>>594 っていうか、哲学なき現代社会の方が間違ってると思わないのか?
602 :
考える名無しさん:2007/09/23(日) 21:56:20 O
そもそも、現代社会以前でも、日本に哲学の根付いた時代が有りましたか?
>>602 まるで昔のマルクス主義の議論みたいだな。哲学の、をマルクス主義の、にそっくり置換できるよ。
で、吉本なんかが「共同幻想が大衆の深層意識にあるんだから、そっち見ろ」と、実質的にマルクス主義から離脱する。
日本の慣習がこれこれだから、という議論を見ると吉本のような保守精神むき出しの話を連想してしまうな。
(インテリや大卒者(の人口が少なかった時代のことだが)においては、狭義の「哲学」ではない方の、
「思想」みたいなものなら、一定根付いた時代もあったが、これもマルクス主義と同様に、
「日本の社会に」根付いたかと言われるとそういうものではないし。インテリとエリートの抱える問題だったからね
…まあ、かといってエリート像の姿が見えにくい現代において、こういう言葉を書くと、単にエリート気取りみたいになるから微妙なんだが)
スレ汚しごめん。
どうするのでしょうね、将来の私は?
とりあえず、これまでの一年くらいとこれからの半年くらいは読解は滞ることになるわけですが。
神秘主義というと私に思い浮かぶのはプロティノスとかですね。
つまり、直接は記述できない根源を想定する形而上学。
根源に近づくにつれて計測に使える尺度が減っていくので記述できない。
例えば、癲癇の発作においては発作中にたった時間がどれくらいかは分からない。
(ニーチェが『ツァラトゥストラ』の最後のほうでこんなことを言っていた気がします)
根源からの分化や流出としてこの世界を説明する。
神秘主義についてはあまり詳しくはしらないので、教えて下さい詳しい人。
平凡社から出ている古典哲学シリーズなんかが参考になるかもね。
まあでも、神秘主義というのはどういう系譜がそう呼ぶかで意味が全然違ってくるんだろうと思う。
真っ当な(?)神秘主義なら少なくともベルクソンやジェームズは好意的なるわけで。
神秘というのはなかなか出くわすもんじゃない。だからこそ神秘でありそれに遭遇するのは奇跡である。
そういう普通には目にしないものの存在を認めているかどうかだろう。
ところで目に見えない普通にはアクチュアルでないが実在的なものを潜在性と呼ぶ。
好意的に解釈すれば真の神秘主義は潜在性主義であるはずだ。
一気にまとめさせてもらうと、近代哲学は神学の入り組んだ関係をもっていたわけでもあるし、
哲学に間して漠然と神秘主義などと非難するのは論外だということだよね。
>>607 質問です。
アクチュアルでないのに実在的なものの実在はどうやって確認できるのですか?
檜垣立哉の西田本はその辺曖昧だった気がする。
「流れ」とか言われても…という気がするんです。
痕跡として観測され、事後的に実在が要請される、ということなら納得できますが、
例えばベルクソンでは想起は潜在的な記憶の無限な全体から記憶が出現するのだと言われていたと思うけど、
(そういえば無限についての大澤真幸の議論が良くわからないなぁ…)
その痕跡や要請はどのようにして現れるのか分かりませんし…。
感じるままに生きよう、というスローガンにはうなずけるのですが、
こういった潜在的なものについての議論は下手に誤解すると、
例えば現存在についての議論を一般的な存在者についての議論として読んでしまうように、
潜在的なものを現在において質的に構成されている感覚と混同する危険性があるのではないだろうか。
(これが混同だと思っている今の私の考えはどこに書かれていたようなものでもない私自身の憶測なので間違っているかもしれませんが)
>>608 漠然としたものいいは確かによくないでしょうね。
612 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/10/03(水) 19:21:02 0
こたえてくださーい…お願いします…
大澤信亮か
614 :
考える名無しさん:2007/10/03(水) 23:02:43 0
>>609 >アクチュアルでないのに実在的なものの実在はどうやって
植物の種を蒔いてみる。
616 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/10/09(火) 18:34:42 0
>>614 植物の種の中に何か非物質的なものがあるわけではないですよね?
(いや、確かに論理的には魂とかの存在を否定することは出来ないけど)
植物の種と周囲の環境(場)との自己展開というのは、
単なる比喩ではない(潜在的なものの現実化の)例証なのでしょうか?
素朴に考えると、複雑なものが自然法則にしたがって生成しているだけだといえそうなのですが。
(確かにその複雑さには驚嘆すべきものがあるけど)
617 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/10/09(火) 18:37:50 0
あ、今度檜垣の西田本について一レス要約を書いてみたいと思います。
どうか不足な点がありましたら訂正してくださいますようよろしくお願いします。
>>608 そういう意味で神秘主義なんてつかってないよ。
言葉の定義も使っていいモラルも範囲も何もしらないひきこもりだろ?
何だかわからないものについて人を諭すときに神秘主義が一番つかいがってがいいんだよ。
これで食えるのとか。二元論に持ち込んで人を叩けば満足する人間なんでしょ。
この手の人間は本質的に、教養コンプレックスを偉大てるからわざわざ
こんな板にまできて暴言を吐きたいわけだ(笑)。
今の世界の歴史の趨勢だと神秘主義はドラックと親和性が良すぎて
うさんくさいイメージになってるわな。
619 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/10/19(金) 20:01:18 0
ちょww
全然要約できないw
最後の方(絶対無に行為を織り込むとか何とか…その辺)何言ってんだか良く分からんw
とりあえず絶対無の部分までは頭の中で整理されてきました。
もう少し待ってください…。
あと、ドゥルーズの言う時間の第三の総合って何なのか誰か教えてください。
621 :
考える名無しさん:2007/10/19(金) 22:37:42 0
反復には何種類ある?
キルケゴール的反復とニーチェ的反復は
どうちがう?
エロイ人教えて
ニーチェは全てが一時に生起するいわば反復しない反復
それでいうとキルケゴールはあれかこれかだな
選択的反復
624 :
考える名無しさん:2007/11/04(日) 20:43:48 0
hosyu
625 :
1 ◆XnUmOCT0wA :2007/11/26(月) 17:41:37 0
もうちょっと待って…。
「あと少し」ってところからなかなか進めない…。
絶対無の概念以前に場所の概念で納得いかないことがあるんだけど西田スレで質問してこようかな。
中期西田の思索はベルクソンと似ているわけだけど、
そこで場所という概念が出てくる。
この場所の概念はベルクソンのいう純粋記憶の概念とにたもので、
現在意識に上っている感覚や判断は、この潜在的で意識に上らない理念的に想定された世界の自己限定として現れるといわれている。
ここで西田は場所を何重にも重ねていくんだけど、それはおかしいんじゃないかと思うんだ。
だって、本性上、場所は潜在的なものなんだから。
潜在的である以上、そこから先がどうなっているかは直接は分からないはずだと思う。
でも西田がこんな初歩的なミスをするとは思えない。
なにか見落としていることがあるのかな。
ところでどなたか『差異と反復』での時間論での「総合」という言葉は原書ではどうかかれているか教えてくれませんか?
綜合(ジンテーゼ)という解釈でいいのかなぁ?
ドゥルーズは弁証法を嫌いまくっていたけど。
もしそう解釈すると、時間論はこう整理できることになるかも。
テーゼ:空間的に把握された時間(時間軸のイメージ)
アンチテーゼ:時間軸では説明できない諸経験
第一ジンテーゼ:生ける現在から時間軸という反省が生まれるという時間イメージ(純粋経験)
第一アンチテーゼ:しかしどのようにして生ける現在から様々なものが現れるのか
第二ジンテーゼ:潜在的で理念的に想定されたそれ自身で生成する世界という時間イメージ(純粋記憶・場所)
第二アンチテーゼ:?
第三ジンテーゼ:?
総合といったらヘーゲル弁証法、というわけでは全くない。
普通は、分析(Analyse)-総合(Synthese)の総合だろ。
しかし、ドゥルーズなんだから、まずはカントだな。
『カントの批判哲学』を参照せよ。
まあ、カントの言葉でもう少し言うと、
経験的でない認識の上位の形態としての時間のアプリオリな総合について、
ドゥルーズは延々と展開している、
とかね。
>>627-628 ありがとうございます。
『カントの批判哲学』はちくま学芸から今度出るので出たら買わないと。
アプリオリな総合、ということは批判哲学の手法で第三の総合まで導けるということか。
そういえばカントのデカルト批判が第二の総合から第三の総合へと記述が移る場面で書いてあったな。
アレは…言表行為の主体と言表内容の主体の話と見ていいのかな?
まぁ…『カントの批判哲学』読まないとだけど。
630 :
考える名無しさん:2007/12/14(金) 17:16:57 0
あげあげ
文庫版購入ホシュ
あ、もうでたのか。
…どうだい?出来は?
>>632 注が手抜きだったりする
ドゥルーズスレで結構指摘されてた
636 :
考える名無しさん:2008/02/25(月) 00:32:57 0
ほす
死にスレ上げるなゴミ野郎
638 :
考える名無しさん:2008/03/26(水) 16:28:09 0
639 :
考える名無しさん:2008/04/11(金) 01:58:51 0
あ
ほしゆ
641 :
考える名無しさん:2008/06/16(月) 08:18:34 0
死にスレ上げるなゴミ野郎
>>627 > 普通は、分析(Analyse)-総合(Synthese)の総合だろ。
ラッセルを読め。
643 :
考える名無しさん:2008/06/25(水) 12:28:50 0
644 :
考える名無しさん:2008/08/15(金) 22:02:47 0
645 :
考える名無しさん:2008/09/22(月) 19:13:52 0
だが断る、と一年ぶりにカキコしてみる
sage
647 :
考える名無しさん:2008/11/09(日) 12:41:30 0
差異と反復を読みたい。でもミルプラトーを先に、襞をさきに読みたい。
648 :
考える名無しさん:2009/01/29(木) 00:06:07 0
2009/1/28 15:33
ドゥルーズ関係新刊本 哲学
以前の流儀にならって、まずはドゥルーズ関係新刊本。
まず、Pierre Montebello, Deleuze. La passion de la pensée, Paris, Vrin, 2008.
一昨年、この著者がベルクソン関係の学会で来日した際に、ドゥルーズについ
て講演してもらい、それを翻訳もしたが、それの拡大ヴァージョンを含む本格的
なドゥルーズ論が刊行された。東京で会ったときには、『ドゥルーズ、パラドッ
クスの哲学」という題名で刊行されると聞いていたが、「ドゥルーズ、思考の情
熱=受難』のタイトルのもと刊行された。但し、内在のパラドックス、一義性の
パラッドクス、存立のパラドックス、自然のパラドックス、器官なき身体のパラ
ドックス、美学のパラドックス、即自的現れのパラッドクス、と題された全七章
からなる本書は、いずれの章も「〜のパラドックス」と題されている。章の題目
からもわかる通り、ドゥルーズの存在論や超越論的経験論といった中心の主題に
ついて、ドゥルーズとドゥルーズ&ガタリの基本的な著作を横断しながら、また、
ストアからシモンドンに至るドゥルーズの援用している思想家達に対する本格的
論究を織り込みながら、ドゥルーズ哲学の総体をその哲学的含意を折り開いて余
すところなく描く待望の書物。ドゥルーズ研究史上の画期をなす著作。いずれ、
翻訳が刊行されることだろう。
デュシャンとの対話 みすず書房
14ページに秘教主義とあるんですが、秘教主義ってなんでしょうか?
sage
652 :
考える名無しさん:2009/06/15(月) 19:19:25 0
村上春樹は確実にこの哲人の影響を受けている。
最終的には幽霊になって復活
一章は非常に身になるのに何で二章はあんなに難解なの
問いはシンプルだが、
ヒューム・ベルクソン・ニーチェ・フロイトなど、
かなり異質な哲学説が扱われているから
たいていの人はこのいずれかに不案内
>>658 だから難解なんだと思う
一番いいのはドゥルーズのヒューム論とニーチェ論を読むことでは
ベルクソンはけっこうみんな予習してるから
>>659 ありがとう
せっかくだから原本を読んでみる事にします
ベルクソンについては何を読めばいいの?
>>660 無人島1953-1968のベルクソン論かな
『アンチ〜』『千の〜』におけるドゥルーズはそれとは知らずプルードンの以下の思考法に近づいていったのだと思う。
(斉藤悦則氏の研究サイトより)
http://www.minc.ne.jp/~saito-/travaux/economie.html 新たな方法論とは何か。それは「定義」から出発しないということである。あるいは,とりあえず経済の諸観念は
定義不能であるとの断言から出発することである。しかし,この新たな方法論の意義がどういうものであるのかを知
るためにも,われわれはプルードンにおけるこうした転換が何を契機としたものであるかを確認しておきたい。
転換にとって決定的だったのは,52年と53年に出たコクラン編の『政治経済学辞典』35)である。プルードンは
その4千項目を読み,読書ノートをつけ,「なかなか有益な考え方や貴重な教訓が含まれている」としながら,結論
としては「しかし,科学は一歩も前進していない」36)と断ずる。そして,次のように述べる。
「経済学者たちの無能ぶりと科学の不条理さを目の当たりにして,私は仮説を変えた。つまり,定義された諸観
念を使いながら前に進むのではなくて,未定義の観念から出発した方がよいのではないかと考えたのである」37)。」
ポエムとしては良質なんじゃないの?
665 :
考える名無しさん:2009/09/23(水) 17:46:26 0
一章も二章も難解度にそこまで差はないと思うが
666 :
age:2009/10/02(金) 02:17:42 0
アガンベンは以下のような哲学史的見取り図を提出している。
超越 内在
カント スピノザ
| |
フッサール ニーチェ
\ /
ハイデガー
/ \
レヴィナス、デリダ フーコー、ドゥルーズ
「(略)彼(引用者注:ドゥルーズ)の遺書を哲学の使命として引き受けるとともに、
近代哲学〜その大部分は、新たな意味での「生の哲学」である〜を内在の線と超越の線
ではっきり区別するような系譜図を遡及的に再構成してゆくという仕事も、その一端と
して必然的に課されるのである。それはたとえば、このような概略的な系統図が目安に
なるだろう。」(アガンベン「絶対的内在」『現代思想2002.8』)
スピノザとニーチェをつなげているあたり、的確であると言える。
667 :
666:2009/10/02(金) 02:40:55 0
アガンベンの図を恣意的に加筆訂正してみた。
超越 内在
プラトン アリストテレス
| スピノザ
| / |
| ライプニッツ |
| | |
カント | |
| \ | |
| \ヘーゲル |ショーペンハウエル
| |キルケゴール
フッサール ニーチェ
\ / ベルグソン
\ /
ハイデガー
/ \
/ \
レヴィナス、デリダ フーコー、ドゥルーズ
(本来、フーコーはカントの人間論に、ショーペンハウエルは物自体という概念に、否定的にであれ
影響を受け、彼らはカントをある程度受け継いでいる。また、ここでのプラトン(アリストテ
レスと逆でもよい)の位置づけは、あくまでドゥルーズとの相対的関係に基づく恣意的なもの
だが、『差異と反復』読解にはこの見取り図で充分だろう。)
668 :
考える名無しさん:2009/10/14(水) 15:16:18 0
プラトンの「超越」と「内在」の両義性はあるね。
『差異と反復』でなぜ、「問題」や「微分」において、「イデア」を語らせたのか?
AO以前は、特に『差異と反復』までは、デリダとドゥルーズはかなり親近性があると思う。
1972年にドゥルーズは「脱構築」は敬意を表しますが、わたしの方法とは関係がありません。
みたいなことをあえて言ってる。
デリダの論文「差延」でドゥルーズ引用されてるし
670 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 01:48:14 0
>>669 うん、だからアガンペンの図式はあまりに恣意的すぎる。
超越と内在で分割したくなるのは、心底わかるけど、
違う「切り方」ってのも、もちろん可能だし、(とりあえず)「差異と反復」までは
哲学史に対するある共闘関係にあったんじゃないかと、うっすら考えてる。
デリダやハイデガーはエクリチュールの人だからなー
世界を読むものと思ってるでしょ
ドゥルーズとは違う
673 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 18:25:35 0
違うのは、当たり前じゃないか?
674 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 19:48:51 0
ハイデガーとドゥルーズについては、
「違う」といった問題で片付けられほど簡単ではない。
哲学史の観点からはね。
第1章にある「ハイデガーにおける差異哲学への注」は分かり易い
676 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 19:57:56 0
これで、アメリカの法哲学・法思想界の対立軸の背景にあるものを説明した。
そしてそれらは、大きく@のナチュラル・ロー(バーキアン)派、Aのナチュラル・ライツ(ロッキアン)派、
Bのヒューマン・ライツ(リベラル)派、そしてCのポジティブ・ロー(ベンサマイト=リバータリアン)派の
四つの対立図式であると考えることができた。
この対立図式はそのまま、政治思想の対立図式でもある。
ヨーロッパ・アメリカの近代政治思想のこのような大づかみな対立図式を知らなければ、欧米知識人の
議論の輪に入っていくことはできないはずである。
副島隆彦『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』講談社α文庫:1999年、原著1995年
677 :
考える名無しさん:2009/10/15(木) 20:14:48 0
おちんちんびろーん
これ板違いだろ
ポエム板でやれよ
本スレ消えた…
680 :
考える名無しさん:2009/11/16(月) 13:09:19 O
980越えでdat落ちするんだったな
2010年1月22日発行予定
アンチ・オイディプス草稿
[著者] ピエール=フェリックス・ガタリ
[訳者] 國分功一郎 [訳者] 千葉雅也
A5判 タテ210mm×ヨコ148mm/480頁
定価 ---- ISBN 978-4-622-07514-1
>>681 うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
やっぱり千葉と国分は同士だったのか
つか先輩後輩でしょ
だからポエム板でやれって
686 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 00:25:36 0
最近、日本語で書かれたドゥルーズの解説書にうんざりして
英語のを読んだら、なんとも分かりやすいので感動した。
どうして日本のドゥルージアンはあんなにわかりにくいのか、
篠原、宇野など単なる悪筆か、気取りすぎだよ。。。それとも、
単にセンスがないのかね?
♪立ち去る者だけが美しい。 デリダ&ドゥルーズ。
>>681 俺、ドゥルーズ=ガタリは嫌いなんだよね。
>>686 その人たちは元々哲学プロパーじゃないから
690 :
考える名無しさん:2009/12/15(火) 23:11:43 0
>>689 なるほど、哲学プロパーの方々の書く
ドゥルーズ論は格調高いとこういう訳ですか・
そんなもの、犬も食わないだろ
>>690 英語のドゥルーズ本は哲学プロパーじゃないことが多い
日本語で書かれた研究書と言えるものはまだ江川の1冊しかないから何ともいえない
最近、若手研究者が目立つから、真価が問われるのはこれからだと思います
というか、英語でフレンチスタディーズ系で小難しい本は出版社が出してくれない
>>693 >英語でフレンチスタディーズ系で小難しい本
て、意味不明なんだが。
それにしても、日本語のまとまったドゥルーズ
研究って、確かに江川本しかないね。
鈴木泉すら単著を出してないし。
目立ってる若手もいるけど、今のところ
目立ってるだけで、実質がない。
英米圏の出版社で、英語で、分析哲学ではない
おフランスものを出す場合、内容が硬いと出してくれない
とまで書かないと分からないバカか
いや、けっこう出てるじゃん
>>695 なんで急に英語の本の話になるわけ?
そもそも英語圏のフランス現代思想関係の研究書なんてくさるほどあるし。量的には、下手したらフランス語圏以上にある。何も知らないのはお前だろ。
分析哲学を過大評価してるんじゃないの
>>697 少し前のレスからの流れも読めないおばかさんなの?
700 :
考える名無しさん:2009/12/16(水) 18:53:11 O
そもそも英語圏のドゥルーズ研究が軽視されすぎなんだよ。