>>21 ああ、そういう見方ありましたね。
自分の言葉の「自分」が
話し手の方にあるのではなく
聞き手の方にあると考えれば
「自分の言葉で話してくれ」と要求するのは
「おれにもわかる言葉で話してくれ」ってことか。
こう考えるとしっくりきますな。
人は他者の言葉を喋っているということですか
24 :
1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/12(金) 22:01:48
自分の言葉の「自分」が聞き手側を指すのであれば
定義:自分の言葉とは、その言葉の根拠が
相手側の実感に基づいている言葉である。
となる。
自分の言葉の正当化は、私個人についての事実によってではなく
私が属する社会が正しいものとして受け入れるかどうかにかかっている。
こういうわけで、自分の言葉が何を意味しているのかを一番よく知っているのは
自分だと言い立てることはできない。
そんなわけで、
>>4-6で言われているようなものは「自分の言葉」ではない。
それゆえ、「自分の実感に基づいているものが自分の言葉だ」
「誰かの意見ではなく自分の力だけで考えた意見が自分の言葉だ」とかいうものは
他人が理解することが不可能なものであるし、自分の言葉とはいえない。
したがって、たとえば2ちゃんねるのような匿名掲示板において
ある人が、公共言語をもちいて説明しているときに
あなたが「もっと自分の言葉で喋ってほしい」とせがむのはナンセンスであろう。
自分がどのような人間かも明かさずに、
ただ「自分をわかってほしい」とせがんでいるようなものだ。
25 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 22:11:11
>>24 >定義:自分の言葉とは、その言葉の根拠が
相手側の実感に基づいている言葉である。
面白い。
レベルが高い。
また、よろしく。
26 :
1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/12(金) 22:13:55
自分の実感に基づいているだけの言葉は、たしかにあなた自身にとっては
自分の言葉であろうが、あなたの実感を他人が実感することはできないであろうから
正当化されない。
となれば、自分の実感に基づき、なおかつ他人の実感にも基づける言葉が
最終的には、自分の言葉として両方から認められるものになる。
どうやって一致しているか否かを判断するのかという問題は棚上げするとして、
自己と他者の実感が一致する部分なんて限られているだろうし
結局のところ、公共言語に後戻りするしかないのではないか?
となれば、自分の言葉=公共言語ではないか?
27 :
1 ◆7cy2QI8jBM :2005/08/13(土) 05:16:55
「自分の言葉とは、相手の実感に基づいた言葉である」というのなら、
相手が私の言葉を認めるときのみ、私は自分の言葉を話したといえる。
それゆえ、どんなに自分の実感に基づいて発言したとしても、
それを相手が認めなければ、私は自分の言葉を話したとはいえないのだろう。
したがって、私の言語表現の仕方が、私が自分の言葉で話している、ということの存在根拠である。
たとえば、身体に激痛がはしっても、ニコニコしていれば、誰も私の言うことを信じないように、
信じてもらうためには、それに相当する適切な痛みの表現が必要になる。
そのような適切な痛みの表現は、前もって言語ゲームを通じて、
理解可能な公共言語となっていなければ無理なのだ。
適切な痛みの表現とは、結局のところ言語ゲームによって決まってくるのだろう。
このような言語ゲームをつうじて、適切な痛みの表現を学んでいく。
・・・となれば、結局それは公共言語ではないか。
「自分の言葉」とは、公共言語ではないか。
もちろん「痛み」という語が、だれもが理解できる公共言語になったとき、
そこには、ある種の私的な意味が失われているように思える。
それゆえ、最終的には、聞き手が公共言語に変換された「痛み」という語を
自分の私的な痛みの体験に結びつけることによって有意味となる。
私は相手の痛みを知ることはできないのだから、
できるだけ公共言語に変換することによって最善をつくす。
たとえば、相手の生活形式を分析した上で、
このような表現をとるのがよいのではないかと考える。
あとは聞き手本人が、その語を自分の実感に結びつけて
理解できるか否かにかかっている。結論をいえば、
(1) 公共言語なしに「自分の言葉で話してみろ」と要求するのは意味不明だし
(2) このような匿名掲示板で、自分の生活形式も明かさないで話し手に
「自分の言葉で話してくれ」と要求するのは、ものすごいワガママで無理があるし
(3) ましてや、道徳問題などを議論するときには、聞き手は自他ともに
考えることができる理性的存在者でなければ、いくら自分の言葉に変換してやっても、
それを自分の体験に結びつける能力がなければ理解できないだろう。
たとえば、乳児などは、自他ともに考えられるような段階ではない。
29 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 07:15:31
「自分の言葉」・・・〈魂〉の叫び。
30 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 08:00:39
自分の言葉
音読したのをひらがなに訳しました↓
ぽぽまーごろむ、きたぷーぴからまごんどうらどもぎぶす
あーはあおいじこうぶむ、あんどむがらんぶむ、だーじゃ
31 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 08:48:40
>>30 日本語変換してくれなきゃ。
強制送還しちゃうよ。
32 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 10:29:06
いっそ殺せや。
33 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 11:30:57
自分で理解して発言する言葉は自分の言葉としてよいのではないか?
その外延も内包もどんどん変化していく不定形なものでしょう。
36 :
考える名無しさん:2005/08/13(土) 14:10:56
>>34 >それは言語としての機能を失っているので
言語としての機能の一つは「コミュニケーション」だろう。
自分で理解できる言葉は私的言語ではない。
自分の理解と他者の理解に違いがあるかを確認することも
言葉による「コミュニケーション」の機能だ。
37 :
TAR:2005/08/13(土) 14:39:14
平等よりも対等な相手に使うかな。
>>36 クワインの翻訳の不確定性を持ち出されたらそれどうするつもりだ?
39 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 00:03:57
「自分の言葉」???電波以外
40 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 01:43:26
気持ちがこもっていれば自分の言葉でしょうね。
41 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 01:58:10
本当に自分の言葉なんて使ったら、
誰も理解できないだろ。
このスレはたぶん、
本物の純一が立てたのでしょう。
掲示板が誰も来ないから、
向こう側から来たのじゃないですかね。
43 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 16:13:43
相手の理解があり、自分の言葉が成り立つ。
相手と自分の共通する事柄があり、共通でありながら、独立する部分がある。
『 1 ◆7cy2QI8jBM 』さんは、
共通であるから、独立する部分はない。
共通であるはずなのに、共通であると認識されない。
共通である為に、相手の努力が必要。
とお考えのようですね。
‘相手の努力が必要’の部分が文章全体から強く出てきてしまっていますよ。
それと、
‘自分で自分の言葉(音声表現、文字表現含む)を正当化したい’様に伺えますが、
その必要はあるのでしょうか。あなたは優れた思考力を持っているようなので、
他人に認めてもらう、他人に理解してもらう必要があるのでしょか。むしろ、
他人を理解した方が早いと思われます。
ここへのレスはこれが最後です。早急にDat落ちすることを願います。 以上。bye
>>43 規制議論の賛成派の方です。
哲学板ではカオル派に属しているみたいですね。
ここは純一が立てそうなスレではあります。
47 :
考える名無しさん:2005/08/14(日) 22:41:51
>>46 ありがとう。
でも、面白くて、がんばってるから全然価値があると思う。
>45みたく、理論と個人的感情がコントロールされていないよりいいね。
ところで、カオル派って何ですか。(2ch初めて2日目で恐縮します。)
昔、憧れた女性(本名カオル)がある宗教団体の幹部になったので、気になります。
予断すみません。
カオル派は、純一が属する派閥の名前です。
哲学板に存在する派閥の1つです。
ビガロ派とかミスターX派とかも居ますね。
われわれは、言語に先立って観念が存在していると思いがちなところがある。
もしそうなら、言語は単に観念を外に表すためだけのものということになろう。
この立場にたてば、われわれは自分の心のなかでメッセージを組み立て、
それを他者が解読できる形式にうつしかえて伝える、ということになろう。
ソシュールは、これとは対照的に、言語の社会的な側面をみた。
孤立した個人が言語をつくることなどできない、と主張した。
言語を成立させているのは、共同体のなかでのみ可能なのだ、と言う。
語の意味は、観念との統合だけではなく、他の語の枠組のなかで
どんな役割を担っているか、というところに由来するのだ。
送り手が心の中にもっていた同一のものを
受け手がもつようになれば、伝達は成功した、といえる。
しかし、同一なものを受け取ったと確認する手段がないとなれば
その判断は、相手がこちらの期待したような振る舞いをするかとか
とんちんかんな解答をしないか、といった点に注意するしかない。
このような伝達が可能になる条件とは何だろうか?
それは、それぞれが同じ言語をしゃべり、
世界について同じような信念や目標をもっているときに限られる。
二人の人間が、同じ語彙を用い、同じ文法に従い、同じ発音をするなら、
意味ははっきりと示される。
これは、つまり、言葉の意味を理解するときに、
われわれはその人の信念や目標といったものを
同時に推測する必要がある、ということである。
人がどんな意味を伝えようとしているかは、
その人が何を信じ、何を欲しているかを理解することなのだ。
ある人が何を信じ何を欲して喋っているかを、
わたしたちが理解できないとき、
わたしたちは、その人い対して
「自分の言葉で喋ってないのではないか」
と思うことが、よくあるのではないか。
もちろん、相手の言っていることは理解できるが
相手が何を信じ、何を欲しているかが理解できない。
こういう経験は、何度かあるはずである。
このようなとき、われわれは「自分の言葉で喋ってない」と感じる。
これはやはり、「自分の言葉」と受け取られるか否かが
それぞれの所属する文化(言語ゲーム)によって
定まってくることを思わせる。
インターネットが普及し、世界中の人々と
会話することができるようになったとき、
ある一つの疑問が提起されていた。
それは、生活や文化や言語の異なるものどうしが
いったいどのようにして会話するのか、ということである。
かりに私がいま自分の言葉で喋っていたとしよう。
そして、それをあなたも周りの人間も認めているとしよう。
そこに、「議論=喧嘩」としか思ってない
反抗期まっさかりの中学生がやってきたら
われわれの議論を「茶番」とみるであろう。
それゆえ、「こいつら自分の言葉で喋ってねェ!」と思うに違いない。
51 :
考える名無しさん:2005/08/15(月) 19:36:23
独我論はまったく正しい。
世界は私の世界である。
私の言語の限界が私の世界の限界である。
自分の言葉でこれに反論してみよう。
パイプルーターを使ったから、雨亀气メ刺激を与えていると考えている人達
53 :
考える名無しさん:2005/08/15(月) 22:56:16
ん〜。そもそも言語ってそこまでたいせつなものなのか?
記憶(歴史)やみずからの行動規範(しきたり、慣習)、動作や物そのものも言語。おーけー?
55 :
考える名無しさん:2005/08/15(月) 23:15:46
>>51 独我論はまったく間違っている。
世界は私の世界ではない。
世界は私の言語の限界の外に広がっている。
57 :
考える名無しさん:2005/08/16(火) 02:35:46
>世界は私の世界ではない
そう考えてるのはお前だからそれも独我論だな
世界と世界観とを混同するのが独我論の特徴だよ。
59 :
考える名無しさん:2005/08/16(火) 16:58:52
自分の言葉とは著作物に著作権があることである。
おまんこしたい
池上彰が、著書『相手に「伝わる」話し方』において
何の根拠があるのか「自分の言葉」という章をもうけているので
ざっと目をとおしてみた。
ttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061496204/ 池上は明言してないが、彼の述べる全体の文脈を読むと
彼にとって「自分の言葉」とは、次のようなものを指しているらしい。
(1) 間違えたときに自分が責任を負う言葉
たとえば、これはデカルトの言ったことだから
この説が間違っていたとしても、それはデカルトが間違ってるんであって
ぼくが間違っているんじゃないよ、という言い逃れができない言葉。
(2) 自分の主張の根拠について、十分な理由(説明)を与えられること。
(3) 「アナウンサーとして・・」などの立場から述べるのではなく
一個人の立場から述べられたもの。
以上をまとめて「自分の言葉」を「相手の心に届く言葉」と言いかえていた。
>>61の(1)と(3)は、同じ意味だと考える。
「(3)個人的な発言」をするということは、
これすなわち、誰かのせいにすることできない、
ということであり、「(1)責任を負う」ということである。
よって、彼に言わせれば「自分の言葉」とは
「個人的な立場から責任をもって (1)+(3)
自分の発言に十分な説明を与えられるもの (2)」
である。
>>9とさほど変わらないように思える。
ある友人にいわれたことをそっくりそのまま書き込んでみる。
結局なにがいいたいんだい?
>>63 >>1では「証明します」と発言しているが、
あくまで自分は「自分の言葉など存在しない」という立場にたって考える
というだけで、現段階では、とりあえず、どういう答えにいたるか
自分自身わかってないので、関係ありそうなものをメモって書き込んでるだけ。
わりぃ、答えが書いてある本みつけちゃった。
かといって、それをここに転載するわけにもいかない。
あえて結論をいえば、厳密な意味での「自分の言葉」というものは存在しない、
というものだった。これはソシュール以来の言語学によって証明済みである。
やっぱり、想像してたとおりのものだった。
ということで、終了。
ぬぁ〜。マスターベーションスレかよ!!
見損なったぜ
>>1 ほかになにかかんがえてることないのかよ!!
>>67 やっぱ結論を少なからず明かさないとだめか。結論は、
宮原浩二郎「論力の時代―言葉の魅力の社会学」勁草書房
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326199288/ に書いてある。
目次
第1章 論力の時代?(議論強者
民主主義と討論 ほか)
第2章 二つの言語―吉本隆明を読む(自己表現と他者伝達
『言語にとって美とはなにか』 ほか)
第3章 言葉の危機と表現リテラシー(意味と価値の分裂
「要約」の問題 ほか)
第4章 言葉の権力、暴力、そして魅力(言葉の力
言葉の権力―主張の正しさ ほか)
第5章 自分の言葉をもつ(「会議」から「話し合い」へ
「自分の言葉」をもつ ほか)
/:::::::|/::::::::::| ...|:::::|.i::::,,,---::::::::i:::::::i::::||:::iあっははは! なあに? この変なマンガ本の山は?
:|::::::::::::::::::::::i...ii .i::::::ii::/.,,─-,,"ヽi:::::::i:::ii:::::|「おにいちゃん、もうダメッ……!!」って、何これ?
:i::,,-""""-::::i..i:i |:::::::::::.i .. i...i:::i:::::i:::ii:::::iあんた、いつもこんなの見て、その粗末なモノを一生懸命こすってるの?
i:i .,-""..ヽ::::ii:::i ..i"".. "..,,__丿ヾ:i::::i:::ii::::::|道理でイカ臭いわけだわ、このマンガ本。ページもガピガピだし。
i,,i | ..|." ...i i ...i::i::::ii::::::|どうせあんた、現実の女と寝たことなんてないんでしょう?
i::",,,ヽ ,,/ ii ....i:::::i:::::::|こんな子供の裸見てオナニーなんて、人間として恥ずかしくないのかしらね。
::::::::"" i ...|::::::::::::::i……あら、どうしたの。私に罵られて勃っちゃったわけ?
:::" ..ヽ::::::::::::: i::::::::::::::|幼女趣味だけじゃなくて、そっちのケもあるの? サイテーね。
ゞ :::::::::.,,, --,," ,":::::::::::::|そんなサイテーなあんたは、せいぜいそこで一生しごいてなさい。え、何?
-".,, --,,," ./ .,"::::::::::::::::l私にやって欲しいって? あっはははは、冗談でしょ? 私が? あんたのを?
::|::::ヽ ."- .-"::::::::: /::::::::::::::::::::|誰がそんな汚いチンポに触ると思ってんの? 寝言は寝てから言いなさいよ。
::::i::::|:"--.,.,,, :::::::::::::::::::::::::/:|:::::::::::::::::::::::iこうして見てあげてるだけで有難く思いなさい、ロリコン童貞!
::::::::::::::::::_,r-┤"--.,,,,,:::::::::::,-":::├、,:::::::::::::::::::lほらどうしたの。さっさと出せば? いつもやってるでしょ? あっははは!
70 :
考える名無しさん:2005/11/24(木) 10:59:36
「自分の言葉」なんてことが問題になるのは、人から聞いたり、
本で読んだりした言葉を意味が分らないまま繰り返すことが多いからだろうね。
ありふれたフレーズ(「私が殺しました」など)であっても、「法廷」などで語られれば
それは誰のものでもなく「自分の言葉」として受け取られる
「自分の」という意味が所有格の意味で使用されているとするならば
「自分の言葉」というものは、法の枠組みによってみれば分かるように
確かに存在していると言えはしないだろうか
>>34 「文法の誤りなどというものは、文法が発明される以前にはなかった」(F・マウトナー)
どこまでが流通可能でどこからが流通不可能なのか、どうやってそれを知ることができるのか
恒真命題や矛盾命題は真偽判定が不可能であるが、それにもかかわらず流通しているし
文法的に正しくない言葉(日本語「ら」抜きや「千円から」の「から」など)であっても流通している
逆に、一聴すると意味不明な分裂病者の語りが
文法的には完全に意味あるものであることも珍しくはない
だとすれば、言葉―非言葉の審級はどこにあるのか
つまり、ある音素の連なり、それがコミュニケート可能なものか
あるいは不可能だという、その根拠はどこに求めればいいのか?