/22(土) 15:29:34
>>809-811

超人というものは、仰々しい響きのせいもあって色々な誤解をされてきたけど、
誰でもないもの(Du)へ向けられた愛を意味する名であるツァラトゥストラ
を受け入れ、自己もまた自己の名において誰でもないもの(Du)を愛し、
その誰でもないもの(Du)もまたツァラトゥストラを受け入れて、
その人の名において誰でもないもの(Du)を愛するよう要求する人間か、
そうした人間である事を互いに察知しあう人間同士の事だとしたら、
これはイエスへの愛を通じて隣人として互いを愛し合うキリスト者に近い。

そう考える証拠をニーチェの中からいくつか挙げた。
最後の手紙も、ニーチェが『ツァラトゥストラ』の読者に
何を要求していたかを示す証拠の一つだと思う。

本と手紙で扱う順番を逆にしてしまったのは、
話が解りづらくなってしまった事の一因だった。
発言を追ってくれていた人には済まなかった。
814考える名無しさん:2006/07/22(土) 15:41:34
超人と愛って一番ダメな解釈だな。
815693:2006/07/22(土) 16:43:32
>>806
一通り読み返したが、私は私の理解に変更は必要ないと思った。
定義は当然知ってるよ。
当然過ぎてわざわざ言い返すまでもないと思ったんだ。
そこまで馬鹿だと思われていたとは心外だな。
816474:2006/07/22(土) 21:00:03
>>813
そうでもないでそ。今までだって
肯定するものであるから超人は(広い意味で)愛するもの、と解釈されてきてる。
そこに仏教的な悟りとか、そういう仰々しいのが関連づけられたりするけど。
>>815
とりあえず意見の対立点は781と782に集約されてるだろ。
782に対していい加減な回答しかしていないから馬鹿と見ざるを得ない。
誠意を持って答えない相手には誠意のない対応だ。
817693:2006/07/23(日) 00:30:16
…分からない人だなぁ。
あれだけ同じ論点を誠意満点で手を変え品を変え説明したというのに。
その際の言い間違いで揚げ足取りに必死みたいじゃないか。
ようするに、情熱の強さと、真剣さは潜在的なレベルで関連はしているが顕在的なレベルでは別であり、
真剣さの伴った強い情熱が信仰を可能にし、そして信仰というのはあらゆる絶望よりも本性上強いんだよ。
程度の違いばっかり読み込んじゃダメ。
818考える名無しさん:2006/07/23(日) 00:52:48
本の受け売りを自慢げに話す知識自慢大会。
819考える名無しさん:2006/07/23(日) 00:54:31
そもそも手を変え品を変えてるうちに回答が変わっているのだが。
Q二つめの類型が絶望の極限だと言いたいのか?
A>>781絶望の極地で信仰が可能になる(極限である)
 >>783三つ目は手遅れ級(極限ではない)

また、781の絶望の説明は人間が自己を精神にし、というが、
この三者は同一なので信仰者においても精神=自己が成り立たなければおかしい。
おそらく精神を別の意味で使っているのだろうが、精神の意味について何の説明もない。
820474=819:2006/07/23(日) 00:58:14
途中で書き込んでしまった。
>そして信仰というのはあらゆる絶望よりも本性上強いんだよ。
その強さに何の意味があるのか、と聞いてるんだが、都合が悪いのか答えてもらえない。

質問意図を理解しようとせず、質問者、批判者を型にはめて回答した気になって、
分からない人だ、などというのはやはり誠意がないと判断できる。
821693:2006/07/23(日) 02:52:19
信仰は、神=世界との類縁性を持っているので、基本的に安らぐことが出来るし、キルケゴール曰く、信じれば、神には全てが可能らしい。
そこは『死に至る病』のいろんな部分にちょこちょこ書いてある。
絶望の極地において、人は真剣になる(それが極地だ)が、第三の絶望においては、人は最高に情熱的であるにも関わらず、不真面目だ。
まずはこれを理解してほしい。
822474:2006/07/23(日) 03:00:11
神にはすべてが可能である。故に絶望に手遅れを想定することはあり得ない。
823474:2006/07/23(日) 03:27:57
まだ勘違いしているようなので言っておくと、絶望を極めることが信仰だなどと考えている訳ではない。
絶望の極地において信仰が可能になる、ならば絶望の程度論争はキェルケゴールにとってむしろ本質的問題だ。

また、類縁性を持っているというが、人間はそもそもが関係なのだから、
絶望者も類縁性を持っている。(全く同等とはいわないが)
キェルケゴールの考える神は、俺を明日から世界の帝王にすることだって出来る。
しかし俺が世界の帝王ライフを満喫してすべて思い通りにして、世界との完全な類縁性を獲得し、
「神様ありがとー」と叫んでも、キェルケゴールは「彼こそ信仰者だ」などと言うわけはない。
非本来的な絶望者だ、となるわけだ。
ここにニーチェ的逆説を見いだしてる訳だが、693の説ではこれを弁別出来ない。
精神を多く持つことによって絶望の強度を高めるのに対し、693の信仰はその放棄だからだ。
824考える名無しさん:2006/07/23(日) 04:20:15
>>815-823

人間にとっては手遅れである絶望からの脱却も、
神にとっては手遅れではない――で良いと思うよ。

どちらにせよキルケゴールについての議論でスレッドを使うのはもう止めてね。
825474:2006/07/23(日) 10:20:22
>>824
そうだね。そこで提案なんだが、
議論の原点に戻ると、ニーチェとキェルケゴールの間に類似性を見いだすか、ということだった。
ニーチェ的な逆接を見いだすべきか否かが争点だったから、
おそらくニーチェの逆説性については693も反対しないだろう。そこからニーチェに立ち戻るのはどうだろう?

俺も20年ちょっと前は物心つかない子供だったわけだが、なぜ子供がライオンより優れているか?
これは精神の比喩な訳だが、20数年前子供だったのにその後駱駝になる人もいる。
これは子供を徹頭徹尾逆説の元に読み解かなければならないという証左である。
826考える名無しさん:2006/07/24(月) 01:16:29
>>825
どこが「逆説」なのかわからん。
「駱駝」が背負う重荷は旧来の、主にキリスト教的な価値。
それを破壊するのが「獅子」。
古い価値が破壊された後に新たな価値を創造する「子供」。
新たな価値を創造する者を「子供」という比喩で表すのは別に逆説とは思えないが。
827474:2006/07/24(月) 01:38:34
>>826
最後の一行だけ読めばそれは議論の余地無く正しい。
だけど、ツァラトゥストラでは駱駝から獅子、獅子から子供へと進化するように書かれている。
価値を肯定する者から否定する者へ、否定する者からさらに否定する者、ならば逆説ではないが、
ツァラトゥストラでは肯定する者から否定する者、その否定する者から肯定する者へ進化する。
828考える名無しさん:2006/07/24(月) 02:07:39
>>827
だから、肯定するものが「駱駝」と「子供」では違うということだよ。
駱駝が肯定するのはキリスト教的価値。それはニーチェにとっては「嘘」
もっと極端に言えば「無」。
だから駱駝の立場そのものが、もともとニヒリスティックなわけだよ。
子供の肯定は自分自身の価値の肯定。さらにいえば「運命愛」だろ。
829473:2006/07/24(月) 04:31:25
>>825-828

1:ラクダの「背負う」肯定には不十分なニヒリズムが隠されていて、
2:その偽の肯定を暴いて投げ捨てるのが獅子の否定で、これは「ニヒリズムの徹底」として解釈されているよね。
3:次の幼子になると否定は完全に姿を消して、超人夫婦の「二重の肯定」に変化する。

1から2への移行はツァラトゥストラが担当するとして、
2から3への以降は『ツァラトゥストラ』でもそれ以降の著作でも
殆ど書かれていなくてどういう事なのかよく解らなかった。
私はそれを担当するのは>>813に書いたとおり、読者と彼が関わる現実の他者の役目で、
だからこそ書物の中で書かれる事は少なかったのだと思うけど。

2から3への移行にキルケゴールの「逆説」に相当するものがあるかどうかだけど、
父が子に生成するのだから、宗教性Aから宗教性Bへの移行にほぼ対応すると思うよ。
、という事を>>804に書いたつもりだったのだけどね。
830考える名無しさん:2006/07/24(月) 04:43:36
>>829
>2から3への以降は『ツァラトゥストラ』でもそれ以降の著作でも
>殆ど書かれていなくてどういう事なのかよく解らなかった。
>私はそれを担当するのは>>813に書いたとおり、読者と彼が関わる現実の他者の役目で、
>だからこそ書物の中で書かれる事は少なかったのだと思うけど。

新たな価値の創造についてはたくさん書かれているでしょ。
「超人」や「永劫回帰」についてはあまり書かれていないのは、
それらが本質的に客観的叙述を拒む性質を持っているからだと思う。
831考える名無しさん:2006/07/24(月) 09:13:07
>>829
>父が子に生成するのだから、宗教性Aから宗教性Bへの移行にほぼ対応すると思うよ。

獅子がなんで『父』 なのよ・・・
832474:2006/07/24(月) 09:17:05
>>828
逆説を逆説以外に説明出来なかったら不条理だ。
逆説以外の説明をして「これは逆説ではない」と言うなら、
キェルケゴールにも逆説はないし、世間一般に逆説は存在しない。
833考える名無しさん:2006/07/24(月) 09:34:53
獅子が子供にならなければならない理由はニーチェ自身が次のように書いているわけだが。

「強奪する獅子がなぜさらに子供にならなければならないのか?
子供は無垢であり忘却である。一つの新しい始まり、一つの遊戯、
一つの自力で回転する車輪、一つの第一運動、一つの聖なる肯定である。
そうだ、創造の遊戯のためには、我が兄弟たちよ、一つの聖なる肯定が
必要なのだ。いまや精神は自分の意志を意欲する。世界を失っていた者は
自分の世界を獲得する」
834考える名無しさん:2006/07/24(月) 09:37:30
子供のケチのつけあいレベルで、答えようがない。
835考える名無しさん:2006/07/24(月) 09:43:23
だが何なの?
836473:2006/07/27(木) 13:48:12
返答に代えて私の意見を纏めると、「受領者に生成した伝達者」と「伝達者に生成した受領者」の対が「超人」であり、
伝達の「対象」であるツァラトゥストラが先んじて「獅子」から「幼子」へと生成して二者の生成も可能になる。
三者の生成の綜合を内側から成立させる伝達行為が「力(への)意志」であり、伝達行為の内で三者の生成が「永遠回帰」する。

Dzが「過去−現在−未来としての瞬間の瞬間自身との綜合」と呼んだ三者の生成の時間的前後関係は単線的ではなく入り組んでいるが、

イ、書内では主人公「獅子」だったツァラトゥストラが読後「超人」夫婦の媒介者「幼子」に生成する。
  (*これは時間をかけて書かれ且つ読まれる「作品」が、やはり時間を意味する貨幣によって流通する「商品」に生成する事と重複する。「罪ある女」参照)
ロ、受領者「誰でもないもの(Du)」だった読者は伝達者に生成する。伝達行為はその人の名においてなされるしかないが、
  伝達者の「私」は歴史上のあらゆる名前であるらしい。(*私にはこの事態の意義はよく解らない)
ハ、伝達者だったニーチェはロと裏腹に既に全ての名前が登録されている歴史に自分の名前を残し去って、
  ロの受領者となるべき「誰でもないもの(Du)」=非歴史的万人に生成し、
  >>807に書いたとおり通常の意味での自我は崩壊する。

第二者「君」は非歴史的万人(クロソウスキーの言う「プレブス」はこれだろう)、
第一者「私」は歴史上のあらゆる名前だと仮定しても、
第三者として取り上げられるべき名前はツァラトゥストラだけだと考えるのが妥当だろう。
上述の伝達のあり方をニーチェとかなり共有するキルケゴールにおけるイエスに変換するとより解り易いけど。

だからニーチェ、キルケゴールに託けてジョン・ケージとか夏目漱石とかの「名前」を強調するのは、
彼らを「神人」として崇拝するか、「私はジョン・ケージだ」とか「私は夏目漱石だ」とでも
言うつもりでなければやはり誤解としか見なせないな。名前、名前と言っていた人達がその後意見をどう改めたか知らないけど。
837考える名無しさん:2006/07/27(木) 13:58:03
>>836
かなり亜流ですね。
838474:2006/07/27(木) 14:04:08
亜流かどうかなんて関係ない。自分の考えを解くべきだ。
が、ツァラトゥストラ=獅子とする根拠はどこにあるのか?
獅子はツァラトゥストラの動物だ、見たいに書いてあったけど、
その箇所では獅子だけじゃなかったわけだし。
ツァラトゥストラは超人を予言する者、であるのは間違いないと思うが、それは獅子なのか?
839考える名無しさん:2006/07/27(木) 22:32:56
誰の亜流ですか?
840考える名無しさん:2006/07/27(木) 22:34:21
亜流→我流
841考える名無しさん:2006/07/28(金) 02:52:49
お前らカスみたいな長文まで読んで偉いな
842考える名無しさん:2006/07/28(金) 10:15:03
>>836
解釈の根拠をもっと明確に示さなければ、誰も納得しない。
ニーチェの言説を引用しながら説明すればいいのではないかな?
ニーチェの言説を無視した解釈でいいのなら、なんでもありになっちゃうぜ。
843考える名無しさん:2006/07/28(金) 18:13:04
要するにこんな馬鹿共相手にしないで、投稿しなけりゃいいんだ
844ニーチェ初学者:2006/07/28(金) 19:04:42
ニーチェは「道徳の系譜」が一番基本って言われたので買ってみたのですが、あんまり理解できません。
一通り読んでのニーチェの言わんとすることはぼんやりとはわかるのですが細かいところがわかりません。
一応「ニーチェ入門」っていう本も読んだので、全訳を知った上で英文読んでるような感じです。
皆さんはどんな風に読んでいるのでしょうか?
845考える名無しさん:2006/07/28(金) 19:08:16
ageてしまいました、すみません…。
846考える名無しさん:2006/07/28(金) 19:15:09
>>844
他人がどんな風に理解しているかを知るよりも、
自分がどうやって理解したらいいのかを考えるべき。
理解できないなら、理解できるまで読み込む、考え続ける。
その過程が哲学だと思うんだがな。。。
847初学者:2006/07/28(金) 19:17:22
>>846
私もそう思うのですがとにかく読むのに時間がかかってしまって…
実は一ヶ月前から読んでるのですがまだ第一章の、騎士と僧侶が…っていうところから抜け出せないのでちょっと不安になってしまって…。
わからなくてもどんどん先にいくべきでしょうか。
848一言居士:2006/07/28(金) 21:05:02
好きにすりゃいいよ。ともかく読むのが苦痛じゃ理解しづらくなるからね。
あとで読めば理解できるかもしれんよ。その本の序文でニーチェ曰く「よく反芻すること」と。
時間がかかるのは当然とおもったほうがいいんでないの?
849考える名無しさん:2006/07/28(金) 21:08:03
変な日本語の人書き込まなくなったねw
850初学者:2006/07/28(金) 21:31:12
わかりました、ありがとうございます。
851473:2006/07/28(金) 22:25:36
846は言うべきアドバイスが何もないだけ。848は多分ネットで検索して
出てきたことを適当に言っているだけ。でなければ発言が無意味すぎる。
私の発言を悪し様に言っていた知識のある人達は、解っててこういうのを止めないのか。

>初学者

いなくなりそうだから急いで投稿するけど、

外国語で読んでいるのでなければ、戦士と僧侶(この対関係は基本中の基本)が
一ヶ月かかって理解できないのはかなり遅いと思う。Dzの『ニーチェと哲学』二章四章五章が
巧くエッセンスを抽出しているので、理解を深めるには照らし合わせて読むといい。

>ニーチェは「道徳の系譜」が一番基本

これだけど、GMは後期ニーチェの著作の中で最もアカデミックなスタイルで書かれている為、
ニーチェの哲学を体系的に捉えるならそれから入るのが良いと学者の間ではよく言われるが、
ニーチェ自身は『この人を見よ』の中で『ツァラトゥストラ』−『悦ばしき知識』−『曙光』を
「肯定の書」と評価し、『善悪の彼岸』以降の著作については、「私の生涯の肯定的な部分は
もう終わったので、残されているのは否定的な仕事だけだ」という記述をしている。

少し後のゴッホに近くて、「肯定の書」の時期は向日葵や黄色い家や花咲くアーモンドの木みたいに溢れかえるような
健康に満たされているが、それ以降になると段々ガジェ医師とかカラスのいる麦畑みたいに不吉かつ殺伐としてくる。

月並みな表現だが、ニーチェの魅力を味わうなら、GM読むのは
「肯定の書」をニーチェ自身の評価が高い順に並べ替えて挙げたから
その通り読んでからでいいと思う。
852考える名無しさん:2006/07/28(金) 22:54:58
英語で読んだ方が理解しやすそうだな
853初学者:2006/07/28(金) 23:32:48
>>851さん
ありがとうございます。丁寧にお返事してもらって助かりました。
日本語で読んでます。
『ニーチェと哲学』ですか。読んでみます。

なるほど、ありがとうございます。
GM=道徳の系譜、ですよね?
非常に参考になりました。
854693:2006/07/28(金) 23:49:58
>473さんの解釈要約
実存伝達についての私の理解が何かのブレイクスルーを起こすまでしばらく私は沈黙することにしたいと思います。
>初学者さん
えーっと、永井均「これがニーチェだ」「ルサンチマンの哲学」なんかが俺は個人的には好き。
とんでもない勘違い本だとかこのスレに書いてあったりするけど、道徳についてのセンスでいうなら永井センセは一流だと思う。
まぁ、読んでみてくれ。
そうでないニーチェ解説なら、ドゥルーズ「ニーチェ」をおすすめするな。
一言でこの本を荒っぽくだけど要約すると、
主人:生きる力にあふれている→生成変化する意欲がある→行動が先→自由
奴隷:生きる力が衰弱している→生成変化が怖い→規制の諸価値が先→その中でのし上がる
みたいな感じ。
ドゥルーズのニーチェ受容は実はこの延長線上で大部分理解可能だったりする。
竹田セイジ「ニーチェ入門」ほか、ここであげた三冊以外は俺はおすすめできないな。
「道徳の系譜学」は緻密な仕事だけど、順序立てた説明かといわれると、俺はそうは思えない。
だから反芻が必要になるんだろうな。
855初学者:2006/07/28(金) 23:58:28
ありがとうございます。
わかりやすくて助かりました。
薦めてくださったニーチェ解説を読んでもう一度道徳の系譜や〜かく語りき、に挑戦しようと思います!
856474:2006/07/29(土) 04:13:01
>846は言うべきアドバイスが何もないだけ。848は多分ネットで検索して
>出てきたことを適当に言っているだけ。でなければ発言が無意味すぎる。
>私の発言を悪し様に言っていた知識のある人達は、解っててこういうのを止めないのか。
そんなレッテル張りこそ下品だと思うが。
もっとも848に関してはそれこそ何を言ってるのかまったくわからんが。

初学者さんにあまりえらそうに言える人間ではないが、俺の意見は846に近い。
ニーチェを知りたければまずニーチェを読むべきだ。
ただ、ニーチェの議論に加わるためには他人のニーチェ理解にあるていどは
すり合わせなければいけないわけで、そのためには先に上がったドゥルーズ本はお勧めだ。
竹田セイジのはあの程度ならもっといい本ありそうな気がするが、
竹田の書いたものの中ではかなりいい。ドゥルーズよりも敷居が低いし。
857考える名無しさん:2006/07/29(土) 16:31:07
読んでる初学者には解ると思うけど、
GMの序文で反芻しろって言われているのは
本論ではなくアフォリズムをですな。

永井も竹田も、持ち上げてんのは
この程度の知識もない連中だから、
推して知るべし。
858考える名無しさん:2006/07/29(土) 19:15:24
ニーチェ理解にドゥルーズを勧めるヤツって、どうしてかね?
ドゥルーズは自分の世界観の補足としてニーチェを恣意的に読んでいるだけで、
ハイデガーのほうがなんぼかマシでしょ?

ハイデガーでさえ、なんでもハイデガーにしてしまう、という批判があるくらいだから、
本当はドゥルーズもハイデガーもオススメできないでしょ。
859考える名無しさん:2006/07/29(土) 19:32:59
「道徳の系譜」読んでよく解らない、騎士と僧侶で詰まる、どうしたらいいか、って聞いてんのに
ニーチェを読むべきだとか、ニーチェの議論に加わるためにはどうしろとか、的はずれ過ぎ。474はスレの無駄遣いもうやめれ。
860693:2006/07/29(土) 19:42:17
>>857-859
そりゃさ、どのご意見もごもっともですよ。
永井センセも竹田セイジも本の中で大した知識は披露していないし、
ドゥルーズもハイデガーも自分色にニーチェを読んでいるし、
詰まってる人にニーチェ読め一遍倒は酷だ。
でもさ、なんでそう不平豚みたいな事しか書けないかな?
批判の後に、こうしろと具体的で肯定的な意見を書くくらい簡単じゃない?
否定的な意見だけ書くのはいただけないね。
第一、勝ち逃げみたいなかんがある。
861考える名無しさん:2006/07/29(土) 19:54:10
あんたら何のためにニーチェ読んでるの?
大学の研究?衒学趣味?
862473:2006/07/29(土) 21:10:17
>>858

ハイデガーは私でも解るような間違いが結構あって全然駄目。
Dzはかなり少なく見積もってもハイデガー程杜撰じゃない。

GMの戦士と僧侶で詰まっているならDzの能動−反動、肯定−否定の
整理はいいと思って勧めた。何か具体的欠陥を指摘できるの?
863474:2006/07/29(土) 22:56:41
>>858
ニーチェをわかることが哲学の目的とはいえないわけよ。
つまり議論をすることがあって、ニーチェが重要視される。
で現在、議論を進めていく上での前提としてはドゥルーズが適切と思われる。
>>859
悪かったよ。もっと丁寧にレスしたかったんだけど、ちょっと忙しかった。
でもお勧め本の話してるところだったから、そう的外れでもないと思うぞ。
864sage:2006/07/30(日) 05:11:07

 為
  す
   べ
    し
865考える名無しさん:2006/07/30(日) 08:38:00
>>860

>永井センセも竹田セイジも本の中で大した知識は披露していないし、
>詰まってる人にニーチェ読め一遍倒は酷だ。

んな事言ってないって。あの程度の短文も誤読されて勝手に言い換えられて内容のないレス返されると、呆れてまともな書き込みなんかする気おきんのよ。
キルケの関係ない書きことかで無駄遣いされてもう残り少ないし。準荒らしのお前らが心がけるべきは有意義なレスだけしてスレを大事に使う事。

>>863見る限り、474も全然解ってねえなあ。つける薬はないのかねえ……。
866age:2006/07/30(日) 09:01:46
>>864

 欲
  す
867474:2006/07/30(日) 11:09:56
>>865
ここ10レスで一番内容のないレスは865と867だろうな。お互い止めようや。
868考える名無しさん:2006/07/30(日) 13:08:55
>ここ10レスで一番内容のないレスは865と867だろうな。お互い止めようや。

そんな事言ってるようじゃまだ解ってねえな。

10レス以内の863見ても、11レス前の856見ても
答えられないくせに出しゃばって無関係な発言してスレ潰すのを止めてない。
それが改まらないとスレの無駄だけではなくカキコもしずらいので、改めて
有意義なレスだけ返すようにして欲しいと言っているのに直後の発言でも改まってない。

そういう事を100レス以上前からやり続けてスレ食いつぶした奴らに反省を促すのは
少なくともあんたのカキコほど無内容じゃない。それができねえなら黙ってくんねえか。
869474:2006/07/30(日) 14:21:37
そもそも自説に固執して粘着してきたのは693だろう。
>そういう事を100レス以上前からやり続けてスレ食いつぶした奴らに反省を促すのは
ケリがついたことを蒸し返して続けさせようというレスは、
やっぱりこのスレとは無関係な内容のないレスだと思うぞ。
856以降に関してはスレの内容にあまり合わなかったな。悪かった。

で、今のスレの流れは
・ニーチェ初心者に何故ドゥルーズを勧めるか
・道徳の系譜の戦士と僧侶
この二つの流れだと思うが、868も今後これに関するレスをしてくれよ。俺もするから。
870考える名無しさん:2006/07/30(日) 15:37:53
>ケリがついたことを蒸し返して続けさせようというレスは、

話は有耶無耶におわっても同じような事繰り返してんだからケリがついたとは言えないのだよ。
相手のカキコ読まない、読んでも誤読、勝手な言い換え、的はずれなレス、不相応の出しゃばり。
474だけじゃないがカキコするならこういう態度改めてくれって言ってんのよ。
何でこんな事いわにゃならんの。悪かったとか言われても、態度改めなきゃ意味ねえ。

>で、今のスレの流れは
>・ニーチェ初心者に何故ドゥルーズを勧めるか
>・道徳の系譜の戦士と僧侶

また余計な事しとるし。質問が一つあっただけで、流れとか勝手に決めんなって。
もうレスついてんだし納得できなきゃ初学者も858もカキコして自分で聞くだろうが。いらぬ出しゃばりもうやめれ。
871693:2006/07/30(日) 20:47:56
自説呼ばわりはひどいなぁ。
…なーんて不毛な話題はおいといて。
いや、ドゥルーズの解釈は確かに強引なところもあるだろうと思うけど、
「ニーチェ」は名著だと思うんだ。
第一に、慣れたら単純な二分法なのに、ニーチェを体系的にとらえられてしまうような視点。
これは初心者にはありがたいだろう。
その視点に凝り固まらないようにするよう気をつければという留保付きだけど、
少なくともニーチェを楽しんで読めるようにはなるのだし、
第二に、この本は薄くて、論点がこの二分法一点(あとは系譜学の要約や入門資料が載っている)だから、
ポイントをつかめば全部理解できる。
これも悪くないだろう。
いい道標にはなると思う。
872考える名無しさん:2006/07/30(日) 20:53:33
ドゥルーズのどこが間違っているか
873473:2006/07/30(日) 22:26:35
DzはGM,AC,WMとかの理解の助けになるが、楽しんで読む助けにはならないと思う。楽しむならニーチェのMR,GS,Za。
Dzの訳はフォルスとピュイサンスで訳語が同じ力でやっぱりなんとかして欲しい。これだけで相当ややこしくなる。
できれば学者の間で検討して統一もして欲しい。

>慣れたら単純な二分法なのに、ニーチェを体系的にとらえられてしまう

これはおかしいね。主人と奴隷の二分法に隠されている能動−反動の「勢力」の対と肯定−否定の「価値」の対を
分けてる事がDzのポイントの一つだから。

>>854

実存伝達は伝達の対象(内容)ではなく、伝達者の実存や受領者の実存に反省を加える伝達。

ニーチェでは

・ショーペンハウアー、ヴァーグナーの人格への傾倒
・悲劇の誕生におけるコロスへの注目
・フランスモラリスト譲りの箴言・アフォリズム
・回帰思想をZaに託した事

内容よりもスタイルによく現れる事キルケゴール以上だと思う。
内容の引用すると短い断片ばかりになる。
でも836では無くても済む話しかしてないけど。

>>872

二人称(Du)の話が出てこないところ。
874考える名無しさん:2006/07/30(日) 22:44:26
そろそろ473の仕切どっかいくか、別スレつくってくれないか。
どうしてこの手の人間は空気読めないのかな
875474:2006/07/30(日) 22:46:25
>>870
じゃあどんなレスすればこのスレに合致したと認めてくれるんだ?
まず手本を見せてもらおうか。
>>873
この点に関してはどちらが間違っている、という気はないが、
人称の問題以前に473とドゥルーズのニーチェ解釈には根本的な違いがあると思うが。
ドゥルーズは「回帰しないものは存在しない」と言ってるわけで・・・
876考える名無しさん:2006/07/31(月) 01:41:03
永劫回帰と全く同じことを小さいとき時思い付いた、その考えにとりつかれて何度も気が狂いそうになったんですけど。
それと知らずに同じことを何億回もしてるんですよ、それについていやだと考えていることも次も繰り返すときも考えてるってこともその次繰り返すときも考えてるってこともその次・・・
無限ループ
877考える名無しさん:2006/07/31(月) 07:42:37
こちらが正規次スレです。
キリスト教は邪教です パート7
http://academy4.2ch.net/philo/index.html#1
878693:2006/07/31(月) 12:20:26
>>873
あれ?
たぶん同じ事考えてると思うんだけど、表現がまずかったかな?
定住とノマドの対立と平行だよね?
879考える名無しさん:2006/07/31(月) 15:10:09
>>875

>ドゥルーズは「回帰しないものは存在しない」と言ってるわけで・・・

俺が諭して自分で悪かったって認めた後でも変わってねえなあ。無意味な出しゃばりレスやめれて。
内容あると思えないし、見づらくなるだけだから。

>じゃあどんなレスすればこのスレに合致したと認めてくれるんだ?

あんたの場合前科もあるしスレの無駄だから何も言わんのが一番ええ。直りそうもねえし。態度じゃなくて能力に問題があんだよきっと。

>定住とノマドの対立と平行だよね?

693も散々スレ違い議論で食いつぶしたのをまた繰り返す気ですかねえ。な〜〜んも反省しねえのな。
ま、新スレ誘導も来たし勝手にやってください。
880473:2006/07/31(月) 18:03:47
>>693

ドゥルーズのジャーゴンには答えられないけど、
レス読み返したら、確かに理解は同じだと感じる。
474の質問の意味はよく解らないや。

二項対立ならGM,JGBに頻出するし、私はそれじゃ解らなくて
それが単純な二項対立じゃない、能動−反動、肯定−否定は
別なんだってDzの指摘が新鮮でおかげでぐんと解りやすくなった。

だから、初学者が私と同じ躓き方をしてるなら、
二分法と言っちゃうのはまずいと思ったの。

自分の考えを述べて検討を請い、有意義な質問に答えるだけのつもりが、
それを逸脱してしまうのは自分でも不毛と感じたし、みなさんにも迷惑をかけたようなので
いい機会なので投稿はうち切ります。何より疲れたし。コメントくれた人達に感謝します。
881474:2006/07/31(月) 18:14:35
いや別に質問というほどの事ではないんだよ。
473はずっと前の方で「固有名の回帰」とかなんとか言ってたからさ。
それに対してドゥルーズは存在する物は生成するし、全ての生成するものは回帰する、
と書いてたから違和感を表明しただけ。
こう考えるとドゥルーズも回帰=反復というのを踏襲してるのか……?
882考える名無しさん:2006/08/01(火) 12:15:28
みなさん本当にニーチェを読んでいるのかなぁ
ドゥルーズがいいだのハイデガーがいいだの・・

『道徳の系譜』は『善悪の彼岸』をニーチェ自身がわかりやすく解説した書なのだから
一度読んで分からなかったら、もう一度読んだほうがいいに決まってますよ。
自己肯定に基づく強者の価値評価と、他者否定に発する弱者の価値評価の違いについて、
あれ以上分かりやすくは書けないと思う。

ドゥルーズの「能動と反動」は、あくまでもドゥルーズの思想だから・・


883考える名無しさん:2006/08/01(火) 12:54:19
>>851
>『善悪の彼岸』以降の著作については、「私の生涯の肯定的な部分は
>もう終わったので、残されているのは否定的な仕事だけだ」という記述をしている。

「否定」という言葉を見てそれを後回しにしようとするのはいかがなものでしょうね。
「子供」の肯定が「獅子」の否定を経た肯定であることを良く理解していれば、
そのような考えは出てこないでしょう。「獅子」の否定は、ニーチェの中心思想と密接に
結びついているわけだから。
473さんが挙げたのはたぶん『この人を見よ』の次の部分だと思うが、良く読んでみてください。

「今度は否を言う部分を、否を行う部分を果たす番がやって来たというわけだ。
つまり従来の諸価値そのものの価値転換、大きな戦い―――決定を下す日を呼び
出す仕事である。それにはもちろん、強さのゆえに破壊せんとして私に手をかす
ような血縁の者たちを求めておもむろにあたりを見回すということも含まれている。
―――この時以来すべての私の著書は釣り針となった。
この本はすべての本質的な点において近代性の批判である。近代科学、近代芸術、
いや近代政治さえも除外されていない。と同時にこの本は、可能なかぎり最も近代的
ならざる一つの反対典型、高貴な、然りを言う典型を示唆しようとするものでもある。
この後者の意味においてはこの本は一つの貴公子の学校である」

これを読めば「否定」というのが「従来の諸価値そのものの価値転換」、つまり「獅子」の
否定に当たること、また、『と同時にこの本は、可能なかぎり最も近代的ならざる一つの
反対典型、高貴な、然りを言う典型を示唆しようとする』とあるように、この「獅子」の否定
によって、「子供」の肯定を示唆しようとする書であることが分かります。

「永劫回帰」「力への意志」「運命愛」の思想が生まれたのは1881年で、その思想が反映
した著書は『悦ばしき知識』の第五書以降だと言われているから、ニーチェの中心思想を
理解するための入門書としては『道徳の系譜』が一番良いでしょう。
884考える名無しさん:2006/08/01(火) 20:29:22
>>882
ハゲドウです。

ニーチェを使ってドゥルーズを語りたいだけではないかしら。
885考える名無しさん:2006/08/02(水) 21:00:18
例えばさ、悪魔がいきなりでてきて
「お前に呪いをかける。お前は今まで生きてきた人生をもう一度やり直すんだ。でもお前は人生を一寸も変える事は出来ない。
 小1の頃にブサイクな女に告白された事も、小2の頃に好きな女の縦笛を舐めた事も、小5の頃に初めて女と付き合った事も、
 中学に入ってイジメにあった事も、高校中退してニートになった事も、ソープで童貞捨てた事も、
 すべて同じように繰り返すんだ。そしてまたこの時になったら1からやり直し。何度も何度も砂時計をひっくり返すように
 お前もひっくり返されるんだ」
って言われたらお前は「('A`)」ってなる?
それとも「うはwwwktkrwwww俺無限wwwwwwテラスゴスwwwwお前は神かwwwwwっうぇうぇwww」ってなる?
886考える名無しさん:2006/08/03(木) 20:16:30
ニーチェ理解には福田を薦めるといいよ
887考える名無しさん:2006/08/04(金) 21:21:27
>>885
二回目のときには記憶はリセットされてるのか?
されてなかったら最悪。
888考える名無しさん:2006/08/06(日) 17:59:25
ニーチェに詳しそうな人が出てくると静かになって、
しばらくするとまた出てくる人がいるようですね。。。
889考える名無しさん:2006/08/08(火) 18:32:28
ニーチェって何をテーマにしてる哲学者なのですか?
「人間とは何か?」ですか?
最初に読むには何がお勧めですか?
890考える名無しさん:2006/08/09(水) 01:48:27
>>889
道徳の系譜→善悪の彼岸→ツァラツゥストラ→・・・???
わかんね。
曙光、悦ばしき知識がおもしろい。
ニーチェはどれも読みやすいが、むずかしい。(ニーチェに限らすだが・・・)

「道徳批判」、「キリスト教(道徳)批判」が柱では?
891考える名無しさん:2006/08/09(水) 06:05:05
社会と自分との断絶に橋を架けようとする人もいれば
目をつぶってエイヤッと跳躍して真っ逆さまに死んじゃった人もいる。
892考える名無しさん:2006/08/09(水) 09:43:18
ここがゲイ科学の著者のスレッドですか?
893考える名無しさん:2006/08/09(水) 18:08:47
>>890
ありがとう。読んでみるぜ!
894考える名無しさん:2006/08/09(水) 21:56:30
>>889
まずは「この人を見よ」を読んで、
各著書のアウトラインを掴むのもよいかもね。

個人的には「ツアラトゥストラ」が好きだ。
本文だけではわかりづらいので、訳注が充実しているちくまの本で、
じっくり読み込むと面白い。
895考える名無しさん:2006/08/10(木) 01:02:29
さて、これがニーチェだ!を理解できないニーチェ好きな俺がきましたよ
896考える名無しさん:2006/08/10(木) 04:32:47
ニーチェはやはりキリスト教の否定を通して人間の真実にたどり着いたまぎれもない最高の賢者の一人である。ぜひ教科書で子供たちにも読ませるべきだ。
897考える名無しさん:2006/08/10(木) 04:35:40
ニーチェは馬鹿なのだ。可哀相だが。
898考える名無しさん:2006/08/14(月) 00:41:55
新潮文庫ツァラトストラ、いま読んでるんですけど、
非常に読みづらい。ちくま版は訳注が充実してるとのことですが、
新潮を???のまま読了するより、ちくまで読み直したほうがいいですかね?
899考える名無しさん:2006/08/14(月) 01:21:57
中公文庫が一番
900考える名無しさん:2006/08/14(月) 12:27:00
あえて岩波を推す
901考える名無しさん:2006/08/14(月) 19:57:54
692 :考える名無しさん :2006/08/13(日) 22:54:32
精神分析とその派生物は、本物の内的生活を奨励するのに役立たないばかりか、
それがおよぼす悪影響は大きい。ひとたび無意識の理論が定立されると、そこか
ら心的な医原病が発生する、つまり、病気の治療が逆に病気を創ってしまうので
ある。シュタイナーは理論そのものが無意識を攪乱するといっているが、このよ
うにして、限られた研究分野としてはじまったものが拡大して文化現象にまでな
ってしまう。いいかえれば、精神療法はとめどない現象であって、治療がなされ
ればなされるほどますます病気が創りだされる、ということだ。

魂の隠れた深み ロバート・J・サデーロによる序文

693 :考える名無しさん :2006/08/13(日) 22:57:10
本書に収録した講演の第二回のなかほどでシュタイナーはニーチェの生涯について
語っているが、これはたんなる観察ではなく、超感覚的能力によって見たのみの報
告である。シュタイナーは、他の著作でも触れているが、ワーグナーが死後ニーチ
ェの指導霊になったのは驚くべきことだ、といっている。シュタイナーはすぐその
あとに、ニーチェが意識的に危険な霊の領域に入らないよう守るためにワーグナー
は彼は精神錯乱に落ちいらせた、というのである。もしニーチェが精神療法を受け
ていたらどうなったか、ここで考えてみる必要がある。どんな力が世界に放たれた
だろうか。精神療法が魂の状況を病んでいるもののように扱うのは、恐るべき思い
上がりではないだろうか。患者が人生の課題として与えられているものについて分
析家が、こんなことはあってはならないとか、取り組みかたがまちがっている、な
どと決めつけるのは、傲慢ではないだろうか。真の霊的知覚を持たないかぎり、そ
んなことはできるはずがない。
902考える名無しさん:2006/08/15(火) 11:58:23
どうでもいい精神分析は知的贅肉と言ってもいいですな
903考える名無しさん:2006/08/18(金) 19:17:19
いま、ちくま新書の『ニーチェ入門』を読み終えた
素人ですが、永遠回帰ってのは現実の「生」の否定につながる
超越的概念を殺すため、また「生」を肯定できるか否かの試金石
とするためにニーチェが戦略的につくった世界像であって、
 
 実際はニーチェ自身も「永遠回帰こそが現実だ!!」なんて信じてないし、
単なる戦略上の産物であってそれ以上でもそれ以下でもないってことで
おk?
904考える名無しさん:2006/08/18(金) 19:21:09
自分も>>903みたいに解釈してる。素人だけど。
905考える名無しさん:2006/08/18(金) 19:25:41
>>903
いや、俺はニーチェはマジで信じてたんだと思うよ
そういう思い込みの激しい人間だったから気が狂ったんだと思う
906考える名無しさん:2006/08/18(金) 19:36:00
確かに本人が「永劫回帰はただの仮想ですよ」と言った例は無いらしい?

あと、「気が狂った」という話だけど、このスレでは晩年の手紙でさえ大真面目に議論している人も居るよね。
「この人を見よ」でさえ、かなりキちゃってるように見えるんだけど、
それ以上の状態になったニーチェの話を真面目に受け止めていいの?
907考える名無しさん:2006/08/18(金) 19:49:33
『ニーチェ入門』著者の竹田青嗣が
永遠回帰を「聖なる虚言」ってふうに
表現してたので哲学者の間では
そういうものとして扱われてるのか?
なんて思ったんですけどね。

そういえばニーチェは当時はやっていた
「エネルギー恒存の法則」に従って
永遠回帰を科学的にも証明するため
物理学を専攻しようとしていたって
エピソードが紹介されてましたよ。
908考える名無しさん:2006/08/18(金) 20:05:43
大事にしてたニーチェ入門を失くした。
誰か知りませんか?
909考える名無しさん:2006/08/18(金) 21:38:14
いずれ貴方の元へ回帰するでしょう
910考える名無しさん:2006/08/19(土) 11:48:42
永劫回帰を現実のものとすべく尽力したら気が狂っちゃったでFA
911考える名無しさん:2006/08/19(土) 17:56:55
ひきこもりですけど何から読めばいいですか?
912SMの町から:2006/08/19(土) 18:02:49
こんにちわ
913考える名無しさん:2006/08/19(土) 22:07:09
私は君達に超人を教えよう。人間とは超越されるべき物である。
(ニーチェ)

微妙に文章が違うと思うが、ニーチェって格好いいよね?
何か精神が高揚する。
914908:2006/08/22(火) 19:23:29
>>909
今日、回帰した。
915考える名無しさん:2006/08/22(火) 20:09:41
>>914
いずれ貴方の元を離れるでしょう
916考える名無しさん:2006/08/26(土) 00:02:52
ニーチェでニチェニチェ(゚∀゚)
917考える名無しさん:2006/08/26(土) 04:36:28
>>913
そもそも、そういう雰囲気に飲まれちゃった若者の巣窟じゃん、このスレ。
918考える名無しさん:2006/08/26(土) 07:02:05
光のマナ識、希望の阿らやしき
919ni:2006/08/26(土) 17:45:32
ni
920考える名無しさん:2006/08/27(日) 15:46:21
最近どこに線引きすればいいか分からなくなってきた
921考える名無しさん:2006/08/27(日) 18:12:10
おまえがどうあろうと俺は生き抜けるぞ。時間がわかるか?密接にあることわかるか。まじめに殺すぞ
922考える名無しさん:2006/08/27(日) 18:24:53
死んだものの苦しみはそれを狼の血で償ってもらう。同じ苦しみをその輪廻によって味わってもらう
923考える名無しさん:2006/08/27(日) 18:37:40
殺すぞ
924考える名無しさん:2006/08/27(日) 19:08:22
紙はしんだ…
925考える名無しさん:2006/08/28(月) 20:45:54
>>916
ツルモクw
926考える名無しさん:2006/08/29(火) 00:11:14
昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。って
どの本に収録されてますか?
927考える名無しさん:2006/08/29(火) 09:40:16
>>926
ttp://153.teacup.com/katsunari/bbs
11月 4日にそれ関連のレスがある。
つうかググれ。
928ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:23:10
■なぜ人々はネットへ熱狂するのか

資本主義革命

>>
人間は経済的存在でなく、社会的存在である、といったアリストテレスは正しかった。人間の目的
は、物質的財産の獲得という形で個人的利益を守ることにあるのではなく、むしろ社会的名誉、社会
的地位、社会的財産を確保することにあるのであろう。財産はなによりもまず、このような目的を得
る手段として評価されるのである。人間のもつ誘因は「混合的」な性格のものであって、これには社
会的承認を得ようとする努力が伴うものである−−生産の努力はこの努力に付随するものにすぎな
いのである。
つまり、人間の経済は原則として社会関係のなかに埋没しているのである。こうした社会から、逆に
経済システムのなかに埋没している社会への変転というのは、まったく新奇な事態であったのである。
「経済の文明史」 カール・ポランニー (ASIN:4480087591) 時代遅れの市場志向
<<

ポランニーが指摘するように、産業革命以降、「経済システム」は唯物論的な下部構造として強力に
作動することで、「社会システム」から乖離した。社会的な関係が経済構造を規定していたのが、経
済システムが浮上し、社会的な関係を規定する革命が起こったのだ。そしてそれはたった200年弱
前に起こったことなのだ。
929ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:23:47
消費、サブカルチャー、ネットへの熱狂

しかし後期資本主義に至ると、このような「経済性の追求」重視によって規定された社会からの揺り
戻しがおこる。アメリカに現れたあふれる商品による煌びやかな消費社会とは、商品の先にある繋
がりを擬装(フェイク)しているのだ。みなが欲望しているものを真っ先にあなたが手に入れることで、
みながあなたと繋がろうとしている、ように見せる擬装(フェイク)であり、「まなざしの快楽」である。
消費社会における「消費への熱狂」とは、経済システム(市場)の中で新たな「社会性」を獲得しよう
とする反動としての面がある。

このような「社会性」の取り戻しは、サブカルチャーへの熱狂を生み出す。サブカルチャーとはこのよ
うな「まなざしの快楽」がもはや商品選択だけでは収まらず、自ら創造したいという欲動を想起させ
たものである。だからサブカルチャーはあくまでみなに受け入れられ「商品」を作成すること、商品化
され市場流通すること、将来商品を製作する側に回りたいという前提にある。オタクもその流れの一
部である。

さらに展開するのがネット社会である。ネット上の創作活動はサブカルチャーの延長線上、消費社
会であらわれた「社会性」の揺り戻しの延長線上にあると思われるが、しかしもはや経済性への動
機は形骸化し、新たな「社会性」の獲得に純化している。たとえばこれは「繋がりの社会性」と呼ばれ
ている。
930ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:24:55
地域コミュニティよりもネットコミュニティへ

なぜ社会性の取り戻しが、家族や学校など地域コミュニティにむかわないのだろうか。家庭や学校
など地域コミュニティが、よい成績、よい学校、大企業がめざすことを目的化するのは、経済性の追
求、市場において優位な立場に立つことを重視するためであり、下部構造としての経済システムに
対する上部構造として再構造化された「社会性」であるからだ。

サブカルチャーコミュニティや、ネットコミュニティなどで対価なく労働が行われるなど、若者が地域コ
ミュニティでなく、サブカルチャーやネットに社会性を求めるのは、従来の「経済性の重視」に根ざし
たシステムからの変容を表しているのだ。

ネット社会は当初、グローバルビレッジ、世界市民などのイメージで登場したが、これは資本主義や
社会主義などの近代の経済性重視社会の延長線上で語られたイメージである。現在、これとは別
に局所的なコミュニティの繋がりを求める場として作動している。ここで展開する「小さなコミュニティ」
内の贈与関係は、驚くほど未開社会の共同社会に似ている面がある。
931ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:25:36
熱狂の歴史

これらは、熱狂の遷移としての面を考えなければならない。消費社会が、サブカルチャーが、ネット
が熱狂であったように、資本主義革命も新たな「自然(フロンティア)」の発見とともに、そこに人々が
殺到した熱狂であった。それは単にブルジョアの資本追求の熱狂でなく、プロレタリアートにとっても
「豊かさ」への熱狂であった。

その熱狂が、経済システムを社会システムから浮上させ、下部構造として強力に作動を求める。そ
して社会性は家庭、学校、企業などの形態として、再構築された。いまでは陳腐化しつつあるこれら
の社会性(コミュニティ)が強力な繋がりとして作動した時期はあった。それはまさに、資本主義革命
の熱狂とともにあったのだ。

そして豊かになり、環境問題がおこり、「経済性の重視」という社会は閉塞する。消費、サブカル
チャーは、より精神的な「自然(フロンティア)」の発見であり、さらにネットはより空間的なメタファー、
疑似「自然(フロンティア)」の発見であり、人々は熱狂とともに殺到したのである。そして熱狂に続い
て、それにあわせた形態に社会秩序は新たに構造化されていくのだ。

その時代、人々はどこに新たな外部としての「自然(フロンティア)」を見いだし、熱狂し、社会秩序を
再構築していったかのか。ボクはこれを「自然主義的闘争」と呼んでいる。
932ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:26:17
「リアリティ」はネット上に移っていく

最近、セレブブームであり、TV番組などで紹介されている。セレブの魅力はその経済的な裕福さそ
のものにではなく、セレブという生活様式の貴重性にある。ボクたち庶民とは異なるだろうその生活
様式において彼らのアイデンティティは誇示される。それはまさに消費社会における「まなざしの快
楽」であり、その物質的な貴重さにボクたちのまなざしを奪われとともに、豊かさにアイデンティティを
求める「空っぽさ」を嗤うのである。

だからといって、ボクたちは容易に資本主義社会構造を捨てられない。最近ではグーグルのアフェリ
ティブなど、ネット上の無償の労働が対価にかわる画期的なシステムが開発されたりしているが、こ
れが現在の資本主義的経済システムにとってかわるほどのものではないことは容易にわかるだろ
う。だから資本主義的な経済性とネット社会的な社会性の二重構造は変わらず進むだろう。

これらの消費、サブカルチャーネットへの熱狂は、新たな「社会性」の取り戻しであるとともに、経済
システムをより活性化している。しかしネット上の様々な活発なテクノロジーの開発、それにともなう
経済上のネットバブルなどによって、新たな資本主義を活性化するものとしても、これらは人々が
ネットに社会性を求めて熱狂することに支えられている。

ある程度の豊かさの中にいるボクたちは、資本主義的な経済性の追求そのものへの魅力は色あせ
ていくだろう。そして今後、「リアリティ」は、ネット上の社会性に見いだされていくだろう。
933ぴかぁ〜 ◆q5y3ccmqnw :2006/08/29(火) 16:34:56
ご・・・ご・・・ばく・・・スマン
934考える名無しさん:2006/08/29(火) 16:49:24
これほどはっきりしたキチガイが
これほどがんばっていらっしゃるというのに
2chがキチガイの遊園地でないなどと
言い張るキチガイが絶えないのは
どうしたことか
935考える名無しさん:2006/08/29(火) 23:00:04
ワロタ
936考える名無しさん:2006/08/30(水) 01:46:14
2chのニーチェスレってある意味真摯かも。

だって続いてるんだもん。

これほど閉鎖的な仕事はないかも。

悪循環では決してないし、むしろ完璧な循環、コスモポリタンともいえる。
937考える名無しさん:2006/08/30(水) 22:59:51
>>907
そうですね
確か、そうしたニーチェの側面に注目して
永劫回帰を
この宇宙が発生から終焉までが無限に繰りされるという
宇宙論にまで拡張して
ニーチェの永劫回帰の思想
を解釈した日本人ニーチェ研究者の本があったけ。
私なんぞは
神が存在することより
この永劫回帰の考え方のほうが
現実的だなあ。
こういう私の書き込みが無限に繰り返されるって愉快じゃないか。
神が私の書き込みを不愉快に見ているなんてあほらしい。
いや神も永劫回帰の内側にいることになるのか。
いや神は死んで不在か
あるいは最初から存在しなかったことになるのか。
938考える名無しさん:2006/08/30(水) 23:11:16
そういうSF的な楽しみ方は置いといて、
果たして自分は永劫回帰を受け入れられるか?を考えてはどうか。
939考える名無しさん:2006/08/30(水) 23:17:40
>>937
>>938
二人の意見を参考に
937はありうると思う
そして
まあ普通にうけいれてもかまわないと思う
別になにもかわらない
神様が存在することのほうがキモイ
940考える名無しさん:2006/08/30(水) 23:24:56
>>938
永劫回帰はありえないと最初から思い込んでいる人は
真理だったら恐怖なんでしょうね
もしくは宗教を信じている人もね。
宗教の解体に導かれるかもね
無神論者は潜在的にこういう思想?を案外すきなんですよ
941考える名無しさん:2006/08/31(木) 00:09:17
本当に信じたら気が狂うのでは。
ニーチェは性病から廃人みたいになったけど
この思想が自分を追い込んだとも思える。
何も生まない有害な思想だよ。
942考える名無しさん:2006/08/31(木) 01:41:36
基地外も、ここまで頑張れば、歴史に残るんだよ。
みんなも頑張れ。

オレは頑張らないけど。
943考える名無しさん:2006/08/31(木) 08:30:47
マジで

多分ニーチェは
宇宙が発生して終焉するというサイクルを
想像すらしなかったのでは。
だからフラスコの内部で同じ状態が再現するというような
閉じられた系の中で
永劫回帰が起こると考え、熱力学なんかに一時熱中した。
そしてやはり人類史が繰り返すはずはないという認識と
永劫回帰が矛盾することにより、より狂気を加速させたと思う。
ニーチェがうけたとされる啓示?への
自己解釈が結局、偏向をうけた。

アインシュタインがそのときいたらね

哲学者(とくにハイデッカイー)は
永劫回帰を隠蔽しようと躍起のように思える。
宗教者もみずからの宗教が無意味になるからと無視している。
ヨーロッパやアメリカでは永劫回帰自体はタブーなんだな。
だから日本の学者も逃げている。
その点、三島憲一さんはえらいよ。
でもあの本の後半はいけない。
啓蒙思想がどうのこうの。あれはやっぱり隠蔽だな。
944考える名無しさん:2006/08/31(木) 09:59:36
>多分ニーチェは
>宇宙が発生して終焉するというサイクルを
>想像すらしなかったのでは。

そう考えてない科学者もけっこういよ。
発生もしないし終焉もしない宇宙を主張するわけだ。
ちなみにビッグバン宇宙論を裏付ける証拠は何も無いと主張する科学者がブルーバックスで書いている。
ドイツでは時間が存在しない可能性を考えている科学者もいるくらいだ。

ニーチェの永劫回帰は完全否定されているわけではない。
945考える名無しさん:2006/08/31(木) 11:07:56
>>943
>>宇宙が発生して終焉するというサイクル

というのが、永劫回帰以上に明白である
ということを論証してくれよ。話はそれからだ。
946考える名無しさん:2006/08/31(木) 11:25:27
>>945
あのね
イメージとしていっているのであって
イメージとして成立してればいいじゃないか。
物理学で証明されても本当のことは永遠にわからない。
死というものが体験できないのと同じにね。
永劫回帰もイメージだぜ。神もね。
そのイメージをどのように受け止めるか。
そこからは話ははじまる。
ではどうぞ
947考える名無しさん:2006/08/31(木) 13:14:05
>>946
すべてイメージと思うと、そこから抜け出せなくなるよ。
948考える名無しさん:2006/08/31(木) 15:38:53
かりに宇宙物理学で
宇宙が発生から終焉を無限にくりかえされている
と証明されたら
永劫回帰の説はどうなるんだ?
949考える名無しさん:2006/08/31(木) 16:32:17
科学的な証明より、受け入れるか否かだ。
究極のニヒリズムとその裏返しとしての究極の生の肯定に意義がある。
950考える名無しさん:2006/08/31(木) 18:23:15
951考える名無しさん:2006/08/31(木) 18:25:51
>>950は貼り間違いです
_| ̄|●<スマンカッタ
9526:2006/08/31(木) 18:45:48
>>949
<究極のニヒリズムとその裏返しとしての究極の生の肯定>
と真摯に受け止め、人生に反映しょうとする人もあれば
ああそうなんだと普通に受けいれ
何ら生活心情等に変化を起こさない人もありうる。
犯罪に走る人もあるかも。
科学的証明とともに
永劫回帰が
世間の常識になったら
この世界はどうなるんだろな
953考える名無しさん:2006/08/31(木) 23:52:48
>>952
怖くて想像できないな。
954考える名無しさん:2006/09/01(金) 15:12:44
『かく語りき』と『この人』読んだだけのニーチェ素人の戯言だが
意外とマルエン哲学に近くないかこの人。両者は限りなく近い平行線
を描いているように見える。直感的に感じただけだが。
時代がほぼ同じせいか。
955考える名無しさん:2006/09/02(土) 00:30:33
弱いニヒリズムっていうのはつまり好きな子に誕生日プレゼント贈ったのに
その子がお返しをしないから何でだよ!って怒ったり失望したりすることだろ
この場合最高の価値観=期待する願望があることが前提なわけだけど
こういった願望自体を抱くことについてニーチェはどう考えてるの?
期待があるから失望があるわけで、期待や願望自体を否定できれば楽だなって
俺は思うんだけど
956考える名無しさん:2006/09/02(土) 00:46:02
これからニーチェを読もうと思っている方へ

これからニーチェを読もうと思っている方達は、自分の中にある何かモヤモヤした感覚に対する答えや、何か出口のようなものをニーチェから導き出したいと思っている方が多いのではないでしょうか?
(言ってみればマトリックスのネオが当初持っていたような感覚?)
もしそういう欲求から読み始める方にはスタート(入り口)としてニーチェは非常に良いです!
モヤモヤ感のツボをズバズバついてくれます。

しかしニーチェで止まってしまうと、その「答えのようなもの」「出口のようなもの」までは辿り着けないというのが、私の経験です。
ひたすらニーチェにこだわるのは、ニーチェの研究家や哲学の研究家にとっては面白いのかもしれませんが...求めているものはどこに?ッて感じになってしまいます。
それはこのスレをみれば解ると思います。

「答えのようなもの」「出口のようなもの」を求める止むに止まれぬ思いの方にはハイデカーまで進む事をぜひおすすめします。
私の経験では「ハイデカー『存在と時間』の構築」(木田元編著)にてスカッと晴れ晴れとした気分になれました。
西洋哲学はどこで躓いてしまったのか、現代社会は何を見落としているのか、科学的思考の盲点はどこか?
これらを教えてくれます。心の中につっかえた「何か」を取り除いてくれます。

私は大きな満足を得ることができました。(まわりには見えない物が見えるような優越感もちょっと得られる)
ソシュールもオススメです。合わせて読むと効果大ですよ!
くどいかもしれませんがニーチェだけでは迷路から出られません。

このスレのニーチェを分析したい方達からは叩かれそうだけど...
957考える名無しさん:2006/09/02(土) 00:48:21
ニーチェはキルケゴールを研究する前に発狂したのが惜しい。
ゴータマの事は知ってたらしいが。
958考える名無しさん:2006/09/02(土) 01:30:53
>>956
そういう水準の話はしてない。
ニーチェだって「ザロメと散歩して楽しかったです><」とか言ってるし。
959考える名無しさん:2006/09/02(土) 01:34:20
>>956>>955
ともかく、ニーチェはなんでもかんでも否定してるわけではない。
むしろ生を大いに肯定するために偽りの理想を否定している。
960考える名無しさん:2006/09/02(土) 03:51:56
モヤモヤがあって止むに止まれぬ思いからニーチェに入ってくる人にとって
「生を大いに肯定する」ために→「永劫回帰」を受け入れなさいと言ったらちょっと重く感じてしまう。
それより頭でっかちな理論を突き詰められるといくとどーしても重くなっていく傾向とか、実感から乖離していく傾向とか、なんでなんだろう?っていう疑問に対する答えがあったほうがありがたい。

例えば頭でっかちなマルクス・レーニン主義は結果として、資本主義に負けちゃったのだと思うのだけど、それを「理論的」に間違いを論破できる思想ってあるのかあ?
その西洋的志向・理論的思考・科学的思考の「落とし穴」を知る事によって複雑にもつれた糸をほぐす事を、ハイデカーもしくはソシュールは「理論的に」教えてくれると思う。

誤解のないように私はニーチェの生を肯定しようとする姿勢に大賛成ですし、ニーチェが大好きです。
私の理解ではハイデカーはニーチェの思想の延長線上の思想家ですし、ニーチェの作った土台の上によって立つものだと思っています。ニーチェがもし発狂しなければ明快な答えを出してくれたかもとも...
ソシュールはまったく別の視点からですけど。

人間ってやっぱイエスやニーチェのような聖人の域に達しないといかんのかあ?
961考える名無しさん:2006/09/02(土) 03:57:49
>>960
マルクス・レーニン主義の理論的間違い
計画経済で配分を最適化できる(いわば神の視点に立つ)ことを前提としている点だと思ってたんだけど、違うの?
962考える名無しさん:2006/09/02(土) 05:22:23
たぶん、それで半分は正しいと私は思います。
「神の視点に立つ」ってことが何か理論的におかしいのか、それは現代において技術的に不可能だったって事なのか?、それとも答えは別のところにあるのか?
その答えだと神の視点を手にすることができれば、実現可能だったようだけど、「配分の最適化」ってなによって疑問がでる、私としては。

人間ってその「最適な配分」とやらがあると、何となく思ってない?
最適な配分に少しでも近づけるにはどうしたらいいのだろう?とか。
「最適」「正しい」「真理」「神」を想定してないか?
そこに答えをくれるのがハイデカーだったり、ソシュールだったりする。

「〜とは〜である」 想定してないか?
963962:2006/09/02(土) 18:29:44
もっと言うと私はすでにニーチェの言う「超人」の域に達していると、自己満足的に思っています。
ニーチェの言う「超人」という概念は決して最終到達点的(理想像的)なものではなく、現代に生きる日本人にとってはかなり手の届く範囲の身近なものだと思います。

ニーチェは「人間は超えられていくべきものだ」と言っています。これはある特別な聖人のような存在のみが超えられるといった意味では無く、ある時代になれば人はニーチェの同時代人が囚われていた価値概念から解き放たれた人達の時代が来ると言っているのだと思います。

現代の日本人にとっては「超人」はもう手の届く身近なものです。
キリスト教的価値観・西洋思想・科学的思考の「盲点」を克服できているかどうか、そこが分岐点。

「駱駝」→「獅子」→「無垢な幼子」
「ニーチェの同時代人一般」→「ニーチェのような破壊神」→「自然的思考」(フォアソクラテーカ的)

私は西洋哲学や科学的思考を否定するものではありません。
西洋哲学や科学的思考は大変有用なものですが
ただ「使用上の注意」があると云う事です。
964考える名無しさん:2006/09/02(土) 18:54:48
>現代の日本人にとっては「超人」はもう手の届く身近なものです。

そこは笑うところか?より高き者よ!
現代の日本人は超人とは縁もゆかりも無い、奴隷道徳の奴隷だ。
965962:2006/09/02(土) 19:25:23
現代の日本人にとってはというのは誤解があるかもしれないので、付け足すと
過去の日本人の方がおそらく「超人」に近い、というか「超人」だったかな。
966962:2006/09/02(土) 19:32:09
>そこは笑うところか?より高き者よ!

笑ってもいいがニーチェもきっと同時代人には笑われていたぞ
実際ツァラトゥストラは作中笑われてるしwww
967考える名無しさん:2006/09/02(土) 19:47:51
ニーチェは狂人だよ。
968考える名無しさん:2006/09/02(土) 20:13:40
自称する前に「超人」らしく語ってみれって。
969考える名無しさん:2006/09/02(土) 20:26:46
現代は虚栄の時代劇の後部
970962:2006/09/02(土) 20:29:38
君が妄想する超人概念とはズレてるだけだ。
君にとっての「超人」は死んでしまった「神」とどーちがうの?
971962:2006/09/02(土) 20:35:10
「超人」らしいってどーゆう事?
972は? :2006/09/02(土) 20:36:28
質問の意味がわからない。
なんで神が死ぬの?
それこそ妄想だ。
973962:2006/09/02(土) 20:47:06
じゃあ死んでない「神」とどー違うの?
974考える名無しさん:2006/09/02(土) 20:48:21
超人らしい事は、
一般的で支配的な価値観世界観を崩し、
新たなそれを作り上げ、支配的なそれにまでもっていける力をもっていること
975962:2006/09/02(土) 20:57:32
かってに作らないでよ
おれはニーチェのいう「超人」をいってるのよ?
976は?:2006/09/02(土) 21:00:22
超人は世界観を作ることができるが、
神は世界を作り上げることができるので、
その間には地球儀と地球の差があるといえばわかりやすいと思う。
977考える名無しさん:2006/09/02(土) 21:08:21
おまえの考えるニーチェの「超人」がおまえね。
978962ですが は?:2006/09/02(土) 21:09:59
だから勝手に作らないでって。
それって妄想というんじゃないの?

ニーチェのスレでニーチェのいう「超人」をいってるのよ?
979は?:2006/09/02(土) 21:15:23
だから962のいうニーチェのいう「超人」が962なんだと思うが。
980962:2006/09/02(土) 21:24:10
んっ?そうだなその通りだな。

>質問の意味がわからない。
なんで神が死ぬの?
それこそ妄想だ。

ニーチェのスレなんだからニーチェが「神は死んだ」と言ってるのに、その事を妄想と言われても困るんだがなあ。

981考える名無しさん:2006/09/02(土) 21:42:28
さて、ティータイム終了
永劫回帰についてまじめに議論する人、集合せよ!
982考える名無しさん:2006/09/02(土) 22:18:58
勝手に作ってるといえば、ニーチェのいう「超人」もそうだし、
962のニーチェのいう「超人」という概念もまたそうなる。
神は死んだと妄想して勝手にするのは勝手だが、所詮虚栄の喜劇で、悲劇的な結末にたどり着く。
それが現代的であるといえばそうだが、もう末期、神は生きていた。
そう気付き始めた人々が増えてきている時期だと思われる。
983考える名無しさん:2006/09/02(土) 23:01:07
ん?君の脳内では神は生きているかも知れん。
が、俺の脳内ではとっくに死んでいる。
己の弱さを投影した虚像ではなく、己が強くあらねばな。
弱者よ呪われよ、弱者よ滅びよ、真昼の子供らのために!
984考える名無しさん:2006/09/03(日) 00:10:08
こちらでも
「邪教です」
次スレ
http://academy4.2ch.net/philo/index.html#1

985考える名無しさん:2006/09/03(日) 00:45:14
それで超人か。
ならば私は長く長く地を這いずりのたうち回る弱者であり続けよう。
986474:2006/09/03(日) 15:06:43
>>982
新たなる価値というなら超人が新しい神を創造してもいいことになるな。
神を信じる自己の否定ならそれほどルサンチマンに満ちたこともあるまい。
そういえばツァラトゥストラに科学者たちが偶像崇拝始める下りがあったような。
読み返してみる事とするか。

そろそろ次スレの季節だな。今スレではすれ違い議論やってすまんかった。
俺的には部分的に実がある点もあったが。
987考える名無しさん:2006/09/03(日) 16:05:25
おまいらほんと・・だな
ニーチェの言う「超人」についての話に対して、ニーチェの語ってない超人像を持ってきて、超人らしく語ってみろなんていう事に対して、「勝手に作るな」と言ったんだよ?
妄想というのがもっともでは?
ニーチェが勝手に「超人」概念を作った?
思想家なんだからそのぐらい創るだろ、それが読む者によってリアリティを持つかどうかじゃねえのか?
もっとましなスレかと思ってたが...

>それが現代的であるといえばそうだが、もう末期、神は生きていた。
 そう気付き始めた人々が増えてきている時期だと思われる。

ニーチェは「神は死んだ」と言ってんだから、神は生きてたんだろうよ、そりゃあ。

誰にとっていつの時点でのどういう概念かってってこと判断する事が大切。
ひとくちに「神」と言ったって日本人が伝統的に持っていたものと、キリスト教の「神」の概念はぜんぜん違うだろう。
そういう事を区別しないで議論してたら永遠にかみ合わんわな、そりゃあ。

過去から未来永劫・人類普遍だれにとっても共通の「真理」が無意識にあると思っているのが「盲点」。
今現在の特定の誰かにとっての「真理」なら存在するけどな。これが解るかどーかだ、スタートは。
これがわからないやつは永遠にぎろんしてろ。

988考える名無しさん:2006/09/03(日) 16:11:30
ニーチェの著作をちょいと読んだだけで議論しようとするからこうなる。
989考える名無しさん:2006/09/03(日) 16:15:34
ヾ( ´ー`)
990考える名無しさん:2006/09/03(日) 16:20:29
「存在と時間」ってタイトルの本あっけど、こんなかにちょっとでもそのタイトルの意味考えたことあるやついるか?
991考える名無しさん:2006/09/03(日) 16:31:27
乙(`・ω・´)Ν
992考える名無しさん:2006/09/03(日) 18:17:48
「永劫会議」なんかいいネーミング
このスレにぴったりだなあ、おいっ!
993考える名無しさん:2006/09/03(日) 19:32:12
そろそろ機械に任せたら?
いちいち文字打つの疲れない?

それよりニーチェも結構俗っぽいね。
小学生も読んでいる子が多いし、
アホがいっぱい集まるところでもあるしね。
それにしても、ニーチェみたいな人はアホを引き寄せやすいのは仕方がない。

私はまずそういうところは避けるね。

そしてよくニーチェ信者が口にすることは「超人」「永劫回帰」
こればっか。。。

もしニーチェが世間でもっとも低俗で無能な奴に食わせるために
超人を語ったとしたらどうする??

ないこともないと思うよ。

そうそうニーチェ自身が言ってたことがある。

「何年か長い月日がたって、私にはもしかしたら熱狂的な信者が出来るかもしれない。」

まあ、ここのスレにはどうでもいいことだと思うけどね。
だって書き込むことが目的なんだもんね?

だからそろそろ機械を導入すれば?
994考える名無しさん:2006/09/03(日) 22:23:31
>>993
純粋に聞こう。
その機械とは何?
995考える名無しさん:2006/09/04(月) 02:01:32
>>993
ねぇ機械ってなにおしえて
996考える名無しさん:2006/09/04(月) 14:49:25
「ニーチェは死んだ」と神は言った。
997考える名無しさん
しかし「神は死んだ」と言ったのはツァラトゥストラだった。