■続々々・数学も物理も出来ない哲学者なんて■

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698考える名無しさん:2007/08/21(火) 17:35:15 0
哲学者の言う「実在」は言語じゃないんじゃないだろうか。
言語の向こうにあるありありとしたものに、名前をつけてるだけ。
だから言葉で定義しても不完全。
一方で数学ひいて理論物理はルールだから。現実がどうとか関係ない
699考える名無しさん:2007/08/22(水) 07:21:34 0
理論物理は現実と合いそうな数学を引っ張って来るわけだが。
700考える名無しさん:2007/08/22(水) 07:47:21 0
数学ってバカの反射神経でしょ。数学やってる人は言語能力低いし、
オタクっぽいし。高貴な哲学の優雅さにはかなわないね。
701考える名無しさん:2007/08/22(水) 08:11:30 0
物理学の研究には。数学における
  ゼロ。1.負数。無限大。虚数などなど
  難しい問題がありすぎて今後とも研究が大変です
  どうしましょう
702考える名無しさん:2007/08/22(水) 08:14:55 0
男2人の乗った気球が深い谷の淵に不時着した。大声で助けを呼べば谷にこだまして声が遠くへ
届くかもしれないと思い、彼らは叫んだ。
「おーーーーーーーい、ここはどこだーーーーーーーーーー!」
15分後、返事がこだまして返ってきた。
「君らは遭難したーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
2人のうち一人が言った。「あれは哲学者に違いない。」
他の者は困惑して尋ねた。「どうしてそう思う?」
「理由は3つある。
1、彼は答えるまで長いこと考えていた
2、彼は絶対に正しい
そして、
3、彼の返事は何の役にも立たない」
703考える名無しさん:2007/08/22(水) 08:42:28 0
 c点による時空論ーーヤフー検索ーー
  これは数学以前の問題です
  無限ーー新しい考えでs
704考える名無しさん:2007/08/22(水) 14:39:39 0
>>701
8元数だの16元数だの、どうしようもない物まで使ってるのは物理だろ。
705考える名無しさん:2007/08/22(水) 16:22:10 0
おまえら全然なにも分かってねーな
706考える名無しさん:2007/08/23(木) 05:43:04 0
どいつもこいつも、物理を知らんようだなw
707考える名無しさん:2007/08/23(木) 09:25:58 0
ゼロ。と1.があれば。プラス。マイナスで2進法で
数学が成り立ちコンピュウター処理もできます。しかし
ゼロとは何でしょうか。1.とは何でしょうか。
708考える名無しさん:2007/08/23(木) 10:07:47 0
日本では、戦後、学者・知識人が圧倒的な数で、「科学的社会主義」などという、ソビエト帝国型の考えに
集団で脳を犯されたので、「科学的」といえば「社会主義(共産主義)のことだと信じ込んで、この
「科学的社会主義」という宗教を日本国民に、各種高級学問の振りをして押し付けた。それを商売として
やったのが、岩波書店である。だから日本国民の方が、すっかりイヤ気がして、「科学」というコトバを
使わなくなった。なぜなら使ってみても、ちっとも「科学的」ではないからだ。「君の考えは科学的だね」
と友人に言ってみると、まるで、馬鹿丸出しで、「一体、オマエは何が言いたいんだ」と、相手から嘲笑
されるからである。ソビエト教の信者以外の世界では通用しない。だから、日本人の「科学」不振は物凄く
深い。そこで、私が、「哲学は科学じゃないんだよ」というと、日本人はケゲンな顔をする。何を言って
いるのか分からない。哲学というのは、日本では「文学部哲学科」だから「文学」のお友達で、これは、
絶対に「文科系」だよ、となる。そうではない。哲学は、科学の一種とは違う。神学の一族なのだ。
Philosophy is not a science!
アメリカ人やイギリス人の大卒の人に尋ねてみるとよい。彼らは、必ずこう言う。例外はない。
こんなことも知らないで日本人は、「自分達も欧米人に負けない高等学問をやっている国民なのだ」と
思いこんでいる。日本の大学生が、学制(カリキュラム)として大学で受けている講義は学問などでは
ない。あれは「土人のコトバ遊び」だ。
副島隆彦「決然たる政治学への道」P171〜177
709考える名無しさん:2007/08/23(木) 10:09:24 0
「809」 副島隆彦の「ミネルバの梟(ふくろう)は夜、飛び立つ」論。

私が原著は12年前に書いた本である「決然たる政治学への道」(弓立社=ゆだちしゃ=刊、2002年)の
P.174に、「本当は学問の体系はこのようになっているの表」で、私は、はっきりと、「フィロソフィー
(×哲学と訳すのは嫌いだ。知恵の学)と数学は、神学(セオロジー、テオロジー)の下女、はしためである」
そして、「サイエンス(ヨーロッパ近代学問)と、この神学が、大きく闘うのである」と書いた。
神学(セオロジー)は日本人には分からない。「神学論争」なる言葉は、日本語になっているが、その中身を
日本人で分かる者はいないだろう。そして、その下に、初級学問=下等学問としての、ヒューマニティーズ
(人文、じんぶん、人間の文字による記録、石碑、古文書の解読、文学部の世界)があるのだ、と書いている。 

「数学は、神学の下女」なのだ。これは、ヨーロッパの学問の体系の中では、はっきりしていることだ。
数学は、決して自然科学(しぜんかかく、ナチュラル・サイエンス)には、所属しないのだ。
ただ道具として多用される。私、副島隆彦がこのように書いて、まだ反論したり、何か異論を唱えることの
出来る、日本人は、誰でもいいから、名乗りを挙げて出来てください
710考える名無しさん:2007/08/23(木) 10:10:55 0
ここで、突然、話が変わるが、私は「学問」あるいは「科学」とは何か、についてどうしても説明しておかなければならない
と思っている。「科学(サイエンス)」とは、「学問(サイエンス)」である。科学と学問は同じものである。、というと、
「そんなことはない。科学は科学で、学問は学問だ。別のものだ。なぜそんなことを言うのか」と思う人が多いだろう。
日本人は、知識人と自認する人でも、この程度なのだ。これまで説明したとおり、西欧人は、16世紀以降「学問(=科学)
の対象として、科学的(学問的に)に、日本を解部してきたのである。
(中略)
日本人は、「理科系=科学」「文科系=いい加減な、自分勝手な、自分勝手の考えの寄せ集め」だと考えている。もっと言えば、
ある人が「数学」ができるかできないで「理科系」と「文科系」に分ける。この考え方には、大きな欠陥がある。ここに、
西欧人が共有する、世界普遍価値から、日本人が脱落する原因の一つがある。今から五百年前、すなわち十六世紀に西ヨー
ロッパで「科学=近代学問」というものの考え方が興ったのだ。十二〜十三世紀ごろには、修道院の僧侶(モンク)たちが、
神への祈り中心の生活信仰をしていたのだが、そのうち「合理的精神(ラショナルマインド)」に目覚めて、考える」とか
「知る喜び(ちなみにphilo-sophy フィロ「愛する」、ソフィア「知を」の意味から「哲学」が生まれた)とかいう考え方を
手に入れるようになった。彼らは、キリスト教の聖典である「聖書」だけでなく、古く、ギリシア古典学の、とりわけ
アリストテレスの学問体系に巨大な真実が隠されていることに気がつくようになった。このようにして、僧侶の中から、初期の
「科学者」が誕生するようになった。
(中略)
711考える名無しさん:2007/08/23(木) 10:11:37 0
日本人は「科学」というと、「物理学」より「工学」のことを思い浮かべる。「工学部」というのはテクノロジー・デパート
メントのことで、「科学技術」のことだ。あるいは、限定すれば「機械工学」エンジニアリングのことだ。そしてこれらは、
実は、サイエンスが発見した自然法則(ナチュラル・ローズ)を、産業に応用して、人間の生活に役立つ工業製品を作り出す。
それが技術(テクノロジー)なのだ。だから「工学」「機械工学」は、厳しく言えば学問(サイエンス)ではない。
テクノロジーとは「応用科学(アプライド・サイエンス)のことなのである。だから発見することが学問(科学)なのであり、
科学技術は発明であるに過ぎない。そして西欧の知識伝統では、発見がすばらしいことであり、発明は「実用新案」に
すぎないと考えられている。
副島隆彦「決然たる政治学への道」P167〜169
712考える名無しさん:2007/08/23(木) 20:38:53 0
オレは哲学の天才だが、哲学をやるわけではない。
やるとすれば哲学ではなく、メタ哲学の方だろう。
最近は、語用論的意味論からの手法を社会現象まで
一般化することを試みている。その一方で、リビドーまで
含めた統一見解の建設を目指してもいる。統一見解
としては、一般に妄想分裂positionが有望視されているようだが、
あんな非現実的なモデルでリビドーの統一が完成するとは
到底思えない。より本質的かつ現実的なアプローチが
求められているのである。
713考える名無しさん:2007/08/23(木) 22:57:11 0
文系乙w
714考える名無しさん:2007/08/24(金) 02:36:43 0
どんな大理論でも必ず修正されたり覆されたり、もっといい見方が出てきて「ウソ」になる可能性がある。
しかし、その理論が出された時点では正しかった。したがって科学とは、その時点におけるもっともレヴェル
の高いウソである。
(中略)
前に、「科学とはうそをつくことである」と言ったけれど、ウソだけの話になってしまっても困るんで、今度は
別の面から、科学とは何か、話そうか。サイエンスという言葉は、語源がラテン語のスキエンザSCIOで、「知る」
という意味なんだ。SCIOはアイ・ノウ、NESCIOはアイ・ドント・ノウということで、SCIENTIAが知ること。
要するに科学とは「知ること」なんだ。だから、「知ること」が基礎かどうかなんてあるはずがない。知ってから
何に使うかは別問題だよ。「知る」ためには、ストーリーが必要になるよね。「○○は××である」という
話になって「なぜならば」という理由が付いて初めて一つのストーリーができるわけ。そのストーリーをこちらが
諒解して、納得するという行為がサイエンスなんだと、僕はずっと思っている。「なぜならば」の部分をどういう
ふうに証明するか。その理由は時代によって内容もやり方も違う。ウソでもいい。あるいは時代が変わればウソに
なる、というのはそういうことなんだ。
日高俊隆 竹内久美子 「もっとウソを」
715考える名無しさん:2007/08/24(金) 02:37:24 0
アメリカでは、学問(サイエンス)というのは、「自分の打ち立てた仮説(理論)を、実際の、現実の社会の中でみずから、
ポリシーメイカー(政策立案実行者)として実験してみて、その結果を冷酷に検査すること」なのである。
これを、positivism (人為的実験証明主義とでも訳すか)と言う。このポジティビズムを、「実証主義」などと、訳して、
分かった気になるな。この世で、実証できるのは、自然学問(代表、物理学)系の実験だけだ。こえは厳密に同じ条件で
誰がやってみても同じ結果になるものだから、これは本当に学問(サイエンス)なのだ。
ところが、人間社会を対象にする学問、すなわち、ソシアル・サイエンス(私は、社会学者という訳語が嫌いだ)は、本当に
サイエンスとして成立しているか、ものすごく、今でも怪しいのだ。なぜなら、現実の人間社会を使って実験証明(ポジティ
ビズム)するというようなことは、できないからだ。ソシアル・サイエンスとは、それでも、一応、次のようなものだ。
人間社会を刺し貫く諸法則を発見すること。かつそれは、個々の人為や願望から独立した客観であり、同一条件でなら、
世界中どこにでも存在するものでなければならない。そしてそれらを、冷酷に記述することである。
だから、これは、文学即ち、=下等学問=夢の世界との混合=人文(じんぶん)=今の北朝鮮の人間たちと同じ
=カルトの世界=幼児の並みの人々=なのに自分を知識人だと勘違いしている日本の文芸愛好的読書人階級。
これらの、一切を排除したものの考え方のことである。ところが、このソシアル・サイエンス(政治学、経済学、社会学、
サイコロジーの4つ)がアメリカでも、1980年代に、どうも、うまく行かない、ということが、判明し始めて、それで、
世界的に困った事になったのである。アメリカ行動科学(ビヘイビアラル・サイエンス)という、壮大な学問体系は、
50年代にアメリカで起こり、そして80年代には崩れ去ったのだ。

副島隆彦「属国日本論を超えて」P37〜38
716考える名無しさん:2007/08/24(金) 02:38:50 0
疑似科学やオカルト、あるいは宗教などといったものと科学はどこがちがうのか?その境目が曖昧になっている
ことがよくあります。反証可能性―つまり、反証できるかどうかということです。これを言い出したのはカール・
ポパーという人です。有名な「科学的発見の論理」という本の中でポパーは「科学」をこう定義しました。
それは「科学は、常に反証できるものである。というものです。科学においては、完全な証明というのは永遠に
できない。そして、ポパーが主張したのは証明はできなくても反証はできるということなんですよ。
つまりこういうことです。科学というのがほかの知的な、あるいは知的ではない営みとちがうところはどこなのか?
どこに境目があるのか?たとえば疑似科学や宗教といわれるものと科学はどこかちがうのか?そういうことを
つきつめていった結果、ポパーはそれらを区別する方法として、「反証可能性」をあげたわけですなんです。
「科学」は常に、反証できるものである」とはっきり定義したのです。ひらたくいえば、理論に反する実験や
観察ができたらその理論がダメだということでを潔く認める。それが科学だっていうんです。それに対して、
たとえば疑似科学とか宗教とかいわれるのは反証可能ではない。
竹内薫「99%は仮説」
717考える名無しさん:2007/08/24(金) 03:46:34 0
果汁グミ食べてたら、頭痛が。
マシュマロもだめなんですよね。
718考える名無しさん:2007/08/24(金) 09:53:57 0
数学は哲学に近い学問です。物理学はどこまでも
自然界が目標。相対論も量子論も自然界の研究から
生まれたもの。数学はどこまでも純粋に理論を研究
するもの。ピタゴラスの定理も純粋な平面での真実
で球面では成立しないなど。物理では現実が咲き。
719考える名無しさん:2007/08/24(金) 11:10:39 0
ヒモだのMだの、どこが現実が先?
720考える名無しさん:2007/08/24(金) 11:54:33 0
物理学も特に理論物理では理論が先行する。
しかし最後は現実に戻る。どうでしょうか
721考える名無しさん:2007/08/24(金) 13:53:36 0
偏執的に副島コピペしてるやつって
あたまおかしいのか?
722考える名無しさん:2007/08/25(土) 02:11:00 0
まぁ正常ではないだろう
723考える名無しさん:2007/08/30(木) 14:59:37 0
物理やってるか?
724考える名無しさん:2007/08/30(木) 15:04:24 O
>>721
本人じゃね? 有名人が普通に書き込むとばれるからコピペ
725考える名無しさん:2007/08/30(木) 17:44:01 0
田舎の国立大学文理学部理学部数学科数理論理科学科とか 
理論や哲学追求して食えなくなりそうでか弱そうでカコイイ!

大都市の高専工学部とか
バリバリ食っていけるDQN総合職にまでなれそうでカコワルイ!
726考える名無しさん:2007/09/03(月) 14:30:09 0
これは見事だ
一本釣りされたよ
727考える名無しさん:2007/09/28(金) 03:59:37 0
学問のNO.1は経済学ですよ
728考える名無しさん:2007/09/28(金) 04:01:21 0
嘘ついても食える。最強だなw
729考える名無しさん:2007/09/30(日) 16:00:00 0
独仏英羅希はできないと、例えば哲学で知ったか以上の事を語るのは難しい。
よく文系理系の話で出てくる文系は文系というより単に勉強しない人。
730考える名無しさん:2007/10/03(水) 00:58:31 0
哲学やる上で、物理学とか数学を真面目に勉強してる人って、ここの板にいる?
量子力学の確率解釈とかの分野を勉強したいんだけど、
どういう風に勉強すれば良いかで悩んでる・・・。
731考える名無しさん:2007/10/03(水) 04:36:05 0
ぶはは派〜逆〜基本が他学問で〜。哲学は基礎教養ってことでいいのでは
この板は気分転換場にし思ひます ああいいこといったloveりい〜Φ ひぃぃ
732考える名無しさん:2007/10/03(水) 10:25:19 0
>>730
物理学上での哲学と、数学上での哲学であれば、その哲学を行うには
数学や物理が必須で論じる前に勉強すべきないようであるが、
それ以外の哲学では物理も数学も一切不要である。

哲学は学ぶものではなく、問うものである、学問の「学を、問う」後者である。

哲学で科学を持ち込む香具師は勘違いしているのにすぎない。
733考える名無しさん:2007/10/03(水) 16:31:10 0
だめだこりゃ
734考える名無しさん:2007/10/03(水) 21:33:46 0
>>730
普通に高校の教科書から始めるのが能率的
735考える名無しさん:2007/10/04(木) 05:30:30 0

589 :考える名無しさん:2007/10/04(木) 01:20:42 0
人間が物質を意識するとき、多くの場合物質を「存在するモノ」という側面でしか
意識しない。しかし、物質にはモノとしての側面と物質の持つ性質がある。
性質を持たないで、モノという側面しか持たない物質は存在しない。
なぜなら、物質の最小単位がすでに性質を持っているからだ。
人間が物質をモノとしか意識しないのは、人間の見る物質の多くが他の物質
と結合し安定しているから。安定した物質はモノとしての側面しか見えない。

ここでPCの事を考えてみると、PCは電子をモノとして扱い、モノのある・なし(1.0)
で処理を行っている。しかし人間の脳は物質の「存在」の側面だけを使ったモノ的な計算機という
構造ではない。まったく異なる性質を持った「性質」としての物質を扱っている。

「存在」という側面しか持たない物質からは絶対に「意識」は生まれない。
もちろん、「モノ」は意識のなかでしか存在しないが、モノとしての側面しか
扱わないで利用することはできる(例 CPUの中の電子)
だから、物質をモノとしてしか扱わないCPUからは意識は生まれない

哲学者ってかっちょいい
736あぼーん:あぼーん
あぼーん
737考える名無しさん:2007/12/13(木) 17:59:35 0
遺伝子について語りたいならとりあえず元素記号おぼえてからな
738考える名無しさん:2007/12/31(月) 02:26:21 0
まあ日本では物理ができないので哲学へと言う人もいるわな。
739考える名無しさん:2008/01/01(火) 15:23:16 0
哲学なんてのは、数学や物理の素養と才能があってはじめて
できるものなんだがな。日本には似非哲学者しかいないだろ。
740考える名無しさん:2008/01/01(火) 16:23:08 0
>哲学なんてのは、数学や物理の素養と才能があってはじめて
>できるものなんだがな。


なんで?
741考える名無しさん:2008/01/01(火) 20:55:32 0
知識が限られるからだろ。
下手の考え休むに似たり、という。
742考える名無しさん:2008/01/01(火) 22:47:39 0
プラトンは、アカデメイアの入門者にまず数学を勉強させたと言う。
客観的な論証がどういうものなのかを実感させるためだろう。
これは、前提として自然科学的知識や数学的論理学を知らないのでは、
近・現代の認識論は理解できないという話とは、また別のことなんだよ。
743考える名無しさん:2008/01/01(火) 22:49:12 0
哲学の論理に比べて、数学や自然科学の論理は単純明快だから、
まずそっちで練習してから哲学をやれってことじゃね?
744考える名無しさん:2008/02/06(水) 10:45:14 0
日本の哲学者の数学的な能力ってどれくらいなんだろう
中学生くらいか?
745考える名無しさん:2008/02/07(木) 12:05:37 0

 科学哲学(略称、科哲)が東大にある。こいつらは、全員入試レベル
 の数2(文3中心)まで。高校の物理と数学でしゃべってるんで、
 俺らには、はああ冗談だろみたいな感じ。
 コンピュータのハードディスクと脳が同じだと思っていたり、光の速度を
 どうやって計測計算するかとかまったく知らないとか、ほとんど。

 数学や物理がよくわかってるやつか、広松渉みたいな、検定で東大行ったとかの、天才的が出ないとだめ
 だろうな。
 哲学は、天才がやって、それを鈍才がまねする。これがパターンだろうな。
746考える名無しさん:2008/02/17(日) 04:27:58 O
どうでもいいが、脳はハードディスクは喩えじゃないか?
747考える名無しさん
脳をハードディスクにしてしまうのが、知識人。
脳をマザーボードのチップセットにしてしまうのが、マスターマインド(ビジネスの人)。
脳をCPUにしてしまうのが、パトロンなしじゃ生きていけない奇特な人。
脳をビデオカードやサウンドカードにしてしまうのが、芸術をはじめコミュニケーションに生きる人。
脳をLANカードにしてしまうのが、電波受信者。
脳をタッチパネルにしてしまうのが、内向的な人。
脳をファンコンにしてしまうのが、一般人。