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72:
欲望、幸せ、愛、は人間にしかない。
動物は腹が満ちると食べない。欲求が満たされるとそれ以上の行動を起こさない。
人間は腹がいっぱいでも、甘い物は別腹とか言って無理して食べたりする。
それが人間としての欲望。欲望は満たされない。金でも地位でも女でも手に入れる
ほどもっと欲しくなる。幸福の追求は欲求ではなく、欲望の方に含まれる。
脳が感じる動物的な快楽、エンドルフィンや、ドーパミン分泌によるものは、薬で
簡単に代替できる。アンフェタミンは、ドーパミンをモデルとして作られていて、
毒性を無くし脳関門を通過させやすくしたものだ。(ドーパミン自体は脳以外では
激しい毒性があり、しかも脳の外から脳の中に入らない。)さらに、脳に吸収され
やすいメタンフェタミンが戦時中の日本で開発された。それがシャブだ。究極の快
楽というのなら覚醒剤で簡単に得られる。それは化学物質による究極の欲求の
充足の形態と言っても良い。だが、幸福にはならない。
あと、愛という概念だが(幸福という概念だってそうだが)もともと日本には無い
概念だ。明治の文豪坪内逍遙はシェークスピアに出てきた「I love you.」という
センテンスを日本語に翻訳できなかった。LOVEが理解できなかった。LOVEに
相当する日本語が無かったのだ。日本に愛だの幸福だのという概念が輸入されて
まだ1世紀ちょっとしかたってない。つまり、人間なら誰でも当たり前に持っている
概念じゃな。でも、それが今俺らは、人を愛し愛されたい、幸福になりたいと普通に
思うようになってる。それを人生の目的とか生きるための価値みたいになってる。
100年かそこらで、日本人の人生観がこんなに変わってしまった。
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72:2005/09/07(水) 12:10:46
やはりそこにあるのは「他者」なのだ。自分の人生観や物の見方感じ方が、自分の
頭の中だけで成長してきたと思ってるのか?そんなことはあり得ない。また、ラカン
を引用するが、他者は象徴界というところに、言葉の形で棲み続けている。(別に
俺はラカニアンじゃないが、欲望に関してはよく説明出来ていると思うから引用して
いる。また、ラカンを批判したドゥルーズ、ガタリ、デリダにしても(ソーカルは置いとい
てw)この部分の批判はしていない。)その象徴界から意識の上にポコポコ上って
くるものによって、人生観だったり、感じ方、物の見方、あるいは理性となって形成
されることになる。
幸福という概念自体が他者から押しつけられたものなんだ。幸福にならなきゃいけ
ないっていう強迫神経症だ。それを満たすには、他者から認められることが必要
なんだ。だから、他者からの羨望なんだ。本当の他人からの羨望もそうだが、
メタレヴェルでの自己の中の他者からの羨望でもよい。で、それは得られるのか?
いーや。もともと存在しないものを追いかけているんだ。なんだかよく分からないもの
を追求しているんだ。そんなもの手にはいるわけがない。永遠に手に入らない物を
追いかけるようにし向けられている。手に入らない物を手にしようとするエネルギーに
よって社会が成り立っているんだ。