931 :
考える名無しさん:2007/05/14(月) 20:42:44 0
俺は輪廻転生の真相には不可知論の立場をとるよ。
結論として、人は輪廻転生の真相を知る事は出来ない。
それでいい。信じようが信じまいが不可知に変わりない。
だが信と不信の両極へ同時に頭をつっこんでみる事くらいはできる
>>931 「知ることのできるもの」って?
極端に言えば、あなたの目の前にPCが本当に存在するかどうかも確実ではない。
その意味ではPCの存在を本当に「知って」いるとは言えない。
不可知論なんてのは、全てを相対化して思考停止してるだけのニヒリズムか、あるいは
自分にとって都合の良いものが存在する確証が得られない場合だけ、存在する可能性が
十分にあると思いこむためのご都合主義的な詭弁にすぎないな。
仏教は輪廻を説かない。
釈迦は無記の一に死後を挙げている。
但し、当時の常識であった輪廻は、仏教内にも当然浸透したであろう。
転じて本邦の古い神道では、死後は山か海に帰り祖霊や氏神となりて一族を守護するモノであり、決して輪廻はしない。
ケルトやネイティブアメリカンも又、輪廻はしないと言った。
基督教は輪廻に近い、死後も個人が永続し裁かれてミレニアムかゲヘナへって話だ。
従って、本来の民族宗教は輪廻観は無く、民族のアイデンティティーを無くした宗教で、個人主体が輪廻する又は絶対者の下に永遠の命を得るって話に変質したと考えられる。
ってのはどうよ?
935 :
まいどくん:2007/06/08(金) 00:20:59 0
生まれ変わりがあるとしたら、
これって、楽しいことだと思うけど、中には楽しくない人もいるだろうなあ…。
正しいか正しくないかはどっちでもいいんだけど…。
皆さん、どう思います。
936 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 00:34:10 0
生まれ変われるかどうかは人によって異なるのでは?
937 :
考える名無しさん:2007/06/08(金) 10:35:15 O
チベット「死者の書」に書いてあるよ
938 :
まいどくん:2007/06/08(金) 11:58:01 0
939 :
考える名無しさん:2007/06/15(金) 22:00:24 0
940 :
考える名無しさん:2007/06/15(金) 22:48:00 O
人は生まれかわると思う。子供を育て、寿命を全うすれば親が先に死に、土に帰るからね。
子供が先に死んでも兄弟がいれば(極論を言えば)同じ価値観の人がいれば人間は生まれ変わるとも言えると思う。
ただこの推論は(わざと思わせぶりな発言であり)説明が足りない。
精神はその庇護者を通じて受け継ぐ事もあるが、庇護される者が疑問を持たないと人間はそこにある問題に対し改善せず。
ただあるがままを受け入れ発展しようとはしない。
一見平和かもしれないが発展という目的においては不毛であり、
人類が言葉により知覚を蓄積し、善悪に分けて判断し、考察しえた結果が現在であろう。
その意味において哲学の学問的要は人類の疑問に対する解答を追究する事であり、
絶対的宗教や原理主義によらず、過去の宗教的知覚に対してそれぞれの精神が都合よく人の生と死に都合よく解釈を与える。
哲学は分裂し、常識として統合される。
この上で私の小さな一意見では、生まれかわりなど存在しない。
存在しないからこそ。多様に議論するわけよ。
存在するのは生命のみ、精神は生まれ変わり得ない。なんとなく生死とその性質に置いて(双子や兄弟が根本をひとつとするように)同じようなそれでいて反発して同じでない。
今現在においては個人が考え方を多様に模索できるのだ。
(私の小意見では)生および共通の理念は生まれ変わり得ても、個人の精神は生まれ変わり得ない。故に、認識においての生まれ変わりは存在しない。
だから宗教者は条件や説明が足りず、発展を拒む真理故に散漫だと思います。
941 :
考える名無しさん:2007/06/15(金) 22:59:48 0
942 :
考える名無しさん:2007/06/16(土) 18:50:20 0
>> 12
両辺をa-bで割る!!!
ストップ!!!
a=b なら a-b=0
0で割ることは許されません。
943 :
考える名無しさん:2007/06/16(土) 19:53:28 0
輪廻転生なるものがあるかないかを議論する前に…
輪廻について考える前に、輪廻の前提となっている
「輪廻する(とされる)主体」について考えてみる必要がある。
輪廻があると主張する人に聞いてみよう。
「輪廻する時、何が輪廻するというのだろう?
不変の主体があるのか、ないのか、
まずそれをはっきりとさせてもらいたい。
>>943 それは無常、無我、縁起、空が分かってる人には簡単なんだけど、
それが分かんない人には分かりにくい。
不変の主体はありません。
現在、私や貴方が不変の主体ではなく、粒子や分子、新陳代謝によって常に無常、無我で空でありながら、縁起して私や貴方という形相を数十年連続してきているように、
生前も死後も無常、無我で空でありながら、縁起して連続していく、
それを心相続と呼んだり、識と呼んだり、魂と呼ぶだけ。
945 :
考える名無しさん:2007/06/22(金) 03:21:26 0
安倍晋三の顔に口ひげをつけると、
ある有名な人物にそっくりです。
というより、うり2つ。
その有名人とは アドルフ ヒトラー
ナチスドイツの独裁者!!!
顔だけならまだいいが、
性格までヒトラーにそっくり。
この人を首相にしておくのは、
あまりにも危なすぎます。
もしかして、安倍晋三は、
ヒトラーの生まれ変わり???
安倍とヒトラーは全然似てないよ。性格も特徴も。
身体を作ってる物質はほかの生き物の材料になるかもしれんけど、
そんなん別に嬉しかないだろ。
仮に、心だの識だの魂だの一部がほかの生き物の材料になったって、
まったく嬉しかねーよ。それ俺じゃねーし!!
俺じゃねーってことは生まれ変わりじゃ無いじゃん。
輪廻・生存ってのは苦なんだよ。
【審議中】
∧,,∧ ∧,,∧
∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U ( ´・) (・` ) と ノ
u-u (l ) ( ノu-u
`u-u'. `u-u'
「814」 「副島隆彦という生き方」というタイトルのインタヴュー記事を、載せます。
最近の私の考えが分かりやすく表明されています。副島隆彦 2006.12.15
http://snsi-j.jp/boyakif/wd200612.html#1501 スッタニパータと、法句経(ダンマパダ)という一番古いお経がある。どうやら仏陀本人の本当の
言葉はこの二つだけのようですね。その他のいろんな膨大なお経は、全部仏陀が亡くなった後に、
弟子たちが勝手に作ったものだ。僧侶が葬式をやったり、お盆にお経をとなえたり死者を祀ったりは、
仏陀は一言も言ってない。ブッダは死に関わるな、と言っている。勝手に後の人たちが作った制度だ。
仏陀自身の言葉は、「愛欲と煩悩を捨てて、この世とあの世のすべてを捨てて、ただ一人歩め。ヘビの
皮が新しく抜け変わるように。サイの角がひとつ進むように。」と書いてあります。
奈良の興福寺、東大寺は法相宗(ほっそうしゅう)という仏教で、中国までやって来た仏教のうちでは
一番古い仏教を伝えている。それは輪廻転生(りんねてんせい)を認めないんです。
来世はない。あの世もない。「この世とあの世をともに超える」とスッタニパータ(「ブッダのことば」
岩波文庫 中村元訳、1984年初版) で仏陀は言っています。だから輪廻転生(りんねてんしょう)
もないのです。そこで私はブッダに従うならば、ゼロ、全くないと思います。「今」という現実は有るの
だけれど、それは仮のすがたであって、すべてなくなるんだ、と。輪廻転生は、仏陀が若い頃、厳しい修行
をしたヒンドゥ教の思想なのです。ヒンドゥ教 ( Hindu 、ヒンズー教、インド教)には輪廻転生が強烈
になる。六道輪廻ですね。生命は生まれ変わる。ですから、不思議な話ですが、本当の仏教(ブッダの教え)
は、徹底的に、無神論(むしんろん、atheismエイシイズム)なんです。
>>950 仏陀の教えはどちらかと言えば、<科学>ではないか。インドでのカルマの教説、バラモン教の教義である輪廻転生に対し、仏陀はカルマ(業)を解脱し「死を永遠の休息としての無に代えよ」と教えたが、これは現代のわれわれの死生観ともしっくりくる。
953 :
考える名無しさん:2007/06/28(木) 01:08:45 0
因果律や
954 :
あめのみやつこ:2007/07/13(金) 23:34:23 O
人間を時日月年に分けるのはおもしろい。物事を瞬間から日、月、年に分けてみると何かが繰り返されていることがわかる。何かが同じように成り立っているのだ
955 :
あめのみやつこ:2007/07/14(土) 00:14:16 O
しかし何事もないようにみえるのは繰り返していることが生物上、非常に単純なものだからだ。人間の言葉でいえばカオス。カオスは人間からすれば無秩序だがカオスの状態も大きくみればつまり宇宙規模ならば何らかの方向性(コスモス)のなかのひとつの時間でしかない
956 :
あめのみやつこ:2007/07/15(日) 02:53:55 O
大きな時間も小さな時間も所詮はすべての生きているものの中にあるものなのだ。だから大きな時間も小さな時間も等しいものなのだ
957 :
考える名無しさん:2007/07/15(日) 04:15:45 O
>>950 なんか間違いが多すぎて突っ込むのがしんどいが釈迦の時代にヒンドゥー教はない。バラモンはいたが。
そして仏教の輪廻の思想はバラモンから取り入れたわけではない。後世できたヒンドゥー教が仏教から取り入れたのだから話が逆。
そしてスッタニパータやダンマパダだけが真正のブッダの言葉とされているわけではない。
小部、中部、長部、などたくさんの仏典が残っている。
教典を本格的に贋作したのはブッダの弟子ではなく後世、大乗仏教を標榜した人達でその流れの法相宗も輪廻を否定しているわけではない。
また普通にスッタニパータを読めばわかるが輪廻思想はもろに出てくる。
煩悩や愛執を滅ぼした人は輪廻しないと言っているだけで修行完成者の死後だけが無記なんだ。
ここまで間違いが多い文章は久しぶりに見たよ。
きんたまを見てみろ。
きみらのきんたまには何億もの精子というなの魂が宿っている。
実のところ、その精子、これまで死んできた生物の魂なのだ。
そして、肉体に値する卵子を得て、生まれ変わるわけだ。
959 :
考える名無しさん:2007/07/15(日) 14:31:06 O
それがわかるといいのだ
960 :
考える名無しさん:2007/07/15(日) 14:37:24 0
> そして仏教の輪廻の思想はバラモンから取り入れたわけではない。
これはどうかな? 輪廻の思想は仏教の独創ではなく、
バラモンも含めてその時代のインド人が共有していたものだろ?
961 :
あめのみやつこ:2007/07/17(火) 21:15:45 O
雲はしれば月めぐり、舟行けば岸移る
記憶が連続してなきゃ、魂は同じでも他人でしょ
963 :
考える名無しさん:2007/07/19(木) 14:54:26 0
輪廻があるなら今の自分も前の誰かになるけど
何にも思い出せない。
964 :
龍宮:2007/07/29(日) 03:05:17 O
永き旅路に思いをはせ 蒼き空舞う雲のように 心の平静保たんと 時の空なる恍惚に 我夢幻のごとくなり
965 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 04:00:43 0
ちゃんと科学として、死を扱ってほしい。
体験できないものは、扱えないといわずに・・・
死後に関しては、未だに納得いく解説をみたいことがない
966 :
考える名無しさん:2007/08/02(木) 23:27:07 O
大円鏡智
967 :
あめのみやつこ(龍宮):2007/08/02(木) 23:31:04 O
何故だ。わかっていると思うが当然どうにもならない。何故それがわからない。当たり前のことだがいつまでたっても何も起こらない。何故だ
968 :
あめのみやつこ(龍宮):2007/08/02(木) 23:36:19 O
わかっていると思うが世界は造りものではない。現実は普通だ。普通はその通りだということだ。その通りのことでしかないのだ。それが現実だ。
969 :
考える名無しさん:2007/08/02(木) 23:46:13 O
では何故奇跡が起こると思う。それはそこまできたから起こるのだ。そこまできたのは何故だと思う。それはそこに到達したからいるのだ。すべては今いる場所に到達したから起こるのだ。よくみるがいい
970 :
考える名無しさん:2007/08/03(金) 01:57:35 O
ヴァージニア大学のイアン・スティーヴンソンの研究の話、出た?
971 :
考える名無しさん:2007/08/03(金) 02:58:53 O
487あえて言うな月のハードやソフトを作るための経験じゃないかな?
>>960 そこは一般説では、ウッダーラカ・アールニやヤージュニャヴァルキャなどがウパニシャッド期に説かれたとされますね。
973 :
龍宮:2007/08/04(土) 19:30:12 O
輪廻とは誰ひとり欠けることなく和になっているということだら
974 :
考える名無しさん:2007/08/04(土) 21:43:59 0
>>972 そう、一般に、仏教以前に彼らの輪廻説は説かれたとされています。
>>957の
>仏教の輪廻の思想はバラモンから取り入れたわけではない。後世できたヒンドゥー教が仏教から取り入れたのだから話が逆。
というのは珍説。大事な所なのにきちんと弁明しない態度だから、他の部分まで信用性を低めている。
輪廻のことを考えて思い出したのだが
みなさんはいつ自分の存在を意識した?
976 :
龍宮:2007/08/05(日) 07:18:07 O
国際大輪廻
977 :
考える名無しさん:2007/08/15(水) 18:53:55 O
盆て変な雰囲気だな
978 :
龍宮:2007/08/19(日) 08:15:18 O
青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず(山水経)
979 :
龍宮:
諸法実相、とらわれない心、流れに身を預け、力を使わず生きる、力とは状況、流れを絶つものなれど、流れのままに使う力もある、それが仏の力なり