なぜ?記憶が正しいという前提

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630考える名無しさん
1さん、はじめまして。
記憶錯誤は立派な病気なんです。精神の混乱、妄想癖
現実の状況を把握しきれない極めつけの病気なんです。
ベリクソンに触れた経験があれば理解して頂けると思いますが
皆さんもよく御存知の「デジャヴ」の類は
誰でも経験ある事ですし
老人の健忘症は、ある意味で性みたいなものです。
しかし、です。
若さ溢れる人間の記憶障害は、カナリ、キテます。
記憶が固定される為には「理解」が大前提となる訳で
理解に不自由、妨げ、弊害があれば
記憶は現実として認識されません。
理解があり、尚且つ記憶を現実として認識出来ないとなれば
それは間違いなく精神に異常を帰した記憶障害者ですが、
我々の視点を若干変える事で浮かび上がる共通の知覚
現代までの多くの哲学者が認めてきた通りの、経験のあらゆる所与
感覚表彰に含まれる「それ自体」「延長」が認められる
生得的知性の問題でもある事が明白な訳です。
631考える名無しさん:2005/06/28(火) 11:17:02
いやいや、そんな訳ありませんよね。
じゃ、別のハンコ押しますね。
(ひきこもり)   バーン 
記憶にも社会性が伴います。
人間の記憶は「固定」された後に再認され
最終的に局在化されるもので、彼の言葉は相応にして
局在化、現実を拒絶した社会不適応者に著しくみられる症状
引き篭もりならでは、の
いかにも「それっぽく」勘違いされた欺きなんです。
局在化とは、社会の生活「経験」から得る一種の目印で
「他人」「私」「彼等」
これらの印象から、焼き付けられる想起であり
記憶を論じる上で「他者」「社会生活」「社会意識」を欠いた環境では
曖昧な認識の外堀を埋める事ができません。
632考える名無しさん:2005/06/28(火) 11:17:26
「事実」とは単純に所与であり、
普遍的原理を示す法則ではありませんので
「正しいか?」疑いますよね、疑いたくなっちゃいますよね?
湧き上がる疑念も必然的、定言的命法な訳なんです。
社会学的にも、それほど珍しいものではありません。
所謂「ニート」の類に相当するもので、
驚いたことに、歴史的にも古くからある現象なんです。
余談ですけど「ニート」なんて言葉で
POPにしちゃてたら「終わって」ますよね。ポピュラーであってはいけません。
戻します。
責任、現実からの逃亡、自らの記憶をも拒絶した
恒常的な言語偏重、その核心コアとなるものは「孤独」です。
即ち、>>1さんの命題とは「社会学」
皮肉ってしまえば「病理学的」問題、なんて、冗談で、
彼が納得する為に必要なものとは
永遠に反復可能な科学的事実を受け入れられる要素
つまり、共通の知覚、友人との共有です。
思い出の写真なんかを一緒に撮ると結構、幸せなもんです。
「混じり気なしの事実」素敵な思い出になれば最高ですね。
真理は単純なもの。