人生論・幸福論哲学

このエントリーをはてなブックマークに追加
86悪魔
幸せは苦しみの一種な気がするんですが・・・

例えば 多くを望まず今有ることに満足し 幸せを感じれるとしましょう。
しかし 幸せと見てた物が失われたとき 苦しみに変りませんか?

世の中の現象に対し 幸せと分ける限り 残りの苦しみが発生しませんか?

欲が有る我々が崩れる要素の無い絶対性を持った幸せを得るには
どうすれば良いのでしょうか?
87考える名無しさん:2006/03/21(火) 05:44:40
>>86
幸福の最大の敵は不安だと思います。幸福は時間的な観念ですから、
これから起こることに対する懸念は幸福感を霧散させてしまう。
絶対に不安が生じないなんて、ありえますか。
ほとんど時間というものを意識することのないような、
よっぽどの馬鹿であれば話は別ですが、馬鹿は幸福を理解できないでしょう。
88悪魔:2006/03/21(火) 06:49:32
>>87
幸福と不幸は一体ではありませんか?
幸福を求め貪る思いは 後に来る不幸を増大させませんか?
幸福に執着することが 人の道と考えますか?
幸せと苦しみの両極を見抜き それに囚われない事自体が
幸せとは考えられませんか?
幸せを求め幸せに偏る性質は苦しみを生じませんか?
89考える名無しさん:2006/03/21(火) 18:21:19
>>88
幸福のために何かを築き上げたり、モノに執着するようなタイプの人間は、
それを損失したときのダメージは大きいでしょうね。
一方、そんなことはみな空しいと思って幸福を求めない人間も、幸福とはいえないでしょう。
幸福を求めても幸福は得られませんが、求めて失敗すると苦悩が訪れる。
90悪魔:2006/03/21(火) 19:00:53
>>89
幸せは崩れうるもので、難しい物ですね。
利己にて幸せを求め、失い苦しむのは耐え難い。
利他にて他者の幸せを求め、他者が苦しんでいる時に共に苦しむのは
耐え難くても受け入れたい。

我々が幸福として求めるのは 利己心による物事ではなく
利他心による物事であるべきと考えられませんか?

幸福は最後には消えてしまう。それであっても多くの人は求め彷徨う。
彼らの望む幸福を諭しながらも与え、消えたならば共に苦しみ悲しむ。

自らの心は中庸にて現象に揺れない為、人の行い難きを行い 耐え難きを耐え、
人の求める所を成し 知恵深く先を諭し 人苦しむ時は自ら苦しいと同じと感じ泣き
人悲しい時は自ら悲しいとして共に泣く。

幸福は利他心によって成されて初めて強い意味を持つと考えますが
幸福の求め方 有り方をどの様に考えますか?
91考える名無しさん:2006/03/21(火) 20:49:49
>>90
私は、いかにして幸福を求めるべきか、という信条めいたものを、
全く持ち合わせていません。

お互いが考えている幸福の輪郭に食い違いがあるようなので、
話が噛み合いませんね。
幸福というのは、幸福感という感覚であると見ることもできるし、
その人の置かれている状況に対しても使われることがあります。
心が満ち足りている状況のことを幸福というのでしょうか。よく分かりません。

幸福感という感覚が存在するならば、それは、
未来に対する期待、もっと核心をついた言い方をすれば、
将来的に獲得できるかもしれない「更なる幸福」の量に起因していると考えています。
差し当たりの欲求が満たされているだけでは、おそらく、幸福感は発生しません。

そして、これが重要なのですが、
将来の「更なる幸福」というのは、おそらく、幻想です。
それに到達したときに与えられるのは、一時の感情の高ぶりと、安息、
そして退屈です。退屈は苦痛ですから、そこで新しい「更なる幸福」を設定せざるを得なくなります。
9291:2006/03/21(火) 21:12:10
>>90
あなたは>>86で、
>今あることに満足し幸せを感じれるとしましょう
と言っていますが、
人間はほとんど現状に満足できないできないものなのです。
しかし、多くの人間は「これ以上はなにもいらない」「現状に満足」という状態を望みながら、
努力し、その努力のなかにたのしみを見出します。
幸福は幻想ですが、その幻想に向かう過程で、幸福感という感覚が得られる、
ということは考えられます。
93悪魔:2006/03/22(水) 07:24:28
>>91 >>92
なるほど!
つまり 幸福とは「更なる幸福」に目指し努力する事の過程により生じて来る物であり、
達成しても再び目差す事になるが、過程が重要で その様な姿勢が建設的だと言う訳ですね!
(*受け取り方に違いが有れば教えてください。)
実に素晴らしい考えです!

私の方は 目標を達成し幸福を得た後で、
それを普通に感じてしまい。 
普通と感じる幸福が有り続けないと
苦痛に感じてしまう現象を問題視しています。

↓続く
94悪魔:2006/03/22(水) 07:26:37
つまり 多くの人は幸福を得ると幸福に慣れ その事を幸福と感じない様に成るだけでなく
執着してしまい 失ったならば強く苦しむのです。

そして 多くの幸せは現象が有る事を幸福とするので 少なくとも自らが死ぬ時には全て失うのです。

これは幸福と言う概念の強い欠陥だと 私は感じるのです。

まだ諦めが効く様な事なら良いのですが、
例えばですが トラックに轢かれ肉片に成った赤子の亡骸を 泣き叫びながら素手で集める母親を見たら
どの様に感じられますか?

過去に戻れたとしたら 彼女は再び子を成す事を選んだでしょうか?

幸福こそ人を死ぬよりも辛い絶望に陥れる苦しみではありませんか?
幸福は初めばかり良く 切らす事が出来なくなり 切れれば過酷な絶望が襲う 麻薬の様な物ではありませんか?
幸福が多ければ多いほど 危険ではありませんか?

ですから 私は多くを望まず利己では必要最低限の事から有る事を普通と思わず幸せを感じ、
利他では人の喜びを見て幸せを感じるのが実に堅実であると考え、
なるべく有る事を良しとするべきでないと考えるのです。

いかが思われますか?
95悪魔:2006/03/22(水) 08:13:51
↑の いかがおもいますか?は
貴方から見て 私の考え方を改善したほうが良いと感じる部分はありますか?
と言う意味です。
96考える名無しさん:2006/03/22(水) 15:34:44
私は>>91 >>92 じゃないが納得しました。

>>94
>ですから 私は多くを望まず利己では必要最低限の事から有る事を普通と思わず幸せを感じ、
>利他では人の喜びを見て幸せを感じるのが実に堅実であると考え、
>なるべく有る事を良しとするべきでないと考えるのです。

ただ、これで幸福が切れた時に襲ってくる絶望から逃れることが出来るだろうか。
97考える名無しさん:2006/03/22(水) 16:27:07
幸福になる必要なんかありはしないと、
自分を説き伏せることに成功したあの日から、
幸福がぼくのなかに棲みはじめた
98悪魔:2006/03/22(水) 19:39:09
>>96
幸福が切れた時に襲って来る絶望からは逃れられない。
幸せを感じた分の苦しみは必ず生じる。
しかも執着が大きければ長い間苦しむと考えます。

その為、幸福を集めようと言う傾向を無くすのが良いと考えます。
幸福と不幸を一体の物と観る事が必要と考えます。
苦しんでいる時に苦しい原理を理解出来るのが良いと考えます。

抜粋された私の在り方は、物理的幸福を集める性質を抑制して
潜在的な苦しみの要素を増やさない事を狙ってます。
(無→有の時の苦しみの原因の抑制)
潜在的な苦しみを少なくする事により心の安らぎを狙ってます。
(無→無の時の心の平安)
顕在的な苦しみの原理を把握する事により 苦しみが継続する原因である 執着を短縮する事を狙ってます。
(有→無の時の苦の時間の短縮)
顕在的な喜びを得た後で それを原因とした苦しみを消す方法は無い。
(有→無の時の苦の量の消去は不可)(プラスで消費すればマイナスで引かれる)

*顕在的=現象の現われた面(表) 潜在的=現象の隠された面(裏) 現象は潜在的と顕在的で一体(表裏一体)
*表が消えれば裏が出る。表を捨てれば裏も消える。幸せは苦しみと一体の一枚のコイン
99考える名無しさん:2006/03/22(水) 19:52:48
>>98
幸福と不幸の振り幅を小さくしようと?
出来る限り「無」に近い状態が良いのかい?
100悪魔:2006/03/22(水) 20:06:02
>>96
利他に関して

現象の幸せの部分を味わい 苦しみの部分を味わって 初めて全体が見えると感じる。
全体が見えない内は誰もが 性質を観ずに幸せを求めてしまう。
その流れは苦と楽二つを実感するまで止まる事は出来ないだろう。

私は幸せに偏る他者を観て 自らの過去と重ね想う。
私は幸せと苦しみの原理を説く。
私は幸せを望むなら幸せに協力しよう。
幸せに成ったなら崩れない様にしよう。
それでも崩れる日が来てしまうから その時は執着を解こう。
幸せと苦しみの狭間に迷ったら 中庸を説こう。

中庸にて利他を想うなら 他者は私である。
101悪魔:2006/03/22(水) 20:08:48
>>99
利己に対し無に近く
利他に対し無限大が良いと考えます。
102考える名無しさん:2006/03/23(木) 00:21:31
良心に反する行為で得る幸福感は一時的なものでしかなく、更なる欲望を生み出し苦しむ
そうでなくても、心の苦しさを味あわなればならない

良心に従い行動して得られる幸福感を求めるべき

具体的な例は各々頭に思い浮かべられるだろう
103考える名無しさん:2006/03/23(木) 00:23:01
 

良心が持続的な幸福感への道しるべとなる


10491:2006/03/23(木) 01:32:57
>>94 >>98 >>100
私と違った観点で説明してくれて大変参考になりました。
あなたの説をまとめると、
不幸の原因である潜在的な苦しみを最小限にするために、
モノや地位など、自分の所有に属するものに執着しないほうがよい、
ということになるでしょうか。

私風の解釈になってしまうことをお許しいただきたいのですが、
モノに対する執着心・追求心というものは、
それを獲得した先に待っている幸福(幸福感ではない)を狙っているように思われます。
しかし、やはりその先に待っているのは幸福などではなく、
一時の感情の高まり(おそらくこれが幸福感)と、束の間の安息と、やがて訪れる退屈なわけです。
退屈を払いのけるために、また新しい執着を設定し、追求を開始します。
そして、その努力のなかに期待と愉しみを見出し、充実を得る。
この状態にある人間に「あなたは幸福ですか」と問えば、「幸福です」
という答えが返ってくるかもしれない。
この幸福とは、「これ以上はなにもいらない」という「ほんとうの幸福」ではなく、
将来獲得されるものへの「期待」から生じているのです。しかし、ほんとうの幸福などは存在しません。

人間が幸福という言葉に抱いている、
「これ以上はなにもいらない」という抽象的な観念のために、この作業は延々と繰り返されます。

あなたは、僕の説に対して、
「幸福に向かう過程が重要なのであり、その姿勢が建設的」とおっしゃいましたが、
幸福を追求して得られるのは、それこそ、(一時の感情の高まりと、退屈と)
あなたが言うような「潜在的な苦痛」の要素なのではないでしょうか。
それが果たして建設的と言えるでしょうか。
10591:2006/03/23(木) 02:16:11
>>94 >>98 >>100
補足します。

あなたの説にも関連しますが、
私は幸福を実感する条件として「期待」という要素を強調しました。
その反対に「不安」という要素は、幸福の実感を霧散させ、不幸の感覚を誘発します。
「期待」、「不安」いずれも未来の事象への予期から生ずるものです。
(幸福を分析する上で、「時間」を考慮することが最も重要だと考えています)

この「不安」の内容ですが、
あなたが言うような「潜在的な苦痛」、つまり、執着しているモノを失うかもしれない、
という恐怖が密接に関係しているように思われます。
それに、何度も書きますが、モノに執着することによって幸福は得られません。

もう少し話を発展させると、
私は、期待が現実になっても「ほんとうの幸福」なるものは得られないことを強調しましたが、
その逆も然りです。不安が現実になったとき訪れるのは、一時の絶望感であり、
それさえ乗り切れば、やがて自分に与えられた状況に慣れていくでしょう。
つまり、不安が生じているとき人間は不幸なのです。
「潜在的な苦痛」の要因が増大すれば、不安の危険も増大するでしょう。
10691:2006/03/23(木) 03:23:42
>>94 >>98 >>100
利他に関して触れなかったので、それも補足します。

あなたは>>96を受けて、>>100で利他に関して述べていますが、
あまりよく理解できませんでした。
>>96の「利他によって幸福が切れたときの絶望を救えるのか」への回答としては、
不十分ではないでしょうか。

私の考えを述べれば、利他の必要性について述べた言説は、
人生訓としてかなり優れていると思います。
「自分よりも不幸な人たちを見て勇気付けられた」という人がいますね。
人間は自分よりも不幸な人間を見て快楽を得られる存在です。
また、多くの人間はかわいそうな人間を助けるのが大好きです。

私は、先に「差し当たりの欲求が満たされているだけで人間は満足しない」
と書きましたが、たしかに、
享楽的な欲求、肉体的な欲求の充足だけでは幸福を実感できないでしょう。
これらは「生きがい」になりえないからです。
しかし、他人への奉仕の快楽は他と性質が異なっているように思われます。
奉仕は、快楽だけでなく充足感をもたらします。
「他人」というのが重要で、親密な人間への奉仕だと、また状況が変わってきますね。
損失する可能性がありますし、不安の原因にもなりますから。

そうすると…
常に他人への奉仕を念頭に置いて行動するような人間は、
モノに執着することなしに幸福を得られるということになるかもしれません。
そのような人なら「これ以上はなにもいらない」という状況を望まないでしょうから、
幻想を追いかける必要もない。
それを技術的に実行する過程で不安が生じてしまう可能性はありますが、
危険が最も少ないと言えるでしょう。
やはりここでも鍵になるのは、期待と不安であると考えます。
107悪魔:2006/03/23(木) 22:49:01
91さんへの返答

>>不幸の原因である潜在的な苦しみを最小限にするために、
>>モノや地位など、自分の所有に属するものに執着しないほうがよい、
>>ということになるでしょうか。
その通りです。

>>「幸福に向かう過程が重要なのであり、その姿勢が建設的」とおっしゃいましたが、
>>あなたが言うような「潜在的な苦痛」の要素なのではないでしょうか。
>>それが果たして建設的と言えるでしょうか。

私は貴方の話を要約して、次の様に実感しているであろうと感じて
>>>「幸福とは「更なる幸福」に目指し努力する事の過程により生じて来る物であり、
>>>達成しても再び目差す事になるが、過程が重要で その様な姿勢が建設的だと言う訳ですね! 」
と貴方に聞いた形になります。

何故その様に建設的であると要約するに至ったか?ですが、
私は貴方が 
(過程による幸せは、来る可能性の有る苦しみと 引き比べたとしても得るべきであり、
苦痛を恐れて幸せに向けた努力を投げ出しては成らない)
と考えているであろうと判断して、
それに対して (幸せを目指すべきと考えている状況)にあっては
この考えは建設的と言え、又素晴らしいと言える。と感じて、
その様な表現と要約をしました。

仮に(幸せは得ると苦しみの要素に成ると分かっているのだけど、
幸せに向かわないと自身が安定できない。)と言った様な、
知性でなく欲望を主体とした行動であると私が感じていたならば、
その様な表現には至りませんでした。
108悪魔:2006/03/23(木) 22:50:25
91さんへの返答
>>私は幸福を実感する条件として「期待」という要素を強調しました。
>>その反対に「不安」という要素は、幸福の実感を霧散させ、不幸の感覚を誘発します。
>>それに、何度も書きますが、モノに執着することによって幸福は得られません。

期待だけを部分的に得る事は不可能と考えます。
幸せの目標があって それに期待する訳ですから
努力すれば成し得るでしょう。幸福はその後 潜在化すると考えます。

期待を持ち努力して得たのだから、潜在化した幸福に執着が出ないのは不可能と考えます。
顕在的に期待した分は 潜在的な執着に変化すると考えます。

顕在的な幸福・期待は 潜在化した時に不幸・執着の要素と成り。
顕在でも潜在でも同じ考えを元にして、表裏が変化して見てると考えます。
その為、考え方を変えるならば 見え方が変るので 執着が短縮可能と考えます。

顕在的に 幸せ 期待 不安は 潜在的に 苦しみ 執着 諦め ではないかと考えます。
109悪魔:2006/03/23(木) 22:51:28
91さんへの返答
>>私は、期待が現実になっても「ほんとうの幸福」なるものは得られないことを強調しましたが、
>>その逆も然りです。不安が現実になったとき訪れるのは、一時の絶望感であり、
幸福は永遠でなく 不幸も永遠ではないと考えます。
幸福は主観であり 不幸も主観であると考えます。

幸せ自体も 苦しみ自体もが 現象その物として存在する訳で無く
一切は空であり 何もない空を見て、  (空=現象に過ぎず実感は現象では無い)
自らの主観が現象から 喜びと苦しみに分けて、 
これが喜び これが苦しみと思い成してるだけであると考えます。

零の実感から 現象に喜びを付けて100と足せば、
現象崩れる時 苦しみにより、100を失う。
期待が執着となって心にこびり付き、零からマイナスへ振り下がると考えます。

振り下がったマイナスの実感は 心に喜び求め、現象に再び喜びを見つけて
マイナスからプラスに振りあがり 心は苦楽を繰り返すと考えます。

人は喜びと苦しみを繰り返す。 確かな物を求めるが実感に実体は無い。
喜びや幸せを求めるが実感に実体は無く 苦楽を繰り返し 遂には何も得るはずは無い。
何故なら幸せ自体が自身の主観する実感と言う幻であり、
最後には零に帰結する性質のものだからと考えます。

喜びと苦しみを繰り返して 実感が零に戻った時、
喜びと苦しみが一体に見え、喜苦の全体を見抜き 喜苦の欲から抜け出る機会と考えます。

喜は苦と同じに見え 原因と結果を見抜き 喜びであっても 苦しみであっても
どちらであっても その様に今あるのなら 心揺れる事無く受け入れようと言う思いあって。
喜びを喜ばず 苦しみを苦しまず 喜びに苦しみを観て 苦しみに喜びを見る 喜苦の見抜きの意識。
現象を現象と見て 実感と言う幻を付ける事無く 現象に心揺れない為 心乱れる事無く 平安に至る意識。
喜苦の欲を離れて、喜苦の中庸を得て、喜苦に乱されない喜を得るのが最終的には良いと考えます。
110悪魔:2006/03/23(木) 22:53:06
91さんへの返答
>>>>96の「利他によって幸福が切れたときの絶望を救えるのか」への回答としては、
>>不十分ではないでしょうか。
>>「自分よりも不幸な人たちを見て勇気付けられた」という人がいますね。
>>人間は自分よりも不幸な人間を見て快楽を得られる存在です。
利他に関する説明は ご指摘の通り不足していました。
説明が長くなり申し訳ないのですが、
利他の概念をお話する機を得たと思い説明させていただきます。

私は何を持って私であるか?と考え末、
肉体でも物質的な如何なる存在でもなく。

欲が私という個の構成要素であり、(我思う我有り、思う事 欲無くして成らず)
私の肉体に宿っている欲の傾向を持って 私の傾向であり、(何処に行くか?)
欲によって練られた理念が 私の特徴であり、(何であるか?)
人生に於いて成した事全てが私自体の 存在である。(何であったか?)
と言う結論に達しました。
(我は肉によって我あらず、その心をもって我と知る)

次に人は私と別の存在であるか?と考えた末、
如何なる生き物・人種・性別に左右されること無く。

全て生きし生ける者 個の構成要素は私と同じく欲であると考え、
次に他者が私と同じ性能で 同じ経験をし 同じ環境にあったなら、
私と同じ欲の傾向を持ち 私と同じ理念を持ち 私と同じ特徴を持ち
私と同じ存在を示したであろうと考え、
私の理念を私で有ると考えるのならば
他者が私の理念を持つならば それは私に他ならないと考えました。
(人は同質にして 違いなく心を受ける。 心変れば人変る 心が人なり)
続きます↓
111悪魔:2006/03/23(木) 22:53:50
91さんへの返答
更に人の精神の喜怒哀楽なる感情は共通であり、
集合的無意識(ユング)より枝分かれして個として生じ、
最終的に集合的無意識に帰る存在であろうと考えました。

そして 原因があって結果があり 結果は原因により導き出された物であり 偶然は無いと観て
人の作為一つ一つが原因を生じさせる性質のものであると考えました。
(因果)

人の持つ要素は 他者の持つ要素が同じだった場合 引かれ合うと考えました。
(人を不快に感じるのは 同様の要素が己に有る)
(人を素晴らしく思うのは 同様の要素が己に有る)
(自身に他者と同じ要素が無い場合は 関心が沸かず現象としてしか認識できない)
(人は同じ要素を持つもの同士が縁を持ち引かれ合う)
(因縁)

全ての実感は自身の心の現れにより生じて、
全ての現象に実感を持つのは自身の責任である。と観て、
私の感じる世界そのものが私に他ならないと考えました。
(一切皆空)

人間は現象に惑わされて、本質を観ずに迷い苦しむ事を思い
人間であることの悲しさを思い。
私を含めた全ての存在の悲しさと苦しみと絶望を考えました。
(一切皆苦)

人は理念あって分ける事を慎めば、
理念が理念を呼び、全ての苦しみから解放されうると考えました。
(一切皆楽)

続きます↓
112悪魔:2006/03/23(木) 22:54:31
91さんへの返答

上記の考えを元に下記の結論に達しました。

この世のあらゆる存在が私である。
他者が苦しんでいるのは 私自身が苦しんでいる事に他ならない。それは私である。
他者が喜んでいるのは 私自身が喜んでいるに他ならない。それは私である。
他者に理念を諭すのは 私を根本的苦から救いたいに他ならない。 それは私である。

全てが私であり、利己と利他のズレが無く 欺瞞を含まない。
究極の利己である利他。
それが私の利他です。

説明上 >>90>>94などで 利己を使いましたが
それは 自身という個の物欲を満たす欲望を指します。

不明な点をご指摘ください。
113考える名無しさん:2006/03/23(木) 23:09:39
悪魔さん、もっと簡潔に纏めてよ。
114悪魔:2006/03/23(木) 23:38:42
>>113
簡潔に纏めると非常に分かりにくいと思われますが、

有るならば失う、有るものに喜べば、苦しみは避ける事は出来ない。
あらゆる実感は自らの主観であり、実感に実体が在る訳では無い。
その為、現象に実感を付けて偏っても何も得られる事は無い。

全ては人間は同じ要素によって成立してる同質の存在である。
違うのは考え方である。考え方が同じなら 他者は自分自身と同じ存在である。

自身と他者を分け隔てる事無く接して大切にするならば
自分自身を大切にするのと全く同じである。

大体この様な内容です。
何故その様に主張するかまで書いてしまったので長くなってしまいました。
申し訳ないです。
115悪魔:2006/03/25(土) 11:22:05
利他は幸福以上に難しい概念と思われる。

自分よりも不幸な人間を見て快楽を得て、
それを助けることによって自身を美化するのは
あくまで利己であり利他ではない。

我執強い限り、利他はあり得ない。
利他は他を己自身と見ることによって、
初めて利他となりえる。
116悪魔:2006/03/25(土) 11:29:40
そもそも 我々は大きな意志の中で
欲を持って個と分け隔てているに過ぎない。
同じ意志の流れの中で、
同じ要素により個と分けた存在同士が、
各々が自身こそ全てと思い成してるに過ぎない。

エゴによって人を助けて喜びを得ることは
欺瞞に他ならない。

利他を論証によって解き明かし、
検討するならば
長いやり取りになるだろう。

別に利他に関するスレッドを立てますか?