943 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 15:56:36 O
我々は生きて行くことにおいて、環境や肉体がそろい、今何も考えなくとも生きている。
それに感謝すれば、あとは自由だ。
944 :
哲屑:2007/05/27(日) 16:59:01 0
自由(( ´艸`)クスクス
んなもん存在しないゼ。
人間が考え出したウツクシイ妄想に過ぎない(´・ω・`)ショボーン
945 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 17:42:13 O
>>944 って書けと命令されたのか。
奴隷は大変だな。
946 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 18:11:16 0
947 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 18:14:53 O
話し合うまでもなく、すでに答えは出てる
948 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 18:19:18 O
>>964 説明いるのか。
自由がないって事は奴隷だろ。
誰の奴隷かは、その奴隷が知ってるだろ。
俺に聞くな。
950 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 18:22:04 O
奴隷なんて自由を与えとけばいいんだよ。
952 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 18:45:24 O
奴隷に誰が自由なんかあたえるか。
953 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 18:50:46 O
>>944 自ら奴隷を望むのだから希望は叶うだろうよ。
それも自由って奴だ。
954 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 19:21:13 0
放下著(ほうげじゃく)「捨ててしまえ」
釈尊は29歳で社会的地位も妻子も捨てて難行苦行に入りました。
しかし、35歳でこの難行苦行も捨てます。
それは、苦と楽、迷いと悟りとの対立観念の上に立つ難苦行の相対的知識を捨てたのです。
自と他との類別をこえた修行が菩提樹下の座禅でありました。
何もかも捨ててしまわないと、こころの自由は得られないのです。
955 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 19:33:27 0
相対的知識ってどうやって捨てるんだ?
具体例を教えてください。
956 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 19:43:10 0
>>953 だな。自由からの自由だ。自由からは逃れられない。
むしろ、本当の不自由とはなにか?を問うほうがいい。
957 :
考える名無しさん:2007/05/27(日) 21:45:31 0
漱石は「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ」
といっていますが、この計らいを放下しないと、こころの自由は得られないのです。
人生は旅です。旅に荷物はつき物です。
禅者は、このことを平易な言葉で「荷物を背負っておってはいかん」とたしなめます。
自分の意志通りであるということではなく
自分でも制御できない恣意を自由とします。
>>954 そして釈迦は家族を捨てたことを後悔し「全ては無常である」から来世も天国もなく
一度限りの人生を大切に生きることを訴える、この句を残しました。
>>957 ★漱石は「知に働けば角が立つ、情に棹させば流される、意地を通せば窮屈だ」
知に働けば角が立つ ・ 智恵不足
情に棹させば流される・ 情のかけ方の間違い
意地を通せば窮屈だ ・ 相手を思いやれば意地の必用は有りません。
960 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 21:23:43 0
おまえがいうな(笑)
961 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 21:33:54 O
とかくに人の世は生きにくい
962 :
考える名無しさん:2007/05/29(火) 22:08:26 O
自由なんぞない
何においても必ず選択肢が限られている
もしくは
選択肢を絞りすぎているか
それに気付いていない
選択肢が制限された中で
何を選ぼうと
制限されたモノ中に
自由を見出だすのは
不可能だ
もし見出だすコトが出来たとしても
それは
単なる自分の思い込みにすぎないのだ
と思うよ
>962
選択肢という概念に縛られすぎてるように見える。
選択肢、と言うがそれに連なる数多の概念・行動が連想されることだろう。
ただ 適切かどうか 、で選択肢を人間が本人の意思で絞ってる。
サバンナでトラに追われて、逃げるという選択肢もあるが、その場で飛び跳ねるなど
奇想天外な行動も許されている。言葉で言い表せないような行動も可能。
自由という概念も、人それぞれ違った捉え方をしていれば、
自由を信じられないかもしれない。
自分が自由と思えれば自由だ。
>962のカキコだって自由の織り成せる業だ。
964 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 04:39:34 O
死のみが自由
965 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 09:38:01 0
生死一切苦
966 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 09:53:22 0
自由と思わなきゃ自由にならない自由は苦痛だ
一切皆食って言ってる人頭おかしいんじゃないかと思う。
楽と思ってることすら苦ならば、生きてる価値ないじゃん。
なんか矛盾してるよ。
968 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 13:03:10 0
苦痛のみが快楽。矛盾こそ自由。
969 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 13:34:29 0
一切皆食って言うと、テーブル以外の四足の物は全て食うと言われる
どこかの国の思想のようだ。
970 :
考える名無しさん:2007/05/30(水) 13:37:34 O
もともと生きてんのに価値なんかねぇ〜ょ
究極の自由とは、欲望が遮られることなく充足することである。
本当の自由とは、なにより価値からの自由である。
自分のしたいように出来るのが自由でしょ。
どうしたいと思うかを自分で決めたい人は自由になりえないだろうな。
そもそも自分とは何なのか。Aさんは何を以ってAさんなのか。
何の個性も決まっていない状態で、自分は存在しえるのか。
「自由に行こう」と決めて「自分が思う自由」をやってたら、怒られた。
それが不自由との出会いだろう
自由はこれというひとつのもじゃない
不自由は自由があってこそ存在し、
自由があるから不自由が生まれる。
こういう関係は何も自由という概念だけに限ったことではない
自分を根拠に何をやってもいいこと
自由とは可愛い女の子のパンティーをくんかくんかしても、お母さんに怒られないこと
本質は実存に先立つ だっけ?
978 :
考える名無しさん:2007/06/12(火) 20:20:22 0
>977
逆
979 :
考える名無しさん:2007/06/12(火) 21:16:39 0
それをする自由があっても、それを非難されたんじゃ本当の自由とは呼べまい。
980 :
人生の目的?:2007/06/12(火) 21:53:55 0
本当の自由は死んだ時ですが何か?
たぶん。
自由と自由感(開放感)は分けて考えたほうがいいと思う。
私が想像するに・・・
「自由」は、意思選択可能性があることを意味する。
「自由感(開放感)」は、束縛からの解放を受けたと判断した場合の感情信号。
まったく次元が違う。
アメリカのグローバリストが、戦後の日本人を計画的に思想洗脳(ブレイン・ウォッシング)状態に置き、
諸外国ではごく常識のことであり初歩的な政治思想理解であることから日本人が故意に切断された。
日本の生来、政治思想を学ぶべく生まれた優秀な人間たちが、世界の真実を学び取ることを、遠大で、
巧妙なな障壁と仕組みを作って彼らが阻止したのだ。今の私たちには、それらの策略がはっきり分かる
ようになった。
(中略)
私は、独力で、世界水準のごく当たり前の政治思想理解に、到達した。これを思想不具者にされた、
かわいそうな日本国民に伝える事が使命・天命である。だからはっきり書いて残さねばならない。
彼ら、ニューディーラー=初期グローバリストは、敗戦後に命乞いをして生き延びた我々日本人に、
どのような、洗脳教育(マインド・コントロール)と、文明化外科手術(ソシアル・エンジニアリング)
を施したのであったのか、をこれからも逐一暴いて証明してみせる。
副島隆彦「属国日本論を超えて」P227〜228
>>982 >これからも逐一暴いて証明してみせる。
無駄なことをしても、何の足しにもなりませんよ。
984 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 21:59:59 0
本当の自由等、「物自体」と同一。
ガイシュツかもしれないが。
本当の自由=「中庸」
986 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 22:44:22 0
物自体と同一のものなんてないさ
987 :
考える名無しさん:2007/06/13(水) 22:46:20 0
>986
だから、本当の自由=物自体=ないもの
ない、のに同一などいえるわけがない。
>>981 あなたはあなたらしくしか動けませんよ。
それが不自由だなんて馬鹿げてるとは思いますが。
まず「自由主義者」の訳であるが、「リベラリスト」と言う言葉は、ドイツ語にはあるが、英語ではリベラルズ
liberalsというのだ。「リベラリスト」と言う英語は無い。日本の知識人層は、この初歩の事実から学ばなくては
ならない。リベラル派の反対がコンサヴァティヴズ(Conservatives・保守主義者)である。日本やアメリカで、
自分の事を「リベラル」だと思っている人々は、そもそもの、本物の歴史上の「古典的自由主義者」とは似ても
似つかぬものだ、と言う事に気づいてほしい。今の日本やアメリカのリベラル達は、本物の自由主義者達とは
反対の立場の人だのだ。言葉だけは「リベラル」だから、きわめて紛らわしい事になったのだ。
それは、イギリス人の18世紀の初期リベラル思想が、海を渡ったアメリカで共和党系の思想になったからだ。
このねじれを理解しなければいけない。
日本やアメリカの現代リベラル達は、本当は、今でも隠れ(あるいは無自覚な)社会主義者(ソーシャリスト
Socialists)たちである。だから、「本物の本来の自由思想を貫く生き方をしたい」と言う人々は、アメリカでは、
仕方なく、自分達の事を リバータリアン(Libertarians)と呼ぶようになった。
アメリカでは、民主党支持であるリベラル派は、その実態は福祉優先の弱者救済主義者である。このことに
気づいて、最近は自らを「現代リベラル派(モダン・リベラル)」と呼んで保守思想である 古典自由主義者
(クラシカル・リベラルClassicalLiberals)と区別をつけるようになった。本物の自由主義とは「この、私の
私自身の自由を、他の何よりも大切にする思想」の事だ。だから、根本的に、個人主義者なのであって、
共同体優先主義(社会主義)ではない。
以下の引用は、副島隆彦著 「ハリウッドで政治思想を読む」 P183〜184から
18世紀のイギリスの本物の古典的自由主義者たちは・「国王や教会が、私たちの生活に余計な干渉
をしないでくれ」という思想態度から興ったものである。だから本物のリベラルというのは、本当は、
徹底的に新興企業経営者層(ジェントルマン)たちの思想なのである。これが、イギリスのウィッグ党・
ホイッグ党(Whig 自由党)の支持勢力を作った。そして、トーリー党(Tory 保守党)である、貴族
たちの勢力と争ったのだ。
一般庶民(貧乏大衆)の政党などまだまだ現れない。このウィッグ(イギリス自由党)の思想が海を
渡ってアメリカに到着した時に、これがアメリカの保守勢力であるアメリカ共和党になってゆくのだ。
だから「もともとのイギリスの自由主義者が、現在ではアメリカの保守主義者」と言う事である。
いつの間にかねじくれて意味が逆転してしまった。即ち、本来の「リベラル」という言葉が、民衆
統合主義者や、左翼・社会主義者たちによって奪い取られてしまったと言う事である。この世界の
政治思想上の言語使用上の重大な逆転現象に、私たちはそろそろ気づかなければならない。
この事が分らないものだから、日本では政治学者たちですら、現代リベラル派と、本来の古典派
自由主義者の区別がつかないのだ。
副島隆彦著 「ハリウッドで政治思想を読む」 P183〜184
(Libertarianism@Japan)
自由と聞くと、すぐに一方で責任がどうのこうのと訳知り顔につまらないことを言い出す輩がいる。
だが、これは間違いだ。自由と責任は全く何の関係もないし、両者はお互い独立している概念である。
こんな”自明”なことを何故書くのかというと、自明だと思っていない人間が多いからだ。そして、
自由の概念の対として、反射的に責任という言葉が出てくる背景には、根深い問題があることに気づいた。
つまり、多くの人は、自由を積極的な概念(Positive rights)として無意識のうちに認識している。
これは教育なり社会的空気がもたらした結果だろう。つまり、自由とはお上から与えられる特権だという
日本の”事実”を反映している。そして特権には、代償が要求される。
その自由という特権に対応して責任という”代償”が自然と出てくるのだ。
だが、自由とは特権ではない。自由権といった言葉も本質的に間違っている。自由とはいわゆる権利で
すらない。自由とは「強制などの制約がないこと」であり、このようなハイエク流に強制(coertion)
がない状態として、消極的に捉えることがその本質である。