輪廻・生まれ変わりはそんざいするか?

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437考える名無しさん
線的時間は、始点と終点が約束されて成される。
→生態系などを考えたときにそれでは説明が不能。
→円環的時間の考察。
→輪廻ってのがあるんじゃね?
438考える名無しさん:2006/06/01(木) 22:51:35
輪廻ってのは哲学的なんだね
439考える名無しさん:2006/06/01(木) 22:57:58
>>437
線じゃない。
円でもない。
点だよ。特に時間的縁起はな。
440考える名無しさん:2006/06/01(木) 23:09:30
>439
そうか?
縁起に関しても因果関係があるのだから「円環」だろ。
少なくとも固定的じゃないわけだし。
441考える名無しさん:2006/06/01(木) 23:13:10
>>440
後ろを振り返ったら、そこに過去が在るのか?
遠くを見つめたらそこに未来が在るのか?
在るのは畢竟この瞬間でしかないんじゃないか?

喩えるなら、氷が融けるようなもんだ。
442考える名無しさん:2006/06/01(木) 23:15:10
因果関係は、因→果の一方通行であって、還ることを
約束する関係じゃねーよ。
443考える名無しさん:2006/06/01(木) 23:26:35
>441
というかなぜ、「点」が考えられるのにその集積である「線」や「円」がダメなのかが疑問。
>442
因果単体なら一方向だろうよ。だげど、
因→果→因→果→因→果→因→果・・・となっていくだろ。
因と果という関係があるのなら、最後の果は、最初の因に結び付く。
444考える名無しさん ◆8U./Lb8Pi6 :2006/06/01(木) 23:34:16
今生きており数十年後には死に、そして十億年経とうがもう二度とそこに自分はいない。
445考える名無しさん:2006/06/01(木) 23:46:41
>最後の果は、最初の因に結び付く。

どうしてよ?
446考える名無しさん:2006/06/01(木) 23:47:51
>>441
その理屈だと今あるものはすべて無になってしまう気がするんだけど…
447考える名無しさん:2006/06/02(金) 00:29:31
>>433 まず此縁性・縁起は一義的でなく多義的である。
そして基本は因果関係であり、十二縁起等は始めから所謂、分位縁起的なのである。
その根拠が>>342 『大本経』

そういう言い方では論証する気になりません。徒労に終わることが目に見えているから。
まず「初期の縁起説と龍樹の縁起説も論理的には同値」を論証するのが筋でしょう。
最低限のマナーぐらいは身に着けましょうね。

>>437 そうだと思います。だから無始無終。
それと直線的終末論的セムの時間が進化論を生み出したのは自明でしょう。

>>438 点ってセツナ滅論? セツナなんて成立しないでしょ。
貴方の仏教理解は非常に浅いことを自覚した方がいいですよ。

>>441 現在があるといったら、セツナが成立してしまうんです。
どんな部分も存在論的には縁起するとしか最終的には言えないのが仏教だと理解してます。

>>446 そうです。だから空であり、無我であり、無常なのです。
448考える名無しさん:2006/06/02(金) 00:51:02
>>447
あなたはアンカーつけて説明してますが、その中での話しの流れは読めていますか?
449考える名無しさん:2006/06/02(金) 00:51:40
>445
最後の果という点があるとする。
→最後ではあっても「果」があるのなら「因」は生まれる。
→それは、「最初の因」か「別世界の因」の2通り。
→その「別世界の因」を考えたとしても、それが無限に生まれるうちに必ず「初世界の因」へ辿り着く。
450考える名無しさん:2006/06/02(金) 00:56:02
>>1
そもそもあなたとわたしの区別は何に基づいて決定されているのか?
証明できないだろうし、あなたもわたしも一体とも考えられる。
同一対象が同一対象に、輪廻や生まれ変わりなどあるものか。
451考える名無しさん:2006/06/02(金) 00:58:24
>>447

だから、百歩譲って縁起が因果関係に置き換えたって、
精神が円環してるってことを論証できてねーっていってんじゃんかよw
それに、意識が(親から子へ)伝達されるということがたとえあったとしても、
それは輪廻の類比としてぜんぜんふさわしくねえよw 回ってねーし一方通行だしw
452考える名無しさん:2006/06/02(金) 01:01:07
>それが無限に生まれるうちに必ず「初世界の因」へ辿り着く。

どうしてよ?
453439・441:2006/06/02(金) 08:51:45
>>447
 >セツナなんて成立しないでしょ。
 >現在があるといったら、セツナが成立してしまうんです。
そう来ると思ったよw

 >どんな部分も存在論的には縁起するとしか最終的には言えないのが仏教だと理解してます。
そうだと思いますよ。線や円といった見方に対応させれば、点と表現するのが妥当だということ。
宮沢賢治流に、明滅する点、とでも言えば少しはましになるか?w

また、円という見方を多少なりとも採用するなら
せめて、螺旋と言ってほしいわけだ。(ただしそれも、線としてでなく運動としてであるが・・・。)

だから、氷が解けるが如く、と言ったのだ。
自分自身を考えてみればいい。自分の一生が「円」になっているか?
また再び赤子に戻るのか?
 (たとえ、後有を受けて再生しても、それは元の場所ではない。新たな、新しい赤子なのだよ。(´∀`)b)
自分の一生が線になっているか?
数学で、点の集合が線であると言われるように、後ろを振り返れば過去の自分がそこに整列してるのか?
 (たとえ、宿命通で幾多の過去生を想起したとしても、それはそこに在るものではなく想起されているだけでしかない。)

線的な時間・円的な時間という言い方に合わせて言葉を重ねるなら、ここらが限界だ。
『時間』という概念を線として捉える者に、縁起・無我の理解は困難だろう。

五蘊無我も、縁起も、無常も、(或いは空も)、どこか他所にあるんじゃない。
自分自身が、五蘊であり無常であり無我であり縁起しているのだ。(自身が空なるものなのだよ。(´∀`)b)