なんで無いのよ。
3 :
考える名無しさん:2005/06/04(土) 02:48:15
おちるぞオイ。
とりあえずニコライ・ハルトマンの「ドイツ観念論の哲学」買ってきた。
なんどき読み終わるか知らんが。
第一部って、第二部出て無いじゃん。
4 :
考える名無しさん:2005/06/04(土) 02:50:36
イギリス経験主義と大陸合理論の合成。
カントですな。
なんで無いのよ。って理解できる人があんまいない。
ヘーゲルの論理学はここでいいんでしょうか。
6 :
考える名無しさん:2005/06/06(月) 02:03:10
>>5 ヘーゲルでもカントでもフィヒテでもシェリングでも好きにやればいいじゃないか。
7 :
考える名無しさん:2005/06/21(火) 02:42:02
ちょwwwおまwwwスレ伸びてねぇ( ^ω^)
8 :
考える名無しさん:2005/06/21(火) 03:58:20
イギリス経験主義と大陸合理論の融合ってほんとにできてるの?
学説史的な評価はどうなん?
考え方は人それぞれだ
日本に入ってきた哲学史は新カント派製のものだから。
カントが合理論と経験論の流れを両方すくい取り、
そのいずれをも超えた新しい立場をつくったという
「わが親分自慢」の哲学史になっている。
が、実際はそう単純なものではないと思う。
11 :
考える名無しさん:2005/06/22(水) 18:57:43
>>10 う〜ん、なるほど。
たしかに哲学史の成立というのは哲学の発生以来という歴史観点に
立てば、それほど古い出来事ではないんですよね。
>そのいずれをも超えた新しい立場
というとき、
そもそも<超える>ということがどのような事態を指しているか、あるいは
そもそも<超える>ということが可能なのであるか、といった見解に
よって立場が分かれそうですね。
12 :
考える名無しさん:2005/07/15(金) 23:40:51
あげてやる
誰も読んでなさそう
14 :
考える名無しさん:2005/07/16(土) 03:47:00
経験主義を織り込めない合理主義って何だかなあ〜
15 :
ハル:2005/07/16(土) 03:50:07
一般に言う合理主義は実際には経験主義と同じようなもの。
16 :
考える名無しさん:2005/07/21(木) 21:55:50
フィヒテスレないんだね
17 :
考える名無しさん:2005/07/21(木) 22:30:53
18 :
考える名無しさん:2005/07/22(金) 23:17:22
>>17 著書を「全知識学の基礎」上下しか持ってない俺に
その権利があるだろうか?
ましてや読んでないし・・・
19 :
考える名無しさん:2005/08/18(木) 01:44:49
揚棄!
>>19 Aufhebenってさぁ、このスレを上げることではなく、このスレは埋め立てて放棄して、別スレと合同でもっと良いスレを立てることじゃない?
21 :
考える名無しさん:2005/08/22(月) 12:21:54
ヘーゲルの精神現象学を読む上でこれだけは読んでおくべき本っていうのは、
アリストテレスの形而上学、スピノザのエチカ、カントの純粋理性批判の他に
何がありますか?
ポパーとかカルナップじゃね?
あとはライヘンバッハとかラッセルとかバーリンとかかな。
24 :
考える名無しさん:2005/08/22(月) 18:54:46
ヘーゲルが実際に影響を受けた範囲でお願いします
じゃ、聖書。
26 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 12:49:29
キュルケゴールについて、「主体性が真理である」を一番理解できる
本を教えてください。
それも聖書。
28 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 22:16:37
物事をちゃんと考えれば、
経験主義なんて成立しないことは自明ですよ。
29 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 22:28:01
経験が先か観念が先かといえば、経験が先に決まっている。
観念論は後期プラトン以来のおもしろ哲学。
30 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 22:44:37
数学さえなければ経験論でもOK?
31 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 22:50:56
数学の発展は常に計算という経験が専攻しているから経験論でいいのだ。
32 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 22:52:12
33 :
考える名無しさん:2005/08/23(火) 22:57:21
大体、イデアというのも最初は道徳的規範だったのが
いつの間にか概念という意味に摩り替わったのだ。
後期プラトンの時点でボタンの掛け違えがあっただけ。
34 :
考える名無しさん:2005/08/24(水) 08:09:03
わざわざ言うまでもないけど、経験論の前提
にあるのは、その場、その時かぎりの個別的
な感覚的所与だけなんだよ。そんなものはい
くら積み重ねても、いや、そもそもそんなも
のは積み重ねるができないので、これしか前
提がないとしたら経験なんて成立しないんだ。
35 :
考える名無しさん:2005/08/24(水) 08:54:55
34の主張するような極端な経験論を当時をソフィストがしたから、
プラトンは道徳が共有される根拠としてイデアと言うものを考えたんじゃなかったっけ。
しかしそういう道徳的基準と、概念一般が実在するという議論が混同されたので、
アリストテレスによって整理されたのではなくって。個別の経験に先行する概念は
ないという程度の議論で。
36 :
考える名無しさん:2005/08/24(水) 08:58:44
小林よしのりの靖国論は明らかな弁証法で論を組み立てているが、
対論をテーゼにし、持論をアンチテーゼにして徹底してテーゼを叩くことで
論を組み立てているんですが、それは許されるのでしょうか?
38 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 08:16:16
極端じゃない経験論なんて、
自己矛盾することなく議論を
組み立てることはできない。
「個別の経験に先行する概念
はない」って言うけど、観念
論は一定の持続するものが前
提されなきゃ「個別の経験」
なんて成立しないって考える
のですよ。
合理論
40 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 10:50:41
一定の持続する感覚的所与があるんでいいんでない?
質料はどこですか
42 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 11:05:02
物自体は不可知ってことでいいんじゃない?
43 :
考える名無しさん:2005/09/02(金) 08:02:20
持続するものは<感覚>なんて呼べない。日常的な言葉遣いが
どうであろうと、哲学の用語としてはそうです。<質料>なん
てものは、まさしく反省によって発見されるわけですよ。この
コンテクストで、なぜ<物自体>が云々されるのかまったくわ
からない。
44 :
考える名無しさん:2005/09/02(金) 08:48:29
質料と言うのは物自体と同じで永遠に発見などされはなしない、
最も抽象的、概念的なものであるという位置づけでは。
質料に形式が与えられればものになるが、ものだって抽象度は高い。
日々の経験は全て異なるはずなのに、ものがつねにおなじものとして
感じられる度合いが高いのはそこで抽象化・概念化が働いているから。
それらを支えるのが感覚。感覚が持続したりしなかったりするのが
なんでなのかというのはそもそもわからない種類の事。
45 :
考える名無しさん:2005/09/03(土) 01:59:02
わざとなのか、たんにわかってないのか判断に苦しむけど、
「発見」の意味が違うでしょ。くどいようだけど、感覚は
定義上「持続したりしなかったり」なんてことはないの。
これは哲学の用語としてそうなんだから、持続するものを
考えたかったら他の用語を使わないと議論ができないよ。
46 :
考える名無しさん:2005/09/09(金) 05:18:45
スピノザの哲学みたいに全体性を志向しながら
同時にそれの乗り越えの可能性を示唆するのは
ドイツ観念論の一つの特徴ですか?
というか、スピノザのスレ落ちちゃったね・・・
対象を乗り越えるっていうけど、対象を通り越したところを想定できるんなら、
対象はどうして必要なの。
貨幣自体を紙幣やコインに見出そうとしても物質でしかない。
人間だもの
ホシュ
底無
53 :
考える名無しさん:2005/12/07(水) 04:30:03
あげ
54 :
考える名無しさん:2005/12/09(金) 14:29:02
http://www.sekaishisosha.co.jp/cgi-bin/search.cgi?mode=display&style=full&isbn=1156-0 ドイツ観念論を学ぶ人のために
序論 ドイツ観念論とは何であったか/ありうるか[大橋良介]
I 種々の「ドイツ観念論」像
1 フィヒテとシェリング ― 「絶対知」について[長島 隆]
2 シェリングとヘーゲル[藤田正勝]
3 ヘーゲルとマルクス ― アルチュセールのマルクス論[後藤正英]
4 ヘーゲルと現代英語圏の哲学 ― 理性と歴史をめぐって[星野 勉]
5 分析哲学とドイツ観念論[渋谷繁明]
6 フランス現代思想とドイツ観念論[板井孝壱郎]
7 ドイツ現代哲学とドイツ観念論 ― ウルリヒ・ベックの「リスク社会論」[高橋 透]
II 主要問題の系譜とその後の展開
1 理性 ― あるいはシェリングの「無底」の射程[大橋良介]
2 倫理[入江幸男]
3 自然[松山壽一]
4 芸術 ― その終焉についての言説をめぐって[小田部胤久]
5 歴史 ― 体系の構築と解体[寄川条路]
6 宗教[細谷昌志]
III 主要著作への手引き
1 フィヒテ[岡田勝明・中川明才・美濃部 仁]
2 ヘーゲル[山口祐弘・山口誠一・山崎純]
3 シェリング[諸岡道比古・伊東多佳子・山口和子]
〔特別寄稿〕ヘーゲルの「具体的普遍」とは何か[スラヴォイ・ジジェク(井上正名訳)
文献案内[寄川条路]
年表[寄川条路]
あとがき[大橋良介]
現代の英・独・仏語圏の哲学における「ドイツ観念論」像を提示し、理性・倫理・自然・
芸術・歴史・宗教といったドイツ観念論の主要問題につきその系譜と展開を辿る。
またフィヒテ・ヘーゲル・シェリングの主要著作20余点の詳細な解説を付す。
定価2415円(税込)2005年発行 四六判 348頁 ISBN4-7907-1156-0
55 :
考える名無しさん:2005/12/14(水) 21:43:50
ドイツ観念論を学ぶ人のために購入記念age
宗教改革以前のローマ・カトリックのスコラ主義まで遡らないと
本当に理解は出来ないような気がする。
それ以前に古代ギリシアを理解することのほうが先決。
あとドイツ観念論はカトリックよりもプロテスタンティズムやユダヤ主義の流れなわけだが。
今年こそはヘーゲルの論理学をちゃんと読みたい。
59 :
考える名無しさん:2006/02/14(火) 14:59:46
あげ
>>57 俺が強調したいのは理性(ロゴス)的精神活動を宗教性と並列的に措定したカトリックの二重真理説だな。俗にいう「理性信仰」は、ここから副次的に生じたものであって、それはギリシャ精神の本質ではない、と。
ぐぐってたら自分の書き込み見つけたんで、ついでにレスw
「信仰」と「知解」な
この二つがキリスト教哲学の問題構成の根幹にあるのは間違いないけど
単純にその二つがお行儀よく並列している訳じゃないよ
神秘主義なんかが根強く存在することなんかがその証左
少なくとも西欧文明の歴史的に形成された精神的パラダイムの重要な契機ではあると思う。
ドイツ観念論の範囲をどのように規定するかは人によってまちまちだ。
人によってはドイツ観念論の系譜を中世神秘主義のエックハルトまで遡るだろう。
そうすると、そもそも観念論とは何か、という話になって来る。
でよお、お前ら。そもそも「ドイツ観念論」って何だって考えたら、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』が根っこにあるわけだな。つまりそもそも否定的範疇として取り上げられたわけだ。
戦前回帰で安っぽく群がってるバカは、マルクスから読み直せってこと。
64 :
考える名無しさん:2006/02/19(日) 23:00:03
なにこのうすらバカw
>>64 こいつのヴィトゲンシュタインスレの書き込みを見るがいいさ
紛れもなく途方もないバカ
高校生だからしょうがないとかそういうレベルじゃない
ガキにゃ分からんだろうが、ちょっと昔は「観念論者」ってえと、「ウツツ者」ってのと同義語だったんだがなw
…あ、なんとなく分かった。
68 :
考える名無しさん:2006/03/22(水) 13:37:17
総合しようよ
69 :
考える名無しさん:2006/03/26(日) 00:42:46
ドイツ観念論研究者からみてシステム論はどうなんですか?
システム論って何?
71 :
考える名無しさん:2006/04/19(水) 02:01:12
何だろ?
72 :
考える名無しさん:2006/04/19(水) 19:00:35
世界システム論じゃないの?
73 :
考える名無しさん:2006/04/19(水) 19:08:01
システム論の源流はヘーゲルにある
74 :
考える名無しさん:2006/05/31(水) 21:52:05
捕手るぞ
75 :
考える名無しさん:2006/05/31(水) 22:56:22
ドイツ観念論って何ですか
76 :
考える名無しさん:2006/06/01(木) 11:43:59
>>75 一般的にはカント哲学に対して産まれたフェイヒテ、シェリング、ヘーゲルまでの流れを言います。
脳みそに筋肉がついてしまう
上げるよ
79 :
考える名無しさん:2006/06/30(金) 06:42:53
観念論といっても「現実は虚構」とまではいってないようだな
↑青木雄二の読みすぎ
守ります
82 :
Meta:2006/08/25(金) 13:15:03
『精神現象学』では近世の哲学の流れを、スピノザ‐先験哲学‐ロマン主義として叙述されていた。
ところでイギリス経験論はどこに位置つけられていたのかな?
経験論は、意識の最もプリミチヴな段階、「これ、あれ」という直観的確信の水準。
つまり、経験論は哲学とは呼べる代物ではない、と。
ヘーゲルの経験論への侮蔑は、そのままマルクス主義に継承されているのでは?
経験論者てのは素朴実感主義だよ、彼らの感覚与件は弁証法で吹っ飛ばされる、と。
でも、この態度が後々問題を残すのだけれども。
ヘーゲル主義者も、マルクス主義者も現象を未来から透視するという態度をとる。
弁証法が万能だから。
でも、この態度が後々問題を残すのだけれども。
まともに弁証法とは何かを、非ヘーゲル主義者に説明できるヘーゲル主義者はいない
だろう・・・・・
83 :
考える名無しさん:2006/08/25(金) 14:45:00
説明は可能だぜ。
ただ、「非ヘーゲル主義者」の理解が得られないだけよ。
カント流の先験形式論理より、ヘーゲル流の精神の弁証法を
好む、と言い放ったのは、はて、誰だったやら。
84 :
考える名無しさん:2006/08/25(金) 14:46:30
ドイツ観念論=哲学史上最大の汚点
85 :
考える名無しさん:2006/08/25(金) 16:18:43
なわけない
86 :
考える名無しさん:2006/08/25(金) 17:07:10
哲学=電波の元凶。
つまらん
88 :
考える名無しさん:2006/10/10(火) 01:33:46
保守あげ
89 :
考える名無しさん:2006/10/12(木) 04:20:46
ほす
sage
\(ΘoΘ)ノageage
カントマジで頭いいな
UnKnは午前6時ジャストに為すべし
ドイツ観念論かっけー
ttp://reisei.way-nifty.com/spiritsoulbody/ >ドイツ・イデアリスムス哲学は、絶対者を「絶対無」としてみようとするところまでいったが、
>そこで、人格神の存在は不必要になるという危険が生じたのではないか? というのだ。
>だがそうだろうか? 大橋氏が言うのはあくまでキリスト教的な、世界の外部に立つ
>創造主的な神である。東洋思想のサイドに立てば、絶対者は無としか呼びようがないと
>いうことは当たり前の話である。
略
>つまり、大橋氏の言うように絶対者が「無底」であるというのが、
>絶対者というイデーの衰退になるというのは、結局その「無底」のイデーの深さが
>十分理解されなかったからだということになると思う
96 :
考える名無しさん:2007/04/21(土) 01:33:25
97 :
考える名無しさん:2007/04/21(土) 17:39:42
岩崎武雄さんの「カントからヘーゲルへ」は分かりやすいけどなんか刺激に欠けるんだよな。
99 :
考える名無しさん:2007/04/25(水) 07:44:08
>>79 >観念論といっても「現実は虚構」とまではいってないようだな
うむ。
ヘーゲルなんか、もろに唯物論的立場だったんじゃないかな。
ヘーゲルの観念論的部分は、あくまで当時の政府に対する偽装。
100 :
考える名無しさん:2007/04/25(水) 17:42:33
100get
101 :
考える名無しさん:2007/05/09(水) 17:21:11
ドイツ観念論を論理的に体系化できたことは驚嘆。
ベルリン日本人会公式ホームページ「BERLIN」
http://berlinmetropolis.piranho.de/ 当サイトは、在ベルリンの日本人と日系人で構成される、
「ベルリン日本人会」の公式ホームページです。
只今「実験運用中」です。
当サイト " ベルリン日本人会公式ホームページ「BERLIN」 " は、
会員(参加者)の皆様が実社会で交流する事を前提としている為、
当サイトを御利用になるにあたり、当サイト内のあらゆるコンテンツ内においては、
実社会と同様「ネチケット」を必ず厳守して下さい。
当サイト内のあらゆるコンテンツ内においてはできうる限り「敬語」を使用して下さい。
御意見・御要望・御提案、相互リンク・リンクの推薦などは、
下記の「ベルリン日本人会」事務局・電子メールアドレスまでお気軽に。
「ベルリン日本人会」事務局・電子メールアドレス
[email protected]
103 :
考える名無しさん:2007/07/20(金) 23:37:46 0
age
若きF.シラーの人と論説
小野八十吉著
講談社出版サービスセンター
8月下旬
税込価格:9,975円
ISBN:9784876018161
F.シラーの壮年期に至るまでの哲学的諸論文24編と、F.シラーの人物像について論述。
106 :
考える名無しさん:2007/09/29(土) 11:06:55 0
age
あぼーん
あらし氏ね
109 :
考える名無しさん:2007/12/09(日) 23:00:20 0
ドイツ「観念論」っていうから、色々批判されるのか。
とりあえず、カント読みます。
110 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 02:17:53 0
イエッ
111 :
考える名無しさん:2008/03/08(土) 10:23:40 O
マジレスすれば、カントはドイツ観念論じゃないだろ
112 :
考える名無しさん:2008/04/01(火) 02:19:24 0
>ヘーゲルなんか、もろに唯物論的立場だったんじゃないかな。
>ヘーゲルの観念論的部分は、あくまで当時の政府に対する偽装。
酸性!
マルクスのいう「逆立ち」って、意図的な偽装のことだと思う。
逆立ちを逆にするだけで、あら不思議、すべてのタネが明白に。
113 :
剛田 武 :2008/04/01(火) 02:21:19 0
あのスレッドは君だったんだ。
ポゃ
115 :
考える名無しさん:2008/05/22(木) 15:57:19 0
頭が痛くなるな。
ピゃ
117 :
考える名無しさん:2008/08/18(月) 10:37:34 0
揚棄じゃ!
118 :
考える名無しさん:2008/08/21(木) 09:28:00 0
ノ◎、 |\ \ / / | /◎、
(_,rへ `ソ /> ◎) (◎く| レ' ,rへ )
─ = ニ \◎'/ / \ ヽ、◎/
ノ / \ ヽ こんがるか?
─ =ニ三 ( ◎( -=◎=- i、-=◎=- ) ◎)
─ = ー、_ら ⊂、_,r´
/ ´ ヽ` ̄ ヽニソ ー-゙:.、
ヽ  ̄ ,',',','/ノ
ヽ ゝ ,',',',',',',》.、
\ , , ,',',;彡' _,. ' ,)! \
─ =ニ三 (◎ ヽ-─────(◎ )
ノ◎、 |\ \ / / | /◎、
(_,rへ `ソ /> ◎) (◎く| レ' ,rへ )
─ = ニ \◎'/ / \ ヽ、◎/
ノ / \ ヽ
─ =ニ三 ( ◎( -=◎=- i、-=◎=- ) ◎)
─ = ー、_ら ⊂、_,r´
大橋良介「絶対者のゆくえ -ドイツ観念論と現代-」読了。
すごい分かりやすいんだけど、内容は豊かだった。。
なんで俺がいままでドイツ観念論に惹かれてたのか、も良く分かった。
もっと早く読めばよかったな。学部生のくらいの時に。
フィヒテ・シェリング・ヘーゲルって充分に現代的意義のある哲学者なんだね。
彼らの問題意識が、現代と直結してることが良く分かったよ。。
そうするとやっぱり、ジジェクのアプローチは面白いんだよな〜
テスト
sage
時間と空間が先験的感性形式などといいます。
これは物自体は認識できないというコペルニクス的転換だといいますね。
プラトンのイデア論によく似ていますが。
このコペルニクス的転換は例えば、
「時間が過ぎ去っていく」というのは主観的見方であり、
「私が過ぎ去っいく」 というのが客観的な見方になるということを意味します。
形式は去っていかないからです。動かないからです。
また私が過ぎ去っていかなければ、主観的に見て、時間は止まることになります。
私の時間という形式内における移動の限界に死があります。
死んだ時点で主観的に見て時間は止まるはずです。見れればの話ですが。
痛みがあると「時間は長くなる」すなわち「私は減速する」ものですから断末魔においては「憎らしいほど時間が進まない」と思えるでしょう。
つまり拷問中には主観的見方と客観的見方が非常に接近するのです。
主観が客観にそのまま通じやすくなるのかもしれないですね。
この状態にある精神をオカルト的には霊魂などというのかもしれないですが、
ドイツ観念論的には、絶対的自我というわけです。
ハイデガーは時間が殆ど止まった状態の現存在を存在というのでしょう
存在と死は紙一重だからナチス関与も当然です
123 :
保守:2008/10/31(金) 12:11:08 O
・カント
vier Funktionen des Verstandes:
Quantitaet, Qualitaet, Relation, Modalitaet(WB:Art u.Weise,Ausfuehrungsart)
・synthetisch Erkenntniss :
Verstand ≒ Sinnlichkeit ?
・(Kosmos(Freiheit)⇔ chaos(Wille))⇒ Freiheit des Willens ?
12:悪夢 ◆gx.zb4xN/g 2008/11/01(土) 23:02:01 0[sage]
物事は現象と潜象に別け考える、現象は当然表に表れたもの
そして潜象は表に出る前の何かを意味します。
全てを潜象として捉え、そこから現象が生まれる
その関係を知るという奴。まあ無視すればいいようなキーワードなので
読まなかったことにしましょうw
イデアと影
潜象と現象
演繹と帰納
創造と破壊
理性と経験
現象に対して「潜象」とはいい概念だな。
さっそくぱくってやろう。
むしろ「潜象そのものへ!」というべきなのだ。
そしてこれはニヒリズムの座右の銘ともなる。
どうもカントは何か違う。
非創造的な静的な世界観を持っているようだから。
妄想や夢などもそれ自体経験であるし、何らかの形を与えられ世界に出回る以上、
哲学の対象外にしてはいけないのである。
フィヒテ、シェーリング、ニーチェ、ドゥルーズなどはそういった創造性も視野に入れた世界観を持っているようだから、比較的視野の広い哲学になっているといえる。
Alle Schaffenden aber sind hart. ―Nietzsche
創造とはト・ヘン(一者)のロゴスによる自己展開である。
一者、ニーチェ、ルネサンス、ネオプラトニズム、ヘルメス、ニュートン
the Supream Good is the “generative Power”
Nous is being and thought at once.
“Time must not be assumed to exist outside the soul”―Plotinus
主客一致=三昧
「ヨガとは精神の働きを制止することである。」
これはなんだか死への道のようだが、
もちろん腐敗するための道ではなく、
動にして静、静にして動… というような深海の海流あるいは海中火山の如きものへの道なのでしょう。
「思考停止」といって軽蔑する偏見を持つ人もおられますが、井の中の蛙なんでしょう。
「禁欲に徹する者は、精力を得る。」
禁欲から無欲へ!
無欲というのは、一切が無駄、一切が苦、一切が空であるという実感、体感、またそう認識している状態、
翻せば、一切が既に与えられている、充ち足りている、満ち溢れているという実感、体感、及びそう認識している状態のことだろう。
これはいわゆる色即是空、空即是色である。
主客一致、サマディである。
一者(Supream Good,generative Power)への還元(解脱、帰納)である。
大量消費社会においてはは無欲どころか当然のように放逸が推奨され喧伝されるが、
これはアリとキリギリスの寓話でいえばキリギリスに対応するものである。
だが大量消費社会だからこそ一切が無意味であることが凡夫でさえなんとなくわかってくるはずである。
大量消費社会において推奨され容易なものとなっている放逸によって人々が日々培っていくカルマは、
あたかも大型のプレス機のように放逸を次第次第に無効にしていき、
圧倒的な苦重として人々を押し潰していくからだ。
死が迫ってくる。
そして死に対する態度如何によって、死は死神にもなり善なる神にも見えるだろう。
そこで逃げずに立ち向かう姿勢をとることはドイツ哲学の基本的姿勢であると思う。
そこに生死の彼岸への、自由への道が開けてくるのだ。
その道を照らす月光が、闇の中、注がれてくるのだ。
しかしこの道は見えるばかりであり辿ることは殆ど不可能である。
138 :
考える名無しさん:2008/11/21(金) 15:31:27 0
そうだな
ドイツ観念論の凄いところは、
ダーウィンが『種の起源』を発表する何十年も前に
すでに世界全体を進化の眼で捉えていたことだと思う。
ダーウィンの功績は「世界を進化の眼で捉えたこと」ではなく、
自然淘汰説を理論化したことだよ
141 :
考える名無しさん:2009/04/11(土) 19:51:33 0
フィヒテ万歳
sage
sage
145 :
考える名無しさん:2010/01/09(土) 14:53:52 0
D.ヘンリッヒはカントからフィヒテへ行く流れと、ヘーゲルへ行く流れと
ふたつあると言ってる。
>>145 久しぶりにこの人の名前聞いた。『フィヒテの根源的洞察』はすごい本だね。
日本でこの人の研究している人ってどのくらいいるの?
147 :
考える名無しさん:2010/01/09(土) 17:28:10 0
知らん。おれは、素人だ。ヘーゲル好きからヘンリッヒの本、それと、
「ヘーゲル哲学のコンテクスト」の二冊もってるだけだ。積読にすぎない。
148 :
考える名無しさん:2010/01/09(土) 21:04:31 0
フィヒテもシェリングもヘーゲルも一緒だ。
思弁哲学というのは根拠を示すことができない哲学に等しい。
ヘーゲルの本で部屋を埋め尽くしてるようなヘーゲル研究の学者に
ヘーゲル哲学における矛盾とはどういうものですか
ときいたことがあったが、一言も答えられなかった。
149 :
考える名無しさん:2010/01/09(土) 21:45:32 0
ヘーゲルにおける矛盾とは、真理が自らほんとうの自己となるための原動力
のようなものではないかな。
素人にいきなり「あなたが研究していることを一言でまとめて欲しい」といわれる
ヘーゲル研究者カワイソス
151 :
考える名無しさん:2010/01/09(土) 22:06:07 0
一言も答えられなかったのではなく、答える義務がなかっただけ。君の邪心を
みぬいてね。
152 :
考える名無しさん:2010/01/10(日) 07:04:33 0
日本でヘーゲル研究者は200人から300人ぐらいか。少なくとも本出してる
現役では。だから翻訳本と研究本入れてもせいぜい300冊。とても部屋埋め尽くす
程のものにはならないのでは。
和書で部屋を埋め尽くすとは書いてなかっただろ。
もっとも、ヘーゲルだけで埋め尽くすとも書いてないが。
研究費で買えるものを全部買ったとしたら、(バカ高い全集は
のぞく)50歳の研究者なら3000は切らないんじゃね?
ヘーゲルをやるならカント・フィヒテ・シェリングをおさえて、
ヘーゲル主義者もおさえてとかやってたら、だけどな。
最近だとデリダのヘーゲル解釈とかはおもしろいかも。
154 :
考える名無しさん:2010/01/10(日) 21:37:37 0
デリダはソシュールの影響を受けて、ヘーゲルを音声ロゴス主義と
捉えたが、その着想はやはりヘーゲルから借りている。
「デリダのヘーゲルに対する扱いは忘恩的」(メルローポンティ)
戦勝国フランスの哲学界の活況も今は昔。
ドイツなんて完全に終わってるけどねー
デリダの音声ロゴス主義への批判は、文字への注目を含んでいる。
ヘーゲルは文字は最終的に止揚されるものと考えた。
デリダによるヘーゲル見直しの背景には、ポストモダン社会における、
受容される以前の基体が必要という発想があったと思う。
たとえば、マニュアル社会はポストモダン初期は批判の対象だったが、
ポストモダンの思想を貫徹させるにあたって、「書かれたもの」への
注目がいっている、というのが重要なのでは。
157 :
考える名無しさん:2010/01/10(日) 22:14:55 0
ともかくヘーゲルの限界は哲学の限界。ヘーゲル以後のものはヘーゲルの
後産にすぎない。
158 :
考える名無しさん:2010/01/10(日) 22:22:14 0
アホ、理性の神秘主義のヘーゲル哲学に限界などない・・・www
159 :
考える名無しさん:2010/01/10(日) 22:31:42 0
マルクス、キルケゴールはヘーゲルを完璧に理解したが、その限界を
知って、それぞれ哲学からはなれて、革命を、実存を求めたのだ。
そして伝説へ・・・
161 :
考える名無しさん:2010/01/10(日) 22:48:27 0
マルクスの経済的下部構造も「神の見えざる手」(アダムスミス)によって
動かされているのに・・・www
キルケゴールは、詩人哲学者としては最高だがなwww
162 :
考える名無しさん:2010/01/10(日) 22:48:38 0
限界というのは、批判という意味で、ヘーゲルを批判するというのは
哲学そのものを批判することだ、ということだ。
どうゆうこと?もっかいもっかい
>>154 メルロポンティがデリダに言及してるの?
165 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 08:24:00 0
ヘーゲルが哲学を完成させた事は多くの哲学者の言ってる事だ。ヘーゲル以後の哲学はヘーゲルの後産。
ヘンリッヒ「フィヒテの根源的洞察」は、遠くプラトニズムまでさかのぼる近代主観性哲学がニーチェ
の権力への意志として終わるというハイデガー学派に対して、フィヒテがデカルトからカントまで自明の理
としてきた自我の反省理論の明証性に向けた、自我の起源についての疑問を現代的意義があるものとして
取り上げたものではないかな。しかし、その疑問は後期フィヒテにとって自我は神から流出してくるもの
として解決されているし、また同じようなものとしてヘーゲルの、悟性から自己意識がなぜ生じるかという
疑問も、大論理学、本質論第二章現実性において、偶然の絶対的必然性としてイエスの出来事への承認と
言うことで解決してるんだと思うんだ。
いずれにしてもドイツ観念論とキリスト教は互いに支えあっていると思う。
>>154は勘違いじゃないの?
メルロ=ポンティが亡くなったのは1961年だけど、
デリダはまだ31才で、業界でもほとんど知られてなかったんじゃないか?
そのデリダをメルロ=ポンティが評して何か言うとは考えにくい。
167 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 11:54:39 0
出典、「ヘーゲル哲学の現在」P124 世界思想社 1988年
>>167>>154 「忘恩的」というのは、メルロ=ポンティがデリダに対してむけた言葉じゃないよ。
メルロ=ポンティのその言葉は、その解説書の113頁の引用にあるように、
1946年の「意味と無意味」の一節からとられていて、今日の(1946年時点
での)フランスでのヘーゲル受容全般に対して述べられたもの。
当時十代のデリダには関係のないことだ。だから、その解説者(山崎純)が
勝手に拡張してデリダに対する批判にもなっているかのように「忘恩的」と
いう言葉を濫用しているにすぎない。読み違ってはいけない。
169 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 14:33:41 0
恐れ入りましたと言いたいところだが、同書P124全体を読むと、
山崎純氏の言うことは妥当に見えるが。
>>169 なぜだ? デリダを少しでも読めば分かるが、「忘恩的」どころか、
デリダはヘーゲルを非常に重視して極めて真剣かつ詳細に読み込んでいる。
デリダはヘーゲルを脱構築して葬り去ったとデリダ自身が主張して
いるかのように断じる通俗的な先入見が、この解説からは透けてみえる。
「忘恩的」等という言い回しは謂われのない揶揄にすぎない。
171 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 15:04:48 0
あなたの言うことはおそらく正しいだろう。私はデリダをよく知らないし、
あまり関心がないのだから。
フィヒテは学問論初版で教会からすごくたたかれて修正したっぽい。
ヘンリッヒは
>>165のいう反省理論の明証性と自我への疑義を
クローズアップしたのが確かに功績。現代的意義というのは、
とりあえずポストモダンの多声性と関連して、絶対的なものと
自我とを結びつけるあり方は必然的に多様になるということを
示したという風に考えている。そういう意味では、簡単にキリスト
教と観念論が支え合っているとはいえないのではないだろうか。
ただ、今日的なキリスト教のあり方から再度観念論をとらえ直した
ときに、もう一度キリスト教に脚光を浴びせることは出来る。
そういう意味では観念論におけるキリスト教の意義とか、日本人
では神学者以外は誰も到達できない領域が大事なのかも。
173 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 17:10:15 0
いや、日本の西田幾多郎は、禅体験で同じ領域に達している・・・。
西田をポストモダンの文脈で読む哲学者ってだれよ?
175 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 20:58:54 0
>>172 ヘーゲルまでの西欧近代哲学を日本人が理解するにはヘレニズムとヘブライズム
を知ることが不可欠。特にヘーゲルの場合はカルケドン信条の論理化によって
体系が組み立てられている。
>>175 いやそりゃ当然わかるけどさ、そこでいわれる「キリスト教」って、
結局キリスト論を骨格にして作られるキリスト教の「教義」に過ぎ
ないわけじゃない。それをいかにしてポストモダンの文脈で、つま
り「複数のキリスト教」が実際に存在して、さらに「複数の宗教」
が存在するのかっていうのが問題なのでは。日本人では青木さんと
かがヘーゲルのキリスト論は扱っているけど、Geistが主題になる
なら、たとえばHeilige Geistでキリスト論を再構築したらどうなる
か、とかがポストモダンの読みなのでは?
177 :
考える名無しさん:2010/01/11(月) 22:39:16 0
>>176 私ははっきりいってヘーゲル右派的立場だから。ヘーゲルは私にとって知的遊戯ではない。
「ヘーゲル論理学研究序説」海老沢善一著 梓出版社 2002年 参照
178 :
考える名無しさん:2010/01/12(火) 00:26:13 O
ショーペンハウアーって観念主義?よくわからんがヒトラーが傾倒してたと
>>176 の立場は思いっきりヘーゲル右派だと思われ
180 :
考える名無しさん:2010/01/12(火) 22:07:56 0
>>176 ポストモダン、例えばデリダは、西洋哲学を差延化された言葉で構築されてるだけと否定するが、
「世界はテキストだ」とか「存在は隠れたがる」とかいうニーチェ、ハイデガーの歴史観で、言語学
を借りて同じことを言ってるだけに見える。仰々しい否定に比べ、じゃあどうするのかという積極面
が乏しい様な気がする。「否定は簡単である。なぜなら否定はもともと含まれているから」(ヘーゲル)
ヘーゲル右派、左派というのはヘーゲル哲学に一つの判断を下した態度のことを言うんだと思う。
だが、ヘーゲルは、そういう判断のもとになってる形式論理を止揚してると思う。
「同一と非同一の同一」あるいは「他在において自己を保持する」とか「実体であると同時に主体」とか
三つともおなじこといってるんだが、悟性(形式論理)には謎のことばなんだな。
しかし、人間は実存していて、常に行為のための意志決定を迫られるから、真理という全体性を根源的に
分割(判断)しなくてはいけない。右派、左派というのは実存の在り方を言うのだと思う。
素人の独りよがりだから、間違ってるかもしれないけどね。
181 :
考える名無しさん:2010/01/14(木) 21:41:36 0
自我は自己自身を定立する。そして自己自身によるこの単なる定立によって、自我はある。だから逆も成り
たつ。すなわち自我は存在する。そして自己の単なる存在のよって、自我は自己の存在を定立する。ーー自
我は働くものであると同時に活動の産物である。能動的なものと能動性によって産出されるところのもの、
活動と事とは一にして同一である。それ故に、自我はあるは事行の表現である。しかも知識学全体から生じ
なければならない唯一可能な事行の表現である。 (フィヒテ『全知識学の基礎』)
182 :
考える名無しさん:2010/01/15(金) 23:03:32 0
知識の最後の根拠は自我のうちにあり、したがって真の哲学は観念論でなければならない。知識が実在性をもつならば、観念性と実在性、思考と存在とが合一
する点があるはずであり、もし知識の外にあって知識を制約するより高いものがあるならば、知識は絶対的であることができない。・・・・すべて知識は
主観と客観との一致にもとずいている。単に客観的なものの総括が自然であり、単に主観的なものの総括が自我あるいは知性である。・・・全ての哲学は
自然から哲学をつくるか(自然哲学)、知性から自然をつくるか(先験哲学)を目的にせざるを得ない。
先験哲学は実在を観念に従属させねばならないが、自然哲学は観念を実在から説明せねばならない。この二つ(観念と実在)はしかし、同じ存在の互いに
求めあってる二つの極にすぎない。・・・・哲学は意識の発展史として述べられなければならない。…世界の道徳的秩序も自然の合法則性も、知性の
自由な行為の成功の保証にならない。主観と客観をこえた絶対者、両者に共通の根源であり、両者を統一する同一性である絶対者がそれを保証する。
…芸術作品のうちで知性は完全な自己直観に到達する。
(シュベーグラー、『西洋哲学史、シェリングの章、抜粋)
183 :
考える名無しさん:2010/01/16(土) 20:52:01 0
ヘーゲルが哲学の完成だ。
西田哲学も新ヘーゲル主義の哲学に過ぎない・・・。
184 :
考える名無しさん:2010/01/16(土) 21:40:42 0
>>183 その直観をいかに概念にまで高めるかだ。
185 :
考える名無しさん:2010/01/18(月) 17:10:17 0
行為的直観は、神の概念だよ・・・。
186 :
論理学研究序説より1:2010/01/22(金) 21:07:52 0
『大論理学』本質論「現実」の章は、形式的、実在的、絶対的、の三つの必然性に分かれている。この現実の章は、現実性
としての有、可能性としての本質を相互に媒介させることで、有と本質との絶対的統一としての必然性の概念を導き出す。
それはライプニッツの矛盾律と充足理由律の総合を可能とするもの、またカントのアプリオリな総合判断を可能にするもの。
同一律と矛盾律は同じ事柄の違った表現でなく「AはAでないものでない」は一度「Aでないもの」を措定し、そのうえで
その被措定有を止揚するのである。そこで、形式的な可能性と不可能性と反対対当でなく、矛盾対当の関係にある、矛盾律
に従う実在的可能性を<非可能性>と呼ぶことにした。
形式的必然性は<非可能ー可能ー現実>の推論。結論「非可能は現実的である」は<非可能>の存在することを示唆してるが、
それらを結合させる媒概念が<可能>であるから、そのことの必然性は形式的だというのである。
次の実在的必然性は<可能ー現実―非可能>の推論である。ここでは媒概念が<現実>であるから、この必然性は実在的である。
大前提「非可能は現実的である」は先の形式的必然性の結論である。結論「可能は非可能である」は<可能(本質)>が非可能的
であること、すなわち大前提をうけて現実的であることを示唆する。そにかぎりで可能と現実の結合である必然性が推測される
が、それが結論において明示的にしめされるにいったていない。その意味でこれは相対的必然性ともよばれる。
187 :
論理学研究序説より1:2010/01/22(金) 22:07:24 0
そして最後の絶対的必然性だが、これは形式的必然性の結論を大前提にし実在的必然性を小前提にする<現実―非可能ー可能>
の推論1と、その大前提と小前提とを交換した<可能―非可能ー現実>の推論2が作られる。重要なことは、この二つの推論
のいずれにおいても<非可能>が媒概念となっているということ。つまり可能(本質)と現実(有)は非可能の媒介によって
結合されるのである。推論1の意味することはこういうことである。大前提「非可能は現実的である」は非可能が自らの現実性
を開示していることを表現しており、そこで「絶対に必然的なもの」は「(存在する)がゆえに(存在する)」のである。また、
推論2の大前提「可能は非可能である」は非可能の可能性(本質)が開示されていることであり、したがって「絶対に必然的な
もの」は「存在する(がゆえに)存在する」のである。こうして二つの推論はあわさって存在と本質との絶対的統一を表現する。
つまり「絶対に必然的なもの」は「(存在するがゆえに存在する)」のである。
非可能は<とてもありえぬこと>である。出来事として1回限りのものであり、まったくの偶然であるということである。
それは現実のうちに現れた<実在する矛盾>である。この1回限りの出来事は絶対者の自己疎外であり「その疎外において
こそむしろ自らを明らかにするところの、絶対者のそれ自身のうちにあるはたらき」である。
188 :
論理学研究序説より2:2010/01/22(金) 22:38:37 0
本質論の全体の概括。まずはじめの反省は存在がその自己を探求する論理である。自己であることは他者を排除すること
であるが他者を排除した自己は自己ではない。したがって自己、本質というものは徹底的に矛盾しているもの。
そこで本質は矛盾を解消できるもの、すなわち無矛盾的な言語に救いをもとめる。それが形式と内容の相関的な規定に
よって世界を支配していこうとする法則と法律の論理であった。しかしそこでは自己は見失われ、二項対立の悪無限が生
じる。法則と法律の論理は矛盾を解消したのではなく回避しているのである。そこで真に矛盾が解消されるには、それ自身
矛盾したもの、<実在する矛盾>によらざるをえない。
(『ヘーゲル論理学研究序説』 海老沢純一著 梓出版社 2002年)より
日本の研究者の論文はあまり読まないがこのレベルなのか?引用者の問題か?
この「無矛盾的な言語」というのはおかしいぞ。まあ「的」ということで
ごまかしているのかもしれないが、言語は無矛盾ではない。
190 :
考える名無しさん:2010/02/11(木) 23:24:50 0
有論の<規定性>と本質論の<反省規定>の違いは、本質においては「定有は被措定有にすぎない」ということ。被措定有とは、
有るものではなく、<作られたもの>という意味。それを作るものは第一に人間であり、第二に神である。つまり、被措定有とは
一つには矛盾を回避して作られた形式言語、一つには被造物(それによって創造者が暗示されてる)である。そこで、<反省は>
形式(法則的)言語の生成論であるとともに、神の三一論である。反省とは<自己>を探求すること。まず言語のうちでそれを
探求するが、その試みは挫折し、限りない二項対立に巻き込まれる。
反省論はAからAへ帰ることから始まる(Aを<前提>)。しかしそこへ帰ってゆくそこもAなのだから、それはAを<措定>すること。
措定と前提は同一の行為なのに区別されるのは、Aが前提にとっては直接的なもの(対象)なのに、措定にとっては否定的なもの
(結果)だから。これが「外的反省」の意味である。措定と反省が同一の関係において外的に対立しているのである。(カントの反省
的判断力にあたる)また外的反省は直接的なもの、所与を前提してる。その運動は直接的なものから本質へ帰ること。しかし前提は措定
であるから、この運動は直接的なものを本質が措定することとして、反省が直接的なものを無前提に規定する。(カントの規定的判断力)
反省の論理には言語のトリックがある。それは動詞のその目的語に対する両義的関係から来る。「めしを食う」という場合「めし」は
食うという行為の<対象>(被動目的語)である。対象がまずあり、その行為が終われば対象は<消滅>してしまう。一方「家を建てる」は
「家」は建てるという行為の<結果>(被成目的語)であり、対象は行為が終わることで<生起>する。再帰動詞がとるsichの内ではこの
被動性と被成性とが分かちがたく結びついてる。ヘーゲルはこの両面を前提されたものと措定されるものとして反省の内では不可分とした。
191 :
190の続き:2010/02/12(金) 00:40:10 0
被措定有すなわち世界の事物の本質性は同一・区別・矛盾の三つの反省規定をもつ。矛盾についていえば、「すべての事物はそれ自身
において矛盾している」と言う。それは被措定有であるから、対立する他者を自分のモメントとしてもつ限りで自立的である。
つまり他者を排除して自分であろうとすることはかえって自分を見失うことである。これが事物は矛盾していることの意味である。
しかし「矛盾は自らを解消する」「本質は自分を根拠として規定する」と言う。では、矛盾を解消する根拠はなんだろうか。
矛盾とは「逆らって語る」ことである。それならばそれが崩壊して行きつくところも言語であろう。つまり根拠とは言語のこと
である。ただし矛盾を回避して作られた人工的な形式言語、トートロジーの体系である。矛盾は生きられるのではなく、形式言語
によって排除されたのである。反省も根拠も媒介をその本質としているが、反省が「純粋な媒介」であるのに対して、根拠は
「実在的な媒介」である。本質は根拠において初めて絶対反省の流動的な自己媒介運動を離れて、実在化されるが、実在化が
可能なのは「固定した直接性」つまり記号言語としての「形式」を獲得したから。形式は対自存在とされるから、本質は形式
<である>のではなく、形式を<持つ>のである。
存在はこの措定されたものとしての法則に支配される。存在は自己を探求することをやめ、形式という根拠を見出し、根拠
付けられたものであることに満足する。形式は本質を質料に変え、さらには内容に変えてゆく。それは、本来規定されえぬ
ものすら「無規定なもの」という名前を与えることによって存在を支配してゆく人工言語の力のことである。反省の循環は
やむことがなく、自己はどこまでも先送りされ、統一は彼岸に一種の質的なものとして措定される。思惟が無矛盾という
根拠の上に根拠付けられた世界(反省哲学による近代世界)はこのように平板なものである。
(『ヘーゲル論理学研究序説』海老沢善一著)より
192 :
191の続き:2010/02/12(金) 06:41:43 0
訂正:190の8行目「措定と反省」ではなく「措定と前提」
193 :
考える名無しさん:2010/05/01(土) 18:49:40 0
_,.. -─ ─-、 しァ
/!/ヽ‐'" / イ⌒ヽ
,l_/ l l / /! ヽ
|l /lハ// V| ! ハ
| l / イ ヽヽ/Vl !
| ハVヽト`ー- ' イ/ ,ィ/! \ ∧l |
、ト、 \ ヽー- ' _,..ィ/ // ハ ト、 l!
\ ヽ_,.メ、<イ_/__,.._-=ニ-ヽ _,/
ヽi`、| 、‐rッヾ =|二|-=_rッァ `}',.}
{ ヽ!  ̄ シノ! ヽヽ  ̄ //リ Bitte, Schön!!
ヽヽ!`ー--‐'´/| ` ー--‐ ' /./
\! ヾ_,. /‐'
_ィニlヽ __ ,イiヽ、
_,. -‐'" l | \ `二´ ,r' l ! `ヽ、._
_,. -‐ '" l | \ / | l `` ー- 、._
‐'" _,. -‐  ̄`ヽrァr--`‐──'‐‐-r ,! ! `` ー-
_,.ィ´ ヽ、._ ヽ ./ /i l
ァ‐/ / \_ノ! l / l ',
/ { `ヽ、 }!ヽ! /V ! ヽ
! ヽ \ Y | ` r====r'´ | 〉
194 :
考える名無しさん:2010/05/02(日) 10:43:29 0
時代遅れだね。
195 :
考える名無しさん:
ゞ-、_: : : /ニミ_ー、 ,.-ニ-ヽ
ゞミミミi'´弋弋ラy‐' !くゞク |_
l,.ミミミ ,. ̄:ヽ ゞ∨: | i
| ヘ`'゙ i ヽ<、/ || | なぜAAを貼らないのか説明してもらおうか?
!ヾ|''ヽ i _,.、_,. 、 レノ
'ヽヽ-i -‐=ニ=ラ !゙| ,.-―-、
リ`i''ーi "'''''T"" レヽ,-<__/`ヽヽ
ゞ川 :ゝ、 _/i |: : : `''‐| |__
____レ川 : :`'-、_ ,. -,.ヘ ゝ、> ノ: :,.-‐ニノ ,ノ: :`7
|: rー-----〉川 : : :`´/ヽ r''´`'ー<-イヽ: : :|____
|: |= o ヾ川 ∠ _∠-‐''´ヽ,,..!-ノ ノ/´: : :: :,.-‐''´ ̄`'''‐-、
|: | | . :`'| ( _ ),l、 〉ィ゙: : : : ,.-'´: : : : :::::::::::::::::::::::\
|: |= 9 : : : : | |i‐、__| ( _,.-‐'"´ ヽ〉ノ: : :/: : : : : ::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄,. -‐┘ ||: : : : :| ! /゙く: /: : : : : :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ