1さんお久しぶりです。
折角の長文を本日も行かせて頂く、ちょっとその前に、
1さんは以前に「時間ハピハピ」なんたらってスレッドを立てませんでしたか?
いえ、ですね、そこで少しばかり時間性について触れたことを思い出しまして。
いやいや、
ぼくの勘違いならどうでも良いんです。ごめんなさい。1さんは色々と現象学をカジッてきたのかな?
きっとそうなんでしょうね。実存・現象学を踏まえつつ本題に
「偶然的事実」の考察とは、偶然的なものは存在・非存在どちらも可能
要するに、偶然である事実とはどちらでもありうるということ
「人間 〜 世界」のreflexionのコアとなるのが「時間性」「有限=死」
これが、ハイデガー。じゃあ、と、君の可能性に便乗したい処ですけどね、
認識する行為とは推論・演算でない限り、以前に述べた通り
「事実的所与」に留まる。我々人間が自分で自分自身を知る為には限度がある。
自らを意識する生まれてくるのであって、人間は実存を1つの事実として見出すしかない
あるのは事実にのみ、要するに実在の事実性。つまりだよ、君、
君が格好良く掲げた、自由で「絶対」に関わり、幻想的で不確実性に留まる「何か」
現前の偶発性のような諸要素の形而上学的分析。これはね
「行き着く人」が辿り着く「壁」であって、他人の言葉をノタリクタリとかわし続けながら
お調子良く食い摘んだ言葉を並び立てる君自信がぶち当たった壁
永い道のりを得て自力で辿り着いた言葉ではないんですよ。
永井先生の本を読んで共感を得たことは、大変素晴らしいですけどね
何故、こんな話に成るかと申しますとですね、当スレッドで
ここまで辿り着くまでに、どれだけの御意見を頂いてきたか
大勢の方々が我々の気持ちを代弁してくれているんです。読み返せば自明な訳ですよ。
無責任な書き方になりますけどね、個別的諸状況、判り易く書けば君自身の記憶
そんなものは君の考え方次第でどうにでもなるものなんです。
認識形而上学は科学的な基礎的方法論で証明するしかない。
苦しみ・苦悩・罪責これら実在論的感情については
多様な状況に応じて現れる、あらゆる人間的実存の普遍的性格を分析するもので
心理学的あるいは道徳的記述、何か書くことがあるとすれば
道徳的価値のある生き方、悔いのない有徳な人生を送って下さい。
それくらいのもんだ、おい君。大層なお題目で大変ご立派ですけど
認識する行為の主体は、行為を生み出した張本人のみの責任。
自らの経験すら否定して、記憶・認識・意識も糞もないだろ?ぉ?坊主
なんちゃって。じゃあね、ここからは認識とくればコレ「窮鼠超越」
いただいた逃げ道を掻い潜りつつも、再び多重人格で参りたいと「憶い」ます。
題して「ワラゼミ」ワラゼミと来れば「飛躍」
loi.do.fechner 感覚の度合いを刺激の対数として変化するとして、
とある哲学者に叩きのめされた法則。
刺激が、ある等差数列(1・2・3・・・・・)に従い変化する時
感覚は、ある等差数列(1・2・4・8・16・32・・)に変化する。
フェヒナーはこの法則で内観を物理に還元しようと試みる
ここでベリクソン登場。刺激と感覚、その外的法則との間に
共通の尺度など存在しない。解り易く例えると
「バッティングセンターに行く」時速100kmのコーナーに入る
その球が101kmだったとしても、我々素人の集まり誰一人として気付くことはない。
110kmコーナーの111kmだった場合でも同じ。人間感覚では察知できない。
しかし、100kmと120kmとの間には明らかな違いを感じる。と言うことは
感覚には「飛躍」があることになり、むしろ感覚とは
どのような量的な対応物も持たない「質」となる。ベリクソン曰く
「あなたの観ている色彩と測定可能な波動には何等、因果関係はない」
「物理学者は色彩を、この波動に還元しようと試みるが
測定可能な数字はあくまでも脳の作用であり、感覚とは言えません」
「お疲れ様です」と言うです。要するにってことなんです。
時間の感覚とは非常に捕らえ難い性格でありますし、誠に困難極めた問題です。
感性のアプリオリ云々、純理は何方か詳しい方にお願いしまして、
ベリクソン「直接的過去は、それが知覚される限りにおいて感覚である」
再び、何故、このような話になるかと申しますとですね
感覚論=経験論でもあるんです。いえいえ、当然それが全てだなんて語る積もりはございません。
確かに「思惟」なくして時間は語れませんし、今ここで
経験論・合理論の古典を展開することには余り意味があるとは思えませんし
省略しますが、1さん自身の経験・過去を語る上で感覚を差し置き、語ることは出来ません。
ということで、え?感覚と知覚とでは違うじゃん?そもそも、そんな話してないじゃん?
哲学って面倒臭いですよね。自分也に結論があるとすれば「働け」ここで終わり。
冗談と詭弁は紙一重。次ぎは「ゲシュタルト」かなりナウです。
知覚とは要素的感覚から成る複合体とは別に「それ自体」が1つの全体的感覚である
とした大発表。「木をみる前に森があるじゃん」
葉〜枝〜幹のように細部から知覚するのではなく、始めに知覚されるものは「木の全体」「森」
葉・枝のような精細な識別は、ここからがスタート
従い、知覚とは実在における構造の直接的把握を指し・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・もうね、面倒臭い。
教えて、教えて、と書きつつも否定を受けた途端に
いえね、詰まらない口答えが返って来ると思うとね、もういいや
誰かの意見を待ち構えて遊んでるだけじゃない。典型的な2ちゃんねるなんですよ。
ご自身でスレッドを立てた割りには随分と卑怯な展開だなぁあ
と言うのが個人的な感想です。他人の意見を観察し、批評にまわらず
ご自身で論を建設・展開して下さい。ご自分で柱を打ち建てて下さい。
表面的には非常に興味深い「タイトル」ですので、1さんの展開次第です。
批評家に徹し、謙遜なさらず、是非々がんばって下さい。
「敬い」忘れずに。