◆決定論:脳は物質だから意識は必然にすぎない51◆
私見。
「五感」
視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚。
幸福感や挫折感は普通入らない(クオリアには入る)。
「表象」
認識されて現れている当のもの。
「クオリア」
心脳問題に限定された場合の「表象」とほぼ同じ。
脳が決定的な働きをしていることを前提とする点で、従来の
哲学的な手法とは異なる。但し、論点は変わっていない。
ああ、五感+感情=クオリアでいいのかな?
で、クオリアは出力が予め決まっていると。
決定論の方が、理解するのに簡単だからね。
>>310 【用語解説試案】
五蘊=人間。(実存的に捉えれば、私という存在。) → 広義の色で考えれば、一切の存在。
色=物質および肉体 → 「五蘊に於いてのみの狭義の色であれば、(この私の)肉体のみを指す」という見方もあり。
ちなみに、色(rupa)の語源は「壊れるもの、変化するもの」。
受=感受作用。
想=表象作用。(印象、イメージとも。)
行=意思及び受想識以外の心作用。→(十二支)縁起や、諸行無常で言われる行とは違う。(原語は同じだけどねw)
〔作意(注意)・(和合としての)触・思(意思)・定(精神統一)・念(忘れないこと)・慧(知的作用)・etc.〕
識=認識作用・意識。或いは(六識の総体という見方をすれば)認識主体との解釈もありうる。
>>310 【用語解説試案】
(六)根=眼・耳・鼻・舌・身・意。各種感覚器官、及びその能力。後者に重点が置かれることが多いかも。
意根は、脳及び脳のはたらきと受け止めることも可能かもしれない。
(意識との差異や関連については略w。手に余る(^^;) )
(六)境=色・声・香・味・触・法。上記の各根が捉えうる、それぞれの対象。(ややこしくなるので現代的分類分析は略w)
必要な補足だけすると、ここでの「色」は物質或いは色(いろ)・形・明るさ。視覚的に知覚できる対象。
触は、身体(皮膚)で知覚する対象のこと。或いは前四つ以外の外的対象。
法は、思想・概念とか、およそ人の意識が認知するような(抽象的存在としての)対象をいう。
(ダルマ(理法)という語が用いられていることから、もともとは
「理法等真理・本質を認知・認識するのは意識である」という考えから導かれた用法であろう。
ちなみに、認識対象の法を、勝義において「おしえ・縁起・四諦」とする場合あり。)
(六)識=眼・耳・鼻・舌・身・意。根と境の和合により成立した(生じた)それぞれの認識。
ひっくるめて(五蘊の)識というも可。根境それぞれに合わせて分別すれば六種になる。(雑だなw)
少し具体性を持たせれば「これこれはこのようである」とはっきり知覚認識し分別されたもの。
(ちなみに、これら六識も法境として意識の対象となりうる。但、意識を認識する意識を、哲学的に無限遡及はさせない。
→縁起としての時間的流れからすれば一度で十分であろうし、刹那的な存在と捉えれば解決する?
以下略wってかお手上げ(^^;) )
>>311 あ、決定的な、というのは「決定論的な」ではなく
「決定的に重要な」の意です。
紛らわしかったですね^^;
あと、五感っていうのは日常用語でなかなか
分かりにくいところがありますね。感情もそう
ですが、例えば、空想は五感に入るのか、とか。
>>313 >(六)境=色・声・香・味・触・法。上記の各根が捉えうる、それぞれの対象。(ややこしくなるので現代的分類分析は略w)
そこを教えてくださいよ^^;
視覚=感覚器官が捉えるのは、色ですか、波長ですか、物自体ですか、
あるいは、それとも何らかの名ですか。もしかすると、色を捉えてるのでは
なく、視覚=感覚器官の能力がすなわち色かもしれないですね。
インドなんかでは物には見られる能力があるとされてるそうだけど。
>>316 ややこしくなるって言ってるじゃん・・(^^;)
ま、明るさも含め、眼で択えられるもの全てでいいとおも。
ただ当然、当時は波長なんてないし、
(特に初期では)単純に「目に見えるもの」ってだけだと思うよ。
よーするに、現代の知識や分類をどこまで当てはめていいのか?
というやっかいな壁があると思われ・・・w
>>318 波長だと概念=法になるから、かなり困難な問題を残してると思います。