1 :
考える名無しさん:
こんにちは!
2 :
考える名無しさん:2005/05/13(金) 23:39:25
おまんこ!
3 :
考える名無しさん:2005/05/13(金) 23:39:29
分裂しましたね、がんばっちゃーだめですよ。
4 :
考える名無しさん:2005/05/13(金) 23:52:09
我無スレ?
6 :
考える名無しさん:2005/05/13(金) 23:57:50
いいじゃん
正直うらやましい
7 :
四式:2005/05/13(金) 23:59:47
おもいっきり他人に語り掛けてるジャン。(~ワ~)つ))
8 :
1:2005/05/14(土) 00:01:50
自我って実はないんじゃ・・。
皆も私と同じ自我でしょ。
なんで違うっていうんだろ。
そりゃ差異はあるけど。
自我って言葉はあなたと私を分けるために表現するためなの??
いちいち分けなくても話は進んでいくと思うんだけど。
そう思うと自我なくなっちゃった。
10 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 00:13:10
ガムスレまた消えたよw
11 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 00:14:33
自我なくなる→無我→我無→ガム
ここはガムスレでつね
12 :
四式:2005/05/14(土) 00:28:07
>>8 個性と自我は関係ないと思われ、むしろ個体という人間非拘束性にある
自分のクローンがいたらそいつと同じ自我を持っている訳ではないし
名前というものを付けたがる人間のサガかね?
まあ精神性の相克というのは同じ母語圏として同じ言葉を使っていても
乗り越えられるものではないだろう。むしろ無我より民族としての絆という
精神性の類似の実現こそより現実的で崇高な人間としての意思なのでは?
13 :
1:2005/05/14(土) 02:23:55
>>12 精神性の類似いいですね。
無我になろうっていう気負いが私にはあるから、
絆という精神性の類似にハッとしました。
>>1 自我がなくなったのではなく、欲がなくなったのではないのですか?
15 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 03:17:28
動物は無我?あなたは動物ですか?
17 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 03:49:54
18 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 04:09:54
皆と私に共通の自我があるんだったら無いと書かないでくれ。語り合うな。
19 :
考える名無しさん:2005/05/14(土) 08:43:22
薬やってた時はしょっちゅう自我喪失ってた
20 :
1:2005/05/14(土) 22:30:05
>>14 欲はありますけど。
>>18 すみません、自我ないです。
何で人間って争うんだろう。
自我は凶暴なのでしょうか。
何で凶暴なように作られてるんだろう。
22 :
四式:2005/05/15(日) 02:58:31
>>13 無我はむしろ自我意識の肥大化という脳の混乱状態では?
>>20 無我こそ狂暴だとは考えないのか?他者意識が礼節を発展させたとも考えられるし
所謂大衆というのがギロチンなどで狂暴性を発したとき大衆には無我意識があったようなきがするが。
>>22 「欲望を忘れる無我」と
「欲望に我を忘れる無我」があると思います
24 :
哲学者最高位 ◆zH5vyVK1vo :2005/05/15(日) 06:32:16
>>1 へぇ!
キミには自我がないのかぁ・・・
私には、あるんだけどね
私の場合だと
「いくら自我がないと思っても、それを思ってるのは紛れもなく私であり、私は私である ゆえに自我を持った存在だ」となるんだけどね
思っているという時点で、それは主観性であって、そしてそれは「私」の主観性だという事になる
ゆえに自我を持っているという事が自覚できる
キミの場合は、自我がないと言うようにプログラミングされた単なるロボットであり、単なる物理現象であり、思う事すらしない物体であって、単に現象として動いているだけ という事になるのかな?
機械は主観性を持って、思ったりしないからね
単に物理現象が起こるべくして起こっているだけで、自我という主観性による思考などしない
単なる現象
キミはそういうモノだという事かな
25 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 08:20:47
1さんの言う自我って何ですか?
ここに書き込んでいる時点で自我があるような気がする。
27 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 13:29:38
>>8 中々面白い着眼点じゃないか。
「私」とは個性のある人それぞれのものだけど、「自我」っていうのは認識力
のことだよね。
認識力は共通するものだから、皆繋がってる1つしかないものとなると、
面白いインスピレーションになりそうだ。
世界がそう言ったのかい?
29 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 13:39:45
私が寝ているとき夢の中で自我がないと思っているのは自我がある。
30 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 15:52:51
自我が無くなったら、「自我が無くなった」という自覚はできない。
しかし、「自我が無くなった」と掲示板に書き込むことはあり得る。
31 :
飛べないカラス ◆hslonKolMc :2005/05/15(日) 15:58:53
人間もロボットと同じで物理法則に基づいて動いているだけなんでしょ。
ここに書き込んでいるのがロボットでない、という保証はない。
それどころが、画面上に増えて行く書きこみがパソコン自体が
作り出しているものでない、という保証もない。
>>24 冷静に考えてごらんよ。
脳にある脳細胞の物質パターンの一時的な構成で記憶とか意識というものがある。
五感の神経が感受する刺激に応じて常に変化しているものだから
「これは自分だ」と呼べるものはどこにもないだろう。
鏡に光が当たれば鏡の中に景色を映し出せるけど、
鏡の中に本当は景色はないんだよ。
そこに景色が映っているから景色がある、と思うのは光学的な幻覚なんだよ。
それと同じように自我も物理的な幻の一種であって、
世界との感覚的なコンタクト抜きでは自我は存在しない。
世界と自分は切っても切れない縁にあるということだ。
だからそこにあるのは自分じゃなくて世界なんだよ。
34 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 16:32:09
>>33 最高位に何を言っても無駄だ。
あいつは「〜と私が考えてる、だから自我がある」教の信者だ。
飽きずに何度も繰り返し唱えてる。
「修行するぞ修行するぞ修行するぞ」と同じだよ。
どんなセリフでも最後に、「〜と私が考えてる、だから自我がある」
と後ろに付ければ解決すると思いこんでる、自我教信者の主観性壮年部の
唯一私部長だ。
デカルトにしたって考える対象や考えたことを発表する対象は、
デカルト以外の存在者だろう。
着てる服や食べ物や言葉や教育にしたって、元をたどれば何から何まで
自分以外の存在から与えられたものだろう。
そこにあるのは自我なんかではなく純粋に物理的な法則性なわけだから、
その法則性に従って意識というものが成立しているわけだろう。
36 :
愛浦憂馬 ◆HVwE1VVfFw :2005/05/15(日) 16:42:28
物理世界から解釈を引き出す「思考」が「私」なのではないでしょか
「怒り」「悲しみ」「喜び」といった感情や
さまざまな観念などは、物理世界には存在しないものだと思います
>デカルトにしたって考える対象や考えたことを発表する対象は
この「デカルトが考える」という部分が、デカルトなのではないでしょうか
>>34 そうなのか…。
仏法では無我とか空とか依正不二 ( えしょうふに )という
基本的な見解なわけなんだが。
>>36 考えるというのが一体何を意味しているのか。
脳がデカルトのものだったら何も悩んだり考えたりしなくても
自由自在に答えだけ出せるだろうよ。
でも、それができないから考える。
だから、デカルトの心と体はデカルト自身のものじゃないんだよ。
39 :
愛浦憂馬 ◆HVwE1VVfFw :2005/05/15(日) 16:51:04
>>38 ということは、世界が世界自体を思考している、ということでしょうか
世界がデカルトの形を借りて、デカルトを通じて世界自身を思考している
つまり、思考の主体は世界である、ということでしょうか
まあ、無我っていっても人格を否定するというわけじゃないよ。
これが自分と呼べるものは本当はどこにもいないということだ。
しいていえば、自然とか宇宙のものだろうよ。
ちなみに、デカルトの自我を説くものはどの著書なんだろう、と考える人もいるはずだ。
あまりにもデカルトの名前が有名すぎてどの著書に載ってるか知らない人もいるだろう。
42 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 17:01:03
最も純粋化した自我を求めるなら、それは時間論。
多様な「内容」の流れに対して、それを統一化する超時間的な「形式」や作用
(流れである故に前後する内容の相互を比較対照する超時間的な何者か)が自我。
43 :
愛浦憂馬 ◆HVwE1VVfFw :2005/05/15(日) 17:05:53
>>40 いま「私が私である」と思っているものは
仮定的なものに過ぎないということですね
それでは「人格」はどこから生まれたのでしょうか
それがわずかでも「私の個性」を作っている
独創的なもののように感じるのですが
>>42 それは空間においても適用されるでしょうか
>>39 いや主体性というか原因と結果を結ぶ縁がある。
「縁起がいい」という時のこの縁起という言葉はもともと仏法用語で、
縁起説のことをいっている。
>>43 そういうのは名前と形態の結びつきによって生じるんでしょう。
>>37 まだいらしたら、
「依正不二」を教えてください。(いきょ、せいろん、ふじや←コピペすれば良 ry)
47 :
愛浦憂馬 ◆HVwE1VVfFw :2005/05/15(日) 17:17:06
>>44 ではこの世界は、何に向かって進んでいる(何のためにある)のでしょうか
仮定的にしても、自我が生まれ
世界に対しての思考がされている意味とは何でしょうか
>>45 偶然ということでしょうか
48 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 17:18:47
>>43 空間というのは、時間性がなければ成立しない。
視覚・触覚及びそれの綜合が空間認識には不可欠だが、
それらも時間意識無しには不可能。
49 :
37:2005/05/15(日) 17:36:34
>>46 依正不二の依は依報=環境で、正は正報=己(おのれ)。
不二というのは二つ別々じゃなくて一つということですよ。
つまり、二つで一つであると。
50 :
37:2005/05/15(日) 17:47:13
>>47 偶然っていうのは宇宙のことわりにはないんだよ。
偶然に思えるようなことにもちゃんと原因があって法則性にしたがって結果が出る。
物質があって、物理法則があって、運動がある。
人の眼に明らかにならないことでも、そこには宇宙の秩序というものがある。
そこに原因や理由や意味があるから人が生まれてくるんだろうね。
たとえそれがその人にはわからなくても、とにかく偶然ということはないんだよ。
お線香とか煙草の煙がゆらゆら揺れるのが偶然なように見えても、そこにも法則性があるわけだ。
それと同じように現在という結果があるからにはそれには原因がある。
現在に作る原因は未来の結果となる。
人が生きる意味はその人の条件によっても色々あるだろうけど、
みんな平和に幸せに生きるために生まれてくるんだろう。
51 :
46:2005/05/15(日) 17:47:23
>>49 ありがとうございます。
つまり、ぽんと己だけを取り出すことはできない というか
まわり(依報)の中ではじめて自分(正報)がある ということで
良いのでしょうか? 重ね重ねすみません。
52 :
37:2005/05/15(日) 18:20:58
>>51 その通り。お見事です。
でも、無我だといっても、何にもしないで座って怠けなさいということじゃないです。
人生で善い結果を出していくには、環境と己が善く調和してこそ善い結果が出る。
遠い過去からの因縁があったりしても、己が勇気や努力や実力などを身につけて
自他ともどもに和やかになるための人生を歩むというのが命の目的なんでしょう。
だから、人間の知恵はそういう平和のために使うもんです。
53 :
四式:2005/05/15(日) 18:25:25
>>50 偶然が無いという立場はこの世には単独で確率的に決定され影響を与える物が
ひとつもないという立場だろう、そこまで言い切れるか?
そして人間が自らの行為を天命や運命として正当化される世界が幸せな世界になると
思っているのか?ぜひ聞きたいね。
54 :
46:2005/05/15(日) 18:27:09
55 :
四式:2005/05/15(日) 18:39:10
>>52 >人生で善い結果を出していくには、環境と己が善く調和してこそ善い結果が出る。
主体的意思を前提としている事になぜ気がつかないのか?
報じられる情報から予想できる結果と競争して仮想的自由を会得した歴史を持つのが人間である
また馬耳東風と情報を聞かなかった事にする事にして因果を切る事もできる。
人間は意識的である限りすべからく我執と自由の中で生きている。
>>55 意識は全然自由ではないです。
顕在意識は潜在意識に束縛されているし、潜在意識は単なる物理現象。
ゲームのキャラクターやAIが自由だというのなら、その程度の意味で人間も自由だとは言えますが。
57 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 19:00:37
潜在意識をまず物理的に解明しなよ
58 :
四式:2005/05/15(日) 19:02:16
>>56 人間意識の不自由な部分はロジック(意識)と感情でいえば感情の部分だが
感情もロジックも繋がっているし感情制御が出来るというのはある程度自由であるということ。
深層意識として抑圧された物にもロジックや符丁がある。
人間自動性としてある部分を選ぶのもまた半分意識的で我執極まる事は
それが別個に違うことからも言うまでもないことだ。
59 :
37:2005/05/15(日) 19:05:36
>>54 どういたしまして。
>>53 偶然らしく見える現象というのも煎じ詰めて考えれば原因と結果があり、
なんらかの秩序と法則性があると見るべきでしょう。
偶然だと思えるものでも、原因と結果の法則性に従って必然的に生じている。
それでも何かの現象が偶然だと思うのは、
人がその必然性や因果関係を観測していないというただそれだけのことです。
>そして人間が自らの行為を天命や運命として正当化される世界が幸せな世界になると
>思っているのか?ぜひ聞きたいね。
人は何によって幸せになるのかと問えば、それは人様々だろう。
では、世界共通の法はないのかと問えば、それは常にそこにある。
真実というのはそれを見ようとする者に開かれているものです。
>>58 自我からは制御できない。潜在意識が制御し、
そのことを後から顕在意識(自我意識)として認識できる。自我は何もやっていない。
61 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 19:14:59
幸せを意識するなら不幸もまた意識される。人れろぞれが幸せを追求するならそれは対立と不幸の原因となる。
62 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 19:21:30
人それぞれという自意識の認識、世界の主観的分析が世界の秩序を崩す自由です。
自我だけが世界から孤立しているのです。
63 :
四式:2005/05/15(日) 19:23:36
>偶然らしく見える現象というのも煎じ詰めて考えれば原因と結果があり、
>なんらかの秩序と法則性があると見るべきでしょう。
偶然らしく見える現象に何らかの因果関係を付与しながら交換するのが人間だという事は
そこに間違った情報の流布によってできた予備知識でもあったり、正しかったり、人間の脳の有機的事故なんかがあって
我執によって価値判断され行動に移される。人間も自然の中の一つであることを考慮すれば
長期的には不規則極まる結果になるでしょう。
64 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 19:27:51
環境と己は調和しないのです。
己から去りて初めて世界と調和し善く生きることができます。
善く生きるとかはその状態になればもはや意味をなしません。
65 :
37:2005/05/15(日) 19:33:18
>>61 全ての生命の平和と幸せを探求する心を持つという原因は、
全ての生命の平和と幸せという結果を結ぶのですよ。
「環境」という言葉が既に強い主観性による不調和の現れだな。
プゲップ
67 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 19:49:51
ありえん。
>>37 とりあえずオマイから生き物食うの止めてみてみようぜ。
68 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 19:50:42
環境と人が調和した状態=土になっている
69 :
37:2005/05/15(日) 20:16:38
>>64 いや、自我というのは始めからそこにはないので去ろうにも去らないでしょう。
環境と己の調和とは、一個の生命とそれをとりまく自然だとか社会だとか国々だとか、
そういうものが和やかであり安らかであるということを言うのです。
70 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 20:22:07
「私は去る」(観る・為す・生きるでも同じ)というとき、
主語「私」は「現に去りつつある私」以外ではありえない。
それ(「去りつつある私」)が「去る」と述語するとき、主語中の「去りつつある」ことが自明化され、
「去りつつあることから離れてあるような主体」が想定される。
例えば「これから何をしようか」と何気なく考えるとき、考えつつあるにも関わらず、
先ず、何もしていない様な自己が在って、次に、それが何かを為すと考えてしまう、
と無自覚的であれ為すのと同類である。
「去る(観る・為す・生きる)」は動詞であり、動詞は時間性故に、
時間性から離れて在り、様々な動詞(見る乃至考える、つまり為す・生きる)が
付随する基体のような主体、つまり霊魂的自我、実証科学的観察主体が想定される。
(観察されるべき現象は時間的である故に、この主体は現象一般を外から観察しうると妄想される)
この厳密な考察の次元では霊魂や自我の想定と、観察主体とは同根である。
このような霊魂的主体の想定は、同時に「主体から離れてあるような去る」の想定でもある。
そして上述の様に「去る」は時間性故に主体から離れてあるような時間、即ち延長的時間の想定である。
(と同時に、「主体と時間から離れてあるような客体」の想定でもある、
かくて、主体と客体とが自存していてそこに認識が作用するという、二元論と堕す、
時間への誤った理解が二元論の根である)
このような延長的直線的形而上学的時間が妄想され、時間から離れてあるような主体が妄想されると、
時間の観察行為も観察主体も時間的・時間の内に在るにも関わらず、
外から眺め渡し完全な答えを為し得ると妄想して、
「一切は決定している」と宿命論及びその類型を妄想したり、一見反対でも同根の、
「“一切は決定していない”ことが決定している」と偶然論及びその類型を妄想したり、
時間の始原が論じ得るとして「万象は根本動因から発出する」と発出論を妄想したりする。
更に、これらの誤謬時間論は、倫理論と強く結びついている点も注意が必要である。
宿命論も偶然論も発出論も(またそれらの類型も)正しくない。
71 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 20:29:50
>>70を
>>42と流通させると、延長的時間を最単純化すると直線的前後関係として因果等の「内容」二点がある、という考えであり、
その二点を外から眺めて同一とか別異とかと比較対照する超時間的(=二点から離れている)な形式作用が自我となる。
72 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 20:33:42
>>70 なるほどです!今まで自分が何となく思っていたことが
明確になりました。
73 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 20:42:27
前述により、「私が生きる」というのは正しくない。前述とは別の角度からいうと、
人類一般とか物事一般が死滅するという三人称としての死は知りうる。
近親者とか己の所有物が死滅するという二人称としての死は知りうる。
だが、私が死ぬ、という一人称としての死は想像は可能でも実には体験不能である。
自己の死という想像は、自己の生存を対象化し、「私は生きる」と為すことによる。
死が体験不能である以上、生も二元論的な理解のようには体験されていない。
74 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 20:43:21
一人称の生死は、実は二人称化されている。
75 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 20:44:44
「己から去る」というのは「私は去る」じゃないんだけど。
「己が消える」という方が正確なんだが。
>>70 「私」の存在というのは、「行為の主体」とか「主語」云々ではなく、
「経験世界の中で、自分と自分以外の存在の仕方は否応もなく、圧倒的なまでの
自明さで異なっている」という理屈抜きの体験による。
たとえば「自分(私)が傷付くと自分は痛いが、他人は痛くない」という事実。
>>70のような時間分析等々の哲学的屁理屈によって「私」の存在を否定しても、
虚しいだけだ。直接的経験として「私」が存在することに、
疑問の余地はないのだから。
77 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 21:08:16
自我は全然超時間的な何かじゃないよ。
自我は時空間、後、論理空間にある。これらが自我の本質的形式。
超時間的なものは自我じゃなくて無我だな。
78 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 21:16:32
いや〜。表現はあいまいだけど
無我の立場に立って始めて
超時間的な形式作用である自我に気がつくんじゃない?
自我が消えて残るものが無我か?
無我って自我が燃え尽きてなくてまだ残ってる中途半端な状態でしょ。
なぜなら無は存在を前提とした概念だからだ。本当になくなったら、無は意味をなさないだろう。
80 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 21:24:26
>>72 幸いです。
>>75 すまんが、意味わからん。
>>76 屁理屈ね…。理屈を拒否するなら、別板へ逝けって…。
直接的経験が大切だといいたいなら、理屈を以って示してくれよ。
直接的経験の領野があるすれば、それは自我ではないし、時間論が不可欠だ、分かる?
無我が中途半端に自我が燃え尽きた状態なら、無我の中の自我は己を超時間的な何かと考えるのかもね。
どうして自我が超時間的だとみるわけ?
82 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 21:41:41
>>80 私は個人的に心身二元論の克服と言う方向から
主観性と客観性を結ぶ唯物軸(勝手に考えた)を設定して
その共通の観点が自我を形成すると考えていましたが
いまいち、説得力が無いなと思いつつ進展していませんでした。
83 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 21:42:55
>>77 >自我は全然超時間的な何かじゃないよ
なら、時間的であってしかも自我か?
時間的(無常)なら如何に自我っぽくても自我じゃねえと思うがな…。
>自我は時空間、後、論理空間にある。これらが自我の本質的形式。
>超時間的なものは自我じゃなくて無我だな。
すまんが、意味不明。
84 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 21:50:30
自我は無常だけど、何か?
85 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 21:54:40
86 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 21:55:42
>>76 君は「私の」と「私」を混同してるな。
「君の」パソコンが壊れても「俺の」パソコンは壊れていないので
困らない。こういう所有の問題と「私」の問題を混同していることに
気がつけよ。
理屈じゃなくて体験談。
なぜ自我が超時間的だと考えるの?
理屈で示してね。
88 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 22:04:31
誰が誰だかわからねぇな…。
とりあえず86氏は、おれ(70)じゃないよ。
>>82 延長的時間が無い以上、時間性と直接的経験は分けられず、
また主観(自我)と客観(他者)も一異がいえないと思う。
>>87 おいおい、理屈で、っていっただろ。
理屈を拒否して体験に逃げるなら、別版へ逝けって。
89 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 22:08:42
そうそう。
理屈を否定して体験でOKなら、カルト宗教の世界観を信じ込んでいる
オウムの信者と変わらないよな。
>>88 自我は時間的であるという根拠を提示したんだが?
91 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 22:20:15
>>88 自我が超時間的であることを理屈で説明してね?
理屈厨は最高でもソクラテスだろ。
自分では何も産まないが産ませる。
93 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 22:30:03
94 :
たま:2005/05/15(日) 22:45:40
時間が流れる(因果関係)を
その、さらに外側から捉え
過去、現在、そしてその先を見ようとするのが自我ってこと
ですよね!
95 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 23:00:00
自我のなきところには現在という時点しかない。
時間はない。
96 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 23:35:20
四次元で物事を捉えるときには
それを明記する様にした方がいいな。
97 :
考える名無しさん:2005/05/15(日) 23:42:07
自我がなくなりましたと書くこと自体自我じゃないの?
次元を越えろ
99 :
愛浦憂馬 ◆HVwE1VVfFw :2005/05/16(月) 01:36:35
>>50 偶然というのは言葉のあやです
つまり、人格や個性といったものは「無意味的」に生まれてくるのかと
そこに意味性はないのか、という問いでした
>みんな平和に幸せに生きるために生まれてくるんだろう。
幸せを感じることの出来る個体
つまり「意味性のある自己」が存在するということですね
100 :
愛浦憂馬 ◆HVwE1VVfFw :2005/05/16(月) 01:46:17
>>56 意識は全然自由ではないです。 顕在意識は潜在意識に束縛されているし
束縛されているということは
自由の可能性が皆無である、ということではないと思うのですが
また、自己暗示のように
「顕在意識」から自分の「潜在意識」を変えてゆく方法もあるそうです
潜在意識の束縛の度合いとはどのようなものでしょうか
また、どのような性質であり、どのように左右でき
操縦できるものなのでしょうか
>>61 本題とはずれるかもしれませんが
一個人の幸福の追求が、他人の不幸を生む、ということはあることですね
ただ、双方が幸福を享受できる形態も存在すると思います
たとえば恋愛をして、相手を求め合うと
互いにとって幸福である、ということがあります
たとえば、時計を買いたい人と売りたい人が出会って
そこで売買をすれば、そこで利害は対立せず、幸福を得ることが出来ます
恋愛して失恋したことあるのかと小一時間…
102 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 02:56:25
自我なんて初めからあったか?
いつからあった?
103 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 03:07:46
自我が肉体と共に生じ滅ぶなら、時間的な存在だね。
104 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 03:16:12
自我は普通肉体と共に死ぬことを自覚してるよ。
105 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2005/05/16(月) 03:38:23
自我は無くなりません。
昇華するものです。
106 :
ネオ:2005/05/16(月) 03:44:43
どう違うのか説明してみて
107 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 12:55:20
105 自我が無くならないなら肉体の氏とは関係の無いところでのその存在を語って下さい。脳とか個体(肉体)の内とか外とかの話では無いのですね?
108 :
Я:2005/05/16(月) 13:00:23
頭の上にワッカがついてる人は自我がないと思う・・w
自我がない人は頭の上にワッカが浮いてると思う・・w
これ、脳死の話とかと関係ある? ない?
110 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 14:51:58
>自我が超時間的であることを理屈で説明してね?
結局自我が時間的であることの根拠が示されねぇな。
ちなみに、俺(70)は自我を肯定していないから
おれが説明してやんのはおかしいけど。
自我が自己同一的(常住)でないなら、自我も無常故に
Aという経験時にはAという自我、Bという体験時にはBという自我
という具合に、AとBという経験を通じての主体がなく、
経験の統一性ということも不可能になる、と考えるわけだ。
時間論に約せば、内容と形式の二元論。
「流れ的な多様な内容」と「それを統一する超時間的形式・作用」だ。
「流れ」として前後する内容相互を比較対照する流れから離れてある何者か、
ということ。
だが、しかし、第一に常住な者(霊魂的自我)には変化はない。
第二に動詞(為す・生きる)以前的な、諸動詞が付随する基体的な、
主語としての自我は抽象の産物であって、何処にもありえない。
故に、我等が自我と錯覚する事柄である経験の統一性は確かにあるが、
それは似自我であって、自我ではない。
この統一性の問題は結局時間論だが、難しいよな…。
似自我を自我と為すことが仏教的には苦なんだ。
専門的には、五蘊を我と、身体を我と、アーラヤ識をマナスが我と、
それぞれ錯覚する、それが苦だ。
111 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 14:54:04
単になぜだかわからないが確かに存在する「経験の統一性」を
自我と「呼ぶ」だけで話は済むのでは?
そう呼んでいけない理由が、何かあるのか?
ヒュームが自我を「知覚の束」と呼んだようなものだろ。
113 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 15:03:47
だからさ、統一性に無常を認めてんなら、その自我は錯覚だろ。
此処から仏教的だけどさぁ、そしてそれを俺と思うと、
俺と俺によって所有されるものが成立しちまうわけだ。
それが苦の源だろう。
114 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 15:04:00
なるほどね。なんとなくぼんやり統一されてる感覚が自我ですか。
115 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 15:06:30
>>113は、間違ったこと書いてないけど、
分かりづらいだろうね。
読み解くコードがないと。
「統一性に無常を認めてる」って、自我が変転常なく最後は消滅する、
なんて、誰でも認めているでしょ。むしろ常識なんじゃないの?
117 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 15:12:12
俺考えだけどさ、だからオンリーワンとか自己の生きる目的だとかいう
蜂蜜付けのチョコレートみたいな甘ちゃん思考が嫌いなんだよ。
オンリーワンとか絶対評価とかってのは、一期一会的考えの変形だと思うんだが、
一期一会ってのは、俺(我)と俺の経験の総体としての所有物(我所)があって、
そのうち、我所が無常だから苦だという考えがあって、それを超克すると称して、
いやいや、無常だからこそ、この刹那は貴重だ、っつうような類で
だから、我と我所という二元論は自明しているわけだ。
仏教的にいえば、そもそも我と我所があるって、考が誤りなんだよ。
だから仏教術語も誤用されちまう。例えば「諦める」ってのは
サンスクリット語では真理を表す言葉で、「明らかに観る」とかって意味なんだよ。
常識では誤用どころか、逆転してるけど。
いや、仏教哲学をどう理解しても、「苦」だの「我欲」だのが
なくなるとは到底思えないが。
119 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 15:15:30
>>115 傍観してないで、易しく説明してやってください、御願いしますよ。
>>116 だから常識のままなら哲学不要でしょ?
常識がすきなら別版へ逝けって…。
>>81 >無我が中途半端に自我が燃え尽きた状態なら、無我の中の自我は己を超時間的な何かと考えるのかもね。
無我っていうのは命の性質に対する見解だよ。我がなくなるから無我なんじゃなくて、
永遠不変で自由な我がどこにも存在しないことを無我と言うんだよ。
無我と言う時、そこにあるのは法則性なんだよ。
121 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 16:31:52
>>116 無常を認めるなら常識は認められない。
常でないから無常というのだから。
無常は非常識である。
>>99 自分だと思っている生命体というのも全宇宙の秩序の一部であるわけだ。
だから、正しい見方をするなら、「自分」「自分のもの」「自我」というのはもともと無い。
何を根拠と認めるのかね君らは?
理屈かね?
ではその理屈の正しさの根拠は何かね?
また理屈かね?
124 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 18:05:30
70。統一性問題についてまた考える。
霊魂的主体と延長時間という考えを最単純化すると、
「流れ的に前後する内容二点(時間・無常)」と
「その内容から離れてありえて、その二点を見渡し得る常住なる主体」となるが、
この考えだと、初めから「二点(内容)」と「二点を見渡す者(形式)」が二元論化されてる。
多様な内容が先ずあって次に統一とか、統一が先で次に多様という類になる。
この二点は不一不異(空)…これは中観的。
(同時でもだめ。というのは関係するべき当体としての、
内容と形式が、刹那であれ先ず関係せずにありうると妄想しているから、
だが考えてみれば内容が内容たるのは形式による、形式も同様。)
現象学の場合どうかな、過去把持とか原意識の問題だろう。
唯識なら、自証分とか種子識や種子と転識の関係か。分析系は知らない。
でもって、流れ的二点が前後していると妄想して、
(二点つまり現在が延長的ならば、過去と未来に分割可能。)
この二点が関係する場合、つまり因果の場合、
因中に果が有るか、無いかになるが、因中有果なら因果が無差別。
因中無果なら因果が無関係になってしまう。
更に因中有果で結果するとすると、(全く同一の)己から己が生じることになって宿命論。
因中無果で結果するなら、(全く無関係の)他から自が生じることになって偶然論・無因論。
だから宿命も偶然も正しくない。70とは別の論法になったが。仏教の場合はそれらについて無記。
125 :
bbs:2005/05/16(月) 18:12:17
仏教から推測すると自が無なため無なものに因も果も存在しないという論になるのではないでしょうか。
126 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 18:15:28
統一性の喪失感も自我がなくなったことから派生するわけだが。
127 :
bbs:2005/05/16(月) 18:20:27
喪失したものそのものを自己の統一の要として認めているのでは?
自己の本質としての自由なる「無」を認めながらも自らの現象的実体は完全拘束の状態にあるのは明らかですし。
128 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 18:29:50
経験の統一性を前提に自我の時間性を否定することはできない。自我あってのそれだから。
129 :
bbs:2005/05/16(月) 18:34:31
自我の存在自体を究極的には仏教は否定しているのではないでしょうか。
経験は直感的一瞬のみに起因すると仏教は考えていると思うのです。
哲学的に考えれば無我は懐疑主義、無常は相対主義、唯我独尊は独我論だな。
仏陀は典型的なソフィストですよ。
131 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 18:45:27
>>125、127、129
「自がある」とおれはいってない、って分かってるよね。
127の投稿の趣旨は、すまんが分からん。
129は、一瞬がどうやって成立するかが問題だし、
一瞬と他の一瞬との関係も問題なわけだ。
>>126 え?おれが説明した統一性はなくなるようなものじゃないけど?
あったりなかったりするもんじゃない。
>>128 自我によって統一性が成立する、と、なるほどね、で、どうやって?
あんたが90か91か知らんけど、俺はわざわざ具体的に答えてやったんだからさ、
具体的に理屈で答えてくれねぇかな。
132 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 18:54:02
「俺」なんてないんだろ?
俺とは何を意味してるんだろう。
意味がわからんな。
>>130 人間に本当に自分と呼べる存在があったなら、空気を呼吸する必要もなければ、
ご飯を食べる必要もないし、排泄する必要もないし、
生まれる必要もないし、老いる必要もないし、死ぬ必要もないし、
何の苦労もないし、何の努力も必要ないし、成長する必要もないし、
勉強する必要もないし、好きな時に好きなだけ意のままの自分でいられる。
でも、現実には自我というものはない。
だから生命活動があり、努力があり、工夫があり、考えるわけです。
>>133 まったく別の方向からだけど
この世の中で生まれた種の99%は絶滅しているが
弱い人間が今も生物的に生き残っているのは自我(生存)に対する異常な執着に見られるのではないか?
名前を付けてお互いを区別する生物は人間だけですよ。
シナではそれを見て仏教を唯死の思想と呼んだわけです。
>>129 小乗仏教でも大乗仏教でも、
別に苦行して無我になるというのではなく、
「そこに無我という見解があります」と言っているのですよ。
無我の境地というのは、「無我である」という見解に立つということです。
俺という自我による経験の統一性
137 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 19:10:43
>>130、134
懐疑論に相対主義に独我論にソフィストね…。
ナーガールジュナという人の『中論頌』(中村『龍樹』所収)とか読んでみな。
その評が当ってるか、分かるんじゃない。
134は何にもとづいていってんの?
>>132 自我と錯覚される事柄はあると、前に書いたけど、読んでくれた?
あんたが128なら131で頼んだこと早く頼む。
>>133 ああ、そういう言い方もありだよな。
自我があるなら、常住者は自在者であり絶対者であり対を絶してるから、
(仏教的には自性化だけど)如何なる意味でも他と関わる動機も必要性もない、と。
>>133 普通に批判すれば
自我という自分がなければ
>空気を呼吸する必要もなければ、
>ご飯を食べる必要もないし、排泄する必要もないし、
>生まれる必要もないし、老いる必要もないし、死ぬ必要もないし、
>何の苦労もないし、何の努力も必要ないし、成長する必要もないし、
>勉強する必要もないし、好きな時に好きなだけ意のままの自分でいられる。
こうでしょ。
自我意識という個人主義が発達した西欧やシナで科学や文明が発達した事実が
物語っているのではないか。
余談
#無我という考えがある種の組織力を持つ事実は否定しがたいが
#それが大衆化や力への意思にしか使われていないのが現実ですよ。
>>134 執着には色々な種類があるんでしょうが、それらは全て我見です。
何もしないで怠けているというのも執着であり、
存在したいと思うのも執着であり、
存在したくないと思うのも執着であり、
何にも執着したくないと思うのも執着であり、
そこに無私の自分を見つける時にこそ執着を離れているのだと言える。
無我とは自分自身がある事すら疑うという意味で
懐疑論の最北ですよ。
相対主義から見れば諸行無常です。
それらを突破するのに唯我独尊(独我論)の視点は必然的に導かれます
一般的にそういう人間をソフィストといいます。
ギリシャ、インド、シナでそうゆう哲学的素地が生まれた時代を
文化人類学かなにかでは軸の時代と言うんじゃなかったけ?
>>140 疑うということではないです。
世界を疑わずに正しく見るならば
どんなものにも自分というものがない。
どんな形も、感情も、感覚も、決意も、意識も、自分ではない。
そこにあるのは尊い命です。
>>139 結局行き着いたその人間の自然には自我が含まれていて
堂々巡りですよ。
本当の無我というものがあったとして
ピューリタンの馬という例え話があって
右の草と左の草のどちらかを食おうか選らんでいる内に
どちらも選べなく死んでしまったという馬がいるらしいんだが。
結局その馬ですよ無我っていうのは
>>142 精神的に自我の存在を疑ったりしなければ無我には行き着きません。
人間は自然的に名前を持ったという事実が人間我執の存在を裏付けている。
>>143 >本当の無我というものがあったとして
本当の自我というものがあったとしたら、という精神的な虚構の中に人はいる。
でも、そこには本当の自我はない。自我というのは作り事です。
そこにあるのは法則性にそって一時的に存在している生命活動であり、
ストレスがあり、老化があり、死があり、永遠ではない。自分とは呼べないものです。
自分ではないものだから、それを無我と言うだけです。
成るものではなく、あらかじめ無我なんですよ。
>>145 本来持っている脳の有機的ネットワークと自己制御の機構という自我が虚構であるなら
無我という精神性もまた虚構であり、虚構を否定した上での無我は人間の動物化です。
人間は本能では万物に対する万物への闘争を繰り広げる邪悪極まる存在です。
>>143 >どちらも選べなく死んでしまったという馬がいるらしいんだが。
>結局その馬ですよ無我っていうのは
念のために言っておきますが、死ぬことと無我という見解は全く異なるものですよ。
無我は死ではありません。
死んで無我になるというのは、無我を理解していない証拠です。
無我とは生命活動の性質であって、それを無我と呼んでいるだけです。
死んだら無我になれると言うのは、それこそ「我」にこだわっている証拠だと思います。
148 :
bbs:2005/05/16(月) 19:48:24
この世界が「有る」として本来的に全にして一なる梵だとすると、世界のほかの要素(法)は無意味になります。
「有る」以外の要素は結局は認識問題に還元されるからです。要するに唯識です。
となると自分は何なのかが問題になります。
ここでヨーガは自を我に還元し梵我一如という発想を出すわけですが、仏教は少し違うような気がします。
仏教では自は完全に「無」であるとして梵とは完全に別の存在であるとしてその存在を固定化しているのではないかと思うのです。
ヨーガ的な見解から仏教を眺めているので微妙に仏教徒の思うものとは違っているかもしれませんが、哲学ですからいいでしょう。
仏教の大胆なところは「人間」という概念を最終的に完全放棄しているところです。
その善悪を問う気はありません。いいときはいいことになるでしょうし悪いときは悪いことになるでしょう。
>>147 死は絶対的な無我ですよ、誰が見ても。仏ではないのかもしれないが、。
関係ないけど、生きてたときの精神性は霊でありもっと大きな観点では魂ですよ。
帰りますよ、落ちますよ。
>>148 >仏教の大胆なところは「人間」という概念を最終的に完全放棄しているところです。
この人は仏教をまるで理解していませんね…。
自分が神と同一だというのなら、どうして人は生まれたり死んだりするのですか?
仏法では生命の尊さを宝塔にたとえてそれを神と同位の位置に座すことはあっても、
「我」が神であり絶対者であるという見解はとりません。
人間性を完全放棄してその命を奪うのは自我を崇拝している人です。
人には我欲があるから己を苦しめ、他者を苦しめ、己と他者を苦しめ、
生老病死の苦悩につながれている。
その苦から己と他者を救うのが仏法です。
「自我と錯覚される事柄」があるんなら、それを便宜的に「自我」と
呼べばいいじゃないか。
「自我と錯覚される原因」を自我と呼ぶ、でもいい。
どっちみち、そういう論法でいけば、「存在する」ものなんて何もないだろ。
「人間」も「小泉純一郎」も「(不謹慎だが)JR西日本」も「電子」も、
存在しない。
存在しないものについて論じたり責任を問うたりできないから、生活の便宜上
かりそめの名前をつけているだけだろ。そもそも言葉というのはそういうもの
としか理解できないことになるんだから、「自我」と呼んで、何も不都合なかろ。
どのみち一人称を使わないで会話なんかできないんだから。
154 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 20:08:54
>>140、それ他
で、『中論頌』読んだことあんの? 148もだけどさ。
知らないなら仏教についてどうこう言わねぇ方が良いと思うぜ。
形而上学を排すること、つまりは厳密に経験論的であることを
相対主義とか懐疑論って考えての?
相対主義と無常、それらと独我論の繋がりが良く分からん。
ところで、「自我がある」と主張したいなら、
常識やら体験に基づいて「あると“信じてる”」(とやっているようにみえるが)じゃなく、
それが「“如何に”して」かを理屈でやらないと哲学じゃない。
できないなら単なる二元論的信仰でしかない。
ただし唯物論及びその類型がやるような、脳からとか、有機的ネットワークとかいうように、
客観時間、空間、無数の主観達、その中の一主観、という具合に、
二元論的形而上学的前提を自明して説明するのは哲学じゃないぞ。
牛乳が何故白いか聞かれて、小さな白い粒子からなってるからってのは説明じゃない。
これと同じで状況説明的で自然主義的態度になっちまう。まぁそれがすきなら理系板へGO!
155 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 20:12:31
>>153 なぁ此処は何版なんだい?
常識が好きとか体験を信仰して「如何に」を理屈でやらんなら、
別板があんたをまってるよ。
なんかめんどくさくなってきた…。
156 :
bbs:2005/05/16(月) 20:25:02
>>152 自分が神だとは言ってませんよ。梵、もしくは認識とは自は異なりますから。
ただ、自分は現実的にどう生きるかの宗教的なものを仏教的理論には求めず、ただ純粋に自己本質について考えたので「仏教」とは確かに相容れないところが出てきたかもしれませんね。
>>155 「常識が好き」って何? 名詞で表されるものが「存在しない」
なんて、常識でも何でもないと思うが。俺は昔から「固有名詞」だって
単なる虚構(というか論理的独断)だろ、とずっと不思議だったけど、
非常識だと思われるのが嫌で言えなかったよ。
「如何に」って、何についての「如何に」?
「如何にして自我という錯覚が成立するか」か? それはあなただって
論じられていないと思うが。
そこに自我を見る人は、そこに己の死を見る。
しかし、そこに無我を見る人は、不死を見つけます。
自我に満足している人は人間的な勇気もなく、
努力することもなく、自分自身を崇拝して他者を見下し、
間違った見解によって徳を失い、自分が得たものを最後に全て失う。
無我を知る人は人間的な勇気があり、努力の重要さを知っていて、
自分自身を崇拝せず、他者を見下すこともなく、徳を失うことがない。
その人の正しい見解と発言と行動と教育によって蓄積された価値は、
命の安らぎと幸福につながる。それが無我です。
159 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 20:41:53
>>157 >「如何にして自我という錯覚が成立するか」か?
>それはあなただって論じられていないと思うが。
そうだな、確かに「錯覚が成立する仕組み」は述べてないな。これは難しいと思うぜ。
だが錯覚であることは述べたな。
ところで、知見があるんだから、あんたが「仕組みの如何に」を論じてくんないか。
傍観や批評よりも実行が難しいって分かるよな、さあ参加しよう。
160 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 20:50:34
デジャブが起きました
5分ほど先まで目の前に起こることが
全て理解できました、そして理解したとうりの事が目の前で起きました。
まさに「理解した」って感覚が強烈でした。
これってなに?
161 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 20:56:22
>>157 ごめん、つけたし。
「名詞で表現されるもの」が何で虚構か、についても、
その「如何に」を教えてくれねぇか。
ちなみに俺は、普通の名詞でも固有名詞でも、無常者を非無常者として捉えたものだから、
(厳密には、無常でも常住でもないそれを、無常か常住として捉えたもの)
虚構だ、というぐらいにしか考えてないけどさ。
162 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2005/05/16(月) 21:28:16
163 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 21:43:44 BE:163126499-
164 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 21:44:55 BE:48333964-
>>158 神にでもなったつもりですか?。
所詮人間であることをお忘れなく。
165 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 21:48:10 BE:54376439-
完璧な存在は神だけで十分です。我々は煩悩を備えた人でしかないのです。
自然な存在には不完全さが潜んでいるのです。完全なのは神だけです。
我々は人ですお。
166 :
考える名無しさん:2005/05/16(月) 21:49:43 BE:24167243-
>>158は当然のことを言っているのに、反発している人間の気が知れない。単なる事実でしょうに。
無我は無感症でしょ。
不幸でも幸福でもない。
世界の秩序に従うだけで、努力はしない。周りからはそう見えるかもしれないが、無我にはそんな意識がない。
無我は我知らず自然と働くのみ。
169 :
bbs:2005/05/17(火) 16:46:23
中観哲学について考えました。
自分は龍樹は参考にはしますが言っていることは疑問に思います。
龍樹は要するにその行為が行われざるものにその行為が付加することはないと言っているようですが、そもそも「行為」と「実体」が同じであるということはないでしょう。
行為は有象変化する幻であるのに対し実体はただあるものであり本来的に異なるものです。
要するに「椅子が動く」ことは実体としてなく「椅子が動くという認識」のみが実体だと思うのです。
170 :
考える名無しさん:2005/05/17(火) 18:03:27
無我であっても自己自身はある。
無我であれば自我はない。
あるものとないものが同じという論理は成り立たないから
自我は自己自身とは異なる。
「自己自身」って何?
172 :
考える名無しさん:2005/05/17(火) 19:52:01
自己自身とは自分自身のことである。
>>169 >要するに「椅子が動く」ことは実体としてなく「椅子が動くという認識」のみが実体だと思うのです。
なんかヴァーチャルリアリティな考え方ですな。椅子が動く認識にたいする認識もまた実態ではないとしたらどうよ?
>>170 肉体は精神と結びついていないという事ですか?
>>170 無我という完全状態に自分自身という制限を加えればやはり我ではないですか?
175 :
考える名無しさん:2005/05/17(火) 21:46:13
>>174 完全状態でないから無我である。
完全なら我となる。
無我はこう考えればわかりやすいかもしれません。
昨日の自分とは何でしょう。今日の自分とは何でしょう。
今日の自分から見れば、昨日の自分は影のようなものでしょう。
人にはそれを超えることができるという向上心があります。
今日の自分とは何でしょう。明日の自分とは何でしょう。
明日の自分から見れば、今日の自分とは影のようなものでしょう。
未来の眼で自分を見つめれば、そこにある自分は自我ではない。
人には自我を超えることができるという向上心があります。
昨日の自分という自分自身の影に勝って成長する。
そこには常に変化している自分がある。
そうすれば無我の境地がわかります。
ひょっとしたら、今そこにある自分は
自分に負けているという弱い自分であるかもしれない。
そこからの転回や、公平心や、無為(むい)、平静、実現、目覚め、
そういった過程を通じて、己の内なる弱い自分に執着するという
煩悩の炎が消火していく。勇気を持つこと、努力すること、積み重ねることによって
新しい自分を得る。そうすれば古い自分から新しい自分へと変わっていく。
勇猛に精進することで、命を好転させていくということなのです。
そこには常に変わっていく自分があるので、これは無我であると。
178 :
四式:2005/05/18(水) 01:33:58
>>175 完全に平行線ですな。
完全な自我なんて想像もできませんよ。
>>176 自己や自分の連続性こそ自我であって昨日の自我も明日の自我もありません。
>>177 積極的に肯定される一般的態度と無我をどうしてもこじつけようとしてますが
四法印に従えばこの世の一切は苦と考えるようですよ、
何とか涅槃が無我や空の態度なら無我というのは現実を超越した梵我一如的な精神性と
考えられますよ。ちなみに無為自然は道教ですよ。
ちょっと強い野郎が現れたのでそっちに噛み付いてきますよ、
>>178 >四法印に従えばこの世の一切は苦と考えるようですよ
仏教というのは時と場合によって分析的に説くことがあります。
一切皆苦という言葉は瑜伽師地論という書物から来ているようです。
しかし、分析的に説かれたことの中では、
誰かが他の見解を評価して認めない場合は論争になるだけです。
違う視点を持っていても、心を開いて牛乳と水の様に協力して、
各視点を理解する眼で見てとどまるべきです。
>自己や自分の連続性こそ自我であって昨日の自我も明日の自我もありません。
演奏者がリュートという弦楽器を持ち、適度な人間的努力を重ねて演奏するならば、
リュートの音色というものが生まれる。このリュートを見たことがない昔の王様がいたとして、
その音色を聞いてこれはいい音だ、と言ったとする。王様はリュートを手に取って、
リュートはもういい、音楽だけをくれ、と言ったとする。では、王様がこの音楽だけを
純粋に手に取ることができるのかというとそれはない。何がこの音楽を構成しているのかと言えば、
リュートの様々な部品であり、音を出す部品の無数の運動だから。それはリュートのボディであり、
皮であり、ネックであり、フレームであり、弦であり、適度な人間的努力などであると。
>ちなみに無為自然は道教ですよ。
この場合、無為というのは仏教用語です。
大辞林 第二版 (三省堂)
(3)〔仏〕 因果関係に支配される世界を超えて、絶対に生滅変化することのないもの。
すなわち、涅槃(ねはん)・真如(しんによ)といった仏教の絶対的真理のこと。無為法。ぶい。
180 :
bbs:2005/05/18(水) 15:22:35
>>143 認識は瞬間的で全体的なものとして考えます。
全ては今の認識であり、過去は現勢的な観測体の背後を見ることによって現出すると考えるのです。
どうしても認識論になると少し魔術的というかバーチャルな感じがしてしまいますが仕方ないところです。
魔術師などはそうでないものをそう見せることによってそうするという手法を取ることがありますが、これは記号と意味が本来的に一致し得ないという哲学的問題を理屈にしたものでしょう。
現実的には力がないため、へ理屈になるのでしょうが、結構核心をついている部分もあると思います。
181 :
bbs:2005/05/18(水) 15:38:38
>>180 間違えました。
>>173です
>>175 自我がもし完全なものであるならもはやそれに変化はないのでその時点で終わってしまうでしょう。
ところが自我というものは時間性を想定しています。
すなわち時間がある限りその自我はすぐに崩れ去ってしまいます。
よって自我は永遠という意味では常に完全なものにはなりえません。
もしそれを完全というなら完全でない状態をただ完全だと一方的に認めるしかないでしょう。
最も完全というのは認識問題ですから何ともいえないところもありますが。
自分というものを出さないなら、そのままのものをみろ、とか模倣ということになるだろうにねえ
>>182 人類の体はお互いに模倣をしているといえまいか。
頭と顔があり、二つの眼と二つの耳と一つの鼻と、一つの口がある。
二本の腕と二本の足があり、二本足で歩くようにできている。
人には様々な違いがあっても、それは人なのだといえる。
人体には自由ではない法則性があるからであり、人体は法則性の表れなのだといえる。
自我というものも人体の一部であり、これも法則性の表れだ。
どれが自分ということでもなく、仮の姿があり、仮の感情があり、
仮の感覚があり、仮の決意があり、仮の意識がある。
それらは時々刻々と変化しており、永遠のものではない。
だからそこにあるのは自己ではなく、そこにあるのは法則性だ。
184 :
四式:2005/05/18(水) 22:46:38
>>179 >>四法印に従えばこの世の一切は苦と考えるようですよ
>仏教というのは時と場合によって分析的に説くことがあります。
>一切皆苦という言葉は瑜伽師地論という書物から来ているようです。
>しかし、分析的に説かれたことの中では、
>誰かが他の見解を評価して認めない場合は論争になるだけです。
>違う視点を持っていても、心を開いて牛乳と水の様に協力して、
>各視点を理解する眼で見てとどまるべきです。
仏教にとって三法印、四法印というのは仏教であることの証であり共通の原理!!
三法印、四法印を否定するなら仏教にあらず、、というのが普通じゃね?
>>ちなみに無為自然は道教ですよ。
>この場合、無為というのは仏教用語です。
仏教用語というのは我執ですよ、漢字そのものの持つ意味を自然に解釈するのが
無我を志向する仏教徒の立場ではないか?
185 :
四式:2005/05/18(水) 22:55:11
>>181 俺が完全な自我は存在しないと思うのは自我意識は身体と結び付けられているが、
それを確認して意識する方法に言葉という公共に保持されている言葉を使わなければ
ならないという意味で完全な自我は存在しないと言いたかったのです、
>>184 仏教に四法印があるから世の中の一切はその通りに苦でなければならない、という人がいる。
しかし世の中には苦と楽があり、苦でも楽でもないものがある。
世の中の一切は苦であるというのはここにおいて間違った見解であり、
彼は落ち度の危険性、けがれの下劣な性質、これらの間違いを諦めることの
純粋性と価値の結果をわかっていない。そこには苦と楽があり、
苦でも楽でもないものがある。そこに苦と楽があり苦でも楽でもないものがある時、
彼はこの世の一切は苦でなければならないと発言します。
彼は間違った教育を与えていることになる。間違った教育を与えながら、
彼は彼自身を崇拝し、他の者達を見下します。これによって彼は与えられた徳がなんであれ
失います。彼は、間違った考え、間違った発言、間違った教育を与えることという
間違った見解によって様々なものの落ち度を蓄積していき、
彼自身を崇拝し、他の者達を見下すのです。
もしそこに楽や、苦や楽でないものがないとするなら、彼の言葉は本当となる。
しかし彼は苦から逃れることはないでしょう。もしそこに苦だけではなく
楽があり、苦でも楽でもないものがあるのなら、彼は彼が蓄積した落ち度が原因となって
死後に退化し地獄に落ちるでしょう。彼は両方の場合で損をしているのです。
このように、広く行き渡る教えは両方の場合を考え、落ち度のある方を顧みないのです。
>仏教用語というのは我執ですよ、漢字そのものの持つ意味を自然に解釈するのが
>無我を志向する仏教徒の立場ではないか?
仏教用語が我執なのではなく、我執が仏教用語なのです。
無我というのは「そこには自分だと見なせる自分は実際には存在しない」という
宇宙の性質を示す、一つの見解です。
186に付記するならば、仏教徒の立場とは、
そこに苦があるから、その苦の原因を見極め苦を休止すること、
そういう平和で幸福な正しい生き方をすること、というようなことでしょう。
世界には四種類の人間がいる。
自分を苦しめて苦悩に繋がれている人。
他者を苦しめて苦悩に繋がれている人。
自分と他者を苦しめて苦悩に繋がれている人。
自分も他者も苦しめず、苦悩に繋がれていない人。
この「自分も他者も苦しめず、苦悩に繋がれていない人」
自分も他者も苦しめずに生きる、苦悩に繋がれずに苦悩から生命を救う人、
という人になるためにお互いに成長していくということが仏教徒の目指す所でしょう。
188 :
考える名無しさん:2005/05/19(木) 08:10:12
無視されることによって自我は肥大する。認知されることによって自我は縮小する。
。
自我がなければ人は表現しないだろう。
表現するものがない故に。
内面的に豊かな人間が孤独を好むのは自我を肥大させるためではないか?
それはエネルギー源である。
認知を好まないのは、それが自我を縮小させるためだ。というのは何かを好むのは自我だからだ。
認知されたくないのに敢えて表現するのは無視による己の拡大を狙っているからだ。
人は自分を無視する人間に注目する。
注目という識別は自我の本質的働きである。
無視によって無視される主体である自我が肥大するので注目するのである。
>>189-193 そこにあるのは我ではなく法則性であり、法則性とは自分のものではありません。
だから「諸法は無我である」という見解があります。
196 :
四式:2005/05/19(木) 19:36:10
197 :
四式:2005/05/19(木) 19:46:22
そろそろ仏法を解こうじゃないか。
諸行無常=( )
↓
諸法無我=( )
↓
一切皆苦=( )
↓
涅槃寂静=悟り
さあ埋めてください。
198 :
四式(これでOK):2005/05/19(木) 20:00:15
俺が埋めてみる
諸行無常=(人間の行いは相対主義的に動くから常ではありませんよ。)
↓
諸法無我=(自然は我執がありませんから単一の目的で動きますよ)
↓ 唯我独尊を受けて
一切皆苦=(何一つ自分の思うようになるものはありませんよ。)
↓
涅槃寂静=(悟りの境地ですよ)
>>196 科学ではまだ全て解明できないものも含めての命の法則性ということだろう。
もし自分の形が本当に自分のものであったのなら、自分は好きな形になれるし、
自分は老化することもないし、怪我をすることもなく、壊れることもなく、意のままに
永遠に今の形でいられる。「自分の形はこうなれ、自分の形はこうなれ」という風に
瞬時に形に示すことができる。でも、現実には自分の形というのは自分ではないものなので、
ストレスがある。誰も「自分の形はこうなれ、自分の形はこうなれ」とは示せない。
同じ様に、感情も、感覚も、決意も、自分ではないものだ。
さらに、もし自分の意識が本当に自分のものであったのなら、自分は苦労もなく瞬時に
意識にこう示すことができる。「自分の意識はこのようになれ、自分の意識はこのようになれ」
ところが、現実には自分の意識というのは自分ではないものであり、何かを知りたければ
考えたり勉強する必要があり、それでいて永遠のものでもなく、ストレスがある。
誰も「自分の意識はこのようになれ、自分の意識はこのようになれ」とは示せない。
そういうものは自分とは見なせない。だから、どんな種類の形も、感情も、感覚も、決意も、
意識も何であろうと、過去のものでも、未来のものでも、現在生じているものでも、
大まかなものでも、微妙なものでも、体内でも、体外でも、劣っていようと、優れていようと、
遠くであろうと、近くであろうと、正しい理解でこう見なさないといけない。
「これは本当は自分のものではない、これは自分ではない、これは無我なんだ」と。
>>197 私は、一切皆苦というのは釈尊が言った言葉ではないと思うよ。
もしそういうようなことを言っていたとしても、その正当性があるのは
特定のコンテクストの中だけで、「感覚的な快適さを求めるだけよりも
もっと上の生き方がある」と言う時の、感覚的な苦労や快楽に振り回されないで、
お互いに苦労をしない生き方をしなさい、というような意味だろう。
一切皆苦というのは、仏教学者が仏法を勘違いしてゆがめて伝えた結果だと思う。
そもそも、阿含経のように小乗仏教の原初的な経典には「法印」という表現は出てこない。
一切行無常 (sabbe-saMkhaaraa-aniccaa、sarva-saMskaara-anitya)
一切法無我 (sabbe-dhamma-anattaa、sarva-dharma-anaatman)
涅槃寂滅 (nibbaana-vuupasanna、nirvaaNa-vyuupasaama)
この三つの見解は、上記の阿含経に法印という表現を使わずに出てくる。
この三つの見解の方が、四法印よりも正確だろうと思うし、大乗仏教にも同じく通じるものがある。
201 :
唯識 ◆Vidya0E1.s :2005/05/19(木) 21:24:37
202 :
考える名無しさん:2005/05/19(木) 21:51:29
諸行無常=人は単なる現象である
諸法無我=人は生物としての主体を持つ
一切皆苦=意識は有害なもの
涅槃寂静=脳死状態(有害な意識が働いていない)
どうかね、釈迦君
>>198 >一切皆苦=(何一つ自分の思うようになるものはありませんよ。)
>>199-200の続きを言えば、
何一つ自分の思うようになるものはないというのは間違いですよ。
仏法で説かれたことは、苦悩がある、苦悩の休止がある、苦悩の休止への道がある、
ということです。そこに自我はない。そこには聖なる命がある。
そこには法則性がある。そこには原因があり、結果がある。
物理学で言えば、物質があり、物理法則があり、運動がある。
仏法で言えば、仏があり、仏法があり、平和運動がある。
一切の幸福の因を縁によって結べば、一切の幸福という結果を生じる。
涅槃寂滅とは永遠です。永遠は無常ではない。常です。
涅槃寂滅とは苦悩の超克です。生きる苦悩を克服して生きる。楽です。
涅槃寂滅とは自由です。生きる苦悩に振り回されないで生きる。我です。
涅槃寂滅とは清浄です。煩悩による苦悩の原因にはならない。浄です。
常楽我浄
この四つの徳には、人間的な勇気と努力と実力によって到達できる。
そのために生きる。それが仏法です。
204 :
四式:2005/05/20(金) 03:37:45
>>200 >一切皆苦というのは、仏教学者が仏法を勘違いしてゆがめて伝えた結果だと思う。
>そもそも、阿含経のように小乗仏教の原初的な経典には「法印」という表現は出てこない。
そもそも三法印、四法印が出来たいきさつは仏教が多岐にわたり変化していったので、共通の根本原理を確認する
必要があったからできたわけだから上座に法印はでてこないのは自然だと思われ。
>一切行無常 (sabbe-saMkhaaraa-aniccaa、sarva-saMskaara-anitya)
>一切法無我 (sabbe-dhamma-anattaa、sarva-dharma-anaatman)
>涅槃寂滅 (nibbaana-vuupasanna、nirvaaNa-vyuupasaama) #<<ニルヴァーナだけは読めた
>この三つの見解は、上記の阿含経に法印という表現を使わずに出てくる。
>この三つの見解の方が、四法印よりも正確だろうと思うし、大乗仏教にも同じく通じるものがある。
とりあえず論理的におかしい所は三法印が四法印になったという時系列なら、小乗→大乗の時系列からいって
四宝印の方が大乗に通じると思われるのだが。
思い出したが仏教的世界観である輪廻への執着とニルヴァーナ(解脱?)が関係するとなると
やはり仏教徒としては一切皆苦はいるだろう。やはり
>>198は違うな。
205 :
四式:2005/05/20(金) 03:42:32
>>201 ニルヴァーナ(解脱?)に至るための段階というか方法論であろうと考えるね。
206 :
四式:2005/05/20(金) 03:49:55
>>199 >もし自分の形が本当に自分のものであったのなら、自分は好きな形になれるし、
>自分は老化することもないし、怪我をすることもなく、壊れることもなく、意のままに
>永遠に今の形でいられる。「自分の形はこうなれ、自分の形はこうなれ」という風に
>瞬時に形に示すことができる。でも、現実には自分の形というのは自分ではないものなので、
>ストレスがある。誰も「自分の形はこうなれ、自分の形はこうなれ」とは示せない。
>同じ様に、感情も、感覚も、決意も、自分ではないものだ。
むしろ、自己の制限性が自己を作っている、自己の形が私の物であるから自我が生まれる。
感情も、感覚も、決意も、自己無くしては生まれない。
207 :
四式:2005/05/20(金) 04:00:21
>>203 >仏法で言えば、仏があり、仏法があり、平和運動がある。
根本的に間違っているのは仏法と平和運動という政治的活動(?)は何の関係もない
むしろ戦争状態の表裏である平和とは防衛の為に備え人を殺すという概念も含んでいる、それは仏教ではないだろう。
>涅槃寂滅 うんぬん
>この四つの徳には、人間的な勇気と努力と実力によって到達できる。
>そのために生きる。それが仏法です。
涅槃とは解脱の事であり仏教世界で言う人間界の人間の状態とは何の関係もない。
匿名掲示板くらいは習俗にまみれた大乗教団のドグマからは離れないか?
208 :
考える名無しさん:2005/05/20(金) 12:28:39
>仏法と平和運動という政治的活動(?)は何の関係もない
仏教では出世間の教えだから政治活動そのものだろう。
仏教は涅槃という心の平和運動だろう。
>涅槃とは解脱の事であり
涅槃は苦からの解脱であり輪廻のこの世とまったく変わらない。
209 :
四式:2005/05/20(金) 22:24:47
>>208 >仏教では出世間の教えだから政治活動そのものだろう。
仏教の本質は上座仏教であり理念の共有よりはインナーな精神ではないか?
だいたい仏教を政治活動と認めれば政治活動にまつわる隠然とした悪
(例えば情報の隠蔽と流布に関する利害心)がはりつくわけで、それはどうかなとなる。
>涅槃は苦からの解脱であり輪廻のこの世とまったく変わらない。
この世の輪廻こそ苦とする事は仏教の基本事項なのではないか?
なら涅槃は輪廻からの解脱でしょうよ。
210 :
四式:2005/05/20(金) 22:53:09
哲学版で仏教徒のふりをする人間は数あれど
根本原理たる四法印について語れる人間がいなければ
演技としての宗教ゲームとしてしか映らない。
ましてや仏教の政治性を容認するというのは信者としての敗北を意味している。
キルケゴールの「GODの前にただ罪人として立て」のように
「仏陀の前にただ信者として立ち」仏法を語る人間はいないのかと。
私は解説書ではなく様々な仏教経典を直接読んで仏法を理解してきました。
四式が一切は全て苦であるというのなら、
苦痛の休止も苦しみであり、苦痛の休止に至るまでの道も苦しみであり、
涅槃も苦しみであるという根拠をどこから得たのか、
経典をそのまま引用して、私にも賛同できるよう説明してみたらいいです。
もしそれができないのであれば、四式の言葉は仏法に対する誹りであると見なします。
もし四式が仏法を誹っているなら、四式はすぐに考えを改めないといけない。
私が思うに、
>>206の意見から四式が無我を理解していないことが私にはわかる。
>>207の意見から四式が仏法が何のためにあるのかを理解していないことが私にはわかる。
>>209の意見から四式がスジャータの供養から純陀の供養に至るまでの釈尊の布教の道のりを
理解していないことが私にはわかる。スジャータの供養で命拾いをした菩薩が、
のちに成道して仏法を広く布教し、一人の素朴な市民である純陀(両親を幼い頃になくし、
小さな鍛冶屋を営んでいた真面目な仏教徒だった)の家で最後の供養を受け、
既に老齢であった釈尊はその後入滅した。しかし、在家であり貧民である純陀の供養について、
釈尊は入滅する前にアナンダにこのように言った。
「きっと誰かが言い出すだろう。『純陀が毒料理を食べさせたせいだ。純陀は徳のない悪党だ』と。
しかしそれは間違いである。私は純陀の料理を最後の供養として逝くのであるから、
第一にこの生涯の悟りを大成させ、第二に大般涅槃に至らせてくれたのである。この供養は、
私が受けた供養の中でもスジャータのものと並び、我が人生の供養の中で最も重要なものである。
大いなる威徳がある供養だ。純陀は大いなる威徳を積み、
偉大な尊者となるべき偉業を成し遂げたのだ。純陀を恨む者が現れたなら、よく諭すのです」
そして、釈尊は純陀にこう告げる。「いいか純陀よ、現世の流転の苦しみに限りはない。
栄えるものにも必ず終わりがあり、会うものにも必ず離別がある。誰しもが老病死の苦しみに
喘ぐのだ。つまりこの世に生きることは苦しみそのものを体に集めているのと同じことであるから、
これを取り除くことは出来ない。むしろこれを楽しみへと変えゆき、日々が修行であり、苦しみは
常に自分を磨いてくれる尊い事象であり、そして森羅万象全ての正体はみな空だということを悟り、
この苦しみの現世に上妙の楽を見出すのだ。お前は一切衆生の仏法僧の帰依所となり、
私の教えを留まることなく弁じていきなさい」
>>210の意見からは四式が抜苦与楽の仏法を理解していないということが私にはわかる。
仏法というのは昔も今も大衆と仏が一体になっての平和運動であり、
苦を乗り越えて生きていく楽しみを衆生に教えるものなのですよ。
生きるということには様々な困難がある。だからこそ、それを超えるという楽しみがある。
人であれば人生の苦難に打ち勝って命を磨いてこそ人生の意義がある。
苦や不幸を黙って見過ごすのは仏法ではない。
生きる苦悩という毒を、生かす薬に変えてこそ、命が充実する。
命を輝かし、灯明となり、無明を照らし、苦を苦と悟り、楽を楽と悟り、
その苦楽を超える仏法という命の法則性がある。
無我の話に戻るならば、そこには自我というものはなく、
そこには空がある。
>>199のように無我という見解がある。
そこには自分のものとは呼べない法則性があるということを知る。
ちなみに、古代インドでは六師外道といって、仏道以外の教えを説いた六人の思想家がいた。
無道徳論者のプーラナ・カッサパ、宿命論者のマッカリ・ゴーサーラ、
唯物論者で快楽主義者のアジタ・ケーサカンバラ、
無因論的感覚論者のパグダ・カッチャーヤナ、
懐疑論者で不可知論者のサンジャヤ・ベーラッティプッタ、
自己制御説のニガンタ・ナータプッタ、という六人の思想家がいた。
六師外道のある人は肉体も魂も永遠ではなくそこには原因もなく業もないと言い、
六師外道のある人は肉体と魂を別のものとし両者が永遠不滅であると考え、
創るものも創られるものもなく全く業を認めないと主張した。
苦というのはドゥフカというサンスクリットの言葉を漢字にしたもので、
もともとの意味は「思い通りにならない」ということであるが、
では釈尊の立場とはいかなるものだったのかと言えば、
釈尊は業論者であり、業果論者であり、精進論者だった。
釈尊の根本的な見解である無我論とともに、因果論と勇気と努力を説いた。
当然のことながら、苦という思い通りにならない宿命を転換していくための勇気と努力です。
ちなみに業とは行いという意味であり、これも無我であり、
自我同様に単体としての実体はありません。
215 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 13:33:26
216 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 14:57:44
ココデスカ、ブッキョー スレ?
217 :
四式:2005/05/30(月) 18:52:35
>>211 >四式が一切は全て苦であるというのなら、
四法印の一切皆苦の話だろ、俺が言ったわけじゃねえよ、ちなみに
一切皆苦は初期仏典に出てるらしい、知らんが。
>苦痛の休止も苦しみであり、苦痛の休止に至るまでの道も苦しみであり、
>涅槃も苦しみであるという根拠をどこから得たのか、
涅槃は古代インドの輪廻思想を全て苦とし(前提)輪廻から解脱した次のステージ
一切皆苦の前提を崩したら仏教が成り立たたないし、ニルヴァーナも存在意味がない。
>
>>206の意見から四式が無我を理解していないことが私にはわかる。
無我とは何だ?人間の精神文化そのものが自我を前提に成り立っているのだから無我という
精神性の存在そのものが矛盾している。
>
>>207の意見から四式が仏法が何のためにあるのか理解していない、
平和運動の為にあるのかよ?というか正統な仏教は小乗であって一人一人の精神性を問題にしている
世俗教団の集団化の方便として仏教はあるわけではないのだよ。
218 :
四式:2005/05/30(月) 19:06:12
>>212 抜苦与楽の仏法?仏陀の逸話?そんなもん大乗と世俗教団のご都合主義だろ。
文献的に大乗教団の根拠にしてきた経典はだいたいが偽典で大乗教団が
小乗と揶揄してきた仏教こそ仏陀の教えである、そもそも苦楽の価値観は
絶対的に感じる所もあれど、大概は人間の相対主義から生まれるものである。
219 :
四式:2005/05/30(月) 19:13:26
>>213 >苦や不幸を黙って見過ごすのは仏法ではない。
>生きる苦悩という毒を、生かす薬に変えてこそ、命が充実する。
輪廻(という世界観でしかないが)からの解脱が仏教
そもそも衆生全部結局は死ぬから苦であると悟ったふりくらいしろ。
220 :
四式:2005/05/30(月) 19:21:35
>>214 なにが六師"外道"だよ、仏教的自我そのものの漢字を当ててよく無我なんて言えるね。
>苦というのはドゥフカというサンスクリットの言葉を漢字にしたもので、
>もともとの意味は「思い通りにならない」ということであるが、
ぐわぁぁぁー、中華の象形文字がインドに起源を持つわけないだろ。だいたい"苦"には草冠付いてるじゃないか。
>ちなみに業とは行いという意味であり、これも無我であり
仏教的に”業”というのはもっと違う意味があったと思うが、、
まあ総合的に見てあのスウェーデンボルグと仏教が混じったような事を言い出したら、要注意ってこった。
221 :
四式:2005/05/30(月) 19:22:42
レス遅れたのはすみません、沈んでて気がつかなかったからです。
222 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 22:06:01
>>218 そうするとナーガルジュナ、アサンガ、ヴァスバンドゥなどは外道だと?
223 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 22:06:06
>>218 そうするとナーガルジュナ、アサンガ、ヴァスバンドゥなどは外道だと?
224 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 22:11:58
つーか超越的存在を夢見ちゃってる時点で、仏教も子供ね。
餌を目の前にぶら下げないで超人を目指さないと、
臭いよ、道徳の匂いがする
225 :
四式:2005/05/30(月) 23:19:28
>>222 仏教としては外道なんじゃね末法思想の一つですよ。
俺から言わせれば中観の相対主義と空なんか、人間の主体性と本質を見る目がないと言える不埒な信念の無い考えだし
ヨガから得た紳知思想による世界の仮想なんかスウェーデンボルグの世界ですよ、つかオウム真理教ですか?
226 :
?ネオ ◆XRhOafI0.w :2005/05/30(月) 23:41:53
伝達出来うるものは全ての弟子に、
伝達し得ぬものはマハーカシャッパへ、
ブッダが何か残したか?
227 :
考える名無しさん:2005/05/30(月) 23:44:28
>>217 一切は皆苦だからこれは法印だというようなことは釈尊は言ってない。
法印という言葉すら出てこない。
苦に振り回されていれば苦なんですよ。
世の中には四種類の人間がいる、と釈尊は言っている。
自分で自分を苦しめて苦に繋がれている人。
他者を苦しめて苦に繋がれている人。
自分と他者を苦しめて苦に繋がれている人。
自分も他者も苦しめず、苦に繋がれていない人。
前者の三種の人間はみんな苦に繋がれているが、
第四種の人間は苦から自由に生きている。この境涯こそが涅槃だと言える。
無我は真実であり正しい見解ですよ。
仏教以外にこういう見解を明らかにしている教えはないのではないか。
人間の精神文化とは言うけれど、仏教は自我という人間の誤解を前提として説いているのではなく、
無我という真実を前提に説かれている。誰にとっても自分というのは自分のものではない、
ということです。
一切皆苦という表現は無着(むぢゃく)=アサンガが著作した
「瑜伽師地論(ゆがしじろん)」に出てくる表現なわけだが、
無着は大乗仏教唯識派の仏教学者で、大乗の教えを誹謗する弟バスバンドゥを改心させて
大乗仏教者に教育した人です。
だから、一切皆苦が小乗の法印だというのは二重の意味で間違っている。
229 :
考える名無しさん:2005/06/08(水) 11:00:01
一人の人間が赤ん坊となり成熟していく、
その過程が昔から何万と続いていて今の私も同じように
欲にまみれて成熟していく過程をたどっている。
私が目指す境地は私のものではなく人類の境地なのかもしれない。
この先の私の夢は誰かが見せてくれるために私も悟り続けよう。
色々言ってるけど、結局みんな好物のネタでオナニーとかしてるんだろ?
231 :
考える名無しさん:2005/06/09(木) 17:14:45
体用露地
232 :
考える名無しさん:2005/06/09(木) 18:06:15
平気と融通が結婚して新居の表札に無我と出す。コ?メンクタ?サーイ!
自我の電流をアースできますか?
234 :
ハル:2005/07/17(日) 00:31:39
空はあるけど仮もあり・・・。それで中を説く。
空の無我は見地でありそれだけでは無意味。
235 :
野茶菓 秋雪:2005/08/12(金) 08:56:25
自我が無ければここに板を立てよう、という気さえ
起きないだろう。
自我が大いなる意思の一部に完全に溶け込んで、
真我そのものになった、というなら別だが。
まあ、真我とか大いなる意思という言い方についても
賛否両論、あるとは思うが。
方向
ウルトラマン自我
238 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 12:03:49
如是我聞
自我はなくても自己はある。
自己こそこころの主である。
自己を整え自我を滅する、これが修行である。
239 :
考える名無しさん:2005/08/12(金) 12:37:17
自我は客観だろ
主観は客観を捉える構造だろ
自我を滅するとは客観を客体として捉えること
客観はやがて無意識となり脳の神経構造となり
機械的自己自身の一部となる。
そうやって人は生きているが
ただ自覚が足りないだけじゃないの?
240 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 05:33:39
カーニヴァル化した社会を理解していないようだね?
241 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 18:44:30
自毛がなくなりました
242 :
考える名無しさん:2005/08/26(金) 20:44:32
カー二ヴァル化ってなに?
243 :
37 ◆0uqcH.ZDEE :2005/10/15(土) 02:49:49
>>239 無我というのは人間が精神的に成長していく過程での一つの見解ですよ。
いいですか。
自我という概念は、そこに自分の思い通りになる自分がある、という感覚や意識生じるものなのだと言えます。
でも実際には、この宇宙は自分がこしらえたものではないから、
自分の思い通りにはいかないこともたくさんあるのです。
244 :
37 ◆0uqcH.ZDEE :2005/10/15(土) 03:02:14
たとえば初めてリュートの演奏を聴いて気に入った人が、
リュートの音色を持ち帰りたい、純粋にリュートの音色だけをくれ、
と願ったとしましょう。
でも、現実にはリュートの音色を構成しているのはリュートの素晴らしい様々な部品であり、
リュートの演奏者の努力ある練習の成果、心をこめた巧みな技などです。
自我というのはこのリュートの音色のようなものです。
リュートの音色というものはそのもの単体では存在しません。
そこに存在しているのは様々な構成要素の組み合わせなのです。
245 :
考える名無しさん:2005/10/15(土) 23:06:26
>>1 ネタかよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
246 :
ハル:2005/10/16(日) 06:10:54
自我があると言うのも自我がないと言うのも幻想のようなもの。
あると言うのもないと言うのも結局は同じコインの両面のようなもの。
247 :
考える名無しさん:2005/10/16(日) 06:14:40
うっせーカス
248 :
考える名無しさん:
貧乏なスレッドw