1 :
考える名無しさん:
教えて偉い人
偉くないから教えな〜い。
3 :
考える名無しさん:2005/12/21(水) 23:01:53
自己で考えてね w
4 :
考える名無しさん:2005/12/21(水) 23:02:28
現象としては、「自己中はいけな〜い」と言う偉い人が一番自己中だったりする。
5 :
考える名無しさん:2005/12/21(水) 23:09:28
自己中はいけな〜いっていう言葉のイミは、おまえは俺たちに
めいわくをかけるなよ、ってイミ。べつにめいわくを
かけてなければ考えてるだけなんだから悪くはない。
6 :
考える名無しさん:2005/12/22(木) 01:05:12
まるで自己中以外の考えが存在するとでも言いたげなスレだな
ないだろ、んなもん
自閉症児は自己中心的にしか考えられないらしいよ。
自己チューの反対は他己チュー
10 :
考える名無しさん:2005/12/22(木) 02:30:40
他人の心が読めるのは知的能力である。他人が自分とは違う判断を行うことを理解する能力。
ところが一般の学校ではこれがあまり評価されない。
逆に読んではいけない物体や動物や世界全体に意思があると感じて過剰に心を読む場合もありうる。
11 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 19:45:44
>>1 自己中は、自分または自分達の仲間が考えたり行動したりすることが
最も理にかなってうまくいくと信じることだね。
これが「いけない」というように言われるのは、一方的な「主義・主張」は
一時的(短期)にはうまくいくが、長いスパンで見ると弊害もいつかは
噴出するようになるからじゃないかな。
対立する主義主張はお互いが良い面と悪い面の表裏関係になっているような
気がするな。
政治の話を持ち出してスマソだが、「自由主義、社会主義、資本主義、共産主義」の
一つの主義のみにこだわることについては、
大局的に見るとある意味で「自己中」なんだと思うんだよね。
旧ソ連が崩壊したのも共産主義の良くない側面がでてきたからじゃないのか。
じゃ、アメリカは崩壊しないのか?
資本主義の悪い側面がいつかは出てくるような気がするのだが。
いまうまくいっているように見えるのは他国に重荷の部分を押し付けている
からじゃないのか。
「資本主義と共産主義」、「自由主義と社会主義」のお互いの良いところ
どうしをうまく組み合わせて「相互補完社会」を目指すのが
理想だと思うのだが。ロシア、中国、ヨーロッパの一部ではこういった
相互補完された「社会民主主義」を志向していくんじゃないのかな。
12 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 20:00:54
>>11 最初は立派な意見だと思いましたが、途中から怪しくなってきました。
13 :
11:2005/12/30(金) 20:07:26
いろいろな主義主張思想思考が「住み分け的に」いつまでも共存できれば
いちばんいいのだが、この世界・宇宙は流動的でいつかは交わらないと
いけないときが来るような気がするな。
対立があって反発しあうか、互いの側面の悪いところを押さえ込んで
良い面どうしを融合させるか。
14 :
11:2005/12/30(金) 20:30:12
日本は明治以後、欧米の文化をたくさん取り入れたね。
欧米の文化はある見方をすれば「動き(動的)」の要素が多い
ものだと思う。
一方、古来日本の文化(拡張的に見て東アジア文化圏)は
「落ち着き(静的)」のある要素があるもので、動きの文化を
取り入れるのはかなり苦労があったんじゃないのか。
しかし、この文化を取り入れたことで物質・精神ともにステップアップ
(進化)したことはまちがいない。
しかし、欧米は静的な文化をどのくらい取り入れたのだろうか。
民間個人レベルではかなり交流があったと思うけど、国家レベルでは
はたしてどうなのか。
昔、中曽根さんが茶道についてアメリカの大統領に伝えようとしたことは
よいことだ。
15 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 20:38:32
別に自己中でもいいんじゃね?まあ確実に他人から嫌われるだろうけど、
要はそれを僻まれてると捉えるかどうかなんだけどな。
16 :
11:2005/12/30(金) 20:40:19
小泉さんやブッシュさんがこれから独断で何か
トンデモないことをやらかさないか心配だな。
11は、最初は良いことを言ってると思ったのに、次第に自己中心的な
愚痴を書き連ねるようになったと思います。
18 :
11:2005/12/30(金) 21:00:59
言っちゃ悪いが、「宗教」もある意味で自己中心的だ。
教義を絶対視して、異教徒と対立したりする。そのなかから、
不幸な戦争が起こったりするのだぞ。
いろいろな宗教・宗派の教えに問題がないか検証されることはない。
(あったらたいへんだわな)
でも、いつかは検証されなければならないときが来るんじゃないのか。
19 :
11:2005/12/30(金) 21:02:53
20 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 21:05:14
>>18 戦争というのは、国や民族や教祖のために自分の命を
投げ出しているのだから、
自己中心的というのとは違うんじゃね?
21 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 21:10:07
>>20 でも実際に戦死するのは、戦争を仕掛けた奴よりも、むしろ戦争に駆り出された奴だろ。
22 :
11:2005/12/30(金) 21:10:41
>>20 個人じゃなく、ひとつのグループであったとしても
そのグループとして自己中心なのだ。
23 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 21:11:06
自己中心的な奴ばかりで宗教戦争なんて無理だろ。
「お前ら逝けーーーーっ!!!」と上の奴に命令されて死に
に行くんだぜ。自己中がそんな命令に我慢できる分けないよ。
24 :
11:2005/12/30(金) 21:14:42
戦争というのは国家(いろいろな国のなかの一つの集団)エゴなのだ。
25 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 21:20:20
テレビでレーンジャー隊の訓練を見たけど、上官の命令は絶対で、
自由は制限され人間扱いされず、イジメと言ってもいいくらいの
徹底した虐待訓練を乗り越えてレーンジャー隊になってたぞ。
自己中には無理だよ。
自己中を抜くのが宗教や国家じゃないの。
だから自己中のレベルが違うんだろう。
個人的な自己中と集団的な自己中。
でも集団的な自己中とか言い出したらどこが自己中じゃないレベルなのか分からんな。
集団としての問題は自己中だからとかじゃなく別の問題にするべきだと思われ。
27 :
考える名無しさん:2005/12/30(金) 23:51:12
9条じゃあるまいし、自己中に集団的があるかよw
ベクトルの起点はいつだって自己に決まってるだろ
ボールが飛んで来たら、起点はボールを投げたぼくちゃんかねw
29 :
まずる:2005/12/31(土) 00:05:01
>集団的な自己中
変な言葉ですね。
30 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 00:15:58
>>28 アホw 自己中の話ししてんだろが
ボールの起点は投げたやつ
飛んで来てるの わかってて避けなかったら
受けた傷に関与したベクトルには
ぼくちゃんのも入って来るが
投手がわかると、ぼくちゃんと合わせて集団になると思うが
ならないかねw
32 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 00:26:36
>>1 てめー、人に教えて貰わねぇと、そんなことも解らねぇのか。自己中だと
社会の秩序が崩壊するんだよ。相互承認、相互尊重、が社会の基本だろう。
人間関係の基本は「汝の欲せざることを他人に施すなかれ」じゃ。
自己中は「汝の欲せざる」ことでも平気で他人には施すんだよ。
お前みたいな奴のことだ。
自己は思うところをなす、
自己が不快なことを他人に施すとすると、嫌がらせをしているんじゃないかな。
自己中は意地の悪い人間だということになるねw
自己中な奴と、自己中な考えは違うよ。
客や上司には気を使う人でも、部下や家族には横柄な人がいるから。
35 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 11:28:22
>>33 ちがうだろw
自分が「されてイヤなこと」をヒトにすれば
相手は「そうしていいのがこの人とのルール」と受けとるから
相手もそうすることに・・結局自分に戻って来ちまう
本物の自己中なら 先を考えるからそんな馬鹿なマネはしない
>>32 少し違うような気がする。
「汝の欲せざることを他人に施すなかれ」というのは、我と汝を
同一視しているので、むしろ自己中ではないか。
本来は
「他人の欲せざることを他人に施すなかれ」
「他人が何を欲し何を欲していないか理解するように努めよ」
が社会の基本ではないか。
37 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 13:11:34
>>36 「他人が」何を欲してるかなんてわからないだろ
そうすると、「よくわかってる自分」の欲する事を
他人にも当てはめるよりない
それとも他人の欲求がわかるとでも言ってるのか?
38 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 13:28:40
自己中な偉い人が自己中を通せなくなるから、お前ら下賤の者は自己中止めろということです。
39 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 13:42:42
40 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 13:45:06
>>36 そのとおりだと思うぞ。
>>26>>29 「集団的な自己中」たとえば、
最初は個人で夜中に暴走・騒音撒き散らし行為をやっていたがそのうち
同調者が何人か現れて一緒に行動するようになった場合などだ。
グループとしての規模が大きくなればなるほど、自己中としての
感覚は薄れてはいくが。
これは個人であっても集団であってもそれに対立する存在に対して
突き放すか、逆に相対する存在の価値観を少しでも考慮するかが
問われているような気がするな。
だからまわりの住民としても暴走族の思いを考えてみる必要があるのだ。
41 :
40:2005/12/31(土) 14:09:42
犯罪者を擁護するわけではないが、何か事件が起きた時はきまって
被害者に同情が集まり、なぜ加害者がその事件を起こしたのか、なぜ
加害者はそんな心理に陥っていったのかあまり考えていないような気がする。
さらにそんな真理にさせた周りの環境についてもほとんど問われないな。
犯罪者を生む社会的な背景まで議論していく必要があると思うんだがね。
これって、捜査側・裁く人間から見た一種の自己中なんじゃないのか。
42 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 14:59:35
「自己中のどこが悪い!」
43 :
凡人:2005/12/31(土) 15:04:55
>>11番さん
発言の宗教や国家間のエゴに関しても総体が深く思惟を巡らし的を得てるので驚きました。、、、賢い、、、
人類史の全ては力を崇拝する蒙昧意識に拠って支配され、結果として自己中に人の心に陥る仕組みに成っています。
人類社会は自己中が産みだす欲望のブラックホールに取り込まれて要ると言います。
支配する者達は極度な自己中ですが我々大衆が自己中で有るならば支配の旨みが有りません。
支配する者達にとって理想な大衆は,おとなしく暖かい毛皮と旨い肉(人生と言う命)を貢いでくれる羊人達です。
ただし多少の自己中を持って賢く無い事も理想の第一条件です。
宗教を非課税とするも法律は大衆を支配する為で有り体制には届かぬ事も、それが理由です。
大量破壊兵器保有を理由にイラクに攻め込み多くの人々を殺傷し国をメチャクチャに破壊して大量破壊兵器は勘違
いでしたがイラクに民主主義を根付かせるのに結果オーライでした。
そんな馬鹿な話がまかり通るのが我々を支配する者達の大きな自己中です。
資本主義の主は資本家で有るのに関わらず民主主義を唱える矛盾に我々大衆が気づく智恵を得る時代に今、差し掛
かっています。
他人に負けないように競争心と言う自己中の種を植え付け自己中はいけない考えとする社会の矛盾を正す事が肝要
と思われます。
但し、自己中の場合は誰もが生まれつき備え持っている知能の発育が成されず、その大きな宝を潜在知能として心の
奥深く隠されて生涯、新品の儘、捨て去ってしまう事に成ります。
ガタガタガタ
何だよ?集団的自己中ってw
結構いい歳の親父なんだろ?
いい歳してそんな間抜けな事を言ってる奴が
日本にいると思うと恐くなるな。
別に自己中心的な考えでも構わんよ
俺に被害がなければ無問題
俺に被害があるようだと問題
問題がある場合は、被害防止に努めるだけ
47 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 21:27:16
集団的自己中ってテロの人とか○○学会や○○組みたいなんじゃん?
とにかく勝手な人たちの事でしょ?
自己中心的になるのは止む終えないものがあるかもしれないけど
言動は人道的でなきゃあねぇ・・かえって損するよ
48 :
46:2005/12/31(土) 21:32:38
>>47 別に集団を個とみての自己中心的な考えでも構わんよ
社会に被害がなければ無問題
社会に被害があるようだと問題
問題がある場合は、法律が被害防止に努めるだけ
49 :
考える名無しさん:2005/12/31(土) 22:14:21
人権何とか法案とか通ってるんじゃ
法律なんて防止策にならないんじゃないの?
自己中心的ってのの問題は自己の質だよね
社会のレベルでしょ
自己中心的な人間は自己を中心にしか考えていないため、
相手の出方が読めず、自分の足をすくわれるまで気がつかない。
結局自己中心的な考えしかできない人間とは思考能力が足りない人間の事である。
自己中心的な考えがいけないのは思考として不徹底なためだ。
あと自己中心的な考えと、利己的な考えの区別がつかない馬鹿も散見される。
利己的であっても自己中心的でない考えはありうるし、
その逆もある。
いずれにしても自己中心的にしか考えられないのは馬鹿である。
52 :
46:2005/12/31(土) 23:27:09
>>50-51 でも、いけないってことはないよな
害を与えない馬鹿はほっときゃいいんじゃないか
自己中心的とか馬鹿の基準は結局自分しか決められないし
>>52 いけないとは禁止、忌避すべきである、勧める事は出来ないという意味だ。
自己中心的という不徹底な思考方法は禁止されるべきであり、忌避すべきであり、
勧める事は出来ない。
これをいけないとは言えないと言う
>>52はやはり思考の少し足りないオバカさんか、
人に間違った思考方法を勧める利己的な(しかも少し足りない)人であろう。
>>52 自己中心的かどうか、馬鹿かどうかは相対的な問題として測定する事は出来る。
ある思考よりある思考の方が自己中心的な視点でしか思考しておらず、
見落としが多いと指摘する事は十分可能だ。
>>52はこんな簡単な事も分からないという点で相対的に馬鹿と言える。
55 :
46:2006/01/01(日) 02:09:30
>>52 別に勧めちゃいないよ
やっぱり、自己中心的とか馬鹿の基準は
誰が決めるんだって話にしかならんと思うよ
俺の中での自己中心的とか馬鹿の基準を満たすやつは
正直、うっとしい
俺もそういう奴は良くないとは思う
でも、結局、俺がそう思うだけだ
他人のことを考えん悲しいやつがいるんだな
それだけじゃないか?
>>55がたそがれた自分哲学を披露するのは勝手だが
やはり相対的に自己中心的な思考を指摘する事は可能だし
そうした自己中心的な思考はやはり発言者本人の益にもならず
自己中心的な思考はいけないとしか言う事は出来ない。
>>55は思考を徹底せず、中途半端な相対主義に陥っている。
オレが思うから自己中心的でありうっとうしい。それしか判断の基準は無いと
>>55は主張している。
だが、例えば二人で対話している時に相手の立場に立って思考しない場合
それは自己中心的な思考といえる。
では46氏がどれだけ自己中心的か比較検討してみよう。
この場合
>>46以来
>別に自己中心的な考えでも構わんよ
> 俺に被害がなければ無問題
という主張に固執するあまり、改めて何かを考えようとする視点を失っている。
それとも、もともと人の文章を読んで考えるという事が苦手なのかも知れない。
絶対的な基準は無いが比較は可能という事象は世の中にゴロゴロある。
それを認めず自分の評価しか基準がないと主張する事により46氏の
>>52>>55の主張は成立している。
そうした点で46氏はかなり自己中心的で愚かな思考に陥っている。
46氏のプライドを傷つけないよう正しい事を納得させる事も可能だろう。
それこそ利己的で自己中心的でない思考というものだ。
だが私はそんなに優しくもないし暇でもない。
相対的に私より馬鹿な46氏には馬鹿というだけだ。
ついでの事にもう一つ言うと
46氏のプライドを傷つけずに
46氏に正しい事を納得させられれば
それは私より頭がよく弁論術にたけていると言える。
それが出来る人より私は相対的に馬鹿という事になるだろう。
58 :
46:2006/01/01(日) 03:14:32
>>56 熱くなって余計なこといわなきゃいいのに
なら、自己中心的をどのように評価するか、
評価方法をまず示してみるがいいさ
少なくとも、俺には無理だ
悪魔の証明の一端を垣間見るのかもな
>>58 もう十分示したのにまだ何も読み取れないようだ。
やっぱアタマ悪いね君は。
60 :
46:2006/01/01(日) 03:28:01
おまいら自己中心以外に どんな生き方があるといってるんだ?
あるのか? 無いだろが、アホw
>>61 利己的と自己中心的が区別出来ないアホがまた一人。
63 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 04:50:58
>>62 では区別してみせよ
利己的が自己中心的でなくてなんなんだ?
何かが利己的
上司が中心
俺は上司の手足(泣)
>>65 嫌なら辞めればよい。
それでも上司の手足になることを選択しているのは君。
したがって、突き詰めれば君は自己中心的であるのさ。
その癖、ブツブツと不満をタレるのは醜いよ。
自己疎外の勧誘者めが
私は空虚であることを望みますとでも
>>63 うーん香ばしいアホだ。何でこんなアホに無料で講義してあげなければイケナイのか。
まあ元旦のお年玉がわりだ。
例えば将棋を例にとれば、自己中心的な戦略ばかり思考していては勝ちは望めない。
相手を中心に置いて相手の出方を推測する戦略、
自己中心的でない思考もしなければ勝てる可能性はとても少ない。
つまりこの場合は自分を中心に置いた思考と相手を中心に置いた思考、両方が必要という事だ。
しかしこの場合相手の出方を読み勝つというのは利己的な思考だ。
つまり利己的であっても自己中心的でない思考は存在する。
よって
>>63は否定される。
なんか書いててアホらしくなるくらい当たり前なんだが。
他にも利己的であって自己中心的な思考の例は無数に列挙する事が出来る。
これは
>>63への宿題としておこう。
>>68 よ、ずっと常駐しているようだが、名前欄に決めたお名前をいれてくれんか?
キーワードで君の発言が消せんのだよ
洗練されていない馬鹿は、目障りなんでな
まず、自分が一番利己的なことに気付くがいい
正直、ヘドが出る
>>69 反論が不可能ならいさぎよく負けを認めて消えるべき
いや、君に反論などしたことないよ
無駄だし
君の発言が消したいだけなんだよ
勝ち負けをいってる時点で議論じゃないしな
>>71 うーん。読みたくなければ来るのやめれば?
そんな自己中心的な頼みは誰もきかないだろう。普通。
利己的と自己中心的の違いを指摘しただけでこの騒ぎか。
全く哲学板はどうなってしまったんだ。
74 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 16:39:47
>>73 遊んでやってるだけよ、騒ぐなオタンコナスw
なんかさ、社会学板よりもバカなんじゃないの、ここ。
76 :
な:2006/01/01(日) 17:34:29
別にいけなくないと思うよ
>>68 自己中心的な思考かどうかは、物事についての先入見や価値観について、
他者とどれほど共通しているかにかかってくるのではないの?
将棋の場合、次にどんな手を打つべきかを相手が自分に相談してくるわけじゃないから、
もっぱら自分の過去の似たような局面についての経験をたよりに、相手の次の手を推測することになるでしょ。
だからどんなに相手の身になって考えたところで、相手と自分がそれぞれの異なった経験から、異なった手を選び取ることもある。
つまり、将棋の場合は相手が少しも自分の考えを明かそうとしない点で、自己中心的な思考になるともいえるよね。
78 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 19:36:16
>>68 将棋の例えを持ち出して、お説を披露してるけどそれって、利己的っていうのかね?
なんか違うような気がする。この場合、勝利=利己になってるんだけど、
何か違和感があるよね。
しばらく、考えますは。あなたのお説に決定的なダメージ与えられるまで、
因みに私このスレ初登場。
79 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 19:44:57
「長期的な自分の利益を考えて行動せよ」っていうのが、
イソップの「アリとキリギリス」の話の時代から現代まで、
ずっと変わっていない社会道徳の中心原理だと思うんだがなあ。
道徳じゃなくて、ここは哲学板なんだよね
81 :
まずる:2006/01/01(日) 19:50:54
独りで生きるなら、自己中心的な生き方は悪くないと思う。
82 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 19:57:42
道徳って、ソクラテス以来哲学の中心問題の一つなんですが。
道徳を哲学としての問題にするならいいよ
道徳そのものを語ってどうするんだ
84 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 20:02:36
>>68 馬鹿かw
自己中心は単に視点を意味しない。
「自己の【利】を中心とした態度」を省略した言い方。
英語だと selfish、egoisum となる。
正月早々手間かけんなw
85 :
訂正 ^^; :2006/01/01(日) 20:03:43
egoism
>>82 ついでにいうと
宗教を哲学としての問題にする
ってのと、宗教を語るのが同じなのか?ってこと
87 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 20:09:41
>>83 「道徳を哲学としての問題にする」ってのは「道徳そのものを語る」のとどう違うんだね?
>>86 読んでも分からんか
それが分からんようだったら、哲学に向いてないよ
89 :
な:2006/01/01(日) 20:14:42
自己中のなにが悪いんだ
91 :
46:2006/01/01(日) 20:30:15
>>89 君の場合、なぜそういえるのかね?
今、暇なんだ
92 :
な:2006/01/01(日) 21:18:05
自己中と利己主義は違う
93 :
な:2006/01/01(日) 21:20:13
自己中でも気持ちの優しい人は沢山いる
94 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 21:27:32
>>68 将棋の場合、初めから「利己」(自分が勝つ)、「他己」(相手が勝つ)が
予定されてるALL Or NOTHING の世界でしょ。「利己的」という言葉を
そのような場合に使用することに抵抗感があります。「利己的」という
言葉は倫理的な価値観を多分に含んでいて、そこに人間の「意志」が介在
してきます。つまり、「利己」にも「他己」なりえる可能性あった場合に
「利己」を選択すると「利己的」ということになります。
一方、あなたの仰る将棋の場合、「他己」は選択できません。なぜなら
そんなことをすると、将棋というゲームが成り立たないからです。
95 :
46:2006/01/01(日) 21:33:05
>>92 君にとっての、自己中とは、どのようなことを指すのかの説明を聞いてみたい
よかったら、書いてみてくれないか
今、暇でなくなったから、また見にくるよ
96 :
にゃんコ:2006/01/01(日) 22:02:39
.Λ Λ
(=・o・=) 自己中、つまり常に自分を第一に置く。
たとえ人助けをしたとしてもソレは自己が欲するからであり、慈悲を行うコトではない。
自分が自分にとって心地良い状態で有る事ダケを目的とするなら、ソレを行われた周囲はその分迷惑な煽りを受ける。
フザケンナってカンジ凸
ニャ!
97 :
な:2006/01/01(日) 22:09:48
人は主観でしか物を見れない
つまり誰もが自己中ともいえる
98 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 22:12:27
>>96 迷惑は「自己中であれ慈悲であれ」困る・・ってことだろw
>>96 > たとえ人助けをしたとしてもソレは自己が欲するからであり、慈悲を行うコトではない。
> 自分が自分にとって心地良い状態で有る事ダケを目的とするなら、ソレを行われた周囲はその分迷惑な煽りを受ける。
偽善によって、快感を得ることが自己中なのか?
経過はどうあれ、
「たとえ人助けをしたとしてもソレは自己が欲するから」
って充分立派なやつだと思うんだけどな
100 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 22:26:53
94の文章を作成したものです。他己中という言葉が、私の脳裏に焼きついて
しまったため、支離滅裂な文章になってしまいました。利己という言葉を
使用しなければならない場合が多々見受けられるので、また改めて書き込みます。
お呼びでない?
好きにすればいいと思う
俺個人としては、改訂版を読んでみたい
102 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 22:36:43
ほんまアホや、わて。訂正↑利他という言葉を
103 :
にゃんコ:2006/01/01(日) 22:38:23
99
.Λ Λ
(=・o・=) 立派とは違うと思うケド!?
まあ、いろんなケースが有るだろ〜ケド、自己の私欲を果たす為の手段としての人助けの地平は何処まで行っても慈悲ではないよ。
自己中である限り助ける助けないは自分の手の中にあって、ソレをやられる相手は振り回されるワケだよね!?
無責任な助けはやっぱし立派だとは言えないよ。
それに自己中とは自分を主にして他を従にするワケだから、ソレはやはり利己ってコトだよね。
利他である慈悲とは次元が違うから頭は下がらないな。
ニャ!
104 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 22:50:32
>>103 川でおぼれて死にそうになったら
「慈悲以外の救助お断りです!」って叫びながら流れろw!
>>103 そうか
なんか、主義、思想みたいな話になるから避けたいけど
尊敬はできないけど、立派だという矛盾は、
どの立場に立って観るかって話にしかならない、
と俺は思うんだよね
慈悲って言葉にこだわってるようだけど
自己中は相対的に慈悲がないやつが多いとは感じても、
慈悲があるないは自己中であることと関係ないとは思わないか?
106 :
にゃんコ:2006/01/01(日) 23:13:09
>>105 .Λ Λ
(=・o・=) 慈悲とは元々仏教用語だからね。
十界論からの視点では他を排除した自己中は二乗、利他の慈悲(抜苦与楽の義)を行うの菩薩と全く別のモノとして分けられてるよ。
だから行いの目に見えたカタチは同じよ〜であっても、その核心たる動機によっては歴然とした差異があるってコトだょ。
ニャ!
107 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 23:22:12
108 :
にゃんコ:2006/01/01(日) 23:31:50
.Λ Λ
(=・o・=) 2ちゃんにも
>>107みたいなアポが居るんだね。
せっかくマトモな話が出来ると思ったのにガッカリしたよ。
仏教哲学の話すりゃ皆、創価だと思うなんて無知蒙昧もいいトコだし。
悪いケド、にゃんコはその辺の創価のヤツ等より全然詳しいよ。
お呼びじゃないから出て来んな凸
ニャ!
109 :
わんコ:2006/01/01(日) 23:35:52
ニャニャーうるせーなー!
今年の干支は犬だワン
110 :
にゃんコ:2006/01/01(日) 23:42:46
.Λ Λ
(=・o・=) 邪魔だ、出て来んな。
犬はお猫様に虐げられてりゃい〜んだよ凸
ニャ!
111 :
考える名無しさん:2006/01/01(日) 23:51:23
死ねクソ猫
>>108 仏教が普遍宗教であることは認めるけど、
結局、仏教哲学って、仏教の説明原理なんだよね
勿論、それが悪いものと俺は思わない
よく勘違いする人がいると思うんだけど
科学的に正しい
宗教的に正しい
について考えてみて欲しい
正しいといっても、所詮、「科学的に」「宗教的に」正しいということを
認識しているか否かが問題だと思う
本当の科学者はこれをよく知っていると常々思う
ここで、
>>106 のような話をすることに意味があるのかどうか、
自分でよく考えてみて欲しい
113 :
にゃんコ:2006/01/02(月) 00:52:28
>>112 .Λ Λ
(=・o・=) 言葉の語源を知り使うか、端また曖昧な概念ダケで使うかではソノ意とするところは著しく違うよ。
さっきのはソノ為に引用したんだケドいけなかったの?
それに仏教哲学は単なる宗教教義の説明じゃないよ。
思想教育の機会を与えられない日本の教育制度を押し付けられた結果の招く不幸故、このよ〜な無知が生じるんだよ。
仏教哲学とは『我』のシステムを整合性を持って論じたモノだよ。
信仰の対象物に礼拝する宗教として形骸化したモノとはまた別次元で、きちんとした研究対象となるモンだよ。
カントを引用して語るのは良いが魔訶止観を引用してはイケナイとするなら、ソレこそ愚の骨頂だと思うよ。
脱線してスマソ。
ニャ!
114 :
考える名無しさん:2006/01/02(月) 00:53:06
>>108 創価の否定できないんでつね?
わかりますた。
せんせの回復を祈願申し上げまつw
115 :
考える名無しさん:2006/01/02(月) 01:13:29
>>114 創価学会員には、言論の自由はない!
ウセロ、キモイ
116 :
。o○(p_o)ノシ 哲学 (´_`)つ ◆RsvHnujRZU :2006/01/02(月) 01:49:42
正しくは、
「何故自己中心的な考えはいけない」といわれるのか?
だな
勝手に自分の都合のいいように
お題を変えようとする馬鹿も現れるし
も お、 お わ り だ な
118 :
。o○(p_o)ノシ 哲学 (´_`)つ ◆RsvHnujRZU :2006/01/02(月) 11:22:06
いぁ、
ふつうに
>>116だろ
命題そのものの妥当性を、
むりやり説明する姿勢で考えようとするから、
ムリがでる。
この命題が発生した原因を探るためには、
「なぜ自己中心的な考えはいけない」といわれるようになったかを、
人類学的に考察しないといけない
経験上、自己中な奴は駄目だという奴ほど自己中ですな。
他人にも俺/私のことをもっと考えろこらと怒るぐらいですから。
>>117 > 勝手に自分の都合のいいように
だから、彼は自己中なんですよ
121 :
。o○(p_o)ノシ 哲学 (´_`)つ ◆RsvHnujRZU :2006/01/02(月) 11:59:41
>>63 「利己的」と「自己中心的」の違い
屋風の辞書から
【自己中心性】大辞泉
ピアジェの用語。乳幼児の思考様式の特徴で、事象を自分の立場
あるいは一つの視点からしか分析・認識できないこと。
【自己中心性】大辞林
1.物事を自分中心にしてとらえ、他人を考慮しないこと。
「エゴイズム」とは異なる。
2.ピアジェの用語。乳幼児期に特徴的な思考様式で、自我と他我、
主観的事実と客観的事実が区別できず同一視してしまうこと。
【利己主義(エゴイズム)】
1.自分の利益を中心に考えて、他人の利益は考えない思考や行動の様式。
2.哲学で、自我だけが確実に存在し、他は一切認識不能であるとする説。
唯我論。独我論。
「自己中心的」とは自分の利益・不利益に関係なく、客観的に物事を
みれない、ということなんだろうね。
「利己的」とは、客観的に見れて相手の不利益が解っていながら
自分のほうに利益になるように誘導する、ということなのかな。
もちろん、本人が客観的に見れない場合も含まれるんじゃないのか
(これは「他者評価」として「あの人は利己的にみえることもある」から)。
「自己中」は長い目で見た場合、「結果として」周りに良くない影響を
与えることが多いため「利己的」という言葉の代わりとして用いられるように
なったのかもしれないな。広義的にことばを使うようになっただけなのかもしれん。
123 :
122:2006/01/02(月) 12:41:07
漁をしている人がいる湖に釣り好きなやつが来て、
外来魚(たとえばブラックバスなど)を大量に放流した。
本人が、「同じ釣りマニアが喜ぶようにと思って放ってやったのだ。」
と言ったとする(実際、他の釣りマニアが喜んでいた)。
これは一部のマニアのためのことを考えてやったことなので
「自己中」とは違うと思われるかもしれん。
しかし、目の前に漁師がいて、この漁師の漁に良くない影響を与えてしまったとする。
狭くみれば、釣りマニアという「他者」のことを考えているのでこの場合のみ
であったら「自己中」は問題にならないだろう。漁師と本人の関係を
含めると「自己中」が問題になるのではないだろうか。
この釣り氏は漁師を見て「認識できなかった」のだから。
124 :
考える名無しさん:2006/01/02(月) 13:22:21
>>122 大変、勉強になりました。どっかの品のない人が大喜びしそうな展開だけど
その説明の仕方には大いに疑問符が感じられました。
心情的には63の人、応援していたので残念。
125 :
本位 :2006/01/02(月) 13:45:43
>>122 正月ボケかw
【ピアジェの用語=児童心性の特徴は自己中心性(ego centricity)】
を語ろうスレじゃないから、ピアジェ限定は省こう
それに「自己中心」という語は大辞林・大辞泉を引いても出てない
のをみてわかるとおり、日常語なのよ、自分中心(自己中)ってこと
で、自分中心という日常語の用法は利己=エゴとイコール
単に「自己の視点、他者の視点」という「視点の違い」を意味しない
自己の利益・都合がらみだってこと
言葉は文脈の中で初めて意味が特定されてゆくもの
「日常生活という文脈」を見うしなって、辞書に囚われ過ぎた語の
解釈はこの場に適さない
その証拠に、
>>123は まさに「単なる視点の違い」でなく「利益」
そのものにスポットをあててるだろw
辞書ひく前に自分の頭で文脈と突き合わせて考えるようにしろw
>>125 大辞泉、大辞林は「屋風の」ということでパソコン辞書。
大辞林の「1」の解説、「物事を自分中心にしてとらえ、他人を考慮しないこと」を
選択すると、必ずしもピアジェの用語というわけではなくなる。
127 :
本位 :2006/01/02(月) 14:39:31
>>126 このトンチキw
おまえ、何を否定し何を肯定しようとしてんだ?
それ書かないとそのレス意味なさないだろw
このスレで語るべきは「なんだと言ってるんだ?」
もっと明瞭にしゃべれw
他者中心的という自己中心的な考え
129 :
本位 :2006/01/02(月) 18:16:27
他者のことを理解できないのに
どうやって他者中心の行動がとれるよw
それとも他者に代わって「他者のことを考えられる」
と言ってるのか?そうならそうとハッキリ言え
我々が理解できるのは「唯一」自己のみ
この「確かな視点」を離れ、「わかりもせぬ他者の視点」
に立つことなど できない相談、行動の根拠を失うということだ
130 :
考える名無しさん:2006/01/02(月) 19:44:24
131 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 07:13:20
>>何故自己中心的な考えはいけないのか ?
>>1 お前が「自己中心的」を定義しているのはどーせ、我がまま とか 自分勝手とか
そんな事だろう?
表面的だよ。しかも。利己的とか偽善とかも程度の問題!
別にいいんだって。主観的な利益の追求しても…
それがお前の言う「自己中心的」としても
はっきり言って、どれだけ自分本位の考え方や行動をしたとしても
それによって与える影響の第三者の認識で評価なんて変わるものなんだから…
行為の捉えられ方による部分が大きいんだよ。
132 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 08:21:30
sineyoたこどもがおんどりゃ
めざわりなんだよとろいんだ;ぅいあsづyんtcwれmつにぃpvrtmycs;いlんrふw、−0bfgdlk
133 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 08:22:04
くそてんくったのかよこのたこどもが
134 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 08:23:11
おんどりゃこそどもが
ていのうがのさばってんじゃめえよこのくそたこども
くそとれぇんだよたこすけ
>>129 それでも、あらゆる経験や本能をフル動員して、
善意をもって相手の意思を解釈するからこそ、我々の社会は崩壊せずにいる。
動物は生存のために他者の行動を予測できなければならないが、
それは多くの場合、危険を察知したとき敵に対して本能的になされたりする。
人間の場合は一人では生きられず、社会を組織せねばならないから、
敵のみならず社会を構成する他者に対しても、生命の危険が無い日常から
その意思を解釈し、行動を予測していなければならない。
つまり、人間は環境への適応のために社会を構成し、
個人はその社会に適応するためにコミュニケーション能力を向上させてきたわけだ。
だから、厳密には他者のことを理解できないとはいえ、まあこんなところだろうといった具合に
互いに解釈しあって仲良く社会を維持していくためには、世界に対する認識の仕方から、
あらゆる物事に関する価値観まで、他の社会構成員と極力多く共有できているほうがよい。
ここで言う「自己中心的な考え」を「自分の立場・視点からの考え」としようが、
「自分の利益を中心にした考え」としようが、いずれにせよ人間である以上、
社会全体の秩序安定のためには、そして自分の社会的評価にとって
「自己中心的な考え」はよろしくないのだ。
136 :
本位 :2006/01/03(火) 15:22:00
>>135 おまえなら、北朝鮮でも平気で生きてゆけるw
↓
社会全体の秩序&自分の社会的評価>国民ひとり一人、自己評価
ぴったしだなw 俺はむりなんで、おまえ一人で行って来いw
解釈を自己中心的なものに陥らせる要素を文中から減らし、極力普遍的な解釈を得んために
最後の一文を訂正。
ここで言う「自己中心的な考え」を「自分の立場・視点からの考え」とする場合も、また
「自分の利益を中心にした考え」とし、その利益が社会全体の利益と一致せず、
相互依存関係を著しく破壊するような場合もやはり、人間である以上、
社会全体の秩序安定のためには、そして自分の社会的評価にとって
「自己中心的な考え」はよろしくないのだ。
138 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 17:49:48
自己中と利己中はどう違うの?
139 :
まずる:2006/01/03(火) 17:53:31
利己中なんて言葉あったか?
140 :
考える名無しさん:2006/01/03(火) 17:53:34
>>137 >社会全体の秩序安定のためには、そして自分の社会的評価にとって
「自己中心的な考え」はよろしくないのだ。
結局、社会的評価は後から結果としてついてくる事柄だ。
しかし自己中心的な考えというのは、最初の行動原則、
つまりこの時点では自己の判断でしかない。
>社会全体の秩序安定のためには
確かに社会の為に、秩序安定の為に…というのは社会的通念として持ち合わせ無ければいけないが
しかし、誰が社会的正義を念頭に置き行動する奴がいてる?
そんな偽善者はいないし、仮にいるとしたら偽証だよ。
結果的に社会正義
結果的に社会秩序
正義という後押しだよ
>>140 人は成長し成人になれば言語などの社会化のための道具を普通に使いこなし、
社会と接触する中で普遍的価値観やら社会規範など多くのことを学んでいるから、
或る人にとって「自己中心的な考え」と思われるものは、その人が知る社会的文脈の中で
自己中心的な考えとされるものと殆どの場合同じである、としておいていいのではないか。
とするとまた、その考えがどの程度自己中心的なのか、どの程度反社会的とされるのか、
その結果どの程度自分の社会的評価が悪くなるのかも、凡そは前もって判断・予測可能となる。
そして或る「自己中心的な考え」は、その程度・その状況などによって個々に、
それがどの程度よろしくないのかについて社会からプラグマティックに判断され、
結果としてついてくる社会的評価は自分の判断・予測と違ってくるということもあるだろう。
しかし、社会的動物である人間は社会的影響を受けやすく、
個人の意思決定も社会の意思に大きく左右されるので、
自分の社会的評価の悪化が重大で、長期的不利が想像できるならば、
最初の行動原則から自己中心的な考えを排除した判断をする。
また、社会全体の秩序安定にとって、「自己中心的な考え」はよろしくないというのは、
必ずしも社会的正義を念頭に置いて行動すべきだといっているのではない。
確かに、正義は一般性をもつルールの公平な適用という普遍主義的要請を含む面もあり、
そのため、「自己中心的な考え」から来る極端なご都合主義や利己主義は正義の原理から排除される。
しかし、正義は具体的・個別的に正・不正をわける価値基準でもあり、その正義をめぐって議論が起こり、
お互いの正義の下に紛争が起こり社会全体の秩序が損なわれることもあるし、
正義の実現が目的の社会規範は、社会が規範そのものを作り変えたりする。
つまり、社会全体の安定はいま存在する正義観念によってのみもたらされるわけではなく、
より合理的な考え方が、新たな正義観念として選び取られることもあるのだ。
しかし、あくまでも正義は極端なご都合主義や利己主義を排除するもので、
したがって自己中心的な考えが結果的に社会正義になるなどということや、
社会全体の安定に寄与するなどということは基本的にあり得ない。
そして社会はその安定のために、自己中心的な考えは社会規範などに伴う制裁、
または社会的評価によって排除しようとし、社会規範その他の制裁によって排除されなくとも、
社会の不安定はその構成員の人生や生活といったものも不安定にするので、
そうなれば自然に社会の安定のために自己中心的な考えは淘汰されることになるだろう。
143 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 14:29:11
>>141-142 馬鹿かよ、おまいw
「このまんま世界が安定されてたまるか!」
・・世界の3分の2以上がそう考えているのに
社会の安定を祈願してど〜するw
144 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 14:36:23
145 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 17:10:27
>>144 「私にとって」社会とは私のこと
それ以外に社会があるの?
あったら言うてみw
社会が安定してもよく安定することが無ければ意味がない。
さらによく安定した社会でも安定していない状態がそれよりよい状態であれば意味がない。
その上に最善の社会でも個人の価値に反していれば個人にとっての利益は何もない。
147 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 17:13:15
先ず、固有なことを他のことであると言えるのか、という疑問がある。
149 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 17:22:46
>>141-142 どういう意味だ?
もう少し噛み砕いて説明してくれ。他の奴も理解してないぞ!
単にお前の理想を述べているのか?
150 :
考える名無しさん:2006/01/04(水) 17:36:27
体を小さくしたらいいんじゃないの。
「自己中心的な考え」を「自分の立場・視点からの考え」とした場合、社会を構成する他者に対しその意思を解釈し、行動を予測しようとしないなら反社会的だといえるし、
「自己中心的な考え」を「自分の利益を中心にした考え」とした場合、その利益が社会全体の利益と一致せず、相互依存関係を著しく破壊するような場合も反社会的だ。
でも社会的評価を予測し考えを選択するなら、それも「自分の利益を中心にした自己中心的な考え」ということになる。
153 :
考える名無しさん:2006/01/11(水) 10:50:17
「自己中心的な考え」って人それぞれ定義が違うからなんとも言えないけど
一般的にいけないとされてるのは、「他人を思いやれないひと」の事だと思う。
「どこがいけないの?」って言う人もいるけど
別にいけないわけじゃなくて、そういう考えを嫌う人が多いんだと思う。
誰が中心にすると満足なのかね
155 :
考える名無しさん:2006/01/11(水) 12:20:22
自己すら中心にできない者が
どうやってよくわかりもしない他人を中心にできる?
自分を幸せにできなくて
いったいどうやって他人を幸せにできる?
中心は割合かね
157 :
考える名無しさん:2006/01/11(水) 12:30:15
自己のためにが100%
それを否定する者は嘘つき
>>155>>157 こういう酔っぱらったような浪花節人生論は哲学ではないのでよその板でやって下さい。
なんか自己中を強引に正当化しようとしてる自己中が多いな。
嫌われてる事実と向き合え
160 :
考える名無しさん:2006/01/11(水) 14:59:47
自己中だがなぜか愛される…。
理由はわかってる、自己中だからだとおもう。
自分さえ良ければいい
公務員さえ良ければいい
国家さえ良ければいい
>>155 自分を愛せなければ他人を愛せないともいうね。
でも他人を愛するのは自己中心的ってことではないだろう?
つまり、この場合自分を愛するのは自己中心的な意味ではなく、
他者と価値観を共有し、理解し合えるようにするため。
同じように、自己を投影してよくわかりもしない他人を中心に考えたり、
自分が幸せだから他人を幸せにできるというのも、
他者と価値観を共有し、理解し合えるからこそだ。
いづれの場合でも自己中心性は相手との信頼関係や
相互依存関係を壊すようなものではないね。
いずれもその自己中心性は相手との信頼関係や
相互依存関係を壊すようなものではないね。
164 :
本位 :2006/01/12(木) 23:44:52
>>162→他人を愛するのは自己中心的ってことではないだろう?
愛ほど利己的(自己本位)なものはない。
どの「愛する」にも必ず「私の」という前置詞がつくのでわかる。
それのない愛などお目にかかったことがない。
「愛する人のため」に生きるという人がいるが事実を見誤ってる。
実際は「その人を愛する自分」のために生きる・・だ。
愛の主体はあっくまで私であって、相手じゃない。
証拠に「私の」愛が冷めると もうそういう生き方はできない。
ついでだが、愛ほど自己本位のあり方を考えさせられるものはない。
人は最も失いたくないものを通して自己本位の在り方を学ぶわけだ。
きょう、「せかちゅ〜」の再放送を見た。
朔太郎が亜紀に求婚するシーンで言う…「ぼくを幸せにして!」
愛の本質が何かをひと言で言っていた。
>>164なんにでも、なんとでも言えるがな。
まあ究極的にはそうじゃないの?自己保全でしょ
あがぺ
せきちゅ〜
ぴかちゅ〜
169 :
考える名無しさん:2006/01/13(金) 09:35:49
ぴかぁ〜
170 :
考える名無しさん:2006/01/13(金) 14:09:29
糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞糞
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171 :
考える名無しさん:2006/01/13(金) 14:13:18
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172 :
考える名無しさん:2006/01/13(金) 14:20:04
>>164 それ見ていないけど一言。
相手はプラスの気持ち(つまり愛しているという気持ち)を感じていると
解っているからそう言う。
愛するのは善いことだという前提があるし、どちらも思っている。
愛したい人が現れるのは善いことだとされていて、それをお互いに体験している
最中なんだ。
お互いに愛する人には幸せになって欲しい。それが分かり切っているから、
そう言った。
なんかどうして議論がそういう「生き方」方面に行っちゃうのかなあ。
自己中心的な「考え」についての話なんだが。
考えを行動にしたら生き方
175 :
紀元 ◆KIGENeiQig :2006/02/07(火) 20:54:42
176 :
MORALITY ◆oMyMORALjQ :2006/02/07(火) 21:06:04
自己中でなければ大役は務まらないといいつつも散らかっても平気な神経が疑わしい
執念深さは逆効果と思うけど何かを実現する為には散らかりも必要といった争奪合戦
それらはそれらで問題があって目標がある程度実現すると後はどうでもよくなるはず
終いには隣の柿が甘く思えたり隣の畑は青く見えたり羨ましく思えてくるから不思議
程度が悪い狭苦しい環境が改善されることは先ず実現しない事であり自己中すなわち
窮屈以外の何事でもなくペットが成長すると大きいカゴにしてやらなければならない
177 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 11:16:29
/) /)
/ ⌒ ヽ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ●_ ● | < 別に当たり前の事実だと思うピカ
(〇 〜 〇 | \ 自己中心というか、「考え」は自分の精神からしか生み出せないはず→自己中最高ピカ
/) //) | _
/ ⌒ ヽ |_/ | | /
| ●_ ● ▼▼\>>
(〇 〜 〇 |>
ヽ ___ |
|_/ ̄|_/ |_/ |_/
178 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 13:54:04
すべての人間は自己中心的に生きている。
よって「何故自己中心的な考えはいけないのか」などと考えなくても良い。
むしろ「「何故自己中心的な考えはいけないのか」などと考えるのか」を問いたいくらいだ。
179 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 14:31:26
>178
自己中心にも程度の差があるのだよ・・
「自己中心的な考え」というのは「(すごく)自己中心的な考え」という意味だろ?
180 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 14:41:27
(すごく)自己中心的でもいいんじゃないかなぁ
181 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 14:42:40
まぁ、人に迷惑がかからなければね。
大抵かかると思うが・・・
182 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 14:44:13
倫理学は根無し草だから議論不可能。
183 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 14:46:53
>>181 そう、だから「なぜ人に迷惑をかけてはいけないか」を問うべきだよね。
それは「なぜ自己中心的な考えはいけないのか」という問いとは別であり、
人間が自己中心的であることには疑問(否定)の余地はないと思うのですが・・・。
184 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 14:50:45
人に迷惑がかかる他にも問題があるかもしれないからね。
問いを変えれば、話を単純化しすぎることになる。
185 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 14:59:48
>>184 たしかに問いの言い換えは極端な単純化や問題の個別化を招きそうですね。
しかし、そもそも「なぜ自己中心的な考えはいけないのか」という問いに意義を見出せません。
仮に他人に迷惑をかけたとしても、迷惑をかける側、かけられる側の双方の
納得の行く状態で物事は落ち着いているはずです。だから自己中心的でよいと思います。
中心じゃないから。
187 :
考える名無しさん:2006/02/08(水) 17:26:38
キチガイのくせに
えらぶるのはハタ迷惑だから
懺悔ご苦労無職君
189 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 17:40:17
人間は、集団としての個になろうとしてるからそこに自己中心的な考えは邪魔だからじゃないかな?
190 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 17:43:46
集団としての個になりたいと思いません。
したがって、私は自己中心的でよい。
191 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 17:47:26
自己が中心というのは、いけないとかいけなくないとかいう問題ではなくて、
単なる事実だと思うが。
自己中心がいけないのだろうか。
何故なら、私の内部と、非私で出来ているからである。
従って、二分割された私になるのである。
二分割された私はどうしていけないのか。
自己中心は問題ではない、そうではなくて、私と非私の一方が排除される全体観が問題なのである。
それ故に、自己中心は自己の没落か、私以外の抑制か、二者択一をするのである。
従って、個人としては孤独なのである。
自己中心は問題ではない。問題があるとすると、薄っぺらいものどもが全く望まないものの
支配を受けてしまうことに抵抗が無いことくらい馬鹿げたことなのだ。
別に自己中でいいと思う
ただ周りの人がついていけなくて去っていくんじゃないかな
人って1人じゃ生きてけないし(食べるためには働かなきゃならないし)、生きていく中でどうしても人との関わりは必要だよね
だから自己中って自分にとって損になるものじゃないかな
自己中はいけないとは言い切れない
でもそのせいでかなり損するとは思うな
損得で話すのは変かもしれないけど…
じゃあ、他人中心にしてみたらどうでしょう。
>>194 なかなか難しいけど、他人の気持ち想像できる力は大事だよね
196 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 18:13:27
>ただ周りの人がついていけなくて去っていくんじゃないかな
周りの人も自己の中に含まれている。
それが私の自己中心主義。
こういうふうに問うといいんじゃないの。
自分中心のあなたが誰かの足を引っ張ると少しだけ浮き上がります。
誰の足を引っ張るべきなのか。
ちゃんとひっぱってないのでよくないのだ。
198 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 18:15:27
自己とはなにか?
>>196 確かに
だが生きていく術として協調性というものも重要ではないだろうか
200 :
考える名無しさん:2006/02/17(金) 19:20:55
200get
201 :
考える名無しさん:2006/03/21(火) 22:17:28
この問題について語るとき、まず重要なのは善悪の基準。
それがはっきりしない限り、「何故自己中心的な考えは『いけない』のか」
については語ることはできない
202 :
考える名無しさん:2006/03/21(火) 22:28:35
不遜になり感謝の気持ちを失いがちだから。
感謝の気持ちと自己中心的な考えは共存しないのではないだろうか。
203 :
考える名無しさん:2006/03/22(水) 15:09:47
全体の秩序を乱すため人類全体として害になるから。
個人を尊重すればするほど社会全体としての秩序や安定性がなくなるわけさ。
で、今地球上に何人人間がいるとおもってるんだよ
>>1はしね
204 :
age:2006/03/25(土) 01:39:24
205 :
考える名無しさん:2006/05/23(火) 23:13:49
>>203 だとすれば『個性を尊重しよう』って考えは矛盾しまくりだよね。
そこはどう考えてるの?
206 :
考える名無しさん:2006/05/24(水) 00:01:52
自分が中心になりたい誰かにとって、他の人が自己中心的に振舞う事が
我慢ならないから
207 :
考える名無しさん:2006/05/25(木) 03:32:30
208 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 09:18:08
いけなくない。そもそもいいとか悪いとかいうのは人間が勝手にそういってるだけで、人によって何がいいか考え方が違う。
だから万人が認める悪はこの世に存在しない。
209 :
考える名無しさん:2006/05/26(金) 16:21:44
物理現象以外の真理なんてものがこの世に存在する…と考えるのがそもそも哲学者の思い上がり。
たまたまホモサピエンスなる生物が発生して「群れて暮らすのに都合が好い」様に道徳感が生まれただけ。
群れが違えば道徳感も異なるでしょうに…
生存競争が根底にある生物「人間」は基本的に《自己中》だよ。
だから基本的には《自己中》は好いにきまっている。
だが《自己中は好い》と言う事と《群れの中で自己中してもいい》…ということはちがう。
地球上のホモサピエンスは今や情報で一つの群れになっている。
群れがこの問いを発しているわけ。
《自己中》は好いかどうかの問いの答えが「物理現象」でないならば
それは道徳感の問題であり、群れて暮らすのに具合の悪い《自己中》的な考えは
否定される。
>>209 たしかに、そういう科学的演繹が一番すっきりするね
>>129 もし君が言葉通りのことを信じているのなら、
壁に向かって物を言ってるのと一緒だな。
狂人の独白だ。そうじゃないだろ?
わざわざ不特定多数の他者が集まっている
掲示板で書き込みをしているのは、自分の
考えが他者に理解・共感されるだろうという
わずかな期待があるからだ。
その前提には、自己と他者の間には無数の
差異がありつつも、その差異について語りうる
という共通の基盤があるはず。
その基盤のおかげで、他者を理解するという
恐ろしく困難な行為にも可能性が与えられて
いるんじゃないか?
212 :
退屈男:2006/05/26(金) 19:32:07
>>他者を理解するという 恐ろしく困難な行為
何だか身につまされる
20年一緒しているかみさんの気持ちが
どうにも理解できぬときがあるもんね。。。
213 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 10:59:55
自己中心的な考えがいけないってこともないだろう?
いったい誰が自己中心的考えはいけないなんて言ってんだぁ?
それにこのスレタイ→『何故自己中心的な考えはいけないのか』 なんてまるで
自己中心的な考えはいけないということを前提としているようなスレタイじゃん。
ダイヤモンドに中心なんてあるのかね
215 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 13:07:25
>他者に理解・共感されるだろうという
わずかな期待があるからだ
それは単なる妄想。他者が実在しているという考えは思い込みにすぎないという考え方もあるからな。
自分が共感を求めて書き込んでいるかといって他の人もそうだとは断定できない。
単にストレス解消のために一方的に意見表明するやつや覚書きとしてメモ帳代わりに使ってるやつも多い。
>>209 道徳感→道徳観
好い→善い・良い
言葉の選び方からして、自分の願望で語りすぎだ。
科学的演繹?でもなんでもない。
>>213 確かにそれが問題だ。
「いけない」という禁止の主体は誰か?
神か?社会か?自分か?
>>215 つまり君の書き込みは単なるチラシの裏ということか。
頼むから、今度からコテで書き込んでくれないか?
チラシの裏にレスするリスクを避けたいんでねw
217 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 14:47:53
周りに迷惑かけるし。
民主主義だからいけないって思われるのはしょうがないじゃん。
218 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 18:51:41
>>217 民主主義は別に自己中心的であることが悪いなんて言わないよ。
君が思ってるのは「和をもって貴しとなす」の伝統がある日本的民主主義のことだ
219 :
考える名無しさん:2006/05/27(土) 19:22:29
皆、内心は自己中。
ただ表面にだすと生活しにくいから、常人はあるていど丸くなってるだけ。
自己中のほうがかえって生活しにくい不思議
220 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 00:10:57
>>218 このスレでは皆は厳密に哲学的思考をしているわけではないと思うよ。
>>1 の問いにふさわしい反応をしているだけでしょうに…?
君は世界中の民主主義とやらを知っているのかい…?
221 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 00:25:23
>>220 俺は日本的民主主義と、「民主主義」という言葉の意味を知ってるだけだよ。
別に厳密な哲学とかいうレベルの話じゃなくて。
222 :
「いけない」と誰かに言って欲しいだけだよ:2006/05/28(日) 00:31:07
今の世の中誰も言ってくれないからね。言わせたいんだろうけど
父ちゃんは浮気相手のとこに入り浸って帰ってこないし、母ちゃんは
浮気相手を引きずり込んで昼下がりの情事だし、だれか「いけない」って
言ってくれるやついないの?・・ということで思い切り悪そうなこと
言ってみるスレ
223 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 05:11:46
この世に自己中心的でない人間はいない。日夜他人のために尽くしている人間も自分がそうしたいからやってるわけで、自己中心的であることに変わりはない。
224 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 09:30:00
225 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 09:38:07
普通に生きて自己中。
できるだけ自己中でないと思わせることは賢い人。
226 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 12:00:40
「それを言えば終わり」など根本的前提を無視した意見は哲学板にて無用。
自己中心的な性格とは第三者的視野から生まれる物であり、語句創造者は意味として反人道的というニュアンスを含めている筈。
日夜他人のために尽くしている人間も自分がそうしたいからやってる。
だから偽善だと言うことになるならば、偽善じゃない善行って存在しない
んじゃないの。
ある人にとっての善行は、別のある人にとっては自己中心的偽善だし、
また別のある人にとっては悪行でもありうる。
見方次第です。
229 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 13:04:30
見方次第?
この世に白黒つかない事などありません。
自己視点など世論を無視したそれこそ自己中心的思考。
答えは出ています。
230 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 13:17:40
>>228 意味不明。
ある人にとっての善行が別のある人にとっては悪行でもありうるという
具体例をヨロシコ
>>230 例えば、「コンビニでエロ本を売ってはならない」という法があったとしよう。
この法を守らない者を取り締まることは、
子どもや子どもの保護者にとっては「有害情報の隔離」という意味で善行。
出版社にとっては「表現の自由」の抑圧という意味で悪行。
コンビニ経営者にとっては「営業の自由」の抑圧という意味で悪行。
232 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 16:39:42
多くの人間が自己中心的な考えに基づいて行動をしたならば、
互いの自己中心的な考え同士が衝突し合い、
無駄な争いを招くことになる。
争いが発生するのを承知で自己を主張するのならよいが、
それでは社会全体の効率が悪くなり、安定さも失われてしまう。
利己的な「考え」が一方的に悪いとは思わないが、それを「行動」に移したときの
不具合を考慮した場合には、他者中心の考えも鑑みるべきであろう。
要は、利己的な考えが表面化するかどうかが問題なのだ。
まぁ、理想としては、利己的な思考の中心に他者(思いやり)という概念が
存在することだと思うんだけど。
233 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 16:59:27
>232
つまり行動に移さなければ、利己的な思考をしてもいいんだよな。
黙って頭の中で悶々とするしかない。
ここのスレタイは間違ってるということかな?
自己中でいたい香具師は無人島へ逝ってこい!
対人関係において、自己中というのは邪魔でしかない。
235 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 17:10:20
僕の考えでは、他人に迷惑をかけるかどうかが問題なので、
利己的な思考をする分には問題ない。ただ、それを行動に移さないだけの
自己を律する力は必要だ。
人間は本来、利己的な存在なので思考のレベルにおいてまで、利己を
否定することは困難であろう。
よって、自己中心的な考えが悪いと言い切るつもりは無い。
それに、どうやったって、人間から利己の概念が消失することなど
あり得ないだろうから。
>>234 そりゃおまえにとって邪魔なだけだろ。俺は自己中なんて基本だと思ってるし。
日本的な常識では、まず全体の調和ありき。和を乱す言動は「自己中心的」と排撃される。
調和が保たれた上で、全体の利益に反しない限りで個人の主張が認められる。
しかしこれは国際社会の常識とは異なる。
欧米の「グローバルスタンダード」とかいう世界観では、まず個人ありきだ。
個人は、まず自分の利益を第一に主張する。
自分も相手もまず自己中心的に主張し、それから妥協ポイント、一致ポイントが探される。
自己中心的であることは何も悪くない。
ただ、主張を論理的に行わないなど、ルールに反することだけが悪いとされる。
238 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 17:30:54
>>231 またもや意味不明。コンビニでエロ本を売るなという法律が成立するか
どうかもわからない。子供に売るなという事になっている。子供に立ち
読みできないようになっているしな。
それよりも、何でエロ本を小学生に買わせないようにする事が、
出版社への表現の抑圧=悪行になるんだ。言っている事が
めちゃくちゃ。それとも小学校の図書館がスカトロ拷問のアダルト
ビデオを購入しないのは表現の自由を抑圧する悪行だとでも
言いたいのか?
それに、コンビニで何でもかんでも売ってはいけないというのは
当たり前だと思うが、それを決めるのは何で悪行なんだ?
あなたはコンビニが小学生が裏ビデオを売りつけて商売して
金儲けする事が正しいと思っているのか?
もう、あなたの意見は、どうしようもないね。
>>231 全てを相対的な視点で測ればそういう結論になるだろう。
でも善悪と利害は別の概念として捉えるべきだ。
少なくとも、哲学的に善悪を定義しようとするならば、
何らかの絶対的な価値基準を仮構せざるを得ない。
そんなものがどこに有る?と問うのは愚問である。
形而上学とはそういうものだから。
スレタイの設問について言えば、「なぜ〜はいけないのか?」
という問いが成立するのか?について考えなければならない。
240 :
孝える名無しさん:2006/05/28(日) 17:34:59
ホッブズ曰く、
自己の生命を維持するための権利たる自然権を、
各人が無制限に行使すれば万人の万人に対する戦いとなり、
各人の自然権が脅かされるという逆説が生じる。
いわんや、自己中をや。
241 :
考える名無しさん:2006/05/28(日) 17:35:35
>>239は女性でなければいけないのですか、どうよ?
>>238 じゃあエロ本じゃなくて、普通の青年誌だったら?
青年向けマンガにも暴力や性的描写など有害な表現が多いからね。
これもコンビニで売るのはやめさせた方が「子どものため」になるだろう。
ついでに暴力表現のある少年誌やゲームもコンビニ販売禁止にしようか。
年齢確認とって売ればいい? ビニールはっておけばいい?
いやいや。本当に子どものこと考えるなら、最初から置かせない方が安全じゃないか。
っていうふうに「保護者や子ども」にとっては善行でもやり過ぎれば、
出版社やコンビニ経営者の権利に対する侵害(悪行)になりうるんだよ。
>>239 現代社会は君の言うような「善悪」を基準に判断されることはない。
「〜〜してはいけない」と現代社会で言われたら、それは「△△の権利を侵害しているから」
でしかありえない。「悪いから」はある人の行動を止める理由として許されていない。
敢えて言うなら「ルールに反すること」「権利を侵害すること」が悪であり、他に悪は存在しない。
もちろんこの善悪観も一つの立派な哲学だ。
>>243 >敢えて言うなら「ルールに反すること」「権利を侵害すること」が悪であり、他に悪は存在しない。
なぜそのように断定出来るのか?
君の言うように、社会が利害・権利を巡って動いているのは確かだが、
それは只の表層的な現実であって、それとは別に抽象的な善悪の基準が
存在することの否定にはならない。
そもそも、善悪がその程度のことなのであれば、議論の対象は愚か、
思考の対象にも値しない。
なぜこういうテーマのスレが立てられ、意見の相違はあれど、善悪の所在
を巡って議論が成り立つかといえば、皆漠然と普遍的な善悪の基準なるもの
の少なくとも可能性について、予感しているからではないのか?
>>244 「利害・権利を巡った」「只の表層的な現実」は立派な善悪の基準だと言ってるだろ。
他の善悪基準が一切存在しないとしても、この基準があるだけでここでの議論は意味を持つ。
この基準は「善悪」という言葉は用いないが、「正当/不当」という判断を下す。
不当なことはなされてはならない。
正当なことのみをなすべし。
国家権力は法にのみ従って動くし、国家権力すらも法によって縛られる。
この「法の精神」こそが現代における「普遍的な善悪基準」ではないのか。
私がこう断定する根拠を以下に述べる。
「法の精神」より上位の善悪基準が存在していたとしても、
不当ならば、善行でも行えない。
正当ならば、悪行でも行える。
このような状況では「善悪」はもはや「好き嫌い」となにも変わらない。
そして現在のところ、
善行ならば、不当でも行える。
悪行ならば、正当でも行えない。
と言える状況は存在しない。
故に、「法の精神」以上の善悪基準は存在していない。
>>245-246 つまり、人間の行動を拘束する物理的な強制力としては、
現代では法が最上位に位置し、その強制力を根拠づける
「法の精神」がイコール善悪の基準だと、こう言いたいのかな?
その限りにおいては、否定すべくもない只の現状認識だ。
だがそもそも、権利、正当性とは善悪から派生した概念である。
英語で権利を表すrightは、元々「正しい」を意味する。
すなわち、「法の精神」の基礎となっているのは善悪という概念であり、
哲学としては、まず善悪とは何かを考究すべきだ。
「法の精神」とは、あくまでも善悪の一つの解釈・実体である。
>>247 >だがそもそも、権利、正当性とは善悪から派生した概念である。
いやこれはウソだろう。直感的に少しおかしいと思わなかったか?
「正しいright」は「間違っていないnot wrong」という意味だ。
不当でなければそれは正当だし、正当じゃなければそれは不当になる。
「真か偽かtrue/false」という二項対立に対応しているわけだ。
しかし、「善いgood」は「悪くないnot bad」という意味ではない。
例えば、ある数学の問題をごりごり力押しで計算しまくって解いた。
これは全くgoodな解答ではないが、答えが間違ってなければrightな解答だ。
しかし、wrongな答えが出た解答をgoodと表現することはできないだろう。
つまり、goodの方がrightより範囲がもともと狭いのだから、
権利や正当性という概念が善悪から派生したというのはおかしい。
>>248 正当性という概念は数学的・論理学な真偽ではなく、人間の行動に
関わる倫理的な価値判断を含んでいる。
この場合の価値とは、市場で相対的に決定されるvalueではなく、
それ自体が本来的に有しているとみなされる価値worthのことである。
ある人間の行為・見解に対して「あんたは正しい」とか「おまえは間違っている」
という言い方をする所以だ。
それに対して、数学は質的・価値的な判断をまったく含まない論理体系だから、
good/wrongという価値軸を適用するのはそもそも間違っている。
訂正。
good/wrong→good/bad
>>248 >正当性という概念は数学的・論理学な真偽ではなく、
いやいや。
正当性や権利という概念は君も言っていたようにright/wrongという概念から来てる。
正当性や権利に倫理的価値判断が混入しているのは確かだが、
right/wrongという概念は「数学的論理的な真偽」からきてるものだ。
善悪にはその中間が普通あるが、right/wrongには中間が予定されていない。
「権利があるともないとも言えない」とか「正当でも不当でもある」なんて
判決を出すのは本来認められないのですよ。
「正しい」も「義しい」も同じ言葉で表現してしまう日本人は、
「正しい」も「義しい」も同じ言葉で表現してしまう日本人は、"玉虫色"
"両成敗"な判決を好む傾向あるけどね。
アンカーもミス。
>>248→
>>249
>>251 権利の根拠が正当性だと思うので正当性に話を絞るが、
もし正当性の由来が「数学的・論理学的な真偽」だとすると、
正当性は価値足りえないことになる。
素人のうろ覚えで申し訳ないが、ゲーデルの不完全性定理によれば、
数学は実質を欠いた形式論理であるが故に、数学の真理はそれ自体の
真理性を証明できない。
つまり数学はその体系(ルール)内では無矛盾だが、その体系自体は
意味内容を欠いている為、それ自体は真とも偽とも言えない。
これは論理学についても当てはまる。
「この文章に書かれていることは正しい。」とだけ書いてある文章は論理的には
正しいが、要するに無意味である。
そのような価値足りえないものが、人々を説得させることができるだろうか?
正当性が倫理的な価値を内包していると思えるからこそ、正当性が成立する
のではないかな?
追加。
right/wrongを現実の局面で適用する場合(裁判における判決等)、
白黒はっきりさせなければならないのは当然のことである。
しかしその内容を見ていくと、1審で有罪だったものが2審で
無罪になるなどザラである。
つまり、right/wrongの判定は決して自明なことではなく、
無数の中間項、グレーゾーンが存在する所は、善悪と同様。
>>253 まず「権利」の根拠が「正当性」というのは逆だろう。
ある行為(例えば、自己中心的行動)が正当であるかどうかは、行為者に権利が
あるかどうかで判断される。権利があるかどうかは、法と事実に従って判断される。
しかし君が言うように、法の根拠には確かに倫理的道徳的側面も含まれている。
現代社会では、人権や所有権といった、憲法より上位の思想がそれだ。
現代社会は、人権や所有権といった根本命題を公理系として前提している。
だからこそ、数学的な「正当性」「権利」も一つの善悪基準だと私は言ったわけだ。
ただ、確認しておいてほしいのは、人権や所有権が倫理的・道徳的に正しいから
「正当性」「権利」が説得力を持つのではない、ということ。
「法の精神」のポイントは、明らかな前提以外のあらゆる価値判断を排除し、
なるべく数学的・論理的に結論を導き出そうとすることだ。
これによって、グレーゾーン(裁量部分)を減らし、なるべく人によって結論が
左右されないようにする。「人の支配」から「法の支配」へ、というやつだな。
だからこそ、権利があること、正当であることは、他の善悪基準よりも説得力を持つ。
>>254 1審も2審も「有罪」か「無罪」かを確実に判断してるだろう。
善悪による判決だったらこうはいかない。
おまえの行動は「善い」とは言えないが、完全に「悪い」わけでもない。
まぁこのぐらいの刑罰を受けておくべきでしょう。
こんな曖昧な結論にせざるをえない。「おまえは善です」なんて結論出さないよ。
いや、どう考えても、正当性が権利に先行する。
なぜなら、権利を発行する主体(国家)に正当性が無ければ、
そもそも権利が効力を発揮出来ないからである。
国家は権力を基盤とし、権力は権威によって裏付けられる。
権威は単なる物理的な強制力(暴力)によってはもたらされず、
宗教、理念、歴史的持続性によって与えられる。
正当性を構成するのはこうした国家の成り立ちそのものである。
「 「法の精神」のポイントは、明らかな前提以外のあらゆる価値判断を排除し、
なるべく数学的・論理的に結論を導き出そうとすること」
組織の中にいればわかるが、こうした管理における合理主義だけでは
「説得力」は構成されない。ハンナ・アレント言うところの人間事象の領域は、
無数の不確定要素に満ちている為、経験知や人格的裁量
がどうしても必要となるからである。
ついでだが、「明らかな前提」とは何か教えてくれないか?
>>257 本来の(形而上学的な意味での)倫理・道徳による裁きは、
そんな曖昧で生温いものではないよ。
カントが定言命法と名付けたように、あるいはソクラテスのダイモーンが
そうであるように、倫理・道徳はひたすら「汝なすべし」あるいは
「汝なさざるべし」と命じるのみ。
そこでは恐ろしいことに、一切の留保条件が認められない。
>>258 >なぜなら、権利を発行する主体(国家)に正当性が無ければ、
>そもそも権利が効力を発揮出来ないからである。
致命的な誤解をしてるな。権利を発行する主体は国家じゃないよ。
憲法は国家ですら奪うことができないさまざまな権利を定めている。
歴史的連続性などの「権威」が説得力を構成するという考えは前近代のものだ。
もちろん「法の精神」のみで社会が動いているわけではないが、曖昧な「権威」よりも
明らかな法に従って動くことにしたのが、近代以降の世界の特徴だよ。
日本は前近代的な部分が多く残っているからそう考えてしまうのも分かるけどね。
>ついでだが、「明らかな前提」とは何か教えてくれないか?
「人権や所有権といった憲法より上位の思想」とこれに基づく法だ。
言い換えれば、公理系とそこから演繹された定理群。
これら以外の愛や友情や道徳といった基準を排除することで公正さが担保される。
>>259 全ての行為は、善=なすべきこと 悪=なさざるべきこと に二分されるのか?
・そこそこ勉強してテストで平均点を取りました
・石ころを一つ、海に向かってなんとなく投げました
これらの行為を善か悪かのどちらかに分類するのは難しいと思うが。
正当性で考えれば、これらの行為は不当ではないので正当だと確実に判断できるが、
善悪基準ではできない と言っている。
時間がないので、260への反論は後回しにしよう。
一つだけ質問。
>権利を発行する主体は国家じゃないよ。
そうすると、権利発行の主体は何か?
>>261 そうは書いていない。伝統的な倫理・道徳の言ってることは、
「為すべきことを為せ」「為さざるべきことを為さざるべし」だ。
挙げられていた例で言えば、為すべきでも為さざるべきでも
ないんじゃないかな。
>正当性で考えれば、これらの行為は不当ではないので正当だと確実に
判断できる
これはちょっと無理があるんじゃないか?「正当」という言葉の
ニュアンスからして、何らかのプラスアルファが込められていると
解釈するのが普通だろう。辞書で調べても、「正当」は道理を
そなえていることとあって、「道理」は物事のあるべき姿と定義
されていることからも、ある理想が示唆されている言葉と捉えるべきだ。
>>262 >そうすると、権利発行の主体は何か?
キリスト教的な絶対神だ。人権思想知らないのか?
あれは天や造物主から与えられた権利ということになっている。
国家や伝統的な権威(天皇)が与えた権利と考えると、そいつらが
自由に権利を奪ったり制限したりしてもいいことになってしまう。
そうではない。根本的な権利はいかなる人間的な権威にも拠らない。
まさに現代社会における絶対的な公理系なわけだ。
264 :
探求者 ◆IageKhlEwc :2006/05/30(火) 23:37:10
>「正当」という言葉の ニュアンスからして、何らかのプラスアルファが
>込められていると解釈するのが普通だろう
日本語的にはそうかもね。ただ、「正統性」とごっちゃにしないようにな。
で、現代社会での「正当である」「権利がある」は日本語的な概念じゃないんだ。
これらは輸入物の概念なのだから、元の言葉で考えてやらなければならない。
「権利がある」も「正当である」も、rightから来ているわけだ。
そして、もともとright/wrongは数学的論理的な概念だ。
「正しい/間違い」というより、「あってる/違ってる」と考えれば分かりやすい。
>>264 いきなり絶対神が出てきてびっくりしたが、面白いよ。
眠いんで、一言だけ。
正当/不当をright/wrongに読み替えても同じだと思うんだが。
海に石を投げる例で言えば、何が何に「合ってる」んだ?
266 :
考える名無しさん:2006/05/31(水) 00:51:58
隣人愛・・・・・一理ある・・・・
>>265 「海に石を投げる」行為は、「個人の自由」を認める法の精神に合致するので
誰かの権利を害さない限り「正当」と認められるということだ。
善悪基準は、こういうどうでもいい行為について一貫した判断ができない。
そのときどきの状況にあわせて、別に誰も傷つけてないからOKと言ったり、
自己中心的な行為だからダメだと言ったりする。
>>267 善悪の基準について一貫した判断が困難なのは当然である。
なぜなら、善悪には予め定まった解答というものはなく、
常に解釈し続けることが必要だからだ。
もちろん個々の宗教はドグマスティックに善悪を定義している
ものもあるだろうが、ここで言っているのは、哲学の対象と
しての善悪である。
これは、善悪が所詮相対的だということを意味するもの
ではない。善悪は何らかの絶対的な価値基準として
想定されるが、絶対そのものを知ることが出来ない以上、
どこまでも解釈し続けなければならないということだ。
>>267の続き
海に石を投げる行為について、こういうケースはどうかな?
海に石を投げる男Aがいた。Aは気づかなかったが、少し離れた所で
海を見ていた男Bがいた。Bは一人で静かに海を見ていたかったのに、
Aが石を投げたことで気分を害し、海を静かに眺める自由を侵害された
と主張した。果たしてBの主張は正当か不当か?
おそらく大抵の人はBの主張が不当だと感じると思うが、これを
探求者氏のロジックで判定しようとすると、困難にぶつかる。
探求者氏の論旨は、法律で制定された権利を侵害しない限り、
その人間の行為は正当、つまり正当/不当は合法/違法とイコール
だと理解できる。しかし法律の解釈・運用というものは決して
一意ではなく、さまざまな法理論や判例をめぐって錯綜するもの
である。仮に絶対神が権利を発行したのだとしてもそれを解釈
するのは只の人間である。「そうは言っても、常識で考えてBの
主張に正当性が認められないのは明らか。だからこそ現行の法律で
”静かに海を眺める自由”など制定されていない」と言っても駄目である。
常識とは往々にして多数決の論理であり、多数決の論理が数学的
に厳密な基準にはなりえるという根拠はどこにもない。
要するに、人間事象の領域でright/wrongを判断する為には常に
解釈が必要であり、所与の解答などは存在しない。それが形式論理
における(解釈の余地の無い)true/falseとの違いであり、善悪との
共通点である。
>>269 おお、ちょうど同じような例を出そうと思っていたところだw
Bには確かに「海を静かに眺める権利」がある。しかしAに慰謝料支払いや謝罪を
させるためには、「海への眺望に対する権利」まで持っている必要がある。
Aの自由を束縛できるだけの強い権利をBが持っていると判定しないと、Aの行為が
不当であるという結論を導くことはできないわけだ。Aの行為は基本的に正当なのだから。
裁判官がいくらAの行為を不当にしたくても、Bにそのような権利があるという論理を
条文と証拠に基づいて組み立てなければならない。これは実際かなり難しいよ。
無理やり「Bには海に対する干渉を排除する権利があり、それに基づいてAに慰謝料賠償を
命じる」という論理で判決を出せば、その論理のまずさを後から批判されることになる。
しかし、善悪基準ではAの行為はグレーゾーンなので裁判官の恣意で結論を出しやすくなる。
Bが、その地方で有名な「海を神聖視する団体」に属していた場合を考えよう。
「Aは、Bとその団体に対する害意があった」と認定してやるだけでAの行為が悪い行為で
あると判定することができてしまう。これは、Bが海に対して権利を持っていると判定
しなければならない法の精神の場合よりもはるかに簡単だ。
Aに明らかに害意がない場合でも、「団体に属するBが気分を害するであろうことを
想定しなかったのは、自己中心的であり悪い」とか適当なことを言えてしまう。
right/wrongの中間を排する二分法では原則と異なる結論を導くにはそれなりの根拠が必要だ
グレーゾーンの広い善悪基準では裁判官の恣意で結論を導きやすくなってしまう。
>>269の間違いは、Aの「海に石を投げる権利」とBの「静かに海を眺める権利」を比べている点。
この両者は必ずしも相反しない。基本的には双方とも正当である。
正確にはAの「海に石を投げる権利」と、Bが「Aの行為に対して慰謝料や謝罪を要求する権利」を
比べなければならない。これならば相反する。
>>270-272 勉強になったし、大変興味深かったよ。ありがとう。
でも残念ながら論点がずれているな。
こちらが知りたかったのは、権利の正当性に関するプラグマティック
な判断の過程ではないんだ。
善悪の基準が法廷で有効でないというのも、元々そういう話をしている
訳ではないので、あまり意味の無い指摘だな。
ポイントは、「人間事象の領域でright/wrongを判断する為には常に
解釈が必要であり、所与の解答などは存在しない」
と述べた点にある。君の説明は、上記への有効な反論たりえていない。
>>272 良く読んでくれ。俺が問題にしてるのは「Bの主張が正当か不当か」と
いう点だけだよ。君の定義によれば、AもBも違法な行為をしていない
という点でどちらも「正当」ということになるが、正当な者同士の
権利・自由が衝突した場合、どちらの正当性が上位になるのか、と。
BがAに謝罪や慰謝料を要求したりするのは、その後の話だ。その前の段階
ではAもBも正当というのならば、結局right/wrongは二分法たりえない
という結論で良いな?
>>273 俺は「正当/不当」の判断は「善悪」の判断とは異なり、中間を排する
数学的論理的な判断が基本にあると主張している。
人間の行為も、正当か不当かのどちらかに必ず二分される。
そこに解釈が入ることは否定しない。
ただし、善悪基準よりも解釈の入る余地がかなり小さいとも言っている。
>俺が問題にしてるのは「Bの主張が正当か不当か」という点だけだよ。
Bの行為が「私には海を静かに眺める権利があると言うこと」ならば正当だし、
Bの行為がAの行為と矛盾する場合、つまり「Aに謝罪を要求すること」や
「Aに石を投げないように要求すること」ならば不当だと述べている。
いずれの場合でもはっきりどちらかに分かれているだろう。
なんで「正当/不当 right/wrong」は二分法足りえないことになるんだよw
このスレには他に人がいないのか?それともコテ同士が
口角泡を飛ばして議論しあってるからドン引きなのかw
>>274 解釈の余地の大小は俺の文脈では本質的な要素ではない。
定理からの演繹によるオートマチックな論理展開ではなく、
解釈の介在を認めたことで、君は俺の後続の結論「それが形式論理
における(解釈の余地の無い)true/falseとの違いであり、善悪との
共通点である。」を認めたことになる。
>>275 そうすると、なんらかの具体的な行為を伴わない主張そのものは
rightでもwrongでもないということか?
276には補足が必要だったな。
つまり、Bが頭の中だけで、「私には海を静かに眺める
権利がある」と思うことは正当か不当か?
>>276 共通点があるのは当たり前だろう。どちらも社会的規範なんだから。
俺が最初から言ってるのは、それらはもともと別の概念だということだ。
君の当初の主張、「正当性は善悪から派生した」を否定することが目的だ。
君の今の主張は別に認めてもかまわんよ。俺はそんなことには反対してないから。
>>277 何度も何度も言ってることなんだがなぁ。まぁもう一度丁寧に説明するぞ。
個人は自由に行動したり思考したりする権利を基本的に持っている。
共同体の都合で、権威的にこれを制限することは許されない。
ゆえに、「海を静かに眺めること」も「そう思うこと」も「その権利を主張すること」も正当だ。
ただし、正当だからといって、無制限に認められるわけではない。
他人の権利を制限するときには、「より強い」権利が必要とされる。
>>278 なるほど。君と俺がどこで噛み合ってないのかが見えてきたな。
少し整理させてくれ。
君は正当/不当という概念が、数学的・論理学的真偽に由来するとし、
そこでは中間項を排する二分法的判断が常に可能と主張している。
俺はそれに対する反論として、正当/不当の判定には解釈が必須であり、
そこが数学的・論理学的真偽との根本的相違であると述べた。
ここまでは良いな?
さて、君は、俺が提示した海に石を投げるケースを例に、
ABどちらの行為についてもそれが正当/不当かを二分法的に判断可能
であることを証明してみせた。
ここからは俺の見解だが、判断に解釈が介在するということは、
相反する判定結果が同時に成立することを意味する。
君の判定結果についても同様である。これは俺から言わせれば、
グレーゾーンが存在するということになる。君は個別のケースにおいて
二分法的判断が可能だからという理由で、正当/不当が数学的・論理学的
真偽に由来すると主張しているように見えるが、それには無理がある。
なぜなら、相反する結論が同時に成り立ちうるということは数学的・論理学的
真偽における排中律という法則と根本的に相容れないからである。
したがって、こう定義するのが妥当だ。
「正当/不当を判定する為には解釈が必須となるが、裁判のようなプラグマティックな
判断の現場においては,
曖昧さを極力排する為、数学的・論理学的な真偽の判断基準を導入する
ようになった」
>>279 ちょっとしつこいなとは思ったが質問したのは、君が「行為」
という言葉を使っていたので、行為を伴わない場合についての
見解を確認しておきたかった為だ。
スレの上の方で、頭の中で考えているだけのことに対して
「〜してはいけない」は適用できないという見解が主流だったので。悪しからず。
>>280-281 とりあえず、
>>280の「 」部分の結論には同意しておく。
もともと、行為の是非は善悪で判断されていた。
そこに数学的論理的手法(公理系から演繹的に、二分法的に結論を導く)が導入され、
曖昧な善悪基準が排されたところで「正当/不当」の判断が登場した。
(ただし、「全ての」善悪基準が排されたわけではない。公理系自体は一つの善悪判断。)
ところで、数学においても、解釈なしで結論が導けるわけではない。
2進法では真だが10進法では偽とか、ユークリッド幾何学では真だがリーマン幾何学では偽、
といった、「相反する結論」が出ることは普通にある。
どの公理系を採用するか、どの法を適用するか。こうしたことは解釈に拠らざるをえない。
>相反する結論が同時に成り立ちうるということは数学的・論理学的真偽における排中律
>という法則と根本的に相容れないからである。
ゆえに、この部分は間違っている。
>>282 待て待て、そこは大事な所だから突っ込ませてもらうw
>曖昧な善悪基準が排されたところで「正当/不当」の判断が
登場した。
排されたのは善悪の曖昧さであって、善悪という価値基準
そのものではない。これはその後に続く君の文章からも
基本的に承認されていると理解した。
(細かいことを言えば、善悪の基準が曖昧という表現は妥当
ではないと思っているが、取りあえず先を急ぐことにする)
そうだとすると、俺が最初に主張した「正当性は善悪から
派生した」は間違っていないということになるな?
数学的・論理学的な真偽の判断という「手法」は、
判断基準を明確にする為に導入されたが、正当/不当
というベクトルに方向性を与えているのは依然として
善悪である。そう考えなければ、辻褄が合わない。
最初に法律を制定する際、どういう方向で法律を制定す
「べき」か、という当為・目的を示唆できるのは、善悪だけだからだ。
>>283 なるほど。面白いな。勉強になったよ。
ということは、数学にもグレーゾーンが存在するということ
なんだろうか?
また、君が挙げてくれた例は、ニュートンの古典力学と量子力学
との関係のようなものなのだろうか?
自分でも色々調べてみるよ。
>>284 >正当/不当というベクトルに方向性を与えているのは依然として善悪である。
だから、公理系自体は一つの善悪判断だとわざわざ書いたじゃないか。
>>256を読み返してほしいところだが、善悪基準は正当/不当の本質じゃない。
公理系から演繹的に結論を出しているという体裁を保っているからこそ、
right/wrongという二分法の表現が使われるし、負けた奴を納得させられるんだよ。
「権利を侵害したキミが悪い」より「根拠が不十分なキミが正当とは言えない」
の方が納得しやすいだろ?
例えば、量刑を決めるときには「悪質」とか「残忍」とかいう言葉も用いられるが、
悪質さや残忍さは、有罪/無罪を決める根拠には一切使われない。
有罪であることが論理的に証明された上で、善悪判断の出番が来る。
法の精神のこういう徹底さは数学には遠く及ばないが、たいしたもんだよ。
287 :
探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/03(土) 00:37:20
しかし、落ち着いて考えてみると不思議な話だな。
「善い」と「正しい」って全然別の概念じゃないか。
なんで「善い」から「正当」が派生してくるとか考えられるんだろう?
1+1=2という式は何かが「善い」んだろうか?
遅延損害金として年14.6%の利息を取るのは、一体何が「善い」んだろう?
これらが「正当・正しい」というのは、単にルールに適っているというだけの意味しかないだろうに。
必ずしも「善い」ルールじゃなくても、right/wrongの判断はできるよなぁ・・・
自己中は一人で生きているわけではないので、失礼である。
>>287 まず、その2つの例は基準が違う。
@1+1=2 false/true 真/偽
A遅延損害金14.6% right/wrong 正当/不当
@は本来「1+1=2は真である」というべきで、「1+1=2は正しい(答だ)」
という場合は、「1+1=2」という真なる命題に合致する答を
導き出したおまえの判断は正しい方向を指し示しているから、
その方向に行って「善い」ということ。
Aは14.6%という消費者契約法という法律で定められた正当な年利なので、
請求して「善い」ということ。
OK?
>>289 いや全然OKじゃないよw
>「1+1=2」という真なる命題に合致する答を導き出したおまえの判断は正しい
>方向を指し示しているから
これは「正しいから善」と言ってるのだし、
>14.6%という消費者契約法という法律で定められた正当な年利なので、
これも「正当な金利なので善」と言っているじゃないか。
俺が聞いてるのは、@やAが「正しかったり、正当」だったりするのは、
どんな善悪から派生してきたのかってことだ。
善より正当性や正しさの方が範囲が広いから、正当性・正しさから善が出てくるというならまだ分かる。
ただ、善より正しさ・正当性が出てくるというのはどう考えても無理あるんだよ。
289は287の「1+1=2という式は何かが「善い」んだろうか?
遅延損害金として年14.6%の利息を取るのは、一体何が
「善い」んだろう?」という質問に対する直接的な答だから,
「そんなことは分かってたよ」みたいに返されるのは不本意だなw
>俺が聞いてるのは、@やAが「正しかったり、正当」だったり
するのは、 どんな善悪から派生してきたのかってことだ。
いや、俺の方こそ教えて欲しい。善悪以外に、何が正しくて
正当かを決める、当為としての方向性を与えるものは何か?
正しさ、正当性は一つの基準だが、その基準の基準は何か?
>>291 >>256読み返したか?
>>284の主張はすでにそこで否定されている。
>正しさ、正当性は一つの基準だが、その基準の基準は何か?
キミは立場的に「正当性の基準」が善悪であることを示さなくてはならないが、
俺は「正当性が善悪から派生した」を否定してる立場なので、「正当性」が
「善」から導けないことを示すだけで十分だ。
だからその愚かな質問に答える必要はないんだが、まぁ説明しよう。
キミの誤りは、ルールが正しい(善い)からこそ、そのルールに照らして正しい(正当)
と言えると考えてしまっているところだ。
自然数論の内部で「2*2=4」という計算が正しいのは、自然数論が正しい『から』なのか?
それとも自然数論がなんらかの意味で善い『から』、「2*2=4」は真と言えるのか?
・・・明らかに関係ないだろ。
「2*2=4」という計算が正しいのは、公理系から演繹的に導出できるというだけの話だ。
もし関係あるとするなら、「2*2=4」を真と言うために、いちいち自然数論が正しい(善い)
ことまで確定しなければならなくなるし、同様にして自然数論の正しさ(善さ)を判定した
基準がまた正しい(善い)かどうかが問題になって・・・結局何も言えなくなる。
ルールの正しさとルールに照らした上での正しさは違うレベルの話だ。区別したまえ。
>>293 どんな説明してくれるか少しは期待したが、それか。。。
@善悪以外に、何が正しくて正当かを決める、当為としての方向性を与えるものは何か?
A正しさ、正当性は一つの基準だが、その基準の基準は何か?
俺の質問は上記の2つだが、聞きかたを変えてるだけで、基本的には同じ質問だ。
そして、メインは@の方だ。それは文脈から理解出来る筈。
君はわざとかうっかりかは知らんが、@をスルーしてAを取り上げ、俺の質問のポイントを
シフトしてる。
俺が253で、
・数学的・論理学的真偽(true/false)と善悪(good/bad)は全く異なる価値基準であること
・数学的真理それ自体の真理性を証明するのは不可能なこと
を説明してるのに、またぞろ善・真・正しいをごっちゃにして話をリセットした上、基準それ自体の
正しさを証明するのは不可能だと、わかりきった自己言及のパラドックスで逃げている。
それもその筈で、君が依拠する数学的・論理学的真偽、つまり、たかだか「1+1=2」や「2*2=4」の
延長にすぎない機械的論理のどこをほじくり返しても、人間の行動に「〜すべし」「〜してはならない」
を付与する要素など出てこない。
そして、「〜すべし」「〜してはならない」(善悪)が先に措定されなければ、「〜してもよい」(正当性)が
導出される筈も無い。
>>294 >そして、「〜すべし」「〜してはならない」(善悪)が先に措定されなければ、
>「〜してもよい」(正当性)が導出される筈も無い。
うん。先になんらかの法が前提されないと、正当性も導出できないね。
そして法自体はなんらかの善悪基準で作られたものだ。最初から認めてることだけど。
その上で、「だからといって、善悪から正当性が派生していると考えるのは誤り」と
論じてるんだが、残念なことに論旨を理解できてないようだなぁ。
引用部分が「反論」になるとまだ思い込んでるみたいだし・・・。
善悪判断は、「権利を侵害する行為は悪」とは言っても「権利を侵害しなければ善」なんて
言わないよな。キミも言うように、true/falseと違って善悪は全く二分法的じゃない。
ここから「してはならない行為以外はしてもよい」と言うにはどうしたらいいんだよ?
明文化された法に基づいた論理的二分法を導入しないと、こんなこととても言えないぞ。
キミはこういう論理的な思考を当然に思いすぎてないか?
道徳や倫理が支配する共同体では、禁止行為じゃないから「正当」なんてありえない。
禁止行為じゃなくても、「慣習に反するからやめろ」とか平気で圧力かけてくる。
禁止行為以外は認められる正当性という発想は、きわめて近代的・数学的・法的なものなんだよ。
>>295-296 >禁止行為以外は認められる正当性という発想は、きわめて近代的・数学的
・法的なものなんだよ。
それはその通り。でも、この場合、数学的二分法的判断は基準という
よりは、基準を弁別する為の方法論として導入されたという見方の
方が妥当じゃないか?
数学的命題のアナロジーを厳密に適用するなら、「この行為は禁じら
れている」「この行為は禁じられていない」の2種類しか存在しない。
「禁じられていない」はまだ保留であって、「してもよい」という許可とイコールではない。
そして「しても"よい"」という表現が示すように、ここではまだ善悪
判断が継続している。数学的論理学的真偽は、いかなる局面でも、
行動に結びつく価値を後押しする根拠を持たない。
>>297 >基準を弁別する為の方法論として導入されたという見方の方が妥当じゃないか?
確かに、善悪という基準が、より厳密に、不公平がないように、確実な判断になるように
論理性が導入されたと見ていいだろうな。そして
>>256でも書いたように、正当性の説得力は
元となった善悪基準に対する信頼よりも、その導出過程の論理性に由来している。
「善い法か悪い法かは分からないが、公平で確実ならまぁしかたないか」と。
善い法『だから』正当なのだ、とすると、悪い法だと思う人を納得させられない。
>「しても"よい"」という表現が示すように、ここではまだ善悪判断が継続している。
mayやpermitに、goodやjusticeといった意味は全くないぞ。
妥当や可能という意味はあっても、善い・良いという価値判断はもともとない。
法律の条文でも「〜してもよい」という表現は避けられて、「〜できる」って書かれてるでしょ。
そういう日本語的解釈から起こる誤解を招かないようになってる。
日本語的「してもよい」には、しても誰も文句を言わないという"善い"意味もあるだろうが、
「正当である」という意味での「してもよい」は、誰かが文句言っても可能という意味だ。
もう少し「してもよい」という言葉を考察しよう。
日本で「してもよい」という許可を与えるのは、集団の"空気"であり、
共同体の意思である。「みんなが認めるから、してもよい」が日本の伝統だ。
「してもよいから、みんなが認める」ではない。
正当性は判断の基準ではなく、共同体にとっての善悪が判断の基準だ。
ところが現代社会で「してもよいmay」と、ある行為を許可する・可能にするのは、
共同体の意思ではない。それは、法であり、契約だ。
この法と契約という概念は「絶対神との契約」に由来している。
この神は共同体の意思の表れではない。契約を破れば容赦なく共同体を滅ぼす。
「みんなが認めても」契約に反していれば、神に皆殺しにされる。
善悪は神にしか判断できない。契約が善か悪かは人間が関知するところではない。
とにかく「してもよい=できる」と「してはならない=できない」だけでも
厳密に区別しなければ命にかかわるのだ。
この切実な必要性から生まれたのが、論理的二分法であり、正当性の概念である。
現代社会の「してもよいmay」は、日本的な概念とは系譜が全く異なる。
>>299 最初に断っておくが、俺が「してもよい」について論じる時に
念頭にあるイメージは、善悪基準を発布する強者的存在が目下の者に
許可を与えてる図で、君がいうところの日本語的ニュアンスではない。
手元の辞書で調べても、mayには(可能の意味もあるが)許可の意味、
permitには更に強い許可の意味が含まれている。
辞書の記述を絶対視する訳ではないが、以前読んだネイティブイングリッシュ
が書いた英文法の本にも同様の記述があったから、君のそのmayやpermit
についての解釈がどの程度一般的なものかいささか疑問だな。
識者の見解を待つといったところだ。
日本語の条文で「してもよい」と書かないのは、「しなくてもよい?」
みたいな曖昧な含意とらえられるのを避けるためじゃないか。「してよい」
と書くと今度は一転して高圧的なトーンが感じられるしな。
英語にも日本語の「できる」と似た感じで、canを使って許可を表す
場合がある。mayやpermitでは許可を与える側の存在が強く感じられる
のに対して、canではあたかも相手の意思で「やろうと思えばできる」
かのように思わせて、結果的に許可を与えるやり方だ。
>>300-301 面白い考えだな。思うところはあるが、今はコメントを差し控えておこう。
「してもよい」、may、permitに共通する意味は「許可」だよそりゃ。
そういう意味を持つ言葉を並べたんだからw
キミが「しても"善い"」とか言い出すから、他の「許可」を表す言葉には
「善い」意味なんか全然ないと指摘したまでだ。
>善悪基準を発布する強者的存在が目下の者に許可を与えてる図で
その図が日本的だと言ってるのだがw
イスラエルの神は「善いことをしろ」「悪いことはするな」なんて言わないよ。
単に「俺の命令を聞けば救ってやる」「逆らえば殺す」と約束するだけだ。
で、命令の中には「俺以外の存在を崇拝するな」があるから、
「禁止されていない行為=許可されている行為」という発想が出てくる。
道徳的に何かを禁止してくるような他の神の存在を無視できるんだからね。
啓典だけを絶対視すれば、「神の命令」が善であり「神の禁止」が悪と解釈される。
善が命令され、悪が禁止されるのではない。それは逆だ。
つまり、「禁止されている行為/禁止されていない行為」という二分法がまずあって
そこから「禁止されている行為=悪い行為」が派生してくるんだよ。
>>303 >「許可」を表す言葉には「善い」意味なんか全然ない
そうか?許可というのは、何らかの善悪基準に基づいて他者の行為
を承認することだと理解してるが。だから、goodやjusticeにも関連
してると思うよ。
>命令の中には「俺以外の存在を崇拝するな」があるから、「禁止されていない
行為=許可されている行為」という発想が出てくる。
これは明らかにおかしい。
まず、297で述べた通り、厳密に二分法的に判断するならば、「この行為
は禁じられている」「この行為は禁じられていない」の2種類しか存在
しない。
>「禁止されている行為/禁止されていない行為」という二分法
後の方では君もこう書いてるだろ?
さらに、「善悪は神にしか判断できない。契約が善か悪かは人間が関知
するところではない」のだから、「禁止されていない行為=許可されて
いる行為」という発想は、都合の良い拡大解釈であり、神に対する冒涜
となってしまうよ。
>道徳的に何かを禁止してくるような他の神の存在を無視できるんだから
意味不明。そもそも権威を認めていない他の神々が何を言おうと、
ここでの判断には影響ない筈。
>「禁止されている行為/禁止されていない行為」という二分法がまずあって
そこから「禁止されている行為=悪い行為」が派生してくる
それ自体は間違っていないと思うが、そこから正当/不当の起源を説明
しようという思惑があるのなら無理があるな。「禁止されている行為」
=「不当」は言えても、「禁止されていない行為」=「正当」は成立しない。
>>304 >許可というのは、何らかの善悪基準に基づいて他者の行為を承認することだと理解してる
ここの見解の相違がこの議論の発端だな。
>「禁止されていない行為=許可されている行為」という発想は、都合の良い拡大解釈
ここを掘り下げて考えてみよう。
「禁じられてない行為」かつ「許可されていない行為」ってどんな行為だ?
>>305 正確には「禁止されていない行為」かつ「許可されているかどうか
分からない行為」だ。君は数学が得意だろうから、ベン図を書くまでも
なく理解可能だとは思うが、具体例を一つ挙げよう。
仮に俺が神だとして、「冷やし中華に金糸卵を入れてはならない」
という禁令を啓示したとしよう。そうすると、その禁令以外の全て
の行為は、「禁止されていない行為」かつ「許可されているかどうか
分からない行為」に該当する。
紅生姜は禁止されてないから許可されてるなどとと早とちりすると、
忽ち天罰が下るかもしれない。なにしろ全ての善悪の決定権は俺に
あるのであり、紅生姜やキュウリは愚か、麺まで実は禁止されてる
かもかもしれない。それを勝手に判断する権利は人間にはないのである。
極端な例だが、本質的にはそういうことだ。
>全ての善悪の決定権は俺にあるのであり、紅生姜やキュウリは愚か、
>麺まで実は禁止されてるかもかもしれない。
それはないんだな。
なぜなら、神は「契約を守れば必ず救ってやる」と約束してくれたからね。
しかも契約内容はちゃんと明文化されてる。
さらにいうと、この神は預言者を通じて議論ができる神だ。
「そんな恥ずかしいことしたら、エジプト人に笑われますよ」とか言われて、
普通に説得されたりする。
こんな神だから、啓典(契約書)はすごく大事にされるんだな。
キミの言うような善悪で判断する神だったら、あそこまで重視されないよ。
というわけで、「禁止されていない行為」が「悪い行為」である可能性はあっても
全然かまわない。神にも沽券があるから、「悪い行為」でも契約違反じゃなければ、
罰したりしないし、救わざるをえない。
こういう意味で「禁止されていない行為」=「許可されてる行為」になるのですよ。
>>307 ここらで確認しておきたいが、君はキリスト教かユダヤ教
を信仰していて、ここで議論している神はまさしく「イスラエル
の神」そのものを指してるのかな?
もしそうだとすると、俺にはその神について議論する知識も
資格も無さそうだが。
>>308 俺自身はキリスト教徒でもユダヤ教徒でもイスラム教徒でもない。
しかし、俺が言及してる神はこれらの宗教に共通する絶対神だ。
キミに知識がないのは分かってるが、資格は十分にあるよ。
俺らはプロテスタントが産んだ近代的諸制度の中で生きてるんだからね。
現代日本で「してもよい」正当性を与える直接的根拠は、日本国憲法だ。
日本国憲法はアメリカ産だ。「正当性」の起源を思考するには、当然
キリスト教・ユダヤ教の神を考えないわけにはいかない。
俺らがここでこのような発言を「してもよい」「できる」のは、
日本国憲法が思想・良心・表現の自由を保障しているからだ。
これは抽象的な神や天皇や幕府が許してくれたことではない。
この正当性の起源は、フランス人権宣言やアメリカ独立宣言で言及されている
「天」「造物主」にある。これは当然、あの絶対神を指している。
俺らが社会生活上結んでいる民法上の契約は、日本の概念でも中国の概念でもない。
これは、言葉と論理を重視する「神と人間との契約」の系譜に属するものだ。
ゆえに、「正当性は善悪から派生している」というキミの考えは日本的常識には合致するし、
戦前は正しかったかもしれないが、現代日本では間違っている、と俺は考えるわけだ。
>>309-310 むう。正直どれを突っ込むべきか迷うんだがw、ポイントを絞ろう。
まず君はキリスト教やユダヤ教を信仰している訳ではないと言ったが、
それならなぜ聖書の記述を文字通り信じるのかな?君はヤーウェの実在
を信じ、人格神としての性格設定まで信じている。そうでなければ、
307の契約〜エジプト人云々のくだりは理解できない。
いやそうではないというのなら、キリスト教・ユダヤ教はあくまでも
メタファーとしてある訳で、様々な解釈が可能になる筈だな。
そうなると、「神にも沽券があるから、「悪い行為」でも契約違反
じゃなければ、罰したりしないし、救わざるをえない。」はあくまでも
君の一解釈ということになり、それが絶対に正しいという客観的な根拠
はない。なにしろ何も悪くないヨブを苦しめたり、イサクに息子をいけにえ
に差し出せと命じるような理不尽な神のことだから、試練を与える為と称して
契約を破棄するくらいのことはやりかねない。それにそもそもユダヤ民族と神
の間で交わされた契約が現代日本人と何の関係があるのかとか色々でてくる。
だから、やっぱり正当/不当の起源に関する君の論拠は成立しないんだよ。
それが君の「信仰」だというんであれば、俺は否定しない(できない)が、
議論はここでストップだ。
>>311 俺の主張は「聖書の記述が真実だから、正当性は善悪から派生していない」ではないよ。
現代における「正当性」という考え方は、そのような神を信じていた人たちが考え、発展させ、
日本に輸入された概念だということを証拠にもとづいて論じているだけだ。
実際の神がどんな性格かなんて関係ない。どうでもいい。
>試練を与える為と称して契約を破棄するくらいのことはやりかねない。
この解釈も論理的に考えれば当然ありうるな。俺も十分ありうると思うw
しかし問題は、「正当性」という発想をした人たちがどう解釈していたかだ。
この人たちは、暴虐な絶対神が怒るのを本気で恐れていた。
と、同時に絶対神がいつか必ず救ってくれることも信じていた。信じるしかなかった。
「していい/したらダメ」を厳格に区別する必要性が彼らにはあったわけだ。
「どちらかはまだ分からない」が存在してもらっては困る。
現に今冷やし中華を作って食わなければならないのだ。どちらか一つじゃないと。
というわけで、善悪と全く関係ないところから正当/不当の二分法が出てきたのだよ。
313 :
探求者 ◆IageKhlEwc :2006/06/07(水) 18:21:20
ここまでのダイジェスト
酸素男爵:正当性は善悪から派生した
探求者:正当性は論理的二分法からきてる、善悪からじゃない
酸素男爵:論理的二分法だけから、積極的な意味での正当性は出てこない。なんらかの善悪が必要
探求者:法を前提にして論理的二分法を導入すれば、正当性出てくるだろ
酸素男爵:法を作るときにはなんらかの善悪基準がやはり必要だ
探求者:んじゃ啓典を考えよう。契約と契約者に対する信頼があれば、善悪なしで正当性出てくる
酸素男爵:それはキミの一解釈に過ぎない。それがキミの信仰ならもう何も言わない
探求者:実際にそう解釈されてたという話なんだけど
>>313 ダイジェストワロスw まとめ方に異存はないよ。
ちょうどいいきっかけなんで提案だが、ここらで議論を
中断しないか?
お互い異論・反論尽きないわけだが、俺のカンだと、これは
際限無く続くw
まあそれはそれで面白いんだが、俺としてもそろそろ活動
拠点を移していきたいんでね。スレ的にもスレタイのテーマ
に戻った方がいいんじゃないかな。スレの動向そのものに興味
はあるんで、完全に消えるつもりはないが。
俺的にはだいたい自分の基本的な考え方は述べたつもりだから、
双方の主張の正否については、第三者の判断に委ねることにしたい。
君もそのつもりでageてるんだろ?
311の自己レスで訂正。
息子をいけにえに捧げることを命令されたのはアブラハム
でその息子がイサクだったな。いい加減な記憶で書くもん
じゃないね。
>>314 了解。
暇あったらニーチェの『道徳の系譜』を読んでおくといい。未読だろ?
薄くて、読みやすくて、面白い。
ついでにユダヤ的奴隷道徳の起源について、俺の説より深い説が出てるよ。
>>315 なるほど、君はニーチェリアンか。さもありなんという気はするが、
君の主張とニーチェ思想に深い関連があるなんて考えたことも
なかったな。こっちを未読と決めつける根拠もよくわからんし。
ついでだから書いておくが、俺が302で書いた「強者的存在」は
ニーチェの定義をある程度念頭においてる。つまり善悪とは強者が
弱者に対して一方的に発布する価値基準であり、その究極の形が
神による善悪の啓示というイメージだな。
もう一つついでに書いておくと、俺は「道徳の系譜」よりも「善悪
の彼岸」の方が気に入っている。ニーチェは論述形式よりも、偽預言者
風の断章・アフォリズム形式の語り口の方が合ってると思うからだ。
まあ俺はそんなにニーチェを評価してるわけじゃないけどね。
というわけで、俺はしばらく消える。あとは皆さんでよろしくってことで。
>>316 ニーチェを念頭に置いていれば、神ならぬ「強者的存在」が善悪の基準であっても
そこから近代的な正当性なんか生まれてこないことはすぐ分かるはず。
民衆の行為の正当性を保障するような近代社会は、強者的存在の善悪基準に反対した
奴隷道徳側の勝利だとニーチェは言ってる。
「強者的存在」と言ったキミがもしニーチェを読んでいたなら、このロジックを念頭に
置いて議論したはずだが、キミは全く考慮していなかった。だから未読だと判断したのだよ。
ちなみに俺の議論はむしろ反ニーチェ的だったが(奴隷道徳のみを語っていた)
このことにも気づけないキミは間違いなく、ニーチェの議論を理解してないね。
318 :
考える名無しさん:2006/07/08(土) 02:11:43
>>1 スレタイのような事を謳って無茶なことを
する奴がいたとしたらやっぱりウザい。
こんな奴になって人から嫌われたくないと思うのが普通だし、
たいていの人に「己の欲せざる所を人に施すこと無かれ」の心が有るから
自己中→×
という常識ができてそれが引き継がれてるんじゃない?
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
( 人____)
|./ ー◎-◎-)
(6 (_ _) ) カタカタカタ
| .∴ ノ 3 ノ ______
ゝ ノ .| | ̄ ̄\ \
/ \__| | | ̄ ̄|
/ \___ | | |__|
| \ |つ |__|__/ /
/  ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ ̄| 〔 ̄ ̄〕
| | ̄
319 :
考える名無しさん:2006/07/08(土) 03:58:46
「宗教は正しい」という考え方には客観性がない。そう考えているのはあくまで人間だからな。
したがって「宗教は正しい」という考え方は正しいとはいえない。
320 :
考える名無しさん:2006/07/08(土) 08:00:40
暇だし、リアクションあるのはここだけだし。
短歌も俳句も出来ないし。
自己中なのは、類推することが出来んほど未熟だから嫌われるんでしょ。
物事よく分からん人は、他人の意見を聞く態度を身につけるだけでよい。
あー簡単。
321 :
考える名無しさん:2006/07/10(月) 08:14:03
319はあくまで人間だから、全く同じロジックで、以下の主張が成り立つわな。
したがって『「宗教は正しい」という考え方は正しいとはいえない』
という考え方は正しいとはいえない。
今さらちゃぶ台返し遊びをして何が楽しいんだか。
322 :
考える名無しさん:2006/08/12(土) 09:28:44
んあ
323 :
考える名無しさん:2006/08/12(土) 10:35:13
Christが人類を思って自己犠牲の精神を発揮し十字架に服したとしても、Christが
自己を愛していなかったとは言えない。「私は神である」と言って、Buildingから飛んだ
男が、下に落ちて死んだとしても、他者に役立った、神性だったとは言えない。彼は神性の
共感性について理解していなかったのだ。Christと彼の違いは神性についての認識の違いだ。
自己を愛せなければ他者を愛せないゆえに、他者よりも自己を愛するのが先だ。自己を愛さないで
他者を愛することは最大の裏切りだ。Christが死後世界宗教の教祖として崇められたのも、神性な自己
としての愛に最後まで誠実だったからである。
この世の考えは全て自己中なんじゃないの。
他人の考えてることを、他人のクオリアで
完全に把握できない限り。
325 :
考える名無しさん:2006/08/18(金) 07:59:02
ふっ、浅いな・・・
326 :
考える名無しさん:2006/08/18(金) 08:32:37
327 :
考える名無しさん:2006/08/24(木) 16:52:35
age
328 :
考える名無しさん:2006/08/24(木) 17:33:29
>>8 にインスパイヤされて
「 自己中 」 と 「 タコ中 」 が あるなら 「 中古中 (チュウコチュウ) 」があってもよかろう
329 :
考える名無しさん:2006/08/24(木) 18:33:25
>1
自己中心的ですと人間は物事の理を悟れぬ為に知能の発育を妨げられて正しい智恵を産みだせません。
知能が発育しないと言うことは知能が潜在してしまうことです。
そして正しい智恵を産みだせないと戦争や経済的暴力や犯罪の絶えない社会に成ります。
自己中心的の呼び方を変えると自己愛に成りますが同じ自己愛の集団が集団的自己愛と成り、社会全体が
身勝手な思いから生じる自己愛に捕らえられると総体的自己愛と成り人類全体の知能が発育しません。
自己中心的と言っても、その度合いで物事が判断されますが一口に言うと人類の病気みたいなものです。
330 :
考える名無しさん:2006/09/07(木) 21:14:29
「自己中心的考えのできない者」がどうやって「多己中心的に」考えられるよ?
「自分の考えより他人の考えの方がよくわかる」なんてありえね〜だろw
331 :
眼差しの丘とある崖上の感情:2006/09/07(木) 21:53:36
よく道に迷うんですけど
332 :
考える名無しさん:2006/09/07(木) 21:56:20
333 :
考える名無しさん:2006/09/07(木) 22:03:00
禅宗なもので
334 :
考える名無しさん:2006/09/07(木) 22:06:20
335 :
wisteria-1 ◆3MvUSsmnEU :2006/09/07(木) 22:06:23
良し悪しではなく、自分の内部、というものは、外部を措定し、それとの交通がない限り、成り立たない。
336 :
考える名無しさん:2006/09/18(月) 01:55:09
情けは人の為ならず
これに尽きると思う
337 :
きんぴら:2006/09/18(月) 02:00:51
どうあがいても自己中心性からはなん人も逃れられないよねぇ。
>>336 それは確かだ。情を掛けておけば、ゆくゆくは己がその情けに
救われます。確かです。
338 :
考える名無しさん:2006/09/18(月) 06:14:34
ある意味では誰もが自己中心的といえる。だが、現実社会では自己中心的な行動は自己の利益にならないことが多い。
例えば一回相手を騙せば相手は警戒し、次回からは騙せなくなる。それどころか仕返しされる危険もでてくるし、自分が騙す人間だという評判が広がれば誰もが警戒し、さまざまな制約がでてくる。
339 :
考える名無しさん:2006/09/18(月) 06:16:33
自己中心とだますことがどう関係あるか明らかにしないとねぇ
340 :
考える名無しさん:2006/09/18(月) 06:27:23
>>338 騙す事だけが自己中じゃないし
人間の行動のほとんどが自己中
341 :
考える名無しさん:2006/09/18(月) 06:31:14
自己「忠」っていいと思わない?
自己忠
342 :
考える名無しさん:2006/12/01(金) 13:20:50
自己中でもいいじゃないか
343 :
考える名無しさん:2006/12/01(金) 13:37:35
344 :
考える名無しさん:2006/12/01(金) 13:43:41
自己中だと人間関係で周りに嫌な思いをさせて
結局それが自分に返って来るから
345 :
考える名無しさん:2006/12/01(金) 23:58:01
>>344みたいな事を一回見聞き、また体験すれば
自分が嫌われて寂しい思いしたくなくなるから。
自己中と防衛心て、常に連動すると思うよ。
347 :
考える名無しさん:2007/01/18(木) 08:11:56
「自己」がself、「自我」がegoだとすると、egoismは「自我中心主義」
と言うのが正しいんじゃないか?
348 :
考える名無しさん:2007/01/18(木) 08:44:34
自己中心も、
唯我独尊までいけば、
すごいけどね
349 :
考える名無しさん:2007/01/18(木) 12:39:24
>>348 それは超人思想だね。
普通の人間のエゴイズムなんてまるでちゃちい。
俺のエゴイズムから推し量って、おまえのエゴイズムなんぞたかが知れるw
>>1
なぜ浮気はいけないのか?
彼女または妻にばれさえしなければいいのだ!
いやばれた所で、体はくっ付いたけど心はバラバラだったから
浮気とは言わないのだ!などと言って相手が納得するわけはないだろう。
理屈で悪と定義できないものは悪ではないなどと考えてはならない。
直感で悪いことと感じるのならば、自己中心的な考えを止めたほうがいい。
直感は自分の性格を作り上げていると思う。
学問以外で直感に逆らった思考・行動をすると、精神を病むのではないだろうか?
>>344 自分に帰ってくるから自己中なことしないと言うなら、
それも結局遠回しな自己中じゃないか?
自分に〜とか言い出したら、それはどうやってもにエゴイスティックな主張にしかならないと思うぞ。
結局こういうのは「自分のエゴ」と「みんなのエゴ」の対立でしかないとおも
352 :
虚構世界内存在 ◆vWilh8Qklc :